森田理論学習のすすめ

森田理論学習のすすめ

2019.05.08
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今日は森田先生の言葉を紹介します。
そもそも平常心と言うものは、作るものではなくて・有るものであります。
恐ろしいならば 、恐ろしいままの心、それが平常心であります。
よく「なりきる」ということをいいます。
ここに掛け軸がかかっています。「平常心」と言う字が面白く書いてあります。
純な子供ならば、すぐにこれに見入って、筆勢につれて、身体をくねらせながら見ます。
それが成りきった姿であります。
ところが神経質ならば、 「自分はこれを見ても一向に感興がわかない。自分には芸術心が乏しい」などと考えます。それは自己と対象と、別々に観察している姿であります。
考えつつ見るから、どんな風に書いてあったか、よく覚えていません。

今、その字に見入っているときには、我を忘れて、その字になりきることです。
あるいはまた、自分のことばかりが気になっているときには、字はわからずに、自分自身になりきるのであります。
どちらでもよろしい。なりきりさえすれば、そこに比較がなくなるから迷いはなくなります。

これを私なりに考えてみました。
子供が掛け軸を見ている姿は、意識が外向化して、対象物と一体化している状態です。
我を忘れて一心不乱になっているのです。注意や意識が自分に向かうことはありません。
迷いがありません。この時、判断力や分析力を司っている前頭前野は休んでいる状態です。
運動野などから前頭葉を経由することがなく、手足に指示が出ている状態です。
別に前頭前野を経由して、比較検討しなくても、正常な行動ができています。
というよりも、前頭前野がおせっかいを焼かないからこそ、適切な行動ができているとみたほうがよいのです。動物は前頭前野は発達していません。ですから、行動するにあたって人間のような迷いはありません。比較検討して、行動を選択できる能力は人間だけに備わった機能です。
これが裏目に出ると、不安と欲望との葛藤で意志決定や行動ができなくなってしまいます。


こんなことはよくあると思います。美術館に行って絵画を鑑賞しても何の感情も湧かない。
あるいはクラッシックコンサートに行って音楽鑑賞をしても感激することがない。
こういう状態の時は、素直にその事実を認めて受け入れるとよいのです。
それなのに、神経症に陥るような人は、人と比較して、是非善悪の価値判断をしてしまうのです。
 森田先生が指摘されているように、「自分はこれを見ても一向に感興がわかない。自分には芸術心が乏しい」などと考えます。それは、事実や現実を否定している態度です。

意に沿わない事実や現状を目の当たりにしても、事実や現実に寄り添う態度の養成が大切なのです。
現実を認めることができると、クラッシック音楽でいえば好きな曲と自分には合わない曲があることに気づきます。ベートーベンの第九や田園、モーツアルト、ヘンデル、マーラーの曲には、大きな感動をもらっているわけですから、それを認めて楽しむようにすればよいのだと思います。





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Last updated  2019.05.08 06:35:17
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kurokawa@ Re:感情と行動を分離して行動する(11/11) New! 申し訳ございません。生涯森田様でした。
kurokawa@ Re:感情と行動を分離して行動する(11/11) New! 障害森田様 この記事の中で「心とは裏腹…
楽天星no1 @ 早速のご返事感謝 森田生涯さんへ 早速のご返事ありがとう…

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