85歳の義姉は油絵を県展で入選するような腕であるが
油は展覧会というと絵も大きくなるので、運び込むのも(高齢には)大変場所はとるし、画室がいるし、絵の具などの道具も揃え、お金も掛かる
いろいろ考えた末、手帖と筆記用具さえあればいい「俳句」もやると宣言して油絵もそちらの方も、続いているからたいしたものだ
「これならば寝たきりになったとしても、楽しみがあるってもの」「あなたもどうか?」
と言われているが、詩心のないわたしは戸惑うばかりそこでなにほどか「俳句」がわかるかしらんと
木宮高彦『小説 与謝蕪村』(1985年刊)
を読んだ、ちょっと目を啓かされた感じではある
そういえば 藤沢周平『一茶』
や 吉村昭『海も暮れきる』
も俳人が主人公だった
読後感はわかったようなわからないような
一茶、晩年の物欲執着や尾崎放哉の磊落な行動に
むしろ人物像に興味がいってたような気がする
「俳句」というものななんじゃろとはならなかった
まあ、
日本人ならだれでも17文字ぐらい
ひねり出したり、ぱっと浮かんだりの経験がある
わたしだってあるが、それはご愛嬌ってもんだよね
さてこの本『小説 与謝蕪村』、なかなかのものである
生い立ちが最初に述べられているのはまあ当然だ
いろいろあって蕪村、江戸に出た
若い蕪村は俳句に興味を持ち、師匠を探す
目当ての師匠のところに行き、入門を願う
さて、そこの書生に質問する
「俳諧とは、いったいどういうものですか」
「俳諧を学ぼうとするものが、そんなことも知らんのか」といわれてしまったが、ま、書生さん教え諭してくれる親切で
「俳諧連句の略称じゃよ。ふたりで一首の和歌を詠むことだ。
これを三十六句続ければ歌仙、百句を綴れば百韻となる。
それくらいのことは覚えとけ」
「俳諧はいつ頃はじめられたのですか」
荒木田守武というかたがいてな、俳諧の鼻祖と呼ばれておる。...」
と蕪村が質問したようにして話が進められていくのである
その俳諧世界には流派が沢山できて、師匠(業俳)と言われる人たちは
勢力争いで喧嘩をするということがわかってくる
そして小説は終始俳諧の派閥争いになる
その中で蕪村の才能が発揮されていくのである
というと言い過ぎなんだが
とにかく何々派やら(談林派・貞徳派)何々座(江戸座)がめったやたらに登場するので
なにがなにやら、わたしは混乱して読むのであったが
つづく

よみがえり 2023年12月21日
こういうエンタメが好き 2023年12月19日
PR
カテゴリ
コメント新着
New!
ひよこ7444さんサイド自由欄
フリーページ
カレンダー
キーワードサーチ