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『光陰(こういん)矢の如(ごと)し』『光陰矢の如し』月日が過ぎるのは、飛ぶ矢のように非常に早い。だから無為に送るな、という戒めの意味を含む。類:●Time flies (like an arrow).<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典>出典:李益「遊子吟」 「光陰如箭」人物:李益(りえき) 中唐の詩人。隴西姑蔵(甘粛省武威市南)の人。字(あざな)は君虞。748-827。大暦4年(769)進士に及第。地方官を歴任していたが、詩名が憲宗に聞こえ、秘書少監・集賢殿学士に抜擢、後に礼部尚書にまで至った。大暦十才子の一人で、当時、李賀と並び称された。嫉妬深い性格から「妬癡尚書李十郎」と呼ばれたという。*********どうやら桃池五條の方は新山隼人が気に入ったらしい。それになんとなく気付いたのか、隼人の泣き上戸も、嬉し泣きに変わっているようである。そんな頃合いに、奉行・根岸が現れた。>根:新山、また泣いておるのか?>隼:お奉行、遅いではありませんか。>桃:お奉行様? ・・・で、御座いますか?>根:根岸である。不束(ふつつか)な部下を持つと苦労させられる。・・・大方、見事(みごと)に断わられて落ち込んでおるのであろう?>桃:そ、そのようなことは御座いません。不肖の娘は、隼人殿が殊(こと)の外(ほか)気に入ったようで、先ほどから恥じ入ってのの字なぞを書いております。>根:なんと。これは瓢箪から駒である。ご老体のことも偶(たま)には当てにしてみるものだな。>内:なんというものの言いようですか。そもそもことの起こりはですね・・・>根:もう良いではないか。目出度い席に小言は禁物であろう。>内:またそうやってお逃げになる。名奉行が聞いて呆れます。>根:そう下げるでない。今宵は新山の後見人だぞ。もう少し増しな男だということにしておかぬと、新山の印象にも箔が付くまい?>内:もう遅う御座います。・・・但し、新山様は、そんな暢気な上役の下で真面目(まじめ)に働く立派な方だということになっております。それで良う御座いますな、五條殿?>五:はい。ご立派で、可愛らしいお方です。>根:何? 可愛らしい? これは凄(すげ)え。俺もそこまでは気が付かなかったぜ。ふむ。・・・いやあ、そこもとは中々人を見る目がある。新山には勿体無いような女子(おなご)であるな。>五:いえ、そのような・・・>桃:そのような有り難いお言葉をいただいては、この話、纏(まと)めぬ訳には参りませぬな。奉行の登場に酔いが覚めたのか、五條も隼人も平静を取り戻していた。竜之介だけだけが、こっくりこっくりと、座ったまま舟を漕(こ)いでいた。>猪:これ、竜之介。起きぬか。これ・・・>八:起きねえみたいでやすね。放っときゃ良いんじゃねえですか?>猪:お奉行様の御前で居眠りなど、許される訳なかろう。>八:平気ですって。なんてったってご隠居さんの碁(ご)の仲間なんでやすから。ねえご隠居、このまま寝かしといても良いですよね?>根:先ほどから気になっておるのだが、そちらに控えておる町人風体の者たちは何者なのだ?>内:丸い方が八つぁんで、ひょろっとしてるのが熊さんといいます。読売りの太助という者のことはご存知ですよね? その太助と同じ長屋に住んでおります。>根:で? その八つぁんと熊さんとやらがなぜここにいるのだ?>内:それは、お奉行様が延ばし延ばしにしていることを、このようにてきぱきと進めて呉れたんじゃありませんか。>根:何? 町人風情がか?>内:そうで御座いますとも。町人だといっても、何にもしないお武家様なんかより、よっぽど役に立って呉れます。>根:ううむ。耳の痛いことをずばりと言って呉れるではないか。・・・まあ良い。ご老体がこの場に呼んだのであれば、お構いなしと致そう。>内:そのような、お白州で使うような言い回しはお止めください。折角の円満な雰囲気が壊れます。>根:そ、そうか。これは済まん。・・・八つぁん熊さんとやら、今宵は無礼講である。心行くまで飲食していって呉れ。>八:やったあ。そんじゃあ、お酒の追加も貰って良いんでやすね?>根:無論である。>八:摘みは若先生の食べ残しで十分でやすから、どしどし持ってきてお呉んなさい。・・・あ、そうだ、隼人さんと五條さんにもたんまりと飲ましちゃいましょう。>2人:い、いえ。もう沢山(たくさん)。やがて、悪乗りした八兵衛に頭をぽかりとやられて、竜之介が目を覚ました。>竜:な、何事か? 敵襲であるか?>八:そんな訳ねえじゃありませんか、若先生。>竜:そ、そうか。見合いの席であったか。桃園(とうえん)で義を結ぶ夢を見ておった。確かに、敵が来る場面ではないな。>根:ほう。そちは三国演義に詳しそうであるな?>竜:そういう主(ぬし)は何者であるか? 大層立派な形(なり)をしておられる。さぞや名のある武将かと存ずる。名を名乗られよ。>千:これ、竜之介。粗相があってはならぬ。>根:良い良い。拙者は根岸と申す。>竜:そうであるか、我は上総の銚子竜之介である。銚子竜ここにありーっ。・・・はて、根岸殿といわれると、南の奉行と同じ姓であるな。ご家中であるか?>根:その者である。>竜:へ? ・・・ぶ、奉行殿であるのか? 何故このような辺境の旅籠になど・・・>根:何も知らずに列席していたのか? 新山の上役である。>竜:こ、これは、また、奇遇である。我は、桃池殿の友人である千場道場の元門下で、詰まるところ、全くの他人である。なぜ呼ばれたのか我自身も良く分かっておらぬ。>内:ご相談を受けていたではありませんか、竜之介様。お生まれになった稚児(やや)のお名前のことで。>竜:それはそうであるが、なにも見合いの席でそのような・・・>内:ここにおられる根岸様は、唐(から)の国の書物にはかなり造詣が深いというものですから、いっそのことこの場を借りて聞いてみてはいかがかと思った訳ですよ。出過ぎた真似(まね)でしたか?>竜:そのようなことは御座らぬが、奉行に申し立てるほどのことではなかろうかと・・・>根:良い。新山のことでは世話になったようであるし、特別に話を聞こうではないか。>竜:しかし・・・。一庶民の家内の事情に付き、然(さ)しもの我でも言上し難い。>内:それでは、あたしの口から経緯をお話しましょう。妻の聡(さと)との口論から始まって、義母の生家・水野家の件までを、整然と説明した。根岸は、「ふむ」と呟いてから、暫(しば)し考え込み、やがて徐(おもむろ)に片肌を脱ぎ、片膝立てになった。>根:1つだけ申し開きを聞こう。名は誰のために付ける? 親か、家か、子か、それとも周りの者たちの評判か?>竜:周りの評判というのも否定はできぬが、そういう聞かれ方をすれば、子のためと答えねばなるまい。>根:そうか。親たるものの自覚は持ち合わせておるようだのう。・・・さて、裁く前に1つ話をしておこう。こういうのを存じておるか? 唐の国では、字(あざな)というものがかなり重視されておる。歴史上に名を残している者は、好意的に、或いは、尊敬の気持ちを込めて字で呼ばれる者が少なくない。例えば、劉備だが、その字はなんと申した?>竜:玄徳である。>根:そうだな。では、名は何だ?>竜:はて?>根:備だよ。一文字で、「備」だ。関雲長は「羽」、張翼徳は「飛」である。更に、超子龍は「雲」、つまりクモだ。>竜:うーむ。>根:長男の字に「伯」を使うこともある。その場合、二男は「仲」で、三男は「叔」となる。>竜:うーむ。>根:そもそもが、儂(わし)らの姓名とは違っておろう?>竜:とても我が子の名前に使えそうなものはないようである。しかし、1文字借りるくらいであれば・・・>根:そうよな。そのくらいなら良かろうな。しかし、子は授(さず)かりものである。お主の希望ばかりを通しても、1人では格好が付かぬやも知れぬし、5人以上ではあぶれる者が出るやも知れぬ。・・・今は決められぬのだ。それで良いな?>竜:うむ。>根:では、申し渡すぞ。・・・稚児が元服するまでは、その名を決めてはならぬ。その後決めるに当たっても、お主の意向ばかりが強く出ていると思える名を付けてはならぬ。もし従わぬようであれば、江戸所払いとする。>竜:ははあ。>根:とは言ったものの、赤子が大人になるのなどあっという間だ。名前をどうするかなんていう下らないことに現(うつつ)を抜かしてるくらいなら、剣術を教えるとか、学問を教えるとかに心を傾けるべきだと思うが、どうかな?>竜:正(まさ)に。目から鱗(うろこ)が落ちたようである。では早速(さっそく)菖蒲(あやめ)丸に読み書きを教え込むとしよう。では、さらばである。竜之介は、独りさっさと引き上げてしまった。本当に了解したかどうかは疑わしいが、当面の悩みは解消されたようだ。隼人と五條も、今や殆ど素面(しらふ)で、奉行の裁きに見入っていた。「拙者も稚児が欲しくなりました」と、隼人が呟くと、五條は「まっ」と顔を赤らめた。>八:あっ、いけねえ。>根:どうかしたのか? 八兵衛とやら。>八:あ、いえね、そんなこと言うもんだからうちの棟梁のこと思い出しちまいやして。>根:それが?>八:棟梁ったら、孫が強く育つようにって武者人形の話ばっかりしてるんでやすがね、この国には端午の節句にゃ餅を食うっていう、立派で学問的な行事があるってのを、きっと忘れちまってるに違いねえ。>熊:また食いもんの話かよ。>根:なるほどの、それも学問的かの。・・・ご老体。どうだ? 世話になった例だ、代金は儂が出すから、その棟梁のところに柏餅を届けてやっては呉れぬか?>内:お安い御用です。>八:やったあ。今年の節句こそは死ぬほど美味いもんが食えるぞ。>熊:喉に詰まらせて死ぬなよ。・・・何を考えて30年以上も生きてきてるんだか。まったく、お前ぇほど時間を無駄に過ごしてる奴も珍しいぞ。
2007.12.31
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『恋は思案(しあん)の外(ほか)』『恋は思案の外』[=心の外]恋は理性や常識では律し切れない。恋の成り行きは、常識では推(お)し量(はか)ることができない。*********内房正道の旅籠(はたご)の一室に、10人前の膳が並べられていた。床の間に向かって上手(かみて)に3つ下手に3つ、そして下座に4つというコの字型が作られた。八兵衛、熊五郎、猪ノ吉、そしてなぜか竜之介が下座に座り、右奥の3席のうち1つが空いていた。>内:仰々(ぎょうぎょう)しいことになってしまって申し訳ありません。しかし、世話を焼いてくださる方が多いということは、それだけ人徳が篤(あつ)いということですので、むしろ喜ぶべきことだと思います。・・・お一方(ひとかた)が所用で遅れる由(よし)で御座いますので、甚(はなは)だ勝手ながら、進めさせていただきたく思います。進行につきましても、あまり堅苦しくせず、この旅籠の作法で執(と)り行いたく思いますが、桃池(ももち)殿、宜しゅう御座いますな?>桃:お任せいたします。・・・遅れていらっしゃるのは先様の親御さんでいらっしゃいますか?>内:いえ、役所の上役(うわやく)の方です。親御さんから、ことの全てを任されておいでです。>桃:そうですか。先様(さきさま)は、随分と上役の方から信望を得ていらっしゃるようですな。>内:どうでしょうかな? まだお出ででないから言ってしまいますが、何かと棚上げする悪い癖が御座いまして、新山(にいやま)様の婚儀のことも、そこにおられる4人が骨を折ってくださらなかったら何もできなかったところです。>桃:そうですか。猪ノ吉さんを初め、皆さん、大変ご苦労をお掛けしましたな。>功:桃池殿、今日の会合は飽くまでも略儀ですので、婚儀として纏めねばならぬというものでは御座らぬ。娘御に押し付けるようなことは、くれぐれもなさらぬようにな。>桃:承知しておりますとも。本人たちの気持ちに任せるというお約束でしたな。>功:そういうのが、今風ということですので、ご理解くだされ。>内:そういうことですな。・・・それでは、前置きも省かせていただき、場を和(なご)ませる意味で、食前酒を干していただきましょう。新山隼人と桃池五條の双方が「あの・・・」と一声挙げた。どちらも、できることなら酒を口にせずに終わらせたいと願っているのである。>隼:ご老体、酒を飲まないでも良いということはありませんか?>内:まあ、良いではありませんか。猪口(ちょこ)に1杯など、飲んだうちには入りませんよ。それに、このお酒は然(さ)るお方から特別に拝領した品です。残すなどという勿体無いことはなさいませんように。・・・五條様も、そうなさってくださいませ。>五:はあ。そういうことでしたら、1杯だけ。>隼:それでは・・・それぞれが一息に呷(あお)ってしまったのを見届けてから、残りの皆もそれに倣(なら)った。>八:うっひょう、こりゃあ美味(うめ)え。「だるま」の水っぽいのとは大違いだ。>熊:こら。あんまり端(はし)たなくするんじゃねえ。おいらたちは刺身の妻みてえなもんなんだから、大人しく座ってなきゃいけねえの。>八:そんなの無理だっての。ご馳走を食いながらしんみりしてなんかいたら、食った気がしねえだろ?>内:ほっほっほ。八つぁんの言う通りです。お膳はしんみり食べるものではありませんね。ささ、どうぞ箸を付けてください。>八:この刺身は鰹(かつお)でやすね? 「目には青葉山不如帰初鰹」ときたもんだ。>内:おや、八つぁんは案外物識りなんですねえ。>八:「案外」ってことはねえでしょう。おいら、これでも、箪笥(たんす)町界隈(かいわい)じゃあちょっとは名の知れた物識りなんでやすからね。>熊:どうだか。「風呂・飯・寝る」だけ知ってりゃ十分だって言ってやがる奴のどこが物識りなんだ?>内:ほっほ。山口素堂の句よりは、そっちの方が、どちらかというと八つぁんらしいですねえ。>八:なんですかい、その「山伏が粗相した」ってのは?あっはっはと、少し大き過ぎの甲(かん)高い声が挙がった。五條の笑い上戸が発症したのである。真向かいの隼人は目を丸くしたが、自分でも気付かないうちに、銚子から猪口に酒を注ぎ、立て続けに2杯飲んでいた。ただ、五条の笑い方はとても自然な笑い方で、見方によると武家の娘の慎(つつし)みに欠けると見られるかも知れないが、同席した面々には好ましいものとして受け取られていた。唯一人、父親の桃池だけは、娘の様子と隼人の顔色とを交互に伺いながら、只管(ひたすら)はらはらしていた。>五:山伏粗相、山伏粗相・・・。あっはっは。可笑しい。千場の小父(おじ)様ったら、面白いお知り合いをお持ちなのね。>桃:これ、五條。端たなく笑うものではない。>五:だって父上、可笑しいときに笑わなかったら、いつ笑えというのです? それに、笑うことは健康にも良いと申します。>桃:それはそうだが、時と場所というものも弁(わきま)えなさい。>隼:いいえ、桃池殿、五條殿の言われる通りです。拙者など、喜びを顔に出すことも下手で、声を上げて笑うことなど、できた例(ためし)もないのです。私など、私など・・・>桃:隼人殿? 泣いておられるのか?>五:あっはっは。殿方の癖に泣いておられる。>桃:これ、五條。失礼であろう。>五:そんなこと言ったって、可愛いんですもの。>桃:何? 「可愛い」とな?>五:抱き締めちゃいたいくらい。・・・あら? こんな感じって、あれ? やだ・・・>桃:隼人殿。娘が失礼なことを言っているようでしたら、ご勘弁ください。普段はこのような・・・>隼:いいえ。私は、このような軟弱者で御座りますれば、どうとでもお責め下され。・・・このような体たらくだから、いつになっても妻帯もできないのです。お笑いください。まだ飲み始めてから、然程(さほど)の時間も経っていない。心行くまで酒肴を堪能しようと、俄然張り切っていた八兵衛が、あんぐりと口を開けたまま、2人の動向に目を奪われていた。口元まで持っていった猪口が宙に浮いたまま留(と)まっている。>五:もし、隼人様。>隼:は、はい。なんで御座いましょう?>五:隼人様は、お酒を飲まれると、いつもそのような風になられるのですか?>隼:はあ。恥ずかしながら。>五:娘たちやら婦人方やらとご一緒のときにもそのような風になってしまわれるのですか?>隼:そのような場面はまずありませんが、相手が誰であろうとこの癖は変わりません。それがいけないと申されるのですね?>五:ええ、いけませんとも。>桃:これ、五條。>隼:黙っておいでくださいませ、父上。・・・隼人様を責めているのではありませぬ。>桃:それではいったい何を申したいというのだ。>五:あの、申し上げても宜しゅう御座いますね?>隼:ええ、なんなりと。>五:女の癖に端たないと言われるかも知れませんが、わたくしの婿殿となられるお方であれば、女子(おなご)どもの前で、そのようなあどけなさ気(げ)な風をされては困ります。>隼:はあ。>五:焼餅が焼けて困ります。そういう潤んだ目はわたくしの前だけでしていただかなければ嫌です。・・・困ります。周りで聞いている者たちが、目をぱちくりさせて互いに顔を見合わせた。>八:と、いうことは、五條さんは隼人さんを気に入ったでことなんでやすかい?>熊:さあ。>竜:正(まさ)に、そういうことである。「酒癖が悪い者は駄目」が聞いて呆れる。>猪:これ、竜之介。折角良いように運んでおるのだ。水を注すようなことを言うでない。>八:そうすると、後は、隼人さんが五條さんを気に入ったらもう決まりじゃねえですか。こんなに簡単で良いんでやすかい?>猪:円満に決着するのであればそれが一番に決まってんだろ?>八:そりゃそうだ。それじゃあ、もう遠慮もなんにもなしに飲み食いして良いんだな? うっひょう、食うぞ、飲むぞ。>熊:こらこら、その隼人様の方の気持ちってのがまだだろ?>八:良いのよ、そんなこたぁ。こんなお綺麗なお嬢さんから「他所(よそ)の女にゃ渡さねえ」って言われてみろ。それで嫌だなんて言ったら、それこそ罰が当たるぞ。そうじゃねえのか?>竜:正に、八兵衛殿の言う通りである。>猪:これ、竜之介、お前、飲み過ぎだぞ。酔っているのか?>竜:酔ってなどおらぬ。・・・五條殿は女子にしておくのが勿体無いくらいの女傑(じょけつ)であると見た。我(われ)が劉備であったなら、1軍を指揮させているところである。・・・むにゃむにゃ。>猪:あーあ、寝ちまいやがった。こんなので良いんだろうか? どう思うよ、熊ちゃん?>熊:ご隠居さんがこういう風になるのを分かっていたのかどうかは疑わしいがよ、なんだか知らねえけど、万万歳なんじゃねえの?2人の様子をにこにこしながら眺めていた内房老人は、しっかり熊五郎たちの会話を聞いており、透かさず声を掛けてきた。>内:「疑わしい」とは安く見られたものですな、熊さん。>熊:あ、いや、その、だって、五條様が勝手に。そ、それに、隼人様の・・・>内:確かに、熊さんの言うことも間違ってはいませんかね。あたしはね、成り行きがどうなるかまでは知りませんでしたが、こういう結果になるような気がしてたってことです。>熊:気がしてたで済ます問題ですか? 一歩間違えば・・・>内:だから、間違わないように奥の手を後から出そうとしたんじゃないですか。もう四半時もしたら来ますよ、後見人が。>熊:へ? 方便じゃなくって、本当に呼んじまってるんですかい? お奉行様を。>内:一番良いところを見逃してしまって、ご当人も残念がるでしょうね。ほっほっほ。>八:流石(さすが)はご隠居さんだ。まったく、年取った狸はよっぽど巧く人を騙(だま)すそうでやすからねえ。>内:あたしは古狸ですか?>熊:八、そういう風に言葉を使い間違ってばっかりいると、そのうち本当にご隠居様を怒らせちまうぞ。>八:なんだ? おいら何か間違ったこと言ったか?>熊:ご隠居様を狸呼ばわりなんかするなってことだ。>八:何言ってやがる。おいらとご隠居さんの「臭い仲」は、そんなことくらいで壊れちまうちゃちなもんじゃねえのさ。ねえ、ご隠居?>内:臭い仲ですか? そうは言わないと思いますよ、八つぁん。お奉行の耳に入ったら疑われてしまいます。>八:だってよ、初めて会ったのが厠(かわや)なんだから、やっぱり臭い仲でやすよ。なあ、熊?>熊:おいらは端(はな)っから違うって言ってるじゃねえか。まったく、人の話を聞かねえ野郎だ。人様が気に障りそうなことは言うなってことだ。酷(ひで)え目にでも遭わなきゃ分からねえのか?>八:構うもんか。へへーんだ。今更膳を片付けられたってもう遅いってんだ。見てみろ、もう全部食っちまった。>熊:お前ぇにとっての酷えことってのは、それだけかよ。まったく世話がねえな、お前ぇは。
2007.12.30
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『涓滴(けんてき)岩(いわ)を穿(うが)つ』 『涓滴岩を穿つ』僅(わず)かな水の滴(したた)りでも、長い間には岩に穴を明けるということから、絶えず努力していれば終(つい)には大事を成し遂げるということ。類:●雨垂れ石を穿つ●継続は力なり参考:「漢書-枚乗伝」「泰山之溜穿石、単極之[糸+更]断幹。水非石之[金+占]、索非木之鋸、漸靡使之然也」*********明日の夜に五條という娘を内房の旅籠(はたご)へ連れて行かないければいけないと言われて、熊五郎と八兵衛は千場道場へ、取次ぎを頼みに出掛けた。「明日ですか?」と、功次郎は目を丸くした。流石(さすが)の猪ノ吉も、成り行きの早さに驚いている。>猪:折角のお話ですから、義父(ちち)上、進めていただこうではありませんか。私が伝令(でんれい)として行きましょう。>熊:ちょ、ちょっと待てよ。その前に伝えておかなきゃならねえことがあるんだからよ。>猪:なんだよ、熊ちゃん。目出度い話なんだから、とんとんと進めちまおうぜ。>熊:だから、とんとんと進められない事情があるのさ。・・・実はな、お相手のお役人様が、紛れもねえ泣き上戸(じょうご)だそうなんだよ。>猪:なんだって? それじゃあ、条件に全然合ってねえじゃねえか。そんなのを娶(めあ)わせるってのか、ご隠居さんは?>熊:そうなんだ。理由もなんもなし。当たって砕けろだとよ。>猪:そんな無茶な。端(はな)っから酒に飲まれる人は駄目だって言ってんじゃねえか。それを・・・>熊:ご隠居にはご隠居の考えがおありなんだろうけど、おいらどう考えても巧くいくようには思えねえんだよな。>猪:駄目に決まってるだろう。初めに条件ありきだろう?>功:猪ノ吉、内房殿を信じてみようではないか。>猪:しかし義父上・・・>功:内房殿とて、人の幸せを蔑(ないがし)ろにする方ではあるまい。きっと深いご配慮があるのであろう。>猪:そうでしょうか?功次郎の説得もあり、猪ノ吉は桃池の家へと向かった。熊五郎と八兵衛は、猪ノ吉が戻ってくるまで、千場の家で待つことになった。>功:猪ノ吉の足でも半刻(約1時間)は掛かりますから、酒肴(しゅこう)でもお出ししましょう。>八:待ってやしたっ。>熊:こら、端(はした)ねえぞ。>八:だってよ、旅籠の小僧に駄賃だって分捕られて、おいら一文無しなんだぞ。ちっとくらい甘えても良いじゃねえかよ。>功:そうですか。それなら尚更(なおさら)です。ちょっと腹に溜まるものを出させましょう。>八:こりゃあ有り難(がて)え。・・・言ってみるもんだな、なあ熊。>熊:図々しいって言うんだよ、そういうのは。>功:良いのですよ。そもそもは私個人が頼まれたことです。巻き込んでしまったお詫びもありますし、鱈腹(たらふく)飲み食いしてください。>八:先生が話せるお人で良かった。こういうことがなくっちゃ他人の世話焼きも面白くねえもんな。>熊:お前ぇの方から勝手に首を突っ込んだんだろ? 見返りなんか期待するなってんだ。>八:おいらは期待なんかしてねえさ。偶々(たまたま)食い物や酒を出してくださる親切な人がいるってことさ。>熊:端(はな)から狙ってる癖に。>八:なんだお前ぇ、嫌に絡(から)むな。・・・ははあ、年下好みなんて言ったからかちんと来たんだな? 後ろめたいことがある奴はほんとのことを言われると怒るってのは、ありゃあほんとのことなんだな。>熊:誰が怒ってるかってんだ。お行儀良くしろってご指導してやってるだけだろ。>八:むきになるところが益々怪しいぞ。>熊:まったく、お前ぇってやつは。「ああ言えばこう言う」ってのはお前ぇのことだな。>八:なんだそりゃ? 何かを聞かれたらすぐに答えを言うってことか? それほどでもねえが、まあ、物識(し)りの八兵衛とでも呼んで呉れ。>熊:そういうことじゃねえっての。半刻という時間が勿体無いとでもいうように、八兵衛は肴(さかな)を詰め込み、酒をがぶ飲みしていた。猪ノ吉が戻ってくる頃には、もうかなり出来上がっていた。>功:どうであった?>猪:それが、あんまり喜ぶものですから、泣き上戸だということを切り出せませんでした。>功:そうか。まあ、仕方ない。後のことはご隠居様にお任せしようではないか。ご苦労であったな。さ、こっちに混じって、熊五郎殿と酌み交わすと良い。>猪:はい。>八:そう憂鬱そうな顔するなって。ご隠居が巧い具合いに丸め込んで呉れるって。>猪:しかしな、なんだか騙(だま)すようで・・・>熊:騙しゃしねえって。なんてったって奉行所の同心だぜ。嘘なんか吐く訳ねえじゃねえか。>八:なんでだ? ちょこっとだけ誤魔化しとけば目出度し目出度しってのを、自分の方から打(ぶ)ち壊しにしちまうのか? そりゃああんまり勿体無えんじゃねえか。>熊:祝言を挙げちまえばこっちのもんって訳じゃねえんだぞ。>八:そうか? おいら、こっちのもんだと思うぞ。>熊:お前ぇなあ・・・。人事(ひとごと)だと思って、簡単に考えるなってんだ。>八:だってよ、一度嫁いじまったら、世間様の目もあるから出戻りなんかしやしねえだろ? 元々酒癖云々なんてものは大して大事なことじゃねえのに、それだけで一緒になれねえなんてのが間違いなの。>熊:それはお前ぇの考えだろ?>功:いや、八兵衛殿の言い分にも一理ありますぞ。>熊:先生までそんなことを・・・>功:そもそも夫婦(めおと)などというものはね、熊五郎殿、長い時間を掛けて少しずつ歩み寄るものなんですよ。初めの出会いなどというものは、それほど重要なものじゃあありません。>熊:そういうもんなんでしょうか?>功:そういうものです。まあ、歩み寄ろうとするかどうかの方が重要なことだとも言えますかねえ。・・・そういうものであろう、猪ノ吉。>猪:確かに。・・・幾らか気が休まりました。明日は自分たちも立ち会うからと言い置いて、熊五郎と八兵衛は千場道場を後にした。>八:なあ熊よ、内房のご隠居はいったいどうやって丸め込むんだろうな。>熊:だから、丸め込んじゃ駄目だろうってんだ。嘘なんか吐かずに正直に話せば分かって呉れるって。>八:そうかなあ。千場の先生の仲間だろ? 「話が違う」とかなんとか言い出してよ、手打ちにされたりなんかしねえだろうな。>熊:奉行所の人間がいるってのにそんなことするか。>八:でもよ、お膳を引っ繰り返すかも知れねえぞ。>熊:千場先生の顔を潰すようなことはしねえって。・・・多分な。>八:頼りねえな。・・・でも、ま、ご隠居さんの方だって、なんにも考えがなきゃ呼び集めたりはしねえだろ?>熊:そうだと良いんだがな。当日、早目に着いた熊五郎と八兵衛に、内房正道は「考えですか? そんなもん、ありませんよ」と笑って答えた。>八:ご隠居、なんにも作戦がねえのに2人を纏(まと)めちまおうってんですかい?>内:いけませんか?>八:いけねえに決まってるじゃねえですか。>内:そうは言いますがね、こちらにはお嫁さんを探しておいでの若者がいる、あちらには嫁ぎ先を探しておいでの娘さんがいる。それを1つところに呼び集めるだけです。何もいけないことではありませんでしょう?>八:そういう言い方をされると騙されちまいそうになりやすが、見合いなんですぜ、これは。呼んで集めただけじゃねえんです。お互いの婿として、嫁として集まってくるんじゃねえですか。もっと真剣になってやらねえと可哀相でしょう。>内:八つぁんの言葉を借りるとですね、婿として嫁として来るんでしたら、もう半(なか)ば話は決まったようなものなのです。そうではないのですか?>八:そりゃあ、そうも言えねえこともねえでしょうが、残りの半ばで引っ繰り返っちまったらご破算(はさん)になっちまうじゃねえですか。>内:大丈夫ですって。要は半ばまで来てるかどうかってことなんです。半ばまで来てれば、もうこっちのものですよ。>八:そう巧くいきますかい?>内:勿論(もちろん)ですとも。>八:その自信はいったいどっから来てるんですかねえ。>内:それはあなた、伊達(だて)に60年以上生きていないということですよ。>八:そんなもんですかねえ。>内:しがない旅籠の隠居でも、人様の顔を毎日毎日見ていると、大方の人の中身は分かってしまうものなんです。新山という男は、中々どうして、大した男ですよ。>八:誰もが認める泣き上戸が、ですかい?>熊:まあ、ご隠居様に任せて、おいらたちは後ろの方で大人しくしていようぜ。>八:大人しくだ? 冗談じゃねえ。話が険悪になってきでもしたら、この八兵衛様が出ていって、纏め上げてやろうじゃねえの。こうなりゃ自棄(やけ)だ、矢でも鉄砲でも持って来やがれ。>熊:目が据わってきてるぞ。・・・ご隠居様の長年の目利きとやらが正しいことを祈るしかねえか。>八:何をぶつぶつ言ってやがる。ここはおいらに任せて、お前ぇはもぐもぐと膳でも食ってろ。>熊:それを言うんなら「黙々と」だろう。・・・まったく、お前ぇって奴はいつになっても言葉を覚えねえな。門前の小僧だって、毎日毎日お経を聞いてりゃ、空(そら)で言えるようになるってのによ。>八:そんな辛気臭(しんきくせ)えもの覚えたってしょうがねえだろ。>熊:何も坊さんになれって言ってる訳じゃねえよ。こつこつと努力してりゃ偉い人間になれるってことだ。>八:てやんでえ。言葉なんていうもんはな、こつこつ覚えなくたって、結局のとこはよ、「飯、風呂、寝る」だけ知ってりゃ生きられるのさ。余計に知ってたからってそれで腹が一杯になりゃしねえの。>熊:お膳を取り上げられることはあるけどな。>八:なんだと? そりゃあ大事(おおごと)だな、確かに。
2007.12.29
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『毛(け)を吹(ふ)いて疵(きず)を求(もと)める』 『毛を吹いて疵を求める』[=過怠の疵を~]1.毛を吹き分けて頭皮の傷を探し出すという意味で、好んで人の欠点を指摘すること。2.わざと他人の弱点を暴(あば)いて、却(かえ)って自分の欠点を曝(さら)け出すこと。類:●藪を突付いて蛇を出す類:●It is ill to waken sleeping dogs.寝ている犬を起こすのはよくない<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典>*********市毛大路郎が千場功次郎のところに顔を出すのは、年賀以来ということになる。恩義あるがゆえに却(かえ)って、そうちょくちょくは行き来できない大路郎である。>大:千場殿、ご無沙汰しております。己の無作法(ぶさほう)には、呆(あき)れ返るばかりです。>功:いえいえ、便りのないのは無事な証(あか)しと申します。往来(おうらい)がないからといって、間遠(まどお)になった訳ではありませんよ。>大:そう言っていただけると、胸の痞(つか)えも下りる思いです。>功:しかし、そんなことを言っているこちらの方から、無理にお呼び立てをしてしまったようで申し訳御座いません。>大:とんでもないです。私が受けたご恩に比べれば、このくらい物の数ではありません。・・・とはいえ、巧くお役に立てるかどうかは、甚(はなは)だ疑問なのですが。>功:仮令(たとえ)そうであろうと、これほど早く駆け付けてくださったことだけで、私は嬉しゅう御座います。>内:ご挨拶(あいさつ)はもう宜しいですかな?>大:は、はい。ええと、千場殿。こちらは内房様と仰(おっしゃ)ってですね・・・>内:旅籠(はたご)の隠居爺いです。・・・伺(うかが)いますれば、ご友人の娘御ということですが、相手が奉行所の同心でも良う御座いましょうか?>功:はい。条件さえ外(はず)れてなければ、家柄や役職は気にしないとのことです。>内:ほう。それは珍しい。時代の流れというものですかな。昔は親交のあるご家中(かちゅう)でないといけないとか、禄高がこれこれ以上でないと嫌だとかと、随分面倒なことを言ったものですが。>功:唯(ただ)ですね、厄介(やっかい)なのは、その条件なのですよ。>内:ほう。やはり訳ありですか。>功:ええ。人によっては、そんなことどうでも良いと思うんでしょうけれど、何をどう思い込んでしまっているのか・・・>内:どういう条件なのですか?>功:それが、お酒を飲むときの癖のことだと言うのです。>内:泣き上戸(じょうご)とか笑い上戸とかのことですか?>功:そうです。酒癖が悪い者は、素面(しらふ)のときにどんな良い質(たち)でも嫌だと申すのです。>内:至極(しごく)尤(もっと)もな条件ですな。大方、お父上か身近の方がそういうお方なのでしょう。>功:それが、そうではないようなのです。私の僚友(りょうゆう)であった桃池(ももち)冬蔵は、決して乱れぬ酒飲みでした。・・・実はですね、娘御の名は五條(ごじょう)というのですが、酒癖が悪いのは、そのご当人のようなのです。>内:なんと。>功:笑い上戸に泣き上戸、終(しま)いには怒り上戸になり、傍(そば)にいる者を捕まえて、誰彼(だれかれ)構わず説教をするというのです。>内:それはまた、難儀ですねえ。>功:お酒を飲んで、夫婦(めおと)の2人とも乱れてしまっては滅茶苦茶になってしまうので、せめて婿殿には酒癖の良い殿御が必要だと言うのです。>八:おいらだったら、怒り上戸の女房なんか願い下げでやすね。>熊:お前ぇに来た話じゃねえっての。>功:やはり、難しい話でしょうか? 確かに女子(おなご)の酒乱など、見場(みば)の良いものではありませんよね。>内:しかし、隠し通してしまえばどうとでもなろうというものを、正直に明かしてくださっている訳ですから、それこそ誠意のある方ではありませんか。人は得てして他人の粗(あら)探しばかりして、自分の欠点は隠そうとするものです。それを自分から言い出すのですから立派な娘さんなのでしょう。そんなちょっとした欠点をずっと気に病んでいらっしゃるのなら、あたしなぞ、ずっと傍に付いていて、守ってあげたいと思いますがね。>八:おやご隠居さん、真逆(まさか)、本気で色気付いちまったんじゃないでしょうね?>内:ほっほっほ。隠居爺いが色気付いてどうしますか。喩えの話ですよ。・・・どう思いますか、市毛様?>大:確かに、真摯(しんし)な方ではあるようですな。>功:それでは内房殿、この話、進めてくださると受け取って良いのですか?>内:あたしは乗り気ですよ。まあ、結局のところはご当人次第なのですが、説得してみましょう。>八:こりゃあ決まったも同然ですぜ、大(おお)先生。ご隠居に掛かりゃ、どんな強面(こわもて)のお侍(さむらい)だって、すぐに丸め込まれちまいやすからね。赤子の手を捻るってんですか?>内:八つぁん、そういう言い方は止(よ)してくださいと言ったではありませんか。>八:あ、そうでやしたね。言うんなら「気が付かないうちに術中(じゅっちゅう)に嵌(は)めちまう」ってことですやね。>熊:あのなあ・・・翌日、内房の旅籠の丁稚(でっち)が持ってきた話では、同心の名前は新山隼人(にいやまはやと)というそうである。困ったことに、新山は自他共に認める泣き上戸であるという。>八:なんだと? それじゃあ、てんで話にならねえじゃねえか。>熊:まったくどういう巡り合わせだ? 選りにも選って泣き上戸とはな。お天道(てんと)様もつれねえことをしなさる。>八:まあ、駄目なもんは仕方がねえ。千場の先生には申し訳ねえが、今度の話はきっぱりと諦(あきら)めて貰ってよ、自力(じりき)で探して貰うしかねえよな。>熊:お奉行様の方も一から出直しか。・・・あんまり気は進まねえが、親方に相談に乗って貰うか?>八:そうさな。ま、頭数は多い方が良いからな。>小僧:あの、ご隠居様からの話には続きがあってですね・・・>八:ん? なんだ?>小:「ちょこっとだけ条件が違いますが、この話で押し切ってしまいましょう」だそうです。>八:なんだと?>熊:だって、たった1つしかねえ条件が外れちまってるんだぜ。そりゃあいくらなんでも乱暴過ぎやしねえか?>小:「当たって砕けろですよ、ほっほっほ」だそうです。>八:砕けちゃ駄目だろってんだ。>小:手前は言われたことをそのまま伝えただけですから。言いたいことがあったらご隠居様に直接言ってください。・・・ああ、それからもう1つ、最後に言うように言われたことを伝えますね。「五條様を明日の夜、手前どもの旅籠へご案内するように」です。確かにお伝えしましたからね。>八:おい、そりゃあねえだろ。おいらたち五條さんとやらには会ったこともねえんだぜ。>熊:それに、今日の明日じゃあな。あちらさんにだって都合(つごう)ってもんがあるだろうし。>小:そんなこと、手前には一切関わりのないことですので、お2人でなんとでもしてください。丁稚は帰りしなに、八兵衛に向かって掌(てのひら)を差し出した。駄賃を寄越(よこ)せというのである。いつぞやもそうだったが、八兵衛は渋々波銭(4文=約80円)2枚を持たせてやった。小僧は不服そうに眉間(みけん)に皺を寄せたが、諦(あきら)めて帰っていった。>熊:ご隠居様ったらよ、せっかちにも程があるってんだよな。>八:なんだかよ、おいらたちを振り回して面白がってんじゃねえのかって思うことあるんだよな。>熊:おいらたちだってそうそう暇じゃねえってんだよなあ。>八:でも、ま、見合いの席になるんならよ、目の前にはご馳走の膳(ぜん)かなんかが据えられるんだろ? おいら、そんなら別に構わねえぞ。>熊:あのご隠居がやることだぞ。酒まで出すに決まってるじゃねえかよ。>八:そりゃあ願ったり叶ったりじゃねえか。>熊:お前ぇの腹の虫のことじゃねえよ。問題は酒癖が悪い娘さんと泣き上戸のお役人のことだよ。>八:良いんじゃねえの? 破談なら破談。清々するじゃねえか。>熊:新山っていうお役人の面子(めんつ)ってもんもあるだろう。泣き上戸のせいで婚儀を断られたって評判にでもなったらどうするんだ?>八:そんなの知ったことかよ。巧く行こうが駄目だろうが泣き上戸には違いねえんだからよ。いっそのこと「泣き上戸で御座い」って書いた晒(さら)しかなんかを縫(ぬ)い付けて歩きゃあ良い。>熊:お前ぇは無茶なことを言うな。>八:だってしょうがねえだろ? 事実は事実なんだからよ。>熊:そんなこと、五條さんっていう娘さんにも言えるか?>八:そいつはちょっと可哀想(かわいそう)だな。>熊:お前ぇ、男と女で、なんでそんなに態度が違うんだ?>八:決まってんじゃねえか。世の男は女を好きになるようにでき上がってるからさ。>熊:何が「世の男は」だ。唯の女好きの癖しやがって。>八:なあ、じゃあ聞くがよ、お前ぇが嫁を貰えねえのはお前ぇが男好きだからなのか? どこぞの寺の坊さんじゃあるまいしよ。>熊:な、なんてこと言いやがる。言って良い冗談とそうでない冗談があるぞ。>八:はは。ちょっとからかっただけじゃねえか。そう熱くなるなっての。・・・それとも何か? 自分が若い娘好みだってのに気が付いてて、普通じゃねえってことを気に病んででもいるのか?
2007.12.28
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『月下氷人(げっかひょうじん)』 『月下氷人』媒酌人、仲人(なこうど)のこと。類:●月下老●月下老人●月下翁●赤縄子★「月下老人」と「氷人」との結合した語<国語大辞典(小学館)>故事:「晋書-芸術伝・索屁」 中国、晋の令狐策が、氷上に立って氷の下の人と話をした夢を、索屁が、陽である氷上から陰の氷下に語ったから、仲人をするだろうと予言し、その通りになった。 *********ばつが悪かったせいか、純と弟の忠乗は、「今日のところはお先に失礼させていただきます」と言って去っていった。大路郎は、竜之介がどうしてもと頭を下げるので、留まることになった。八兵衛は、事情はどうあれ、夕飯にありつける可能性が出てきて、ほくほく顔である。>八:ねえご隠居、厳(いか)めしい人も帰ったことですし、これから後は喉(のど)でも湿(しめ)らしながらってのはどうですかい?>内:そうですね。陽気が良いので、喉も渇きますね。八つぁんは茶菓子が足りなかったようですしね?>八:ははは、見てらしたんでやすか。ご隠居も人が悪い。>内:市毛殿、竜之介さん、どうですか? 飲みながらの話ということにしても宜しゅう御座いますか?>大:そのような、ご迷惑では御座りませぬか?>内:とんでもない。そのようなことはありませんとも。ここに5人も揃うなんてことは滅多にありませんからね。・・・竜之介さんも宜しいですね?>竜:英雄は色を好み、豪傑は酒を好むと申す。喜んでお付き合いいたそうぞ。>内:ほっほ。まったくもって変わってらっしゃる。>熊:大(おお)先生、「豪傑は酒を好む」なんて言葉ありましたっけ?>大:さあな。大方、どこぞの三文文士の捏(で)っち上げであろう。>竜:そのようなことは御座らぬぞ、義父(ちち)上。現に、関羽も張飛も大酒飲みであった。>大:それにしたとて、実際にそうであったかどうかは誰も分からぬであろう。唐(から)の国の歴史書は、史実ばかりでないらしいからな。>八:そうなんですか? 歴史書なのに嘘八百を並べてるんでやすか?>大:そうだ。後の文官が英雄豪傑はかくあるべしとして、脚色するのだ。劉備などは、猿(ましら)か何かのように足が短く、腕が地に付くほど不恰好だったそうだ。>竜:義父上といえど、その悪口(あっこう)は許せぬ。将軍たるお方を貶(けな)すということは、上様を悪(あ)し様(ざま)に言うのと変わらぬ狼藉(ろうぜき)である。>大:そうかも知れぬが、お前の三国志気触(かぶ)れは度を越しておる。>内:まあ、そのくらいになさいませ。市毛殿、歴史書が出鱈目なのなら、劉備の格好のことだってほんとのことかどうか知れたものじゃありません。そうですよね?>大:そう仰られてしまうと、立つ瀬もありませんな。立ち上がり掛けた竜之介だったが、それ以上何も言わず、怒りを納めたようである。市毛も、つまらないことを言い出しましてと、恥ずかしそうに詫(わ)びた。>八:流石(さすが)ご隠居、巧いこと言って丸め込んじまいやすねえ。>内:八つぁん、それじゃああんまり人聞きが悪い。まるであたしが阿漕(あこぎ)なことをしているようじゃありませんか。>八:そういうつもりはないんですよ。おいらは誉(ほ)めてるつもりなんでやすから。>熊:もうちょいと言葉を選べってんだ。>八:言葉なんてものは相手に通じてりゃ良いのさ。「人聞きが悪い」って言われたら「へへへ」って笑いながら謝(あやま)りゃ良いの。>熊:まったく、お前ぇってやつは・・・>八:ときにご隠居、丸め込むっていやあ、太助がやってるお奉行様の瓦版ってのはどうなんですかい?>熊:そう言や、近頃あんまり見ねえな。>内:それがですね。お奉行様はこのところあることに掛かりっ切りになってましてね。>八:あることって言いますと?>内:なんでも、奉行所の若いもんに嫁を世話してくれないかと頼まれたそうでしてね。>八:嫁の世話ですかい?>内:柄にもないからといって伸ばし伸ばしにしてたそうですが、どうも気になってお裁きにも気が入らないらしい。>八:そいつは困りもんですね。見事なお裁きが見られねえと、太助のやつだって飯の食い上げになっちまいやすぜ。>内:まったくもって、変な話ですよね。人情裁きとかと言われているお人だというのに、嫁の1人も世話できないとはねえ。>八:うちの親方だったら、ちょちょいのちょいで纏(まと)めちまうんですがねえ。>熊:そりゃあ町衆の話だろう。お役人様になんて、いくらなんだって親方には無理だよ。>八:そうか? だってよ、鹿の字だって巧くやってるじゃねえか。>熊:あれは、相手がお針子のしかちゃんだったからじゃねえか。そもそも親方にはお武家様の知り合いなんか、そうそういるもんじゃねえだろうよ。・・・っと、真逆(まさか)お前ぇ、また首を突っ込もうってんじゃねえだろうな。>八:何を言ってやがる。あの大食らいの太助が干上がるかどうかの瀬戸際なんだぞ。>熊:おいら、止(や)めといた方が良いと思うぞ。>八:何を言いやがる。お誂(あつら)え向きに大先生たちがいるじゃねえか。頼んでみる価値はあるんじゃねえのか?>熊:おいおい。いくらなんだって偶々(たまたま)ここにいたからって、そうそう良い話ができる訳じゃねえって。それはそうである。市毛には娘は1人しかいない。そういう親戚がいるという話も聞いたことがない。そうは問屋が卸さないのである。>内:お気持ちだけは有り難いんですが、大工の八つぁんには、できることとできないことがあります。元はと言えば、頼まれごとに真剣にならなかったお奉行が悪いのです。これで少しは懲りるでしょう。>八:そんなこと言ったって、お奉行様がそんな状態じゃ、太助のやつが困るでしょう。何とかしてやらなきゃ・・・>内:八つぁんは相変わらず良いお人すねえ。お奉行がここにいたら涙を流して感激することでしょう。>竜:・・・余計な口出しではあるが、耳寄りな話を知っておる。>八:なんでやすって? ほんとですかい、若先生?>大:竜之介、儂(わし)はそんな話、1つも知らぬぞ。>竜:今朝早くに、憂さ晴らしを兼ねて猪ノ吉師範代のところへ言ったときの話であるから、義父上は知りよう筈もない。>大:柿本がか? しかし、柿本には妹などいない筈だが。>竜:ご師範の嘗(かつ)ての同僚の娘御だという。>大:千場殿のか? 確かにそれでは捨て置けぬことではある。しかしな、お家の問題とか、身分のことなどもあろう。偶々(たまたま)時期が同じだからといって、必ず釣り合うとは思えぬ。>竜:そのようなことは、本人同士が決めることである。その橋渡しの労など、些(いささ)かのものでも御座らぬ。>大:かといって、関わってしまったら成就すべく立ち回らねばなるまい。こと千場殿のこととなれば、儂とて素知らぬ振りはできぬ。>内:竜之介さん、その話、この老体も混ぜて貰えんかの?>大:ご隠居様。それは・・・>竜:うむ。ご老人には、何かと世話になったゆえ、思うようになさるが良かろうよ。>内:それは有り難い。それでは、早速、千場道場に出向いてみましょうかね。>大:これからですか? いくらなんでも・・・>熊:ご隠居さんは根がせっかちなもんでして。>八:ご隠居、あ、あの、これからは酒を飲みながら若先生の相談を聞くんじゃなかったんですかい?>内:なあに、名前のことは10年も掛けて決めれば良いことです。しかし、縁談となると早いに越したことはありません。太助どんの暮らしにも関わるとなれば尚更でしょう?>八:そりゃあそうですが・・・。とほほ。またお預けか。>内:なんでしたら、八つぁんたちはここでお夕飯でも食べながら待ちますか?>八:へ? そんなことしてても良いんですかい?>熊:駄目に決まってんじゃねえか。太助のためになるんなら、邪魔かも知れねえけど、付いていくべきなんじゃねえのか? 初めにそういったのはお前ぇの方じゃねえか。>八:・・・はあ。あんなこと言わなきゃ良かった。まったく、口は禍の元って、昔の人は良く言ったもんだな。>熊:まったくお前ぇってやつは、食い物が掛かって初めて肝心なことに気が付くんだからな。なんだか妙なことになってきてしまったなと、熊五郎は思い始めていた。まあ、稚児(やや)の名前の内輪喧嘩よりも増しかと、自分を納得させるしかない。それにしても、武家の縁談などに大工風情が関わっても良いものなのだろうか?内房正道は、そんなことはお構いなしで相好(そうごう)を崩している。「これでまた1つ、お奉行に貸しができそうです」などと、大路郎に向かってにこにこと話している。
2007.12.27
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『逆鱗(げきりん)』 『逆鱗』1.ここでの鱗(うろこ)は竜の鱗で、竜は天子を意味する。天子や帝王が怒ること。天皇の怒り。 用例:兵範記-保元3年4月21日「竜顔逆鱗之至」2.激しく怒ること。普通、目上の人が目下の者を怒る場合に用いる。 例:「創業者の逆鱗に触れて降格させられた」類:●激怒故事:「韓非子-説難」「然其喉下有逆鱗径尺、若人有嬰之者、則必殺人」<然(しか)れども其の喉下(こうか)に逆鱗(げきりん)なる径尺(けいしゃく)有り、若(も)し人之(これ)に嬰(ふ)るる者有らば、則(すなわ)ち必ず人を殺す> 竜の胸に逆さに生じた一枚の鱗(うろこ)があって、人が触れると、怒ってその人を殺すという。 出典:韓非子(かんぴし) 叢書。20巻・55篇。紀元前2世紀末にかけて成立。韓非およびその一派の著作55編を収めたもの。編者未詳。刑名法術という、法治主義に基づく思想を展開し、秦に始まる官僚国家創建の理論的支柱となった。用例の出典:兵範記(ひょうはんき) 『人車記』、『信範卿記』、『平信記』などとも呼ばれる平信範の日記である。「人車」とは「信範」の二字からの偏と部分を抽出して組合せ、「兵範」とは「兵部卿信範」の首尾二字を組合せての命名である。記事は天承2年(1132)から元暦元年(1184)まで、信範21歳から73歳に至るまでの記録である。<京都大学電子図書館>*********市毛大路郎は内房の旅籠(はたご)へ行くのを渋っていた。事を大袈裟にしたくなかったのと、第三者から見たら痴話喧嘩以上に犬も食わぬ話であるに違いないと考えたからである。しかし、純の方は、白黒付くのであればどこへなりと行きましょうと、徹底抗戦の構えである。>八:奥方様、何もそう鼻息を荒くすることもねえんじゃねえですかい?>純:何を言うのです、八兵衛殿。なあなあで済ませて、後で後悔するのはこのあたくしなんですからね。>大:何もなあなあで済ませようというのではない。竜之介と聡を優先させるのが筋であろうと、こう申しておるだけだ。間違ってはなかろう?>純:確かにその筋はご尤(もっと)もですとも。ただし、それは、一介の武家であればのことです。水野家は特別なのです。>大:幕府もここまで時代が下っては、名門水野も何もなかろう。>純:ご先祖様を愚弄しようというのですか? 旦那様といえども聞き捨てできぬお言葉。>八:ま、ま、待ってお呉んなさいな、奥方様。あんまりご無体(むたい)なことをいつまでも言ってると、竜之介さんの頭に血が上って、暴れ出しちまうなんてことになり兼ねませんぜ。>大:そうだ。道場に誰も敵(かな)う者が居らんのだ。木刀でも振り回されたら手が付けられないぞ。のう、竜之介。>竜:あと少しでそうなるところである。>八:ねえ、もうちょっと頭を冷やしてくださいやし。>純:武力などに、水野の歴史は負けはせぬ。>大:これ、混ぜ返すなと申すに。>八:やっぱり、ご隠居さんのところに行きましょうよ、ねえ。ご隠居なら、お武家様の仕来たりとかにも詳しいでしょう? きっと巧く裁(さば)いて呉れやすって。>大:そうだな。致し方ない。ご老体に委(ゆだ)ねるとするか。・・・のう、どうじゃ、純?>純:分かりました。>八:そう来なくっちゃ。>熊:そんなに露骨に喜ぶなっての。純は、「水野の父か、さもなければ弟を同道させる」と言って聞かなかった。またしても、およねが遣いに出された。>大:聡は産後だから家に残って稚児を看(み)ていなさい。>聡:じゃあ、改めて言っとくわ。あたしは、どっちかって言うと、竜之介様の方に賛成。でも、一番良いのは、この子が元服する頃まで、名前を決め付けたりしないでおいて欲しい。まだ、どういう風に育つかも分からないのに決めちゃうのは、なるべく止して欲しいの。>大:尤もだな。純とて、そのつもりだったから初めのうちは口出ししていなかったのだからな。>純:ですが、もう話題に上(のぼ)ってしまったではありませんか。後戻りなどできはしません。>大:そう頑(かたく)なになるな。>純:まあ、第三者の方からそうせよとのお達しが下るのであれば、従わぬ訳にもゆきませんが。>大:まったく、こんなことになるなどとは、夢にも思わなかったぞ。一行がとぼとぼと歩いていたせいもあってか、旅籠の前には息を切らせた男が来ていて、純を待ち構えていた。純の弟で、名を忠乗(ただのり)という。>忠:姉上、何を手間取っておられるのですか? このような些細なことは力で捻(ね)じ伏せてしまうに限るのではありませんか? なんなら、拙者がこの腰の物で・・・>八:じょ、じょ、冗談は止めてくださいやし。>忠:なんですか、この下賎(げせん)の者どもは?>純:立会人と思えば宜しい。大工の八兵衛殿と、熊五郎殿である。町人とはいえ、ある意味では恩人である。粗相があってはならぬ。>忠:ほう。姉上も随分と柔らかくなられたものだな。・・・ま、なんにせよ、ささっと決めて円満裡(り)に退散しようではありませんか。>八:・・・なあ熊よ、大丈夫かな?>熊:何がだ?>八:刀に掛けてなんて言ってるぜ。ご隠居を刃物で脅して決めちまおうってんじゃねえだろうな。>熊:ご隠居様は刀くらいで考えを曲げるお人じゃねえだろう?>八:そうだよな。あっという間に方(かた)が付いちまったりしたらおいら困っちまうからよ。>熊:ほう。お前ぇにしちゃあ、珍しいことを言うじゃねえか。その通りだ。揉(も)めごとは正しく裁かねえとな。>八:それもそうだが、夕飯も出ねえうちに帰るなんてことになったら、おいらここまで何しにきたんだか分からなくなっちまうもんな。>熊:またそれかよ。>八:笑いごとじゃねえぞ。出された茶菓子にも手を付けられなかったなんてことになってみやがれ。おいら一体誰に文句を言えば良いんだ?内房の正面に座った忠乗は、あからさまに威圧的な気を撒(ま)き散らしていたが、姉から釘を刺されたこともあり、両刀は外して背後に置いていた。経緯(いきさつ)は、大路郎が手短に説明した。八兵衛は、茶菓子が出されると、すかさず頬張り、それを茶で流し込んだ。>内:それで? 忠見(ただちか)殿はご健勝かな?>忠:父をご存知か、ご老人。>内:ようく存じて居りますよ。まだ40前の頃でしたかな、先の上様(=家治)に直参(じきさん)を解かれそうになったことがありましたな。まこと、穏便(おんびん)に済んで良う御座いました。>忠:そのような話、一度たりとも耳にしたことはないが・・・。姉上はいかがか?>純:一度も。>内:そうでしょうとも。問題になる前に、ご老中とあたしとで揉み消しましたからね。>忠:それは、本当のことなので御座りまするか、ご老人?>内:あのときも、嫡子(ちゃくし)の名前の件でしたな。・・・歴史は繰り返すと言いますが、真逆(まさか)ここにきて、似たような相談を受けることになろうとはねえ。>八:ご隠居、一体全体、どんな訳だったんですかい?>忠:大工ごときが立ち入ることではない。>内:まあ、良いではありませんか。今更蒸し返す者などいませんから、笑い話だと思ってお聞きください。嫡子の名前ということですから、忠乗殿、あなたのお名前のことでしょう? 忠見殿が届け出ようとした名前は「忠康」というお名で御座いました。権現様(=家康)の康です。>純:そのような畏れ多いことを・・・。わたくしも母も、一切聞いておりませんでしたが。>内:それはそうです。ご家族の誰にもご相談せず、ご老中だけに報告したのですからね。>純:それではあまりに横暴というもの・・・>内:竜之介さんと聡さんにとっては、お内儀様のしようとしていることが、正(まさ)にそのように受け止められているかも知れませんねえ。>八:それで、そのときはどういう風にして収めたんでやすかい?>内:あたしごときの忠告など耳に届かないほどお怒りでした。太刀持ちの方に手を伸ばしたほどです。>八:あ、分かった。「殿中で御座る」って言ったんでしょう?>内:ほっほっほ。『忠臣蔵』ではありませんよ。・・・ですが、ご老中が間に割って入りましてね、その場は一先(ひとま)ず事無きを得たという状態でした。>忠:しかしそのような状態では、父は登城も儘(まま)ならぬことになってしまう筈ではありませぬか? しかし、父は以後も変わらず出仕(しゅっし)しております。>内:それはそうでしょうとも。その日のうちに上様から詫(わ)び状が下されましたからね。>忠:上様直々(じきじき)の、で御座いますか?>内:そうですよ。・・・なんでも、当日の上様は可愛がっていた鯉が死んだとかで、むしゃくしゃされておいででした。お怒りに火を点けたのが、偶々(たまたま)あなたの名前だっただけということです。>忠:しかし、仮に上様の機嫌が直らなければ、我が水野家もどうなっていたか分からないのですね?>内:さあどうでしょうか? そのような上様であったなら、1つの家などよりも、もっと重大なことになっていたかも知れません。思い直すことができる方だったからこそ、11代の今になっても安泰でいられるのではないですか?>忠:ご老体も中々際(きわ)どいことを申されますな。・・・ふう。しかし、命が縮む思いをしましたぞ。>内:それで? ご相談というのは、「忠」の文字を使うのどうのということでしたかな?>忠:い、いえ。そのことは、もう良いのです。そのようなことにばかり拘(こだわ)らず、もっと別のことでまたご相談にでもなんでも伺わせていただきとう御座います。ね、姉上?>純:え、ええ。そういたします。>八:ちょ、ちょっと待ってお呉んなさい。もう終わっちまうんですかい?>内:まだ何かありましたかな?>八:だって、まだ日が高いじゃありやせんか。こんな時分に帰ったら、また仕事に戻らなきゃなんないじゃねえですか。>内:働くことは素晴らしいことですよ、八つぁん。>八:そんなあ。折角(せっかく)筍御飯が食えるかと思って楽しみにしてたのに。>熊:お前ぇの都合通りには、ものごとは回らねえのさ。八兵衛はしゅんとして、のそのそと立ち上がり掛けた。が、竜之介が内房に食い下がった。>竜:ご老人。「忠」とか「義」とかを使わないで済むということは、忝(かたじけな)く思うのであるが、それとは別に、我(われ)の意向に付いても、ご意見賜(たまわ)れればと思うのであるが、どうあろう?>大:これ竜之介、ご老体にもご都合というものがあろう。>内:いいえ市毛様。あたしは暇な隠居ですから、都合など全くありません。この年寄りの意見が何かの足しになるのであれば、喜んでお付き合いしますよ。>八:待ってました。若先生も、中々良いところがあるじゃねえですか。>熊:まったく、お前ぇってやつは・・・
2007.12.26
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『怪我(けが)の功名(こうみょう)』『怪我の功名』当初は過失や災難と思われたことが、思い掛けなく好結果を齎(もたら)すこと。また、なにげなくしたことが、偶然にも好結果となること。類:●過ちの功名●怪我勝ち●怪我の頓作(とんさく)★(「功名」は、古くは「高名」)<国語大辞典(小学館)>*********熊五郎と八兵衛を出迎えた市毛大路郎は、ほとほと困り果てたという風情(ふぜい)である。>大:そもそも幼名(ようめい)などというものは、元服までの名で、それほど重要なものではないというのにな。>熊:幼名にしてはご立派過ぎやすねえ、軍師の渾名(あだな)なんて。>大:ほう、熊五郎殿は「三国志」をご存知か?>熊:知ってるって程のもんじゃありませんが、「三顧の礼」とかくらいなら、聞いたことがありやす。>大:ほう。それは大したものです。拙者の目に狂いはなかったようですな。>八:なんだいその「散歩の幽霊」ってのは?>熊:お前ぇに説明したって始まらねえよ。>八:なんだよ、冷てえな。おいらにも教えろよ。>熊:「三顧の礼」ってのはだな、劉備玄徳が諸葛孔明を軍師に迎えたがって、3回も頭を下げに行ったってことだ。>八:なんだいその「竜の元服」ってのは? ・・・あ、分かったぞ。それが「寝てる竜」ってやつだな?>大:ははは。面白い人だな、八兵衛殿は。>熊:済いやせん。こんな盆暗(ぼんくら)を連れてきちまいやして。>大:いや、八兵衛殿には八兵衛殿の取り柄というものがありますから。>八:そうでやしょうとも。・・・で、おいらは、内房のご隠居でも呼びに行けば良いんでやすかい?>大:まあ、そこまで大事にならずに済めば、それに越したことはないのだが・・・>熊:竜之介さんはどんな様子なんでやすか?>大:弟子たちに八つ当たりしておる。怪我人が続出して、もう、見るに堪えないといった状態ですよ。>熊:そりゃあ大変だ。早く止めなきゃいけないじゃないですか。>大:なあに、怪我といっても精々打ち身が良いところ。まあ、そのくらい真剣にやった方が、弟子たちのためには良いのかも知れぬよ。案外、良い稽古になっているようだし。>熊:そんな悠長な。>八:へえ、思ってもみねえご利益(りやく)があったってことでやすね? ・・・どれ、どんな具合いになってるのかな? ちょいと見さして貰っても構わねえですかい?>大:とばっちりを食わぬように気を付けてくださいねえ。手当たり次第っていう感じですから。>八:平ちゃらですって。あの人は、おいらにだけは一目置いてなさいやすからね。>熊:どうだか。成る程、道場の至るところに怪我人が転がっている。知らない人が見たら、道場破りの後の惨状かと勘違いするほどである。対抗できる者がもういなくなったのか、竜之介は、正面の額縁の下にどっかと腰を下ろして、1人1人を睨め回していた。>八:竜之介さん、稽古はもう終わったんですかい?>竜:まだ足りぬわ。どうだ、八兵衛殿も手合わせせぬか?>八:おいら一介の大工ですぜ。木刀なんか持ったこともねえんです。相手なんかできる道理がありませんや。>竜:そうか。では、義父(おやじ)殿はいかがかな?>大:私はもう隠居じゃ。それに、お主から1本たりとも取れた例(ためし)がない。>竜:ふむ。それは残念。・・・仕方ない、「臥竜」の顔でも見て参るとするか。>八:おや? もう名前を決めちまったんでやすかい?>大:そんな訳はなかろう。それぞれが勝手に呼ばわっているだけのことだ。>熊:それぞれって? 聡(さと)さんはなんだって呼んでなさるんですかい?>大:「菖蒲丸(あやめまる)」だそうだ。>竜:そのような女々しい名を、この銚子竜之介の後継ぎに付けられるものか。>大:幼名など一時(いっとき)のものであろうと説得しておるのだが、耳を貸そうとせんのだ。>竜:それを言うなら、聡とて同じこと。こちらの意向など聞く耳持たぬと言わんばかりだ。そもそも「臥竜」という名のどこがいけないというのだ?>八:いけなかねえですが、なんだか、難し過ぎるような気がしちまいますねえ。>竜:それこそ一時の幼名なれば、難しかろうがなんだろうが構わぬではないか。>熊:そうは仰いやすが、近所の人たちが聞いたらなんと思いやすかねえ。>竜:どういうことだ、熊五郎殿?>熊:「臥」は、伏せると同じで、病気になって寝ているって意味にも受け取れるでしょう? 病弱に育ちそうで、ちょいとばかし不安になりやしませんかねえ。>大:確かにな。熊五郎殿の言(げん)にも一理あるな。>竜:うむ。それは困る。元服して「飛竜」になるまでは元気でいて貰わぬとな。>八:後の名前まで決まってるんでやすかい?>竜:決まっておろう。時至れば、竜は大空に昇るものと相場は決まっておる。>熊:難癖を付ける訳じゃありやせんが、銚子飛竜だと、略して「張飛」になっちまいますぜ。孔明が張飛になるのは可笑(おか)しいんじゃありやせんか?>竜:それこそ難癖である。・・・しかし、そう言われてみると、上の者が下の者になるようで、心地好いものではないな。>熊:あ、いや、こんなのは高(たか)が大工の戯言(たわごと)でやすから、お忘れくださいやし。>竜:うーむ。これはもう1度考え直さねばならぬかな? ・・・義父どのはどうお考えになる?>大:私は「諸葛亮」も「張飛」も同等に好きであるから、文句は言わぬ。唯、聡が承服するかどうかは、話が別だ。実の母親の意も汲(く)んでやらねばな。>竜:うむむ。厄介(やっかい)なことになってきたな。竜之介の憤(いきどお)りも、すっかり治(おさ)まってしまった。「いっそのこと3人産んで、劉備・関羽・張飛とでも付けるか」、「或いは、曹操・劉備・孫権の方が良いのかな」などと、ぶつぶつ呟(つぶや)き始めていた。>八:なあ、熊よ。「張飛」ってのはなんなんだ? 酒を入れるやつか?>熊:「し」じゃなくって「ひ」だよ。>八:こちとら江戸っ子だぞ。自慢じゃねえが、「し」と「ひ」の違いなんか分かって堪るかってんだ。>熊:勝手なことを言ってるなってんだ。竜之介さんが聞いてたら、また悩んじまうじゃねえか。その遣り取りも、竜之介はしっかり聞いており、益々頭を抱えてしまっていた。>竜:・・・む。決めたぞ。>八:おっと、魂消るじゃありやせんか。急にでかい声なんか出さねえでくださいよ。>大:して? 何をどう決めたのだ?>竜:長子が元服するまで待つ。それまでの名前は聡と義父殿、義母(はは)上殿に任せる。元服の段になって、男子が3人ならば、劉備・関羽・張飛の3将に縁(ゆかり)のありそうな名をそれぞれ付けさせていただく。4人なら、そこに孔明も含める。・・・うむ。我ながら明快な結論である。これならば聡も文句は言うまい。>大:良くぞ申された。これでこの件は落着だな。>熊:先延ばしにしただけのような気もしやすが。>大:良いではないか。時が経つうちに婿殿も柔軟な気性に変わるやも知れぬ。然(さ)すれば、話し合いで解決もしよう。>八:でもよ熊、おいら思うんだけどよ、男の子が2人とか5人とかになったらどうするんだろうな?>熊:こら、八。余計なことを言うんじゃねえ。>竜:うーん。2人のときは・・・>熊:見ろ。また考え込んじまったじゃねえかよ。>八:へへ。おいらってば、結構細かいとこまで気が回っちまうもんだからよ。頭の回りが良いってのも罪なもんだよな。>熊:気を回すよりも気を遣えってんだ。竜之介は頭を悩ませ続けているようだったが、当面の問題は解決したようだった。どうやら、内房正道という奥の手を使わずに済みそうである。と思いきや、である。それまで黙っていた義母の純(じゅん)が、竜之介に食って掛かったのである。>純:これまでは幼名ということで黙って聞いておりましたが、元服後の名前まで話が進んでいるとあらば、口を挟まずにはおられません。>大:なんだ唐突に。お前が肩肘張る場面ではなかろう。>純:いいえ、言わせていただきます。代々、我が水野家の男子は、その名に必ず「忠」か「義」の文字を使うことと、定められてきております。わたくしもそれに倣(なら)うべきであると、言わせていただかなければなりませぬ。>大:純、お前は今では市毛の家の者であろう? 水野家は確かに名家である。だが、その仕来(しきた)りは家の中のこと。この市毛家には及ばぬものであろう。>純:いいえ。わたくしも水野の本家の長女。仕来りに従うのが当然のことと思います。>竜:待たれよ、義母上殿。市毛の家ならまだしも、この子は銚子の家の子である。当家にそのような決まりがない以上、名は我(われ)の勝手にさせていただきとう御座る。>純:なりませぬ。上総の田舎武士の家などに、わが水野家の孫の名を勝手にさせる訳にはゆきませぬ。>聡:母上、それじゃああんまり横暴が過ぎるわよ。それに、竜之介様の家を貶(けな)すなんて、この子を貶すも一緒じゃない。>純:お黙りなさい。あなたも水野の血を引くのですから、甘んじて仕来りに従いなさい。>聡:そんなの無理よ。>八:おい熊よ、なんだか雲行きが怪しくなってきたぜ。こりゃあいよいよご隠居を呼ばなきゃいけねえかな?>熊:そうさな。このまんまじゃ親子関係まで可笑しくなっちまう。>八:水野さんって家はそんなに立派なとこなのか?>熊:そんなのおいらに聞くな。ご隠居さんならどういう事情なのか知っていなさるかも知れねえがな。>八:そうだな。やっぱり来て貰おうか。・・・いや、待てよ。頼みごとをするんだったら、こっちから行かなきゃならねえかな?>熊:そりゃあ、筋から言ったらそうなるだろうな。>八:ようし。そうと決まれば、早速(さっそく)準備をして貰おうぜ。さ、とっとと出掛けようぜ。>熊:なんだ、お前ぇ? いやに浮き浮きしてるじゃねえか。>八:決まってんじゃねえか。・・・ここのお八(や)つが悪いとは言わねえが、なんてったって旅籠(はたご)のお八つに敵(かな)う訳がねえじゃねえか。それによ、話が拗(こじ)れれば拗れるほど夕飯の刻限が近くなってくるって寸法よ。>熊:またそれかよ。>八:最初はどうなることかと思ったけどよ。こう考えてみると、どんどん揉(も)めて呉れって気になってくるよな。>熊:こっちのみんなにとっちゃ、大事なんだぞ。もう少し親身になってやれってんだ。>八:おいら、筍(たけのこ)御飯が良いな。・・・うっひょう、こりゃあ楽しみだ。
2007.12.25
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『鶏鳴狗盗(けいめいくとう)』 『鶏鳴狗盗』1.鶏の鳴き真似をして人を騙(だま)したり、犬のように物を盗んだりする、卑(いや)しい者どものこと。2.「史記」の故事から、どんな下らない技能でも、役に立つことがあるということ。故事:「史記-孟嘗君伝」 秦の昭王に捕えられた斉の孟嘗君が、既に王に献じてあった狐のかわごろもを狗(いぬ)の真似をする食客に盗み出させて、王の寵姫に贈り、その取り成しで釈放され、逃れて夜半に函谷関に来たが、そこには鶏鳴までは開門しない掟があったので、鶏の鳴き真似が上手な食客に鳴き声を出させ、群鶏をそれに和させるようにして開門させて脱出することができた。*********雛人形を飾ったときの静(しずか)の喜びように味を占めて、源蔵は、源太のために武者人形を飾るのだといって大張り切りである。生まれて半年の幼児に節句の何たるかなど分かる道理がないじゃないかという、源五郎の言葉もどこ吹く風である。>棟:この前静のを作らせた浅草茅町(かやまち)の人形屋はよ、「菖蒲人形」ってのも作ってるらしいんだ。>源:半紙かなんかで兜(かぶと)でも作ってやりゃあ十分だろ?>棟:何を言ってやがる。大事な跡取りのためだってのに、紙なんかで作らせられるかってんだ。特別でっかいのを誂(あつら)えさせてやるよ。>源:年に1回しか使いもしねえ人形なんかに、余計な銭なんか使うなってんだ。>棟:年に1回だなんて誰が決めたんだ? 年中飾っときゃ良いじゃねえか。雛人形と違って、節句を過ぎて飾っとくと嫁の貰い手がなくなるって訳でもあるめえ。>源:それはそうとしても、飾りっ放しってのはどうかと思うぜ。そういうのをこれ見よがしって言うんじゃねえのか?>棟:言いたいやつには言わせときゃ良いのよ。要は源太が強く逞(たくま)しくなって呉れりゃそれで良い。そうじゃねえか?>源:だからよ、紙の兜だって十分にご利益(りやく)があると思うって言ってるんだ。>棟:自分だって、厄落としに法外な銭を使ったじゃねえか。それに比べりゃ安いもんだ。>源:あれはあれだろう。菖蒲人形とは違うって。>棟:どこが違うって言うんだ? 俺にとっちゃひとっつも変わりゃしねえ。>源:・・・あやのやつはなんとか言ってるのか?>棟:「まあ素敵」だとよ。お前ぇなんかよりずっと物分かりが良いな。まったくお前ぇには勿体ねえくらい良くできた嫁だ。>源:どうせ俺は不肖(ふしょう)の倅(せがれ)だよ。父親の頑固さを十分了解している源五郎は、それ以上何を言っても無駄だと悟り、「勝手にしろ」と捨て台詞を吐いて自室に引っ込んだ。>源:親父のやつ、身も心も爺さんに成り下がりやがったな。>あや:良いじゃありませんか。目に入れても痛くないくらいに思ってくださるんですもの。有り難いことですよ。>源:お前ぇは暢気(のんき)で良いよな。世の中にゃ、食うや食わずってもんだって、ごまんといるんだぜ。それをでっかい人形だ? どうかしてるぜ。>あや:誰かが人形を買えば人形職人が儲(もう)かり、潤(うるお)った職人さんは食べ物や小間物を買うようになります。そうやってお金が回っていけば、世の中全部が巧くいくようになるんじゃありませんか?>源:なんだよ、お前ぇ。まるで太市の旦那みてえなことを言うじゃねえか。>あや:八兵衛さんの受け売りです。>源:「八兵衛の」じゃなくって、「八兵衛が講釈する与太話(よたばなし)の」だろ?>あや:そうも言いますわね。>源:まあ、そういうことにしとくか。ちっとは気も休まるってもんだ。・・・さて、仕事に行ってくるとするか。作業場には、四郎が一番乗りしていた。>源:おう、四郎。今日は随分早いな。>四:はい。あの、およねから言われたんですが、銚子さんのところに稚児(やや)が生まれなすったってことなんで、一応ご報告しておこうと思いまして。>源:おう、そうかい。そいつは目出度(めでて)えな。昨日かい?>四:ええ。夜半に。男の子だそうです。>源:そうかい。そりゃあ益々以って目出度え。これで、市毛道場も安泰だな。>四:およねのやつ、昨夜(ゆうべ)から付きっ切りだってのに、今朝方飯炊きに帰ってきてから、蜻蛉返りで出掛けていきました。>源:そりゃあ大変だな。今晩帰ってきたら、十分に労(いた)わってやれよ。>四:はい、そうします。あの、それでですね・・・>源:どうした?>四:こんなこと親方に話す筋合いのことじゃないんですけど、およねがあんまり心配するもんで・・・>源:どうかしたのか?>四:稚児の名前のことで揉(も)めてるそうなんです。竜之介さんは「臥竜(がりょう)」にするんだって言い張る。一方、聡(さと)さんはそんな難しい名前では稚児の重荷になるって、断固(だんこ)認めようとしないそうなんです。>源:その「臥竜」ってのには、なんか意味があるのか?>四:なんでも、昔の偉い軍師の渾名(あだな)だってことです。天に昇る日を待って地面に身を横たえている竜のことなんですって。詳しいことはおいらには分かりませんが。>源:へえ。そりゃあ凄(すげ)えな。・・・でも、聡さんの言い分も尤(もっと)もだ。あんまり難しい名前なんか持つと、親の期待の大きさに我慢できなくなっちまうのもいる。>四:名前負けってやつですね。・・・およねは、竜之介さんに恩義を感じてるから、その名前を付けさせてやりたいって言ってるんですが、どうしたもんでしょうか?>源:あんまり立ち入らない方が良いんじゃねえのか? 町人があんまりお武家様の家庭の内情に口を出さない方が良いぞ。>四:そうですよねえ。およねには、あんまり出しゃばるなって言っておきます。その場は、そういうことで収まったかに思えた。が、昼時分になって、およねが現場にやってきた。市毛大路郎から頼まれて、熊五郎と八兵衛を呼びにきたというのである。>八:おい四郎、どういうことだ?>四:竜之介さんのところで男の稚児が生まれなすったそうなんですが、その名前をどうしようかってことで、聡さんと揉めてて、一向に埒(らち)が明きそうにないんだそうです。>八:そういうことなら、この八兵衛さんなら打って付けよ。どれ、熊なんか連れてくことはねえ。さ、行こうかおよねちゃん。>よね:待っと呉んなせえ。大旦那さんはお2人ども呼んできてくろって言ってただよ。>八:そうか? ・・・なんだよ。1人だけなら余計にお八つが食えるかと思ったんだがな。>四:そういう魂胆ですか?>八:いや、ちゃ、ちゃんと、名前のことが済んでから食うってことよ。要は、話が付きゃ良いんだろ?>四:おいらは、熊兄いにも付いてって貰った方が良いと思いますが。>八:まあ、そうまで言われちゃ、おいらが断る理由はねえがよ。・・・そんなことより、なんでおいらたちなんだ?およねに代わって、四郎が経緯(いきさつ)を説明した。>熊:「臥竜」ねえ・・・。そいつはまた、ご大層な名前だな。>八:そうか? 「ちょうしがりょう」だろ? 名前らしくは聞こえねえが、そんなの慣れりゃどうということもねえんじゃねえの?>四:慣れたってご本人は有り難くないと思うんですが・・・>八:ま、どう思うかは、なんにも分からねえ稚児じゃなくって、竜ちゃんと聡ちゃんだからよ。・・・それで、およねちゃん、おいらたち2人は何をすりゃ良いんだい?>よね:おらは唯の使いだがら・・・>四:きっと、お2人でなきゃ解決できないって思ったんでしょう。>五六:どういうことだ? おい、三吉。お前ぇ、分かるか?>三:いいえ。逆に話を拗(こじ)れさせちゃうような気さえしますよ。>源:糞真面目の熊でも、人より余計に諺(ことわざ)とか故事を知ってるってことで使えそうだし、お調子もんの八でも、調停役の内房のご隠居に顔が通ってるってことで使える。そういうことだ。>八:ですが親方。おいらは当然役に立ちやすが、熊なんか連れてったって糞の役にも立たたねえんじゃねえでえすかい?>熊:舐(な)めるなよ。こう見えても、「臥竜」がなんなのかだって知ってるんだからな。>八:ほう、面白(おもしれ)え。聞いてやるから、今ここで能書きを垂れてみやがれ。>熊:唐(から)の国の昔の人で、諸葛孔明っていう、蜀(しょく)ってとこの軍師だった人をそう呼ぶんだよ。>八:なんだと? こっちがなんにも分からねえと思って、口から出任せばっかり言ってんじゃねえぞ。>熊:嘘だと思うんだったら、竜之介さんにでも鹿之助にでも磯次郎にでも、聞いてきてみろってんだ。>八:なあ、ほんとなのか? ・・・ほんとだと思いやすか、親方?>源:およねちゃんが聞いてきた話も、そんなような内容だった。そうだよな、四郎。>四:その通りで。・・・こりゃあ、魂消(たまげ)た。
2007.12.24
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『兄(けい)為(た)り難(がた)く弟(てい)為り難し』『兄たり難く弟たり難し』力量などが殆ど同じで、二人のうちどちらを上とも下とも決め難い。類:●伯仲(はくちゅう)の間(かん)●匹敵出典:「世説新語-徳行」「太丘曰、元方難為兄、季方難為弟」 出典:世説新語(せせつしんご) 中国の逸話集。5世紀半ば頃成立。3巻。六朝時代の宋の劉義慶(りゅうぎけい)撰。後漢末から東晋末までの貴族、僧、文人らの逸話を集めたもの。旧名「劉義慶世説」「世説新書」。略して「世説」とも呼ぶ。*********3月(現在の4月中旬頃)に入り、棟梁・源蔵が嬉々(きき)として雛壇(ひなだん)を飾り付けている頃、大石母子(おやこ)は、小豆内海(しょうどうつみ)の家に入った。磯次郎は、役人にはならないがそれでも良いのかと、小豆に念を押した。>小:私はね、小豆の家名にそれほど未練がある訳じゃないんだよ。・・・確かに、寂しいには違いなかろうが、実の弟が血を繋(つな)いでいて呉れるのであれば本望(ほんもう)だと、そう考えるようになったのだよ。>磯:でも、「素性の知れない者を家に入れる訳にいかぬ」って言ってたそうじゃないんですか?>小:源五郎殿には恥ずかしくてそんな言い方をしてしまったが、一緒に住む久恵殿のことを、事前に知っておきたかっただけなのだ。できるだけ好みに合うように取り繕(つくろ)っておこうと・・・。な、分かるであろう?>磯:ぷっ。・・・可笑(おか)しな人だな、親父殿は。正直者だ。>久:これ、軽々しい口を利(き)くもんじゃありません。>小:良いのです、久恵殿。私はこの通り、微妙な駆け引きなどできない、役人には不適な者です。こんな男が小豆の家の家長で御座いなどと言っておられましょうか? 況(ま)して、養子やその母者(ははじゃ)に身勝手を押し付けることなど・・・>久:内海様・・・>磯:なあ、2人で盛り上がってるとこ、申し訳ないんだけど、そうと決まったんなら、出掛けても良いよね?>久:どこへ行くというのじゃ?>磯:小石川まで。それに、ちょっと挨拶(あいさつ)してこなきゃならないとこがあってね。>久:身をお慎(つつし)みなさいよ。もう、大石の家の者じゃないんですからね。>磯:分かってるよ。・・・それに、気を利かしたんだから、じっくりと、お話でもなんでもしてお呉れ。>久:これ。なんたる端たないことを。磯次郎の、小豆に対する印象は、随分と増しなものに変わっていた。母親も満更(まんざら)ではないのかな、などと考えていた。その口からは、知らず識らずのうちに、「春だしな」という言葉が漏(も)れていた。磯次郎は、小石川に行く前に、お夏の家に行ってみようと思っていた。会って呉れなくても構わない。どうせあの咲という娘が経緯(いきさつ)を説明して呉れているだろう。そこへ、背中から声が掛かった。>夏:初めて歩くところに来るときにはね、形(なり)振り構わず聞いて回るべきね。>磯:おっと。脅(おど)かすなよ。>夏:聞いたわよ。ぐうの音も出ないくらいやられたんですって?>磯:ああ。やられたな。でも、なんだか清々(せいせい)したな。>夏:あんた、なんか変な癖でもあるんじゃないの? 取っちめられて喜ぶなんてさ。>磯:そうかもな。>夏:何よ。あんまり素直だと、却(かえ)って気持ち悪いわね。>磯:良いじゃねえか。今日から姓が変わったんだからよ。祝って呉れよな。>夏:3日じゃなくて良かったわね。婿(むこ)入りの日が桃の節句だなんて、冗談みたいだものね。>磯:放(ほ)っとけ。・・・でもな、母上にとってみれば、3日でも良かったのかも知れねえぜ。>夏:へえ、それを認められるの。変われば変わるもんね。>磯:そう突っ掛かるなよ。人が変わったってったって、まったく別人になんかなれねえんだからよ。>夏:当たり前じゃない。けどね、こと小石川に関しちゃあたしの方が先輩なんだからね。ちゃんと立てて貰わないとね。あたしのお花畑を勝手に掻き回したりなんかしないでよね。>磯:あんたは切ったり縫(ぬ)ったりする方だろ? 俺とは目指すところが違うんだ。お花畑は俺に任(まか)せて、旅の準備でも始めたらどうなんだ?>夏:縄暖簾(なわのれん)の給仕程度で、準備ができる訳ないじゃないの。>磯:じゃあ、こうしょうぜ。俺の親父殿に頼んで旅費の工面(くめん)を手伝って貰う。あんたが帰ってきたら、必ずお上(かみ)に認められるようになって、工面した分を俺に返す。>夏:馬鹿じゃないの。そんなことしたらあんたの方がいつになるか分かんないじゃないの。>磯:構わねえさ。俺かあんた、どっちかが医者になりゃ、千人以上の人が助かるんだ。あんたの方が俺より半歩先に行ってるんだ。だから、あんたが先だ。その代わり、途中で逃げ帰ったりするんじゃねえぞ。>夏:馬鹿みたい。半歩後も半歩先もないでしょ? 道が違うんだから。・・・あーあ。薬が効き過ぎたって、お咲ちゃんに言っとかなきゃね。小石川に向かって去っていく磯次郎の背中が、以前のように丸まっていなくて、なんだか男らしくなったと、お夏は感じていた。病床で痛みに苦しむ父親を見て、その病気に効く薬を必ず作ってやると息巻いた、あの聞かん気の強い磯次郎が、やっと戻ってきてくれたと、密かに嬉しくなっていた。好敵手だなどというのではない。かといって、同志という訳でもない。さて、そんな頃、熊五郎と八兵衛は、静(しずか)のための雛壇の組み立てに四苦八苦していた。折角(せっかく)の人形を壊(こわ)しそうだと、源五郎には手出しをさせようとしないのである。>熊:棟梁、こんなのって、親が飾らなねえとご利益(りやく)がねえんじゃねえですかい?>棟:ご利益なんかどうでも良いのさ。要は静が喜ぶかどうかってことさ。>八:それにしたって、子供もねえおいらたちにやらせるこたあねえんじゃねえですかい?>棟:子供があろうがなかろうが、そんなこと関係ねえさ。お前ぇらは家族みてえなもんなんだからよ。・・・じゃあ、こうしよう。明日は格別に、静の父親の役をやらせてやる。どうだ、嬉しいだろう?>八:あの、おいらはご遠慮申し上げやす。>棟:なんだ? お前ぇらしくもねえ。>八:静嬢ちゃんは近頃、特に危なっかしい遊びを覚えてるみてえじゃねえですか。>熊:擂(す)り粉木(こぎ)はいくらなんでも痛えですぜ、棟梁。>棟:そうさな。確かに俺も困っちゃいるんだ。やっぱり擂り粉木はな・・・>八:分かっててそんなこと言い出したんですかい? 勘弁してくださいよ。>棟:そういう魂胆がある訳じゃねえさ。まあ、明日の夜は特別にご馳走(ちそう)を用意するからよ。>八:え? ご馳に与(あずか)れるんでやすかい? それじゃあ、文句もなんにも言えやせんね。>熊:すぐに騙(だま)されやがる。>八:なんだよ。>熊:良いか? お雛様と言やぁ、甘酒に餅あられ、菱餅に桜餅って相場が決まってるんだよ。>八:それがどうかしたか? おいら、桜餅を肴(さかな)に甘酒でも、一向に構わねえぞ。>熊:止しと呉れよ。おいらは「だるま」で蕗(ふき)の煮物の方が良い。>源:親父、もう良いだろ? 八と熊を解き放ってやって呉れよ。>棟:ああ。もうここまでくりゃあ良いぜ。後は俺だけでも大丈夫だ。>熊:ふう。助かりやしたぜ、親方。>八:おいらは餅あられでも構やしませんぜ。>源:・・・さっきな、小豆様が訪ねてきたんだと。畏(かしこ)まって「お礼の言葉もない」だとよ。>八:それじゃあ、礼金か菓子折りかを持ってきたんでやすね?>源:そんなのあるもんか。>八:ありゃ。そうなんでやすか。>源:これから、磯次郎さんの勉学のために、貯(た)めなきゃならないから勘弁して呉れとよ。>熊:それじゃあ、小豆の旦那も磯次郎さんのことを応援して呉れるんでやすね?>八:そんなの、手土産(てみやげ)を持ってきた後からだって間に合いそうなもんなんでやすが・・・>源:何をぶつぶつ言ってやがる。その分、俺が飲ましてやる。・・・おい熊、六之進さんとお咲ちゃんにも声を掛けてこい。>熊:合点でぇ。そんじゃ、一足(ひとあし)お先に。>八:あれあれ。何もあんなに慌てることもねえだろうによ。>源:なあ、八。>八:なんでやしょう?>源:小豆の旦那の、養子の件は丸く収まったみてえなんだがよ。その、なんだ、養子の母親と小豆様本人はどうなんだ?>八:何とかなるんじゃねえですか? なんてったって、お咲坊の口八丁に掛かったら、あんな小豆の旦那が、まるで高潔の士(し)かなんかみてえに聞こえやすからね。>源:そうか。それなら良いんだがな。>八:大丈夫でやすって。磯次郎と小豆の旦那が巧(うま)くやっていけば、母親だって嫌な気になりゃしませんよ。まるで雛壇の菱餅みてえに、3枚ぴったり合わさって、美味(うま)そうに飾られやすって。>源:お前ぇはなんでも食いもんに喩えやがるな。まあ、聞いてて分かり易いっていえばそうだがな。>八:でしょう? 分かり易いのが一番でさあ。>源:・・・そのうち、熊の野郎も、菱餅みてえにしてやらねえといけねえな。>八:なんですかい? 叩いて伸(の)して、色を塗って、町の小間使いにでも祭り上げようってんですかい?>源:まったく、お前ぇはなんにも分かっちゃいねえな。食いもんに喩えればちっとは察するかと思ったんだがよ。>八:なんのことでやすか? 親方?>源:もう良い。五六蔵たちにも声を掛けてこい。「だるま」へ繰り出すぞ。
2007.12.23
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『蛍雪(けいせつ)』『蛍雪』苦労して勉強すること。苦心して学問をすること。類:●苦学●蛍の光窓の雪●股を刺して書を読む故事1:「晋書-車胤伝」「夏月則練嚢盛数十蛍火、以照書、以夜継日」 晋の車胤(しゃいん)は、貧しいために灯火用の油が買えないで、蛍を集めてその光で書を読んだ。故事2:「蒙求-中・孫康映雪」「康家貧無油、常映雪読書」 晋の孫康(そんこう)は雪の明りで書を読んだ。*********六之進はごそごそと、行李(こうり)の底から一張羅を引っ張り出した。髪はぼさぼさだが、格好だけは、かなり立派になりそうだ。>六:しかしな、あまり気乗りはせんな。>熊:人助けだと思って我慢しと呉れよ、六さん。それに、どうせお咲坊が喋(しゃべ)り捲(まく)るだろうから、口を挟む暇もねえってよ。>咲:何よ、それ。雲雀(ひばり)かなんかみたいな言われようね。あたしそんなにお喋りじゃないわ。>八:そうだよな、雲雀じゃねえよな。季節柄、鶯(うぐいす)くらいにしてやらねえとな。>咲:そう言う問題じゃないでしょう。>六:それで? その磯次郎とかいう若者に何をどう説(と)けば良いのだ?>熊:小さい寺子屋なんかで不貞腐(ふてくさ)れてねえで、もっと高い志(こころざし)を持てって言ってやって欲しいんだ。・・・それから、もし、医学に興味があるんだったら、本気になって勉強しろってな。>咲:医学? そんなもんに興味があるの?>熊:「そんなもん」って言うことねえじゃねえか。お夏坊の話っ振りだと、あながち冗談じゃねえみてえなんだ。>咲:ふうん。それでお夏ちゃんにしては珍しく、熱くなっちゃったのね?>熊:さあ、どうだかな。>咲:分かったわ。このあたしに任しといて。ぐうの音も出ないくらいこてんぱんにしてやるんだから。>熊:おいおい、やり過ぎて卑屈になっちまったっていうんじゃ困るぜ。>咲:そのくらいの方が、却(かえ)って良いかもよ。>熊:良い訳ねえだろ。ほどほどにやって呉れよな。>咲:でも、熊さんたちも一緒に来るんでしょ?>熊:大工風情(ふぜい)は、後ろに下がって、神妙(しんみょう)にしてた方が良いだろう。>咲:そうなの? あんまり関係ないと思うけど。早速(さっそく)翌日の夕刻に、磯次郎を訪(たず)ねる手筈(てはず)となった。母親の久恵からは「いつでも結構」という返事を貰ってきてあった。>八:おいらも何か喋りてえな。>熊:駄目だってんだ。お前ぇが喋ると、巧くいってる話が打(ぶ)ち壊しになっちまう。>八:そうか? だってよ、武家ってったって、17の餓鬼だろ? 年上に対する敬意ってもんを叩き込んでやるのも良いことだと思うぞ。>熊:お前ぇはなんでも自分に都合良いように解釈しやがるからな。17、8くらいが一番微妙な年頃なの。>八:女だけじゃなく、男もか?>熊:ああ。男もだ。>八:その年の頃なんか、おいら、全然微妙じゃなかった気がするけどな。>熊:お前ぇは特別なの。>八:そりゃあ凄(すげ)え。おいらは特別な人間だったんだな。・・・明日、五六蔵たちに自慢してやらねえとな。>熊:止(よ)せったら。笑われるのが落ちだっての。翌日の夕刻、大石の家の居間には、六之進とお咲が、内裏(だいり)と女雛(めびな)宜しく、並んで座っていた。やがて帰ってきた磯次郎が久恵に呼ばれ、苦虫を噛み潰したような顔で居間に入ってきた。>磯:なんだい? 忙しいんだけどな。>久:何が忙しい道理がある? 木刀を握るでもなし、机に向かうでもなし、唯(ただ)ぼうっと空を眺めているだけであろう。>磯:そんなことねえよ。・・・おっと、誰だい? このおっさんたちは?>久:無礼なことを言うでない。家島殿縁(ゆかり)の方々じゃ。>磯:へえ、こっちの弱みに付け込んで、父親を宛がおうって話のかね。人数が多けりゃ良いってもんじゃねえだろうに。>六:杉田六之進と申す。これに控え居(お)るは、娘の咲と申す。>咲:咲です。・・・お話を伺っておりますと、磯次郎さんにおかれましては、養子の話は意に添わぬご様子。この話、なかったことにするのが良策かと存じますが、いかが?>久:お、お待ちください。それでは困ります。>磯:良いじゃねえかよ。普請奉行所の平役人の家に行ったって、どうせ碌な役になんか就(つ)けるもんじゃねえし。>咲:小豆様のことをご存知なのですか?>磯:番町の辺りで一度見掛けたことがある。むさ苦しい、よれよれのおっさんだ。>咲:へえ、そう。態々(わざわざ)探しに行ったの。ちょっとは、見込みがあるじゃないの。もっと閉じ篭もってるだけの軟弱野郎かと思ってた。>六:これ、咲、もっと穏やかにしていなさい。>咲:良いのよ。向こうがそうなんだから、合わせてあげるの。・・・それで? あなた小豆様の何を見てきたって言うの?>磯:なんだよ、あんまり馴れ馴れしくするなよな。>咲:こっちは質問してるのよ。先にお答えなさい。小豆様の何を見て、そんな投げ遣りになっちゃってるの?>磯:何をって、あの年になっても、大した碌を貰えず、下男の1人も置いていねえってことをだよ。>咲:確かに去年の初めまでは、少ない碌をみんなお酒に替えちゃうっていうような生活をしてたわ。でもね、今じゃ、すっかり暮らしを改めたのよ。二日酔いの赤ら顔じゃなかったでしょ? お髭だって髪だって、こざっぱりとしてたでしょ?>磯:格好がどうだって言うんだよ。要は、出世もできずに、ちまちました暮らしをしているってことだ。>咲:ちまちまのどこが悪いの。できる限りの生活をしてればそれで良いじゃないの。雑草が伸び放題になってた? 屋根や戸板に穴でも開いてた?>磯:そんなとこまで覗いてくるかってんだ、盗人(ぬすっと)じゃあるまいし。>咲:そうでしょうとも。人を見掛けだけで判断しちゃうような、薄っぺらい餓鬼じゃあ、お母上様も相当手を焼いてしまっているでしょうよ。>磯:ぶ、無礼な。それ以上俺を侮辱すると、ここから叩き出すぞ。>咲:どうせ、女と年寄りにしかそういう口を利けないんでしょう?>磯:先ほどから聞いておれば、軽薄者だ、卑怯者だと、随分と好き放題言って呉れるじゃないか。碌な学問も身に着けていないお前などから、咎(とが)められる筋合いはないわ。>咲:あんたみたいに、ふんだんに書物を用意して貰って、学問所まで行かせて貰って、安穏と暮らしてる人は偉いの? 少しくらい暗記力が良いからって偉そうなことを言わないで。世の中にはね、碌に油も買えないで、上等じゃない写本を擦り切れるまで読んで、それでも医者になりたいっていう子もいるの。それなのにあんたは何? 母上からそんな立派なお頭(つむ)を貰っておきながら、何でお返ししようって言うの? どういうお返しをしようって言うの?磯次郎は、お咲の勢いに気圧(けお)されてしまった。そればかりではない。お夏のことを指して言っているのだと、気が付いてしまった。そして、お夏と比較されて、自分が酷(ひど)くいじけた行動を取っていることに、思い当たってしまったのだ。>磯:・・・そんなこと、今更、医学の道へなんか、間に合う訳ないじゃないか。>咲:そんなの・・・。やりもしないのに、結果が分かってますっていう顔をしたってちっとも正しくない。何かをやり始めなさいよ。できることをあれこれやってみなさいよ。>磯:しかし・・・。しかし、これ以上母上に苦労は掛けられない。何年掛かるか分からないんだぞ。>久:磯次郎・・・>咲:お母上が、今、何に一番気を揉(も)んでいるのか分からないの? あんたのそういうところよ。あれも投げ遣り、こっちはお座形(ざなり)、母上に頼みごとの1つもできない。そんなところが一番心配なんじゃない。あたしの言うことに、少しでも間違ってるところがあって?>磯:・・・>久:磯次郎。>咲:母上に頼んでみなさいよ。何を学びたいの? 何をしたいの? 何になりたいの?>久:磯次郎、言って頂戴。>磯:母上、俺、「分教場」を辞めて、小石川の薬草畑で働きたいんだ。働きながら、薬の調合なんかを覚えたいんだ。蘭学も勉強して、南蛮の薬術を訳して、国中に広めたいんだ。ことによると、長崎に行かないと手に入らない書物もあるかもしれない。・・・いや、出島というところに行けるものなら行ってきたいんだ。>久:磯次郎、お前・・・>咲:言えたじゃない。どう? すっきりしたでしょう? 新しい父上にも言えるわよね、役人にはならないって。>磯:でも、後継ぎにならないんだったら、養子になんかして呉れやしないだろ。>咲:そんなの分からないじゃない。世の中、100人のうち99人がそうでも、そうじゃないのが1人くらいいるから面白いのよ。・・・それに、ご破算になっても良いじゃない。いじけてる暇なんかないって、もう分かったんでしょ?>磯:ああ。そうだな。>咲:それに、実を言うとね、小豆様って、後ろに並んでるあの人たちに、ちょっとした借りがあるのよね。>磯:町人に借りだと? 借財のことか?>咲:真逆(まさか)。後で聞くと良いわ。養子になってからね。>磯:なんだか、面白そうだな。・・・それはそうと、あんた、栗林夏のなんなんだい?>咲:そういうあんたこそ、お夏ちゃんのなんなの?>六:奥様、娘はどうにも口が悪くていけません。言い過ぎがありましたらお詫びいたします。>久:とんでもないです。夫を亡くして以来、初めて磯次郎の本音を聞けた気がいたします。それもこれも、皆、杉田様と咲さんのお陰です。ほんとに、なんと言ってお礼を申したら良いものやら。>六:礼など必要ありませんよ。あたしらは、あすこにいる熊さんや八つぁんからの頼まれごとを、どうにかこうにか熟(こな)せたことで満足なんです。>久:町衆の方に借りを作るというのも、悪いことでもないかも知れませんわね。>六:いやあ、お恥ずかしい話ですが、傘貼りなぞして食い繋いでいる情けない身とはいえ、反面、肩に力の入らない楽しい生活をしていますよ。>久:浪人生活をなさっているのですか?>六:それはもう極貧です。・・・ですが、娘の言う通り、ぎりぎりなりに一所懸命生きてますから、悔いはありません。大工のみんなも、こんなあたしらに、気を配って呉れますしね。
2007.12.22
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『芸術(げいじゅつ)は長く人生は短(みじか)し』 『芸術は長く人生は短し』人間の命は短いが、優れた芸術作品は作者が死んだ後も、長くその名声や評判を残す。★元の意味は、医術を修めるには長い年月を要するが、人生は短いから勉学に励むべきである。類:●Art is long and life is short.<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典>出典:ヒポクラテスの言葉。ラテン語のArs longa, vita brevisの訳。人物:ヒポクラテス(Hippokrates) 紀元前5世紀から4世紀の古代ギリシアの医者。生没年不詳、紀元前460年頃。経験的知識に基づく医術を主張し、医道の基礎を確立した。「医学の父」と称される。現在でも、「ヒポクラテスの誓詞」9か条を誓う医学校が少なくない。*********「荒療治」などと勿体を付けた言い方をしたが、詰まるところ八兵衛は、磯次郎とお夏を会わせて2人の間柄を確かめてみたかっただけである。「だるま」での報告会のときに、熊五郎や五六蔵に協力を求めた。>熊:そんなこと言ったって、ご当人のお夏坊が会いたがらねえんだから、どうしようもねえだろ?>八:そこはお前ぇ、昔馴染みの「熊お兄ちゃん」から頼まれりゃ、嫌とも言わねえだろ?>熊:もう言ってんじゃねえか。「分教場には案内するけど磯次郎には会わない」ってよ。>八:そう言うなって。小豆(しょうど)の旦那だって可哀想(かわいそう)だろ? それによ、磯次郎本人だって、このままじゃ鼻持ちならねえ小生意気なお山の大将で終わっちまう。折角(せっかく)ご立派なお頭(つむ)を持ってるってのによ。>熊:そりゃあおいらだって、このまま知らん振(ぷ)りしようって訳じゃねえけどよ・・・>八:じゃあ、良いじゃねえか。>熊:また不機嫌になって、お花畑なんかに逃げ込まれたって知らねえぞ。>八:そんときゃ、嫌われるのは熊だからよ、おいらは平気の平左ってもんよ。>熊:戯(たわ)けたことを言ってんじゃねえ。お前ぇの申し出だなんてことは、3つの子供だって気が付くぜ。>八:好い加減なことを言うな。賢(かしこ)い静(しずか)嬢ちゃんだってそんなの分かりゃしねえって。>熊:例え話だっての。・・・どっちにしろ、お前ぇは暫(しばら)く口も利いて貰えねえな。>八:暫くってどのくれえだ? 1日か? 3日か?>熊:さあな。・・・だがよ、磯次郎が神妙に自分の間違いに気が付いて、心を入れ替えるってんなら、お夏坊からお褒(ほ)めの言葉でも貰えるかも知れねえな。>八:ほんとか? ようし、おいらが磯次郎の野郎を、ご立派な人間にさせてやろうじゃねえの。・・・ようし、やったるぞ。>熊:大丈夫かよ? ・・・でもま、自分から動こうって気になっただけめっけもんかな?やがて、お夏がやってきた。>夏:あれ? お咲ちゃんは一緒じゃないの? 何かあった?>熊:いやなに、ちょいとばかし昂(たか)ぶっちまってな、今日連れてきたら、荒れちまいそうだったからよ。>夏:ふうん。そう。・・・あんまり怒らせちゃ駄目よ。あの子ああ見えて繊細なんだから。>八:あれが繊細って面(つら)か?>夏:八兵衛さんはなんにも分かってないのよ。・・・あ、分かった。八兵衛さん、またなんか気に障(さわ)ることを言ったんでしょう?>八:またってことはねえだろ、またってことは。>夏:へへ。ご免なさい。言い過ぎちゃった。>八:良いの良いの。お夏ちゃんなら何言われたって平ちゃらさ。なんだったら、もっとどんどん言って呉れちゃっても良いんだぜ。>熊:馬鹿かお前ぇは。調子に乗るのも好い加減にしとけよ。>八:違うんだっての。こうやって雰囲気(ふんいき)を柔(やわ)らかくして、お前ぇが話を切り出し易くしようってんじゃねえか。>夏:なあに? あたしに相談事でもあるっていうの?>熊:ああ。ねえ訳じゃねえが、後にしとく。>夏:ははあ。そういうこと? ・・・嫌よ。絶対に嫌。>八:まだなんにも話してねえじゃねえか。熊の頼みも聞いてやったらどうだ? 昔馴染みなんだろ?>夏:それを好いことに、あたしに何かさせようって魂胆(こんたん)なんでしょ、八兵衛さん?>八:ぎくっ。>夏:やっぱりそうだ。あたし、絶対、磯次郎には会わないからね。お生憎(あいにく)様。>八:お、おいら、何も、そんなこと言い出しちゃあいねえぞ。>夏:顔に書いてあるわよ。あんまり八兵衛さんの考え付きそうなことなもんで、呆れちゃってるわ。・・・何か良いことをしようってのは分かるんだけど、こればっかりは駄目。6尺(約1.82メートル)以内に寄られただけで、怖気(おぞけ)が立つわ。>八:やっぱり駄目なのか? 6尺よりも外ならどうだ?>夏:駄目。>八:小豆の旦那のためでもか?>夏:申し訳ないとは思うけど、駄目。>熊:・・・なあ、お夏坊。お夏坊は、今の磯次郎が嫌いなんだろ? ならよ、罷(まか)り間違って磯次郎が、真っ当な男になったら、話を聞いてやっても良いと思うか? 思わねえか?>夏:それこそ、罷り間違ったらね。でも、今はどうあっても会わない。8尺以内に近寄るのも許さない。>八:増えてるぜ。取り付く島もないとはこのことである。お夏抜きで、磯次郎攻略を推(お)し進めなければならない。事ここに至っては、直接磯次郎に、武家のなんたるかを諭(さと)さなければならない。間違いなく、大工風情(ふぜい)には、出過ぎたことである。>五六:あの、差し出がましいようでやすが、ちょいと提案さして貰っても良いですかい?>八:なんだ? 良い提案だったら、なんぼでも受け付けるぞ。>五六:お武家様は、大工の話なんぞにゃ聞く耳持たねえってのは仕方のねえことでやすよね?>八:小豆の旦那とか、太市の旦那は良く聞いて呉れたぞ。>五六:あの方たちは特別ですって。・・・そこででやす。あっしらの仲間内でお武家様っていうと?>八:そりゃあ、鴨の字と、鹿の字と・・・>五六:もっと近くにいるでしょう?>八:真逆(まさか)、六さんなんていうことじゃねえんだろうな? ありゃあ、傘貼り浪人だぜ?>五六:浪人だろうがなんだろうが、お武家様でありさえすれば良いんですって。それに、年の近い娘もいなさることですからね。>熊:お咲坊は良いとして、六さんまで引っ張り出すのはどうかと思うぞ。>五六:お飾りでさあ。要は、お咲ちゃんが全部を纏(まと)めて呉れるってことですよ。六之進さんは、そのお飾り。お武家様たちにゃあ、お飾りは必要不可欠なもんでやすからね。>熊:ほう、言い得て妙だな。・・・分かった。六さんにはおいらから頼んでおく。で? 磯次郎の方はどうするんだ?>五六:三吉が、ご内儀(かみ)さんに面(めん)が割れてやすから、使いに遣りやしょう。>三:ええーっ? また小間使いですかい?>五六:慣れてんだろ? ・・・巧(うま)いことやって呉れたら、お三千に友達を2、3人見繕(つくろ)わせるからよ。>三:ほんとですかい? やったあ。おいらにも春が巡ってきたか。>八:五六蔵、頼むから、おいらにも口利きして貰って呉れよな。な、きっとだぜ。>五六:そ、そりゃあ八兄い、言われるまでもねえことでやすよ、ははは。6人連れの団体客を見送り、卓を片付けてから、お夏が渋々近付いてきた。六之進に出張って貰おうという話は、片耳で聞いていた筈である。>夏:八兵衛さん、万が一、磯次郎が八兵衛さんたちの話を大人しく聞くようだったら、これだけ伝えておいて欲しいの。>八:なんだい?>夏:医術は、書物だけで身に付くもんじゃない。心の臓が悪い父親を持ってたあたしだって、満足に極めちゃいないの。医者っていう仕事はね、身を立てるための仕事じゃなくって、10年後の医者のために、分かったことを書き留めることが仕事なのよ。それが、百人を助けるってことなの。千人を助けるってことなのよ。・・・そんなようなことを、伝えといて。>八:そんな長くっちゃ、おいらにゃ覚えらんねえぞ。>熊:大丈夫だ、お夏坊。おいらがしっかり言っとく。・・・だがな、小豆様の跡を継いで、普請方にお勤めになるかも知れねえんだからな、そうなっても、恨むんじゃねえぞ。>夏:当たり前じゃない。1人でも多いに越したことはないけど、それぞれの事情まで曲げて無理強いしたりするもんじゃないでしょ?・・・尤(もっと)も、意味もなく逃げ回ってるだけの腰抜けを労(ねぎら)ってるような暇は、あたしにはないんだけどね。>熊:分かった。お夏は、これが今夜の別れの挨拶よと言わんばかりに、別の卓に回っていってしまった。名残(なごり)惜しそうに後ろ姿を追う八兵衛が、熊五郎に食って掛かった。>八:お前ぇら、もっと分かる言葉で話しやがれ。・・・まったく、2人だけで盛り上がりやがってよ。妬(や)けるったら、この上ねえぜ、まったくよ。>熊:八よ、どうやら磯次郎は、意外と医術に興味があるようだぜ。>八:だからどうだってんだよ。>熊:小豆の旦那にゃ申し訳ねえことだが、まだまだ隠居なんかしてられねえてことよ。逆に、今までより余計に稼(かせ)いで貰わなきゃならねえ。そういうこった。>八:何言ってんだか、さっぱり分からねえ。>熊:まあ、任しとけって。そうとなりゃ、お咲坊が人一倍活躍して呉れるだろうからよ。>八:なんでだ? ・・・まあ、巧く行きさえすりゃあどうでも良いがよ、泣かせたりはしねえだろうな。おいら、そういうのが一番苦手なんだからよ。>熊:大丈夫だ。・・・それに、間違いなく、磯次郎も心を入れ替える。>八:本当なんだな? よし。そうなりゃ、お夏ちゃんにとって、この八兵衛さんの株ももう、鰻登り間違いなしだな?>熊:あんなこと言ってやがる。どう思う、五六蔵?>五六:そこで、お咲ちゃんに取り入ろうくらいの機転が利きゃあ立派なもんなんでやすがね。>熊:そいつは、端(はな)から無理な相談ってもんだ。
2007.12.21
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『鶏口(けいこう)となるも牛後(ぎゅうご)となる勿(なか)れ』 『鶏口となるも牛後となる勿れ』[=鶏尸(けいし)-牛従(ぎゅうじゅう)]大きな団体の属員になるより、小さな団体でも、その頭(かしら)になる方が良い。類:●鯛の尾より鰯の頭●Better be the head of a dog than the tail of a lion.<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典> ●It's better to be a big fish in a little pond than a little fish in a big pond.出典:「史記-蘇秦伝」「臣聞鄙諺曰、寧為ケイ[奚+隹]口無為牛後」★源典は、「戦国策-韓策・昭侯」「鄙語曰、寧為ケイ[奚+隹]尸、無為牛従」。*********お夏の言う通り、「分教場」は程なく終業となった。真っ先に帰り支度(じたく)を終えた磯次郎の後を、八兵衛と三吉が追った。>三:結局おいらたち2人になっちまいやしたね、八兄い。なんだか、貧乏籤(びんぼうくじ)を引かされちまったような気がするんでやすが・・・>八:・・・なあ三吉、聞いて良いか? おいらお咲坊を泣かしちまうようなこと、何か言ったかな?>三:はっきり言わして貰うと、正(まさ)しく言いやした。>八:おいらが何をどう言ったってんだよ。>三:お夏ちゃんがどれだけ本気なのか知れたもんじゃないって言ったじゃねえですか。>八:そんなことで泣いちまうもんか?>三:泣きますとも。真逆(まさか)そんなことも分からねえんでやすかい?>八:そんなの分かる訳ねえじゃねえか。「孟子」とかいう書物にでも書いてあるのか?>三:八兄い、言わして貰いやすがね、そんなんじゃ、いつになっても娘心なんか分かりゃしませんぜ。・・・良いですかい? どういう間柄かは別にして、お夏ちゃんと磯次郎とには似たようなところがある。まったく違うところもある。片一方は物凄く真剣に誰かのためになりたいと思っている。それが、もう一方は雨垂れなんか数えながら欠伸(あくび)をしていやがる。そんなときに、真剣な方のお夏ちゃんに「本気だったとは思わなかった」なんて言ってみてお呉んなさい。どう思いやす?>八:待て、待って呉れよ。おいら、今日はよ、唯(ただ)磯次郎の後を付けに来ただけなんだぜ。そんな難しいことを話しにきた訳じゃねえんだっての。>三:そいつは八兄いの事情でやしょう? 嫌々案内役にさせられたお夏ちゃんには、お夏ちゃんなりの事情があっても可笑(おか)しくないじゃありやせんか。そこを、ものの見事にぐっさりと突いちまったんですよ、八兄いは。>八:態(わざ)とじゃねえぞ。>三:当たり前ですよ。そんなこと態とできるんだったら、もっと違うところに使っているでしょう?>八:お前ぇも言うねえ。・・・で、おいらが言っちゃなんねえことを、言っちゃなんねえときに、言っちまったってのは、分かる。それを、なんでお咲坊が泣いたり怒ったりするんだ?>三:そりゃあ八兄い、お夏ちゃんが自分から「辛(つら)い」なんて、決して言い出さないからじゃぁありやせんか。見ているお咲ちゃんの方が、辛くなっちまうくらいに。八兵衛は、「本人は我慢強いのに、周りの方が見ていて我慢できなくなるってことか?」などと、ぼそぼそ呟(つぶや)き始めていたが、結局、結論を巧く導き出せないようだった。そんな様子を見て、三吉の方が「済いやせん、言い過ぎやした」と謝(あやま)る始末である。>三:八兄い、あの辻を曲がりやしたぜ。>八:ん? どうかしたか?>三:どうかしたかじゃありやせんよ。磯次郎の家ですよ、家。>八:・・・あ、そうか、それが今日の仕事だっけな。悪(わり)い悪い、忘れちまってたぜ。>三:しっかりしてくださいよ。>八:おいら、一時(いっとき)に2つのことができるほど器用じゃねえんでな。・・・ほう、ちょっとばかし零落(おちぶ)れちゃぁいるが、まあまあご立派そうな屋敷じゃねえか。2人揃って、垣根の隅から中を覗(のぞ)き込んでいたところ、横合いからつかつかと走り寄る足音があった。>女:そこな下郎(げろう)。なんの悪しき魂胆(こんたん)があって家の中を覗いて居る?>三:あ、あの、悪しき魂胆なんぞ、これっぽっちも持ち合わせちゃあ居りやせん。お、おいらたちはその・・・>女:口篭もるところが益々以って怪しい。今近隣の者を呼ぶから、神妙にお縄を受けるが良い。>八:と、とんでもねえ。おいらたちゃあ別に悪気があって覗いてた訳じゃねえんでやすって。>女:覗き見る行為それこそが悪気である。・・・さあ、神妙に神妙に。>八:いくらでも神妙にいたしやすって。・・・でも、話くらい聞いてくださいやし。>女:ええい、聞く耳持たんわ。つべこべ申すのなら、いっそのことこの場で手打ちにしても良いのだぞ。>三:ひええーっ。>八:お待ちください、お内儀様。あの、あなた様は、寺社方の与力の家島様をご存知でらっしゃいますよね?>女:何? いかにも家島殿とは旧知の間柄ではあるが・・・。そちらにはなんの関わりもあるまい。>八:それが大有りでして。>三:八兄い、ご当人には見付からないようにって頼みでやしたでしょう?>八:この期(ご)に及んで、そんなことに拘(こだわ)ってられるかってんだ。命あっての物種(ものだね)って言うじゃねえか。>三:そりゃあそうでやすが、約束ってやつも、やっぱり守らねえと・・・>女:何をごたごた揉(も)めて居る。して、何故(なにゆえ)家島殿の名を持ち出したのか、説明して貰おうぞ。>三:それが、できねえ相談でやして。>八:お前ぇは黙ってろってんだ。・・・あの、磯次郎さんのお母上様かと、お見受けいたしやすが、いかがで御座いやしょう?>女:いかにも、大石久恵である。だからどうしたというのじゃ?>八:実は、家島様のお兄様からの達(たっ)てのお願いということで・・・>三:八兄い、言っちゃ駄目ですって。>八:だって、もう言っちまったんだから仕方がねえじゃねえか。口から出ちまったもんはもう戻せねえぞ。久恵は、どうにか納得したようで、半(なか)ば渋々ながら八兵衛と三吉を家に上げることにした。久恵の方としても、話を聞きたいことがあったらしく、息子の目を盗むように、2人を表側の隅の部屋に通した。磯次郎は部屋に篭もりきりということだったし、長男は勤めから当分帰らないということだった。>久:して? 小豆殿というお方は、いったいどのような殿方なのか?>八:へい。言っちゃあなんでやすが、風采が上がらねえ普通の役人でさあ。それに輪を掛けて、酒好きで女好きときてる。おいらが女だったら、絶対一緒になりてえとは思いやせんね。>久:ふむ。家島様が仰(おっしゃ)った通りであるな。・・・そして、酒好きの割にすぐに酔ってしまい、女好きの割に女と話すのが下手(へた)ときている。違うか?>八:確かに、その通りでやす。言っちゃあなんでやすが、良いところなんかひとっつもありゃしません。・・・断(ことわ)るんなら今のうちでやすぜ。>久:小豆様が、断るよう仕向けよと頼んできたのか?>八:とんでもねえ。家島様の気遣いにはこの上もなく感謝してるし、信じて従おうかと思うって言ってやす。>久:では、なぜそちらを寄越(よこ)したりするのだ?>八:そりゃあ、一緒に暮らそうってんでしょ? 誰だって心配になりやすって。>久:そうよな。誰だって心配になるものよな。>三:ときに、ちょっとお聞きしても良いですかい?>久: なんじゃ?>三:お内儀様は、今回のことに納得(なっとく)しているんでやすかい?>久:無論、納得尽(ず)くである。磯次郎のことを思えば、これ以上のご高配は有り得ぬ。願ってもない条件である。>三:お言葉でやすが、坊ちゃんのことじゃなくって、お内儀様にとってどうかってことをお聞きしてるんでやすけど。>久:何を言う。武家にとっては、男子が第一。母は子に良かれと思うことなら全て従うのみ。そこに母の意向など、初めから存在しないのだ。>八:そりゃあ、間違ってやすよ、お内儀様。気に食わないんだったら、断っちまった方が良いですって。子供ってのはですね、自分の母親の嘘にはすぐに気付いちまうもんなんでやすよ。そうじゃねえですかい?>久:それはそれ。当家では、母と子の間などという些少な間柄のことなど二の次三の次に回すようにと、そう教えてきておるのでな。>八:そんなんで、息子さんは素直に育ってやすか? 友達としっくりやってやすか? 目上の人らと巧くやっていけてやすか?>久:それは・・・。では、どうせよというのか? 今更私一人の力では、どうにもならぬのじゃ。もう、手遅れなのやも知れぬ。>三:そんなことありやせんって。だって、まだ16、7でやしょう? おいらたちの半分くらいじゃぁありやせんか。>久:秀才だ逸材(いつざい)だと言われ持て囃されても、やはり、しっかりした父親が必要な年なのじゃ。>八:それはそれで羨ましくはありやすがね。・・・ただ、お山の大将でいるようじゃいけませんやね。>久:あれの父親が言ったことを履き違えているのようなのじゃ。長いものに巻かれるくらいなら、与えられた地位の上等であれ。それを・・・>三:ははあ。それであんな厚かましそうな態度を取ってらっしゃるんですか?>八:ちょっくら、荒療治が必要かも知れやせんね?>久:荒療治とは? 変に押さえ付けて改心させようというのではないでしょうね?>八:冗談でしょう。おいらがそんな冷たいことなんかする筈、ねえじゃねえですか。こういうことはですね、お内儀様、本人が自分で気が付かなきゃ、なんにも分かったことにならないんでやすよ。>三:八兄い、また余計なお節介(せっかい)を焼こうって言うんじゃ・・・>八:何をしみったれたこと言ってやがるんだ。ここまで関わっちまったら、終(しま)いまで付き合わない訳にゃいかねえだろ?>三:でも、そりゃあいくらなんでも僭越(せんえつ)ってもんじゃありやせんか?>八:何を言ってやがる。そんな小難しい言葉は、この八兵衛さんにゃ通じねえのさ。はっはっは。
2007.12.20
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『鶏群(けいぐん)の一鶴(いっかく)』 (2003/03/17)たくさんの凡人の中に、優れている人が1人だけ混じっていること。類:●掃き溜めに鶴出典:「晋書-ケイ紹伝」「昂昂然、如野鶴之在鶏群」*********「あら、知ってるわよ、磯次郎でしょ?」と、お夏は事も無げに言ってのけた。しかし、継(つ)ごうとした言葉を飲み込んで、そそくさと給仕の仕事に回ってしまった。>八:ほらな、聞いてみるもんだろ? おいらって、冴(さ)えてるう。>熊:だがよ、なんだか妙な顔付きじゃあなかったか?>八:そうか? おいらには、相も変わらず可愛らしい顔にしか見えねえがな。>熊:野次馬のお夏坊が、あんなにさっさと引き上げちまうか? いつもなら、こっちが聞きもしねえのに長々と喋(しゃべ)っていくじゃねえか。>八:大方、燗(かん)を付けてたのでも思い出したんだろ? 手が空(す)いたらまた来るって。>熊:なんか喋りたくない事情でもあるんじゃねえのかな?>八:事情って?>熊:むかし何かされたとか・・・>八:何かって、真逆(まさか)、好い仲だったとかじゃあ・・・>熊:さあな。・・・だが、そうじゃねえとも言えねえな。>八:やい熊、手前ぇ、そんな下品なことばっかり考え付きやがって、お夏ちゃんになんか恨みでもあるのか? 根も葉もねえことばっかり言ってやがると、承知しねえぞ。>熊:落ち着けったら。勝手に想像を逞(たくま)しくしてるのはお前ぇの方だろ。>八:こともあろうに、昔の男だとか何とかって、お前ぇ、清らかなお夏ちゃんを汚(けが)すつもりか?>熊:黙れってんだ。お前ぇがそうやってでかい声を出すと、お夏坊が恥ずかしがるだろう。>八:へ? ・・・あ、皆さん、聞いてらしたんでやすかい? し、し、芝居の稽古(けいこ)なんでやすよ。ははは。お夏が剥(むく)れながら、肴(さかな)を運んできた。>夏:誰があたしの前の男ですって、八つぁん?>八:あ、い、いや、その、磯次郎って養子がよ。>夏:止(よ)して頂戴(ちょうだい)よ、あんな人。>八:あんな人? ・・・ってことは、なんでもねえんだな? 嗚呼(ああ)良かった。心配しちまったじゃねえか、熊の野郎が「妙な顔付きだ」なんて言うからよ。>熊:喋りたがらねえってことはよ、良くねえ経緯(いきさつ)があったのかって、勘繰るのが普通だろ?>夏:そりゃあ、喋らなかったあたしの方も悪かったけど、それが選りにも選って磯次郎ってのは嫌だわ。>熊:まあ、無理に聞きゃあしねえがよ。だが分かって呉れよな。こっちはこっちで頼まれちまったことがあるんだからな。>夏:分かったわよ。本人と会わないで済むんだったら、力を貸すわよ。>八:ほんとかい? 磯次郎の母ちゃん探しを手伝って貰えるんだな?>夏:仕方ないわね、まったく。やらせていただきますよ。・・・でもね、1つだけ言っときますがね、好いた好かれたとか、そういうことじゃないんだからね。前にも言ったように、あたしは医術と添い遂(と)げるのよ。色恋なんてお呼びじゃないの。>八:そうかい。そりゃあ良かった。・・・ふう、一安心だぜ。そうと決まれば、早速(さっそく)話し合いといこうか。・・・三吉、ようく聞いとけよ。>三:なんでおいらが?>八:なんでってお前ぇ。・・・あれ? 言ってなかったっけ?>五六:八兄い、なんでやしたら、あっしが・・・>八:お前ぇは良いの。お三(み)っちゃんと宜(よろ)しくやってろ。>五六:それじゃあなんですかい? そんなこそ泥みてえな仕事を、三吉とお夏ちゃんにやらせるってことですかい?>八:「こそ泥みてえ」なんてったら元も子もねえじゃねえか。良いか、確かにこそこそやる仕事ではあるがだ、小豆(しょうど)様というお役人の達(たっ)ての頼みなんだぜ。要するに、人助けだ。>五六:それは分かりやす。ですが、引き受けちまったのは八兄いじゃねえですか。>八:兄弟子が仕事を弟弟子にやらせるのは、当たり前ぇのことじゃねえか。だってよ、小豆の旦那は親方のところへ頼みに来たんだぜ。それが弟子のおいらのところへ回ってきたんだ。自然なことじゃねえか、なあ熊?>熊:親方が返事する前に、お前ぇが引き受けちまったんだろうが。>五六:・・・ね? おんなじじゃねえでしょう?>八:手前ぇ、嫁が決まった途端(とたん)に弁が立つようになりやがったな。>熊:お前ぇの負けだな、八。お前ぇも付いてってやれ。>三:あの、おいらは別にお夏ちゃんと2人っきりでも良いですよ。少しは色っぽい気分になれるかも知れませんからね。>八:なんだと? ちょ、ちょ、ちょっと待ちやがれ。それだけはなんねえ。おいらも付いていく。2人っきりなんかにさせるもんかってんだ。・・・こうなりゃ自棄(やけ)だ。お咲坊も熊も、みんな纏(まと)めて連れてってやらあ。次の雨の日の8つどき(14時頃)にという約束で、一番近いお夏の住まいに集まることになった。そして、翌々日・・・。三崎町の「分教場」は、お世辞にも立派とは呼べないような寺子屋だった。通(かよ)ってくる者も、武家の子弟(してい)ばかりではなく、商家や職人の子供も混じっているようだった。>咲:お夏ちゃん、あんたなんだって、こんなとこ知ってる訳?>夏:そんなことどうだって良いでしょ。・・・ほら、あの一番後ろで、大欠伸(あくび)しながら雨垂れを数えてるのがいるでしょ? あれが磯次郎よ。>咲:なによ。全然やる気なしじゃないの。>八:講義の中身に付いていけねえのか? 碌(ろく)なもんじゃねえな。>夏:その逆よ。>八:なんだって?>夏:今先生が読み上げているのは「孟子」っていう南蛮(なんばん)の書物なんだけど、空で覚えちゃってるからあんなことをして見せてるのよ。>咲:嘘でしょ? 南蛮の書物を全部覚えちゃってるの?>夏:ほんとなのよ。それを鼻に掛けて・・・。見てよあのこれ見よがしな様子。いけ好かないったらありゃしない。>咲:凄(すご)いじゃない。もしかすると、あの先生より頭が良いかも知れないわね。へえ、こんなちんけなとこにねえ・・・>夏:頭が良けりゃ良いってもんじゃないわよ。>咲:あら、お焼き?>夏:冗談。誰があんな自惚(うぬぼ)れ屋に。>熊:面と向かったことがありそうだな。>夏:昔ね。・・・さて、あたしの役目はここでお終(しま)い。あとちょっとで区切りのところだから、もうすぐ出てくるわ。>咲:分かるの?>夏:あたしだって、ちょっとくらいなら知ってるのよ。・・・あーあ。なんだかくさくさしてきちゃったから、「お花畑」にでも寄ってから帰るわ。じゃあね。養子の話、経過は良いから、どうなったかだけ教えて。お夏はすたすたと去ってしまった。>八:「お花畑」ってどこだ? そんなのここいらにあったか?>咲:養生所の薬草畑よ。こんな時期だから、花なんか咲いちゃいないけどね。>八:ほう。・・・しかしよ、お夏ちゃんも、「だるま」に行きながら、良く続いているよな。>咲:その逆よ、八つぁん。>八:へ? 何がどう逆なんだ?>咲:お医者様になる用意をするために「だるま」の女中を続けているの。>八:だってよ、親父さんの薬代の方は、鹿の字がちゃんと稼(かせ)いでるんだろ? もう良いんじゃねえのか?>咲:長崎に行くのよ。いくらあったって足りないわよ。>八:ほんとに本気なのか?>咲:当たり前じゃない。八つぁん、この2年、夏ちゃんのどこを見てきたの?>八:どこって・・・>咲:お夏ちゃんはね、自分の腹の空(す)き具合いしか考えない八つぁんとは違うの。ここいらに住むみんなの身体の具合いのことを考えてるんだからね。生半可な気持ちじゃないんだから・・・>八:おい、こらお咲坊、何もこんなとこで泣き出さなくたって良いじゃねえか、な?>熊:・・・おい、五六蔵、お前も付き合え。お咲坊を送って帰るぞ。>五六:へ、へい。>熊:三吉、済まねえが、八の仕事に付いてってやって呉れ。顛末(てんまつ)は、「だるま」で聞く。
2007.12.19
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『挂冠(けいかん)』『挂冠・掛冠』冠(かんむり)を脱いで柱などに掛けるという意味で、官職を辞(や)めること。辞職すること。類:●骸骨を乞う故事:「後漢書-逸民伝・逢萌」 中国、後漢の逢萌が王(おうもう)に仕えることを潔しとしないで、その役職の冠を都の城門に掛けて斛東に去った。出典:後漢書(ごかんじょ) 中国の正史。二十四史の一つ。120巻。本紀10巻、列伝80巻は南朝宋の范曄(はんよう)、志30巻は晋の司馬彪(しばひょう)の撰。1022年成立。後漢(25~220)の歴史を記したもの。紀伝の部には唐の李賢の注、志の部には南朝梁の劉昭の注を付記する。注釈書に、清の王先謙の「後漢書集解」120巻がある。*********桃の節句(せっく)に雛人形を飾るのだと、棟梁の源蔵は大張り切りである。去年初節句をしたのだからもう良いだろうという、源五郎の言葉など何処吹く風である。>源:なあ親父、こんなご時世(じせい)に贅沢(ぜいたく)は止(よ)そうぜ。>棟梁:可愛い孫娘の厄(やく)を払うためだ。何が贅沢なもんか。>源:そんなの去年やったから良いじゃねえか。>棟:去年は安っぽい紙人形で、大川に流しちまったじゃねえか。だから、今年こそ立派なのを飾ってやりてえのさ。>源:そんな暇があったら、俺の「本厄」の方を何とかするのが筋ってもんじゃねえのか?>棟:馬鹿も休み休み言いやがれ。自分のことを守れる好い大人にゃ厄払いなんか要るかってんだ。年端も行かねえ幼子(おさなご)だからこそ必要なんじゃねえか。そうだろ? >源:分かるさ。俺だって静(しずか)の親だぜ。・・・だがよ、まだ丸2年にもなってねえんだぜ。紙とか藁(わら)で作っときゃ十分だろ。>棟:藁だと? 巫山戯(ふざけ)るのは顔だけにしとけよ。初孫に藁のお雛様なんかやれるかったんだ。>源:こんな顔になったのは誰のお陰だと思ってやがるんだ。>棟:知るか。どうしても知りたかったら婆さんにでも聞いてみろ。>お雅:朝っぱらからなんてくだらないことを話してんの。とっとと稼(かせ)ぎに行っといで。>源:どこで聞いてやがったんだ?>雅:どこにいたって悪口だけは聞こえてくるのさ。便利な耳だろ?>源:止せやい。あやにまで移(うつ)ったらどうするんだよ。>あや:移って困ることなんかしてるんですか?>源:あや、お前ぇもか・・・熊五郎や八兵衛が来る前に、雛人形の件を片付けてしまおうと思ったが、とてもそんな状況じゃなくなってしまった。そんな時、「御免」と、訪れた者があった。普請方の役人、小豆内海(しょうどうつみ)であった。>小:源五郎殿はご在宅か?>あや:はーい。・・・まあ、小豆様。ご無沙汰をしておりまして。>小:おう、ご内儀。相も変わられずお綺麗なことで。小豆、朝から良い目の保養をさせていただきましたぞ。>あや:ま。お上手ですこと。・・・どうぞ、むさ苦しいところですけど、お上がりになってくださいませ。>小:朝早くに押し掛けてしまい申して、相済まぬことです。少しばかり、込み入った頼みごとがあり申して・・・>あや:頼みごとですか?>小:筋違いは承知の上なのですが、他に相応(ふさわ)しい知人を持ちませぬので・・・>あや:兎に角、お上がりくださいませ。すぐに呼んで参りますので。お役人から頼まれごと? 取り次がれた源五郎は、朝食もそこそこに、居間へ向かった。>小:いつぞやは、お恥ずかしいところばかりお目に掛け申し、面目次第も御座いませぬ。>源:なあに、そういう固いことは抜きにしてくださいやし。あっしも厄だとしとか言って、頭から布団を引っ被って寝てただけなんでやすから。>小:八つぁんや熊さんは、まだお見えでないようですな?>源:寒いせいか、ぎりぎりまで寝てるんでやしょう。さもなきゃ、昨夜(ゆうべ)飲み過ぎたかのどっちかでやすよ。>小:はは。良いですな、お酒が強い人たちは。拙者なぞ、嫌いではない癖に、下戸(げこ)同然の弱さときてる。>源:量さえ弁(わきま)えてれば良いんですよ、小豆様。程好く酔うから酒は楽しいんです。あいつらみてえに、酔い潰れぎりぎりまで飲むこたあねえってことでやすよ。>小:然(さ)もありなんですな。程々、程々ですな。>源:それで? お話というのはどういったことでやすかい?>小:あ、これは申し訳ない。朝の忙しい中、刻(とき)を割いて貰ってるのでしたな。>源:そんなこたあ済まなくもなんともありませんや。それより、特に八の野郎が来たら、四半刻(約30分)で済む話が3倍くらいになっちまいやすからね。>小:一々ご尤(もっと)もですな。・・・では、お話します。小豆の話はこういうものであった。弟の家島網綱(いえじまあみつな)の仲介で、養子を取ることになった。小豆の家名を思ってのことと感謝している。唯(ただ)、問題があって、その母親まで付いてくるという。体裁(ていさい)こそ養子縁組であるが、誰がどう見ても子持ちの嫁を貰ったと言われる。百歩譲(ゆず)って、そういう風評にも甘んじよう。しかし、一度も会ったことのない女性を家に入れるのは、殊(こと)の外(ほか)不安だ。どういう人で、前のご亭主とどういう経緯(いきさつ)だったのかを調べては呉れないだろうか?>源:そういうことは、ご自分で直接お聞きになった方が宜しいんじゃありませんか?>小:網綱のやつ、教えて呉れんのだ。一体どういう魂胆があるのやら、拙者ごときには、推(お)し量(はか)るべくもないのだ。>源:困ったご兄弟ですね。>小:磯次郎、養子の名だが、その居所は分かって居るのだ。三崎町の「分教場」という寺子屋に居るらしい。>源:お年は?>小:16、7だと言って居った。場合によっては、拙者の隠居と入れ違いに普請方に押し込めるやも知れぬ。>源:隠居などという年じゃあねえでしょうに。>小:いや。今となっては出世も望めないし、却(かえ)って将来のある養子に任せてしまった方が良いような気がするのだ。>源:そうは仰っても・・・>小:家名さえ繋(つな)がれば、拙者は本望(ほんもう)。何も思い残すことはない。>八:そりゃあ、あんまり勿体ねえですぜ、小豆の旦那。>小:おう、八つぁん、来て居ったのか?>八:来てたかじゃありやせんぜ。相談ごとにこの八兵衛抜きってのは、どうかと思いやすよ。>源:こら、八、盗み聞きなんかするんじゃねえ。>八:盗み聞きだなんて、人聞きが悪いですぜ。勝手に耳に入ってきちまったんで、おいらの責任じゃありませんや。>源:屁理屈を捏(こ)ねるんじゃねえ。・・・でもま、聞かれちまったんじゃ仕様がねえな。まあ、ことの序(つい)でだ。お前ぇと熊とで、小豆様の頼みを聞いてやりな。俺は女の人が絡(から)む話は、てんで駄目だからな。>八:任(まか)しといてください。小豆の旦那、この八兵衛がきたからには、もう安心ですぜ。大船に乗った気でいでお呉んなさい。>源:大丈夫かよ?小豆は、くれぐれも当人たちには気付かれぬようにと、念を押して帰っていった。>熊:お前ぇ、また安請け合いしちまったが、大丈夫なのか?>八:決まってんだろ? 16、7なんだろ? こっちにゃ顔の広いお咲坊と、頭の良いお夏ちゃんがいるんだからよ。>熊:結局人任せか。そんなことだろうと思ったぜ。>八:何を言いいやがる。「使えるものは猫でも使え」って言うじゃねえか。>熊:言わねえよ。それを言うなら、「立ってるものは親でも使え」だ。>八:それそれ。余計な刻なんか使わずに、手っ取り早く済ませちまえってことよ。>熊:いくら顔が広いってったって、お咲坊の付き合いにも限りってもんがあるんだからな。そのときは手前ぇで出張らなきゃならねえんだからな。>八:そんときゃ、三吉にでも行かせりゃ良い。>熊:それこそ手抜きだろう。まったく、請け負ったら最後まで面倒(めんどう)を見ろよな。>八:兄弟子の役得ってやつよ。使わなきゃ損だろ?>熊:自分に都合良いことばっかり言いやがって。良い死に方なんかできねえぞ。>八:そんなの知ったこっちゃねえさ。適当な年になったら適当に隠居してよ、適当な毎日を送れりゃそれで良いの。死んだ後のことなんかどうとでもなれだっての。>熊:だから、良い死に方をしねえってのはだな、誰も焼香(しょうこう)に来て呉れねえほど嫌われて死ぬってことだ。そんなやつが適当な隠居生活なんかできる訳ねえだろ?>八:そりゃあ困るな。・・・じゃあ、どうしろってんだ?>熊:人任せになんかしねえで、自分の足で探し回れってことだ。>八:それじゃあ、腹ばっかり減るだけで、おいらのためになることなんか1つもねえじゃねえか。>熊:請け負うってのはそういうことなの。お礼の言葉が何よりの報酬ってとこだ。>八:おいら、「お礼の品」の方が有り難えんだがな。>熊:今説明したばっかりだってのに、お前ぇ、なんにも聞いてなかったのか?>八:へへーんだ。おいらにとっちゃ、人から嫌われることより、食い物の方が大事なことなの。(つづく)---≪HOME≫
2007.12.18
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『群盲(ぐんもう)象(ぞう)を評(ひょう)す』『群盲象を評す[=撫(な)ず・模(も)す]』多くの盲人が象を撫でてみて、その手に触れた範疇(はんちゅう)内で象のことを云々(うんぬん)するということで、凡人には大人物や大事業の一部分しか掴めず、大局からの見方はできないということ。類:●衆盲象を模す出典:「北本涅槃経-巻32」・「菩薩処胎経-巻3」など出典:菩薩処胎経(ぼさつしょたいぎょう?) 西魏時代。写経としては世界最古のもの。京都知恩院に残るものは国宝に指定されている。・・・詳細調査中。*********連絡もなしに訪れたのに、一黒屋与志兵衛はにこやかに迎えて呉れた。お三千は「一黒屋」と聞いただけで目を丸くしたが、にこやかなご隠居の顔を見て緊張も解(ほぐ)れたようである。>与志:あれっきり来てくださらないんで、嫌われてしまったかと思っていましたよ。本当ですよ。・・・おや? 八兵衛さんも一緒でしたか?>八:お邪魔でやしたか?>与志:そんなことはありませんよ。集まりは多いほど楽しくなりますからね。・・・それで、そちらの可愛らしい娘さんは?>三千:は、はい。お三千と申します。行(ゆ)く行く五六蔵さんと一緒になります。>与志:そうですか、それを伝えに。これはお目出度い。それに、お三千さん、中々お目が高い。五六蔵さんに目を付ける娘さんなら、大歓迎ですよ。>五六:ご隠居さん。ご隠居さんは、あっしのことを買い被り過ぎなんでやすよ。>与志:そんなことあるもんですか。五六蔵さんは、ちょっとばかし、遠慮し過ぎなんですよ。・・・ま、立ち話もなんですから、ささ、寛(くつろ)いでください。今、さちを呼びますから。丁度、美味しいお酒が届いたところなんですよ。>八:待ってました。やっぱりそう来なくっちゃ。>与志:ほっほっほ。相変わらずですね、八兵衛さんは。>五六:済いやせん。今日は、唯(ただ)ご報告に伺(うかが)っただけでやすのに。>与志:良いんですよ。皆さんとはもう身内みたいなもんだと、勝手に思い込んでいるのはあたしの方なんですから。>五六:勿体無え話でやす。>与志:なあに。与太郎さんを紹介していただいたお礼もありますしね。・・・良くやっていただいてますよ。お陰で、あたしは本物の隠居暮らしですよ。ほっほぉ。八兵衛は、こんなことなら、本当に、太助に声を掛けてやるんだったなと考えていた。飲み食いに執着するだけで、気が利いた話をできる訳じゃない太助なら、喜んで付いてきただろうのにと。しかし、与志兵衛の口から出た言葉は、「太助さんも今ではこの隠居所の常連さんですよ」だった。>与志:太助さんの食べっ振りは見事なもんですね。あたしも若い頃を思い出しますよ。>八:太助の野郎、一人で良い思いしてやがったのか? 今度会ったら唯じゃおかねえからな。>与志:まあ良いではありませんか。なんでしたら、八兵衛さんたちも、時折顔を出してくだされば良いじゃないですか。>八:良いんですかい? そりゃあ願ってもねえ話でやすよ。>与志:はは。どうぞどうぞ。・・・今夜のお酒は、越後の樋木(ひのき)屋さんという蔵元さんのもので、「鶴の友」といいます。これがまた、赤ひげの塩辛に良く合うんです。>八:赤髭ですかい?>与志:小海老(えび)のことですよ。舌に当たる海老の髭がまた、烏賊(いか)とは違ってなんとも言えず酒を誘いますよ。>八:うひょうっ、そりゃあまた美味そうでやすねえ。・・・ご隠居も中々の通(つう)でやすねえ。>与志:そりゃあ、八兵衛さんたちよりは、年季が入ってますからね。>与志:それで? お三千さんは、五六蔵さんのどういうところを見初(そ)めたんですか?>三千:初めは、ごつくて逞(たくま)しいところをなんですけど、でも、今はちょっと変わってきてるかも知れません。>与志:ほう。それはどんな風にですか?>三千:こんなこと言うと変に聞こえるかも知れませんが、他人に良かれと思うことを優先する人なんじゃないかなって・・・>五六:止(よ)しと呉れよ、そんなご立派なことなんか考えたこともねえっての。>与志:ほう。お三千さんは見る目がありますね。優しいということはそういうことなんです。ですが、そういう人は苦労しますよ。それも、覚悟の上なんですね?>三千:はい。勿論(もちろん)です。>与志:良い娘さんですねえ、五六蔵さん。>五六:ご隠居さん、誉め過ぎですって。お三千にゃ、いつも驚かされっ放しでやすが、あっしは何もそんな深いことを考えてるわけでもねえし、なるべくひっそりと細々と暮らしていきてえと思ってるだけなんでやすから。>与志:それで良いんですよ。五六蔵さんが、大雑把(おおざっぱ)そうに見えてそうじゃないってことが分かって呉れているだけで良いんです。分かってさえいれば、仮に度を越した頼まれごとがあっても、五六蔵さんが応(こた)えようとする限り黙って見ていて呉れるんです。>三千:そんなこと、そのときにそういう風にできるかどうかなんて、分かりません。・・・唯、信じるか信じないかっていうことでしたら、きっと信じると思います。>与志:それで良いんです。信じて付いていって良い人ですよ、五六蔵さんは。>五六:ご隠居は人を持ち上げるのが巧過ぎやす。なんだかふわふわしちまいやすよ。>与志:そうですか? あたしは嘘なんか吐(つ)いていませんけどね。話が一区切り付いた頃合いに、丁度間合い良く、さちが寒鰆(かんざわら)のお造りと味噌田楽を運んできた。>与志:さちや、五六蔵さんと、このお三千さんとが一緒になるそうです。>さち:まあ。それはお目出度う御座います。なんだか、お正月の鏡餅みたいで、素敵じゃないですか。稚児(やや)でも生まれれば、橙(だいだい)が乗って、尚のことお目出度いですねえ。>与志:中々洒落(しゃれ)たことを言いますねえ。・・・どうです? 稚児ができたら、紀州の橙を贈らせていただきますが、ご迷惑じゃありませんよね?>五六:ご隠居様、祝言(しゅうげん)もまだなのに、稚児のことはなんとも言えませんや。>与志:それはそうですが、妙なものが届いたなんて、捨てられてしまっては困りますんでね。それに、頃合いとしても、丁度良いところでしょう?>さち:そうですね。十月十日(とつきとおか)って言いますからね。>与志:この秋には、与太郎さんに紀州まで行って貰おうかと思っているんですよ。橙の仕入れにね。>八:そりゃあ凄(すげ)え。・・・ってことは、今年の暮れは指が黄色くなるくらい橙が食えるってことでやすね?>与志:期待しておいてください。・・・船が沈まなければ、ですがね。>八:なんとかなりますって。おいらに関わったことってのは、全部巧い具合いに落ち着きやすからね。>与志:はは。八兵衛さんのご利益(りやく)がなくたって大丈夫ですって。海運に関しては、堺屋さんに間違いないところを紹介して貰ってありますから、安心してください。こんなことは、素人が兎や角言うより、その道の人に頼んでしまうのが一番ですからね。>八:へ? 蛸に頼んだんでやすかい?>与志:蛸、ですか?>八:のらくらして蛸みてえでやしょ? 徹右衛門の野郎。>与志:ほう。徹右衛門さんをご存知とは隅に置けませんね。・・・と、そういうことで、どうです? お三千さん、うちか、然(さ)もなければさちのところで手伝っていただけませんか?>三千:え? あたしがですか? 良いんですか?>与志:勿論ですとも。ねえさち。・・・尤(もっと)も、あたしの狙いは、五六蔵さんがしょっちゅう尋ねてきて呉れるだろうということにあるんですがね。>三千:あたし、足が悪いから皆さんに迷惑を掛けちゃいます。>与志:おや。苦労は覚悟の上なんでしょう? 他人がどうかじゃなくて、ご自分が嫌いかそうじゃないかで答えていただけると思ったんですが。>三千:良いんですか? ・・・あたし、頼まれることって、慣れてなくって。できるんでしたら、是非、お願いします。ね、良いでしょ、五六蔵さん。>五六:ご隠居さん、お心遣いに甘えちまっても良いですかい? 本人も喜んでますんで。>与志:勿論ですとも。身の回りが片付き次第来てください。そんな頃、「だるま」には熊五郎と三吉を慰労するために、源五郎が来ていた。熊五郎はともあれ、1人残されてしまった三吉を慰めるためである。>夏:ありゃ? 今日はまた小ぢんまりとしちゃってますね。どうかしちゃったんですか、親方?>源:どうもしやしねえさ。五郎蔵たちは「一黒屋」さんに祝言のご報告に行ってるって訳だ。溢(あぶ)れた俺たちが寂しく傷の舐(な)め合いをしようって魂胆さ。>夏:なあんだ、そういうことなの。良かったですね、五六蔵さんのとこ巧くいきそうで。>源:あっさり片付き過ぎて気抜けしてるとこだ。・・・なんて言ったら、罰が当たるかな?>夏:罰は当たらないけど、八兵衛さんが大変ね。>三:そんなこと言ったら、おいらだって大変ですよ。>夏:大丈夫よ。どうしてもってことならお咲ちゃんが何とかしてくれるから。>熊:なんでお咲坊の名前が出てくるんだ?>夏:へへ。こんなことだろうと思って、さっき帰ったお客さんに頼んで呼んどいたの。間もなく来るわよ。>熊:余計なことするなっての。暖簾を潜(くぐ)るなり「五六ちゃんがいないってどういうこと?」と言って、お咲が現れた。>熊:五六蔵はな、「一黒屋」のご隠居のところへお三っちゃんを見せに行ってるの。大したことじゃねえだろ? そう大騒ぎするなよ。>咲:何よ。どうなってるか教えて呉れてないんだから、心配するの当たり前じゃないの。・・・あら親方、お恥ずかしいところをお見せしまして。>源:良いよ。もう慣れた。>咲:お恥ずかしい。・・・でも、良かったですね。五六ちゃんのとこ巧く行きそうで。>源:今度のばっかりは冷や冷やもんだったがな。>熊:「終わり良ければ全て良し」でやすよ、親方。>源:確かに、結果はな。・・・でもな、男と女なんて、どこでどう繋(つな)がるか分かったもんじゃねえな。>熊:親方と姐(あね)さんの仲立ちがあってこそですよ。>源:おべっかなんか言うな。俺なんかまだまだだよ。まったく、男女の相性の何たるかなんか、俺みてえな無粋(ぶすい)の輩(やから)には死ぬまで理解できねえってことだ。>熊:そう言わねえでくださいよ。まだおいらや八、それに三吉も残ってるんでやすからね。>源:分かったよ。精々努力させて貰おう。・・・ときに、折角だから教えといてやりてえことがあるんだ。>熊:なんでやすかい?>源:松吉のやつな、あいつ冗談めかしていやがったが、ほんとに鰯(いわし)の頭を、五六蔵んとこの軒(のき)に刺しておきやがった。・・・なんだかんだいっても、気に掛けて呉れてるんだよな。>熊:あの野郎、また古臭えことを・・・
2007.12.17
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自分の人生の目標ってなんだろうなー 幸せになりたい? お金持ちになりたい? それじゃーどうすればいいのかな もしお金持ちになったら 今の自分が幸せだと感じたら それが幸福?-------------------------------『幸福は、行動し続けるうちに見つかるものであって、単に財産を 所有しているだけでは、幸福であるとはいえないのです。』 これは真実です。お金で幸福は買えません。大半の人は、家や車、 あるいは休暇などといった即物的な財産にではなく、 “ 自分と家族にとって憧れのライフスタイルの実現 ”という願望を 持つことにより、やる気がかきたてられるのです。その真実に気づい たとき、あなたは、常に“ 目標のレベルを上げてゆく ”ことで自分 を奮い立たせ、高い目標を目指さなければいけないことを理解するは ずです。 あなたの目標の中には、自分が望む財産を手に入れることも含まれる でしょう。 しかし、アップルコンピュータの前会長兼CEOのジョン・スカリー [訳注]は、「成功とは旅であり、目的地ではない。ぜひともその旅 を楽しもう」と言っています。 [訳注]ジョン・スカリー(1939-) 米国のマーケティング専門家。ペプシコーラのマーケティング責任者 ペプシコ社社長を経て、アップルコンピュータ社の社長兼CEOに就 任(1993年辞任)。-------------------------------------『他人から奪い取ることで自分が幸福になることはできません。 同じことは、金銭的な安定についても当てはまります。』 他人から奪い取ることによって、自分の人生を豊かにしてくれるもの など、この世の中にはまずありません。しかし、その逆はたいてい真 実です。あなたの富と幸福を誰かと分かち合えば、あなたの富と幸福 は、以前よりも増すのです。 それどころか、幸福も金銭的な安定も、人と分かち合わなければ、大 した価値はないのです。いざ必要となる時まで幸福を蓄えておくこと や、お金を使わずに貯めておくことなどできません。 また、安定というのは抽象的な概念にすぎません。 ダグラス・マッカーサー元帥[訳注]は、「人生において安定など存 在しない。あるのはチャンスだけだ。」と言っています。 まず自力で幸福と金銭的な安定を見つけ、 それを維持すべく人と分かち合うようにしましょう。 [訳注]ダグラス・マッカーサー(1880-1964) 米国の陸軍元帥。日本占領国軍最高司令官(1945~51)。------------------------------------- 『笑顔は、お金をまったくかけることなく、 表情を豊かにし、気分を良くしてくれます。』 カメラを向けられたら笑顔になる、というのは自然な反応です。 ほほ笑んでいる顔の方が人の心を動かせるし、魅力的でもあることを 本能的に知っているからです。人にほほ笑みかければ、その人からも 好意的な反応を引き出すことができますが、それよりも大切なことは、 自分自身も気分良くなれることです。 心理的な問題ばかりではありません。 専門家は“ 笑うことによって、身体の科学反応に変化が起き、実際に 幸福な気持ち、満ち足りた気持ちが生じる ”ということを発見してい ます。 ほほ笑む感じを話し声の中に保つことができれば、相手と直接会って 話している時であっても、電話で話している時であっても、相手は構 えることなく、あなたに対して心を開いてくれるはずです。一日中電 話で話すことを仕事にしている人たちは、話している相手の声の調子 について、“ 笑顔で話しているような声 ”を聞き分ける術を経験的 に身につけています。 声の調子を感じよく保っているのが難しければ、電話の脇に小さな鏡 を置いて、自分の顔が笑顔になっているかどうかを、確認しながら話 すようにするのも良いでしょう。------------------------------------- 『憎しみよりも好意を示したほうが、 どんな人でも味方につけることができます。』 人に好かれるようになるための最善の方法は、まずあなたがその人を 好きになることです。そうすれば、あなたが好感を持っている相手が あなたのことを嫌うことは、実際には無理であることがわかるはずで す。それは単純に、人間がそんなふうにはできていないからです。 他の人があなたに対して良くない感情を抱いていたとしても、その人 に対してあなたの方から賞賛の言葉をひと言でもかけてあげたなら、 相手があなたに抱いていた悪い感情は、たちまち消えてしまうでしょ う。この概念を理解したなら、以後は出会う人すべてが友達になり得 るのです。 人から好かれる最も確実な方法は、まずはあなたがその人に好意を示 すことです。それも惜しみなく無条件で、好意を示さなければなりま せん。友情に条件をつけたり、自分にとってプラスになるという理由 だけでその人を見方に引き入れようとしても、相手はすぐにあなたの 不純な動機に気づきます。 相手に対し、“ あなたのことはいつも気にかけている ”ということ を行動によって示すこと、そして常に、相手から与えられた以上のも のをこちらから返すようにしていれば、その人は、あなたの生涯の友 となるでしょう。-------------------------------------『幸福を惜しみなく与えることのできる人は、 常にたくさんの幸福を持ち合せています。』 アメリカの教育者、ウィリアム・L・フェルプス[訳注]は、 次のように語っています。 「真の幸福は、外部の状況に左右されるものではない。 幸福の泉水は、心の中から湧き出るものである。人が幸せを感じる、 いわば幸福感といったものは、思考や感情の内側から湧き出てくるも のだ。いつまでも幸福でいたいなら、自分の心を養わなくてはならな い。興味深い考えやアイディアで心を満たさなくてはならない。 なぜなら空虚な心は、幸福ではなく快楽を追い求めるからだ。」 [訳注]ウィリアム・L・フェルプス(1865-1943) 米国の教育者・文芸批評家であり、イェール大学教授も務めた。---------------------------------------『しかめ面をしても追い払えないような心配事も、 笑いで吹き飛ばすことができます。』 数年前、自分の病気を文字通り“ 笑い飛ばす ”ことで健康を取り戻 した非常に有名な雑誌編集者がいました。 衰弱とひどい痛みで入院したのですが、彼は自分が楽しい気分の時は 身体の痛みも軽くなっていることに気づきました。 この鋭い観察から、“ 笑い ”という病気の治療法を独自に開発した のです。ジョークの本を読んだり、自らジョークを言ったり、お見舞 いに来る人には必ずジョークを考えてくるように頼んだり、テレビの コメディー番組をずっと見たりといったことを続けました。そうして 彼は病との闘いに勝ったのでした。 自分自身のことや、置かれている状況を笑い飛ばせないぐらい深刻に なってはいけません。あなたは少なくとも(週40時間労働を40年 間続け、毎年2週間の休暇を取るとして)8万時間は働いてくれるだ ろうと期待されているのですが、どうしたら少しでもそれを楽しむこ とができるか、その方法を知っていないと、これだけの期間働き続け るのは絶対に不可能です。----------------------------------------『予防に勝る治療はありません。』 身体の健康の維持に関しては、何よりもまず病気を“ 予防 ”するこ とだとさかんに言われています。ところが実際は、ガンや心臓病など という重病のほとんどは、自ら招いて起こる病気なのです。 喫煙や不摂生な食習慣によって、何百万もの人が命を縮めています。 不幸なことに、その害毒は、表出するまで長い時間がかかるので、自 覚症状が出た時にはもう治療が手遅れとなってしまいます。 悪い習慣によって、健康が損なわれていくのを放置していてはいけま せん。いかなるものでも乱用を避け、正しくない食習慣はすぐに断っ て、健康に良い食生活と十分な運動を心がけましょう。そうすること によって、身体の調子がよくなり、気分も快適になるはずです。--------------------------------------『身体の働きが鈍くなったと感じたら、 身体の自然な要求に任せて、空腹感を覚えるまで 食事を摂らないようにしてみるのがよいでしょう。』 多くの専門家は、一日四回、栄養バランスが同等な軽い食事を摂るこ とを勧めています。 脂肪や糖分の摂取量を抑えれば、それほどカロリーの心配をする必要 もありません。 穀物・野菜・果物などを大量に摂る食事は、消化がよく、脂肪分が少 ないので、血糖値が安定し、食欲が抑えられ、高レベルで安定したエ ネルギーの保持を可能にします。 そういった食生活を実践し始めたなら、 すぐに元気が湧いてくるのを実感することでしょう。
2007.12.16
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『葷酒(くんしゅ)山門(さんもん)に入(い)るを許(ゆる)さず』 『葷酒山門に入るを許さず』禅寺の門の脇の戒壇石(かいだんせき)に刻まれる句。「不許葷酒入山門」とあり、臭いが強い野菜(=葱(ねぎ)、韮(にら)、大蒜(にんにく)など)は他人を苦しめると共に自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これらを口にした者は清浄な寺内に立ち入ることを許さないということ。参考:戒壇石(かいだんせき) 律宗・禅宗などの寺院の前に立てた石標。多く、「不許葷酒入山門」の句が刻んである。結界石。*********見合い話は順調に運んでいるようだったが、五六蔵一人が何故(なぜ)だか釈然(しゃくぜん)としない風であった。かといって、毎日のように現れるお三千に対しては、照れながらも嬉しそうな顔を見せていた。>熊:なあ八よ。五六蔵の野郎、祝言(しゅうげん)の話、嬉しくねえのかな?>八:なんでだ? あんなに鼻の下を伸ばしてやがるじゃねえか。>熊:お三っちゃんが来てる間はな。・・・でも、時々、あんまり嬉しそうじゃねえ顔をするんだよな。>八:そりゃあお前ぇ、兄弟子より先に幸せになっちまうのが申し訳ねえからって、そういう顔をして見せるのよ。腹の中は分かったもんじゃねえぜ。にへらにへらしやがってるに違いねえんだ。まったく、羨(うらや)ましいったらありゃしねえ。>熊:おいらたちに遠慮してるって感じでもねえんだがな。特に、お前ぇにはな。>八:そうか? なら、もう少しおいらに遠慮するように言ってやらなきゃならねえな。>熊:そういうことじゃねえだろ。>八:そりゃそうだ。遠慮してる暇があったら、お三っちゃんの友達でも紹介しろってことだよな。>熊:違うったら。・・・まったく、お前ぇと話しても埒(らち)が明かねえや。今晩辺り、じっくり話し合わねえといけねえな。>八:待ってました。>熊:何が「待ってました」なんだ?>八:話が祝言のこととなりゃ、親方に出張って貰わなきゃなるめえ? そうなりゃ、お足は親方持ちになるじゃねえか。>熊:まったく、お前ぇってやつは、飲み食いのことになると頭が回りやがる。・・・ま、親方が来てくださるかどうかは別にして、相談してみた方が良いな。>八:来なくても良いから、なんとか巧いこと言って飲み代(しろ)をせしめろよ。>熊:なんだ? おいらの仕事なのか?>八:決まってんじゃねえかよ。元はといえば、お前ぇんとこに来た見合いだっていうじゃねえか。終(しま)いまで面倒見てやるのが筋ってもんだろ?>熊:自分が只酒を飲みてえってだけで、よくもまあ次々と屁理屈を思い付けるな。「俺もちょいとばかし気になってたとこだ」と、源五郎も答えた。偶(たま)には顔を出しておくかと、連れ立って「だるま」に行くことになった。八兵衛は、ご機嫌である。弟弟子が次々と身を固めていくという事実も、それほど意に介していない風である。取り越し苦労だったかと、少し安心もしていた。>夏:まあ親方、ご無沙汰(ぶさた)ですぅ。今年も宜しくお願いしまーす。>源:あ、ああ、宜しく。今年もこいつらが世話になるぜ。>八:昨日も、一昨日も世話になってやすよ。な、お夏ちゃん。>夏:ちゃんと仕事をしてます? 五六蔵さんのことで、臍を曲げちゃってるんじゃないですか?>源:なんとかやってるようだが、少しは応(こた)えてるのかも知れねえな。>八:何を言ってるんですか、親方。おいらがそんな尻(けつ)の穴の小さい男だと思ってるんでやすかい?>熊:飲み代(しろ)を集(たか)ることばっかり考えてるやつが何を言っても説得力がねえっての。>八:余計なことを言うんじゃねえよ。そんなことより、お夏ちゃん、温(あった)かいもんを見繕(みつくろ)っと呉れ。>夏:はーい。親爺さーん、親方んとこに御田(おでん)大盛りーっ。>源:なあ五六蔵、お三っちゃんとのことはどうなんだ?>五六:どうって言われやしても・・・>源:俺は、案外相性の良い取り合わせだと思ってるんだがな。>五六:へい。あっしなんぞにゃ過ぎた娘だと思いやす。>源:そうか。じゃあ、このまま纏(まと)めちまっても良いんだな?>五六:へ、へい。そりゃあもう。・・・願ってもねえ話でやす。>源:歯切れが悪いな。>五六:とんでもねえ。本当に有り難えと思ってるんです。唯(ただ)・・・>源:なんだ? 問題でもあるか?>五六:いえ、問題っていうほどのことじゃねえんで。唯、なんとなく、気持ちが割り切れやせんで。>熊:何がどう割り切れねえんだ?>五六:へい。親方に無理を言って弟子にしていただいて、どうにか3年ってとこで、まだまだ修行も十分に済んでねえってのに、女だ嫁だって浮(う)わついてて良いもんでやしょうか?>熊:なんだと? お前ぇ、そんなこと気にしてやがったのか?>八:偉い。偉いぞ五六蔵。お前ぇは顔に似合わず、中々立派なことを言うじゃねえか。まるで坊さんみてえだぞ。>熊:お前ぇもそのくれえだと有り難いんだがな。・・・五六蔵、見ろよ、八なんか二六時中浮わついてやがるんだぞ。そんなこと言い始めたら、八はいつんなっても嫁なんか貰えなくなっちまうじゃねえか。>八:何? そいつは困る。五六蔵、どうでもいいから、そんな坊さんみてえなことなんか考えるのは止せ。兄弟子のことを少しでも哀れと思うんだったら、すぐにでもお三っちゃんと一緒になって呉れ。な。>熊:なんてえ言い草だ。>源:嫁を貰うことと浮わついてるってこととはまったく別もんだぞ、五六蔵。>五六:はあ。>源:これからは家族を食わしていかなきゃならなくなるんだ。子供でも産まれてみろ。修行中で御座いなんて言ってられなくなるんだぞ。>五六:分かってやす。・・・ですから、嫁に貰うんなら、もう少し腕前が上がってからってことの方が良いんじゃねえかと思ったんでやす。>源:ぞれも1つの考え方ではある。確かにな。・・・だがな、遅かれ早かれおんなじ相手を貰うってんなら、早々に一緒に暮らして、尻を叩いて貰うってのも正しいあり方なんじゃねえのかい?>五六:ですが、その分苦労を掛けちまうんじゃねえですか?>源:お前ぇはほんとに分かっちゃいねえんだな。・・・あのなあ、一緒になるってことはな、苦労を掛けるってことと殆(ほとん)どおんなじことなんだぜ。腕前が上がろうがどうだろうが、掛かる苦労の重さはおんなじなのさ。>八:そうなんでやすか?>源:お前ぇまで、そんなこと言ってやがるのか? 仕様のねえ野郎だな。まあ、俺が言ってるんだから信じるんだな。有り難えことに、お三っちゃんは「苦労したい」って言って呉れてるじゃねえか。素直に甘えるんだな。>五六:それで良いんでやしょうか?>源:なんなら、ご当人に聞いてみるんだな。そんなことを考えてたのかって怒られるのが落ちだがな。>八:あーあ、良いよな、五六蔵はよ。良い嫁を見付けて貰ってよ。苦労するのが趣味だなんて娘、そうざらにはいねえぜ。・・・ねえ親方、おいらもお三っちゃんみてえなのが良いな。何とか探してきてくださいよ。>源:いい年扱(こ)きやがって何を言ってやがる。そんなもん自分で探してきやがれ。・・・三吉、手前ぇもだぞ。>三:まだ何も言ってないじゃありませんか。>源:言おうとしてただろ。>三:こりゃ参った。親方には嘘は吐(つ)けやせんね。五六蔵も漸(ようや)く臍(ほぞ)を固めたようだった。心成しか、顔付きがすっきりしたようだった。>源:ただな、現場まで顔を出すのは、なるべく止めるように言っといて呉れねえか?>八:なんででやすか? 偶(たま)には目の保養も良いもんでやしょう?>源:昼どきに一緒に飯を食うくらいなら構わねえが、梁(はり)に上がってるところをはらはら見ていられると、こっちまで心配になっていけねえ。>五六:分かりやした。仕事の邪魔になるようなことはするなってことでやすね?>源:大方はそういう理由だが、もう1つ、八の手元がお留守になっていけねえってのもある。>熊:違えねえ。>八:なんですか、そりゃ? それじゃあまるで、おいらが若い女と見りゃあ色目を使うみてえじゃねえですか。>熊:違うのか?>八:憚(はばか)りながら、この八兵衛、人の女房と決まった娘にまで色目を使うほど零落(おちぶ)れちゃいやせんぜ。>熊:どうだか。>八:お前ぇなあ。おいらが今までにそんなことしたの、見たことでもあるのか?>熊:あるさ。例えば、お夏坊にそんなことしてるんじゃねえのか?>八:何? お夏ちゃんが誰かの女房になるって、もう決まっちゃってるのか?>熊:さあな。>八:例え話にしちゃあ、質(たち)が悪過ぎるぜ。寿命が5年は縮まったじゃねえか。ああ吃驚(びっくり)した。あっちでそれとなく聞いていたお夏は、熊五郎に向かって眉間に皺を寄せてみせ、あかんべえをした。>源:ついでだからもう1つ言っとくぞ、五六蔵。>五六:へい。なんでやしょう?>源:こいつは余計なことなのかも知れねえが、「一黒屋」のご隠居さんにご挨拶だけでも行ってこい。一度は「養子に」って言ってくださったんだ。義理立てしといても罰(ばち)は当たらねえぞ。>五六:そうでやすね。あっしも、少し引っ掛かっちゃいたんです。2人で行ってきやす。>八:あの、親方?>源:なんだ?>八:おいらも一緒に付いてっちゃ可笑しいでやすか?>源:別に可笑しくはねえが、なんでだ?>八:「一黒屋」といえば山海の珍味と、浴びるほどの酒でやすよ。あそこへ行くときに置いてかれたんじゃ、こちとら悔しくって夜も眠れませんぜ。>源:そんな理由かよ。まったくお前ぇってやつは・・・>熊:開いた口が塞(ふさ)がらねえってのはお前ぇのことだぜ。>八:なんだよ、熊。ほんとはお前ぇも行きてえ癖に。>熊:おいらは遠慮するよ。三吉と太助でも連れてってやれ。>八:そりゃあ良い。太助の野郎、飛び上がって喜ぶぜ。>熊:そのうちきっと、「柄の悪い大工と、酒だけが目当ての食いしん坊は、商売の邪魔だから敷居を跨(また)ぐな」っていう貼り紙かなんかを掛けられるぜ。
2007.12.15
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『君子(くんし)は豹変(ひょうへん)する』『君子は豹変する』人格者は、過(あやま)ちを改めてから善に移るその移り方が極めてはっきりしている。君子は過ちを直(ただ)ちに改める。君子は時代に応じて自己を変革する。類:●大人(たいじん)は虎変する●A wise man changes his mind; a fool never.(賢い人の心は変わるが、愚かな人の心は変わらない)<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典>反:■小人は革面(かくめん)す★豹の毛は、季節の変わり目に抜け変わり、斑紋が美しくなるところから言われる。出典:「易経-革卦」「君子豹変、小人革面」出典:易経(えききょう) 中国五経の一つ。周代。中国の哲学思想の元。文王や周公らの著かといわれるが疑わしい。陽を印、陰を印で示し、それを組み合わせた六十四卦によって自然と人生の変化の道理を説く書。各卦に、暗示的な「卦辞」と、更に「十翼」と称する解説が付いている。「卦辞」は周代の巫(ふ=みこ)の覚え書き、「十翼」は春秋から戦国にかけての諸家の作と考えられている。三易のうち周易のみが現在に伝わる。「周易」、「易」とも。*********藺平(いへい)は、五六蔵を見るなり「なんだその博打(ばくち)打ち崩れは?」と言って、これ見よがしに不快な顔をした。>三千:お父つぁん。あたし、五六蔵さんのところにお嫁に行きたいの。>藺:駄目だ。俺は許さねえ。>三千:おっ母さんとあたしに任せるって言ったじゃない。>藺:あれは忙しくて生返事しただけだ。>三千:嘘よ。仕事なんかしてなかったじゃない。一休みしてお茶を飲んでた癖に。>藺:そりゃあ、お三千、茶を飲みながら色々と考え事をしていたのさ。・・・それに、どうせ俺が反論したところで、お前ぇはこうと決めたら梃子(てこ)でも動かねえだろ?>三千:そりゃそうよ。お父つぁんが持ってくる見合い話って、みいんな気に食わないのばっかりなんだもん。>藺:何をー? 俺の目利きが悪いとでも言うのか? 箆棒(べらぼう)め、小娘のお前ぇなんかより、百倍も男を見る目くらいあらあ。>三千:なら言ってよ。五六蔵さんのどこがいけないって言うのよ。>藺:そ、そんなこと、ご当人の前で言えるかってんだ。>三千:貶(けな)すところが見付からないから、そんな言い逃れをするんでしょう?>藺:そんな訳あるか。ようし、それじゃあ言うぞ。良いか? 先ず、見て呉れが悪い。さっき言ったように見るからに博打打ちだ。真面目に仕事をやってるとは思えねえ。>三千:人を見掛けで判断するなんて酷(ひど)過ぎるわ。それに、今さっき会ったばっかりで、本当はどういう質(たち)なのかなんて分かる訳ないじゃない。>藺:分かるさ。生まれてこの方55年。そんな面(つら)をした働き者なんか一度たりともお目に掛かったことはねえ。>三千:それは、お父つぁんの人付き合いが狭いせいかも知れないじゃないの。源五郎親方のところ辺りともっと付き合ってたら、人の見方ももっと増しになったでしょうよ。>藺:お、お前ぇ、親に向かってなんてこと言いやがる。選(よ)りに選って、人付き合いが下手とは聞き捨てならねえぞ。この険悪な雰囲気の原因が自分であると思うと、五六蔵は益々居た堪れなくなった。が、親方からの命令ということもあり、逃げ帰る訳にもゆかず、怖(お)ず怖ずと仲裁の言葉を投げた。>五六:あ、あの。確かにあっしは顔も口も悪い、そりゃあ分かってやす。あっしは慣れてやすからなんと言われようが構わねえんですが、あっしの顔のことで親娘喧嘩されるのは辛いです。止(や)めておくんなさい。>三千:五六蔵さん・・・>五六:親方との約束さえなけりゃ、逃げて帰りたいところでやすが、逃げたら親方の顔を潰すことになりやすんで。・・・藺平父つぁん、どうでやしょう、あっしの面をぼこぼこにぶん殴(なぐ)りゃあ、少しは腹の虫も治まりやすかい?>藺:な、なんでそんなことをしなきゃならねえんだ? そんなことして、お礼参りになんか来られたら敵(かな)わねえ。>三千:お父つぁん!>藺:な、なんだよ。>三千:大姉ちゃんのときだって小(ちい)姉ちゃんのときだって、何も文句なんか言わなかったじゃない。なのにどうして、あたしのときだけそんなに文句を付けるの?>藺:だってお前ぇ、あそこを断ってこっちを断って、揚句に連れてきたのがこんなごろつきじゃあ、仕方あるめえ。>三千:だから、ごろつきじゃないって。源五郎親方のところのお弟子さんたちはみんな真面目で良いお弟子さんだって、お父つぁんだって聞いたことあるでしょう?>藺:人の話なんか半分に聞くもんだ。全部が全部立派な弟子だなんてことはある訳ねえだろう。>三千:そんなのお父つぁんが勝手に思ってることでしょう? そっちの方が間違ってるかも知れないじゃないの。>藺:そんなことあるか。俺はいつだって正しいのよ。・・・大方、巧く取り入ろうとして殊勝(しゅしょう)なことを言ってみせただけに、違いねえんだ。>三千:なんて酷いことを言うのよ。五六蔵さんが傷付くようなことばかりよくも言えるわね。>藺:この悪人面が傷付くかよ。>三千:お父つぁんの分からず屋。五六蔵さんのことを認めて貰えないんなら、あたしこの家を出てく。お父つぁんなんかもう勘当よ。>藺:ちょ、ちょっと待てよ、お三千。待って呉れ。なあ、何もそこまですることはねえじゃねえか、な?>三千:お父つぁんって、いつもそうよ。あたしが苦労しそうだから、あたしには荷が重そうだから、あたしには不似合いだからって、あたしが何をどうしたいかなんて全然分かってないじゃないの。・・・あたしはね、苦労したいの。汗水流したいの。大声で泣いたり笑ったりしたいの。>藺:そ、そんな・・・>三千:お父つぁんったら、いつもその逆。それってどういうことだか分かる? 「余所(よそ)余所しい」ってことよ。「他人行儀」ってことよ。まるで自分の娘じゃないように気を使って、遠慮して、まるで腫れ物にでも触(さわ)るみたいに。>藺:・・・お三千。す、済まねえ。どうやら、俺は知らず識(し)らずのうちにお前ぇに関わらねえようになっちまってたんだな。労(いた)わるって気持ちが、いつの間にか遠巻きにするってことに変わっちまってたんだな。>三千:あたしの足の怪我はお父つぁんのせいなんかじゃない。暴れ馬のせい。そうよ、そうでしょう?>藺:しかし・・・>三千:まだ分からないの? あたしはね、足の痛みなんかより、お父つぁんに嫌われてるんじゃないかっていう心の痛みの方が何倍も辛いの。>藺:お三千。・・・知らねえうちにお前ぇも大人になっちまったんだな。>三千:もう24よ。立派な売れ残りだわ。>藺:そういうことじゃねえ。自分の考えをちゃんと言葉にして言えるようになったってことよ。お前ぇは、もう俺の庇護(ひご)はいらねえってこったな。・・・良いよ。お前ぇが選んだ男を信じよう。>三千:お父つぁん・・・>藺:五六蔵っていったな?>五六:へ、へい。>藺:悪く言って済まなかった。俺のことが呆れたってんならお三千を連れてっちまっても構わねえ。お前ぇさんを信じるよ。だが、もしも許して呉れるんなら・・・>五六:自分の間違いを認めるってことが、一番勇気のいることなんでやすよ。・・・な、そうじゃあねえかい、お三っちゃん?お三千は五六蔵に名前を呼ばれて、恥ずかしそうににっこり笑った。嬉し涙が溢(あふ)れ出してきていた。>藺:そうか。有り難(がて)え。・・・そういうことなら、おーい、お糸、酒だ酒を用意しろ。>三千:五六蔵さん、上がっていって。>藺:お三千、お前ぇもぼさっとしてねえで、母ちゃんの手伝いをしてこい。>三千:あいよ、お父つぁん。お三千は勇んで奥へ下がっていった。>藺:・・・世間様の評判は嘘じゃあなかったようだな。まったく、源五郎の野郎、良い弟子を持ちやがったな。>五六:うちの親方のことはご存知なんでやすかい?>藺:ずうっと昔にな。棟梁の源蔵さんには大分(だいぶ)世話になった。ただおろおろして見てるだけの俺を引っ立てて、お三千を医者んとこまで負(お)ぶってって呉れなすった。>五六:へ? こりゃまた、偶然でやすねえ。>藺:偶然なもんか。>五六:と、仰いやすと?>藺:俺はな、言っちゃあなんだが、お前ぇさんの兄貴分の熊五郎にお三千をやりたかったんだ。>五六:本当なんでやすかい?>藺:済まねえ。腹を立てねえで呉れ。お糸にそれとなく源五郎の名前を切り出すように仕向けたんだ。俺の勝手な高望みよ。・・・だが、源五郎は熊五郎じゃなくって、お前ぇを選んだ。その上、お三千もお前ぇを選んだ。そういうこった。何の支障もねえ。>五六:そんなことだったんでやすか。>藺:おれはそういう姑息(こそく)な野郎だ。>五六:あっしは別にそうは思わねえですよ。それだけ、お三っちゃんのことを気に掛けてたってことでやすからね。>藺:お前ぇ、顔に似合わず優しい男だな。>五六:止してお呉んなさいよ。そんなこと言われると鳥肌立(だ)ちやすぜ。>藺:はっは。こりゃあ、案外良い婿を拾ったかも知れねえな。今度お三千には出来(でか)したって言っとくよ。>五六:そりゃあどうも。はは・・・。しかし、初めはどうなることかと思いやしたぜ。>藺:人間なんて不思議なもんだよな。俺もどっちかってえと偏屈って言われる男だってのに、こんな掌(てのひら)を返すみてえに、あっさりと態度を変えちまうとはな。>五六:うちの親方が言ってやした。間違いを犯すと人はすぐ責めるけど、間違いを正すのを誉(ほ)める人ってのは中々いねえ。あっしは、この親方ならきっと誉めてくださるって、そう信じて付いて来ようと思いやした。藺平父つぁんも、今、誉められて良いようなことをしたんでやすよ。>藺:勿体ねえ・・・
2007.12.14
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『君子(くんし)危(あや)うきに近寄らず』『君子危うきに近寄らず』人格者は身を慎(つつし)む者であるから、危険な所には初めから近付かない。類:●The wise man never courts danger.(賢者は決して危険を求めない) ●Better be safe than sorry.(後で悔いるより最初から安全でいるのが良い)<英語ことわざ教訓事典>反:●盲蛇に怖じず●Fools rush in where angels fear to tread.(天使が踏み込むのを恐れる場所へ愚者は飛び込む)出典:「春秋公羊伝-襄公二十九年」*********見合いの相手は、「お三千(みち)」といい、畳職(たたみしょく)の三女だという。五六蔵が部屋に入るなり「きゃっ」と小さな声を上げ、すぐさま恥ずかしげに下を向いた。出会い頭(がしら)から怖がられていては見通しも暗いなと、五六蔵は居た堪れなくなった。>源:本来なら、相馬屋の元締めに仕切って貰わなきゃならねえんだが、質(たち)の悪い風邪にやられちまったってことで、元締め抜きってことにさせて呉れ。>あや:その方が肩肘張らなくて良いでしょ? ね、お三っちゃん。>三千:は、はい。・・・あの、三千と申します。24になりました。>五六:あ、あっしは、五六蔵でやす。30にもなってまだまだ見習いでやす。そんなんじゃ、お気に召しやせんよね?>源:何もそんなに結論を急ぐこともあるめえ。人間、一遍会ったくらいじゃ良し悪しは分かるもんじゃねえしな。そうじゃねえか、五六蔵。>五六:なんですかい? 「だるま」で初めて会ったときのことを言ってるんでやすか? そりゃあ・・・>源:ああそうだ。まるっきりちんぴらみてえだったっけな。>五六:お恥ずかしい。若気の至りでやして。>源:そんな年じゃあねえだろう。・・・まあ良いや。兎に角、言いたかったことは初めの印象なんてものは、そのうち変わっちまうもんだってことさ。なあお三っちゃん、こいつは見た目こそ荒っぽそうだが、案外真面目(まじめ)なやつなんだぜ。>三千:親方のところのお弟子さんでしたら間違いないって、皆さん口を揃えて仰(おっしゃ)います。>源:そりゃあ誉(ほ)め過ぎだろう。>三千:いえ、皆さんが仰ったことは間違いじゃないと思います。現に、五六蔵さんは、あたしの好みにぴったりで・・・源五郎と五六蔵は、自分の耳を疑い、互いに顔を見合わせた。>源:お三っちゃん、なんかの間違いだろ? こんなごついのが良いなんて話そうそうあるもんじゃねえぞ。>三千:親方には詳しく話してなかったですが、あたし、小さい頃に怪我をして、右足をちょこっと引き摺るんです。お父つぁんもそんなあたしに遠慮して、力の要る仕事をさせても呉れないんです。可笑しいでしょ? 畳屋の娘が畳の持ち運びもさせて貰えないなんて。>源:それで、「逞(たくま)しいの」なんて変わった条件が付いてきたのかい?>三千:ええ。・・・あたしって、変わってますか? そうですよね、やっぱり。>あや:そうでもないわよ。わたしだって、こんなごつくて腕っ節が強い人と一緒になってるんだもの。お三っちゃんが変わってるんなら、わたしも同じ、変わり者ね。>三千:ま。お内儀(かみ)さんって、口がお上手ね。なんだか一遍に気が楽になっちゃったみたい。>五六:で、でもよ、「きゃ」って言ったじゃねえか。怖いんと違うのかい?>三千:とんでもない。あんまりごついもんだから、嬉しくなっちゃって。>五六:なんだって?>源:五六蔵、お前ぇのことを怖がらねえ娘がここにも1人いたじゃねえか。なあ?>五六:へ、へい。・・・でも、本当に真に受けちまっていいことなんだかどうか、どうも、信じられやせんで・・・>源:そんなの、何回か会ってるうちに段々実感が沸いてくるさ。・・・なあお三っちゃん、こいつ、ちょいと卑屈になってるとこがあるみてえなんだ。お三っちゃんの力で、その捻(ひね)くれたとこを直してやっちゃあ呉れねえかい?>三千:良いんですか?>源:頼むよ。>三千:ああ、誰かからものを頼まれたのって初めて。俄然やる気が出てきちゃう。>五六:あの、あっしの気持ちっていうやつは・・・>源:この際、細かいことは気にするな。俺の命令だ。分かったな。>五六:そ、そりゃあ、そこまで言われちまったら従わねえ訳にもいかねえですが。・・・あ、姐さん、こんなことで良いんですかい?>あや:五六蔵さんらしくって良いじゃない。きっと見事に尻に敷かれちゃうわよ。>三千:ま、お内儀さんったら。初めてそこに座ったときには、唯(ただ)の気の弱そうな町娘だったが、話してみると、存外お転婆娘なのかもしれない。雰囲気に慣れてきたせいか、その表情もくるくると良く変わる。>源:ときに、お三っちゃん。藺平(いへい)父つぁんはどう言ってるんだい?>三千:お父つぁんは良いのよ。あたしが嫌がるような見合い話しか持ってこないんだもの。今回のだって、おっ母さんと2人で相馬屋さんへ頼みに行ったんだもの。>源:でもな、藺平父つぁんは父つぁんはなりに、お三っちゃんのためを思ってのことだろう?>三千:そんなの分かったもんじゃないわよ。もしかすると、あたしがいつまでも身近にいるのが嫌なもんだから、次々と見合い話を持ってきてただけかも知れないし。>源:娘がいて嫌だなんて思う父(てて)親なんかいやしねえさ。そりゃあ、勘違いか勘繰り過ぎってもんだ。>三千:そうかしら? それなら、もっと「あれを運べ」だの「ちょっと手伝え」だのって言って貰いたかったわ。>源:言葉に出すのが下手(へた)な人だっているさ。それが、偶々(たまたま)親娘だったから余計に、言わないで済ませちまうんじゃねえのかい?>三千:そう思います、親方?>源:大方そんなところだろうってことさ。こればっかりはご当人に聞いてみなきゃ分かりゃしねえ。・・・まあ、一度じっくり話してみるこったな。>三千:そうね。こんな状態じゃ晴れ晴れとした気分でお嫁に行けないものね。>源:そういうこった。・・・と、そんなことで五六蔵、お三っちゃんを送り届けがてら、藺平父つぁんに顔だけでも見せてこい。>五六:そ、そんなこと言ったって、まだ嫁に貰うとも貰わねえとも決まった訳じゃねえんですぜ。>源:そうさ。決まっちゃあいねえさ。だがな、この見合いはあと何回か会うっていう条件なんだから、そういう意味で顔を見せとかなきゃならねえだろ?>五六:そんなのも条件だったんでやすか?>源:そんな見合いなんかあるか。今回のが特別で、そういう条件なのさ。>五六:なにもそんな特別なことにしなくったって・・・>源:黙らっしゃい。お前ぇ、顔だけじゃなくって耳まで悪くなったのか? お三っちゃんが、お前ぇの卑屈なところを治して呉れるって言ってるんだ。俺はな、お前ぇが引け目を感じながらじゃなく、構えねえで人様の前に出られるようになるまで、お三っちゃんに預けるつもりでいる。・・・お三っちゃん、構わねえかい?>三千:はい、引き受けさせていただきます。・・・なんだか、とっても楽しそう。>五六:姐さん、親方の横暴だとは思いやせんか?>あや:あらどうしてわたしに聞くの? あたしは従順な妻ですもの、親方の決定に異を唱える訳なんかないじゃありませんか。それに、2人のどっちのためにもなりそうなことなんだもの。反対する方が間違ってるくらい、いくら能天気でも分かりますよ。>五六:姐さーん・・・>源:でも、気を付けとけよ。藺平父つぁんは怒り出すと手が付けられねえっていうからな。>五六:冗談は止してくださいよ。>源:お前ぇも見たことあるだろう? あの千枚通しのでかいやつ、待ち針っていうのか?>五六:脅かさないでくださいよ。真逆(まさか)そんなもの振り回したりなんかしやしませんよね? ・・・なあ、どうなんだい?>三千:どうかしら? あたし本気で怒ったところなんか見たことないし。>五六:親方も付いてきてくださいよ。>源:馬鹿なことを言うな。ものごとを弁(わきま)えている男は、そんな危なっかしいとこへは行かないものなの。>五六:弟子なら行かせてもいいって言うんですかい?>源:そういうこった。はっはっは。五六蔵は渋々、お三千の家まで付いていった。源五郎は、堅苦しい装束を早々に脱ぎ、普段の格好に着替えてから、一息入れながらあやに尋ねた。>源:最初「きゃっ」とか言われたときにゃ、肝を冷やしたぜ。ああこれでまた五六蔵が捻くれちまうんじゃねえかってよ。>あや:でも、良い娘さんですね。五六蔵さんのこと真っ直ぐ見て呉れる人ってそうそういませんからね。>源:瓢箪から駒かも知れねえな。>あや:あなたとか八兵衛さんが絡むと、なんだか知らないうちにそんな風になるみたいですね。>源:冗談みたいな生き方をしてるからなんて言うなよ。>あや:八兵衛さんなら、そうかも知れませんね。でも、あなたの場合はそうじゃないでしょう?>源:神様とか仏様が気に入ってくだすってるのかな?>あや:怖がってるから、逆らわないようにしてるのかも知れませんわね。>源:止せやい。俺がそんなご立派なもんじゃねえことくらいお前ぇが一番知ってるじゃねえか。>あや:あら、わたしが一番知っているから、こんなことを言うんじゃありませんか。>源:まったく、敵わねえよ、お前ぇには。>あや:でも、藺平さんって、本当に怒ると怖い人なんですか?>源:昔の話さ。それも、酒が度を越したときだけだ。あるときを境にぴたりと止んだってことだぜ。>あや:あるとき?>源:人の話じゃあ、娘の誰かに怪我をさせちまったときからだってんだが。>あや:真逆、お三っちゃんに手を掛けたってことじゃあ・・・>源:そうじゃねえ、飲んで注意が散漫になってたせいで、駆けてくる暴れ馬に気付くのが遅れただけよ。それを、全部自分のせいだって、勝手に思い込んじまってるらしい。>あや:そういうことだったんですか。それで、用を言い付けるのを遠慮しちゃってたんですね。>源:なんだかな。・・・そんなところも、五六蔵がなんとかして呉れると良いんだがな。>あや:なんとかなりますよ。お三っちゃんが幸せになれば、全部「過ぎたこと」になっちゃいますから。
2007.12.13
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『“ 時間がない ”というのは、払う犠牲が最も大きい言葉です。』 “ 時間がない ”という言い訳は、さまざまな損害をもたらします。 まず、家族だんらんの時間をなくしてしまう恐れがあります。また、 小さな誤りの修正を怠り、後になって事態を悪化させてしまうことも あり得ます。あるいは、休息や運動が必要だという身体の訴えを無視 してしまうこともやりかねません。 どんな場合でも、“ 時間がない ”というのは、自分がそう思ってい るだけのことですから、それを理由に、自分の幸福を持続するために やるべきことを怠ってはいけません。 時間を上手に配分して、やるべきことをやる自由を手に入れる方法は いくらでもあります。また、優れたリーダーには必ず信頼できる同僚 がいるもので、困難に遭遇したときは、重い負担を分かち合ってくれ ます。積極的心構えを奮い起こせば、仕事を迅速に、そして立派に遂 行するためのエネルギーも湧いてきます。 時間に追われているという人は、仕事のやり方を一度全面的に分析し てみる必要があるのではないでしょうか。時間が足りないからといっ て、自分のやりたいこと、しなければいけないことを我慢するようで はいけません。----------------------------------------------------------------『幸福を人と分かち合えば、それは減るどころかさらに増大します。 幸福は、人に与えることによって増大する財産なのです。』 幸福というものは、他者に与えた分だけ、自分に返ってくるものなの です。 人生において最も素晴らしい報酬は、蓄積された金銭的な財産からで はなく、“ 人の幸福に役立つことができたという精神的な満足感 ” から得られるのです。 人生で最も素晴らしい豊かさを手に入れる人というのは、 “ 客に満足をもたらすと同時に、自分自身にも利益をもたらすサービ スを提供する方法 ”を見出した人です。 「あなたと取引することに決めてよかった」と客に喜んでもらえるよ うになろうという決意と豊かな心を持って仕事に取り組めば、大きな 利益は自然についてくるでしょう。 他の人たちと、喜びを分かち合うことのできる幸福な人は、世の中に は常に不足しているのです。------------------------------------------------------------ 『笑顔は、それ自体がささやかなものであっても 大きな結果を生み出すことができます。』 動物世界では、歯を見せることは明確な攻撃のサインですが、人間の 社会では、その逆が真実です。心温まる笑顔ほど、人の怒りや攻撃的 な態度を即座に和らげるものはありません。 いつも自然に笑顔がこぼれる。あなたがそんな人であれば、いつでも 大いに歓迎されるでしょう。あなたが協力を依頼する時に、そこに真 の友情からこぼれる笑顔があれば、必要とするよりも多くの援助を得 ることができるでしょう。 出会う人すべてに対して、例えば誰かに紹介されたり、懐かしい友達 に会ったり、毎朝職場に着いた時など、すぐ自然に親しみをこめて微 笑みかけられるようになるまで練習しましょう。 もちろん、その笑顔は心からのものであることが大切です。 人はすぐニセモノを見抜きます。本物の感情を伴わない、作り笑顔ほ ど、人をしらけさせるものはありません。
2007.12.12
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『苦(くる)しいときの神頼(かみだの)み』 『苦しいときの神頼み』普段は神仏を信じない者が、苦境に陥(おちい)った時だけ神仏に祈って助けを求めること。類:●溺れる者は藁をも掴む●叶わぬ時の神頼み●事あるときは仏の足を戴く●Danger past, God forgotten.<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典>*********源五郎から見合いの段取りなど、細かい話は聞かなかったが、熊五郎も頼まれた以上世話を焼かない訳にも行かない。八兵衛あしらいならどうとでもなるから、先(ま)ず、五六蔵の気持ちを確かめてみる気になった。>熊:なあ五六蔵、ちょっと聞いても良いか?>五六:なんでやすか?>熊:お前ぇ、嫁を貰うなんて予定はねえのか?>五六:なんですかい、藪から棒に。>熊:いやなに、四郎が早々に身を固めちまったから、兄貴分のお前ぇはどう思ってるのかと気になってな。>五六:そりゃあ、四郎たちとか菜々たちが宜しくやってるのを見てると、夫婦(めおと)ってのも悪いもんじゃねえって思いやすよ。・・・でも、ほら、あっしはこんな風体(ふうてい)でしょ? 女にはとんと縁がありやせんで。>八:はは。身の程を弁(わきま)えてんじゃねえか。>熊:おいらは五六蔵と話をしてるの。横合いから首を突っ込むなってんだ。>八:おいらは口を挿(はさ)んだの。首なんか伸ばしちゃいねえよ。轆轤(ろくろ)っ首じゃあるまいし。>熊:おんなじことだっての。良いから黙ってろってんだ。>八:分かったよ。・・・で? 五六蔵にそういう気があったらどうなんだ?>熊:どうって訳じゃねえさ。・・・そんなことどうでも良いだろ? お前ぇは黙って膾(なます)でも食ってろ。>八:分かったよ。・・・ったく、正月早々からぼそぼそやりやがって。ああ面白くねえ。>熊:五六蔵、八のことなんか構わねえで良いから、もうちっと聞かして呉れねえか?>五六:へえ。・・・ですが、あっしは嫁とか、町娘とかっていう話はどうも苦手でやして。>熊:そんなこたあ端(はな)から分かってら。分かってるがよ、苦手だからって一生独(ひと)り身って訳にもいかねえだろ?>五六:そりゃあそうなんでやしょうが・・・>熊:お前ぇにだって、昔惚れた女の1人や2人いるだろ?>五六:そりゃあ、こっちが一方的に惚れたのなんか数え切れねえほどですよ。>八:おいらとどっちが多いか比べっこしてみるか?>熊:お前ぇは黙ってろっての。>五六:一番惚れたのは姐さんですかねえ?>咲:あやさんなの?>五六:へい。一遍でぽうっとなっちまいやした。>熊:そんなことお前ぇ、一度も言わなかったじゃねえか。>五六:言えますかってんですよ。親方が惚れていなさるってのは一発で分かりやしたから。姐さんの方だって悪い気がしてねえみてえだったし。あっしなんかに惚れる女なんて、まず、いやせんからね。>熊:またそれか。お前ぇな、端っから自分で可能性を潰(つぶ)しちまってるのが分からねえのか?>五六:分かってやすよ。でもね、熊兄い、あっしが誰かを幸せにしてやれるっていう気がどうやっても起きてこねえんでやすよ。五六蔵は照れ臭そうに言い、湯飲みに残った酒を一気に飲み干した。>咲:それで? あやさんのどういうところに惚れたの?>五六:あっしのことを怖がらねえで、真っ直ぐ睨(にら)んできたとこでやすかねえ。>八:お前ぇ、そんな趣味なのか?>熊:そんな言い方ってのはねえんじゃねえか? 五六蔵だって、言い難(にく)いことを喋って呉れてんだからよ。>八:無駄無駄。こんな、見て呉れからして博打(ばくち)打ちみてえな野郎と、誰が一緒になるかってんだ。どうしても嫁が欲しいってんなら、夜中に毘沙門さんにでも行って、お百度でも踏みやがれ。おいらたちが寒い中初詣に行ってきたってのに、暖かい部屋で酒なんか飲んでる奴なんかに、嫁なんか寄越(よこ)して呉れるかってんだ。>五六:初詣なら、昨日の元旦のうちに行ってきやしたって。・・・でも、見て呉れが悪いのばっかりはどうにもならないんでしょうけど。>八:然(さ)しもの神様も、顔の造りばかりはどうしようもねえっていうことだな。>五六:そうでやすよね、やっぱり・・・>咲:八つぁん! 言い過ぎよ。見てよ、悄気(しょげ)ちゃったじゃないの。>八:す、済まねえ、調子に乗り過ぎた。身内の足を引っ張っても仕方ねえよな。大丈夫だって、五六蔵。顔なんかどうでも良いって娘だってきっといるって。な?>五六:良いんです。そんなこたあ端っから分かってることでやすから。>熊:五六蔵よ。そう諦(あきら)めたもんじゃねえかも知れねえぜ。>八:どういうこった?>熊:いやなに、源五郎親方だって、決してお優しい顔じゃねえのに良い嫁さんに恵まれたんだってことよ。頃合いが来りゃあ、良い話があっちから来るさ。>五六:そうでやすかねえ。>八:ああ来るともさ。・・・でもな、おいらの後にしておいて呉れよな。>咲:そんなの待ってることないわよ、五六ちゃん。こればっかりは早いもん勝ちの恨みっこなしなんだからね。>五六:はは。そうでやすね。まあ、期待しないで待つことにしやす。話をどこから聞いていたのか、源五郎とあやが居間に入ってきた。静は疲れてしまったのか、奥で寝入っているようだった。>あや:そろそろお雑煮(ぞうに)にしようかと思うんだけど、もうちょっと待った方が良いかしら?>三:おいら食います。お屠蘇(とそ)も良いけど、雑煮も良いですねえ。>源:お前ぇは調子好過ぎだっての。ちったあ、しゃんとしやがれ。>三:へーい。>源:なあ五六蔵。>五六:へい。なんでやしょう?>源:お前ぇに見合いの話がある。明日、ちょいとばかし正面(まとも)な格好で来い。>五六:へ?>熊:明日なんですかい? そりゃああんまり、急過ぎやしませんか?>源:そんなこたあねえ。こういう話はとんとんと運ぶに限る。>五六:親方、あっしがいくらこんな風体だからって、心の準備くらい必要なんでやすが。>源:準備して何が変わるってんだ。あれやこれや、余計なことを考えるくらいなら、何も考えねえ方が良い。>五六:そんなこと言ったって・・・>咲:五六ちゃんったら、びびってるの? かーわいいっ。>熊:お咲坊、男に向かって「可愛い」ってのはねえだろう。>咲:だって、五六ちゃんったら、母性本能を擽(くすぐ)るのよね。(※)>熊:大の大人に向かって言う言葉じゃねえって言ってるんだ。何を考えてるんだかね、近頃の若い娘は。>咲:熊さんったら、なんだか言いようが年寄り染みてる。>熊:放(ほ)っとけ。>源:それでだ。相手の娘さんがどこのどういう人かってことだが・・・>八:どういう人なんでやすか?>熊:お前ぇには関係ねえだろ? 五六蔵への話なんだからよ。>八:そんなの分からねえだろう。五六蔵よりこの八兵衛様の方が良いわって、言い出さねえとも限らねえ。>熊:ねえの。五六蔵で駄目だったら、それでお終(しま)い。つまり、破談だ。>八:そうなのか? なんだか随分勿体ねえじゃねえか。お零(こぼ)れも何にもなしか? じゃあ、おいらの嫁の話は?>熊:ねえ。そんなもん自分で探しやがれ。>八:そんな殺生(せっしょう)な。・・・折角(せっかく)大枚(たいまい)叩(はた)いて拝(おが)んできたお陰で、早速ご利益(りやく)があったかなって思ったんだがな。>熊:そう簡単に効き目が出るかってんだ。それにな、年に一遍くらい拝んだって、神様は聞いちゃ呉れねえの。>八:なんだ。波銭(=4文銭)2枚も損しちまったぜ。>熊:なんだ、たったそれっぽっちか?>八:馬鹿にするなよ。8文もありゃあ、団子が2種類食えるんだぞ。餡子(あんこ)と黄な粉と・・・>熊:信心より食い気か? まったく以って罰当たりな野郎だぜ。・・・お前ぇは、今年も独り身のまんまだな。>八:そんなあ・・・>咲:それで? 親方、五六ちゃんのお相手ってどんな人なの?>源:まあ、止(や)めとこう。お後の楽しみってことにしとこう。>咲:そんなのってないわよ。知りたい知りたいっ。>源:お咲ちゃんが知ったって、どうなるもんじゃねえだろ?>咲:そんなの分からないじゃない。こう見えても、あたしってかなり顔が広いのよ。>源:それは知ってるが、こういうことはな、結局はご当人同士に任せるしかねえのさ。・・・と、そんなことだから五六蔵、今日のところはさっさと切り上げて、お頭(つむ)の中の酒を抜いとけ。>五六:「切り上げろ」って、親方、もう飲み食いできねえってことでやすか? そりゃあないですよ。>源:食うのは良いが、酒は止めとけってことだ。それに、風呂屋にくらい行っとけ。>五六:菜々ぁ、とんだことになっちまったよぅ。>菜:五六兄ちゃん、頑張れ。きっと巧くいくって。>五六:そう簡単に行くかよ。それより、こっちの心の準備が・・・>松:なに言ってやがる。十中八九断(ことわ)られるんだから、気楽にやりゃあ良いんだよ。どうせ顔を見た途端に「きゃあ」とか言われて、終(しま)いなんだからよ。>熊:なんて言いようだ。まったく、義弟(きょうだい)甲斐のねえ野郎だな。お前ぇこそ、お百度でも踏んでやりゃあ良いじゃねえか。>松:ご冗談。そもそも信心の「し」の字も知らねえ野郎にゃ、鰯(いわし)の頭でも刺しといてやりゃあ十分よ。なんなら風呂屋に行ってる間にでも刺しといてやるぞ。(つづく)---≪HOME≫※お詫び:時代考証を誤っていると思います。「母性本能」は、英語のmaternal instinctの訳語と考えられ、たぶん、お咲の口から発せられるべき言葉ではないと考えられます。(上へ戻る)
2007.12.11
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【く】 『暗(くら)がりから牛(うし)『暗がりから牛[を引き出す]』1.暗いところに、黒い牛がいるのは矢鱈(やたら)に黒いばかりで、何が何やらはっきりしない。ものの区別がはっきり付かないこと。2.動作が鈍(のろ)くて、はきはきしていない人のこと。 用例:浮・西鶴置土産-5「まことに暗がりから牛を引き出すごとくに、楽寝をおこせど目を覚さず」類:●闇に烏(からす)●暗闇から牛を引き出す*********そんな頃八兵衛は、静(しずか)を引き受けたのを後悔し始めていた。頭を叩く癖くらいなら笑って許せるのだが、木履(ぼっくり)で脛(すね)を蹴(け)られては堪(たま)らない。>八:静嬢ちゃん、八は鞠(まり)や野良犬じゃないんですよ。>静:あははは。>八:分かってるんですかい? それにですよ、蹴飛ばすなんてことは女の子がしちゃあいけないことですぜ。>静:いけない?>八:そうですよ。いけないんです。>静:あはは、いけない、いけない。あっぷっぷぅ。>八:駄目だこりゃ。全然分かってねえ。>咲:まだものの良し悪しなんか分かるもんですか。3つ〔数え年〕になったばっかりなのよ。>八:もう3つだから、痛(いて)えんじゃねえか。それに当たるのが、ものの見事に弁慶の泣き所なんだからよ。それでなくたって昨夜(ゆうべ)敷居に蹴躓(けつまず)いて、しこたまぶつけたとこだってのに・・・>あや:御免なさいね、八兵衛さん。棟梁が蹴られて喜ぶものだから、良いことをしてるって思い込んじゃってるみたいなのよ。いけませんって教えてるんですけどね、そうしたら今度は、睨めっこをしてると勘違いしちゃって大はしゃぎ。>八:ある意味で、そりゃあ凄(すげ)え。よっぽど腹が据わってやすね。大物になりますぜ。>咲:女の子のことを「大物」って言ったって誉め言葉にはならないの。>八:そうなのか? だって、大物は大物だろ? 偉いってことだろ?>咲:女はね、おしとやかな方が偉いの。>八:そんなの誰が決めたんだ? お福ちゃんなんか、そりゃあ強くって、偉い女だったぜ。>咲:それは特別な人だけのことよ。普通の女はおしとやかで奥床しいのが一番なの。分かった?>八:ふうん、そうなのか。・・・じゃあよ、お咲坊は駄目だな。全然おしとやかじぇねえもんな。>咲:なんですってーっ!八兵衛が逃げると静もその後をひょこひょこと付いて回る。そんな微笑ましい様子を、あやはにこやかに見守っていた。難しい顔をしながら戻ってきた源五郎と熊五郎も、掌(てのひら)を返したように破顔して、追い掛けっこに加わった。>咲:ねえあやさん。子育てって大変?>あや:そりゃ、大変よ。でもね、楽しいこととか嬉しいことの方が多いから苦にはならないわ。どうして?>咲:いえね、やがてはあたしも子供を産むんだしさ。将来のためにね、参考にと思って。>あや:まだそんなに急ぐことでもないでしょ? お料理とかお裁縫とか、これからしっかり覚えなきゃならないことが沢山ある訳だし。>咲:そんなのはちょちょいのちょいよ。ほら、あたしのとこ、早くに母上が亡くなっちゃったでしょ? 炊事洗濯掃除に繕い仕事、そんなの十(とお)の頃からやってるんだもの。>あや:でもね、お料理1つにしたって、お酒を飲まない六さんと、お酒飲みの人が好むものは全然違うでしょ? まだまだ覚えなきゃならないことだってあるでしょう?>咲:そう言われちゃうとそうだけど。父上は芋があれば満足しちゃうっていう安上がりな人だもんね。魚もあんまり食べないから、下(お)ろしたこと、ないもんね。>あや:でしょう? まだ気が早いわよ。>咲:でも、あたしももう16よ。早いところは15でお嫁に行っちゃってるわ。>あや:それはほんの一握りの人でしょ? 例えば、先様がそれなりに良い家柄だとか、大店(おおだな)の若旦那だとか。>咲:それはそうだけど、なんだかね・・・。じゃあ、幾つまで待てば良いと思う? 十八? 二十歳(はたち)? それとも、父上の仕官先が決まるまで? そんなの待ってたらお婆ちゃんになっちゃう。>あや:真逆(まさか)。時が来れば自然とそういう風になるから大丈夫よ。>咲:でも、あんな襤褸襤褸(ぼろぼろ)の長屋で燻(くすぶ)ってたら、ぴったりな殿方に廻り合うこともないないかも知れないじゃない。>あや:そうかしら。案外そうでもないんじゃないの?>咲:だって、まだ弟子も抱えられない大工が2人いるだけじゃない。選ぼうにも、それっぱかしじゃどうしようもないじゃない。良い男が5人も10人も言い寄ってくるなんて、素敵じゃない?>あや:ま、欲張りね。熊五郎さんたちのこと、「将来有望」って思ってる人もいるんだけどな。>咲:本当に? おべっかでしょ?>あや:違うわよ。「正式に見合いを」っていう申し入れよ。>咲:ほんとなの?>あや:安心して。断ることにしたから。>咲:べ、別にあたしは・・・>あや:そうね。お咲ちゃんに言っても仕方ないことよね。わたしの独り言だから、聞き流しておいてね。・・・でも、先方様は意外に本気なのよ。代わりにということで、五六蔵さんに会わせようと思うんだけど、どう思う?>咲:五六ちゃん? 本気?>あや:熊五郎さんほど立派じゃないけど、先様の希望には、むしろ五六蔵さんの方が適(かな)ってるみたいなの。>咲:ふうん。変わってるのね。>あや:見掛けが一番って思ってる女の人って、案外少ないのよ。「良い男」なんて言ってるようじゃ、お咲ちゃんもまだまだかな?>咲:あたしだって、親方の良さくらい見分けられますよーだ。お巫山戯(ふざけ)を早々に切り上げて、八兵衛があやに泣き付いてきた。>八:姐さん、もう帰りましょうや。身体が冷えちゃいますぜ。>あや:そうですね。そろそろ引き上げましょうか。>咲:とかなんとか言って、静ちゃんの相手をするのが辛くなったんでしょ?>八:そ、そんな、滅相もない。自分から引き受けといて、おいらがそんなこと言う訳ねえじゃあありませんか、ねえ。>あや:そろそろ源太のお湿(しめ)も替えなきゃならないから、帰りましょう。>咲:あ、そうだ。あたし、お御籤(みくじ)引いてこようっと。>八:あ、おいらも。・・・姐さんはどうしやす?>あや:わたしはいいわ。厄年の人がいるのに大吉の訳ないもの。>八:なあるほど。凶なんか出たら目も当てられやせんものね。・・・やい熊、お前ぇも御籤を引きに行こうぜ。おいらの方が良かったら、今度「だるま」で1合奢(おご)れよな。>熊:まったく、お御籤を賭けに使うなんて、神様が聞いてたら罰(ばち)が当たるぜ。八兵衛が引いた御籤は「末吉」だった。熊五郎のが「小吉」で、お咲のは「中吉」だった。八兵衛は、「小」が一番下だと言い張って譲らず、結局有耶無耶のまま、誤魔化してしまった。>八:まあ良いや。今回の負けは帳消しにしといてやるよ。>熊:良く言うよ。そんな料簡(りょうけん)だから碌(ろく)な御籤が当たらねえのよ。>咲:あーあ、なんだか揃いも揃ってぱっとしない1年になりそうね。>八:幸せなのは四郎んとこと、松つぁんたちだけだな。>三:八兄い、そういうときはぱあっと飲むに限りますぜ。>五六:そうそう。菜々が拵(こさ)えてきたお節(せち)も貧弱だけど中々いけませぜ。>八:お前らだけだぜ、おいらのことを労わってくれるのはよ。ちょいと見てくれよ、この脛(すね)の痣(あざ)。>三:あれまあ、紫色になっちまってやすねえ。昨夜転んだとこですかい?>八:静嬢ちゃんに木履で蹴飛ばされたんだよ。>三:へえ、そりゃあ災難でやしたね。・・・で、どこが昨夜のとこで、どこが今日のなんでやすか?>八:いててて。こら、触るなってんだ。下の方が今日のだ。>五六:でも、八兄い。上も下も分かったもんじゃありやせんぜ。>八:ずきずきしてる方が昨夜ので、ひりひりしてる方が今日のだよ。そんなことも分からねえのか。>熊:そんなこと分かる訳ねえじゃねえか。馬鹿馬鹿しい。>八:馬鹿馬鹿しいだと? おいらが蹴飛ばされてる間に親方に団子かなんかご馳走になっていやがった癖に、その言いようはなんだ。>熊:団子なんか食ってねえってんだ。まったくお前ぇは、なんでもかんでも食い物のことだって考えやがる。お気楽で良いよな、お前ぇは。>八:なんだと? こちとら痛えのを顔にも出さねえで、子守りしてるんだ。偉そうな口利くんなら静嬢ちゃんに蹴られるような、愛らしい男になりやがれってんだ。>熊:そ、それに関しちゃあ、お前ぇに敵(かな)わねえから、全面的に任すよ。頼むから。な?>八:そうか? そうまで言われちゃあ仕方がねえな。お前ぇには痛みを堪(こら)えるなんて芸当は出来ねえだろうからな。>熊:だがよ、偶(たま)には痛そうな顔をしてやった方が良いんじゃねえのか?>八:そんなことできるかよ。相手はまだ3つになったばっかりなんだぞ。泣き出しちまったらどうするんだよ。>熊:そうやって好い顔ばっかりして見せるから、喜んで蹴飛ばすんじゃねえか。痛えときは痛そうな顔をして見せたのが、嬢ちゃんのためになるんじゃねえのか?>八:そんなことおいらにゃできねえよ。あのくりっとした目に涙でも溜められてみやがれ、おいら、考えただけで悲しくなっちまうぜ。>熊:分かった分かったって。お前ぇの優しいとこはようく分かったよ。だからもう、めそめそするのは止せってんだ。正月早々から泣き上戸になりましたって訳でもねえだろ?>八:酒のせいじゃねえや。嫁も子供もねえまままた年が明けちまったのが悲しいんだい。・・・松吉、お前ぇも早く子供を作りやがれ。>松:唐突にこっちに話を振るなってんだ。
2007.12.10
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『蜘蛛(くも)の子を散らす』 『蜘蛛の子を散らす』蜘蛛の子が入っている袋を破ると、子蜘蛛が四方八方に散るところから、大勢の人間が散り散りに逃げ惑う様子。類:●算を乱す●算を散らす*********正月(現在の2月上旬)になり、源五郎は数えの42歳になった。つまり「男の本厄」の年である。昨年1年間を無事に乗り切ったからと、安心してばかりもいられない。近頃では、母親のお雅が「腰が痛い」の「膝が曲がらない」のとぼやくようになってきているし、父親の源蔵も幾らか耳が遠くなってきている。>八:親方、また厄祓いに行くんでやしょう? 毘沙門様ですかい?>熊:また豆撒(ま)きの鬼の役なんかやらされちゃ敵わねえですよ。>源:誰がそんなことやるかってんだ。思い出すだけで情けねえぜ。>八:でも、もうあの坊さんはいないんだろ? >熊:撫道か? そりゃあ、寺社奉行所が出張ってきちまったんだから、もういねえだろうよ。>八:なら良いじゃねえかよ。・・・ねえ、親方ぁ、行きましょうよ。うちの中で、御節(おせち)を突付いてるだけが能(のう)じゃねえでしょう?>五六:あっしは飲み食いの方が良いですよ。外は寒いですぜ。ここには火鉢はあるし、姐さんが拵(こさ)えたもんは、どれもこれも美味(うま)いし。>八:お前ぇは菜々ちゃんのとこへでも行ってろっての。>五六:そりゃあないですよ。あっちはあっちで、水入らずでやってるんでやすから、何も邪魔するこたあねえでしょう。>八:何を抜かしてやがる。こっちの方が豪勢だからだろ?>五六:ばれやしたか? なんなら、松吉共々呼んじまった方が早いかななんて考えたりもしてるんでやす。>源:構わねえぞ。媒酌をやった以上、他人じゃねえんだからな。盆暮れぐらい遠慮せずに連れてくりゃあ良い。>五六:ほんとでやすかい? 手土産代が助かりやす。>八:まったく、ちゃっかりしてやがるぜ。>五六:そういうことなら、おい三吉、お前ぇの出番だぞ。>三:またですかい?>源:まあ、良いじゃねえか。偶(たま)には三吉にものんびり飲ませてやれ。・・・初詣がてら声を掛けてやりゃあ良いじゃねえか。なあ、八。>八:なんですかい、親方。ってことは、おいらたちだけでこの寒い中に出掛けていくってことでやすかい?>源:行きたがったのはお前ぇだろ?>八:そりゃあそうでやすが・・・>熊:おいらも付き合ってやるよ。・・・まったく。>八:そんなこと言って、お咲坊にも声を掛けようっていう算段なんだろ?>熊:ば、馬鹿なことを言い出すんじゃねえよ。おいらは何も・・・>源:道の序(つい)でだ。松吉に声を掛けて知らん振りは出来ねえだろ? そんなことしたら、あやのやつが許さねえぞ。>熊:え? 姐さんも一緒に行くんでやすかい?>源:ああ。瘤付きだ。構わねえだろ?>八:そりゃあ良い。静(しずか)嬢ちゃんはおいらが面倒を見ちゃいますぜ。>源:ああ、頼む。その方が俺も助かる。・・・あれのお転婆は誰に似たんだかな。松吉と菜々は小ぢんまりと正月の膳を囲んでいた。>菜:おら、親方にあやさん。明日にでもご挨拶(あいさつ)に伺おうと思っていたんですよ。>あや:挨拶なんて堅苦しいことはどうでも良いのよ。そんなことより、松吉さんにはまだ源太を会わせてなかったでしょう?>菜:済みません、あやさん。お祝いとかもちゃんとしなきゃならなかったのに、うちの人がどうも無作法で。>あや:職人さんはそのくらいの方が良いのよ。おべんちゃら言って仕事を取ってきても長続きするものじゃないしね。頑固で偏屈な人で良かったわね、菜々ちゃん。>松:あやさん、誉(ほ)めてるんですか、貶(けな)してるんですか?>あや:誉めてるの。・・・でね、五六蔵さんがあっちに混ざらないかって言ってるんだけど、どう?>松:良いんですかい? だって、真逆(まさか)呼びにきてくだすったって訳じゃねえんでしょう?>あや:これから、初詣。序でだから。>源:五六蔵の野郎、「手土産代が助かった」だとよ。>松:あんの野郎、代理に親方たちを使うなんてどういう神経してやがるんだ?>源:まあ良いじゃねえか。正月くらい好きにさせてやるさ。・・・こっちにも頼みごとがあるしな。>松:「頼みごと」ですかい?六之進とお咲は傘貼りをしていた。>咲:あら、あやさん。・・・まあ、静ちゃんじゃない。明けましておめでとう。>静:明けまして、おめでとう、ございます。>咲:まあ、偉いのね。段々お母さんに似てきて良かったわね。美人になるわよ。>源:どういう言われようだい。>咲:ま、親方ったら。そういう意味じゃないわよ。親方の良いところはちゃんと似てくるわよ。源太ちゃんも段々親方に似てくるしね、きっと。>あや:六さん、お咲ちゃんをちょっと借りても良いですか?>六:どうぞどうぞ。こんなので宜しければ、用心棒代わりにでも何でも使ってやってください。こっちももう片付きますから。>咲:やったあ。正月2日だってのに篭もりっきりじゃ腐りそうだものね。・・・どこへ行くの? 八幡様? それとも、毘沙門様に行って豆撒き?>八:鬼にはならねえからな。>咲:あら、そうなの? なあんだ残念。見てみたかったのにな。>八:勘弁してくれよ。あんな豆だって当たると結構痛えんだぜ。>咲:そうなの? ・・・でも良いわ。あと何年かしたら厄年でしょ? 八つぁんたちの鬼が見られるかも知れないものね。>八:やらねえったら。毘沙門天は、詣で客で賑(にぎ)わっていた。そういう頃あいだったのか、「鬼なし」の豆撒きが、もう始まっていた。>熊:親方も混じらなくって良いんですかい?>源:ああ。俺は子供が産まれたばっかりだからって、断っておいた。>熊:だって、「本厄」ですぜ。>源:前もって「祈祷料」は払ってある。・・・まったく、ふんだくりやがるぜ。>あや:仕方ないですよ。去年何事もなかったのはご祈祷のお陰なんですから。>源:松竹梅の「梅」だぞ。それも、鬼の役をやって値切ってる。そんなんでご利益(りやく)があるのかってんだ。>あや:何かあってからじゃ遅いですからね。>八:「空海の先立つ不幸」ってやつでやすね?>熊:お前ぇ、間違え方も複雑になってきやがったな。>咲:「後悔先に立たず」って言いたかった訳? 随分捻(ひね)ったわね。>八:へ? なんだ、そう言うのか?>熊:本気か? ほんとに食い物以外はからっきしなんだな、お前ぇは。>源:熊五郎、ちょっと良いか?>熊:なんでやしょう? 込み入ったことでやすか?>源:ん? まあな。>熊:おいらで役に立てることでしたら、なんなりと・・・>源:実はな、お前ぇに見合いの話が来てるんだ。>熊:なんですって? お、おいらに見合い話ぃ?>源:指名されたって訳じゃねえんだがな、「若い衆で、見込みのありそうなのがいたら」っていう条件でな。>熊:そ、そうでやすか。それで、八じゃなくっておいらってことでやすか。成る程。>源:それでだ。あやとも話したんだがな。お前ぇにも何かと考えがあるだろうから、今回は別の誰かにしといた方が良いんじゃねえかということになってな。>熊:お気遣い有難う御座います。ですが、別に、おいらは・・・>源:お咲ちゃんの前でも、そんなことが言えるか?>熊:い、言えますとも。>源:正月早々から、売り言葉に買い言葉みてえなことなんかしたくねえんだよ、俺は。良いから黙って俺の言うことを聞け。・・・これは、俺の命令だ。真逆、逆らおうなんて思わねえだろうな。>熊:そりゃあ、親方に逆らうことなんか・・・>源:良し。・・・じゃあ聞くが、お前ぇは誰が良いと思う?>熊:相手の方にも因ると思うんでやすが、いったい、どんな方なんですかい?>源:俺も詳しく走らねえんだが、「ちょっとばかし体が弱いんだが、だからこそ逞(たくま)しい男が良い」ってことらしいんだ。>熊:それで大工ですかい? なんだか簡単過ぎやしませんか?>源:そんなこたあ結果が出てみねえと分かりゃしねえさ。そうだろ?>熊:そうでやすね。・・・じゃあ、簡単に言っちまうと、尚更(なおさら)八じゃあ駄目だってことですね?>源:俺の口からそんなことは言えねえがよ、今回のはあんまり八には向かねえようだな。>熊:じゃあ誰なら良いって言う・・・、真逆、五六蔵でやすかい?>源:三吉ってのとはちょっと違うだろ?>熊:親方、五六蔵っていや、見ての通り、顔を出しゃあ娘たちが逃げ散るっていう風体(ふうてい)なんですぜ。>源:俺もな、あやのやつにはそう言ったんだがな。「大丈夫ですよ」だとよ。捌(さば)けたもんだよな。女って生きもんはまったく、男にとっちゃ永遠の謎だな。>熊:そこが良い癖に。・・・冗談は兎も角、こりゃあ大事(おおごと)ですぜ。巧くいったらいったで八の野郎が黙っちゃいねえし。駄目なら駄目で、五六蔵のやつが落ち込んじまう。>源:八の方は頼む。五六蔵の方は菜々ちゃんとあやが何とかするしかねえ。>熊:しかしまあ・・・>源:なんだ?>熊:親方も人が良いってのかなんて言うのか。頼みごとも偶には断っても良いんじゃねえですかい?>源:そりゃあ断れるもんは断ってるさ。だがな、大事な弟子に関わることだからな。芽が出るかも知らねえのに、なんでもかんでも断る訳にゃいかねえさ。>熊:普通の人なら100人が100人とも尻を絡(から)げて逃げ出しますぜ。・・・弟子を持つってことは、存外大変なことなんでやすね?>源:やっと分かったか。分かったんならとっとと身を固めやがれってんだ。
2007.12.09
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『国破(やぶ)れて山河(さんが)あり』『国破れて山河あり』戦乱のために、国は滅びて元の姿はなくなってしまったが、山や川だけは昔のままの姿を残しているということ。出典:杜甫の「春望詩」人物:杜甫(とほ) 中国盛唐の詩人。712~770。字は子美。少陵と号し、工部、老杜などと呼ばれる。若い頃、科挙に落第し各地を放浪し、李白らと親交を結ぶ。40歳を過ぎて仕官したが、左遷されたため官を捨て、以後家族を連れて甘粛・四川を放浪し、湖南で病没。安禄山の乱に遇って幽閉されるなど波乱の生涯を送った。「兵車行」「北征」「秋興」など多くの名作を残す。その詩風は写実的で力強く、沈痛の風趣があり、日本でも西行や芭蕉などが尊び愛唱した。後世、『詩聖』と呼ばれ、李白と共に李杜と並称される。詩文集に「杜工部集」。*********数日後、両替商と札差に出されていた「借金棒引き」の御触れは撤回された。そのうち、もっと穏やかな改革の手立てが、考え出されるのであろう。>鴨:なんだか知らねえが、塩十の爺さん、また隠居しちまったらしいな。>八:でっかいたん瘤(こぶ)かなんか拵(こしら)えてなかったか?>鴨:なんだそりゃ? 隠居するのとたん瘤は関係ねえだろう。>八:それが大有りなのさ。>熊:八、滅多なことを言い出すんじゃねえぞ。>八:なんでだよ。良いじゃねえか。>鴨:お前ぇ、真逆(まさか)ほんとにぶん殴りに行ったんじゃねえだろうな?>八:その真逆よ。「ぐえっ」って言いやがったぜ。>鴨:お前ねえ、そんな危なっかしいことをよくもまあ。・・・しかし、いつの間にそんなことしやがったんだ?>八:内房のご隠居はな、とんでもねえせっかち者(もん)なんだよ。こうと思ったらとんとんとんよ。>鴨:熊よ、いったいどんなことになったんだ? >熊:斉(なり)ちゃんが、現れて・・・>鴨:なに? 上様まで呼んじまったのか?>八:出てきちまったんだよ。お茶目が過ぎるってんだよ、なあ?>熊:まったくだ。>鴨:お前ぇら、ちょいと馴れ馴れし過ぎやしねえか? 畏れ多くも畏(かしこ)くも、上様なんだぞ?>熊:でもなあ、あれじゃあな。軽いってえのか、調子が好いってえのか・・・>八:放蕩を止(や)めるとかなんとか言ってたがよ、無理だな。>鴨:だかよ、本人が止めるって言ってるんだろ? それを口にしたってことが凄いことなんじゃねえのか?>熊:まあ、そういう見方もできるがな。・・・まあ、役人のお前ぇからすりゃあ、奇跡が起こったのと同じようなもんだな。>鴨:それで? 竹上さんのことはどう片付いたんだ?>熊:太市の旦那と、塩十爺さんの後釜と3人で、策を練り直すようにってことになったようだ。>鴨:三つ巴にならなきゃ良いがな?>八:三竦(すく)みになっちまうかも知れねえな。>熊:けどよ、上からの命令とあっちゃ、睨み合ってばかりもいられねえだろ? どうにかなるさ。>鴨:ま、なんにせよ、万遍なく救われるようにして貰いてえもんだ。>八:太市の旦那がいりゃあ大丈夫よ。そりゃあ立派なお人だからな。>鴨:初めは小馬鹿にしていた癖に。>八:おいらがか? 冗談も大概(たいがい)にしと呉れよ。おいら、端(はな)っからあのお人はどっか違うって見抜いてたんだぜ。きっとご立派な策を考えてくださるさ。>鴨:まあ良いや。精々期待しておこう。6つ半(19時頃)になり、お夏が縄暖簾(なわのれん)を潜(くぐ)って入ってきた。>夏:やっぱりいたわ。ねえ、八兵衛さん、女の人が会いに来てるわよ。>八:なに? おいらにか?>夏:美人よ。>八:そうか、おいらも捨てたもんじゃねえな。入って貰っとくれ。>夏:良いの? 「呼んで呉りゃれ」って言ってたわよ。どこかの偉い方のお内儀さんじゃないの?>八:「呉りゃれ」だあ? なんだそりゃ?>熊:おい、お福ちゃんじゃねえのか?>鴨:お前ぇ、そりゃあ、お福の方様のことか?>八:じょ、冗談じゃねえ。・・・なあ、お夏ちゃん、追い返しとくんな。>夏:だって、町衆の着物を着てるし、寒い中を立たせておく訳にもいかないでしょう?>八:お夏ちゃん、ま、ま、待って・・・お夏は、にこっと笑って、外にいた女を招き入れた。案の定、お福であった。>八:お、お、お福ちゃん。なんだってこんなとこまで。そ、そ、そんなにおいらが恨めしいのか? た、た、頼むから迷わず往生して呉れよ、な。>福:死んじゃいないよ。ほら、足だって付いてる。>熊:お福ちゃん、お前さん、真逆(まさか)、この辺りに帰ってきたって言うんじゃねえだろうな?>福:帰ってきちゃあ迷惑?>熊:迷惑だなんて言ってねえよ。誰がどこに住もうと、兎や角言えやしねえさ。>八:おいらは迷惑だ。>福:何もそこまで言わなくたって良いじゃないか。>夏:そうよ。八兵衛さん言い過ぎよ。>八:そんなこと言ったってよ、お夏ちゃん。おいら怖いんだよ。首っ玉ふん掴まれて町中を引き摺られるかと思うと、落ち落ち道も歩けねえ。>福:そうかい。そこまで嫌われちまってちゃ仕様がないね。あわよくば、嫁にでも貰って貰おうと思ったんだけどね。>八:なんだと?>福:・・・冗談だよ。嘘に決まってるじゃないか。あたしはね、お父つぁんの田舎の甲州にでも帰るよ。>夏:行っちゃうの?>福:そう。もう2度と江戸には来ないつもり。>夏:本気なの?>福:甲斐の国には従姉妹(いとこ)もいるし、存外(ぞんがい)多目の路銀(ろぎん)も下されたしね。ここいらと違って、山川が綺麗だし、間もなく桃の花が満開に咲くだろうしね。零落(おちぶ)れちまったあたしには過ぎた場所さね。・・・そういうことだから、八公、どうぞご機嫌宜しゅう。>八:待てよ。甲州へ行くんならよ、贅沢に馴染んじまった口じゃあ良くねえだろ? ここの不味い料理で、ちっとくらい庶民の味に慣れていきな。>夏:ありゃ、八兵衛さんったら、中々洒落(しゃれ)たことを言うわね。あたしも賛成。お福さん、どうぞ、座ってってくださいな。今、下品な肴(さかな)とお酒をお出ししますから。>福:有難う。・・・良い餞(はなむけ)になるわ。>夏:親爺(おやじ)さーん。塩っ辛い煮付けと水っぽいお調子3ぼーん。>亭主:お夏ちゃん、そういう言い方ってねえんじゃねえの?お福は、塩辛い芋煮を突付き、少しばかり酒を飲んで、ほんのり頬を染めて帰っていった。冬の甲斐路は厳しかろうが、やがて春になるのだからと、八兵衛は複雑な心境でお福の背中を見送った。>夏:どうしたのよ、八兵衛さん。逃がした魚は大きいっていう顔をしてるわよ。>八:じょ、冗談は止して呉れよ。おいらはよ、昔通り、お夏ちゃん一筋なんだからよ。>夏:ほんと? お方様より上だなんて凄い。気分好いから1本お負けしちゃう。親爺さーん・・・>八:茶化さないで呉れったらよ、まったくもう。お夏ちゃんには敵(かな)わねえな。>熊:なあ八よ。人にはよ、出会いと別れは付き物だからな。こういう晩もあるってことさ、な?>八:なんだよ。そんな言い方されると、しんみりしちまうじゃねえかよ。・・・そんなんじゃねえってんだ。>鴨:しかしよ、本当に嫁になんかしてたら物凄いことだよな。なんてったって、女房が元お方様で、友達が上様だってんだからよ。>八:面白がってやがるのか? そんなことを言ってる暇があるんだったらな、半端役人でも良いって言うような女でも探してきやがれってんだ。>熊:止めろって。また落ち込んじまうじゃねえか。>八:五月蝿(うるせ)えや。人のことばっかり玩具(おもちゃ)にしやがって。役人だからって手加減しねえぞこのやろ。>熊:まあまあ、鴨太郎には鴨太郎の事情ってのがあるんだからよ。>八:どんな事情だってんだ。隠し立てしねえで素直に吐きやがれ。>熊:そりゃあ、捕り方の台詞(せりふ)だろ?>夏:はい、水っぽくて温(ぬる)いお酒。・・・どうかした? 鴨太郎さんまでしんみりしちゃってるじゃないの。ぱあっと行きましょうよ。旅立とうって人がいるんだから、不景気な顔は禁物(きんもつ)よ。>八:まったくだ。な、鴨の字、元気出せよ。おいらも言い過ぎたぜ。>鴨:放っといて呉れ。・・・まったくよう、言いたいことを言えるだけ、お福の方様が羨ましいぜ。>夏:なに悄気(しょげ)てるのよ。きっと何もかも良いようになるわよ、ね?>熊:お夏坊に言われてりゃ世話がねえや。>八:お夏ちゃんの言う通りだよ。・・・なあ、おいら思うんだがよ、みんながみんなお夏ちゃんみたいに元気でいりゃあよ、太市の旦那とか竹上なんとかっていう人らが頭を抱えることもねえのにな。そうは思わねえか?(第17章の完・つづく)---≪HOME≫
2007.12.08
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『口も八丁(はっちょう)手も八丁』 『口も八丁手も八丁』喋ることも、することも、非常に達者であること。類:●口八丁手八丁*********>八:そ、そ、そ、それだけはご勘弁(かんべん)を。>斉:そんなことを言われてもの。もう呼んでしまって居(お)る。程なくここに来るぞ。>八:お、おいら、か、か、帰らせて貰いやす。・・・熊、後のことは頼んだぜ。>熊:頼むって言われても・・・>八:ゆんべの飲み代(しろ)の礼だ。遠慮せずに取っとけよ、な。>斉:待たっしゃい。・・・余人に渡してはならんと言ったであろう。守れぬのであれば、手打ちにして呉れる。>八:て、手打ちでやすって? そ、そんな殺生(せっしょう)な。>斉:まあ、呉れてしまった後に、誰かに売り渡そうが、簀(す)巻きにして捨てようが、こっちの知ったことではないがな。・・・まあ、面と向かうだけ会いませい。>八:それが嫌だから逃げようってんじゃねえですか。おいら、睨み付けられただけで気絶しちまいますぜ。>斉:そうか。その様を見せて貰うのも一興よの。はっはっは。>八:笑いごとじゃあありやせんぜ。こっちは寿命が縮むかも知れねえんでやすからね。>斉:それは面白い。寿命が縮むところを是非見せて貰いたいものだな。>八:そんなの目に見えますかってんだ。会話が段々掛け合い台詞(ぜりふ)じみてきたところで、内房老人が割って入って呉れた。>内:なんですか、上様も大人気ない。もうそのくらいにしてお上げなさいませ。>斉:ここで止(や)めてしまっては面白くないではないか。>内:面白い面白くないで済ませるようなことではありません。・・・仮にも、お方様である人を大工に下げ渡すなど、聞いたことが御座いません。前代未聞のことですぞ。>斉:そうか。それなら余が最初の将軍ということになるの。これもまた一興。>内:前代未聞というのは、口の悪い言いようをすれば「頓珍漢」ということですぞ。空(うつ)け者呼ばわりされでもしたら、いかがなさいます?>斉:放っておけば良い。捨て置け。>内:上様。・・・それでなくとも放蕩が過ぎると皆頭を抱えておるのですぞ。これ以上の奇行はお止めください。>斉:ふむ。放蕩と言われては返す言葉もないの。しかしな、福の所業には些(いささ)か目に余るものがある。このまま奥に置いておく訳にもいくまいて。どうじゃ?>内:それはそうでもありましょうが、もそっと穏便に済ますこともできましょう。それに、若君のことも御座います。>斉:若はどこぞの藩へ出せば良い。下手に置いておくと、命が危ういからの。>内:なるほど。その点に付きましてはご明察で御座いますが、お福の方様の件は、何卒(なにとぞ)別の手段を。>斉:ふむ。仕方ないかの。・・・だがな、呼んでしまっておる。折角だから、対面だけはさせても良いであろう。>内:上様・・・。まったく、あなたという人は。>斉:よし決まった。・・・そういうことである。八つぁん、嫁の件はなしじゃ。>八:会うのもなしにして貰えやせんか?>斉:駄目じゃ。やがて、店の主(あるじ)に小言を言いながら、お福の方が現れた。>福:このような下賎の者が使うようなところに呼び付けられるとは、安く見られたものです。上様のお遣いでなかったら、来たりなぞしておりませぬぞ。>主:はあ。まことに恐縮至極に存知奉りますです、はい。>福:わらわに用とは、いったいどこのどなたじゃ?>斉:余じゃ。>福:う、上様? 何故このようなことろに? ご用でしたら、奥にお運び遊ばせば宜しいでは御座いませぬか?>斉:ちと、会わせたい者があったのでな。のう、ご老体。>福:内房、わらわに諫言(かんげん)でも聞かせようということか?>内:滅相も御座いません。この老体には然様(さよう)な力も身分も御座いません。>斉:のう、福。そこに居る町人に見覚えはないかの?>福:わらわに、町民ごときの知り合いなぞ・・・、おや? はて、どこかで・・・>斉:八兵衛である。再会の言葉を掛けてやるが良い。>福:八兵衛というと、箪笥町のか? あの盗人(ぬすっと)の八公か?>八:誰が盗人だと?>福:おおそうじゃ。やっぱり八公じゃ。よくもわらわの団子を取って呉れたの。それに、飴玉も。>八:だから、取ってなんかいねえってんだ。勝手に大笑いして落っことしたんじゃねえか。こちとらなんにも悪いことなんかしてねえぞ。ちゃあんと洗って返してやろうとしたじゃねえか。それを取られた取られたって大騒ぎしやがって。>福:団子を台無しにしておいて言い逃れか? 盗人猛々しいとはこのことじゃ。>八:首っ玉をふん掴まれて1辻も引き摺り回されて、あちこち怪我をさせられたのはおいらの方だっての。>福:なにを? 町人風情がわらわに口答えしようというのか?>八:今じゃお方様だかなんだか知らねえがな、蝦蟇(がま)みてえなでかい口を開けて下品に大笑いしやがったのは、手前ぇの方なんだからな。>斉:どういうことなのじゃ、八つぁん。>八:死んだ父ちゃんの話をしたことはありやせんでしたか? 然(さ)るお偉いさんの前で腹踊りをやったばっかりに、お手打ちになったんでやすがね、おいらも、おんなじなんでやすかねえ。>斉:腹踊りで手打ちになったなどという話は聞いたこともないぞ。余程下手だったということか?>八:その逆でやすよ。おいらの父ちゃんは喋りも達者だが、その腹踊りときたら、天下一品だったってことでさあ。ご機嫌でご覧になってたお偉いさんが、運悪く食いもんを咽喉(のど)に詰まらせて死んじまったんです。>斉:ほう、それで手打ちか。それは可愛そうにの。それで?>八:祭りんとき、ちょいと真似して、腹踊りをやって見せたってことでやすよ。お福ちゃんは、齧(かぶ)り付きで見てたんでやすが、あんまり笑い過ぎて、手に持ってた団子を落っことしたって訳でやす。おいら、なんにも悪くねえでしょう?>斉:そうよの。悪いとは思えぬな。>福:なによ。泥が付いた団子を無理に食べさせようとしたじゃない。>八:ちゃんと、泥のところを取ってやったじゃねえか。>福:齧(かじ)って取ったのよ。そんなもの食べられる訳がないじゃないの。それに、辻でばったり会う度に腹を捲って踊って見せたじゃないの。お父つぁんに買って貰ったばっかりの、こんな大きな飴玉を落っことしたのもそのせいなんだからね。>八:だから、洗ってやっただろ?>福:天水桶(てんすいおけ)の汚い水で洗ったのなんか口に入れられる訳ないでしょう?>斉:ふむ、それはばばっちいの。>内:そのような言葉をどこで覚えてらっしゃったのですか? お止しなさい、上様。>斉:はは、済まぬ。福が町衆の言葉を使うので、つい。>八:でも、だからってって道を引き摺り回すことはねえじゃねえか。>福:知らないわよ。泣いてるときの自分が何をしてるかなんて、誰が責任を持てるって言うのよ。>八:普通は責任が持てるぜ。>福:あたしは持てないの。>八:それからは、会うたんびに泣かれて、引っ張り回されて、あちこち擦り剥いて、揚句(あげく)の果てに怖くて道も歩けなくなっちまったんだからよ。>福:そんなのあたしの知ったこっちゃないわよ。>斉:ほう、福、そなたは泣き虫であったのか?>福:とんでも御座りませぬ。わらわはいつの時代も気丈な、気高(けだか)い者で御座いました。>斉:八つぁんの話とは違うの。>福:八公だけで御座います。この者の前だけ弱者になってしまうので御座います。>斉:惚れて居ったのか?>福:上様、何を仰るかと思えば、たわいもない。このような下賎の者に特別な感情を持つ道理など、ある訳がないではありませぬか。>内:お福の方様、泣き虫が即(すなわ)ち弱者な訳でも、誰かに愛情を持つことが詮(せん)無いことでもありませぬぞ。世の中には軟弱に見えるものが実は強いということなど、ざらにあるのです。>福:内房、小言か?>内:いえ、ただの助言で御座います。>斉:ほう。中々巧(うま)いことを言うのう。>内:恐れ入ります。・・・更に助言をさせていただけるなら、誰かを貶(おとし)めたりして、力尽(ず)くで勝ち得るものなど、本当は脆(もろ)く儚(はかな)いものなのですよ。>福:随分と際(きわ)どいところを突いてくるな。>内:年寄りの独り言です。・・・しかし、ここに居合わせていらっしゃる川田様や竹上様なら、あたしの言いたいことを理解していただけたかも知れませんね。竹上と、既に気絶から回復し成り行きを見守っていた川田とが、居住まいを正した。>斉:福、そなたが無闇に毒を用いたこと、余の耳にも聞こえてきておる。>福:上様。>斉:確かに、最悪の結果には至らなかった。この一件は不問に付そう。しかし、そのような考えを起こしたことは許されるものではない。近日内に暇を出されるであろう。>福:そんな・・・>斉:若は養子に出される。二度と目通りは叶(かな)わぬと思うが良い。>福:上様、そればかりは、どうか・・・>斉:そちが望むのであれば、八つぁんたちのいる町に戻るのも良い。髪を下ろして、仏に仕えるのも良し。・・・それから、川田と竹上。そちたちにもなんらかのお達しが下(くだ)されよう。坂田は暫(しばら)く内房預かりとする。>3人:ははあ。>斉:内房。なんだか、お主の思うように操(あやつ)られてしまったような気がするのだがな。>内:それは、気のせいで御座いましょう。>斉:ま、そういうことにしておくとするか。・・・しかし、こんなことになってしまったからには、余自身も、もう放蕩ばかりはしていられないのだな?>内:御意(ぎょい)。>斉:まったく、この策士めが。
2007.12.07
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『唇(くちびる)亡(ほろ)びて歯(は)寒(さむ)し』『唇亡びて歯寒し』[=竭(つ)きて~・無ければ~]互いに助け合う関係にある一方が滅びると、他の一方の存在まで危うくなる。類:●唇亡歯寒(しんぼうしかん)●唇歯輔車(しんしほしゃ)●輔車相依る故事:「春秋左氏伝-僖公五年」 晋候が虞(ぐ)に道を借りて隣接したを討とうとしたとき、宮之奇(きゅうしき)が、「が滅べば必ず虞も滅びる」として、引用した言葉。*********隣の間では、竹上の策を巡って喧喧囂囂の論議が白熱していた。拙策と気付きながら意地を張る者、慎重なだけの者、独自の意見を繰り広げる者と、三者三様である。どこまで行っても三つ巴で、一向に埒が明きそうになかった。>内:のう、皆さん方。>塩:なんじゃ、ご老体。聞き手に徹するのではなかったのか?>内:聞き心地の良い話ならば聞き手も楽しいものですがね、足の引っ張りあいでは口を挟みたくもなります。あなた方には、謙譲の心というものがないのですか?>竹:こちらが下手に出れば、鬼の首を取ったとばかりに付け上がる御仁がいらっしゃいますからな。>塩:なんじゃと? それは儂(わし)への当て付けか?>竹:はて、誰がそのようなことを言いましたやら?>塩:なにをこの若造が。>竹:棺桶に片足を突っ込んだお人から言われたくありませぬな。>塩:なにをーっ?>内:まあまあ、それくらいになさいませ。聞く耳を持たないのでは話し合いになりません。こちらとて、聞いていてもさっぱり分かりません。・・・申し訳ありませんが、1つだけ聞かせていただけませんかな。>塩:何を聞きたいと申すのだ?>内:はい。では、竹上様、あなたのお策はいったいどなたに良かれと思って立てられたものですかな?>竹:そうですな、強いて言いますならば、幕府の蔵を満たすためであろうか。幕府が安泰でないと、庶民とて安心して暮らしては居られまい?>内:なるほど。ご尤(もっと)もでありますな。・・・では、川田様、あなたはどなたに良かれと思って、竹上様の策に異を唱えておられるのですかな?>塩:それは決まっておる。儂ら幕府の役人と商人との両方だ。保たれている釣り合いが崩れると、何かと破綻を来たすからな。双方が得心の行く策でないのなら、無闇に行使するべきではないのだ。>内:なるほど。・・・では、坂田様、あなたの策はどなたに良かれと思って考えられたものですかな?>太:わたしのは、専(もっぱ)ら庶民を第一優先にして考えたものです。お城から出て庶民と混じって暮らしてみると、庶民がいかに蔑(ないがし)ろにされているか分かるものです。>内:なるほど。竹上様は上様のため、川田様は閣僚のため、坂田様は民のためですか。はてさて、如何(いかが)なものなのでしょうな?>塩:民のためだと? 聞こえは良いが、民に施しをして人気稼(かせ)ぎでもしようというのか? はっ、小賢(こざか)しい。>太:老中やら若年寄に媚(こび)を売るお方よりは増しだと思いますがな。>塩:誰が媚を売っていると申す。聞き捨てならんぞ。>竹:お二方とも、下心(したごころ)が見え見えですな。やはり日の本の者である以上、幕府を守り立てることこそ本分であろう? 閣僚やら庶民に阿(おもね)るなど、笑止千番。>太:なんですと? 民をも顧(かえり)みずに放蕩三昧を尽くしている上様に取り入っていて、良い改革ができる道理がないではありませんか。それこそ、履き違えというものです。>竹:お主は、上様を愚弄しようというのか?>太:そういうことではありません。幕府が安泰であるのは庶民がその底を支えているからではあるませぬか。このまま庶民が飢えてしまったら、幕府の根底すら揺るぎ兼ねません。そうではありませんか?>塩:ふん、詭弁(きべん)だ。儂は儂の方針に信念を持っておる。竹上などというどこの馬の骨かも知れぬ若造になど負けておられるものか。>太:そういうことだから直るものも直らぬと申し上げているのです。お二人で、足の掬(すく)い合いなぞしている暇があったら、上様に諫言(かんげん)なさいませ。どちらかが転びでもしたらもう一方とて安泰ではいられないのですぞ。二の間では、当の将軍様が聞き耳を立てていた。遊山(ゆさん)気分で来たものの、自分の放蕩を持ち出されては、だらだら飲んでいる訳にも行かない。>斉:酷い言われようであるな。そんなに度を越して居るのかの?>八:そんな話、下々の方へは聞こえてきませんぜ。・・・ですが、太一の先生がそう言うんなら、きっとやり過ぎなんでやしょうね。>斉:ほう、八つぁんは随分と坂田の肩を持つではないか。やはり、民のことを考えてくれる者の方が有難いかの?>八:中身がどうのということじゃあねえんですよ。どの道、庶民の暮らしなんか良くなる道理がねえんですからね。そんなことじゃなくて、おんなじ縄暖簾のおんなじ卓で酒を酌み交わしたっていう仲間でやすからね。>斉:ほう。そうか。それは羨ましいの。こんな殺風景な部屋の食べ慣れた肴(さかな)では、余もつまらぬな。>八:こんな豪勢な膳を目の前にして、つまらぬもねえもんですぜ。そんなこと言ってるから放蕩三昧って言われちまうんです。少しは反省したほうが良いんじゃねえですかい?>斉:そうか? ふむ。確かに、ちと、金子(きんす)をばら撒き過ぎたやも知れぬな。>八:改めて呉れるってんですかい?>斉:心掛けてはみよう。だがな、一国の頂点にあるものがあんまり質素であるのものう・・・>熊:出過ぎたことかも知れやせんが、お爺様でいらっしゃる吉宗様はそれは倹約に励んだ方だとか伺っておりますが。>斉:ああ、あれか。あれは半分は作り話じゃ。見えぬところでは豪遊していたぞ。ま、今更暴露しても詮無いことだがな。>八:なあんだ、そうなんだ。そんなら適当に豪遊しても良いんじゃねえですか? なんならおいらも付き合わせて呉れると尚のこと良いんですがね。>斉:おっ、それも面白そうであるな。>熊:こら八、勝手なことばっかり言ってるんじゃねえっての。あわよくば改めようって気になりかけてたのによ。>斉:まあ、良いではないか。>斉:そんなことより、あの3人のいうことを比べてみてどう思うかな?>五六:おいらたち下々のもんからすりゃあ、ちょっとでも自分らのためになって呉れた方が良いに決まってまさあ。太市の旦那に賛成でやす。>八:お前ぇの考えなんか聞いてねえっての。・・・そうさな、要は、老中と庶民と斉ちゃんとがみんな満足するのが一番良いんでやしょう? そんなら、全部纏(まと)めてやりゃあ良いんじゃねえですか?>熊:そんなことできる訳ねえじゃねえか。あんだけ角突き合わせてるんだぜ。>斉:ふむ。やってみる価値はあるかも知れんの。>八:でしょう?>斉:まあ、塩十だけはどうあっても混ざらぬだろうから、首を1つ挿(す)げ替えれば良いかな・・・>八:でも、巧い具合いに三つ巴になってるのに、1人おん出しちゃっちゃ釣り合いが取れねえんじゃねえですかい?>斉:そちの心配には及ばぬ。代わりの若い者など掃いて捨てるほど居るわい。老人という生き物は、兎角(とかく)現状に拘(こだわ)り過ぎて適(かな)わん。>八:・・・ってことは、ぽかりとやっても良いんでやすか?>斉:苦しゅうない。存分にやるが良かろう。>八:やりい。「さて、そろそろ出る頃合いかの?」という言葉を合図に、八兵衛が襖(ふすま)を開け放ち、隣の部屋に躍り込んだ。口角泡を飛ばしていた3人がぴたりと口を噤(つぐ)んだ。>塩:へ、部屋をお間違えじゃあ・・・。え? う、上様?>斉:苦しゅうない。ささ、話を続けよ。>太:へへえっ。恐れ多くも畏(かしこ)くも・・・>斉:坂田。お主の考案せし策、中々見るべきところがあるぞ。>太:も、勿体ないお言葉で御座います。>斉:竹上、お主の策も中々ではあるが、もそっと下々のことも考えに入れてみてはどうかの?>竹:ははあ、有難きご忠言に御座いまする。>斉:さて、塩十。本来であれば、年長であるお主が他の2人を取り纏めて、前向きな話に持っていこうとすべきではないのか? お主がしていることは、現状にしがみ付くことだけのようだな。>塩:そ、そのようなことは・・・>斉:黙らっしゃい。お前は少しばかり長居し過ぎたようだ。今、ここにおる八つぁんが引導を渡してやるから、甘んじて受けるが良い。・・・ほれ、良いぞ。>八:そんじゃあ遠慮なく。・・・爺さん、おいら個人的にゃ恨みはねえんだが、人が一所懸命良かれと思ってるとこを邪魔するばかりじゃ、なんにも変わらねえんだよ。大人しく隠居してやがれ。せえの・・・「ごきっ」っという鈍い音がして、塩十が蛙よろしく畳に張り付いた。>熊:それのどこが「ぽかり」だってんだ? 下手したら死んじまうぞ。>八:なあに、良く言うじゃねえか、「憎まれ爺さんは長生きする」ってよ。>四:「世に憚る」なんですけど。>八:おんなじだろ? ・・・ああ、清々した。そんじゃ、帰ろうか?>斉:まあ、もう少し待つが良い。特別に、手土産を用意したからの。>八:そんなもの要りませんや。貰ったら丸ごと熊のやつに呉れてやらなきゃならねえんでやすから。>斉:いや、これは余の者に与えることは許さぬ。お主が受け取るが良い。>八:良いんですかい? おい熊、ああ仰ってるんだ、構わねえだろ?>熊:好きにしろ。おいらはなんにも要らねえ。>八:で? 何をいただけるんだやすか?>斉:ふふ。お主に福を授けよう。>八:七福神の置き物ですかい? おいら、食い物の方が有難えんでやすが・・・>斉:そうではない。「お福の方」を授けると言っておるのだ。嫁にでもなんでにもするが良い。
2007.12.06
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『口は禍(わざわい)の門(かど・もん)』『口は禍の門』[=元・本・基]うっかり言った言葉が後の災難を招くとうこと。言葉は慎(つつし)しむべきであるという戒(いまし)め。類:●雉も鳴かずば撃たれまい●口を守ること瓶(かめ)の如くす●口から高野●Out of the mouth comes evil. ●Better the foot slip than the tongue.(口が滑るくらいなら足が滑った方が増し)<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典>*********塩十と竹上を1つの場所に呼び出すお膳立ては、内房老人が整えて呉れることになった。10日ほど待てば良いのだろうと高を括(くく)ってのんびり構えていた八兵衛の元へ、使いの者が来たのは翌日の夕方だった。>八:ご隠居のせっかちなとこは相変わらずだな。・・・で? いつどこへ伺えば良いんだい?>小僧:はい。明日の晩にうちの旅篭へ来ていただきたいと。>八:旅篭じゃあ、晩飯どきは天手古舞いじゃねえのか?>小僧:お出掛けになるそうですよ。料亭のお部屋を借りてあるって言ってました。>八:なんだと、料亭だあ? すると、もしかすると、上等な料理を食わせて貰えるのか?>小僧:まあ、そうでしょうね。>八:それからよ、芸子さんかなんかも呼ぶのか?>小僧:そのようです。>八:そりゃあ凄(すげ)えや。お大尽様みてえだ。>熊:お前ぇ、何をしに行くのかすっかり忘れちまってるんじゃねえのか?>小僧:・・・あの、皆さんには隣りの部屋にささやかな膳を用意するということです。>八:なに? どういうこった?>小僧:太市という方を必ず連れてくるようにと念を押されました。その方のための酒席なんだそうです。>八:おいらたちはお負けか?>小僧:「頃合いが来たら声を掛けるから、入ってきて爺さんの頭をぽかりとやりなさい」とのことです。それでは確かに伝えましたから。>八:あーあ、なんだか刺し身の妻になった気分だ。これじゃあ嬉しさも半減だな。>小僧:あの・・・>八:なんだまだなんか用か?>小僧:「駄賃は向こうから貰いなさい」と・・・>八:なんだと? こんな物足りねえ役を割り当てられた上に駄賃までふんだくろうってのか?なけ無しの飲み代(しろ)を駄賃に取られて、八兵衛は力なく項(うな)垂れた。>八:こんなことならご隠居のとこなんかに相談に行かなきゃ良かったな。>熊:何を言ってやがる。5人もで押し掛けて昼飯をご馳走になったんだ。雀の涙ほどの小銭なんか安いもんだ。>八:昨日のご馳走より今日の酒代の方が大事なんだよ、おいらは。こんなんじゃ今夜は飲めやしねえじゃねえか。>熊:お前ぇの分くらい出してやるって。>八:ほんとか? そりゃあ有難え。地獄に仏ってのはこのことだな。>熊:大袈裟だな。>八:大袈裟なもんか。あんまり有難いから、お礼の印に、お前ぇにもぽかりとやらしてやるよ。>熊:おいらは遠慮しとくよ。>八:なんだよ。お前ぇも欲がねえな。>熊:そんなんじゃねえや。お礼するつもりがあるならもっと増しなものを寄越しやがれ。>八:増しなものってなんだ?>熊:例えばだな、今度人様から何か貰ったら気前良く全部おいらに呉れるとか、次の飯代を全部持ってくれるとか、まあそんなところだよ。>八:なんだそんなことで良いのか? 饅頭1個とかぶっ掛け飯屋の代金とかだぞ。まったくお前ぇは欲がねえな。翌日、只で飲み食いさせて貰えるとあって、太市はご機嫌でやってきた。同席するのが誰であるかは、着いてのお楽しみということになっていた。>太:今時奇特な方もあったもので御座いますねえ。話を聞いてくれるだけでも有難いのに、お酒まで飲ませて呉れるというんですから。>八:隠居の道楽ってやつでしょ。・・・でね、ものは相談なんですけど、もしも土産に菓子折りかなんか出たら、おいらたちにもお裾分けして貰えやせんか?>太:だってお前さんたちだってご一緒するんでしょう? 土産が貰えるなら皆さんにだって・・・>八:それがね、ご隠居はおいらたちを一緒に扱ってくださらねえんですよ。精々(せいぜい)煮っ転がしに冷や酒1本ってとこらしいんです。>太:そりゃあ酷(ひど)い。なんだか、わたしばかり申し訳ないようですね。>八:まあ、仕方ないことですよ。おいらはそういう場所へ行けるってだけで満足しますよ。>熊:満足するんなら、分け前を寄越せなんて言い出すんじゃねえ。>八:だってよ。五六蔵や三吉に、新婚の四郎まで連れてきちまったんだぜ。手ぶらで帰す訳にいかねえだろ?>熊:何を綺麗事言ってやがる。自分が欲しいだけだろ。仏頂面の番頭に付き添われて現れた内房老人は、にこにこしながら太市に挨拶した。>内:これはこれは坂田様、お呼び立てして申し訳ありません。>太:なんと、内房のご老体ではありませんか。道楽者の隠居というのは貴方でしたか。>内:如何にも。旅篭の道楽隠居ですよ。さ、部屋を取ってありますので、ご同道ください。お話は道々。>太:は、はあ。>内:八つぁん、ご苦労様でしたね。それに、うちの孫に駄賃まで貰ってしまって有り難う御座います。>八:ありゃあご隠居の孫だったんですかい?>内:はい。あたしに似ないで素直に育って呉れています。>八:きっちり駄賃をせしめるあたり、本当に素直で御座いますねえ。>内:ほっほ。ちょっと意地悪が過ぎましたか? 許してください。遊び心ですよ。後でちゃんと埋め合わせはしますから。>八:本当ですね? 約束ですぜ。料亭には、既に先客が来ていた。事情が飲み込めていない塩十と竹上が、睨み合うかのように端と端に席を占めていた。>内:遅くなってしまって申し訳ありません。もう一方をお連れしてきたものですからね。>塩:正道さん、こんな者と同席とは聞いておらなんだぞ。>竹:拙者とて、このような不愉快な宴とは知りませなんだ。一体なんの魂胆があってのことか?>内:まあ、酒の席なのですから、何もそのように角を出さずとも良いではありませんか。・・・ご紹介します。こちらは、坂田太市さんです。>塩:や、坂田。なぜお主が・・・。それに、なんだそのみすぼらしい格好は?>太:誰に頼っても親身になって貰えず、何を始めても長続きさせて貰えず、今や食うや食わずの暮らしをしております。>竹:坂田殿の後釜に座ってしまったようで気が引けております。ご高名は兼ね兼ね・・・>太:それにしては薄っぺらな策を出されたものですね、竹上様。わたしには苦肉の策としか思われませんが。>竹:なんと。来る早々その言われようはなんですか。喧嘩を売ろうとでもいうのですか?>内:まあまあ、酒の席で喧嘩腰は無粋(ぶすい)ですよ。皆さん、まあ、一献お干しください。穏やかにお話しようではありませんか。あたしは専(もっぱ)ら聞き役に回りますから。一方、次の間には、少々見劣りはするものの決して安からぬ膳が用意されていた。>八:うっひょう、こいつは凄えや。こんな贅沢な料理なんか豊島の紅葉狩り以来だぜ。>五六:こんな贅沢しても良いんですかい? なんだか夢を見てるようですぜ。>三:お代は自腹でなんてことじゃないでしょうね。>八:止せやい。大工にそんな大枚(たいまい)払える訳ねえじゃねえか。ご馳に決まってんじゃねえかよ。>熊:もしそんなことになったら、八、お前ぇ全部払えよな。そういう約束だろ?>八:ま、待てよ。そいつはぶっ掛け飯のことだろ? そんなつもりで言った訳じゃあねえんだって。>熊:なんだと? 自分が言ったことに責任も持てねえのか? お前ぇはそんな好い加減なやつか?>八:勘弁して呉れよ。そんなことになったらおいら一生掛かったって払い切れねえ。首を括った方が増しだってことになっちまう。>熊:馬鹿。冗談に決まってんじゃねえか。誰がお前ぇ1人に払わせるかってんだ。無い袖は振れやしねえだろ。>八:まったく、脅かすなよな。命が縮んだぜ。そこへ、一層豪勢な膳が1膳運ばれてきて、上座にでんと据えられた。>八:なあ、誰かもう1人来るのか?>女中:ええ。どちら様かは知りませんが、然(さ)るところのお武家様がお忍びで見えるそうです。>八:お武家様?>熊:真逆・・・>八:斉(なり)ちゃんか? 来るのか?>女中:お名前は分かりませんが、間もなくいらっしゃいましたよ。先走りの方がそう言ってましたから。女中が下がると、正(まさ)に言葉の通り、間もなく「斉ちゃん」が現れた。>斉:いよう八つぁん。それにご一同。久しいのう。>八:「久しいのう」じゃありやせんぜ。こんなとこで何をしようってんです?>斉:何って、決まっているではないか。ぽかりとやるのであろう? その見物にじゃ。わくわくするのう。>八:かあ、まったく軽いお人だねえ。・・・そんなんで良いんですかい? もっと大事なことがあるんじゃねえですか?>斉:ぽかりも立派に大事なことだぞ。見事討ち果たした暁(あかつき)には存分な褒美を取らすぞ。>八:ほんとですかい? やったあ。>熊:「やった」じゃねえ。そんな恐れ多いものなんか貰うな。>八:なんだよ。呉れるって言うものを貰わない手はねえだろ? ・・・待てよ。人から物を貰ったら気前良く全部お前ぇにやらなきゃならねえのか? そいつはあんまりにも勿体無え。いや、悔しくって死んでも死に切れねえ。>熊:大袈裟だな。>八:大袈裟なもんか。・・・嗚呼、なんであんなこと約束しちまったんだろ。>斉:なんだか面白そうな話をしておるな。もそっと詳しく話してみよ。ふふ、今宵も楽しくなりそうじゃの。>八:おいらはひとっつも楽しくねえんでやすけど。・・・とほほ。
2007.12.05
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『糞(くそ)も味噌(みそ)も一緒(いっしょ)』『糞も味噌も一緒[=ひとつ]』善悪美醜の区別がないこと。清いものと汚いものを区別をしないで、一緒に扱うこと。類:●糞味噌●味噌糞*********「食うのか食わねえのか」まで言われては、八兵衛も従わざるを得ない。内房老人が仏頂面(ぶっちょうづら)の番頭に膳の仕度(したく)を命じた後、八兵衛は、柄にもなく緊張している自分を感じていた。あろうことか、食欲が削(そ)がれているのである。>熊:ご隠居様、確かさっき、もう毒を使っちまったような言い方をしていませんでしたか?>内:勇み足ですよ、熊さん。まだ膳が整っていません。・・・でも、まあ、もう良いでしょう。>八:どうでも良いですが、ささっと済ませちまってくださいよ、ご隠居。食い物が喉(のど)を通らねえなんてことになったら、おいら、悔しくって寝込んじまいます。>内:大丈夫ですって。込み入った話でもなんでもないんですから。・・・八つぁんは、大奥には中年寄(ちゅうどしより)という位の人たちがいるということなんか知りませんよね?>八:そんなこと知る訳ないじゃありませんか。そもそも何人くらいの人がいるのかだって知らないんですからね。>内:何人いるのかということは、あたしたちだって分かりませんよ。もしかすると、当の上様だって知らないかもしれません。>五六:だって、ご隠居さん、大奥ってとこはそもそも上様のためのものなんでやしょう?>内:そうとばかりも言えないんです。将軍様のご生母様が取り仕切ることもありますし、ご正室様が頂点に据わることもありますが、どちらにしろ、殿方は内情の細かいところまでは触れることができないのです。上様が関わるのは、ほんの数人のお方様たちだけなのです。上様が会ったこともない娘たちの中には、お方様の身の回りの世話をする娘もいれば、大奥全体の細々(こまごま)したことをする娘もいます。正確な人数など、中にいる者にしか分かりません。50人かも知れませんし、千人かも知れません。>八:せ、千人ですって? それがみんな年頃の娘なんでやすか? それじゃあ、おいらのとこに回ってこねえのも無理もねえことでやすね。>内:はは。年頃でない方もいらっしゃいますがね。・・・ですが、大方は年頃の娘さんたちです。中年寄というのはそんな中の一部の娘さんが割り当てられる役割りで、主に、食事の毒見の係りをします。>五六:毒見ですかい? お堀の中ですぜ。そんな大それたことをするやつなんか・・・>熊:現にいたじゃねえか。お福の方がよ。>内:母という生き物は、自分の子の幸不幸が絡(から)むと、夜叉(やしゃ)のようにもなるものです。こればかりは、いつの時代も同じですよ。そうして、毒見の役が割り当てられるのです。>五六:でも、本当に毒を食っちまったら死んじまうんでしょう?>内:そうですね。万が一そうなったら、途方もない量の弔慰金に埋(うず)まるようにして「お宿下がり」する訳です。>五六:そんなんで良いんですかい?>内:お世継ぎの命には替えられないのですよ。>五六:可哀相に。>内:そう深刻に考えることはありませんよ。大量に食べるものではありませんし、仮令(たとえ)猛毒に中(あた)ったとしても、お城には医術に詳しい者もいますから、直(す)ぐに手当てして呉れますしね。そこへ膳が持ち込まれてきた。こんな話をしているところだったので、一同は妙に構えてしまっていた。>内:うちの食事には毒など入っていませんよ。安心してお召し上がりください。>五六:分かってはいやすが、気になっちまいやすよ。>八:あの番頭さん、おいらたちが来ると嫌そうな顔をするからな。嫌がらせに腹下(はらくだ)しかなんか混ぜてねえとも限らねえ。>内:はは。あの仏頂面ばかりはどうしようもありません。何度も注意したのですが、「生まれ付きですから」の一点張りでしてね。まあ、根は優しい者ですから、安心してください。>八:あの人が優しい人なんですかい? ・・・信じられねえな。>熊:それで、その中年寄はどうかなったんでやすか? ・・・真逆(まさか)死の縁を彷徨(さまよ)ったとか言うんじゃねえでしょうね?>内:その前があるんです。お福の方は、ちょっとばかり慎重で、自分の身の回りの世話をしているお半下(はした)女中に試してみたらしいのです。>五六:なんの罪もねえいたいけな娘に毒を盛ったんでやすかい?>四:「いたいけ」とは言っていませんよ、兄貴(あにき)。>五六:良いじゃねえか、そんなことどうだって。・・・で? 結果はどうだったんで?>内:分量を少なくして試したようで、翌日から2・3日寝込んだ程度で済んだそうです。>五六:助かったんですかい? そりゃあ良かった。>内:それがですね、五六蔵さんが想像している症状とは全然違うのですよ。>五六:へ? どうちがうんで? 3日3晩のた打ち回ったんでやしょう?>内:そうじゃないんです。脂汗を掻いて腹を下(くだ)したそうですが、翌日からはどうということではなかったようです。3日目は、念のため静養しただけです。本人も、食べ合わせが悪かったくらいにしか考えていないようです。>熊:でも、分量を少な目にしても効(き)くってことが分かったんでやしょう? お福ちゃんは、今度こそお世継ぎの命を狙ったんでやすか?>内:勘違いしないでください。お福の方が狙ったのは、若様ではなくて、その母親、上様から最も目を掛けられているお方様本人なんです。>熊:へ? 自分の子供のためなんじゃねえんですか?>内:お福の方に限っては、そういう料簡(りょうけん)ではなかったようですね。面白い方です。>熊:面白いで済ませて貰っちゃ困りますよ、ご隠居様。>内:そうでしたね。これは軽率でした、ははは。・・・それでですね、お方様たちの間で流行(はや)っている「大江戸ばな奈」とかいう和菓子に仕込んだそうなのです。>五六:そんなのが流行(はや)ってるなんて聞いたこともねえですぜ。>内:高価なものですからね。庶民は中々口にできるものではありませんね。・・・もし試してみたいということであれば、今度求めて参りましょうか?>八:食わして貰えるんですかい?>内:良いですとも。お内儀(かみ)さんにでも渡してあげると喜ぶかも知れませんよ。>八:うちの姐さんは、塩煎餅(しおせんべい)の方が好きみたいなんで、余った分はおいらがいただいちまいましょう。>熊:意地汚えな。・・・だがよ、お福ちゃんが毒を仕込んだのとおんなじ菓子でも、お前ぇは平気なのか?>八:うぐっ。・・・急に食いたくなくなってきた。お、おいらは、遠慮しとく。>内:どうせなら別のお方様にも食べさせようと思い付いたらしく、6つだか8つも毒菓子を作ったそうなんです。>五六:酷(ひで)え話だぜ。それじゃあ、下手をすりゃ、お福の方以外のみんなが一遍に死んじまうじゃねえか。>四:露骨ですね。誰が企(たくら)んだことか直ぐに分かっちゃうじゃないですか。>内:思い知らせるということも必要なのですよ、大奥の中ではね。仮令(たとえ)失敗に終わったとしても、恐れを成した者は逆らわなくなります。>五六:ばれちまっても良いんですかい? ご政道も何もあったもんじゃねえんですね。>内:そういうところなんですよ。男どもの法など、なんの用も成しません。>熊:それじゃあ、お福ちゃんの目論見(もくろみ)は達成しちまったんでやすかい?>内:いいえ。失敗しました。>熊:だって、ご隠居さん。死ねば大願成就で、死ななくても睨(にら)みを利かせられるんでしょう? 失敗しようがないじゃあありませんか。>内:それがですね、結果的には、他のお方様たちから、感謝されてしまったのです。>熊:どういうことですか、そりゃ?>内:お方様と、それぞれお付きの中年寄は、お福の方のお半下女中と同じように、1日目こそ酷(ひど)い目に遭われたそうです。>五六:誰一人死ななかったってことでやすね? 毒見の娘たちも。>内:そうですよ。>熊:でも、お方様たちは、「盛られた」ってことは、気付いた訳でしょう?>内:ええ、気付きましたとも。それが、お福の方のお半下女中と同じだということも気付いていた筈です。>熊:じゃあ・・・>内:お福の方のお半下女中に限らずなんですが、大奥に居られる方々は一様に腎(じん)の臓を患(わずら)っていましてね、それぞれが医者から甘いものを控えるようにきつく言い含められていたというのです。それが・・・>熊:それが?>内:驚いたことに、皆が皆治(なお)ってしまったというのです。身体に溜まっていた毒素が綺麗に洗い流されてしまったようなんです。>熊:なんですって? そんなことってあるんでやすか?>内:毒が薄まって薬になってしまったのですねえ。>八:ああ、お夏ちゃんがそんなこと言ってましたぜ。分量を間違えなきゃ薬で、間違うと毒になるって。>内:そういうことです。知識がある者が使えば毒ですが、量を少なく間違えば、薬になってしまうということだってあるということです。お福の方の過(あやま)ちは、何人も殺(あや)めようと欲張ったことと、渡す状況を良く考えなかったことにあります。>熊:状況ですかい?>内:何人ものお方様たちを集めてしまったということです。半(なか)ば公式なお茶の会にしてしまえば、毒見役が付き物であるということです。もし、内緒で直(じか)に渡していたら、中年寄に隠れて丸々1個を食べていたかも知れません。そうであったら、運悪くご他界遊ばすようなこともあったかも知れません。>熊:そういうことだったんでやすか。>内:そんな経緯(いきさつ)で、同じような悩みを抱えている中藹(ちゅうろう)や女中連中から、"薬"の入手先を聞いて欲しいと矢のような催促が来る始末。>熊:毒ですぜ?>内:2日や3日腹具合いが悪くなっても、その後の健(すこ)やかさには替えられません。再び甘味三昧の生活ができるなら、腹が下ることなど何でもないということでしょう。>五六:あっしは、青い梅を食ったとき腹を下しやすが、あの辛(つら)さといったら、もう二度とするまいって自分に誓いたくなるほどでやすがね。>熊:誓うんだったら、本当に止(や)めれば良いじゃねえか。毎年毎年懲りもしねえで、まったく。>五六:済いやせん。気を付けやす。>八:しかしご隠居、なんだか物を食べながらする話じゃねえですね。見てくださいよ、この焼き味噌。なんだか変なものに見えてきやしませんか?>熊:止せよ、汚えな。>八:それからよ、身体に溜まった毒を洗い流しちまうんだろ? きっと、こんな真っ黒いのが出るんだぜ。>熊:止せったら。>内:八つぁんは、下品な話をしながらの方が食が進むんですね。お福の方の名前が出たときなんか、ぴたりと箸の動きが止まるのにねえ。>八:ご隠居、意地悪なこと言わないでくださいよ。こっちは、折角(せっかく)話が済んだと思ってるんでやすから、突然変な名前なんか出さないでくださいよ。食いもんが不味(まず)くなりますぜ。
2007.12.04
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『腐(くさ)っても鯛(たい)』『腐っても鯛』腐っても鯛は鯛で、やはり他の魚と違う品格がある。本当に優れたものは、傷(いた)んで駄目になったようでも、なお、その値打ちを保つものだ。類:●A diamond on a dunghill is still a diamond.反:●麒麟も老いては駑馬に劣る*********今年は、心成しか、例年より寒さが厳しいようである。懐(ふところ)具合いが心許(もと)ないことも、少なからず響いているようであった。今日は朝から雨が降っており、目覚めた時点では、然程(さほど)寒さを感じなかったが、昼間の温かさは期待できそうになかった。>八:なあ熊、内房のご隠居のところへ行ってみねえか?>熊:お前ねえ、本気で川田様のところへ乗り込む気なのか?>八:あたぼうよ。間違いに気付いていながら黙ってたんじゃあ男が廃(すた)るってもんだ。>熊:聞こえは立派だがな。本心はどうだか。>八:良いじゃねえか。ぽかりとやるってのは、駄賃みてえなもんよ。>熊:何が駄賃だ。一番の狙いどこの癖しやがって。>八:はは。ほんとのとこ、一番の狙いはご隠居のとこの昼飯だったりしてな。>熊:かっ。さもしいったらありゃしねえ。・・・だが、そっちの方がお前ぇらしくって良いや。>八:折角(せっかく)だから、五六蔵たちも一緒に連れてってやるか?>熊:まるで集(たか)りだな。>八:良いってことよ。ご隠居だって賑(にぎ)やかな方が喜ぶしよ。>熊:四郎のことは無理に誘うなよ。新婚なんだからな。確かに、ここのところ、四郎に気を使うせいか、五六蔵と三吉まで声を掛けそびれていた。>五六:もしかして、旅篭(はたご)の昼飯が食えるんでやすか? 行く行く、行かせていただきやす。>熊:あんまり物欲しそうな顔をするんじゃねえぞ。こっちは、手土産もなしで、話を聞いて貰いに行くんだ。>八:茶飲み話に付き合ってやるんだ。少しくらい物を食わせたって罰(ばち)は当たらねえぞ。>熊:それはこっちだけの都合だろ? ご隠居さんだって来て欲しくないこともあれば、聞きたくない話だってある。>八:お前ぇ分かってねえな。これは斉(なり)ちゃんに直(じか)に関わることなんだぜ。ご隠居が嫌がる訳ねえじゃねえか。>四:あの、上様に関わることって、厄介(やっかい)ごとなんですか?>八:なんだ四郎、お前ぇも行きてえのか? およねちゃんのとこに帰りたきゃ、それでも良いんだぜ。>四:止(よ)してくださいよ、そんな言い方。およねのやつは竜之介様の道場に行ってます。>八:あ、そっか。それじゃあ帰ったってしょうがねえな。そんじゃ、若先生のとこへ行くか?>四:からかうのは止してくださいってば。ここのところ「だるま」へもご一緒してませんし、付き合わせてください。内房正道は、雨で出掛ける気も起こらず、旅篭の自分の部屋で書物を読んでいた。近頃は、寒さのせいか、上様から釣りのお誘いもめっきりなくなっていた。そういえば、奉行と碁を打ったのも半年以上前のことになる。>八:ご隠居、遊びに来ましたぜ。>内:おお。これは八つぁん、熊さん。それに、弟弟子の皆さんまで。>熊:大勢で押し掛けちまいまして、済いやせん。>内:いえいえ、こんな天候でくさくさしていたところですよ。良いところに来てくださいました。・・・何か面白そうな話を持ってきてくださったんでしょう?>八:流石(さすが)ご隠居、勘が良い。まだまだ呆(ぼ)けちゃいませんね。>熊:こら八、失礼なことを言うんじゃねえ。>内:良いんですよ、熊さん。・・・でも、あなたがたが揃ってお出でになるときは、決まって一騒動起こりますからね。それに、八つぁんのにこにこした顔付きを見てると、呆けていてもそれくらい分かりますよ。>八:ありゃ、おいら、そんなににやついてましたか?>内:それはもう、草履(ぞうり)を拾ってきた犬がお駄賃を待っているときのような顔でしたよ。熊五郎たちは、太市のことと、お福の方が毒を手に入れたこととを話して聞かせた。内房老人は「ほう」「ほう」と、頷(うなず)きながら、2人の話を聞いていた。>内:八つぁんたちはご存じないかも知れませんが、太市という者は、以前ご老中の傍(そば)にいて、何かとご提言申し上げていたことがあるんです。>八:なんですって? ほんとでやすか?>内:本当ですとも。あたしも2・3度お会いしたことがありますよ。>八:だって、文士崩れだって言ってましたぜ。それに、酒まで集られちまったんでやすよ。>内:そうですか。追い出されるようにして、任を解かれましたからね。・・・それにしても、そこまで身を落としているとは。>五六:哀れなもんでやすね。あっしなら、情けなくって田舎に引っ込んじまいやすね。>三:帰る田舎がねえんじゃねえですかい?>四:然(さ)もなければ、もう一度取り立てられるよう、虎視眈々と狙ってるのかも知れませんね。>熊:なるほど、それだ。そうじゃなきゃ、竹上なんとかの策より自分の策の方が良いなんて、熱心に語りゃしねえ。>内:ほう、竹上太蔵の名前も出しましたか。・・・実は、あたしも、竹上の策に諸手(もろて)を挙げて賛成という気になれないんです。ちょっと乱暴過ぎます。>八:おや、ご隠居もですかい? 太市のおっさんもそう言ってましたぜ。>内:そうでしょうとも。竹上は、ほんの少し功を焦(あせ)ってますね。慌てちゃあいけませんね。>八:・・・ってえことは、太市の大将の言うことは、ご隠居の考えと一緒ってことですかい?>内:あたしはその方面に兎や角言う積もりはありませんよ。一緒かどうかは分かりません。・・・ただ、時間が掛かることなんです。そこのところは太市の方が正しいようですね。>八:はあ。するってえと、あの太市の旦那は、やっぱり凄いお人なんでやすね?>内:ほんの一頃とはいえ幕府の台所のことに口を出した人ですからね。頭は回ります。>八:そりゃあ凄(すげ)え。銚子2本も奢(おご)ったんだから何か良いことあるかな?>内:それは無理ですよ。大工に集るようじゃ、なんの稼ぎもないんでしょう。>八:だって、それだけお頭(つむ)が良いんだったら、どこだって使って呉れるんじゃねえですか?>内:論が立つというのは、扱い難いものです。例えばですよ、八つぁんがやることなすことに、「こういう風にした方が正しいですよ」なんて一々言われてご覧なさい。もう明日から来なくて良いっていう気になるでしょう?>八:そりゃあそうですよ。こう見えたって大工の腕は確かなんでやすからね。親方からだって注意されたくないですよ。>内:そういうことです。>八:それで、あんなに貧乏してたんでやすか。>内:しかし、赤貧にあっても世の中を良くしようとする気持ちがあるということは、大したものです。・・・一度、連れてきてください。お話を聞いてみたいものです。>熊:南蛮の商業とか、大掛かりな普請とかですかい? 頭が痛くなりますぜ。>内:せいぜい、年寄りにも分かるように噛み砕いて話して貰いますよ。大工相手に嬉々として喋る太市であれば、内房に会えると聞いただけでも、俄然元気を出すかもしれない。>内:それはそうとして、塩十を張り倒しに行こうという話は、中々面白そうですね。>八:ご隠居、張り倒すだなんて人聞きが悪いですぜ。軽くぽかりとやりゃあ気が済むんでやすからね。>内:ほうほう、そうでしたね。・・・たしか、檜山杉良のときは、踏まれた蛙みたいにべちゃりと畳に張り付きましたね。>五六:八兄い、そんなに思いっ切りぶん殴ったんですかい?>八:なあに、斉ちゃんが、「苦しゅうない」なんて言うもんだから、つい・・・。まあ、良いじゃねえか。>五六:それで? ご隠居。本当にぶん殴りに行けるんでやすかい? できることでしたら、あっしも一発・・・>八:こら五六蔵、おいらの楽しみを取るんじゃねえ。>五六:だって、良く言うじゃあねえですか。喜びは2人で分ければ2倍楽しくなるって。>八:そうか? そこまで言うんなら仕方がねえけどよ。>熊:お前らな、大工がお武家様を引っ叩いて何か良いことがあるっていうのか? おいらはお勧めできねえな。>内:まあ良いではないですか。あの年寄りはちょっとばかし、思い上がり過ぎなんです。ちょっとくらい懲らしめて、2度目の隠居生活に戻った方が、幕府のためです。>熊:良いんですかい?>内:良いですとも。きっと、太市が巧い具合いに懲らしめて呉れることでしょう。>八:一緒に連れてくんですかい?>内:見物(みもの)ですよ。・・・いっそのこと、竹上も同席させましょう。どういう態度に出るでしょうね?内房老人は、子供のような悪戯っぽい笑みを浮かべていた。>内:もう1つの件はご飯でも食べながらお話しましょうか?>八:「もう1つの件」って言いますと?>内:お福の方のことですよ。>八:お福ちゃんのこと、ですかい? ・・・あの、できたら、食後か、酒を飲みながらにしていただけませんか?>内:どうしてです? 冗談みたいで、食事中の話には持ってこいなんですがね。>熊:冗談みたいってどういうことでやすか?>内:まあ、お楽しみに取っておきましょう。・・・ですが、八つぁん、どうかしたんですか?>熊:子供の頃の辛い思い出から抜けられてねえんですよ。>内:トラウマ(※)ですか?>八:そうなんですよ。まるで虎に睨まれた馬みてえに、竦(すく)んじまうんです。>四:それを言うんなら「蛇に睨まれた蛙」なんですけど。>八:どっちだっておんなじだろ? 飯を食ってるときにする話じゃねえんだからよ。>内:まあ、どういうことになっているのか、聞いてみてくださいな。今でこそ悩み多きお方様ですが、一時でもご寵愛を受けた方です。きっと、大奥の作法が抜け切れなかったのしょうね・・・>八:ご当人はどうか知りませんが、おいらにとっちゃ、子供の頃の、あのお福ちゃんのままなんでやすよ。(つづく)---≪HOME≫※お詫び:時代考証を誤っていますギリシャ語の「傷」が語源の、トラウマ(trauma)は、ドイツ語の心理学用語で、フロイト(1856-1939)が定着させたとされています。この物語の時代の日本では使われていません。
2007.12.03
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『臭(くさ)いものに蓋(ふた)をする』『臭いものに蓋をする』失敗や醜聞(しゅうぶん)・悪事などが外部に洩(も)れないように、安易で、しかも一時凌(しの)ぎの手段を取ること。*********文士崩れの太市は、3合ばかりで酔っ払い、絵に描いたような千鳥足を踏みながらご機嫌で帰っていった。帰りがけにお夏に手を振って挨拶(あいさつ)したが、その時ばかりは、落胆の色が伺(うかが)えた。>八:「また明日」なんて言ってたが、あの様子じゃあもう来ねえかも知れねえな。>熊:来るさ。ああいうのは女に色目を使われるより、自分の話を聞いて貰う方がよっぽど好きなのさ。>八:そういうもんかね。おいらはお夏ちゃんの方がよっぽど嬉しいがな。・・・なあ、鴨の字もそうだろ?>鴨:あ、ああ。そうだな。>八:なんだよ、元気ねえな。文士先生がいなくなって寂しいのか?>鴨:そんなんじゃねえや。>熊:鴨太郎はな、お前ぇみたいに女なら誰でも良いっていうのとは違うのさ。>八:何を今更高潔振ってやがる。要はこっちに目を向けて呉れるかどうかってことだろ? 好いて呉れるってんなら、おいら誰だって良いと思うがな。>熊:お福ちゃんでもか?>八:止せやい。そんな縁起でもねえ名前なんか出すんじゃねえ。ぶるっと来ちまうじゃねえか。>熊:だろ? これと決めたら一筋。そういう男なのさ、鴨太郎はよ。>八:それが偉いのか? そこら中の娘から「鴨太郎さーん」って色目を使われてもそんなこと言ってられるのか?>熊:言えるんだよ。な? そうだろ?>鴨:お前らな、人のことを酒の肴にするなってんだ。放っといて呉れ。>八:いつまでもそんなこと言ってると、いつんなっても嫁なんか来やしねえぞ。>鴨:構うもんか。>八:お? 開き直りやがったな?八兵衛はげたげたと下品に笑い、お夏に銚子の追加を注文した。>鴨:今話に出た「お福ちゃん」ってのは誰なんだ? なんだか近頃聞いた覚えがあるんだが。>熊:ああ。昔この辺に住んでた娘だ。大きい声じゃ言えねえが、今じゃ「お福の方」って呼ばれてるんだとよ。>鴨:何? それじゃあ、例のお福の方なのか?>熊:「例の」ってのはどういうことだ?>鴨:自分の子供を、どうあってもお世継ぎにするんだって画策してるって話だぜ。>熊:画策ってったって、案外上様が気に入ってるって話だったぞ。放っとけばお世継ぎになるのだって夢じゃねえだろ?>鴨:それがな、近頃はそうでもねえらしいんだ。>熊:何かやらかしたのか?>鴨:まだだ。今のところはな。・・・だが、問題は、お福の方本人ってよりも、上様の方にあるんだよ。別のお方様に豪(えら)くご執心らしいんだ。>熊:ってことは、お福ちゃんは見向きもされなくなっちまったってことか?>鴨:そこまではっきりとしたもんじゃねえらしいんだがな。そうなる日もそう遠くないかもしれねえな。・・・なにしろ、男と女なんていうもんは、そういうもんなんだからよ。>熊:なるほど。>八:一回離れちまった気持ちなんてものは、戻るもんじゃねえ。これでお福ちゃんも終わりだな。へへ、様を見ろだ。>熊:お前ねえ、人様の不幸を笑うもんじゃねえぞ。>八:何が不幸なもんか。そもそもお方様になったことの方が不思議なんだ。大人しく、元の暮らしに戻りやがれってんだ。>熊:まったく。本当に根に持ってやがるんだな。・・・だがな、元の暮らしの戻るってことは、この辺に戻って来るってことだぞ。お前ぇ、それでも良いのか?>八:戻ってきちまうのか? それだけは勘弁して呉れよ。桑原桑原・・・銚子を運んできたお夏が、そんな八兵衛の様子に興味を持ったらしく、「どうかしたの?」と熊五郎に聞いてきた。>熊:お夏坊は八とお福ちゃんの経緯(いきさつ)ってのは耳にしたことがあったよな。>夏:ええ。でも、八兵衛さんの話しっ振りだと、とんでもない力持ちの人みたいに思えちゃうんだけど。>八:そりゃあもう馬並みの馬鹿力さ。おいらの首根っこを掴んだまま引き摺り回すんだからな。>鴨:そんなに凄い女がいるかよ。>八:いるんだって。おいらのことなんかお手玉の玉みたいにひょいひょい投げて遊ぶんだぜ。>熊:大袈裟過ぎだぜ。そんなこと、うちの親方ぐらいしかできねえよ。>八:喩え話だよ。それほど恐かったってことさ。>夏:それで? そのお福さんがどうしたの?>熊:上様のご寵愛がなくなって焦(あせ)ってるんだとよ。>八:暇を出されてここいらに戻ってくるかも知れねえんだとよ。本当に戻ってきたらどうしよう。>夏:よっぽどのことでもない限り戻ってきたりはしないわよ。だって、上様の子供の産みの親なのよ。そんな人が町屋に住むと思う? きっと良いところに屋敷でも建てて貰って何不自由なく暮らす筈よ。>八:そうか。そうだよな。・・・ほれ見ろ。戻ってなんか来るもんかってんだ。ああ良かった。冷や汗掻いちまったぜ。さ、飲も飲も。安心したら腹も空(す)いてきたな。お夏ちゃん、何か見繕ってくれるかい?>熊:まったく、調子の好い野郎だ。>鴨:・・・だがな、ちょっと気になることがあるんだよな。>八:なんだよ。脅かそうったってその手にゃ乗らねえよ。>鴨:まだ裏が取れてる話じゃあねえんだが、闇で毒薬を手に入れたらしいんだ。>熊:お、おい、矢鱈なことを言うもんじゃねえよ。相手は大奥にいる人なんだぞ。間違いでしたじゃ済まされねえ。>鴨:分かってるさ。だから慎重に調べてるんじゃねえか。まともな役人なら引き受ける仕事じゃあねえわな。>熊:目付とか大目付とかがやる仕事じゃねえのか?>鴨:誰がやるかってんだ。自分は知らなかったことにして下へ下へ盥(たらい)回しよ。どちら様も御身大事ということさ。>夏:それで鴨太郎さんのところまで下ってきたってことね。まったくお人好しなんだから。>鴨:仕方がねえだろ? 俺には盥を回す先がねえんだからよ。>夏:それで? 調べは進んでるの?>鴨:ああ。疑わしい医者が2・3人挙(あ)がってきてる。>夏:御殿医?>鴨:真逆(まさか)。御殿医は清廉潔白、実直この上ないお人だ。とても毒を他人に渡すようなお人じゃあねえ。>八:医者は人様の病気を治す人だろ? 毒なんか持って歩いてるのか?>夏:一口に毒って言ってもね、八兵衛さん、薄めて使えば病気に利くものもたくさんあるのよ。だから、大抵の医者なら持ち歩くことはあるのよ。>熊:分量を間違って使えば殺すこともあるってことか。>夏:そうよ。だから、そうならないようにちゃんと研究して、間違わないように努めているのよ。>八:へえ、医者ってのは頭が良くないとできねえことなんだな。>夏:当たり前でしょ? 1年や2年じゃ身に付かないの。・・・もっとも、態(わざ)と間違えるような不心得者は、いくら頭が良くたって駄目なんだけどね。>鴨:その不心得者が3人も挙がってきてるってことが、問題なんだよな。>夏:許せないわね、本当の話なら。>熊:そいつらって、やっぱり、銭に目が眩(くら)んだせいでそんなことやらかすんだろうな。>鴨:目が眩むほどの大金を持っているやつらが、貧乏医者の足下を見るってこともあるだろう?>八:なんだよ。ここでも景気の話か? おいらもう今夜はそういう話は沢山だぜ。>夏:でも、いくら足下を見られたからって、毒を売っちゃあ駄目よ。医者の風上にも置けないやつね。>八:いっちょ、懲らしめてやろうか?>夏:鴨太郎さん、その疑わしい医者たちに会わせて貰えない?>八:そう来なくっちゃ。ぽかりとやるんだな?>夏:そうじゃないの。医者は何をすべきかを思い出して貰うの。>八:そんなんで良いのか? なんだか物足りねえな。>夏:あたし思うんだけど、人の命を救って「良かったあ」って喜ばない医者なんて、1人だっていやしないんだからね。>鴨:もしそうだとしてもだ、罪は罪だからな。医者の心を取り戻すってったって牢屋に打(ぶ)ち込むからな。>夏:そりゃあそうよ。でも、罪を償ったら養生所預かりか何かにしてあげて。>鴨:それは上の方の人が決めることだ。俺はそんな特別扱いはしたくねえがな。>夏:でも、どうせお福の方の罪だって闇から闇なんでしょう? 自分の都合悪いことだけ知らん振りで、買った方の罪は表へ出ないのに、売った方だけ咎(とが)めるのって変じゃない?>鴨:そういう遣り方が、役人の間じゃあ当たり前なの。俺にはどうしようもねえ。>八:そうしないと偉くなれないところなら、却って偉くならない方が良いのかもね、鴨太郎さん。>鴨:そりゃあ嫌味か?>夏:誉(ほ)めてるのよ。>熊:誉められたぞ。嬉しいか?>鴨:そんな誉められ方したって、乏(とぼ)しい禄は増えねえよ。>夏:良いじゃない。あたしが医者になった頃、鴨太郎さんがまだ貧しい暮らしをしてるようだったら、あたしがちょっとはお米を回してあげる。>熊:お夏坊、本気か?>夏:何よ、熊お兄ちゃんまで。あんまり本気に受け取らないでよ。小娘の戯(ざ)れ言よ。
2007.12.02
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『金時(きんとき)の火事見舞(みま)い』『金時の火事見舞い』元々顔の赤い金時(金太郎)が火事見舞いに行ったら、益々顔が赤くなるというところから、顔が非常に赤いことの喩え。主に、酒を飲んで赤くなった顔などを指す。 例:「ビール一杯で金時の火事見舞いになる」 類:●朱を注ぐ如し*********少しばかり色っぽい絵草子を禁止したり、婦人の髪飾りを制限するなど、お上(かみ)が出す政策は、庶民の娯楽を奪うものばかりであった。稼(かせ)ぎの少ない家庭ほど、食事に懸かる費用の割合が高くなるという(※)。娯楽も贅沢(ぜいたく)もなく、食うために只管(ひたすら)働けと、そういうことである。>八:なあ、鴨の字。札差しやら両替商から銭を分捕ったらよ、運上(うんじょう)とかも安くなるのかな?>鴨:ならねえさ。竹上っていう先生が考えたのは、干上がった幕府(ばくふ)の蔵を潤沢(じゅんたく)にすることだけだからな。庶民のことなんざ二の次よ。>八:なんだ、そうなのか? その先生を応援する気も失せちまうよな。>熊:だから止(や)めとけって言ってるんだ。大工が余計なことに口を挟むもんじゃねえんだって。>八:でもよ、古狸を引っ叩(ぱた)く気の方はまったく失せねえんだけどな。>熊:好い加減にしろってんだ。>八:良いじゃねえか。「老いては子に従え」って良い言葉があるってのに、知らねえんなら、おいらが教えてきてやろうってんだからよ。親切心だよ、親切心。>熊:ぽかりとやりてえだけの癖しやがって。>鴨:・・・できるもんなら、やらせてやっても良いんじゃねえか? >熊:こら鴨太郎。なんてことを言い出しやがる。役人がそんなこと言って良いと思ってるのか?>鴨:役人だろうと商人だろうと構わねえさ。ねちねちやってるだけで、前向きな話をしたがらねえ爺さんなら、とっとと退(しりぞ)いて貰うのが良いに決まってる。・・・但し、できるもんならだがな>八:できるから言ってるんじゃねえか、なあ?>熊:おいらは、万が一お許しが出ても、やらねえ方が良いんじゃねえかと思うがな。>八:冗談じゃねえ。こんな美味しい話、誰が逃(のが)すかってんだ。八兵衛はすっかり乗り気になっている。しかし、果たして、たった1人の老閣僚を失脚させることくらいで、庶民は豊かになるのかという疑問は残っている。>男:あの、横合いから済いません。>八:誰だい、お前ぇさんは?>男:はあ。あたしは太市(たいち)っていうけちな文士崩れで御座んす。>八:「我孫子藤吉郎浩丸」の仲間かい?>太:とんでも御座んせん。あんなちんけなのと一緒にしないでくださいまし。もっと志(こころざし)が高いものを物(もの)そうとしているんで御座いますから。>熊:なんだいその志が高いものってのは?>太:はあ、ご政道を真っ直ぐに正すのにはどうすれば良いものかってことで御座います。>八:なんだか詰まらなそうだな。おいら、よっぽどあの三文文士の方が好きだな。>太:そんな方ばっかりだから、世の中が曲がっちまったんで御座いますよ。先ほどお話に出ていた竹上太蔵の言い成りになんかしてご覧なさい。真っ直ぐになるどころか一層曲がってしまいますとも。>八:そうなのか?>鴨:それでは、太市とやら、お主も金回りのことで一家言(いっかげん)あるというのか?>太:御座いますとも。・・・でも、その前に、少しご馳走に与(あず)かっても宜しゅう御座いますか?>八:なんだと? お前ぇさん、端(はな)っからそのつもりだってんじゃねえだろうな?>太:め、滅相も御座いません。こういう話ができる人たちが、そうそういないから話し掛けただけで御座いますとも。決して、卑(いや)しい下心からでは御座いません。>八:ほんとかよ? なんだか疑わしいぞ。>熊:それよりも、あんたもう茹(ゆ)でた蛸みてえな顔になってるぜ。これ以上飲んで大丈夫なのかよ?>太:顔に出る質(たち)なんで御座いますよ。あたしはまだ銚子1本しかやっていないんで御座んすからね。なんならお夏さんに聞いて見て呉れても良う御座んすよ。>八:お前ぇさん、ここの馴染(なじ)みじゃねえだろ? お夏さんだなんて、馴れ馴れしく呼ぶ間柄か?>太:だって、一度名を告げただけで覚えて呉れましたよ。余程あたしのことが気に入ってるんじゃないんですかねえ?>八:こいつ、とんだ自惚(うぬぼ)れだな。・・・あのな、お夏ちゃんはな、誰の名前でも一遍聞いただけで覚えちまうの。そこいらの尻軽娘とは全然違うんだからな。>太:そうなんですか? あたしはまた、てっきり・・・>熊:で、太市さんとやら、お前ぇさん「だるま」に来たのは、今晩で何度目なんだ?>太:はあ、昨夜(ゆうべ)初めて伺(うかが)いました。>八:なんだ、まだ駆け出し者も同然だな。今後、お夏ちゃんに話し掛けるのは、この八兵衛様に断(ことわ)ってからにして呉れよな。>熊:何を言ってやがる。お前ぇだって相手になんかされてねえの。なあ、鴨太郎?>鴨:俺に振るなってんだ。太市は、赤い耳朶(みみたぶ)を更に赤くして恥じ入った。結構初心(うぶ)なようである。>鴨:それで? お主が持っているっていうお説は、聞かせて貰えるのかい?>太:お付き合い願えますか?>八:構わねえよ。どうせ大した用がある訳でもなし。なあ熊?>熊:聞かなくたって分かるだろ、まだ宵の口だぞ。>八:それによ、おいらたちは高々大工をやってるもんだがよ、案外そういうことには詳(くわ)しいんだぜ。>熊:どこがだよ。ついさっきまでは運上金のことも知らなかった癖によ。>八:今は知ってるんだから良いだろ。もう一端(いっぱし)の景気通よ。・・・さ、何でも言ってみな。おいらがびしっと判断を下してやるからよ。>太:そうですか。それはどうも恐れ入りまして御座います。では早速(さっそく)・・・太市のご高説(こうせつ)は、八兵衛には理解の域を越えたものばかりだった。絵草紙や芝居への弾圧は止めて好きなものを見聞きできるようにすべきだ。・・・八兵衛にも、ここまでは理解できた。その後からがいけない。租税の率を無闇に上げ過ぎると思わぬところで破綻(はたん)を来たす。渡来の文化を見習って新しい商(あきな)いの形を確立すべきである。離職者の雇用を図(はか)るため、幕府が主導して大掛かりな普請(ふしん)を始めるべきである。・・・珍紛漢紛である。>太:いかがなもんで御座いましょう? これなら、両替商だけを苛(いじ)めるようなものでなく、万遍なく潤(うるお)うのではないでしょうか?>八:ま、まあ良いところに目を付けているみたいではあるようだな。ははは。>熊:お前ぇにどこまで分かったってんだ? からっきしだろ?>八:はは、済まん。>鴨:だがよ、それじゃあお上は首を縦に振るまいよ。幕府の蔵はもう空っぽなんだぜ? 誰が新しい商いだの大掛かりな普請だのの銭を出すかってんだ。>太:それはですね、「借財手形」のようなものを出して、期限までにこれこれこういう返済をすると約束すれば良いのです。>鴨:お上が約束するにしても、そんなのどこが引き受けるかってんだ。今時はどこの藩だって、幕府以上にぴいぴいしてら。>太:貧しい藩ばかりでもないでしょう? それに、大手の材木問屋のように余裕のあるお店(たな)はたくさんあります。>鴨:お上が商家に頭を下げるってのか? 有り得ねえな。それによ、商家の方だって、話を持ってくる老中や若年寄が約束を守るかどうかなんて信じやしねえ。そうだろ?>太:流石(さすが)はお役人の方ですねえ、鴨太郎さんは。>鴨:馴れ馴れしく呼ぶんじゃねえ。>太:これは失礼しました。つい調子に乗ってしまいました。>鴨:それで? あんたは竹上なんとかのお説のことをどう思うね。>太:大まかには、悪い考えではありませんね。でもちょっと乱暴過ぎます。一番手っ取り早い代わりに、たくさんの恨(うら)みを買いそうです。>鴨:それで? やった方が良いか止した方が良いか、どっちだと思う?>太:まあ、やるべきでしょうね。なんといっても、今の景気を悪くした原因が両替商ですからね。貸す方には高利を下げもしないのに、貸して呉れている商家には雀の涙ほどの利子しか出さないで、手土産の一つも寄越さない。これでは商家は品物を値上げして儲(もう)けを出すしかなくなるじゃあありませんか。>八:両替商も人から銭を借りてるのか?>太:当たり前ですよ。大口の貸し付けが貸し倒れにでもなってみなさいな、自分のところの金蔵が空っぽじゃ、自分のところが潰れちまいます。>八:はあ。おいらの知らねえとこで、そんな絡繰(からく)りになってるのか。それじゃあよ、両替商が問屋に十分な利子を払ってやってりゃ、物が安く買えるようになるのか?>太:さあ、どうでしょうか?>八:だって、物が高いのは利子が安いからだって言ったじゃねえか。>太:ええ言いましたよ。・・・ですが、貰える利子が増えるからといって問屋たちが物の値段を下げるとは思えません。竹上太蔵の間違いはそこなんです。次は商家が太る番になるということを、予(あらかじ)め指摘しておかなけれいけないのです。>八:ってことは、おいらたちは相変わらず目刺しと漬け物で我慢するしかねえってことなのか?>熊:ここで高い粗煮(あらに)を食ってるだろ?>八:なんだ熊、この上おいらのささやかな喜びまで奪(うば)おうってのか?>熊:そうじゃねえって。・・・だがよ、ここで飲んでいられるってことはだ、まあおいらたちは、どうにかこうにか満足に生きていられるってことだ。そうだろ?>八:ま、まあな。>太:人間、贅沢さえ望まなければ、不自由なく生きていけるってことです。>鴨:しかしな、贅沢を望む輩(やから)はどこにでも居る。>太:その通りで御座いますとも。特に、贅沢の最中(さなか)にいるものほど、そこにしがみ付こうとする。それが、この体たらくの原因だとなぜ気付かない? ・・・大店の旦那が1日に1両貯め込むと、波銭1枚に喘(あえ)ぐ庶民千人が苦しむ。それが積み重なって今があるのです。>八:なあ鴨の字。その、貯め込んでるやつらってのは誰と誰なのか、役人は全部分かってるのか?>熊:そんなの、全部は分かる筈ねえじゃねえか。何てこと聞きやがる。・・・というより、八、お前ぇ、それを聞いてどうしようってんだ? 真逆(まさか)・・・>八:決まってんだろ? そいつらの頭をだな、ぽかりと・・・>鴨:無駄だ。役人は賂(まいない)を握(にぎ)らされてる。一番殴りたいやつほど、炙(あぶ)り出されてこねえようになってるのさ。>八:なんだよ。それじゃあ先ず、役人の取り締まりから始めなきゃならねえのか? そんならよ、その役人を取り締まる役人は一体(いったい)誰が取り締まるんだ?>鴨:知るかっ。>太:八兵衛さん、まあそんなに熱くならないでください。世の中には正面(まとも)なお役人様だってたくさんいらっしゃるんですから。何もそんなに顔を赤くして怒らなくても大丈夫ですよ。>八:顔が赤いのはお前ぇさんだろ。(つづく)---≪HOME≫※参考:エンゲルの法則 1875年に、ドイツの統計学者エンゲルが発表した家計費の統計的法則。所得が低い家族ほど家計の消費支出に占める食費の割合が大きくなる。(上へ戻る)
2007.12.01
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