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『朝鮮史譚』(金素雲)増補版覚書(昭和十八年六月)よりの抜粋にてご紹介・お薦めに代えさせて頂きます^^朝鮮王朝の絵画と日本 金富軾は、はじめから妙清一派の策動を怪しいと睨んだ。--- 十二年の二月、王はまた西京へ行幸した。 ところが、王駕が馬川亭といふのにさしかかると、お側に従つてゐた親従将軍(侍従武官)金勇の馬が、訳もなく急に暴れ出して、そのために金勇は馬から振り落とされ、瀕死の大怪我をした。 次に、大同江を渡らうとすると、河の中ほどで俄かに大風が吹き募り、いまにもお船が覆りさうになつた。やつと渡るには渡つたが、こんどは太華宮に向ふ途中、旋風や砂埃のために人馬ともに進むことが出来ない。おまけに拳のやうな石が飛んで来て、王駕に当るので、大傘を拡げて防がうとすると、傘を持つた者は、その傘ぐるみ風に吹き飛ばされてしまふといふ騒ぎである。 風が止んだと思ふと、雷が続けざまに三十ヶ所も落ちた。怪我人は出る、家は焼かれる--- ---。そのうちの一つは、処もあらうに、太華宮の乾龍殿といふのに落ちて、王や臣下たちの肝を冷やした。 そのほかにも、王が暫く止まるうちに、色々と災難が西京を見舞つた。流星が落ちるやら、初夏に霜が下りて穀物を台なしにするやら--- ---。かうした思はぬ異変のために、いままで化け通した妙清一派の信用が、滅茶苦茶になつてしまつた。 妙清たちが西京へ都を移さうとする第一の理由は 「禍を避け福を享ける」 といふのにあつた。その禍が、よそならぬ西京で起つたのである。こんどこそ金富軾は黙って見てはゐなかつた。--- --- 形勢を取返すことが出来ないと知つて、妙清一味はつひに本性を露はした。--- 妙清の叛逆が朝廷に聞こえると、王は臣下たちと相談の上、金富軾を元帥に任命して、これを討たせることになつた。金富軾は出陣に先だつて、 「このたびの叛乱には白寿翰や鄭知常それに金安が関係してゐる。この輩から除かねば平らげることは出来ない」 さういつて、先づ三人を宮門の外に曳き出して斬つた。---部下の将軍たち「戦は迅速が第一です。こんなに愚図ついてゐては、敵に用意をさせるやうなものぢやありませんか。なぜ真直ぐに攻めてかからないのですか」金富軾「さうではない。戦にもよりけりで、速いからよいとはかぎらないのだ。賊軍はもう前から充分に用意を整へてゐる。真直ぐに突き進めば、かへつて罠にかかるやうなものだ。それよりは遠廻りをして賊の背後を押へるに越したことはない」---趙匡「この通り奸賊は自分の手で始末しましたから、この上は、どうか朝廷に刃向つた罪を許していただきたい---元帥の仰せに従ひ、妙清の首を朝廷へ届けて詫びを入れました。何分よしなにお計ひ願ひます」金富軾「趙匡の部下がそちら(朝廷)へ行きましたら、手厚く取扱って、せつかく降参した気持を翻へさせぬやうにして下さい」都の大臣たち「趙匡が降参するやうになつたのは、何も金富軾元帥の手柄ではない。朝廷から詔諭使をやつて諭したからだ。趙匡の使をどう扱はうと、そんなことまで指図することはない---金富軾を呼び返して、ほかの大将をやりませう」金富軾「どうか最後まで小臣にお任せになつて下さい。必ず賊は平らげますから--- ---」 金富軾は軍律を厳しくして、城内の人民たちを労はり、一人の命も無駄には取らさなかつた。飢ゑた者には食物をあてがひ、病む者、傷ついた者にも手を施して、すつかり後片付けが済んだ上、十四年の四月、都へ凱旋した。 かうして、仁宋王の代では二度目の、この西京の乱が平定したが、一度は降参までさせながら、かへつて戦を大きくしたのは、ひとへに都の大臣たちの、一を知つて十を知らぬ軽はづみからであつた。 金富軾は二十年まで仁宋王に仕へ、二十三年には「三国志記」を著はして、毅宋王の五年、七十七歳で世を去つた。to be continued.書 名 朝鮮史譚 出版社 発行所=天佑書房 著 者 金素雲 発行年月 1943(昭和18)年1月1日 内容情報 確かな史眼と熱情で語る高麗・李朝の一千年の歴史。高麗の建国;千秋太后;灰になった宮殿;西京の乱;武臣天下二百年;贈送蓮花片;高麗最後の日;善竹橋の血痕;李太祖と無学大師;端宗六臣;恵みの雨;柳の葉;隣の柿;刑場の志士;紫衣娘子;宣祖から正祖まで;摂政大院君 金富軾(きん ふしょく 1075年 - 1151年)
December 26, 2008
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『朝鮮史譚』(金素雲)増補版覚書(昭和十八年六月)よりの抜粋にてご紹介・お薦めに代えさせて頂きます^^世宋王 集賢殿というのは、端宋王にとつては祖父君にあたる第四代の世宋王が興されたもので---世宋王は、歴代の王の中でも第一番に指を折るべき賢君であつた。--- 罪のある者、牢に入れられた者へも、王の仁慈は及ぼされた。 獄を司る者は、どこまでも公平で、心が虚しくなくてはならない。死罪の者を裁くときは、先づ生かすことをはかれ。重罪の者へは少しでも罪を軽くする途を考へよ。事情をよく見きはめ、偽りと真を察しわけて、その上で裁きを下しても「「片手落ち」となることがある。まして威力だけで法を行はうとするのは、わざわざ冤罪をつくるやうなものだ」 王はかう諭され、牢にゐる罪人たちが、病気や寒さのために命を失ふことのないやう、獄制にも一大改革を加へられた。 また、---「三覆法」といつて、死罪にする者を三度しらべなほす掟や、「苔刑(ちけい)」をなくすることや、七十歳以上、十五歳以下には罪を行はない制度など、小さいことに至るまで一々気を配られて、世の中を少しでも明るい、よいものとするために、お骨を折られた。六臣 六月八日、成三問 (せいさんもん)はじめ、李かい(りかい)、河緯地(かゐぢ)、兪応孚(ゆおうふ)の同志たちは、軍器監の前に曳き出されて、車裂きの極刑に処された。朴彭年(ぼくはうねん)、柳誠源(りゆうせいげん)の二人は、その前にすでに牢死してゐた。--- 六臣の忠義の死は---誰一人葬儀ひを営むことも出来なかつたのを、慷慨の僧金時習が、刑場へ行つて骨を拾ひあつめ、鷲梁津へ葬った。これがいまに残る六臣の墓である。to be continued.書 名 朝鮮史譚 出版社 発行所=天佑書房 著 者 金素雲 発行年月 1943(昭和18)年1月1日 内容情報 確かな史眼と熱情で語る高麗・李朝の一千年の歴史。高麗の建国;千秋太后;灰になった宮殿;西京の乱;武臣天下二百年;贈送蓮花片;高麗最後の日;善竹橋の血痕;李太祖と無学大師;端宗六臣;恵みの雨;柳の葉;隣の柿;刑場の志士;紫衣娘子;宣祖から正祖まで;摂政大院君
December 24, 2008
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『朝鮮史譚』(金素雲)増補版覚書(昭和十八年六月)よりの抜粋にてご紹介・お薦めに代えさせて頂きます^^ 妙清は王宮に仕へてゐる白寿翰といふ者と、予てより親しくしてゐた。それでこの寿翰を通じて、仁宋王に「一度西京へ行幸なさるやうに」と、お勧めした。寿翰も同じ西京の生れである上に、やはり陰陽で禄を食んでゐる日官であつた。陰陽師が二人がかりで、方角がどうの、吉凶がどうのと、説きたてるのだから訳はない。王も嘉納して、五年の二月、つひにこの行幸が実現された。 西京へ迎へられた王は、そこへ五ヶ月もとどまつて、その年の七月、都の開城へ還御された。ところが、この行幸は、妙清や寿翰にとつては、まだほんの小手調べに過ぎなかった。〈王都には色々と禍がつづき、宮殿まで殆ど焼かれてしまつた。この機会に王室を説き伏せて、都を西京に移すことが出来れば、その手柄によつて自分たちは功臣に列なり、子孫万代に至るまで栄耀をきはめることが出来る〉 これが、二人の陰陽師の謀し合わせた本当の胆であつた。 この計画は目立たぬやうに、ごく慎重に進められた。大臣の中に西京出身で鄭知常といふ者がゐたが、妙清たちは、やがてこの知常を味方に引入れた。 知常は、悪企みといふよりも、二人の口車をまる呑みに信じてしまつた。それに功臣になれるといふことが、まづ何よりも心を惹いた。 知常の口から説かれて、金安や洪い、李仲俘などの近臣、それに文公仁、林景清などといふ大臣たちが、つぎつぎと抱き込まれた。「宮室が灰になつたといふのも、つまりは都の地勢が衰へてゐるからである。西京は王城の地として申し分のないところ、それに、妙清こそは聖人ともいふべき人で、この人が説くからには万々誤りはない。王様にお勧め申して、是非とも王都を西京へ移すやうに計らうではないか」 誰もが陰陽説に惑はされてゐた時だから、かういふ風に説き立てられて反対をする者はない。「よろしうござる」「結構なことで---」と、即座に意見がまとまり、最後に王に奉る建白書へ一人一人が名を書くことになつた。ところが、重臣の中で、金富軾と、あと二人の人が反対して聴かない。已むなく三人の反対者を除いて宮中の緒も重立つた臣下は全部署名を済ませ、これが王の前に差し出された。to be continued.書 名 朝鮮史譚 出版社 発行所=天佑書房 著 者 金素雲 発行年月 1943(昭和18)年1月1日 内容情報 確かな史眼と熱情で語る高麗・李朝の一千年の歴史。高麗の建国;千秋太后;灰になった宮殿;西京の乱;武臣天下二百年;贈送蓮花片;高麗最後の日;善竹橋の血痕;李太祖と無学大師;端宗六臣;恵みの雨;柳の葉;隣の柿;刑場の志士;紫衣娘子;宣祖から正祖まで;摂政大院君 金富軾(きん ふしょく 1075年 - 1151年)
December 22, 2008
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書 名 朝鮮史譚 出版社 発行所=天佑書房 著 者 金素雲 発行年月 1943(昭和18)年1月1日 内容情報 確かな史眼と熱情で語る高麗・李朝の一千年の歴史。高麗の建国;千秋太后;灰になった宮殿;西京の乱;武臣天下二百年;贈送蓮花片;高麗最後の日;善竹橋の血痕;李太祖と無学大師;端宗六臣;恵みの雨;柳の葉;隣の柿;刑場の志士;紫衣娘子;宣祖から正祖まで;摂政大院君 増補版覚書(昭和十八年六月)よりの抜粋にてご紹介・お薦めに代えさせて頂きます^^ 李資謙の乱が平定して、まだ一年とは経っていなかつた。 その頃、西京(平壌)に、妙清といふ僧がゐたが、予てからこの妙清は、陰陽地理説に精しいといふので、土地の人に頗る信望されてゐた。 陰陽地理説といふのは、人間の吉凶や禍福、喜びも悲しみも、すべては地勢の善し悪しによつて定まるといふ迷信の一つである。この迷信は新羅の末頃から伝はつたもので、道せんといふ僧が唐へ行つて、陰陽説の大家である一行禅師から伝授を受けたのだといはれてゐる。もつとも道せんと一行禅師とは、時代が百年もかけ離れてゐるから、直接に教を受けたといふのは変である。 高麗の太祖などは、道せんのこの陰陽説を重く用ひて、亡くなられるときの遺詔十ヶ条といふのにも、先づ第一に、仏の加護によって建国の大業が成就した事を述べ、 「諸寺院は、何れも道せんが、山水の順逆を占つて建立したものである。濫りに移したり、手を加へたりすれば、必ず禍が至るであらう」 と、戒めてゐる。 人間の体に病があると同じく、山川にも病がある。その病を癒すには、ちゃうど体の悪いとき、灸や鍼をするやうに、寺を建て、塔を設けて、悪い地勢を捕はねばならない。朝鮮はもともと、山や川の形が険しく、そのために国が分れ分れになつたり、朝廷に禍が絶えなかつたりする。その禍を除くためには、どこまでも、この陰陽の理に逆らはぬやう気をつけねばならない---道せんの説いた陰陽地理説の理窟は、大体かうである。 そのほか、悪い土地に墓を造れば、きつと禍が至るとか、反対に勢の強い善い土地に墓を建てた者は、子々孫々まで栄えるとか、---かういふ迷信は「風水説」といつて、つい最近まで人々の頭に刻みつけられてゐた。まして八百年の昔である。妙清がこの陰陽説を持出して、土地の人達の崇敬を集めたり、やがては宮中に勢を張つて、一国の王まで動かしたといふのも、さまで不思議な話ではない。to be continued. 金富軾(きん ふしょく 1075年 - 1151年)
December 21, 2008
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金素雲氏の、ハングル版『諺文(おんもん)朝鮮口伝民謡集』は、1933年、土田杏村氏(「その当時肺患で寝たままで膨大な著述を絶え間なく出していた)と新村出博士(京都帝大)の助力で、東京の第一書房から出版されました。 また口伝民謡の原文から選んで、新たに日本語訳の原稿を作った。四年前に出した『朝鮮民謡集』は詩心に重きを置いた意訳である点に不満があったので、今度は原歌に忠実たらんことを期し、歌詞一つ一つに原文の歌詞の番号を付して対照できるようにした。--- 富も貴も願わないが、口伝民謡の整理にもう少し時間を使えたなら---、三段七百頁の歌詞一つ一つが私の郷土の心のふみ跡なり生活情緒の記録なのだ。民間習俗や生活様式の変遷、そんな難しい問題はさておいて、まず方言研究一つをとっても、口伝民謡は二つとない宝庫である。 口伝民謡を第一書房から出すとき方言索引をつけるはずだったが、その索引だけでざっと三、四百頁を越える計算、やむを得ず初句索引だけであきらめる外なかった。--- この一事だけは私の手で成しとげておきたい---けれども、目前に緊急事がある--- この日本語訳原稿を出版社に渡して金をつくらねばならない。 脇の下に抱えた風呂敷の中には、出版社で断られた日訳民謡集の原稿が入っている。--- 岩波書店の社長を父から受け継いだ青年だと思うほどに粗雑な私の認識だった。「私が岩波茂雄でございます」---ギョロリとした目にカボチャのような作りの顔---置いて行けという原稿を彼にあずけ---あくる年の正月、こうして『朝鮮童謡選』が---続いて八月に『朝鮮民謡選』が同じ岩波文庫版で刊行された。--- 悲哀と絶望に衝きあたった私の弱い心を叱り、鞭打ってくれる師、---〈岩波茂雄〉という名前は、出版人と著者というつながりを越えて、ましてや民族と民族との距離を越えて、私の行く手に灯を照らしてくれ、人格の真の意味を私に教えてくれた、人生行路の師表だった。 以上は、書 名 『天の涯に生くるとも』 出版社 発行所=新潮社 著 者 金素雲 印刷年月 1983年5月20日 より抜粋しました。
December 16, 2008
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『天の涯に生くるとも』(金素雲)より---ひとひらの雲 黒い雲の抜粋にて、個人的に“お薦め~な一冊”のご案内です^^ (十七年過ぎた後日談であるが、太平洋戦争で日本が次第に不利になると、静子の愛国心は限度を越して、全く別の〈日本人〉に還元してしまった。〈人間〉がしりぞいて〈民族〉が前面に立つようになって、静子との仲は終りを告げ、私たちは他人になった。) 血の引力 〈人間〉は〈民族〉に優先するというのが私の持論だったけれど、静子との何年間かの同居生活で異民族間の結婚が幸福ではないと、私は身に沁みて思い知らされた。 言葉や文字では形容できない不可思議な〈血〉の引力------、婦人のコムシン(朝鮮靴)を見ても胸がときめく郷愁------、暗い座席に坐って映画を観ていても、ある感動的な場面で顔を向けるのは 妻である静子の方ではなく、反対側に坐っている韓国服のよその奥さんだという、こんなうら寂しいナンセンスを、異民族との結婚生活を経験しない人は多分理解できぬことだろう。
December 12, 2008
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『天の涯に生くるとも』(金素雲)より---殿様のひげ の抜粋にて、個人的に“お気に入り~な一冊”をご紹介します^^ ---賢い人びと はたしてM氏、S氏だけか! 日本の女性を愛することができ、愛人にすることはできるが、妻には娶らないという志士たちは、世の中に珍しくない。しかし、この論理を私は認めることが出来ない。恋愛は一対一---けれども結婚はそうはいかない。そこには父母、兄弟、親戚があり、社会がある。---だからと言ってこんな論理が成立するだろうか? これについてはもっと書きたいことが沢山ある。けれども他のことはともかく、この一言だけでしめくくることにしよう。---〈人間〉それは民族に優先するということ---。民族のあとに人間が生まれたのではなく、人間があってこそ民族があるということ---これである。 功利と打算のみでうまく立ちまわる人間が、どうして自分の民族を愛することができようか!--- 私は静子に〈日本人〉を意識したことがない。意識するとしても、人間的な結びつきの方が遥かに先に立った。良い〈朝鮮人〉になってください、と言う彼女の期待を裏切らぬよう、私としては努力したつもりである。 そこがよその国でなく、私が肉親の縁の薄い孤独の身でなかったらなら、そんな結婚はしなかったかも知れない。異国の地で偶然生まれた機縁---その機縁を合理化しようというつもりはない。けれども、M氏やS氏のように賢くなれない私自身を、別に後悔したつもりもなかった。いわんや、そうすることで私の祖国、同胞を裏切ったという考えも持ったことがない。
December 11, 2008
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金 纓(キムヨン)さん(父は韓国の詩人・文学者、金素雲。子は歌手、沢知恵)『それでも私は旅に出る ―― チマ・チョゴリの日本人,世界へ ―― 』(岩波書店) より 「なぜ旅をするのか」と訊かれるたびに、父・金素雲が日本語に訳した「南に窓を」という朝鮮の詩の最後の部分を思い出す。 田舎で質素な生活をしている人が、「なぜ生きるのか」と訊かれて、なにも答えられず「ただ笑う」という内容のものだ。 ここで「笑う」というのは、もちろん大声で笑うのではなく、微笑みとも違う。答えに困って、やや自嘲気味に浮かべる笑みのことだ。 それを父は、「なぜ生きるかって、さあねえ」と訳して、優れた訳文の例として評価されている。 私も正確には答えられないから、「なぜ旅をするかって、さあねえ」とごまかしの笑みを浮べるしかない。--- 「主人(金素雲)の良いところを全部受け継いだのが、娘の纓です」 あんなに父を嫌って、別れはしなかったが会うこともなかった母が、それでも父に良いところがあると認めていたとは。・・・私のどの点を良いと思っていたのか。生きていれば訊いてみたいところだ。---金素雲(キムソウン)さん『朝鮮詩集』(岩波文庫)より南に窓を 金尚(金+容)キムサンヨン 金素雲訳南に窓を切りませう畑が少し鍬で掘り手鍬(ホミ)で草を取りませう。雲の誘いには乗りますまい鳥のこゑは聴き法楽です唐もろこしが熟れたら食べにおいでなさい。なぜ生きてるかつて、さあね ------。金 時 鐘(キムシジョン)さん(79)=奈良県生駒市=『再訳 朝鮮詩集』(岩波書店)より 南に窓を 金尚(金+容)キムサンヨン 金時鐘訳南に窓をしつらえるとしますひとりで耕せそうな畑を鍬で掘り手鍬(ホミ)では雑草を取ります。雲が賺(すか)したとてその術(て)に乗りましょうゃ鳥の歌は只で聴きとうございます。唐もろこしが熟れたら共にいらして召し上がっても結構です。なぜ生きてるってですか?そういわれても笑うしかありませんね。
December 10, 2008
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書 名 朝鮮童謡選 出版社 発行所=岩波文庫 著 者 金素雲 発行年月 1933年1月15日“わが郷土の おさなごころの上に---序にかえて”(一九三二年十一月)よりの抜粋にて、この本のご紹介とお薦めに代えさせて頂きます。 さて、君たちの生活観や現実に対する心構えはどうであろう?驟雨に晴衣を濡らすことがあっても、足の運びは早めない---、そうした「沈着」と「余裕」を君たちの父祖は人格の本道として愛した。古い昔から、絵画や工芸美術、衣の紐や舞の手に現れた柔和な線の持ち味が、何よりもよくこの民族性を反映している。閑雅なこの伝統を継承する君たちに、殺伐な武勇の精神が分る筈はない。「桃太郎」の凱旋が君たちにとってはこの上なく退屈であるように、君たちには君たちだけが知る心情の世界があり、その世界だけで君たちは思うさま翼を拡げて君たちの精神の高さを翔けることが出来るのだ。日本の童謡では「蝸牛(かたつむり)」を見て「角出せ、槍出せ」と言い「出さなきゃ鋏でチョン切るぞ」と脅すが、君たちは武骨な注文の代わりに「長鼓(チャング)を鳴らし、舞をまえ」と所望する。この飽くまで温雅な性情は、しかし時として君たちの柔和を「柔弱」と置換えてはいないか?自然児の溌剌たる魂を持ちながら、生活に向けられる君たちの意欲はとかく控え目で遠慮がちだ。---「広くもない三間ほどの、それも草葺の陋屋に、両親を迎えて末永く暮らしたい--- ---。」これは朝鮮全道で膾炙された代表的な君たちの歌だ。日本童謡の「お月さんいくつ、十三七つ」に匹敵する歌であるが、君たちは兎の餅搗は「まだ年ゃ若い」と擬人的に呼びかける代りに、漢詩人の名や、金、玉、桂などの財宝を数えている。漢詩人と言えば、儒教文化の移植が君たちに及ぼした影響も夥しいものだ。孝道を基本とした生活の理想や「科挙」「登官」に対する憧憬が到るところで見受けられるのも、李白を隣村の翁ほどに親しく思う君たちなればこそだ。---しかしながら、・・・ここに訳された童謡も、僅少な例外を除いて大方は忘れ去られたであろう。それはよい。私とて君たちに過去帳の復読をさせようとは願わない。ただ・・・「きのう」を忘れて成立つ「あす」はない。古い礎石の上に新たな「今日」を打建てることは、君たちに許された荘厳な権利でもある。文化の精神の上で迷子となるな。・・・君たちに伝える切実な私の希求はこれだ。 世紀は開ける。君たちの背後には暗い歴史が続いた。今こそ君たちの手で、君たちの鶴嘴で、新たな光明を打拓くのだ。・・・ 朝の微風が君たちを呼ぶ。蒼空は君たちの上にある。
December 9, 2008
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書 名 『天の涯に生くるとも』 出版社 発行所=新潮社 著 者 金素雲 印刷年月 1983年5月20日 ---新興寺(シンフンサ)の寺めし 食膳が運ばれてくるのを待ちながら、・・・私は窓の外で遊ぶ幼い子供たちをじっと見ていた。ようやく学校に上ったか上らないくらいの小さな子が、三、四人---日本語で歌を歌いながら毬つきをしていた。「サイジョウサンワ キリフカシ、チクマノカワワ ナミタカシ--- ---」 日本の子供たちが毬つきをする時に歌う〈手毬唄〉だ。 私は庭におり、唄を歌っていた子供の一人に聞いてみた。「サイジョウサンてなんだね?」 幼い少女の答は、やはり私が考えていた通りだった。「西城さんという人の名前じゃないの」 その一言が私の幼い頃の記憶を甦らせた。「モモタラ ウマレタ モモカロウ--- ---」。 幼い頃、私は意味もわからずに支離滅裂に、桃太郎の歌を、このように「タ」と「カ」を入れ替えて歌った。西城山は・・・ 予期しないあるきっかけが一人の人間の人生行路を決める、という話がよくある。歪んだ情緒生活の中で「片輪」に育つわが郷土の子供たちに私を結び付けたきっかけは〈新興寺の寺めし〉これだった。 一九三三年春のことだ。父祖の言葉、母親の言葉で書けず、意味もわからぬ他人の言葉で歌わねばならない子供たち---、政治的にはたとえ彼らの支配下にあったとて、天が与えた童心の純粋さがこのように踏みにじられねばならぬものなのか? その年の一月に出た岩波文庫『朝鮮童謡選』 の冒頭に、・・・目頭を濡らしながら・・・わが祖国、わが郷土を愛しながらも、「愛する」と一言口に出せなかった頃---、抑圧された激情、身にしみた懐かしさが・・・延々十二ページに及ぶこのような序文を、私は岩波文庫のはしがきに付した。 まめに本でも出して一歩ずつ地盤を固めて行くこと、それが、言わば誰にも考えられる進路だ。しかし、私は私自身の名声とか立身出世は念頭になかった。誰が負わせた任務というのではないが、一人が腐ることで、私の郷土の童心にひとつかみの肥しになるならと---、それが「私」という存在をより有意義に使う道だと考えた。
December 6, 2008
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書 名 『近く遥かな国から 』 出版社 発行所=新潮社 著 者 金素雲 印刷年月 1979年12月10日 ドンキホーテの夢 たかがパンフレット一部---、だが、ここには実を結ばずに消え去った二十年前の私の夢が、頁毎に滲み出ている。いつかも「こどもの雑誌」のくだりで同じようなことを書いたと思うが、人間の生き方の上で「何をしたか?」よりは「何をしようとしたか?」が、はるかに重要な意味を持つ場合がある(---敗者の負け惜しみと取る人もあろうけれど)。・・・ 「何をしようとしたか?」の具体的な俯瞰図である。一、現在韓国で発行される日刊新聞、雑誌、単行本など、一切の刊行物を細大漏らさず蒐集する。一、この図書室を中心に、週二回、在日韓国学生の有志が集合、主だった記事の選択及び翻訳について協議し、分析する。金素雲がその指導に当る。一、それらの資料を整理編集して毎月一回〈ダイジェスト・コリア〉(韓国文化資料)を継続発行。範囲は政治・経済の動向を始め、文学(詩・創作・戯曲・随筆)・音楽・美術・演劇・映画に亘る文化全般の消息、新聞記事の抜粋等、文化活動及び生活相の一切を反映し、一目瞭然たらしめる。古典及び、歴史的史実・人物の紹介をも留意。一、日韓両国に関連する日本側の言論及び、日本人識者層の寄稿をも併せ掲載する。一、毎号一万部を発行。大部分を寄贈に充て、その一部を有価誌とする。一、寄贈先---〈文芸年鑑〉収録の文化人名簿全員(約三二〇〇名)へ個別郵送、法人団体・学校・官庁・銀行・会社・出版社・新聞社・雑誌社(韓国人団体を含む)へは適宜部数をそれぞれ回覧誌として寄贈する。一、以上の方式を一ヵ年間継続、その期間中に会員組織を整え(名誉会員・特別会員・正会員)第二年以後の自律的維持を図る。随って第二年以後は発行部数を減じ、会員のみに発送、寄贈制度を廃する。一、コリアン・ライブラリーの同人(主として学生)には必要に応じ定額の学費を支給する。一、専任の編集員・事務員を置き、経理の明細は毎期(三ヵ月)毎に誌上に報告する。一、ダイジェスト・コリアの発行による一石五鳥。 〈イ〉日本の政治人・経済人・文化人の各界各層に韓国の今日を赤裸々に紹介し、その認識と理解を助長する。 〈ロ〉日本在住の韓国人同胞に本国の実状を知らしめる。 〈ハ〉少数の志ある韓国学生にチーム・ワークの喜びをもたらし、多少なりともその経済的不安を緩和する。 〈ニ〉従来の個人的任務が組織的共同体に肩代りされることにより、文化交流の方式と手段が拓かれる。例えば、韓国美術展、講演会の開催など。 〈ホ〉現在日本国内には、韓半島を“ふるさと”と懐かしむ多くの日本人がおり、誌面の効用によってそれらの人々の横の連絡と親和に寄与する。
December 5, 2008
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