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よくある。御本尊に認められてるものですが、長いけど、折伏資料として、こちらに貼付けをいたします。 御法主日顕上人猊下お言葉 遠霑寺増改築落慶入仏法要の砌 昭和五十七年六月十一日 しからば、そのうえから拝しまして、人法一箇の御当体をはっきりと顕わされた御化導のうえの御本尊の御当体は、いつから存するかと申しますると、日寛上人が『観心本尊抄文段』に 「弘安元年已後、究竟の極説なり」(日寛上人文段集四五二ページ)と、明らかにお示しであります。故に、それ以前の御本尊は、本懐が未究竟であるとの意味が存するのであります。 例えば、この千葉県には妙本寺という宗門の寺があり、そこには古来より”万年救護の御本尊”と称せられている御本尊が格護されております。もっとも「万年救護」という文字は、御本尊の中には認められておりませんが、上行菩薩が世に出現して、始めてこの御本尊を弘通するという意味の、非常に重大なことが、その讃文に認められております。(※「後五百歳の時上行菩薩世に出現して始めて之を弘宣す」)即ち、大聖人の一期の御化導のうえにおいて、特に『立正安国論』その他に予言せられた他国侵逼難が文永十一年の十月に現実となって現われ、まことに仏様のお言葉は実にして虚からずという実証と併せて、その深い御境地をその万年救護の御本尊に上行菩薩出現という意義においてお示しあそばされておられるのであります。 しかしながらまだ、この御本尊は文永十一年に御顕示の御本尊なのであります。この御本尊の他にも、各宗・各山において蔵せられる大聖人の御真筆の御本尊が百数十幅ございますが、おしなべて弘安以前はまだ、人法一箇の御当体・御境地を現わしあそばされるうえにおいては、未究竟であらせられます。即ち、言うなれば釈尊の法華経に対する四十余年の経教の如く、完全に出現の目的を顕示されていないという意味をも含めての、未究竟の意味が存するのであります。 それに対して、弘安以降において本懐が究竟あそばされておるということを、日寛上人はある一つの理由で仰せになっております。それは何かと申しますと、建治および文永に御顕示の御本尊は「仏滅後二千二百二十余年」と認められております。万年救護の御本尊と称せられている御本尊も、文永十一年十二月の御本尊でありますから、同様に「二千二百二十余年」と認められております。しかしながら弘安元年以降の御本尊においては、半数程の御本尊に「二千二百三十余年」とお示しあそばされておるのでございます。 これは、大聖人が『寿量品』の深義を拝され、その『寿量品』から起算した場合に「三十余年」とお認めになられたと拝せられるのであります。弘安元年が仏滅後二千二百二十七年であると大聖人がお考えあそばされていたことは、大聖人の御書に示されるところからみて間違いありません。では、なぜ弘安元年以降の御本尊に「三十余年」とお示しであるかと申しますと、法華経二十八品は八箇年で説かれましたから、計算上、一年に三品半を説かれたということになります。そのように考えていきますと『寿量品』は釈尊御入滅の四年前に説かれたということがいえます。「二千二百二十七年」に四年をたせば「二千二百三十一年」となりますので、弘安元年以降に「三十余年」と認められた御本尊が存するのであるというのが、日寛上人のお示しあそばされるところであります。しかも、その『寿量品』を拝されたということは、取りも直さず、日蓮大聖人御自身の御境界が”寿量品の本仏である”という、人法一箇の御境界であらせられるのでございます。 そこでよく、日蓮宗の長谷川義一という人、あるいはその他色々な人がこの問題を取り上げ、日寛上人が「二千二百三十余年」の讃文が本懐の本尊だと言っておるように勘違いして、しかるに戒壇の本尊は「二千二百二十余年」だから、日寛は嘘を言っておる。というような悪口を言っておるのですが、そのようなことはないのであります。日寛上人は、「二千二百三十余年」と認められてある御本尊のみが真実・本懐の御本尊であるとは、どこにも書いておられないし、言っておられません。また、そういう意味ではないのです。色々な御書に、あるいは御本尊に「二千二百三十余年」とお示しあそばされたのは、いわゆる弘安元年以降において、その『寿量品』の御境界のうえから御本尊をお示しあそばされるという意味であって、一々の本尊の讃文の「二十余年」と「三十余年」の相違に軽重があるのではありません。いわゆる時期に約すべきことであり、弘安元年以降の本尊がすべて、一往において究竟せられた意義をもたせ給うのであります。したがって、その意義において「南無妙法蓮華経」の御下に「日蓮在判」と、宇宙法界の諸仏・菩薩ことごとくを具え給う根本の本仏として、南無妙法蓮華経の、御所持の御当体を明らかにお示しあそはされるのでこざいます。 そのほかにもこの点について重々の意義がありますが、これはあまりに大事の故に省略いたします。省略いたしますけれども、深い意義のうえから、いわゆる弘安元年という、”時”に約して、それ以降において大聖人が真実・本懐の、御本尊弘通のうえの究竟の御境界にお立ちあそばされたのであるということが、まず第一の、人法一箇の筋目よりの法門としての意義が存するのであります。
2011.03.24
東京都知事選挙に出馬を表明をした。その石原都知事ですが、こんな発言をしてました。 日刊ゲンダイ 3/15 14:54東京都の石原慎太郎知事は15日の記者会見で、東日本大震災に関し、「津波は天罰」と発言したことについて、前言を撤回した。「被災者の皆さま、都民、国民を深く傷つけた」と述べた上で、「深くお詫びします」と陳謝。石原知事は14日に「津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」などと発言していた。 こんな人を都知事にする必要はないでしょう。 立正安国論からして、こういう者が知事をしてるなら、東京都は乱れる。 何の根拠があっての発言であろうか?根拠もなく、天罰?根拠ない発言をすべきではない! 石原よ!天罰とする根拠をきちんと示すべきだ! 次の選挙に出馬するようだが?? 選挙に出るならば、発言には注意すべきであろう。 東京都の皆様、知名度だけで投票すべきではない。 今の知事は、東京都の恥であり日本の恥と言える。今、東北地方がどういう状況か?きちんと見る事ができない政治家は、政治家失格と言えるであろう。石原慎太郎氏は、落選させるべきだ。政治家失格である。
2011.03.15
今日、散乱していたものを片付けて、やっと水道が復旧したので、よかったです。 まだまだ、油断できない状況ではあります。 昨日は、友人や法華講の方々に直ぐにメールをし、マイミクの方々や他のSNSの友人から、安否について、メールや伝言、そして掲示板と、心配してくださり、ありがとうございます。 仲間、同士が本当に大切なんだと実感いたしました。 今朝、私に電話してきた方々にも感謝いたしまし。 実家の両親も、チワワのチビも無事でしたので、安心をしております。 こういう時は、慌てない。冷静になる事ですね。
2011.03.12
私は、何とか無事でした。 地震で亡くなった方々には、心より御冥福をお祈りいたします。 茨城県に住んでいて、こんな地震は、初めてです。 今週は、私はいろいろありまして、大変でしたが、何はともあれ御守護されていると感じております。 今週初めに、車が事故に遭い大変な事になりまして~(泣) 今週いっぱいだけ、休みを貰いました。 その中で、このような地震になりビックリしております。 道路が陥没している場所もあり、電柱が傾いた場所もあります。停電で信号は、ストップで道路は渋滞でした。 今の代車、今週は事故が多いらしく、試乗車のエックストレイルを借りております。 陥没している場所もありますので、地震のときたまたま、出かけてまして、帰るに帰れない状況でしたが、何とかゆっくり帰ってきました。エックストレイルは、四輪駆動に切替て、運転しました。事故に遭ったので、運転が怖いですが、何とか無事に帰ったら、部屋がまた大変な惨事になってました。 まず、心配したのは御本尊様です。厨子が仰向けになってまして、本は散らかり、蝋燭立ては壊れ、香炉は散乱し、線香コレクションの中でしきみ香が、バラバラになり、過去帖が本の下敷きでした。 一応、地震対策はしてましたが、地震対策をしていたために、厨子が仰向けになった。してないなら、御本尊様破れて不敬をしていたでしょう。 夕勤行を部屋で出来る状況でなかったので、車の中でしました。 電気が止まり、ガスは使えても、水が出ない。 9時には、電気が復旧して、とりあえず厨子周りを片付けました。 CDラックにあったCDは、散乱して大切なオーディオは、スピーカーが傷ついた(泣) 何はともあれ、今週は事故で死ぬかと思いましたし、地震では怪我なく無事でいた。よかったと感じます。 大変ですが、大変とは大きく変わると書きます。私自身もいろんな面で大きく変わるでしょう。
2011.03.12
雑談として見てください。よく、アンチらは学会や顕正会がおかしいのは、日蓮正宗が悪いからだ!とよく言います。Yahoo!ブログで、湘南某がグダグダ言っておりました。では、一つ例えを出したいと思います。自動車教習所を例えます。自動車教習所で、仮免許が受かり、本試験でやっと自動車運転免許がもらえます。運転をして、信号無視して事故をしたとします。では?卒業した自動車教習所の指導が悪いから、事故をしたのでしょうか?信号無視したのは、運転していた本人であり、試験に合格をしていたわけです。もう一つ、例えを出しましょう。ニュースで、ネットによるカンニングがありましたが、受験シーズンなので、予備校を例えます。よく、~大学に99%の合格率!とか言う宣伝をしてる予備校はたくさんあります。では?その予備校に入ったからと、勉強もしない。講義すら聞かない。なら、合格するでしょうか?その予備校に入ったからと言えども、きちんと講義を理解し、自ら進んで勉強しなければ、難しい試験に合格は、到底不可能でしょう。予備校に入った。勉強しませんでした。大学入試に落ちました。予備校が悪いのでしょうか?では、創価学会と顕正会。かつて、これら団体は日蓮正宗の一信徒団体でした。だが、日蓮正宗の指導に従わず勝手な事を繰り返してましたから、破門されました。学会も顕正会も、指導に従った人もいれば、指導に従わなかった人もいるわけです。従わなかった人がほとんどです。それで、果して?日蓮正宗が完全に悪いと言えるのでしょうか?アンチは、指導が悪い!とか?おかしいのは、根本だ!と、屁理屈を言います。なら、自動車事故で事故をおこしました。悪いのは?教習所ですか?勉強をしませんでした。大学入試に落ちました。悪いのは、予備校ですか?同じ自動車教習所を卒業し試験に合格し、一度も違反せず、ゴールド免許の人もいます。また、違反をして事故をする人もいます。同じ予備校で、同じ大学に受かる人、落ちる人います。個人差あるだろうが、そういう事もありますね?日蓮正宗の信仰に従って、幸せになれた人。学会や顕正会みたいになる人もいます。果して、日蓮正宗が完全に悪いとなりますかな?もし、日蓮正宗が悪い!と言うならば、先に例えで出した。教習所なんか全国の教習所の全てが悪いのでしょうか?いろんな交通事故が毎日ありますが?事故した。なら、卒業した教習所の指導が完全に悪いからでしょうか?私が出した例えと、日蓮正宗。どう違うのでしょうか?日蓮正宗が悪いんだ~!とか?功徳がないからだ~!湘南某は言ってますが?日蓮大聖人様の御書には、自分自身の信仰だと言われている。御金言があります。湘南某さんはまさか?それをきちんと調べたのでしょうか?あえて、出しません。日蓮大聖人様は、悪い事ばかりがあるから、仏法が悪い。日蓮が悪いだと言うのは、おかしいと言われております。自分自身の信仰です。簡単に言うと、顕正会(妙信講)も創価学会も、日蓮大聖人を信じれないから、離れた。それだけです。功徳がないから?功徳とは、六根清浄ですから、キリスト教みたいに、祈れば変わるとか?ドラゴンボールみたいに、願い事が叶うとか?全く違うわけです。ただ、ナムナム言って願い事叶うなら、鎌倉時代に広宣流布されております。湘南某さんは、功徳を現世利益だという顕正会や学会の間違った考えを鵜呑みにし、実際は調べてないわけです。功徳は、六根清浄なりですから、私たちの身も心も清らかになるのが、本来の功徳です。学会や顕正会があるから、功徳がないから、戒壇の大御本尊は、ニセだとするのは、幼稚な考えです。湘南某さんは、きちんと調べるべきだというけど、日蓮正宗の事をきちんと、調べていけば学会や顕正会がいう事が、全く違うのは、明らかだし、ただ、否定する輩は揚げ足取りと、切り文のみを出して、書いてないとか?全く違うとか?そもそも、最初から結論を出しておいて、調べたらおかしいです。なんて、素人丸出しの、習いそこないの学者ごっこです。徹底的に調べるなら、日蓮正宗の歴史、日蓮正宗から出している全ての本や新聞を全て調べる事です。否定する輩は、結論は間違いだとか、ニセだとして、それに当て嵌まるのを言ってるだけで、調べたにならない。いくら、ネットで湘南某やhideやら、独歩氏が騒いだところで、真実は覆せる事は、不可能なのです。それでも、否定をするならば、日蓮正宗よりも素晴らしい宗教が存在し、その教えが日蓮正宗よりも絶対に優れていると証明するか?無宗教思想が正しいとするなら、無宗教思想が、必ず万民が救われていける思想だとする証明をきちんとすべきでしょう。また、揚げ足取りや否定を探すならば、いかに人々が幸せに暮らせるか?それをきちんと研究をして、その結論をきちんと出すべきでしょう。
2011.03.06
今、人気があるというか?最近何かと、話題になる。サンデル教授ですが、彼の哲学はわかりやすい。 以前にテレビで、今問題になっている。相撲の八百長問題、八百長はいけないか?いいことか? いろんな例えで、話しをしてました。親子の腕相撲で、親がわざと負ける事や、カンニングの例もありました。 何故?いいか?悪いか? 哲学は、深いと思いました。 では、サンデル教授的に考えてみようと思います。 相承について、日蓮正宗において、日蓮大聖人から日興上人へ日目上人と受け継がれて、現在第68世日如上人にまで、日蓮大聖人の仏法が受け継がれているとしてます。 身延の日蓮宗をはじめ、創価学会も顕正会も、正信会も否定してますね? 一人から一人への唯授一人の相承を否定してます。 では?次の例を出して考えてみましょう。 日本には、古くから伝わってきた。伝統が沢山あります。一人から一人へ、師から弟子へと受け継がれてきてます。 私は、茨城に住んでますので、茨城が誇る。伝統工芸で、結城紬を例えましょう。 結城紬は、代々紬の技術が、現在まで伝わってます。 これは、変でしょうか?間違った事が伝わっているでしょうか? 歌舞伎の世界を例えます。歌舞伎の世界でも、親子で芸が受け継がれてます。 これは、おかしい事でしょうか?間違っている事でしょうか? 世の中には、一人から一人に技術や芸を受け継ぐ形は沢山ありますね? では、仏法において、何故?否定するのでしょうか? 一人から一人へと受け継がれてきたなんて、信じられない! 技術や芸も、昔から受け継がれてきた事を否定するのでしょうか? その中には、各地が誇る伝統工芸は、沢山ありますね?先の結城紬もそうです。こけしにしても、何にしても受け継がれてきたわけです。一人から一人に、師から弟子に受け継がれております。 それを否定しますか? 仏法の唯授一人は、否定をする。中には、原本がないから!とか? 伝統工芸や、芸にもはっきりした受け継ぐ証明になる書はあるでしょうか?? 仏法は、一人から一人は否定をする。 伝統工芸や芸は、一人から一人は暫定する。 並べてみたしたか? どう違いますかね?一人から一人に受け継ぐ形は、おかしい!何故?おかしいでしょうか? 否定する皆さんが住む街や、出身地にある。伝統技術が、受け継がれてる。おかしいのでしょうか? 否定する人は、伝統工芸と仏法は違うと言うでしょう。だが、哲学的には受け継ぐという事に、変わりありません。 伝統工芸は、いいけど仏法は間違っている。何故?仏法は否定をし、伝統は否定はしないか? きちんと受け継がれてきたから、昔の技術がある。存在をしてます。 受け継がれてる事は、否定しますか?しませんか? ようは、受け継がれている事を信じるか?信じないか? 否定する方々は、根拠が全くないわけです。証拠ないから!!原本がないから!これは、幼稚な考えです。 日本だけでなく、世界には沢山、同じく受け継がれた。話しは沢山あります。 それらは、果たして受け継がれた証拠なんてあるか? 今回は、哲学的に相承を考えてみました。 哲学的というより、何が違いがあるか? 仏法の口伝と、技術や芸能の口伝は? 否定するならば、否定するなりに、根拠や例を出して欲しいですね? 仏法に関しては、哲学以上に深いです。
2011.03.01
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