また例によって、わかりやすく紹介してみたい。
茂平さんとゆきさんは、 2人とも夫婦運が悪くて、それぞれ前妻、前夫と死に別れた。
網の親方の世話で、茂平さんが50 近く、ゆきさんが40近くで再婚した。
ところがゆきさんは、結婚後わずか3年目で水俣病を発症した。
体の自由が利かなくなり、重いものが持てなくなった。船は手放し、仕方なく漁業をやめた。
それまでどんな漁業をしていたのか。どんな生活をしていたのか。
2人は力を合わせて漁業をしていた。二丁櫓と言われる夫婦舟に乗っていた。
浅瀬を離れるまで、ゆきさんが脇櫓を軽くとって小腰をかがめ、 ぎいぎいと漕ぎ続ける。
渚の岩が石になり砂になり、砂が溶けてたっぷりと海水に入り交い、茂平さんが力強く艫櫓をぎいっと入れるのである。
追うてまたゆきさんが脇を入れる。両方の力が狂いなく追い合って舟は前へぐいっとでる。
夫婦の絶妙な共同作業により、舟は自由自在に進むのである。一心同体の仕事ぶりであった。
不知火海はのどかであるが、気まぐれに波がうねりを立てても、ゆきさんの櫓にかかれば波はなだめられ、海は舟をゆったりあつかうのであった。
それもそのはず。ゆきさんは、 3歳の頃から天草で舟の上で育った。
だから不知火海は自分の家の庭のようなものであった。
彼女は海に対する自在な本能のように、魚の寄る瀬をよく知っていた。
ゆきさんは、「私は水俣の漁師よりも、魚のおるところはよくわかる。だから沖に出てから、あんたは漁場の心配をしなくてもいい。私が舵を取るから、あんたは帆網さえ握っていれば、私が魚のとれるところに連れて行く」と言っていた。
漁場につくと、櫓をおさめ、深い藻のしげみをのぞきいって、 「ほーい、ほい、きょうもまた来たぞい」と魚を呼ぶのである。
しんからの漁師というものは、よくそんなふうにいうものであったが、天草女の彼女のいいぶりにはひとしお、ほがらかな情がこもっていた。
ゆきさんは、体の自由が効いた昔を思い出しては、舟の上は本当によかったという。
イカは素っ気のうて、舟に上げるとすぐにぷうぷう墨を吹きかける。
タコは蛸壺を上げると、ツボの底に踏ん張って上目遣いでいつまでも出てこない。
タコに、 「早く出てこい、出てこんかい」といってもなかなか出てこない。
仕方なしに、手綱の柄で尻を抱えてやると、出たが最後、その逃げ足の早いこと、よくも8本の足をもつれさせないで素早く走り回る。
こっちも舟がひっくり返るくらいに追いかけて、やっと籠に収める有様だ。
この舟は2人が結婚したとき、新しく買った舟だった。 2人はこの舟をとても大事に扱った。
漁期が終わると、舟に付いたカキガラを落として、岩穴に引き揚げて雨にもうたれないようにしていた。
蛸壺はタコたちの家だと思い、さっぱりとしてやった。
漁師は道具を大事にする。船には守り神が付いている。道具にも一つ一つの魂が入っている。
敬って、釣り竿も跨いで通るようなことはしなかった。
派手ではないが、穏やかで平穏な日々の生活を紡いでいたのである。
それを有機水銀を含んだ工場廃液を水俣の海にたれ流していたために、水俣の漁師たちは壊滅的な状況に追いやられたのである。元の海を戻してくれと抗議してみても、水俣市はこの工場のおかげで市の財政と多くの水俣市民の就職口を賄っていた。抗議すればするほど周囲から白い目で見られていたという。
漁で生活を成り立たせていた人にとっては、これ以上の不条理なことがあるだろうか。
ガンの予防になる食べ物について 2025.11.07
大村崑さんの健康法 2025.10.17
秋冬野菜の植え付け時期について 2025.08.28
PR
Keyword Search
楽天星no1さん
メルトスライム25さんCategory
Comments
Calendar