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今日は、午後から寝てしまった。窯焚きを終えて2日はたつのに、そして、今回は、3人の手伝いをお願いしてほとんど担当時間は無かったのにである。後頭部、頭の芯が疲れている。本当に窯焚きは不思議である。
2006.06.25
日銀の福井総裁の思いと行いを問いたい。いろんな事を言っておられるが、やはり問題が有る。問題があると言うよりも、先見性の無さを問いたい。ブロッグで再三取り上げているように、ホリエモン問題と同じである。村上ファンドも同質であり、結局は、福井総裁も一緒なのかもしれない。福井総裁のことを注視したことはないが、実際の行為としてそれを証明しているのかもしれない。村上氏は、日本をよくしたいと言っていたそうだ。そのためにファンドを立ち上げ、物言う株主として世間の注目を集めてきた。その志や如何に?「お為ごかし」私がよく使う言葉である。どのような時に使うかというと、フラクタルの森の中で悟性の空間に関して問いかける時である。信仰心無く、あの世の視点もなく、刹那的な時空しか生きていない人の場合、この「お為ごかし」をひんぱんに使うことになる。村上氏のお為ごかしを見破れないという事は、本当に嘆かわしいことだ。同質であるからこそ見破ることが出来ないのではないだろうか。目に見えない世界、陰の世界、心の世界・・・・・思考停止することなく、考えるならば浮かび上がってくる。そのような結果が出る前に「NO!」という意志を表明しなければならない。そのような見識の有る社会になって欲しい。
2006.06.20
ワールドカップが行われている。正直、不安である。日本チームの選手の言葉に、あまりに結果にこだわりすぎの内容が多い。もちろん結果を出すことが至上命題だろうけれど、しかしである。このフラクタルの森のメインテーマの一つは「結果至上主義にならないこと」に有る。経済活動にしろ、粘土で作品を作る時でもそうだけれど、良い結果を出すための原因部分を大切にしなければ、求めている良い結果は出ない。選手の持っている力を100パーセント出し切った方が勝ちだと思う。その力を出し切るためには、リラックスが必要だ。リラックスしながら全力を出すことが出来れば、時として、それ以上の力を発揮することが有る。結果を両目で見すぎると、堅くなる。堅くなると、実力は出し切れない。思わぬミスもする。これだけ注目の試合である。無理な注文かもしれないけれど、平常心で望んで欲しい。試合をしているのは、地上の人間だけではないだろう。天上界の諸霊も参加しての試合なのだろう。神々が応援しようとしてもテンションを上げつつも平常心で試合に臨まなければ応援しようが無くなる。勝負の分け目は、偶然とも思える部分も有る。その偶然を引き寄せるためにも、選手達のメンタリティーの関与も大きなモノが有ると思う。その心の内面は、分からない。「勝っておごらず、負けて腐らず」侍の精神を持って頑張って欲しい。
2006.06.18
心の中には、本人が意識しようがするまいが、なんらかの風景が描かれている。その風景がどのようなものなのか、自分自身で認識している人は少ないのではないだろうか。しかし、各人のその「心の風景」が、その人の雰囲気をつくり、その心の映像の重なり合いが、地域の風景を創り、その時代の景色を創りだして行きます。心に「思う」ということは、とても重大です。粘土で作品を作っていても思うことですが、単に湯呑ひとつを作るにしても、その「思い」はとても大切だとわかります。その作ろうとする思いと、漠然とした形であっても、その器の映像を心の中に思い描かなければ、その器はこの現実世界に生まれては来ません。粘土を用意し、薪を用意して、どのような素晴らしい環境を用意しても、たとえ国家予算すべてを投入し、全国民を駆り出したとしても、ただ一つ、この「作ろうとする思い」、この「思い」を出す人がいなければ、その器はこの世に存在することは出来ません。このような単純な構造の湯呑であっても、心の風景の中の「思い」により創り出されています。原点は、心の中に有ります。さすれば、我々の身の回りにあるもの全て同じはずです。そして、もっと構造が複雑で神秘に満ちている自然界のあらゆる存在たちもそうであるはずです。偶然に突如として存在しているわけはありません。単細胞の生命体であってもそうです。突然変異により偶然に生まれ、自然淘汰され存在し、それを繰り返して進化してきたとする考え方が、どれだけカルト的発想か分かるはずです。それらの原型は、目に見えない心の風景の中に描かれたもののはずです。モノが生まれてくる背景を考えてみると、この宇宙,この世界が「唯物論の世界」ではなく「唯心論の世界」だということがわかります。「進化を願っている」霊的世界(心の世界)の存在があることを、ダーウィンの進化論は見落としているのです。その進化を願っている大宇宙の心の風景の中に浮かび、私たち人類もそれぞれの心の中に創り出した風景を現実のモノとして創り出し、その中で生活しているのです。それぞれの理想とする世界の風景を現実化させようとしています。私たちの身の回りの環境に現れているところの現象、すべては、私たち人間たちが連綿として創りだした思いと行いの連鎖の結果であり、念いの方向とエネルギー、そのベクトルの総合計が現れているということです。私たちひとりひとりの「思い」と「行い」が、大きな責任を伴い、かつまた、私たちすべての進化を願っている霊的世界の存在たちがいるということは、どういうことでしょうか。今まで、幸福を求めて努力してきた過去の歴史の中で、人には「幸福になる権利」が有ると思ってきましたけれど、そうではなく「幸福になる義務」があるということではないでしょうか。なぜならば,あの、空を飛ぶ鳥たちのことを考えてもそうです。地を這うものたちが、なぜ、空を自由に飛び回れる存在となったのでしょう。体重を軽くするために骨格を中空構造にして、筋力を付けさせ、腕を翼に変形させ、困難な飛行技術を習得させるというような、面倒臭いことが、なぜ為されたのでしょうか?それは、おそらく、仏神の願いであり、愛の思いの現れだったのではないのか。鳥たちは、理想へ向かって羽ばたく自由といったものを体現しているのではないだろうか。鳥たちを手本として自由に羽ばたいてみなさいというメッセージがあるのかもしれません。おそらく、私たち人間の、この複雑な心であっても、仏の願いによって創られてきたもののはずです。その証拠に,たとえ民族が違い、宗教が違っても、たとえ、犯罪者、悪人であったとしても、その心の風景の奥に、崇高なものを求める気持ちがあり、他のために役に立ちたいという共通の気持ちが有ることです。親が子供に、幸福になって欲しいと願うように、仏は、私たちに真なるもの、つかの間の幸福ではなく、この世と、あの世とを貫く「本物の幸福」を得て欲しいと願われているに違い有りません。やはり、幸福になるための努力を放棄できないのが現実だと思います。そのために、「心の風景」を駆け抜ける「思い」に責任を持ち、常に、「愛しあい」「生かしあい」「許しあい」幸福への道を歩むための努力をして行かなければなりません。人々の「心の風景」が天国的なもので満ち満ちますよう願って止みません。たとえ、どのような境遇に置かれても、心の風景を明るい光で満たして行く努力を忘れないでいたいものです。
2006.06.17
現代社会は、片目で思考停止状態になりがちな時代。その代表的な例が経済活動の中に有る。「企業の目的とは利潤追求である」という言葉が一人歩きして毒を流している。これは、「結果主義」「結果至上主義」ともなります。一種の信仰です。「拝金主義」・・・大昔で言うなら、「バール信仰」。悪魔崇拝もに通じます。そのようになってしまった原因は、唯物論のまん延にあるでしょう。目に見えにくいモノをないがしろにしてしまった考え方です。「宗教と道徳」(心の教育)が為されていないために、多くの人が勘違いをしている。右目の利潤しか見ていないのに、あたかも両目で正確に認識していると錯覚しています。要するに、両目で利潤しか見ていない人があまりにも多い。目標も利潤、動機も利潤の場合、要するに右も左にも「利潤」しか入っていないと、大変なことが起こってくることを知る必要が有る。ただ、順境で調子良く行っている場合はいいでしょう。しかし、逆境で何をやってもうまくいかないような時などではどうなるでしょうか。また、欲が強すぎるような人たちの場合はどうなるでしょうか。利潤を上げるための方法論に歯止めは有りません。法律に触れさえしなければ何でも有りの世界です。ちょっと考え違いをするだけで、非合法な手段でもやってしまいます。その利潤を上げるための原因部分を突きつめて見るべきです。利潤を上げ拡大再生産していくための必要十分条件は何か?。提供しているサービスや商品が対価を支払ってくれる顧客にとって役に立つものでなくてはなりません。顧客が支払ってくれた対価以上の満足を与える事が出来なければ利潤を上げ拡大再生産していく事は出来ません。よって、企業理念、経営理念の中になくてはならない要件は「社会に貢献しお役に立ちたい」であるはずです。「社会貢献」と「利潤」この両方をバランスよく見なければなりません。右目で見るべきは、結果としての「利潤」、左目で見るべきは、動機としての「社会貢献」。多くの人がしている間違いは、左目にも利潤を入れている事です。その「思い」と「結果」を結びつける為に「行為」が有りますが、この両目に結果しか入れない結果至上主義だとどのような行為が導き出されるかを考えてみてください。これは経済活動だけに影響が有るのでは有りません。社会全体、人間の「存在意義」とも関連して、多くの不幸をまき散らす原因ともなっているのです。人として、やはり一番気になるのは、結果です。刑法で罰される事や良心の呵責を無視すれば、結果を上げる一番手っ取り早い方法は他者の積み上げたものを横からいただく事になります。刑法犯の増加や企業犯罪の多くがこのような流れの中から起こっている。特に逆境の中にある場合はそのようになりがちです。何事であれ、その結果を無視するわけにはいきません。しかし、結果だけで考えていると足をすくわれることになる。引きこもりや精神障害などの原因もそうです。どうしても片目で見がちなために蛇行しガケにぶつかったり谷に落ちたりするのです。両眼で見る事で曲がりくねった山道のような人生を無事に歩む事が出来るのだと思います心(宗教と道徳)を無視した資本主義経済は、論理的帰結として社会全体をだめにしていきます。是非、両目で見ていただきたい。「企業」を見る場合に「利潤」(陽)と「社会貢献」(陰)の両目で見ていただきたい。「労働」を考えるに「給与」(陽)と「お役立ち」(陰)の両目で見ていただきたい。この陰と陽、両方ともが、人として生きていく上での「幸福」の基本となるのです。人としての「存在意義」の要でも有ります。目に見えにくい、陰の部分が空っぽだと心が風邪をひきます。目に見えない所を見ていくトレンドが必要な時代です。 。
2006.06.08
■村上氏に天罰は下ったのか村上氏が逮捕された。ホリエモンのことだけで村上氏の事は直接書いてこなかったけれど、当然、同類ですね。フラクタルの森の右側だけで生きていた人たち。要するに、結果至上主義者。左側にも「結果」しか入れることが出来なかった人たちですね。見方を変えると、宗教心や道徳心が無い状態。その証拠とでも言いましょうか、星野仙一氏に「いずれ天罰が下る」と言われたことに非常に反発していましたね。正直言って、村上氏が気の毒に思えました。このたび逮捕されたことが、天罰であり地獄に堕ちたことだと理解し反発しているのだとすると、本当に気の毒です。■「天国と地獄」(アラン・カルデック著、浅岡夢二訳)最近読み終えた本である。200年ほど前のフランス人、霊的現象をともなうスピリチュアル運動の古典の翻訳本であり、交霊会における霊との対話の記述である。私自身、以前ひんぱんに友人と似たようなことをしていたことが有るのでよく理解できた。私たちの場合は、直接、私たちへのアドバイスが中心だったけれど、この本では、死後間もない霊達を呼んでの話が中心である。もちろん、あの世での指導霊達の協力を受けて収録され、いろんなふうにパターン分けされている。幸福な霊、苦しんでいる霊、自殺した霊、犯罪者の霊、強情な霊、この世で過去世の償いをした霊と、いろいろである。因果というけれど、この世での心の心境がダイレクトにあの世に影響している。この世で、地位が有ろうが、お金が有ろうが、また、無かろうが、全く関係ない。その自分が作り上げた心のままに、また、その為した所行が、因果律のままに展開される。貧しかったり、金持ちだったにしろ、心清く生きた人たちの幸福感は、この世で想像できないくらいの幸福感に満たされて、あの世で生きている。その逆に、犯罪を犯さなかったにせよ、その心汚き者達のあの世での生活は、そうとう大変なようすだ。まして、犯罪を犯し、多くの人からその幸福を奪った人たちの、あの世での生活は、その自己の為したマイナスの仕事が目の前に突きつけられ、想像を絶する苦しみの中で生きるしかないようだ。本当に心の底から悔い改めが為されるまで、続くようだ。確かに、それが当然だとして判断し、やってきたことではあるし、フラクタルの森の左側の部分に作り上げてきたモノでもある。死後の世界では、この左側の「陰」(玄)なる部分ノミで生きることになり、このところがフルオープンになるようだ。仏神の前にも当然ながら、他の霊達の前にも隠すことが出来ない。■村上氏の心象風景村上氏の心の中の風景を、はっきり見ることは出来ないけれど、あまり美しいとは思えない。もし邪悪な思いで仕事をし、どれだけ儲けたのか知らないけれど、その儲けが、誰かから、社会からか奪い取り、そのしわ寄せをその苦しみを他の者に押しつけていたとするならば、その与えた苦しみは、そのまま自らに覆い被さってくるはずである。逮捕され、刑務所に入る事で償うことは出来ない。心底、自分の思いと行いの間違いに気づかなければ、死後の世界で地獄と言われるような責め苦にさいなまれる事になるようだ。■両目で見られないことの恐ろしさ片目だけで生きることがどれだけ損な生き方なのか理解していただきたい。片目とはいろんな翻訳がある。この世だけの事を考えて生きてもいけない、死後の世界、あの世が有ることも意識しなければ、いけない。そして、その有り様も知らなければならない。その真理を求めなければ、誤った死後の世界観を持つと、これも、その責任は全て自らが負わなければならない。その真理を獲得するためにも、自と他の両視点で見、仏神の視点に近づいて見なければならない。そして、原因と結果の流れも、両方向に思考停止することなく、無知の知を悟るところまで見ていかなければ本当の真理に近づくことは出来ない。誤った世界観を真理と勘違いして生きることこそ、本当に恐ろしいことだ。
2006.06.07
最近、窯出しをしました。前の窯の解体、竹炭の窯に貸していた土地の整備、いろいろと忙しい中の窯焚きでした。やはり、忙しくしていると、新しいインスピレーションは降りにくくなるようです。過去の作品の焼き直しと言った感じでしょうか。しかし、次に作る窯の為のデーターを色々集めています。窯の基本形は出来ています。先日、同じく真理を一緒に学び切磋琢磨している人からある雑誌を見せられました。彼も備前焼をやっていますが、お互い心の修業をしているせいか以心伝心、言葉以外の声で伝わりあっているのを感じます。雑誌と言っても、美術関係の本でしたが、そこに載せられている写真を見てびっくりしました。私が作ろうとしている窯とそっくりなのです。それは、ギリシャ時代に使われていた窯の絵でした。前世で、ギリシャにおいてやっていた潜在意識の記憶が出てきているのかと、思いましたが、定かでありません。ギリシャ時代の窯で満足は出来ません。さらに上をいく窯を作りたい。試行錯誤を楽しんでいる最中です。さて、どんな窯になりますか・・・・
2006.06.03
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