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.rtfデータには往生こいているので、画像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、画像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************図書館で『ポケットに外国語を』という文庫本を、手にしたのです。下手の横好き外国語といえば・・・俺のことか?と思う大使でおます♪【ポケットに外国語を】黒田竜之助著、筑摩書房、2013年刊<「BOOK」データベース>より世界に通用するために外国語を勉強しなければ!そんな気持ちを脱力させて、言葉本来の面白さを感じ取りたい。古本屋で知らない外国語のテキストを買ってみたり、時には現地にいってみたりとあちこち思考をめぐらした結果がこのエッセイに詰まっている。しかも、外国語をもっと楽しく勉強したい人へ向けたアドバイスとして読める。文庫化に際して未収録作品多数!<読む前の大使寸評>下手の横好き外国語といえば・・・俺のことか?と思う大使でおます♪rakutenポケットに外国語をロシア語へのアプローチが語られているので、見てみましょう。p211~215<モスクワ、シベリア> 友人の管啓次郎さんがエッセイ集を出した。『ホノルル、ブラジル』(インスクリプト、2006年)は、わたしにとって特別な本である。最後にわたしとの対談が収録されているからだ。 対談はかつて、雑誌「UP」2004年12月号に「夜明けのロシア語、黄昏のポルトガル語」と題して発表された。同じ職場で英語教師をしている二人が、ロシア語やポルトガル語の魅力、さらにことばと文化について話し合うといった企画だった。この対談が再録されたことにより、『ホノルル、ブラジル』はわたしにとって、自分の本ではないのだけれど、自分の本でもあるという、不思議な存在になった。 管さんはよき友人であるが、趣味や好みについてはわたしとだいぶ違う。それはこのエッセイ集の題名からも分かる。ホノルルにもブラジルにも、わたしは行ったことがない。さらに副題が「熱帯作文集」というのだが、これは気温40度のアリゾナが快適という彼にこそ相応しいが、暑いのが苦手な者には思いもつかない語結合だ。わたしだったら、きっと「ツンドラ作文集」になるはずである。 あるとき彼が「ボクのやっぱり好きなもの」として犬、ゴルフ、そして英語の三つを挙げた。これもことごとく違う。わたしは犬よりもウサギが好きだ。ゴルフはやったこともないし、スポーツだったらスキーのほうがいい。そして英語については、好きといえるほど素直になれない。 じゃあ菅さんの英語に対して、黒田はロシア語なのかと問われると、それも迷う。実のところ、これは長年悩み続けてきた問題なのだ。 それでも、対談はわたしがロシア語を語り、菅さんは英語ではなく、ポルトガル語を語ることから始まった。 そもそも、わたしのロシア語はまったくの偶然である。中学二年生のころ、テレビのロシア語講座を見ていて、こういう文字が書けるようになったらいいなあという、ごく軽い気持ちが始まりだ。 一方、菅さんはポルトガル語にたどり着くまでに少し時間がかかる。英語の大好きだった少年が、大学でフランス語、それからスペイン語を経て、ポルトガル語を始めるのは24歳のとき。だが年齢は重要ではない。それよりも彼が小学生の頃に持っていたポルトガル語のイメージが「葡萄のことば」だったというのが面白い。 ポルトガルを漢字で書けば葡萄牙となり、それは当て字で意味がないといえばそれまでだが、そういうイメージは大切にしたい。ロシア(露西亜)だって「露のことば」というイメーイが膨らむ。中学二年生でロシア語を始めたわたしには、そのときロシアという露がキラキラと光り、心に染み透っていたのかもしれない。 詩的な菅さんは詩人フェルナンド・ペソアにのめりこむが、散文的なわたしはキエフ・ルーシ史に興味を持つ。20代半ばでいきなりブラジルに飛びこんでいく菅さんは、中学生の頃すでにアメリカでホームステイを体験しているが、わたしはといえば海外長期滞在が未だに実現できていない。あまりにも違う二人の方向。 だが、奇妙な共通点がここで浮かぶ。菅さんもわたしも、活字の人なのだ。「簡単な本の多読は外国語学習の王道だよね」と語る菅さんに、わたしは百パーセント賛成。そう、ブラジルに行ったからって、それだけで言語が上達するはずがない。彼はむずかしくない本をせっせと読んだ。これはわたしも実践している。日本だけでなく海外でも、簡単な本をたくさん読んでことばを滑らかにしていく。ずいぶん違うように見えた二人の外国語へのアプローチ方法が、ここで接点を持った。 どうして活字なんだろうと疑問に思うわたしに、菅さんはある答えを示す。「人の心がことばでできている以上、生身の人間にもかならずその背後にはあるまとまったアーカイブ(文書群)がある。それには、文字に頼る以外の接近の仕方はない」。ことばを表面的なものとして軽視したがる人たちに対するこんな反論があったのかと、わたしは素直に驚く。彼のいう通り、人は表面に出ないものを、いっぱい抱えこんでいるはずではないか。 活字というのは本には限らない。新聞の家庭欄やCDの歌詞カードだって、外国語を楽しむために必用なアイテム。話題はさらに映画やインターネットへと広がる。インターネットは言語マイノリティーが主張するのに格好の手段なのだが、その際にどの言語で発信するか、つまり自らの固有言語を選ぶか、あるいは多くの人が分かるメジャー言語にするか、という問題に突き当たる。 ここで菅さんは「アンブレラ言語」という概念を提唱する。(中略) 「あるアンブレラ言語の中にいる小言語の使い手が、ひょいといたずら心で一つの傘を飛びだし、別の傘の下に身を移してみる。あるいは別の傘の下にいる誰かといきなり直接接触する。そういう無根拠な接続が、いちばんおもしろいと思う」 これはわれわれ二人のことだ。わたしたちが多言語に惹かれるのは、一つの傘を飛び出して別の傘の下に身を移してみたいという、ほんのいたずら心なのである。おもしろがっているのに過ぎない。何かがおもしろくなければ、外国語なんてだれも勉強しないはず。『ポケットに外国語を』2:にぎやかな言語学『ポケットに外国語を』1:サマセット・モームの「外国語学習小説」
2026.08.31
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.rtfデータには往生こいているので、画像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、画像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************図書館に予約していた『ドードーをめぐる堂々めぐり』という本を、待つこと5週間ほどでゲットしたのです。ざっとめくってみると、カラー画像が思いのほか多くて・・・ええでぇ♪【ドードーをめぐる堂々めぐり】川端裕人著、岩波書店、2021年刊<「BOOK」データベース>より江戸時代初期のこと。『不思議の国のアリス』や「ドラえもん」にも登場する絶滅鳥ドードーが、日本に来ていたらしい!400年の時を超え、その後の行方を追って、四国へ長崎へ、チェコ、イギリス、オランダへ…ついにはモーリシャス島に這いつくばり生命のワンダーに分け入る!日本史と西洋史、博物学と生物学の間を行き来する旅に、ご一緒しましょう。<読む前の大使寸評>ざっとめくってみると、カラー画像が思いのほか多くて・・・ええでぇ♪<図書館予約:(1/09予約、副本4、予約6)>rakutenドードーをめぐる堂々めぐり『第1章 日出づる国の堂々めぐり』でドードーの出島上陸を、見てみましょう。p27~29<「ラスト・ショーグン」の孫が可能性を指摘していた> ドードーの生息地だったモーリシャス島は、オランダ船がアジアに来る祭の中継点であり、途中でドードーを載せてきても不思議ではない。事実、オランダ船はしばしば動物を伴って来日した。 蜂須賀は、この書簡に言及した上で、「当時の日本において、ヨーロッパの船が来たのは長崎が最も確からしい。そこで、長崎図書館のⅯr.R.Ⅿasudaに問い合わせたところ、ドードーについてのいかなる情報も追跡不可能と回答があった」と報告した。 そして、日本人である蜂須賀が調べてもわからなかったのだから、この件はきっと「迷宮入り」だろう、と多くの関係者が思ったまま、半世紀以上が過ぎた。2014年の「論文」の著者の一人である当のヒューム自身も、2006年の時点でドードーの歴史を振り返った論文では「バタヴィアから日本へと生きたドードーが送る準備がされていたが、それが実行されたのかどうかは今となっては確かめようがない」と書いている。 しかし、それが確かめられた! というのが、今回の発見だ。<「商館長日記」や会計帳簿に記される> さて、「論文」によると、オランダ商館長が代々、書きつないだ“daghregister(日記)”、“facturen(目録)”、“negotie journaal(会計帳簿)”といった文書の中にドードーが記載されていた、という。蜂須賀が長崎県立図書館に問い合わせてもわからなかったのも当然だ。ドードーの受け取り手は、日本人である前に、まずは現地の東インド会社の社員だったわけで、その記録は日本の図書館ではなく、本国に回収されて保管されていた。 最も需要な文献である「商館長日記」(daghregister)の書き手は、商館長フルステーヘン。彼が所属するオランダ東インド会社が派遣したヨンゲン・プリンス(Jongen Prins)号が長崎にやってきて、それを受け入れるところから話が始まる。この船には時期商館長であるフレデリック・コイエット(Fredrik Coyet)が乗っていた。フルステーヘンにとっては自分がバタヴィアに帰任する時に使う船でもある。 「論文」では、ヨンゲン・プリンス号がやってきた1647年8月29日からフルステーヘンの日記を日毎にまとめたり、ときには訳出して引用している。以下、その時系列に沿って紹介するが、逐語的に訳して示す場合は「論文」からの重訳ではなく『日本関係海外史料 オランダ商館長日記 譯文編之十』(東京大学資料編纂所)の訳を採用する。(中略) この時、舟に載せた物品の「目録」と「会計帳簿」の双方にドードーの記述があるというのが、ウィンターズらの最初の大きな発見だ。 いずれの場所でもドードーは他の一般的な荷物とは別枠として扱われている。(中略) もう一方の「会計帳簿」の方にも、シカとドードーが挙げられて、例外的に値段が記入されていない。つまり、商取引の材料というよりも、むしろ、高い地位の人に贈る目的だったと考えられる、と「論文」では述べている。『ドードーをめぐる堂々めぐり』3:出島ドードーの「発見」『ドードーをめぐる堂々めぐり』2:『不思議の国のアリス』のドードー『ドードーをめぐる堂々めぐり』1:絶滅鳥類の代表
2026.08.29
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.rtfデータには往生こいているので、画像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、画像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************図書館で『星の王子さまのはるかな旅』という本を、手にしたのです。ちょっと古い大型本であるが・・・美しいヴィジュアル版で、内容も充実しています。【星の王子さまのはるかな旅】山崎庸一郎監修、求龍堂、1995年刊<「BOOK」データベース>より物語の忘れられない場面の数々に、作家であり飛行家だった著者サン=テグジュペリの、ロマンに満ちた感動的な生涯を重ねあわせながら、『星の王子さま』の世界を旅する一冊。フランスとモロッコに取材した撮り下ろしの写真と、魅力的な執筆陣により、読者の〈夢〉を裏切らない美しいヴィジュアル・ブックが完成した。 <読む前の大使寸評>ちょっと古い大型本であるが・・・美しいヴィジュアル版で、内容も充実しています。amazon星の王子さまのはるかな旅序章「星の王子さまへのオマージュ」を見てみましょう。p9~12<星の王子さまへのオマージュ:池澤夏樹> まず、簡単な疑問からはじめよう。『星の王子さま』は本当に子供の本だろうか? 作者のサン=テグジュペリがこの本を子供の読者のために書いたことはまちがいない。語り手であるパイロットが登場してウワバミに呑まれたゾウの絵をはじめる前に、この本をレオン・ウェルトにささげるという言葉があり、その後には、献辞の相手が子供ではなく友人とはいえ一人の大人であるわけを子供たちに説明する文章が続いている。 本当は子供たちの本なんだけれど、いろいろ事情があってこういうことになったと言った上で、献辞は「子どもだったころのレオン・ウェルトに」と書き改められる。あくまでも子供の本、大人は入ってはいけませんと言わんばかり。 しかし、この本はずいぶんむずかしいのだ。これは、むずかしいから子供にはわからないという意味ではない。この本の中には子供にわからない言葉、子供が知るべきでない話は何一つない。 だが、これは退屈な子供が夢中になって読んで、わかったと思って、そのまま忘れるような本でないことはまちがいない。読み捨てるわけにはいかない本。これを読んだ子供は何度となくこの本へ帰ってくる。それを繰り返すうちに少しずつ大人になってゆく。(中略) こうして、星から星への旅をつづけてきた王子さまは地球に降りたつ。その場所は砂漠、サン=テグジュペリが最もよく知っている地形である。彼は一度アジアへの長距離飛行の途中、リビア砂漠に墜落した体験がある。その時のことがそのまま王子さまとの出会いの場面に使われている。そう、彼ら二人は共にこの砂ばかりの地へ「天から」来たのである。 この本の中の地球はどこかおかしい。だいたい人がほとんど出てこない。王子さまが降りたところが砂漠だった以上、ヘビが言うように「砂漠にゃあ、だあれもいない」のは当然だろう。その後で彼が会った花は、人間は6、7人はいるだろうと言う。「かれこれ20億人の大人」が住んでいるはずの地球なのに、寂しいかぎりだ。 そして、この印象は最後まで変わらない。王子さまは1年の間この大きな星に滞在したけれども、その途中で人がたくさん住んでいる地域で暮らした形跡はまったくない。サン=テグジュペリは都会が好きでなかった。がらんとした何もない地形の上を飛びつづけた飛行士が都会に帰ってきた時の雑踏の中の寂寥感を、彼は『南方郵便機』に書いている。『星の王子さまのはるかな旅』2:砂漠の王さま『星の王子さまのはるかな旅』1:星の王子さまが生れたところ
2026.08.28
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.rtfデータには往生こいているので、画像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、画像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************このところ、デジタル庁の河野大臣がマイナンバーカードの不調について毎日のように謝罪しているが、想定内なのでいっこうに驚かないのです。・・・ということで、『デジタル・ファシズム』を復刻して読み直してみたい。*********************************************************図書館に予約していた『デジタル・ファシズム』という新書を、待つこと3ヶ月半ほどでゲットしたのです。堤さんは、新設された「デジタル庁」を利権の館と喝破しているが・・・現在の政府と官僚が主導するなら、さもありなんと思うわけです。【デジタル・ファシズム】堤未果著、NHK出版、2021年刊<「BOOK」データベース>より行政、金融、教育。国の心臓部である日本の公共システムが、今まさに海外資本から狙われていることをご存知だろうか?コロナ禍で進むデジタル改革によって規制緩和され、米中をはじめとする巨大資本が日本に参入し放題。スーパーシティ、デジタル給与、オンライン教育…いったい今、日本で何が起きているのか?気鋭の国際ジャーナリストが緻密な取材と膨大な資料をもとに明かす、「日本デジタル化計画」驚きの裏側!<読む前の大使寸評>堤さんは、新設された「デジタル庁」を利権の館と喝破しているが・・・現在の政府と官僚が主導するなら、さもありなんと思うわけです。<図書館予約:(10/04予約、副本5、予約40)>rakutenデジタル・ファシズム「第4章 本当は怖いスマホ決済」でベーシックインカムが語られているので、見てみましょう。p136~140<Go Toトラベルとデジタル給与の共通点> デジタル給与は選択制だ。最初はそれほど普及しないだろう。 だがそれは入り口に過ぎない。 最初は選択制でも、キャッシュレス比率80%という目標を達成するために、政府が今後様々な分野をキャッシュレス化して外堀を埋めていく中で、デジタル給与を選ぶ人の割合は増えてゆくだろう。 思い出して欲しい。 日本の規制緩和の合い言葉が、「小さく生んで大きく育てる」であることを。 あらゆる分野のルール変更が、全てをデジタル化するという政府の目標に向かって着々と進んでいるのだ。 デジタル給与はトップバッター。 次に控えているのは「〇〇ペイ生活保護」や「〇〇ペイ年金」あたりだろう。 ATMで並ばずに済む程度の利便性と引き換えに、私たち国民の大切な資産や個人情報、この国を支える中小企業や飲食店、地域を支える地方銀行などを差し出すほどの価値は、果たしてあるだろうか?<危険すぎる竹中平蔵式「ベーシックインカム」>「毎月7万円ほど支給すればいいんですよ」 2020年9月にパソナグループの竹中平蔵会長がテレビでこう発言し、ネットで大炎上したのが、毎月決まった額を全国民に給付する「ベーシックインカム論」だ。「7万円で生活できるのか」という疑問や「一定以上の収入がある人から後で回収するならベーシックインカムではない」などの指摘に加えて、そもそもベーシックインカムを入れること自体の是非を問う声が出たが、問題の本質はこの制度を今の日本に入れることで一体何をめざしているのか、という政府の青写真にあるだろう。 中国を訪問した時に大きな感銘を受けたという竹中氏は、スーパーシティとキャッシュレスをセットで日本に導入するために尽力中だ。以前からあちこちで提唱している、この「竹中平蔵式ベーシックインカム論」の先にあるイメージもまた、中国の成功例が色濃く反映されている。 国全体のデジタル化を急速に進める中国では、前述した「信用スコア」の点数によって、受けられる公共サービスに差がつけられる。政府が好ましくないと判断した人物は、デジタル化した中国社会でまともに暮らせなくなると党幹部が公言するほどに、信用スコアは完全管理型社会のツールとして効果が高い。 デジタルは、ボタン一つで簡単に人の行動を止めることができる。 現金ではないのでタンス預金もできない。それゆえデジタル化とベーシックインカムがセットになると、国民は生きる術を政府に強く依存することになってしまう。蛇口を開けるのも閉めるのも政府が握ることになるので、反政府の暴動は減ってゆくだろう。 現に中国では、政府が導入した信用制度とキャッシュレスの組み合わせを導入して以来、国民の“お行儀”が格段に良くなったと言われている。信用スコアが落ちると社会的サービスへのアクセスが経たれ、まともに暮らしていけなくなるからだ。 日本でもPayPay銀行が個人の信用スコアを企業に販売し始めており、2021年5月に成立したデジタル改革関連法では個人情報保護法が緩められ、これからは思想信条や犯罪歴、病歴などのセンシティブな個人情報も次々にデジタル化されてゆく。『デジタル・ファシズム』4:忘れられる権利『デジタル・ファシズム』3:第4次産業革命『デジタル・ファシズム』2:デジタル庁、三つの特徴『デジタル・ファシズム』1:利権の館「デジタル庁」
2026.08.27
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.rtfデータには往生こいているので、画像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、画像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************挿絵とか挿絵本が好きなので・・・『アール・デコの挿絵本』という本を復刻して読み返してみようと思ったのです。*********************************************************図書館で『アール・デコの挿絵本』という本を手にしたが・・・版画と造本に触れていて、大使のツボをクリーンヒットしているのです。それになにより、彩色挿絵の頁が多くて、きれいな本になっています。【アール・デコの挿絵本】鹿島茂著、東京美術、2015年刊<商品の説明>より■1920年代前後に登場したアール・デコの豪華挿絵本は、モード・ジャーナリスム隆盛を背景に、優れたイラストレーターや版画職人、裕福な購買層に支えられ、手間暇かけて少部数出版されたため、今日では稀覯本としてコレクター垂涎の的となっている。■本書は、イラスト、活字組版、複製技術、アート・ディレクションが一体となって生まれる総合芸術の魅力を、さながら実際にページを繰るがごとく、表紙から奥付まで、造本上の部位毎に項目をたて、役割や特色を、名作から厳選した実例を添えて解説。また、バルビエ、マルティ、マルタン、ルパップの挿絵本の中から、その世界観をじっくり味わえる傑作をテーマ別に多数紹介。<読む前の大使寸評>版画と造本に触れていて、大使のツボをクリーンヒットしているのです。それになにより、彩色挿絵の頁が多くて、きれいな本になっています。Amazonアール・デコの挿絵本挿絵本といえば版画との関係が深いが、そのあたりにふれたところを見てみましょう。<ポショワールと板目木版>よりp92~94 アール・デコの挿絵本を支えた二つの版画技術ポショワールと板目木版。一流のイラストレーターと卓越した技術をもつ職人との幸福な出会いが、後世まで語り継がれる見事な挿絵を生み出した。■ポショワール 現代のように写真製版によって、原画を複製する技術が未熟だった20世紀初め、一流のイラストレーターたちが多用したのがポショワール技法だった。版画職人ジャン・ソデによって完成されたこの技術によって、鮮やかな色彩表現となめらかで均一な彩色が可能となった。■板目木版 木材を縦割りにした板を使う板目木版は、木目を効果的に生かして、シンプルながら大胆な表現が可能な版画技法。1922年、ジョルジュ・バルビエが初めて板目木版による複製技法で制作した『チビリスの歌』は、浮世絵の研究によって独自の技術を開発した彫り師であり刷り師のF=L・シュミットの手によって、造本芸術史上に残る大傑作となった。この本でもジョルジュ・バルビエの挿絵を多数紹介しているけど・・・ええでぇ♪ネットでジョルジュ・バルビエの画像を探してみました。ジョルジュ・バルビエの画像より
2026.08.26
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.rtfデータには往生こいているので、画像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、画像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************図書館で『恋する文化人類学者』という本を、手にしたのです。副題が「結婚を通して異文化を理解する」となっているが、著者の鈴木さんは如何なる恋をしたのか?・・・興味深々である♪【恋する文化人類学者】鈴木裕之著、世界思想社、2015年刊<「BOOK」データベース>よりこれは恋の物語であり、異文化交流の物語である。アフリカで、著者は彼の地の女性アイドル歌手と恋に落ちた。結婚式は、8日間にわたる壮麗なものだった。激しい異文化の渦に巻き込まれた著者が、自らを素材に語る体験的入門書。ラヴ・ロマンス風文化人類学入門。<読む前の大使寸評>副題が「結婚を通して異文化を理解する」となっているが、著者の鈴木さんは如何なる恋をしたのか?・・・興味深々である♪rakuten恋する文化人類学者「第6章 結婚式」で著者の派手婚を見てみましょう。p148~150<1 長ーい結婚式>■1—1 派手婚のはじまり 地味婚、派手婚、パーティー婚・・・結婚式にもいろいろあるが、私が望んだのは地味婚であった。それには理由がある。 当時、私はアビジャンのストリート文化の調査をしていたのだが、ひとつ不安に思うことがあった。ストリート・ボーイにもさまざまなタイプがある。いきなり現れて自分たちの生活について根ほり葉ほり質問してくる私を、極東からわざわざ来てくれた友人として迎え入れてくれる者もいれば、正体不明の怪しげなアジア人としてこころよく思わない者もいる。 もし後者のタイプのストリート・ボーイが私の結婚のことを知ったら、「いっちょ、邪魔してやろうか」などという邪悪な考えにとりつかれ、結婚式を妨害したり、あるいは花嫁の親族に危害を加えかねないのではないか。そのことをニャマの父親に相談したところ、たしかにそのとおりだ、ということで、親しい親族だけに声をかけ、できるだけ地味婚にしよう、という話に落ちついた。だが、私は大切なことを忘れていた。そう、アフリカ人の人々はおしゃべりなのだ。とりわけグリオは。 それから数日後、アビジャンの街を闊歩していると、ある新聞の一面が私の目に飛びこんできた。アビジャンでは通りに面したキオスクなどで新聞が売られることが多い。その際、日本の駅の売店に並ぶスポーツ新聞のように各紙の一面を目立つ目立つようにずらりと並べる。通行人は一面の大見出しや写真を見て、読みたい新聞を買っていくのだ。 それらのなかの一紙にニャマのグループ<レ・ゴー>の写真が載っていた。「またコンサートでもあるのかな」と思いつつ見出しを拾い読みした私の顔から血の気が引いてゆく。なんとそこに書かれていたのは、「ニャマが日本人と結婚 その名はスズキ」というものであった。 つまりはこういうことである。花嫁の側が親族会議を開き、結婚の申し込みから受諾までの経緯と結婚式の日取りが伝えられた。各人はその日に向けて準備を開始するのだ。親族会議の最後に地味婚についての説明があったのだが、もうかれらの気持ちは結婚式に飛んでいってしまっている。 あのアイドル歌手のニャマが、結婚、しかも国際結婚なんだって。各人が自宅に戻って家族に、隣近所に、友人知人に吹聴する。それを聞いた者が同じことを繰り返す。三日もすれば、もうアビジャン中のジュラ社会の隅々にまで話がゆきわたる。当然そのなかにはジャーナリストもいるだろう。彼らがこんな特ダネを放っておくはずがない。かくしてわれわれの結婚に関する第一報が報じられ、私の地味婚作戦は見事に失敗。ここに派手婚の膜が開かれたのである。■1—2 八日間のセレモニー 前章で述べたように、私の結婚式は8月19日の月曜日から8月26日の月曜日まで、なんと八日間もかけてとりおこなわれた。本章では、この長い結婚式のプロセスを紹介し、それを人類学的に解釈してみようと思う。祖のまえに、結婚式会場について説明しておこう。 会場の中心となるのは花嫁の実家とその前の道路。結婚式のあいだ道路は通行止めとなり、即席の屋外結婚式会場となる。ここで太鼓にあわせて出席者が踊り、グリオの歌声が響きわたる。家の中庭では女たちが炊きだしに精をだし、主だった出席者や遠路はるばるやってきた親族などに食事が振る舞われる。そして家のなかでは花嫁を中心とした儀礼がとりおこなわれる。 ここで一つ、結婚式会場に関する驚くべき決まりを紹介しておこう。それは、花婿はけっして会場に近づいてはいけない、というものである。万が一、隠れて近づいたのがみつかたりしたら、罰金ものだという。主役の片方が排除されるとは、いかなる結婚式なのだろう。『恋する文化人類学者』3:結婚にいたる道『恋する文化人類学者』2:いかにして文化人類学者になるか『恋する文化人類学者』1:恋人の素性
2026.08.25
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.rtfデータには往生こいているので、画像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、画像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************図書館で『タンジール・海のざわめき』という本を、手にしたのです。モロッコのタンジールという町にカスバがあるわけで・・・大使にとって、とてもエキゾティックに響くわけです。ジブラルタル海峡に面した町であるが、砂漠が感じられるのがまた、ええでぇ♪【タンジール・海のざわめき】ダニエル ロンドー著、河出書房新社、1993年刊<「BOOK」データベース>より地の果ての夢の町、タンジール紀行。ボウルズ、バロウズ、ジュネ、ケルアック、ギンズバーグ、カポーティ、そしてドラクロワ、マティスなど、欧米の数多くの芸術家たちを魅了したモロッコの港町タンジール。この「生者たちの国」の魅力を、人々の簡素な暮らしぶりと美しい自然の描写のなかに描く。<読む前の大使寸評>モロッコのタンジールという町にカスバがあるわけで・・・大使にとって、とてもエキゾティックに響くわけです。ジブラルタル海峡に面した町であるが、砂漠が感じられるのがまた、ええでぇ♪amazonタンジール・海のざわめきモロッコのラクダボウルズやこの本の著者ロンドーの魅力について「訳者あとがき」を、見てみましょう。p203~205<「訳者あとがき」> ボウルズが「生者たちの国」と呼んだアフリカの港町タンジールは、18世紀中葉に完全にアラブの支配下に入って以来、もっとも近いオリエントとして西欧の人びとを魅了してきた。 ヨーロッパ社会のモラルを逃れ、エキゾティズムを求めてやってきた作家や貴族、大富豪たち。「一度人を見失ったら二度と見つけられない」強烈な光線、それに引きつけられてきたのは画家ばかりではない。ロンドンの有名な探偵社ピンカートンは尾行訓練のために新人をタンジールに送りこんだ。地中海の入り口というタンジールの地の利のよさは海賊と密貿易人を呼び集め、国際管理地帯の存在がスパイに活躍の場を与えた。そこはまたいかがわしい金融取引の舞台ともなった。 画家たちはタンジールを絵画にし、作家たちはタンジールを背景に小説を書き、旅行記を残した。タンジールに関する著作は数限りなくある。 そんな多くのタンジール本のなかで本書に際立つ特徴は、見方によっては西欧中心主義、あるいは新植民地主義とも取られかねない視点を完全に脱し、なおかつ第三世界への甘ったるい思い入れにも流されていない点である。タンジールに移り住んだ欧米の文化人や富豪のエピソードは、彼らが多かれ少なかれ自分の文明によって傷つき、そこからはみ出した人たちであるだけに、確かに興味深いし、考えさせられるところも多い。 しかしそれはまた、彼らの奇矯な振る舞いに関心を集中させることにもなり、歓楽と悪徳の都タンジールという過去のイメージばかりが強調される。ロンドーは、こういった人びとについては最小限の言葉で語るに留め、現在へと眼を転じて、市井のごく普通の人びとを登場させる。「ここは百の歌、二百の歌がある」という郵便配達員、荒れ果てたヨーロッパ人墓地の管理人、笛の音で客をもてなすジャジューカの楽士・・・・彼らの簡素な暮らしぶりと自然の描写のなかに、「生者たちの国」の魅力が生き生きと浮かびあがる。 本書はまたフランス人好みの理屈が出てこず、長々と薀蓄を傾けるところもないという点で、まったくフランス的ではない紀行文である。この二百ページあまりの中で、ロンドーは自分の感情をあからさまに示すことが一度もない。有名無名の人びとの小さなエピソードの積み重ねと美しい風景描写だけで「ドリーム・シティ」タンジールの夢の雰囲気をみごとに創りあげているところに、本書独特の味わいがあり、ロンドーという書き手の非凡さがある。ウン この本はフランス人の書いた本にしては読みやすかったが・・・訳者がいうようにフランス的でないからであり、それは著者がジャーナリストだったからなんでしょうね。『タンジール・海のざわめき』2:タンジールの歴史『タンジール・海のざわめき』1:ナザレびとモラン
2026.08.23
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.rtfデータには往生こいているので、画像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、画像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************図書館で『タイワニーズ』という本を、手にしたのです。温又柔、余貴美子、陳舜臣、蓮舫など、この本が取り上げている在日台湾人がええわけです。【タイワニーズ】野嶋剛著、小学館、2018年刊<「BOOK」データベース>より日本は台湾を二度も捨てた。それでも彼らがいたから、強く、深くつながり続けた。在日台湾人のファミリーヒストリー。<読む前の大使寸評>温又柔、余貴美子、陳舜臣、蓮舫など、この本が取り上げている在日台湾人がええわけです。rakutenタイワニーズ陳舜臣は以前から気になる作家であったが、第5章でその足跡(つづき)を、見てみましょう。p242~245<二つの祖国> ジャーナリズムの人物考察においては生い立ちをたどっていくのがセオリーであるが、陳舜臣には、自らの過去や内面に関する内容が含まれる著書は少ない。 参考となるのは2003年に発売された単行本『道半ば』と、日経新聞で2004年6月に連載された「私の履歴書」である。ただ、いずれも前半生を語ったのみで、作家として大成してからのことは含まれていない。 この二つの文献資料に加えて、陳舜臣の長男で、フォトグラファーとして活動している陳立人と、陳舜臣の姪にあたり、兵庫県立大学で華僑研究を手がけている前出の陳来幸に、それぞれインタビューを行って彼の人生を辿ろうと思う。 陳立人は、現在、神戸にある「陳舜臣アジア文藝館」を主宰している。インタビューも陳舜臣の主な作品の現物や遺品などを展示している同館で行った。 陳来幸には、同じ神戸の華僑歴史博物館で話を聞いた。彼女がこれまでに発表した陳舜臣と陳家に関わる貴重な文献資料も提供してもらった。 陳舜臣の一族はもともと中国・河南省〇川に源を発する一族で、福建省から台湾に渡った移民の家系だった。陳家は、台北郊外の新荘というところで小作をやっていた。 陳舜臣の父・陳通はこの陳家32代にあたる。 陳通は、台北に支店があった神戸の商社「西村商店」の職員として働いていた。事務能力の高さが買われて1919年に神戸に転勤した。陳通にとっては、高齢となった父・陳恭和や妻を連れての来日であるから、それなりに「落地生根(移り住んだ土地で根を張って生きていくという意味)」の覚悟をもった渡日だったと思われる。 のちに陳通が独立して立ち上げた会社は泰安公司という名前で、神戸の華僑としては最も古い老舗に属している。 陳通は、9男3女と子沢山だった。それが男の存在価値を証明する時代でもあった。長男は早逝し、陳舜臣は小説を志し、前述のように、泰安公司は陳来幸の父で四男の迎臣が継承した。 記録上、陳舜臣は神戸で1924年に生まれたとされるが、陳立人によれば「日本に行く船の中で生まれたかもしれないとおばあちゃんが言っていました」という。子供の多い家庭には、当時の時代情勢もあり、あやふやなことも多かった。「私の履歴書」で陳舜臣は〈私は1924年に日本の神戸で生まれた。生まれた時から私はマイノリティの道を選んだ〉と書いている。〈家で使うことばと外で使うことばが違うのはなぜか? おまえは台湾人だからだ。では台湾人とは何か?〉〈作家としての原点がそこにあると思う〉 この点に対する陳来幸の解釈はこうだ。「幼いころから家の『中』でしゃべる言葉が通じない『外』の世界、つまり『二つの世界』の存在を意識し、差別には敏感であったのでしょう」 鋭敏な感性を持つ子供は、得てして寡黙になる。陳舜臣も子供のころは口数も少なく、引っ込み思案だった。本人も「小さいときから体が弱く、運動するとすぐ骨を折ったりしてましてね、それで外に出るのが嫌いで、本を読むのが好きだった」と述べている。 神戸市立諏訪山尋常小学校に通った陳舜臣は教師から「日本語わかるね?」と尋ねられたこともあった。そのころに陳舜臣はすでに日本語のほうが台湾語より上手かった。 ただ父の陳通は、幼い陳舜臣に対して、中国の古典をひたすら声を出して読み上げる「素読」を命じている。つまり漢学の素養を身につけていた。のちに作家として中国語の原典にあたるうえでどれだけ有益だったかは想像に難くない。 戦前の神戸には、中国大陸系と台湾系が両方、日本社会の一部として混じわりながら暮らしていた。生まれた環境がすでに、台湾、中国、日本という複雑性に包まれていたのだ。複雑な環境での成長は、時に人の才能を刺激する。 複雑な社会のマイノリティである「台湾人」の真実を問いかける思いが、自分の作家人生の根っこにあることを、陳舜臣も明確に意識していたことがわかる。『タイワニーズ』2:陳舜臣『タイワニーズ』1:温又柔
2026.08.21
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.rtfデータには往生こいているので、画像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、画像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************「ブレード・ランナー」や「スター・ウォーズ」なんかのSF映画が私のツボなので・・・『SF映画術 』という本を以下のとおり復刻して読み直してみましょう。*********************************************************図書館で『SF映画術』という本を、手にしたのです。副題が「ジェームズ・キャメロンと6人の巨匠が語るサイエンス・フィクション創作講座」となっていて興味深いのだが・・・創作講座というよりもSFが大好きな巨匠たちによるSF賛歌になったような本になっています。画像も多くてビジュアルなところもいけてます。【SF映画術】ジェームズ・キャメロン著、DU BOOKS、2020年刊<「BOOK」データベース>より映画『月世界旅行』(1902)からドラマシリーズ『ストレンジャー・シングス 未知の世界』まで。映画、小説、ドラマ、神話…各巨匠が自身のインスピレーション源を語り尽くす。知られざる「フォース」の正体とは!?ここでしか語られていない、驚愕の映画制作の舞台裏も。<読む前の大使寸評>副題が「ジェームズ・キャメロンと6人の巨匠が語るサイエンス・フィクション創作講座」となっていて興味深いのだが・・・創作講座というよりもSFが大好きな巨匠たちによるSF賛歌になったような本になっています。画像も多くてビジュアルなところもいけてます。rakutenSF映画術「LESSON5 美しきモンスター」でリドリー・スコットとジェームズ・キャメロンが「ブレード・ランナー」、「エイリアン」などについて語っているので、見てみましょう。p234~237<雨の中の涙のように> 広告業界で数多くのCMを制作していたリドリー・スコットは、映画監督に転向後、1979年のスペースホラー映画『エイリアン』でSFジャンルに大改革をもたらしたが、それ以前に撮った長編映画は、1977年の『ヂュエリスト/決闘者』のたった1作だった。 美大出身の画家的な視点を持つスコットは、宇宙船ノストロモ号の天井の低さや通路の狭さを、平面も角度も細部まで手を抜かずに表現したのだが、そこには、ある計算があった。悪夢のような捕食者が解き放たれ、何も知らない乗組員に忍び寄る前に、閉所恐怖症的な感覚をしっかりと観客の中に植えつけていたのだ。 エイリアンの成体ゼノモーフが黒い身体を怪しく光らせ、新たな獲物を求めてさまようとき、シガニー。ウィーバー演じるエレン・リプリーは勇気を奮い起こす。その危険な存在に対峙するため、そして生き延びるために。 スコットの次なる作品は、未来の捜査官リック・デカード役にハリソン・フォードを起用した1982年の『ブレードランナー』だったが、彼は再び、SF映画のスタンダードのレベルを引き上げてしまう。そのアイデアはあまりにも時代を先取りしていたため、『ブレード・ランナー』の精神はその後何年も経ってようやく評価されることになった。それでも、スコットはハリウッドを象徴する存在であり続けた。 彼は、驚くほど多才かつ多産なフィルムメーカーで、視覚芸術家としての素晴らしい才能を思い存分作品に注ぎ込み、誰も見たことないほど美しい銀幕の映像を創り上げていく。しばらくSFから離れていたスコットだったが、『プロメテウス』(2012)と『エイリアン:コヴェナント』(17)で、最近同ジャンルに戻ってきている。この2作は、彼が誕生させた『エイリアン』ワールドの前日譚。さらに、『オデッセイ』(15)は、火星に取り残された宇宙飛行士が生き延びる様を綴ったアンディ・ウィアーの小説「火星の人」(11)が原作で、アカデミー賞7部門にノミネートされた。 このインタビューで、スコットとジェームズ・キャメロンは、AIの危険性、映画史上最も偉大で息の長い人気を誇るモンスターであるエイリアン、『ブレードランナー』の最高に印象的なシーン(レプリカントのロイ・バッティが「雨の中の涙のように」と語るモノローグ)のメランコリックな美しさなどについて語り合う。■アッシュとレイチェル・・・理想的人造人間JC:私は年齢を重ねたら、あなたのようになりたいと思っているのです。今日も、その気持ちに変わりはない。あなたのように、エネルギーと映画に対するパッションを維持したい。あなたはひとつの作品が終わると、すぐに次の作品の撮影に入る。それが終わると、また次の作品・・・というように。そして、信じられないほど審美眼の持ち主だ。RS:結果として、たまたま、そういう道を歩んできただけだよ。私の人生プランは、プランがないことだからね(笑)。JC:今日ここに私たちが揃っているのは、ふたりともSFというジャンルが大好きだから。そして、私と同じく、あなたも子供の頃にありとあらゆるSF作品を観てきたはずだ。そもそもは、デザイナーとしてキャリアを始めたんでしたよね? 大学はロイヤル・カレッジでしたよね。RS:そう。ロンドンのロイヤル・カレッジ・アートでね。当時は娯楽といっても、我が家にテレビはなかった。1954年に初めて、イギリスの自宅にテレビが届いた。しかも、白黒テレビがね。だから、私は本をたくさん読んでいた。SF小説に夢中になったね。初めてのお気に入り作家は、H・G・ウェルズだった。宇宙ものには食指が動かなかったから、アイザック・アシモフに傾倒することはなかった。JC:アシモフは初期に、ロボット工学やロボット三原則に関する本を結構書いていた。あなたは『ブレードランナー』を作り、『エイリアン』シリーズでは第1作の他、『プロメテウス』と『エイリアン:コヴェナント』を監督した。それら全てに人造人間が登場するから、人造人間が出てくるあなたの監督作は4作品だ。RS:『ブレードランナー』のロイ・バッティはAIだが、大陸間弾道ミサイルだってAIだよ。あれがコンピュータで管理された爆弾だということを皆は忘れているようだけどな。コンピュータの美しさは、感情を持っていないということ。否定的な感情も肯定的な感情も、何も持っていない。『エイリアン』の1作目で、自責の念を持たないアンドロイドのアッシュが出てくるが、彼は、なかなか素晴らしいテーブルスピーチを行える、完璧なAIだ。自身の決断や選択を変えてしまうような感情的なものが全くない。JC:だが、あなたは『ブレードランナー』でレイチェルという感情を抱くAIを取り扱った。あれはラブストーリーだった(最後にはラブストーリーだとはっきりする)わけで、そう成立させるためには、彼女は感情を持っていなければならなかった。RS:レイチェルはパーフェクトなネクサス6型(レプリカントの最新モデル。安全装置として寿命は4年に設定されていた)だった。まあ、人間がそう呼んでいるわけだが。とにかく、エルトン・タイレル博士(タイレル社社長で、レプリカントを開発した科学者)が誇る最高傑作だった。彼女は白紙の自慢の種で、博士は、彼女がどこに行こうと誇らしげに見ている。JC:レイチェルは、“人間であることの意味”を常に学び、吸収し続けているという印象を受けました。彼女が人造人間だという結論を下すのに、デカードはすごく時間がかかっている。他の物ごとを決めるときの5倍の時間はかかっているんじゃないかな。だが現実の我々は、AIについての最も重要な問題をのらりくらりとかわしているような気がしてなりません。もし機械が人間に十分近づき、人間同様に複雑な思考をするようになったら、どの時点で、我々は彼らと人間の区別がつかなくなると思います?RS:AI開発を行う人間が本当に優秀であれば、絶対に機械に組み込まないもののひとつとして感情を選ぶはずだ。プログラムの方程式から、感情を除外する。感情は実に多くの様相を導く。愛情と同様に、欺瞞、憤怒、憎悪といったものまでもね。H・R・ギーガーが描くエイリアンについては『リドリー・スコットの世界3』がお奨めです。『SF映画術』3: 美しきモンスター 『SF映画術』2:錆び付いた「未来」『SF映画術』1:『スター・ウォーズ』という革命*********************************************************■2023.06.18
2026.08.18
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.rtfデータには往生こいているので、画像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、画像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************図書館で『三蔵法師が行くシルクロード』という本を手にしたが・・・・国名をドングリスタンとした大使は、この本が説くような西域に憧れるわけでおます。ちょっと、ジャンルは異なるが諸星大二郎が描いた西遊記の世界もええなぁ。【三蔵法師が行くシルクロード】菅谷文則著、新日本出版社、2013年刊<「BOOK」データベース>より「西遊記」の舞台をめぐるユニークな歴史発掘紀行。【目次】序 日本とシルクロード/1 玄奘三蔵(三蔵法師)とシルクロード/2 シルクロード探訪(東ローマの金貨/アフガニスタン/中央アジア/キルギス/シリア、イラク、イラン、ロシア/中原と匈奴/インド/ソグド移民/海の道)/3 シルクロード研究の今後<読む前の大使寸評>国名をドングリスタンとした大使は、この本が説くような西域に憧れるわけでおます。ちょっと、ジャンルは異なるが諸星大二郎が描いた西遊記の世界もええなぁ。rakuten三蔵法師が行くシルクロード西域記の日本への来着を見てみましょう。<死後も旅する玄奘三蔵>p18~20 1942(昭和17)年12月に日本軍が南京で玄奘の頂骨の納められた石棺を掘り出した。翌年2月23日に時の親日政権である汪兆銘・南京政府に引き渡され、その一部が2年後に日本側に分骨された。そしてさいたま市の慈恩寺に、玄奘の舎利塔として十三重石塔が建立され、丁重に祀られた。 玄奘が長安に帰着後に、太宗李世民の命により、インド・西域に関する書物を執筆し、646年7月13日に完成したものが、『大唐西域記12巻』である。玄奘が詳しく足跡を残した111国、伝聞した28国などに関する最新の状況を提供したものである。ちなみに『西遊記』はこれらを基に書かれた。 『大唐西域記12巻』が日本に伝来したのは、日本に戒律を伝えた鑑真(688~763年)が、754年に来着した時に持参した『玄奘法師西域記1本12巻』が最初であった。 玄奘の求法の経過と、その仏典の翻訳などの事蹟を記述した『大唐大慈恩寺三蔵法師伝10巻』があり、奈良の法隆寺、興福寺には古い写本が伝えられている。法隆寺には、法師などの足跡を知るための地図さえ残されている。 シルクロード地図、なかでも中央アジアの東部は、玄奘の足跡が色濃く残された地域である。私たち考古学徒は、そのルートを出土品や遺構からさぐり、玄奘がたどった以外のルートをもさがすことを目的に、中国から中央アジアを研究調査している。そのシルクロードから日本に伝えられたさまざまな文物をひもときながら、絹の道がもたらした文化を考えてみたい。玄奘さんの功績の一端を見てみましょう。<シャカの教えを広めた人々>p28~30 入竺、つまりインドの仏蹟に向かう僧の目的は、玄奘までの多くの僧は、経典の将来であったようである。もちろん、天竺や西域の経典は漢文ではなく梵語(サンスクリット)や、その他の多くの言語で書かれていたので、いわゆる語学の修得も大きい目的であった。 中国の仏教に関するテキスト、つまり経典は、先に記したクラマンジュー・鳩摩羅什などが翻訳した35部300余巻の旧訳経典に、玄奘が翻訳した74部1335巻の新訳がある。その違いの一例を記しておくと、観世音菩薩が旧訳で、観自在菩薩が新訳である。このためよく知られている般若心経の冒頭の経文は、『南無観自在菩薩・・・』である。ただし、観世音菩薩、略して観音は世に広く知られていたので、それが習慣的に用いられ、現在に至っている。(中略) 玄奘が伊吾(現在の新疆ウイグル自治区ハミ市)に至った日に、伊吾の仏寺に泊めてもらった。すると寺には漢人の僧が三人もいて、そのうちの老僧は、唐僧が来寺したことを知って、僧衣に帯も結ばず、裸足で飛び出してきて、玄奘に抱きついて、この年になって、再び漢人に会えるとは夢にも思わなかったといい、号泣した。 この伊吾は、のちに唐領となるが、この時は、高昌国と関係が深い胡国の国であった。 玄奘が伊吾に到着したのは628年と推定されている。唐朝の成立は、618年であるので、この老僧は隋か、あるいはその前の北周に中国から西に向かった僧であった。隋と唐は異境への旅を厳禁していたが、北周はかなりゆるやかであった。著者の菅谷さんが、白馬寺を訪ねています。<明帝の感夢と仏教伝説>p158~159 中国大陸の北部では儒の思想が孔子により誕生し、のちの宗教として儒教となる。一方、中部から南部では神仙説などが各地に種々のかたちで生まれ、のち道教となっていく。 現在の日本や韓国の仏教は、ともに漢文に翻訳された経典を用いているが、本来は北インドからネパールにおいて説法していたシャカの教えである。仏教がパミール高原を越え、あるいはヒマラヤ山脈やヒンズークシ山脈を越えて中国に、いつ、どのように入ってきたかは定説がない。 仏教の中国初伝について正史の記述は『後漢書』である。ただし、後漢書の編述は南北朝の宋(420~479年)の歴史家ハンヨウであるので、それ以前のさまざまな伝承が混在している。『後漢書』の記述は、後漢・明帝の感夢求法説といわれている。この記述と白馬寺伝説が結びつく。 「明帝が夢の中で神人が身体から光を放ち宮殿の前に飛来してくるのを見た。帝は大いに喜び、翌日群臣に、この神は何であるかと問うた」と『後漢書』にある。続いて明帝は使者を大月氏国に遣わして『42章経』を写させたという。そして宮外に寺を建て、洛陽城の城門の上に仏像を安置した。こうして国豊かに民はやすらかとなり、夷人も中国(後漢)を慕ったとある。最後は、儒の教えの帝徳を美化する場合の常套表現である。 白馬寺は、この時に建てられたという。白馬寺伝説では、42章経と仏の画像を白馬に載せて帰ったという。そこで寺を建て白馬寺といった。 仏教の確実な中国での始まりは、文献研究を中心とした研究法、磨崖に彫られた彫像の研究、石窟の壁画や題記からの研究、経典の漢文への翻訳史からの研究など、多方面で論じられているが、最終結論には至っていない。 実は、仏教を始めたブッダは、歴史上に存在したガウタマ・シッダールタの称号である。漢訳では釈迦牟尼と表現され、シャカといいならわされている。シャカは著述を残しておらず、弟子や信者の質問に答え、大衆のために説法をした。その亡くなったすぐあとから、その説法がまとめられ、現在の経典に受け継がれていく。 私が初めて白馬寺を訪れたのは1980年2月の寒い日で、ロウ海鉄道の白馬寺駅で下車して、寒々とした道をたどった。現在では参詣者のための食堂や土産店が軒を並べ、寺内にも香煙がたえることがない。 白馬寺の大門の左右には、赤く塗られた焼成レンガのセン積みのハの字に開く高い壁がある。よく見ると、すべて後漢の画像碑である。70年代の文化大革命期に古代書が破壊されて大量に出た墓セン(レンガ)の再利用であった。西遊妖猿伝西域編公式サイトより
2026.08.18
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.rtfデータには往生こいているので、画像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、画像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************<『キトラ・ボックス』>図書館に予約していた『キトラ・ボックス』という本を、待つこと3ヶ月ほどでゲットしたのです。新疆ウイグル自治区とキトラ古墳天文図とが、どう繋がるのか興味深いのである。【キトラ・ボックス】池澤夏樹著、KADOKAWA、2017年刊<「BOOK」データベース>より奈良天川村ートルファンー瀬戸内海大三島。それぞれの土地で見つかった禽獣葡萄鏡が同じ鋳型で造られたと推理した藤波三次郎は、国立民俗学博物館研究員の可敦に協力を求める。新疆ウイグル自治区から赴任した彼女は、天川村の神社の銅剣に象嵌された北斗が、キトラ古墳天文図と同じであると見抜いた。なぜウイグルと西日本に同じ鏡があるのか。剣はキトラ古墳からなんらかの形で持ち出されたものなのか。<読む前の大使寸評>新疆ウイグル自治区とキトラ古墳天文図とが、どう繋がるのか興味深いのである。<図書館予約:(4/19予約、7/05受取)>rakutenキトラ・ボックスキトラ古墳天文図この本の語り口を、ちょっとだけ見てみましょう。p19~20 讃岐大学文理学部の藤波三次郎准教授は院生を相手の「考古学演習2」の授業を終えて自分の研究室に向かった。 テーマは2年前に瀬戸内海のいくつかの島で行った高地性集落の発掘調査で出た遺物の分析と同定だった。 瀬戸内から畿内にかけて、定住には適さない標高2百メートル前後の高地に弥生時代中期の居住の跡が見つかっている。軍事的な目的と言われるがそのわりには長期の滞在が可能なように設備が調っている。時には槍が刺さったままの兵士の死体などという生々しいものが出てくる。 しかし藤波准教授が学生と分類しているのは兵庫県家島諸島男鹿島の遺跡の出土品で、もっぱら土器の破片という平和的な性格のものだった。残念ながら大発見の見込みは薄い。 自分の部屋に戻る途中、藤波准教授はエレベーター・ホールで社会学の宮本美汐にばったり出会った。研究室は同じ建物の3階と4階だからすれ違うのは珍しいことではない。 「三ちゃん、元気?」と美汐は気安く声を掛けた。 「ちょっと、それは軽すぎないかい、宮本先生」 「そうか。たしかに学内で三ちゃんはまずいか。では、その後いかがお過ごしですか、藤波先生?」 「それもわざとらしい」 この二人、しばらく前には恋仲だった。男の方が他に気を移して仲は壊れ、しかも彼は新しい相手にさっさと捨てられたのだが、だからと言って美汐との仲を回復させてもらえる筈がない。顔を合わせるたびにからかわれるのが関の山。それでも三次朗の私生活でもなく、彼の研究にまつわる話。なにしろ美汐は好奇心が強くてどんな話題にでも首を突っ込んでくる。専門は社会学で最近は「人間の安全保障」という分野に力を注いでいるらしいが、それが社会学とどう繋がっているのか三次朗には皆目わからない。いずれにしても美汐の社会学はずいぶん広い範囲の好奇心に駆動されるもののようだ。 「男鹿島の遺跡から・・・」 「その話はこのまえ聞いたよ。その後ですごい展開があった?」 「いや、そういうわけでもないが」 正直に言うと三次朗は美汐が苦手だ。元気がありすぎて、気が強くて、相手をしていても追いたてられるような気がする。ところで、この本を読んでいてわかったのだが・・・この本は『アトミック・ボックス』の続篇になっているのです。アトミック・ボックスより<原発と原爆の違い:永江朗> サラリーマンを辞めて漁師になった父が、臨終にあたって娘に託したのは国家機密だった……。 池澤夏樹の『アトミック・ボックス』は、機密ファイルを持った娘が公安警察に追われながら、父の秘密と謎を解いていくという冒険小説である。 スピード感あふれる展開が気持ちいい。読んでいるうちにヒロインの美汐とともに自分も駆けたり泳いだりしている気分になる。 追われる者と追う者という古典的な枠組みのなかで、扱われていることは今日的かつ壮大だ。 美汐の父は大学で数学を専攻し、コンピューターの専門家になった。メーカーで設計の仕事をしていたが、上司からの命令である極秘プロジェクトに参加する。それは国産の原爆をつくるシミュレーションだった。ところがプロジェクトは突然中止、チームも解散する。前後して父は自分が胎内にいるとき広島の原爆で被爆していることを知る。被爆者である自分が新たな原爆をつくろうとしていたという事実にショックを受けた父は、故郷に戻って漁師になっていた。やがて福島で原発事故が起き、父は癌になった。そして、原爆開発計画の証拠ファイルを、娘に託す決意をする。 登場人物たちの口を通じて語られる、核に関する情報や見解が、「考えろ」とぼくたち読者の背中を押す。「ずっと運転しつづける発電所に比べたら、出番を待って眠ったままの爆弾の方が作る方が気が楽さ」と極秘計画のスタッフがいう。核の連鎖反応をずっと続ける原発の方がコントロールが難しいのだ。 アメリカのスリーマイル島原発事故が1979年、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故が86年、そして東電福島第一原発事故が3年前。大きな事故だけでも、すでにこんなに起きている。「安全が確認されたものから再稼働」という言葉がいかに無意味であるか、ちょっと考えただけでもわかる。それなのに……。 ◇『アトミック・ボックス』池澤夏樹著、毎日新聞社、2014年刊<「BOOK」データベースより>28年前の父の罪を負って娘は逃げる、逃げる…「核」をめぐる究極のポリティカル・サスペンス!<大使寸評>池澤夏樹が、これほど面白く読める活劇をものにするとは、意外でした。ほぼ同時期に読んだ「コラプティオ」、「やっちゃれ、やっちゃれ!」と比べてみると、この本がいちばん面白く読めたのです。この3作品の優劣を比較するのはどうかとも思うが(笑)、ストリーテラーとしては池澤夏樹が優れているということでしょうね。rakutenアトミック・ボックスこの本も池澤夏樹の世界に収めておきます。
2026.08.13
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.rtfデータには往生こいているので、図像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、図像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************図書館で『明治の世相:ビゴー素描コレクション2』という大形本を手にしたのです。パラパラとめくると、日本人にとって辛辣なイラストに見えるが・・・どことなくユーモラスで優しいところもあるのです。【明治の世相:ビゴー素描コレクション2】ジョルジュ・ビゴ-, 芳賀徹著、岩波書店、1989年刊<「BOOK」データベース>より明治20年から23年まで、横浜居留地で刊行された『トバエ』は、当時の日本の世相を冷徹な眼力で描いたもので、その辛辣な政治諷刺は、ビゴーの諷刺画の最高傑作といわれている。『トバエ』を中心に220余点収録。<読む前の大使寸評>パラパラとめくると、日本人にとって辛辣なイラストに見えるが・・・どことなくユーモラスで優しいところもあるのです。rakuten明治の世相:ビゴー素描コレクション2p149~150<フランスから来た浮世絵師:芳賀徹> 『トバエ』を中心としたこの素描集を繰ってゆくと、ジョルジュ・ビゴーというのはまことに才気活発、あらゆる意味で「達者な男」だったことに、あらためて気がつき、感心する。 彼自身、『トバエ』では第一号の表紙にピエロ姿で登場するのをはじめ、ときどき思いがけないところに自分の顔を出している。他に水彩の自画像などもある。 それらを見ても、この絵師は日本人の生活と社会にぶしつけなほどの好奇心を向け、そのなにげない細部にまで鋭敏な眼を走らせ、日本人との少々のトラブルなどは持ち前の陽気さとフランス人としての優越感によってまたたくまに乗りこえてしまったにちがいないと思われる。少なくても画中に見えるところではそんな風な男だ。 18年の日本滞在中、後半になるとさすがに少し太ったようではあるが、それでも背は高くて高すぎず、顔は面長で眉は濃く、黒っぽい眼は丸く大きくれ、よく動きよく笑う。長くて高い鼻の下には濃い口ひげを生やしたり、剃ったりしている。艶のいい頬やもみあげのあたりからはいつもオー・ド・コローニュのいい匂いなどさせていたのではなかろうか。そんな風にも思われるほど、こざっぱりとして、身奇麗だ。(中略) 明治15年(1882)4月、来日して3ヶ月目に横浜で撮ったという侍姿の写真も残っているが、なかなかハンサムな優男に写っている。これではビゴーの身辺にさまざまな日本女性が出入りしたというのも、もっともだと思われる。作品から推しても彼自身かなりの色好みだったと思われるが、女のほうから眺めてもちょっと惚れたくなるような洒落者だったのだろう。 口にくわえている曲がったパイプをちょっとはずすと、たちまち軽快な早口のフランス語が飛び出し、それに片言の面白おかしい日本語や、ときに英語も混じったのにちがいない。男の眼は愉快そうにまた皮肉っぽく、いきいきと輝きながら・・・・。 このようなパリ生まれのパリっ児の才人が、1870年代の後半、ジャポニスムがいよいよさかんになるパリで、フェリックス・ビュオやエドモン・ド・ゴンクール、フェリックス・レガメなどと知り合いになり、日本に憧れてついに明治15年(1882)1月末、22歳の若さで横浜にやって来たのである。 そしてそれから明治32年(1899)6月、39歳で帰国するまで、前に記したように実に18年の間を日本で暮らした。 いわゆる文明開化時代の終りの頃から、自由民権と鹿鳴館の時代、そして憲法発布と日清戦争、またなによりも条約改正へと、内にも外へも揺れ動き、急速に変転する明治半ばから後半の日本列島の情景を、あのよく動く眼で上から下から、表から裏から、外国人の治外法権の特権を生かしながらも大概は斜めから、ほとんど絶え間もなく観察し、記録し、風刺をこめて描いていったのである。ビゴーのこの漫画集、石版素描集が面白くないはずがない。 ビゴーの作品は、『トバエ』などの石版画のみならず、その水彩や油彩の作品も含めて、まだまともにフランス美術史のなかに位置づけられてはおらず、フランス・ジャポニスム運動の一環に名をとどめるにすぎないという。それは無理もないことである。 ビゴーは才気ある絵師にはちがいなかったが、同時代のマネヤモネやルノワールやゴーガンとならぶような第一流の独創の天才ではもちろんなかった。第二流でさえなかったろう。しかし、この異国における風刺の絵師をそのように同時代母国の画壇にすぐさまひきもどして格付けをしてみようというのは、たとえば徳川美術史の上で淋派や南画派と浮世絵師とを直接にならべてどちらが偉いかと問うのにも似て、あるいはそれ以上に、ジャンル、技法、また職分の別を故意に無視してしまうことになりかねない。 ジョルジュ・ビゴーにはジョルジュ・ビゴーの、19世紀後半の東西美術・文化交流史、また明治日本社会史の上における「分」、役割というものがあったのであって、彼はそれを十分に立派に果たした。おそらくはドーミエの風刺画の流れに北斎漫画の刺激が加わった画環境のなかから出てきて日本に渡来し、その資質と境遇とさまざまの偶然とから、明治日本の世態風俗を独自の見方で思うさまに描き批評するのが、その生涯の主要な仕事となってしまった画家。 彼はみずから「仏国の江戸っ子なりと自称」していたそうだが、まさにフランス生まれの浮世絵師、パリからやってきた明治の浮世絵師として、河鍋暁斉、チャールズ・ワーグマン、小林清親ら、日本における先輩・同僚の向こうを張ることとなったのであった。私たちはそのような日本なりの評価を添えて、いつか彼をフランスの近代美術史、美術社会史の分野に一時帰国させてやればよいのであろう。■ビゴー漫画のプロンプター ところが、明治の世相風刺の絵師としても、ビゴーの独創性はどの程度であったか、どのあたりまでが彼自身のものといえるのか、一応は疑ってみる必用のある作も少なくない。 とくに『トバエ』を中心としたこの「明治の世相」の巻で、日本語の文章を長短さまざまに書き入れた政治風刺の作については、かならずや日本側の協力者がいたにちがいない。達筆で書かれたその文字はもちろん、ときに中国の故事や漢詩の数句を織りこんだりする文章も、日本人でかなり学のある者でなければ書けないものであることは確かである。さらには風刺の発想そのものも日本人協力者から来ているのではないかと思われる例もある。トバエの数枚を見てみましょう。
2026.08.12
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.rtfデータには往生こいているので、図像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、図像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************図書館で『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争』という本を、手にしたのです。終戦記念日が近づくと、メディアもこぞって戦争特集を掲げるので・・・私もあの戦争は何だったのかと思うわけです。【秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争】井上祐子著、みずき書林、2018年刊<「BOOK」データベース>より戦時下の日本とはどういう場だったのか。そして大東亜共栄圏のもとで各国の人びとはどのように暮らしていたのかー。陽の目を見ることなく眠っていた写真2万点のなかから200点を精選し、詳細な解説とともに紹介。陸軍参謀本部傘下の写真工房“東方社”の実像に迫るとともに、当時の日本・中国・東南アジア各国の変動していく社会をとらえる。<読む前の大使寸評>終戦記念日が近づくと、メディアもこぞって戦争特集を掲げるので・・・私もあの戦争は何だったのかと思うわけです。rakuten秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争「はじめに」で東方社とか宣伝誌『FRONT』が紹介されているので、見てみましょう。p6~8<東方社と「東方社コレクション」>■東方社とは 東方社とは、陸軍参謀本部傘下の特殊機関として、主に対外向けの写真宣伝物を制作していた団体である。同社は1941年春に設立されたが、設立のきっかけはその2年ほど前にさかのぼる。 当時陸軍は、張鼓峰やノモンハンにおいて、ソ連との紛争に敗北していた。そのため参謀本部第二部第五課(ロシア課)と第八課(情報・宣伝・謀略)では、ソ連への宣伝・謀略の強化によって日本の威信を回復することを考え、ソ連の国家宣伝のためのグラフ雑誌『USSR in Construction(ソ連邦の建設)』に対抗しうるような雑誌の制作を、後に東方社の初代理事長となる岡田桑三にもちかける。 岡田は映画俳優でもあったが、映画や演劇だけでなく、写真や写真宣伝物に対しても造詣が深く、当時、国際報道写真協会の同人であった。国際報道写真協会は、写真家木村伊兵衛、グラフィックデザイナー原弘、美術評論家伊奈信男らが運営していた中央工房に併設された対外写真配信機関であり、ここを拠点に彼らはソ連やドイツなど海外の雑誌や宣伝物に学びながら、写真宣伝物の研究を進め、実績も積んでいた。 東方社は、この中央工房・国際報道写真協会を軸に、評論家の林達夫、民族学者の岡正雄・岩村忍などが加わって設立された。(中略) 当初の運営資金は三井や三菱など財閥からの寄付に仰いだ。陸軍参謀本部の音頭取りで作られた東方社は、資材は陸軍から支給され、制作品もすべて陸軍が買上げるという陸軍と深く結び着いた団体であったが、あくまでも民間会社で、前述のように参謀本部の特殊機関という位置づけであった。気鋭の知識人やクリエーターたちが集まって、対外宣伝物という一種の“軍需品”を参謀本部の下で制作していた、特殊な民間写真工房だったといえば、少しわかりやすくなるだろうか。(中略) 1941年5月に作成された設立趣意書によれば、東方社は『東亜建設』という一冊一テーマの月刊グラフ雑誌の刊行を業務の中心に据えていた。同誌が予定していたテーマには、「産業戦士」、「高等専門教育」、「駐日留学生」、「働く日本女性」などがあり、「日本海軍」、「日本陸軍」もあったものの、必ずしも軍事宣伝を優先したものではなかった。しかし、世界情勢が変転する中で、その性質を変えざるを得なくなっていく。 つまり、40年9月に日独伊三国同盟が結ばれ、41年4月に日ソ中立条約が結ばれる一方で、同年6月に独ソ戦が始まり、日本政府・軍部は南進に舵を切り、対米英戦争が必至となった。そのためにソ連を主たる対象とした国家宣伝誌『東亜建設』は、中国や東南アジアを主たる対象とした軍事宣伝誌『FRONT』へと切り替えられることとなったのである。『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争』2:占領初期の華北地方『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争』1:占領初期のマラヤ・シンガポール
2026.08.10
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.rtfデータには往生こいているので、図像を入れるには旧日記のデータに文章を追記してお茶を濁してきているのだが・・・・今回もその手で、図像入りデータを復刻したのです(汗)*********************************************************図書館で『フランス語っぽい日々』という本を、手にしたのです。どこを開いても・・・夫の描くマンガの頁、妻の述べる説明の頁がセットになっていてわかり易くて興味深いのである♪【フランス語っぽい日々】じゃんぽ~る西×カリン西村著、白水社、2020年刊<「BOOK」データベース>より外国語を愛する、外国語に苦しむすべての人に。日仏夫婦が漫画とコラムでつづる、異文化・外国語学習・子育ての悲喜こもごも!<読む前の大使寸評>どこを開いても・・・夫の描くマンガの頁、妻の述べる説明の頁がセットになっていてわかり易くて興味深いのである♪rakutenフランス語っぽい日々カリンが新旧のシャンソンについて述べているので、見てみましょう。p78~79<35 シャンソンで Èn chanson> 外国語の学習法でつい忘れがちなものに「歌 chanson」がある・・・息子が日本語で童謡を歌っているのを聞くたびそう思います。それまでは知らなかったけれど、日本のちびっ子たちがみんな知っている節回しのおかげで自然と覚えることができた言葉が童謡にはたくさんあります。 息子は歌でアルファベットを覚え、フランス語で10まで数えることもできるようになりました。言語にはその言語固有のメロディーというものがあって、たとえ何も理解できないとしても、よく聞いてそのリズムやイントネーションを覚えることが肝要。子どもは見事にそれをやってのけます。 日本人にとって「シャンソンchanson」といえば特定のカテゴリーを思い起させます。それは、必須の作詞家や歌い手の名とともに刻まれた1940~80年代のフランスの流行歌。シャルル・トレネ、ジョルジュ・ブラッサンス、ジャック・ブレル、セルジュ・ゲンズブール、エディット・ピアフ、ジュリエット・グレコ、シルヴィ・バルタン、ジェーン・バーキン、フランソワーズ・アルディ・・・以下略。 日本にはフランス好きの小さなアマチュア歌手グループが数多くあり、みなこうしたアーティストたちのシャンソンを覚え、たがいに感染力の強い熱心さで分かち合っていることにいつも驚かされます。 想像してみてください。パリのあちこちで演歌のリサイタルを開く、何十ものフランス人集団があるでしょうか。 いっぽうで、これらアーティストの全盛期以降もフランスの歌謡曲はかなり進化しているのに、残念ながらバンジャマン・ビオレ、ドミニク・A、ブリジット、ケレン・アン、クリスティーヌ・アンド・ザ・クイーンズといった才能豊かな彼らの後継者たちは、日本ではほとんど知られていません。 バンジャマン・ビオレに「東京の椅子 Une shaise a Tokyou」という歌がありますが、最近のアーティストたちはまだまだ日本では人気の座を獲得できていません。ぜひ一度聞いてみてください。きっと耳に残るはずです。イヴ・モンタン、ジャック・ブレル、エディット・ピアフ、シルヴィ・バルタンなどをよく聞いたが・・・最近のシャンソン歌手はさっぱり知らないのです。1940~80年代以降のシャンソンについては聞く機会がなくなったのだが、メディアが取り上げないためか、フランコフォニーの意気消沈のためか?『フランス語っぽい日々』1:言葉とは思考の方法
2026.08.09
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早朝に散歩する太子であるが、南東の空に月と金星が見えるのです。ちょうど三日月の内側に金星が位置しているが、これって中東諸国が好むマークではないか。また、このマークは春分と関係があるのではないか?暦の上では立秋であるが実際は蒸し暑い盛夏であり、高校野球でも足をつる選手が頻発しているが・・・今年は各地で、40度超えの気温を記録する有り様で、まったく季節感が狂ってくるよなあ。『日本のならわしとしきたり』という蔵書に二十四節季の記事があることを思い出したのです。【日本のならわしとしきたり】ムック、 徳間書店、2012年刊<内容紹介>ありふれたムック本ということなのか、ネットにはデータがありません。<大使寸評>とにかく「今日は二十四節季でいえば、何になるか♪」を知りたいロボジーにとって、座右の書となるでしょう♪Amazon日本のならわしとしきたりこの本で、立秋のあたりを見てみましょう。和暦p20~21<立秋>過ぎてしまえば朱夏、また楽し秋立つ己 現行の暦(太陽暦)では、8月07日ころ「立秋」を迎える。この日から立冬(11月7日ころ)の前日までが「秋」の季節となる。立秋は1日だけでなく、次節気「処暑」の前日までを立秋としている地域もある。 しかし一般的には、立秋に入った日を「秋立つ日」とし、次節までは「立秋を迎え~」とか「立秋を過ぎて~」のような使い方をされている。 立秋を過ぎるころはまだまだ残暑が厳しく、体感的には「夏」の感じが濃厚だが、日一日と深まる朝晩の涼しさや空の高さに「秋の気配」を感じることがある。俳句では、立秋から立冬前日までの期間は秋の季語が用いられるが、秋に入ったばかりのころの微妙な気候を言い表した季語に「新涼」という言葉がある。 炎暑、猛暑の季節から小さな秋を見つけ、ホッとする風情がにじみ出ていて、言い得て妙な季語となっている。ちなみに『暦便覧』では「初めて秋の気立つがゆえなれば也」と説明している。 また「立秋」から、時候の挨拶は「秋」となり、「暑中見舞い」は「残暑見舞い」となる。さらに全国高等学校野球選手権大会も立秋のころが開幕となる。こうした定例行事や約束事が消化されつつ季節は移ろい、秋が深まっていくのである。 一方、旧暦で暮らした時代の人々に大きな影響を与えた概念に「陰陽五行思想」がある。中国の春秋時代の成立で、わが国には仏教、暦法などと共に5~6世紀に伝えられた。陰陽と五行の概念を合わせて、複雑な事象の解明が目指された思想である。「陰陽五行思想」によると、季節は春夏秋冬と中央の5つに分類され、内訳は、春は、「青・青龍・東」、夏は、「朱・朱雀・南」、秋は、「白・白虎・西」、冬は、「黒・玄武・北」、中央は、「黄・麒麟・真ん中」となっている。 神獣はいずれも想像上の動物で、朱雀は鳳凰に似た鳥、玄武は亀に蛇が巻き付いたもの、麒麟は市販のビールのラベルに同じ、青龍の絵は縁起物としてわが国でもふだんに見ることができる。わが国へのこの思想の影響は大きく、たとえば「会津の白虎隊」の名の出典にも影響があるようだ。 西欧の古典の理解には「聖書」の素養が必用なように、わが国の古典をひも解く場合や旧暦の理解に、知っておくと便利な概念ではある。 また七十二候には「涼風至(すずかぜ、いたる)」「寒蝉鳴(ひぐらし、なく)」「蒙霧升降(ふかき、きり、まとう)」がある。いずれも一読で風景がわかる候となっている。 ちなみに、蝉は夏の季語だが、蜩(ひぐらし)は秋の季語、また、霧は秋の季語である。霧と霞は良く似た事象だが、霞は春の季語となっている。「大暑」は、現行の暦では7月23日ころに初日を迎え、立秋(8月7日ころ)の前日までがその期間である。快晴が続くなか気温は上がり続ける。『暦便覧』では「暑気いたりつまりたるゆえんならばなり」と記されている。二十四節季の大暑に注目(復刻)*********************************************************■2022.08.07二十四節季の立秋に注目(復刻)https://plaza.rakuten.co.jp/foret/diary/202208070003/
2026.08.07
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*********************************************************図書館で『陽気なイエスタデイ』という本を、手にしたのです。国立国会図書館に勤めていた阿刀田さんは、図書館の権威とも言える存在でもある。・・・ということで図書館を活用するノウハウが見つかるかも♪【陽気なイエスタデイ】阿刀田高著、文藝春秋、2001年刊<「BOOK」データベース>よりオクラから聖骸布まで…作家の好奇心は尽きない。日々の出来事をちょっと変わった視点から見つめ、紡ぎだしたエッセイ集。そこには新しい発見がある。<読む前の大使寸評>国立国会図書館に勤めていた阿刀田さんは、図書館の権威とも言える存在でもある。・・・ということで図書館を活用するノウハウが見つかるかも♪amazon陽気なイエスタデイ阿刀田さんの「資料の利用法」を見てみましょう。ややアナログではあるが、情報活用のヒントが見つかるかも。p157~159<蔵書の整理・活用法> 資料の利用法について、私は二段階あると考えている。そう考えるほうが、結局便利なのだ。 第一のステップは、今、自分がやっている仕事について、どんな資料が役立つか、それを知ることである。たとえば、人間の死についてエッセイを書いていて、―えーと、臨終のときの言葉を集めた本があったな。そう、山田風太郎さんの「人間臨終図鑑」。二巻本で・・・。あれが役に立つぞ、きっと― と、過去の読書の記憶から必用なものを思い出すわけだ。 第二ステップは、それを自分の手元に持って来て、見られるような状態にすること。もちろんパソコンの画面に映るのでもかまわないけれど、普通のイメージで言えば、机の上にその本がそろうことである。山田風太郎著「人間臨終図鑑」の上下2冊が手もとに置かれることである。 自分の蔵書を充実させるということは、この二つのステップを、一つにまとめてしまうことなのだ。「あの本が役に立つはず」「はい、それがここにあります」という姿である。 これが便利であることは言うまでもないけれど、たくさんの資料を利用しなければならない立場では・・・まったくの話、現代では専門的に資料を利用するとなると、ほとんどの場合“たくさん”を想定しなければならないのだが、この便利が逆にあだになる。将来の便利のため、つね日頃からやたら資料を抱えておかなければうまく機能しない。 二段階に分けて・・・第1ステップをクリアーしただけでも、うれしいではないか。なにが役立つか、わかっただけでもすばらしいではないか、と考える。これがわかればしめたもの、有利なポジションに立ったと考えればよい。 そして、次にそれをどう手元に引き寄せるか。よい資料に気づいたことを喜びとしてから第2ステップを踏めばよい。この道を踏まず、第1ステップと第2ステップを一緒にしていたりすると、 -なんで、あの本がみつからないんだ、確か持っていたはずなのに- と、やたら苛立ってしまうのである。 具体的に記そう。 私はと言えば、たとえば雑誌を読んだときには目次を開き、読んだ記事に丸印、読んでおもしろいと感じた記事に二重丸をつける。そのあと、その目次を切り取り、本体は捨ててしまう。目次だけを雑誌のタイトルべつに綴じておく。そういうシステムを採用していた。 後日、なにかの折に、 -えーと、確かこれに関連すること、前に読んだな。「文芸春秋」の・・・5年くらい前の- と思い出して、目次の束をながめる。「文芸春秋」か「中央公論」、記憶がはっきりしないことはあるけれど、「図書館雑誌」だったか「プレイボーイ」だったか、とまちがえることはありえない。5年前か10年前か、これもごっちゃになることは、まあ、ない。目次の束を捜せば、簡単に見つかる。ここまでが第1ステップだ。 次に「文芸春秋」の平成3年5月号とわかったなら、それを図書館かどこかで借り出せばよい。すなわち第2ステップである。私の場合、近所の区立図書館の分館に訴えれば翌日の午後に入手できる。ウン この記事は参考になったでぇ♪ でもね、雑誌の目次を切り取って保管するというようなアナログ作業は、とても真似することは、出来へんで。ところで、阿刀田さん一押しのロアルド・ダール著『キス・キス』という短篇集を、当市の図書館に借出し予約しているので、近日中に紹介いたします♪『陽気なイエスタデイ』3:読書こそが青春の道しるべ『陽気なイエスタデイ』2:<女主人>:運命をかえた1冊『陽気なイエスタデイ』1:図書館と貸し本屋のちがい
2026.08.01
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