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ドラムサークルの基本は、「ファシリテーターが最終的には必要とされなくなること」です。ファシリテーターを必要としない自立した集団にするのが、ファシリテーターのお仕事、というわけです。「ファシリテーションとは何か?」についてはさまざまな考え方があると思いますが、私にとっての「ファシリテーション」とは、ドラムサークルに限らず、自立をお手伝いするのが目的であって、そこからエンパワーメントが生まれます。最近あるところで、「医師-患者モデル」の話題で盛り上がっています。「自立のお手伝い」の反対は、「依存の助長」。ドラムサークル・ファシリテーターの間では、「エゴの死」ということがしばしば話題になります。いくら修行?を積んでも、いつも参加者を中心に考えていても、いつの間にか「エゴ」が頭をもたげてくる。「もっとよくしたい」というのも、エゴです。それである日、そのエゴがこてんぱんにヤラれる体験をする。それが重なって、成長していきます。話もどり、そういうことを考えていたら、ある出来事を思い出しました。20年以上前の、知り合いのKさん。Kさんは、神奈川県のとある老舗の酒屋の二代目です。お酒について追求しているうちにKさんは、「全国の酒蔵や杜氏さんたちのネットワークを作らなければ。いや、それだけでなく、米の生産者、しかも有機農家もつながるべき」と考え、そうしたネットワークを作りました。いまでは、そうした発想は当たり前かもしれませんが、当時は画期的。そして、Kさんのさらに素晴らしい点は、最初から、「ネットワークができあがったら、この会は解散する。解散するために、会を作ったんだ」と言っていたこと。当時の私はそれを聞いて、かなり驚きました。「解散するために作る」「必要とされなくなるためにやる」と似ています。組織であれ、そうした会であれ、プロジェクトであれ、「生かしつづけなければならない」という思い込みは意外と強力に私たちの中にあります。よく企業の平均寿命の話が話題に上りますが、つねにふりかえる、思い込みに気づく、だけでも何かが大きく変わるのかもしれません。先日の「死について」につづき、やはり今日も「死」に関連する日記になりました。
2012/02/13
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タイトル:未来を切り開く人材とは?http://www.sophiabank.co.jp/audio/japanese/2011/12/post_374/■イノベーションを起こすものは、「本物に触れること」(1) 言語の力、暗黙の智恵(2) 分析の力、統合の智恵(3) 個人の力、集合の智恵(4) 管理の力、創発の智恵(5) 理論の力、行動の智恵(6) 理性の力、感性の智恵(7) 知能の力、知性の智恵 おまけいちばん強力な問い「なぜ世界は、ここにあるのか?」「なぜ私は、ここにいるのか?」クリシュナ・ムルティ「世界はあなたであり、あなたは世界である」当たり前ですが、田坂さんスバラシすぎます♪
2012/02/12
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最近、「死」について考えることが多いです。おととい行なわれたヒューマンバリューというところの「プラクシショナーの集い」で、そんな自分に気がつきました。個人的には、大人になってから、「自分は3回死んだ」と感じています。体ではなく、精神的な死です。一度目は、突然兄を亡くし、私自身も離婚した時期。二度目は、4年くらい前に、鬱になった時期。三度目は、去年後半に、この10年間一生懸命やってきたことを手放した時期です。「二度も死んでいると、三度目はあまり死なずにすんだ」と、数日前に突如気がつきました。渦中は「たいへんだ!」と思っていましたが、「確実にスキルアップしている」のです。(笑)二週間ほど前、かつて家族同様だった人が50代の若さで亡くなり、また、たまたま、亡くなった祖母の最後の最後の着物100点ほどを整理していました。その数日は、「死者たちとの対話」をしているような日々で、軽くトランスに入っていたと思います。ここ半年くらいを思い起こせば、11歳半になった愛犬の性格が「老人化」し、母が認知症であることが判明しました。いつまでもいるわけではない、とわかっていても、着実に「老いて、いつかいなくなる」ことがわかる出来事でした。「いつかいなくなる」なら、日々を大切にしたいとも思いました。死ぬのは、そうした人や生き物だけではなく、それまでの自分、コミュニティー、組織、システムにも死が訪れることもあります。そして、「死」には、「死ぬ/死んでしまう」ことと「死なせる」ことがあると思います。「死なせる」の場合には、「安らかに死なせる」「そのお手伝いをする」「それ以前に、"死んでもいい"と承認する」等が関わってきます。数年前、コンサルタントの若い友人が、「"死んではいけない” ”死なせてはいけない”という思い込みが自分の中にある、と気がついた。もしもその組織が死に向かっているなら、それを安らかなものとなるようサポートするのが自分の仕事だ。”死なせる”のがイヤなのは、自分の中に”死に対する怖れ”があるからかもしれない」と語ったのが印象的でした。最近どこかで読んだ、日野原重明先生のストーリーがあります。「インターンの頃、ある女の子が重体に陥っていた。私は”お母さんがくるまでがんばりなさい”と励ましたが、いま考えると、”だいじょうぶだよ。お母さんにはよく伝えておくから、安心して逝きなさい”という態度が私には必要でした」といったような内容でした。自分の中の怖れや思い込みが、ほんとうに必要なことの障害になる、ということですね。上に書いた私の個人的な死の第三回目は、大切に大切に育ててきたコミュニティーから手を離したことでした。人様の組織のお手伝いをしている自分があえて「死なせた」のは、おかしな話ですが、考えれば考えるほど、”死なせてはいけない”という前提がまちがっていて、”死んでもいいのではないか?”と思うようになってきました。コミュニティー自体は死んでいませんが、私が考えるそのコミュニティーは、明らかに死んで、次のフェーズに移っていきました。また、先日、震災ボランティア系のあるコミュニティーのお手伝いをしたときのこと。立ち上がったプロジェクトたちがどうもその後進んでいないので、アクションラーニングで降り返りをしてほしい、という依頼でした。ファシリテーター3人の事前の打ち合せで、「もしかしたら、”死ぬべき”プロジェクトが混ざっているのかもしれない。そういう”死”が目の前に現れた時に、無理矢理生かそうとせずに、”ちゃんと死なせる”お手伝いができるといいね」と話し合いました。そして当日、私が担当したテーブルで話し合われたプロジェクトは、「すべて死亡」しました。「はじめはXXXが目的と思っていたけど、そう言われてみると、ちがった」という一貫した理由がありました。それが確認されると、プロジェクトは安心してお墓に送られていきまいした。死があるから再生がある。私は若い頃から、「いまある科学や経済システムは、人類の長い歴史の中のわずか数百年の"流行"に過ぎないのではないか?」と思っていました。あらゆるレベルで、スケールで、古いシステムや思考が通用しなくなったことが次々と明らかになる昨今です。ぐぐっと動く、おもしろい時代に生まれてきたと思います。
2012/02/12
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