高良武久先生は、部分にこだわって、全体の調和を破ること問題視されている。
沢庵和尚の文章に、 「たとえ1本の木に向うて、そのうちの赤き葉ひとつを見ておれば、残りの葉は見えぬなり。葉ひとつに目をかけずして、 1本の木に何心なく打ち向かい候えば 、数多くの葉残らず見え候。葉一つに心を取られ候わば、残りの葉は見えず、一つに心を止めねば、 百千の葉みな見え申し候。これを得心したる人は千手千眼の観音にて候」と言われている。
部分的なことに重点を置くと、生活全体の調和が破れることを知らなければならない。
不潔恐怖で手を洗うことに専念する人は、手以外のところがかえって不潔になる。
不完全恐怖の人が仕事をする場合は、心残りをなくするやり方とか、仕事をするための予備操作に時を費やすので、仕事そのものがはかどらない。種々の強迫行為の人の態度がそれである。
病気恐怖の人が衛生のとりこになって、全体の活動をにぶらしているのは、すべて部分的なものにとらわれていることに他ならない。いろいろな思案工夫が細くなるほど、ますます本道を遠ざかっていくのは、初めの一歩のちがいが到達点では千里の差を生じるようなものである。
私たちは友人の顔を見た瞬間、すぐにこれは山田くんの顔であると認知するのは、顔の各部分、つまり眼、眉、英、口、耳、髪などを分析して、さらにそれを総合して山田君であると決定するのではない。
第一印象で、ただちに全体を把握して山田君であると認めているのである。
いちいち眼、鼻などを分析するだけでは、全体がはっきりせず、山田君のようでもあり、川野くんのようでもあるということになろう。言葉で言うのは難しいが、 「第一印象」 「初一念」のような作用は全体的なもので、我々の日常の行動は大体それに従って生活全体を保っている。言葉に拘泥しないで、文字に含まれた全体の気分を感得してもらいたい。
(森田療法のすすめ 高良武久 白揚社 133ページより引用)
私がこの話を聞いて感じることは、森田理論学習の進め方のことである。
森田理論には、あるがまま、事実唯真、純な心などの独特なキーワードがたくさん出てくる。
一般的には、その意味を正確に掴もうとする学習が中心となっている。
私もそのような方向で20年間学習をしてきた。
この方向は高良武久先生が言われている、木の葉っぱを一つ一つ観察していくような学習ではないだろうか。
このような手法では、森田のキーワードの意味についてはよくわかるようにはなるが、実際には身近に自分の生活の中で応用することは難しいのではないかと考える。
森田は特殊用語を正確に説明できるようになっただけでは、あまり意味はないのである。
実際、私の場合、そのとおりであった。
そんな時、ディズニィランドに行った人から、施設のご案内図を見て目当てのアトラクションを探すのだという話を聞いた。
私は、森田理論学習に欠けているものは、この施設のご案内にあたるものだと気づいた。
しだいに森田理論の全体の枠組みはどうなっているのだろうかという方面に関心が移っていった。
そして試行錯誤の末に作り上げたのが、「森田理論の全体像」であった。
全体像を理解して、森田のキーワードを学習することは大きな意味があることに気づいた。
これは大きく分けて4つの柱から成り立っている。その内容はすでに何回も投稿している。
私は「やじろべい」とともに、これを大きく図示して机の上に張り出している。
森田理論学習をするときは、いつも今どこの学習をしているのか確認している。
地図で今から行く目的地を確認しているようなものだ。
これを見ていると、自分の学習場所がはっきりする。
4つの柱の相互の関連性が分かる。またどこの学習が不足しているのかが分かる。
それから、神経症を治すための3つの道が一目瞭然である。
森田を生活に応用していくにあたり、どこに重点を置けばよいのか、目標が立てやすい。
注意点としては、森田全体像の学習にあたっては、その前に1年ぐらいかけて、森田理論の基礎的学習をしておくことが大切であることが分かった。
このようなステップを踏むことで、短期間で森田理論が効率よく理解できると考えている。
あとは実際に森田を仕事や生活に応用して、集談会でその情報を交換して、膨らませてゆけばよいと考えている。
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