森田理論学習のすすめ

森田理論学習のすすめ

2013.12.25
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徳川家康は36歳の時、織田信長に命じられて、長男信康と妻築山殿を処刑している。
正室と子供を、信長の命令とはいえ、自らの手で処刑したのである。

今の日本では考えられない事件である。500年前にはそんなことはよくあったようです。

これは信長の娘である徳姫が、信康のところに嫁いでいた。
ところが徳姫は、姑である築山殿と仲が悪かった。そのうち信康とも仲が悪くなった。

そのことを徳姫は、織田信長に密告したのである。
それに激怒した織田信長は、徳川家康に二人の処刑を命じたのである。

徳川家康にしてみれば、大変悩んだようである。
部下は部下で、身代りに首を差し出すとも言ってくれたそうです。


家康が信長に反旗を翻して戦うという道もありました。
ところが当時の信長は絶大な力を持っていたため、徳川一門の将来を考えて、二人の処刑
をやむなく実行したようです。
こんな理不尽なことがあるでしょうか。
それでも家康は、やむなくその理不尽な事実に従ったということだと思います。

理不尽といえば「私は貝になりたい」という映画があった。
昭和19年、第二次世界大戦中。高知県幡多郡清水で理髪店を営んでいた清水豊松は、
気は弱いが平凡な人柄の人物であった。
戦争が激化する中、豊松にも赤紙が届き、出征することになる。

内地の日高中隊に所属した豊松は、厳しい訓練の日々を送る。
ある日、撃墜されたアメリカ軍B29の搭乗員が大北山山中に降下。

尾上大隊を経て大北山の最寄にいた日高中隊に下り、山中探索の結果、虫の息であった
搭乗員を発見。

そこで豊松は、小隊長から滝田二等兵とともに銃剣でその米兵を刺すよう命じられた。
終戦後、豊松は無事に復職するも戦犯として特殊警察に逮捕され
理不尽な裁判により絞首刑。


でも、好むと好まざるにかかわらず、どうすることもできないことは、受け入れていく
しか道はないのだろう。
受け入れるかどうかというよりも、そうして時代は何事もなかったように
流れていくのだろう。

岩もあり木の根もあれど さらさらと たださらさらと水の流れる 

あるがままに生きるしか、なりようがないということか。





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Last updated  2013.12.25 20:02:09
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kurokawa@ Re:感情と行動を分離して行動する(11/11) New! 申し訳ございません。生涯森田様でした。
kurokawa@ Re:感情と行動を分離して行動する(11/11) New! 障害森田様 この記事の中で「心とは裏腹…
楽天星no1 @ 早速のご返事感謝 森田生涯さんへ 早速のご返事ありがとう…

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