2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全27件 (27件中 1-27件目)
1
うちの長男はよくキレル。かんしゃく持ちである。行動が遅いのでついついせかすとすねるか、キレル。でもせかし方にも問題があるのかも知れない。こっち起きれてせかしてしまう。爆弾が爆発するように怒る。キレル原因はカルシュウム不足だと聞いたことがあるが、それもあるのだろうが、「子は親の姿を見て育つ」というのがあるのではないだろうか。こっちが切れてこと接するから子も切れて人と接するようになる。そうなんでないかと最近感じる。だから切れないように接するように努力している。その中でうまく切れずになってくれることもある。でももうひとつ問題が起こってくる。それは、切れずにいることは私の性分ではないのだ。だから、切れずにと我慢しているのだ。だから無理がくる。ストレスがたまってくる。爆発したくなる。どうしたらいいんだろうか。共存な長男であるが、朝、輪ゴムを見つけ手にはめていた。専修の土曜日小学校で運動会があり、かけっこで2等賞になった。その時2等賞のしるしとして色輪ゴムを手にかけてもらったそうだ。もしかするとそのことを思い出していたのだろうか。去年はケツだったのに今年は2等賞。うれしかったんだろうなぁ。これを機縁にいろんなことに自信を持ってくれるといいのにって、ついつい期待してしまう私である。しかしこの期待がいつのまにか子どものストレスになってしまうのだろうなぁ。
2005年05月31日
コメント(0)
もんじゅ設置訴訟、住民側の逆転敗訴が確定 最高裁最高裁ってなんだろう?住民側と国が争う裁判で高裁まで住民側が勝っている裁判でも最高裁になるとたいがい負けてしまう。何でなんだ。最高裁の裁判官は最上級の裁判官が集まっているのではないのだろうか。なのになぜこんなことばっかり起こってしまうのだ。最高級というのは法律を知っていて、劫へなさい万感をいうと私は思っているのだが、どうも裁判官の最高級というのはそうではないみたいだ。国に都合のいい判決を下す人が最高級の裁判官だとしかいいようがない。国に都合の悪い判決を下すと地方に飛ばされるっていう噂を聞いたことがある。本当だったりして。
2005年05月31日
コメント(0)

昨日は我が息子朋生と真生の通っている小学校の運動会がありました。私が通っていた頃は秋に大運動会があったのですが、今は春の方が大々的な運動会になっています。ところで秋の運動会はあっただろうか、なかっただろうか。記憶にない。息子に対して無関心であるということなんだろう。朋生は2度目の運動会、真生は初めて。朋生は去年に比べて楽しそうに走っていた。昨年はかけっこは一番後ろの方、今年は2番目、うれしいのは当然か。次男の真生は体を動かすのが得意だと思っていたが、本番はそんな速くなかった。いつも怒られている真生は後ろから誰かが追いかけてこないと速く走ることができないのだろうか。とにかく、、みんな成長したことを感じた一日だった。ところで三男の瑞生はおつきあいで小学校に来ていたが、保育園の友達に声をかけられてから私の目の中にはなかなか入らなくなった。帰ってくるときは靴下が濡れてびちょびちょになったとき、そしてお菓子が食べたくなったとき。私たちといるよりは友達と遊んでいる方が楽しいのだろう。これも成長のしるし。
2005年05月29日
コメント(2)
どうもこのブログを初めて一年になるようだ。ずぼらな自分としては結構書き込んだ方だと思う。記入率が29%だそうだから、まず自分をほめてやろう。でもこれからずっとこの調子で書き込むっていうわけでも多分ないだろう。ずぼらな私だから。書き込むことにあきてしまえば終わってしまうだろう。ネットというものの正体が見えてこわくなり止めてしまうかも知れない。ネットの正体とは人間であり、自分自身であろう。目を閉じたくなるほどの本当の自分にであったらどうだろう。目を閉じるか見ないようにするだろう。そんな自分にどうかであわないようにって祈ってしまう。できたら…。しかし、仲間がいれば、共通の課題をもつ仲間がいれば自分にであっても逃げずに済むかも知れない。ちゃんと向き合って生きていけるかも知れない。そういう友にわたしはであいたい。実はであっているけど気付いていないだけかも知れない。
2005年05月28日
コメント(4)
「ごぼはんだより」115号を作成しました。見てください。こちらからどうぞ
2005年05月27日
コメント(0)

今シャクヤクが花盛りです。二日前ほど…写真を撮ってアップしようとは思っていたのですが、まわりが草だらけなのでためらっていました。今日一大決心で草を刈ったのでやっと写真を撮ってもはずかしくないぐらいになったので写真を撮りました。真っ白できれいです。
2005年05月26日
コメント(0)

京都に強くなる75章 著者: 京都高等学校社会科研究会 出版社:クリエイツかもがわ/かもがわ出版今日、楽点ブックスから本が届いた。当然注文していていたからだが。今度京都である研修会に参加するにあたって事前に読んでおけとのことなので注文した。同朋ジュニア大会という行事に参加したいと申し込んだのが今月中旬、そしてその事前研修会の案内が来たのが22日頃、そして研修会の日が来月の2~3日、急にいうなよっていうのが本音の所。二日は教務所でハンセン病の研修会に参加する予定にしていたので、この研修会は3日だけの参加にしようと思う。さて仕方なしで買った本だが、ちらちらとめくってみたのだが、おもしろい視点で京都が紹介されているように見受けた。この本を持って京都をブラブラするのも良いのかも知れないと思った。
2005年05月26日
コメント(0)

昨日近所の方よりイチゴがなったということでもらっらので、うちのはどうかと見てみると、まだ色づきはしていませんがだいぶ大きくなってきています。ブルーベリーも実が大きくなってきています。三年前に母の日が終わってカーネーションがやすかったときに買ったものです。今年もちゃんと咲いています。
2005年05月25日
コメント(0)
先週東本願寺で開かれた御遠忌お待ち受け大会で、御遠忌テーマ並びに宗務総長の所信表明があった。その模様はインターネットを通じてライブ放送され、また一部活字化されている。正直腹立たしいものだった。感動したのは門首さんが一生懸命ご挨拶をなさっていたことぐらいである。昨日先輩が家に遊びに来てくれやっぱりその話し、一段と腹立たしくなった。その生かどうかわからないが今日は早起きだ。悶々としている中で私は私が宗祖親鸞聖人の750回御遠忌を迎えるにあたってのテーマを勝手にこしらえた。それを今ここで発表しま~す!!今回私が御遠忌に向けてテーマ(こだわり)としていくことは親鸞に出遇う 本願に出遇う今こそ同朋社会を顕現せん~バラバラでいっしょなる世界を求めて~で~す。 一晩布団の中で暖めただけなのですが、結構気に入っています。皆さんこれどうです?呼応していただけることをお待ちいたしています。(特に大谷派関係のかた)
2005年05月24日
コメント(0)
御遠忌に向けた宗務総長所信表明 を読んで1人間観について現代は、人間とは誰にも冒されることのない唯一絶対の人権をもった尊厳なものであるという、自我的観念の人間観に立っています。この人間観はキリスト教思想を背景として、アメリカの独立宣言(1776)やフランスの人権宣言(1789)においてあらわれた人間観であります。現在では、この人間観が世界中にひろがり、日本においても、この人間観に立って社会の隅々まで法律が体系化され、また児童ならびに青少年の教育がおこなわれております。私ども真宗の教えをいただく者といえども、現代人であるかぎり、この人間観によって成り立っている社会の一員として、日々社会生活を営んでいるのであります。 このように、親鸞聖人の人間観と現代の人間観とのあいだには天と地ほどの落差があります。この落差のところに、〈真宗〉と現代とのあいだの大きな乖離(かいり)があるのです。真宗の教えをいただく私どもも、その乖離をあまり意識しないで、むしろ現代の人間観に立って生活しているのが実際ではないでしょうか。したがって、この乖離を直視せずして、いくら現代社会にかかわっていこうとしても、そこには現代社会との妥協をもたらし、そのかかわり方がすべて〈真宗〉ではなくなってしまうのであります。真宗の人間観を「「常没の凡愚・流転の群生」「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌」と提起し、現代社会は「誰にも冒されることのない唯一絶対の人権をもった尊厳なものであるという、自我的観念の人間観に立っています」と提起している。そして「親鸞聖人の人間観と現代の人間観とのあいだには天と地ほどの落差があります。この落差のところに、〈真宗〉と現代とのあいだの大きな乖離(かいり)があるのです。」と断言している。現代社会の人間界を時が的なものであると批判しているのであるが、「人間とは誰にも冒されることのない唯一絶対の人権をもった尊厳なもの」は本当に単に自我的と批判できるものなのだろうか。そしてこの規定は本当に現代日本に住むものの人間観なのだろうか。2社会論についてかつて親鸞聖人が出家された養和元年(1181)から2年にかけての大飢饉は凄まじく、養和2年の4月、5月の 2ヵ月間で京の都の餓死者の数は4万2300余人にのぼったと鴨長明の『方丈記』は記しております。その惨状の記述の中にあっても「その思ひまさりて深き者、必ず、先立ちて死ぬ。」と述べていることに胸を突かれます。「思ひ」とは愛情のことですが、その愛情の深いものほど先に死んで行ったというのであります。なぜか。それは、苦労してたまたま手に入れた食べ物ですら、自分のことは二の次にして、愛するものに譲ったからである、とその理由を記しています。したがって親子の場合はかならず親が先に死んでいったと記しているのです。「愛」は凄まじい大飢饉の中にあっても失われてはいなかったのです。 ところが、科学文明の進んだ現代はどうでしょうか。子が親を殴り殺し、親が子を殺し、夫が妻を殺し妻が夫を殺し、さらには何の関係もない人を「むしゃくしゃしたから」といって無差別に殺すという事件が毎日のように報道されています。そこには得手勝手な自己中心的な自我と欲望の野放図な氾濫があります。その荒廃は目をおおうばかりであります。親子夫婦という人間関係の基本がこのような様相を呈しているということは、人間関係の基盤自体が腐食しつつあることを、否定しようもなく物語っているといわざるをえません。現代社会を「憎悪・怨恨・嫉妬・正義・独善・屈辱・絶望」と規定し、宗祖の生きられたじだいはを「愛は凄まじい大飢饉の中にあっても失われてはいなかった」と区別しているが、この両方はいわれていることはどちらも時代を超えた人間社会の現状ではないのか。現代社会においても阪神大震災、中越地震の時、ボランティアが活躍し、助け合っていた。これも「愛」と呼ばれるものがあるからなのではないか。このような惨状は、人間の尊厳と価値を憲法で保証され、人格の尊重をうたわれた教育基本法で教育を受けたはずの人々において起っている事柄であり、近代の美しい人間規定は実際にはまったく破綻してしまっていることを証明しているのではないでしょうか。ここにおいて近代の人間観ではなく、〈真宗〉の人間観こそがよりリアルに現実の人間を言い当てていることはあきらかであります。こうありたいという人間観と、そういう人間観から見えてくる人間観{真宗の人間観というべきものなのか?)があるのではないだろうか。質が違う。3教学について 近代は理性の時代でありました。ことに日本では20世紀は理性の世紀でありました。したがって明治以降の教学は、理性をもって「浄土三部経」の神話性を破砕し、理念化し哲学化することをいたしました。いいかえれば神話を非神話化して、近代人の合理的知性に受け入れられやすいように解釈し直すということでありました。しかしそれから百年、現代はむしろその近代的理性の闇という問題性が指摘されるようになりました。もはや近代知がなんの疑問もなく肯定される時代ではなくなったのです。近代知こそが問われているのであります。曽我量深先生の教えを通して清沢満之先生の教えを真宗教学にしっかりと位置づけ、もって真宗同朋会運動の道しるべとして、人類救済の原理である真宗教学を明らかにすべきであると思量するのであります。私たちの教えで一番大事なことは本願(いのちの願い・人間の根本的願い)に頷くということではないでしょうか。このことは哲学的表現で感得される方もいるでしょうし、法蔵菩薩を事実の人として出会うことによって感得できる人もいるのではないだろうか。真宗の教えが西洋哲学とコラボレーションしたことによって真宗に出会えた人が沢山おられたことも事実です。このことを簡単に批判するのは…。現代は「神話」がなかなか頂けない時代です。そういう時代と認知して、そういう時代に呼応する真宗教学である必要が私はあると思います。最後に宗務総長の所信表明の最後に「本願の信が実現する願生道に立つことによって、「同朋社会」が顕現されんことを念じ」る、といわれているが、組の同朋社会が顕現された社会とはどういう世界をいうのかという実体的な表現が見あたりません。同朋社会を念仏を称える人がほとんどの社会と読み替えると所信表明が読めるような気がする。これが本当に同朋社会ということなのだろうか。あらゆる存在を友なるいのちをいただいている存在と頷きあえる社会が同朋社会だと私は思っている。そういう私がこの所信表明を読んでもなかなかピンと来ない。またこの文章は非常に雑な文章のように思える。御遠忌テーマに頷けないものがヤットカット書いているようにも思える。この文章を書いた総長の(教学的)バックボーンとなっている人達の質、そういうようなものも気になる。テーマに基づいた所信表明では決してない。
2005年05月24日
コメント(0)

兄姉の難病治療へ受精卵診断で子を出産悩ましい、自分が同じ立場なら同じことをやっただろうが、でも考えてしまう。これでいいんだろうか。治療を目的に子供を産むということ、いいんだろうか。生まれてしまえば目的はさておき我が子として育てていくのだろうが、親として、コトして度だって行くのだろうが。これでいいのだろうか。そう思ってしまう。-------------------------------------------------宗祖750回御遠忌真宗本廟お待ち受け大会ただいま東本願寺の親鸞聖人750回御遠忌のテーマや、宗務総長の所信表明を読み込み中です。なぜかっていうと悩ましいから。首を傾げてしまうから。しっかり読み込んでから自分の意見をここで表現したいと思っています。
2005年05月23日
コメント(0)
今日午後から近くのお寺で大法要が催される。そこに助音として呼ばれている。助音というのは音を助けること。大きな声を出してお勤めを引っ張っていく役割、自分は僧侶の中では若いということがあって声が立つ、そして本山で一般寺院の声明(仏教音楽)をならってきているので、たまに助音として呼ばれる。これで生計がたてば何ともいえないのだが、実力等々が全然伴わないのでダメだ。お呼びがなかなかかからない。だから今日は朝、オハラショウスケさんのように朝風呂を浴びて、歯を磨いた(大きな声では言えないが本当に久しぶりに歯を磨いた)。大宝用に向けて声の調子を上げなければいけないのでお参りの中で声の調子を整えようと考えている。だから今日のお参りはいつもより声が大きいと思う。日曜日なので大きな声は迷惑がられるのだろうか。ともかく午後2向かって声帯を整える。
2005年05月22日
コメント(0)
昨日本当に久しぶりに介護に行ってきた。私は大体15年前から一人暮らしをしている「障害者」の介護をやっている。前は2週間に一回行っていたが、今はいろんなことがあってなかなか行っていない。特に今「障害者」を取り巻く環境がすごく変化しているので、というか行政施策が変わってきたので、私のような気が向いたとき「障害者」の介護をするというスタイルができなくなってきている。私が介護に行っている人もNPO法人を立ち上げその中で介護も何とかしている。昔は、一人で、仲間で、介護を探していた。大学へ行って、その他いろんな繋がりで探していた。なかなか介護人が見つからないということも行っていた。共通一次(今でいうセンター試験}が始まってから大学生が介護人になってくれることがなくなったということを私に語ってくれた「障害者」もいた。そのこともあるのだか、NPO法人化し、介護人も組織化していくと、自分が入る隙間がない。障害者との関わりがどんどん薄くなっている。元々主体的に介護をやっていたわけでないので、お呼びがかからないと障害者の家に足が向かない。関わりが持てない。これを解消するには意識して遊びに行くこういうことしかないだろう。意識してでしか障害者と関係が持てない。これは私だけの問題なのであろうが。だって自分は出不精だから。元々人んちへ遊びに行くということが少ない。用事がなければ人んちへいかない。だから意識しなければいけないのだ。これは障害者の問題ではなく、私の生き方の問題なのだろう。
2005年05月21日
コメント(0)

東本願寺で「お待ち受け大会」 御遠忌の意義再確認(ヤフーニュース)昨日東本願寺において親鸞聖人750回御遠忌お待ち受け大会が開かれた。その模様がインターネットでライブ配信されていたので、私も少しだけ見た。御遠忌テーマが「今、いのちがあなた生きている」と発表された。そしてそれを受けた宗務総長の所信表明があった。テーマに関してはふ~んて感じであった。前の蓮如さんの御遠忌よりインパクトがない感じだ。教団の中で「いのち」という言葉があらゆるところで使われているのでながれの一つにあると感じた。前の蓮如さんの御遠忌mp「ばらばらでいっしょ」この訳のわからず考え込んでしまうテーマからすればあいそんない。物足りなく感じる。正直なところ、今の宗務総長の何とかというやつ、こんな言い方をしてしまっているのでわかると思うが、好きではない。だからなんか反感を感じてしまい、いろんなことを批判的に思ってしまう。今回も「おまえが言うな」こう感じた。「今、いのちがあなた生きている」このテーマはなにも批判することはないが、こういうテーマを選らんだ教団、らしくなって井か泣けれ場って感じだ。このテーマを簡んだ組織として、人として、テーマにふさわしい、はずかしくない教団や教団人に近付くことを私たちの歩みとして行かなくてはと感じている。自分にもいっているが宗務総長に強く訴えたい。
2005年05月21日
コメント(0)

今日、じっくり苺が植えてあるプランターを覗いているとイチゴの実がだいぶイチゴらしくなっていた。大きさはまだまだなのだが….本来ならば摘果をしてやれば大きな身になるのだろうが、やり方もわからないのでそのままだ。少し楽しみになってきた。畑にもイチゴが勝手に育っているのだが、肥やしを全然与えていないので、プランターの株の方が大きく育っている。いつ食べることができるのだろう。
2005年05月17日
コメント(0)
今日用事が出来たので研修会を1日早く切り上げてきた。 研修会でてさたことは「親というものは子どもに命令と否定だ」 このことはうなづくしかない。子どもに対して申し訳なく思う。 でも子どもの前に立つといつの間にか「命令と否定」しかしていない。そうでないときはこっちが無理をしているとき。本心ではないような気がする。どうもならない。 もうひとつ聞いたことは関東と関西では点字ブロックは違う、ということだ。止まれの記しが代表的だそうだ。だからそのことを知らないと大変なことになるそうだ。何でだろう
2005年05月16日
コメント(0)
今サンダーバードに乗っいます。今日の午後から京都で研修会があるからです。特別な思いで参加します。この研修会子ども奉仕団の事前研修会です。子ども奉仕団というのは夏休みに開催される子ども大会、研修という感じのものです。この行事に大学4年のときから関わっています。だから十五年以上関わっていることになります。自分にとっては思い出深いものであり、思い入れも結構強いものです。というか自分が育った、育てていただいた大切な場なのです。最近は当然学ぶ場としてあるのですが、もう一つ恩返しのようなものを意識して参加していた。でも最近なかなか都合があわなくなってきています。結構無理をして参加してきました。子ども奉仕団だけの日程(二泊三日)ならなんとかなるのですが、事前研修会(二泊三日)を二回参加しなければならないというハードルか結構つらいのです。いろんな人に迷惑をかけるので、かかっているので今年で引退と思っている、感じているのです。だから今回は自分にとって子ども奉仕団は何であったのかをしっかりと問い直し、そのことを次人達に背負ってもらわなくてもいいけど(でも…)伝えられたらと思っています。頑張ってきます。
2005年05月14日
コメント(0)
只今テスト中 携帯から書き込みが出来るそうで、今やっている 明日から京都で研修会なので、暇を見つけて書き込みしてみようかな
2005年05月13日
コメント(0)

昨日の雨でこのあいだ植えた野菜苗が少し大きくなっているように感じています。本当は畑の写真を公開しようかどうか悩んでいたのです、だって草むしりを怠っていますので草で一杯だから。これでもあまり写らないように気をつけてとったのです。今畑に植えてあるもの→ナスビ10本・キュウリ3本・トマト3本・ミニトマト3本・オクラ5本・ピーマン6本・ゴーヤ3本・ジャガイモ20ぐらい・小松菜種一袋・大根種一袋・冬瓜2本・サツマイモ30本。こんなもんです、多分。植えたからと言って全部そだつわけでもありません。こまめにちゃんと畑に行って世話をしてやれば育つのですが、草むしりの嫌いな私ですから…どうなることでしょうか。
2005年05月13日
コメント(0)
JR西乗務員へ嫌がらせ120件 脱線事故後に相次ぐ(asahi.com)やっぱり起こっていた。本当に悲しいことである。私たちは裁判官ではない。これは喜ぶべきことである。人を裁かなくていいのだから。でもいつのまにか私たちは裁判官になっている。責任のないところで。裁判官でもないのに判決を下している。何もしらべないで、何も聞かないで。勝手に裁判をして勝手に判決を下し、制裁を加えている。このことはやめなければ行けない。縁ということを考えれば考えるほど、知れば知るほど、人を裁くことができなくなる。人間は人間を裁くことはできない。多分人間を超えた存在も人を裁くことはしないだろう。人を裁かないで済む、そういう環境にいることを喜ばなければならない。むやみに人を裁いてはいけない。ふとある詩を思い出す勇気をあげて友野真理今日も又一人の小さな命が消えさった。“いじめによる自殺”少し前なら一人の少年の死など小さな記事で片づけられていたであろうに…何年か前“社交性のない子はダメだ”といっていた評論家が今、知ったかぶった顔をして“いじめの傾向“について話している。あちらこちらのTV局で討論している教育者達、もうやめて下さい。あなた達が話あってそれで傷ついた子供社会はつなぎあわせられるの?なにもできないくせになにもしないくせにテレビでわかった様にしゃべるのはやめて下さいそんな暇があるなら一人でも一人でも泣いている多くの生徒の所にとんで行って抱きしめてやって下さいえらそうに言ってる私だって悲しんでる子達を助けてあげることできないけど一つだけ言うことができますあなた達が言う様に“いじめ”は社会が悪いわけじゃないいけないことを平気でして人を傷つけて社会のせいにしてるその子達の心が悪いのですだからこれ以上彼らを甘やかすのはやめて下さい彼らに人を傷つけたことへのつぐないや自分をみつめる勇気をとり戻す時間をあげて下さいもうこれ以上しった顔をして誰が悪い、何が悪いとまくしたてるのはもうやめて下さい… やめて下さい やめて やめて下さい(真宗大谷派児童教化連盟発行「いのち」より 『ヒストリーズラン』収納)もうひとつ社会の歪みがこの事件になっているのだろう。人間性を欠如しなければ生きていけないこの社会において、人間としていきたいという叫びが、鬱憤が湧きだしているのだろう、捌け口になっているのだろう。大きな問題だ。そう評価する自分も同じムジナに住んでいるのだろう。今を生きる人間の根本的課題としてあるのではないだろうか。この事実に本当にひざまづかなければいけない。私も。
2005年05月11日
コメント(0)
昨日今日と北陸連区「同和」問題研修会が小松市で開催され参加してきました。先に言っておきますが、、渡しは勉強に行ったと言うより、仲間に会いに行った、酒を飲みに行ったという思いのほうが強いことを。講師は、菅原伸郎(元朝日新聞学芸部記者)さんと宗正元(大谷派僧侶)さんのお二方でした。話の内容はさておいて菅原さんのお話は私が聞きたい話しではなかったです。いやな話しということではありません。テーマにそぐわない感じがしました。宗さんの方はこのことかっていう感じでした。でもその中で感じたことは私たちが仏法と感じていることはすべて仮の仏法でしかない、本物ではあり得ないということを思っていました。だから本物に近づくには自分のかかえている仮の仏法を多くの人と語り合うしかないのではないだろうか。でもそれは本物に近づくだけ。本物にはなりえない。それが私たち仏教徒ととしての悲しみではないだろうかと。でも近づこうとし続ける。話しの本題ではなかったのですが、そんなことを考えていた二日間でした。帰りは素直に帰らずに、白山市までちょっと寄り道をして熊と鹿の刺身、そして熊そばを食べて家に向かいました。お店の名前は手取川でした。五箇山に住む友人は熊や鹿が珍しくなく、カツ丼を食べていました。おいしかったです。
2005年05月10日
コメント(0)
脱線当夜、JR西の車掌ら宴会 国会議員も出席(asahi.com)こんな記事が最近よく取り上げられている。酒好きの私なんか酒飲んでもええじゃないか、なんて思ってしまう。また社員全員がひとつになって…、というのも気持ち悪く感じる。国民みんなが正義の味方になってJR西日本をいじめているようにも見える。問題なのは重大な事故を起こしたこと、そして会社として危機管理ができていなかったことではないだろうか。社員が宴会をしていたことが悪いのではなく、会社が宴会などを自粛するような指示ができていなかったことが問題なのではないだろうか。間違いなく社員ひとりひとりが悪いのではない。組織の問題としてみていかないと大変なことになるような感じがする。魔女狩りが始まらないことを願うしかない。
2005年05月08日
コメント(0)
遠足の女児が遊具から転落し重傷 太閤山ランド(北日本新聞)6日のテレビニュースでこのことが報じられていた。大変なこちゃな~って思っていた。次の日知ったのたがそのケガをされた子どものお母さんはblogつながりの友人だった。なおびっくり!!人ごとでニュースを見ていたが人ごとではなくなった。そう思っている最中、昨日うちの2番目の馬鹿息子がともだちのうちへ遊びに行っていてヤキューをしていたらしい、その時ボールを追いかけていって用水にドボンとなったらしい。ともだちの家で服から下着から借りて着替えて帰ってきた。情けない。大きな用水ではなかった(と勝手に思っている)ので大事にはいたらなかったが…。息子はあっけらかんとしている。めげていない。 これも情けない。私も生きて帰ってきたのであまり重大性を正直なところ感じていないが、母親はCANCAN、!! 角が見えていた。嗚呼怖い。最近思うことは事故に遭うのがたまたまではなく、事故に遭わずに生きていることがたまたまではないかと。何かそう思えてならない。本当は事故って人ごとではないのだ。でもなかなか頭でそう思っていても、そう感じて生きていけない。自分が当たり前と思っていることは実は当たり前でないことの方が多いのでは。生きていて当たり前、健康でいて当たり前、 そうではない。たまたま健康で、何事なく生きてるのだ。本当はそうなんだろう。でもだろうとしかいえないのが情けない。なかなか言い切れない。迷ってんだな~自分って。
2005年05月07日
コメント(0)

昨日は長男朋生の八歳の誕生日、毎度のようにケーキを食べてお祝いをしました。こんな生のケーキはおやこのつどいで食べたところ、一の一杯のものでした。近年物騒な世の中といわれています。いわゆる不審者の噂が私の住むド田舎でも聞こえてきます。知らない人にはついて行くな、話しをするな、なんていわざるを得ません。それが私は悲しいというか寂しい限りです。他人はろくでもないものだっていうのと同じだと私は思っている。なんかいやだ。やっぱり人を信用してほしい。人を敬ってほしい。でもいえない。いってしまうと矛盾してしまう。なんか悲しい世の中だ。
2005年05月06日
コメント(0)

昨日4日、下村の加茂神社へ仕事に行ってきました。そう言うと首を傾げる人がおられると思います。おまえは僧侶ではなかったかと。そうです私は僧侶です。そして仕事でいったのも本当です。どういう子とかといえば僧侶としていったのではなく、もうひとつの仕事、アルバイトみたいなもので行ってきたのです。最近私は雅楽を習っていて、その関係で神社に演奏に行ってきたのです。この加茂神社ではヤンサンマといわれる流鏑馬祭りがありました。写真は馬が写っていなくて牛が写っていますが、これは流鏑馬の前に行われる行事で名前はちょっとわすれましたが。牛の上に男が乗って、その牛を座らすというものです。今回は牛の鼻息が荒かったせいか、牛の上に男が乗ることはほとんどなく、境内も三回回るはずだったのですが、2回で終了という特異なことでした。この行事を私は勝手に解釈しています。加茂神社の勢力がここを統治したことを意味する行事ではないかと思うのです。馬を扱う勢力が、牛を扱う勢力を統治したということを意味するものではないかと思っているのです。多分大和朝廷が勢力を伸ばして現地の豪族をやっつけていった。そういうことを意味するものではないでしょうか。よく勉強していないけれどそんなような気がします。
2005年05月05日
コメント(0)

今家ではこんな花が咲いています。イチゴの花ブルーベリーの花ブルーベリーは去年から育てています。大きな鉢に入れて育てています。実は選定の仕方やその他育て方詳しく知らないのです。勉強しなくてはっと思ってはいるのですが、いつものごとくいまだしていません。
2005年05月01日
コメント(0)
「ごぼはんだより」を発行していました。見てください。こちらからどうぞ
2005年05月01日
コメント(0)
全27件 (27件中 1-27件目)
1
![]()
![]()
