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阿弥陀堂の外観を視点を変えてあと少し撮ってみました。正面の階段に近づき、南東側から撮ると、外回廊の柱の上の斗栱が四手先の木組みになっているように私には見えます(数え違いがあるかもしれません)。重厚な感じです。阿弥陀堂の基壇の床は敷石が四半敷となっています。修復間もないので、亀腹の白さが際立っています。 南北の側面に設けられている板唐戸の金具が燦然と輝いています。正面と側面の大半は上部が連子の桟唐戸の扉です。回廊に吊られた灯籠にも鳥害防止のための金網が取り付けてあります。 建物南東隅の木組みの美と隅木に取り付けられた風鐸風鐸は、どの程度の風が吹けば音を立てるのでしょうか・・・・・。 大屋根に降った雨水を受ける天水槽は機能本位の感じです。水槽の脚部分に装飾はありません。 入母屋造りの大屋根の南側面です。 破風板の合掌部に家紋が飾られ、主懸魚と脇懸魚が同じ意匠で照応しています。破風板の飾り金具にも家紋が中央に使われています。破風板の表面が螺髪の様に見えて興味深いところです。 阿弥陀堂の南側面から眺めると、北側の御影堂の大きさがうかがえます。阿弥陀堂の前から、南に向くと京都タワーが正面に。鐘楼は、境内の南東隅に近いところにあり、基壇がかなりの高さになっています。鐘楼の傍まで拝見に行きました。南側から回り込み、東から眺めた鐘楼の景色です。入母屋造りで、屋根は桧皮葺きです。鐘楼は瓦屋根が普通で、桧皮葺きというのはあまり例はないと言います。私自身も拝見した記憶がありません。現在の鐘楼は明治27年(1894)に再建されたものだそうです。(資料1) 鬼板には五三桐紋がレリーフされています。近づいてわかったことが2つあります。一つは入念な透かし彫りが見事なことです。一面を部分取りで拡大してみると、 流水に漂う鳥たちの姿が彫られています。もう1つは、梵鐘を眺めてみると新しいものだということです。 ズームアップで池ノ間に鋳出されたレリーフを2枚撮ることができました。飛天(天女)像には釋淨如という文字が、鳳凰のレリーフの方には真宗本廟という文字が読み取れます。調べてみますと、真宗大谷派第25代門首・大谷暢顯の法名が「淨如」だそうですので、現門首の名が刻されているのでしょう。(資料2) 事後に調べてみて知ったことです。2010年11月、この400年ぶりに新調された梵鐘が法要「報恩講」が始まった21日に「撞初式(つきぞめしき)」が行われたといいます。2011年の親鸞聖人750回遠忌を前に、滋賀県東近江市の鋳物師黄地(おうち)佐平氏(79)が寄進されたそうです。高さ2.7m、重さ4.5tで、旧梵鐘を踏襲した意匠で造られたのだとか。(資料3)さらに、鐘楼の東側に初代の梵鐘が仮置き状態で保管されていたことです。今時点だけなのかも知れません。すぐ傍で拝見できたのがラッキーでした。 「東本願寺撞鐘(梵鐘)」と記した説明文が掲示されています。転記しましょう。「東本願寺の境内地南東の鐘楼に懸かっていた撞鐘(梵鐘)。 慶長7年(1603)、徳川家康から京都烏丸六条の寺地の寄進を得た教如聖人が、 同9年(1604)9月の御影堂の造営に合わせて鋳造したもの。 鋳造 慶長9年(1604)5月28日 吊下 慶長9年(1604)6月6日 撞初 慶長9年(1604)6月7日 製作 鋳物師大工浄徳 仕様 総高 256cm 口径 156cm 総重量 3800kg 絵柄・銘文 左向鳳凰(上部) 本願寺(下部) 右向飛天(上部) 信淨院(下部) 信淨院=教如上人 右向鳳凰(上部) 慶長九甲辰暦(下部) 左向飛天(上部) 五月廿八日(下部) 縦帯下部 大工大坂淨徳 鐘身内部 慶長九甲辰年 大坂大工淨徳 五月廿八日 」 信淨院の文字 慶長九甲辰暦の文字 本願寺の文字 縦帯の一番下左側に浅彫りの文字で「大工大坂淨徳」の文字が判読できます。 鐘を吊り下げる「龍頭」の全体を目線の高さ近くで見ることなど滅多にありません。さすがに、がっちりとしています。この後、阿弥陀堂内を拝観して、渡り廊下づたいに御影堂の拝観に向かいます。最後に、少しマニアックですが、阿弥陀堂の回廊で「埋木」探しをしてみました。現在の阿弥陀堂は、御影堂とともに明治28年(1895)に竣工した建物なので、比較的新しいせいか、「埋木」はあまりありません。 これくらいです。 これはどうなんでしょう・・・・。序でに、江戸時代に出版された『都名所図会』に収載された東本願寺の絵図を引用させていただきます。(資料4)この図会に絵図とともに、記された説明文の翻刻文はこちらをご覧下さい。当時のガイドブックにどのように説明されていたかがよくわかります。(資料5)慶長7年(1602)に教如上人が徳川家康から、烏丸六条の南に、六町四方の寺地の寄進を得て、本堂(御影堂)や阿弥陀堂を建立されます。大門(御影堂門)、阿弥陀堂門、菊門は伏見城の門が移設されたようです。撞鐘堂もまた伏見城内の井戸屋形なりというと説明しています。当時は阿弥陀堂門が日暮の門と言われていたとも記しています。それが現存すれば、西本願寺に現存する国宝の「唐門」と同様の門だったのかもしれません。東本願寺は天明の大火で火災に遭遇したあとも、数度火災に遭い、最後は元治(1864-1865)の大火、つまり幕末動乱の折の大火で焼失し、明治期の再建復興に至るのです。「蛤御門の変どんどん焼け」として知られている大火です。「名の知られた寺院では,東本願寺・本能寺・六角堂が焼失しました。京都御所・二条城・西本願寺は,火がすぐ近くまできましたが焼失は免れました。」(資料6)とのことです。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p366-3702) 大谷暢顯 :ウィキペディア3) 京都・東本願寺で「撞初式」 梵鐘を400年ぶりに新調 :「Yahoo!ブログ」4) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 第2冊 41,42コマ目 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)5) 都名所図会 東本願寺 :「国際日本文化研究センター」6) 蛤御門の変どんどん焼け 都市史25 :「フィールド・ミュージアム京都」補遺煩悩払う除夜の鐘 観光・京都おもしろ宣言 :「京都新聞」 「教義に合わぬ」東西本願寺はならさず ← ネット検索で初めて知りました。火災図を用いた「元治の京都大火」被災範囲の復原 論文 pdfファイル 長尾泰源・谷端郷・麻生将 共著 歴史都市防災論文集Vol.6(2012年7月)天明の大火 都市史24 :「フィールド・ミュージアム京都」都市大火史からみた近世京都の景観研究 論文 pdfファイル 中村琢巳・塚本章宏・林倫子 共著 京都歴史災害研究 第14号(2013) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -1 阿弥陀堂門・総合案内所・阿弥陀堂ほか へスポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -3 御影堂・御影堂門・参拝接待所 へ観照 [再録] 京都・下京 梅小路公園の梅 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 粟嶋堂-人形供養-宗徳寺 細見 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 京都水族館 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -1 御影堂門、総門、灯籠と大水盤 へ 西本願寺は7回シリーズでご紹介しています。これはその第1回です。探訪 [再録] 京都・下京 史跡めぐり -1 左女牛井跡・若宮八幡宮(佐女牛井八幡)へ この第1回からゴールの五条大橋、河原院跡までを4回シリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 京都・下京 平等寺(因幡堂)へ
2017.03.31
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今月(2017.3)1日、東本願寺を久しぶりに訪れました。2015年7月には、未だ阿弥陀堂が修復作業中で、南半分に鉄骨が組まれている状態でした。2016年11月に御影堂・阿弥陀堂両堂の修復が完了したという報道もありましたので、長い間目にしていた覆屋や鉄骨のない伽藍の姿が拝見したかったのです。 西本願寺細見は既にご紹介していますので、今回の東本願寺のご紹介で、私なりの両本願寺探訪の区切りがつきます。冒頭の写真は、烏丸通の西側歩道を歩いて、阿弥陀堂門に近づくときに目に泊まる景色です。寺域を巡る堀の向こう、5本の定規筋をひいた築地塀に「今、いのちがあなたを生きている」と大きくメッセージが掲げられています。別の場所に「生まれた意義と生きる喜びをみつけよう」というメッセージも掲げられていました。その先に切妻造檜皮葺きで前後に唐破風の付いた楼門が見えます。 「阿弥陀堂門」は四脚門形式で、「本堂門」とも。現在の門は明治44年(1911)の建造です。江戸時代には、阿弥陀堂門は「唐門」と呼ばれていたそうです。(資料1,2)下珠数屋町通の正面に建てられています。この門を起点に東方向に下珠数屋町通が土手町通まで通っています。逆に、西本願寺の境内を超えて西に目をやると、下珠数屋町通の延長線上が北小路通となり、北小路通に面して西本願寺の「唐門」が所在するという位置関係になります。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。 門前の石橋の左右に大きな青銅製の灯籠が立っています。火袋には、「東六条八藤紋」が意匠として使われています。これは東本願寺大谷家の家紋のようです。(資料3)竿の節のところに、「親鸞聖人七百回大遠忌記念」の文字が陽刻されています。このことで建立時期がわかります。昭和36年(1961)年です。平成24年(2012)が750回大遠忌であったので、それに絡めて御堂の修復事業が行われていたのです。御影堂が大遠忌に併せて先に修復が完了(2009年11月)していました。 基礎の格狭間には、躍動的な獅子像がレリーフされていて、一つひとつその姿態が異なっています。 石橋に群がる鳥たち 阿弥陀堂門は四脚門ですので、築地塀が鍵形になっています。築地塀の軒丸瓦には「本願寺」に文字が陽刻されています。鍵形の築地塀の角の屋根には鬼板があります。中央の文様はシンプルですが、文様の意味は何でしょうか・・・・?それでは、阿弥陀堂門から眺めてまいりましょう。 門扉の上の蟇股の部分には瑞鳥、その下部は咲き競う牡丹と思える草花がレリーフされています。 正面の木鼻に大輪の牡丹、側面の木鼻に獅子が彫られていますが、リアルで見応えがあります。 門扉の格間には、大きい菊紋と五七桐紋がレリーフされています。屋根部分の装飾金具に見られる意匠には五七桐紋が組み入れられています。 柱の装飾金具四脚門の柱の下部も見所です。 方柱の角の筋彫りと覆い金具と礎石の筋彫りが連続して一貫しています。 覆い金具の各面には様々の姿態の躍動する動物がレリーフされています。多分空想上の麒麟だろうと思います。 門扉の円柱にも、同じ動物がレリーフされた覆い金具が付けてあります。 阿弥陀堂門を入ると右方向に総合案内所 そこまでの間に、築地塀寄りに平瓦を使った腰掛けがおもしろい造形上のアイデアです。 広い境内の正面に、修復の完了した「阿弥陀堂」の全景が眺められます。「本堂」とも言います。正面(南北)の長さは52m(29間)、側面(東西)の長さは47m(26間)、高さは29m(16間)、単層、入母屋造り、本瓦葺です。この阿弥陀堂は禅宗様の仏堂形式で建てられているとのこと。(資料1,2)御堂内は撮影禁止ですので、拝観しただけですが修復後の堂内はまばゆいばかりに金箔が使われている感じです。阿弥陀堂の名前の通り、本尊に阿弥陀如来が安置され、その左右の間には、七高僧、聖徳太子の影像が掛けられています。(資料1,2)堂内を撮った画像は、「東本願寺」ホームページに掲載されています。こちらからご覧ください。参照情報を探していて掲載ページをみつけました。阿弥陀堂の手前、右側に大きな金属製の灯籠が立っています。灯籠のスタイルは阿弥陀堂門前の灯籠と同種です。こちらも竿の節に700回忌大遠忌の文字が見えます。 笠には法輪のレリーフ、請花の上は火焔宝珠の形式 火袋の文様は同じです。その下の中台の格狭間には、様々な姿態の龍がレリーフされています。門前の灯籠の中台の格狭間に装飾彫刻はありません。基礎の格狭間には様々な姿態で躍動する獅子がレリーフされています。反花(そりばな)の文様は少し異なるようです阿弥陀堂を南東側から撮った全景。右背後に見える屋根が御影堂です。 向拝の蟇股には、龍や虎が彫刻されています。 木鼻は象です。門もお堂も金網が取り付けてあるのは、多分鳥害予防のためでしょうが、建物の彫刻類の鑑賞には邪魔になり残念です。 隅木や棰(たるき)の先端部は装飾金具でカバーされ、裏甲(うらこう)や茅負(かやおい)には、ところどころに装飾金具が取り付けられています。棰の先端面には東六条八藤紋が使われています。阿弥陀堂正面の階段と屋根を支える木組みの美しさ 阿弥陀堂の外回廊の幅が広いです。阿弥陀堂と御影堂は渡り廊下で繋がれています。 阿弥陀堂の屋根先端の軒丸瓦とその傍に置かれたダイナミックな動きの獅子の飾り瓦阿弥陀堂の外観などをもう少し拝見することから次回に。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p366-3702) 諸殿拝観 :「東本願寺」3) 大谷家 :ウィキペディア補遺真宗大谷派 東本願寺 ホームページ 真宗本廟両堂等御修復東本願寺「阿弥陀堂」を覆う巨大な屋根を解体 2015.07.22 :「OBAYASHI」100年に一度!東本願寺 阿弥陀堂の修復現場見学 :「阪急電鉄」阿弥陀堂6年ぶりに姿 京都・東本願寺 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -2 阿弥陀堂・鐘楼(新調梵鐘)・東本願寺撞鐘(梵鐘)へスポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -3 御影堂・御影堂門・参拝接待所 へ観照 [再録] 京都・下京 梅小路公園の梅 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 粟嶋堂-人形供養-宗徳寺 細見 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 京都水族館 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -1 御影堂門、総門、灯籠と大水盤 へ 西本願寺は7回シリーズでご紹介しています。これはその第1回です。探訪 [再録] 京都・下京 史跡めぐり -1 左女牛井跡・若宮八幡宮(佐女牛井八幡)へ この第1回からゴールの五条大橋、河原院跡までを4回シリーズでご紹介しています。スポット探訪 [再録] 京都・下京 平等寺(因幡堂)へ
2017.03.30
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[探訪時期:2015年9月]前回ご紹介した大雲院の前の道は、円山地蔵尊像のところが、突き当たりのT字路になっています。右折して、南門と祇園閣を眺めました。このT字路を反対に左折すると東方向への緩やかな上り坂になります。 このあたりの地図(Mapion)はこちらの拡大図をご覧ください。左折して右手斜め前方に目に止まるのが、冒頭の駒札「芭蕉堂」です。駒札の傍にある門を入ると、右側に「芭蕉堂」があります。茅葺き屋根の四阿風の瀟洒な建物です。 芭蕉堂の左前方に、堂名を刻した石標が立ち、お堂の入口上部には「芭蕉桃青堂」の扁額、堂内には「芭蕉堂」の扁額が掛けられています。桃青も別の俳号です。手許の本によると、堂内には「闌更(らんこう)が新調した芭蕉像を安置し、その胎内に森川許六自作の芭蕉像を納め」(資料1)ているそうです。駒札には、「森川許六の刻んだ芭蕉の木像を安置する」と記されているだけです。普通に読めばこの写真の像自体のことでしょう。胎内仏という説明に誤りがあるのでしょうか。疑問点が残りました。 森川許六(1656~1715)は蕉門十哲の一人です。江戸時代に出版された『拾遺都名所図会』には、その木像は八寸、つまり高さ24.3cmの小像と記し、芭蕉が愛した桜の木で作られたもので、許六が大津の智月尼に与え、その後その木像の所有者が転々とした後に闌更の手に帰された経緯が記されています。(資料2)高桑闌更(1726~1798)は江戸中期の俳人。加賀の人で、蕉風の復興に努め、天明の俳諧中興に貢献したのです。(資料3)松尾芭蕉は『奧の細道』の大行脚を終えた後、郷里伊賀上野に戻り滞在し、大津で越年します。そして、元禄4年(1691)9月に江戸に戻る旅につくまでは、近江・伊賀・京都の間を往来します。近江の幻住庵に隠棲し、幻住庵記を執筆し、また元禄4年の4月18日から5月4日までは、嵯峨野落柿舎に滞在し、嵯峨野日記を記しています。この元禄4年、京都を遊歴している48歳の芭蕉が双林寺の阿弥陀房を訪ねて、西行を偲んだのです。西行が阿弥陀房を訪れたときに心象を詠んだ歌があり、詞書とともに西行の『山家集』に収載されています。中・雑、725番の歌です。(資料4) いにしへ頃、東山に阿弥陀房と申しける上人の庵室にま かりて見けるに、何となくあはれにおぼえて詠める 柴の庵(いほ)と聞くは悔(くや)しき名なれども 世に好(この)もしき住居(すまゐ)なりけり芭蕉は、阿弥陀房での西行を偲び、一句を詠みます。 柴の戸の月やそのまま阿弥陀房高桑闌更は、芭蕉のこの句に因んで、天明3年(1783)に双林寺からこの地を借用し、南無庵と称する一宇の草庵を営むのです。そして、同6年(1786)、南無庵の南に芭蕉堂を建立し、蕉風の復興めざしたのです。闌更は金沢の人で、江戸に出て二夜庵を再興し、晩年の京都に来住したのです。寛政10年(1798)5月3日没。享年73歳。高台寺に墓があるといいます。(資料1)江戸時代、天明7年(1787)出版の『拾遺都名所図会』には芭蕉堂の文字が記載された図絵が載っています。引用させていただきご紹介します。見開きの2ページに描かれた当時の状況です。この頃には双林寺内に「大雅堂」が建立されていたようです。 この図絵の右下部分を拡大したものです。双林寺の山門傍の土地を借りて闌更が営んだ「南無庵」があり、その近くに「芭蕉堂」の文字が記されています。芭蕉堂が建立された翌年に『拾遺都名所図会』が出版されていることになります。(資料2)調べてみると、池大雅の没後、門人の僧・月峯、凪夜らが遺墨品を整理し、1784年に双林寺に大雅堂を建立したという説明を見つけました。(資料5) また、幕末に出版された『花洛名勝図会』(文久3年・1863)には、芭蕉堂が見開きページの図絵として掲載されています。(資料6)この芭蕉堂の図、左ページの上には、次の文が記されています。(資料7) はじめて花供養いとなみて 活て居て望の日の花備へけり 闌更(らんこう) 咲みちて木間さわがし山ざくら 堂主公成毎年4月21日には花供養、11月12日には芭蕉忌(時雨忌)が行われているそうです。芭蕉堂の傍に、かなりの歳月を経た碑がありますが、不詳。私には判読も困難です。 母屋「浄妙庵」 芭蕉堂の東隣に「西行庵」があります。駒札によれば、現在の西行庵は明治になっての再建によるものです。大徳寺塔頭真珠庵の別院を移したものだとか。現在の西行庵はこの母屋と南側にある茶室「皆如庵」との総称です。 江戸時代・安永9年(1780)出版の『都名所図会』には、当時の西行庵の姿が双林寺とともに描かれています。双林寺の飛地境内に庵が営まれたようです。図絵の右ページ、3人の人々が描かれているところに西行庵と西行桜の文字が記されています。(資料8) 『花洛名勝図会』に掲載の双林寺の図絵を見ると、大雅堂と芭蕉堂、西行庵の表記がありますが、南無堂は記載されていません。(資料6)大雅堂は明治19年(1886)に円山公園が開設され、昭和になり公園が整理される過程で破毀されてしまいます。今は大雅堂旧址の碑が残るだけです。 浄妙庵の建物の東に連なる建仁寺垣風の垣の途中に、「双林寺 花月庵」の表札が掛けられた門があります。門の右側に「西行法師葵華園院(さいかおんいん)」の石標が立っています。この地が塔頭・葵華園院の在った跡地なのです。北面の武士・佐藤羲清(のりきよ)は保延6年(1140)10月、23歳で出家遁世し、西行と号し、全国を行脚し歌を詠んだ人。保延6年の暮れに鞍馬に入り、翌永治元年(1141)に双林寺の塔頭葵華園院に止住したと伝えられているのです。出家後数年して、高野山に入り、その後は高野山を拠点に諸国を遍歴する生き方をしたそうです。門を入り砂利道を進むと、庭への入口があり、西側に飛び石伝いに西行庵の母屋「浄妙庵」の南面に繋がっています。母屋の南側に茶室「皆如庵」が樹木の間に見えます。砂利道を真っ直ぐ南に歩むと、立入禁止となっていますが、その先に正面に、茅葺き屋根の「花月庵」、別名「西行堂」があります。堂内は非公開です。手許の本には「西行堂はもと洛西双ヶ丘の麓にあった頓阿法師の葵華園を移して再興したものといわれ、明和7年(1770)3月、冷泉為村によって修繕されたが再び荒廃し、明治26年(1893)宮田小文法師によって再建された」(資料1)と記されています。双林寺のホームページを見ますと、「西行法師ゆかりの『花月庵』というページから次のことがわかります。(資料9)・西行が止住していた塔頭葵華園院は、天正時代には跡地になっていた。・現在の花月庵(西行堂)の建物がまず後地のどこかに建てられた。・享保21年(1731)に摂津池田李孟寺の天津禅師が、現在地に移築し再興された。・明和7年(1770)冷泉為村によって修繕された。花月庵(西行堂)の堂内には、西行法師僧像、頓阿法師僧像が祀られているそうです。西行の『山家集』上・冬の506番に、「野邊寒草と云事を雙林寺にてよみけるに」という詞書を付した、次の歌が収載されいます。(資料4) 様々に花さきけりと見し野邊のおなじ色にも霜枯れにけりこの砂利道の途中、左側にこの諸碑が一列にならんでいます。この写真の左端手前に、花月庵前の雙林寺墓地への石段があり、その右横に位置するのが、左端の碑です。後智恵で知ったのですが、これが「芭蕉翁仮名の碑」(高さ1.2m・幅45cm)です。「芭蕉の門人である各務支考が、芭蕉の17回忌にあたる宝永7年(1710)3月12日に建立したもので、漢字かな混じり文で刻まれていることから、本邦初のかな碑であります。」(資料10)この仮名碑に連なるのは、芭蕉の弟子である各務支考(かがみしこう)の獅子門美濃派の歴代の俳祖の碑なのです。手前から次の俳人だとか。(資料9)雨岡庵主(7世)、森々庵主(6世)、朧案庵(5世)、帰童庵(4世)、蘆元法師(3世)尚、右端の碑は調べて見た範囲では不詳です。 各務支考は美濃の人で、江戸中期俳人です。「蕉門に入り、師の没後美濃派を興す。蕉風俳諧の体系化に努めた」(日本語大辞典・講談社)人で、優れた俳人であるとともに、優れた理論家でもあったようです。美濃の支考の居が獅子庵と称されていたので、獅子門美濃派というそうです。(資料11)花月庵の前の道をさらに東に歩むと、双林寺です。正式には「雙林寺」と書きます。金玉山(こんぎょくさん)と号する天台宗のお寺です。駒札によれば、延暦年間(782~805)に尾張連定鑑(おわりのむらじじょうかん)が伝教大師最澄を開基として創建したと伝わるそうです。鳥羽天皇の時代以降栄えたのですが、中世に衰微します。室町時代・応永年間(1394~1427)に時宗の国阿上人が再興し、時宗の本山となります。『都名所図会』は、「至徳年中、国阿上人移住して時宗と改む」と説明しています。至徳というのは南北朝時代の北朝側の年号で、1384~1387に該当します。1392年に南北朝が合一された後、応永年間になるのです。いずれにしても14世紀末に時宗の寺として、再び栄えるのですが、応仁の兵火により再び焦土となります。そしてまた衰えることに・・・・。江戸時代には、「承応2年(1653)真宗東大谷廟が境内当方に当たって造営されるにおよんで寺域を縮小するに至った」のです。明治維新のときにふたたび天台宗に改まります。「次いで明治19年(1886)円山公園の設置によってさらに寺地の多くを買い上げられた」ことにより、本堂一宇を残す状態になったという次第です。(資料1) 本堂本堂前には「薬師如来」「大聖歓喜天」と記された提灯が掛けられています。参道前には、右肩に「圓山真葛ヶ原」とし「大聖歓喜天 雙林寺」と刻された石標が立ち、その横には「真葛ヶ原 楠弁財尊天」の石標も立っています。このあたり、かつては真葛ヶ原と呼ばれていた名残りが窺えます。本尊は薬師如来坐像(重文)で、榧材一木造りの等身坐像です。寺伝では伝教大師作と伝わる像です。併せて、大聖歓喜天と武装大黒天像(藤原)等が安置されています。向拝は屋根が瓦葺きの唐破風で、獅子口には菊華紋が付いています。 頭貫のところが板蟇股であり、木鼻も至ってシンプルです。大聖歓喜天と横書きされた赤色の提灯が頭貫の向こう側に吊されています。聖天さんとしての信仰が深くなっているのでしょうか。境内には、本堂前に石造十三重塔があり、伝教大師童形像や春日燈籠が目に止まりました。 布袋さんやうさぎの石像が置かれています。狸もいます。ちょっとおもしろい。布袋さんの背後に屋根部分が一部切れた形で写っているだけですが、これは「草屋型置燈籠」です。最後に、西行の詠んだ有名な歌、駒札の末尾にも記されている歌についてです。西行の「山家集」の上・春、77番として収載されています。 願わくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃西行がこの歌をどこで詠んだのか、その場所を特定はできないようです。双林寺こそもっともふさわしい諷詠地とになされているのは事実です。駒札には、「この地は、西行が葵華園院を営み、終焉の地であったところと伝えている」と記しています。『西行物語』というのが残されていて、ここでこの歌が詠まれ、ここが終焉の地として語られているのです。伝えられているというのは、このことをさすのでしょう。しかし、西行は文治6年(1190)2月16日、河内国弘川寺(ひろかわてら)にて73歳で没したと云います。墓はこの寺にあるのです。『西行物語』を調べていて、双林寺終焉地説が虚像であるとともに、弘川寺終焉地説にも議論の余地があるということも知りました。それについての論考をたまたまインターネットで見つけました。「西行物語の構造 -虚像西行形成の構造について-」、谷口耕一氏の論文です。興味深さとともに、西行法師への関心が一層深まりました。真葛ヶ原と双林寺の変遷・変貌、西行法師と頓阿上人、高桑闌更と松尾芭蕉及び各務支考とその一門のことなど、さまざまに思いを馳せる場所として、一度貴方の目で見聞してみてください。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東 上』 竹村俊則著 駸々堂2) 拾遺都名所図会. 巻之1-4 / 秋里湘夕 [著] ; 竹原信繁 画 巻二の14コマ(説明文)、13コマ(図) :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)3) 高桑闌更 :「コトバンク」4) 『山家集 金槐和歌集』日本古典文学大系29 風巻・小島校注 岩波書店 5) 双林寺(東山区) :「京都風光」6) 花洛名勝図会東山之部. 巻1-4 / 木村明啓 編 ; 松川安信,四方義休,楳川重寛 図画 四冊目の7コマ目が双林寺、12コマ目が芭蕉堂の絵 :「古典籍総合データベース」7) 芭蕉堂 (注記;翻刻文を参照) :「国際日本文化研究センター」 8) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 巻三の37コマ目です。 :「古典籍総合データベース」9) 西行法師ゆかりの「花月庵」 :「雙林寺」ホームページ10) 芭蕉翁仮名の碑 :「雙林寺」ホームページ11)美濃派とは :「獅子門美濃派俳句資料館」http://www.nagaragawagarou.com/minohatoha.htm【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺京都市円山公園音楽堂 :「京都観光Navi」天台宗雙林寺 ホームページ森川許六 :ウィキペディア西行庵 :「祇園商店街振興組合」頓阿 :「コトバンク」挿絵とあらすじで読むお伽草子 第12話 京都大学付属図書館 西行物語 巻一 西行物語 巻二 西行物語 巻三 西行物語 巻四京都大学附属図書館所蔵 絵巻物・奈良絵本コレクション この目次ページに、「西行物語」があります。「西行物語」 :「近代デジタルライブラリー」「西行一生涯草紙」宮内庁書陵部 :「国文学研究資料館」「西行物語 -虚像西行形成の構造について-」 谷口耕一氏の論文「『西行物語』の成立時期をめぐって -絵巻と物語の関係を中心に-」 坂口博規氏 論文弘川寺 :「河南町」西行記念館 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 京都・東山 京都霊山護国神社 拝殿・昭和の杜・パール博士顕彰碑・諸慰霊碑 へ探訪 [再録] 京都・東山 円山公園南部周辺 -1 大雲院と祇園閣、円山地蔵尊 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2017.03.29
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知恩院の三門 円山公園の中心部にある枝垂桜これは2014.4.6に岡崎から円山公園の観桜で撮ったものです。もうすぐ見られる桜の景色をご紹介しておきます。ここでは、2015年秋に、霊山にある坂本龍馬の墓などを訪れたとき、併せて散策した円山公園周辺の探訪を再録してご紹介いたします。[探訪時期:2015年9月]知恩院三門前から枝垂桜のある円山公園の中央部を通り、南に下って行くと、右側に大雲院があります。大雲院の東には市立円山音楽堂があり、その東に次回ご紹介する双林寺があります。正式には古い漢字を使った「雙林寺」と書くのですが・・・・。かつて、北は知恩院三門前より南は双林寺に至る東山山麓一帯は「真葛ヶ原」と称され、真葛や薄(すすき)、茅(かや)などが一面に繁茂する原野だったそうです。その風景を踏まええて、天台座主慈円僧正が、 わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さわぐなり 新古今和歌集 1030と詠んだ歌が有名です。新古今和歌集には、他に俊恵法師の詠んだ歌も載っています。 嵐吹く真葛が原に啼く鹿はうらみてのみや妻を恋ふらむ 新古今和歌集 440慈円僧正や俊恵法師にしても、浄土宗の開祖・法然上人にしても、真葛ヶ原が現在のような景観に変貌するなんて、夢想もできなかったことでしょう。ここでご紹介する地域の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 竜池山大雲院現在は浄土宗の単立寺院で、普段は非公開寺です。直近では2013年夏に特別公開されています。門前から境内を眺めますと、正面に屋根が寄棟造・本瓦葺の鉄筋コンクリート造りの本堂が見えます。大雲院は元々は烏丸御池あたりに創建されたお寺です。開山は貞安(ていあん)上人。貞安上人は、『信長公記』に「浄土宗は、墨衣にて、如何にも左道なる仕立、関東の長老、安土田中の貞安長老二人、是も硯・料紙を持ち候て、出らる。」「貞安問ひて云ふ、法花八軸ノ中ニ念仏有ルカ」と記されている僧です。天正7年5月、安土城下の浄厳院で行われた法華・浄土宗論の当事者の一人となった人。(資料1)宗論で勝った貞安は織田信長の知遇を得ます。「信長公厚く帰依し給ひ、江州八幡に西光寺を建立して、貞安ここに住職す」(資料5)。その織田信長・信忠父子が天正10年(1582)の本能寺の変で亡くなります。そのことを伝え聞いた貞安は京都に上り、正親町天皇の命により信長・信忠の菩提を弔うために、二条烏丸あたりに一宇を建立します。信忠の法名が大雲院殿三品林仙厳大居士ということから、「大雲院」と号したのが、当寺の起源なのです。そして、天正18年(1590)秀吉の命により寺町四条下ルの地に移転します。(資料2,3,4,5) この図は江戸時代、安永9年に出版された『都名所図会』に載っています。寺町四条下ルに寺があったときの図を引用させていただきました。江戸時代には知恩院に属していたようです。(資料6)「その後、日向国(宮崎県)佐土原藩主島津以久(ゆきひさ)の帰依をうけ、寺運は隆昌に赴いたが、天明以降の累次の大火に罹災した」(資料2)のです。四条河原町にある高島屋京都店の増床に伴い、昭和48年(1973)4月、東山の現在地に移建されたのです。ここは、大倉喜八郎(大倉財閥の創始者)所有の別荘地だったところです。正面左側の廻縁に大理石製の釈迦涅槃像が安置されています。 本尊は丈六阿弥陀如来坐像(江戸)です。 四脚門の木鼻はシンプルな造形です。蟇股は中央に菊紋が刻されています。境内には、織田信長・信忠の碑があり、また本堂背後の境内墓地には、桃山時代の大盗賊石川五右衛門の墓があるそうです。石川五右衛門は、「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」という歌舞伎の演目で広く知られた人物です。文禄3年(1594)に捕らえられ三条河原で釜ゆでの刑に処せられています。ここでいう楼門というのは、京都・南禅寺の三門です。なぜ、この寺にその墓があるのか?石川五右衛門が三条河原の処刑場に引き立てられるとき、寺町通りにあった大雲院の門前を通りかかったおりに、貞安上人の教化をうけて、感涙したのだそうです。そこで、処刑後に大雲院に五右衛門の遺骸が埋葬されることになります。墓石は石川五右衛門の三十三回忌追善供養に建てられたのだとか。柱状の墓石の端が欠けているといいます。「賭けごとのまじないによいといってけずり取られたため」(資料2)だというエピソードが伝わるようです。 境内の南東角部分は凹地になっています。 ここに「円山地蔵尊」が建立されています。 その傍にある由来碑この地に大雲院が移建されて以来、16余年で境内の堂宇の山容が整うに至り、時代も昭和から平成に代わりました。「平成を寿ぎ、恒久の平和と人類の降伏を希い」、この地蔵尊が篤信者の人々により奉納されたそうです。寺の敷地の内側でなく、敷地の一角を切り出して築地塀の外側にこの地蔵尊が安置されているところに、辻に建てられる地蔵尊、地蔵信仰の系譜を感じます。地蔵尊の立つ角を右折しますと、南門が見えます。この門の左側斜め奥、東向きの本堂の背後に見えるのが、「祇園閣」です。高さ36m、鉄骨鉄筋コンクリート造りの三階建で、一見してお解りのとおり、祇園祭の山鉾を模した形です。「設計は伊東忠太。1997年(平成9年)12月12日、国の登録有形文化財に登録された。」(資料3)上記のとおり、ここはもと大倉家の別荘地でした。昭和3年(1928)大倉喜八郎がこの地に別荘を構えたときに、この祇園閣を建造したのです。「金閣寺には金閣、銀閣寺には銀閣があるので、あらたに銅閣を作ろうとして祇園閣が作られた」(資料4)という意図があったそうです。そのため、大雲院には、銅閣寺、銅閣という通称もあるようです。塔上には平和の鐘を架け、一階には阿弥陀像を安置するといいます。 鉾先には金鶏がとりつけられています。特別公開の機会があれば、一度この閣上から京都市内を眺望してみたいものです。大雲院の旧地、寺町四条下ルには、現在の高島屋の南側に「貞安前之町」という地名が残っています。つづく参照資料1) 『新訂 信長公記』 太田牛一著 桑田忠親校注 新人物往来社 p257-2622) 『昭和京都名所圖會 洛東 上』 竹村俊則著 駸々堂 p199,p208-2103) 大雲院(京都市) :ウィキペディア4) 大雲院 :「京都観光研究所」5) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p106-1076) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 :「古典籍総合データベース」 巻之2 図は6コマ目、説明文は7コマ目です。【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺第38回 京の夏の旅 文化財特別公開 大雲院 祇園閣大倉喜八郎 :ウィキペディア石川五右衛門 :ウィキペディアルパン三世の五ェ門の先祖「石川五右衛門」の壮絶な最後がすごかった:「NAVERまとめ」楼門五三桐 :ウィキペディア「楼門五三桐」 さんもん ごさんのきり :「歌舞伎見物のお供」「楼門五三桐」 :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.03.28
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2017年第51回京の冬の旅「非公開文化財特別公開」で、壬生寺が特別公開されましたので最終日(3月16日)に拝観に訪れました。冒頭の画像は坊城通に面した壬生寺の正門です。場所は中京区坊城通仏光寺北入ルです。壬生寺のご紹介は後日として、幕末ゆかりの地という視点でご紹介します。正門を入り、西方向真正面の本堂に至るまでの中間、北側に「阿弥陀堂」があります。阿弥陀堂の背後(北側)に池があり、池中の中島が「壬生塚」となっています。阿弥陀堂を通り抜けると御堂側と中島を結ぶ朱塗りの反り橋が架かっています。橋を渡ったところに、「壬生塚案内図」の駒札があります。中島が「壬生塚」と称されており、新撰組関連以外にも様々な墓碑がありますが、その部分は今回触れません。(壬生寺境内は自由に入れますが、壬生塚は拝観料が必要です。阿弥陀堂地下の展示品拝観も含まれます。)右に曲がると、正面・壬生塚の東端に近藤勇の胸像が建立されています。胸像の方に歩んで行くと、その手前南側に「新選組隊士慰霊塔」の石標が立ち、宝篋印塔があります。 慰霊塔の東隣に「誠 新選組顕彰碑」が建立されています。平成7年(1995)3月に、京都新選組同好会が結成20年記念で建立された旨裏面に記されています。併せて、顕彰碑裏面には、新選組の有名な「局中法度書」が漢文で陰刻されています。これは、新選組が結成された後に、組織の形成には規律が必要ということで、隊規が作られたようです。局というのは壬生浪士隊つまり新選組を意味します。裏面に刻されている法度書(隊規)を読み下し文でご紹介します。 一、士道に背きまじきこと。 一、局を脱するを許さず 一、勝手に金策を致すべからず 一、勝手に訴訟を取り扱うべからず 一、私の闘争を許さず 右条々相い背き候者は切腹申し付くべく候也という厳しい規律です。この法度書について、興味深いことがあります。新選組で唯一の生き残りと言われる永倉新八が実戦談を残しています。清河八郎らに率いられて上洛した浪士隊は、清河八郎の策謀が成らずに終わり、大半が江戸に引き上げます。一方、芹沢鴨、近藤勇ら13名が京都に残り壬生浪士となり、会津侯のあずかりとなります。この壬生浪人の人数だけでは人数不足なので、同志を募り一隊を組織せよと命じられたようです。京大坂に触れることで百名あまりが集められたといいます。「中堅はもとより江戸からこころざしをおなじゅうした十三人で新しい面々はいわば烏合の勢、これを統率するにはなにか憲法があらねばならぬ。そこで芹沢は近藤、新見のふたりとともに禁令をさだめた。それは第一士道をすむくこと、第二局を脱すること、第三かってに金策をいたすこと、第四にかってに訴訟をとりあつかうこと、この四箇条をそむくときは切腹をもうしつくること、またこの宣告は同志の面前でもうしわたすというのであった」(資料1)と語っているのです。永倉新八は、新選組と命名された時の組織として、局長3人(芹沢・新見・近藤)、副長2人(山南・土方)、助勤14人(沖田・永倉・原田他)、調役3人、勘定方4人の合計26人の氏名を列挙しています。(資料1)こういう資料があるためでしょうか、上記の局中法度書について「一説には、作家子母澤寛氏の創作とも伝えられるが、隊規が当然あっても決して不思議ではない」と記す書もあります。(資料2)胸像の少し手前、左側に立つ駒札がこれです。駒札には要点として次のことが記されています。*新選組が文久3年(1863)に、この壬生で結成された。*坊城通に壬生屯所跡が現在も2カ所残っている。*壬生寺境内は新選組隊士の兵法調練場として使われた。(武芸、大砲の訓練)*ここ壬生塚には11人の隊士が祀られている。 この近藤勇の胸像は、「俳優の故上田吉二郎氏が発起人となり、昭和46年(1971)に建立された」(駒札より)ものです(上掲案内図に記載の番号10)。胸像の右横には絵馬掛けが設けてあります。 胸像の左横には、近藤勇の「遺髪塔」が建てられています(番号9)。その左隣りに「河合耆三郎(きさぶろう)」の墓が立っています(番号8)。新選組勘定方だった人。上記の永倉は「河井耆三郎」、勘定方の一人として語っています。 2つの墓塔が南面して並んでいます。左側の竿石には、「芹沢鴨之墓 平山五郎之墓」と並記されています。(番号6)芹沢鴨は局長、平山五郎は副長助勤でした。二人の没年は文久3年(1863)9月18日の同日です。新選組の隊名を拝受し1ヵ月目を迎えて、芹沢以下隊士らが島原の角屋で宴会を開いたそうです。芹沢は宴会で大盃傾けていましたが中座して屯所である八木邸に、腹心の平山、平間と共に戻ったそうです。そして深夜、愛人等と寝入っているところを、土方らにより暗殺されたと言います。芹沢と平山が殺害され、平間は運良く逃れたのです。右側の竿石には、7人の名前が並んでいます。阿比原栄三郎(副長助勤)、田中伊織、野口建司(副長助勤)、奥沢栄助(伍長)、安藤早太郎(副長助勤)、新田革左衛門(平隊士)、葛山武八郎(伍長)の墓として。(番号7)現地で見落としてしまったのですが、駒札並びに手許の本を読み直すと、この7名の墓塔の竿石の側面に追悼の五言絶句の漢詩が刻まれているそうです。残念・・・・。 魂魄帰天地 魂魄天地に帰す 此生奈有涯 此生(こんじょう)なんぞ涯(はて)あらんや 定知泉下鬼 定めて知る泉下(せんげ)の鬼 応是護皇基 まさにこれ皇基を護るべし (駒札、資料3)これらの墓塔は、昭和42年(1967)頃、境外墓地からこちらに移され保存が図られたそうです。この説明文によれば、この折に、墓塔の竿石が破損していたので、竿石を新たに御影石で再建されていたとか。芹沢鴨・平山五郎150回忌記念事業として、墓塔竿石復元が平成24年9月に行われ、以前と同じ和泉石により復元されたといいます。この壬生塚には、次の碑も建立されています。 左は、「『あゝ新選組』歌碑」。歌手三橋美智也のヒット曲となった歌碑です。平成11年(1999)に建立されたもの。右は「誠桜」碑で、京都新選組同好会結成40周年記念に建立されたものです。 壬生寺の正門を出て北隣にあるのが、「八木家」です。ここが「壬生屯所旧跡」の一つです。文久3年(1863)2月8日、江戸を出立した浪士隊は2月23日夕刻に、三条大橋に着いたのです。そして当面の旅宿に選ばれたのが壬生村だったのです。その時、上洛した浪士隊の本部は新徳寺におかれ、浪士隊の一行234名は分宿となります。余談ですが、壬生寺に対して坊城通の東側に「新徳禅寺」の標札が掛けられたお寺があります。浪士隊が壬生村に着いた折には、目付、取締、調役の三役と清河八郎がこの新徳寺の本堂を宿泊所としたそうです。(資料2) 結果的には一時期だけの宿泊になりますが。「芹沢は近藤と同宿で、八木源之丞方と定まる。芹沢の子分としては水戸から来ている新見錦、平山五郎、平間金助、野口健児。近藤の一味は土方、原田、藤堂、山南、沖田、井上、永倉と、すべてで13名の合宿となった」(資料4)のです。八木家に宿泊するようになります。(資料2)これが縁となり、京都に残る浪士隊、つまり新撰組がこの壬生に留まる期間の「壬生屯所」の本拠地となるわけです。 最初に目に止まったのが石灯籠とこの駒札です。着目は石灯籠の回りにある石類です。「ここの石類は、本屋敷と表屋敷との間、つまり新選組の道場のあたりにあったものです。隊士達も腰を下ろし、休んでいました。屋敷内を二、三移動した後、ここに落ち着きました」(駒札)と記されています。「隊士腰掛の石」だとか。 石畳を歩みます。「新選組発祥の地(八木家)」の駒札が設置されています。当屋敷に「新選組屯所」の標札を掲げた当初は、隊士はわずか十数人。次第に人数が増えると付近の屋敷に分宿していきます。翌年・元治元年(1864)の池田屋事件で、新選組がその名を馳せることになります。そして、1865年4月、既にご紹介している西本願寺に新選組の屯所を移すのです。 それでは、八木家に入りますが、まずは表の外観から。長屋門は東に開いています。駒札によりますと、この長屋門は文化元年(1804)の造営だそうです。 主屋は文化6年(1809)の造営だそうで、主屋の東南隅に本玄関があります。画像で灯りの見える手前の所です。ここから入り、三室ずつ2列に配された座敷部分を拝見しました。室内は撮影禁止でしたので、残念ながらご紹介できません。 左の画像は、長屋門から西の景色。右の画像は、主屋の西端、内玄関の間と土間部分への入口の前あたりから長屋門を眺めた景色。土間は主屋の奧(北端)まで通しになっています。座敷の方から眺めました。八木家の主屋で見学できる部屋については、当家のホームページが開設されているのを見つけました。「(新撰組発祥の地)壬生屯所旧跡」のページに、「見取図」を掲載し、部屋の景色も写真で表示される工夫をされていますので、便利です。こちらからご覧いただくとよいでしょう。主屋の「奥の間」の所で、八木家と壬生屯所について説明を拝聴しました。その部屋には近藤勇の像が置かれていて、また「中の間」の方には、新選組隊士のための位牌が仏壇に祀られていました。「奥の間」の隣り、西側の部屋において、芹沢鴨が暗殺されるという事件が起きたのです。その時の刀傷が残っています。 八木家からは北東方向ですが、南北の坊城通と東西の綾小路通の角に前川家があります。こちらは公開されていませんので、外観だけ撮らせていただくことに。浪士隊が上洛したとき、当時の前川本家が掛屋として御所や所司代の公金の出納や町奉行の資金運用など公権力機関の御用達を務めていたそうです。壬生村にある前川荘司邸が分家であり、そういう関係からでしょうか、浪士隊の隊士が分宿するために提供されたそうです。新選組の人数が増えると、前川邸が壬生屯所の一部に組み込まれます。隊士の宿舎の役割を担うことになります。前川家の前の綾小路通を東に進むと、浄土宗の「光縁寺」があります。山門の右前方に、「新選組之墓」と刻された石標が立っています。参拝は受けつけられているようですが、見学的な類いは受け入れられないようです。手許の本によれば、新選組の副長の一人だった山南(やまなみ)啓助の墓がこの寺に祀られています。伊東甲子太郎の勤王思想にひかれ、近藤に反目して脱走しますが、大津において追跡してきた沖田荘司に捕らえられ、切腹しています。(資料2) 山門の屋根は近年に葺き替えられた感じです。鬼瓦に関心があり撮りました。 自宅で改めて画像を眺めてみて、軒丸瓦の紋の気づきました。本多氏と縁のあるお寺かもしれません。幕末まで膳所藩の藩主だった本多氏の家紋と同じに思えるのです。この後、幕末動乱期に限ったことではないのですが、幕末動乱期にも深い関係がある「六角獄舎址」を訪ねました。六角通を西に行き、神泉苑通を少し西に入ったあたりです。目印は武信稲荷神社で、神社の南東方向で六角通の南側に大きなマンションがあります。 その前の六角通南側にこの石標が立っています。「勤王志士平野國臣外数十名終焉地」と「日本近代医学発祥之地」という表記です。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。そしてこの塀の内側、マンションの通路傍にも顕彰碑などがあります。塀の内側にあるのがこの一角です。壁面に駒札が掛けられていて、隅に地蔵尊が祀られた小祠があります。 「平野国臣殉難の地」という駒札です。尊皇攘夷派の指導者・平野国臣が「六角獄舎」のあったこの地で処刑されたのです。井伊直弼が実行した「安政の大獄」以降は多くの政治犯が六角獄舎に収監されたと言います。平野は元治元年(1864)1月17日に六角獄舎に収容され、禁門の変(蛤御門の変)の翌日、斬られたのです。7月19日長州藩兵が入京することで禁門の変が勃発します。そして市中の大半が兵火に遭い、翌日火事が六角獄舎にも迫ってくるのです。その折、幕吏は獄舎に収容されていた尊皇攘夷派の志士たちを避難させるのではなく、斬り捨てるという挙にでたのです。この時に、平野国臣も処刑されてしまったのです。その数三十数名に及ぶとか。処刑された中には、古高俊太郎・長尾郁三郎・水郡善之祐も含まれていたと駒札には記されています。永倉新八の語り残した文を引用します。「兵火はいぜん猛烈をきわむるその日(注記:20日)の午後のことである。数人の役人が槍を手にして獄吏をさきに立てて獄房を調べはじめた。まっさき平野国臣、横田精之、大村包房、本多素行などをひきだす。ついで彦山の僧亮親、乗盛からおなじく国事に奔走して幕府の忌諱に触れた三条卿の大夫丹羽出雲守、西三条卿の大夫河村能登守などがぞくぞくと出房し、最後に前月新撰組の手に捕らわれた古高俊太郎以下の長州藩士のこらずで総計三十三名がひきだされた。ああこれらの志士が最後のもようは非絶惨絶、とうてい書くにしのびない。・・・・六角の獄につながれた志士は勤王のこころざしあつい義人ばかりであった。幕府が長人の襲撃をおそれて倉皇計刑戮(そうこうけいりく)してしまったのはおしみてもあまりあることである。」(資料1)「いまだ裁判さえ確定しないのに、いっきょ三十三人まで刑戮せらるる運命におちいったのである。」とも語っています。「殉難勤王志士忠霊塔」が建立されています。余談ですが、六角獄舎は「近代医学のあけぼの」に関わる地でもあったのです。この顕彰碑が建立されています。私は現地を訪れて初めて知ったことです。幕末よりも百年余以前、宝暦4年(1754)閏2月7日に、山脇東洋が所司代の官許を得て、日本最初の「人体解屍観臓」を行ったというのです。そして5年後にその記録を『蔵志』としてまとめたそうです。それは、江戸において杉田玄白らが観臓を行うよりも17年前だったのです。(顕彰碑台座の銘板より)つまり、処刑された遺体の胸腹部の観臓(解剖)を行い、実証的な観察をしたのです。それを記録にまとめたということです。(資料5)杉田玄白・前野良沢らは死刑囚の解剖を1771年に見学し、『解体新書』を1774年に出版しています。『解体新書』は学校の歴史で学び、良く知られている事実ですが、山脇東洋のことはあまり知られていないかもしれません。山脇東洋という名前だけは記憶にあったのですが、再認識した次第です。手許の学習参考書を見ると、「1754 山脇東洋ら、初めて死体を解剖」と記載されています。一方、杉田・前野らの死刑囚の解剖見学の記載もあります。『解体新書』だけが太字で扱われています。(資料6)顕彰碑の碑文には、「これが実証的な科学精神を伊賀国とり入れた成果のはじめで、日本の近代医学がこれからめばえるきっかけとなった」とその偉業をたたえています。この顕彰碑は、日本医師会・日本歴史学会・日本解剖学会・京都府医師会の連名のもとに、1976年3月7日付で建立されたものです。脇道に逸れましたが、これでご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『新撰組顛末記』 永倉新八著 新人物文庫 p51-52, p127-1292) 『新選組京をゆく』 文・木村幸比古 写真・三村博史 淡交社 p34-41,p75-773) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p3134) 『新選組三部作 新選組始末記』 子母澤寛著 中公文庫 p475) 日本の解剖学の先駆者 山脇東洋 :「武田病院グループ」6) 『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社補遺壬生寺 ホームページ八木家 見学のご案内 :「八木家」(ホームページ)新選組屯所 旧前川邸 公式サイト山脇東洋 :ウィキペディア蔵志 :ウィキペディア山脇東洋解剖碑所在墓地(駒札) :「京都観光Navi」解剖学の先駆者山脇東洋の史跡を訪ねて 中山清治氏 東京友明医療大学雑誌 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -1 西本願寺太鼓楼・新選組不動堂村屯所跡 (中屋敷跡)・不動堂・[道祖神社] へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -2 [道祖神社]・伊東甲子太郎殉難の跡・島原(輪違屋・角屋)へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -3 伏見・京橋、寺田屋、「龍馬とお龍」像、九烈士の墓(大黒寺)ほか へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -4 鳥羽・伏見の戦跡地と戊辰戦争関連碑 へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -5 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2017.03.28
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[探訪時期:2015年9月]京都霊山護国神社の境内の一部として、「京の幕末動乱ゆかりの地」にかかわる「殉難志士墓」があります。これは既にテーマの一環としてご紹介いたしました。今回は、当神社自体についてまとめて、ご紹介します。冒頭の写真は、殉難志士墓のある霊山の山腹から撮った写真です。この「維新の道」を上ってくるときの左側(北)が神社の境内で、右側(南)が霊山歴史館です。山腹から眺めれば、この画像で右側が境内になります。維新の道の突き当たりを左に折れて、境内に入ります。 拝殿 この地に各藩の志士・藩士を祀る墓が設けられたことにより、明治元年5月、「霊山官祭招魂社」が創祀されたことが当神社の起源です。そして、昭和14年(1939)に、本殿・拝殿・祝詞舎・新撰所等が造営されて、現在の「京都霊山護国神社」に改称されました。(資料1,2)現在は、幕末・明治維新の動乱期に勤王の志士、隊士などの立場で活動し、亡くなった人々をはじめ、第二次世界大戦までの各戦役で戦没した人々が、ここに合祀されているのです。平成13年10月13日現在で、73,011柱が合祀されているといいます。霊山の墓域の殉難志士墓を一通り巡ったあと、案内標識沿いに出口に向かいます。殉難志士墓は霊山の山腹が階段状に開削されて墓碑列が設けられています。坂本龍馬の墓のあるところより一段下りたところに、「霊山表忠碑」が立っています。明治12年6月に、当時の太政大臣三條実美が撰文し書した文面が陰刻された顕彰碑です。その位置からもう一段低いところの通路沿いに出口に向かいます。その区画に設けられたものは、明治維新の後の現代史につながる部分です。起点に「昭和の杜」という名称がつけられています。「駆逐艦長波慰霊碑」があり、「駆逐艦長波の航跡」が記されています。レイテ島沖海戦に参加した駆逐艦です。 戦没者の個人名を壁面に掲げた「従軍記念の碑」 昭和63年(1988)10月14日建立 その一角には、「歩兵第百九聯隊略史」の銘板も嵌め込まれています。 建立主旨銘板山側に「パール博士顕彰碑」が建立されています。1997年11月20日の建立。 パール博士の肖像写真を嵌め込んだ碑の背後を半円形に碑文の彫られた壁面が設けられています。壁面には、「極東国際軍事裁判」に於けるインド代表パール判事の勧告文の一節が刻まれています。日本文と英文とが併記されています。 時が熱狂と偏見をやわらげた暁には また理性が虚偽からその仮面をはぎとった暁には その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くに そのところを変えることを要求するであろうその下部に碑文があります。1946年東京において「極東国際軍事裁判」が開廷されました。このとき、ラグ・ビノード・パール博士は、インド代表判事として着任した人。私はこの碑を見て、この人物の存在を初めて知りました。パール博士の主張点は、「法の真理と、研鑽探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦国に対する復讐劇に過ぎない」というものです。そして、パール博士「ただ一人、被告全員の無罪を判決された」といいます。「今やこの判決は世界の国際法学界の輿論となり、独立したインドの対日外交の基本となっております」と記しています。最後に、この神社の境内入口に近いところから、境内に建立された諸記念碑をご紹介します。 ビルマ派遣軍・野砲兵第53聯隊の碑文 「ああ特攻」碑と騎兵隊・捜索隊の戦没者慰霊碑 野砲兵第122聯隊戦没者顕彰碑 陸軍特別操縦見習士官之碑 特操の碑 この他にも、境内には戦争に従軍し、戦没した人々を生還した有志が建立された碑が林立しています。多くの碑文に記される最後の語句は 不戦の誓い 世界の恒久平和の祈念 です。 PEACE, NO WARご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東 上』 竹村俊則著 駸々堂 p182-1832) 創祀、沿革 :「京都霊山護国神社」【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺極東国際軍事裁判 :ウィキペディア東京裁判(極東国際軍事裁判) ラダ・ビノード・パール博士 東京裁判名場面 :YouTube東京裁判 vol1/4 (極東国際軍事裁判) :YouTube東京裁判 vol2/4 (極東国際軍事裁判) :YouTube東京裁判 vol3/4 (極東国際軍事裁判) :YouTube東京裁判 vol4/4 (極東国際軍事裁判) :YouTube東京裁判 :「朝日新聞DIGITAL」長波(駆逐艦) :ウィキペディア歩兵第109連隊 :「ぶらり重兵衛の歴史探訪」第二次世界大戦の犠牲者数をグラフにすると、その規模の大きさが一目でわかる :「THE HUFFINGTON POST」戦後70年 70 Years after WWⅡ :「THE HUFFINGTON POST」第二次世界大戦と太平洋戦争の歴史を写真で振り返る :「NAVERまとめ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.03.27
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[探訪時期:2015年9月]前回、坂本龍馬の墓を訪れ、殉難志士の墓碑が林立する霊山の墓域の壮観さに認識を新たにし、墓域の全体をご紹介しました。関連事項を落ち穂拾いして、いくつか触れておきたいと思います。探訪の整理をしながら、少し調べてみたことも含めて、ご紹介します。冒頭の説明板は、京都霊山護国神社の入口に立てられているものです。「龍馬演舞場」という見だし語に興味を抱いてまずは写真だけ撮っておいたものです。読み直して知ったことですが、京都霊山護国神社では、毎年11月15日、坂本龍馬の命日に、「龍馬祭」として慰霊祭が行われているのです。この日、神社境内が演舞場となり、龍馬のふるさ・土佐で行われている「よさこい鳴子踊り」が奉納されるそうです。「龍馬よさこい」としてここで始められたのだとか。また、5月26日、桂小五郎(木戸孝允)の命日には、「松菊祭」が午後に斎行されるようです。これも、この霊山の山腹が墓域となったゆかりでしょう。墓域の補足として触れておきたいのが、天誅組の吉村寅太郎墓碑に近いところにあるいくつか墓についてです。位置関係はこの地図でご覧ください。 錣形岩右衞門之碑幕末に、相撲の力士達が勤王力士隊となって、禁裏守護補佐についていたのだとか。その力士隊長だったようです。錣形は「しころがた」と読むのでしょう。傍に、石碑建立の説明碑があります。「横綱免許を五条家から受けたのは、錣形の弟子である兜潟である」(資料1)とか。この錣形は初代錣形岩右衞門を意味しています。初代は天保6年(1835)に京都の頭取となっていて、二代目錣形は、徳蔵という名前であり、元治元年(1864)に頭取となっているそうです。(資料2)ネット検索で得たある相撲番付表と東川吉嗣氏の説明によると、兜潟は兜形と番付表に記載されていて、「兜形彌吉は、明治4年7月、48で、京の五條家から、横綱免許が降り、54で隠退したといふ」(資料3)とか。錣形岩右衞門は番付表に勧進元として記載されています。どこかで情報が錯綜している節がありそうです。調べていて副産物として得た知識ですが、龍馬暗殺の折に、一緒に殺害された下僕・藤吉は、相撲取りだったといいます。醜名(しこな)は雲井竜だったとか。(資料1)錣形岩右衞門之碑から一つ上側にある左の碑は「片岡孫五郎碑」です。高知県高岡郡・半山郷(葉山村)永野村の郷士で、武市半平太に従い、国事に奔走した人です。片岡孫五郎の旧邸は、現在も葉山村郷土民俗資料館の隣にあり、この傍に現在「維新の道」と呼ばれる朽木峠越えの道があるそうです。勤王の志を抱く脱藩者が片岡五郎宅に立ち寄ったといいます。(資料4)また、片岡孫太郎は、津野町生まれの吉村寅太郎が脱藩の折には旅費を与えたといわれているそうです。(資料5)積極的な勤王活動家・支援者だった人なのですね。この史跡探訪をしなければ、知ることがなかったでしょう。これも史跡探訪の楽しさです。右の碑は「淡海槐堂先生旌褒碑」(おうみかいどうせんせいせいほうひ)です。「淡海槐堂(1822~1879)は幕末明治の勤王活動家。近江国坂田郡中村(現滋賀県長浜市)に生まれ,京都の薬種商武田家の養子になる。安政3(1855)年に公家の醍醐家に仕え,板倉筑前介と称した。醍醐家の家臣として尊王攘夷運動に参加し,志士を裏面から支えることが多かった。文久3(1863)年の大和国天誅組の挙兵で武器を援助したことから翌年幕府に捕らえられたが。慶応3(1867)年に釈放された。」(資料6)槐堂は明治元年に淡海という姓をなのるようになったとか。この碑は槐堂十三回忌の明治24年に建立されたそうです。坂本龍馬が近江屋の二階で暗殺されたとき、その部屋には「梅椿図」の掛軸が掛けられていたのです。その掛軸は、龍馬の誕生日に板倉と名のっていた槐堂が贈ったものといいます。龍馬が暗殺された際に飛んだ血の痕が掛軸の下部に残っているそうです。この掛軸(重文)は現在、京都国立博物館蔵となっています。(資料4,7) 京都霊山護国神社から道路を隔てた南側に、「霊山歴史館」があります。昭和45年(1970)に有志の人々により建立されたものですが、明治維新史専門の博物館という意味で、幕末動乱・明治維新の時代に縁が深いといえます。霊山神域を探訪した日は休館日で拝見できませんでした。建物はご覧の通り、入母屋造り、二階建、鉄筋コンクリート造りですが、純和風で東山の景観にマッチしています。当館は5,000点を超える収集資料を蔵し、約100点を選んで企画展を開催されているようです。展覧会案内はこちらをご覧ください。 霊山歴史館の西側には、現在は老舗料亭「京大和」、その西隣に「翠紅館」と記された建物が続いています。ここは京大和の別館のようです。 「京大和」の表門右傍に「翠紅館(すいこうかん)跡」の石標駒札もあります。この表門は風光明媚な庭園への入口になっているそうです。ここはかつては、霊山正法寺の塔頭十四坊の一つ「叔阿弥」があったところだとか。駒札には、鎌倉時代に公家の鷲尾家が買い取り、後に西本願寺の東山別院に寄進されたと記されています。この翠紅館の変遷史は、「京大和」のホームページをみると、丁寧に説明されています。こちらをご覧ください。興味深い歴史です。ここで重ねられた尊攘急進派の会議、いわゆる「翠紅館会議」の結果は、急進穏健両派の対立の決裂となります。翠紅館会議が開かれた部屋は、こちらをご覧ください。(「京大和」のホームページ)そして八月十八日の政変が起こります。公武合体派の公家と会津藩・薩摩藩が中心となり、長州藩排除の計画が画策されたのです。 1.攘夷親征のための大和行幸の延期 2.尊攘派公卿の参内・他行の禁止と国事参政の禁止 3.長州藩の堺町御門警護の解任が朝議で決定されます。尊攘過激派=長州藩の失脚という時勢転換の局面です。そして、「急進七卿の都落ち」という事態に展開していきます。そんなゆかりの地がここなのです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 霊山 :「相撲記念館・史跡案内 索引」2) 鳥辺山他 :「相撲記念館・史跡案内 索引」3) 能登國羽咋唐戸山相撲 相撲番付表 東川吉嗣氏 4) 京都史蹟散策75 京都霊山護国神社 探訪 2 :「資料の京都史蹟散歩」 葉山村郷土資料館 :「四国情報ネットワーク」5) 天誅組ツアーこぼれ話 岡本崇氏 :「株式会社三九出版」6) 淡海槐堂先生旌褒碑 :「フィールド。ミュージアム京都」7) 坂本龍馬を知っていますか? :「京都国立博物館」8) 霊山歴史館概要 :「霊山歴史館」【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺 吉村虎太郎 :ウィキペディア吉村寅太郎 :「コトバンク」醜名の意味と正しい表記 東川吉嗣氏淡海槐堂 :ウィキペディア2057 片岡孫五郎碑(東山区清閑寺霊山町1・霊山護国神社) :「 Drunken Johnnyの『意外と身近にある歴史散歩』日々是好日 心灯 頬笑」力士隊と長府功山寺の決起 :「正しい日本の歴史」 長州には伊藤俊輔が隊長に任命された角力隊(すもうたい)や高杉晋作が功山寺の決起を行ったとき に力士隊が編成されている事例の説明があります。 同様の発想があったのですね。霊山歴史館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -1 西本願寺太鼓楼・新選組不動堂村屯所跡 (中屋敷跡)・不動堂・[道祖神社] へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -2 [道祖神社]・伊東甲子太郎殉難の跡・島原(輪違屋・角屋)へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -3 伏見・京橋、寺田屋、「龍馬とお龍」像、九烈士の墓(大黒寺)ほか へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -4 鳥羽・伏見の戦跡地と戊辰戦争関連碑 へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -5 池田屋騒動之址・寓居址(坂本・古高・吉村・武市・桂)・遭難之碑(大村・佐久間)・藩邸之址・桂小五郎像など へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -6 坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像と墓、御陵衛士屯所跡、桂小五郎(木戸孝允)の墓ほか へ探訪 京の幕末動乱ゆかりの地 -8 壬生塚(近藤勇胸像・隊士の墓ほか)・壬生屯所旧跡(八木家)・六角獄舎跡ほか へ
2017.03.27
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[探訪時期:2015年9月]この銅像は学生時代から見慣れています。京都の四条通、東の突き当たりが八坂神社。その北側から背後にかけて円山(まるやま)公園があります。八坂神社を通り抜け、東の円山公園のさらに奧へ進んで行くと、この銅像が建立されています。 坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像です。第二次世界大戦中に銅像が撤去の厄に遭い、昭和37年(1962)5月に再建されたのがこの銅像。 立像の方が坂本龍馬です。この銅像、「製作者は初めにこの二人に肩を組ませて、並んで立たせるつもりであったが、依頼者某氏から横槍が入り、遂に今日のポーズに決まった」(資料1)というエピソードがあるそうです。時は慶応3年(1867)11月15日(陽暦12月18日)、場所は三条・高瀬川、土佐藩邸に近いところにある近江屋の二階八畳間。風邪気味の龍馬は14日まで潜んでいた近江屋の裏手にある土蔵から、母屋の二階に移っていたのです。土蔵は改築され龍馬の居室が作られていたといいます。夕刻、京都白川村の陸援隊屯所から陸援隊長中岡慎太郎が訪ねてきて、龍馬と雑談していたのです。午後8時ごろに十津川郷士の者と名をかたり、取り次ぎを乞う形で暗殺団が襲撃したのです。十津川郷士の名札を出されて、取り次ぎをした下僕・藤吉が名札を龍馬に渡して引き返してきたところを、まず刺客に斬られます。藤吉は16日夕刻に絶命したとか。坂本龍馬は前頭部を斬られ、頭から脳漿が噴き出すほどの状態で絶命。中岡慎太郎は初太刀で後頭部に深傷を受け、右手もほとんど切断に近い状態、数カ所の重傷を受け、17日夕刻に逝去したといいます。(資料1,2)尚、『土藩坂本龍馬伝』には、遺体が検分された記録として、龍馬には34ヶ所、中岡には28ヶ所、藤吉には7ヶ所の傷があったと記録されているようです。(資料2)この遭難暗殺の数日前に、もと新選組で月真院に屯所を設け分派し、御陵衛士となっている伊東甲子太郎が坂本龍馬を近江屋に訪ねて、忠告に及んでいたそうです。「新選組や見廻組が、坂本先生の身辺をつけ狙っていると聞くが、かかる町屋に下宿していては甚だ危ない故、速やかに土佐藩邸に移られ、国家のため自重せられたい」(資料1)と。中岡慎太郎は師武市半平太のめざした「一藩勤王」の志を継ぎ、国家回天の事業に龍馬と同様に奔走周旋した人物。幕末の政治中枢の裏街道を、諸藩のコーディネータとしてひたすら潜行したようです。龍馬が海援隊を創設したのに対し、中岡は陸援隊を創設したのです。彼は諸国の脱藩青年による強力な混成軍を組織して「大道」を実践しようとしたのです。龍馬は中岡慎太郎を自分と同様の人と見ていたようで、姉の乙女とおやべ宛の手紙にそのことを記しています。(資料1,3)円山公園の南から高台寺の方向に向かいます。今「ねねの道」と呼ばれている道路を歩きます。このあたりの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 高台寺の塔頭・月真院の門前 「御陵衛士屯所跡」の石標と駒札新選組からの分派という建前で、新選組を脱する目的から伊東甲子太郎が禁裏御陵衛士となり、慶長3年(1867)3月にこの月真院を借りて屯所としたのです。伊東が新選組により暗殺された場所・史跡を既にご紹介しています。伊東の死まで半年余りにわたって、伊東とその同志14名がここを拠点としました。 月真院の表門を入ったところの境内を拝見しました。門を入り左折すると北の方に庫裡と本堂が見えます。門の右側傍には、「小稲荷大明神」が祀られています。このお寺は、「石見国(島根県)津和野の城主亀井茲政が亡父政矩の菩提を弔うため、元和元年(1615)三江紹益(さんこうしょうえき)を開山として建立した高台寺の塔頭の一つ」です。本尊は地蔵菩薩だそうです。三江紹益はもと建仁寺の僧で徳川家康の信任を得た人で、高台寺に招かれて中興開山となります。そのときに、高台寺は曹洞宗を廃して、臨済宗建仁寺派となったそうです。(資料4)高台寺は、豊臣秀吉の正室北政所高台院湖月尼が秀吉の菩提を弔うために創建したお寺です。高台寺の南隣りが「霊山観音(りょうぜんかんのん)」です。顔のサイズが6m、高さ24mという鉄骨にショットコンクリート打工法で作られた観音坐像が祀られています。この像は昭和30年(1955)6月に故石川博資(ひろすけ)氏が建立したとか。(資料5)高台寺への石段前を通り過ぎ、最初の十字路を左折して、東に坂道を上っていきます。霊山観音像の上部が北東方向、すぐ近くに見えます。上っていくと、すぐこの石碑「維新の道」が左側歩道脇にあります。傍に立つ説明板によれば、昭和45年(1970)10月にこの道が霊山顕彰会により、「維新の道」と命名されたようです。霊山顕彰会は、この坂道の上、南側にある「霊山歴史館」をメイン事業として運営している公益財団法人です。坂道の突き当たりに「京都霊山護国神社」の石標が見えます。現在の護国神社の東側すぐ間近が霊山の山腹です。この霊山の地に明治元年5月、太政官布告により、「嘉永・安政以来、国事に尽瘁した明治維新の志士達の諸霊を合祀した京都に於ける官祭の招魂社」(資料4)ができたのです。それが現神社の起源となっています。この霊山の地に、坂本龍馬の墓があるということは、学生時代から知ってはいたのですが、訪れたことがありませんでした。幕末動乱ゆかりの地を探訪してみる気になって、初めて訪れ、認識を新たにした次第です。この霊山の墓域は拝観が有料になっています。受付入口を入って坂道を上がって行くと、志士たちを合祀した墓域全体の説明板があります。(ご紹介の便宜のために、色丸と番号を書き加えました。)最初の坂道を上っていくと、正面に大きな石碑「木戸公神道碑」(緑の丸印)が見えます。木戸公とは木戸孝允、つまり桂小五郎です。 坂本龍馬と中岡慎太郎の墓が並んでいて、その前に石鳥居が立てられています。赤い丸印を付した場所 石鳥居の右側に、円山公園の銅像のミニチュア像が建立されています。鳥居の中に近づくと、石積みの基壇の上に二人の墓碑が並んでいます。 龍馬ら三人の葬儀は発見された資料によると、長年定説化されてきたものと異なり、11月17日夜に秘かに行われ、この霊山墓所に埋葬されたそうです。(資料1,2)通説では、慶応3年11月18日八つ時(午後2時)、葬列を井口家から出したと伝えられていたようです。駒札は通説の説明が記されています。この墓域内、左の石灯籠の後方、基壇の外傍に、下僕・藤吉の墓碑が祀られています。 墓域を斜め上から眺めた景色この龍馬の墓の前にある赤い柵のところは、京都市内の展望所スペースになっています。多くの参拝者が訪れても、ゆとりのあるスペースとなっています。 この展望所からの京都市内の眺め訪れた日は比較的少数の参拝者でしたが、見ていると坂本龍馬・中岡慎太郎の墓を参拝すると、そのまま引き返していく人が大半でした。私は、これだけ霊山神域に志士達が合祀されているのは知りませんでしたので、一通り墓域を訪ねてみることにしました。 龍馬の墓域から休憩所に向かうところで山腹を見げた墓碑列休憩所の方に向かうと、「旧土佐藩招魂社」(番号1)があります。 旧土佐藩招魂社のすぐ傍に立っているのが、大村益次郎(1824~1869)の墓碑です。「初名、村田蔵六。周防の人。緒方洪庵に蘭学を学び、長州藩士として戊辰戦争で活躍。新政府において軍制を創始。保守派士族の襲撃がもとで死亡」(日本語大辞典・講談社)。司馬遼太郎著『花神』の主人公として描かれていたと記憶します。、龍馬の墓域の右側に進み、反時計回りに墓域を巡ります。 熊本藩招魂社(番号2) 宮部鼎蔵ら18柱を合祀かなり赤錆ている説明板には、昭和61年(1986)に横井小楠がこの地に合祀されたと記されています。 岐阜県招魂場(番号3)岐阜県招魂場には、梁川星厳と戊辰戦争で戦死した徴兵七番隊の川田敬蔵ら4名の碑が建ててあることを明記した上、平成2年(1990)秋に、所郁太郎の碑が建立されたとも記されています。 福岡藩招魂社と福岡県招魂場の碑(番号4)福岡招魂社には平野次郎國臣らを合祀。創建後4ヵ月遅れで、真木和泉守他も合祀されたと記されています。215柱。 鳥取藩招魂社(番号5) 鳥取藩士の場合は、幕末の殉難者(11柱)に対し、戊辰戦争での殉難者(76柱)が大半のようです。尚この地に合祀されていない殉難者が計39柱存在するとも記されています。幕末については、三像の梟首事件、本圀寺事件、生野挙兵事件、天誅組大和挙兵事件という名称が列挙されています。 水戸藩招魂社(番号6)水戸藩招魂社の説明には、1785柱が合祀されているそうです。元治甲子の変(1074柱)が最多、その次が越前敦賀の殉難(345柱)とあり、安政の大獄、桜田門外の変、東禅寺の変、坂下門の変、その他での殉難志士も合祀されているとか。この墓域の一番高い所に上って行きます。青い丸印のところです。 ここが木戸孝允とその妻・松子を祀る墓所です。というより、桂小五郎と磯松と言う方がわかりやすいでしょう。 吉田松陰の門下生であり、維新三傑の一人と云われる桂小五郎。幕末動乱を駆け抜け、生き延びて、維新後に陽のあたる道を歩めた人物。幕末の志士としては幸運児です。明治時代に公爵となっただけに、この霊山墓域での墓所も特別立派なもの! 木戸孝允が最晩年に内閣顧問だったというのを、この墓碑名から知った次第。歴史は勝者が書くといわれますが・・・・。この墓域を見ても一側面で通じるものがあるように思います。木戸孝允墓所の参道を水平に墓域の南端まで行くと、「元治元年甲子七月19日戦死者埋骨所」と刻された石碑が建立されています。墓域入口の説明板に「六十七士骨碑」とあるのがこの碑でしょう。元治元年は1864年、7月19日の戦死とは、「禁門の変」での戦死者ということになります。 この桂小五郎の墓所の高みから樹間越しに眺める京都市内の景色 下って行くと、「山口藩招魂社」(番号7)、その左側に「霊山招魂社」(番号8)があります。墓域の配置図では、番号8は「京都招魂社」と記入されています。ちょっと不思議。さらに下ると、黄色の丸印を付けたところにあるのが、安政の大獄に関連した志士の顕彰碑です。 顕彰碑の少し左斜め前方に、小浜藩士・梅田雲濱の墓碑があります。徳川幕府の大老に就任した井伊直弼が、有能な学者などを含め、150余人を捕縛し弾圧します。この時、「鷹司家の小林良典、頼三樹三郎(頼山陽の三男)、吉田松陰なども捕縛されました。この安政の大獄が桜田門外の変に展開していったのです。さらに少し下ると、 吉村寅太郎の墓所(マゼンタ色の丸印の場所)があります。 そこに「天誅組の人々」について説明した駒札が立っています。天誅組は倒幕の急先鋒となった志士の集まりでしたが、短期に壊滅してしています。その近くに、一列に墓碑が並び、「天誅組志士墓所」という石標が傍に立てられています。これで、休憩所の傍まで墓域を巡ってきたことになります。幕末から明治維新にかけての動乱期に活動した勤王側の志士たちの墓が300余建立され、招魂社などの形を含め、1356柱が合祀されているといいます。記録を整理していて気づいたことは、島津・薩摩藩の関係者がここには含まれていないということです。そして思いだしたのが、東福寺にある塔頭・即宗院です。ここが島津家の菩提寺として建立された塔頭である、明治維新に関わり戦死した兵士達のために建立された「東征戦亡之碑」がこの境内の山頂部に建立されているということでした。非公開寺のため、手許の本で知るだけなのですが・・・・。ここに、幕末・明治維新の動乱期、様々な事件や戦いに関与した人々が眠っているのです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『龍馬百話』 宮地佐一郎著 文春文庫 p275-2842) 『坂本龍馬101の謎』 菊池明・伊東成郎・山村竜也共著 p277-3373) 『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』 宮地佐一郎編 PHP文庫 p3594) 『昭和京都名所圖會 洛東 上』 竹村俊則著 駸々堂5) 霊山観音 ホームページ 【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺霊山歴史館 ホームページ中岡慎太郎館 公式サイト中岡慎太郎 :「坂本龍馬人物伝」御陵衛士 :ウィキペディア高台寺塔中月真院 :「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」第60回 安政の大獄と失墜する幕府の権威 日本史 :「裏辺研究所」禁門の変とは :「コトバンク」大村益次郎 :「幕末歴史探訪」大村益次郎 :「歴史群像 学研デジタル歴史館」横井小楠 :ウィキペディア横井小楠 :「熊本歴史・人物 散歩道」梁川星厳 :ウィキペディア梁川星厳記念館 :「四季・コギト・詩集ホームページ」宮部鼎蔵 :ウィキペディア吉田松陰の盟友「宮部鼎蔵」とはどんな人? :「NAVERまとめ」平野国臣 燃ゆるおもひの幕末志士 :「ふくおか先人金印記念館」(第19回「恋歌 -平野国臣とお棹-」) 我が愛すべき幕末 :「敬天愛人」木戸孝允 :ウィキペディア桂小五郎 :「幕末・維新風雲伝」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -1 西本願寺太鼓楼・新選組不動堂村屯所跡 (中屋敷跡)・不動堂・[道祖神社] へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -2 [道祖神社]・伊東甲子太郎殉難の跡・島原(輪違屋・角屋)へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -3 伏見・京橋、寺田屋、「龍馬とお龍」像、九烈士の墓(大黒寺)ほか へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -4 鳥羽・伏見の戦跡地と戊辰戦争関連碑 へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -5 池田屋騒動之址・寓居址(坂本・古高・吉村・武市・桂)・遭難之碑(大村・佐久間)・藩邸之址・桂小五郎像など へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -7 殉難志士墓補遺・翠紅館跡・霊山歴史館 へ探訪 京の幕末動乱ゆかりの地 -8 壬生塚(近藤勇胸像・隊士の墓ほか)・壬生屯所旧跡(八木家)・六角獄舎跡ほか へ
2017.03.26
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[探訪時期:2015年8月]この画像は現在の三条大橋です。川端通側からの写真です。擬宝珠の背景に広がるのは北方向の景色。三条大橋東詰北側に駒札があります。いつこの三条に橋が架けられたのかは不詳ですが、室町時代前期には簡素な橋があったと推定されています。天正18年(1590)に豊臣秀吉の命令で本格的な石橋が建造されました。切石柱が63本と記録されているそうです。そして、ここが東海道53次の西の起点、交通の要衝になります。三条大橋が重要な地点であったのは幕末動乱期も同じでしょう。 西詰北側には、スターバックスの店の傍ですが、「旧三条大橋の石柱」が保存されています。江戸時代にはこの西詰のところに、幕府の決めた法度や掟書が高く掲げられた「高札場(こうさつば)」が設置されていたのです。幕末風雲の時代は、どういう使われ方がされ、勤王の志士たちはそれをどんな風にながめていたのでしょうか? 今回ご紹介する史跡地をマピオンの地図を借用してプロットを付けてみました。 オリジナルの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 三条通を西に進むと、高瀬川に架かる三条小橋のところに、佐久間象山と大村益次郎の名前を併記した「遭難之碑」が建てられています(黒丸のところ)。ちょっと注意すべきなのは、ここが危害に遭遇した場所ではないのです。「北へ約1丁」行ったところに、遭難の碑が建立されているのです。後でまた、とりあげます。 小橋を渡って、数十メートル先、北側に「池田屋騒動之址」の石標(赤丸のところ)が建てられ、駒札に詳しい説明があります。少し通り過ぎて、河原町通の方から眺めると「旅籠茶屋 池田屋」という看板が石標の立つ位置の目印になります。元治元年(1864)4月20日、松原通木屋町で火事が発生。新選組がこの火事現場付近で挙動不審者2名を捕縛。拷問の結果、「8.18政変」で京都を追われた長州系過激派浪士250人ほどが京都に舞い戻ってきていることが判明したとか。山崎・島田らの探索方が動員され、探索過程で、6月5日早朝に古高俊太郎が捕らえられ、壬生の屯所にて凄まじい拷問を受けるのです。最後は絶えきれず、同志の秘策をもらしたと言います。そして池田屋騒動後、六角獄舎で7月20日に斬首されます。一方、古高が捕縛されたことに対する前後策を検討するために、長州系尊攘過激派の同志たちが、三条小橋際の旅館「池田屋」にて会合を開いていたのです。新選組は単独で二手に分かれて、鴨川西岸の河原町通を捜索。近藤の隊が午後10時頃に、池田屋に的を絞り込んだといいます。それは旧暦6月5日「祇園祭宵々山」の日だったのです。小説などには祇園祭宵山と記す創作(誤り)がけっこうあるとか。(資料1,2)この時、新選組は総員で43人と加来耕三氏は記しています。一方、近藤勇自身が池田屋騒動の「3日後の夜に多摩の関係者に宛てて事件の顛末を知らせる書簡19をしたためている」のです(資料3)。それには「折悪敷く、局中病人多にて、僅々三十人」(資料2)と記しているのです。新選組が池田屋に討ち入ることで戦闘になります。「さまざまな史料から、池田屋事件が必ずしも新選組の単独行動ではなく、公武合体派諸勢力の協力のもとで展開されたこと」(資料3)がわかるそうです。一方で「池田屋事件のさいの尊攘激派浪士の動きについて、実はいまだ正確な史料はない」(資料3)とか。存在する史料からは、この戦闘は2時間余りに及んだようです。そして池田屋で討死した志士が7名、手傷を負った者4名、逮捕された者23名です。討死した者は、一説によれば、志士の頭目で肥後の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿・杉山松助、肥後の松田重助、播州の大高又次郎、土州の石川潤次朗・北添佶麻。駒札に記載の広岡浪秀と望月亀弥太は池田屋からは逃れたけれど、広岡は長州屋敷近くで絶命、望月は角倉辺(中京区)で切腹したのです。(資料2,3)池田屋の主人・惣兵衛は投獄され牢内で病死します(駒札より)。池田屋殉難七士の墓は、大和小路三条縄手の三縁寺に設けられました。三縁寺が昭和54年(1979)岩倉花園町に移転するのに伴い、岩倉の新墓地に改葬されています。(資料4)高瀬川沿いに歩いてみます。まず三条小橋から南方向にある史跡です。(上掲地図のA~Bの間です)三条小橋から一つ南に車橋(大黒橋)が架かっています。東詰に「龍馬通」の道路標識が現在はできています。橋を渡り、少し西に入ると、「坂本龍馬寓居之趾」の石標が通りの北側に立っています(紫色の丸のところ)。画像は、享保6年(1721)にこの地で創業した材木商「酢屋」さんの建物です。「酢屋」のホームページはこちらをご覧ください。 建物の軒下に説明板が設置されています。ガラス板で覆われていますので、写真がうまく撮れません。説明板の上半分がこの画像です。酢屋は、坂本龍馬が近江屋で遭難する直前まで身を寄せていたところです。そしてここに海援隊京都本部が置かれていたといいます。現在、「酢屋」の2階には「龍馬ギャラリー」(有料)が開設されています。大黒橋から一つ南の橋が、古溜池橋(材木町橋)で、ここに高瀬川の「五之舟入址」の石標が立っています。材木橋の一つ南が、新溜池橋(山崎町橋)で、こちらには「六之舟入」があったのです。材木町橋(五之舟入)と山崎町橋(六之舟入)との間の西岸に、かつては「彦根藩邸」があったようです。高瀬川には、南の方向へ、上車屋町橋(車屋町橋)、下車屋町橋(南車屋橋)、土佐橋(蛸薬師橋)が架かっています。 「七之舟入址」は蛸薬師橋とその北側の南車屋橋の間 蛸薬師橋上から、高瀬川の南、下流を眺めると西岸が「元・立誠小学校」正門で、その橋が見えます。この学校の建物のあるところ辺りに、「土佐藩邸」があったのです。蛸薬師橋の傍に、「土佐藩邸跡」の石標が建てられています。 脇道に逸れますが、この元・立誠小学校の正門のところに、現在は高瀬川開削を実行した人物・「角倉了以翁顕彰碑」(右)が高瀬船の中に乗った形で建立され、「高瀬川の沿革」説明板も建てられています。高瀬川沿いにさらに下流に歩けば、四条通と川が交差します。四条通と平行し、高瀬川の西岸(右岸)から西に入る一筋北側の通りに、京料理の老舗「志る幸」というお店があります。このお店の傍にあるのが、 「勤王志士 古高俊太郎邸跡」の石標と駒札です。(英字Bの傍のマゼンダ色の丸のところ)このあたり、当時は四条小橋西入ル真町(しんちょう)と呼ばれていたようですが、駒札に記載のように、古高は枡屋喜右衛門と称して、表向きは薪炭商を営んでいたのです。国学と和歌を公家の烏丸光徳に学び、井伊直弼の安政の大獄で逮捕され獄死した儒学者・梅田雲浜(うんぴん)の門人でもあり、正統な尊王家だったのです。近江出身です。(資料1,3)「新選組が枡屋を調べると、菰に包んだ木砲が四、五挺、小石鉛玉を取り交ぜ樽に詰めた分、具足が十領ほど、竹に詰めた火薬が大小数本、会津の印のある提灯が数個、さらに密書が多数発見された」(資料3)のです。密書から尊攘激派の計画が判明したと言います。さて、高瀬川に架かる三条小橋から、北方向に歩いてみましょう。地図に追記したA~Cの区間です。上掲の遭難碑の示す地点までにも、いくつか幕末関連の史跡があります。三条小橋から一つ北側に納屋橋(恵比須橋)が架かっています。この近く、高瀬川東岸側のビルの前です。 石標が植栽の陰になっていますが、「吉村寅太郎之寓居跡」です。(緑色の丸のところ) 土佐の庄屋の息子に産まれた吉村寅太郎は、武市瑞山(半平太)の教えを受け土佐勤王党に加わり、文久2年(1862)に土佐を出奔し、薩摩の有馬新七らの尊皇攘夷活動に加わります。この年6月の島津久光の命で起こった寺田屋事件の際、捕らえられて土佐に送還されます。しかし翌年3月再度上洛し、このあたりに仮住まいをしたそうです。同年8月に、攘夷派公家・中山忠光を盟主とし、備前の藤本鉄石らと「天誅組」を結成します。各藩の志士39人が集結したそうです。天誅組は大和五条(現奈良県五條市)を朝廷領として倒幕の狼煙を上げようと、大和五条の幕府代官所を襲撃、占領するのです。ところが、京都では「8.18政変」が起こり、事態は一変します。そして、天誅組は討伐の対象になります。十津川郷士の助力を求め、十津川に退き、高取城を攻めるも敗走。9月27日、東吉野の鷲家口で戦死するのです。吉村寅太郎享年27歳。藤本鉄石は9月25日に戦死しています。享年48歳。(駒札、資料5,6)盟主に担がれた中山忠光は、8.18政変後、追討されるようになり、9月19日に天誅組の解散を命じます。後、大坂に脱出。長州に逃れ、長州藩を介し支藩の長府藩に保護されます。しかし、情勢激変の中で藩内俗論派が台頭する状況となり、刺客により暗殺されたそうです。享年20歳。(資料7,8)また、吉村寅太郎寓居の跡の石標のすぐ傍に、「武市瑞山先生寓居之跡」という石標が立っています(緑色の丸のところ)。吉村寅太郎の師である武市瑞山がこの辺りに住んでいたのです。瑞山というより、武市半平太の通称の方が、世に親炙していると思います。「土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功し」、一時期は藩論を主導、京都での尊皇攘夷運動の中心的役割を担います。武市半平太が入洛したのは、文久2年(1862)8月、参勤交代にともなう藩主山内豊範の江戸へ東下の時のようです。この時、国事周旋活動のために、土佐藩邸を離れて、この辺りに寓居を構えたのです。しかし、翌年「8.18政変」による政局一変の折、前藩主・山内容堂により投獄された、1年9ヵ月後に切腹して果てます。享年37歳。(資料9)この半平太と福岡藩士月形洗蔵の二人をモデルとして、行友李風が戯曲『月形半平太』を創作しました。 雛菊「月様、雨が…」 月形「春雨じゃ、濡れてまいろう」 というセリフがあまりにも有名です。幕末維新ものの嚆矢ともいえる、この戯曲の上演・映画化などで、月形半平太の名前を知った人が多いはずです。はや時代は変わっているか・・・・・(資料10)余談ですが、この辺りが「ちりめん洋服発祥の地」であることをこの探訪を意識的にしてみて、初めて知った次第です。ここの通りも数え切れない程いままでに歩いているのに・・・・・。 高瀬川沿いに、さらに北上すると、御池通と交差します。「塗師屋橋(御池橋)」東詰・南側には「加賀藩邸」があったのです。この御池橋の一つ南に、かつては「加賀橋」があったそうですが、今はありません。今はそのあたりに、 「三之船入跡」の石標が立っています。そして、この三之船入を挟んで、南隣りに対州屋敷があったのです 先日(2017.3.22)木屋町通を歩いてみて、高瀬川に架かる「姉小路橋(あねやこうじばし)」の西詰に、「徳川時代対馬宗氏屋敷跡」の石標が立っているのを見つけました。その傍に、詳しい説明板も設置されています。石標の側面に、「附(つけたり) 桂小五郎寓居跡」と記されているのは、「幕末期、対馬宗氏は長州毛利氏の縁戚でしたので、・・・・その家臣であった大島友之允は、毛利家臣の桂小五郎と親しく、そのためか桂小五郎は対馬屋敷を居所のひとつとしました」(説明板より)とのことで、「つけたり」として側面に記されているという次第です。余談ですが、説明板には、括弧書きで、大島友之允(とものじょう)が映画監督として有名だった故大島渚の曾祖父にあたることにも触れています。 御池通を横切り、さらに少し北に上がると、「二之船入跡」の石標が立っています。その近く、高瀬川東岸の少し高く石垣が積まれた上に「佐久間象山・大村益次郎遭難之碑」が建立されています。(英字Cの傍の茶色の丸のところ) 2つの碑が並んでいます。左が大村益次郎、右が佐久間象山です。これらの画像は、先日再訪して改めて撮ってきました(2017.3.22)。当初の画像が夕刻のもので分かりづらい画像だったのです。佐久間象山は、元治元年(1864)7月21日に、木屋町通りを馬に乗り通りかかったところを刺客に襲われ斬殺されます。象山は開国論を唱え、この上洛の時は公武合体策を進めていたそうです。池田屋事件の後であり、攘夷派がいきりたっている状況だったのです。享年54歳。(資料11)坂本龍馬は、西洋砲術修行のために佐久間象山の門をたたき、嘉永6年(1853)12月1日に入門を許可されています。このとき、龍馬を含めると21人の土佐藩士が象山に入門していたそうです。あの吉田松陰も先立つこと2年余、嘉永4年7月20日、正式に象山の許に入門しています。(資料12)大村益次郎は、高杉晋作が奇兵隊を創設したとき、西洋兵学の立場から指導し、実戦の指揮をとっていきます。そして官軍の指揮を執る立場になっていきます。大村益次郎は、新政府において、兵部大輔として近代兵制確立につとめたのです。明治2年9月4日、木屋町通にある旅館で会食中に刺客に襲われ重傷を負い、大阪で入院しますが、11月5日に死去します。享年46歳。(資料13)両名の遭難碑が建立されているところへのもう一つの目印が、木屋町通を挟んで東側正面の建物・その南隣の「磯松」です。この「磯松」は、「幕末の頃倒幕運動に大きな役割を果たした維新の三傑の一人である桂小五郎(のち木戸孝允)と三本木の芸妓幾松(のちの松子夫人)の木屋町寓居跡です」(資料14)。ここもまた幕末動乱期に連なる史跡でもあります。ビルの右側の通路の見えるところが幾松の入口。 高瀬川「一之舩入」 高瀬川の北端部分です。 桂小五郎磯松寓居跡から少し北ですが、「一之船入」に近いところ、木屋町通の東側に「兵部大輔従三位大村益次郎遺址」の石標が立っています。(2017.3.22)また、大村益次郎と佐久間象山が遭難した場所の西方向に、現在京都ホテルオークラがあります。この辺りに長州藩屋敷があったのです。河原町通に面し、ホテルの建物の北側に、この桂小五郎像があります。最近知ったので、確認に行きました。補足します。(2017.3.22)傍の説明板には、「長州屋敷跡の当所にその像を建立し、事績を顕彰する」と記してあります。 同ホテル建物の南側面にこの石標と説明銘板が設置されています。こちらの石標の所在を失念しており、改めて再確認に行きましたので追補します。(2017.3.29)今回は、高瀬川沿いに京の幕末動乱におけるゆかりの地を歩いてみました。まだ見落としている史跡碑や石標があるかも知れません。余談として、もう一つの史跡に触れておきましょう。三条大橋東詰にある大きな侍が跪く像です。周りの景色が変わっても、この像は学生時代に初めて見て以来、ずっと変わらずここにこうしてあります。 「高山彦九郎皇居望拝之像」です(英字Aの右斜め、空色の丸のところ)。明治維新(1868)を遡ることおよそ70~100年前に生きた武士です。勤皇の志士たちが心の鑑として仰いだ存在と言います。現在の像は二代目(1961年再建)で、元々の位置からは少し移されているようです。(資料15)ご一読、ありがとうございます。参照資料1) 『徹底検証 新撰組の謎』 加来耕三著 講談社文庫 p251-2582) 『新選組三部作 新選組始末記』 子母澤寬著 中公文庫 p150-1793) 『新選組 「最後の武士」の実像』 大石学著 中公新書 p101-1234) 三縁寺(左京区) :「京都風光」5) 吉村虎太郎 :ウィキペディア6) 藤本鉄石 :ウィキペディア7) 中山忠光 :ウィキペディア8) 中山忠光 :「歴史人」9) 武市瑞山 :ウィキペディア10) 『月形半平太』 :ウィキペディア11) 佐久間象山 :ウィキペディア12) 『坂本龍馬101の謎』 菊池・伊東・山村共著 新人物文庫 p51-57 13) 大村益次郎 :「コトバンク」14) 上木屋町 幾松 歴史 :「上木屋町料亭 磯松」HP15) 【高山彦九郎像】土下座じゃない 拝礼だ :「朝日新聞DIGITAL」【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺梅田雲浜 :ウィキペディア梅田雲浜 :「幕末ガイド」天誅組・吉村寅太郎 :「奈良ふしぎ歴史徹底攻略」天誅組・吉村寅太郎の墓 :「じゃらんnet」月形半平太 :ウィキペディア月形洗蔵 :ウィキペディア大村益次郎 :ウィキペディア佐久間象山宅跡 :「真田宝物館」[関西歴史事件簿] 半沢も唖然「土下座さん」高山彦九郎の〝奇人変人ぶり〟…墓を300回鞭打ち「尊氏」への異様な〝憎悪〟 :「産経WEST」京都新聞に掲載されました。対馬屋敷跡碑除幕式 :「歴史と地理な日々(新版)」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -1 西本願寺太鼓楼・新選組不動堂村屯所跡 (中屋敷跡)・不動堂・[道祖神社] へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -2 [道祖神社]・伊東甲子太郎殉難の跡・島原(輪違屋・角屋)へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -3 伏見・京橋、寺田屋、「龍馬とお龍」像、九烈士の墓(大黒寺)ほか へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -4 鳥羽・伏見の戦跡地と戊辰戦争関連碑 へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -6 坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像と墓、御陵衛士屯所跡、桂小五郎(木戸孝允)の墓ほか へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -7 殉難志士墓補遺・翠紅館跡・霊山歴史館 へ探訪 京の幕末動乱ゆかりの地 -8 壬生塚(近藤勇胸像・隊士の墓ほか)・壬生屯所旧跡(八木家)・六角獄舎跡ほか へ
2017.03.26
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[探訪時期:2014年4月ほか]坂本龍馬が「寺田屋遭難」で危地を脱し、また九州への新婚旅行の出発に縁があった「京橋」はそれから2年後、再び歴史の場に記録を残す場所となります。京橋の景色の切り取り方を変えてみますと、京橋北詰の南浜岸に降りる階段の北側に石標が立っています。 「伏見口の戦い激戦地跡」の石標と説明板 慶応4年(1868)1月に、「鳥羽・伏見の戦」が始まります。その「伏見口」での戦いが京橋付近となったのです。寺田屋は京橋から50mほど南浜を東に行ったところです。この地の激戦の影響を受け、寺田屋も被災・焼失の憂き目に遭ったのです。「鳥羽・伏見の戦」が「戊辰(ぼしん)戦争」と後に総称される官軍と幕府軍の戦いの皮切りとなるのです。この戦いは関東に及び「上野の彰義隊」「会津戦争」を経て、明治2年(1869)5月、北海道函館「五稜郭の戦」で終結するに至ります。そこで、鳥羽・伏見の戦いが始まる経緯と戦跡の関係です。慶応4年(1868)1月2日、大坂城に居た徳川慶喜は「討薩の表」を作成し、朝廷に提出することと、諸藩に挙兵・参加を訴え、在坂兵力の内、1万6000余を幕府直属軍として京都に進発させたのです。諸藩・諸隊の連合軍は7,300余だったとか。総勢23,400という人数が集結するのです。諸隊の中には、新選組も入っています。説明板によれば、会津藩の先鋒隊約200名は、大坂から船でここ、伏見京橋に上陸したそうです。この先鋒隊は、2日の夕刻に、東本願寺伏見別院(伏見区大坂町)を宿陣とします。「伏見御堂」と呼ばれていたお寺です。 現在、この伏見別院の山門前に、「会津藩駐屯地跡(伏見御堂)」の石標と説明板が設置されています。幕府軍総督の大河内正質(おおこうちまさただ)は淀城に入り、陸軍奉行・竹中重固(しげかた)が率いる本隊は、伏見街道を北進し、「伏見奉行所」を3日に本陣とします。陸軍奉行並・大久保忠恕(ただくみ)の率いる隊は、鳥羽街道を北進したのです。(資料1) 伏見奉行所があった場所は、現在は桃陵団地(伏見区西奉行町)となっています。西奉行町の西隣が奉行前町で、その西が「京町通」となります。京町通は本町通に繋がっていき京都に入る幹線道路のひとつです。団地の入口に、「伏見奉行所跡」の石標と塀の一部が再現されています。 第二次世界大戦以前は、この場所は「伏見工兵第十六大隊」として使われていた土地です。一方、幕末時点に伏見には、諸藩の藩邸がありました。 寺田屋に近い場所、同じ南浜町に「伏見土佐藩邸」 一方、京橋を南に渡り、竹田街道を少し南に下ったところに、「伏見長州藩邸」があったのです。 また、伏見薩摩藩邸は、伏見区東堺町に所在していました。大手筋通の北にある下板橋通を西に行き、濠川に架かる「下板橋」を渡ったところです。濠川は豊臣秀吉が伏見城を築城したときに外堀(濠川)を開削したのがもとになっているのです。そして、明治以降に琵琶湖疎水ができた後、その琵琶湖疎水がこの濠川に流れ込む水系が作られたのです。伏見薩摩藩邸まで、寺田屋からは1kmほどの距離になるようです。 この伏見口の戦いにおいて、薩長連合軍は御香宮神社に移動し、ここを拠点とします。 御香宮神社の境内に「明治維新 伏見の戦跡」碑が建立されています。薩長連合軍は、御香宮と桃山に大砲を据えて戦いに臨んだのです。幕府側の総動員数に比して、この時点での薩長連合軍は総兵で6,000人の規模だったようです。Mapionの地図を切り出して借用し、位置関係をプロットしてみました。 緑色の丸は、伏見口の激戦地跡の石標が設置された京橋 赤色の丸は、幕府軍陸軍奉行が本陣を置いた伏見奉行所 青色の丸は、薩長連合軍が伏見の戦いで拠点とした御香宮神社 マゼンタ色の丸は、会津藩の先鋒隊が駐屯した伏見御堂 茶色の漢字で「土」の場所が、伏見土佐藩邸のあったところ 茶色の漢字で「長」の場所が、伏見薩摩藩邸のあったところ伏見薩摩藩邸は、この地図では、緑色の丸・京橋からは北北西の方向で地図の外です。伏見での戦いが如何に接近戦だったかがわかります。だからこそ、短期決戦という形になったのでしょう。下鳥羽から鴨川沿いに北上している鳥羽街道は城南宮道と交差します。この交差点の南東角が現在は「離宮跡公園」として整備されています。鳥羽離宮跡です。城南宮道を東に進むと、「城南宮」です。これは現在の鴨川に架かる「小枝橋」です。鳥羽街道を北上し京都に入ろうとする幕府軍には重要な渡河点の一つです。この小枝の地が「鳥羽・伏見の戦い」の勃発地になったのです。「離宮跡公園」の北西角、つまり交差点側に近い位置に、「秋の山」と呼ばれる小丘があります。 その「秋の山」の上に、 「鳥羽伏見戦跡碑」があります。戊辰戦争の発端となったこの激戦地を記念して、「明治45年(1912)2月、有志の人々によって建立されたもので、小牧昌業の撰文、小田得多の筆」によるものです。(資料2) この秋の山の裾に、「鳥羽・伏見方面戦闘図」と説明碑が設置されています。 戦闘図をさらに切り出して、拡大してみます。この図によれば、鳥羽街道を幕府軍主力がまず2,000名ほどで北上して行ったようです。城南宮に立つ駒札によりますと、1月3日に幕府軍は「城南宮から南南西500mの地点に達し、入京を阻止する薩摩軍と長時間対峙した」のです。朝廷側の薩摩・長州・土佐等諸藩の兵は、「鳥羽では城南宮から鳥羽街道の小枝橋に至る参道に」陣を構えたのです。 薩長連合軍は、「城南宮」を拠点にします。城南宮の鳥居近くに建てられている駒札 1月3日の「夕闇が迫り強行突破の構えを見せるや、城南宮の参道に置かれた薩摩軍の大砲が轟き」(駒札より)、開戦となったのです。鳥羽街道での一発の砲声が、伏見の戦いの始まりとなり、薩長連合軍の御香宮と桃山の台地に配置された大砲が一斉に轟きだしたそうです。台地に布いた砲兵陣地を指揮したのが大山弥助(後の元帥・大山巌)です。(駒札より)戦闘図によると、伏見では、薩摩藩800名、長州藩125名、土佐藩100名の1000名強の人数で、幕府直轄軍・会津藩兵・新選組と戦闘したことになります。薩長連合軍は人数においては幕府軍に圧倒的に劣るものの、大砲等の火力においては優位に立っていて、その違いが決定打になったようです。余談ですが、司馬遼太郎の短編小説『アームストロング砲』には、こんなことが書かれています。*鳥羽・伏見の戦いに佐賀藩は参加していなかったが、当時日本最大の洋式軍隊をもっていたのは佐賀藩だったこと。*薩英戦争のおり、英国が初めて艦載のアームストロング砲を使用した。その威力は驚嘆すべきもだったが、まだ大砲自体にひびが入り破裂するという欠陥が露呈した。*佐賀藩はアームストロング砲を三門購入し、その後自藩内で砲の研究と製造を始めた。試作砲を完成し、試射には成功したが砲身は破裂。発射薬の少なめの砲の製造は開始。*佐賀藩は、英国製アームストロング砲二門を江戸の上野山の彰義隊との戦いでは官軍総督府の命令で使用した。砲二門それぞれ6弾ずつ撃ったとき、彰義隊は壊滅した。この鳥羽・伏見の戦いで3日の夕刻に、1発目の砲声を轟かした薩摩藩の大砲は、アームストロング砲だったのでしょうか? 上掲の説明碑にはアームストロング砲が使用されたと記されています。薩摩藩は、「春日」と命名された蒸気外輪船・仮装軍監を「慶応三(1867)年11月3日、グラバー商会の仲介を経て薩摩藩兵賦役兼船奉行の松方正義が急遽購入した」といいます。この船の備砲の一つには「6斤アームストロング砲」が艦載されてはいたようですが・・・。調べた範囲ではアームストロング砲だったという傍証を今のところ私は得られませんでした。こだわりの課題が残りました。(資料3)4日の早朝に、薩長連合軍は、「仁和寺宮嘉彰親王を征夷大将軍とし、幼帝(明治天皇)より”錦旗”を下させ、併せて、”節刀”を賜るという演出をやってのけた」ことで、薩長連合軍が「官軍」に転換するのです。つまり、3日の夕刻に戦端が開かれた時点では、薩長連合の私軍であったものが、一夜にして官軍となったのです。幕府軍は国賊視される立場に貶められます。戦闘意欲が萎縮することにもなります。戦いが一進一退の状況の中で、幕府軍は淀城へ後退して、態勢の立て直しを考えたのです。ところが、淀藩は幕府軍の入場を拒むという挙に出たのです。山崎にいて傾城を傍観していた津藩(藤堂家)は淀藩の寝返りを知り、また朝廷からの下命をうけたとして、幕府軍に側面攻撃を仕掛ける立場を取ったようです。そのため幕府軍は総崩れとなり、大阪城に敗走するという結果になります。(資料1)官軍となった薩長連合軍は、追撃する立場になるのです。鳥羽街道沿いに南に進みます。 鴨川が桂川に合流する辺りに「一念寺」というお寺があります。そこに至る少し手前、下鳥羽の地域ですが、道路沿いに大きい屋敷構えの表門が見え、その傍の築地塀前に「鳥羽伏見戦跡」の碑が設けられています。 堤防上から鴨川の北方向の眺め横大路を経て、納所の地域に入り納所中河原あたりだったと思うのですが、堤防沿いで見かけた供養碑。「戊辰役各軍戦死者埋葬骨地」と刻されているように読み取れます。誤読しているかも知れませんが・・・・。薩長連合軍(官軍)、幕府軍に拘わらず後退する幕府軍と追撃する官軍との戦いに中で死んで行った兵達は、どちらの軍とも判然としないままうち捨てられた屍が一緒にここで埋骨されたのでしょう。ぽつねんとこの石碑が建てられています。伏見区納所北城堀には、現在「妙教寺」というお寺が所在します。そこは「淀古城址」といわれる場所です。木津・桂・宇治の三川が合流するポイントの北岸になり、「淀殿」が住んでいたのがこのあたりにあった淀古城だったそうです。(資料4)この寺には以前に歴史探訪の講座で訪れています。この妙教寺は淀古城の南端あたりになるようです。その時に、戊辰戦争絡みのことも知ったのです。ここで、この講座の探訪での記録写真を併載しています。境内にあるこの史跡説明碑にご注目ください。「淀古城址」の説明の左に刻された部分です。「戊辰役砲弾貫通跡」と記されています。4日にここの本堂内陣に砲弾が屋根を貫通して飛び込んだそうです。5日には淀で激戦が行われ、幕府軍は八幡方面に敗走していくのです。お寺にはそのときの砲弾が保存されているといいます。南に下るのはこのあたりで終わりにします。伏見区から、再び北に目を転じていきたいと思います。つづく参照資料1) 『<徹底検証> 新撰組の謎』 加来耕三著 講談社文庫2) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂3) 春日丸【薩摩藩 仮装軍艦 幕末軍艦】 :「日本の歴史ガイド」4) 淀古城 :ウィキペディア【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺会津藩駐屯地跡 HU157 :「フィールド・ミュージアム京都」伏見土佐藩邸跡 HU157 :「フィールド・ミュージアム京都」伏見薩摩藩邸跡 :「幕末トラベラーズ/地図と写真で見る幕末の史跡」淀古城址・戊辰戦争砲弾跡 HU131 :「フィールド・ミュージアム京都」【鳥羽・伏見の戦い~戊辰戦争へ・・・江戸幕府の壊滅~明治維新】 :「伏水物語」 鳥羽・伏見の戦いについては、絵図を交えて、詳細な説明がなされています。 大変、参考になるページです。鳥羽伏見の戦い 簡略地図 :「歴声庵」アームストロング砲 :ウィキペディア薩英戦争 :ウィキペディア伏見区 掲載写真一覧 :「写真で見る近代京都の歴史~GREENの部屋~」 16師団と工兵第16大隊関係など多数 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -1 西本願寺太鼓楼・新選組不動堂村屯所跡 (中屋敷跡)・不動堂・[道祖神社] へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -2 [道祖神社]・伊東甲子太郎殉難の跡・島原(輪違屋・角屋)へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -3 伏見・京橋、寺田屋、「龍馬とお龍」像、九烈士の墓(大黒寺)ほか へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -5 池田屋騒動之址・寓居址(坂本・古高・吉村・武市・桂)・遭難之碑(大村・佐久間)・藩邸之址・桂小五郎像など へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -6 坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像と墓、御陵衛士屯所跡、桂小五郎(木戸孝允)の墓ほか へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -7 殉難志士墓補遺・翠紅館跡・霊山歴史館 へ探訪 京の幕末動乱ゆかりの地 -8 壬生塚(近藤勇胸像・隊士の墓ほか)・壬生屯所旧跡(八木家)・六角獄舎跡ほか へ
2017.03.25
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[探訪時期:2014年4月]これは、京都・伏見、竹田街道の宇治川派流に架かる「京橋」(現在は長さ約40m)です。川幅は昭和5年(1930)の一部埋め立てで狭くなったそうです。現在の橋は大正3年(1914)に架けられた鉄骨製の橋(資料1)。 江戸時代に出版された『都名所図会』に載っている「伏見船場」の図を引用させていただきました。一度ご紹介しています。中央の橋が京橋で、橋は南北方向に架かっています。図の左側が南詰(北浜)、右側が北詰(南浜)です。(資料2)また、歌川国員が「都百景」の一つとして、「伏見京橋」を異なる位置から描いた浮世絵もあります。こちらのデータベースをご覧ください。 (ARC、立命館大学)手許の文庫本を読むと、「京橋の辺(ほとり)」の項として、「大坂より河瀬を引き登る舟着(ふなつき)にて、夜の舟・昼の舟、あるは都に通ふ高瀬舟、宇治川くだる柴舟、かずかずこぞりてかまびすく、川辺の家には旅客をとどめ、驚忽なる声を出して饗応(もてな)しけるも、この所の風儀なるべし」と記しています。(資料3)江戸時代には、京と大坂を淀川を使って水上交通で結ぶ極めて重要な発着所となったのです。この京橋で上陸し、伏見・藤森あるいは山科へて、京へ、東海道への陸路を行ったのです。幕末動乱に関わる「京橋」は別稿でご紹介します。このあたりの現在の地図(Mapion)は、こちらをご覧ください。この京橋・北詰から東畔を少し行くと、「寺田屋」です。伏見区南浜町に所在します。 寺田屋表の軒先に、「旅籠」と記した軒行灯が掲げてあります。幕末動乱期の史蹟としては、主として2つの理由から特に有名なところです。 その一つは、龍馬の「寺田屋遭難」です。坂本龍馬がこの寺田屋を隠れ家(定宿)としてしばしば利用していました。慶応2年(1866)1月22日に薩長同盟を締結させた龍馬が23日夜に、寺田屋に帰着し、長州藩士の三吉慎蔵と祝宴後、入浴を済ませ、就寝しようとしていたところを、伏見奉行所の幕吏たちに襲撃されるのです。このとき、寺田屋の女将とせの機転と、お龍が龍馬に襲撃を知らせたことで、捕り方に対し、高杉晋作から贈られた6連発の短銃スミス&ウエッソンを発砲し、危うく難を逃れたといいます。「当事者であるお龍は、自身の談話『千里駒後日譚』で、入浴中に風呂の外から槍で突かれそうになったため、捕方の潜入を知り、『濡れ肌に袷(あわせ)を一枚引っかけ』て裸足で二階の龍馬らに通報した、とする」(資料4)そうですが、一説には裸体のままでとも・・・。そんな談話も残っているようです。(資料1,4,5) もう一つは、「寺田屋騒動」です。遡ること4年前、文久2年(1862)4月23日、急進過激派の薩摩藩士有馬新七ら三十余人が、藩主の東上の機会に公武合体派の要人たちの殺害計画のために、寺田屋に集まります。それを知った藩主島津久光は奈良林喜八郎ら8人に命じ、謀を思いとどまるよう説得させようとします。しかし、乱闘となって有馬新七ら6人が斬殺され、2人が重傷後に切腹して果てるという結果となるのです。薩摩藩内の穏健派と急進派の内訌事件です。寺田屋では、「この事件以後、毎月23日に伏見薩摩藩邸留守居役らを招いて弔祭を行っていた」(資料4)といいます。(資料1,4)寺田屋の玄関横には、「伏見寺田屋殉難九烈士之碑」という石標と駒札が建てられています。 寺田屋の建物の東側には細長い空間があります。 一番奧の北端にあるのが「寺田屋騒動記念碑」。その右斜め前に、坂本龍馬の小ぶりな銅像が建てられています。 さらに東側手前には、維新当時の井戸があります。その手前に、寺田屋の由来碑が建てられています。 そして、その南隣りに斜めに寝た形になっている顕彰碑があります。「贈正四位坂本龍馬君忠魂碑」と上辺に陽刻されている碑です。 朱色鳥居の立つ小社が祀られ、「お登勢明神由来がき」という駒札があり、またその背後には、 阿弥陀如来立像も祀られています。寺田屋の女将とせは、百年祭を記念に神としてまつられることになったようです。龍馬とお龍さんはどう思っていることでしょう・・・・。 春雨や寺田屋を見に廻り道 秋海棠 寺田屋の哀史を今に秋すだれ 堀内律子 (結社「初花」主宰) 寺田屋も酒蔵も古り柳散る 井上 幸 十薬や寺田屋裏に易者すむ 田下宮子 (ふるさと大歳時記・角川書店) 寺田屋の五月の畳うらばしご 井上美智子(俳句歳時記 玄鳥)寺田屋の建物も幕末動乱の影響はまぬがれることができませんでした。1868年の鳥羽伏見の戦のおりに焼失し、現在の建物はその後再建されたものだそうです(資料6)。当時の建物の西隣に再建されたものと言います。 京橋の橋上から北浜の眺め 曲線を描く石垣の中間辺り、四阿の建物の傍に立つのは「龍馬とお龍、愛の旅路」像。平成23年(2011)9月に建立されたもの。これも、坂本龍馬ブームのなせる結果でしょうか。寺田屋襲撃の危地を脱した龍馬と三吉は伏見の薩摩藩邸に逃げ込み、1月30日まで藩邸に保護されたそうです。お龍は薩摩藩邸に龍馬の危急を知らせ、駆け込んでいたのです。その後、二本松の薩摩藩邸に移動し、龍馬は翌2月薩摩藩邸で療養生活を送るのです。そして2月29日に伏見藩邸に移動し、翌3月1日に大坂に下り、4日に薩摩藩船・三邦丸で鹿児島に出発したのです。この旅が、龍馬とお龍の新婚旅行、つまり「愛の旅路」になります。大坂に向かったのもここ京橋です。(資料4,5)寺田屋遭難の時、龍馬は両手指に刀傷を負うのです。この時の負傷について、龍馬は手紙に記しています。(資料7)*慶応2年2月6日 木戸孝允あて 此時初三発致し候時、ピストールを持し手を切られ候得ども浅手ニて候。其ひをニ隣家の家をたたき破り、うしろの町に出候て、薩摩の伏水屋鋪に引取申候。・・・・*慶応2年12月4日 坂本権平、一同あて 敵壱人障子の蔭より進ミ来り、脇指を以て私の右の大指の本をそぎ左の大指の節を切割、左の人指の本の骨節を切たり。元より浅手なれバ其者に銃をさし向しに、手早く又障子の蔭にかけ入りたり。・・・・・ 扨(さて)彼指の疵ハ浅手なれども動脉(どうみゃく)とやらにて翼(ママ)日も血が走り止す、三日計も小用に参ると、目舞(ママ)致候。・・・・ 疵ハ六十日計り致し能く直りたり。左の大指ハ元の如し、人指は疵口よくつげて只思ふ様に叶ぬと申斗りにて、外見苦しき事なし。右の大指のわた持をそがれしハ一番よく直りたり。右の高指の先きの節、少々疵つけども直様(すぐさま)治りたり。一方、慶応2年12月4日付けの坂本乙女あて書簡では、お龍のことについて書き送っています。「おとめさんにさし上る。兼而(かねて)申上妻龍女ハ、望月亀弥太が戦死の時のなんにもあい候もの、・・・」という書き出しで、お龍と12歳の妹・きみへ、9歳の弟・太一郎を引き取り、妹と弟は摂州神戸海軍所の勝安房(=海舟)に頼み、お龍を寺田屋の女将おとせに頼んだという経緯を記したあと、次のように記しています。 此龍女がおれバこそ、龍馬の命ハたすかりたり。京のやしきニ引取て後ハ小松、西郷などにも申、私妻と為知(しらせ)候。・・・・ 京師柳馬場三条下る所、 楢崎将作 死後五年トナル。 右妻存命 私妻ハ則、将作女也。 今年廿六歳、父母の付たる名龍、私が又鞆(トモ)とあらたむ。 ・・・・・・その後、九州の旅行の近況を述べています。 こちらは像の立つ北浜側からの京橋北詰の景色と宇治川派流の東方向の眺めです。 京橋から西浜の方向に進み、濠川沿いに北上すると、大手橋の西詰・北側に、この石標と説明版があります。大手橋は大手筋通を西にきたときに、濠川に架かる橋です。坂本龍馬と三吉慎蔵は、捕り方から逃げる時に、途中で材木小屋に一時避難したそうです。この石標が立つ地点から南東に約50m行った対岸あたりだそうです。距離的にこのあたりかと思えるところまで、行ってはみましたが・・・・たしか何も表示はなかったように記憶します。ちょっと不確かですが。「負傷した龍馬を肩に掛け、裏口の物置を抜けて、隣家の戸を破り小路に出て逃走した三吉は途中の寺に探索者がいるのに気付き、方向転換して川越の材木小屋を見つけて秘かに忍び込み、龍馬をその小屋に置いて、豪川沿いの伏見薩摩藩邸に駆け込みました」(説明板より) 寺田屋近くの景色これは寺田屋の前の道を東方向に歩いた突き当たりの景色。突き当たりの南北の通りが現在の南浜町の東端となっています。このあたりの酒蔵は「月桂冠」に関連したところです。建物の情緒があって好きな景色の一つです。余談ですが、その突き当たりを右折し、南に行けば「月桂冠大蔵記念館」があります。一方、寺田屋の前の通りを東に行き、最初の辻で左折して北に一筋上がり、そこを右折すると、「黄桜記念館」があります。「寺田屋騒動」についても触れておきましょう。それは、西郷隆盛が建てたとされる九烈士の墓です。 真言宗大黒寺というお寺に墓碑が建立されています。現在は、円通山と号する単立寺院のようです。 「伏見寺田屋殉難九烈士之墓」一列に並ぶ墓碑の奥側手前に、歳月を経た石標が建てられています。名前を刻した墓石は新たなものに代替されていました。なぜこのお寺なのか? はじめは真如法親王の開基と伝えられ、長福寺と称した寺だったそうです。「元和元年(1615)薩摩藩主島津義弘の懇望によって同所の祈願所とし、本堂に安置する本尊大黒天像(江戸)に因んで大黒寺とあらためた」のだとか。一般には「薩摩寺」と呼ばれていたと言います。(資料1)つまり、薩摩藩と関係が深いお寺だったのです。尚、薩摩藩の菩提寺は東福寺にある即宗院なのですが、この九烈士は騒動の時点では、藩主に反逆する徒党とみなされたので、即宗院に葬られることはなかったのだとか。有馬新七・柴山愛次郎・橋口壮介・西田直五郎・弟子丸龍助・橋口伝蔵が騒動の中で死亡、田中謙助・森山新五左衛門は重傷を負い、後に切腹。この8人に対し、もう1名が別に切腹しているのです。「京都藩邸で療養中の薩摩藩士山本四郎(義徳)もこれに加わるところであったので、帰藩謹慎が命じられた。しかし彼はこれをよしせず、服さなかったので切腹させられた」ということのようです。一方、藩主の命を受けて、説得に寺田屋に赴いた側はどうだったのか? 重傷1名、軽傷4名、無傷3名で、1名道島五郎兵衛が死亡だったようです。道島五郎兵衛は即宗院に葬られたといいます。(資料8,9)尚、西郷隆盛は、鳥羽伏見の戦いの戦死者524霊を弔うための「東征戦亡の碑」を明治2年に即宗院に建立しています。(資料10) 大黒寺の本堂本尊は出世大黒天(秘仏)で、金張のお厨子の中に安置されているそうです。 本堂の傍の地蔵菩薩像 境内に湧く「金運清水」、大黒天に毎月1日に供えられる霊験あらたかな水といわれているとか。 平成13年(2001)に井戸が新しく掘られたのです。次回、京橋関連の再説から始めます。 つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p1162) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館) 巻5・前朱雀 41コマ目3) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p94-964) 『坂本龍馬 101の謎』 菊池・伊東・山村共著 新人物文庫 p177-1925) 『龍馬「伝説」の誕生 進化する英雄像』 菊池 明著 新人物文庫 p190-2366) 寺田屋 :「京都観光Navi」7) 『龍馬の手紙 坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草』 宮地佐一郎著 PHP文庫 p160、p199-2058) 寺田屋事件 :ウィキペディア9) 『維新勤王志士活躍史. 上巻』上田景二 著 ;「国立国会図書館デジタルコレクション」 435コマ中の222コマ目から10) 西郷南洲隆盛 :「臥雲山即宗院」ホームページ 【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺京橋 「都百景」 :「名所画像データベース」伏見の京橋 「都名所手引案内」 :「名所画像データベース」伏見について :「京都伏見観光連携協議会」伏見の酒について :「伏見酒造組合」 このページに、”幕末の伏見京橋(「澱川両岸一覧」、1861)”の絵の掲載あり伏見の御香水 :「水 まる分かり情報サイト」伏見の七名水・・・・「七つ井」 :「伏水物語」楢崎龍 :ウィキペディア坂本龍馬の妻 お龍さんの墓 :「ここはヨコスカ」坂本龍馬の妻「お龍」の墓 :「My Sketchbook」坂本竜馬の妻「おりょう」の再婚相手は八幡の人 :「近江歴史廻廊倶楽部」月桂冠大蔵記念館 :「GEKKEIKAN」黄桜記念館 :「Kizakura」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -1 西本願寺太鼓楼・新選組不動堂村屯所跡 (中屋敷跡)・不動堂・[道祖神社] へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -2 [道祖神社]・伊東甲子太郎殉難の跡・島原(輪違屋・角屋)へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -4 鳥羽・伏見の戦跡地と戊辰戦争関連碑 へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -5 池田屋騒動之址・寓居址(坂本・古高・吉村・武市・桂)・遭難之碑(大村・佐久間)・藩邸之址・桂小五郎像など へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -6 坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像と墓、御陵衛士屯所跡、桂小五郎(木戸孝允)の墓ほか へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -7 殉難志士墓補遺・翠紅館跡・霊山歴史館 へ探訪 京の幕末動乱ゆかりの地 -8 壬生塚(近藤勇胸像・隊士の墓ほか)・壬生屯所旧跡(八木家)・六角獄舎跡ほか へ
2017.03.24
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[探訪時期:2015年6月]前回、不動堂をご紹介した最後に、北隣が「道祖神社」であることに触れておきました。幕末動乱と直接のゆかりはありませんが、ちょっと脇道に入って、ご紹介しておきたいと思います。幕末より160年ほど遡る安永9年(1780年)に『都名所図会』というガイドブックが出版されています。その巻之二「平安城尾」に、「稲荷社」「道祖神」という見出しがあります。この二つの見出しでの説明の中に、「不動堂」が出てくるのです。興味深いのはその位置関係です。 稲荷社 「油小路生酢屋橋(きすやはし)通の南にあり。祭るところ稲荷本社の勧請なり。 御旅所の社人田中氏この所に住居す」 不動堂 「稲荷社の南にあり。不動尊を本尊とす。不動堂この所の名とす」 道祖神 「不動堂の南にあり。祭る所猿田彦命なり。古は五条新町の西にあり。 首途神(かどでのかみ)と称す」生酢屋橋通は、たぶん現在の「木津屋橋通」のことでしょう。脚注によると、この稲荷社は現在、南区西九条鳥居口町に移転している神社のようです。すると、不動堂の本尊は井戸の底に安置されているということで、井戸は動きませんから、木津屋橋通の南にある塩小路通より南で、同じ油小路通にある不動堂の位置関係はこの書の通りです。現在「道祖神社」は不動堂の北隣りに所在しますので、道祖神社は移転を繰り返したということになります。(資料1)1873年、境内が鉄道用地になったことで、現在の場所に移ったようです。(資料2)この「道祖神社」は同書の脚注によれば、宇多法皇が造営した「亭子院」の鎮守社だったとつたえられています。(資料1)尚、「一説に松原の道祖神を移したともいわれる」そうです。そして「近世は不動堂村の産土神(うぶすなかみ)として、また道路交通の守護神として崇敬された」のです。(資料3) 道祖神社の本殿祭神は、猿田彦命と天鈿女命(アメノウズメノミコト)です。本殿が一段高い位置にあり、その前に配置されているためでしょうか、狛犬は通常の台座部分はなく、左の写真の様に、低い基壇の上に座っています。道祖神は基本的には邪霊を防ぐ神。集落のはずれや道の辻に立つ石神として祀られ、塞の神、境の神としての機能するものと信じられ、通行する人の行路の安全を守る道の神としても信仰されてきたようです。一方、猿田彦命は天孫降臨神話に登場する国津神で、天の八衢(あめのやちまた:道が四方八方に分岐している場所)で、ニニギノミコト一行を迎えて道案内を行った神、つまり道の神とされています。「サルタヒコは、正体が明らかになる前は『ちまたの神』という名称になっている。『分かれ道の神』という意味で、この別名から、道案内だけでなく、岐(くなど)の神(くなど=来るなという意味から、邪気の侵入を防ぐ神とされた)などと同類の、道中の安全を守る神と目されるようになった。」(資料4)ようです。そんなところから、道祖神と猿田彦命が同一とみなされる民俗信仰ができてきたそうです。その猿田彦命は、高天原から天降ってきたニニギノミコトを日向の高千穂に先導した後は、伊勢国・狭長田(さなた)の五十鈴川のほとりに帰り、そこでアメノウズメノミコトと結婚して住んだとされているのです。(資料5) 本殿と向拝の蟇股と木鼻はシンプルな造形です。 境内の南側には、一列に末社が並んでいます。右端の小社の隣に、「洛陽二十五社 書聖天満宮」と刻された石標が建てられ、 本殿階段の脇に神牛像もあります。左の小社が祭神として菅原道真を祀る「書聖天満宮」のようです。中央の小社は色彩からみても稲荷社です。左が幸神社(さいのかみのやしろ)になるようです。幸神社は、今出川通から寺町通を少し北に上ると道路沿いに石標があり、そこを西に入ったところにあります。門前には「出雲路幸神社」という石標が建てられています。拙ブログで再録しご紹介しています。道祖神であり猿田彦命が祀られているのです。こちらをご覧ください。 (「探訪 [再録] 相国寺とその周辺を歩く -1 幸神社、相国寺の総門・勅使門」)この末社の前にも、双体道祖神石像が安置されています。鳥居の前の石像よりも、こちらの方がはるかに歳月を経ている石像のようです。さて、話を幕末動乱ゆかりの地に戻します。 この油小路を北に上がって行きます。塩小路通、七条通を横切り、木津屋橋通から少し上がった東側に「本光寺(ほんこうじ)」があります。この画像は本光寺前から油小路通の北方向を眺めた景色。 本光寺の表門の傍に、「伊東甲子太郎外数名殉難之跡」という石標が建てられ、表門右横に駒札が掛けられています。甲子太郎という名前には、多くの場合「かしたろう」か「きねたろう」のいずれかのルビが振られいます。 何度かこの門前を通ったことがありますが、門扉が閉ざされ手前も柵が閉じられていました。今回訪れたときは、初めて表門が開いていました。本光寺は山号を実相山と称し、日蓮宗のお寺。本尊は題目宝塔釈迦多宝仏だそうです。 表門を数歩入ったところを拝見しました。表門を入ったすぐ右側(南側)に、「南無妙法蓮華経」の名号板碑が建立されていて、その傍に「伊東甲子太郎絶命の跡」と刻された石標が建てられています。慶応3年(1867)11月18日夜、この辺りで伊東甲子太郎は近藤勇の指示により、新選組隊士に暗殺されて絶命したのです。その傍には、伊東甲子太郎の祥月命日に追善供養が当寺においても行われていることを物語る塔婆が置かれていました。伊東甲子太郎ははじめは鈴木大蔵(おおくら)と称した常陸志筑の脱藩者で、江戸の深川佐賀町で町道場を開いていた北辰一刀流の剣客だったのです。師匠の病没後に伊東家の名跡を襲うこととなり、伊東甲子太郎武明と名乗ったのです。国学にも深く、真面目な勤王攘夷論者で、実弟の鈴木三樹三郎とともに、勤王の国事に奔走していたといいます。壬生浪士組として京都に残留した近藤勇が、隊士募集の目的で東下した折に、先に新選組の隊士になっていた藤堂平助を介して、近藤勇と会見したのです。藤堂は北辰一刀流と勤王攘夷論での一致という2つの関係から懇意だったようです。近藤は佐幕、伊東は勤王とその見解は異なるのですが、攘夷という点で一致することから、伊東が新選組に入ることとなったのです。伊東は腕の立つ門弟7名をつれて新選組に加入します。近藤は伊東を逸材と認め、伊東の入隊と同時に「参謀」の役を与えたようです。伊東が新選組に加入し、京に上がったのは、元治元年甲子(きのえね)の歳(とし)です。このときに「甲子太郎」と改名したと言われています。その後、江戸での隊士募集の折にも、伊東は隊士のリクルート担当として加わる立場になったのです。慶応元年初夏の新選組組織再編では、伊東甲子太郎は、文学師範頭の筆頭に名を連ね、実弟鈴木三樹三郎は九番隊の組長となっています。近藤勇の佐幕思想が極端化していく一方で、勤王攘夷論の伊東は独自に薩長藩士に接近するという行動を取るようになっていったようです。幕府は新選組を正式の幕臣に取り立てようと考えます。それは近藤勇の熱望するところです。しかし、そうなれば伊東甲子太郎は勤王攘夷の行動をとれなくなります。近藤は新選組からの脱退は認めようとしないし、脱走という手段を取れば、その罪で切腹させられる羽目になります。そこで伊東が考えた方策は、「分離」という方便だったそうです。慶長2年12月、36歳で孝明天皇が崩御されたことが伊東に大義名分を見つけさせたのです。伊東は孝明天皇の御陵がある泉涌寺に働きかけ、慶応3年(1867)3月10日、朝廷の武家伝奏方より禁裏御陵衛士(きんりごりょうえじ)を拝命するのです。つまり、孝明天皇のお墓のガードマンという名目です。この伊東による新選組からの分離工作は幕府による第二次長州征伐が進行している時期でもあったのです。3月20日に「御陵衛士」となり、山稜奉行の配下になります。そして、伊東甲子太郎ら9名(12名という説も)は、最終的に高台寺の塔頭・月真院を屯所とします。そこから、伊東等は「高台寺党」と呼ばれるようになります。それは新選組が西本願寺から不動堂村に屯所を移す3ヵ月前です。長州征伐問題に対し、薩摩藩など四藩から朝廷に長州寬典の建白書が出され、これに対して、6月24日に近藤勇は、この四藩建白書は採用せず公武合体の推進について建白書を議奏役を通じて提出したといいます。一方、8月8に伊東甲子太郎らは長州寬典論を主張する建白書を提出したのだとか。両者の見解は真っ向から対立します。その一方、伊東らは近藤勇らを殺害し新選組を乗っ取る計画を立てていたともいいます。その計画を高台寺党の加わっていた斉藤一が近藤に報告するという挙にでたそうです。近藤勇は逆に、伊東一派の暗殺計画を謀るということに・・・・。11月18日夜に、この近藤勇が伊東を国事談合の名目で醒ケ井木津屋橋下ルの妾宅に呼び出すのです。高台寺党の面々は危ぶんだようですが、伊東甲子太郎はその呼び出しに応じ、近藤の妾宅で、酒宴の席に臨んだのです。午後9時頃に妾宅を出て、酔い覚ましを兼ねて徒歩で高台寺の屯所に戻る途中を、待ち受けた新選組隊士に襲われて暗殺されたのです。伊東殺害されるの報を得た高台寺党一派は、伊東の遺体を引き取りに行き、新選組隊士との戦いを繰り広げることになります。この戦いで御陵衛士3名-藤堂平助、服部武雄、毛内有之助-が斬殺されてしまいます。これが石標に記された「外」の人々です。これが「油小路の変」と称されることの背景です。(以上、資料6,7,8,9) 門を入った参道の左側(北)には、地蔵堂とさらに小ぶりな小社が配されています。小社に何が祀られているのかは確認できませんでした。近藤勇にも、伊東甲子太郎にも、一方勤王派浪士にも、関わりが深い場所が西本願寺の北西にあります。「島原」です。壬生浪士組としての壬生の新選組屯所からでも島原までは500mくらいの距離です。西本願寺の太鼓楼・北集会所を屯所にした頃は、もっと近くなります。 「島原大門」幕末当時は、幕府公認としては京都で唯一の遊女街だったところです。 『山州名跡志』(洛陽部 十七)には、「島原」という項目の冒頭にこう記しています。漢文を読み下し文にして適宜平かな表示にしてご紹介します。「六条南朱雀の東にあり。この所傾城(けいせい)郭なり。四畔(はん)郊野(こうや)にして朱雀野(すじゃくの)と号す。上古には鴻臚館の地なり。この所の町、始め洛下六条南室町。同じく西洞院は中道寺にあり。寛永年中に移す所なり。その年、肥前の嶋原に耶蘇(やそ)宗の徒、蜂起す。その族徒の楯籠(たてこも)るを嶋原という。また、一門を構う。この郭はその所に類するをもってこれを号す。これすなわち世人の称する所なり」。この後、京都における公娼地の歴史的変遷に触れています。補遺に掲げたウィキペディアの項目の中で「沿革」に記されているものが同趣旨で参考になる説明です。 輪違屋の外観 (2013.5)元禄年間創業の由緒ある置屋。現在も島原で唯一、お茶屋を営業されているところです。特別公開された時もあるようです。置屋は「江戸時代、遊女をかかえていた家、またはそのような職業のこと」。「芸者をかかえている家」をもそう称します。それに対して、揚屋は「江戸時代、置屋から太夫・格子女郎など上級の遊女を招いて客を遊興させた店」のことです。茶屋は「客に飲食や遊興を提供したり、またその案内や世話をする店」です。太夫道中とか花魁道中とか称するものは、「揚屋入り」の行為です。「遊女が客に招かれて、置屋から揚屋に行くこと。また、その儀式。盛装した遊女は高下駄をはき八文字をふんで、供をつれ練り歩いた」のです。(『日本語大辞典』・講談社)私は、2009年11月に、島原・輪違屋と島原太夫に関するある講座に参加し、その一環で輪違屋さんの建物内部でのお話と見学をする機会がありました。別途、島原を探訪してもいます。その時の写真を交えてのご紹介です。(括弧内の年月は訪れた時期を表示しました。) 玄関を入ったところの暖簾(2009.11) 有名な「傘の間」の襖。太夫道中に使われる傘がダイナミックな形で貼り込まれています。もともとは輪違屋当主の部屋だったそうです。当主の姓「高橋」に由来する「高」の文字が入っています。この輪違屋さんでは、近藤勇の書を屏風として所蔵されているのです。(2009.11) 近藤勇は、天保5年(1834)に武蔵国多摩郡の百姓宮川久次郎の三男として生まれます。天然理心流の近藤周助に入門し、後に近藤周助の養子となるのです。周助の実家の姓島崎を名乗った時期があるようです。「安政5年(1858)の日野宿の牛頭天王社(日野市八坂神社)の奉額には『島崎勇藤原義武』とあり、この頃勇を名乗っていたことがわかる」(資料7)という一文から、さらに、藤原の姓で自らを表記していた事実がわかるとともに、藤原姓においての名前も、「義武」から「昌宣」に改称した時期があることもこれでわかります。角屋の外観 (2013.5) この建物に向かって左側に、表門があります。 建物の右端の傍に建てられてる石標です。長州藩の勤王志士の一人、久坂玄瑞がこの角屋で密議を謀った時期があることを示しています。角屋はその利用時期が違うのでしょうが、勤王派の一統も新選組もともに利用していたのです。久坂玄瑞は長州藩の尊皇攘夷派の中心人物の一人。松下村塾の四天王の一人と称され、吉田松陰をして長州第一の俊才といわせた人のようです。久坂玄瑞は、元治元年(1864)7月の禁門の変(蛤御門の変)において、最後に自害して果てたと言われています。享年25歳。(資料11)文久3年(1863)1月には京都で各藩士と会合し、4月からは長州藩の京都藩邸御用掛、また8.18の変後には、しばらく京都詰の政務座役として在京していたそうですので、このころに、角屋を密議の場として利用していたのかもしれません。(資料12)久坂玄瑞は、島原桔梗屋の芸妓・辰路と恋仲だったとか。西七条の安阿弥寺に辰路の墓が祀られているそうです。(資料13) 表門の門前左側には「新選組刀傷の角屋」という石標が建てられています。(2013.5)文久3年6月末に、水口藩の公用方が、会津藩邸に出かけた時の雑談で、新選組の乱暴について話をしたといいます。それをネタに芹沢鴨は4人の隊士を水口藩邸にねじ込ませ、公用人の生け捕りを騒ぎ立てたとか。二条通にある剣術道場の主・戸田栄之助が間に入り芹沢を納得させて、隊士一同をこの角屋に招待することで、事を納めたのだとか。その酒席で、角屋の取扱いに機嫌をそこね、大鉄扇を振り回すわ、二階の階段の欄干を引き抜き大暴れするわの乱暴狼藉を尽くしたそうです。その上に、隊名を以って、「角屋徳右衞門不埒(ふらち)の所為あるにつき七日間謹慎申付ける」旨を言い渡したのだとか。(資料8)調べていけば、勤王派・新選組共に、島原との関わりで様々なエピソードが記録されているのかもしれません・・・・。つづく参照資料1) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p1912) 道祖神社・書聖天満宮(下京区) :「京都風光」3) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p379,3824) 『欲望を叶える神仏・ご利益案内』 小松和彦他監修 智恵の森文庫 p108-1155) 『「日本の神様」がよくわかる本』 戸。部民夫著 PHP文庫 p316-3206) 『<徹底検証> 新撰組の謎』 加来耕三著 講談社文庫7) 『新選組 「最後の武士」の実像』 大石 学著 中公新書8) 『新選組始末記』 子母澤 寬著 中公文庫9) 『新選組、京をゆく』 文:木村幸日比古 写真:三村博史 淡交社10) 『山州名跡志』 白慧 撰 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 洛陽部 十七 271コマ目に記載されています11) 久坂玄瑞 :ウィキペディア12) 久坂玄瑞(くさか げんずい) :「吉田松陰.com」13) 京都 安阿弥寺は中坊進二が散策のとき見つけた悲恋をしずかに語る寺院【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺島原(京都) :ウィキペディア輪違屋 :ウィキペディア第4回 京都・島原三百余年 花柳界の旅路「輪違屋」の"日常 :「YAMAHA」島原 輪違屋 如月太夫 :YouTube角屋(すみや)保存会(島原角屋 公式サイト) 島原の文化史 久坂玄瑞と辰路の子供・秀次郎と混乱の文が辿った生涯【写真付】:「男的充実LIFE」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -1 西本願寺太鼓楼・新選組不動堂村屯所跡 (中屋敷跡)・不動堂・[道祖神社] へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -3 伏見・京橋、寺田屋、「龍馬とお龍」像、九烈士の墓(大黒寺)ほか へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -4 鳥羽・伏見の戦跡地と戊辰戦争関連碑 へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -5 池田屋騒動之址・寓居址(坂本・古高・吉村・武市・桂)・遭難之碑(大村・佐久間)・藩邸之址・桂小五郎像など へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -6 坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像と墓、御陵衛士屯所跡、桂小五郎(木戸孝允)の墓ほか へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 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2017.03.24
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[探訪時期:2015年6月]京の幕末動乱期、歴史に名を残す様々な人々が活動したゆかりの地は、京都市内に点在します。歴史の時系列で計画的に順序よく探訪することは地理的な点在を考えるとちょっと無理です。「幕末動乱期」という視点で、折りに触れて、あるいは意識的に訪れた場所を切り出してみました。当初は、断続的にご紹介していました。事情により、探訪の記憶の引き出しを残すために再録し、ご紹介したいと思います。新たに知った事実や探訪地も適宜修正加筆していきたいと思います。歴史の流れを、行きつ戻りつしながら・・・となる点は、ご理解ください。冒頭の写真は、西本願寺の北東角にある「太鼓楼」です。ここが幕末動乱期、「新選組」のゆかりの地となりました。近藤勇を隊長とする「新選組」ですが、その発祥を遡ると、徳川幕府が民間の武力を利用し、「浪士組」を結成したことが発端です。文久3年(1863)2月4日、江戸小石川(文京区)の伝通院に、浪士二百数十名が応募に応じて集合したそうです。その浪士組に近藤勇や土方歳三らが参加したのです。指揮したのは尊攘家清河八郎、幕府講武所の幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)らだったのです。近藤勇と土方歳三は、この時、芹沢鴨を隊長(小頭)とした六番組に属したようです。京都への移動中は、芹沢の転出により、西恭助が六番組隊長となります。近藤勇は「先番宿割」の役だったとか。京都に到着するとすぐに、西隊長が別件で転出し、道中での担当役割が終わったため、近藤勇が隊長に選ばれるのです。京都に着くと、清河八郎は尊皇攘夷論の本心を現し、朝廷側に寝返ることを公言したようです。浪士組をそっくり朝廷側に持ち込もうという腹づもり。公武合体の立場の幕府は江戸への帰還命令を出します。そこで大多数の浪士は、関東に戻り攘夷実行をめざすということで引きあげます。それに対し、近藤勇ら17名が、将軍のために京都に残留し、市中警護を続ける立場を主張したのです。京都残留組が最初に宿舎としたのが、壬生寺近くの八木邸です。「壬生浪士組」の誕生です。この文久3年(1863)3月4日に、公武合体をめざし将軍家茂が上洛します。この年が公武合体派と尊皇攘夷派が激突する年となるのです。その過程で壬生浪士組の人数が増大していきます。文久3年8月には、52名になっていたようです。そして、その壬生浪士組が「新選組」と改称されることになります。(資料1,2) 慶応元年(1865)3月10日、壬生の屯所を引き払い、西本願寺に屯所を移転したのです。その前年、元治元年6月には、新選組が京都河原町三条の旅館池田屋を急襲した「池田屋事件」が発生しています。この移転にあたっては、土方らが西本願寺と交渉を行ったのです。新選組隊士だった永倉新八が『新撰組顛末記』という手記を残していて、そこには「壬生の屯所が手狭となり、西六条境内学林寺(西本願寺北集会所)を借り、本堂の隣に竹や丸太で組んだ仮住まいをこしらえた」ということが記されているそうです。(資料3)一方、当時西本願寺の侍臣だった西村博文が『新撰組始末記』を残しています。それによると、「土方らが、同士が増え壬生の屯所が狭くなったことと、市外にあり遠くて不便であることを理由に、広い集会所を持つ西本願寺への移転を要求した記し、そのさい土方らの態度は、暴言、威力をもって日々迫り、寺側はこれに折れたと述べている」といいます。2月28日に移転を承諾、新撰組が3月初旬に改装し、3月10日頃に移転したのです。(資料1)芹沢鴨がこの屯所移転交渉の裏の中心人物だったとか。流線小史がその著書で、芹沢鴨の「非行」七件の一つにこの西本願寺への無理難題を上げているといいます。東本願寺は教如上人の要望を受け徳川家康の寄進により建立されています。親徳川という立場。西本願寺はややもすれば、尊攘派寄りだったようで、芹沢はそのことを掴んでいて、幕府-会津藩から、西本願寺に無理難題を言っても苦情はこないだろうと狡知を働かせていたようです(資料2)。西本願寺門主の二十世広如は勤王僧として知られていたそうです。(資料3)同年4月に、土方は伊東甲子太郎らと江戸に隊士募集にでかけ、52名の隊士を京に連れてきたそうです。それ以前にも数度隊士募集が行われています。そして西本願寺に屯所を移した後、新選組は200人以上の規模に拡大して行ったのです。総長が近藤勇、副長土方歳三、参謀伊東甲子太郎であり、一番沖田総司、二番永倉新八以下十番原田左之助まで、10組で10人の組長が続いていたのです。そのほかに諸士取調役兼監察、勘定掛、師範など、いわゆるスタッフ部門が組織化されています。(資料1)余談ですが、この時の三番隊組長斉藤一は新選組の生き残りの一人であり、明治維新後に斉藤一-山口次郎-藤田五郎と改名し、西南戦争には別働第三旅団(巡査隊)に加わり参戦、その後も警視庁に奉職したそうです(資料2)。また、篠原泰之進という人物も新選組に関わっています。愛読する作家の一人、葉室麟が『影踏み鬼 新撰組篠原泰之進日録』という小説を書いています。この小説についての読後印象は、もうひとつのブログで書いています。興味を抱かれたなら、お読みいただけるとうれしいです。 (「遊心逍遙記」gooブログ) 太鼓楼と築地塀でみた鬼瓦門主の二十世広如が剃髪をしている最中や本堂に出てくるのに合わせるようにして空包で大砲を撃つ訓練などを繰り返すという嫌がらせをしたといいます。参拝者は誰一人来なくなると言う風になったとか。(資料3)この後、新選組は不動堂村に屯所を移転させるのです。その移転も西本願寺側から引き出された資金でまかなわれたとか(資料3)。新選組は西本願寺を軍資金の源泉として目をつけ、巧みに利用したようです。JR京都駅前の塩小路通を西に進むと、堀川通と交差します。ここに架かる陸橋を西に向かうと、南西側にリーガロイヤルホテル京都が見えます。 陸橋の西詰南側の階段を下りたところの竹が植え込まれたところに、「不動堂村屯所跡」の石碑が建立されています。「新選組が屯所を西本願寺から不動堂村へ移転したのは、近藤勇らが幕府直参になった五日後の慶応3年(1867)6月15日であった。移転に際し、土方歳三の指示で吉村貫一郎が西本願寺と交渉の末、建築費並びに諸経費を西本願寺が負担することとなった。 屯所の広さは1万平方メートル。表門、高堀、玄関、長屋、使者の間、近藤、土方ら幹部の居間、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見中間と小者の部屋、大風呂は30人が一度に入れた。大名屋敷と比べても遜色ない構えだった。12月14日、伏見奉行所へ引き払うまで6カ月間、屯所として使用した。 2003.6.15 霊山歴史館 木村幸比古 識」(説明銘板)結果的にわずか6カ月、そのために西本願寺は莫大な出費をさせられたことになります。現在の地名では、このホテルの所在地は松明町ですが、堀川通の東側には、北不動堂町、南不動堂町という町名が残っています。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。今年(2017)本を読んでいて、もう一つゆかりの地を示す石標が建てられていることを知り、先日(2017.3.1)訪れてみました。上記、南不動堂町の北東角に、「ハトヤ瑞鳳閣」があります。その傍です。 再録にあたり、補足します。東西の塩小路通の一つ北に、木津屋橋通が東西の通りとしてあります。近藤勇は、大坂新町遊郭折屋の抱え女郎・深雪太夫を身請けして、醒ケ井木津屋橋下ルに囲って休憩所(休息所)と称する妾宅を設けていたそうです。葉室麟の上記の小説にもその休憩所と深雪太夫のことをエピソード風に描き込んでいたと記憶します。醒ケ井通は五条通より北に、堀川通の東の通りとして残っています。五条通より以南では、堀川通の道路の一部になってしまっています。地図を追っていくと、御方紺屋町と北不動堂町の境界が堀川通の西側歩道であり、この歩道辺りを醒ヶ井通が南下していたことになります。近藤勇は、北不動堂村屯所のごく近くに、妾宅を構えていたことになります。この深雪太夫と近藤勇については、裏話があるようです。(資料3)*近藤が深雪太夫に惚れこんだが相手にされず、二番手の島原木津屋の金太夫に乗り換えようとしたそうです。それではプライドが許さない深雪は身請けを承諾したのだとか。*会計方を担当していた河合耆(き)三郎という隊士が隊費50両の紛失で斬首されるという憂き目にあっているそうです。穴埋めのために実家に早飛脚での送金を頼んでいたが、土方に猶予日数を頼み込んだが間に合わなかったといいます。数日遅れで送金されてきたが、時すでに遅し。この50両は近藤が深雪を身請けするものだったとか。*近藤と深雪は長続きせず、手切れ金二百両で別れたといいます。(この二百両はどこから出た金でしょう・・・・?)また、近藤に纏わる女性には、郷里にはツネという正妻がいて、このエピソードの深雪太夫、金太夫の他に、深雪の妹・お孝、嵯峨野の町娘なども居たといいます。詳細は参照資料をお読みください。不動堂村という名前は「不動堂」に由来します。ホテル前にある史跡碑から京都駅方向に少し戻ります。堀川通より一筋東の通りを、塩小路通から少し南に下がると、この「不動堂」があります。西山浄土宗の「不動堂明王院」です。 正面の左右の柱には、「新選組 まぼろしの屯所」と記された白い提灯が掛けられています。花頭窓の右側に少し出張っているのは地蔵堂です。延命地蔵尊と水子地蔵尊が祀られているようです。 花頭窓の左側には、この詳しい説明板が掛けられています。「霊石不動堂縁起」としてこのお堂について説明されています。要点だけ箇条書きにしてみます。*弘法大師が嵯峨天皇の帰依をうけ東寺を賜ったとき鬼門になるこの地に不動尊を祀る*この地で発見した妙霊なる石に、弘法大師が一刀三礼し、不動尊像を彫刻した そして、霊石不動を石棺にいれ、井戸深く安置した。*宇多法皇が東七条御所(亭子院)造営のおり、霊石不動を取り出させようとした。 しかし、井中の石を見ようとした者は悉く眼を痛み恐れをなした。*井戸を封じ、堂宇を建立し、霊石不動明王の号を贈る。法皇が自分の念持仏とした。*宇多法皇の縁で天明2年(1782)までは仁和寺の直属道場に。その後西山浄土宗に属す 花頭窓越しに堂内を拝見すると、御前立としての木造不動明王立像と、弘法大師像が祀られています。 正面の軒下に、こんな絵馬が掛けられています。 ここでも屋根の鬼瓦を撮ってみました。西本願寺の鬼瓦とまた違う造形です。新選組の屯所とこの不動堂が具体的にどういう位置関係になっていたのか、興味があるのですが、不詳です。調べた範囲では、その点に触れた資料はありません。不動堂の北隣には「道祖神社」があります。こちらの神社は幕末動乱とは直接関係はありませんが・・・・。せっかくの機会ですから、拝見しました。この道祖神社に関しては、脇道に逸れますが次回少しご紹介しましょう。最後に触れておきたいことが二つあります。一つは「新選組」と「新撰組」の二種の表記と名称の起点について。二つ目は新選組の制服羽織と隊旗についてです。調べてみると、それなりに、けっこうおもしろい点なので・・・・・・・。「新選組」と「新撰組」:明治よりも前の時代は漢字の使用はかなりおおらかだったようです。上記のように、新選組の隊士と西本願寺の侍臣が書き残したものには、「新撰組」という文字が使われています。現在までの市販書籍を見ると、小説・評論・研究書などを含めて、筆者の考えに由来するのでしょうが、両方が使われています。 新撰組:吉川英治、吉村昭、葉室麟、平尾道雄、加来耕三 新選組:子母澤寬、山岡荘八、司馬遼太郎、山村竜也、木村幸比古、大石学加来耕三氏自身は、根本資料として利用した永倉・西村両氏の自著の延長線上で「撰」を一貫して使ってきたので、それ以上の他意はないと、両表記を分析した上で付記されています。私は学生時代に最初に記憶したのが「新選組」だったので、一般的なこちらを使うことでご紹介することにしました。「文久3年8月18日未明、薩摩・会津両藩は、御所を固め、・・・・公武合体派の公家を参内させ、過激な攘夷は天皇の意思ではないと朝議を一変させたのである。大和行幸は中止され、長州藩の堺町御門(上京区)の守衛も解任された」(資料1)という、いわゆる公武合体派によるクーデター、8.18政変です。この時、京都守護職・会津藩の「御預(おあずかり)」という名目だった壬生浪士組は、会津の一員として出動し、昼は仙洞御所前、夜は御所の南門の警備にあたったそうです。その時、壬生浪士組の島田魁が日記に「文久3年8月18日、長州人引き揚げの節、当組南門を守る。その節、転(ママ)奏より新選組の隊名を下さる」と記録していたのです。南門(建礼門)を守衛していたことに対し、武家伝奏から「新選組」の隊名が与えられたといいます。ただし、隊名の命名者や由来は今も不明のままだとか(資料1,3)。尚、加来氏は「『新たに撰ばれた組』の意から命名されたものであった」と解釈されています。(資料2)近藤勇は、手紙の封緘に「新選組」の印影を使い、会津藩からの公文書には「撰」の字が使用されていたといいます(資料2)。また、壬生の屯所に「新選組」の落書きがあったのを子母澤寬氏がみずから写真を撮られているそうです。旧前川邸にのこる板戸に「会津 新選組 隊長 近藤勇」と墨書されていたのです(資料3)。けっこう、漢字は大雑把に、おおらかにそれぞれの人が使っていたようです。2つめの新選組の制服羽織と隊旗について。「だんだら染めの制服羽織」ですが、芹沢鴨が、山南啓助、永倉新八を含め7名の隊士を引きつれて大坂の鴻池善右衛門にところに出掛け、二百両を借り出したといいます。そして、「すぐに、松原通りの大丸呉服店を呼びつけて、麻の羽織、紋付きの単衣、小倉の袴、ことに羽織は、公式の場合着用するものだからといって、浅黄地の袖へ、だんだら染めを染抜いて、一寸、義士の討入りに着たようなものを、隊士全部の寸法をとらせて、注文した。この羽織は、それから永く、新選組の制服になった」(資料5)という経緯があるそうです。鴻池から借用したということを会津候が聞き、びっくりしたのだとか。浪士を預かっているという立場・面子からでしょう。「商人どもから金子を借用したとあっては、如何にも肥後守の不明という事になる。金子二百両は、当家から支出するから、早速返済致すよう。今後は当方に於いても注意はするが、不足の事については、その都度公用方まで申出るがよろしかろう」と申渡したといいます。(資料5)つまり、壬生浪士組の時代に作られたようです。鴻池に差し出した借用書が現存していて、芹沢・近藤の連署で、日付は「文久三亥歳七月□日」とあるそうです。(資料2)一方、隊旗については、文久3年の8.18政変の折には、「赤地に真白く『誠』の一字を染抜いた縦四尺幅三尺」(資料5)のものを先頭に翻して出動したようです。それが、元治元年(1864)の禁門の変の時には、「隊旗ハラシャ地に金糸を縫い込んだ豪華なものに変わっていた。・・・山形はなく、シンプルなものであったようだ」(資料3)とか。この「誠」という文字が撰ばれたのは何を意味するのか・・・。手許の数冊の本を見る限り、定かではありません。一書だけ「『誠』は、言ったことを成す-強い意志がこもる」(資料3)と記しています。つづく参照資料1) 『新選組 「最後の武士」の実像』 大石 学著 中公新書2) 『<徹底検証> 新撰組の謎』 加来耕三著 講談社文庫3) 『新選組、京をゆく』 文:木村幸日比古 写真:三村博史 淡交社4) 新選組 :ウィキペディア5) 『新選組始末記』 子母澤 寬著 中公文庫【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺近藤勇 :ウィキペディア歴史事件簿 狙撃された近藤勇(上):「産経WEST」 狙撃された近藤勇(中) 狙撃された近藤勇(下)近藤勇と科学 直木三十五 :「青空文庫」土方歳三 :ウィキペディア土方歳三資料館 ホームページ新選組か新撰組 ?霊山歴史館 ホームページ新選組記念館 :「京都観光Navi」 ネット検索していて出会ったところ。個人博物館だそうです。不動堂明王院 ホームページ宇多天皇 :ウィキペディア亭子院 :ウィキペディア京の町に忽然と現れた石碑の謎を追う :「源氏の部屋」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -2 [道祖神社]・伊東甲子太郎殉難の跡・島原(輪違屋・角屋)へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -3 伏見・京橋、寺田屋、「龍馬とお龍」像、九烈士の墓(大黒寺)ほか へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -4 鳥羽・伏見の戦跡地と戊辰戦争関連碑 へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -5 池田屋騒動之址・寓居址(坂本・古高・吉村・武市・桂)・遭難之碑(大村・佐久間)・藩邸之址・桂小五郎像など へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -6 坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像と墓、御陵衛士屯所跡、桂小五郎(木戸孝允)の墓ほか へ探訪 [再録] 京の幕末動乱ゆかりの地 -7 殉難志士墓補遺・翠紅館跡・霊山歴史館 へ探訪 京の幕末動乱ゆかりの地 -8 壬生塚(近藤勇胸像・隊士の墓ほか)・壬生屯所旧跡(八木家)・六角獄舎跡ほか へ
2017.03.24
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東大路通と渋谷通が交差する「馬町」交差点から渋谷通を東に向かうと、渋谷通が旧道と新道に分岐するところに「小松谷正林寺」が所在することは、既にご紹介しました。馬町交差点からは正林寺に行くまでの少し手前に、南の方向に向かう道路があります。正林寺を出たあと東大路通に出て南下するのも面白みがないので、今まで歩いたことのないこの道を利用してみることにしました。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。そして、目に止まったのが冒頭のお寺です。山門の左側に「東山聖天尊」の石標が立ち、門前に「大聖歓喜天」の提灯が吊り下げてあったからです。表門に近づくと、「香雪院」と寺号表札が出ています。境内に目をやると、ご自由に御参拝くださいという文言の表示板が延べ段に置かれています。山門を入ると、左手に中門があり、正面右寄りにお寺の玄関口が見えます。中門の塀の右側に、参拝順路の絵図板が掲げられています。この順路に従ってご紹介します。後で調べてみると、手許にあるいくつかの本には記載がありません。インターネットを検索していくつか情報源を入手しました。それで少し理解が深まった次第です。香雪院は、妙法院の塔頭で、現在は天台宗の尼寺です。山号は宝山(ほうざん)で、聖天尊(歓喜天)を本尊として祀られています。もともとは、江戸時代初期に妙法院23世・尭恭親王が、妙法院の丑寅の方角にあたるこの地に持仏の聖天尊を安置するために、庵を結ばれたことに始まるそうです。(資料1)お寺を出たあと、この道を南に歩いて気がついたのですが、そのまま進むと山口稲荷神社の横に突き当たるのです。つまり、新日吉神社の北側であり、豊国廟参道と繋がることになります。調べてわかったことですが、妙法院の南側にある「豊国廟参道」碑から参道をはさみ、南側に「東山聖天参道 香雪院」という道標が昭和27年(1972)7月に建てられているのです。(資料2) これには気づきませんでした。 山門を入った右側、築地塀傍に「鎮守社」が祀られています。その隣りに石仏などが集めて祀られています。 その先には、つまり西側に玄関への石畳がつづき、石灯籠が置かれています。今は雪見灯籠風の趣です。しかし、かつては大きな灯籠のパーツだったものが転用されて、組み合わされている印象を受けます。感じのいい石灯籠です。山門と中門との間にこの顕彰碑があります。冒頭に「香雪院中興碑」と記されています。中興碑の右側に一部写っているのが「本堂再建碑」です。この漢文碑文と入手資料を併せ読みしますと、次のことがわかります。香雪院が尼寺となったのは、中島良湛の時のようです。そして、明治13年7月12日生まれの中島秀湛尼が、7歳にして良湛尼の徒弟となり、翌年得度され、19歳の折に良湛尼が遷化されたことに伴い二世住職となられたとか。就任後三十有余年、本尊供養並びに寺門興隆に注進されたそうです。本堂修理、書院改築、梵鐘鋳造、鐘楼堂新築などに精進されたとか。秀湛尼は、寶生院兼務や浄妙庵兼務もされて尽力されたことも記されています。秀湛尼は1937年に遷化。秀湛尼が中興に尽力されたということなのでしょう。その後、1940年に3世・中島湛海尼が継承されています。1945年1月の米軍爆撃で本堂・庫裏が大破するという被災に遭遇し、その後復興しているそうです。1988年に、本堂屋根の総葺き替えが完成し、光海の晋山法要が行われたとのことですので、現在の住職は4世ということになります。 (碑文、資料1) 中門を入ると、手水舎が左にあります。 右前に石鳥居があり「歓喜天」と読める額が掛かっています。額には「喜」を「㐂」と記してあります。鳥居の傍の石灯籠もあまり見かけないスタイルです。飛石参道を進むと、境内には植栽が施された庭部分が庫裏側に在り、斜め前方に小祠が祀られています。こちらも鎮守社のようです。前方に本堂があります。 本堂 本堂の正面上部に、「歓喜天」の扁額が架かっています。ここも本堂内も「㐂」が使われています。 本尊が聖天尊(歓喜天)です。本尊は内陣にある厨子に安置されているようです。像の背に乗る大きな火炎宝珠が正面に置かれているのが印象的です。その手前の箱の正面には、歓喜天の供物であり、シンボルとなっている交差した大根の図案がレリーフされています。「この大根は蘿蔔根(らふくこん)と呼ばれ、やや細くて辛味が強く、歓喜天の住する象鼻山に多いとされる」ものといわれています。(資料3) 本堂前に置かれた石造香炉歓喜天のもう一つのシンボルである巾着袋(砂金袋)の意匠のように思います。歓喜天が手に持つ巾着袋(砂金袋)は、「歓喜天から受ける利益が大きいことを表している」ということのようです。(資料3) 蟇股にも巾着袋(砂金袋)がレリーフされています。木鼻はすこし繊細で丁寧に彫られている印象を受けます。獅子と象のハイブリッド型というイメージが濃厚に出ています。本堂正面に吊された金属製灯籠には、帯の部分に「大聖歓㐂天」の文字が打ち抜かれ、蔦草文上には、巻物、軍配、小槌、貨幣、火炎宝珠などが図案化され散りばめられています。お堂の屋根の獅子口にも、巾着袋(砂金袋)がレリーフされています。 本堂の前、南東方向に建てられているのが、「弁天堂」です。その傍に、右の画像「聖天尊千度碑石」というのが立っています。その背面には、この石柱が享和元年(1801)霜月(11月)に建立されたものだと分かります。本尊などの仏像を別に考えると、ひょっとしてこの石柱が最も古い物の部類かもしれません。「百度石」というのをよく見かけますが、「千度」というのもまた興味深いところです。弁天堂正面から拝見すると、ここも弁天像は厨子の中に安置されていて、拝見できません。ちょっと関心を持ったのは正面両側の柱に掛けられた絵図です。板碑と言うべきなのかもしれません。 左側の絵図は、場所的に撮りづらく3パーツになりました。ここには、「弁才十五童子」が描かれていて、その出自と由来が各図像の傍に簡潔に明記されています。冒頭の説明によると、「仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経」という経典に説かれている童子だそうです。弁財天の眷属です。善財童子を加えて十六童子と呼ばれることもあるようです。善財童子が十五童子の童子と入れ替わって十五童子となる場合もあるようです。香雪院所蔵の軸には、従者童子と善財童子が入れ替わった十五童子が描かれているとか。(絵図説明文より)十五童子の由来の詳細は、補遺のサイト情報が有益です。学ばせていただきました。ご関心があれば、アクセスしてご一読ください。あるいは、香雪院を訪ねていただき、お堂の前で童子絵を見ながら、説明文をご覧ください。 もう一つ、お堂の前にこのテキスト、願文と称するのでしょうか、これがガラスケースに収められています。手水舎の傍に奉納されている象像 その傍に藤棚(たぶん)があり、大木の根元に「歓喜稲荷社」が祀ってあります。その南側に鐘楼があります。梵鐘と鐘楼の意匠に関心を持っていますので、近くで眺めてみました。見応えがありました。樹木の陰になっているので、遠くから眺めるだけになる人が多いかも知れません。一見の価値ありだと思います。近くまで行き、驚いたのはダイナミックな龍の全身像が透かし彫りされているのです。鐘楼にこれだけの装飾が施されているのは、やはり少ないと思います。 鐘楼の柱の一つに、鳥居のミニチュアが立て掛けてあります。奉納された方がここに置かれたのでしょうか。撞木のある面に回ると、流れる雲の文様が彫り込まれています。築地塀に近い面に回ると、こちらにも龍の全身像が彫られています。 こちらが手水舎側の面こちらも雲形が彫り込まれ、こちらには太陽を推測させる球状物が中央に彫られています。蟇股や木鼻はごくシンプルなため、一層、二体の龍と雲形が引き立っています。 最後に、梵鐘です。戦時中の金属供出でこの寺の梵鐘も手許を離れたようです。そして、戦後の昭和24年(1949)4月、三世・中島湛海尼の代に、梵鐘が鋳造復元されたのです。縦帯の一つに復元奉納された年月、もう一つに、「湛海沙弥尼」の名前と「功徳主 信徒中」という文字が陽刻されています。私の過去の見聞から珍しいと思ったのは、梵鐘の池ノ間に、蓮華座上に種字(キリーク)がレリーフされている意匠です。下帯の回りには、植物文と、龍虎がレリーフされているように受け止めました。見誤っているかもしれませんが・・・・。予備知識がなく、思いも寄らぬところで出会えた、静かな雰囲気で気持ちの良いお寺でした。そこで、聖天尊を祀るお寺は京都にどれくらいあるのだろうか? という関心が芽生えます。私が訪れたことのあるお寺で知っているのは近い処から挙げてみますと、 宇治市 御蔵山聖天(宝寿寺) 京都市 伏見区 深草聖天 (嘉祥寺) 東山区 養源院 本尊は阿弥陀如来。秀吉の信仰した大聖歓喜天も安置。 東山区 安養寺 本尊は阿弥陀三尊立像。境内地の山側に聖天堂が所在。 東山区 青蓮院門跡「熾盛光如来」の曼荼羅(秘仏)。諸仏に歓喜天像も安置。 木津川市 加茂町 岩船寺 本尊は阿弥陀如来。境内に神社形式で聖天堂が所在。くらいです。一覧リストを作成されているページをみつけました。京都市だけでも30ヵ寺を超えるようです。歓喜天像の開示はほとんどないと思っています。厨子に入れて安置されているのを拝観するのが一般的です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 香雪院(京都市東山区) :「京都風光」2) 東山聖天参道【道標】 HI077 :「フィールド・ミュージアム京都」3) 歓喜天 :ウィキペディア4) 全国歓喜天奉納寺社一覧・西日本編 kwau氏の作成補遺聖天様 :「Flying Deity Tobifudo」歓喜天 :「コトバンク」象頭の秘仏 歓喜天(聖天) :「神使像めぐり」大聖歓喜天 :「オカルトの部屋」十五童子 :「曙光」(国分寺)木造弁才天及十五童子像 :「文化遺産オンライン」弁財天十六童子 :「鹿鳴文庫」童子信仰 :「神殿大観」嘉祥寺(深草聖天) :「京都観光Navi」養源院(ようげんいん) :「HIGASHIYAMA」安養寺(京都市東山区) :「京都風光」岩船寺 仏閣ノート :「まほろば実見室」images for 歓喜天 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・東山 新京都日吉神宮 -1 へスポット探訪 京都・東山 新日吉神宮 -2 へスポット探訪 京都・東山 佐藤継信・忠信墓、小松谷正林寺 へ
2017.03.23
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[探訪時期:2014年4月ほか] 宇治市植物公園から始めた観桜記の再録によるご紹介ですが、締めも地元の宇治のご紹介で、一旦この再録・ご紹介で終えたいと思います。訪れたのは観桜としては終わりに近い時季でした。別の機会に撮った対比的な記録写真も加えて、修正加筆し、再編集して、ご紹介します。それの方が役立つかも知れませんので・・・・。 地図(Mapion)はこちらからご覧ください。 冒頭の写真は、宇治川の畔、宇治神社の手前にある「京都府茶業会館」前の桜。まだ少し花の盛りをとどめています。かなり葉桜に。青葉が目に心地よくなってきました。 朝霧橋の畔にある浮舟像つまり「宇治十帖モニュメント」 このあたりも、桜の咲く枝にはほぼ葉桜が混じりあっています。(2010.4.3撮影) 対岸には左の塔の島と右の橘島を結ぶ朱色の「中の島橋」 花の盛りをとどめる桜の木がちらほら眺められる位になりました。桜花のいのちは短いものです。まさに諸行無常、生々流転の象徴です。モニュメント背後の朱色の橋が「朝霧橋」です。これは2007年「宇治川桜まつり」の見物に出かけたときの記録写真(2007.4.8)です。 朝霧橋の上から、塔の島(左)と橘島(右)を眺めた景色(2007.4.8) 朝霧橋の宇治公園(島側)から東岸を眺めた景色(2010.4.3) 塔の島と橘島に架かる中の島橋から眺めた東岸(2007.4.8)背後の山が「仏徳山」(標高131.8m)で、通称「大吉山」です。大吉山の呼び名で親しまれていて、私も後でこの山が「仏徳山」ということを知った次第です。山上は「大吉山風致公園」となっていて、中腹に展望台があります。(資料1)画像には写っていませんが、仏徳山の右手側、南東側に続くのが「朝日山」(標高124m)です。後に触れます。(資料2) 2010年「宇治川桜まつり」の折に撮った塔の島に建立された十三重塔です。(2010.4.3)島中に咲く「宇治川しだれ桜」 (2010.4.3) (2007.4.8) 塔の島と西岸を結ぶ「きせん橋」 橋の西詰にて興聖寺の書院の裏、山の麓の桜はもう葉桜 青空のもとで、薬医門の屋根の鬼瓦がそれなりにうまく撮れました。よく見ていただくと、左右の鬼の口許がちがうのです。数多くのお寺の鬼瓦を見ていくと、十鬼十色で、様々な表情がありおもしろい!薬医門をくぐってみれば、桜の木はこんな景色の中に位置づけられます。桜の盛りの時には、本堂前の庭の緑との対比がきれいなことでしょう。 龍宮門と琴坂は「いろはかえで」のみずみずしい青葉一色です。ここの秋の景色はすばらしいですよ。興聖寺については探訪記を再録しています。こちらをご覧ください。(3回シリーズのNo.1) 興聖寺から宇治橋に戻る途中での木々を眺めここまでが、2014年4月14日の午前中のひとときです。そこに記録写真を加えました。翌日、午後のひととき、一件用事を済ませてから自転車で散策しました。朝日山から仏徳山を巡って、宇治川左岸に回りました。平等院を宇治川堤からちょっと眺めてみたいためです。同じルートを行くのはおもしろくないので、宇治市源氏物語ミュージアムの北東側の山手からアプローチしました。坂道を自転車を押しながら登って、まずは朝日山へ。そこから山道づたいで隣の仏徳山(大吉山)に回ります。どちらも低山なので・・・・まあ、可能な範囲だろうと。私にはちょっとした冒険、チャレンジです。 朝日山の上には、朝日山観音堂、五輪塔、そしてその隣りに「莵道稚郎皇子之墓」が祀られているのです。京阪宇治駅から少し北東に行ったところ、宇治川のそばに、「莵道稚郎皇子御墓」というかなりの広さのある御陵があるのです。その一方、朝日山の頂上にこのお墓が・・・・。なぜでしょうか? ちょっと不思議・・・・。序でなのでこのことをご紹介しておきましょう。宇治川畔の御陵については、宇治十帖の浮舟の古蹟をご紹介した際にその関連で写真を載せて触れています。「浮舟蜻蛉の古蹟」再録・ご紹介の折です。こちらをご覧いただけるとうれしいです。朝日山で見かけたツツジの木。もう、そんな季節になってきました。自宅の小さな庭のツツジも咲き始めました。私のこの日の目的は、仏徳山の展望台から、修復工事が終わり拝観公開が再び始まった平等院の全景と桜を眺めることです。 これがその一枚。ハンディなデジカメのズーム機能で撮った写真ですので、それなりの写り具合でしかありませんが・・・・宇治川堤防沿いの桜は既に葉桜でした。宇治川畔の樹木が繁り、平等院鳳凰堂の前の池は全く見えません。仏徳山の坂道を下って行くと、宇治十帖の一つ、総角の古蹟碑の傍に出られます。この仏徳山の登り口は、宇治市源氏物語ミュージアムと宇治上神社との間です。神社の裏手、北側になります。 宇治上神社の正面参道横にある「早蕨の古蹟」の傍の桜は満開でした。総角と早蕨、宇治十帖モニュメントについては、以前にブログ記事を書いています。それを再録してご紹介しています。こちらをご覧いただけるとうれしいです。この後、宇治川右岸(東岸)から、宇治橋を渡って左岸(西岸)の堤防へ向かいます。そのねらいは、勿論、堤防側から鳳凰堂を垣間見るためです。 境内からは修学旅行生ご一行の声がにぎやかに聞こえてきました。修復の終わった鳳凰堂はこんな感じです。 2014年は、鳳凰堂拝観の再公開が始まって間がない頃でした。再開で混雑する時期をずらせて、落ち着いた頃にゆっくりと平等院を訪れ境内を散策したいと思っているうちに、はや数年が過ぎました。地元だとついつい・・・・。桜便りが始まる前に、事情により再録を兼ねた「桜への誘い」としての観桜記のご紹介を、これで終わりと致します。このシリーズのご一読ありがとうございます。また、お立ち寄りいただけるとうれしいです。参照資料1) 大吉山(仏徳山) :「京都宇治観光マップ」 大吉山(仏徳山) :「京都宇治土産.com」 大吉山(仏徳山) :「宇治市」2) 朝日の山から月の山へ(京都府宇治市・朝日山)-月の名所十二選余話-:「月と季節の暦」【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺京都・宇治・世界遺産 平等院 公式サイト興聖寺(宇治市) :ウィキペディア宇治茶道場「匠の館」 :「京都府茶業会議所」HP莵道稚郎子伝説(宇治市) 悲劇の皇子 墓二つ :「ふるさと昔語り」(京都新聞)平等院で鳳凰の金色再び 京都・宇治、報道陣に公開 2014.2.24 日本経済新聞「宇治の文化的景観」 宇治市発行 pdfファイル ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 観桜 -1 宇治市植物公園のライトアップ へ観照 [再録] 観桜 -2 宇治・黄檗の丘陵にて へ観照 [再録] 観桜 -3 京都 仁王門通(頂妙寺・妙雲院)、琵琶湖疏水、白川にて へ観照 [再録] 観桜 -4 知恩院、円山公園、祇園白川、鴨川、高瀬川 へ観照 [再録] 観桜 -5 京都・伏見 乃木神社にて へ観照 [再録] 観桜 -6 京都・伏見の水辺(1) 長建寺界隈と酒蔵、月見館 へ観照 [再録] 観桜 -7 京都・伏見の水辺(2) 蓬莱橋・京橋・出合橋に沿って へ観照 [再録] 観桜 -8 京都・伏見の水辺(3) 三栖神社御旅所(金井戸神社)、三栖閘門、伏見港公園 へ観照 [再録] 観桜 -9 京都御苑・京都御所の桜 へ
2017.03.23
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[探訪時期:2014年4月,2016年4月]2014年、京都御所・春の一般公開に出かけて京都御苑と京都御所の桜を眺めてきました。4月11日(金)は快晴に近い天気でしたので、御苑の桜を楽しめました。その時にブログを書いています。2016年の春にも一般公開の折に訪れました。その後2016年6月に「京都御所細見」として8回のシリーズにまとめて、京都御所についてはこの「遊心六中記 その2」でご紹介しています。このシリーズ作成以前に、観桜という視点でまとめてご紹介していました。2016年春には御苑の桜も眺めていますので、再録にあたり、2016年の記録写真も多少加えて再編集して、ご紹介します。冒頭の画像は、地下鉄今出川駅で降りて、京都御苑の西北に位置する「乾御門」から入ったところ、近衛池の方に足をのばすまでの手前にある桜です。 この画像は京都御苑内に立てられている案内図の一つです。こちらは「京都御所一般公開」のリーフレットから借用しました。「京都御苑案内図」のダウンロード用pdfはこちらからどうぞ。(「京都御苑」利用ガイドより) 北は今出川通、南は丸太町通、西は烏丸通、東はほぼ寺町通という、4つの通りに囲まれた区域が「京都御苑」と呼ばれています。その中に「京都御所」があり、春秋に一般公開されています。(尚、事前申し込みの手続きを経て御所を拝見できるシステムが別にあります。それには京都御苑内にある「大宮御所、仙洞御所」も含まれています。)「桜」に絞っていうならば、京都御所内よりも京都御苑の桜の方が見応えがあります。 「乾御門」近くから東の「石薬師御門」方向を眺めて 一般公開は「宜秋門」が入口ですので、京都御所の西の築地塀沿いに幅広い砂利道をまずは南に下ります。 これらは宮内庁京都事務所の近くから、「中立売御門」の手前あたりまでの桜です。そして、「宜秋門」の手前で少しの入場待ち行列の人々の後に並び、門の手前に特設されたテントのところで、簡単な手荷物検査を受けます。そして、宜秋門から京都御所内に。ここから、京都御所内の「桜」関連に絞ってのご紹介です。 「御車寄」の玄関玄関の上り口に今回は桜の枝だが生けられています。最初にあるのが、「諸大夫の間」と称される建物です。ここには、「桜の間」があります。 水墨画での障壁画を庭から拝見することになります。新御車寄の建物から、紫宸殿を囲む回廊の門、月華門・承明門を回り込んで、「日華門」から紫宸殿の建物の前に入るのです。日華門の左手(南)に三つの流派の生け花作品が展示されまています。 その一点に桜を生けた作品がありました。 紫宸殿「左近の桜」残念ながら桜の花を見られませんでした。紫宸殿の西側から清涼殿の庭、紫宸殿の背面・宜陽殿の東側の通路を経て、小御所・御学問所の建物の東にあるのが「御池庭」州浜の先の池端にあるのが桜の木だと思いますが・・・・ここもハズレで残念。この後、「御内庭」を拝見するのですが、桜には気づきませんでした。そして、「御常御殿・御三間」の建物の南面する庭の通路を通り抜けます、 杉戸に描かれているのは、多分桜の木でしょう・・・・・ね。通り抜けた後は、広々とした庭と広場のスペースがあります。 今回、ここの庭にある桜の花は 見応えがありました。 そして、「清所門」から京都御所を退出しました。 いくつか桜の木を眺めて、2014年の春には一旦京都御苑から外に出ました。再録にあたり、京都御所を出た後、御所の築地塀沿いに北の方に回り込んだ2016年4月の桜見物を加えておきます。「京都御苑あんない」図をご覧下さい。 五摂家のひとつ近衛家の屋敷のあったところで、今は池(近衛池)が残るだけです。この庭園の池の西側に大きな屋敷があったとか。駒札には、「池のほとりは、昔から糸桜の名所で、孝明天皇も次の歌を詠まれています。 昔より名にはきけども今日みればむべめかれせぬ糸さくらかな 」と記されています。 という桜景色が満喫できます。2014年の春は、京都御所を出たあと、烏丸通の西側にある護王神社に立ち寄ったのですが、桜は観られませんでした。近くで食事を済ませてから、丸太町通方向に行くために、烏丸通に面し北から3つめの「蛤御門」から入り、桜を見ながら京都御苑を南方向に通り抜けることにしました。 「出水(いずみ)の小川」のエリアの桜が満開でした。 このエリアは、 こんな感じです。私の経験の範囲では、北の「近衛池」エリアの「糸桜」と、中立売御門近くの「御車返しの桜」と呼ばれるところ。そして、南のこの「出水の小川」エリアが京都御苑内で自由に観桜できる場所としてお薦めです。京都御苑には、北から並べると、白雲神社、宗像神社、厳島神社が点在します。上記の図で各神社の位置はおわかりいただけるでしょう。何度もこの御苑を訪れながら、なぜだろう・・・と、思いつつ一歩踏み込まなかったのです。今回、序でに調べてみて理解できました。かつては、京都御所の周りには公家邸が立ち並んでいたのです。白雲神社は西園寺家、宗像神社は花山家、厳島神社は旧九条家、それぞれの家が祀る旧鎮守だったのです。(資料1,2)京都御所と京都御苑には数多くの門があります。それらはどんな由来や役割・機能を持っていたのでしょうか。現在の京都御所の門の名称は、平安京の内裏の門の名称を継承しているようです。勿論、平安京の内裏図と比較すると、その門の数は大きく減っていますが・・・。京都御所の築地塀の門から見ていきましょう。(資料3)建礼門: 正面入口の正門。天皇の帰居や国賓の来訪などの特別な行事の際に使用。 今春の一般公開では、開門されているのを見られました。宜秋門: 親王、宮家、摂家、門跡、公卿などが参内するときに使用。清所門: 皇子女の参内初めに使用。御所の勝手口、通用門。別名「御台所御門」 平安京の内裏図には、この名称はありません。建春門: 明治以来、皇后・皇太子が使用。勅使や外国の首相なども使用した門。朔平門: 裏門(北門)。女御など女性の参内で使用。皇后門: 西側の一番北の門。(名前から類推できそうですが、不詳です。)紫宸殿の回廊の門については、月華門: 右近衛府が警護を担当し詰所があったところ。「右近の陣」日華門: 左近衛府が警護を担当し詰所があったところ。「左近の陣」 諸儀式、節会等の通用門として使用。承明門: 天皇や上皇が即位後の出入りに使用。京都御苑の門については、多くは通りの名称と関連がありそうです。今出川御門→今出川通、中立売御門→中立売通、下立売御門→下立売通、堺町御門→堺町通、寺町御門→寺町通、石薬師御門→石薬師通という具合です。そこで残るのが、3つの門。蛤御門: もともとは「新在家御門」と称されていたそうです。「江戸時代の大火で、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため、『焼けて口開く蛤』にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになった」とか。天明8年(1788)の大火の折りのことです。幕末(1864年)には、京に攻め上ってきた長州軍がここに主力を集中したことで激戦地となり、歴史年表には「禁門の変」と記されていますが、「蛤御門の戦」「蛤御門の変」とも呼ばれたりします。(駒札、資料1,2)清和院御門: 現在の上京区七本松通一条上ル一観音寺町に移転した「清和院」に関係するようです。この門の東側が現在、染殿町と称されています。かつて、この辺りには藤原良房の邸があり、染殿第と称されたところ。良房の娘・明子(文德天皇の后で清和天皇の生母)の御所になりました。染殿第の南に仏心院(地蔵堂)が創建され、清和天皇は譲位後染殿第に移られ「清和院」と称されたとか。この「清和院」に由来するそうです。この地にあった「清和院」は寛文元年(1661)に御所の大火で類焼し、現在地に移転したのだそうです。(資料1、4)乾御門: この由来はなにだろうか。手許の本やネット検索で調べてみたが、明確な説明を入手できませんでした。推測できるのは、「乾」が方角名として、戌と亥の間、つまり北西を意味するので、シンプルに北西方向に位置する門という意味合いです。あくまで私見にすぎません。いずれにしても、考えていくと様々な情報や資料が結びついてきて、観照していく楽しさが味わえます。この時点での直近の新聞記事で知った興味深いことをいくつか追加でご紹介します。(資料5)*京都御苑は環境省の所管。その中の京都御所は宮内庁、京都迎賓館は内閣府が各所管する。京都御苑の広さは東西約700m、南北約1300m。*この地には約200軒の公家屋敷があった。1869(明治2)年の東京遷都で空き家になり荒廃した。1877年に明治天皇がこの地の保存を命じ、1987年に当時の府知事が京都御苑と命名。*西園寺公望が立命館大学の学祖とされるのは、1869年西園寺邸宅内に「私塾立命館」を創設したのが発端にある。西園寺の秘書官を務めた中川小十郎が1900年に私立京都法政学校を設立。中川が西園寺の許諾を得て立命館の名称継承したからという。*上記した白雲神社は、西園寺邸宅に祀られていた妙音堂がその起源。地元有志が尽力して存続するにあたり、現在の名称に変えたのだとか。祭神は妙音弁財天。名の通り、芸事上達のご利益があるそうだ。*白雲神社で絵馬の図柄や御朱印の印影に琵琶が描かれるのは、西園寺家が琵琶の宗家だったことに因むのだとか。*仙洞御所の南池の州浜には、楕円形で粒ぞろいの「一枡石」と呼ばれる石が約11万1000個使われているという。この石、小田原城主・大久保忠真(ただざね)が献上したもの。石1個と米1升の交換で領民から集めたという伝承があるそうな・・・。*京都御苑内では500種超の植物、100種類以上の野鳥が確認できるという。この日、「出水の小川」から先は「堺町御門」まで御苑内の南西区域を歩きました。その時「閑院宮邸跡庭園」が公開されていることをたまたま知りました。その時入手した資料によりますと「閑院邸跡」の区域は入場無料で通年公開されているそうです。お薦めですね。最後に、そこから得た関連情報をいくつか要約してご紹介します。*環境省の「京都御苑」HPの「お知らせ」に、京都御苑管理事務所が「京都御苑ニュース」(春号)のpdfファイルを掲載されています。こちらをクリックしてみてください。その2ページ目のイラスト地図に桜スポッがのマッピングされていて便利です。 これを見ると、拙記事冒頭の写真はヤマザクラで、御苑内全域に多いのがこの種類。「近衛第の糸桜」に触れていますが、シダレザクラです。中立売御門と清所門の間に位置する有名な桜は「車返桜」と表記されています(「京都御苑散策マップ 春」のリーフレットには、「車還桜」となっていますが)。「出水の小川」には、サトザクラが咲きます。その近くにもシダレザクラが咲いているスポットがあります。 *「京都御苑ニュース」(冬号)も当日入手しました。こちらに、「白雲神社の四季」と題して、白雲神社宮司・小栗栖元徳氏が寄稿されています。その一文には、この神社の年間の主行事の紹介と琵琶の図柄の御朱印図が載せられています。その一文の中で注目したのは記載です。「江戸中期の明和6年(1769)に赤八幡から現在地に移築され、その後も造営された西向きの本殿は神殿と幣殿と拝殿が繋がり、神社には珍しいお堂のような建物」という記述です。拙ブログ参照資料の補足として、引用しておきます。 詳しくは、こちらからご覧ください。上記HP内のバックナンバーを調べてみました。1ページ目の下段に載っています。*「京都御苑」HPの「公園紹介」にある「花ごよみ」はこちらからご覧ください。この辺で一旦「京都御苑・京都御所の桜」を終わりと致します。つづく参照資料1) 『昭和名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 p24-272) 『京都府の歴史散歩(上)』 山本四郎著 山川出版社 p1043) 『常用源氏物語要覧』 中野幸一編 武蔵野書院 「内裏図」(p9) 京都御所 :「京都通(京都観光・京都検定)百科事典」 4) 清和院御門 :「京都御所 京都御苑散策記」 5) 「古都ぶらり 京都御苑 歴史や自然満喫空間」朝日新聞 2014.4.19(土)朝刊【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺宮内庁 参観案内 :「宮内庁」 このページから、「オンライン申し込み」にリンクしています。 京都御苑 :「環境省」 京都御苑略図 :「宮内庁」 蛤御門 :ウィキペディア 幕末の京都御苑内・公家町地図 :「3D京都」 公家社会と京都 歴史資料館准教授 浜中邦弘氏 この資料の3ページ目に「京都御所宮家及び公家屋敷」の図が掲載されています。京の大べそ?!京都御苑探検 ウォーキング用マップ :「ポッドウォーク」 ルートA詳細マップ ルートB詳細マップ ルートC詳細マップ ルートD詳細マップ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 観桜 -1 宇治市植物公園のライトアップ へ観照 [再録] 観桜 -2 宇治・黄檗の丘陵にて へ観照 [再録] 観桜 -3 京都 仁王門通(頂妙寺・妙雲院)、琵琶湖疏水、白川にて へ観照 [再録] 観桜 -4 知恩院、円山公園、祇園白川、鴨川、高瀬川 へ観照 [再録] 観桜 -5 京都・伏見 乃木神社にて へ観照 [再録] 観桜 -6 京都・伏見の水辺(1) 長建寺界隈と酒蔵、月見館 へ観照 [再録] 観桜 -7 京都・伏見の水辺(2) 蓬莱橋・京橋・出合橋に沿って へ観照 [再録] 観桜 -8 京都・伏見の水辺(3) 三栖神社御旅所(金井戸神社)、三栖閘門、伏見港公園 へ観照 [再録] 観桜 -10 宇治川の畔 朝霧橋、浮舟像、興聖寺、朝日山と仏徳山&平等院 へ探訪 京都御所細見 -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間 へ 2016年6月に8回シリーズでご紹介しました。
2017.03.22
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[探訪時期:2014年4月]出合橋のところから、濠川に沿った道路を南に進んでいくと、「三栖神社」の石鳥居が見えました。この神社があるのを私は初めて知った次第です。そこで、探訪後に少し調べてみました。再録するにあたり確認するとインターネットの参照資料でアクセスできないものがあります。参照ソースの差し替えなど修正加筆により再編集しました。再録ですが前回同様、現時点の情報を加えてのご紹介です。今回ご紹介するところは、こちらの地図(Mapion)をご覧ください。 石鳥居に「三栖神社」という額が掛けられています。地図を見ると、「金井戸神社」と表記されていて、ここは「御旅所」という位置づけの境外神社です。3月下旬から2週間程度、夕刻6時から9時、桜のライトアップが行われるとか。(資料1)集落の拡大に伴い、御旅所が独立した形で「金井戸神社」と呼ばれるようになったそうです。(資料2)本社にあたる「三栖神社」はどこに所在するのか?金井戸神社の石鳥居の傍、濠川に架かる「肥後橋」を渡って、西方向に道沿いに進み、新高瀬川、油小路通・阪神高速8号京都線を横断したその先、突き当たりに所在します。上記の地図を少しシフトさせてみてください。ここは下三栖の南端に位置します。もともとこの地の産土神を祀っていたようです。「三栖は三洲・深須ともかかれた。古代末期には安楽寿院領、16世紀なかごろ左京大夫三好義継ぐが津田城を築いてここに拠った」(資料2)と言います。安楽寿院は伏見区竹田にあるお寺。そこはかつて院政の最盛期に白河・鳥羽上皇が鳥羽殿を造営した場所です。安楽寿院は鳥羽離宮の東殿の御堂を寺にしたもの。その寺領地だったそうです。金井戸神社に戻ります。石鳥居の傍に立つ「祭神天武天皇」と刻す石標 社殿この神社では、毎年10月に炬火祭(きょかさい)が行われています。ヨシで作った大きなタイマツを燃やしながら中書島から京橋まであたりを練り歩く行事だといいます。「今から約1300年余り前、壬申の乱の時、大海人皇子が近江朝廷との決戦に向かう途中、三栖地域を通られる際に、住民が炬火を灯し、暗夜を照らして、歓迎したという故実が謂われとされています。」大炬火(だいたいまつ)は、宇治川に自生する葭(よし)を使い、芯の直径が120cm、火がつけられる頭部は直径4mに及ぶというビッグサイズで、横に寝かせて32人の男衆が担ぐというのです。ここでも新日吉神社、粟田神社などと同様に、剣鉾が巡行伴われるということを、調べ直してみて知りました。「当日は、太鼓演奏に続き、剣鉾、高張り提灯、大炬火、神輿の順に、竹田街道を中書島駅付近から、京橋まで進みます。大炬火以外は京橋手前で折り返し、御旅所に戻ります。」(資料1)上記故実の伝承があるのですが、「しかし天武天皇の三栖村通過の記録はない」(資料3)とか。ただし、大友皇子軍と大海人皇子(天武天皇)軍が戦ったのが「壬申の乱」です。大海人皇子軍の紀阿閉麻呂(きのあべまろ)の指揮下にあった三輪君高市麻呂(みのわのきみたけちまろ)らが、木津川を下り、山崎から淀の南に布陣したころ、山崎に隠れていた大友皇子は自殺します。「その首を捧げて三栖を通過するのである。淀は古代豪族・・・大伴氏の支族の居住地であり、伏見(の紀伊郡)は紀氏の支流が広く住む地域である。今、晴れて大伴吹負と紀阿閉麻呂の軍をむかえたこの地の人びとの喜びは何ものにも替えがたいこのであったに違いない。おそらくこの三栖において、それを祝うような事実があったはずである。炬火行列の神事もそれにちなむものであろう」という推察が一書に記されています。(資料3)三栖神社の西側が濠川です。肥後橋を西に渡ります。 橋の上から 橋を渡って、橋西詰めあたりからの南を眺めて出合橋の地点から西岸は、三栖1丁目から順に5丁目まで、南方向に番号が大きくなって行きます。対岸の三栖神社(金井戸神社)は三栖向町です。 国土交通省淀川工事事務所伏見出張所構内の桜が見事です。入口から撮らせてもらった写真です。この構内はなぜか、三栖4丁目、5丁目のいずれにも属さず、葭島金井戸町の一部なのです。町域の区切りは面白いものです。 出張所構内の樹木の傍に見えたのがこの石標「新高瀬川□」「淀川維持」と記されています。新高瀬川の下の文字が読み取れません。地図での予備知識がないままで、この場所まで近づいて、「ああここがあの三栖閘門だったのか」と再認識した次第です。通り慣れない方向からアプローチした結果です。それでは、三栖閘門に近づいて行きましょう。説明板によると、昭和4年(1929)に造られた土木遺産なのです。その発想はスエズ運河などと同じなのですね。ゲート(閘門)が2箇所あります。「閘室内の水位を調節し、水位の違う濠川と宇治川を連続させて船を通す施設」(説明板)なのです。淀川水運が盛んに利用された時代、この閘門を通って伏見・大阪間を船が往来したのです。宇治川側の閘門の近く、川の中を一部使って何か建てられています。近づくと三十石舟の発着場でした。ここまで船で川めぐりができるようです。 石標には「建設省三栖閘門」と刻されています 北の閘門を眺めて閘門の背後は外環状線の三栖高架橋です。 宇治川を眺めて(南西方向です)閘門にある通路を対岸(東側)に渡ると、丁度、舟が巡ってきました。 桜の木の傍で、沖縄三味線(と思える)を練習している女性ペアを見かけました。天気が良かったので、気持ちいいでしょうね。 東岸側は、川沿いで高架橋の下をくぐると伏見港公園につながっていきます。 伏見港公園の一角、桜並木の散歩道濠川の岸沿いに戻ることにしました。 相撲場の近くから、対岸の芝生広場に架かる橋濠川の上流(北方向)方向の眺めこの後、川沿いに出合橋まで行き、宇治川派流に沿って写真を撮りながら、自転車をゆっくりと走らせました。蓬莱橋のところで、道路に戻り、序でなので「寺田屋」まで・・・。(「寺田屋」は、伏見探訪の一環として、いずれご紹介したいと思っています。)今回、事後に調べていて、「日本百選」というのが実に様々な観点から選ばれていることを認識しました。それがなんとデーターベース化されているのです。そこに、「京都府の日本百選」のデータベースが勿論含まれています。そして、「遊歩百選」の中に京都府では4ヶ所選ばれていて、その一つが「伏見地区」なのです。この「遊歩百選」というのは、読売新聞の50年記念の事業として全国から2002年に選ばれたものだとか。(資料4)三栖閘門の説明板に「濠川(ごうかわ)は「ほりかわ」とも呼ばれています」という尚書きがありました。ネット検索をしていてわかったのですが、この濠川は豊臣秀吉が伏見城を築城するとき、外堀として開削したのが始まりだったのです。だから「ほりかわ」というのもうなづける次第です。(資料5)伏見に生まれ育ったのでその地名に馴染み、その由来を深くは考えなかったのですが、今回調べていて、目からウロコでした。伏見の町で北から順に見知っていた橋の付く地名があります。津知橋、上板橋、丹波橋、下板橋。そして、毛利橋、阿波橋、肥後橋。これらは全部、外堀(濠川)に架かる橋だった!!・・・のです。東山の蹴上から岡崎公園の傍を通る琵琶湖疏水、それが京阪電車の本線に沿って東側を流れる疏水(鴨川運河)となり、伏見・墨染付近で暗渠から流れ出た水が流れる川を疏水と呼び慣れていたのですが、これが津知橋の近くだったのです。元の外堀が利用され整備されて、濠川となり三栖まで下って行くのです。そこに架かる橋名が伏見の地名に・・・・。破線が一本の直線につながってきました。観桜から思わぬ副産物を得ることができました。伏見の水辺ご紹介は一旦これで終わりとします。つづく参照資料1) 三栖の祭り情報ページ ホームページ2) 『京都府の歴史散歩(下)』 山本四郎著 山川出版社 p1153) 『新版 京・伏見 歴史の旅』 山本眞嗣著 山川出版社 p30-344) 京都府の日本百選 :「日本百選 都道府県別データベース」 遊歩百選 :「日本百選 都道府県別データベース」 日本百選 都道府県別データベース トップページ 5) 濠川,宇治川派流 pdfファイル :「京都市」 濠川 :「AGUA」 【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺伏見港 :ウィキペディア 伏見港公園 ホームページ京都 伏見の港 繁栄の歴史 概説 :「Mutsu.Nakanishi Home Page」 大変有益な情報です。写真や図が数多く使用されています。 遊歩百選 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 観桜 -1 宇治市植物公園のライトアップ へ観照 [再録] 観桜 -2 宇治・黄檗の丘陵にて へ観照 [再録] 観桜 -3 京都 仁王門通(頂妙寺・妙雲院)、琵琶湖疏水、白川にて へ観照 [再録] 観桜 -4 知恩院、円山公園、祇園白川、鴨川、高瀬川 へ観照 [再録] 観桜 -5 京都・伏見 乃木神社にて へ観照 [再録] 観桜 -6 京都・伏見の水辺(1) 長建寺界隈と酒蔵、月見館 へ観照 [再録] 観桜 -7 京都・伏見の水辺(2) 蓬莱橋・京橋・出合橋に沿って へ観照 [再録] 観桜 -9 京都御苑・京都御所の桜 へ観照 [再録] 観桜 -10 宇治川の畔 朝霧橋、浮舟像、興聖寺、朝日山と仏徳山&平等院 へ
2017.03.22
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[探訪時期:2014年4月]酒蔵を背景にした桜並木を眺めつつ川縁を北に進むと、川は西の方向に左折します。そのまま少し歩めば、「ほうらい橋」です。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 この橋を北に渡ると、その道は通称「竜馬通り」の商店街へと向かいます。初めて「竜馬通り」というのを目にした時は、その名にびっくりしたのですが、平成5年(1993)にそれまでの南納屋町商店会の法人化を機に、商店街の名称を変更したそうです。竜馬ブームの影響でしょう。こちらの名前の方がやはり今風にイメージアップし集客効果がありますよね。(資料1)一方、渡ってすぐの十字路を左折すればあの有名な「寺田屋」です。坂本龍馬、お龍、お登勢の名前が連想されることでしょう。寺田屋のあるこのあたりの地名は「南浜町」。江戸時代には伏見南浜港がこのあたり一帯で栄えていたことでしょう。 ほうらい橋上から西を眺めるとこんな景色伏見の古地図がネット検索で閲覧できるか調べて見ました。ありました!こちらの地図をご覧ください。「平安城鳳闕之図・平安城京之図・洛外之図」の地図資料の中で、左の地図「洛外之図」の右端に宇治川が描かれ、それが中書島のところで分岐しています。地図で見ると、豊後橋の下(つまり西)に平戸橋、ほうらい橋、京橋が架けられていたことがわかります。(資料2)また、「京都新名勝誌附録京都市之近郊図」では「観月橋」と記入され、宇治川が分岐した形は同じです。地図はこちらからご覧ください。(資料2)時代の変化を感じます。 ほうらい橋を振りかえり(東方向の眺め) そのまま川縁を西に歩むと、「京橋」です。京橋の近くは、まさに港があった雰囲気がわかります。たぶん現在の形のままではないかもしれませんが、船着場の景色を感じられる場所。かつての「伏見港」の中心地です。 京橋上から東方向の眺め9802 この南岸に現在、この像が建てられています。 「龍馬とお龍、愛の旅路」像(2013.5.5に撮った写真) この像の近辺の風景今は公園になっていて川と並行する形で橋が架かっています。この橋を渡って、右折すると京橋です。現在の橋は大正3年(1914)に架けられた古風さを残す鉄骨製の橋。(資料3) 京橋についての駒札をご覧ください。「江戸時代の伏見港は幕府公認の船で,過書船とよばれる船や三十石船,二十石船などが行き交う港町として賑わいました。・・・・慶長16年(1611)御朱印貿易により財を築いた角倉了以が,二条木屋町から東九条で鴨川と合流する高瀬川運河を築き,さらに南へと水路を掘りすすめ竹田から南浜へと延ばして淀川とつなぐことにより,京都と大坂が水路で結ばれました。中継地として水上交通の要となると,・・・・京橋付近が伏見港の中心で,参勤交代の西国大名の発着地となり本陣や脇本陣が置かれ,宿場町として多くの旅人で賑わいました。」(資料4)蓬莱浜のところにも建てられていますが、「宇治川派流域の歴史」についての説明板があり、往時の様子に思いを馳せることのできる情報です。また、江戸時代の『都名所図会』に「伏見舩場(みなと)」の図が載っています。引用させていただきます。(資料5)そして、「京橋の辺(ほとり)」の項に次のように記されています。「大坂より河瀬を引き登る舟着にて、夜の舟・昼の舟・あるは都に通ふ高瀬舟、宇治川くだる柴舟、かずかずこぞりてかまびすく、川辺の家には旅客をとどめ、驚忽なる声を出して饗応しけるも、この所の風儀(ならはし)なるべし」(資料6)もう一つ。「淀川両岸一覧」にも、「伏見京橋」の景色が描かれています。こちらも引用させていただきます。(資料7)さらにこの京橋は「伏見口の戦い激戦地跡」でもあるのです。 京橋上から西方向の眺め最初は京橋から川沿いの道路を自転車で走ったのですが、帰りは川縁を自転車で戻りました。 これは、京橋付近まで戻って来たときに出会った十石舟 西方向(出合橋方向)に進む景色 川沿いの道路(南側)からの眺め京橋から西に進むと、宇治川派流は、北から流れてくる「濠川」と合流します。その合流地点にかかるのが、伏見港「出合橋」です。 この「出合橋」付近の桜もきれいです。 2013.5.5にこの橋上で撮った写真出合橋を濠川の西岸に渡ったところは休憩所を兼ねた公園になっています。 ここに「角倉了以翁水利紀功碑」が建てられてます。 その傍に「伏見港と水路の変遷」説明板もあります。 左から、江戸時代、大正11年、昭和11年、昭和29年という形で、水路の変遷を図解説明されています。2013年5月に現地を訪れていますが、説明板が作り替えられていました。この図解で水路が大きく変貌していく姿をイメージできます。江戸時代には、寺田屋の前あたりが三十石舟の発着場として賑わい、当時は南北に「京橋水路」が存在したのです。昭和11年当時の水路図にも未だ存在します。それが、昭和22年の伏見港移築工事により、京橋水路が埋め立てられたのです。この後、濠川の流れに沿って、桜を観つつ宇治川への合流地点まで自転車散策です。つづく参照資料1) 竜馬通り商店街振興組合 :「京都観光Navi」 2) 国際日本文化研究センター 所蔵地図テータ-ベース 3)『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p1184) 港町伏見の繁栄 江戸時代~幕末 港湾商業都市の繁栄 :「伏見区」HP 5) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 巻5 41コマ目 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)6) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p967) 澱川両岸一覧. 上り船,下り船之部 / 暁晴翁 著述 ; 松川半山 画図 巻2 12コマ目 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館) 【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺伏見港の歴史案内 :「京都府」ホームページ 寺田屋事件 :ウィキペディア 寺田屋 HU040 :「フィールド・ミュージアム京都」伏見口の戦い激戦地跡 HU156 :「フィールド・ミュージアム京都」 鳥羽伏見の戦 :ウィキペディア 高瀬川 :ウィキペディア 京橋 懐かしの写真館 :「伏見区」ホームページ 京橋 「都百景」「伏見京橋」:「名所画像データベース」(立命館大学) 伏見の京橋 「都名所手引案内」:「名所画像データベース」(立命館大学) 中書島(東・西柳町)「地名シリーズ」:「おもしろ伏見の歴史」 蓬莱橋と京橋そして今福橋が円山応挙に描かれた図と詳しい解説があり、秀逸です。 『淀川両岸一覧』から捉えた近世の水辺空間の魅力の解明 大阪府立大学大学院生命環境科学研究科 岩﨑雄太郎氏他共著 観桜からは外れますが、興味深く勉強になる論文です。龍馬通り商店街 京の商店街散歩 :「ザ・京都」龍馬通り商店街 :「ざ・しょうてんがい」(京都府の商店街魅力発見) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 観桜 -1 宇治市植物公園のライトアップ へ観照 [再録] 観桜 -2 宇治・黄檗の丘陵にて へ観照 [再録] 観桜 -3 京都 仁王門通(頂妙寺・妙雲院)、琵琶湖疏水、白川にて へ観照 [再録] 観桜 -4 知恩院、円山公園、祇園白川、鴨川、高瀬川 へ観照 [再録] 観桜 -5 京都・伏見 乃木神社にて へ観照 [再録] 観桜 -6 京都・伏見の水辺(1) 長建寺界隈と酒蔵、月見館 へ観照 [再録] 観桜 -8 京都・伏見の水辺(3) 三栖神社御旅所(金井戸神社)、三栖閘門、伏見港公園 へ観照 [再録] 観桜 -9 京都御苑・京都御所の桜 へ観照 [再録] 観桜 -10 宇治川の畔 朝霧橋、浮舟像、興聖寺、朝日山と仏徳山&平等院 へ
2017.03.21
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[探訪時期:2014年4月]老母に同行して墓参りに行った帰路の乃木神社での観桜は前回再録によりご紹介しました。その数日後、伏見の桜を眺めたくなり、自転車散策に出かけています。その折の記録を再録しご紹介します。もうすぐ、桜便りで伏見も取り上げられることでしょう。冒頭写真は、京都・伏見の景色としては馴染みのある場所だろうと思います。長建寺の楼門前を流れる宇治川派流の川沿いに見られる景色です。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。 この写真は、長建寺に行く手前の橋から京阪電車の架橋を眺めた景色。京阪電車が橋を通過しているところです。ここには十石舟が係留されていることが多いです。三条方面に向かう電車に乗っていると、電車が京阪中書島駅を出た直後、進行方向左手の窓外にこの川と舟をご覧になれるでしょう。 それでは長建寺の桜から観ていきましょう。 「弁財天長建寺」の石標と駒札長建寺は築地塀がベンガラ色に塗られたお寺。これが意外としっくりした感じ・・・・。東光山と号し、真言宗醍醐派のお寺です。寺の起こりは駒札をお読みください。本堂には本尊八臂弁財天が祀られています。音楽をつかさどる神として花柳界の人達の信仰を集めたとか。中書島という現在の地名は俗称で、正しくは柳町と言いました。文禄年間、脇坂安治中務少輔が芦萩の生い茂る河州をひらいて屋敷を構えたのが起こりで、中務を中国風に中書としるすことから、脇坂侯を敬称して『中書さん』とよんだのが地名の起こりになったつたえています。(資料1) この駒札は長建寺境内で撮った写真(2013.5.5)です。伏見廃城後この地は荒廃したそうですが、「元禄12年(1699)、伏見奉行建部内匠頭が阿波橋の西にあった柳町の遊女を集めて遊里とし、旧地に因んで柳町と称し、東柳町と西柳町の二つに分けた」といいます。(資料1)江戸時代においても、淀川は京都を結ぶ水上交通路であり、伏見は京都への入口でしたから、ここの遊郭は旅客や船頭たちを顧客として栄えたようです。この中書島遊郭とともに、「島の弁天さん」と呼ばれて信仰を集めた長建寺も発展したようです。中書島遊郭は、他地域と同様に、昭和33年(1958)売春禁止法によって、廃止消滅したのです。高浜虚子がこんな句を詠んでいます。この句碑が長建寺境内に建てられています。 花人の落合ふ駅や中書島 (2013.5.5に拝観した時に撮った写真です)1月の行事、「伏見五福めぐり」の1ヵ所になっています。(資料2)「伏見五福めぐり」というのは、長建寺・藤森神社・大黒寺・乃木神社・御香宮神社の五ヵ所です。脇道ですが、七福神めぐりをちょっと調べてみて、おもしろいことに気づきました。「都七福神めぐり」は、 恵比寿神社、妙円寺、東寺、六波羅密寺、赤山禅院、行願寺(革堂),万福寺を巡ります。これが定番です。しかし、、別の組み合わせの七福神めぐりもあるようです。ひとつは「京都七福神」として紹介されています。同じ神様の順に並べてみます。 護浄院、妙円寺、廬山寺、妙音堂、遣迎院、行願寺(革堂)、大福寺同様に、「京洛七福神」というのも。 恵比寿神社、妙円寺、山科毘沙門堂、妙音堂、護浄院、行願寺(革堂)、長楽寺京都エリアには、寺社が数多くあるのですから、これもありですね。 (資料3)以前、非公開文化財の特別公開の折に、この長建寺を拝観していますので、今回は山門の入口から一歩入った景色だけ、写真に撮らせていただきました。 長建寺門前が「辨天浜」と呼ばれるところです。この浜の北側がかつては「伏見南浜港」でした。 この長建寺前の川の対岸堤が、十石舟観光の発着所になっています。今年(2017)の「十石舟のご案内」はこちらをご覧ください。 [運航期間:平成29年3月25日(土)~12月3日(日) ただし、8月は11~16日] (資料4) 川を往来する十石舟 長建寺前の川に沿った道路を数十メートル北に歩むと、対岸に酒蔵が見えます。 この辺りが最も風情を感じる場所でもあります。 長建寺前まで行く際、山科川・宇治川の堤防の上を自転車でのんびりと走りました。豊臣秀吉が伏見城を築城し、豊後橋を架けたあたりは、現在宇治川に架かる「観月橋」という名称となり、国道24号線の幹線になっています。 観月橋のすぐ傍が京阪電車の観月橋駅、そしてそのすぐ東に「料理旅館月見館」があります。ホームページはこちらをご覧ください。この月見館の桜も満開で見事でした。最後に触れておきましょう。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p120-121 2) 伏見五福めぐり :「e-KYOTO まるごと京都ポータルサイト」 3) 日本最古 都七福神まいり トップページ 都七福神めぐり :「e-KYOTO まるごと京都ポータルサイト」 都七福神めぐり :「京都観光Navi」 京都七福神めぐり :「七福神巡りウォーキング」 京都七福神めぐり :「京都卑食アカデミー」 京洛七福神めぐり :「七福神巡りウォーキング」 4) 十石舟と三十石船(平成29年度) :「NPO法人 伏見観光協会」 ホームページはこちらです。 【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺脇坂安治 :ウィキペディア 建部政宇 :ウィキペディア 伏見奉行 :「コトバンク」 遠国奉行 :ウィキペディア 伏見の酒について :「伏見の清酒 伏見酒造組合」 月桂冠大蔵記念館 ホームページ この敷地にある建物の裏手(西側)がちょうど冒頭写真の位置になります。チュウショジマ・コム :「中書島繁栄会」 地元情報はこちらからどうぞ。 七福神 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 観桜 -1 宇治市植物公園のライトアップ へ観照 [再録] 観桜 -2 宇治・黄檗の丘陵にて へ観照 [再録] 観桜 -3 京都 仁王門通(頂妙寺・妙雲院)、琵琶湖疏水、白川にて へ観照 [再録] 観桜 -4 知恩院、円山公園、祇園白川、鴨川、高瀬川 へ観照 [再録] 観桜 -5 京都・伏見 乃木神社にて へ観照 [再録] 観桜 -7 京都・伏見の水辺(2) 蓬莱橋・京橋・出合橋に沿って へ観照 [再録] 観桜 -8 京都・伏見の水辺(3) 三栖神社御旅所(金井戸神社)、三栖閘門、伏見港公園 へ観照 [再録] 観桜 -9 京都御苑・京都御所の桜 へ観照 [再録] 観桜 -10 宇治川の畔 朝霧橋、浮舟像、興聖寺、朝日山と仏徳山&平等院
2017.03.21
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2014年4月7日(月)に、老母のたっての希望で、久々に墓参りに連れて行きました。快晴で気持ちのよい日です。帰路の途中にあることから、桃山御陵参道の南に位置する乃木神社に立ち寄りました。神社境内の桜を眺めようという目的です。冒頭の写真は、楼門を入ったすぐ左側の桜の木。ちょうど満開でした。桜の傍の石碑と神社の名称でおわかりかと思いますが、明治天皇に殉死した乃木希典(まれすけ)夫妻を祭神として、大正5年(1916)に創祀された神社です。桃山御陵の傍をしばしば通るのですが、この境内まで入ることは久々でした。東京の乃木坂に乃木神社がありますね。こちらをご覧ください。乃木将軍は台湾総督だった時期があり、この楼門(四脚門)はその記念として台湾阿里山の桧材を用いて作られたそうです。扉はつぎ目なしの1枚板が使用されています。(資料1)石碑の近くには、軍艦「吾妻」の主錨が置かれ、その前に「蒼海に眠る若人の碑」と刻された石碑が建てられています。「吾妻」は日露戦争の時、日本海海戦に関与した軍艦です。フランスのロワール社から購入した最初期の装甲巡洋艦。(資料2) 参道を進むと、菊桃の木とその先に松の木が見えます。その傍に「乃木三典一靜之松」という石標が建てられています。調べて見ますと、三典というのは、父親希典と長男の勝典、次男の保典の3人を指すようです。すると一静というのは、静子夫人のことでしょう。同時代の人々には「三典」という言葉を聞くだけで即座に意味がわかったのだと思います。私がこの石標を意識的に読み直したのは、境内を去る前に、石標の背面(右写真)の冒頭「明智左馬介光俊」という文字が目に止まったからなのです。思わぬところで、「明智左馬介」という文字を見つけたことによります。 参道傍には、なぜか「さざれ石」もあります。 拝殿そして、2頭の躍動する馬を彫刻した絵馬額が懸けられています。乃木将軍の愛馬 “壽(す)号”(親)、 “璞(あらたま)号”(子) の姿だそうです。後藤貞行作。 拝殿前に愛馬璞号の像。その後に桜。 拝殿の先に本殿が見えます。この本殿は通常神殿が南面か東面するのに対し、北面しているのです。東面して桃山御陵に背を向けるのではなく、北面して「明治天皇陵を守護すべく配慮されたものであろう」とも解されています。(資料1) 拝殿に向かって右側に、現在は「山城えびす神社」が祀られています。以前は「靜魂七福社」だったそうです。 拝殿の左側の桜の木が満開できれいでした。 桜の下に見える銅像はこの乃木神社創建者・村野山人翁の像と記されています。社務所の近くに、これまたなぜか獅子の石像が置かれています。絵馬堂横の桜の眺め 調べていて少し情報を得られました。この獅子はもとは板倉屋敷にあったものといわれているそうです。この乃木神社の境内は伏見区桃山町板倉周防です。この地にかつて板倉周防守の屋敷があったところなのです。ここの境内にはいくつか特徴がありますので、ご紹介しておきましょう。乃木家の長府(山口県)旧邸が建てられています(模造建物)。父親から訓戒を受ける少年希典の像が置かれています。 その前に置かれているのが、「乃木家の家庭訓『いろは数え歌』」です。かつての乃木家では、父・希十郎が毎朝出仕する前に、息子の希典に一条の教示をするという習慣があったのだそうです。その家庭訓が「いろは数え歌」として遺されたもの。戦前の修身教科書という感がします。しかし、人生訓としては興味深いものがあります。要は受け止め方の問題でしょうか。 乃木希典が学習院長だった時代の胸像が境内に建立されています。小倉右一郎作。その先に見える建物 これは乃木将軍が旅順攻撃の際、第三軍司令部として用いた中国の民家だそうです。 「中国東北部柳樹房で、乃木は一年間使っていたという。・・・神社の創建時に、現地の民家家主・周玉徳、周金夫妻から買い上げて移築した」のだそうです。(資料3)記念館となっていて、中には祖霊神が祀られています。この建物の隣りには土蔵形式の宝物館があります。その右手前には乃木希典の歌碑が建立されています。 そして、小さなお地蔵さまの小祠も。最後に、乃木家の「いろは数え歌」を引用させていただきましょう。「現代においては理解できない言葉を一部書き改め、旧仮名使いのまま」で記されているとのこと。現代でも読んでそのままストレートに通じる歌も多々含まれています。歌の意図・主旨を理解し思索すると、語句の読み替えなどで人生訓として普遍的な精神を読み取れるように思います。如何ですか?い 幼(いとけ)なき小供に判るいろは歌読んで覚えて正義(まこと)行へ。ろ 禄禄に知らぬ事をば談(はな)すなよ深く問われて恥をかくなり。は 箸持(と)らば主人と親の恩を知れ吾が一力で飲食(くふ)と思ふな。に 日本の教の基(もとい)は仁義礼智信忠孝の道と忘れ給ふな。ほ 方針の定めなき身は頼りなし只一念に家業励めよ。へ 平常に手習嫌ひな子供衆は試験の時に恥をかくなり。と 取り遣りと世間の義理を欠かすなよ勤めて家は倹約にせよ。ち 智慧のある人程ものに自慢せず能ある鷹は爪を隠すぞ。り 利巧じゃと褒めるは親の愚痴心褒め損ひが多くあるもの。ぬ 縫ひ針は女の業の司なり覚えて暮らせ一生の得。る 流浪する人の身元を尋ぬれば栄耀豪奢の報ひなり。を 上司(おかみ)より時々(じじ)に振れ出す御注意を守り給へよ部下の人。わ 我儘は世間の人に憎まれて損はあれども得はないぞよ。か 堪忍は吾が身の為と思ふべし人に堪忍すると思ふな。よ 養生は身の働きが第一よ流るる水の腐敗(くさ)らぬを見よ。た 大切な親の御恩を忘るるな無理があるとも言葉返すな。れ 霊薬は口に苦くも身の薬甘き言葉(くち)には油断ならぬぞ。そ 算盤と読み書く事を精出せよ奉公するとも頭(かみ)に立つべし。つ 常に火を燈(とも)して金を延ばすとも慈悲心なくば最後は暗黒。ね 寝る時も其の儘足を延ばすなよ先祖と親に礼をしてから。な 成るべくは無駄なる事に出歩くな雪駄の金より減る家の金。ら 楽さうに絹着る人は楽ならず木綿物着る気こそ楽なり。む 睦まじく家(うち)を暮すは堪忍の袋へ事を収め置くから。う 狼狽(うろたへ)て欲に惚けたら家倉も人の財布の中に入るぞ。ゐ 何時とても変わらぬ朝の早起きは大金持の神が宿るぞ。の 飲み喰ひに豪奢(おご)れば遂に身の毒となりて病気(やまひ)に増(まさ)る貧病お 恩受けし人を忘れて仇するな大事にかけて恩を返せよ。く 苦は楽の種だと思ひ働けば天の恵みで楽は来るなり。や 安々と暮すは吾が身の徳ならず先祖と親のお陰と喜べ。ま 継父母(ままおや)に育てられたら尚更に産(うみ)の親より大切にせよ。け 家来とて邪慳にすれば御主人の恩を忘れて仇をするなり。ふ 不孝なる者は必ず天罰で身の行く末に良き事はなし。こ 此の節は議論に強く理に敗(まけ)ず文字明るき人ぞ賢き。え 益もなく使ふ金をば義理にせよまさかの時の用も便じる。て 出来るなら人の無心は聞てやれ吾れは云わずと窘(たひな)むがよし。あ 朝寝して居れば入り来る病神貧乏神が後押をして。さ 幸を招く基は朝晩に先祖に向ひて手をば合せよ。き 金銭は使ひ失(なく)せば人のもの手にある職は大事なりけり。ゆ 遊芸は扨(さ)て二の次よ算盤と読書(よみか)く事を第一にせよ。め 召使ふ年期者をば撫恤(いたはれ)よ吾が子の可愛さ思い比較(くらべ)て。み 身持ちよくするは其の身の徳なるぞ人も褒むれば親も喜ぶ。し 親切に人の世話をば仕て置けよ廻り廻りてよき事ぞ来る。ゑ 遠国の親戚とても間に合ず近くの他人は大事なりけり。ひ 百姓は種子を絶やすな公事するな鍬を放すな朝起きをせよ。も 物事は堪忍の二字を胸にあて短気慎め喧嘩口論。せ 聖人の教へと云ふも外(ほか)ならず質素倹約忠と孝行。す 末々の事を思へば大切に家業大事と勤め励めよ。京(みやこ) 今日よりも明日を大事と両親(ふたおや)に孝行せよや四方の人々。吉井勇が「京洛史蹟歌」として詠んだ歌があります。(資料1) 旅順より移し植えたる二もとの棗(なつめ)繁れり君はあらぬにつづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p129-1312) 吾妻(装甲巡洋艦)3) 乃木神社(伏見区) :「京都風光」 【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺乃木希典 :ウィキペディア 乃木希典の殉死 :「四国の山なみ」 後三典歌 私の詩吟日記 :「詩吟神風流藤が丘支部」 乃木三典歌 :Youtube村野山人 :「ぶらり重兵衛の歴史探訪2」 村野山人:「海鳴りやまず」 日露戦争特別展-公文書に見る日露戦争-:「国立公文書館アジア歴史資料センター」 旅順攻囲戦 :ウィキペディア 巡洋戦艦 板倉勝静 :ウィキペディア 板倉重宗 :ウィキペディア これ以上「乃木希典」氏に関する歴史捏造を許してはならない :「美しき世の面影」日露戦争多数の死者に自責の念 乃木大将「養子とらず家断絶」書簡 2012.1.14 :「J-CASTニュース」 乃木家と三吉家 :「幕末散歩」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 観桜 -1 宇治市植物公園のライトアップ へ観照 [再録] 観桜 -2 宇治・黄檗の丘陵にて へ観照 [再録] 観桜 -3 京都 仁王門通(頂妙寺・妙雲院)、琵琶湖疏水、白川にて へ観照 [再録] 観桜 -4 知恩院、円山公園、祇園白川、鴨川、高瀬川 へ観照 [再録] 観桜 -6 京都・伏見の水辺(1) 長建寺界隈と酒蔵、月見館 へ観照 [再録] 観桜 -7 京都・伏見の水辺(2) 蓬莱橋・京橋・出合橋に沿って へ観照 [再録] 観桜 -8 京都・伏見の水辺(3) 三栖神社御旅所(金井戸神社)、三栖閘門、伏見港公園 へ観照 [再録] 観桜 -9 京都御苑・京都御所の桜 へ観照 [再録] 観桜 -10 宇治川の畔 朝霧橋、浮舟像、興聖寺、朝日山と仏徳山&平等院
2017.03.21
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この画像は、2016年8月に「京都国立博物館の建物と庭」でご紹介をしています。現在は平成知新館の西側にある芝生の庭に建てられている「馬町十三重石塔」です。説明板では、この石塔二基が馬町(東山区渋谷通東大路東入ル)の路地裏にあったと説明しています。ここに引用した『都名所図会』所載の「継信忠信塔」の絵図(資料1)を説明板に載せています。そして「源義経の家人、佐藤継信・忠信兄弟の墓と伝えられていた。・・・北塔は五層、南塔は三層となり、地震で落ちたと思われる上層の石は、塚の土留として残されていたという」と記されています。1940年解体修理が行われ、現在の十三重塔の姿に復元されたそうです。私は、京博の庭の以前の場所に立っている状態の時以降しか知りません。『都名所図会』に描かれた場所が、どのあたりか一度探訪したいと思っていたのです。ある講座を聴講していて、佐藤継信・忠信墓跡の石標のスライド写真を見たことで、所在地を確認できました。そこで、今年2月に訪ねてみました。 「佐藤継信・忠信之塚」とあるこの石標、比較的わかりやすいところにありました。東山七条の交差点の北東角が妙法院です。妙法院前の南北の通り、東大路通を北に進むと、馬町の交差点です。東大路通と渋谷通が交差しています。ここを左折して、渋谷通に入り、東に少し歩くと、北側の通り沿いにこの石標が立っています。この石標の北側、幅の狭い路地を少し入ったところが、民家の裏、路地裏に「継信忠信塔」があると記された場所だったのです。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。 今は、通りに面した民家の裏の平地になっている空き地のお地蔵様が祀られた傍に、「佐藤継信・忠信之墓」と刻された墓碑が立っているだけです。かつては、このあたりに上掲の絵図のような塚があったのでしょう。この墓碑の斜め前方に見かけたのが、この一画です。こちらは、玉垣で囲われています。 表面がかなり剥落している石碑と「佐藤文襄翁之碑」が建立されています。こちらの方には、このような詳しい説明板が掲示されています。要点を箇条書きにしてご紹介します。*石碑は「佐藤政養招魂之碑」であり、佐藤継信・忠信兄弟は佐藤政養の先祖との伝承がある。文襄は政養の父である。文襄の碑は政養が建立。招魂之碑は、政養の妻岸子の願いによりこの地に建立。尚、佐藤政養は東京青山墓地に葬られている。*佐藤政養が明治9年(1876)、病により職を辞する直前にこの塚があった土地を購入した。*佐藤政養(1821~1877)は勝海舟門下の逸材で、土木、測量の技術をもち、近代日本の建設に貢献。1861年に地図の模範といわれる『新刊與地全図』を公刊した人という。*神戸海軍操練所の教授方、勝海軍塾の塾頭で、坂本龍馬の兄弟子にあたるとのこと。*明治維新後、地理検分を任じられ、新橋・横浜間の鉄道敷設に尽力した。*測量学や土木学を教授する私塾を開き、鉄道技術者の育成に努めた。*「日本鉄道の父」と称される人物。この後、緩やかな上り坂になっている渋谷通を少し東へ歩いてみることにしました。予備知識なしでの散策です。上って行くと、北側の路傍に少し異質な一画があります。大きな白い前掛けが掛けられているのでお地蔵様とは断定しがたいのですが、それらしき小祠があります。そのそばに、「龍橋辨財天」と刻された碑や、供花で隠れてみえませんが、神名なのか墓碑名なのか不明の碑などが集まっています。なぜ「龍橋」と「橋」が入った名称なのか? 少しネット検索で調べててみました。この辺りに川が流れていて、橋が架かっていたようです。通りの反対側に橋の欄干が壁に埋め込まれた形で残っているそうです。かつての橋との関わりがあるのかも知れません。(資料2,3) 上掲の地図(Mapion)を拡大して詳細図にしますと、暗渠になっている箇所だとわかります。 その先に進むと、北方向に下って行く道路との分岐点に道標が立っていて、左、つまり北に坂道を下って行けば、大谷や清水に至ることを示しています。京都女子大学の学舎を通りの両側に見ながら、もう少し東進すると渋谷通が分岐します。後で地図を見ると、両方に渋谷通と表示されています。東海道に入る手前でまず2つの渋谷通が合流しています。旧道と新道ということでしょう。新道側の先に、大きなお寺が見えます。ここまで探訪してみることにしました。 参道の石段を登り始めると、右側に「上馬町 小松谷地蔵尊」の額が掛けられた地蔵堂があり、「円光大師旧跡」碑が立っています。円光大師というのは法然上人のことで、勅諡号としての名称です。 左側には、「小松谷御坊旧跡」と刻した石標が見えます。碑文が刻まれた様な石碑も。『都名所図会』を読むと、「この地はむかし月輪禅定兼実公の御所なり。小松殿といふ。法然上人この殿の御堂におはしましけると『黒谷伝記』にあり」と記し、 千年ふる小松のもとをすみかにて無量寿仏の迎へをぞまつ 源空上人という歌を載せています。(資料4)月輪禅定兼実公とは九条兼実のこと。藤原氏の一支族で五摂家の一つ。兼実が九条家の始祖となります。京都九条殿に居住していたことから九条家と呼ばれることになったのでしょう。源頼朝と結びその推薦で摂政・関白となります。法然上人を崇敬し、帰依します。月輪というのも、兼実が造営した月輪殿に由来します。法然の専修念仏、浄土宗の説明では『選択本願念仏集』に必ず触れられますが、この書がまとめられたのも、九条兼実の懇請によるものとして知られています。(資料5)法然上人は建永元年(1206)7月、東山吉水の庵室より、こちらに移り住まわれ、終焉の地とするつもりだったようですが、翌年に住蓮坊・安楽坊の事件に連座するという法難を受け、四国流罪の身となられます。75歳のときに小松谷坊から旅立たれることになったのです。(資料6,7) 大きな表門です。「小松谷」と記された扁額が楼上に掛けられています。小松谷というのは、馬町より北の音羽川の渓谷を称した地名のようですが、景色の変貌もあり今は使われていないそうです。平安時代末期、この辺りに小松内大臣・平重盛の別邸(小松殿)があったそうです。それが平家没落後に、関白九条兼実の山荘となったのです。そして、上記につながるという次第。(資料6,7)脇道に逸れますが、平重盛がここに別邸を構えていたときのことが『源平盛衰記』巻11の「灯籠大臣の事」に記されているのです。重盛は、別邸内に東西南北各十二間の持仏堂を建て、一間に一体ずつ48体の阿弥陀仏(十二光仏)を安置し、それぞれに灯籠をかかげ、16~20歳の48人の女房たちに毎夕一灯ずつ火をささげさせたたと言います。 心のやみの深さをば、灯籠の火こそ照らすなれ、弥陀の誓ひをたのむ身は、 照らさぬところはなかりけると唱えながら、6人ずつの組を作り、堂の周囲をめぐって礼讃行道をさせて、重盛は中台に坐してこれを聴聞したといいます。このことから灯籠堂と呼ばれ、重盛は灯籠大臣と称されたそうです。重盛は1179年に病没します。その邸を九条兼実が買収し、山荘としたのです。(資料7,8) 蟇股と木鼻は比較的シンプルです。 三間一戸八脚門の形式です。中央の門扉の左右には、推測ですが脇扉らしき形が見えます。花頭窓を連想させる枠の形状です。この表門で特に魅了されるのは、中央の門扉の上部の龍の彫刻です。 山門の門扉の上部にこれだけ大きな龍像の彫刻を見かけた記憶がありません。見応えのある堂々たる龍です。竜眼と玉が白く塗られているのが一つのアクセントになり、竜眼がまさに光る趣を漂わせています。 境内から眺めた表門参道を進むと斜め正面に庫裡が見えます。その右側に大玄関があり、その続きに太師堂、大方丈、そして前方には本堂が見えます。鉄製の黒い門扉が閉じられていましたので、その手前で全体を眺めて、引き返しました。幼稚園を経営されていて、境内が園庭にもなっているようです。 『都名所図会』にも絵図入りで紹介されているお寺です。引用させていただきます。(資料1)このお寺、小松山と号する浄土宗の寺で、もとは北野真盛町にあったそうです。それを「享保年間(1716-36)恵空上人が師の義山上人の遺命を奉じ、法然上人小松谷房址に近いこの地をえらんで移建された。再建にあたっては九条家の庇護をうけ」たといいます。(資料7)法然上人二十五霊場の第14番に位置づけられています。機会を見つけて、再訪し境内を拝見できるか尋ねてみようと思っています。少なくとも、手軽に拝見できる山門だけでも、見応えがあると思いますよ。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 巻の3 17コマ・20コマ :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)2) 馬町通の清水音羽川付近 :「TREK-Y5 KYOTO (マウンテンバイク)」3) 清水音羽川(前編) 2008/04/20 :「検索河川レポート一覧」4) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p235,237,2425) 九条兼実(1149-1207) あらゆる階層の帰依者たち :「浄土宗」6) 正林寺 :「法然上人二十五霊場」7) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p133-1388) 源平盛衰記(国民文庫)全巻 入力者 荒山慶一氏 :「J-text.com」 巻11 S1105 燈炉大臣事 p254-256 補遺小松谷 正林寺 :「京都観光Navi」法然上人二十五霊場 第14番 京都 小松谷正林寺 :「浄土宗」小松谷正林寺(平重盛阿弥陀経石 ) :「平家物語・義経伝説の史跡を巡る」小松谷正林寺 :「京都を歩くアルバム」平清盛 ~平重盛屋敷跡 小松谷 正林寺~ :「ねこづらどき」小松谷児童館 :「京都市の児童館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・東山 新日吉神宮 -1 へスポット探訪 京都・東山 新日吉神宮 -2 へスポット探訪 京都・東山 香雪院(東山聖天尊・弁財天) へ探訪 京都国立博物館 建物と庭 -2 馬町十三重石塔・正門・西の庭 へ
2017.03.21
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[探訪時期:2014年4月]冒頭写真は、浄土宗総本山知恩院の三門です。三門両脇の桜が見事に満開です。再録によるご紹介のつづきです。五間三戸、重層の入母屋造本瓦葺。高さ24m、横幅50m、屋根瓦約7万枚だとか。元和7年(1621)德川2代将軍秀忠による建立。平成14年(2002)に国宝に指定されています。わが国最大の楼門だそうです。楼上に掲げられた扁額「華頂山」は霊元天皇宸筆だとか。この額、見上げていると小さく見えますが、畳二畳以上の大きさだそうです。知らなかった! 左右に山廊を備えた唐様建築です。(資料1、2)仁王門通から白川端の桜を眺め、直近の細い道路から三条通に出た後、三条神宮道の交差点から神宮道の緩やかな坂道を南下して行くと、青蓮院の南隣りが知恩院です。午後5時前でしたので、知恩院も閉門していました。 黒門神宮道の片側には、大型観光バスがまさに数珠つなぎに駐車しています。多くの観光客が三門前にたむろしていますが、閉門で石段下の柵が閉じられていたため、三門の全景写真を撮るのには最適でした。 知恩院の地位が確立したのは室町時代後期で、寺域が現在の規模にまでなったのは浄土宗に帰依していた德川家の支援があったからだとか。家康は生母伝通院(でんつういん)が亡くなると知恩院で弔い、亡母菩提のため寺域を拡張したのだといいます。(資料3)それは慶長8年(1603)で、德川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開府した年でもあります。大阪夏の陣が元和元年(1615)ですので、知恩院の寺域拡張・整備は、「京洛に事あるときは幕兵を駐屯せしめて警備の本陣たらしめようと計った」(資料1)という政略的配慮もあったのでしょう。深慮遠謀というところでしょうか。この地は比叡山を下った法然が青蓮院の慈円僧正の庇護を得て草庵(吉水の禅房)を結んだところです。幾多の変遷を経た後、現在は浄土宗の総本山になっています。総本山のもとに、大本山・7寺院、本山・1寺、特別寺院・3寺院という形になっているようです。(資料4)法然の寂後22年目にあたる文暦元年(1234)に源智上人が「大谷の旧坊を再興し、四条天皇より華頂山知恩教院大谷寺の号を賜る」ことから、この地での再興が始まったようです。(資料1,5)南門を通り抜けると、円山公園です。まずは公園の東奥の方に行き、そこから西方向、つまり八坂神社境内へと、桜を見ながら公園内を通り抜けていくことにしました。あちらこちらの桜の下は、花見の宴の場所取りや既に宴を行っている集団でひしめいています。桜の花でなく花見の宴を写真に撮っている外国人観光客もいます。ところどころで「立入禁止」の立て札がある場所も目にとまりました。東の奥、料亭左阿彌の近くのシダレザクラ。場所は「料亭左阿彌」のこのページをご覧ください。 もともと、円山公園の地は、祇園感神院や安養寺の境内だったそうです。それが明治の廃仏毀釈のときに官に没収され、明治19年(1886)に公園化されたのです。一時期歓楽街化したそうですが火災で焼失。大正2年(1913)に造園家小川治兵衛の設計監督による造園によって、現在の形になったのだとか。何十年と円山公園には足を運びながら、今回少し調べて見て再認識しました。(資料1,6)坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像の傍にも桜の木がありますが、残念ながらこちらはいま一つでした。この二人が並ぶ像はめずらしいようです。現在の像は昭和37年(1962)に再建されたもの。京都高知県人会有志が昭和11年(1936)に建立されたようですが、第2次大戦中に撤去されたようです。いわゆる金属供出ということでしょうね。(資料7) 円山公園で一番有名なシダレザクラ一時期、さみしい感じになっていましたが、数年ぶりに見たシダレザクラ、かなり元気を取り戻している感じです。代替わりをして根付いてきたのでしょうか。まわりはもう人人人・・・・で一杯です。人を入れずに撮れる場所選びから始めた次第です。 この後は、八坂神社境内へ。そこまでの公園内道路は屋台店のオンパレードと人の混雑。 八坂神社の南楼門 本殿の背後、つまり北側にある神馬舎このあたりは数人の観光客が記念写真を撮っているだけでした。午後5時半に近づいていた時刻ですので本殿・拝殿・南楼門あたりは比較的人が少なくなっています。人は桜や屋台のあたりに集まっているのです。 西楼門へ向かう参道石段の傍にある蛭子神社。北向蛭子(えびす)と呼ばれています。参道の南側に位置し北面しています。事代主神を祀る末社の一つです。四条通は人で混雑しているので、八坂神社石段下の東大路通を少し北に上がり、新橋通を西に抜けて、祇園新地(八坂新地)の中を流れる白川端に出ることにしました。白川南通に入るところにあるのが、白川に架かる巽橋の傍にある「辰巳大明神」。伎芸上達祈願でご利益のあるスポットとして・・・・有名なところ。この小社の左側(南)が白川南通でその南辺を白川が流れています。 地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 この白川沿いの桜がきれいでした。その白川端に、吉井勇の歌碑があります。かつて祇園をこよなく愛した歌人です。 かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるるこの歌碑は吉井勇の古希を祝い、昭和30年(1955)11月に建てられたもの。ここにはもと「大友」というお茶屋があり、その奥座敷が白川の流れの上に張り出し、床下を白川が流れていたそうです。若き日の吉井勇が「大友」にて詠んだ歌と言われているのです。「大友」の女将だった多佳女は「文学女将」といわれた人。様々な文学者や画家が「大友」を訪れたといいます。夏目漱石もその一人。御池通に漱石の句碑が建てられています。 木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに 春の川を 隔てて 男女哉 漱石脇道にそれました。話を元に戻しましょう。現在では、11月8日にこの歌碑の前で、「かにかくに祭」が祇園の舞妓・芸妓の皆さんの献花などの行事が行われています。新聞のローカル版で報道されたこともあります。(資料8)吉井勇はこんな歌を詠んでいます(祇園関連と思える歌)。(資料1,9) 伽羅の香がむせぶばかりに匂ひ来る祇園の街のゆきずりもよし 雨降りて祇園の土をむらさきに染むるも春の名残りなるかな 狼藉と祇園の秋を吹きおみだす比叡おろしよ愛宕おろしよ 比叡おろし今日もまた吹く舞姫の戀破れよとてふがごとくに 香煎のにほひしづかにただよへる祇園はかなし一人歩めば つと入れば胸おしろいに肌ぬぎし君ありわれに往ねと云ひける やまと橋から東を眺めて 鴨川 四条大橋から北の眺め 高瀬川 四条通・高瀬川に架かる橋から南を眺めて歩き慣れたルートですので、人で溢れていましたが短時間に歩き抜けた次第です。この再録が、今年(2017)の桜だより、京の桜への誘いになれば幸いです。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則 駸々堂 p235-2372) 三門 :「総本山知恩院」 3) 法然上人と知恩院 :「総本山知恩院」 4) 総本山・大本山・本山・特別寺院 :「浄土宗」公式サイト 5) 勢観房源智上人略年譜 :「浄土宗」公式サイト 6) 円山公園 :ウィキペディア 円山公園 :「京都観光研究所」 7) 坂本龍馬と中岡慎太郎像(円山公園):「BIGLOBRE旅行」 8) かにかくに祭 :「京都観光Navi」 かにかくに祭 :「まるごと京都ポータルサイト e-KYOTO」 9) 吉井勇・吉井勇歌集 :「松岡正剛の千夜千冊」 必読短歌11(吉井勇・安永蕗子・井辻朱美):「KUREMUTU CLUB」 【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺浄土宗 公式サイト 総本山 知恩院 ホームページ 法然上人と知恩院 年表 シダレザクラ :ウィキペディア シダレザクラ :「森林総合研究所 九州支所」 辰巳大明神 :「京都の観光スポット」 吉井勇歌集コレクション :「蜜柑色の画廊」 祇園「かにかくに祭」 :Youtube 吉井勇と京都 -『酒ほがひ』の成立をめぐって- 内田 晶 氏 (論文) 高瀬川 都市史22 :「フィールド・ミュージアム京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 観桜 -1 宇治市植物公園のライトアップ へ観照 [再録] 観桜 -2 宇治・黄檗の丘陵にて へ観照 [再録] 観桜 -3 京都 仁王門通(頂妙寺・妙雲院)、琵琶湖疏水、白川にて へ観照 [再録] 観桜 -5 京都・伏見 乃木神社にて へ観照 [再録] 観桜 -6 京都・伏見の水辺(1) 長建寺界隈と酒蔵、月見館 へ観照 [再録] 観桜 -7 京都・伏見の水辺(2) 蓬莱橋・京橋・出合橋に沿って へ観照 [再録] 観桜 -8 京都・伏見の水辺(3) 三栖神社御旅所(金井戸神社)、三栖閘門、伏見港公園 へ観照 [再録] 観桜 -9 京都御苑・京都御所の桜 へ観照 [再録] 観桜 -10 宇治川の畔 朝霧橋、浮舟像、興聖寺、朝日山と仏徳山&平等院
2017.03.20
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[探訪時期:2014年4月]2014年4月6日(日)、久々に京都観世会館で能と狂言を鑑賞しました。「第34回 杉浦能公演 春」で、番組の内容は、能「鉢木」、狂言「飛越」、仕舞、能「殺生石」でした。観劇後に、琵琶湖疏水端~白川~知恩院~円山公園~祇園・白川~鴨川と、桜を眺めて歩いた次第です。京都観世会館には、京阪電車の三条駅から地下道で御池通の傍まででて、仁王門通を東に向かいました。仁王門通を歩いていて、「頂妙寺」の総門から見えた桜がきれいだったので、塔頭の前を少し眺めることに。 総門を入ってすぐ左側にある「妙雲院」の門前です。その北隣りは「菊神稲荷社」。頂妙寺は聞法山と号する日蓮宗一致派の本山です。このお寺も京都の多くの寺院同様、四条柳馬場での一宇創建を起点に、繰り返し寺地を移転し、江戸初期の漢文13年(1673)にこの現在地に移ったそうです。(資料1)「妙雲院」の門前左側に「広池千九郎仮寓趾」の石標が建てられています。調べてみると、教育者(法学・歴史学)で元宗教家でもあったようです。「モラロジー(道徳科学)の提唱者。麗澤大学の創立者」とのこと。(資料2)観劇後京都観世会館近くから、仁王門通と琵琶湖疏水の北に位置する「みやこめっせ(市勧業館)、国立近代美術館、朱色の慶流橋」の南面に沿う桜並木を撮ったところからご紹介します。 西から東へと並べた写真。琵琶湖疏水は東から西方向にゆっくりと流れています。琵琶湖疏水は、「みやこめっせ」の西南角を北に廻り込んでいきます。京都観世会館を軸にして見た地図(Mapion)はこちらからご覧ください。 疏水端に近づいて 神宮道通を平安神宮に向かうには、疏水にかかる慶流橋を渡ります。 橋から東方向の眺め 橋の南詰の近くから橋の西側に行くと、観光船が近づいてきます。これは、「岡崎さくら回廊十石舟めぐり」として、京都府旅行業協同組合が期間限定で運航されているのです。 再録にあたり2017年の情報を調べますと、3月25日(土)~5月7日(日)の運航です。 尚、桜回廊ライトアップ期間(夜間運航)は、3月25日~4月9日(日) 所要時間約25分(往復約3km) 詳しくは、こちらをご覧ください。pdfファイル 逆に、東から川の流れに乗って西に向かう観光船も。この後、白川沿いに歩き、直近の通りから三条通に出ました。白川沿いの桜も見事です。 さて、万葉集に詠まれた桜はヤマザクラが中心でした。現在は桜と普通に言えばソメイヨシノが主流のようです。ヤマザクラは日本の代表的な桜ですが、もともと山地に広く自生した品種。それが古くから庭などにも植えられているとか。本州(宮城・新潟県以西)~九州に分布するそうです。一方、西日本には少なくて、北海道~四国に分布するのがオオヤマザクラ。北海道に多いことからエゾヤマザクラとも言われるのだとか。それじゃ、ソメイヨシノはというと、なんと江戸時代末期に江戸の染井村(東京都豊島区)の植木屋さんが吉野桜の名で売り出した品種だそうです。オオシマザクラとエドヒガンの雑種なのだとか。エドヒガンは春の彼岸のころに花が咲き東京周辺に多く植えられているのが名の由来といいます。オオシマザクラは伊豆諸島に自生し、房総半島や伊豆半島に野生状態のものがみられるそうです。 (以上、資料3,4,5)この園芸品種のソメイヨシノが明治の中頃より圧倒的に多く全国で植えられるようになったとか。それも歴史的には戦勝記念や戦災復興事業などとして植栽された側面があるようです。桜の開花予想にはソメイヨシノが使われているようです。(資料4,5)気象庁は平成21年12月25日の報道で「さくらの開花予想」の発表を終了宣言しました。その後は、「日本気象協会」が「桜開花情報」をホームページで行っています。最新情報は、こちらのページで発表されているようです。ご覧ください。 日本気象協会は、標準木で5~6輪以上の花が開いた最初の日が開花日で、標本木で80%以上つぼみが開いた状態となった最初の日を満開日としているそうです。気象庁の観測基準と同じだとか。全国で約90地点の予想発表をしているのだとか。問い合わせが多いからでしょう。Q&Aの形でまとめて情報を開示しています。詳しくは、こちらをご覧ください。(資料6)好奇心、問題意識を持つと、いろんなことを発見! 情報ソースは身近にいろいろあるのですね。おもしろいものです。序でに、滅多にみることのない光景を補足しておきます。それは、今年(2017)2月1日に展覧会を鑑賞するために、岡崎公園に来て偶然目にしたのです。最初、疏水の水が少ないな・・・、何が川に入っているのだろう? と注目。 正体はコレ! このキャタピラーで駆動するダンプカー(?)は調べてみると、「不整地運搬車」と称するそうです。(資料7)不整地運搬車が進む西方向を見ると、油圧ショベルが作業をしていました。道を歩いているとき、北方向を意識せず上掲の川中の異物に着目して、それを見つめながら東に向かったので、どうも見落としていたのです。公園の周囲を巡る琵琶湖疏水の川浚えが行われていました。浚渫された川砂が集められていました。 そして、岡崎公園に行くために白川にかかる橋に設置された遮水板の設備を初めて意識しました。もう一つ印象的だったのは、北白川の砂は白砂ということはしっていましたが、なるほどこの琵琶湖疏水に流れ込み堆積する砂も白いなあ・・・ということです。何十年とこの岡崎公園を訪れながら、こんな光景を見たのは初めてでした。これもまた、貴重な見聞です。 こんな場所に、こんな建造物があったことなんて、意識外でした。京都国立近代美術館と平安神宮の大鳥居が立つこの景色、数え切れないくらい見てきたはずなのに・・・・・・、こんなのがあったなんて!コレって、何? 川面の水位でも測る道具なのでしょうか・・・・・。 謎が残りました。つづく参考資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則 駸々堂 p218-2192) 広池千九郎 :ウィキペディア 廣池千九郎website 3) 『山渓ポケット図鑑1 春の花』 写真/鈴木庸 夫山と渓谷社4) ソメイヨシノ あれこれ :「豊島区」5) ソメイヨシノ :ウィキペディア 6)「 2014年2月5日 一般財団法人日本気象協会 2014年 桜開花予想に関するよくあるご質問・お問い合わせ」7) 不整地運搬車 :「KOMATSU」【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺頂妙寺(京都市左京区) :「京都風光」能楽師 杉浦豊彦 ホームページ 鉢木(はちのき):「能の演目の紹介」 能「鉢木」:北条時頼の廻国伝説 :「壺齋閑話」 佐野源左衛門 :ウィキペディア 演目辞典 殺生石 :「the能.com」殺生石の謂れと伝説について :「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」 琵琶湖疏水 :ウィキペディア 琵琶湖疏水のご紹介 :「京都市上下水道局」 琵琶湖疏水・岡崎公園・鴨川運河(京都市左京区ほか):「京都風光」建機一覧 :「日本キャタピラー」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 観桜 -1 宇治市植物公園のライトアップ へ観照 [再録] 観桜 -2 宇治・黄檗の丘陵にて へ観照 [再録] 観桜 -4 知恩院、円山公園、祇園白川、鴨川、高瀬川 へ観照 [再録] 観桜 -5 京都・伏見 乃木神社にて へ観照 [再録] 観桜 -6 京都・伏見の水辺(1) 長建寺界隈と酒蔵、月見館 へ観照 [再録] 観桜 -7 京都・伏見の水辺(2) 蓬莱橋・京橋・出合橋に沿って へ観照 [再録] 観桜 -8 京都・伏見の水辺(3) 三栖神社御旅所(金井戸神社)、三栖閘門、伏見港公園 へ観照 [再録] 観桜 -9 京都御苑・京都御所の桜 へ観照 [再録] 観桜 -10 宇治川の畔 朝霧橋、浮舟像、興聖寺、朝日山と仏徳山&平等院
2017.03.20
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[探訪時期:2014年4月]数年前の春、地元宇治市の黄檗周辺を探訪し始めた頃に立ち寄らせていただいた霊園があります。そこで拝見した桜がすばらしかったので、図書館に予約本を借りに行った後、久しぶりに再訪させていただきました。黄檗山萬福寺の背後の丘陵地に設けられた霊園の桜です。冒頭の写真は、その霊園の高みから、萬福寺の山門を眺めたものです。再録して、ご紹介します。あとしばらくすれば、再びその姿が巡ってきます。唐の詩人、劉廷芝(りゅうていし)が詩の一節に 年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからずと詠み上げています。観桜に出歩くことができる間に、自然に咲きほこる花の姿に直にふれて、この今という時と自然美を愛でたいものです。丘陵地の斜面に設けられた霊園中央の階段を軸にして、左右に段上に墓地が広がっています。中央の階段が桜並木になっていて、ところどころに桜の木が点在します。 ふと連想したのは西行法師の歌でした。 ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃 後で手許の本を調べて見ると『山家集』の77番目に載っています。『続古今和歌集』に採られている歌でもあります。(資料1)西行法師はこの歌に詠んだように亡くなったと、どこかで聞いた記憶がありました。ウィキペディアを検索すると、やはりそういう記述が見られます。 文治6年2月16日(1190年3月23日)、享年73歳で、河内国弘川寺にあった庵居で入寂したそうです。(資料2)この歌のすぐ後に、 ほとけには桜の花をたてまつれ我が後の世を人とぶらはば 78という歌を詠んでいます。(資料1)この西行の思いからすれば、この墓地に桜の木々が今咲きほこっているのも墓地の人々を弔うのにふさわしいのかも知れません。春、咲き誇る桜の花の美しさを嘆賞したと思うと、一時の盛りの後に早々と散り行く桜。それは諸行無常の象徴なのかもしれません。巡り来る季節を明確に感じさせてくれるとともに、盛衰のあることをも鮮やかに感じさせてくれる花。 この墓地の高みから、萬福寺の伽藍と宇治市街の広がりが見渡せます。桜の木々の上の景色は天気が良いと見応えがあります。 この霊園祀られている水子地蔵尊です。西行はこんな詞書を付けて歌を詠んでいます。 しづかならんと思ける頃、花見に人々まうできたりければ 花見にと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の科には有ける 87 『玉藻集』2江戸時代から日本では桜の木の下で、花見の宴を楽しむ文化を繰り広げてきたようです。今も桜満開のシーズンには、あちらこちらで同じ花見の楽しみ方が繰り広げられています。喧騒の中の桜は、桜花を味わうにはやはり落ち着けません。この霊園の桜を拝見することで、静かに桜の花を介して観照するひとときを得ました。宇治市内の道路沿いに見事に咲く桜を、通りすぎる序でに見るのとはまた違う味わいです。 横に伸びた太い枝から小さい枝が出て、桜の花を咲かせ、桜の幹が分かれるところに小さな枝が出て、桜の花を付けていたり、様々な姿を静かに眺めることができました。私は丘陵上の入口から再訪させてもらったのですが、本来の入口からは 「京都華僑霊園」の入口 黄檗山萬福寺の背後に位置します。 中央の少し急な石段を上ると、「京都華僑墓地」の石標があります。 丘陵上の最奥部、霊園の山頂側の出入り口の眺めです。 この地に眠る人々に・・・・・・合掌。墓地の形から異文化を感じ、インドから日本までの仏教の広がりと伝来を感じることができます。歴史と仏教の受容のあり方について考える刺激を得られる場所でもあります。西行が桜を詠んだ歌の連想から、一歩進めてみました。西行が桜という語を詠み込んでいる歌を『山家集 上』の「春」から抽出してみたのです。歌の末尾は歌集での番号です。良い機会なので、本箱に眠っていた本を繙いてみる気になった次第です。 待つにより散らぬ心を山桜さきなば花の思ひしらなん 56 あくがるる心はさても山桜ちりなん後やみにかへるべき 67 新後撰2 何とかやよに有りがたき名を得たる花も桜にまさりもせじ 79 山ざくら霞のころもあつく着てこの春だにも風つつまなん 80 ならひありて風誘ふとも山桜尋ぬるわれを待ちつけて散れ 84 木のもとは見る人しげし桜花よそにながめて香をば惜しまん 95 待ちきつる八上の桜さきにけり荒くおろすな三栖の山風 98 ちるをみで帰る心や桜花むかしにかはるしるしなるらん 104 千載集17 年をへて待つも惜しむも山桜心を春はつくすなりけり 109 続拾遺2 吉野山谷へたなびく白雲はみねの桜の散るにやあるらん 110 雪と見えて風に桜の乱るれば花のかさきる春の夜の月 126 吉野山桜にまがふ白雲の散りなんのちは晴れずもあらなん 132 山桜枝きる風のなごりなく花をさながらわがものにする 140 吉野山ひとむら見ゆる白雲は咲きおくれたる桜なるべし 142 いざ今年ちれと桜をかたらんはなかなかさらば風や惜しむと 150 ふく風のなめて梢にあたるかなかばかりの人の惜しむ桜に 152手許の本には通し番号で1552首が載っています。その中で「春」の部は173首です。その中でに直接「桜」を詠み込んだのが17首です。「春」の部には、「花」という語で詠んでいる歌も多く載っています。西行の生きた時代には、春に「花」といえば桜という理解になっていたのでしょうか。また「春」の部以外でも「桜」を詠み込んだ歌が『山家集 上』に載っています。 桜ちる宿を飾れる菖蒲をばはなさうぶとやいふべかるらん 202 山桜思ひよそへてながむれば木ごとの花はゆきまさりけり 567『山家集 中』には・・・・・ つれもなき人に見せばや桜ばな風にしたがふ心よわさを 597 桜花散り散りになる木の下に名残りををしむうぐひすのこゑ 827 わび人のなみだに似たる桜かな風身にしめばまづこぼれつつ 1035『山家集 下』には・・・・ 月見れば風に桜の枝なえて花よと告ぐる心地こそすれ 1069 類ひなき思ひいではの桜かなうすくれなゐの花のにほひは 1132 春風の吹おこせむに桜花奈となり苦しく主やおもはん 1168 ききもせずたはしね山の桜花吉野の外にかかるべしとは 1442 吉野山高嶺の桜咲き初めばかからんものか花の薄曇 1454 山桜咲きぬとききて見にゆかん人を争ふこころとどめて 1457 山桜程なく見ゆるにほひかな盛りを人に待たれ待たれて 1458 山桜蕾みはじむる花の枝に春をば籠めて霞む成けり 1537 萬福寺の裏手にてご覧いただきありがとうございます。つづく参照資料1)『山家集 金槐和歌集 日本古典文学大系』 岩波書店2) 西行 :ウィキペディア 【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺弘川寺 :「河南町」西行記念館 弘川寺(ひろかわでら)のカイドウ :「大阪府」 弘川寺 :「kazu_sanの 百寺巡礼」 あの人の人生を知ろう ~ 西行法師 :「文芸ジャンキー・パラダイス」 黄檗山萬福寺 ホームページ 黄檗山 萬福寺 :「臨黄ネット 臨済宗 黄檗禅 公式サイト」 萬福寺 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 観桜 -1 宇治市植物公園のライトアップ へ観照 [再録] 観桜 -3 京都 仁王門通(頂妙寺・妙雲院)、琵琶湖疏水、白川にて へ観照 [再録] 観桜 -4 知恩院、円山公園、祇園白川、鴨川、高瀬川 へ観照 [再録] 観桜 -5 京都・伏見 乃木神社にて へ観照 [再録] 観桜 -6 京都・伏見の水辺(1) 長建寺界隈と酒蔵、月見館 へ観照 [再録] 観桜 -7 京都・伏見の水辺(2) 蓬莱橋・京橋・出合橋に沿って へ観照 [再録] 観桜 -8 京都・伏見の水辺(3) 三栖神社御旅所(金井戸神社)、三栖閘門、伏見港公園 へ観照 [再録] 観桜 -9 京都御苑・京都御所の桜 へ観照 [再録] 観桜 -10 宇治川の畔 朝霧橋、浮舟像、興聖寺、朝日山と仏徳山&平等院
2017.03.20
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地元宇治市にある植物公園では毎年、数日間無料入園できて桜のライトアップを見る事ができます。2014年3月30日(日)に家族で夜桜を眺めてきました。当日曇り空で少し寒く、風の吹く時がありました。それ故か桜見物に来ている人は思ったより少ない感じでした。 2014年に観桜をシリーズでまとめていました。それを再録しておきたいと思います。まずは、2013年の昼間の宇治市植物公園の再録、ご紹介に続けて、夜のライトアップをご紹介することから始めます。いつもの手頃なデジカメで、三脚も使わずに撮った写真です。今年も行ってきましたという記録写真程度ですが、まあ撮った中で、ましな部類を日記として記録しておきたいと思います。この公園の桜そのものとは直接の関係はありませんが、桜を鑑賞し、その観照から桜についての記憶と連想をきっかけにして、手許の本その他も参照しながら勝手きままに綴ってみたいと思います。写真をベタに並べるだけではおもしろくありませんので。『万葉集』には、花という表現だけですが、桜と特定できる歌6首を含めると、47首の歌が詠まれていると言います(資料1)。犬養孝もある文で約40首と記しています。(資料2) 以下敬称表記の区別が煩わしいので敬称は省略します。 梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや 薬師張氏福子 巻5-829という歌が載っています。梅は119首あるそうです。折口信夫がこう説明しています。「桜花は、既に人々から賞翫されて居た。庭に植えて愛する事もあったが、それはむしろ梅に多くて、桜にはなほ山野に自生したのを愛した方が多かった。」(資料3)奈良で桜といえば今は吉野山が有名ですが、万葉の時代には吉野山の桜は一首もないのです。当時は、春日野・高円山・三笠山・香具山などと大和から河内の公道となっていた竜田の山越えあたりの桜が多く詠まれたようです。 あおによし寧樂(なら)の京師(みやこ)は咲く花のにほふがごとく今さかりなり 太宰少貳小野老朝臣 巻3-328 春雨のしくしくふるに髙圓の山の桜はいかにあるらむ 河邊朝臣東人 巻8-1440 春雉(きぎし)鳴く高圓の邊にさくら花散りて流らふ見む人もがも 巻10-1866 阿保山のさくらの花は今日もかも散り乱るらむ見る人無しに 巻10-1867 見渡せば春日の野邊に霞立ち咲きにほへるは桜花かも 巻10-1872丘辺の道は、平城京-大和川(古代の竜田川)沿い-河内国府-難波 というルートで、竜田の山を越えて通じていたのでしょう。「大和川の渓谷は、西からの台風などが大和へはいる通路でもあるから、この竜田に、竜田彦・竜田姫の風の神がまつられた。竜田は神奈備であって、いまの位置とは異なるが、竜田本宮がこれにあたる」(資料2) 神奈備は「神道で、神の鎮座する場所」(『日本語大辞典』講談社)のことです。 わが行きは七日は過ぎじ竜田彦ゆめ此の花を風にな散らし 巻9-1748 暇あらばなづさひ渡り向(むか)つ峯(を)の桜の花も折らましものを 巻9-1750 い行相(ゆきあひ)の坂のふもとに咲きををる桜の花を見せむ兒もがも 巻9-1752これら三首はその直前の長歌に対する反歌として載っていますが、詠み人は具体的な名前の記載がありません。長歌には「龍田の山の、桜の花は」(1947)、「立田の山を、桜の花は」(1949)、「丘邊の道ゆ、桜の花は」(1751)という語句が詠み込まれています。一書には高橋虫麿歌集と明記しています(資料1) 1748の歌は犬養孝の文でも虫麻呂の作とされています。 天平12年(740)9月に、「藤原広嗣の乱」として歴史年表に記載されている藤原広嗣が詠んだ歌が『万葉集』巻8の「春相聞」として載っています。 藤原朝臣広嗣、桜の花を娘子(をとめ)に贈れる歌一首 巻8-1456 この花の一瓣(ひとよ)のうちに百種(ももくさ)の言ぞ隠れるおほろかにすな 娘子の和(こた)ふる歌一首 この花の一瓣のうちは百種の言持ちかねて折らえけらずや 巻8-1457この相聞歌を折口信夫は次のように口譯しています。(資料4)「此花の一瓣(ヒラ)の中に、百通りからの語が籠もってゐる。口では何も云はないが、其語を、よく考へて疎かに見てくれるな。」「此花の一瓣の中には、百通りもの語が籠もってゐる為に、それに持ちこたへかねて、とうとう折られて了うたという訣ではありませんか。」折口信夫は、娘子が広嗣の歌に対して「軽く揶揄したのである」という説明を付記しています。そうであれば、広嗣は思いを遂げられなかったのでしょうね。やはり・・・悲しみを残す人なのでしょうか。 さて、最後に学校時代に名前を覚えた歌人たちが詠んだ歌をあげておきましょう(長歌を除く)。まずは、山部赤人の歌です。 あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいと恋ひめやも 巻8-1425次に柿本人麻呂の歌です。彼の歌集に掲載されているという説明が出ている歌です。 桜花咲きかも散ると見るまでに誰がもここに見えて散り行く 巻12-3129大伴家持も桜花を詠んでいます。 吾背子が古き垣内(かきつ)の桜花いまだ含(ふふ)めり一目見に来ね 巻18-4077 今日のためと思ひてしめしあしひきの峯(を)の上(へ)の桜かく咲きにけり 巻19-4151 桜花今さかりなり難波の海おし照る宮に聞こしめすなへ 巻20-4361 龍田山見えつつ越え来(こ)し桜花散りか過ぎなむわが帰るとに 巻20-4395 家持の龍田山の歌が、桜を詠んだ歌では万葉集の最後尾の歌になります。 吉野山の桜が歌に詠まれたものが歌集に載っているのは、『古今和歌集』が初見のようです。(資料5) み吉野の山べにさける桜花雪かとのみぞあやまたれける 紀 友則 60この歌は詞書に「寛平御時きさいの宮の歌合の歌」とあります。これは寛平初年(889)頃のようです。『万葉集』は最終的に20巻本万葉集となったのです。大伴家持が編者として関わったのは確実なようで、現在の形にまとまったのは奈良時代後期。所収の歌の時代区分で見ると、第4期が734~759で、収録歌の最後は759年のようです(資料6)。一説には家持が完成させたのは延暦2年(783)頃で、公式に完成と言えるのが延暦25年(806)ととらえることもできるようです(資料7)。つまり、吉野山の桜が歌に詠まれるのは100年ばかりの時を経てからになるのですね。ご覧いただきありがとうございます。つづく参照資料1)『萬葉植物事典 普及版』 大貫茂著 馬場篤[植物監修] クレオ2)『万葉十二ヵ月』 犬養孝著 新潮文庫 「峠のさくら」 p79-843)『折口信夫全集 第六巻 萬葉集辞典』 中公文庫4)『折口信夫全集 第四巻 口譯萬葉集(上)』 中公文庫5) 吉野山 :ウィキペディア 6)『クリアカラー 国語便覧』 監修 青木・武久・坪内・浜本 数研出版7) 万葉集 :ウィキペディア 【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺宇治市植物公園 ホームページ 今年(2017)も、宇治市植物公園開園20周年記念「しだれ桜夜間無料公開」 3月18日(土)~31日(金) 始まりました。ヤマザクラ :ウィキペディア 吉野山観光協会 公式サイト 龍田大社 :ウィキペディア 龍田坐天御柱国御柱神社二座 :「神社資料データベース」(國學院大學)名に負へる社に 風祭せな :「万葉散歩」藤原広嗣 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 宇治市植物公園 -1 へ観照 [再録] 宇治市植物公園 -2 へ観照 [再録] 観桜 -2 宇治・黄檗の丘陵にて へ観照 [再録] 観桜 -3 京都 仁王門通(頂妙寺・妙雲院)、琵琶湖疏水、白川にて へ観照 [再録] 観桜 -4 知恩院、円山公園、祇園白川、鴨川、高瀬川 へ観照 [再録] 観桜 -5 京都・伏見 乃木神社にて へ観照 [再録] 観桜 -6 京都・伏見の水辺(1) 長建寺界隈と酒蔵、月見館 へ観照 [再録] 観桜 -7 京都・伏見の水辺(2) 蓬莱橋・京橋・出合橋に沿って へ観照 [再録] 観桜 -8 京都・伏見の水辺(3) 三栖神社御旅所(金井戸神社)、三栖閘門、伏見港公園 へ観照 [再録] 観桜 -9 京都御苑・京都御所の桜 へ観照 [再録] 観桜 -10 宇治川の畔 朝霧橋、浮舟像、興聖寺、朝日山と仏徳山&平等院
2017.03.19
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花に誘われて植物公園を巡った続きです。(探訪時期:2013年4月) ボタン 島錦 赤い艶やかな島錦の先には 清楚なアセビ四阿の傍を通って 温室に入りました。ここは色鮮やかな花々の世界。名前がハッキリ明示されているものと、ちょっとわかりづらいのとがあります。よく探せばすべて名前が付けてあるのですが・・・名前の識別できるのは写真に明記します。それ以外は・・・スミマセン。ムユウジュ(マメ科) コダチアサガオ(ヒルガオ科) パボニア インテルメディア(アオイ科) カカオのキ(アオギリ科)テコマ スタンス(ノウゼンカズラ科) セネキオ コンフスス(キク科)ギンネム(マメ科) レッドジンジンジャー(ショウガ科) メディニラ マグニフィカ ツンベルギア ’アルバ’(キツネノマゴ科)温室を出たところの広場に少女の彫刻が置かれています。 「みずべ」 岩木幹雄氏の作品陸橋を渡ってきたところには、こんな広い水面が広がっているのです。木々の彼方には宇治の町並みが広がっています。花々すべてのご紹介ではありせんが、この辺りで終わりましょう。一度、宇治市植物公園をお訪ねください。ご覧いただき、ありがとうございます。 【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺京都彫刻家協会展2005 /岩木幹雄 京都彫刻家協会 2005/07/24第28回京都彫刻家協会展 / 岩木幹雄 京都彫刻家協会 2004/05/23京都彫刻家協会 HOMEPAGEカムループス通り 宇治市の隠れた名所? :「KCN京都通信」JR奈良線 六地蔵~木津沿線 観光ガイド pdfファイル 京都府 新田駅~カムループス通り~宇治市植物公園~山城総合運動公園~宇治駅 という区間の紹介が含まれています。山城総合運動公園の通称は「太陽が丘」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 大阪造幣局・桜の通り抜け -1 へ観照 [再録] 大阪造幣局・桜の通り抜け -2 へ観照 [再録] 宇治田原 田原川堤の桜・満開 へ観照 [再録] 宇治市植物公園 -1
2017.03.19
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地元の宇治市植物公園のご紹介です。2013年、地元の植物公園が4月6日(土)~5月19日(日)の期間、スプリングフェスタをやっていました。そして4月20,21,29日は無料開園日でした。そこで2013年4月20日(土)、天気が良かったので家族でちょっと花を楽しんできました。 駐車場の傍で 駐車場から植物公園には陸橋を渡ります。駐車場、陸橋から花・花・花のお出迎え。 その先に、公園内の大立体花壇「花と水のタペストリー」が見えてきます。 この時は5月中旬までカワセミの絵柄です。 植物公園のレイアウト 公園の主館内部に鯉幟。外の花壇の上にも鯉幟、こちらは風を受け泳いでいます。 公園はうねる丘陵地にあります。階段を下る正面にカワセミが羽ばたいています。なだらかな斜面を登り、また下るという感じで公園内をめぐって行きます。 老夫婦が桜を愛でながらゆっくりと・・・ 花一杯のウサギさんベンチではちょっと休憩のご様子。造幣局の桜の通り抜けで見た関山をここではゆっくりと眺められました。 普賢象 あちら、こちらにアマチュア・カメラマンさんが。私もご同様。 しだれやなぎと桜もこの時期だからこそ松月(ショウゲツ) 大きな池を囲み桜が咲き誇っていました。いましばし・・・ ベニフゲン ナワシログミ(グミ科) 大池をめぐった先の小さな池面は咲く花を受け止めています。春の花の命を感じるのは、やはり青空の下が気持ちいい。つづく【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺宇治市直物公園 :「宇治市」宇治市植物公園 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 大阪造幣局・桜の通り抜け -1 へ観照 [再録] 大阪造幣局・桜の通り抜け -2 へ観照 [再録] 宇治田原 田原川堤の桜・満開 へ観照 [再録] 宇治市植物公園 -2 へ
2017.03.19
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2013年4月初旬、気持ちのいい天気なので、宇治田原町まででかけました。2012年に初めて田原川堤の桜のことを耳にし試しに家人と観桜に行ったのです。平日だったせいかもしれませんが、訪れる人が少なくて、満開の桜を満喫していましたので、今年も・・・・と、出かけた次第です。平日のことでもあるからでしょうが、今年(2013)もゆったりとした気分でひととき、堤をぐるりと周回する形で、桜を楽しむことができました。造幣局での桜並木の通り抜けよりも、こちらが先でした。再録してご紹介します。宇治田原についてはこの「歴史街道」の説明板を御覧ください。どこにあるの? 冒頭の地図で大凡おわかり頂けることでしょう。宇治市から南東方向です。地図に平等院、天ヶ瀬ダムが明記されているので目印になることでしょう。田原川が町の中央を東西に流れています。桜見物は「現在位置」の表記位置を挟んで、西から東へ、そして橋をわたって東から西へと川堤をぐるりと回りました。 出発点の橋傍から西を眺める 対岸に宇治田原総合文化センターの建物 堤を回って建物の近くからこんな標識が何カ所かに 対岸の堤を西に戻って行くとき、橋の傍からどこかのデイ・ケア・センターからのお花見会のお年寄りたちのお花見 気持ちのいい青空 この週末、天候が崩れる予報が出ていました。 出発点に戻ってきました。空青く、桜は命いっぱい、堤閑かな、春のひととき。田原川堤の桜は見事でした。知る人ぞ知る・・・・いいスポットです。ご覧いただきありがとうございます。【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺宇治田原町観光情報サイト 観光案内パンフレット宇治田原いいとこ案内人の会 :「京都やましろ観光」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 大阪造幣局・桜の通り抜け -1 へ観照 [再録] 大阪造幣局・桜の通り抜け -2 へ観照 [再録] 宇治市植物公園 -1 へ観照 [再録] 宇治市植物公園 -2 へ
2017.03.19
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イヨウスズミ [探訪時期:2013年4月]「通り抜け」を続けます。 桜の木の根元は桜花の毛氈を敷いたよう・・・・・通りの傍に句碑と説明板があります。 恥ずかしながら、この句の作者名を初めて知りました。 そして「欽明門」と称される興趣のある門も。 普賢象にも種類が 兼六園の菊桜通り抜けを終えて、川端の通りを天満橋の方に戻ります。 丁度、観光船が来ました。もう一つ、こういう観光船が逆方向から来ます。 天満橋より一筋東に架かる橋 天満橋の手前に、橋名飾板が記念に保存展示されています。その傍に、「土木学会選奨土木遺産 2000 大川・中之島の橋梁群(天満橋)」という銘板の嵌め込まれた石碑がありました。天満橋にて 天満橋上から大川の東方向を眺めると大川左岸のビルの窓ガラス壁面はまるで抽象画の様相です。その川寄りにこんな設備が。 八軒家浜から天満橋を眺めて見ると・・・ 八百八橋と称される大阪です。春たけなわ、昔の水運利用は影を無くし、今は観光船がひっきりなしに大川を上下していました。この時は久振りの桜の通り抜け体験です。昔のおぼろげな記憶とうまく重なりませんでした。屋台店の多さにはびっくりしました。見物客は多かったですが、さして混雑というほどではなくて、咲き誇る桜と桜の残影を十分に楽しめました。「大阪に 花の里あり 通り抜け」 と詠まれたとおり、ここの桜はやはり大阪の誇る桜の一名所ですね。ほんの一部のご紹介に留まりました。ご一読ありがとうございます。【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺独立行政法人造幣局 ホームページ本田 渓花坊さんってどんな人ですか? 歴史的人物 :「造幣局」竹久夢二と本田渓花坊 :「川柳若鮎・新若鮎」天満橋 :ウィキペディア八軒家船着場 :ウィキペディア八軒家浜 『摂津名所図会』より :「摂津名所図会」八軒家の由来 :「八軒家浜」(八軒家プロジェクト)大阪水上バス ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 大阪造幣局・桜の通り抜け -1 へ観照 大阪・造幣局 桜の通り抜け へ観照 [再録] 宇治田原 田原川堤の桜・満開 へ観照 [再録] 宇治市植物公園 -1 へ観照 [再録] 宇治市植物公園 -2 へ
2017.03.18
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天満橋から西を眺めて もう少しすると、再び時が巡ってきます。その魁けとして、再録するのなら今だろうと思い、順次巡ったところをご紹介したいと思います。桜だよりに誘われて・・・・そのきっかけになれば・・・・Happy!です。京阪電車の天満橋駅下車、地上に出ると、目の前が大川です。天満橋はすぐ近く。2013年4月19日(金)に大阪造幣局の通り抜けに行き、桜の満開からはや散り桜までを楽しんできました。桜散るの余韻がある内にちょっとまとめたときの記事です。これを再録することから、少しはやめのご紹介を始めます。橋を渡って、川沿いの道はご同様の桜見物客ばかり。それを見込んだ屋台が入口まで通りにずら~りと並んでいます。平日でしたが、結構たくさんの人でした。これが雨なら屋台の売り上げも、さっぱりでしょうね。 入口には簡単な通り抜けの説明地図(臨時)があり、「通り抜け」のご案内(常設)という来歴を含めた説明板も設置されています。なんと、2013年に、この通り抜けも130年を迎えたそうです。品種130種、本数352本。2013年の花は「天の川」だとか。(説明板の下に説明シート貼付あり) 関山 花笠祇王寺祇女桜の駒札がありましたが、花ははや散っていました。京都嵯峨中院に自性のものを祇王寺に植えたものに名づけたものだそうです。残念!八重桜 通り抜けは、人人人・・・だけど、まさに一方向に通り抜けるだけですので、この程度では未だ少し立ち止まって写真を撮るゆとりはありました。ガードマンさんは、立ち止まらずに進んでくださいと連呼していましたが。 普賢象(ふげんぞう) 天の川 半ば散っていたのが惜しい・・・・ 松月 泰山府君 九重数珠掛桜 8645 大手毬(おおてまり) 紅華 シオカマサクラ須摩浦普賢象 林1号 造幣局建物の窓が鏡面に 建物の足元も奇麗に花化粧です。奈良八重桜 糸括(いとくくり)これでも、ほんの一部のご紹介です。つづく【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。観照 [再録] 大阪造幣局・桜の通り抜け -2 へ観照 大阪・造幣局 桜の通り抜け へ観照 [再録] 宇治田原 田原川堤の桜・満開 へ観照 [再録] 宇治市植物公園 -1 へ観照 [再録] 宇治市植物公園 -2 へ
2017.03.18
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散策路の入口を振り返った景色。疏水東側が一燈園です。 [探訪時期:2015年2月]この部分拡大地図に記載の番号(14)、「湖西線」という記載の「線」の左斜め上あたりが、前回ご紹介した「洛東用水取水口」です。 疏水沿いに進むと、四ノ宮舟溜りと第一疏水・諸羽トンネルが見えます。地図番号(15)です。このトンネルは昭和45年(1970)5月、国鉄時代の湖西線建設に伴い、疏水の流路を付け替えとして建設されたのです。写真はその完成したトンネルの東口にある四ノ宮舟留まりです。この舟溜りは、第一疏水建設の目的であった舟運での荷の揚げ降ろし、人の乗降、船頭の休息のために作られたそうです。元の第一疏水は諸羽山の裾を取り巻くように流れていたそうです。湖西線が疏水の下を抉るように計画されたことから、その影響を避けるために、流路を変更してトンネル化されたという次第です。そして、第一疏水旧疏水跡は埋め立てられて遊歩道となり、そこに桜並木ができています。現在その辺りは東山自然緑地公園となっています。(資料1,2)地図番号(16)のところです。 この諸羽トンネルは全長520mです。 四ノ宮舟溜りの近くに立つ案内板 旧水路跡が現在は遊歩道に遊歩道を少し歩くと、こんなアーチ状のコンクリート構造物が置かれています。かつてはこれだけがぽつんと置かれていたそうです。 現在は、この説明板があり、「第2疏水トンネル試作物」だということがわかります。「このアーチ状のコンクリート構造物は、疏水の建設や維持管理に従事していた作業員が建設技術を収得するため、第2疏水の埋め立てトンネル上部の複製を製作したものだといわれています。」(説明板より)遊歩道の途中には、こんな四阿の休憩所も設置されています。 遊歩道南側の山裾直下に、JRの線路と通過する電車が見えます。 当初水路の護岸石材も残されています。 諸羽トンネルの西口付近 疏水に沿って更に少し歩くと、この「付近観光案内図」があります。 疏水に架かる橋を渡って、北側を歩くことに。右の画像は諸羽トンネルの方向です。 橋を渡って、そのまま北に行けば、山科の「毘沙門堂」に行きます。私たちの探訪は、疏水に沿って西方向に進みます。 そして、一旦少し疏水から離れて、少し迂回する形で、安祥寺川の上流方向から川の右岸を下ります。 この安祥寺川の付近は、地下トンネルを流れる第二疏水と、第一疏水が最も近接する場所なのです。左の画像で、第二疏水は石積みの四段堰となった場所の地下を通る形で交差します。安祥寺川の下流側に、煉瓦積みの水路閣が見えます。右の画像は上流方向を眺めた景色。水路閣の上を第一疏水が安祥寺川と交差して流れています。水路閣上から安祥寺川と堰を眺めた景色第二疏水は、琵琶湖の取水口からトンネルで南西方向に流れ、四宮付近でカーブを描き、北西方向にトンネルの進路が変わるようです。この変わる際に最も第一疏水と近接するのがこのあたりという次第です。 (参照資料2の5ページに掲載の「琵琶湖疏水略図」をご覧ください。)この第二疏水は、流量が毎秒15.30立方メートルで、京都市の水道水源として全線トンネルであり、水路延長は約7.4kmあるそうです。蹴上で第一疏水と合流します。(資料3)第一疏水沿いに進むと、 洛東高校の校門前です。その校門前の橋上から洛東高校を眺めた景色左の画像は校門から先の疏水の流れ後は、疏水に架かる橋を渡り、安祥寺川に沿う洛東高校通学路を下って行き、山科駅を目指します。 住宅地にある「安朱中部町内会案内図」です。ここから、JR山科駅はほんのわずかの距離でした。JR山科駅着で、今回の「小関越えをゆく-琵琶湖疏水-」の探訪は終了です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「探訪[近江水の宝]小関峠越えをゆく-琵琶湖疏水-」当日の配布資料 滋賀県教育委員会 協力:おやじのたまり場 2) 琵琶湖疏水年表 「琵琶湖疏水記念館」リーフレット 京都市上下水道局3) 第4章 第2疏水 :「京都市上下水道局」【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺建設工事 技術 :「そすいのさんぽみち」 琵琶湖疏水について語る秀逸なブログです。しっかり勉強できる学びの部屋です。大津の取水口から京都への散策 京都・滋賀深堀り :「京都新聞」京都山科 毘沙門堂 ホームページ安祥寺(京都市) :ウィキペディア安祥寺[山科区] :「京都風光」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 琵琶湖疏水 小関越えをゆく -1 疏水第一築地、歌碑と旧京都三高艇庫、第二疏水取水口、大津絵橋、大津閘門、第一トンネル東口洞門 へ探訪 [再録] 琵琶湖疏水 小関越えをゆく -2 三尾神社・長等公園・大津大神宮・慶祚大阿闍梨入定窟・小関越道標・等正寺・喜堂(峠の地蔵)ほか へ探訪 [再録] 琵琶湖疏水 小関越えをゆく -3 分岐点・第一竪坑・藤尾磨崖仏・第一トンネル西口洞門・緊急遮断ゲートほか へ
2017.03.18
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喜堂(峠の地蔵)から少し先に「小関越えの道分岐点」の道標が立っています。私たちの進むのは左の細い山道です。ここから琵琶湖疏水まで1.6kmと記されています。舗装されている右の道を行くと西大津バイパス藤尾I.C.まで0.8kmです。 [探訪時期:2015年2月] この部分拡大図の番号(9)が小関越えの喜堂の在る場所。そこから左の細い山道を下って行きます。(資料1)山道の左側に「第一竪坑(シャフト)」が見えて来ます。地図の番号(10)です。以前にこの小関越えをウォーキングの例会で歩いたときと比べるとかなり周辺が整備されています。フェンスが新しくなっています。 説明板も掲示されています。今歩いているのは第一疏水の第一トンネル近辺の山道です。この第一トンネルは、大津の三井寺下と藤尾の両側から堀り進められるだけでなく、同時にこの場所に山の上から垂直に竪坑を堀り、その底から山の両側(三井寺下、藤尾)に向かって掘り進めていくという方式が採用されたのです。そして東西のトンネルが貫通したのです。この説明板によると、竪坑の深さは約50m、地上から5.5mまでの坑口上部は直径5.5mの円形、それ以下の部分は3.2m×2.7mの楕円形だとか。山道を下りきると、藤尾奥町に出ます。「普門寺前」の標識が山道の入口に立っています。その反対側には地蔵堂があります。こちらから小関越えの峠までは0.9km、長等公園までだと2.15kmです。それだけ歩いてきたことになります。 普門寺の山門をデジカメのズーム機能で撮ってみました。如意山普門寺は、現在浄土真宗本願寺派のお寺です。本尊は阿弥陀如来。878年三井寺の支院・藤尾寺として、円珍を開基とすると伝えられているそうです。1471年に蓮如上人に帰依した天台宗の僧・了然が普門寺として再興したことで浄土真宗のお寺になったと言います。(資料2) 少し先で見た地蔵尊立像 そして、日蓮宗の「立正山寂光寺」に到ります。この建物の左側に木造のお堂(寂光寺観音堂)があり、現在は寂光寺がこのお堂を管理されています。 説明板ここに大津市指定文化財の「藤尾磨崖仏」がお堂の中に取り込まれた形で祀られています。お堂の背後にある花崗岩の南壁に仏像が刻まれているのです。かつてこのお堂は「山田堂」「藤尾観音堂」と呼ばれていたのです。「高さ278cm、幅566cmの横長の花崗岩に、大小15体の像と梵字が彫られています。」(説明板)「中央に大きく阿弥陀坐像(中尊)その左に地蔵立像、右に観音立像、勢至立像、釈迦立像の五体が浮き彫りされている。その上下にちいさな像が五体ずつ彫られて、大小合わせて十五体あります。」(資料3)諸尊はそれぞれ光背形に彫りくぼめられた中に仏身を肉厚に浮き彫りするという形で表されています。中尊の阿弥陀如来坐像の場合は、光背周辺に13の種子(梵字)が陰刻されています。(資料4)磨崖仏の彫られた花崗岩の一部には火災に遭った跡が遺っています。拝観は事前に連絡し予約が必要です。現在は、この磨崖仏の撮影は禁止となっていますので、撮ることができず残念です。数年前までは撮影ができたようです。インターネットで掲載されているサイトをいくつか見つけました。補遺にてご紹介させていただきます。そちらをご覧ください。 「自然の道・歴史の道」の道標やお馴染みとなった道標で「藤尾奥町」を過ぎると、再び琵琶湖疏水が見える形になります。この道標から京阪四宮駅までは1.3kmです。ここがあの第一トンネルの東口洞門に対する西側の出口の真上からの疏水の景色です。 第一トンネル西口洞門。この画像の篇額が嵌め込まれています。地図の番号(12)です。 山縣有朋筆「廓其有容(かくとしてそれいるることあり)」「疏水をたたえる大地は、奥深くひろびろとしている」という意味だとか。(説明板より) 一方、補遺に掲載しましたが、「パンフレット 琵琶湖疏水」では、この扁額の語句を「かくとしてそれかたちあり」と読み下して紹介されています。こう読むことで「悠久の水をたたえ、悠然とした疏水のひろがりは、大きな人間の器量をあらわしている」(資料1)という意味と解釈されてもいます。 緊急遮断ゲート 平成11年(1999)設置 地図の番号(13)です。平成7年(1995)の阪神淡路大震災の教訓を踏まえて、大地震発生による堤防決壊に備えるため、水流を自動で停止させる目的で設置されたそうです。道標「(琵琶湖疏水)藤尾橋」のところで、 橋上から琵琶湖疏水の上流側(右)と下流側(左)の水路の眺めを撮ってみました。さらに疏水沿いに進みます。左側はJR琵琶湖線です。 洛東用水取水口第一疏水の建設目的のひとつに、京都の灌漑用水の確保がありました。この洛東用水取水口は、山科東部地区の灌漑用水の取水口です。現在も田植えの時期に活用されているそうです。 その先は、京都・山科の疏水縁の散策路になっていきます。ここがその入口です。 疏水縁の桜並木が綺麗なところ。JRの琵琶湖線に乗ると、車窓から少しその桜並木を楽しめる箇所があります。この近く、疏水の北側には「一燈園」が所在します。こんな総合案内板が設置されています。つづく参照資料1) 「探訪[近江水の宝]小関峠越えをゆく-琵琶湖疏水-」当日の配布資料 滋賀県教育委員会 協力:おやじのたまり場 2) 普門寺 (滋賀県大津市藤尾):「お寺の風景と陶芸」3) 「寂光寺の磨崖佛についての由緒」 当日拝観の折にいただいたリーフレット4) 寂光寺藤尾磨崖仏の概要を知りたい。 :「レファレンス協同データベース」【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺田辺朔郎 :ウィキペディア琵琶湖疏水と田辺朔郎 京都大学 吉田英生氏 pdfファイル田辺朔郎 :「京都にてのあれこれ」山縣有朋 :ウィキペディア元帥陸軍大将・山縣有朋 :「吉田松陰.com」山縣有朋記念館 ホームページ「パンフレット 琵琶湖疏水」pdfファイル 京都市上下水道局 ダウンロードできます。6.72MBというサイズです。 2ページから7ページに「第一疏水」の詳しい説明があり、第一竪坑の図面や写真 も掲載されています。一燈園 公式サイト一燈園 :ウィキペディア西田天香 :ウィキペディア 滋賀県長浜市に生家があります。滋賀県とも縁の深い人です。[寂光寺の磨崖仏の写真を掲載されているサイト情報]藤尾磨崖仏 :「ぼちぼちいこか」大津市 寂光寺「藤尾の磨崖仏」 :「愛しきものたち」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 琵琶湖疏水 小関越えをゆく -1 疏水第一築地、歌碑と旧京都三高艇庫、第二疏水取水口、大津絵橋、大津閘門、第一トンネル東口洞門 へ探訪 [再録] 琵琶湖疏水 小関越えをゆく -2 三尾神社・長等公園・大津大神宮・慶祚大阿闍梨入定窟・小関越道標・等正寺・喜堂(峠の地蔵)ほか へ探訪 [再録] 琵琶湖疏水 小関越えをゆく -4 四ノ宮舟溜り・諸羽トンネル・東山自然緑地公園(第一疏水旧水路跡)・安祥寺川と第一疏水・第二疏水との交差ほか へ
2017.03.17
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本殿の瑞垣を右に回り込むと、境内の奧、東端よりに石鳥居の立つ社が2つ並んでいます。 近づくと、石鳥居にはそれぞれ額が掛かっています。左の額は「豊国神社」、右の額は「秋葉神社 愛宕神社」です。右側の社を拝見すると、本殿は左右に観音開きの扉が2つ並び、2柱が祀られている形になっています。左側の本殿は、観音開きの扉が1つです。「豊国社」と記された提灯が吊ってあります。瑞垣の扉の傍に説明板として、次の2つが掲示されています。この社は、「樹下社(このもとのやしろ)」として祀られてきたのです。 板書の説明が読みづらくなっているため、活字体で印刷された同文が併せて掲示されえいるのです。豊臣秀吉は、木下姓です。木下を樹下と記し、「このもと」と読ませて、密かに豊臣秀吉を祭神として祀ってきたそうです。正式な祭神名は、国泰院殿前関白大相国。尚、「樹下社は日吉上七社の一で往時は十禅師社とも称した」(説明文より)ことから、樹下を木下の縁故のある社名と見立て、公儀を憚る苦心が潜んでいるようです。(資料1,説明文)説明板の要旨は、阿弥陀ヶ峰の豊国社が徳川幕府による破毀、この新日吉神宮の移転により元和以降頽廃します。そこで、豊国廟の管理は妙法院と新日吉神宮で管理し、秀吉の豊国廟の神火を内々にこの神宮の神供所で祀ってこられたとか。天明5年(1785)に至って、社殿が造営されて「樹下社」という形で神霊を奉遷されたそうです。そして、2年後の正月18日には、「社頭の祝」として御法楽和歌37首の献納があったそうですが、和歌には豊国の神を祝い寿き詠まれているものだとか。そのうちの5首が抽出されて例示されています。ここでは転記を省略します。 拝所の屋根瓦は差し障りのない形本殿の背後に回ってみました。そのとき、豊国神社の本殿側面が見えます。 本殿の背後、南東側にこの神木が立っています。ブナ科の常緑高木「スダジイ」で、平成16年(2004)3月に京都市の保存樹に指定されています。「幹周が4m以上もあり、江戸時代以前から現存していたと思われます。大きく拡がった樹冠は社殿を覆う勢いで、根が隆起した姿に畏敬の念を抱きます。」(説明文より) 樹齢は500~800年といいます。(資料2)神社が移転する以前に存在した故に、社殿造営もこの樹木を神木として配慮し建てられたのでしょうね。北側からの眺め。根が隆起している様がよく見えます。神木として注連縄が掛けられています。その傍の大きな岩にも注連縄がかけてありますので、磐座なのでしょう。 スダジイを見上げると・・・・・。本殿の背面です。こちらにも唐破風の門が設けられています。 蟇股、木鼻はシンプルです。 本殿の北側面です。奥行三間のように見えます。装飾は比較的シンプルな感じです。 本殿の北側には、上部に小さく「飛梅」と横書きし、中央に大きく「天満宮」と記す額が掛かる石鳥居のある「飛梅天満宮」が祀られています。 瑞垣には、この天満宮も後白河天皇の創祀であることと、祭神として菅原道真とともに、道真遺愛の飛梅の霊をも祀っていると記されています。「飛梅天満宮」という名称はそこに由来するようです。 瑞垣の隙間から本殿を撮らせてもらいました。蟇股は装飾のない板蟇股です。それに比して、木鼻は彫りの深い造形です。末社の中ではここだけにダイナミックな装飾彫刻が見られます。蟇股と木鼻のバランスの欠如を考えると、板蟇股は後世の補修なのではないかと勝手に推測しています。 石鳥居の傍に、梅が咲いていました。境内地に上がる石段が3箇所ある理由が理解できます。飛梅天満宮に直接参拝できるこの北側の石段。新日吉神宮本殿に参拝する倍の幅がある中央の石段。そして、豊国神社等三社に直接に参拝できる南側の石段という位置づけのようです。前回ご紹介した、中央の石段を上がったところに置かれた「神猿」の像。狛犬像と対比するなら、狛猿という位置づけです。猿が神の使いとしてここに配置されるのはこの神宮としては不思議ではないのですが、なぜ金網の中に入れられた形なのか?調べていて、ある解釈を知りました。引用してご紹介します。”ひとつは「神の使いが盗まれてしまわないように」。そしてもうひとつは「猿たちが夜な夜な動き出すのを防ぐため」。”(資料2)一つ目の理由は想像していたのですが、二つ目の理由は考えていませんでした。もし、この猿さんが夜な夜な動き出したら、神の使いとして、何を始めるのでしょうね?あるいは、昼間は神の使いとして殊勝に行動しても、夜は本然の猿に戻って行動することがないようにという戒めでしょうか・・・・。様々な想像が広げられます。この新日吉神宮では、5月の第2日曜日に「神幸祭」が行われます。当神宮のホームページを参照すると、次のような特徴がある祭礼のようです。*江戸時代の1655年以来、鳳輦(神を乗せ、いわゆる神輿に相当する)が氏子町内を巡行する。*御所より寄進された「振り鉾(剣鉾)」も氏子町内を巡行する。*神宮の神官が「馬場御供の儀」で祝詞を奏上し、「法楽の儀」で妙法院の僧が読経を行う。そして互に挨拶を交わすという儀式で、神仏習合の光景が見られることになる。この神幸祭は「新日吉祭(いまひえまつり)」とも称されるようで、宮中での小五月会(こさきのまつり)を復興させたものだそうです。(資料3,4)一度、祭礼見物をしたい、そんな気にさせる祭事の一つに思えます。私は、一度偶然に粟田神社の剣鉾巡行に出会ったことがあります。剣鉾の実物の巡行を初めて見物した機会でした。鳳輦は時代祭の巡行で見ています。 楼門を見上げながら通り過ぎ、本来の正面の参道から出ました。 楼門の前方に石の鳥居が立ち、ここには石像の狛犬が奉納されています。この狛犬像は一般的な形のものです。 これが神宮の正面の参道です。この少し手前で山口稲荷社の方の参道を経由して楼門に向かっていたのです。本来なら、この神宮の案内板から始まる神宮参拝です。これを拝見するのが最後になりました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p130-1312) 新日吉神宮(いまひえじんぐう) :「HIGASHIYAMA」3) 神幸祭(5月第2日曜日) :「新日吉神宮」4) 小五月会(こさきのまつり) / 神官・僧侶が揃って新日吉神宮の神幸祭を行う :「Club Fame.」補遺新日吉神宮 ホームページ特集 京の祭の遺宝 剣鉾(けんぼこ):「京都市文化観光資源保護財団」京都・東山 2015年 粟田神社 神幸祭 剣鉾巡行 東山三条 :YouTube剣鉾にて京の悪霊を鎮める 三連休の剣鉾めぐり by 五所光一郎 :「Club Fame TRAD」鳳輦 :ウィキペディア鳳輦巡行 :「京都あっちこっち」すごいよ!マサルさんの厄除けパワー!「日吉大社」の神猿(まさる)さんに会いに行こう! :「Traavel,jp」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・東山 新日吉神宮 -1 へスポット探訪 京都・東山 佐藤継信・忠信墓、小松谷正林寺 へスポット探訪 京都・東山 香雪院(東山聖天尊・弁財天) へ
2017.03.17
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三尾神社・石の鳥居の傍を通り、琵琶湖疏水「第一トンネル東口洞門」まできました。この第一トンネルのすぐ近くに、冒頭の写真の建物がまず見えます。たぶん三尾神社の舞殿なのでしょう。 [探訪時期:2015年2月] 神社の手水舎では、水の注ぎ口が龍の口になっているのが一般的です。 ここは、龍の代わりにうさぎなのです。社殿のある区域に入る神門前の石橋の傍にある石灯籠にも兎が彫刻されています。 神門(向唐門)の笈形や蟇股、木鼻の意匠は比較的シンプルです。蟇股の中央には菊の紋が使われています。神門を入ると、右側に御由緒の説明碑。三尾神社の祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)です。配祀神が白尾神、黒尾神だとか。(資料1)伊弉諾尊がここ長等山に降臨され、この地の地主神として鎮座されたのが創始とされています。この地主神は常に赤・白・黒の三帯を着し、その形が三つの尾をひくのに似ているところから、三尾明神と称され、三尾神社の名の由来になったそうです。(説明碑)「寺門伝記」補録第五三尾明神祠には、以下の内容の記載があるとか・・・・。「三尾明神はその昔伊弉諾尊がこの地に降臨され、長等山の地主神となられた。この神は常に三つの腰帯をつけておられた。ある時その三つの腰帯が赤尾神・白尾神・黒尾神となられ、それぞれ三ヶ所で出現された。最初の出現は赤尾神で、上の三尾(琴尾山 山上の祠)と称されたが、出現の時は太古卯年の卯月卯日卯の刻というだけで何の時代の何年という事が不明である。第二の出現は白尾神で、場所は現在の三尾神社(筒井の祠)とされている。出現の時は文武天皇の大宝年間の夏というだけで何年という事が知られていない。第三の出現が黒尾神で鹿関の地でこの神のみが称徳天皇の神護景雲三年三月十四日の出現とされている。三神とも御本体は一つで伊弉諾尊となっている。之を上の三尾・中の三尾・下の三尾と称されていた。」(資料1)園城寺(三井寺)の開祖・智証大師円珍が、琴緒谷(上の三尾)に復興され、南院の鎮守社として社殿が建てられていたそうです。明治時代の神仏分離令により、明治10年(1877)に現在地に社地を移転し、応永33年(1426)に建立された本殿も移築されたといいます。(説明碑、資料1,2) 拝殿 拝殿の先に、三間社流造の形式の本殿があります。 拝殿に向かい、右側には「日御前(ひのごぜん)神社」が鎮座します。この神社の祭神は、天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神です。さらにいくつかの境内社が並んで祀られています。白鬚神社・夷子神社、天満宮、白山神社・愛宕神社です。また、拝殿に向かい左側に坂下稲荷神社が鎮座します。 拝殿に掛けられた幕には、三尾神社の神紋「真向きのうさぎ」が描かれています。蟇股の中央にも真向きのうさぎが彫刻されています。唐破風の兎毛通の上の飾り金具にも神紋が付けられ、丸軒瓦にも真向きのうさぎが見られます。いたるところにうさぎを見られる神社です。最初の赤尾神の出現が卯年の卯月卯日卯の刻という伝承から、うさぎが神の使いとして認識され、いまではうさぎの三尾神社、干支がうさぎの人の守護神と崇められるのでしょう。拝殿の前には、「めおと卯」が奉納されています。境内には右の写真の親子うさぎ像もあります。この三尾神社で、「疏水の起工奉告式・竣工奉告式が行われた」のです。(資料2)脇道に逸れますが、うさぎで思い出したのが、一つは京都の岡崎神社です。ここも手水舎には黒御影石のうさぎがいて、境内には狛犬替わりの狛うさぎが配されています。もう一つが宇治にある宇治神社と宇治上神社です。宇治神社の祭神は「莵道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)」でここの手水舎もうさぎです。宇治上神社の祭神の一柱は「莵道稚郎子」です。「莵道」つまり「うさぎのみち」と書いて「うじ」と読みます。莵道稚郎子が河内国からこの地に向かう途中道に迷われたとか。そのとき兔(うさぎ)が現れて、振り返りつつ先導したと伝えられています。宇治上神社のお守りはうさぎ、「うさぎのおみくじ」(小さなうさぎの中におみくじが入っています)もあります。いずれも初詣で訪れています。三尾神社を後にして、小関越えの入口に向かいます。 その途中に見えるのが、三井寺南別所の石標です。その側面には「かたたげんべえくびのてら」と陰刻があります。このお寺が「両願寺」のようです。後ほどまた触れましょう。長等神社の立派な楼門前を通過します。今回は立ち寄れませんでした。 長等神社については、こちらのホームページをご覧ください。道路を隔てた斜め前には、「大津絵民藝房」という大津絵のお店があります。道沿いに進むと、長等公園に到ります。長等公園で小休止です。 長等公園の入口にあるのが、「大津大神宮」。明治11年に天照皇大神を奉斎して大津市下栄町に創立された社殿が、昭和4年にこちらに移築され、平成7年に社殿が大改修されたそうです。右隣りにある建物が滋賀県神社庁です。 長等公園に入ったあたり明治35年(1902)に滋賀県下最初の公園として開園されたそうです。公園内には約900本の桜の木があるそうです。あと少ししたら、ここの桜も咲き始めることでしょう。長等創作展示館(三橋節子美術館)や平忠度(ただのり、清盛の弟)の歌碑があります。 さざ浪や志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな 千載和歌集収載公園の入口近くにもう一つあるのがこの「慶祚(けいそ)大阿闍梨(あじゃり)入定窟」です。 洞窟の奥に慶祚大阿闍梨の石像が祀られています。龍雲坊先徳慶祚は10世紀末の天台宗の僧です。山門(延暦寺)と対立していた三井寺を隆盛にした人で、五別所の一つ尾蔵寺の開基だとか。また三井寺別所微妙寺の開基でもあるようです。(資料3,4,5)尾蔵寺は廃絶しています。尾蔵寺の本尊は現在、三井寺境内にある三井寺別所微笑寺に祀られています。 この一画にある小祠と「南無阿弥陀仏」の名号碑傍の駒札によると、逆修念仏講結衆により永正17年(1520)に建立された碑(重文)です。逆修とは「ぎゃくしゅ 仏教語 (1)生前に自分の死後を供養すること。(2)年長者が若い死者の供養をすること」(日本語大辞典・講談社)です。休憩後、いよいよ小関越えに入ります。 まず目に止まるのが、「小関越道標」(大津市指定文化財)です。小関越から園城寺(三井寺)へ向かう道の分岐点にあります。正面の右上に「右」、道標の下部に「三条 5条 いまく満 京道」と刻まれています。今回の探訪でこれから進んで行く方向です。小関越道標の左にある「蓮如上人御旧跡」碑は下に「等正寺」の寺名が刻され、左の写真にあるように、その側面には「かたたげんべゑのくび」と刻まれています。等正寺への道標です。 小関越道標の分岐点の道の反対側には「地蔵堂」があります。腹帯地蔵尊が祀られています。マピオンの地図を見ると、「腹帯地蔵尊」と表記されています。 分岐点から、少し先にある石造鳥居後で調べてみると、この鳥居は「小関天満宮」への参道入口です。 「等正寺」の前を通過します。「堅田源兵衛の首(等正寺)」はこちらをご覧ください。(「観光データベース」)「堅田の漁師源兵衛は、浄土真宗中興の祖蓮如が法難を受け三井寺に預けた宗祖親鸞の御真影を取り戻すため、自らの首を差し出した殉教者として有名でした。」(資料2)この源兵衛の首を等正寺で祀られているのです。ところで、源兵衛の首を祀るとされるお寺が、実は3ヵ所あるのです。上掲の「三井寺別所両願寺」もその一つです。そして、もう一つが本堅田にある光徳寺です。こちらは、堅田の探訪をしたときに、探訪後に個人的なオプションとしてお寺を拝観して、祀られている首その他を拝見しています。その後で、調べていて、今回その前を通過するだけになったこの等正寺を知った次第です。本堅田の光徳寺を含めて、堅田についての拙ブログ記事は、後日再録してご紹介したいと思っています。 坂道を上っていくと右側には六地蔵尊が祀られ、五輪塔と石仏群が通り沿いにあり、墓地の入口です。その先でも、地蔵石仏が道路端に祀られています。 少し坂道の勾配が増し始めます。この「小関越え」は東海道を大関越えと呼ぶのに対した名称です。北国海道(西近江路)から別れて藤尾で東海道に合流する間道(脇道)なのです。この道は京都からは大津の町中を通らずに北陸に向かうための近道として利用されていたそうです。また、上掲の「石造小関越道標」に「いまく満」と刻まれていると記しています。「いまく満」というのは、「京都今熊野観音寺」を意味します。西国三十三所観音巡礼の第14番札所が三井寺で、第15番札所が京都今熊野寺です。この小関越えは江戸時代の巡礼道でもあったのです。 坂道が急になり始めたところで、現代のこの道標も立っています。小関越えの峠を登り切ったところにあるのが、この「喜堂(よろこびどう 峠の地蔵)」です。 道路の拡幅工事の折に地蔵石仏が見つかったのです。その地蔵を祀るために、地元住民が平成元年(1989)にこのお堂を建立されたそうです。 この峠の少し先で、鋪装道路から外れた山道を下り、途中で琵琶湖疏水と関連する場所を確認します。つづく参照資料1) 三尾神社 (ミオ) ~(みおんさん):「滋賀県神社庁」 2) 「探訪[近江水の宝]小関峠越えをゆく-琵琶湖疏水-」当日の配布資料 滋賀県教育委員会 協力:おやじのたまり場 3) 慶祚4) その(2) 神出 歴史散歩 :「三井寺」5) 三井寺別所・微妙寺/水観寺 :「Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めて」【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺三尾神社本殿 :「滋賀県」三尾神社 :「本地垂迹資料便覧」みおんさん 兎の宮 三尾神社 三井寺 周辺 2 【 うろうろ近畿 】 滋賀県 大津市 うさぎ神社 rabbit shrine ウサギ :YouTube長等神社 :「滋賀県神社庁」大津絵の店 ホームページ長等公園 :「KEIHAN 京阪電車」長等公園 :「滋賀・びわ湖」宇治神社 ホームページ世界遺産(世界文化遺産) 宇治上神社 :「京都府」東天王岡﨑神社 :「京都十六社朱印めぐり」今熊野観音寺 ホームページ西国三十三所巡礼の旅 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 琵琶湖疏水 小関越えをゆく -1 疏水第一築地、歌碑と旧京都三高艇庫、第二疏水取水口、大津絵橋、大津閘門、第一トンネル東口洞門 へ探訪 [再録] 琵琶湖疏水 小関越えをゆく -3 分岐点・第一竪坑・藤尾磨崖仏・第一トンネル西口洞門・緊急遮断ゲートほか へ探訪 [再録] 琵琶湖疏水 小関越えをゆく -4 四ノ宮舟溜り・諸羽トンネル・東山自然緑地公園(第一疏水旧水路跡)・安祥寺川と第一疏水・第二疏水との交差ほか へ
2017.03.17
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先月(2017.2)中旬に、京都の東山を少し散策してみました。まず訪れたのは「新日吉(いまひえ)神宮」です。 冒頭の写真は東山七条の交差点の北東側、妙法院の築地塀の角近くに立つ巨大な石標です。この「豊国廟参道」の緩やかな坂道を上っていくと、石造鳥居が見えます。「新日吉神宮」の境内はその傍、南東側です。この石造鳥居あるいは北側の道路を更に進めば、豊国廟に至ります。参道の途中、北側には京都女子学園のキャンパスが広がっています。小学校から大学までの学舎が並んでいる一画です。そこで、この参道は通称「女坂」と呼ばれているようです。そして、東の端、「太閤担(だいら)」に至り、そこから阿弥陀ヶ峰への石段を登り詰めれば、山頂に豊臣秀吉を祀る巨大な五輪塔が鎮座しています。この豊国廟は幾度か訪れたことがあるのですが、新日吉神宮を訪れたことがなかったのです。この大きい石鳥居あたりが東大路通と太閤坦の中間位になりそうです。この石鳥居の右側の石畳を上っていくと、現在の新日吉神宮の楼門前に至ります。この神宮はかなりの変遷を経て現在に至ります。永暦元年(1160)に後白河上皇が、既にご紹介している法住寺殿を造営する際に、近江国坂本の日吉神を勧請して、法住寺殿の東、今熊野瓦坂に新日吉神社を建立したと伝えられています。現在の地名で今熊野日吉町あたりだとか。後白河上皇の崇敬が極めて篤く、それ以降後伏見上皇(1313-1318)までに108度の臨幸があったと言います。妙法院は新日吉神社の別当に補せられていたそうです。そして、応仁の乱後に衰微します。(資料1、境内の説明板)豊臣秀吉は、阿弥陀ヶ峰山頂を己の埋葬地と定めます。その遺言により埋葬されると、山麓には翌慶長4年3月、山麓(太閤坦)に壮麗な社殿僧坊が造営されるのです。元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、徳川家康は豊国廟を破毀して、それまでの豊国廟への参道の中央、旧廟前に、新日吉神宮として神社を移転させるのです。豊国廟への墓参の妨げとする意図もあったのでしょう。そして、寛永年間(1624-1644)に妙法院堯然法親王が新日吉神宮の社殿を再興されたとか。ところが、明治維新で徳川幕府が滅び、明治13年(1880)に方広寺の地に、豊国神社が再興され、さらに明治31年(1898)に豊国廟の修築と参道の改修が行われるという事になり、新日吉神宮は豊国廟参道の南側に移転したのです。その結果が現在の新日吉神宮の境内域となります。 (資料1)江戸時代と比べると、境内地が縮小することになったと思われます。大きな石鳥居の石段を上ると、鳥居の手前には鳥居に見合う大きな石灯籠が一対立っています。 鳥居をくぐった先はこんな景色です。右側に石垣が積まれ、一段高くなった所から南側が新日吉神宮の境内です。石鳥居の東側から西方向を振り返った景色。真っ直ぐ緩やかに下がる道が豊国廟参道です。上掲の石灯籠の火袋に「五七の桐」紋のレリーフが施されていることを考えると、この石鳥居は豊国廟参道の石鳥居という位置づけと推測します。鳥居の右側に見える建物が京都女子学園の学舎の一部です。石鳥居の右側の石畳を進むと、まず左側に、一対の狐像と朱塗り鳥居が見えます。「山口稲荷神社」の額が掛けられています。 唐破風の向拝に近づき見上げると、大瓶束の両側にダイナミックな波形文の装飾が施されています。 唐破風の支柱の前に、正面に「御神燈」と刻された台座のようなものが一対目にとまりました。他では見かけた記憶がありません。燈火を置くための台座でしょうか?右手の鳥居を抜けて、楼門に向かいます。 楼門 楼門を入ると、正面に拝殿があり、その先の一段高くなった境内地に社殿が見えます。 振り返ってみた楼門の眺め 拝殿の傍に置かれた狛犬像 一段高い境内地に上るのに、3箇所の石段が設けられています。楼門-拝殿-石段-社殿と一直線上に並ぶのが中央の石段です。これが中央の石段です。両側の石段に比べると倍ほどの幅がある石段です。 日吉大社の神の使いは猿ですので、ここも石段を上った両側に神猿像が置かれていまず。唐破風の向拝と中門・回廊の菱格子窓の向こうに本殿が見えます。祭神は日吉山王の神(上七社)と合祀としての後白河天皇御霊(ミタマ)です。日吉山王の神々は次のとおりです。(境内の案内板より) 大山咋命(オオヤマクイノミコト) 和霊(ニギミタマ)と荒霊(アラミタマ) 大巳貴命(オオナムチノミコト:大国主命[大黒様]) 賀茂玉依比売命(カモタマヨリヒメノミコト) 和霊(ニギミタマ)と荒霊(アラミタマ) 田心比売命(タゴリヒメノミコト) 菊里比売命(ククリヒメノミコト) 唐破風の獅子口と兎毛通の上部・破風板の装飾金具に菊の紋がレリーフされています。 蟇股の透かし彫りと木鼻はともに比較的シンプルです。まず、楼門と同じ高さの境内地に目を向けておきましょう。楼門を入った左側前方に、簡素な手水舎があります。 手水舎の北東側に収蔵庫が2棟あります。 この屋根の獅子口にも菊の紋が使われています。 軒丸瓦と扉の紋は、神宮の神紋と思われます。 目に止まった興味深いものがこの「京都市旧午砲の台座」です。調べてみると、情報が得られるものです。明治時代、京都市街に正午の時報を知らせる為に、高台寺に時報砲台が設置されて、午砲(ドン)として、空包が発射されていたようです。大正初期に、高台寺の建物に影響するという理由で廃止になり、この新日吉神宮に寄贈されたのだとか。号砲自体は、第二次大戦の時に、金属供出されたようで、台座だけが残ったという遺物です。(資料2) これは、本殿のある境内側からみた拝殿と境内の南側に位置する社務所を眺めた景色です。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p130-1312) 質問29 高台寺境内から発射されていた午砲(ドン)について知りたい。 京都に関するご質問 :「京都市図書館」補遺山王総本宮 日吉大社 ホームページ午砲 :ウィキペディアネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 京都・東山 新日吉神宮 -2 へスポット探訪 京都・東山 佐藤継信・忠信墓、小松谷正林寺 へスポット探訪 京都・東山 香雪院(東山聖天尊・弁財天) へ
2017.03.16
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[探訪時期:2015年2月]この写真は、これからご紹介する探訪の集合場所、大津港前芝生広場の入口にある「大津城跡」碑と「大津城縄張推定復元図」です。赤丸を追記したところが、この碑のある場所。京阪浜大津駅前の陸橋を湖岸方向に出て、広場入口に下りたところにあります。2015年2月21日(土)に、探訪「小関峠越えをゆく-琵琶湖疏水-」に参加しました。滋賀県教育員会の文化財保護課・企画テーマ「近江の宝」の一環としての探訪です。「おやじのたまり場」のメンバーがボランティアガイドとして協力してくださいました。この時のまとめを再録して、ご紹介します。「滋賀・大津を歩く」の最後にご紹介したのが、この時の個人探訪部分です。この地図が配付資料に掲載の全行程図です。こちらの部分拡大図が今回ご紹介のエリアに関係する場所になります。この資料を主に参照しながらご紹介します。(資料1)黒丸の「スタート」が集合した広場であり、冒頭写真がその歩き始めた地点です。今回ご紹介のエリア地図(Mapion)はこちらをご覧ください。西近江路を「志んみ保がさきばし」(新三保が崎橋)まで歩きます。この辺りはかつては砂浜だったそうです。そこに疏水の取水口を築くために、「疏水第一築地」が作られたのです。土砂の堆積により取水口が塞がれることを防ぐのが目的だったとか。 今、第一築地の内側(取水口)はヨットハーバーに。 三保ケ崎水位観測所があります。 第一築地には、「われは湖の子」と刻んだ石碑と、その傍に「琵琶湖周航の歌」の歌碑があります。第三高等学校に入学した小口太郎が1917(大正6)年6月に琵琶湖一周の漕艇中に歌詞を思いついたとされている今やご当地ソングの定番の歌です。琵琶湖と言えば、すぐにこの歌を連想します。琵琶湖周辺の探訪の何カ所かで「琵琶湖周航の歌」歌碑を目にしています。作詞・小口太郎、作曲・吉田千秋で初版のレコーディングが行われたのは1933(昭和8)年だったようです。(資料2)すぐ近くに、1912(大正元)年に建てられ「三高&神陵ヨットクラブ」と板壁に記された艇庫があります。「現在京都大学ヨット部の艇庫は、旧制第三高等学校のものとして建てられたものです。」(資料1)第三高等学校二部クルーは学年末の慣例として6月にこの三保ケ崎を漕ぎ出でたのだとか。当時は7月卒業という学制だったそうです。1日目雄松(近江舞子)、2日目の6月8日今津の湖岸の宿に泊まった時に、部員の中安治郎が小口の作詞内容を紹介したのです。そして、その歌詞を当時学生の間で歌われていた「ひつじぐさ」(作曲・吉田千秋)の曲にのせて歌ったというエピソードが伝わっています。(資料2,3,4)好きな歌ですので、脱線しました。本筋に戻ります。 第二疏水取水口 新三保ケ崎橋を渡って道路沿いにさらに少し先に進むと、南西方向に見えます。取水口北側の建物は第二疏水管理棟です。第一疏水だけでは電力需要が満たせなくなったことがその一因です。もう一つ、第一疏水の完成当時、京都市は人口が27万9000人だったとか。当時の市民の飲料水は井戸水が主体だったのですが、コレラなどの伝染病が流行したために、上水道の整備が課題となり、京都医市民の飲料水をまかなうことも必要になったのです。これらの目的で第二疏水が作られることになったといいます。(資料5)第二疏水の流量は毎秒15.30立方メートルだそうです。(資料6)1908(明治41)年10月着工、1912(明治45)年3月完成。「上水道の水源として汚染を防ぐため、全線が掘り抜きトンネルまたは鉄筋コンクリート管の埋立てトンネルに設計されています」(資料1)延長7.4km。西郷隆盛の子、西郷菊次郎市長が京都市の三大事業(第二疏水、水道、市電)の中核事業と位置づけて着工したといいます。(資料6)従って、琵琶湖疏水の本線は、第一疏水の取水口から、いよいよ京都側へ探訪していくことになります。1881(明治14)年2月、京都府知事に任命された北垣国道が京都の産業の振興を目的として、着目したのが琵琶湖であり、疏水の開削だったのです。琵琶湖疏水は、1885(明治18)6月に着工され、1890(明治23)3月に、まず大津から鴨川合流点までが完成します。(資料6)こちらは全長11.1kmです。「福島県の安積疏水の主任技師南一郎平に琵琶湖疏水計画の調査を依頼し,大津京都間の測量を島田道生に命じ,東京の工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を土木技師に採用するなどの準備を進め」(資料6)、難工事を含めながら人力中心で工事が行われたといいます。 左の写真が疏水、右の写真は「揚水機場」です。疏水施設の近代化の一環として、「琵琶湖の水位が下がったときでも安定した取水ができるよう,第2疏水連絡トンネルの工事が行われ,平成11年に通水し」(資料6)たことで、この揚水機場のポンプの稼働の必要性はほぼなくなったようです。 大津絵橋 この橋は疏水に対して斜めにかけられています。実はこの橋、1969(昭和44)まで運営されていた江若鉄道の線路だったところなのです。今は、大津市役所前を通り、皇子が丘公園までの遊歩道「大津絵の道」の一部になっています。 ご覧のように、この橋には大津絵があしらわれています。これは鬼と藤娘でしょうか。 大津閘門(こうもん) 閘門というのは運河や放水路で水量を調節するための水門です。この大津閘門は日本人が設計建設した日本最古の様式閘門なのです。初期は木製の扉だったそうで、4人の人足が手動回転式により開閉していたといいます。今はハンドル開閉式の鉄の扉です。上流側。 左岸に左写真の石標があります。上掲の田辺朔郎が大津閘門の開閉を明治天皇に説明した記念に建てられたもの。 下流側の閘門の景色疏水の両側には桜の木が植えられています。この疏水縁の桜が満開になると見事なことでしょう。もうすぐその時季が巡ってきます。 鹿関橋のところにある説明板 左岸から鹿関橋を渡って右岸沿いに進むと、「三尾神社」の石の鳥居が見えて来ます。 この鳥居の左側を疏水沿いに進みます。振り返るとこんな感じです。見えてくるのが、「第一トンネル東口洞門」です。三井寺観音堂下を通り、長等山を貫きます。全長2,436m。この第一トンネルが難工事だったといいます。当時、国内最長のトンネルになったそうです。1890(明治23)年2月に完成。 入口に鉄製の扉が見えます。これは、建設当時「疏水が原因となって、琵琶湖の渇水や京都の洪水が起こる」という流言から反対運動が生じたので、それをなだめるために、非常時に開閉できるようにと設けられたといいます。幸いにも現在まで一度も閉じられていないそうです。ギリシャ神殿を模した花崗岩製のこの東口洞門のアーチの上部には、「気象萬千」と伊藤博文が揮毫した書の扁額が飾られています。「千変万化する気象と風景との変化はすばらしい」という意味だそうです。中国・宋の時代の岳陽樓記の一節からの句といいます。トンネルの内部には、北垣国道京都府知事の書「寶祚無窮(ほうそむきゅう)」が刻まれているそうです。「皇位は永遠である」という意味だそうで、明治の気風がうかがえます。この東口洞門入口の上は道路になっています。そこからの疏水の眺め。この第一疏水の流量は毎秒8.35立方メートルだそうです。(資料6)つづく参照資料1) 「探訪[近江水の宝]小関峠越えをゆく-琵琶湖疏水-」当日の配布資料 滋賀県教育委員会 協力:おやじのたまり場 2) 琵琶湖周航の歌 :ウィキペディア3) 「♪われは湖の子・・・♪」で知られる琵琶湖周航の歌 :「びわ湖源流.com」4) 琵琶湖周航の歌資料館 ホームページ5) 『京都 水ものがたり 平安京1200年を歩く』 平野圭祐著 淡交社 p506) 琵琶湖疏水 :「京都市上下水道局」【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺琵琶湖周航の歌 :「高島市」ホームページ琵琶湖疏水(本線) :「写真で見る日本の歴史」大津の取水口から京都へ散策 :「京都・滋賀深堀り 文化観光」(京都新聞)ギャラリー :「大津絵の店」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その4 JR大津駅前中央大通り(旧葭原町・華階寺・大津別院)から大津港へ探訪 [再録] 琵琶湖疏水 小関越えをゆく -2 三尾神社・長等公園・大津大神宮・慶祚大阿闍梨入定窟・小関越道標・等正寺・喜堂(峠の地蔵)ほか へ探訪 [再録] 琵琶湖疏水 小関越えをゆく -3 分岐点・第一竪坑・藤尾磨崖仏・第一トンネル西口洞門・緊急遮断ゲートほか へ探訪 [再録] 琵琶湖疏水 小関越えをゆく -4 四ノ宮舟溜り・諸羽トンネル・東山自然緑地公園(第一疏水旧水路跡)・安祥寺川と第一疏水・第二疏水との交差ほか へ
2017.03.16
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2015年2月21日(土)に、別途再録しご紹介する予定の探訪に参加する機会を利用し、JR大津駅から集合場所の大津港前芝生広場に向かうときに、少しゆとりを持って出かけ、この近辺を散策しました。その折の記録をまとめてご紹介していました。再録にあたり「滋賀・大津を歩く」の一環としてご紹介します。冒頭写真は、終着点の大津港から見た三上山です。JR大津駅から湖岸までの中央大通り周辺の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 中央大通りは、JR大津駅から湖岸まで下りの坂道です。歩き始めると大津駅前公園が東側の歩道沿いにあります。その少し先で目に止まったのがこの標識です。現在は中央大通りの中央線から西側は、駅に近いところが末広町で湖岸側が京町です。東側も京町であり、京町は1丁目から4丁目まであるようで、広い地域になっています。この標識によると、このあたりはかつて「葭原(あしはら)町」と称されていたそうです。江戸時代より前には、葭原沼と呼ばれ、一面に葭が生い茂る沼地であり、数軒の漁師の家があっただけのところとは、今ではちょっと想像ができません。JR大津駅前の山吹地蔵の祀られている辺りが、かつては「東浦」と呼ばれていたというのと「葭原町」という地名で、かつての状況が繋がってイメージできます。 その先に、東西方向に「京町通り」があります。さらに少し坂道を下りました。 土台側壁のピンク色で、そこにお堂があることに気づきました。左端にある石標が右の写真です。「俵藤太矢の根地蔵尊」と刻されているようです。地蔵の文字が不分明ですが・・・画像を加工処理してみてそう判断しました。つまりこのお堂が地蔵堂であり「矢の根地蔵」が祀られているのでしょう。俵藤太が瀨田の唐橋で大蛇に出会い、その後三上山の大百足を退治したという話は有名です。瀨田の唐橋近くの堤防上にもそれを具象化した大蛇と百足の図柄を歩道上に見ることができます。拙ブログ「探訪 [再録] 瀬田橋をめぐる攻防の地を訪ねて -2 龍王宮秀郷社、雲住寺、橋守地蔵他」にその写真を掲載しています。こちらをご覧ください。『矢の根地蔵』には、こんな伝説があるそうです。(資料1ほか)俵藤太が大百足を退治するときに、勝軍地蔵の加護を念じたところ、大百足を退治できたといいます。そこで俵藤太は百足を討ち取った大矢の根(鏃)で感謝の気持ちを込めて石に地蔵を刻み、安置したというお話です。 このお堂の南にお寺の山門があります。「浄土宗 華階寺」(けかいじ)と表札が出ています。その山門に向かって右側・手前にも「俵藤太 矢根地蔵 月見の石」と刻された石標が立っています。こちらの方は「矢根地蔵」という文字が鮮明です。お寺の築地塀の外側に独立した形で地蔵堂があります。「矢根地蔵」はこの地蔵堂に安置されていて、月見の石はこの華階寺の境内にあるのではないかなと推測します。山門は開いていましたが、柵がありますので境内の拝見はできませんでした。後日少し調べてみると、華階寺は旭高山幻中院と号するそうです。室町時代後期の天文元年(1532)に、僧西念(さいねん)が藤原秀郷館の旧地と伝えられる地に建立したと伝えられているのです。西念は大津の地に浄土宗をひろめた人だとか。また、今は中央大通りの分離帯にあるイチョウ-道路建設前はここも華階寺の境内-二株は樹齢400年余を経、大津市の天然記念物に指定されているそうです。華階寺の開基にあたって植えられたと伝えられているとか。(資料2,3) 門前から眺めた境内 山門の屋根の丸軒瓦には寺名が陽刻されています。蟇股の彫刻は見応えがあります。板蟇股の方はシンプルです。 華階寺から更に坂道を下って行くと「浜通り」の標識があります。中央三丁目との交差点のところです。浜通りのところで、中央大通りを横断し、西側の歩道を少し戻りました。というのは、以前に門のところから眺めた大津別院を再訪してみたかったからです。 真宗大谷派 大津別院 山門の傍には、書院と本堂についての説明板があります。ここは慶長5年(1600)に、本願寺の教如(きょうにょ)上人が創建した浄土真宗大谷派の別院です。つまり、東本願寺の系統です。大津御坊(ごぼう)とも呼ばれていたそうです。 本堂 昭和時代の修理工事の際、向拝実肘木(こうはいさねひじき)に墨書銘があることがわかり、慶安2年(1649)の再建と判明したのです。(資料4)書院はこの本堂の背面(西側)に本堂と接続して建てられているそうです。 木鼻と蟇股 蟇股には獅子と花が透かし彫りされています。 鐘楼とその傍にあるお堂。何のお堂でしょうか、私には不詳のまま・・・。 蟇股は大輪の華の彫刻で簡潔ですが、笈形は逆にちょっと豪華な装飾となっています。屋根の獅子口はオーソドックスな意匠です。大津別院の建物内部は事前に拝観予約が必要なので、拝見していません。こちらのサイト(「instgram」)に、本堂内などの紹介をされています。有益な情報です。「大津別院」のページををご覧ください。大津別院から、再度浜通りを横断し、湖岸道路・島の関西の交差点に出ます。湖岸道路を横断し、左折して大津港に向かいました。大津港から比良山にかけての全景が眺められます。 大津港の広場全景ネット検索しても、この広場の正式名称をみつけることができませんでした。単に広場? 上掲写真、正面のモニュメントの先の円形広場 湖岸へのゲート 湖岸に立って北を眺めた風景琵琶湖クルーズの乗り場の方に行ってみました。 ビアンカ号が停泊しています。 船に近づいて湖の先を眺めると、そこには三上山目を転じれば、 白き峰を連ねる比良山系の輝きこの後、探訪の集合場所に向かいました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 矢の根地蔵(京町3) :「大津のかんきょう宝箱」2) 大津市の華階寺(けかいじ)の概要を知りたい。:「レファレンス協同データベース」3) 華階寺のいちょう :「土曜日は大津、晴れの日は浜大津」4) 『滋賀県の歴史散歩 上 』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p75-76【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺俵藤太秀郷繪巻 :「国立国会図書館デジタルコレクション」「俵藤太絵巻」 大阪大谷大学図書館所蔵の絵巻 寛永絵入り版本の系統に属する絵巻物Ⅱ 俵藤大のむかで退治 :「四季近江富士」大ムカデ退治 :「福娘童話集 きょうの日本民話」俵藤太の「ムカデ退治」の検証 澤潟四郎氏十二支考 田原藤太竜宮入りの話 南方熊楠 :「青空文庫」藤原秀郷 :ウィキペディア華階寺のイチョウ(滋賀県大津市) :「巨樹と花のページ」大津別院 :「滋賀県観光情報」教如 :ウィキペディア琵琶湖汽船 公式ホームページ第5話 頼政塚と矢の根地蔵 :「伝説の亀岡」 別の「矢の根地蔵」伝承です。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その1 大津点描(山吹地蔵・車石・琵琶湖風景・明智佐馬之助)へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -1 天孫神社、大津事件跡、大津城跡、九品寺、大津宿本陣跡 へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -2 牛塔と長安寺 へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -3 蝉丸神社(関蝉丸神社・下社)へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -4 安養寺、旧逢坂山トンネル、山吹地蔵 へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その3 天孫神社を再訪して -1探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その3 天孫神社を再訪して -2
2017.03.15
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[探訪時期:2014年6月]神社の表門から入ると、正面に舞殿が見え右に回り込む参道の右側に境内社が並んでいます。 一番東に鎮座するのが「輻輳神社」です。(資料1)この神社はいずこから勧請されたのでしょう・・・・・?ネット検索でこの神社名を検索してみましたが、今のところ私には本源をみつけることができません。「輻輳」という語句を辞書で調べると、「多くのものが一か所に寄りあつまること。こみいること」(日本語大辞典・講談社)と説明されています。前者の主旨での境内社でしょうか。 朱色の鳥居が建つのは「稲荷神社」です。額束に「福富稲荷」の額が懸かっていますので福富稲荷社ということでしょう。 小祠を拝観してみましょう。 通常の社殿をミニチュア化。建物は本格的な造作です。前面の階段と正面の扉には金属の飾り板での装飾が施されています。向拝の頭貫に文様が刻され、木鼻には象と獅子が彫刻されています。本殿部分にも木鼻の彫刻が同様に見られます。目と牙の部分が白く塗られているのが特徴的です。なぜか、右側の木鼻の象だけには目と牙が白く塗られていません。少しおもしろいというか、興味深いところです。完全を避けるということなのか・・・・。脇障子の上部には、刳り抜きで紋章がデザインされています。頭貫の上の蟇股の部分は龍のダイナミックな彫像になっています。なかなか立派な小祠です。 福富稲荷社の左隣り(西側)は「八幡神社」とホームページで表記されている小祠です。こちらもまた、千鳥破風の屋根の本格的な神社の建物のミニチュア化という感じ。 階段と扉に金属製飾り板の装飾が福富稲荷社と同様に施されていますが、扉の装飾様式は一層壮麗になっています。天孫神社本殿の扉に近いレベルの装飾感です。近づいてみて、仔細に拝見すると「八幡神社」は代表名称としてあげられているだけで、合わせて10社が合祀されているのです。この境内社が立派な造作になっているのも頷けます。そのほかの神社名を列挙してみましょう。春日神社、太神宮社、八百萬神社、蛭子神社、金山彦神社、稲荷神社、日吉神社、住吉神社、猿田彦神社と記されています。名称からみて、本源がすぐに思い浮かぶのは、八幡、春日、太神宮、稲荷、日吉、住吉の各社でしょう。「八百萬」はその名称からすれば、諸神を崇敬されて祀るということでしょうか。「輻輳神社」に通じるようなと、勝手に受け止めてみました。「蛭子」は、蛭子神(ひるこのかみ)で、イザナギノカミとイザナミノカミの二神の御子とされる記紀神話の神。「猿田彦」は、猿田彦命で、記紀神話の天孫降臨に関係する神々の一柱。国津神です。天岩屋戸の神話で良く知られているあの天宇受売命(あめのうずめのみこと)と神婚する神様です。「金山彦」は、金山彦神(かねやまひこのかみ)。イザナミノカミが火の神・カグヅチノカミを産まれたとき、吐(たぐり:嘔吐物)より生まれた神で、鉱山の神とされています。(資料2)これらの神社も、関係性の有無はわかりませんが各所に存在するようです。記紀神話の神々は複数地に祀られていることがわかります。なお、蛭子神の場合はエビスとも呼ばれることでこの名前での神社がよく知られ、広がっていると思います。 この建物(本殿)を側面から眺めると、その斗栱の木組みが見事です。蟇股はシンプルな機能本位であり、蟇股の初期形態での造作なのでしょう。側面の木鼻はシンプルな文様の彫り込みだけですが、正面の向拝の木鼻は骨太な彫りの象の木鼻です。 組高欄の地覆の下の支えや縁束から出た木鼻にも線刻文様が施されています。 正面から眺める蟇股の龍が板状の蟇股の前に彫刻されたかの如くになっているのを興味深いと思います。板蟇股の前に龍のレリーフを貼り付けたかのような感じです。福富稲荷社の蟇股や、次にご紹介する社務所の蟇股とも違う様式です。 こんな金具にも目がとまりました。釘隠しと呼ばれるものでしょう。(資料3)福富稲荷社の建物にもよく見ると同種の金具が使われていますが、輻輳神社の建物には見当たりません。拝殿の北隣りにある社務所の玄関口の唐破風屋根も見応えがあります。近づいて見上げると、こんな感じで、 獅子口です。 兎毛通の箇所に鶴が彫刻されています。 鶴の背後に見える蟇股には、亀が透かし彫りで彫刻されています。 手水舎の南側にある収蔵庫のような建物こちらは比較的新しく建てられたもののようです。現在はそれほど広い境内を有する神社ではありませんが、境内に建てられている建物群は装飾部分にかなり匠の技を取り入れた見応えのあるものです。土曜日の午後でしたが、静寂さと落ち着きのある風格を漂わせていました。祭礼行事のときは多分、雰囲気ががらりとかわるのでしょう・・・・・。少しマニアックなまとめになりました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 境内のご案内 :「天孫神社」2) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房3) 釘隠し :「goo辞書」 釘隠し -其の壱- :「金物仕入所 室金物」【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺天孫神社 ホームページ八百万神社_[1](高知県安芸郡芸西村) :「TML4Snt」天八百万比咩神社(越前国敦賀郡) :「神道・神社史料集成」神々が出雲に集う神在月 :「出雲観光ガイド」兵庫・柳原 蛭子神社 ホームページ蛭子神社[えびす](三重県名張市鍛冶町):「名張の神社」名古曽蛭子神社 :「橋本市」ホームページえびす神社 :ウィキペディア金山彦神社・金山媛神社 :「神奈備」第40話 銀山と金山彦神社 :「猪名川町」ホームページ金山彦神 :ウィキペディア猿田彦神社 ホームページ猿田彦神社 :「京都観光Navi」石清水八幡宮 ホームページ八幡総本宮 宇佐神宮 ホームページ春日大社 ホームページ伊勢神宮 ホームページ伏見稻荷大社 ホームページ山王総本宮 日吉大社 ホームページ住吉大社 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その1 大津点描(山吹地蔵・車石・琵琶湖風景・明智佐馬之助)へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -1 天孫神社、大津事件跡、大津城跡、九品寺、大津宿本陣跡 へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -2 牛塔と長安寺 へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -3 蝉丸神社(関蝉丸神社・下社)へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -4 安養寺、旧逢坂山トンネル、山吹地蔵 へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その3 天孫神社を再訪して -1
2017.03.15
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[探訪時期:2014年6月]「滋賀・大津を歩く その2」の最初の探訪地がこの「天孫(てんそん)神社」でした。2014年6月26日に、「彫刻の魅力と保存修理」(滋賀県・文化財保護課主催)という講座を聴講するために大津にある「コラボしが21」に出かけました。この機会に、天孫神社をスポット探訪をする目的で少し早めに出かけ再訪し次第です。その細見記としてご紹介を続けます。冒頭写真が境内の南東側にある石造大鳥居で、こちらが神社の表門になります。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 大鳥居の左側に、この画像の案内が掲示されています。「御由緒」とネット検索で得た情報を統合し、その要点を列挙してみます。(資料1,2)*延暦年間(782~806)桓武天皇の勅命により創祀。この地の鎮護を目的とする。四宮の社。*歴代国司の崇敬を受ける。 建久年間(1190~1199)近江守護職佐々木貞綱が社殿造営、神田を奉納 元亀年中(1570~1573)栗太郡青地の城主青地伊代守が社領を寄進 文禄4年(1595)10月 近江守源朝臣高次による寄進(30石の地) 天保13年(1842)豊臣秀吉による大津城築城以来、全城下の鎮護神とされる。 文政13年(1830)6月 近衛家が拝殿拝所を造営寄進*明治維新の際に、「天孫神社」と改称された。 元は「四宮神社」と称し、「天孫第四宮大明神」とも称される。*大正4年(1915)県社に列格*例祭は10月10日 「大津祭」と称される湖国一の大祭である。 大鳥居傍の説明板には、曳山13基で綾羅錦繍の惟帳で飾り、木偶人形のカラクリ仕掛けの傀儡をなすという主旨の説明が記されています。14基だった時期もあるようです。現在の大津祭では、曳山13基が氏子の町々を優美に巡行します。宵山を一度見たことがあります。 記録によると、曳山祭は慶長年中に始まり、大津市街の発展とともに曳山が増え、元禄年中(1688~1704)には現町名が整う形になったそうです。 手水舎 覆屋の蟇股の意匠、頭貫の文様はシンプルですが、切り込みが深い。 木鼻の彫刻が二種類あり、彫りが深くてダイナミック、飛び出してきそう・・・・。 本殿の手前の舞殿。表門側からの眺め 南、南西、西から見た舞殿 舞殿の天井を見ると格子天井ですが中央が一段高くなった折上格天井です。書院造の建物では格式の高い大きな部屋の天井に見られる様式です。 本殿手前にある拝殿の正面。 拝殿は入母屋造で、間口4間奥行2間。 再訪時はちょうど「夏越の祓え」(なごしのはらえ)の行事が行われる直前であり、「茅の輪」が準備されていました。「茅の輪のくぐり方」がイラスト入りで説明され掲示されていました。「茅の輪」のくぐり方があるのを初めて知った次第です。単に通り抜けるだけではないのですね。これも神社によって流儀があるのでしょうか? 拝殿の中に入って拝した本殿正面さらに近づいて、本殿を拝見しました。祭神は四柱 彦火々出見尊(ヒコホホデミノミコト) ヒコホノニニギノミコトとコノハナサクヤヒメとの子で三男。火遠理命(ほこおりのみこと)=山幸彦 国常立尊(クニトコタチノミコト) :天地開闢のときに出現した神。神代7代の第1代 大己貴尊(オオナムチノミコト) :大国主の別称 帯中津日子尊(タラシナカツヒコノミコト) 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)=仲哀天皇 (資料3) たまたま、組高欄の傍からこちらを見る猫とご対面。 拝殿は格子天井です。斗供の間に浮彫彫刻が施されていて立派な建物。千鳥破風の前にさらに唐破風屋根が設けられていて、金色に輝く菊の紋章をレリーフした装飾金具が取り付けられています。拝殿の両側には境内社が配されています。 正面に向かって右側に「日若宮社」近づいて拝見すると、蟇股はごくシンプルですが、頭貫には手水舎の覆屋と同種の文様が刻され、木鼻の彫刻もしっかりなされています。 同様に、左側には「天満神社」 こちらも蟇股や頭貫は同様で、木鼻の彫刻は日若宮社とは異なる形象です。海老虹梁にもしっかり文様が彫刻されています。よく観察すると、本殿の扉とこの両小社の扉は同様の装飾金属板で飾られていて、一つの統一感が形成され、調和しています。 社殿前の一対の狛犬境内の一隅に、なぜか信楽焼の狸が置かれています。近江らしいというところでしょうか。大津祭について、知り得たことをいくつかご紹介しましょう。箇条書きで列挙します。*記録によると、祭礼当日に鍛冶屋町の塩売(塩屋)治兵衛が狸の面をかぶって躍ったことで、人々が集まって賑わったことが発端だとか。*寛永12年(1635)から屋台に地車を付けて子供衆に曳かせることが始まった。*寛永15年(1638)より京都の祇園会の鉾形に発展していった。*曳山と練物(ねりもの:仮装行列)があり、練物の数が当初は多かったが、徐々に曳山に切り替わっていった。*大津祭の曳山13基にはすべて「からくり(人形)」が現存している。 京都で誕生したからくりが中京方面で発展し、大津祭で完成期を迎えた。*天孫神社の鳥居前で、最初にからくりが演じられる。*滋賀県下では唯一この大津祭の曳山が祇園祭と同様に、毎年組み立て、解体される。*曳山13基の名称 西行桜狸山(さいぎょうざくらたぬきやま)、源氏山(げんじやま)、殺生石山(せっしょうせきざん)、湯立山(ゆたてやま)、西宮蛭子山(にしのみやえびすやま)、孔明祈水山(こうめいきすいざん)、龍門滝山(りゅうもんたきやま)、西王母山(せいおうぼざん)、石橋山(しゃっきょうざん)、神功皇后山(じんぐうこうごうやま)、月宮殿山(げっきゅうでんざん)、猩々山(しょうじょうやま)、郭巨山(かっきょやま)*滋賀県の無形民俗文化財に指定されている。 (資料4,5)このほかの境内社などを次回にご紹介します。つづく参照資料1) 天孫神社由緒 :「天孫神社」2) 天孫神社~(四ノ宮神社) :「滋賀県神社庁」3) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房4) 大津祭の歴史 歴史と由来 :「大津祭曳山連盟」5) 大津祭 :「滋賀県観光情報」【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺天孫神社 ホームページ天孫神社 :ウィキペディア大祓 :ウィキペディア夏越の祓(なごしのはらえ) :「暮らし歳時記」(私の根っこプロジェクト)京都で行われる夏越祓(なごし)茅の輪くぐり :「きょうの沙都」NPO大津祭曳山連盟 ホームページ 大津祭曳山展示館のページ大津祭 2014 :YouTube2014年10月11日 大津祭宵山 :YouTube大津祭 2014 :YouTubeアーカイブ 大津祭 特集2011 :YouTubeホオリ :ウィキペディア国之常立神 :ウィキペディア大国主 :ウィキペディア仲哀天皇 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その1 大津点描(山吹地蔵・車石・琵琶湖風景・明智佐馬之助)へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -1 天孫神社、大津事件跡、大津城跡、九品寺、大津宿本陣跡 へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -2 牛塔と長安寺 へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -3 蝉丸神社(関蝉丸神社・下社)へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -4 安養寺、旧逢坂山トンネル、山吹地蔵 へ
2017.03.14
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2月下旬、久しぶりに神戸に出かけました。目的は特別展「古代ギリシャ」を鑑賞することです。博物館への通りを歩くと、街灯の支柱から張り出したポールから吊り下げられた花籠の色とりどりの季節の花を楽しめます。これは通りの向かい側から撮った神戸市立博物館です。建物の壁ぎわにある展示案内のガラスケースに貼られたポスターと同じ図柄のものが、今なら、展覧会案内のリーフレットとして手軽に入手できると思います。これがその入手したリーフレットです。展覧会に行くたびに思うのですが、展覧会のチラシ(リーフレット)に取り上げられている展示品はやはり見応えのある作品、いわば展示品中のハイライトといえるものです。今回もそう思いました。 博物館の前面壁に展覧会PRとして、大きく掲示されているのがこれらのポスターです。これが展覧会チケットの半券です。1階のホールは第1会場としてギリシャの神殿を模した建物の装飾がホール正面の壁に施されています。一種のムード作りです。そして、第2会場が3階、第3・第4会場が2階となっています。まずは最上階に上がり、降りてくる形です。展覧会のサブタイトルは「時空を超えた旅」。この副題に沿うかのように、展示品は古代ギリシャの歴史の流れに合わせて展示されています。印象で言えばほとんどが比較的小振りな展示品で、彫刻石像が大きな部類です。ギリシャ文明の展開がイメージしやすい形でバランスよく選ばれて展示されているように感じました。出品目録を会場で頂きましたが、チラシにも記されているように、325件が展示されています。9割以上が日本初公開の展示品というのがキャッチフレーズです。古代ギリシャ文明の歴史の流れは、次のように章立てで構成され、その時代の発掘品や作品が展示されています。年代の表記は今回の展示品に記載の年代幅で表示しました。歴史上の期間区分ではありません。第2会場 第1章 古代ギリシャ世界のはじまり 前6500年~前2000年 35件 第2章 ミノス文明 前1800年~前1100年 40件 第3章 ミュケナイ文明 前1600年~前1100年 57件第3会場 第4章 幾何学様式~アルカイック時代 前800年~前278年 61件 第5章 クラシック時代 前482年~第4世紀後半 51件 第6章 古代オリンピック 前9世紀~4世紀 33件第4会場 第7章 マケドニア王国 前4世紀後半~前30年頃 29件 第8章 ヘレニズムとローマ 前4世紀~5世紀 19件こちらは展覧会案内リーフレットを開いた見開きページです。古代ギリシャの歴史の軸が左端に上から下へと示されています。そして、この古代ギリシャの展示品鑑賞の旅が、上記8セクションにまとめられて、歴史軸の色と対応する形になっています。展示の中から代表的な展示品が、左上の「1 古代ギリシャ世界のはじまり」から時計まわりでこの見開きページで案内されています。リーフレットの1番に載っているのは、キュクラデス諸島で栄えたキュクラデス文明の初期の「スペドス型女性像」、高74.3cm、幅16.0cm、紀元前2800~前2300年という出土品で大理石像です。類似の立像が他に2点展示されていますが、形姿のバランスとしてはこれが一番魅力的です。モダンアートだよ、と言われてみせられても、すんなりと受け止めてしまいそうなスマートさを感じます。このリーフレット、タダで入手できるけっこう良い学習参考教材です。古代ギリシャの文明の進展と洗練度が概観できるのですから・・・・。展示品を「点」で数えることが多いと思いますが、ここでは「件」数です。なぜだろう・・・と思ったのですが、上記のカウントをしてみて、理由がわかりました。たとえば、第4章の展示品のスタテル銀貨(3点)、第5章の展示品の医療用器具(5点)、第6章の展示品の銀貨(8点)、第7章の展示品の金箔円形ボタン(3点)がそれぞれ1件とカウントされているからなのです。他にも第7章で3件、装飾品、貨幣、小像で同例があります。つまり、展示品数合計はもう少し多くなっているということなのです。1件としてカウントされ展示されている貨幣も時代により、特徴があっておもしろい。「幾何学様式~アルカイック時代」(第4章)が貨幣経済の始まりのようです。前700年頃の細い棒のような「串形オボロス貨」と併せて、イルカ、ウミガメ、蛇を握るヘラクレスという3点の「スタテル銀貨」が展示されています。この銀貨で貨幣と感じるようになります。「古代オリンピック」(第6章)では、スタテル銀貨の表面にゼウスや女神の頭部を、裏面に渦巻きのついた有翼の稲妻などがレリーフされるように進展します。それが、「マケドニア王国(第7章)」の金貨銀貨になると、形もほぼ円形に統一され、フィリッポス2世、アレクサンドロス大王など王国の王様たちが金貨・銀貨に姿を刻され、裏面には神々あるいはそのシンボル、また二頭立ての馬車などが貨幣を飾るようになります。王権の浸透と貨幣経済の拡大がよくわかります。チラシの左上角に載り、博物館の大きなポスターにも使われているのが、前1450年頃のものです。かなり大きなものを最初イメージしていたのですが、高25.5cm、長16.6cmという大きさのもので、「牛頭形リュトン」です。青銅器時代おエーゲ海文明の一つ、ミノス文明の後期のもの。図録の説明を引用しますと、「典型的な石製の灌奠容器」で儀礼用のものだそうです。「灌頂(かんじょう)」という言葉がありますが、辞書を引くと「灌」が「そそぐ。水を流し込む」という意味。「奠」は「まつる。そなえものとして、まつる。まつり。」という意味です。京都では、冷泉家で陰暦七月七日の夜に行われる星祭の儀式「乞巧奠(きこうでん)」が新聞で時折報道されます。ここで「奠」という言葉が使われています。「リュトン」は「動物の角あるいは頭部をかたどった杯」を意味します。この頭部は儀式用のリュトン形酒器の一部だったようです。発見された破片断片から復元されたものでしたが、それでも見応えのある美しい造形です。容器としての残りの部分は発見できなかったとか。クレタ島には、クノッソス宮殿の遺跡があり、ミノス王の迷宮(ラビリンス)とミノタウロスの伝説が息づく島でもあります。ここから出土したネックレスを初めとした「生者と死者のための宝飾品」7件は魅力的です。同様に、ミュケナイ文明のセクションでもネックレスが展示されています。件数はこちらが上回り、見応えがあります。同じミュケナイ文明の出土品である黄金の「円形飾り板」(10件)は径が5.5~6.6cmというものですが、一つひとつ、図案が異なり、興味をそそるものです。案内リーフレト表紙中央右端にある金色の2枚がその例です。他に黄金のボタンや円形装飾板がかなりの点数展示されています。ミュケナイ世界では、かなり黄金が様々に使われていた感じです。 これは当日購入した図録です。裏表紙にはチラシに載るアルカイックスマイルの彫刻像が使われています。これがやはり、ハイライトの一つでした。表表紙は、上掲リーフレットの見開きページにある「ミノス文明」のものです。テラ(サントリーニ)島から出土した「漁夫のフレスコ画」(高117.0cm、幅69.0cm)です。今回の展示品では大きいサイズの部類です。サイズとして最大級のものは、「第8章ヘレニズムとローマ」に展示の「アフロデイテを表したモザイク」(高345cm、幅200cm、厚30.0cm)です。こちらのモザイクは幾何学文様が美しいものです。最後に裏表紙の二像に触れておきましょう。左の男性像は前520年頃の「クーロス像」です。アルカイック・スマイル(神秘の微笑)と称されるとおり、この像は「第4章幾何学様式~アルカイック時代」のセクションに展示されています。古代ギリシャで、ミノス、ミュケナイ両文明が併存して繁栄したあと、暗黒時代を経て、そのあとにギリシャ独自の文明が誕生したといいます。その時代の作品です。クーロスというのは彫刻造形のスタイルだそうです。図録によると、「クーロスとは、まっすぐ正面を向き、左脚を前に出しながらも、両足をしっかりと地面につけて立つ裸体の青年像のことを言う。肘を軽く曲げつつ、両腕を身体の脇に下ろし、拳を握った手を腿につける(小さな支柱で腿と拳の間がつながれることもある)。また、長い髪の毛は数珠状の房となって、平行に背中に垂れ、頭にはヘアバンドを巻いていることが多い。バロス島の大理石で作られている。」クーロスはアポロンの神殿に奉納されることが多いとか。この作品は、膝から下の両脚と左手首から先が欠損していますが、細身で逞しく、いいプロポーションで気高さを感じさせる立像です。右の女性像は、アテネのアクロポリス、エレクティオン出土の「コレー像」(高95.4cm)。若い女性の大理石像で、アクロポリスのアテナ神域への一般的な奉納品として作られたものだとか。図録によると、「コレーは長いキトンをまとい、腰回りを帯で締め、その上に短いヒマティオンを羽織っている。」「色彩豊かな衣装と豪華な装身具を身につけていることから、女神、女神官、女神に仕える少女たち、あるいは単なる人間だと考えられている」そうです。アルカイック時代の若い女性像の理想形の表現がここにみられるようです。ほっそりとしなやかそうで、素敵な女性像です。リーフレットの右下に載る女性像は、ヘレニズム時代に作られた「アルテミ像」(高140.0cm)です。前100年頃の作品で、デロス島から出土したとか。後は、会場でその美をご堪能ください。最後に、哲学者「アリストテレス像」をご紹介しておきます。1世紀後半の作品。アテネのアクロポリス博物館敷地から出土した「ヘルマ柱の形式で表された」胸像だそうです。20例があるそうですが、「その中で最も保存状態がよく、鼻が完全な形で残っている唯一の作」だといいます。この像によれば、アリストテレスは、頬骨が浮き出て痩せ顔で、目は比較的小さく、大きな鷲鼻で、口髭と顎鬚は濃かった相貌の人だったようです。この完全な形の顔を保つ哲人像は必見です。三の宮でのタウン・ウォッチングのいくつかを序でにご紹介して終わりにします。中央下に「神戸旧居留地」という文字を陽刻してあるプランター居留地を散歩する異人さんを図案化しているようです。この地以外では通用しないプランターでしょうね。ちょっと洒落た「こうべ」の「消火栓」の蓋美女の横顔、浜風に靡く髪の毛のゆらめきに、六甲山と異人館を重ねているのでしょう。「KOBE」という文字をデザイン化した「空気弁」の蓋。神戸のモダンさがここにも出ています。神戸のストリートを歩むには、町並だけでなく、足許も楽しみましょう。こんなデザイン・タイルも見つけました! こんな彫刻像も、さりげなく神戸の街に一体化しています。ご一読ありがとうございます。参照資料図録『特別展 古代ギリシャ -時空を超えた旅-』 特別展 古代ギリシャ -時空eo超えた旅- 出品目録補遺エーゲ文明 :ウィキペディアエーゲ文明 :コトバンクエーゲ海/エーゲ文明 :「世界史の窓」ギリシア世界の古代文明の隆盛と没落古代エーゲ海ミノア文明のクノッソス宮殿崩壊の原因は? :「旅人legend ejの世界紀行」 古代ギリシャ①:ギリシャ文明のはじめ :「音楽サロン」アクロポリス博物館 :ウィキペディアアクロポリス博物館:Acropolis Museum :「世界建築巡り」ACROPOLIS MUSEUM 英語版ホームページTHE NEW ACROPOLIS MUSEUMThe National Archaeological Museum of Athens 英語版ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2017.03.13
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[探訪時期:2014年4月]国道161号線沿いに歩き、京阪電車京津線の上関寺踏切を越えた少し先に、「安養寺」があります。その少し先で国道161号線が国道1号線と合流し、国道が逢坂山を上って行きます。今や交通量が激しい地点になっていますが、お寺はいたって森閑としています。多分、普段は訪れる人が少ないのでしょう。安養寺の門前近くに、冒頭の「逢坂」の由来銘板を嵌め込んだ石標が立っています。 冒頭の石標の左側に、この石標と駒札が建てられています。石標の上部「円満院宮御在所・三井寺南別所」の陰刻でわかるように、元は天台宗寺門派のお寺でした。「小坂山と号す。少しく高き處あるゆへ、小坂山の名あり」と『近江国輿地志略』は記しています。(資料1) 貞観4年(862)智証大師円珍による創建と伝わっています。「明暦年中憲澄法印中興なり。三井寺日光院の末寺とす」(資料1)とか。三井寺山内南別所と呼ばれ、円満院宮が代々住職を兼務されたそうです。それで筑地塀に横線が入った「筋塀」の様式がそのまま残っているのだとか。門跡寺院並の格式を持ったお寺として位置づけられていたようです。蓮如上人との深い因縁があるからでしょうか、明治5年(1872)に浄土真宗に転派し、浄土真宗本願寺派のお寺になっています。(資料2,3) 本堂建物写真だけ撮らせていただきました。後は撮影禁止でしたので、ちょっと残念ですが仕方ありません。駒札に「立聞観音」とあります。境内に観音堂があり聖観音が祀られています。かつてはこの聖観音が安養寺の本尊だったようです。「大津の歴史事典」にこの立聴観音の画像が掲載されています。こちらからご覧ください。 (大津市歴史博物館の「大津の歴史データベース」)「東海道名所図会」 巻之1に「安養寺」の項があり、「本尊立聞観音」「蓮如上人名号石」の見出しで簡略な説明が付されています。こちらをご覧ください。(資料4)「立聞観音」について『近江輿地志略』は「伝て云、古昔蝉丸相坂山にて、琵琶を弾ず。観音夜毎に立聞きし給ふ。故に名づくといへり」と記しています。尚、興味深いのは著者・寒川辰清がこの通説に注記を加えているのです。「今按ずるに、木幡山の盲僧、流泉啄木の曲を弾しけるを、博雅三位忍て立聞きし給へりといふと、旧記に見へたり。是を取て付会せし成べし」と。(資料1)織田信長が比叡山焼き討ちを行った時、安養寺の本堂、観音堂が焼失したそうです。比叡山の復興の声が上がったとき、当時京都伏見に居を構えていた伊達正宗が復興奉行を命じられたと言います。この有名な「立聞観音」が仮堂に安置されているのを悲しみ、御堂を建てて自らの雅号「図南」を付記した「立聞安養寺」の額を掲げたといいます。この時の扁額を見ることができます。「蓮如上人名号石」は「身がわり石」として有名なようです。この石には「無礙光(むげこう)如来」という名号が刻まれているのです。蓮如上人は近江・堅田を布教の中心にしました。堅田はもともと比叡山(山門)領だったため、真宗の信仰が強まると山門と対立していきます。そして、寛正6年(1465)正月、山門の衆徒が山科にあった本願寺を急襲し破壊するのです。蓮如上人は難を逃れます。この地に逃げのびてきたとき、追手の山伏に遂に見つけられ長刀で斬りつけられたそうです。「折り節夜半のことと云い身を隠し玉う所もなければ、誠に危かりしに、さいわい当寺門前の建石(たていし)を見付け石の後に身をかわし玉えば不思議なるかな、右より切ればその石右に傾き、左より打ちかくれば石また左になびきて上人をたすけ奉る故、御足には少しの疵をうちたまえども御命は恙(つつが)なし、悪僧力を尽くせども本意を遂げずして終(つい)に下間(しもつま)のために討たれたり」と名号石略縁起に記されているそうです。(資料2)上掲の志略に寒川は「・・・・而後文明元年2月12日、蓮如三井寺の衆徒をたのみ、しばらく大津の近松寺に、祖影を安置することあれば、此地にもまたかかる旧跡もあるべし」と、「蓮如上人名号石」の説明に記しています。(資料1)蓮如が文明12年、山科に本願寺を再興した後に、当時のことを顧みて、「悪僧の為にうたるべきを此の石に助けられ命を全うせし我が身代わりの石なればとて、無礙光如来の五字の名号を記したまえり」(資料2)と伝えられているのです。現在本尊は阿弥陀如来坐像(重文)です。寺伝によれば行基作。像高は半丈六で134.1cm、寄木造、内刳り(うちぐり)の大きな仏像です。この御姿には「平安後期の特徴をみせる。世喜寺との関連が指摘される」(資料3)といいます。「平安時代の天台浄土教の影響下につくられたと考えられる」(資料5)とか。どういう経過で安養寺に持ち込まれたかは未詳です。安養寺には、布教に旅立つときに蓮如上人御自作の木像を残したとされる木像も安置されています。(資料2)「逢坂」の石標に説明のある地名の由来について『日本書紀』を遡ってみました。新羅を討って、日本に戻ってきた神功皇后は九州で皇子を産みます。後の応神天皇です。今は亡き仲哀天皇の皇子たちは神功皇后に叛旗を掲げます。その皇子の一人が忍熊王(おしくまのみこ)です。神功皇后に命じられた武内宿禰と忍熊王の両軍は宇治川で対峙することになります。このとき武内宿禰が和睦をしましょうと互いに武器を河に投げ入れるという謀略を持ち、忍熊王を誑かすのです。騙されたと知った忍熊王は兵を率いて宇治から逃げ、武内宿禰は精兵を出して追いかけます。「近江の逢坂で追いついて破った。それでそこを名づけて逢坂という。」(資料6)忍熊王は瀨田の渡に沈んで死んだという結末になります。逢坂の地名が日本書紀に淵源を持つことを初めて知った次第です。 この後直近の「旧逢坂山ずい道東口」を訪れました。 全景はこんな感じです。 明治13年(1880)に完成した東海道線のトンネルで、日本人だけでの設計・施工工事で完成した山岳トンネルの第1号だったそうです。このトンネルの完成で、京都大津間の鉄道輸送が可能になったのです。大津長浜間は汽船が利用されたのです。これで、長浜に遺構として残されている旧駅舎がリンクしてきました。旧長浜駅舎が完成したのは明治15年(1882)で長浜・敦賀間の始発駅としてです。新橋・横浜間、大坂・神戸間についで、日本で3番目に開通した区間です。そして、長浜-大津間に鉄道が開通したのが、明治22年(1889)だったといいます。それで大津港・長浜港間の鉄道連絡船がその役割を終えることになるのです。(資料7) 片側のトンネルを少しだけ中に入ってみることができます。壁面は全体がレンガ仕上げです。 この「旧逢坂山ずい道」は近代化産業遺産に指定されています。トンネルの入口上部に「楽成頼功」の篇額が埋め込まれています。説明板に記載されていますが、当時の太政大臣・三条実美の揮毫によるもので、「落成」の「落」は「落盤」の連想として忌み言葉とし、「楽」を当てたのだとか。やはり縁起かつぎがこんなところでもあったのですね。何これ?と思ったのですが、説明板を読み。なるほど・・・・でした。現在はこのフェンスまでしか遺構が残されていません。「ずいどう」を出た線路は、現在の国道と京阪電車京津線の上関寺踏切の向こう側に残るこのレンガ壁の遺構(橋台跡)のところに繋がっていたそうです。当時の汽車の能力では大津港(浜大津)から直接に逢坂山に昇ことが不可能なため、馬場(膳所)を経由するスイッチバック式がとられていたためだとか。折り返すことで緩やかな傾斜路を汽車が昇っていくことができるようにしたということなのでしょう。大正10年(1921)に新逢坂山トンネルへの付け替え工事完了により、旧逢坂山トンネルが廃止されたのです。付け加えると、この旧東海道線敷設の用地として安養寺の境内がかかり、円満院宮の客殿などが取り壊されたり、京津国道の道路拡幅のために重要建築物を移転するなどしたそうです。その結果が現在の安養寺の境内ということになります。言い伝えでは、「安養寺は、古く関寺の本堂のあった位置だという。・・・関寺安養寺」とも称されたようです。 (資料2)今回の探訪はここで終了です。JR大津駅まで戻り、駅前での現地解散となりました。 「その1」でご紹介した「山吹地蔵」の前に戻ってきました。説明銘板を貼り付けた木柱の側面には、この辺りの旧地名「旧東浦」も表示されています。 (資料8)ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「近江国輿地志略。上(巻之1至48) :「近代デジタルライブラリー」 39/214コマ目 シリーズ 大日本地誌大系 ; 第3,6冊 2) 「蓮如上人旧跡 安養寺誌」(当寺で購入した小冊子)3) 近江の歴史散策33~大津を歩く~」龍谷大学RECコミュニティ・カレッジ 2014.4.12 (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成レジュメ)4) 東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編] :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館) 巻之1はこちらのページの番号1(巻之1)をクリックして31ページを参照 5) 『滋賀県の歴史散歩 上 大津・湖南・甲賀』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p58-596)『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷 孟 著・講談社学術文庫 p194-1987) 旧長浜駅舎・長浜市北船町 :「滋賀 歴史文化 再発見」8) 「近江の歴史散策33~大津を歩く~」龍谷大学RECコミュニティ・カレッジ 2014.4.12 (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成レジュメ)【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺『近江輿地志略』 滋賀文化財教室シリーズ[231] 樋爪 修 氏円満院 :「公卿類別譜 ~公家の歴史~」安養寺(逢坂1) :「大津のかんきょう宝箱」(124)安養寺の立聞観音 ふるさと昔語り :「京都新聞」神功皇后(11)忍熊王を攻撃 :「古事記の神々(現代語で)」忍熊王 :ウィキペディア東海道本線旧線・逢坂山トンネル :「廃線隧道のホームページ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その1 大津点描(山吹地蔵・車石・琵琶湖風景・明智佐馬之助)へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -1 天孫神社、大津事件跡、大津城跡、九品寺、大津宿本陣跡 へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -2 牛塔と長安寺 へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -3 蝉丸神社(関蝉丸神社・下社)へ探訪 [再録] 湖北(米原・長浜)の名園 -5 長浜のまちを歩く(1)(庭園鑑賞の前後に)へ こちらのページで、旧長浜駅舎とその周辺をご紹介しています。
2017.03.13
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[探訪時期:2014年4月]前回、蝉丸神社と記しています。しかし、正確に言えば「関蝉丸神社・下社」の探訪ご紹介ということになります。単に「蝉丸神社」だと実は場所を特定できないのです。というのは、3ヵ所の境内が想起されるからだそうです。(資料1,2) 関蝉丸神社(下社) 今回探訪で訪れ、ここにご紹介する神社です。 西近江路(国道161号線)沿いに位置し、逢坂山の麓になります。 京阪電車京津線上栄町下車で、京都方面に徒歩10分のところです。 関蝉丸神社(上社) 国道1号線沿いに位置し、逢坂山の山上になります。 この上社・下社を合わせて「関蝉丸神社」一社とされています。 祭神は上社が猿田彦命、下社が豊玉姫命で、配祭神が上下社蝉丸霊なのです。 蝉丸神社 大谷町に所在します。京阪電車京津線の大谷駅が最寄り駅です。 祭神は蝉丸大神猿田彦命です。 こちらは関蝉丸神社の分社になるようです。蝉丸大神が主体に転換するのです。神社の位置はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。私はかつてウォーキングの例会その他で数回、大谷町の蝉丸神社を訪れたことがあり、関蝉丸神社があるということを知りませんでした。今回の探訪で認識を新たにした次第です。それでは、関蝉丸神社(下社)をご紹介致しましょう。西近江路沿いに神社の所在を示すこの石標が建てられています。石標の傍に遮断機があります。石鳥居のすぐ前を西近江路と平行する形で京阪電車京津線の線路が横切っているのです。ちょっとビックリの神社へのアプローチです。 踏切を渡り、境内で最初に目に止まった歌碑です。 これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸「百人一首」の10番目の歌。誰もが一度は見聞した和歌ではないかと思います。『後撰集』(雑1、1090)に所載される歌で、詞書として「逢坂の関に庵室を作りて住みはべりけるに、行きかふ人を見て」とあります。これが後世の蝉丸伝説の原点となっていると言います。 研究者による百人一首の解説書諸本を見ますと、いずれも蝉丸の生没年ならびに経歴は未詳とされ、9世紀後半頃、あるいは10世紀の人かと記しています。「『今昔物語』によれば、宇多天皇の皇子敦実親王の雑色(雑役に服した無位の職)といい、『平家物語』および中世以降の語り物では、醍醐天皇の第四皇子としているが、いずれも確かでない」としています。(資料3)白州正子氏は『今昔物語』の雑色としての蝉丸について、おもしろい解釈をしています。「敦実親王の雑色(下男)で、賤しい身分にも拘わらず、親王から琵琶の秘曲を授けられていた。そこへ源博雅が教えを乞いに行くという美談になっている。敦実親王は、近江に君臨した宇多源氏、佐々木一族の祖であったから、近江の住人は蝉丸に親しみを持ち、湖水と縁のある楽器の名手を誇りにもしたであろう」と。(資料4)前面に神楽殿があり、その奥に本殿が見えます。 神楽殿には彩色された狛犬が置かれています。神楽殿の屋根の内側。額の上にある鳥の彫刻が目にとまりました。 本殿前の唐破風屋根の傷みにわびしさを感じます。本殿自体はしっかりした建物です。弘仁13年(822)小野岑守が逢坂山越えの守護として山上・山下二社を創祀したとされています。(資料4)「古くより国堺神・坂神・手向の神(道祖神)又逢坂越の関の守護神として」祀られてきたものが、時代を経て、「関明神」として崇敬され、それが「後撰集の歌人で琵琶の名手である蝉丸だとする信仰」に結びついていったようです。「蝉丸が当社に合祀されたのは天慶九年とも平安時代末とも云われ詳でない。けれども蝉丸伝承は時代と共にたかまり、次第に歌舞音曲その他諸芸にかかわる人々の信仰があつくなって、江戸時代には諸国の説教者(雑芸人)を統轄し、免許をうける人々が全国的規模で増加した」という展開となるのです。(資料1) 唐破風屋根の鬼板と蟇股。この蟇股の彫刻に関心をそそられます。3人に囲まれた中央の葛籠の中身は何なのでしょう?本殿の左側に小祠、句碑、石燈篭があります。この探訪でのもう一つの着目点がこの石灯籠でした。 「時雨燈篭」の名称で知られており、鎌倉時代の建立と考えられる特色をもっているとされています。石燈篭の変遷を知るうえで貴重な燈篭だとか。火袋は正面に四角の開口部(火口)がありますが、背面は小さな丸窓が穿たれているだけの形です。六角形の火袋の左右二面ずつは簡素なもので、上部に連子が彫刻されているだけです。「基礎や中台の単弁の蓮弁、竿中央の蓮華と珠文帯が地域的特徴となる」そうです。(資料5)本殿の近くにこの駒札が建てられています。今昔物語を出典として世阿弥が謡曲「蝉丸」を創作し、能を通じても一層「蝉丸伝説」が世の中に親炙して行ったのです。境内の一隅に「真葛」が植えられています。 石造鳥居をくぐり神楽殿を見たとき、右手斜め前にこの「せきの志みず」(関の清水)がありますが、今は涸れています。この「関の清水」について、「これは後に作られたもので、本物は清水町の人家の中にあったという」説があります。(資料4)また、この傍にも歌碑があります。 逢坂の関の清水に影みえて今やひくらん望月の駒 紀 貫之 かつては、八月十五夜の日には、信州の牧場から来た馬を、この逢坂山の地で朝廷に引き渡す行事があったそうです。満月にちなんで「望月の駒」と詠んだのでしょう。この「逢坂駒込」の図が、『近江名所図会』に描かれています。引用してご紹介します。(資料6) 見開きの2ページで描かれています。謡曲「蝉丸」には、この貫之の歌がそのまま組み入れられています。石造鳥居の右手には手水舎がありますが、訪れる人が少ない雰囲気をここにも感じます。境内社として、貴舩神社が祀られています。境内で小祠を眺めていますが、祭神などの確認はできませんでした。調べて見ると、境内社として、中臣稲荷神社 大神宮神 関清水神社 天満宮が祀られているのです。(資料1)事後に知ったことは、本殿の裏に細い山道があり、その入口に「小野小町塚」があるそうです。今度機会があれば再訪し、その塚を拝見したいと思っています。江戸時代の『近江名所図会』から再び引用させていただきます。3枚の絵が載っています。(資料6)一つは、関寺長安寺の本堂と関清水蝉丸宮の絵です。 そして、蝉丸について本文で説明すると共に、蝉丸を描いています。 さらに、関蝉丸大明神として蝉丸宮を載せています。 この後、安養寺に向かいます。 つづく参照資料1) 関蝉丸神社 :「滋賀県神社庁」 蝉丸神社 :「滋賀県神社庁」 2) 関蝉丸神社 :「滋賀県観光情報」 3) 『百人一首の世界』 久保田正文著・文春文庫 p36-374) 『近江山河抄』 白州正子著 講談社文芸文庫 「逢坂越」p23,p305) 「近江の歴史散策33~大津を歩く~」龍谷大学RECコミュニティ・カレッジ 2014.4.12 (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成レジュメ)6) 近江名所図会 巻一の江州志賀郡 :「DIGITALISIERTE SAMMUNGEN」 逢坂駒込の絵 左ページ 逢坂駒込の絵 右ページ 長安寺と蝉丸宮 蝉丸 関大明神蝉丸宮【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺関蝉丸神社上社 :「神社ふり~く」演目事典 蝉丸 :「the能.com」蝉丸 :「のうのう便りバックナンバー」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その1 大津点描(山吹地蔵・車石・琵琶湖風景・明智佐馬之助)へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -1 天孫神社、大津事件跡、大津城跡、九品寺、大津宿本陣跡 へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -2 牛塔と長安寺 へ
2017.03.12
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[探訪時期:2014年4月]西近江路の御幸町交差点信号を超え、南西方向・逢坂山の方向に進み、次の信号の少し先を右折して長安寺に向かいます。こちらの地図(Mapion)をご覧ください。冒頭写真は長安寺を示す最初の石標で、逢坂二丁目に所在します。石標の左にあるこの石段を上ったところで、まず「牛塔」が目に飛び込んできます。 牛塔これが石造宝塔です(重要文化財)。駒札に記されていますが高さは3.3m。平安時代にはこの付近に「世喜寺」が存在したといいます。逢坂関に隣接していたので、「関寺」と呼ばれていたと言います。(資料1)平安時代には「日本三大仏」と呼ばれるものがあり、その一つが「関寺大仏」(五丈の弥勒仏)で、広く都にも知られていて参詣も多かったようです。あとの2つは、奈良・東大寺の盧舎那仏(大仏)と大阪河内・智識寺の盧舎那仏。現存するのは東大寺の大仏だけです。(資料2,3)地図でおわかりいただけますが、この「関寺」(現長安寺)の北西に長等公園があります。その北に小関峠越えの道が通っています。地図では「小関町」という地名が載っています。そして南側には西近江路と東海道が合流し、逢坂山に設けられた「逢坂の関」に至ります。つまり、かつては交通の要衝地に「関寺」が位置していたのです。天延4年(976)の大地震で関寺及び弥勒大仏が破損したのです。その後、恵心僧都が復興を企画され、弟子の延鏡により再建されました。その際清水寺から遣わされ、6年間にわたり資材を運び工事の手助けをした一頭の牛がいたのです。この牛は、一日の工事が終わると本尊を3度回り、つながなくても遠くに逃げなかったといいます。領主の息長正則がこの牛を借りたところ、「この牛は仏の化身、この寺の工事以外に使うな」という夢告があったとか。牛は迦葉仏の化身だと言います。その噂に、仏牛を拝もうと多くの人々が訪れ、藤原道長や頼通も帰依したといいます。万寿2年(1025)、関寺の工事が終わるとともにこの牛が死にました。その牛を霊牛として祀り供養したのがこの石造宝塔であり、「牛塔」と呼ばれてきたのです。(資料1,2,3,4)この復興工事期間中の一端が、「更級日記」に記録されています。(資料5)父・菅原孝標が上総介の任を終えて京に上京してくるときに同行した際のことを、著者の菅原孝標女が記しています。この日記の冒頭に続くところの記述です。1020年(13歳)時点の記述のようです。原文は「 粟津(あはづ)にとどまりて、師走の二日京に入る。暗く行き着くべくと、申(さる)の時ばかりに立ちて行けば、関近くなりて、山づらにかりそめなるきりかけといふものしたる上(かみ)より、丈六(ぢやうろく)の仏のいまだ荒造りにおはするが、顔ばかり見やられたり。あはれに、人離れて、いづこともなくておはする仏かなと、うち見やりて過ぎぬ。」現代語訳も引用させていただきます。「粟津に泊まって、十二月の二日に京都に入った。暗くなって着くようにと、申の時ごろに出発して行くと、逢坂の関近くになって、山のそばにちょっとした切り懸け(板塀)を作ってある上から、一丈六尺の仏像が荒造りのままでいらっしゃり、顔だけ遠くに眺められた。いとおしくも、人里離れ、どこともなく落ち着かないようすでいらっしゃる仏様だなと眺めながら通り過ぎた。」逢坂の関近くというのが、関寺の復興工事の情景観察の記述と言えます。「世喜寺の荒廃、戦国の兵乱で塔は埋没したが、元禄年間(1688-1704)に掘り出された」(資料1)と伝わるのだとか。 様々な角度からこの石造宝塔を撮ってみました。基礎石が八角形。巨大なつぼ形の塔身、その上の大きな笠石が六角形です。鎌倉時代初期の建立と考えられています。この「牛塔」の所からさらに石段を上っていった先に「長安寺」があります。 現在の長安寺はこの一宇の小堂があるだけです。「牛佛」という標札が柱に掛けてあります。このとき堂内の拝見はできませんでした。一隅に、小祠が置かれています。一方、境内には数々の石仏、供養塔などが安置されています。 百体地蔵 一遍聖人供養塔 超一房供養塔「超一房供養塔」は平成14年7月に先代住職により建立されたものだとか。国宝「一遍聖絵」(清浄光寺蔵)によると、一遍上人が遊行の旅に出た際に同行者3人のうちの一人が超一房で、一遍上人と時衆がこの関寺逗留の頃に超一房がなくなっているそうです。そのためここに供養塔が建立されたといいます。(資料6)国宝「一遍上人伝絵巻 巻第七」には、「弘安7年(1284)、大津の関寺(せきでら)、京都の四条道場、市屋道場などを巡りながら、念仏を唱え、札を配って布教するようすが描かれる。」これをネットで閲覧できます。こちらからどうぞ。(資料7)ふと『一遍上人 旅の思索者』を思い出し、書架の隅に久しく眠っていた本を取り出し、繙いてみてびっくりです。国宝「一遍上人絵巻」第2巻・第2段の絵は一遍が同行3人を伴って与州を出立する場面です。その絵が引用されています。その絵には同行者の名前が書き込まれているのです。名前の書き込みは、第3巻・第1段の場面とさらに1場面に同様になされています。第2巻・第2段において「同十一年二月八日同行三人あひ具して与州をいで給ふ」という一句の文が記され、それにさらに註記がついているのです。「(超一、超二、念仏房此三人発因縁雖有奇特恐繁略之)」です。ここに同行者として「超一」がいたことがわかります。(資料8)一遍が関寺に立ち寄った件について、著者の「聖絵」分析による考察を読むと、次のことがわかります。・関のほとりの草堂に留まり、天台宗の山門・寺門と折衝を重ねて、了解を取った。・七日の行法を始めたが、高僧との面談、法談をかわし、27日間の布教を行った。・上掲の第7巻・第2段が近江・関寺での踊り念仏の場面である。・一遍が関寺に入り、京極の釈迦堂に移るまでにほぼ1年を南近江で費やしている。当時の山門・寺門と対立せず折衝の上で布教をするのに、これだけの時を要しているのです。そして、一遍が京極の釈迦堂に入るのが弘安7年4月16日なのですが、「時衆過去帳」の記録によると弘安6年11月21日付の一人の尼僧の往生が記されているのです。それが超一房なのです。なぜか、同じ日に別に2人の尼僧(了一房、前仏房)、12月にもう1人(今一房)が没しているという記録もあるとか。翌7年正月5日に僧1人尼3人の往生者も出ているといいます。理由は不詳です。(資料8)江戸時代に出版された『近江名所図会』には、関寺長安寺の絵が載せてあります。引用し紹介させていただきます。(資料9) 「牛塔」と明記 また、『東海道名所図会』には近松御坊を主として描きながら、左側の端に牛塔と世喜寺を遠景として描いています。(資料10)「牛塔」の存在がよく知られていたということなのでしょう。「近松御坊」は「近松別院」とも呼ばれ、正式には「顕聖寺」という浄土真宗本願寺派のお寺です。「1469年に堅田から避難した蓮如が園城寺から五別所の一つ近松寺(高観音)の寺領を分与してもらい、寺院を建立しました。そして、親鸞上人の御像を安置したことに始まると伝えています。顕証寺は、かって近江でも珍しい『寺内町』という形態を有していました」(資料11)といいます。 小野小町供養塔 駒札(謡曲「関寺小町」と牛塔) 玉姫竜神境内を下って行く時に、気づきました。途中にこの「獣魂碑」が建立されています。「上関寺」というプレートが貼られたレンガ造りの短いトンネルを眺めながら、線路上の陸橋を渡り、次の探訪先「蝉丸神社」に向かいます。地図の左下に位置するところです。つづく参照資料1)「近江の歴史散策33~大津を歩く~」龍谷大学RECコミュニティ・カレッジ 2014.4.12 (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成レジュメ)2) 長安寺の牛塔 小林氏 :「近江歴史回廊倶楽部」 3) 関寺について Ⅰ :「大津市 関寺 霊跡 時宗 長安寺」 4) 『足のむくまま 近江再発見』 國松巖太郎・北脇八千代著 新評論 p64,655) 更級日記 菅原孝標女 帰京の項 「古典に親しむ」:「がんばれ凡人!」6) 長安寺の歴史紹介② :「大津市 関寺 霊跡 時宗 長安寺」 7) 一遍上人伝絵巻 巻第七 :「e國寶」8)『一遍上人 旅の思索者』 栗田勇著 新潮社 p30,p53,p69, p1839) 近江名所図会 巻一の江州志賀郡 :「DIGITALISIERTE SAMMUNGEN」10) 東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編] 巻一の32コマ目 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)11) 近松別院(札の辻):「大津のかんきょう宝箱」【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。 今回、後日に追記していた内容を本文に組み込み、画像の追加を含めて再編集しています。補遺日本三大大仏 :ウィキペディア 智識寺 ← 知識寺 :ウィキペディア 関寺小町 :「コトバンク」関寺小町 :「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」小関越え :「中山道中遊歩録 街道の行く先へ」「大津市 関寺 霊跡 時宗 長安寺」 関寺霊跡 時宗長安寺住職さんのブログ。長安寺の現況や歴史を語られています。 参照資料に部分引用させていただいています。 本願寺近松別院 (滋賀県大津市) 蓮如上人ゆかりの寺 :「お寺の風景と陶芸」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その1 大津点描(山吹地蔵・車石・琵琶湖風景・明智佐馬之助)へ探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その2 -1 天孫神社、大津事件跡、大津城跡、九品寺、大津宿本陣跡 へ
2017.03.12
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[探訪時期:2014年4月]2014年4月、桜の花盛りの頃に「近江の歴史散策33~大津を歩く~」という講座に参加して、大津市内を巡りました。私には大津を再発見する機会になりました。(資料1)大津を歩いたという意味で、「その2」として再録し、大津のまちをご紹介します。JR琵琶湖線大津駅前に集合し、大津駅前の中央大通りの坂道を琵琶湖岸方向に下って行き、右折して最初に訪れたのが、冒頭の写真「天孫神社」(表門鳥居)です。当日のレジュメ資料に掲載の地図を切り出してみました。太線が今回探訪する行程になります。 本殿祭神は、彦火々出見命(ひこほほでのみこと)、大名牟遅命(おおなむちのみこと)、国常立命(くにとこたちのみこと)、帯中津日子命(たらしなかつひこのみこと)です。天正14年(1588)頃、豊臣秀吉は坂本城の機能を大津に移し、大津城を築城しました。その折りには、天孫神社は城下の守護神として町衆に崇敬されたといいます。秀吉は大津城築城の際にその余材をもってこの神社の修復をしたという記録があるそうです。(資料1,3)10月に「大津祭」が行われ、13基の曳山がからくりを演じながら巡行します。この祭礼をかつて一度見物し、別の機会に「大津祭曳山展示館」も訪れたことがあります。しかし、その時は「曳山」そのものに関心が集中していて、この祭礼が「天孫神社」の祭礼であるということには気づきませんでした。展示館には当然どこかに説明が加わっていたと思うのですが・・・・。 「大津祭曳山展示館」はこちらをご覧ください。 天孫神社は延暦年間(782-805)に湖畔に創建されたようです。それが文明年間(1469-87)に京町三丁目の現在地に移転したと伝わります。(資料1)かつては社名が「四宮神社」と称されたそうです。近江の国では、一宮が建部大社、二宮が日吉大社、三宮が多賀大社で、四宮が天孫神社と称されたことに由来するとも言います。(資料2)境内にはなかなか立派な摂社が並んでいます。後日調べてみると、左から八幡神社、稲荷神社、輻輳神社です。ほかにも、天神社、日若神社が祀られています。(資料3) 大津駅から向かったので、裏門から入り境内を経由して表門から出るという形になったのですが、そこからわずかの距離に、「鍛冶屋町自治会館」と標札の掛けられた建物があり、その傍に「大津祭 西行桜狸山 由来」という説明板のはめ込まれた石標が建てられています。京都の祇園祭において長刀鉾が「くじとらず」として先頭を巡行するように、鍛冶屋町の「西行桜狸山」が「くじとらず」として大津祭巡行の先導をつとめるそうです。京町通を駅前の中央大通りの方向に戻って行くと、少し浜大津よりに、「大津別院」があります。現在は真宗大谷派です。慶長5年(1600)教如により建立されたといいます。 本堂江戸初期の真宗寺院本堂の特色をとどめる建物のようです。(資料1)京町通にはこんな町屋の姿が維持されています。すだれ老舗の看板が見えるのは「森野すだれ店」さんで、その先ののれんが掛かっているのは、懐石料理「大津魚忠」さん。 軒屋根に鍾馗さんを見つけました。 その先で、通りの左側、通りの角に石標があり、民家の壁に掲示されているのがこれです。現在では、歴史愛好家でなければ、何気なく通り過ぎてしまいそうなところです。明治24年(1891)当時は、世間を震撼させた事件が発生した場所なのです。いわゆる「大津事件」発生の跡地です。明治24年5月11日、滋賀県庁より京都に向かう帝政ロシアのニコライ皇太子を群衆警備にあたっていた巡査(守山署三上駐在所勤務)津田三蔵がサーベルで斬りつけた傷害事件です。西南戦争での戦功を生涯唯一の誇りとしていた津田にとって、当時西南戦争で死んだはずの西郷隆盛ロシア生存説の噂-虚偽が判明していた-があったことへの釈然としない思い並びに「事件当日三井寺境内の西南戦争記念碑を警備中、ロシア人随行者がみせた記念碑に対する態度を無礼と感じ、怒りをつのらせた」(資料4)という背景が動機の中にあるようです。当時の社会状況は次ぎのようなものだったとか。「事件の発生を知った政府は驚愕した。なにしろロシアは北方の大国、一方日本は2年前に憲法を制定して、近代国家への道をたどりはじめたばかりの小国だったからである。ただちに御前会議が開かれ、大臣だけでなく明治天皇までもがニコライを見舞うために京都へむかった。着任したばかりの滋賀県知事沖守固(もりかた)は免官となり、後には外務大臣青木周蔵らも引責辞任した。」(資料4)掲示説明文の後半の文意より鮮明になってくるのではないでしょうか。この説明文をあるウォーキング企画に参加した途中で一度ちらりと見る機会がありました。この歴史散策と事後学習で、具体的な内容を再認識した次第です。 通りの反対側にはここにも町屋が維持されています。 特にこの二階の格子窓が素敵です。そう思いません?この後通りを浜側に下り、丸屋町通りの商店街に入ります。この通りに「大津祭曳山展示館」があるのですが、今回はパス。この通りを歩く狙いは、大津城跡の形跡を見るためでした。この石垣、石積みは部分的に後世に積み直されたところがあるようです。しかし通りからJR方向を向いての石垣です。これが、なんとかつての大津城の外堀の石垣の一部なのだとか。過去の研究と部分的発掘調査から作られた「大津城縄張推定復元図」で対応させてみるとそうなるようです。勿論外堀はかなり埋め立てられている上での話です。丸屋町通りから京町通りに戻る道路の途中で振り返って撮った写真。このゆるやかな坂道(丸屋町通・京町通間)の長さの70%位が外堀の幅と推定されるそうです。濠が埋め立てられていくとき、斜面となったのでしょう。城の外側が相対的に高い土地になるために、防御上このサイドは他のサイドより濠幅が倍近かったようです。大津城は本丸が琵琶湖に突き出た島状を呈する水城であり、3重の濠がめぐらされていたのです。大津市歴史博物館の「第9回 大津城の復元」のページをご覧ください。学芸員・青山均氏の解説が載っています。 聖マリア教会の傍を通過して訪れたのが、「九品寺」。江西山浄土院と号する浄土宗西山禅林寺派のお寺です。京都の永観堂の流れのお寺と言う方がピンとくるかもしれません。現在の本堂はコンクリート建築の建物になっていました。大津市京町1丁目に所在。法然の弟子長西(ちょうさい)が開基となり京都に建立したものを、後にここに移転したと伝わるお寺です。筑地塀の内側に沢山の地蔵石仏が安置されています。「九品寺」でいただいたカラーコピーのリーフレットから引用させていただきご紹介しましょう。拝見のお目当ては左の写真・平安時代の木造聖観音立像です。像高171.1cm、檜材の一木造りで背面より内刳りを施された仏像です。「大仏師定朝によって完成された平安朝後期の彫刻様式の前段階の様相をうかがうことができる」もので、本像と同じ作風の仏像を考慮すると、作像した「工房は延暦寺と関係を有していたと推定される」そうです。天台系の仏像との共通性がうかがわれる仏像なのです。平成12年(2000)に保存修理が図られて右腕を垂下した作像当初の姿に復元変更されています。本像は大津市歴史博物館に委託されていて、お寺では模刻像(楽浪文化財修理所平成15年造像)を拝見しました。(資料5)本尊は右の写真・阿弥陀三尊像です。阿弥陀仏は「九品の印相」の中の「上品中生(説法印)」の様式です。阿弥陀如来を念ずる者は死後、必ず阿弥陀如来に迎えられ、極楽浄土に受け入れられるという「来迎引接(らいごういんじょう)の仏教思想です。往生する人の信仰の深浅や罪業によって「往生に九品往生、極楽に九品浄土の別があって、阿弥陀如来にも九品(=9つのランク)の弥陀が区別され、それが印相に示される」(資料6)という考えがあります。この阿弥陀如来は上品中生の往生者を来迎引接するというメッセージを示しているのでしょう。観音・勢至両菩薩は膝を立て、立ち上がって、今正に往生しようとする人を来迎に行こうとしている姿のようです。最後にお墓を訪れました。中央の墓碑が開祖長西上人のお墓です。房号が覚明なのです。なんと、そのすぐ左傍に、坂本龍馬とも関係の深い伏見・寺田屋の関係者の墓碑があったのです。実は、当日ご住職に最近判明したのだとご紹介を受け、拝見した次第。 寺田屋お登勢の両親は近江・大津の人だったようです。これは今回の歴史散策の付録になりました。九品寺の後、長安寺に行くために、御幸町を通ります。 その時見かけたのが、「明治天皇聖跡」と刻された石碑とその傍の駒札。この辺りは八丁筋と称されるとか。江戸時代に「大津宿本陣」のあった跡です。滋賀労働基準局の所在する付近です。駒札に載る浮世絵をウィキペディアで見つけました。引用させていただきます。歌川広重『木曽街道六十九次・大津』の図です。(資料7) 少し離れたところですが、ビルの傍にも「大津宿本陣跡」の掲示があります。大津宿には2軒の本陣があったそうなので、もう一つの跡地なのかもしれません。次回は「長安寺」からのご紹介です。参照資料1)「近江の歴史散策33~大津を歩く~」龍谷大学RECコミュニティ・カレッジ 2014.4.12 (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成レジュメ)2) 大津祭の歴史 :「大津祭曳山連盟」 3) 天孫神社 ホームページ 4) 『県史25 滋賀県の歴史』 畑中誠治他共著 山川出版社 p295-2975) 九品寺で入手した複数のリーフレットより6) 『図説歴史散歩事典』 井上光貞監修 山川出版社 p3127) 大津宿 :ウィキペディア【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺NPO法人 大津祭曳山連盟 ホームページ 西行桜狸山 大津祭2013・西行桜狸山の宵宮囃子 :Youtube2013 大津祭 西行桜狸山 :Youtube大津籠城戦の八日間 -古都大津no.4ー:「ランニング好きの研修トレーナーの日記」 「大津城縄張推定復元図」を掲載されています。ご覧ください。印相 :ウィキペディア印相について :「み仏の紹介の部屋」(山崎祥琳氏)大津宿本陣跡 :「大津市歴史博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・大津を歩く その1 大津点描(山吹地蔵・車石・琵琶湖風景・明智佐馬之助)へ
2017.03.11
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大津駅構内で、建物の京都側にスペースがあります。そこで目にとまるのがこの句碑です。探訪の再録として、「探訪 [再録] 木曽殿最後の地・膳所を訪ねて -2 義仲寺(2)」をご紹介した折に、「山吹塚」に触れております。その山吹塚の波紋から始めます。再録にあたり、膳所地区から、JR大津駅を起点としたエリアに目を転じてみます。このエリアを幾度か探訪する機会がありました。個々にご紹介したものをここに連続でご紹介します。再録にあたり、修正加筆、写真の追加などで再編集します。2013年2月10日(日)、『湖国の祈りとそのかたち』出版記念講演会「祈りとそのかたち」が大津市打出浜にあるコラボしが21で開催されました。その講演を聴講するために、会場への往還で目にとめた風物の点描を「その1」としてのご紹介から始めます。JR大津駅には幾度も来ていますが、あまり意識していなかった箇所を、会場への往還の機会に意識的に眺めてみたのです。それが義仲寺に移された小さな塚ともリンクすることに・・・・・。 句碑のズームアップです。 木曽どのを したひ山吹 ちりにけり昭和25年盂蘭盆に建立され、高さ1.73m。昭和20年代に大津市長だった佐治誠吉句碑です。(資料1)句碑の背後に小さなお堂があります。これが「山吹地蔵」と呼ばれる小祠です。この「山吹」、義仲寺にある「山吹塚」と関連しています。ここは木曽義仲の愛妾山吹御前の伝承にゆかりのあるところなのです。手許の文庫本『平家物語』巻九「四 木曽の最後の事」の冒頭に、「木曽は信濃を出でしより、巴・山吹とて、二人の美女を具せられたり。」と記されています。この「山吹」です。この項で、山吹について触れているのはその後に続く「山吹は労りあつて都に留まりぬ。」の一行だけなのです。(資料2)大正10年8月に大津駅が建設されるまで、この地一帯には秋岸寺があったそうです。粟津が原での戦いで木曽義仲が鎌倉勢に敗れてしまいます。都に留まっていた山吹御前が義仲を慕い、逢坂山を越えてここまで来たのですが、秋岸寺境内の竹藪の中で敵刃に倒れてこの地で亡くなったと伝えられているのです。後世に薄幸の山吹を弔うために、秋岸寺境内に地蔵尊を刻んでお祀りしたのです。大津駅新設に伴い、お寺は移転したのですが、地蔵尊はこの地でそのまま祀られてきたそうです。そして昭和50年(1975)の駅舎改築を機に現在の小祠が建てられ、山吹地蔵と称されるようになったのだとか。(句碑傍の説明板を参考に)また、このあたりを東浦という由来説明もあります。義仲寺の山吹塚とのつながりに思いを馳せました。義仲寺探訪との接点がここに。もう一つ、大津駅正面に立ち右斜め前方を見ると、 このモニュメントがあります。説明板には、「大津市の歴史と変遷」及び「逢坂越と車石」の説明があり、手前にある石群が「車石」なのです。 上掲の説明板江戸時代の図会から絵図を引用させて頂きます。(資料3,4) これは「伊勢参宮名所図会」に描かれた逢坂山で、牛車の道が見えます。 こちらは「東海道名所図会」に載る絵図から切出した逢坂山の峠の部分図です。2012年3月、大津市歴史博物館で企画展「車石 -江戸時代の街道整備-」を鑑賞しました。それがここに結びついてくることにもなりました。この「車石」は大津から逢坂山を越え、京都・三条大橋までの東海道に牛車用に敷石として敷かれたものだそうです。当時の街道は土道だったので、雨が降れば重い荷を積んだ牛車は泥道に埋まり、進むことに大変難儀します。そこで、牛車の両輪の幅に合わせて石を敷き詰めていくという画期的な土木工事でこの区間の街道が整備されたのです。夥しい牛車の往来により、轍の部分が少しずつ摩耗して窪みができて行った結果、この車石と呼ばれる痕跡ができたのです。幹線道路のこの道が現在のように交通の動脈として鋪装整備される中で車石が撤去され、今は各所にその面影を残す形でモニュメントが見られるようです。この「車石」展を鑑賞して以来、大津ー三条間の車石遺跡探訪をしてみたいと思っていますが、2017年の現時点でも果たせていません。その1つがこのモニュメントでもあります。逢坂越の東海道は、北陸・東海地方から物資を運ぶ大動脈の街道でした。当時の主要物質は米です。京都に各地から搬入される米のうち、60%は大津に集荷され、ここを経由する北陸米で、その量は年間五、六十万俵(1俵60kg)にのぼったと言われます。京都車借の牛車、大津馬借配下の牛馬、一俵背負いの運搬人が頻繁に往来したのです(資料5)。牛車は一頭の牛にひかせた荷車です。米俵なら一輌に九俵積みが普通だったようです。つまり約54kgの重量の運搬です。18世紀、大津御用米会所で取引された米の全体量は、天明4年(1784)で90万俵、同5年で88万俵という記録もあるようです。安永4年(1775)の記録では、京都へ運ばれた米が93万俵だとか。その内訳は、 21万7000俵 「車」(=牛車による輸送と推定) 45万9000俵 「牛馬」(牛馬の背の積み荷) 13万2000俵 「徒荷」(運搬人により) 6万4000俵 「つき米」(精米された米)この米の運搬は大きな利益をうむわけですから、やはり京都・大津間で争論があったようです。その結果、「大津の馬借が六歩(六割)、京都・伏見の車屋が四歩(四割)と決められたとか。明治5年(1872)に来日したフランス人ブスケの『ブスケ日本見聞記』には、こんな記述があるようです。「道幅の半分は一つの町から他の町まで鋪装されており、これらの広い鋪石の上には二つの平行した轍が長年月の間に牛馬の車輪でうがたれている」「二つの狭い轍からそれずにひいていゆくのを見るのは面白い光景である」 (資料6)東海道の歴史とのつながりがここにもあります。意識化すると、おもしろい。 説明板部分図大津駅から滋賀県庁-京阪電車・島ノ関駅-湖岸打出浜へと緩やかな坂道を下りながら歩きました。 県庁近くの滋賀会館の前を通ったとき、そこにも車石を見かけました。湖岸に出て、大津湖岸なぎさ公園の遊歩道に少し立ち寄ってみました。 遊歩道の橋の先には、城の形の県立琵琶湖文化館、県立芸術劇場びわ湖ホールが見えます。ずっと遠くに見えるのは、大津プリンスホテルの建物です。対岸には三上山が。 琵琶湖打出浜から(パノラマ合成)この辺りに立つと、琵琶湖を北に見て、東・北・西の三方に山々が眺められ、淡海の広がりを存分に味わうことができます。観光船が大津港に戻ってくる遠景もいいものです。 琵琶湖文化館の傍にこの石標が建てられています。本能寺の変の時、安土城を攻めた明智左馬之助が坂本城に戻るために、ここから湖水を馬で渡ったのだとか。坂本の町・坂本城跡探訪との接点がここにもありました。講演会を聴講した後、JR大津駅に戻る前に、湖岸の遊歩道を少し歩いてみることにしました。湖岸にそって整備されたなぎさ公園のほんの一部ですが・・・・ びわ湖ホールの傍を、遊歩道に向かうときに見た風景背景の建物はびわ湖ホールです。この常夜灯は江戸時代には「石場の常夜燈」と呼ばれ、石場ー矢橋(やばせ)間の渡し船の目印とされていたもので、弘化2年(1845)に建立されたものだそうです。「かつての湖岸(もと大津警察署裏の位置)に」(資料7)立っていたものを、こちらに移設したのだとか。高さは8.4mあるといいます。 遊歩道を自転車で行く人、ゆっくと語り合いながら歩くカップルなど、 夕闇が訪れる少し前の一時を思い思いに行き交っています。 遠くにはいつも三上山があります。さて、最後に無料で聴講できた講演会にも少し触れておきましょう。サンライズ出版社から淡海文庫50として、『湖国の祈りとそのかたち』という本が出版されました。この本は、滋賀県教育委員会事務局文化財保護課の専門職員の方々が分担され、近江の国宝・重文などについて、祈りとそのかたちというテーマで京都新聞に連載されてきたものが一冊にまとめられたのだとか。この記念講演会では、それぞれの執筆者が担当された分野の内容を題材に、具体的で丁寧なプレゼンテーション資料を映写して講演されました。本書内容の概略ということもあり、配布レジュメはありません。本書がそれに相当するという主旨でした。当日は、バラエティに富んだ内容の講演を楽しく拝聴しました。私には、今後の湖国・近江探訪に対する動機づけが高められた機会になりました。ご一読ありがとうございます。次回から「その2」をつづけます。参照資料1) 佐治誠吉句碑(春日町) :「大津のかんきょう宝箱」 いろいろの淡海 滋賀で見つけた和の伝統色 :「滋賀県文化振興事業団」2) 『平家物語 下巻』 佐藤謙三校注 角川文庫ソフィア 3) 伊勢参宮名所図会. 巻之1-5,附録 / [蔀関月] [画] :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)4) 東海道名所図会. 巻之1-6 / [秋里籬嶌] [編] :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)5) 『県史26 京都府の歴史』 朝尾他共著 山川出版社 p190-1916) 図録『企画展 車石』 大津市歴史博物館 p8-127) 石場の常夜燈(打出浜) :「大津のかんきょう宝箱)【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺山吹御前 :ウィキペディア明智佐馬之助 ← 明智秀満 :ウィキペディア第58階企画展 車石 -江戸時代の街道整備- :「大津市歴史博物館」 平成24年3月3日~4月15日車石・車道・日ノ岡峠(京都市山科区) :「京都風光」江戸時代に整備、車石をたどる 京都・滋賀 深堀り :「京都新聞」車石・車道研究会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 木曽殿最後の地・膳所を訪ねて -1 義仲寺(1) へ探訪 [再録] 木曽殿最後の地・膳所を訪ねて -2 義仲寺(2) へ
2017.03.11
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蘆花浅水荘(記恩禅寺)の庭園を探訪したあと、西方向に進みます。中庄1丁目、道路の南西角にある「専光寺」の北側の通りを入ると、その隣の民家の角に、この石標があります。「菅沼曲翠邸址」です。この石標は昭和44年(1969)に建てられたものです。菅原曲翠は膳所藩士で、松尾芭蕉の門人でもありました。「義仲寺」のご紹介をした折に、芭蕉の墓があるこの寺に「曲翠墓」が没後257年後、昭和48年(1973)になって建てられたとご紹介しました。なぜ、そうなったのか?「享保2年(1717)曲翠は、藩の悪家老曽我権太夫を槍を以て我が家の玄関先で討ち果たした。曽我が江戸藩邸の重臣として赴任の挨拶にきた朝のことであった。曲翠は一切は私闘によるものと記した遺書を残して自刃した。長子も罰せられ、切腹を命ぜられ、家は取り潰しとなった。こんな事情で逆臣と扱われたので曲翠の墓は造られなかった」(資料1)のだとか。司馬遼太郎は『街道をゆく』シリーズのエッセイ「近江の人」の中で菅沼曲翠に触れています。「通称は外記。膳所藩の重臣であった。性格は倫理的感情がつよく、泰平の宮仕えにむかぬほどに直情家でもあった。・・・・曲翠は江戸期において近江武士の気質の系譜をひくひとだったといっていい。」と記しています。当時の藩主が暗君で、用人曽我権太夫を寵愛したそうです。それを笠にきて曽我権太夫は私曲をかさねていたといいます。曽我が江戸に出府するため、儀礼的に中老職の菅沼家に挨拶に来たとき、曲翠は権太夫の私曲を責めたが、彼はとりあわなかったのです。そのため、将来本多家をつぶす因となるリスクを排除するために、曲翠は槍で突き殺す行為に出たと司馬遼太郎は解釈しています。「ともかくもこの挙は私怨から出た、としたためた。もし公憤であると書けば幕閣が藩主本多康命を取り調べる。そのことを曲翠はおそれた。ただし私怨にすれば自分の家がとりつぶされる。それを覚悟した上での一挙だった。」「当の本多康命は大いに怒り、家禄などいっさいを没収した上、江戸詰だった曲翠の長子菅沼内記定季を切腹させ、遺族を追放した。曲翠夫人は髪をおろして法名を破鏡と称し、郷里の泉州岸和田に隠れた」と。曲翠は権太夫を槍で一突きにして殺すと、自分もその場で腹を掻き切って死んだとのことです。享年58歳。(資料1,3)菅沼曲翠は「芭蕉をして『ただ者にあらず』と言わせて『勇士』と称されて最も信頼されていた門人の一人」(資料1)だったそうです。芭蕉が旅の途中で大津をたびたび訪れたのは、曲翠が膳所に居たからだともいわれるようです。芭蕉が国分の「幻住庵」に逗留したのも、曲翠が伯父の定知(幻住老人)の旧庵を補修して提供したと言われています。(資料1,3)芭蕉はこの庵に元禄3年(1690)4月から7月まで滞在し、『幻住庵記』を著したのです。この『幻住庵記』の中で、曲翠に対して「勇士」という形容をしているそうです。 斜め前にある「膳所不動明王堂」石標のところで説明を聴き、さらに西に進み、京阪電車の「椿ケ原」踏切を渡ります。 土塀の瓦 立葵の家紋が目にとまります。右折して北に方向を転じて、土塀の残る家並みの道路を進みます。この辺り「中庄2丁目」と電柱に住所標示がでています。そして膳所1丁目と続きます。 左折して西方向に道沿いに歩めば、T字路の正面にお寺が見えます。 「安昌寺」です。 表門の左側に「膳城烈士墳墓所」碑が立っています。このシリーズで「丹保之宮」をご紹介したおりに、「膳所事件」に触れています。最後の探訪地の「安昌寺」はこの事件に関連するのです。その前に、表門に目を留めましょう。屋根の飾り瓦が豪壮で見応えがあります。歳月のせいか、かなり痛みが出て来ているようです。鉄線で落下防止の補強がされてるいるのが少し惜しいところ。これだけ屋根に装飾のある表門は滅多にお目にかかれないと思います。軒丸瓦には膳所藩本多氏の立葵の家紋が見えます。この門も膳所城の城門が移設されたのだろうと推測します。しかし、インターネットの検索で調べてみた範囲では、移築された門だというデータはありません。現地でも説明は見かけませんでした。不思議・・・・・。 屋根の棟には鬼板の他に鯱が置かれています。そして降棟のところに通常の瓦に替えて躍動する龍が装飾されているのです。 これだけの装飾瓦を私は初めて目にしました。 鬼板のレリーフも少し異質な文様です。軒丸瓦には、立葵の家紋と、三つ巴紋が併用されています。 一方、木鼻はシンプルな造形で、屋根を支える板蟇股も簡素な彫刻で剛健さが窺えます。 本堂と庫裡 本堂の正面に、山号額が掛かっています。蟇股、木鼻ともにシンプルなもの。本堂と庫裡は建て替えられたようで、まだ真新しさを漂わせています。100年経てば古風な色調になることでしょう。 庫裡の鬼瓦 本堂屋根の鬼瓦本堂の正面からみて、左隣りに、最後の探訪箇所がありました。門前に立つ「膳城烈士墳墓所」です。「丹保之宮」のところでご説明した「膳所事件」の関連する墓域です。幕末、将軍徳川家茂が禁門の変を起こした長州征伐の指揮をとるために上洛します。その道中、膳所城で一泊する予定を中止するのです。それは、膳所藩内佐幕派の一人上坂三郎衛門が藩内尊攘派の謀議の噂を京都守護職松平容保に密告したからと言われています。事実がどこにあるかは定かでないようです。数十名が逮捕され、藩内での取調べにおいて、最終的に容疑者11名が処分の対象となったそうです。そのうち身分の高い4名が切腹、身分の低い7名が斬首されたのです。それが「膳所事件」の結末でした。切腹させられた4名の墓がここに設けられ、斬首された7名の墓は、岡山墓地にあると言います。調べて見ると、岡山墓地は現在「岡山霊園」と称されているようです。JR膳所駅に近く、国道1号線に面している墓地です。(資料4) 正面に五輪塔が建立されています。近年に新たに建立された感じです。地輪の正面に「烈士供養塔」と刻され、基壇には名前が刻まれています。正面に6名の名前が刻されていますので、両側面に多分5名の名前も刻されているのでしょう。未確認です。その前、両側に内に向かう形で、名前を記した墓石が2つずつ並んでいます。 保田正経(中老)、阿閉信足(大目付役・大砲隊長・勝手方元締)、槙島光明(物頭職)、田河武□(最後の一字判読できません)(郡宰及び勝手取締役、名前は藤馬之丞とも)(資料5)の4人です。境内を少しご紹介しておきます。表門を入ると、右斜め前方向にある小祠 表門の左斜め前方向にあるお堂宝形造の屋根で、正面に廂が張り出した変形型のお堂です。何が祀られているのか確認できませんでした。 屋根の鬼瓦です。少しずつ鬼の造形が異なるようです。烈士供養塔に合掌して、膳所地区の大津石碑めぐりを終えました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 当日配布の探訪資料「大津石碑めぐり~膳所地区~」 永井郁夫氏作成 いいね!大津~夢・観光ワークショップ NPO法人 ライティング心と未来 共催2) 『滋賀県の歴史散歩 上 大津・湖南・甲賀』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山河出版社 p101-1023)『街道をゆく 24 近江・奈良散歩』 司馬遼太郎著 朝日文庫 p17-194) 岡山霊園のご紹介 :「山本石材店」5) 慶応元年 膳所藩十一烈士 :「維新の礎」補遺菅沼曲水 :ウィキペディア菅沼曲翠 :「コトバンク」幻住庵 :「大津市」松尾芭蕉ゆかりの地 大津市 幻住庵の紅葉 :YouTube幻住庵記の成立について 植谷 元氏 論文 pdfファイル 天理大学「幻住庵記」の内面叙述(上) 濱 森太郎氏 論文 pdfファイル 三重大学膳所城の移築門など :「近江の城郭」近世殉国一人一首伝 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 「膳所事件之徒 二名」として、河瀬太宰定、增田仁右衛門の記載があります。 26コマ、27コマ目“将軍暗殺”騒動の藩士偲ぶ 大津・安昌寺で地元住民ら(中日新聞2007-11-25) :「歴史~飛耳長目~」膳所城事件を探る④-1 :「朝日新聞滋賀販売」 膳所城事件を探る⑧ 「滋賀県大津市岡山霊園(岡山墓地)の由来」 :「山本石材店」岡山霊園の現地レポート :「いいお墓」 膳所烈士墳墓所の写真が載っています。ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -1 今井兼平の墓碑、杉浦重剛旧宅ほか へ探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -2 若宮八幡・仁保宮・本多神社・黒田顕彰碑ほか へ探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -3 廬花浅水荘庭園(記恩禅寺)(1) へ探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -4 廬花浅水荘庭園(記恩禅寺)(2) へ探訪 [再録] 木曽殿最後の地・膳所を訪ねて -1 義仲寺(1) へ探訪 [再録] 木曽殿最後の地・膳所を訪ねて -2 義仲寺(2) へ
2017.03.10
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中門それでは庭園の拝見に参りましょう。前回ご紹介したこの中門の再掲から始めます。中門を入ると、右に回廊があり、その先は記恩堂に至ります。左に向かうと庭園に行けます。まずは左に進み、庭園を拝見することに。 回廊と書院との間の庭は、その先、つまり琵琶湖側、東にある広庭との境に樫の生垣で境とされています。まず庭にある蹲踞(つくばい)と背の低い石灯籠が目にとまります。石燈籠の竿には石仏がレリーフされています。 ここを一つの庭として区切るのが枝折戸と樫の生垣です。左の画像は、枝折戸の外に置かれた指道標です。「右 いはま寺みち 左 石山寺みち」と刻されているように見えます。書院の側面から、枝折戸を眺めつつ進みます。広庭に入ると、書院の北東側の建物が見えます。建物の下部を眺めると下部にかつては水が流れている形になっていたと推測できます。いただいた資料には、書院前広庭の「中央には自然に蛇行する遣り水を造り、二三の小石を持って沢渡りとする。沓脱石より三の石迄で飛石を止め、余は一面の高麗芝となっている」(資料1)と記されています。「遣り水」とは、「寝殿造りの庭園で、外部から水を引いてつくった流れ」(『日本語大辞典』講談社)という意味なので、この下あたりは引き込まれた水で池ができている場所だったのでしょうか。現在の庭園には、遣り水はありません。 この建物の外側を回り込むと、西側奧に、屋内から眺めた円窓のある「莎香亭」が見えます。遣り水はこの建物の傍まで来ていたそうです。 「莎香亭」の前から左側を広庭方向に竹垣沿いに歩むと、「ひだり京大津」、側面に「かたたみち」と刻した指道標が立ち、その先に宝篋印塔が一基置かれています。 これは室町初期のものだそうです。さらに、「従是南膳所所領」の標石が立っています。それでは、一旦書院前広庭に戻ります。 この広庭は高麗芝の低い築山で、その間を遣り水が蛇行する流れを作っていたそうです。低い築山を琵琶湖側に歩むと、少し低くなった形で庭が続いています。グーグル・アースで上空からの写真をご覧になると、イメージしやすいと思います。築山の先で一段低くなった辺りから湖岸道路までの広がりは、この庭園本来のエリアではなく、後に造園されたそうです。それは湖岸の埋立による遊覧都市構想の為の措置として、大津市により庭園の景観維持のために造園されたといいます。市が管理されている部分が湖岸側にあるのです。 広庭の本来の南東端に近いところに、四阿「亡棹」の屋根が見えています。その傍まで行って拝見するゆとりはありませんでした。右の写真にみえる高麗芝のない土の道に見える部分が遣り水の流れだったように思えます。上空からの写真を見ると、この道の部分が蛇行した流れとなり上掲の建物のしたあたりまで続いていることを示しています。庭園についてあと2つご紹介します。一つは広庭の北辺に建てられた茶席「穂露」で、もう一つは「記恩堂(持仏堂)」です。まず茶席のご紹介からいたします。背後に高層マンションが建ち、かつての風情は半減していますが、それは時代の流れとしか言いようがないようです。茶席と露地に目と気持ちを集中させましょう。茶室の大きさをお尋ねすると、それじゃ戸を開けましょうかと、対応していただけました。お手数を掛けることになりましたが、茶室内部を拝見できてラッキーでした。ここに内部のご紹介もできます。(資料1を適宜参照しています)まず、外観ですが茶席建物は南面して建てられています。屋根を見上げると、席名の春挙書「穂露」の濡額が見えます。文字が見づらくなってきています。歳月の経過が窺えます。露地は白樫の生垣に囲まれています。茶室へのにじり口が南西隅にあります。そして、東面に貴人口が設けられています。「東面の貴人口は特殊な趣向を以て取り外し自在の腰壁を作り、外せば入口となるが、附ければ窓となる」(資料1)という工夫が加えられているそうです。枝折戸を入ると、右側に自然石花崗岩の蹲踞があり、その後に大雅堂遺愛の織部燈籠が見えます。私は見落としたようなのですが、左にも御影石の蹲踞があるそうです。(資料1)大雅書の扁額を書院のところでご紹介しています。ここで「大雅堂」という言葉がでてきました。大雅とは文人画、南画家として名を馳せた池大雅のことです。余談ですが、江戸中期に池大雅は京都市の現在円山公園の音楽堂の南側あたりに妻玉瀾と一緒に住んでいたのです。現在そこには「大雅堂旧址」碑が建てられています。一度史跡碑を見に出かけたことがあります。(資料2)「大雅堂」で使われていた織部灯籠がここまで辿り着いたということと理解します。 東面に向かう角に垣が設えてあり、左に回り込めば貴人口ですが、ここに2枚の長石で橋が架けられていますので、遣り水がここまで流れていたのでしょう。石橋を渡った隅に「左 やまだのわたし」の指道標があります。 異なる位置からこの画像は開けていただいたにじり口から内部を撮ったものです。 こちらは、貴人口の戸も開けていただけたので、貴人口の外側から撮った画像です。「席は三帖台目出炉で、床を附けたもの。床柱は杉の皮付、掛け込み天井に杉柾の天井がつづき、茶道畳の上は真菰の下げ天井、茶道口は帆立口、給仕口は花頭」(資料1)という仕様です。茶席の内部を拝見して、案内文を読むと漠然と見て通り過ぎるのではなくて、茶室細部について良い学びの機会となります。露地を歩むと生垣の傍に、こんな木製の燈籠(たぶん・・・)が置かれています。ほのかに灯りが見えるという風趣を感じます。さて、最後に「記恩堂」に参ります。書院から見ると、広庭の右斜め前方(南)にこの記恩堂があります。萱葺宝形造の建物です。庭からお堂に近づいて行きますと、記恩堂の手前左側に この手水鉢があります。四面にそれぞれ石仏をレリーフした四方仏の手水鉢です。「これを囲む石輪は彦根候御座船所用の勢車の輪石」(資料1)だそうです。勢車は弾車(はずみくるま)のことで、「はずみを利用し、回転を持続させ、回転の速さを滑らかにするため回転軸に取り付ける大きく重い車。勢車。フライホイール」(『大辞林』三省堂)です。正面に掛けられた額は黙雷禅師の書によるものだそうです。正面の門は「甘露門」と呼ばれています。内部は拝見できませんでした。このお堂には、本尊釈迦牟尼仏、春挙の師である森寛斎翁像、春挙の両親像が祀られているそうです。 お堂の西側面を眺めると、にじり口が設けられています。堂内は前室・後室に仕切ることができる形になっているようです。「間襖の引手は(春挙:付記)自案「蓮葉」、襖を裏返してはめると渋紙張りとなり前室は台目五帖の茶席となる」(資料1)工夫がしてあるそうです。にじり口の前の通路から、回廊を進み、中門を出ました。今回の探訪企画での時間の制約もあり、拝見での見落としがかなりあります。できれば、ここも数時間かけて再訪してみたい見応えに溢れた重要文化財指定箇所です。庭園の拝見が終了しました。このあとさらに2カ所を巡ります。つづく参照資料1)「山元春挙旧邸 盧花浅水荘-円融山記恩寺-」 リーフレット 当日拝観の折にいただいた資料2)大雅堂旧跡 :「京都観光Navi」補遺茶室 :ウィキペディア茶室のパーツ&茶人を知る :「『京都』×わカル」間取り :「2号館 茶室と露地について」Images for 茶室 間取り 表千家竹田黙雷禅師 :「東京雪州会」竹田黙雷禅師 :「壱岐と日本の神社」芸術三昧即信仰 上村松園 :「青空文庫」 「その当時わたしは建仁寺の黙雷禅師の法話を・・・」という一節が記されています。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -1 今井兼平の墓碑、杉浦重剛旧宅ほか へ探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -2 若宮八幡・仁保宮・本多神社・黒田顕彰碑ほか へ探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -3 廬花浅水荘庭園(記恩禅寺)(1)探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -5 菅沼曲翠邸址、安昌寺(膳城烈士墳墓所)ほか へ
2017.03.10
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戒琳庵の東隣り、湖岸道路の方向に歩むと、地図に「記恩禅寺」と明記されている探訪先があります。生垣から少し奧に瀟洒な表門があります。表門の写真は多人数での出入りのために撮る機会を逸しました。冒頭の画像は、道路から見える表門の側にああります。「蘆花浅水(ろかせんすい)荘庭園」という標示になっています。現在は「円融山記恩寺」というお寺となっていますが、元は大正10年(1921)に完成した日本画家山元春挙の旧邸で、別荘「廬花浅水荘」なのです。私は今回の探訪で初めてこの「廬花浅水荘」を知りました。私にとっては、この別荘と庭園を拝見できたことが一番のハイライトです。石碑巡りの探訪地のいくつかは再訪箇所でもあったので、余計にここの探訪に惹かれました。明治4年(1871)11月24日に山元春挙は滋賀県の膳所町で誕生しました。明治16年に京都に出て野村文挙に師事して絵画の道に入り、明治18年頃東京に移住した折、森寛斎の門下に入ります。絵画の道で研鑽を積み、大正6年(1917)に帝室技芸員に任命されます。帝室技芸員とは「旧宮内省に属し、宮中で用いる工芸品・美術品の制作などにあたった美術家。勅任官待遇の名誉職」(『大辞林』三省堂)だそうです。春挙は京都御苑に近い高倉丸太町近くに居を構えていて、明治~昭和の時代には、竹内栖鳳と山元春挙が京都画壇の両雄として並び称される存在だったのです。その春挙が生地に近いこの地に別荘の建築を思い立ち、大正3年に土地を購入し、別荘を建てて、そこに両親と師・森寛斎の恩を記するために持仏堂-記恩堂-を建立したのです。(資料1) 表門を入り、石畳に導かれて前方に進むと、 別荘建物の玄関です。一方、右に折れて飛石伝いの先には、 唐破風の中門があり、この別荘の庭園の方に直接入れます。庭園の南側に記恩堂があります。中門前には、禅寺で目にする「不許葷酒肉入門内」の石標が立っています。まずは玄関から家屋に入り、この建造物を拝見しました。「書院造りに茶室を点在させ、数寄屋造りを基調とする洗練された手法で建てられ、意匠的、技法的にも優れた建造物」(資料1)という説明はなるほどと感じました。庭園とともに一見の価値がある建物です。現在は山元春挙の孫にあたる方が管理されておられ、建物内を案内してくださいました。写真撮影もOKだとのことで、まずは建物内のご紹介から始めたいと思います。尚、この廬花浅水荘庭園は、現在予約制ですが拝見を受付ておられます。お薦めスポットです。まずは琵琶湖に向かってガラス戸越しに庭を眺めることができる「書院」から拝見しました。庭園名称は唐の詩人・司空曙が詠じた「江村の即事」という詩に由来するそうです。 罷釣帰来不繋船 釣りを罷(や)めて帰ってきたが、船は繋がず 江村月落正堪眠 江村(こうそん)月落ちて正に眠るに堪(た)えたり 縦然一夜風吹去 たとえ一夜風吹き去るとも、 只在蘆花浅水辺 只(た)だ蘆花浅水の辺(ほとり)に在(あ)らんこの漢詩の江村の情趣が当時の琵琶湖南端に近いこの膳所湖畔の風物に通じるところがあるところから、結句の「蘆花浅水」から別荘の号としたと言います。今では湖岸道路ができたことで、景色が一変したところがあるのですが、かつてこの別荘が建てられた当時はこの庭続きに琵琶湖の浜辺が眺められるという風情があったそうです。(資料1,2)余談です。湖岸道路っていつ頃できたのか? このまとめをしながら、ふと関心を抱きました。そこで、インターネット検索をしてみて、ある論文を発見! そこから、私の知りたいピンポイントを参照させていただきました。大津市は1933(昭和8)年以降の周辺町村との合併の議論を経て新大津市の発足に至ります。この周辺町村との合併議論の中で、「遊覧都市」の建設構想が明確に主張て、その構想が現実化して行ったのです。1910年頃から湖岸埋立計画が順次進展して行ったのです。膳所湖岸埋め立ては1936年6月~1942年4月にかけて実行されたようです。(資料3)元に戻ります。書院の天井から吊された灯 素敵です。書院には大雅書の扁額「天開画図楼」(森寛斎翁伝承)が掛けてあります。 二帖洞床で、床柱は杉四方柾砂磨りのもの。天井は薩摩杉が使われているそうです。右の画像に見える通り、書院の襖の引手は満月形です。 「次の間(仏間)」には、春挙書の扁額「佛」が掛けられ、こちらの襖の引手は半月形と遊心が窺えます。茶室(残月)を経て、 「入側」には、竹外書の扁額「雨過雲破」と仙涯書の扇形刻額「残月」が掛けてあります。ここは天井が屋形船の雰囲気を漂わせる船底天井で、中央上には、北山杉五間半(約10m継ぎ目なし)が通してあるのです。(写真は撮り忘れです。残念!) シャコウ亭神棚のある煎茶席。神棚下の小襖は松の図に引手の千鳥が飛んでいるように見えます。一帖余の小部屋は「無尽蔵」と名づけられ、画想を練る部屋として使われたそうです。この部屋の主旨にふさわしく、頼山陽書の扁額「静居」が掛けられています。造り着け蹴り込み机と棚が目に入ります。 円窓棚の設えられた「莎香亭」 「莎香亭」の円窓の外側を廊下から撮りました。 「竹の間」床板松生節、枇杷床で、床柱は方竹、床の縁は竹框仕上げです。床の天井は竹網代。 襖には「竹の図」(春挙筆)が描かれ、造り付けの書棚があります。 中壺中庭一面に白河砂が敷かれ、四方竹が三四の群落として植栽されています。竹の間から眺めると、襖の竹の図と中壺の竹がコラボレ-ションし、一体となるのです。 中壺の一隅には、石灯籠や石橋の柱らしき石造物が配されています。 このあと、二階を拝見しました。階上の一方は、1階の純和風テイストとはがらりと変わり、洋風応接室となっています。 ここはすべて大正時代の洋風で統一されているそうです。応接室の奥側からドア方向を撮りました。天井にはシャンデリアが吊り下げられています。このシャンデリア本体の帯、吊されている天井の根元、天井四隅の空気抜きはいずれもキキョウの花弁の意匠だといいます。また、壁に掛けられた大変長い瓢箪は松竹梅に下立ててあるのだとか。 ドアから入り、右手に暖炉が据えてあります。胸像や写真が飾られています。暖炉にはハートマークがあしらわれていて、傍に置かれた暖炉用の道具もいい雰囲気です。 応接室入り口からの眺め こちらが、記恩寺としての「本堂」です。旧画室と図書室だそうです。 本尊は山元春挙筆「畢波羅窟(ひっぱらくつ)」で、釈尊座像が描かれています。聖徳太師奉賛会展覧会に出品されたそうです。(資料1) 畢波羅窟は、サンスクリット語のピッパラグハーの音写です。中インド、ラージャグリハ(王舍城)付近にあった石窟です。手許の本には、「仏弟子マハーカーシャパ(大迦葉、だいかしょう)に縁の深い処。ここで大迦葉は病気にかかり、仏陀の説法をきいて癒えたといい、ここに坐禅して仏陀の入滅を知ったともいう。仏陀の滅後、この地で第一回の経典結集が行われたという」(資料4)本尊の絵像を拝見して、振り返ると南側の壁にこの下絵が展示されています。「法塵一掃」と題する絵の下絵で、春挙が31歳の時に描いた出世作だといいます。本絵は滋賀県立美術館所蔵になっているそうです。本堂の奧、左側(南西)には、ここをアトリエにして実際に使っていた絵画道具が展示されています。 そして、奧の長押に、山桜の天然木理の板額が掛けられています。春挙がそこに添え書きとして描いている作品です。左に署名があり、右側には山に登る人々などが描き添えてあります。この本堂には、他にも様々なものが展示されています。いくつかご紹介します。 大谷光瑞、尊由両師合作 扁額「非理非空」 清厳書 額「江上堪画」九鬼隆一男爵書 「終始一貫」 石山寺貫首鷲尾光遍師書 「画禅一味」「画禅一味の額の下」には、 こんなのが吊されています。 本堂の入口ドアの傍に置かれているのがこれらの楽器です。一階の「竹の間」で使えなかった竹が、これらの楽器に変身したのです。左の画像の楽器には、それぞれに色紙が置かれ、楽器の名称、銘が記され歌が添えてあるという粋なはからいです。左が「竹製 三味線 銘かわ竹」 ここきけんかく三味線の一節に浮かれて浮名ながす川竹 冒頭の句の判読に私の誤読があるかもしれません。ご覧になった方、ご教示ください。中央が「竹製 枇杷 銘操琴」 曲人も直き心になりやせむただ一筋の琴のしらべに右が「竹製 魚鼓 銘船人」 と名づけられています。 月高み芦間に舟をとどめては魚の鼓に世をわすれけり右の画像の楽器には、色紙がありません。代わりに楽器自体に文字が刻まれていますが、私には判読できません。これも推測では左隣りと同様に、鼓の一種でしょう。右にあるのは瓢箪でしょうか。打楽器として使えそう。中央にメモ紙が置かれています。二つ折の紙の上下にそれぞれ文が記されています。誰が記された物かは不詳。この別荘の主だった春挙のメモと推測するのですが・・・・。こんなことがメモされています。(私の判読ミスがあるかもしれません。) 上側の一文 下側の一文 打坐九年 坐禅 不立文字と 仏教の悟りを いいながら 文字で表わすのは難しい 深く三世を 過去現在未来 知りくさる君 人がくさるこんなところで、建物内部の拝見を終えて、庭園を拝見に巡ります。つづく参照資料1) 「山元春挙旧邸 盧花浅水荘-円融山記恩寺-」 リーフレット 当日拝観の折にいただいた資料2) 当日配布の探訪資料「大津石碑めぐり~膳所地区~」 永井郁夫氏作成 いいね!大津~夢・観光ワークショップ NPO法人 ライティング心と未来 共催3) 近代大津の「遊覧都市」建設と都市計画-湖岸埋立と湖岸逍遙道路整備を中心に- 山口・田中・川崎 共著 土木学会論文集D2(土木史) 2015年4) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 p434補遺廬花浅水荘(記恩寺) ホームページ 現在、年間を通じて一般公開されています。(予約制)山元春挙 :ウィキペディア山元春挙 :「コトバンク」山元春挙展 2000年5~7月の企画展 :「滋賀県立近代美術館」春拳と蘆花浅水荘 2003年10月~11月の企画展 :「滋賀県立近代美術館」 山元春挙の生涯と画業 川﨑 昊 氏 :「滋賀大学経済経営研究所」所蔵品紹介 山元春挙 :「京都市美術館」 ← 作家名・Yのリスト中に掲示野村文挙 :ウィキペディア野村文挙 :「滋賀県立近代美術館」森寛斎 :ウィキペディア森寛斎 :「コトバンク」森寛斎 :「京都大学附属図書館 維新資料画像データベース」Images for 森寛斎司空曙 :「コトバンク」別盧秦卿(司空曙) :「Web漢文大系」池大雅 :ウィキペディア池大雅 :「京都大学電子図書館」藤井竹外 :「コトバンク」姫島竹外 :「コトバンク」仙厓の生涯 :「出光美術館」谷内清巌 :「コトバンク」清巌宗渭 :「コトバンク」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -1 今井兼平の墓碑、杉浦重剛旧宅ほか へ探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -2 若宮八幡・仁保宮・本多神社・黒田顕彰碑ほか へ探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -4 廬花浅水荘庭園(記恩禅寺)(2) へ探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -5 菅沼曲翠邸址、安昌寺(膳城烈士墳墓所)ほか へ
2017.03.08
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杉浦重剛旧邸を出てから、同じ杉浦町に所在する「若宮八幡神社」に立ち寄りました。 正面の石鳥居の右側に、「若宮八幡神社」の石標が立っています。表門は元膳所城の城門の一つが移設されたものです。若宮八幡神社の境内社に位置づけられている「新羅神社」の石標が鳥居の左方向に立っています(左の画像)。境内社はいくつかあるのですが、この石標だけが立つというのは、やはりこの地域に渡来系の人々が定住していたということとの関係かなと想像します。神域には2つの中門があります。 向かって右側の中門の先にある本殿本殿の左隣りに神明造と思われる一社が並んでいます。7世紀後半に創祀されたと伝わり、祭神は仁徳天皇です。(資料1)若宮八幡神社については、「探訪 [再録] 木曽殿最後の地・膳所を訪ねて -5 若宮八幡神社・新羅神社・本多神社・膳所城下町跡(3)」 を再録するにあたり再編集して少し具体的にご紹介しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。若宮八幡神社は本殿が南面していて、境内の西側から神社正面の南側へと、近世東海道がL字形に折れ曲がる位置にあります。境内を出たあと、近世東海道沿いに東方向に進みます。京阪電車石山坂本線の踏切を渡る手前、道路の南側に、お地蔵様を数多く祀ったお堂があります。道沿いに歩むと、もう一つこの石仏群を目にしました。お地蔵様とは少し異なる感じがします。 そして、この「膳所城勢多口総門跡」も既にご紹介した地点です。 (末尾の地図に、赤丸を記したあたりです) ここから県道大津湖岸線の「御殿浜」の交差点(末尾地図の青丸のところ)に出ます。左折して歩道を北方向に少し歩くと、「膳所護国神社」の石標が見えます。ここが次の探訪地への入口です。 板塀の前に立つ顕彰碑西方向に参道を歩むと、石造黒木鳥居があり、板塀が北側に続きます。小振りな社が見え、板塀の前には「丹保之宮(におのみや)」と刻された石標が立っています。後日に少し調べてみてわかったことをご紹介します。一間社流造の本殿には、祭神として「膳所城事件」で「膳所藩攘夷派」とみられたの人々がここに祀られているそうです。中老保田正経ら藩士11名と言います。慶応元年(1865)閏5月、密告により膳所藩攘夷派の一斉検挙が行われ、中老保田正経、御用人阿閉信足ら藩士11名が逮捕され、同年11月21日に藩命により、切腹や斬首という厳罰に処せられたという事件です。攘夷派が将軍徳川家茂の上洛の際に、将軍暗殺あるいは上洛の妨害を企てていたかどうかは判然としないようです。ただ、将軍家茂が上洛の折に、膳所城の泊まる予定が中止されたということは事実だといいます。(資料2,3)この「丹保之宮」が戦時中に「膳所護国神社」と改号されていたそうです。戦後、再び「丹保之宮」と称するようになったとか。(資料4) 地図は今も膳所護国神社で表記されています。両方の名称で検索したところ現在の滋賀県神社庁には登録されていません。 五角形家形の穴が穿たれた石碑、私には判読できない碑文の記された石碑が近くにあります。この丹保之宮から続く隣地が「本多神社」であり、ここは古墳があったそうで、「本多神社古墳」と名づけられいます。先に目にしたのが「本多神社古墳」の石標です。 本多神社の本殿祭神として、本多氏中興の祖と仰がれる本多康俊ら4柱が祀られているそうです。(資料1) 本殿に向かい左の端に、昭和62年12月に建立された「黒田麹廬(きくろ)顕彰碑」があります。生誕160年記念として有志一同により建立されたものです。碑文によると、膳所藩の大学者で、杉浦重剛を教育して大成させた人にあたるそうです。緒方洪庵の適塾で学んだ後、江戸の蕃書調所(東京大学の前身)の教授となります。上記膳所事件が起こったことで、帰藩し藩校「遵義堂」の督学、のちに師範頭(校長)となったのです。「ロビンソン漂流記」をわが国で初めて翻訳したのがこの黒田麹廬だと言います。また、鉛筆、ペンから写真機、時計など、西洋文物を膳所・大津に最初に紹介したひとでもあったといいます。語学の才能に秀でた学者で、福沢諭吉の「西洋事情」に訂正増補を加えた人だそうで、「天下に恐るべきはただ一の黒田あるのみ」と言わしめたといいます。この探訪で初めてこの人物の存在を知った次第です。 本多神社境内等のご紹介についても、上記の拙ブログ記事をご覧いただけるとうれしいです。右の画像は本多神社の正面です。湖岸の裏道から境内に入り、正面の鳥居を抜けて次の探訪地に行くことになりました。左の画像は正面の鳥居の左側に立つ膳所藩本多氏関係の収蔵庫(非公開)です。本多神社を出て、現在は「記恩禅寺」となっている「蘆花浅水庭園」に向かいます。本多神社と記恩禅寺のロケーションの詳細は、こちらの地図(Mapion)をご覧ください。京阪電車の「瓦ケ浜」駅が若宮八幡神社を含めての最寄り駅となります。駅の近くには、他にも「膳所焼美術館」「粟津神社」なども所在します。「記恩禅寺」の手前に、この表門があります。地図で後日確認すると「戒琳庵」です。曹洞宗のお寺です。 門前の左側、格子戸越しに中を拝見すると、石仏が数多く安置されています。 インターネットの情報では、戒琳庵には芭蕉句碑があるそうです。また、ここは芭蕉の門弟浜田珍碩の洒落堂跡だとか。芭蕉は元禄三年膳所に逗留した時、ここに来て「洒落堂の記」を書いていると紹介されている記事も見出しました。(資料5,6)つづく参照資料1)当日配布の探訪資料「大津石碑めぐり~膳所地区~」 永井郁夫氏作成 いいね!大津~夢・観光ワークショップ NPO法人 ライティング心と未来 共催2) 膳所城事件 これより文字で綴る烈士の詩歌 :「幕末 刀痕 弾痕 探訪記」 3) 大津市の神社(その2) :「村の鎮守さま」4) 大津・旧東海道を行く(膳所~瀬田唐橋)5) 戒琳庵 :「芭蕉句碑を訪ねて」6) 木のもとに汁も膾も桜かな :「近江の芭蕉 句碑を訪ねる」補遺黒田麹盧 :ウィキペディア黒田麹盧 :「コトバンク」黒田行次郎訳 『漂荒紀事』 :「京都から世界へ」(京都外国語大学付属図書館)「漂荒紀事」について Sumi Haruo 氏 対訳「ロビンソン・クルーソー」 : "Robinson Crusoe" English and Japanese大津市膳所戒琳庵にある松尾芭蕉の句碑の碑文を知りたい。また句碑の大きさや建造者・建造年についても知りたい :「レファレンス協同データベース」特別編:大津における芭蕉の発句、89句すべてを掲載しています~白洲正子「近江山河抄」の舞台を歩く(18) :「Katata/堅田」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -1 今井兼平の墓碑、杉浦重剛旧宅ほか へ探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -3 廬花浅水荘庭園(記恩禅寺)(1) へ探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -4 廬花浅水荘庭園(記恩禅寺)(2) へ探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -5 菅沼曲翠邸址、安昌寺(膳城烈士墳墓所)ほか へ
2017.03.07
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JR石山駅の北口、この「ガス燈」が立つ広場を集合場所とした探訪に今年(2017)1月28日(土)に参加しました。過去に探訪したことがある箇所がいくつか再訪という形になりましたが、一度訪ねてみたかった場所が組みこまれていて、午後の数時間の探訪を満喫できました。事情により、ブログ記事の再録を随時行っていますので、この探訪での記録写真を再録記事の補足として使い、再編集して既にご紹介している箇所があります。その箇所は、記事のリンクを考慮してご紹介します。参加したのは「大津石碑めぐり~膳所地区~」という探訪です。「いいね!大津~夢・観光ワークショップ」と「NPO法人 ライティング心と未来」が共催された企画で、語り部として永井さんがご案内くださいました。(資料1)これは当日いただいた探訪資料の表紙に載せられた地図です。①今井兼平の墓碑、②杉浦重剛旧宅、③若宮八幡、④本多神社(黒田麹蘆顕彰碑)、⑤蘆花浅水荘(記恩寺)、⑥菅沼曲水邸跡、⑦安昌寺、という探訪行程でした。 集合場所に立つガス燈は平成19年(2007)3月に大津市企業局が設置したものです。なぜ、ここに?晴嵐一丁目に、昭和30年(1955)12月から昭和60年(1985)10月まで、「粟津ガス供給所」がガス事業の基幹施設としてあったそうです。そこで、この施設が存在した記念と「大津維新・まち灯り整備事業」の一環として設置されたとか。(説明銘板より)「ガスの生い立ち」の説明によれば、「1640年、オランダの化学者ヴァン・ヘルモントが石炭を蒸し焼きすると発生する『燃える気体』に、ドイツ語で”Geist”(ガイスト)と名づけた」ことが「ガス」の始まりだと言います。西洋式ガス灯が最初に建設されたのは、東京の銀座かな、と思っていたのですが、意外にも「西洋式ガス灯が灯されたのは1871年(明治4年)大阪府大阪市の造幣局周辺において」だそうです。銀座のガス灯建設は1873年だと言います。(資料2)冒頭から脇道に逸れました。それでは、石碑めぐりに出発です。北口の広場前の道路を左(西)方向に道沿いに進むと、盛越川が見えて来ます。徒歩5分位で、「今井兼平の墓碑」所在地を訪ねることができます。 道路の側に「兼平庵」と称する建物があり、その手前に「今井兼平の墓碑」への通路がありまます。木曽義仲の第一の将だった今井四郎兼平は、都で劣勢になりこの粟津までやってきた義仲とともに、この粟津合戦で、義経・範頼軍と戦い敗れます。義仲が討死すると、兼平は後を追い、壮絶な果て方で自刃したと伝えられています。詳しくは、拙ブログの「探訪 [再録] 木曽殿最後の地・膳所を訪ねて -6 粟津晴嵐・今井兼平の墓 へ」をこちらからご覧ください。工場の側を道沿いに北に進むと、T字路に出ます。この案内地図にある現在地のところです。突き当たりの左方向に、朱塗りの鳥居の立つ小社があります。たぶん稲荷社が勧請されているのでしょう。T字路を左折しますと、京阪電車石坂線の「粟津」駅が見えます。踏切を渡り、少し西に向かって、右折します。この辺り「杉浦町」という地名です。この町名は知っていましたが、その町名が「杉浦重剛」に由来するとは知りませんでした。 「粟津山浄光寺」の石柱燈籠が立つお寺の前を通り過ぎると、路傍に 石標があります。「杉浦重剛」とはっきり見えます。その下は、たぶん「誕生地」だろうと推測しました。 住宅地の中に、白壁の築地塀で、門前左側に「杉浦重剛先生誕生地」の石標が立つ一画があります。「杉浦重剛旧宅」です。普段は閉められているようです。通りの向かい側のお宅にお願いすると見学に対応していただける旨が門柱に貼付されています。 敷地の奧に、こじんまりとした二階建の家があります。 建物の右側面に「杉浦重剛先生像」と基壇に銘板が嵌め込まれている胸像が建立されています。 背面を見ますと、「明治百年 大津市制七十周年記念」として、杉浦重剛顕彰会が建立されたものです。 門から入って、家屋の右側の庭域で、正面から一番奧に、昭和15年11月に建立された碑が立っています。そこには、漢文で略歴が記されています。 同様に、門を入って、すぐ斜め右前方に「杉浦重剛先生碑」があります。こちらは普通の文章で略歴が記されたもの。昭和45年(1970)2月13日に、「杉浦重剛先生遺徳顕彰会」が建立されています。碑文の末尾に、佐佐木信綱氏が詠まれた賛歌が記されています。 明治の御代大正の御代に残しましし 大き足跡は消えせじ永久に碑文と当日頂いた資料、後日調べて得た情報等を併せて、略歴をまとめてみます。杉浦重剛は、安政2年(1855)、この地・膳所に杉浦重文の次男として生まれ、明治3年(1870)16歳で膳所藩の進貢生として上京し大学南校に入学。21歳で文部省から派遣されてイギリスに留学して化学を学んだそうです。帰国後、東京大学予備門(後に一高)の校長を務め、英語学校を創設して青少年の教育に献身。大正3年(1914)から10年間東宮御学問所良子女王殿下御学問所の御用掛として倫理を進講されていたそうです。幼少の昭和天皇・秩父宮雍仁親王・高松宮宣仁親王の3兄弟に倫理学を進講されたことで有名。大正13年(1924)2月13日没。滿68歳没。杉浦重剛の門下から、横山大観、佐々木信綱、大町桂月、吉田茂、岩波茂雄らが輩出しました。杉浦重剛は、梅窓または天台道士と号したそうです。重剛の父は儒者で、膳所藩学教授だったようです。 (碑文、資料1,3,4)「合理精神を身につけた清廉潔白の教育者であった」(資料1)といいます。また、日本主義(国粋主義)的思想家とも言われます。(資料3,4) 家屋一階の室内を入口を入った土間から拝見できました。門を入った右側奧の庭の一隅に、お地蔵様が祀られています。 庭には、こんなおもしろい石灯籠が置かれています。「杉浦先生三十周年祭記念 昭和甲十二月」と刻され、「称好塾友會有志」と判読できそうな建立者グループ名が刻されています。最後にもう一つ、興味深く思ったのは、表門を入った左側の一隅に、「杉浦神社」と刻された石碑が置かれていることです。これは何? 調べてみた範囲では不詳・・・・。杉浦重剛旧宅の拝見を終え、同じ杉浦町に所在する「若宮八幡神社」に向かいます。途中で、道路から少し離れた場所にある茅葺屋根の建物が見えました。今回の探訪関係者の話では、この辺りで唯一残っている茅葺屋根の家だそうです。 通りが交わる角に、もう一つの石標「杉浦重剛先生誕生地」その近くにあるのがこちらの案内図。地図の「現在地」のあたりです。つづく参照資料1) 当日配布の探訪資料「大津石碑めぐり~膳所地区~」 永井郁夫氏作成 いいね!大津~夢・観光ワークショップ NPO法人 ライティング心と未来 共催2) ガス灯 :ウィキペディア3) 杉浦重剛 :ウィキペディア4) 杉浦重剛 :「コトバンク」補遺ガス業界の歴史 :「電力ガス」第4編 ガス事業 (大津瓦斯株式会社) pdfファイル :「大津市」杉浦重剛と倫理 打越孝明氏 論文 pdfファイル昭和天皇と杉浦重剛 日本近代史雑感(1) :「JAPAN LEAGAL NEWS」宮中某重大事件 :「コトバンク」宮中某重大事件 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -2 若宮八幡・仁保宮・本多神社・黒田顕彰碑ほか へ探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -3 廬花浅水荘庭園(記恩禅寺)(1) へ探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -4 廬花浅水荘庭園(記恩禅寺)(2) へ探訪 滋賀・大津石碑めぐり~膳所地区~ -5 菅沼曲翠邸址、安昌寺(膳城烈士墳墓所)ほか へ
2017.03.06
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