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抜粋『被差別村落の歴史』第三部 --- ---ひと息ついてください八切史学誕生は敗戦満州 壬申戸籍以来それまでの寺人別や町人別、侍人別に比べて、入っていない無宿者の数が圧倒的に多いのが判って、新政府は狼狽して国策としてベンゲネットのフィリピン移民やハワイへ男は送りこみ女はアメリカのガールハウスやサンダカンへ向わせた。・・・ 現代になってもオカミの立場では、体制を維持してゆくための国家公務員上級試験や司法試験の合格者を選抜するための次々の試験地獄をもうけ、有用な人材と、どうなってもよく出来れば死んでほしい棄民との二大別が、段々と判ってきてホンネとタテマエが判った。 「邪魔者は消せ」というが、ソ連の囚人部隊が代りにやってくれたのである。なにしろずっと監獄に入っていた輩ゆえ、女とみると銀座にあたる春日町通りでも、よってたかってである。 もちろんダワイにきているのだから服からシュミーズまで布類はまっ先に奪ってしまう。当時の満州では現地人には布地の配給を殆どなく布ならなんでも換金できたからである。 なにしろ満州では相手は武装兵である。とび出して行って、おまちなせと止めるようなのは、まったく一人もいなかったのも事実。みんな家の中へとびこみ二重窓の中から文字通り高見の見物でハラハラしているだけ。 まったく手のつけられぬ野生の猛獣みたいな集団の連中の白昼から街頭での襲撃である。 うっかり外出して目にとまり、気丈にも逃げれば射殺。アスファルトの上で血の流れ出るのでもごうかん。生きて居れば捕えて皆して次々と左右に転がし、拒めば銃床で頭を叩き割るから、白いアスファルトが見る間に、一面ずっと、どす黒くやがて真っ赤になっていった。 それまで派出所で威張っていた日本人の警察官は何処へ姿を消してしまったのかと思っていたら、夜になって暗くなると満警とよばれた満人の補助警官の後ろについてやってきて、戸口簿をもって、年頃の娘を非難させるからと、トラックに次々にのせて連行していった。安全な場所へ伴われていたものと思っていた処、その中の娘さんの頭を割られた屍体が奉天郵政局前広場に転がっているのが見つかったので、北春日自衛隊が秘かに結成された。 一度もう占領下に入ってしまうと、かつてのギリシアの三十未満の女性がイタリア軍の慰安要員にされてしまったように、すべて向こうの軍政下に入ってしまいどうにもならない。・・・「絶対に服従」するのが日本人の、薄気味悪いくらい不思議な二十世紀でも奇怪的奴隷根性の人種ゆえ、どうしようもない話であろう。・・・ もうその頃は、関東軍に見棄てられて集団自決したが死にぞこなった難民が次々とまた奉天へは流れこんできて、北春日小学校は、九月には五千人も各教室に別れつまっていた。 当時、衣料の配給は日系人だけだったので、途中で満人にモンペどころか肌着やパンツまでとられ、空俵を身につけた女たちが、途中でソ連兵に何十回も襲われて逃げのびてきた。 「八十五六人までは覚えていたが、その内に気を失い、土が凍ってきて気づいた時までには、百五十人ぐらいのロスケにのられた勘定になる」と逞しく語る打ち明け話もきかされた。 ずっと無言のままで股をひろげておればよいが、辛くなって拒むような事を口にしたり逆らったりすれば、それまでに日に百人近くにおかされてきた女性でも、見せしめにというか殴り殺されてしまったというから、どんな日々のひどい目に堪えたにしても、辛うじて生きて北春日小学校へ入ってきた女は十人に一人ぐらいであったようである。彼女たちはもう馴れっこになっていたのか、軍票の一円で朝から身売りに稼ぎにゆき、食物を求めてきていた。とろうのおの中島虎彦歌集そのとおり私のギャグがうなるのは世界が苦悩に満ちているから
April 16, 2008
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『野史辞典』より戸籍 “大宝律令”ではヘジャクとよぶ。編戸の民となって農耕の庶民の戸口帳。“六六ヶ国人掃え”と称すは秀吉が刀狩りと共に全国一斉に施行した太閤検地の戸口調査。 “全国惣体ノ戸籍”と太政官布告によって明治五年徴兵令のため始めて完全なのが作られ壬申戸籍という。が町村役場の兵役課が軍事目的の戸籍ゆえ、正確といえるかどうか。 私事であるが、“阿魔将軍・源頼朝と北条時代”の中にも書いてあるよう私の父方と母方は宗旨違いだったので、私の兄の節夫が生まれて入籍までに半年の余も掛った。大正三年十二月二二日付け愛知県中島郡祖父江町の町役場に届け出されたが、その二年後矢留節夫は急性感冒であっけなく急死、祖父の目をかすめ父と逢っていた母は今の私を身籠り又も死んでしまった。 今度はとても矢留の方で入籍すまいと思ったのか。交渉の煩わしさに懲りたのか母方の祖父後東吉雄は、東本重町の塀一つ裏にあった寺内の、後東家代々之墓を動かし亡くなった節夫を埋めて葬り、この私を二代目の節夫にしてのけた。つまり私は私でなく二年遅く生まれたのに死んだ矢留節夫の戸籍でそれからは今まで生きてきている。 大正時代にあってはなにも別に稀しい事ではないと死ぬまで母は口にしていたが、おかげで当時あった八重小学校の校長の許へ、小学校入学も二年早すぎると当人の私はごてったが、祖父が、義務教育法の就学年齢は戸籍法に基づきどうともならぬとされ、「白地に赤く日の丸そめて・・・」と皆が歌っていた日から、むりやり通学させられた。 なにしろ遅れて入ったので東西南北の時間は済んでいたから、いまだに私には方角がよくわかっていない。 つまり私は矢留節夫という名は自分のではないと避けたり、生年は大正五年とは分かるが、月日は不明ゆえ節夫の戸籍面の十二月二二日生れを用いているが、本当の私は生きはしてきたが名なしの生年月日なし、何もわからないのである。 “八切史観”とよばれる真実を執拗に追究する私の怨念は、この戸籍からきているらしい。 俗に「八切史観」とよばれる私の愚かしき真実の追究は二九〇頁の“戸籍”の項でふれているが、私が私ではないからである。と言うと唐突で奇妙に想われるだろうが宗旨違いで母方と父方が仲が悪く、私の上の兄の入籍で揉めにもめたのに懲りたのか私自身が生まれた時に、流行性感冒で夭折した兄の戸籍を抹消せずその儘で冠せられた。 つまり私は二年前に生まれて大正五年秋に亡くなった亡兄の名と戸籍を背負い今でいえば五歳で小学校へ通わされた。 ナフタリンを齧ったら死ぬときかされていたせいか齧っている処を一八粒めに見付かって吐かされた。何回となくその後も性懲りもなく繰り返したのも虚しさのためだった。 それが何故に過去の具象への真実を探求しだしたかといえば、マッカーサー解任時のポスト紙を拾い読みした時からである。切り抜き持ち帰ってきているが、その内容は、 「近代史でも稀有な反乱が絶無だったのは、彼の統治が偉大であった功績でもなく素晴らしかったと惜しまれるものでもない。何故かならば彼が統治してきた者らは、かつて大陸勢力によって統治支配の歴史が長く、島国ゆえ他への逃亡は不可能、叛乱すれば殺戮されるしかない運命におかれ、権力に対しては絶対服従の国民性を今に伝えているに過ぎぬからである」 と大統領補佐官筋のコラムだった。・・・変な国民性である。
April 10, 2008
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