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流儀の違うということはどういうことなのか良く分からないでいた私は、単に手前に茶碗を回すのか、向こうに回すのかそんな違いくらいにしか認識はありませんでした。ふたつの流派で私はしばらくカルチャーショックを受け続けるのです。そう、今も十分にカルチャーショックを受けながら、毎回お稽古をしています。具体的に言えば、茶筅の持ち方から違います。恐らくだいたいのところでは茶筅の上を持ち手の甲しか見えないと思いますが、うちの流儀は違います。茶せんの持つところを横から持ち、茶筅の竹の切り口が見えるように持ちます。理由は茶碗の中が見えやすいからというのがそれです。茶巾の畳み方が違います。真の畳み方といういうのが一般的でしょう。ところが千鳥茶巾が通常なのです。しかもお点前の中で畳み直すのですからびっくりです。前の流儀では貴人清次だったと思うがそのときには水屋で苦心しながら畳むのです。それをお点前の中で機用に畳むのです。畳み方が難しくて四苦八苦。畳み方といえば茶人にとって必須の袱紗。これも畳み方が違います。前の流派では単に畳んでとしか言われた覚えがないのですが、こちらの流派では”こき袱紗”と”畳み袱紗”とあります。こき袱紗は基本的に清めるときの畳み方。畳み袱紗は茶杓を清めるときの畳み方。これもまったくもって複雑怪奇な畳み方で覚えるまで時間がかかるものでした。それに茶碗の仕組み方が違います。茶巾をそう、もちろん千鳥茶巾の、を茶碗に仕組み茶筅を入れると、次がなんと茶杓を上に向けて置くのです。前の流儀ではお点前の最中でなければ上に向けない。であるからこれからお点前をしようという時にすでに上に向いているのは心にとても抵抗を感じるのです。それ以外にもお茶を出す畳の場所。前の流儀では一畳の畳の端の端。なんで真ん中でないの、と思っていたのに今の流儀は一畳の八分の一のところ。分かりやすく言えば炉の畳のど真ん中。以前の流儀ではどちらかというと水指を置くにもなんにしても、ど真ん中をさせるずらしをしますが、今の流儀はどちらかというとど真ん中が好きです。この微妙なずらしのあるなしは心の中に大きな負担を生むのでした。また明日へ。
2005年09月30日
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たまたま仕事柄いろんなお客様と知り合いになれます。そう、今の流儀の家元がうちのお客様でした。前の先生がなくなった際、先生のお友達など声をかけてくださって前の流儀で茶名をまさしく頂くばかりになっており、先生から書類を送っていただきお返事するばかりになっていたところだったので、そのお友達が、手をつくしてくださるから、うちに何度かいらっしゃいと言っても下さっていました。流儀をかえる前に先生が変わると、この場合のように仮に亡くなっても、仕事やほかの何かと違って簡単にそのまま引き継いではいただけないのがお稽古事の堅苦しいところ。このまま同じ流儀を続けるのが本来なのでしょうが、以前の流儀は組織が大きすぎ、また何となく先生を変えるにも通うのが大変だし、いろんなことが頭を駆け巡り、そのまま同じ流儀を続けるのに二の足を踏んでいました。そして、たまたま今の流儀の家元が彼の秘書さんを紹介してくださっていて、その秘書さんからも再三声をかけていただき、私も遠くの家元より近くの家元、と思い今の先生を紹介していただくことになったのでした。ここからがカルチャーショックの連続。それはまた明日。
2005年09月24日
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前の流儀を10年ほど。学生時代に生花を習いたくて入門した以前の先生は、旦那様が利休教にはまった人だとおっしゃるほど茶の湯命の方でした。高校生の時にすでにお茶を習っていた友人が、お茶っていうのは掛け軸を見て一言褒めなきゃいけないし、お茶を飲んでまた一言茶碗を褒めなきゃいけないし、すっごく大変、といっていたのを聞いて決して茶道なんてやらないわ、と思っていました。ところがなぜお茶のお稽古をすることになったのかさっぱり記憶はありませんが、生花だけを習っていたのに以前の先生は生花のお稽古とお茶のお稽古を一緒にしてしまう方でしたので、私が生花をしていて、お茶のお稽古中、生徒さんのお茶が点つと私もお抹茶を頂いていました。恐らくそんなことを何回か繰り返しているうちに、お点前の美しさに魅入られたのかも知れません。なぜなら元々生花も芸術的なことをしたくて習い始めたもの。高校の時の友人の解説の中には茶道にとても芸術的なものを感じることができるものがありませんでしたが、実際にお茶に触れてみて芸術的な動作というものがあると感じたのかもしれません。そしていつの間にか入門。いつしか学生だった私も就職、その後転職して今の会社で働き始め、シフトのきつさで家を出てもう少し会社に近い今の土地に移り住むと、月4回行っていたお稽古を月2回にし、最初習い始めた生花を辞め、それでもお茶のお稽古を続けていたのですが、それもきつくなってきたので先生にしばらくお休みを頂くことにしました。それまでが10年ほど。そしてある日仕事をしている私に生徒さんのひとりから電話がありました。私はすぐに直感しました。それは先生の他界を知らせる電話でした。毎年一月には初釜といって新春を祝うお茶会をします。今から思うと先生はひとりで全部を用意されていました。その年も例にもれずひとり初釜の用意をされ、お茶会用の器はもちろんのこと、灰も炭も懐石料理も全部され、さあ一息つこうとお風呂に入られたそうです。そしてそのまま天に召されました。まったく先生らしい茶の湯だと思います。利休さんとあちらの世界で面会されているのかもしれません。私はこの先生のお茶のお点前も茶花、いけばな、ともに好きでした。もう、お点前を拝見することもお花を拝見することも叶わないのは残念でなりません。先生のご冥福をお祈りいたします。その後今の流儀に替えたのはまた明日。
2005年09月23日
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茶名を頂いて初のお稽古日でした。初めての2種点てというものをしました。これはお濃茶を2種類ひとつのお点前の中で行うのもですが、お濃茶を2服いただくのですから贅沢や濃すぎるのやらといった感じです。これの意味合いは亭主が用意しておいたお濃茶に、たいがいはお客様が手土産に持ってこられたお濃茶をせっかくだからとお出しするものです。今日は先日の茶名授与に対しての先生へのお礼を兼ねて、私がお濃茶を持っていったものをお出しするということで、それもあって2種点てをしたのでした。そうそう、最近なんだか自分のお点前が気に入りません。今日思ったのは前の流儀はひとつの動作ごとに、ひと呼吸ひと呼吸置くのですが、今の流儀はどちらかというとその呼吸を置かない点前なのです。さぁっと流れるようにするのがお点前。私にはどうもまだその呼吸がつかめないのだと思います。そして、また出てしまいました。以前の流儀の手が。袱紗は今の流儀では右につけるのですが、つい無意識に左につけてしまいました。扇子がじゃまだな、と思った瞬間に先生に右、右と注意を受けたのです。そして2種目の抹茶は平棗の真塗りに入れるのですが、その持ち方も違う。平棗というのは直径が大きいので以前の流儀では横を持つように教えられました。しかし、今の流儀では三日月位の位置で持つように言われます。はあ、またしても物事の考えの捉え方が違うのです。そう、流儀を替えるというのは実に大変なことなのです。ましてや私は10年も以前の流儀に身を置いていたので、最初はもっと悩ましい時間を過ごしていました。またそれは明日に。
2005年09月22日
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一度目の和子先生のお宅訪問は更に先生との距離を縮め、次は茶入れを頂きに行くことを約束してまずは終了でした。さて、二度目の訪問は4月も末になり、春も増してきて先生のお宅の庭には山野草がたくさん芽を出していました。お昼の用意ができるまで庭を散策してきなさいと言われ、山の中の春を身体いっぱいに吸収しながら時間を過ごしていました。山は銀色に光り、淡く桃色のつつじたちは柔らかな色を山肌に咲かせていました。コシアブラの天ぷらを初めて食した私でしたが、前回とは違う座敷で先生と二人、一献傾けながらお昼といただきました。先生が漆器も好きなのよ、と言いながら使ってくださった、その昔大名が使ったものか花見の際に使ったであろう銚子も入れられる漆塗りのお弁当箱から、お手製の野菜炒めや竹の子の煮物、その他漬物などを取り出し、奥からはお嬢様が揚げてくれた天ぷらを熱いうちに頂くのでした。この中にお庭に自生しているコシアブラがあり、なんともおいしいのでした。そう、これが一客一亭の初めての経験でした。それはそれは正式なお茶事とは異なり、先生の心のこもったおもてなしでした。もちろん食事の前にも後にもお薄を一服、先生の作品で頂くのは感無量です。大らかなお茶事でした。今、先生は体調を崩されていると聞いているので早く良くなられるのを心待ちにしています。
2005年09月21日
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出てきたお茶碗は小ぶりな鼠色の少し変形していて金繕いがされている茶碗でした。鼠色と抹茶の緑の色がうまくマッチしてそれはそれはおいしそうなひと碗でした。そう、これが宗匠をしてほれ込ませた唐津の茶碗でした。繊細なニュウの繕いと幅のある金繕いは青海波の模様。素敵な素敵なひと碗です。確信を持ってその茶碗がいつか私の元に来ると思っています。別に何の根拠もありません。ただ確信だけが私の心にあるのです。思うのは勝手ですからこの際、確信を持ってその時を待ちましょう。お話をお聞きしただけでなくそれをこの目で見、この手でお茶をいただけるのです。これがまた茶の湯の楽しみです。さて、水指と茶入れを頂いて帰ろうかと思ったところ、茶入れの例の先生がプレゼントしてくださるとおっしゃったものが出来上がっておらず、再度また先生の所にお邪魔することになりました。それはまた明日。
2005年09月20日
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今年の4月1日、とんとんと話がすすんで和子先生のお宅にお邪魔し、購入をした水指と茶入れをとりにいくことになりました。しかし、今思えば住所だけでたどり着いたそのお宅は非常に難しい場所でした。マニュアルナビ(って地図のことですが)があれば住所だけでたどり着くと思ったのですが、、地図に表記されていない山の中なのです。途中、電話を入れると○○という工場の左にアイアンの門があり、砂利道になると思うけれどそこからがうちの敷地よ、と言われました。確かにアイアンの門に砂利道がありました。が、とても人家があるような風情ではありません。行くしかありませんので車を進めると、出てきました。貯水池とお家が。夏にはこの貯水池で舟を浮かべて蛍を楽しむのだとか。なんて風情のあることでしょうか。さて、到着した先生のお宅で色々なものを拝見させていただきました。その中には前回お話していた中で宗旦(千利休の戸籍上の孫)の自作茶杓があるとお聞きしていたその茶杓。それはそれはなんて長いのかと思うほど、いつも使う茶杓の1.5倍あるのではないかと思うほどの長さがありました。和子先生いわく自作の茶杓であるから宗旦は手が長かったのよ、と。そしてお昼も先生の手作りで頂戴し、使われる器は先生の作品。残念なのは黄瀬戸の卵型の器ですが、ご飯を入れる部分とその上に漬物でも入れる皿の部分それをセットすると蓋をかぶせる、すると卵型になるのです。それは手間がかかるから自宅使いしか作らないの、と先制されあえなくオーダーできずでした。そしてなん服かお茶も頂き、そして現れたお茶碗が果たしてなんだったのでしょうか。それはまた明日。
2005年09月19日
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和子先生と意気投合したというのか、気に入っていただけたというのか個展の会場となったところの併設されている喫茶店でケーキセットをおごっていただき、色々とお話を伺っていた。その中で一番印象深い話のひとつは、唐津茶碗のお話でした。今のうちのお家元のお父様、宗匠を先生はまるでジャニーズに恋する女性のごとく恋し敬愛されています。その宗匠が先生のご自宅にいらした折、和子先生がお茶を振舞ったのがこの唐津茶碗でした。”いいなぁ、和子。この茶碗いいなぁ。”と何度もねだるように先生に宗匠はおっしゃったとの事。それでも先生はそうですか、とそっけなく受け答えし、決して進呈することはなかったということもご自慢でした。そう、これが私は粋に感じるくだりなのです。ここで”そうでしょうとも、どうぞどうぞ。”ではそれっきりこの茶碗は活躍の場をなくしてしまいます。それでも尚、未だに先生のお宅にそのお茶碗はあります。いつかまた宗匠はこの唐津と最高の再会を果たす日が来るかもしれません。それを互いに心の奥底で記憶して、果たしてその時がやってきた時には感動が倍増するのです。そんなやり取りを楽しむことのできる文化でもある、この茶の湯の粋さに私は喜びを感じます。和子先生のその唐津茶碗の形状の説明は次の通りでした。金継ぎがしてあるのだけれど、ちょっとした蒔絵があってね、ニュウのところは繊細に細~く金が蒔いてあるの。それはそれは素敵なんだけどね、と。私は充分過ぎるほどこの個展で時間を費やしていました。ついでに実家に帰ることを考えていたので、少々あせりながらこの場を去ることにしました。そして2つ作品を購入したので籤を2回引いて、と言われ2つ引くと、なんと2つとも当たり。籤運のからっきしない私が2つも当てるとはびっくり。ひとつは自分で作陶できるようにと粘土。もうひとつは販売するには難しいが、といった先生の作品を好きなものどれでも選んでよいとの事でした。弥七田織部の蓋つき扇形菓子器を頂くことにしました。さて、作品は桐箱を作っていただき送っていただくのですが、話は急展開して急遽、次の月ににでも先生のご自宅まで伺いいただきに行くことになったのでした。ではその続きはまた明日。
2005年09月18日
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どんどんお話をしているうちに先生は今、手を患い作陶が難しい状況にあるといわれるではありませんか。それではこれから先、先生の作品が入手困難になる可能性も十分にあります。かつて、志野焼や織部焼など良いものよりも廉価なものが巷にあふれすぎて、本当に良い焼き物に出会っていなかった私は正直好きではありませんでした。しかし、和子先生に出会い、お話をお聞きしているうちとても好きになったことは元より、つい目は外に向きがちですが、地のものをなぜに大切にしないのかという熱い情熱に私も大きく感化されるのでした。この個展のパンフレットの写真に朝鮮唐津の花入れがありました。それは細長いものでしたが、それに似た水指が欲しいと思っていた私はついにイメージに近い物を発見。いくら先生が若い人に買ってもらいやすいようにとデパートで売る値段の半額にしてくださっているとはいえ、私の収入では見合わないほどのお値段。それを棚上げにして探した一品が、織部の薄器でした。この薄器でも正直難しかったのですが、先生がもしこれをあなたが買うなら私は仕服をプレゼントするわ、となんとも光栄なお話が。そして、朝鮮唐津の水指も今後がないかもと思えば少しがんばっても手に入れるべきか、と思い悩んでいると、先生に一声かけられ、ええい、ままよとばかりにそのどちらも購入することにしました。明日へ
2005年09月17日
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昨日の項目の和子先生との出会いについて今日は触れてみようと思います。まず、和子先生との出会いはちょっと引いてしまいました。というのもうちのお茶の先生のところでお稽古に使った鼠志野のお茶碗がとても素敵で、たまたまそのお茶碗を知った直後に和子先生が個展をされるとお聞きして、出かけていったその個展でのことでした。個展会場となったその場所の入り口で、着物を着た女性が田舎のおじちゃんおばちゃん相手に何か棘のある物言いをされているのです。設定上その着物の女性がきっと和子先生です。正直、こんな怖い方なのかとびっくりしてこのまま帰ってしまえと思ったくらいでしたが、わざわざ車でしかも高速道路を使って1時間以上かけてたどり着いた場所でしたから、作品を見てだけ帰ろうと思ったのでした。そしてしばらくすると田舎のおじちゃんおばちゃんは退散し、時間が早かったこともあってその会場には私と和子先生らしき方しかいなくなりました。私は意を決してご挨拶だけはすべしと念じ、”和子先生ですか?”と声をかけてみました。するとまさしく和子先生で先ほどの勢いとは打って変わって穏やかな表情を見せてくださいました。少し立ち話をしているとなんだか私を気に入ってくださった様子で、ちょうどお茶を飲みたかったから一緒に付き合ってとおっしゃいながら、私を近くのいすに座らせ、先生自らがお抹茶を立てて持ってきてくださるではありませんか。実は私のそのときの井出達といったら、デニムの少し洒落を利かしたパンツにヒールの高いブーツ。お茶道具を拝見するには少々不釣合いな格好です。ましてや先ほどのおじちゃんおばちゃんに凄んでいた先生の前で急に小さくなる私でした。それでも先生は熱心に私にお茶についてのお話をしてくださり、なぜにこのようないでたちの私にもお話をされるかというと、私はてっきりお茶の先生をされているようなご年配を相手に作品を販売され、私なんて若造は相手にされないと思っていたのですが、先生としてはその逆だったのでした。先生の言葉を借りて説明すれば、若い人たちにこの文化を大切にしていってもらいたい、それを受け継いでいって欲しいと願っているし、こんなに若いのに(って茶の湯の世界では私も立派にひよっ子もひよっ子ですから)興味を持ってくれてうれしいとの事でした。続きはまた明日へ
2005年09月16日
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この言葉を知ったのはうちの家元が和楽という月刊誌にこれをテーマに連載されていたことでした。それは一般的にお茶会というと大寄せといってたくさんの人が集まっての大茶会から、本格的なお茶事だとせいぜい4~5名位が一同に介して行うもの。この一客一亭というと一人のお客様にだけ亭主がお茶をもてなすというもの。とても贅沢なものです。さて月刊誌でこのことばを見てからのこと。今年の一月にうちの先生のところで使わせていただいた鼠志野の茶碗に魅せられて、和子(わこ)先生という女性の陶芸作家さんとの出会いがありました。またこの出会いの詳しいことは後にするとして、この和子先生のお宅にお邪魔する機会を得ました。心づくしのお食事をしながら和子先生が言われた言葉が”一客一亭”でした。そうおもてなしを受けながら気づかなかったのですが、私は和子先生から一客一亭のお茶事を受けていたのでした。私の中でお茶事というと寄付きから始まり、手水で清め、にじり口から身をかがめながら茶室に入り・・・・という一連のルールに則って行われるものだけと思っていたからです。そして一客一亭のこの言葉を今日のタイトルに選んだ理由は、こんな贅沢なおもてなしを今年は2回も受けたからでした。一度目はもちろん和子先生から。そして二度目というのが先日の茶名を頂きに東京に行った際、茶の湯の世界では私の一番の憧れの久美子さんから。ランチを一緒にしましょうというお誘いを受けて、出かけた彼女の茶室。茶室のある敷地内に和食のレストランがありそこでランチをして、お茶を一服といわれ出かけたのが三畳半の小間での一服でした。まさしく一客一亭のおもてなし。こちらは勉強不足で穴があったらどころか、穴を掘ってでも入りたいほど、お客としては不足の限りでしたが、茶名を頂いた記念にと彼女手作りの袱紗までお土産として頂戴しました。この2回の経験から決意したことは、年に3回は一客一亭を実践しようということです。茶の湯の修行としてはとっても気の張るものです。お呼びする方もそれなりの方をと思っているので、真剣勝負です。失礼があってはいけない、心づくしで挑まねばならないのです。前の2回は私がおもてなしを受ける側でしたが、おもてなしをする側に回っての実践を考えてます。その第一歩の準備として、今回の東京で一目ぼれした般若勘渓さんのとっても華奢なつくりをしたお釜です。今の家元のお父様である宗匠もこれをご覧になってお気に召してらしたとの事。私の目に狂いはないと自信を持ってしまいした。そしていよいよ灰も育てていこうと決意。茶人にとって灰は何にもかえがたく大切なもの。ほかの茶道具はなくなれば買ったらよいけれど、灰は茶人の歩んだ道のりそのもの。時間をかけて作っていくものだから、ほかの道具は置いていっても灰だけは担いで逃げる、なんてこともよく言われる話。残念ながら頭では理解するこの話も自分の灰を持っていないので、いまいちわかってはいないのです。一客一亭からは少し離れたけれど、茶の湯はひとつ始めるとどんどんと次のテーマへとつながるのでした。私の究極の茶の湯は一客一亭だと考えます。そして私はそんなことがしたかったのだと、茶の湯がただのお稽古事と思っていたときにも憧れていた茶人の姿、心持ちです。
2005年09月15日
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まずは名刺を作成。ホテルの宴会でのオプションで茶の湯のデモンストレーションを企画。社内のお稽古の企画。海外へのデモンストレーションを企画。一客一亭の企画。正式な茶事の企画。美濃焼(志野、織部、瀬戸黒、黄瀬戸など)研究とまとめ。ってところかな。
2005年09月14日
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2005年9月11日、念願の茶名を取得。どんな茶名をいただけるのかとっても楽しみにしていました。その名は宗磨。この漢字を見たとき、なぜか私は達磨の磨と思ったのです。なぜなのか今も分かりませんが、ほかの方が磨くと言う字ね、とおっしゃって初めて、ああ、磨くと言う字と理解したのです。さて、いよいよ茶人としての活動を開始していきましょう。
2005年09月13日
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