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「無常」「如幻」「三世不可得」の三つの観が、人間の執着を打ち破る一番確実な方法だと清水寺の森清範貫主は言われました。「無常」観とは、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」で、喜怒哀楽も、お金の有る無しも、幸せも不幸せも、時々刻々変化して瞬間も止まることなく彼方へと流れていく世のはかなさを達観することです。「如幻」観とは、秀吉の辞世の句「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪華の事も夢のまた夢」の如く、人間の一生は夢、幻のごとしと悟ることです。「三世不可得」観とは、「今」という一瞬が昨日となり明日となるのであって、昨日も今日も明日も一体であり、白隠禅師の師正受老師が「一大事と申すは今日只今の心なり。それを疎かにして翌日あることなし」と言ったように、今という一瞬を大切に生きる心です。人間の一生なんて、はかない幻のようなものです。そのはかない一生を、お金や地位、名誉にこだわってあくせく生きるのは愚かなことに見えてきます。この三つを体得したら、いま現在の苦労も幸せも、金持ちも貧乏も、いつかは流れ流れて変化していくもので、すべて小さなことのように思えてきます。
2014.06.30
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仏教でも「この世は苦なり(一切皆苦)}というように、私たちは生まれた瞬間から四苦八苦(生老病死ほか)の世界に放り込まれます。だから、苦があるということは生きている証でもあります。死ねば、一切の苦から解放されるのだから、これ以上の幸せはないともいえます。でも、「苦しい、苦しい」と言いつつも、何時までも生きたいと願うのが私たちです。古代ギリシャにも次のような神話があります。母親がヘラ女神の社に詣でる必要があったが、あいにく牛車に使う牛が畑仕事に出ていたので、長い道のりを二人の息子が牛の代わりになって牛車を引いて行きました。用事が済んだ母親は、「あの孝行息子たちのために、この世における最高の幸せを授けてあげてください」と神様に祈りました。すると神はこの祈りを聞き入れられ、疲れて神殿で眠っていた二人の息子は、二度と再び目覚めることはなかった・・・。子供が若死にすれば、嘆き悲しむのが普通です。ましてや事故や犯罪に巻き込まれたのであれば、親の嘆き悲しむ姿は痛々しいものです。仏教でも「生によって苦が始まり、死によって苦が終わる。修行の終わった者からあの世に帰る」と教えるように、この神話は「若死には必ずしも不幸ではない。ましてや神罰ではなく、神が人間に与えられた最高の幸せである」と教えています。私など早く逝きたいと言いつつ、修行が足りずに未だに生きています。
2014.06.29
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江戸初期の沢庵和尚は「人間は、この世に客としてやって来たと思えば苦労はないものだ。満足できないことがあっても、自分は客なのだから、これに耐えなければならない。子供や孫、兄弟たちも、自分と一緒にきた相客であると思って仲良く暮らし、心を残さずにさらりと辞去しなければならない」と言い、道元禅師は「死んだと思ったら一切のものが流れてしまう。死んだと思ったら惜しいというものがないようになる。死んだと思ったら腹が立たない。死んだと思ったら生死の苦労から離れられる。自分が死んだと思ったら何の苦しみもなくなる」と言いました。死は嘆くべき出来事ではなく、それは旅の終わりであり、目的地に着いたとき、持ち主が車(肉体)から降りるだけのことです。生きるということは、死に向かって歩き続けることだから、生きるということと死ぬということは結局一つです。「生きよう、生きよう」とするから苦しく、死を恐怖に感じるのです。どうせ死は避けられないものなら、明日のことは考えずに今日一日を精一杯に生きることです。充実した人生を送ること、それが即ち死に支度そのものです。毎日を命輝いて生きた証として、安らかに有終の美を飾りたいものです。参考 先人達は、死について様々に言っています。・死は生の対極としてではなく、生の一部として存在している。・死というものは、生の一つの場面だと割り切り、自分なりに満足する生き方をしていれば安らかに逝ける。・死なない者はいない。この世で最も不思議なことは、それでも自分だけは死なないと思っていることです。・死に仕度と言っても、なにも暗く考える必要はない。 どうせ死は避けられないものだからこそ、楽しく充実した一日一日を送ればいいのである。・人間は生まれたときから刻々に死につつあるのであって、死はなにも特別なものではない。 刻々の死を意義あらしめるためには、刻々の生を最善を尽くして生きればいい。・生も幻、死も幻。生のドラマの終幕が死である。・長く生きればいいと言うものではなく、充実した舞台を演じた後、悔いの残らない終幕を迎えることこそ最高の幸せである。・死は嘆くべき出来事ではない。 それは旅の終わりであり、目的地に着いたとき、持ち主が車(肉体)から降りるだけのことです。 一つの完成であり、少なくともそうなるべき幸福な結末なのです。・生きとし生ける者はすべて、この世のステージにおける役者である。 カーテンが降りるとき、役が終わり舞台から降りるだけ。・我々は死ねば、この世で築いたものを何も持っていけない。 地位も名誉も、冨も、家族も、みな置いていかなければならない。・死は、本人の問題ではない。それは残された者の問題である。・生きる・・・その実体は瞬間にしかない。先のことは考えずに瞬間、瞬間に炸裂せよ。
2014.06.28
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命が有限であればこそ、いつもそのことが頭の片隅にあって、「自分にとってかけがえのないものは何か」、「何のために生きているのか」、「いま自分は何をしなければならないか」などと真剣に考えられるのではないでしょうか?本心から信じていないにしても、来世のことが気になって自分の身を正しく処していこうとする面もあります。そして、どんなに苦しくて不公平に思える現世であっても、死ねば終わりで平等だと思うことで、この世の苦労にも耐えられます。限りある命であることを見据えて、そこから毎日を見直してこそ、何が本当に価値ある生き方で、何が大事で何が些細なことかが見えてきます。命が、長いか短いは問題ではありません。いかに自分の役割を認識して、自分の花を命一杯に咲かせることができたかが問題です。充実した人生とは、人々の心の中に何かを遺す生活を送ることだと思います。どんな仕事でもいいから、人のために役立つことを自分の生きてきた証拠として人の心の中に遺すことができれば、死んでも生きているのと同じです。つまり、人の心の中で生き続けることになります。それができれば、死など怖くはないはずです。お迎えが来るその日まで、自分の花を咲かせる努力をし続けたいものです。
2014.06.27
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人間というものは、「オギャア」と生まれた瞬間から死に向かって一歩、一歩、歩き始める旅人のようなもので、行く手には死というゴールが必ず待っています。だから、死に対する恐怖がいつでも人をとらえて放しません。だが、死というものが行く手にちゃんとあり、逃げたくても逃げられないものなのだと自覚し、死というものをきちんと見すえて、そこから改めて生を考え直して良く生きることが、安らかな死を迎えることにつながると思います。「一人ひとりの死は、“命の流れ”という大木から、秋になって枯れ落ちる葉に似ている。しかし、地上への落ち方は一枚一枚異なる。その落ち方に意味があるのではないか。死は忌み嫌うものではなく、普段から死をしっかりと見つめ、よく考えておくことが充実した生に繋がる。正月、結婚記念日、誕生日、お盆、親族の法事の時など、いろいろな機会を通じて死について話し合っておけば、もっともっと生を大切に考えるようになるに違いない。そのことが、親子や夫婦、嫁姑などの縁の不思議さを思い、また改めてその関係を考え直させ、お互いにいつ死んでも悔いのない生き方につながるのではないか」と高尾病院理事長の中村仁一さんはいうが、現実は60歳になっても考えない人が多い。死が恐いのは死への準備がないから●死ぬときの準備はいつ頃から始めたらいいと思うか 20代 1% 30代 1% 40代 4% 50代 11% 60代 30% 70代 30% 80代以上 11%●死に備えて準備しておきたいこと(複数回答)・身の回り品の整理・処分 61%・延命治療を受けるか否かの意思表示 52%・臓器提供をするか否かの意思表示 35% ・葬式やお墓の形式に対する意思表示 31%・遺産の処理などの遺言状の作成 19%・死亡通知を出す人のリスト 12% ・自分史などの記録の作成 3%
2014.06.26
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ガンの進行に伴ってさまざまな痛みが加わり、患者の80%は痛みを経験するといいます。痛みには、身体的な苦痛だけでなく、人間がもつ複雑な因子(精神的、社会的、霊的苦痛)も加わり、全人的な苦痛として捉えられています。・肉体的苦痛 耐えがたい身体的苦痛は、人間としての尊厳を損なわせ、周囲の人々との関わりを困難にし、安易な死へと結びついてしまうことすらあります。・心理的苦痛 症状が進むにつれて、心理的に不安定になってきて、不安・苛立ち・孤独感・恐れ・うつ状態・怒りなどの兆候が出てきます。・社会的苦痛 闘病が長期になったり、癌の経過が慢性化した場合などには、入院に伴う経済的な問題や親族間の人間関係に悩むことがあります。・霊的苦痛 患者は死と直面するという体験の中で、人間の心の奥深いところにある究極的、根源的な叫びを意識的、無意識的に持つようになります。生きる意味への問い・人生の苦難への問い・罪責感・死後の世界についての問い・希望についての問い・決して見捨てられない真の愛を求める叫びなどが挙げられます。これは、仏教で言う五蘊盛苦そのものです。これは、病院関係者だけで対応できるものではなく、宗教者を含めた多様な人々の援助が求められます。また、精神科医キューブラー・ロス博士は「死への心理の5段階」を提案したが、総ての人がこの5段階を辿って死を迎えるわけではありません。ある段階に留まってしまう人。ある段階を飛び越える人。錯綜する人も多いようです。しかし、一般に死が近づくと、無意識に死を悟るものだといわれています。人は死を成長の機会とし、静かに尊厳なる死を迎えるための心構えが必要です。「尊厳なる死とは、その人らしく死ぬということであり、我々回りの人間の鋳型にはめこまないことである」と女史は言っています。第1段階 否認と隔離 予期しない衝撃的なニュースを聞かされたとき、そのショックをまともに受けない防御機制として、まず否認がおきます。第2段階 怒り 死という現実を認めざるえなくなると、次に怒りや恨みがこれに取って代わるようになります。「なぜ俺だけこんな目に会わなくてはならないのだ!」この怒りが八つ当りとなって看護婦や周りの人にも向けられ、そのためまわりの人間はよけいに患者を避けるようになりがちです。第3段階 取引 人は神や仏に対して、自分がどうしたら延命できるか取引し(例えば「もう財産はいりませんから命だけを与えてください」)始めます。第4段階 抑うつ 今までのことが無駄であることを知ると、次にはうつ状態におちいります。病気が進行し、衰弱が進んで、無力感が深刻となります。それとともに、この世との別れを覚悟するために、他人から癒されることのない絶対的な悲しみを経験しなければなりません。第5段階 受容 最後に、来たるべき自分の終焉を静かに見詰めることのできる受容の段階に入ります。「長い旅の前の最後の休息」のときが来たかのようで、このときの静かな境地をデカセクシスと呼びます。一生涯働いてきて苦労も積み、子供たちを育て、自分の責務の全てを成し遂げたと感じ、自分の人生に意味を見い出し充足感を得ている患者は、「受容」の段階へ他の援助をほとんど借りずに到達しているそうです。より充実した人生を送ることが、より充実した死を迎える要素になることが考えられます。ある看護婦さんが、「死に際がすんなりしているのは貧乏な人で、フーテンの寅さんのような人はあっさりと死んでしまいます。死に際がバタバタして見苦しいのは、決まって財産を持っている人です。財産があるとか名誉があるとかに関係なく、般若心経をやっている人はすんなりと死んでいきますね」と言う。
2014.06.25
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作家の戸川幸夫さんが恩師の長谷川伸さんを死の2,3日前にお見舞いにうかがったとき、次のような教訓をいただいたと語ってみえました。結局、死ぬということと生きるということは同じなんだよ。生きるということは、その者が存在した価値を遺すということじゃないかね。どんな仕事でもよい、世のため人のために役立つことを自分の生きてきた証拠として遺すこと、それが生きるということじゃないか。有名になるとか、財宝を遺すとかいうのではなく、人々の心の中に何かを遺すということが生きるということだろう。それができれば、死んでいても生きているのと同じだろう・・・。映画評論家の淀川長治さんの20年来の口癖は、「今度、○月○日に死ぬから」だった。「明日には死ぬ」と本気で思ったとき、生きて暮らしている今日という一日がどれだけ輝いて見えることか。そんな大切な一日を、ぼんやり過ごしているわけにはいきません。私たちは「今という一瞬を生きている」のだから、今を精一杯生きていくことが大切なのではないでしょうか。そうすれば、自ずと得心して最期を迎えることができると思います。死は誰にも訪れます。それまでは、自分の花を一生懸命に咲かせればいいのです。
2014.06.24
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渡水復渡水(水を渡りまた水を渡り)看花環看花(花を看てまた花を看て)春風紅上路(春風紅上の路)不覚到君家(覚えずして君が家に到る)中国明代の高啓が友人を訪ねたときに詠んだ有名な詩だが、この詩をこよなく愛した永平寺七六世貫主秦恵玉禅師は「君」というのは、実は阿弥陀様のことで、「君家」というのは阿弥陀様の膝の上、来世のこと。「渡水看花」とは、つまり来世行く路の風景。死出の旅路の様子を詠ったもの」と仰いました。誰もが、死に対して恐れを抱いています。死への恐れの中には、自分自身が存在しなくなることへの言いしれぬ恐れと同時に、死の床に横たわるときの苦痛に対する恐怖もあるでしょう。だが、そんな誰にも分かりもしない明日を恐れてもしょうがありません。「死は恐ろしくない。恐れるのは死を恐れる心だ」とルーズベルトは言い、「死を恐れるな。恐れるのは死ではなくて、死の準備のないことだ」と松下幸之助も言ったが、死の準備とは「いま」を精一杯生き切ることだと思います。生と死は表裏一体です。生きる準備、そして死ぬ準備ができているということは、ようするに死生観を確立することだと思います。この世に存在するものには総て寿命があり、時が来たれば消滅します。それがいつくるかと、くよくよと思い煩うのは愚かなことです。とにかく今を精一杯生き切ることです。
2014.06.23
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私たちは、健康にどれだけ注意していても、今日よりも明日、明日よりも明後日と、命は減っていき、日々死に近づいていきます。問題は、うかうかと生きることなく、そのことをいかに自覚して生きていくかです。明治の俳人・歌人の正岡子規は脊椎カリエスにかかって、30歳にならぬ前から死ぬまでほとんど病床にあった人だが、ある日、忽然と「私は今まで、禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りということは、いかなる場合にも平気で死ぬことと思っていたのは間違いで、いかなる場合にも平気で生きていくことである」と悟ったと書いています。吉田松陰も、「早く死ぬのが不運で、長く生きるのが幸運かというとそうではない。早く死んでも幸福な者もいれば、長く生きても不幸な者もいる。だから、人間の死のごときは自然に任せておけばいい。死にたくないという心から見れば、何百年生きても満足できないはずだ。死を恐れて苦労するよりも、生きている間のことを考えるがいい。生きている間に、なすべきことを精一杯に成し遂げればそれでいい。“なぜ私は生きているのか”ということを考えて、その生きていることを生きているらしくするには働くほかはない」と言った。日の昇るにも手を合わさず 月の沈むにも心ひかれずあくせくとして一世を終えし人の 道野辺に花咲けど見ず いかに多きことぞ 梢に鳥なけども聞こえず せかせかとして過ぎゆく人の いかに多きことぞ 二度とないこの人生 いかに生きいかに死するかに 耳を傾けることもなく うかうかと老いたる人の いかに多きことぞ (時 坂村真民)
2014.06.22
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43歳の時に乳ガンを患った奥井さんは、次のように言う。乳ガンを患い摘出手術を受けるまでは、生と死、人の幸福について考える機会はほとんどありませんでした。今思えば、なんと漫然と暮らしていたのかと感じます。まだ自分に時間が残されているうちに気づいたのは、病になったことによる幸いと言えるかもしれません。誰も死から逃れることはできません。死を見つめることで、人間関係の彩りが鮮やかになりました。幸せとは何かを考えたときにたどり着いた答は、人のために何かをすることでした。自分にどんな才能があり、なにができるかはわかりません。私なりに模索していくしかありません。死を意識した結果、身辺整理をし、不要なものをそぎ落とす。そうすると、物に囲まれて暮らしていると見落としがちになることに気づき、心が研ぎ澄まされ、広がっていくのを感じます。両手で抱えられる物は有限ですが、心を広げて包み込む能力は無限だと感じています。自分の心をどれだけ深く広くのばせるか。それが死と向かい合う私の課題でもあり、楽しみでもあるのです。
2014.06.21
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十四世ダライ・ラマは、「死が人生の不可分の一部であり、それから逃れられない以上、無闇に死を恐れるよりは親しく付き合ったほうがいいに決まっている。人生の早い時期から死と親しむことができれば、いざ死ぬというときに至っても恐怖ははるかに小さなものとなるはずだ。死と親しむためには、死後を思うことが役立つであろう。年老いることに何も特別な意味はない。誰もが年老いる。老後といえども、それも立派に人生の重要な一部である。人は年老い、やがて死を迎える。その時になれば、従容として老いたたように、従容として死ねばいい。来世があるか否か、再生するか否か、思い迷う必要はない。あるがままの死を迎え、認め、受容すればいい。それが死というものだ。もしあなたが、特別な修行も積まず、深く仏の教えに帰依しているわけでもない、ごく普通の人間で、しかも死を恐れているならば、死を思うな。考えるな。そして、現実に死が迫ったなら、酒でも飲み、残された時間を楽しめ。やがて人生と共に恐怖も終わる」と言いました。来世など考えてもしょうのないことは考えずに、死を覚悟しつつ今を精一杯楽しんで生き切れば、未練もなく、美しく微笑みを湛えながら逝けるはずです。
2014.06.20
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普段何気なく暮らしているが、人は死と隣り合わせに暮らしていると言っても過言ではありません。だとするならば、自分の死を身近なものとして考え、残された時間をどう生きるかを考えることは重要です。漠然とどう過ごすかと考えるのではなく、具体的に3ヶ月後、6ヶ月後に死ぬ場合を想定して、残りの時間で「何をしたいか」、「何をすべきか」を考えてみては如何ですか?日本でも、文科省の生涯学習に対する有識者会議報告書に「人生の締めくくりの学びも必要」と書かれる時代です。上智大学のデーケン教授は、不意に襲ってくる死を心安らかに迎えるための教育や、その遺族も悲しみに負けぬために悲しみの教育を受けておくべきだと言われます。ドイツやアメリカでも行われている「死の教育」「悲しみの教育」を日本でも行うべきだと提唱し、15の目標を掲げて1982年から毎年1回実践されています。死に臨んだ人は、自分の全てが、その日から全く消滅する感覚に恐れを抱くようです。生きとし生ける者は総て、この世のステージにおける役者で、カーテンが降りるとき、役が終わり舞台から降ります。次なるステージでは、先に逝った両親や兄弟、友人など愛する人たちが慈愛を込めて待っているはずです。(そう信じれば、心安らかに死を受け入れられると思います。)参考 死の準備教育項目1. 死に行く者の意識の変化や患者が抱える問題を深く理解する2. 自分自身の死を準備する3.人の死から受けた悲嘆のプロセスを学ぶ4.死の恐怖を和らげ、無用の心理的負担を取除く5.死にまつわるタブーを取除く6.自殺の予防を行なう7.末期患者の知る権利や告知についての認識をもつ8.安楽死などの倫理的な問題についての認識をもつ9.脳死や献体など死にまつわる医学知識をもつ10.葬儀の役割についての理解を深める11.時間の貴重さを発見する12.死の文学、美術を学ぶ13.死の哲学の探究14.宗教におけるさまざまな死の解釈を探る15.死後の世界について積極的に考える。
2014.06.19
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余命3ヶ月との宣告をうけた9歳の少年から「あと一つだけ聞きたいことがあります。命ってなんですか。死ぬってどういうこと。どうして子供が死ななくちゃいけないの」と聞かれて精神科医キューブラー・ロス博士は、「ほんの短いあいだだけ咲く花もあります……春がきたことを知らせ、希望があることを知らせる花だから、みんなからたいせつにされ、愛される花です。そして、その花は枯れます……でもその花は、やらなければならないことを、ちゃんとやり終えたのです」と答えます。また、医師に臨終を宣言されて3分から5分後にまた息を吹き返した患者2500人に、「息を吹き返すまでにどんな体験をしたか」を聞いた結果、・肉体と意識が分離し、自分を取り囲んでいる光景を高い所から見ていた。・自分より先に死んだ肉親や愛した者が、そばに来て助けてくれようとした。・愛と慈悲とに満ちた光に囲まれて、その光の源の方向に行きたいと思った。という共通項があり、「今は、私はもう一つの世界が我々の死後にあることを信じます」と語り、癌に冒された子供たちに「あなたは、サナギの殻をここに残して、あの世で蝶になるのよ」と言えるようになったと告白しています。
2014.06.18
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美しく笑いつつおさらばできれば幸せだが、なかなかそうもいかないようです。国立がん研究センターが10万人を1990年から2010年まで追跡調査した結果では、ガンと診断された患者が1年以内に自殺するリスクは、診断されていない人の23.9倍というように、死の影に怯えて自殺する人もいます。また、先日も「小生齢75となりました。妻は7年前他界し、子供もおりません。会社も人に譲り、今は悠々自適の生活をしています。2年前胃癌を患い、余命幾許もない身と感じ、常に心に不安感があります。孤独な身の上の為、老後の心の支えになるように、宗教を通じて人との触れ合いと言いうか、例えば集まって法話を聞くというような宗教を探しております」という投稿を見つけたが、歳を取るにつれて、老病死に対する心配も高まり、宗教に心の平安を求める人も増えています。病気の有無に関わらず、どんなに金や名声に恵まれても、心の平安がなければ、その人生は決して幸せとはいえず、笑って逝くことはできません。それには、肉体の老いや病と戦うのではなく、心静かに老いや病を受け入れ、今を心安らかに生きることが大切だと思います。その結果として、心安らかな死があり、葬儀による幕引きがあるのだと思います。「葬儀をどうするか」ではなく、「心の平安にどう立ち向かうか」こそが問われているのではないでしょうか?
2014.06.17
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私たちにとって、死は意外と身近なことです。家族や近親者の死はそう頻繁に体験することではないが、毎日さまざまな死を至る所で体験しています。メディアを通じて、事故、震災、台風、公害、交通事故、火事、殺人事件、いじめ、過労死、自殺などが毎日報じられています。ときには、ペットの死にも巡り合います。誰もが死と隣り合わせに生きているにもかかわらず、普段あまり意識しない、いや意識しないように死の話題を避けたがります。死というものは、人生の中では他者のものとして出会うことが多いが、いつかは必ず自分自身の死に直面します。従って、死を何時までもタブーとして生きていくことはできません。であるならば、これに真っ正面から向き合い、受け入れることで、良き生に繋げていくことが大切だと思います。死への心の準備を怠れば、死が眼前に迫ったときに呆然とし、残された貴重な日々さえも有意義に過ごすことができないはずです。自分の死そのものを事前に体験することはできないが、身近なテーマとして自覚し、確実に訪れるその現実を受け入れるための心構えを持つことは必要だと思います。そうすることによって、私の理想である美しく笑って死んでいくことができると思います。空海も「美しく笑いつつ死ぬ」と言っているが、その為の心構えについて書いていきたいと思います。
2014.06.16
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「荘子」にこんな話があります。荘子の妻が亡くなり恵子が悔やみにいくと、盆を叩いて歌っていたので「酷いではないか」と言うと、「その始めを察するに、本生なし。徒に生なきのみに非ず、本形なし。徒に形なきのみに非ず、本気なし。芒芴の間に雑わり、変じて気あり、気変じて形あり。形変じて生あり、今又変じて死に之く。是れ相与に春夏秋冬を為し四時行わる。人且に偃然として巨室に寢す」と答えます。(訳)始めを考えると、もともと生はなかった。そればかりでなく形もなかった。形がないばかりでなく気もなかった。もやもやが気になり、気が形になった。形が生になり、今また死んでゆく。春夏秋冬の移り変わりのようなものだ。今彼女は大きな天地の室に寝ている。人間は皆、形もないところから生まれてきて、斎場で最後には燃えてしまいます。どんなに美しい人や偉い人だって、燃えれば骨しか残りません。それを見ていると、小さなこだわりとか、恨みなんかも気にならなくなります。晴らせない恨みがあったとしても、きっと一緒に燃えてしまいます。報いきれなかった恩義だって、一緒に燃やすしかありません。日々、何人もの人達が、天へ還って逝きます。身も心も、炎で浄化して、綺麗さっぱり無くなります。
2014.06.15
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「余命半年」と宣告された40代の婦人は「半年単位で物事を考えようと思うようになった。取り敢えず秋まで頑張って、秋になったらまた状況を見ながら次のことを考えよう。余命半年の「半年」は忘れようとしても忘れられない現実だけれど、死ぬときのことは、そのとき考えればいい。ここにいる時間を大切にしたいんです。具体的には、これまでなら明日やろうと考えたことを、今日やろうということなんです」と言うが、こんな思いを抱かさせたのは、夫の「僕だって、明日、事故にあって死んでしまうかもしれないんだ。もしかしたら、あなたより僕が先かもしれない。明日のことは分からないという点では、誰も同じなんだよ」という言葉だった。そして、「日々を大切に生きていかなければいけないという条件は、本当は皆、同じなんですね。その瞬間、余命1日という言葉が心に浮かびました。余命1日の思いで、毎日、毎日を精一杯生きよう、そう思いました」とも言う。あれこれと後ろ向きに考えず、また「明日にしよう」と面倒がらず、目の前のことを楽しみつつ打ち込む、これは老若男女、誰にも言えることだと思います。そんな生き方から、明日も開けてくると思います。迷うというのは、過去や未来のことを考えるだけで、今日只今に集中していないからです。(その意味で、カレンダーを日めくりに変えるのもいいかもしれません。私は痴呆症に罹った92才の姉に、手製の日めくりを送っています。)
2014.06.14
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よく結婚適齢期などといわれるが、医者の間では死亡適齢期という言い回しがあるという。この頃では、結婚適齢期も遅くなっているが、平均寿命が延びて死亡適齢期も延びています。60代前半で亡くなったりすると「早死にですね」と言われたりするが、75歳から上になると「もう死亡適齢期ですからね」となります。平均寿命と平均余命は別で、60歳の人の平均余命は男性約23年、女性28年、70歳男性15年、女性19年と、余命が大分長くなります。兼好法師は「命ながければ、恥多し。長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそめやすかるべけれ」と書いているが、大切なのは平均余命よりも健康寿命です。私は、兼好法師の時代を今に換算すると65才位が適齢期と見極めて生きてきたが、もう5年更新を2回行い、今は後期高齢者入りする75才位が良いなと思っているが、男性75歳、女性80歳位が適齢期でしょうか?誰にも100%確実に来るのが死だが、幾つで死ぬつもりか(なかなか思うとおりにはいかないが)、どんな死に方をしたいかをあまり深く考えている人はいないように思います。でも、それを明確に意識することが、日々を充実して生きることにつながるのではないでしょうか?
2014.06.13
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「人生の午後の歩き方」で「生老病」について私なりの思いを書いてきたが、ついに「死」の項「笑って あの世に逝く前に」になりました。死は、老若男女に限らず、誰にも必ず訪れます。とくに、歳を取ると身近に感じることが多くなります。「笑ってあの世に逝ける」のが私の理想だが、自分なりの「よい死」を迎えるために、どういうことができるか、どういうことをしなければならないかを、一人ひとりが自分で考え選択しなければなりません。死は不吉だと思って、死について考えることを避ける傾向があるが、死について考えたことがないということは、生きることについて真剣に考えたことがないということに通じると思います。準備なしに、よい死に方ができるとは思えません。よく死ぬことは、よく生きることと同じです。良く生きた証として、良き死を迎えることができるのだと思います。死を考えないことによって、死があたかも来ないもののように、死を封じ込めるのは一番の愚考だといえます。死を迎えるとき、「ああ、楽しかった。生まれてきて意味があった。有難う」と最後に言えたら、そしてその言葉を愛する者やよき友と分かち合うことができたとしたら、こんな幸せな人生はなかったといえるのではないでしょうか?そのための準備を、私なりに書いていきたいと思います。
2014.06.12
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「病」の項もそろそろ終わりにしたいと思います。結局、老後の人生の明暗は、いかに健康寿命を維持できるかです。その第1歩は、「歩いて外出できる体力の維持」にかかっています。家事をこなし、公共の乗り物で移動し、スーパーなどで買い物ができれば、一人暮らしも可能です。外出できれば、近所の人とも交わりができるし、草花や風のそよぎなどに季節を感じることもでき、心も豊かになります。食事用の買い物をすれば、メニューを考え、必要材料を考え、計算もします。それらを使って手料理を作るとなれば、手も使います。ところが、歩けなくなるとそれらを一挙に失い、医療や介護のお世話にならなくてはなりません。ストレッチと簡単な筋トレを毎週1回、1月続けるだけでも、「手摺に頼らずに階段が上れる」などの目に見える効果があるそうです。県別の健康寿命が発表されたが、ビックデータではないが他のデータと重ね合わせて見ると、健康寿命を延ばすには次のようなことを心掛けると良いのではと言う仮説も立てられます。仮説1 緑茶は健康寿命を延ばす緑茶消費量がもっとも多い県は静岡県でダントツの1位。その静岡県が、健康寿命ランキングの男性2位、女性1位に入っているのを見る限り、緑茶の効能には大きな期待が持てそうです。逆に緑茶消費量が少ない都道府県5つを見てみると、最下位が沖縄県、次いで香川県、愛媛県、青森県、高知県、山形県…と続きます。沖縄県については、もともと食文化が大きく異なるため、度外視で構わないと思います。ゴーヤなど沖縄独特の食材が緑茶不足を補っている可能性も充分だし、さんぴん茶というジャスミンティーの一種を多量に飲む習慣があるので、緑茶を飲まなくても問題がないのではないでしょうか。このうち、香川県が女性の下位6位、愛媛県が男性の下位6位、青森県が男性の下位1位、高知県が男性の下位2位に入っている。やはり緑茶を飲まないと健康寿命が短くなる傾向があると考えて良いでしょう。仮説2 日本人の主食は米であり米食向きの身体になっている米消費量の上位3都道府県を確認してみると、1位静岡県(世帯当たり104.88キログラム)、2位富山県、3位石川県です。このうち静岡県が健康寿命の上位ランキングで男性2位、女性1位となっており、石川県が男女とも9位にランクインしていることが分かります。逆に米消費量が少ない順に都道府県を見てみると、もっとも少ないのが岡山県(68.82キログラム)、そこから兵庫県、香川県と続きます。岡山県が男性の健康寿命下位7位、香川県が男性10位と女性6位に入っており、米消費量が少ないほど健康寿命が短くなっている傾向が見て取れます。長年、米を食べてきた日本人の消化器官は、日本独自の食習慣に合わせて発達してきた可能性が高く、安易に食生活を変えるのは止めたほうが良いということでしょう。仮説3 塩分を減らし野菜を沢山とる長野県が長寿日本一になれた理由は、元は東北地方同様塩分摂取量が多かったが、県主導による健康指導によって、摂取量を少なくしてきたのです。また、公民館などでは日ごろの運動を積極的に推奨するなど健康寿命を伸ばす政策を県がとってきました。このことからも、気候風土の条件が似ていても健康のための自治体の取り組みによって、明らかに平均寿命が伸長していくことが分かっります。野菜の効用は、1世帯当たりの消費量との関係では相関関係がみられないが、いろんな研究成果からも効用は明らかです。ほうれん草のような緑色の野菜,にんじん,かぼちゃのような黄色の野菜,白菜,キャベツ,トマトのような緑黄色以外の野菜,果物について「ほとんど食べない人」,「週に1日から2日食べる人」,「週に3日から4日食べる人」,「ほとんど毎日食べる人」の胃がんの発生率を比べてみました。 その結果,野菜・果物は「ほとんど食べない人」を基準にすると,「週1日以上食べる人」では発生率は低いという結果でした。 仮説4 社会参加を積極的に行いできれば何か仕事を持つ都道府県別に65歳以上の有業率(65歳以上人口に占める65歳以上有業者の割合)をみると、長野県が30.7%と最も高く、次いで山梨県28.3%、福井県27.7%、鳥取県27.4%、静岡県27.3%となっている。これらの県は総じて一人当たり老人医療費が低い傾向にあり、健康で元気な高齢者が多いことがうかがえる。これらの県では、三次産業に就く人がおおいせいか?一方、有業率の低い都道府県は、沖縄県17.6%、兵庫県17.7%、長崎県18.1%、福岡県18.2%、北海道18.3%などとなっている。 仕事や社会参加などが、生き甲斐に繋がることも、色んな研究から明らかになっています。皆さん、何時までもお元気でお過ごし下さい。
2014.06.11
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名古屋の毛利孝一医師は、42歳のときに心筋梗塞で倒れ臨死体験をした。橙色の雲の上を、まことに気分よく歩いていたら呼び戻された。でも、私は橙色の雲の上で最高の気分だったのです。あの橙色の世界の中で、私の思いをはるかに超えて私を幸せな思いにさせてくれたことがあります。荷物です。人生という荷物を橙色の雲の上に下ろすのです。そして、その荷物を見て、その量の大きさにびっくりしました。こんなに沢山の荷物を背負って、私は今まで歩いていたのかということに驚きました。そして、その荷物を下ろした身の軽さ、心の軽さに飛び上がりたいほどの嬉しさを感じました。あの感じは誠に強烈で、いまだにはっきりと覚えています、と語る。荷物とは、我や欲などの煩悩ではないでしょうか。(年配の方が良く詐欺に引っかかるニュースがあるが、それは欲があるからです。欲のない人は詐欺に引っかかることもありません。)財貨がなくても、身体が不自由でも、何事も、何時も苦しい顔ばかりしているわけでなく、必ず笑顔の時もあれば、優しい言葉を言うこともあるはずです。ということは、やればできるということです。もうこの歳になれば、そんな荷物を下ろしてみてはいかがでしょうか。今ここに生きている喜びをかみしめ、南無(身も心も預ける)の心で生きることが、残りの時間を気楽に楽しく生きるコツのように思います。
2014.06.10
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生れて以来500キログラムのアルコールを飲んだ場合、ウェルニッケ脳症や肝障害による脳機能障害を起こし、アルコール性痴呆になることが多いと言われます。その場合、ビタミンや蛋白質を食事から十分摂取していない人が惚けやすいことはよく知られています。それほどの量でなくても日本酒1日3合(ビール大ビン2本半)以上の人では、3合以下の人に比べて有意に脳血管性痴呆になりやすいといわれています。また、有意差は認められていないが、3合以上の飲酒歴のある人はアルツハイマー病になりやすい傾向があるそうです。喫煙は脳血管性痴呆の危険因子とされているが(2倍という報告も)、その程度は深酒より低いという。喫煙は心筋梗塞の危険因子とされているが、脳梗塞には心筋梗塞ほど強い関係はない。アルツハイマー病に対しては、ヨーロッパでの研究では、喫煙者のほうが非喫煙者より危険が少ないとしています。酒やタバコによる惚けは一朝一夕に起こるものではないので、深酒やタバコをやめて規則正しい生活を送らなければならないのは老齢になる前の人たちです。老齢になって動脈硬化や脳委縮が起こってしまった人は、むしろ「くよくよしないで明るい生活」を送るのがよいのではないかと思います。
2014.06.09
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抗酸化を私たちの体レベルで考えると、『体を酸化という状態から守ることによって、病気など体の異変を引き起こす原因をなくすこと』といえます。抗酸化酵素の手助けをしてくれる抗酸化物質には、尿酸やビタミンE、ビタミンC、ビタミンA、フラボノイド、ポリフェノールなどがあり、体内で合成されるものもあれば、食べ物から摂取しなければならないものもあります。ポリフェノールとは、植物がもつ色や苦みなどの成分の総称で、ほとんどの植物に含まれています。色の濃いものや苦みや渋味が強いものほどポリフェノールが多く含まれており、特に果実の皮や種に多く含まれています。ポリフェノールは大きく分類してフラボノイド系とフェノール酸系に分けられています。カロテノイドとは、動物や植物が持つ赤色や橙色、黄色の色素の総称で、光合成や紫外線によって発生する活性酸素から身を守るために蓄えた成分です。動物は体内でカロテノイドを合成することができないため、食べ物から摂取しなければなりません。動物でもカニやエビの殻や鮭の身のピンクがかった橙色のように、カロテノイドを持つものもいますが、それらは体内で合成したものでではなく、食べ物中に含まれるカロテノイドを代謝・蓄積したものです。
2014.06.08
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私たちは、生命を維持するために、食べ物から吸収された栄養素を原料にしてエネルギーが作り出します。それには酸素が必要不可欠だが、その過程で必ず活性酸素というものが発生してしまいます。また、紫外線や放射線、ストレスなどによっても体内で活性酸素が多量に発生します。実はこの体内で発生した活性酸素は、私たちの体を酸化させて悪影響を及ぼしてしまうのです。鉄を放置しておくと次第に錆び付いて、硬い鉄も脆くなってしまうが、これは鉄が酸素と結び付くことによる酸化反応を起こして酸化鉄に変化してしまうからです。鉄が錆びるのと同じ様な現象が体内でも起きます。細胞の一つひとつが酸化されると、細胞が本来の姿を失い正常に機能しなくなってしまいます。そうすると、体ではよからぬ様々な異変がおこります。つまり、体が酸化するということは、ほとんどの病気や老化の根元なのです。実は、放射線やタバコの害も、この酸化の問題なのです。私たちは生きていくためには酸素が必要不可欠であるにもかかわらず、酸素を体内で利用してエネルギーを得るときに生産されてしまう活性酸素の害に悩まされるという矛盾を持って生きています。
2014.06.07
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痴呆には、脳血管性とアルツハイマー型があるが、最近の研究ではどちらも動脈硬化が原因の一つであるらしいと指摘されています。自治医大の大宮医療センターでアルツハイマー病患者と発症してない老人らの食生活を調べたところ、患者は緑黄色野菜と魚が少なく、肉が極端に多かった。健康な老人の65.4%は魚を中心にした食事をとっていたのに比べ、患者は19%にすぎなかった。患者の60.7%が魚が嫌いで、食事に出ても箸をつけない傾向にあり、痴呆発生とともに激しくなった。穀類、イモ類、砂糖、豆腐、酒類、ソフトドリンクの摂取量は、両者の間であまり違いはなかった。魚と肉では油に大きな違いがあり、肉の脂はn6系と呼ばれるものが主であるのに対して、魚はn3系が多い。n3欠乏症は、大腸ガン、乳がん、心臓病、脳血栓、アレルギーに関係することも知られています。n3系の多い魚、イワシ、カツオ、サバ、サンマ、アジ、マグロ、サケ、ウナギなどを、1週間に6食は摂るとよいようです。お勧めは、日に魚1回、野菜2回、果物1回を献立に入れることです。酒と寿命の関係では、晩酌程度の酒を嗜む人は、ストレスもなく一番長生きするようです。これらは、みな抗酸化作用の効用です。(抗酸化作用については明日)
2014.06.06
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買い物や料理、洗濯などの家事をやる女性は、常に工夫しないといけないので頭を使うし身体も動かすので、惚けずに元気で長生きするといいます。それに引き替え男性は、リタイアすると頭を使う機会が極端に減りがちです。そこで、惚けないためにはゲームで頭を使うようにするといいそうです。アメリカでの研究では、ブリッジや楽器演奏など頭を使う娯楽は、アルツハイマー病やその他の認知症にかかる可能性を大きく低減させるということです。ジョー・ヴェルギーズ医師の発表によれば、頭を使う娯楽(テレビ鑑賞は入らない)を定期的に行っている老人は、行っていない人に比べて最大75%低減しているという。ボードゲーム、社会的活動、学習などを通じて頭を使うことが、知的機能の低下や認知症に対して強力な予防になりうるという報告が近年増えています。同様に興味深いのは、ブリッジなどの頭を使った活動が、神経学的プロセスにおける分子の流れを変える可能性があるという見解です。日本ではブリッジなどはやる人が少ないが、パズルを勧めている方がみえます。パズルは集中力が必要だし、複数の可能性を考える分散処理能力も必要で、頭を活性化させるからです。手編みや折り紙、庭いじり、俳句や短歌、囲碁や将棋などもいいそうです。
2014.06.05
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少しでも脳の衰えを防ぐためには、積極的に頭を使うことが大切です。新聞や書物を読んでも刺激を受けることにはなるが、ただ筋を追うだけではあまり頭を使うことにはなりません。その内容や感想、批評を自分で考え、まとめて表現することが、あれこれと頭を使うことになり、脳の活性化に役立ちます。仕事を離れ、趣味として短歌や俳句をしているお年寄りは、自分で見たこと、感じたことを適切な短い言葉でまとめて表現することになり、上手に頭を使っていることになります。また、将棋や碁も頭を使い脳の活性化に役立ちます。惚けの予防には、脳の神経細胞を刺激することがとても効果的です。それには、日頃から物事を考え、それをまとめて表現する習慣を身につけることです。例えば、毎日日記を書く(出来事と感想をまとめて表現するようにするとより効果的)、親戚や親しい友人に近況を手紙に書いて出す、読書の後で感想を書くことなどは誰にでもできるぼけ予防法の一つです。私は、気になったことと自分の感じたことを、記事六分、感想四分で520字にまとめるようにしています。字数内に納めるのに、非常に頭を使います。これらがたまってくると、ジャンル分けをします。すると、物事の真実や本質も見えてきます。それらを、新聞などの読者欄に投稿するとか、ブログなどで発表すれば、励みにもなりより効果的です。
2014.06.04
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宇宙飛行士が記者会見の最中に立っていられなくて崩れ落ちるシーンをTVで見たり、怪我で入院したお年寄りがベッドに寝ている時間が長い場合(筋力は安静臥1週間で10~15%、3~5週間で50%低下)、足が弱ってしまってしっかり歩けなくなるなどの話は良く聞きます。前者は無重力下での生活では、ほんのわずかな力の発揮しか必要でないため骨格筋が減衰してしまうためだし、後者も寝ている時間が長くなると、足の筋肉を使う時間が少なくなるため同様に減衰してしまうからです。ほとんど全ての器官は、『使わなければ、使えなくなってしまう』性質を持っており、このことを廃用性萎縮と言います。廃用性萎縮を起こさせないためには、1日に4千歩くらい歩くことです。この廃用性萎縮は肉体を構成する器官、機能に止まらず、それらをコントロールする心、精神に関しても当てはまります。痴呆症の原因の90%近くが廃用性萎縮と言われています。左脳・右脳をバランス良く使っていないと、30代でも痴呆症になります。脳は常に新しい刺激を与えてやらないと、シナプスのネットワークが働かなくなるからです。慣れた仕事は脳を活動させることがないので、新しいことに挑戦し左右の脳をバランス良く使うことです。
2014.06.03
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骨折して寝込むと、運動と脳の関係で述べたように一度に惚ける危険性が高まります。アルツハイマー病の危険因子として、疫学的調査で第一番に挙げられるのは頭部外傷の既往で、老人は転ぶと頭を打ちやすいので注意が必要です。(歳を取ると、手が先に出なくなり顔面をケガすることが多い)京大医学研究科山田実助教らが、転びやすい高齢者の視線との関係を研究した結果、踏み外すなどの失敗をしにくい人の視線は約2メートル先で、失敗しやすい人は約50センチ先の目標を見ていました。平均80歳の230人に、遠くを見て歩く訓練用マットを使って週2回の訓練を半年続けたグループと、何もしないグループを比較した。訓練をしなかったグループでは、その後1年間で39人が転倒したが、訓練したグループでは13人でした。訓練したグループでは、平均1.2メートルだった視線が2.5メートルになったそうです。普段から運動をして、転倒に際してできるだけ頭部を打たないように身をかわすなど、機敏に反応できるように、普段から鍛えておくことが大切です。また、家庭内では段差を少なくし、滑りやすい所には滑りにくいものを敷くなどの工夫をし、薄暗い所でつまずかないように適切な照明をつけるなどが望まれます。また、必要に応じて早めに杖を使うこともよいでことです。
2014.06.02
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ハーバード大卒業生,約1.7万人(35~74歳)を対象にした疫学的な追跡調査の結果.2千~3千kcal未満/週の運動をした人が,一番心臓発作の危険性が低く、それより少ない人に比べ約3割から5割も低いことがわかった。だが、やりすぎもよくなく、3千kcal以上の運動をした人もまた危険率上がります。これがそのまま日本人に当てはまるか否かは異論もあろうが、「1週間に2千kcalのエネルギー消費」,これが健康作りのための1つのキーワードです。1日分にすると約300kcalだが、買い物などで歩くと1分当り,体重1kg当りで消費するエネルギー量は男性0.057kcal、女性0.053kcal,急ぎ足だと男性0.082kcal,女性0.076kcalになる。自転車だと男性0.066kcal,女性0.061kcal,時速10kmのサイクリングだと男性0.080kcal,女性0.074kcalになります。例えば,体重60kgの男性が1時間サッサと歩いたとすると、0.082kcal/kg/分×60(kg)×60(分)=295.2(kcal)で、約300kcalになります。このことから、毎日1時間程度歩くのが一番健康にはよいようです。また、1日400m以下しか歩かない人は3.2km以上の人に比べ、アルツハイマー型認知症発症リスクが2.2倍だったという研究もあります。
2014.06.01
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