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作品名: 縷紅新草 作品名読み: るこうしんそう 著者名: 泉 鏡花 縷 紅 新 縷一あれあれ見たか、 あれ見たか。二つ蜻蛉(とんぼ)が草の葉に、かやつり草に宿をかり、人目しのぶと思えども、羽はうすものかくされぬ、すきや明石に緋ぢりめん、肌のしろさも浅ましや、白い絹地の赤蜻蛉。雪にもみじとあざむけど、世間稲妻、目が光る。 あれあれ見たか、 あれ見たか。四あれあれ見たか あれ見たか…………………「あれあれ見たか、あれ見たか、二つ蜻蛉が草の葉に、かやつり草に宿かりて……その唄を、工場で唱いましたってさ。唄が初路さんを殺したんです。 細い、かやつり草を、青く縁へとって、その片端、はんけちの雪のような地へ赤蜻蛉を二つ。」 お米の二つ折る指がしなって、内端(うちは)に襟をおさえたのである。「一ツずつ、蜻蛉が別ならよかったんでしょうし、外の人の考案で、あの方、ただ刺繍だけなら、何でもなかったと言うんです。どの道、うつくしいのと、仕事の上手なのに、嫉み猜みから起った事です。何につけ、かにつけ、ゆがみ曲りに難癖をつけないではおきません。処を図案まで、あの方がなさいました。何から思いつきなすったんだか。――その赤蜻蛉の刺繍が、大層な評判だし、分けて輸出さきの西洋の気受けが、それは、凄い勢で、どしどし註文が来ました処から、外国まで、恥を曝すんだって、羽をみんな、手足にして、紅いのを縮緬のように唄い囃して、身肌を見せたと、騒ぐんでしょう。」(巻初に記して一粲(いっさん)に供した俗謡には、二三行、・・・脱落があるらしい、お米が口誦(くしょう)を憚(はばか)ったからである。)「いやですわね、おじさん、蝶々や、蜻蛉は、あれは衣服を着ているでしょうか。――人目しのぶと思えども羽はうすもの隠されぬ―― それも一つならまだしもだけれど、一つの尾に一つが続いて、すっと、あの、羽を八つ、静かに銀糸で縫ったんです、寝ていやしません、飛んでいるんですわね。ええ、それをですわ、――世間、いなずま目が光る――――恥を知らぬか、恥じないか――と皆でわあわあ、さも初路さんが、そんな姿絵を、紅い毛、碧い目にまで、露呈(あらわ)に見せて、お宝を儲けたように、唱い立てられて見た日には、内気な、優しい、上品な、着ものの上から触られても、毒蛇の牙形(はがた)が膚に沁みる……雪に咲いた、白玉椿のお人柄、耳たぶの赤くなる、もうそれが、砕けるのです、散るのです。 遺書(かきおき)にも、あったそうです。――ああ、恥かしいと思ったばかりに――」「一体また二つの蜻蛉がなぜ変だろう。見聞が狭い、知らないんだよ。土地の人は――そういう私だって、近頃まで、つい気がつかずに居たんだがね。・・・町充満(いっぱい)、屋根一面、上下、左右、縦も横も、微紅い光る雨に、花吹雪を浮かせたように、羽が透き、身が染って、数限りもない赤蜻蛉の、大流れを漲(みなぎ)らして飛ぶのが、行違ったり、卍(まんじ)に舞乱れたりするんじゃあない、上へ斜、下へ斜、右へ斜、左へ斜といった形で、おなじ方向を真北へさして、見当は浅草、千住、それから先はどこまでだか、ほとんど想像にも及びません。・・・また、おなじように飛んでいる。群れて行く。歯科医で、椅子に掛けた。窓の外を、この時は、幾分か、その数はまばらに見えたが、それでも、千や二千じゃない、二階の窓をすれすれの処に向う家の廂見当、ちょうど電信、電話線の高さを飛ぶ。それより、高くもない。ずっと低くもない。どれも、おなじくらいな空を通るんだがね、計り知られないその大群は、層を厚く、密度を濃(こまや)かにしたのじゃなくって、薄く透通る。その一つ一つの薄い羽のようにさ。いまの蜻蛉の群の話は。それがね、残らず、二つだよ、比翼なんだよ。その刺繍の姿と、おなじに、これを見て土地の人は、初路さんを殺したように、どんな唄を唱うだろう。 みだらだの、風儀を乱すの、恥を曝すのといって、どうする気だろう。浪で洗えますか、火で焼けますか、地震だって壊せやしない。天を蔽い地に漲(みなぎ)る、といった処で、颶風(はやて)があれば消えるだろう。儚いものではあるけれども――ああ、その儚さを一人で身に受けたのは初路さんだね。」泉鏡花・妖美幻想の世界 ペーパームーン出版社: 新書館 発行年月: 1979年10月
February 21, 2008
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万華鏡花より言 狂 葉 照 「ふむ、あんな奴《やつ》の敷《し》いたものに乘《の》つかる奴《やつ》が有《あ》るもんか。彼奴等《あいつら》、おい、皆乞食《みんなこじき》だぜ。踊《をど》つてな、謡唄《うたうた》つてな、人《ひと》に銭《ぜに》よウ貰《もら》つてる乞食《こじき》なんだ。内《うち》の父樣《おとつさん》なんかな、能《のう》も演《や》るぜ。む、謡《うたひ》も唄《うた》はあ。而《さう》して上手《じやうず》なんだ。而《さう》して然《さ》ういつてるんだ。眞個《ほんと》のな、お能《のう》といふのは男《をとこ》がするもんだ。男《をとこ》の能《のう》は眞個《ほんたう》の能《のう》だけれど、女《をんな》のは乞食《こじき》だ。そんなものが敷《し》いて寄越《よこ》した蒲團《ふとん》に乘《の》るとな、汚《けが》れるぜ。身《からだ》が汚《けが》れらあ。ひちりけつばいだ、退《ど》け!」 踏《ふ》みこたへて、 「何《なに》をする。」 「何《なん》でえ、おりや士族《しぞく》だぜ。退《ど》け!」 國麿《くにまろ》は擬勢《ぎせい》を示《しめ》して、 「汝平民《きさまへいみん》ぢやあないか、平民《へいみん》の癖《くせ》に、何《なん》だ。」 「平民《へいみん》だつて可《い》いや。」 「ふむ、豪勢《がうせい》なことを言《い》はあ。平民《へいみん》も平民《へいみん》、汝《きさま》の内《うち》や藝妓屋《げいしやゝ》ぢやあないか。藝妓《げいしや》も乞食《こじき》も同一《おんなじ》だい。だから乞食《こじき》の蒲團《ふとん》になんか坐《すわ》るんだ。」 われは恥《はづ》かしからざりき。娼家《しやうか》の兒《こ》よと言《い》はるゝ毎《ごと》に、不斷《ふだん》は面《おもて》を背《そむ》けたれど、恁《か》ういはれし此時《このとき》のみ、われは恥《はづか》しと思《おも》はざりき。見《み》よ、見《み》よ、一《ひと》たび舞臺《ぶたい》に立《た》たむか。小親《こちか》が輕《かろ》き身《み》の働《はたら》、躍《をど》れば地《ち》に褄《つま》を着《つ》けず、舞《まひ》の袖《そで》の翻《ひるがへ》るは、宙《そら》に羽衣懸《はごろもかゝ》ると見《み》ゆ。長刀《なぎなた》かつぎてゆらりと出《い》づれば、手《て》に抗《た》つ敵《てき》の有《あ》りとも見《み》えず。足拍子踏《あしびやうしふ》んで大手《おほで》を擴《ひろ》げ、颯《さつ》と退《ひ》いて、衝《つ》と進《すゝ》む、疾《と》きこと電《いなづま》の如《ごと》き時《とき》あり、見物《けんぶつ》は喝宋《かつさい》しき。輕《かろ》きこと鵞毛《がまう》の如《ごと》き時《とき》あり、見物《けんぶつ》は喝采《かつさい》しき。重《おも》きこと山《やま》の如《ごと》き時《とき》あり、見物《けんぶつ》は襟《えり》を正《たゞ》しき。うつくしきこと神《かみ》の如《ごと》き時《とき》あり、見物《けんぶつ》は恍惚《くわうこつ》たりき。かくても見《み》てなほ乞食《こじき》と罵《のゝし》る、然《さ》は乞食《こじき》の蒲團《ふとん》に坐《ざ》して、何等疚《なんらやま》しきことあらむ。われは傲然《がうぜん》として答《こた》へたり。 「可《い》いよ乞食《こじき》、乞食《こじき》だから乞食《こじき》の蒲團《ふとん》に坐《すわ》るんだ。」 「何《なん》でえ。」 國麿《くにまろ》は眼《まなこ》を圓《つぶら》にしつ。 「何《なん》でえ、乞食《こじき》だな、汝乞食《さきまこじき》だな、む、乞食《こじき》がそんな、そんな縮緬《ちりめん》の蒲團《ふとん》に坐《すわ》るもんか。」 「可《い》いよ、可《い》いよ、私《あたい》、私《あたい》はね、こんなうつくしい蒲團《ふとん》に坐《すわ》る乞食《こじき》なの。國《くに》ちやん、お菰敷《こもし》いてるんぢやないや。うつくしい蒲團《ふとん》に坐《すわ》る乞食《こじき》だからね。」 國麿《くにまろ》は赤《あか》くなりて、 「何《なに》よう言《い》つてんだい。おい貢《みつぎ》、汝《きさま》そんなこと言《い》つて可《い》いのかな、歸途《かへり》があるぜ。」 ・・・「へ、あやまるかい。うむ、あやまるなら可《い》いや。ぢやあ可《い》いから、な、其座蒲團《そのざぶとん》に一寸己《ちよつとおら》をのツけてくれないか、其處《そこ》を退《ど》いて。さあ、」 國麿《くにまろ》はヌと立《た》ちつゝ、褄取《つまと》りからげて、足《あし》を、小親《こちか》がわれに座《ざ》を設《まう》けし緋鹿子《ひかのこ》に乘《の》せんとす。止《や》むなく、少《すこ》しく身《み》を退《ひ》きしが、唯見《とみ》れば足袋《たび》を穿《は》きもせで、そこら跣足《はだし》にてあるく男《をとこ》の、足《あし》の裏太《うらいた》く汚《よご》れて見《み》ゆ。こゝに乘《の》せなばあとつけなむ、土足《どそく》に此《こ》の優《やさ》しきもの踏《ふ》ますべきや。 「いけないよ。」 「何《なん》だ ‥‥‥ 」 ・・・「もし、旦那樣《だんなさま》、あの、乞食《こじき》の蒲團《ふとん》は、否《いや》です、私《わたし》が貴方《あなた》にや敷《し》かせないの。私《わたし》の蒲團《ふとん》です。渡《わた》すことはなりません。」 と聲最《こゑい》とすゞしくいひ放《はな》てり。 「よく敷《し》かせないで下《くだ》さいました。お前《まへ》さん、何處《どこ》も何《なん》ともないかい。酷《ひど》いよ、亂暴《らんばう》ツちやあない。よくねえ、よく庇《かば》つて下《くだ》すツたのね。樂屋《がくや》で皆《みんな》がせりあつて、やう/\私《わたし》が、あの私《わたし》のを上《あ》げたんですもの。他人《ひと》に敷《し》かれて堪《たま》るものかね、お歸《かへ》りよ、お歸《かへ》り遊《あそ》ばせよ。あなた!」 「何《なん》でえ、乞食《こじき》の癖《くせ》に、失敬《しつけい》な、失敬《しつけい》ぢやあないか。お客《きやく》に向《むか》ツて歸《かへ》れたあ何《なん》だい。」 「おからだの汚《けがれ》になります。ねえ。」 とわが顔《かほ》に頬《ほゝ》をあてゝ、瞳《ひとみ》は流《なが》るゝ如《ごと》く國麿《くにまろ》を流眄《しりめ》に掛《か》く。國麿《くにまろ》は眉《まゆ》を動《うご》かし、 「馬鹿《ばか》、年増《としま》の癖《くせ》に、ふむ、赤《あか》ン坊《ばう》に惚《ほ》れやがつたい。」 「え、」 と顔《かほ》を赧《あか》らめしが、 「何《なん》ですねえ、存《ぞん》じません。何《なん》の、贔屓《ひいき》になすつて下《くだ》さるお客樣《きやくさま》を大事《だいじ》に為《し》たつて、何《なに》が、何《なに》が、をかしうござんすえ。」 「をかしいや、そんな小《ち》ツぼけなお客樣《きやくさま》があるもんか。」 「あら、私《わたし》ばツかりぢやありません。姉《ねえ》さんだツて、然《さ》ういひました。そりや御贔屓《ごひいき》になすツて下《くだ》さるお客《きやく》も多《おほ》いけれど、何《なん》の氣《き》なしに唯《たゞ》おもしろがつて見《み》て下《くだ》さるのは此《こ》のお兒《こ》ばかり。あなた御存《ごぞん》じないんでせう。當座《こちら》ではじめてから毎晩《まいばん》、毎晩來《まいばんき》て下《くだ》すつて、あの可愛《かはい》らしい顔《かほ》をして傍見《わきは》もしないで見《み》て居《ゐ》て下《くだ》さるぢやありませんか。此《この》お年紀《とし》で、お一人《ひとり》で、行儀《ぎやうぎ》よく終番《しまひ》まで御覧《ごらう》なすつて、欠伸一《あくびひと》ツ遊《あそ》ばさない。 手品《てじな》ぢやアありません、獨樂廻《こままは》しぢや有《あ》りません。球乘《たまのり》でも、猿芝居《さるしばゐ》でも、山雀《やまがら》の藝《げい》でもないの。狂言《きやうげん》なの、お能《のう》なの、謡《うたひ》をうたふの、母樣《おつか》さんに連《つ》れられて、お乳《ちゝ》をあがつて在《い》らつしやる方《かた》よりほか、こんな罪《つみ》のない小兒衆《こどもしう》のお客樣《きやくさま》がもウ一人《ひとり》ござんすか。 目《め》につきました、目立《めだ》ちました。他《ほか》のお客樣《きやくさま》には何《ど》うであらうと、此《こ》の坊《ばつ》ちやんだけにや飽《あ》かしたくない。退屈《たいくつ》をさしたくない、三十日《にち》なり、四十日《にち》なり、打《う》ち通《とほ》すあひだ來《き》ていたゞきたい、おもしろう見《み》せてあげたいと、然《さ》う思《おも》つたが何《ど》うしました。‥‥‥ 眞個《ほんたう》に藝人冥利《げいにんみやうり》、恁《か》ういふ御贔屓《ごひいき》を大事《だいじ》にするは當前《あたりまへ》でござんせんか。しのぶも、小稻《こいな》も、小幾《こいく》も、重子《しげこ》も、みんな弟子分《でしぶん》だから控《ひか》へさして、姉《ねえ》さんのをと思《おも》つたけれど、私《わたし》の方《はう》が少《わか》いからお對手《あひて》に似合《にあ》ふといふので、私の座蒲團をあげたんですわ。何も年増《としま》だの、何のつて、貴方に、そ、そんなことを言はれる覺えはない!」 と太《いた》く氣色《けしき》ばみ言ひ開きし。・・・ 旧の彼の酒屋の土蔵の隣なりし観世物小屋は、あとも留めずなりて、東警察とか云ふもの出来たり。・・・ 何か苦しかるべき。この姿して、この舞台に立ちて、われは故郷の知人に対して聊かも恥づる心なかりしなり。 されども知りたるは多からず。小路を行交ふ市人も凡てわが知れりしよりは著しく足早になりぬ。活計(たつき)にせはしきにや、夜毎に集ふ客の数も思ひ較ぶればいと少なし。・・・※補足『文明開化と差別』 著者: 今西一 出版社: 吉川弘文館 発行年月: 2001年10月
February 19, 2008
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『鏡花全集 別巻』泉鏡花 著 鏑木清方(他)編岩波書店 版 1976年03月 発行 編 後 聞 紀 劍 妖 「爺やさんは御存じでございませう、ご近所の、汚れた女でございます。私たちが近よりますと、水も濁ります、燈の色も暗く成ると世間の人に言はれます。---其の汚れが洗ひたさ、血筋の血を浄めたさに。---「あなたは、御経を覚えたさに、口の中へ剣を呑んで悪血をお吐き遊ばす。私は恋の叶へたさに、張切れそうな乳を裂いても、濁った血を洗はうと、御本堂へ忍びました。・・・早く此処が、あの、此処が、自分で切って、切りたくて切りたくて手でむしるほど心が忙きます。最う一度お目にかかりたさに、生命に未練がありますものを。まだ突きも出来ません。・・・すぐにも切って、切り裂いて、血の洗ひたさ、片時も我慢が出来ないのに、切れば生命がなくなります。・・・「あれ、貴方。」「確乎なさいよ。」「お身体が汚れますよ。」「馬鹿な。」 そ思切ったやうに、潔く言ひました。「否、貴方はあの杜若を、すぐにお棄てなさいました。」 と、凝視めた涙に、紫色はなけれど、瞳を紅い露が散る。 少年は、思はず確乎と肩を抱いて、「高松清三郎一生の過失---堪忍して下さい、姐さん。」 と歯で刻んで言ひました。・・・ がッくり膝に倒れた時、面の雪に照映ゆる、氷の如き剣の刃を、縦に含むで、切先から、血のかたまりを吸ひました。 此の時、含んだ唇に、舌に、匂、・・・にえ、焼、金色、剣の鍛を神会しました。--- 即ち水底の巖は細工場、窟は吹鞴、椅子は鉄床、湧く紫の玉ちる湯加減、迸る血の火加減、色も心も恋人を、其のままに鍛へなす、神の教か、魔の手の名工、当代第一の刀鍛冶。 清三の訓を其のまま名告に、みづから非人と銘打つた、巨匠、非人清光は、此の少年でありました。
February 18, 2008
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『鏡花全集 別巻』泉鏡花 著 鏑木清方(他)編岩波書店 版 1976年03月 発行 編 前 聞 奇 劍 妖 海邊《うみべ》だと繪《ゑ》に描《か》いて、蛤《はまぐり》が煙《けむり》を噴《ふ》きさうな茅茸《かやぶき》の低《ひく》い小家《こいへ》がありました。いづれも非人《ひにん》小屋《ごや》、穢多《ゑた》の住居《すまゐ》なのでありまして、唯《たゞ》これだけを、こぼれの宿《しゆく》とも呼《よ》びました。・・・ 「姉《ねえ》さん。」 清《せい》三郎《らう》が、何とした、つか/\と引返《ひつかへ》した。引返《ひつかへ》したと思《おも》ふと、流《ながれ》の岸に袴《はかま》を折つて低く居《ゐ》て、 「あの、私に此《こ》の花を下さいませんか。」 武藏野《むさしの》の歌《うた》の風情《ふぜい》を其《そ》のまゝに、紫《むらさき》の一本《ひともと》の、 一輪こゝに咲いて居《ゐ》て、鳥追《とりおひ》の娘《むすめ》とは、狭《せま》い 一《ひと》つ橋を隔《へだ》てゝ、男《をとこ》が却《かへ》つて、根占《ねじ》めのやうに、水《いたみづ》の活《い》けたる、雙《さう》の花《はな》。 「えゝ、何の、まあ ‥‥‥ 」 と、顏を仰《あふ》がれ目眩しさうに、颯《さつ》と瞼《まぶた》の染まる時、美少年も、玉《たま》の如《ごと》き額《ひたひ》の汗を拭きました。 「おつしやる事はありません、お取りなさいましとも ーー と申《まを》しました處《ところ》で、水にひとりで咲《さ》きました、まあ、私《わたし》のものゝやうに差上《さしあ》げがましくつてお恥う存じます、 ーー あれ貴方《あなた》 ーー 」 ・・・ 嗜《たしな》みに持つた新い手拭を、手を清《きよ》めよとて流越《ながれご》しに、 「はい。」 と出すのを、 「いゝえ。」 手《て》は汚《よご》れはしませんと、清三郎は、袴《はかま》のあひゞきに納めました、片手に花を捧《さゝ》げながら。 ・・・ まだ早咲《はやざき》なので、莟《つぼみ》を解いた花の數《かず》は、數《かぞ》へてお町《まち》が知《し》つて居《ゐ》た。 ーー 苅《か》つて棄《す》てる薄《すゝき》さへ、三日《みつか》の月《き》、七日《なぬか》の頃は、水に一穂《ひとほ》も落ちはせぬ。 其の人《ひと》の立去つたあたりから、こゝに流れた杜若《かきつばた》、流したぬしは知れませう。 「清三郎どの、今のは穢多《ゑた》ぢやぞ。御身《おみ》が汚《けが》れる。」 「えゝ、汚《けが》らはしい、出世の前だ。」 玄之進と諸聲《もろごゑ》の、言《ことば》の下に、清三郎は、思はず手を離して水に棄てた。・・・ 篇笠《あみがさ》を透く濃い睫毛の、ぱつちりとした目元から、其の花に、はら/\と落ちた雫は玉の散るより輝きました。 此の時、大洗堰《あらひぜき》の瀧の音が、谺《こだま》をするかと、二つ、二つの水底の穴に落ちるやうに、どゞと物凄《ものすご》く聞こえました。森を越えて目白《めじろ》臺《だい》まで屹《きつ》と響いたに相違《さうゐ》ない。・・・ 崖添の垢離《こり》場の土手に、朦朧と立つた婦《をんな》が一人、帶を手繰つて弱腰をすらりと脱ぐと、捌《さば》けて曳いた裳《もすそ》とともに、撫肩をするりと落す。其處《そこ》に色の燃ゆるやうな姿が見えたが、其《それ》も瀬の影に奪はれると、たゞ引結《ひきゆ》ふたは腰ばかり、眞白な雪の膚が、角《つの》ぐむ、蘆《あし》に膝から消えて、水に次第に沈む胸に、杜若《かきつばた》の花を抱いて居て、ふつくりと乳の裏すく流の、やがて、それも沈みました。七日《なぬか》月《づき》の廣刃《ひろば》の鎌《かま》が閃《ひらめ》いて、掻切《かきゝ》つたやうに、痛々《いた/\》しくも首ばかり、頬にあてた花も黒髪の鬢《びん》はかくれて、瀧が音なく、姿見《すがたみ》を並べて掛けると、人を捕る魔の大鉛盤《おほすりばち》小鉛盤が、ざつ/\と鳴るのでありました。
February 16, 2008
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泉鏡花女 の 緒 由「川太や。」 と低音で言つた。方言ゑた非人の事である。釣込まれたやうに、「あ、上流のやな」 と、芸しゃが一人、褄を煽って云つた。 かれらの目には狸か、蝙蝠のやうな、いま通過ぎた小屋に生えた嫁菜の、花と、すかんぽに見えたであろう。 露野は、つと礼吉の手を離れて、破屋の軒に隠れようとした、廂も漏れて、はらはらと映す月の影さへ、肩に痛々しいまで身を恥じる。・・・「ゑたでも構はん。」 連に、人ありと知りつつも、酔ったものの、分けて此の国に、位置あり、金子あるものの習慣である。「いや、堪らんぞ。」 と鯰が尾を振ると思へば、縊らるるまで雪の項を打背けて袖で蔽ふ、露野の袂をぐいとつかんで、「うう、畜類め。」 と真白き頬へ突きつけた口は、髯をすぼめて、唇を壷に、宛然の田螺である。 と見ながら、礼吉は静に佇んで、えんじゆの陰に澄して居た。 単身、横暴なるかれら酔客の人数に対して、力敵せずと断念めたか、とても路芝の露である。たとへくんでも消ゆるものを、と見棄てたか。 かかる時、たとへ婦が仇なりとても、誰か身を棄てて救はざるべき。 何事ぞ。礼吉は然も莞爾莞爾と笑つて居た。 狂か、痴か、血なき虫か。 否、否、かれが如き力なきものの、一指をだに労するに及ばずして、暴漢はしたたかに其の無礼を懲さるべく、露野は鮮明に其の姿を保護さるべき、不思議の約束があつたのである。「馬鹿め。」 礼吉は心で笑つた。 知らずや、露野の今の身は、鬼も、人も、影身に添つて、星の如く左右を守り、前後にかしづく姫君である。 其れ、見たか、--- 傍若無人に、露野を手籠に、口を寄せた鯰は、忽ち仰向けに反つたと思ふと、「わつ」と消魂しく叫んだ。 鼻から頬へ、べたりと塗られた、粘土の面被。「やあ、こりゃ、」「ええ、誰だ。」「あつ大変。」 洋服も、紋付も、口々に、驚くわ、騒ぐわ。顎とも言はず、胸とも言はず、ばちやんと響き、ぺたんと鳴つて、何処からともなく、矢継早に粘土の塊が飛んで付着く。・・・ と芸しゃ雛しゃくの悲鳴が交つて、遁足を入乱れに、橋の袂を、其の寂しい一条の屋敷町へ雪だれて遁げると、怪飛状の肩で叩いて、今は唯一個点れ残つた、祭礼の提灯を払落すと、バツと落ちて、めらめらと燃えた火が青い。 黒むかでが、取乱した白脛の緋縮緬にからんで燃える。「きゃア。」 あとは、さて忽ち人の影もなく、其方の空は、峰の陰翳に暗かった。・・・ 時に銀河ならず、露白く流るる草の径を隔てて立つた、男女の星は、相見て軽く微笑した。此の時の風采は、互に此の大いなる城下を領して、君臨したるものの如く、怪しき威と品と兼備はつて見えたのである。 仔細を聞け、・・・ 俺どもは、これ、かうやって御同座も恐多い、血筋違ひの、言はば、なかまはづれの人間だ。・・・ 其れと言ふも常日頃、余り世間が俺どもを人外にするからだ。 また旅他国も、知らぬではねえけれど、凡そ、此の国ほど、人間の差別を付けて、金銭の多寡や家の由緒、其の人の身分に、甲乙を分ける国は他にやあねえ。 其処へ交つたゑたでがさ。・・・(一層二人が、長に其の特殊部落。---)・・・ 処で--- ---更まつたお願と言ふのは、此れまで、世間に侮られ、ういめ、つらいめ、虐げられ、恥かしい目を見なさった事は、俺どもにかはりのねえ、日かげもののじゃうらふを、面晴れに若旦那、新聞までが目くじらを立てる、先生、可うがすかい、お前さんが、此のじゃうらふの手を曳いて、二人並んで、見せつけて、此を見やあげれ、どんなもんだ、と此の城下中を堂々として練歩行いて貰ひでえだ。--- お光は頷く、露野は俯向いた。
February 13, 2008
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泉 鏡花 石川近代文学全集・1巻より鳥 化初卯(はつう)の日、母様が腰元を二人連れて、市(まち)の卯辰(うたつ)の方の天神様へお参んなすって、晩方帰っていらっしゃった。ちょうど川向うの、いま猿の居る処で、堤防(どて)の上のあの柳の切株に腰をかけて猿のひかえ綱を握ったなり、俯向(うつむ)いて、小さくなって、肩で呼吸(いき)をしていたのがその猿廻のじいさんであった。 大方今の紅雀のその姉さんだの、頬白のその兄さんだのであったろうと思われる。男だの、女だの、七八人寄って、たかって、猿にからかって、きゃあきゃあいわせて、わあわあ笑って、手を拍(う)って、喝采(かっさい)して、おもしろがって、おかしがって、散々(さんざ)慰(なぐさ)んで、そら菓子をやるワ、蜜柑(みかん)を投げろ、餅(もち)をたべさすわって、皆(みんな)でどっさり猿に御馳走(ごちそう)をして、暗くなるとどやどやいっちまったんだ。で、じいさんをいたわってやったものは、ただの一人(にん)もなかったといいます。 あわれだとお思いなすって、母様がお銭(あし)を恵んで、肩掛(ショオル)を着せておやんなすったら、じいさん涙を落して拝んで喜びましたって、そうして、(ああ、奥様、私(わたくし)は獣(けだもの)になりとうございます。あいら、皆(みんな)畜生で、この猿めが夥間(なかま)でござりましょう。それで、手前達の同類にものをくわせながら、人間一疋(ぴき)の私(わたくし)には目を懸けぬのでござります。)とそういってあたりを睨(にら)んだ、恐らくこのじいさんなら分るであろう、いや、分るまでもない、人が獣(けだもの)であることをいわないでも知っていようと、そういって、母様がお聞かせなすった。 うまいこと知ってるな、じいさん。じいさんと母様と私と三人だ。その時じいさんがそのまんまで控綱(ひかえづな)をそこン処(とこ)の棒杭(ぼうぐい)に縛りッ放しにして猿をうっちゃって行(ゆ)こうとしたので、供の女中が口を出して、どうするつもりだって聞いた。母様もまた傍(そば)からまあ棄児(すてご)にしては可哀相でないかッて、お聞きなすったら、じいさんにやにやと笑ったそうで、(はい、いえ、大丈夫でござります。人間をこうやっといたら、餓(う)えも凍(こご)えもしようけれど、獣(けだもの)でござりますから今に長い目で御覧(ごろう)じまし、此奴(こいつ)はもう決してひもじい目に逢うことはござりませぬから。) とそういって、かさねがさね恩を謝して、分れてどこへか行っちまいましたッて。 果して猿は餓えないでいる。もう今ではよっぽどの年紀(とし)であろう。すりゃ、猿のじいさんだ。道理で、功を経た、ものの分ったような、そして生まじめで、けろりとした、妙な顔をしているんだ。見える見える、雨の中にちょこなんと坐っているのが手に取るように窓から見えるワ。 泉 鏡花 石川近代文学全集・1巻より
February 12, 2008
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(高判昭55.2.5刑集33-1-1K)ご丁寧に、裁判所サイトに掲載されていました。*「裁判官・検察官といった優秀な方が、誤った判断を下すことはないであろう」三好清一裁判長は公判調書に「被差別部落」を「非差別部落」と記載、認印まで押して公開しました。・・・「エタ・非人」の「非」をあてるという三好裁判長の部落差別。裁判長は「誤記だ。被差別部落民と会い声を聞く必要などない」と居直り、法廷内外に怒りを呼び起こしています。時計の発見について、警察が「石川はうそばかり言っていたのでまさか、その通りの場所にあるとは思わなかった」と言っていることに対して、弁護側から「時計の発見の前に万年筆が石川さんの『自供』に基づいて自宅から発見されている。その『自供』が本物だったのなら、時計の『自供』も真実となるのが普通ではないか。またそのとき、指紋がつくといけないというので、ビニールの袋まで用意している。それをわざわざかくし場所の鴨居の穴から父親にとらせたのはおかしいではないか。あきらかにデッチ上げではないのか」と追及されて、検察側は激しく怒った。*「事件解決は、警察の仕事だから、警察にまかそう」この事件は石川さんの逮捕の前後を含めて四人の自殺者が出ており・・・そのうちの一人が野犬狩りをしており、野犬をつかまえるとき縛り方が“ヒコツクシ様”であることから、関係があるのではないかと弁護団は追及した。警察、裁判所はいずれも・・・終始一貫無視している。*「マスコミは、情報を流しても、誰かを犯人扱いするような記事は書かないであろう」「新聞は警察より先に一雄を犯人扱いして報道した」と父富造さんは糾弾しています。私たちの働く新潟日報社(発行部数約30万、朝夕刊)も例外でなく、狭山事件当初から石川氏に対し「中学も行かず遊び歩く」「人間性一片もなし」等、犯人キャンペーン差別報道を展開。一方、二審冒頭無実が宣言されるや、沈黙、一片のニュースも流さない差別姿勢をつづけています。*「最後は、弁護士という法律の専門家に頼るしかない」弁護団までが、裁判の過程で、警察のデッチ上げをかなり鋭くつきながら、石川さんの無罪を見通すことができず、・・・一審第八回公判で石川さんの精神鑑定を要求し、さらに控訴趣意書でも、「I養豚屋での五ヵ月間は、それまでうちにひそんでいた被告人の性格の歪みや精神的偏奇を顕在化したのだろう」と述べており、部落即ち悪の温床と予断につらぬかれてしまっている。*「御上のいうことに間違いはない」・「御上には逆らえない」「そんな事は聞きたくない」と叫んだ石川さん、「裁判長、それはペテンだ」と立ち上がった山上弁護士 「頼れるのは自分だけ」という不利な条件下にあって、石川一雄さんは、依存心をすて、「御上に逆らう」ことをはじめました。 石川さんがこういった不利な条件におかれたことが問題なのです。1980.2.7東京高裁(四ツ谷裁判長)狭山事件第一次再審請求棄却きゅうだん!
February 7, 2008
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『江戸の非人 部落史研究の課題』本田豊/著 出版社名:三一書房 発行年月:1992年07月 より抜粋 現在は埼玉県児玉郡になっているこの地域は、近世には江戸と同じ武蔵国の中にあった。・・・なお、『おんな三代』(小林初枝著、朝日新聞社刊) は、明治以降の同地区の歩みを、小林家を通してみたものである。・・・その形成と展開について、明らかにしたいと思う。 これは、ちょっと児玉郡を離れますが、比企郡あるいは入間郡に行きますと鎌倉街道沿いに部落がたくさんあります。たとえば、先ほど狭山事件の映画を観たというふうに聞きましたが、狭山事件の起きた埼玉県狭山市の石川さんの生まれた部落の中も鎌倉街道が通っています。・・・今は、狭山市駅になていますが、入間川駅の南側のところに白山神社が残っています。その白山神社の横を鎌倉街道が通っていました。・・・ 石川さんの生まれた部落の南側、西武線・入曽駅に近い方に狭山工業高校があるはずですが、その学校ができるときに今でいうとアスファルト道路になっているような幅二メートル位の街道の跡、道路の跡というふうにいっておきますが、見つかったのです。・・・ 埼玉県内でも狭山市の入間川の部落、旧入間川町には、鎌倉街道が通っていたのはいろいろな書物でもそういった事実でも確かめられます。 そうしたところに部落があるというのは、どういう役割なり性格であったのかという点が問題になってきます。
February 7, 2008
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『東村山音頭』 作詞 土屋忠司 作曲 細川潤一 編曲 たかしまあきひこ 歌 志村けん一、まずは四丁目からいってみよ~東村山庭先や多摩湖 狭山茶どころ情けが厚い東村山四丁目東村山四丁目二、さぁ、つづいて3丁目いってみましょうか東村山三丁目ちょいとちょっくらちょいとちょっときてね一度はおいでよ三丁目一度はおいでよ三丁目三、わぁお、わぁお、東村山一丁目わぁーおいっちょめいっちょめわぁーおいっちょめいっちょめわぁーおひ・が・し・あ、むらやま一っちょめわぁぁあおMIDIです(歌詞のさわりを聴くことができます)。東村山商工会のサイトのMIDIです(メロディを聴くことができます)。「盆踊りの音楽 ベスト」のMIDIです(歌詞を聴くことができます)。
February 7, 2008
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*『余多(よた)歩き菊池山哉の人と学問』(前田速夫)さんが、16 多麻考古行脚(引用者註)で、芋窪の石川は地名のみならず、苗字としてもこの地では有力で、「狭山裁判」の石川一雄被告の名前を思い浮かべる人もいるだろう。貴種流転伝説と白山社の組合せも暗示的だ。そういえば、「武蔵悲田処」がこの街道沿いのすぐそばであったことも、このあたりがどういう場所であったかを暗示するとして<『多麻史談』>8巻3号、昭和十五年四月見学会(菊池山哉編/多摩史談会)より、抜粋されたのが、以下の記事です。「狭山南麓地帯」豊鹿島神社 境内に樹齢九百年の大 。明治十九年以前はただ鹿島神社と呼んだ。境内摂社に白山社。石の正体に「人王百六代御奈良院御宇 白山権現 祭主梅満 願主石川麿呂 天文三歳甲午十一月三日」と刻してあるが、石碑の形も書体も幕末頃のもの。これはこの村に戸隠神の信仰が盛んになり、この社の神主御師さんが、その先達となって、非常に信仰された時代があったので、いろいろの改作が行われたものであろう。 本社の北の山裏の小字に石川というところがある。石川入道なるものが住居した跡ともいわれ、本社の社伝に「天智天皇第四の姫宮又蘇我山田石川麿呂と申す人の建立なり」とある。 すなわち石川の小字から、一つは正史に名高い山田寺の石川麿呂へ、一つは天智帝の第四の姫宮へ、紐がついたもので、その紐の年代も、(命がついたり、師がついたりするのであるから)本居宣長以降のものであろう。 しかしながら源憲光といい、下総工藤入道といい、何か古伝説があったことは間違いない。古く芋窪村の鎮守。明治になってから村社となったが、天然記念物の が物語っているように、千年千早振る神の社で、当初から鹿島神が祀られていたのでないことは、明らか。付近に式内阿豆佐美神社があるところから推して、多麻郡八郷の一たる石津の郷は、ここ狭山南麓一帯の地であろう。・・・ 関連書籍の一覧です。* 菊池山哉・編 多麻史談会1.『多麻史談 3巻4号 - (主な目次から 二宮神社=多西郷・深大寺・大嶽山・御嶽山・霞村=奥多摩町板碑等々の事蹟)』昭10 \1,500 2. 『多麻史談 巻4号 - (主な目次から 「宇奈比(宇奈根=砧村)」 水戸義公と谷保天満宮 春宮帯刀木曽先生義賢史蹟の考証 砧村狛江村巡礼等々)』昭11 \1,500 3. 『多麻史談 6巻2・3号合併号 - 高幡山金剛寺不動堂の研究』昭13 \1,500 4. 『多麻史談 6巻4号 - (主な目次から 武蔵國造 市守神社の祭神 多磨墓地における名墓の変遷 宗教上より看たる奥多摩の金鉱について 神文巴紋の起源等々)』昭13 \1,500 5. 『多麻史談 7巻2号 - 百草紀行と狭山の栞』昭14 \1,500 6. 『多麻史談 7巻3号 - (主な目次から 武蔵國造 大國魂神社境内のみやのめさま 多摩川用水時代と上水 大久野村の野口氏 常久一里塚から長沼常楽寺へ等々)』昭14 \1,500 *東原那美、東村山市教育委員会出版『東村山市史研究第1号 武蔵悲田処に関する研究 ―並古道ぞいの寺社について』 1983(昭58)年『東村山市史研究第2号 多摩郡衙・瓦塔・郡寺の研究ー東村山市史研究第二号』 1985(昭和60)年『東村山市史研究第3号 白山神社と太陽信仰の研究-白山と伊勢神宮の関係を中心として-』 1987(昭和62)年
February 6, 2008
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八切日本史辞典『野史辞典』よりチの部 茶の湯 南北朝の頃は「林間茶湯」とよぶ。蒸し風呂で汗をかきつつ、木にぶらさげた賞品の奪い合いの茶賭博で、水で茶をいれる訳はないのに湯の自我付くのはそのため。 足利期になると、日本原住民の者は頭を丸めナムアミダと唱え阿弥とつけねば奉公できなかった。 己が民族へ食うためとは言え、裏切り行為でしかなかったのである。それゆえ、堺あたりで、口惜しさと悔いで集った連中が持ちだしてきた茶に緑青をまぜたのを廻し呑みしつ、「この中で誰かが死ぬかも知れへんが、それは皆に代ってのご先祖さまへの罪滅ぼしや」と急性胃炎で死ぬ者が出ても免罪符のごとく考え侘びの茶とした。しかし革屋の松屋あたりへ役人が見廻りにきて発見され、「植物はつめば枯れて茶褐色になるものなのに、汝らが喫しているのは青黒色なのは何であるか」見つかって取調べを受けた時は、これは青葉のままで密封してます特殊な茶ですとごま化した。 だから戦国期に入ると、武州狭山とか駿府清水、宇治河原といった日本原住民系の除地とよばれる特殊地にのみ茶は限定栽培されるようになり、江戸期に入っても抹茶は公家は喫しないのが実状。※泉鏡花尾崎紅葉の門下で、<婦系図>や<日本橋>の作品で知られるが、日進役には<義血侠血>とか<予備兵>といった軍国主義的な作品も書き続けたような芸術院会員の小説家。高野山で非事吏とよばれ本山へは登れず、各地を物乞いして廻り、布教と上納金を課せられ蓬髪ゆえ網笠かぶりであった乞食僧を、高野聖などと無智から書いてしまい野史を混乱させた。被差別村落の歴史 矢切止夫 「第四部 日本歴史解明は部落研究しかない(---何故かといえば吾々の祖先は享保から天保までは九割近くも限定部落に、みな入れられていたからである)」より抜粋 七ツの特異性(五)行商が多いです。元来行商は戦国時代には一人では出来る商買ではありませんので、連雀衆となって数拾人隊伍をなし行商した、その名残りがあるかもしれません。江戸時代も中期以降、道中が安全になってからは、単独に歩いたものがあるでしょう。---というのも、菊池先生は、享保年間に大岡忠相が、各藩ごとに仕置きが違い、幕命が一貫せぬゆえ五街道に道(堂)の八ツへ捕縄をもたせて、四つを監視させた。よって八ツの者は、「伝達」を同宗ゆえつけて貰い各地へ手形なしでも往来できたのを、まだ御存知なかったのであります。 南葛城郡名柄の某家は四代前は御祈祷や御符配りをして遠く吉野郡廻りをして居りましたが、吉野の奥には米がありませんので、先きざきで頼まれては米を背負って行き、その金で吉野の山林を買入れ、それを代々続けて今では県下第一の多額納税者となり、その宏大な屋敷は大名御殿のごとく素晴らしいものです。---山やその木は、山がっと呼ばれる原住系の四ツのものゆえ、農耕はせず、ただ食物のために交換入手した結果だというのです。 また相楽郡上狛村では、お茶の行商をして居ったのですが、明治となって茶の輸出が盛んになってから、各戸豪富をなし、店舗では都会でも稀に見る堂々たるものです。緑茶は足利末期から限定居付地だけと栽培が認められたので、石川一雄事件の狭山とか、清水別所と産地は定まっていたことを判らぬと、この意味がうけとれぬ。 それに蚊帳とか、反物とか、金魚を作って売るとか、花作りをして卸すとか、下駄や灯心の製造販売とか、とにかく仲買や行商に生活の進路を求めて成功したようです。 みな、これらは賤の限定職なのであります。*「まえがき」より抜粋 が裁判所は証言と証拠で審理される処である。当事者の私が、いくら陳述しても上申書を提出しても、第一審のごとく問題にはされず一方的に、相手方の主張のみが認められる。 いくら真実はこうであると主張しても、義務教育の学校歴史とはやや違う八切史観がオカミの裁判所で認めて頂けよう筈も、心細い話だが、期待すること自体が無理だろう。・・・
February 6, 2008
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