森田先生は「自信」について次のように語られている。
強い人が勝ち、弱い人が負ける、上手の人がよくできて、下手な人がうまくできない。
それが事実であって、その事実そのままに見るのが、信念であり、自信であります。
皆さんは、できないこともでき、強い人にも勝つように、自信というものを作りたいという野心があるのではありませんか。
それは自欺であり、間違いだらけになる原因であります。
「事実唯真」の私の言の反対になります。
そこで、例えば高跳びの時、気後れして、やれなくなる。
その時に、どうすればよいかといえば、自信とか、その他いろいろの自分の心の態度を決める、というはからいごとに迷わずに、私は「静かに自分自身を見つめよ」といいます。
そうすると、自分はもう少し上達したい、ちょっとでも余計に飛びたいという欲望があるかないかを見定めることができます。
もし欲望がなければ、楽なものです。気おくれも何もいらない。ただ、やめさえすればよい。
しかし、また欲望の強いときには、一方にはその努力の苦心を考えると、その欲望を否定するような、 「自分はこんなことよりも、勉強しなければならない」とか、 「自分の素質には不適当だ」とかいうような考えが起こって、闘争心を鈍らせて、中止する。
しかしまた、次の日には、ついついその欲望にかられて、手を出してみると言う風で、それでも辞めずに続けていさえすれば、ついには上達して、自信も出てくるようになる。
それで、気の勝った人は、一途に自分の欲望を見つけて奮闘し、意志薄弱のものは、少し骨の折れるようなことには、じきに中止してしまう。
神経質はまた、その中間にあって、欲望は捨てられず、一方には、自分の素質や力量を較量して、種々の迷いを起こし、それでも中止しきれないで、引きずられていくうちに、人並み以上に上達すると言う風になるのは、人間の種々の素質の模型的の成り行きであるのである。
(森田全集第五巻 606頁より引用)
物事を始める前から「自信」を持っている人は誰もいません。
最初は自信よりも、興味や関心があるのだと思います。
できるのかできないのか取り組んでみる前には想像もできません。
取り組んでみても、素質や能力の面で無理なこともある。
また人がやるのを見て、簡単そうに見えても、実際に自分でやってみるととても難しいということもある。その困難な壁にぶち当たって、途中でくじけてしまうこともある。
そこであきらめてしまえば、自信につながる事はない。
指をくわえて見ているだけになってしまう。
それでも欲望を捨てきれず、困難に打ち勝って目標に向かって努力精進した人が成功をつかむ。
目標に達すると、自信が湧き出てくる。 二度、三度と目標を達成すると、ますます自信がついてくる。
森田先生は、最初から頭の中で自信を作り出してから物事に取り組むという姿勢を問題視されている。自信があろうがなかろうが、興味や関心のある事には、すぐにとりかかってみる。
とりかかってみて、どうにもならなければそこで中止すればよい。
時には思っていた以上にうまくいくこともある。
それがきっかけとなって、次から次へと欲望が膨らんでくることもある。
尻軽に、手足を出していけば、 「努力即幸福」というやりがいを見つけることができる。
とにかく森田理論は実践や実行が大切なのである。
森田先生は修養という言葉をよく使われるが、これは実践や実行によって、精神の働きが分かるようになり、神経質者の生き方、人生観を確立していくことであると思う。
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