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自己受容のできない人は、不幸な人。 悲しい自分、怒っている自分、イライラする自分、 誰かに意地悪をしている自分だから、 ありのままの自分を、素直に受け容れるわけにはいかない。 自分自身を受容できないから、 他者も受容することができない。 それ故、相手に対して心を閉ざし、 常に拒絶のサインを出し続けることになってしまう。そんな、自分の不幸を認めようとしない、不機嫌な人が、母親になったとき、DMC(ドメスティック・マインド・コントロール)が起こる。それは、家庭で行われるマインド・コントロールで、血縁者である母親が、そのことを自覚しないままに、自分の子どもをマインド・コントロールしてしまうこと。自分の不幸を認めない母親は、自分が幸福になる努力をしない。自分は既に幸福なのだから、努力する必要はないと考えている。自分の幸福のために努力することは、格好悪く、惨めなことだと思っている。そこで、自分を幸せにするために、子どもを使おうとする。子どもは生きるために、母親を何より優先させ、献身的に尽くそうとする。母親の不機嫌さや無視による恐怖におびえながら、母親の身体の一部として取り込まれていき、間違った世界観を持つに至ってしまう。 *** 本著では、「DMC」や「不幸な母親」という言葉が、繰り返し出てきます。『なぜ、母親は息子を「ダメ男」にしてしまうのか』というのが、この本のタイトルですが、ここでの「母親」は、「不幸な母親」のことです。一般的なお話を期待して購入し、読み進めたならば、途中で、「ちょっと違うかな……」という感覚にとらわれるでしょう。「誰にでも、こういう部分はある」と言えば、それまでですが、私自身は、かなり特殊なケースについて、極端で刺激的に、事を扱っているように思えました。さらに、同じことを、何度も何度も繰り返して述べていたり、 ナンバリングしながら例を挙げている部分が、ページをまたいで続いたりしていることに、多少うんざりしながら、最後まで読み切りました。
2007.04.22
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キムタク主演のドラマが、高視聴率を叩き出して無事終了。 それからしばらくして、古本屋さんに行ってみると、 新品同様の『華麗なる一族』が、上・中・下巻と三冊揃って並んでいました。 価格は、各315円也。 へ~っ、思ったより、随分安いんですねぇ……。 ま、私の場合、ドラマも随分いい加減に見てたから、 原作の方は、きちんと読んでみようかな、 ということで、三冊まとめて購入しました。読書を開始してみると、これがなかなかの強敵。上巻だけで、657ページもあるので、覚悟していたのですが、1ページを読み進めるのに、予想以上に時間がかかる。最近、1ページ当たりの行数が少ないものばっかり読んでたからなぁ……。お話の方はというと、ドラマとは違って、最初の方は、キムタクが演じた万俵鉄平がメインではなく、あくまでも、万俵大介を軸に展開していきます。都市銀行再編の動きの中、小が大を喰う合併へ向けて、大介が、様々な駆け引きを展開。子どもたちの婚姻を利用して築き上げた閨閥を最大限に利用して、日銀や政治家と深く関わりながら、一歩一歩行動を進めていく。彼の行動には、万俵財閥の領袖として、その地位を守り、さらに発展させていこうという、強い意志が感じられます。また、その姿勢こそが、息子の鉄平が進めようとしている、阪神特殊鋼の高炉建設に際して、融資を部分的にしか受け容れないという、冷たい対応となって表れるのです。上巻を読んでみて、私が、鉄平以上に気になったのは、銀平という存在。ドラマでは、どの程度に扱われていたのかは、知らないけれど、原作における彼の存在は、万俵家の歪みを、ストレートに表現する大役を担っている気がします。上巻では、阪神銀行の合併相手を、まだ決め切れていないものの、そのヒントは、大介が鉄平の言葉の中から獲得しました。まだまだ、先は長いですが、これより、中巻にチャレンジします。
2007.04.21
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『モラトリアム人間の時代』の小此木先生による 「ケータイ・インターネット」時代に生きる人間の精神分析。 本著序盤には、「インターネット、五つの魅力」や「あと1分シンドローム」等、 『インターネットの心理学』に見られた記述内容と一致するものが多くあります。 しかし、「人間とマシンとの1.5のかかわり」の記述あたりからは、 「さすが小此木先生!」と、感心させられる分析が続々登場してきます。 ***1対1の、人と人との関わり、これが「2.0」で表される二者関係。それに対し、「1.0」の人間と、半ば人間扱いされたり、擬人的な機能を備える「0.5」の物体マシンとの関わりが、「1.5」の関係。この「1.5」のかかわりは、人間よりも安定性と恒常性があり、自律感覚と全能感を満たしてくれ、さらに人間的な配慮がいらないもの。そして、「1.5」の世界に親しみすぎると、「2.0」の世界が億劫になる。これが「外的な引きこもり」に拍車をかける。そして、現代社会に多く見られるのが「内的な引きこもり」、ジゾイド人間。無名者として都会に暮らし、感情を隠し、自己主張をせず、人との関わりを避ける。これは、近づくほどに傷つけあう「山アラシのジレンマ」を避ける巧みな方法。さらに、誇大自己と現実の自分が一致せず、無気力・引きこもりになる者も。自己愛が破綻したとき、希望や目標を見失い、燃え尽きてしまう。彼らは、分に応じた自分のあり方をみつけ、等身大の自分を外の世界に見いだせない。それは、誇大自己にとらわれているため、周囲の人々を軽く思い、うまく人と関わりを持てず、周りは全部競争相手で、相手を頼るのは恥だと思っているから。また、モラトリアム人間社会は、働く者も働かない者も平等な社会。むしろ、モラトリアムを提供する人々の心理より、モラトリアムを提供されている側の心理が大変に尊重され、依存を「当然の権利」と見なすのが、タテマエとなっている社会。それが、モラトリアムを居心地のよいものにしてしまい、終わりのないモラトリアムへと、その質を変えてしまった。このような社会に拍車をかけたのは、消費者優位心理。商品をつくる人より、商品を買う人の方が、はるかに心理的に優位な社会。消費するお金は、どこからどんな方法で手に入れても、消費する力になりさえすればよいという社会。 ***この後も、「スーパーウーマン挫折症候群」「父親なき自己愛家族」と興味深い分析が続きます。特に、家族の分析は、「なるほど!」と納得せざるを得ないものです。さて、全体を通じて感じたのは、私が最近読んだ書物の内容と関連する部分が、あまりにも多いこと。『オレ様化する子どもたち』や『下流志向』は、本著を踏まえて書かれたのではないかと思えるほど、共通点が多い。また、現在、読みかけている『なぜ、母親は息子を「ダメ男」にしてしまうのか』も本著の「父親なき自己愛家族」と共通する部分があるような気がします。「ケータイ・インターネット」について知るために購入した本著ですが、その扱っている内容は、現代社会そのもので、そこに記されている内容は、小此木先生の偉大さ再確認させてくれるものでした。
2007.04.15
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ちょっと前に購入して、読みかけたのですが、 しばらくの間、それを中断していました。 なぜなら、第一章を読み終えたところで、 「この本は、先に『オレ様化する子どもたち』を読んで、 それから読んだ方が良いのでは?」と思い立ち、 早速当該書物を購入して、そちらを読み始めたからです。 そして、それを読み終えた後、 再度、本著を巻頭から読み始めました。 第一章に書かれていることの多くは、やはり、『オレ様化する子どもたち』をベースにしたもので、「消費主体」や「等価交換」がキーワードになっています。第二章では、学校システムの変容とリスク社会について考察しています。ここでは、「リスクヘッジ」がキーワードです。また、子どもたちが、「学びの放棄」・「学びからの逃走」によって自己有能感や達成感を得ているという現実が、学力低下を促進しており、これらは、教育技術やカリキュラムの改訂といったテクニカルなレベルでは、到底解決できない問題だとしています。第三章は、「労働からの逃走」についての考察。これは、「学びからの逃走」と根を同じくするもの。ニートは、「子どもにもわかる価値」を、労働との等価交換で手に入れられる確証が与えられた場合にのみ労働することを受け容れ、確証が与えられなければ受け容れない。これは、学びの場合と同じだと、著者は述べています。第四章は、講演における質疑応答の場の再現。著者と聴衆とのやりとりは、第三章までの記述以上に面白かった。中でも興味深かったのは、『二十四の瞳』を例に挙げての質疑応答部分。アナキン・スカイウォーカーや金八先生の話題にもふれながら、教師の能力とは何なのかを考えさせられました。 本著全体を通じて、強く感じたのは、教育を「苦役と成果」「貨幣と商品」「投資と回収」というビジネスモデルで捕らえようとする風潮の危うさ。今一度、「教育」の本質とは何かを、再考する必要がありそうだと感じました。
2007.04.15
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『すばる文学賞作家が描く、究極の恋愛小説』 と帯に書いてある。そして、 『うずくまって泣きました。。。』とも。 そして、この作品を読み終えた今、 「こういう作品を、究極の恋愛小説というのか」と、認識を新たにし、 「こういう作品を読んだとき、うずくまって泣かなくてはいけないのか」と、 自分の読書に対する態度を見直すことになりました。 帯に書いてある情報って、とっても大切ですね……。さて、肝心のお話の方はと言うと、こんな感じです。実の母は、三歳の時に入水自殺。そして、以後、母に代わり何かと面倒を見てくれた四歳上の実の姉が、意図的ではなかったものの、実の父の暴力によって殺されてしまう。一人、この世に取り残されたという感情を抱いたまま、主人公は、「生きる」ことに意義を見いだせず、「苦しまずに死ぬ方法」を手に入れるための手段として、医師になった。そこへ、かつての恋人が、末期癌患者として現れる。 婚約中の上司ですらまだ知らない、主人公の中に秘められた「死」への感情を知っている数少ない人物。そんな彼が、「苦しまずに死ぬ方法」を求めてきた……。現在と過去を、さかんに行き来しながら、ストーリーは進んでいきます。途中、場面転換に戸惑う箇所がいくつかあったものの、過去のもやっとした光景や事実が、次第に鮮明になっていく構成は、とっても素晴らしい!まるで、映画を見ているような感じ。そして、エンディングも私好みのもので、読後感は、とっても良かったです。
2007.04.15
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初めて手にした姫野さんの著作。 学校を舞台とする「恋愛小説」という予備知識で読み始めたものの、 途中で、これは自分の考えていたものとは、 かなり毛色が違う作品だと気付きました。 こういった類の作品を手にする機会がほとんどなかった私には、 あちこちに散りばめられた、かなり刺激的なシーンに 驚きと戸惑いの連続でした。 でも、これが「恋愛小説」というものなのでしょう。それが、学校を舞台としたものであり、若い男性教師と女子中学生とのお話だから、余計に戸惑いを感じたのかも知れません。昔、『高校教師』というドラマ(真田さんと桜井さんが演じた方です)を見て、「学校という場でも、こういうお話は有りなのか……」と若い男性教師と女子高生とのお話を見て思いましたが、それが、進化(?)して、舞台が中学校になってしまったのが、『ツ、イ、ラ、ク』 。まあ、これは小説の中のお話、と言えばそれまでですが、リアルな世界でも、ひょっとしたら、十数年の時代を経て、女子生徒の置かれている環境や意識・行動に、これぐらいの低年齢化が進んでしまっているのかな?『ツ、イ、ラ、ク』は、主人公である森本隼子の小学2年生から30代半ばまでという、人生において、肉体的にも精神的にも、変化の激しい時期を描いています。そして、学校を舞台にしたためか、登場するキャラクターも結構多い。にもかかわらず、お話は文庫本一冊のボリュームに、おさまっている。そのため、キャラクターの一人一人を、丁寧に描いていくというわけには、当然のことながらいきません。結果、「これって、どんなキャラだったっけ?」と、ページを遡って確認するという作業が、あちこちで必要でした……。これって、私だけ? ところで、「恋愛小説」といえば、私がイメージするのは、渡辺淳一さん(間違っている?)。渡辺さんの作品も、まだ読んだことがないので、そのうち『愛の流刑地』でも、読んでみようかなと思っています。映画もドラマも、いずれも見る機会を逸してしまったので……。『ツ、イ、ラ、ク』よりも、さらに刺激が強いのかな?
2007.04.08
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かつて、小・中学校で同じ時間を過ごした男女のカップルは、 恩師の告別式を機に、それぞれの場所で、それぞれの再会を果たし、 再び、同じ時を過ごす。 駅のホームで、そしてベッドの中で……。 隼子は三ツ矢に、長中の卒業アルバムを捨ててしまったと告げる。 嘘をついているのに耐えられなくなったから、と。 「すみませんでした」と改札ゲート越しに謝る隼子に、 「そら、あのときやったら嘘つくのがあたりまえや」と三ツ矢。 そして、「ありがとう」と隼子。卒業アルバムを捨てても隼子の頭の中のCPUから削除されることの無かった名前、それが、河村礼二郎。教員採用試験合格を捨て、長中を去った男。そんな彼に、現在勤める職場で再会することになるとは……。ストーリーの所々で、途中に挿入される、中学3年生時代から現在に至るまでの隼子のエピソードは、それぞれを、もっと丁寧に描いたならば、それぞれに、十分読み応えがある物語に仕上がりそうなもの。それぞれの時代の隼子を、もっと知りたくなった。
2007.04.07
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