対人恐怖症の人は、人の思惑が気になる。
特にミスや失敗をすると、他人は自分のことを軽蔑したり非難するのではないかと心配する。
そのために、事実を認めようとせず、報告を先延ばししたり、ミスや失敗を隠したりねじ曲げたりする。
そして、批判を免れようとするのだが、不安はなくならないどころかどんどん増悪していく。
そして最後には神経症という蟻地獄に落ちていく。
その段階では、頭の中では、対人恐怖の思いで100%占められている。
注意や意識が人の思惑で溢れており、日常茶飯事や仕事の事は考えられない状態である。
この状態では、どうにも解決のできない問題を抱えて、イライラし精神的に非常に苦しい。
対人恐怖症の全治は、そうした他人の思惑がなくなり、とらわれがなくなる人間に変わることであろうか。観念的に考えると、対人恐怖症が跡形もなく姿を消すと、随分楽な生き方ができるような気がする。
しかし、対人恐怖症がそのような治り方をするとは私の体験上到底思えない。
では、私の考える対人恐怖症の全治とは何か。
それは対人恐怖症で100%占められていた頭の中の注意や意識が、 90% 、 80% 、 ・ ・ ・ 、 40% 、 30%と減少していくことである。
つまり、頭の中で対人恐怖症以外のことを考えられるようになり、置き換わっていくことである。
全治の道とは、注意や意識が対人恐怖症一点に絞り込まれた状態から、目の前のやるべき仕事や課題に分散されていく過程である。極端な話、その程度が50%を切ればもう全治と公言してもよいと思う。
そんなのは全治ではない。0%にならなければ全治とは言わないというのは、美しき誤解である。
逆に言えば、対人恐怖症の元になった人の思惑が気になるというコアの部分は常につきまとう。
根こそぎ対人的な不安がなくなってしまうわけではない。
もし0%を全治というならば、その人は神経質性格が変化して人格崩壊を起こしていると見るべきであろう。神経質性格はプラスに生かせばすばらしい性格なのであるが、その神経質性格がなくなれば、自分の本来持っていた良さも失われてしまう。
比率が下がっていけば、生活や観念上の悪循環が取り除かれ、好循環が生まれてくる。
しかし、コアの部分では依然として人の思惑が気になるという気質は残っていくのである。
比率が下がった状態では、対人不安はプラスに働いてくるようになる。
他人の気持ちをよく思いやるようになり、人の役に立つことがどんどんできるようになる。
人の思惑でパニック状態になることもたまにはあるが、以前のようにいつまでもとらわれるということがなくなる。
人の思惑が気になっても、そればかりにかまけて、すぐに蟻地獄の中に落ち込んでしまうということがなくなる。
感情の法則などの学習によって、うまく切り抜ける術を身につけて、他人の思惑を気にしながら、仕事や日常茶飯事に向かうことができるようになる。
このような状態は、もはや対人恐怖症の人とはみなされない。
この人はすでに対人恐怖症を克服した人とみなすのである。
人の思惑が気にならないあっけらかんとした外向的な人間に変化しているのではない。
対人恐怖症で仕事や日常茶飯事が滞っていた状態から、普通の日常生活が送れるようになった状態が全治である。決して全治という言葉に惑わされないようにしてもらいたいものだ。
神経症が治るということ その3 2025.11.04
神経症が治るということ その2 2025.11.03
神経症が治るということ その1 2025.11.02
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