「こころの旅」や「生きがいについて」などの本を書かれた神谷美恵子さんはどんな人生を送った人なのだろうか。「人に歴史あり」というが、大変興味がある。早速調べてみた。
神谷さんは1914年(大正3年)生まれで、 1979年(昭和54年) に急性心不全で亡くなられている。
65歳という年齢は、とても短いように思える。ところが、その残された業績は素晴らしい。
妻として、母として、語学教師として、医師として精一杯の実績を残して、思い残すことなく旅立たれたような気がする。
神谷さんは気品のある顔立ちで、家柄もよく、何よりも類稀な能力を持っておられた。
半面、大きな大病をされ、太平洋戦争の戦時下で大変な苦労された。
父親はのちに文部大臣を歴任された前田多門氏であった。
父の海外赴任に伴い、9歳から3年間、スイスのジュネーブで暮らした。
ここでフランス語を身につけた。
19歳の時、ハンセン病国立療養所多摩全生園を訪れた。
この体験が精神科の医師を志すきっかけとなった。
21歳の時、肺結核を患い、軽井沢で療養生活を送る。一旦は治ったが、翌年再発した。
本来なら死の病と言われた結核で意気消沈するところですが、神谷さんは療養中にギリシャ語、その他の外国語を独学でマスターする。その他、当時の女性にはかなり難しかった「英語科高等教員検定試験」の準備をし、その後合格している。この資格のおかげで大学で語学の教鞭をとることができたという。
結核が治ってから、奨学金でアメリカに留学。コロンビア大学で本格的に医学の勉強を始める。
27歳の時、戦時下のためやむなく帰国。東京女子医学専門学校へ編入学された。
30歳の時、卒業後、東京大学医学部精神科医局に入局。
31歳の時、しかし父が文部大臣に就任したため、父を助けて一時期文部省で翻訳者として働く。
32歳の時、神谷宣郎氏と結婚する。その後、2人の男の子を出産し、立派に育てる。
36歳の時、神戸女学院大学で教鞭をとる。英語、フランス語、精神医学の講義を行う。
41歳の時、子宮がんが見つかる。
43歳の時、岡山県長島愛生園非常勤職員となり、神戸から朝4時起きで通い始める。
診療は主に土曜日と日曜日に行った。その他は神戸女学院大学や津田塾大学での講義などにあてた。
58歳の時、体調不良の為、 15年勤めた長島愛生園精神科医長を辞任する。
神谷美恵子さんは、兄の陽一さんに、「美恵子には逆立ちしても勝てない」といわせたほどの秀才であった。その兄も東大文学部教授となった。
神谷さんは目指した目標はことごとく達成していた。また太平洋戦争も何とか生き延びることができた。
ただ、病気には勝てず、肺結核を2回発症した。そして、 40代になってガンにかかった。
それらも目の前の目標に向かって努力することで、免疫力がついて、最後に乗り越えられたのは自然治癒力の賜物であった。
神谷美恵子さんは語学万能であったために、自分の進路についてはいろいろと迷われている。
でも、最終的には19歳の時に志した精神科の医師としてハンセン病患者の医療の道へと進まれた。
神谷美恵子さんは、大変忙しい毎日であったにもかかわらず、一つ一つ丁寧にこなして、自分の使命を全うし、存分に生きがいを発揮した人であった。その生き様が多くの人を惹きつけてやまないのだと思う。
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