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魔に魅了される。これは、仏道修行をすると必ず起こる事だと思います。 特に、昨日の日記にも書きましたが、名聞名利について、自分も経済的にスッゴクキツイ事があります。去年は携帯電話料金が、引き落としが出来ずに、貯金を崩して払ったりしました。何度も宝くじとか、利益になるような怪しい変な仕事に興味もったりしました。 日蓮大聖人様は、この名聞名利について 持妙法華問答抄(新編296頁)には、 「 只(ただ)須(すべから)く汝仏にならんと思はゞ、慢のはたほこ(幢)をたをし、忿(いか)りの杖をすてゝ偏(ひとえ)に一乗に帰すべし。名聞名利は今生(こんじょう)のかざり、我慢偏執(がまんへんしゅう)は後生のほだ(紲)しなり。嗚呼(ああ)、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし。」 同じく持妙法華問答抄(新編299頁)には、 「臨終已(すで)に今にありとは知りながら、我慢偏執名聞利養(がまんへんしゅうみょうもんりよう)に著(じゃく)して妙法を唱へ奉らざらん事は、志の程無下(むげ)にかひなし。」 新池御書(新編1461頁)には 「末代の衆生は法門を少分をこゝろえ、僧をあなづり、法をいるが(忽)せにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。今は仏ましまさず、解悟の智識を仏と敬ふべし、争でか徳分なからんや。後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何に賤(いや)しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし。是正しく経文なり。」 利益や名誉を求めずに、法華経を信じる事を言われています。 利益や名誉は、仏道修行の妨げとも言われております。 色んな魔の形があります。 前にも日記に書いた事ではありますが、三障四魔についてです。 修行をしていくと、ちょっとサボったり、寺院参詣をしなくなったり、また、仲間を疑ったり、いろいろ出てきます。 つくづく思うのでありますが、つねに魔と隣り合わせだという事です。 手塚治虫氏の漫画の「ブッタ」にもアナンダが、魔(マーラ)に魅了されていく姿が、ありますが、それを跳ね退く場面があります。 魔を魔だと見抜く、簡単なようで、難しいと思います。 私も、何度となく魔に魅了されたりしております。 怒り、憎しみ、苦しみ等で、魔に完全に魅了され、自分自身どうする事も出来ない事もありました。 私の場合、魔の葛藤がつねにあります。 不思議な事に、イライラしたりしたら、御本尊様の前に座る。御本尊様に呼ばれている。きちんと、内からの魔を取り払おうとしている。 私は、最近寝ても題目を心で唱えています。 日々、辛い事、悲しい事、怒り、憎しみ、喜び、沢山あります。 一つ一つを魔として見抜き、信心向上をしていきたいと思います。
2009.01.30
今週は、仕事の事でスッゴクイライラしてました(T-T) 思うように上手く仕事が進まない。想定外の事態でイライラします。 これは完全な魔が入ってると思います。 昨日ふっと自分に立ち返り、イライラしているのは、魔が入ってると思うと自然にイライラが無くなりました。 魔はいろいろありますね~今年は、特に魔による障害は沢山あると思います。 私の請願に魔を見抜くとあります。魔を見抜く事が、信心の向上だと思います。 魔にはいろんな形で顕れると何回も日記に書きました。フッと思ったのは、信仰者じゃなくとも魔の誘惑はあると思いました。 経済的につらい時って、お金持ちになりたい!って、考えてしまう。私なんかそうですね。 宝くじ当たればなぁ~とか、給料増えればなぁ~とか、考えてしまいますね~ 大聖人様は、欲望について沢山、指摘をしています。 「名聞名利は今生のかざり、我慢偏執は後生のほだしなり。嗚呼、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし」(持妙法華問答抄) 深い意味あります。 「名聞」とは自分の名声が広く世に聞こえてほしいと願う事。 「名利」とは、他より大きな利益を得ようと願う事。 これを我慢する事を大聖人様は、誉れとしています。 これは、恥ずかしい事、恐ろしい事とも言っています。 これは、世間でも言える事ではないでしょうか? あのIT会社の方、証券会社のあの方、有名音楽プロデューサのあの方まで、名声と利益を追いかける結果をみると、大聖人様の言われる事、もっともです。 歴史的にみても言える事です。戦争成金やバブルの時代もそうでした。 信心の妨げですし、何よりも欲が一番コワイ魔なのだと思います。 どんなに辛くとも、我慢をし、信心を基調にし、魔を見抜いていかないとならないと思います。 ちょっとしたイライラが、魔であり、信心を乱す行為になる。よく肝に命じたいと思います。
2009.01.29
総本山に登山参詣するときの気持ちは、本当に物見遊山の気持ちで行くものではなく、自分自身の過去世からの罪障消滅を願うとともに、未来広宣流布を願うことが大切です。家族揃って信心をされている方の中に、自分だけが登山すれば良いと思っている方もおりますが、家族全員揃って御登山し、本門戒壇の大御本尊様にお目通りすることが、一家和楽の信心に繋って行くのではないかと思います。 登山の功徳にしても登山する功徳も大きいですが、登山を人に勧めていく功徳も大きいのです。江戸時代、仙台法難の時に覚林日如御尊師は、「自分がいる流刑地の網地島に来るよりも、そのお金を使って登山しなさい」と、仙台の御信徒の方々に指導されていたことは有名なお話です。 いつも総本山へ登山致しますと感じることですが、三門から御影堂までの塔中の道を歩いておりますと、何故に真っ直ぐではないのかと感じておりますが、じつはそれには深い意味合いが込められていたのです。 私たち凡夫には迷いがつきものであり、大聖人様のいらっしゃる霊山浄土、すなわち成仏の境界には誰でもかんたんに、真っ直ぐには行けないのです。 あるメルマガからの転載です。 我々の登山は、修行であります。遊びに行くのとは違います。 人それぞれ、色んな思いがあると思います。 今年は、日蓮正宗では、立正安国論正義顕揚750年です。 50万総登山、7万5000総結集があります。 さて、去年は、決起大会が行われました。去年は、様々な妨害やいろいろな魔による障害があったようです。 今年は、更なる、魔による障害がある事でしょう。我々は、魔に負けない強い信心の元、結集しなければなりません。
2009.01.25
本門戒壇の大御本尊建立の機縁は、熱原三烈士の不退の信心が昇華して、御図顕されたと伝えられるのですが、その後も先に挙げた例のごとく、まさに命がけとも言うべき戒壇の大御本尊渇仰(かつごう)の歴史が刻まれてきています。それを受け継ぐ私たち日蓮正宗の僧俗は、総本山登山をいささかも疎(おろそ)かにかんがえてはならないと思います。これまで登山をしてこられた方には経験があると思いますが、登山を決心すると様々な魔が競い、決心を変えさせようとする力が往々にして働くものです。本人の浅い決意が原因の場合もあれば、家族や周囲の状況、職場などの都合で登山を断念しなくてはならない場合もあります。したがって、登山をするには、くれぐれも心を引き締めなくてはなりません。交通至便の現代は、家を出て、登山を終えて再び帰り着くまで、わずかな時間・日数を要するのみです。阿仏房の頃のように、数十日をかけるということはまずありませんが、しかし登山を決意したならば、その時から自分の登山参詣の仏道修行が始まったと考えるべきです。できれば年頭に今年の登山の予定をたて、歳のはじめの誓願として、御本尊の前に披露できれば最高です。日常の勤行・唱題でも、予定した登山が無事に叶えられるよう御祈念するのは勿論、いざ出発してから帰宅するまで、油断、隙(すき)のないよう特に注意を払うべきです。 こうして登山を果たしてこそ、阿仏房の精神に敵った真の登山となるのではないでしょうか。総本山登山は、私たちの大切な仏道修行であることを忘れてはならないのです。【罪障消滅を祈念する登山】 私たちが登山をしますと、総本山では御開扉を戴くのが最も重要な行事となっています。しかしこれまで御開扉は、誰でもが願って叶えられたのではなく、登山してきた篤信の信徒に対して、御法主上人の格別な御慈悲により、大御本尊の御内拝が許されたのです。世の中に謗法の人がまだ多く、広宣流布の途上である間は、本門戒壇の大御本尊は公開されません。それゆえお樒や華香水のお給仕もされずに、御宝蔵に厳護された形となっているのです。そこで登山者が特に願い出て、猊下の御慈悲を賜わり、大御本尊が納められている御宝蔵の扉を開いて大導師を戴く意味から、御開扉と言われているのです。ゆえに御開扉の手続きは、必ず所属寺院である末寺を経て、願い出るよう厳重になされるのは昔も今も変わりません。私たちは内拝が叶う身の福徳をかみしめ、心から大御本尊へ御報恩感謝申し上げるべきでしょう。奉安堂での御開扉は、読経唱題の最後に、御法上人猊下より大御本尊への御報恩謝徳と、参詣各位の無始以来謗法罪障消滅を始めとする御祈念をなされた旨のお言葉を賜わります。 様々な悩みをかかえて、登山参詣を決意される方もあるかと思いますが、私たち今生においてそれぞれに体験する悩みの、その主たる原因を突き詰めていけば、我々自身の過去遠々劫(おんのんごう)よりの謗法こそが最大の原因であることを知らなければなりません。それは大聖人様が御書の各処に仰せられていることで、例えば『呵責謗法滅罪抄』には、「日蓮は法華経の明鏡をもて自身に引き向かへたるに都(すべ)てくもりなし。過去の謗法の我が身にある事疑ひなし。此の罪を今生に消さずば未来に争(いか)でか地獄の苦をば免(まぬか)るべき」(新712)とあります。この御文は大聖人ご自身についての仰せのようですが、末法の我々一切衆生も、過去世よりの謗法の罪障が深重であることを指摘された御文なのです。つまり正法を誹謗したり、もしくは信じなかった人々が、この末法に生まれてきているのです。 すると私たちはどのようにして、罪障を消滅できるのかと言えば、「白烏(はくう)の恩をば黒烏(こくう)に報ずべし。聖僧の恩をば凡僧に報ずべし」(祈祷抄新630)と仰せのごとく、まだ三大秘法の仏法の尊さを知らない人々を折伏していくことによって、罪障消滅せしめるのであります。 総本山登山も、大御本尊の前で御法主上人より直々罪障消滅の御祈念をいただくのですが、私たちもまた新たなる折伏精進をお誓いして下山することが肝要です。登山の意義も、それぞれにおける信心の状態・体験の浅深・年数の違いで受け止め方も様々なでしょう。しかし、総本山の清浄なる空気、夕闇迫る宿坊の太鼓がひびく心地よさ、朝には小川の世せらぎの音とともに目覚めるような爽(さわ)やかさ、どれをとっても、参詣者すべての心を清らかに洗い流してくれます。そして丑寅の刻の客殿での勤行は、参ずる者をして、三世諸仏成道の儀式もかくやと思わせずにはおられません。「須弥山(しゅみせん)に近づく鳥は金色となるなり」(本尊供養御書新1054)との御金言を信じ、冒頭に挙げた三解脱が果たせるよう、それぞれに尊い登山を致しましょう。
2009.01.25
昨日の続きです。 本門戒壇の大御本尊を根本に信心することは、私たち正宗の信者にあっては熱原三烈士の頃以来、七百年来伝えられてきている信心の基本なのですが、他宗他門では、むしろ同じ信心に帰依すべきという信仰の筋目さえみられないことは驚くべきことです。日蓮門下を標榜(ひょうぼう)する身延門流でも、本尊が統一、一定されずに宗史を重ねてきたことは、江湖(こうこ)に知られた事実です。 御歴代上人が御開扉の折り、参詣信徒に対してなされてきた御説法が遺されていますが、そこには、「当山より授与する処の御本尊は一切衆生に残らず下し置かれたるこの御本尊(本門戒壇大御本尊)の御内証を、代々の看主(貫主)職、一器の水を一器に写すが如く、直授相伝の者を以ってこれを写し奉り、与えしめる事なれば、面々その持仏堂に向かっても、直ちにこの御本尊を拝し奉る事よと相意得(こころえ)て、受持信行し奉り、臨終の夕べまでもこの御本尊を忘れ奉らざる様致さるべきなり」(第五十五世日布上人開帳御法門)と仰せられています。すなわち、本宗における御本尊は、末寺の御本尊であれ、各信徒に下附される御本尊であれ、本門戒壇の大御本尊に刻まれた大聖人の御内証を、御歴代上人が直授相伝のお立場から御書写遊ばされるのです。ゆえに、各家庭の仏壇に向かって御本尊を拝するときでも、常に根本である本門戒壇の大御本尊を拝んでいるということを、臨終の夕べまでわすれてはならないという御指南です。 「御本尊はすべて同じである」「家庭で熱心に拝んでいれば、わざわざ登山をする必要はない」あるいは「登山は一生に一度でよい」という創価学会の指導が、いかに本宗の信心から外れた、外見に任せた考えであるか、知らなくてはなりません。「我が家に下附戴いた御本尊を騰(とう)して、戒壇の大御本尊を拝する」という姿勢こそ、本宗信行の正しいあり方なのであり、私たちは可能な限り登山参詣して、根源である本門戒壇の大御本尊を忘れない信心をしたいものです。 【仏道修行の根本である登山】 宗祖日蓮大聖人御在世中には、篤信の檀越が、佐渡へ、身延へと大聖人様へのお目通りを果たす旅をしたことが、御書の中にうかがわれます。なかには、一人の幼い女児を連れた女性が、戦乱で荒廃した世相の中をはるばる佐渡の大聖人のもとへお訪ね申し上げ、その信心を讃(たた)えられ「日妙聖人」と称えられたと御書にあります。身延御入山後には、佐渡の阿仏房が、九十歳という年齢をものともせず三度の登山参詣を果たしています。これら当時の檀越は、現前される仏様へ渇仰恋慕の思いを懐(いだ)いて、お目通りを願ったのです。信仰心にはこのような渇仰恋慕の真情があって然るべきで、もしその気持ちが薄かったり、これを否定するような人があれば、本当の信心とはどのようなものなのか、御書を通じてじっくり話し合うべきでしょう。身延におられる大聖人様が、遠く離れた佐渡の国府尼(こうあま)と呼ばれる方に出された御消息に、「もし大聖人を恋しく想うのであれば、日夜に姿を現す日や月に向かって拝みなさい。その中に自分はいつも貌(すがた)を浮かべるでありましょう」と、まさに御本仏の境界から仰せられています。(国府尼御前御書・新740) 大聖人様御入滅後に信心する私たちは、大聖人の御魂魄(ごこんぱく)である本門戒壇の大御本尊のもとへ登山参詣することこそ、国府尼への御消息に示された大聖人の御意(みこころ)にかなう信心なのです。また実際そのようにして、本宗の信心は七百年間伝えられてきました。たとえば讃岐本門寺の信徒が、為政者の圧力で強引に重須(北山)本門寺の信徒にされた時代があっても、七百年間富士大石寺を忘れずに信仰してきました。また江戸時代、金沢藩の武士たちの「抜け参り」は、主君が泊まる吉原の宿を夜半密かに抜け出し、大石寺まで走り抜けて御宝蔵前の石畳に端座し、戒壇の大御本尊を遥拝したのです。これら先人たちの姿は、法華講衆の信心の鏡として、幾世代を経ても語り継がれることでしょう。 顕正会では、大石寺に行くなと言う。何故か?理由は、簡単です。顕正会の嘘がバレるからです。 大石寺の歴史を隠してもいます。金沢の法華講衆の話しをすると、顕正会が言う事が、嘘だと分かってしまうからです。 信仰の根本を見たい、知りたいと思うのが、信心です。 我々、法華講は、戒壇の大御本尊にお目通りしたく、御法主上人猊下の御指南を仰ぎたく、登山をするのです。 それを顕正会は、分かってません。
2009.01.23
気を引き締めていきたいと思います。 語弊無いようにします!最近なんか多いです(泣) 気を引き締めて、今年は日蓮正宗では、「立正安国論正義顕揚750年」です。 今年は、「50万総登山」「7万5000総結集」があります。 登山する事は、何だろうか?あるメルマガからのコピペです。 【根源を求める登山】「化を受け教を禀(う)く、須(すべから)く根源を討(たづ)ぬべし、若し根源に迷う則(とき)んば増上して真証を濫(みだ)さん」これは日寛上人が『文底秘沈抄』に引用された、妙楽大師の『弘決(ぐけつ)』の文です。仏法の信仰は根源を知り、根源を求める信心がもっとも大切で、もしそれを疎(おろそ)かにすると、ついには慢心を起こして、正信からはずれてしまうとの意味です。日蓮正宗の根源とは申すまでもなく、日蓮大聖人が御本仏としての御魂を、末法の一切衆生のためにとどめられた本門戒壇の大御本尊です。総本山大石寺にまします戒壇の大御本尊こそは、一閻浮提総与・三大秘法総在の大御本尊と申し上げ、末法の衆生はすべからく本門戒壇の大御本尊に帰依信行してこそ、成仏が果たせるのです。日寛上人は『文底秘沈抄』に多宝富士大日蓮華山(大石寺)が総本山である意義を五つに分けて示され、その第一に、大石寺に本門戒壇の大御本尊がましますゆえに広宣流布の根源であると仰せです。それは言い換えれば、本門戒壇の大御本尊を正しく信仰する人が世界に弘まってこそ、広宣流布であると言えるのであり、同じ題目を唱え、法華経を読む人がたくさん増えたとしても、根源となるべき本尊を取り違えるごとき教えが弘まっても広宣流布とは言えません。たとえば、同じ大聖人様の御真筆でも、万年救護の御本尊が根本であるという人もいます。あるいは相伝も教義も無い創価学会のような教団が、曼荼羅本尊のコピーをただ世界に弘めるようなあり方が、決して広宣流布を進めているとは言えないことは、日寛上人の厳しい仰せに照らして明らかなのです。 続きます。
2009.01.22
たかしさんのコメントに対する。日記について、御供養について、あくまで聞いた話です。現実は違うと思います。 後、個人的な指導は、きちんとした指導だと思っています。指導内容や私が住職様と話た内容は、あえて出しませんが、強制的な物では無いと言う事です。 語弊があり、大変申し訳ありません。 今後、気をつけていきたいと思います。 これからも、この下手くそな日記をよろしくお願いいたします。m(__)m
2009.01.22
日顕御隠尊猊下様の年齢、86歳なんです。 びっくりしました。もっと若いのかな?っと思って、ウィキペディアで確認したら書いてありました。 総講頭の柳沢さんも、80を越えていると聞いたのですが、見えないです。 びっくりです。元気!元気! 日顕御隠尊猊下様は、御開扉で、見かけますが、しゃきしゃきした歩きですし、腰曲がっていないです。 柳沢さんも高齢ながら、力強い口調には、驚きです。 正法を実践している姿なのだと思います。 顕正会の浅井昭衛さん、比べて失礼だが、歯切れ悪いです。 お握り一個のカロリー計算されたら、お腹に力入らないのでしょうか?(ちょっと皮肉) 学会のあのお方、週刊新〇に、昔の語りに勢いが無いと書かれていましたが? 創価学会二代目会長戸田城聖氏は、「仏罰」は、内より出ると言ってましたが? やはり、きちんとした修行をしなければならない。と、思います。 日蓮正宗の法華講の方々は、明るい方々ばかりです。ある意味キャラが濃い!私もそうですが!(笑) でも、そういう姿が、本来人としての姿なのだと思います。 明るく楽しく、生き生きとした姿が、正しい仏法を実践している姿なんだと思います。 辛い事もありますけど、負けない精神を持つ事が、大切なんだと思います。
2009.01.20
昔こんな歌のコマーシャルがありました。 幸せって何だろう?って皆さんいろいろあると思います。 私は、そうですね~(;-_-+ やはり、愛する方と辛くとも支え合いながら、信心で乗り越えて、この事を沢山の人達に教える事が、本当の幸せでは?っと、感じるのであります。 いろいろあると思います。 中には、信仰してれば幸せと言う方もいます。 大聖人様は、一切衆生を救う為に、折伏をしてきました。 私達も、大聖人様の精神を持って、折伏し人々を救わなければならないと思います。 金持ちだろうが、貧乏だろうが、一生懸命頑張って生きていく事が、大切だと思います。 私は、いくらお金持ちで、信仰で億近い供養を出したからと、感謝の気持ちで出していないなら、その御供養は、意味無いと思います。 いくら出した!何故?功徳無いだ?こんなの慢心でしかありません。 慢心で言うのは、簡単です。 信仰で得た功徳を忘れ慢心したら、それこそ謗法行為になってしまいます。 幸せも無いでしょう。 御供養をこんなに出した!と、自慢してる。そんなの自慢にならないです。 かつて、創価学会二代会長の戸田城聖氏は、当たり前の事を自慢してはならないと言ってました。 自慢しては、信心ではありません。 いい例が、池田大作氏だと思います。 あれだけ出した!と、言ってるようですが、信心で出したなら、素晴らしい事です。でも自慢なら、信心では無いと私は思います。 私も信心浅い立場で、エラソーな事は言えないのでありますが、気持ちが大切なんだと思います。 本当の気持ちで出す御供養により、本当の幸せがあるのだと、私は思います。
2009.01.18
たかしさんが、見てくれているか?わかりませんが? 千円、二千円で返す。聞いた事あります。 いくら、末寺の御住職でも、凡夫であります。 慢心になり、そのような事をする僧侶もいると思います。 今日の日記に書きました。魔によるものです。 仏道修行で、必ず魔は襲います。 それに討ち勝つのが、信心だと思います。 確かに、千円、二千円は、失礼だと思います。しかし、経済的に苦しくとも、気持ちで出す事が、一番大切なんだと思います。 私は、社会人としてきちんと働いております。去年の特別御供養を出すのに、少ない金額を出すつもりでした。所属末寺の御住職様が、働いてきちんとした仕事で、子供の小遣いは、失礼だと御指南されました。 不景気で、大変ではありますが、きちんとした金額を出しました。 御供養について、年末の日記にも書きました。 年末から、特別御供養、御講、登山、過去帖と、御供養の出費がありました。 しかし、生活がスッゴク苦しい事はありません。 信心で出す。御供養は大切なお金であります。
2009.01.15
「正直に方便の教えを捨てて、ただ法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱え奉る。この至心の信心、すなわち御本尊に対する信によって、我々は自然と煩悩・業(ごう)・苦の三悪を三徳に転ずることができるのであります。そこに御本尊様のすばらしい功徳が存するのであります。 何も知らない、全く無知な人であろうとも、一生懸命に南無妙法蓮華経と唱えることによって、必ずその人は三道を三徳に転ずることができる、これが大聖人様の教えであります。」 (平成20年大日蓮1月号63ページ) 我々、法華講は、正しい御本尊に向かい法華経を唱え、南無妙法蓮華経の題目を唱えます。 先日、日記に書きましたが、必ず魔に襲われます。 魔に勝つ為には、やはり、信心が大切なのです。 日蓮正宗の勤行は、大変です。毎日、五座三座をやります。 大変な修行ではあります。毎日欠かさずにやる事は、大切なのですが、やはり、魔に襲われます。 「面倒!」「だるい!」「寒い」「暑い」 これらは、魔による誘惑です。 御本尊様信じてるから、勤行は適当!なんて言ってたら、顕正会や学会の出鱈目勤行と変わりません。 きちんとした。信心を持ち、魔に負けないようにしなければ、自らを変える事も、功徳すらありません。 御本尊様を信じ、きちんと勤行・唱題するのが、正しい信心だと私は、思うのであります。
2009.01.15
父母への報恩 「法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり、我が心には報ずると思はねども此の経の力にて報ずるなり」(上野殿御消息) 法華経をもって回向することは、父母を成仏せしめることであり、最高の親孝行になるのです。 去年末に、所属寺院の住職様に、過去帳をお願いし、先日出来上がりました。 御先祖の戒名を正しい宗派である。日蓮正宗の戒名にした事。それは御先祖に対する。回向になります。 日蓮正宗は、常彼岸、常盆です。 毎日の勤行にて、先祖供養をします。 私の実家は、浄土真宗です。母は、曹洞宗の家の出であります。 浄土真宗は、無間地獄、曹洞宗(曹洞禅宗)は、天魔です。 私の祖父の死相は未だに忘れられないですが、念仏宗の死相でした。口を開けて、一瞬苦しい顔をして、亡くなりました。 母方の祖母も痴呆で、亡くなった顔は、口を開けた死相でした。 仏法を学でくると、やはり邪宗教の影響の怖さが分かります。 実家の近所で、鬱病で自殺したり、私の義理の叔母は、鬱病からアル中になり肝臓を悪くし亡くなりました。 全ての原因が、間違えた宗教です。 私も両親を少しづつ折伏しています。 母は、大の学会嫌いです。 父は、頑固です。 先ず、創価学会と日蓮正宗の違いを教えています。(法華講だと言わずに) 何故、日蓮正宗から破門されたか?何故学会が間違えた宗教か?公明党の事等を少しつづ話ています。運よく、選挙の事もありましたので、話やすいです。 自分自身が、信心がまだまだですが、早く両親を大石寺に連れていき、正しい御本尊を信仰して欲しいと願います。 まず、しっかりと真面目に信心し、功徳を積み重ねていく事。その功徳が自ずと親にも巡って、たとえ現在は信心に反対している親であっても、必ず、いつかは信心がつける日がくるのです。 「一切はをや(親)に随ふべきにてこそ候へども、仏にな(成)る道は随はぬが孝養の本にて候か。(中略)世間の法にも、父母の謀反なんどを(起)こすには、随はぬが孝養とみ(見)へて候ぞかし」(御書983ページ・兄弟抄)
2009.01.10
凡夫たる者必ずある事だと思います。 信仰の面でなくとも、偉くなった途端に、態度がガラリと変わる事、よく聞く話です。 年末の日記に、御在世の信徒について、昨日コメントくださったので、私は、御在世の信徒の信心を見習うべきだと思ったのです。 南条時光さんも、四条さんも、法燈連綿が出来てなかった事でしょう。 それは、慢心し仏法を蔑ろにしたからだと思います。 あの池田大作氏も慢心です。だから、自らが偉くなったと思うようになっていったと感じます。 我々は、常に慢心する心の葛藤だと思います。 御供養をこれだけ出したから、信心はある!とか、わざわざ遠いところから、登山してんだ!って、こんな気持ちは、慢心だと思います。 常に、魔と闘っているのだという気持ちで、信心する事が、大切なんだと感じます。 最近思うのでありますが、世の中スッゴク便利になりました。インターネット、車、新幹線、高速道路等、鎌倉時代に無いものばかりです。 もし、鎌倉時代にあったなら、一気に法華経が、広まったでしょうし、退転する方もいなかったでしょう。 あくまで、私の考えです。 インターネットを見れば、沢山の法華講の方々のホームページがあります。SNSサイトにも法華講のコミュニケーションが出来ます。 自分だけが辛いのでは無い。皆同じ気持ちなんだと、スッゴク勇気付けられます。 法燈連綿にしても、末寺がある地域は、ほとんどが法華講の家庭です。 幼心に寂しい気持ちや、周りに馬鹿にされる事もありません。 信心を忘れない事、一番大切だと思います。これを忘れて、慢心してはならないと思います。 御在世の信徒方、見習えない部分もありますが、慢心したら、そうなると我々に教えてくれているのだと思います。 魔にやられない信心を持つ事が、大切だと思います。
2009.01.08
「根本の正しい妙法に縁するところ、あらゆる苦悩を乗り越え、その時どき、事ごとに応じて自由自在の対応をなし、安楽と喜びの境地に住しきれるのは、一心法界の妙法に宇宙人生の一切を含むからであり、すなわち法界のすべて、十界三千の数多の内容を具えるからであります。 したがって、時間、空間に一如する法界の真理を悟られた本仏の力と智慧を、その一身に信行によって実現できれば、また、他の一切の思想、宗教、格言等における行いより勝れた境地を具え得られるのであります。いわゆる人法一箇の大御本尊に対し奉り、妙法を受持し、一心法界の境地を受け継ぐ功徳は、大にして多、多にして勝であり、この大、多、勝の功徳を確信して妙法を唱える事が肝要であります。 しかし、我々はお互いに、一人で生きているのではありません。家庭、知人、朋友その他、多くの人との関係において生活をしております。世間では、謗法の罪業により濁りのなかに囚われる不幸な人が充満しております。しかれば、本仏大聖人の大仏法により日々夜夜、功徳を成就する境界より、この周りの人々へ正法正義の信仰を語り伝えることこそ大切であり、すなわち、それは折伏の実践であります。」(平成十二年四月二十三日、法華講連合会全国青年部大会の砌、548号・日御法主顕上人猊下御言葉集より) 私は、今年本山任務(人数多い場合は、抽選らしい)です。青年として、しっかりやっていかなければならないと感じます。 青年は、一番大切な年だと思います。若い力での折伏、また、結婚して子供を育てていく事、早い方では、子供がいます。法燈連綿を伝える事が、大切です。 この御指南の一部ではありますが、折伏の大切さ、仏法を語る事が大切だと私は、拝するのです。 今年は、法華講全員が一丸となっていかなければならないと思います。 やはり、青年という若い方々の力は、大切です。 遊びたい盛りではありますが、様々な出会いが、今年はあると思います。 今まで、あまり青年の方々を本山で、見かける事少なかったのですが、最近、よく見かけます。 元朝勤行で、晴着の女の方がいました。 朝早くから、元朝勤行にくる素晴らしい信心だと思います。負けてられないです。 今年は、私にとっても、更なる信心の成長があると思いますし、各末寺の青年部の方々との出会いによる信心の刺激があると思います。 去年以上に、魔による信心の障害があると思います。 一つ、一つ、乗り越えて行きたいと思います。
2009.01.06
今日、初登山でした。御開扉では、端っこでしたが、前から二番目の席でした。 御開扉は、何度しても素晴らしいです。顕正会で否定する理由がわかりません(笑) さて、年初めなので、誓願をたてなければなりません。 誓願とは、自ら誓いを立てて、その達成を願うことです。 まず、折伏誓願3名以上! 真剣な勤行と唱題、魔を見抜く事、月一登山に心掛ける。 御本尊の信心を忘れない。 仏祖三宝尊への感謝の気持ちを忘れない。 仏法上の誓願を中心にして、仕事上・生活、プライベートの目標が定められたらと思います。今日の御開扉にて、戒壇の大御本尊様に、今年一年間しっかり、誓願達成を御祈念しました。 今年は、立正安国論正義顕揚750年です。 しっかりしなければ、ならないと改めて思います。 ダラダラと信心せずに、一つ一つ確実にこなしていける事が、大切だと思います。
2009.01.04
blogをご覧の皆さまあけましておめでとうございます。 今年もこのblogをよろしくお願いします。 昨日は、本山にて元朝勤行に参加いたしました。 末寺の仲間と近くの旅館に泊まりました。なんか修学旅行のような感じでした。(笑) 元朝勤行は、朝2時半より猊下様と御隠尊猊下様との勤行でした。丑寅の時刻にする。丑寅勤行とも言われています。 元朝勤行で、御供養をしたら、高級羊羹を貰いました。勤行の後、甘酒(ノンアルコール)をいただきました。旅館でもアルコール入りの甘酒をいただき、そのまま爆睡でした(笑) 9時から、唱題会があり一番前で参加しました。 帰宅の途中、首都高で元旦早々、初詣の渋滞と事故による渋滞に当たりさっそくの罪障消滅(?)でした。帰って、勤行をしてから実家に帰り、ビール飲んだらそのままこたつで、爆睡でした。相棒が見れませんでした(爆) 元旦から、忙しかったので、疲れが出たようです。こんなんで、いいのか?と思うのでありますが、よろしくお願いします。
2009.01.02
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