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百花にさきがけて梅の花は咲く。厳しい寒さの中で、花を咲かせる梅の木の強さ。『この力 人にありたし 冬の梅』どんな人生であっても、こうでありたいものである
Feb 25, 2012
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私は血圧が高く月に一度、病院に行っている。昨年の暮れ、友人の薦めもあり二十数年も通院した病院だが、思い切って近くの病院に転院した。転院した今の病院。前の病院と同じく医師から受ける診察時間は短いが、看護師さんの応対がとても好かった。妻にそのことを話すと、その看護師さんが若くて綺麗な人だったからじゃないの?と云った。馬鹿云ってんじゃない、と云い返したものの、所詮、どこも患ったことのない者には、どんな病気であれ、診察を待つ間の患者の心境はわからないだろう、と思った。多くの業界は、労働時間と報酬が見合わないと揉めている。不景気な今の社会情勢であればやむ得ないことだが、医療に携わる方々も医師以外は、賃金・待遇ともに余り良くないと聞く。医療は即命に係わる仕事であり、、その責任を医師と共に担う看護師さんの仕事は大変な激務である。私は平成元年に癌の手術を受けた。その時お世話になった看護師さんの姿は、今も瞼にある。日曜や祝日であっても、朝は、「お早うございます、お変わりはありませんか」夜は、「帰ります、おかしいなぁと思ったら、そこのブザーを早めに押すのよ。お大事に」、等明るく爽やかな姿は薬以上の蘇生への希望の灯だった。病院はそうした白衣の天使の患者への心遣い、給料の査定に入れろよな…。
Feb 12, 2012
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私の欠点は、深く物事を考えないで言葉を発することだ。従い、友と呼べる人は余りいない。だが、三十年、四十年と妻よりも永い付き合いの友も数人いる。私がこのブログに記していることは過去のことが多く、事実と違うことは書いてないつもりだが、多少のフィクションもある。私書箱を通じてのやりとりだが、過去のことをそんな風に懐かしみ、そんな風に書ける熊さんって、どんな人だろうって、興味深げなコメントがコメントが時々あった。このブログは、その程度の付き合いでいいと思う。こんなことを書くと真面目に今の心境を記している人には失礼だろうが、数行の文でその心の奥底などわかるはずなどない。見も知らぬ人の心の奥底に立ち入る愚かさ。敢えて云わせてもらえば、立ち入られたおろかさは噴飯ものである。師匠、恥じろ…貴方にはやることがあるだろうー……この馬鹿者が…・もう新たにブログ立ち上げてんだろう…また仲良くやろうぜ。我が親愛なる師匠殿。
Feb 9, 2012
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五十の手習いと云うが、私は六十五歳にして、今「書」にトライしている。動機と云うほどののものはないが、真っ白い半紙に筆を走らせると、心がなぜかおだやかになる。無心になれる。とは云え、教室でいつも一緒になる小学生の子ぐらいには書きたいと、内心いつも思っている。習い事はすぐに上達するするものではない。わかっているつもりだが、そんな思いが、書の師にはわかるのだろうか、「継続ですよ、力まず、力まず」と指導される。妻に、そんな情けない話をすると、「あんたのいいとこは、何事も楽しむ、ではなかったの…」と笑われた。私は深いため息とともに、その一言で目が覚めた。残り少ない余生、一生懸命楽しむように仕事もした。楽しみながら酒も飲んだ。楽しみながら歌も歌った。何事も一生懸命楽しんだ。「楽しむ」、これが私の人生だった。完全退職の間際など、「おじさんは仕事を楽しんでやってるみたい」とよく云われた。「楽しむ」、そうだこれが私の人生だった。六十五歳を楽しもう。そして「書」を楽しもう。
Jan 15, 2012
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大切な友がいる。彼は私が困難に陥ったとき、勇気づけ励まし、手を差し伸べてくれる。昨年、私は思いがけぬ病気で入院した。もう駄目かと心身ともに喘いでいたとき、彼は毎日のように電話をくれた。そして、心が明るくなるような本を選び、たびたび送ってくれた。おかげであろう。私は危機を脱し、一応退院することが出来た。だが、先行きは不透明で、心は暗くなりがちだ。しかし、彼の励ましの言葉を聞くと、私の心は癒され、温かくなる。友とは有り難いものだ。今、彼からの年賀状を握りしめ…感じている。
Jan 2, 2012
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結婚して三十八年目の初春を迎えた。振り返ってみると、数えきれないくらいの不安や悩み事を抱えた、ただただ働くだけの仕事人生だった。妻から子供の進路を相談されても、「任せるよ」としかいつも応えなかった。そんな子供たちも無事に社会人になり、今、親同様に世間の波にもまれ、悩み苦しんでいるようだが、今さら応援もあるまい。相談されれば「男は仕事、女は笑顔」と精神面の応援を妻になりかわってやっていこう、と思う。そして今年こそは、三十八年前の初春の思いに戻り、人生と云う地図にない道を、妻と二人で仲良く歩んで行こう。
Jan 1, 2012
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私の住む埼玉は、これと云った特徴のない県である。しかし、じっくりと思いを巡らすと、西部に広がる秩父山地、北部を流れる流域面積日本一の利根川、そして長瀞渓谷は世界に誇る埼玉の一大景勝地あり、まだまだ沢山の自然が残っている。江戸時代には川越藩や岩槻藩、忍藩などがあり、その名残りの街並みは今も残っている。首都東京の隣接県であることから、ここ数年急速に都市化が進んでいるものの、まだまだ自然があちこちにに残り、散歩で、私がいつも佇む場所からは富士山も見え、夕焼けどきはオレンジ色の神々しい光が心を洗い清めてくれる。レジャー施設や近代的マンションの立ち並ぶ街もいいけれど、自然に満ち溢れた街も、なかなかいいものである。
Dec 18, 2011
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先日、妻の母が実家に帰った。おみやげだと云って、お茶と蜜柑を持って来た。妻の実家は佐賀の鹿島で、今も蜜柑やお茶を主とした農家で、毎年季節になると、日いっぱい取り入れに汗を流したそうだ。「これが、私の故郷の味」と云って、頂いたばかりのお茶と蜜柑を私に勧めた。寒さが厳しくなってきたせいか、とても美味しくいただけた。
Dec 16, 2011
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最近の天気はよくわからないこれからは又更新始めるかな
Nov 13, 2011
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今朝ほど通勤に使う車のガソリンのことで妻に嫌味を云われ、スタンドの長蛇の列に並んだ。余りの時間のかかりようにため息がでた。だが、津波で自宅が全壊し、避難所で不自由な生活を余議なくされている人や、生まれ育った地から離れざる得ない人たちのことを思えば、申し訳ないことだと思った。今年も桜の花の季節が近づいてきた。私は、桜の木に咲く爛漫の花びらも好きだが、風が運んでくる花びらも好きだ。我が家の裏手にある駐車場の奥は、今も武蔵野の面影をとどめる小さな森である。そんな森の中に、他の木に隠れるように立っている一本の桜の木がある。遠くから見つけることは難しいが、近づいて目を凝らせば見える。テレビ等で桜の名所を盛んに紹介し、めでている時は、この桜も咲いているのだが、その存在も、めでる人もいない。ここに越して来て十数年、私も暫くこの桜の木に気付かなかった。だが、数年前、車のウインドへばたりついた花びらを見て、森の中に隠れるようにして咲いている桜の木があることが分かった。風を頼りにその存在を知らせているのだと思うといじらしくなった。だから、私はいつもこの時期になると、我が家の庭の駐車場でなく、妻の車と交代して裏の駐車場を利用する。そして、「今年も咲いたか、奇麗だよ」と心の中でほめてやる。
Mar 26, 2011
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先ほどまでテレビで旅番組を見ていた。映し出される宿の部屋はどこも広々としていた。書斎に戻り、部屋を見回すと、数十年の間に揃えたさまざまの物で溢れており憂鬱になった。「老前整理」と云う言葉を時折耳にするが、老前整理とは、老いてしまうと気力や判断力、体力が衰えるので、その前の身辺整理と云うことであろうが、私もそろそろその時期かと思い、さっそく、本箱の上の棚から古い物を下ろした。ところが、それぞれの物にはその時々の思い入れと思い出があり、ただ手にするだけでどうにも始末が出来なかった。結論としてだが、今少し年をとってから、と決めた時、妻がお茶を持ってきた。私は、渡りに船と思い、「片付けようと思って、あれこれ引っ張り出したが、今日はやめた。悪いが、元の場所に戻しといて」と云った。妻は眉を吊り上げた。そして、「元あった場所なんかわかんないわよ…自分でやんなさい、冗談じゃないわ…」とヒステリックに叫んだ。叫んだが、私は構わず居間へ。そしてテレビ(水戸黄門)を見入った。しかし、老前整理とまではいかなくとも、スッキリとした書斎でお茶でも飲みながら本を読みたいものだ。
Nov 9, 2010
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私が入院していた病院は、廊下や待合室に絵画や写真が何枚も展示されていた。聞けば、いずれも退院していった患者さんや、病院の職員が描いたり撮影したものだと、看護師さんが教えてくれた。どの作品も四季折々の自然が、色彩豊かに表現されていた。作者は、患者の病気に対する不安、健康への挑戦の一助になればとの思いで、展示したのであろう。最近の病院は「効率第一」といった内装で、病院特有の重苦しく緊張感の漂う殺風景な場所に、こうした人の手で作られた人を思う真心からの作品は、何となくほっとさせるものがある。私は、同室の友と作品を見ながら会話を弾ませることができたし、十分に心を和ませてもらった。今、そんな無償の作者たちに感謝の思いでいっぱいである。師匠へ久しぶりの更新にもかかわらず、いつもながらの早々のコメント、本当に有り難く拝見しました。仰せの通り何かを求め、何かに挑戦したいと思いますので、また、ご指導をお願いします。
Nov 3, 2010
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久しぶりにパソコンの前に座っている。記録的な猛暑を病院のベッド上で過ごし、心地よい秋風が感じられるようになり我が家へ戻る。退院してからも自分の気持ちに身体がついていかず、何をするにしても気持ちばかりで、行動が伴わずに焦っている。数カ月前までは、朝、食事をとると歯を磨き、ヒゲを剃り、着替えをして出勤した。今は食事をとりながら、テレビに映し出される画面を見るだけの毎日である。まぁそれはそれでいいとしても、余程の番組でない限り心画面にあらず、あれをしなきゃ、これもしなきゃ、とどうでもいい事を次々と思い浮べ、心なしか汗をかいている自分に気づく時がある。階段も今までのように上がれず、私の足元をすり抜けて駆け上がる我が家の愛犬、尻尾を振りながら「早く上がってこい」と私を吠える。「自宅の階段で転んで亡くなった人だっているんだぞ、そんなに急かすんじゃない」とそのしぐさに頭は撫ぜてやるが、情けなさもある。人(私だけであろうが)は勤めをなくすと、こんなに脆いものかと、しみじみ思う毎日ではあるが、身体や感覚機能の低下を自覚しながら、これからは、「ゆっくり慌てず」をモットーに生きねば、と思う……。
Nov 2, 2010
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うだるような暑い日が続いている。子供のころはやれプールだ、川遊びだと真っ黒に日焼けしながら飛び回っていたが、今はそんな元気はどこにもない。ただ暑さ負けしないようにと、体力温存を図る毎日である。朝の散歩も今までの時間に出かけると暑くて熱中症になりそうで、最近は朝の五時頃に出かけ、六時頃には帰宅出来るようにしている。誰の思いも同じとみえ、外に出ると犬と歩いている人や、走っている人等、たくさんの人とすれ違う。全くの知らない人でも、軽く会釈すると微笑みながら会釈を返してくれる。そんなことが何度か続くと、「お早うございます」のあと、一言二言、早朝ならでのお互いを励ましあうような言葉になる。見知らぬ人との出会いは挨拶からではあるが、朝の挨拶一つで、その日は一日中気分よく過ごせるような気がする。
Aug 5, 2010
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酒さえあれば女はいらん、が口癖だった腕のいい旋盤工の友人が亡くなった。六十四歳。職工時代に同じ釜の飯を食った消息の知れる最後の友人だった。『東京・蒲田』の名もない零細工場の片隅で、作動する旋盤の前でうずくまるようにして倒れ、そのまま……死んだ。私が最初に飲み屋の暖簾をくぐったのは彼とだった。職工のたまり場のような『白金』の居酒屋。周囲の人の顔や話し声の先に、六十過ぎのいい歳をした数人の職人が、勤め先の上司の悪口を云いあいながら呑んでいた。「あんな年寄りにはなりたくないなぁ」と小声で話しながら呑んだ…。時は流れ、私も彼もほぼあの職人たちの年齢になった…なったがなってみると彼は豪快に呑んだ翌朝、あっさりと旅立った……。私が独立すると間もなく、彼は『白金』から、『蒲田』の精密部品工場に引き抜かれていった。私は難しい製品の注文があると、図面を持って切削過程を教わりに彼のアパートをよく尋ねた。一通り教わるといつも呑みに行った。彼はネオン街を嫌い、案内する飲み屋は、場末の定食屋(昼間)を兼ねたような居酒屋で、五十前後の女の子?が一人か二人、人のよさそうな割烹着を着た女将。そんなような店ばかりだった。だが、どの店も、不思議に人の情を感じさせられた。とは云え、どんな店であろうとそれはそれなりに表や裏、矛盾があっただろうに、と今は思う…。最後まで通っていたと云う定食屋(夜は居酒屋)の女将が、ワンカップを語りかけながら棺桶に入れたとき、私の脳裏に「酒ありてこそ我が人生、ありがとう」と上機嫌で叫ぶ、彼の雄たけぶ……声がした。
Jun 11, 2010
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拝啓、北海の我が師、豪快詩人様。ただ今こちらは梅雨を思わせるかのような空模様ですが、そちらの天候はいかがでしょうか。ブログを読ませていただいた範囲のなかでは、師匠の体調はかなり回復されているみたいで…安心するとともに、また、超美人のモデルを載せて、スケベー爺、熊五郎の目の保養をさせていただける日はかなり近いと思っております。さて、先ほどまで居間でテレビを見ていました。するとその中で、建設中の新たな東京シンボル『東京スカイツリー』が、遂に『東京タワー』の高さを超えた、と報じていました。私は東京のシンボルは『東京タワー』で、高さを抜かれただけでシンボルの座が変わったりするものかと勝手に思っていますが、師匠はどう思われますか?しかしそうなってしまうのでしょう…が…。高度成長のさなか、『東京タワー』の写った絵葉書を握りしめ、遠い東京に夢はせた少年の日が思い出されて仕方ありませんでした…。今、日本はただ真面目に働きさえすれば、家の一軒は持てた時代に終わりを告げ、働こうにも働く場のない不況の真っただ中です。派遣などで急場をしのごうとしても、人を人とも思わぬ扱いを受けホームレスに、なんてそんな時代です。高度経済成長のさなかに完成した『東京タワー』が働く者の希望の象徴だったとしたら、先行き全く不透明な不況のなかで完成する『東京スカイツリー』は何の象徴なのでしょうか。無名の一市民運動家が総理なりました。師匠、師匠には野心のないことはわかっています。わかっていますがいつまでも、ただの奉仕じゃなく、ここいらでもう腹をくくってはいかがでしょうか。d
Jun 9, 2010
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納戸の整理をしていたら額縁を包んだ古新聞の断片に、癌で亡くなった猿渡瞳さんのことが書いてあった。記事は、「本当の幸せは、地位でも名誉でもお金でもない、今を生きていられる、生き続けられる、それこそが最高の幸せなんだ」と十三歳の小女が生前に綴ったものが本となり、毎年数万人を超える自殺者に、警鐘を鳴らす書として推奨されていた。私はその記事を読みながら、十七~八歳のころに読んだ「生命ある日に」と云う本を思い出した。内容のほとんどは思い出せないが、著者は塩瀬信子さん(だったと記憶しているが)と云う女子大生が、心臓を患い苦しい闘病生活に耐えながら、人間の生きる意味と価値を綴った日記本だったと覚えている。私は大変な時期(経営していた会社の倒産、癌による闘病生活)に、ここでこの世から姿を(死を選べば)消せば、楽になれるであろうと思ったことが何度かあった。だがそんな思いを振り切り、この歳まで……なんとか生きてきた。今は…、健康であって当たり前、で、「生」について特別に考える必要のない日々過ごしているが、意識になくとも、あの時に読んだ「生命ある日に」と云う本が、苦境に陥ったとき、心の支えになっていたのでは…とあらためて思うとともに、仏教かなにかで悟りを啓いた人の著書も結構だが、迫りくる死を間近にしたこのての命の叫びの本も、師匠、どうだろう、若い時に一冊くらいは読んでいてもいいかなと思うのだが…。
Jun 2, 2010
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嘱託から派遣社員となり、その更新を五月末に控え少々落ち着かない日々を過ごしている。まだまだ働ける体力はあると思ってはいるもののいざ完全リタイアの決断となると思い悩んでいる。先輩諸氏に相談すると、働けるうちは働いた方がいい、と云う人もいれば、元気なうちにリタイアして、新たな趣味や目標を持つことも大事、などのご指導を頂く、が具体的にどうしたらいいのか……。人にはそれぞれの道があり生き様は異なるが、私はハンドルを握りお客さんとお喋りをしながらの、この職業は性に合っていた。「有難うございます。どちらまで」「急がせて悪いけど○○まで」とほとんどのお客さんは気軽に応じてくれる。それでも、中には「△△△」と云ったきり、苦虫を?み潰した様な顔をしながら、書類や携帯電話に耽けたり、信号が赤になると舌うちをしたり地団駄を踏む人もいる。今は本当に少なくなったが、ろれつの回らぬ舌で、「□□□」と云ったきりぐうぐうの高いびき。一度だけだが、若いご婦人が病院に着く前に産気づき、ハラハラしながら、ひたすら走り続けたこともあった。三芳八郎で立ち上げたこのブログの初期のころ、そんな車内でのことをよく書いた記憶がある。思えば長いハンドル人生、結論は私自身の胸三寸、急がれてわけでないし、しっかり、ゆっくり考えねば……。
May 8, 2010
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今年もまた桜の咲く時期となった。桜の花びらは生きたまま散ると云われているが、その散り際の潔さ美しさのそのさまは、相撲道や武士道の精神にたとえられている。だが、盛りで散る花びらの精気は、まだ散りたくはないと云う思いでその周辺に漂っているとも云われ、古来、恐れられてもいる。そんな桜の花びらは、雨に降られ風に吹かれ土に同化してゆく。だが東京で散る大半の花びらはコンクリートやアスファルトに舗装された道路の吹きだまりで固まり、花を眺め、酒を飲んだ人たちの足に踏みにじられ、排水溝や川に流され消えて行く。東京に空がないと嘆いたのは高村智恵子だったが、我が師、北海の豪快詩人を東京におり立たせれば、東京には自然の道、土だけの道がないと嘆くだろう…。五十年前の東京はまだまだ路地裏でメンコ遊びやキャッチボールをしている子供たちの姿があちこちにあり、庭付きの家や雨が降れば水たまりのできる広場もかなりあった。そんな家の庭も広場も、いつの間にかコンクリートやアスファルトに覆われた駐車場やビルに、そして、自動車の走路になってしまった。消えゆく土との暮し、それでも東京と云う街には不思議な力がある。寝ぼけ眼をこすりながらであっても、東京の空気を吸うとよし、今日も一日頑張るぞと云う勇気が湧いてくる。
Mar 24, 2010
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妻が仲良しグループとまた韓国に行った。日本と韓国は、地理的にも心の距離も「近くて近い国」だとは思うが、私の心の底には昔からのわだかまりが根強くある。幼いころ我が家の近くに、朝鮮の人たちばかりが暮らす部落があった。その中の道を通ると、いつもどこからか荒々しい声が聞こえた。道路の端に座り込み、長いキセルでタバコを吹かしている老人などは、人が行きすぎるまで、じっと人の顔を見つづける。我が家で飼っていた犬などは、私がほんのちょっと、僅か数分目を離しただけで消えてしまった。隣のおばさんから、「それは食べられたんだよ」と聞かされた。そのときの朝鮮民族に対する恐怖感が今もあり、嬉々として、韓国に旅する妻の思いが理解できない。まぁ、妻たちが韓国に行くのは観光が目的であって他意はない。いい歳になっても、幼いころのそんな思いを引きずっている私の心が狭いのであろう…。
Feb 25, 2010
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早二月も半ば。年末から年始にかけて、忘年会・新年会と称しての会食が何度も続いた。ズボンをはきながらながら、そばにいた妻と娘に、「おいしいものばかり食べ続けたせいで、また太っちゃったよ」ともがきながら云うと、娘が「ずっと前からじゃない」と冷たく云った。するとすかさず、妻が、「男は多少お腹が出ているくらいじゃなきゃ」と優しく云ってくれた。やっぱり我が妻ぞ、とホロリとしかけたら、「でもそのお腹、何とかならないの、少しお酒を控えなきゃ、ね」だって。私だって太ろうだなんて思いながら、酒を飲んでるわけじゃない。乗務のたびにお客から、「行きかたも知らないの?」「黄色で、どうして止まるの?」急ぎに急がせて万札での支払い。間違えてはいけないと慎重に数えていると、「モタモタすんじゃねー」の怒声。さらに敵はまだいる。車線変更禁止路、一時停止路などで、ついうっかり走ろうものなら隠れて待機している白バイ、またはお巡りさんらの「止まれ」の旗が振られる。辛うじて、無事故・無違反、そしてクレーマーに会うことなく乗務を終えた夜くらい、飲まずにいられるかってんだよ。そうだろう、師匠。
Feb 15, 2010
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モンゴールの快男児・横綱朝青竜が角界から去った。最後の最後まで、日本の国技である相撲の横綱の称号(土俵上での最強者であるとともに、社会生活においても範たる姿を示せる人)を理解できてなかったのであろうが、記者の思い出の一番はと問われると、「両親の前で横綱の武蔵丸関を破った一番」と答え目を潤ませたとき、私は、この常識破りの無法者にも、誰人にも流れている赤い血は流れている。曙や武蔵丸のように、強くなる毎に、番付が上がる毎に、適切な教育がなされていたならば、志半ばにして土俵を去ることもなかったであろうに、と思わずにはいられなかった。人は必ずしも師匠を選ぶことはできない。師匠によって人生が大きく変わる、師匠の大切さをあらためて思い知った出来事である。師匠と云えば北の彼方の我が師匠。だいぶ身体が復調されたみたいで、動き(思考も)も活発になられているみたいで安堵しております。まだまだ雪も残っているでしょうし、寒い毎日、どうか身体を酷使することなく、詩作りに頑張ってください。追伸病み上がり、危険なことは慎みくだされよ。
Feb 8, 2010
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茶番とは、辞書によると底の割れた行いとある。茶番師となると、人を騙す名人のことらしい。母親からの数億円にものぼる巨額な贈与を、自分は知らなかったとシラをきる首相に、土地を買った金は父親からの相続した金。政治献金などと云う後ろ暗い金ではないと検察庁で釈明し、国会を迷走させる幹事長。実力者と云われた方々の金にまつわるどの事件も、最後は秘書の勇み足でいずれの事件も幕は下りている。だが、その末路はいずれも哀れなものばかりであるが、現在の最高実力者のお二方には、天はどんな幕引きを用意しているのだろうか。
Feb 8, 2010
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前に少しだけ書いたことがあるのだが、私は障害者になった直後のある時期、ある会の、月に一回発行されるミニコミ誌の編集に携わったことがある。写真やイラストの配置、紙面のバランスを考えながらの割り付け、余白を埋めていく。それらの作業は、障害者になった私の心の寂しさを忘れさせてくれた。某小学校で副校長をしておられたA氏が、その間ずっとエッセーを書いてくれた。ある時は過疎化された故郷や、今住む商店街の空洞化を憂えたもの、豊かな山や川、自然への賛歌が綴られ、会員の熱い共感を得ていた。そのA氏が亡くなり、昨日、遺族から散骨に立ち会って欲しいと頼まれた。遺族が遺灰の入った紙包みを海にそっと落とすと、生前親しかった人たちは両手に抱えた生花を投げ入れた。汽笛が鳴り、船が遠ざかるにつれ白や黄色の花びらが小さくなっていく。長い闘病の末、無念のうちに亡くなったであろうA氏を思いながら、それぞれみんな深く長く胸に手を合わせていた。私は帰宅後A氏の書かれてあった記事の中で「自然葬」に少しふれたものがあったのを思い出し、探して読んだ。記事には、「自然葬」を望む人が増えているとあり、日本にはもともと散骨の伝統があった。だが、江戸時代の檀家制度や戦前の家制度で、墓が絶対視されるようになったため葬送の自由が失われた。葬送の儀はそれでいいのか、死を自分の手にとりもどさねば、と云うのである。時折、妻と近くの墓地を散策すると、本当にごくたまにではあるが墓石の前で佇む人を見かける。亡き家族を思い出し、墓石の下に眠る人に話しかけているのであろう。A氏の記事には墓のことには触れられてはいないが、歳をめされた奥様の胸中、残された家族を思うと、散骨は正しいのか、私にはわからない。
Jan 19, 2010
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孫が遊びに来ると云うので、妻と駅前のお菓子屋さんに買い物に行った。朝一番に入ったのに無愛想。バイトだろうと思うのだが、女店員の「おはようございます」または「いらっしゃいませ」の言葉がなかった。この店は暗いなぁ、と思う私を知らぬ気に妻はあれこれ品定め。女店員は、早くしてくれないかなぁと云う顔をしている。私はたまりかね、他の店に行こう、と妻に目配せするも、逆に胡散臭そうな顔をし、数点の商品を手に会計。「ありがとうございます」の声はあったが、心から云っているふうには聞こえない。店を出ようとしたとき、珍しくおいしそうな煎餅があったので、その袋をかざし値段を問うた。女店員は「三百八十円です」と面倒くさそうに云うと、携帯電話に目を移した。女店員の電話の最中に私たちは入店したのだろうが、店は開けたならば、私用は慎み明るい挨拶で気持ち良く接待する。そんな店でないと生き残れないのに……と思わずにはいられなかった。
Jan 11, 2010
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私はおしゃれではない。若いころから鏡に向かい入念に髪を撫でつけたりはすることはなかった。だがこの最近、あれよあれよと云う間に髪に白髪が交じり、めっきりと髪も薄くなった。ふと見つめた右手の指、親指を除いてみな、第一関節だけがぷっくりと膨らみ、痛くはないが見場が悪い。きわめつけは、我が家の愛犬から、歩くたびにヒラヒラと舞うズボンの裾を噛まれ、引きずられた弾みでよろめき、右まぶたをドワに強打。さほどのことはあるまいと思ったが、次の日から黒い斑点が揺れて動くようになった。医師に診断を仰ぐと飛蚊(ひぶん)症とのこと。悪い病気ではなく、老化現象の一種であると云われた。それからの私は少し人に対してやさしくなったのか、「熊さんも最近はまるくなった」などと云われる……本物の老人ってどんな振る舞いをする人のことを云うのだろう…と自分に問う。歳がいのないカラ元気、若づくりなどはもってのほか、丸くなったなどと云われるのも嫌だ。桜は桜、梅は梅。これまで通りの、わからずやの頑固者でいいと思う。老いを哀れなどとは思わず、慌てず、騒がず、哀しまず、自分らしく老いていければ……との結論に達した。どうだろう師匠。
Jan 10, 2010
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長く人間を続けると、今更、去年と今年のバトンタッチに特別な感慨などはないが、さすがに本年の寅年ぐらいは抱負めいたものを、と思うのだが気が重い……よく云えば職人肌の感覚派、悪く云えばちゃらんぽらん、どんな仕事でも給料は度外視、女房だけが頼りの人生行路だった。しかし、六十歳まではともかく、その半ばにさしかかると、さすがに少々は考えねば、と今膝を抱え、しばし考えていた……が猪突猛進、行き当たりばったりの性格はいかんともし難く、今更年相応の人生行路など歩めるわけはない。ままよこの我が行路、体調さえよければまだまだ思い通りに歩める。一日三回の食事が旨く食べられ、晩酌が旨く呑めて女房の機嫌が良ければいいじゃないかとの結論に達した。そして、その我が行路の支えは我が人生に悔いはなしと云う、信念の杖である。放蕩詩人さん、未来さん、諸行無常さん、長らくご無沙汰しました。またボチボチ更新しますので、本年も宜しく願いします。
Jan 9, 2010
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思いのほか、秋の訪れを早く感じる九月も下旬。街中を歩いていると、どこからともなくキンモクセイの甘く優しい香りが漂ってくる。キンモクセイの樹は我が家の庭にも植わっており、窓を開けると、風が部屋の中にその香りを運んでくれる。疲れていたり、嫌なことがあっても、この香りに包まれると不思議にストレスをわすれる。数日前の連休のときに、娘が横浜の中華街で『金木犀茶』なるお茶を発見したらしく、居間でお茶を飲みながらテレビを見る私に、今度行ったら買ってくるから、どんなお茶か試しに飲んでみよう、 などと話しかけてきた。また、『キンモクセイ』と云う植物もあるらしく、花は同じ十字形だが色がオレンジではなく、白色で香りもやや弱いらしい。機会があれば双方を比較してみたものだが…休みともなれば、さっと行きたい所に出かける若さがうらやましい…。
Sep 27, 2009
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前に古本屋さんが店じまいをしたことを書いたが、今度は飲み仲間でもあった写真屋さんが店を閉じた。我が家はその写真屋さんにDPEを頼み、子供たちの成人式の記念写真や孫の七五三の記念写真等も撮ってもらっていた。飲むといつも陽気に歌いだす好人物の店主は、我が家の歴史の証人みたいな人だった。「デジカメが普及し、記念写真など撮る人も減った。もうこれ以上続けられない」とその日も、彼は笑いながら陽気に歌っていたが、目だけは泣いていた。彼には年ごろの子供が四人もいる。これからどうやって生きていくのだろうか、などとは余計な詮索であろうが、画期的な道具が次々と作りだされ、安く手に入る昨今、私たちはその便利さと引き換えに、人間の絆を喪失しているのでは、と思うのは私だけだろうか。
Sep 9, 2009
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私は酒も飲むが大の甘党でもある。西洋ケーキの甘いのも結構であるが、春の草もち、初夏の柏もち、秋のおはぎ、冬の大福と、季節ごとに変わるその形のなかに、絶妙な甘味を忍ばせた和菓子が好きだ。云わずとも、季節の変わり目になると頃合いを見計い、和菓子屋に足を運ぶ妻には感謝、感謝である。食べ方は、例えば大福なら、手のひらに乗せて薄く伸ばし、「あんこ」が均一に行きわたるようにして食べる。妻はその仕草にいつも顔をしかめる。だがこれが私の流儀である。気持ちが落ち込んだとき、熱い番茶と和菓子。これで私の心は癒される。云わば、和菓子は、私の心の安定剤?である。欲を云えば、(刀剣家からは笑われるだろうが)縁側に座って広い庭を眺めながら熱い番茶に和菓子、そして刀を弄りながらの一日を…。それが私の今の夢である。
Sep 9, 2009
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この時期になると次第に食欲が落ちる。私が好んで食べるおかずに『鉄火味噌』がある。ゴボウやいり豆、唐辛子をゴマ湯油と味噌で炒めたものだが、母から嫁へと続く『我が家の味』である。子供のころは、「こんな辛いものを」などと思いながらも、他におかずがないので仕方なく食べたものである。今ではどんなにオカズが並んでいても、その中に鉄火味噌がないと物足りなさを感じる…。今も台所で、妻が麦茶を沸かしている。いくらでも安く売っているのに、と思わなくもないが外で買って飲むどんな飲料水よりも、妻手作りの麦茶は一味違う……。思いだすに、昔子どもの頃、母はよく『ジュースの素』でジュースを作ってくれた。夏休み、川遊びなどから帰ってきた時など、コップにスプーン二杯ぐらい入れて水で注ぐ、色だけは鮮やであるが、ただそれだけの冷たくもないジュースだったが、大事に飲んだ遠い思いである。師匠、『ジュースの素』なんて、今も売られているのでしょうか…。
Aug 24, 2009
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夏休みでどこに行っても子供たちの姿が多く見られる。先ほどツタヤにビデオを借りに行ったところ、エレベータの前で子供たちが戯れていた。「危ないよ」と声をかけ辺りを見回したが、お母さんの姿は見えなかった…どころか、向かいの側の乗り場では子供たちが携帯電話に夢中のお母さんの周りを駆け回っていた。ついこの間も一寸した不注意で子供が事故に巻き込まれる事件があり、テレビや新聞を賑わせていたばかりである。おそらく、自分の子供だけは大丈夫とでも思っているのだろうが、事故が起きれば、その設備なり、エレベータを設置した会社が悪者になるのが、昨今の社会の風潮である。最近の若い親たちが、そんな風潮にあぐらをかいているとは思わないが、子供のしつけも大事だが、その前に、親たちのしつけも必要ではないだろうか。
Aug 4, 2009
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長男が浜松に出張した帰りだと云って、八十センチはあろうかという、ハモのような地物の大きな鰻を持ってきた。そして、勝手知ったる親の家とばかり、物置からしちりんと炭を出しながら、座敷で刀の手入れをしている私に、オヤジ、刀ばかり磨いていないで出刃包丁を研いで……と。研いだぞ、と告げると、 「お母さん準備できたよ、さばいて」と居間でテレビを見る妻に…。妻は苦笑いを浮かべながら台所へ。だが、段ボールの箱の中で、ビニール袋に入れられた大きな鰻が、身をくねらせている姿を見て気おくれしたのか、包丁を手にしたままさばくのを躊躇……。見かねた長男は、「お母さん何の考え事してんのよ」と茶化しながら包丁を取り上げると、手つきも鮮やかに背開きに……、「後はオヤジ、できるだろ…やって」だって…云われて包丁を手にしたものの、どうしていいのかわからない、触るとふにゃふにゃとする身に、どうしても包丁をあてられない。どうしたものかと立ち尽くす背後から、お父さんじゃ無理、私がと妻の声…骨を取り、頭を叩き落とし切り身にして、かば焼きと吸い物に。いつもは商品として買い、何気なく食べているのだが、お膳に並ぶまでの一部始終を自分たちがしたせいだろうか、私は食べる気持にはなれなかった。
Aug 1, 2009
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五月に田舎で中学の同窓会があったらしく、住所がわかったので、と云って幹事から記念写真が送られて来た。歳をとると、写真は余り撮られたくない。年齢が出てしまうからだ。それにしても、十五歳の中学のときの顔が判別できるのはほんの数人で、あとは全くわからない。みんな、それぞれに年を経て白髪、薄毛、そして皺の刻まれた顔が並んでいる。五十年になんなんとする歳月の間には、それぞれに様々な人生があったのだろう。恩師を囲むどの顔も、誰が師で誰が生徒かわからない。まだまだ若いと思う私も、ここに交じればやはり同じ風貌だろう…か。今回は集まりが悪く…云々とあった。私は、次回はぜひ知らせて欲しい、何があっても参加したい、と返事を書き送った……。話は全く変わるが、師匠には窃盗をし、刑期を終え、務所から帰った友人がいるそうだが、私には親の代(正確には明治の時代から続く泥棒部落の住人)から泥棒を生業にしている(今はどうだかわからないが)幼馴染の友がいる。公の本にもなり、公の映画にもなっている部落の話の中の同級生との触れ合いとして、このブログに何度か書きかけたこともある。信じてもらえないよう話ばかりであり、故郷の恥部でもあるように思われ、いつも途中で躊躇い、やめている。それは、話は消えるが、書けば、たとえこの様なブログであっても残るからである。その部落が今もあり、友人が稼業を継いでいるかどうかはわからない。が、熊五郎、幼き日のそんな友との触れ合いを今度はいつか、断片的に最後まで書いてみようと、なぜか今日は思う。
Jul 23, 2009
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朝早く起きて近所の畑の畔道を、妻と散歩する。その時期その時期で収穫される野菜はさまざまで、そんな畑のそばを歩くだけで楽しさは倍増する。お決まりのコースは暫く歩くと野菜の無人直売所がある。そのそばで私はいつものように妻持参の座イスに腰を掛け、タバコを一服する。妻はその間に直売所の野菜を買うのだが、近年は、野菜や果物には季節感がなく、キューリやトマト、ミカンやリンゴ、スイカでさえ、年中店先に並ぶ。そんな中で、この梅雨前後の短い期間だけに出回る果実にビワがある。淡い黄色の球形をしたビワ。そのビワを食するたびに、私は田舎でのある事件を思い出す。中学三年の時、学校にいつも遊びに来ていた同じ年頃の唖の人が、同級生のワルたち数人から妊娠させられた。先生方のちょっとした思い違いから、私は加害者にされ、二人の先生から体罰を受けた。唇は破れ、頬は腫れあがった。その傷が癒えるのに二週間くらいはかかっだろうか…。その間一日のほとんどを、家の中で過ごした。雨の降り続いた日、そして、晴れて蒸した日の一日は本当に長かった。それでも夕方になると、毎日、二人の先生が交互に果物を持って謝罪・見舞いにきてくれた。 今思えば季節の物だったからだろう、一人の先生はいつもビワだった。その先生は、「俺の勘違いで、こんな傷を負わせて」と私の傍に来て、ビワの皮をむいて、私の口にいれてくれながら、涙ぐんでいた。ほのかな甘みと、独特の渋みが口の中で広がるビワ。暮れそうで暮れないこの季節、あの時の先生の窓の向こうは美しい空だった。
Jul 17, 2009
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娘の本の整理を手伝う。茶色く変色した芥川龍之介の文庫本が…パラパラと何気なくめくると『羅生門』の頁が折られていた。読むつもりはなかったが、懐かしさ?のあまりつい最後まで…。飢餓・災害等の続く都の羅生門で、死体の髪の毛を抜く老婆は、「この女は生きていたとき、蛇を魚の干物と称して売っていた。だから毛を抜かれカツラにされるくらいは当然だ」と云う、それを聞いた下人は、 「ならば今ここで死人の頭の毛を抜くおまえは、殺されても文句は云えまい」と云って老婆の身ぐるみを剥いでいく……。今の世も自分勝手な感情や解釈・ルールを人に押しつけ、犯罪へとひた走る人がいる。なかでも鬼畜のような行為で人を殺害する愚かなそのさまは、まさに現代の羅生門である。動機に同情の余地が一片もない凶悪事件の連続に、警察は事後処理にただ追われるのみ…で、これと云った歯止めの策がないのも事実である。「死ぬ覚悟があるのなら、いくらでもやり直しは出来るはず」とくらいしか云いようはないが、生きたくても生きられない人はたくさんいる。そんな人たちのことを思えば、儘ならぬ世、拗ねる思いもわからなくはないが、命を粗末にすることなく強く生きて欲しいものである。
Jul 9, 2009
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師匠、高尚なコメント有難うございました。星を楽しむ・語るにしても、最低限の知識は必要なのかもしれませんね。梅雨とは云え、はっきりしない毎日ですが、我々はちょっとした天候の不順、雨の日が続いたり、その合間の猛暑の日で、すぐに『異常気象』だと云って騒ぎますが、異常気象とは、過去三十年間に観測されなかった平年の気候から著しく偏った大気現象を云うらしいですね。しかしこれとて、我々人間の物差しでとらえた異変であって、四十六億年と云う地球の歴史から見れば、異変でもなんでもないのかも知れませんね。たとえば、どこかの火山が噴火して、二百年ぶり、いや三百年ぶりの大噴火だと云って、騒いだとしても、 地球レベルで考えれば、ちょっとした風邪をひいて、クシャミをした程度のことだろうと思います。大正四年の焼岳の大噴火で梓川がせき止められて出来た上高地の名所・大正池。その歴史は百年になんなんとしますが、専門家によると、いずれ消滅するだろうと云われています。私には何万光年などと云う時の流れを語ることはできませんが、ある人との出会いで、また、ある一言で人生が変わった、と云う人は何人も知っています。年上であろうと、年下であろうと、妻と名のつく人はいいものですぞ……。
Jul 8, 2009
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七夕が近づいている。七夕は中国の物語だが、日本でも古くから知られている。天の川の両岸に別れて暮らす「織り姫」と「ひこ星」は、一年に一度、七月七日の夜にだけ会うことが許されている。しかし、雨が降ると二人の出会いは来年になってしまう。物語とは云え、切ない話である。書斎から見る夕空はどんよりと曇っている。今年の七夕の夜はどうだろうか……何とか晴れてもらいたいものである。師匠、師匠が夜空をテーマにした傑作(写真もしくは詩)はありませんか、商売に影響しないていどで、たまには載せてくださいよ。
Jul 5, 2009
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雨の朝、ゴミを出しに家の外に出た。垣根越しに見える隣の紫陽花の花が見事に咲いている。降りしきる雨のためか、複雑な花の色が一層色濃く、鮮やかに見えた。立ち止まって眺めていたら、葉の上に小さなカタツムリがじっとしてとまっていた。昔、息子が小学生のころ、庭に植えた草花のなかに、ピーンとツノを伸ばしたカタツムリを見つけたことがあった。息子は傍らにいた妹に、カタツムリを指さしながら、「あのツノって触ると引っ込むよ、怖くないから触ってごらん」と云った。娘は躊躇していたが、何度も何度も「怖くないから、怖くないから」の言葉に、恐る恐る手を伸ばし、指先でそっと優しく触れた。すると確かに、ツノは息子の言葉通り引っ込んだ。 二人は顔を見あわせ歓声をあげた。そして、「ごめんね、ごめんね」とカタツムリに謝っていた。その息子は、今では当時の妹と同じくらいの娘を持つ父親に。娘はコンピュータの会社に勤務している。そんなことが頭を駆け巡ったとき、「いつまでそこにいるの、濡れるでしょう」と玄関から妻の声……その瞬間、私は我に返り家の中に…時の流れとは早いものである。
Jul 2, 2009
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昨日の続きになるかも知れないが……私にとって子どものころ、貧しくとも、母に守られながら生活した時が第一の人生で、就職列車に揺られながら筑豊を離れ上京、住み込みで働きだした時が第二の人生である。ホームシックになりながらも、働いて金を得ることの大変さを知った。自立への下積みの時期は辛かった。だが、仲間たちとの楽しい生活はいい思い出である。第三の人生は、小さな工場を構え、どんな会社にしていこうかと無我夢中で働いた。結婚、長男誕生、工場の拡張と順風満帆な歩みから或る日一転、親会社の倒産により莫大な負債を背負う暗黒の日々に。それでもどんな時でも笑顔を絶やさなかった妻と、あどけない仕草をしながら日々成長していく長男の姿を働く糧とし、見守りながら、私も一緒に成長させてもらった時期だろう。そんな長男も独立し、孫もできた。娘は出戻ってしまったが、道こそ違え、子どもたちも私の歩いた道を経験しながら夢中で歩いている。そして第四の人生は…どう過ごすのか、どう生きていいのか、どんな人生になるのか……わからない…わからないが、振り返ったときに、悔いなき日々であった、と云えるよう、今、自分に云い聞かせている。
Jun 25, 2009
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私が幼いころ我が家では鶏を飼っていた。 微かな記憶だが、小四のころの夏休みだったと思う。 「この鶏は卵を産むから大事に世話をしろよ」と云って母の里のおばあちゃんが、リヤカーに乗せた大きな籠の中に五羽の鶏を入れて持ってきてくれた。私は母を手伝い、籠を囲んだだけの粗末な粗末な、今思い出しても本当にお粗末な小屋を庭先に作った。当時、卵は貴重品で滋養になると病気見舞いに使われたりもしていたのだが…最初はあの鋭い口ばしが怖かった。だが、餌を持って鶏小屋に近づくと一同に寄ってくるので、すぐに親しみがわいた。狭い庭だったが、小屋から出すと気持ちよさそうに飛び跳ねた。冬の寒い日は五羽がひと塊りになって眠っていた。そんな姿は本当に可愛かった。母は私が集めた鶏のふんを野菜の土にかけた。そうして育った野菜を味噌汁の具に…産みたての卵を… 毎朝私のご飯にかけてくれた。そして、卵焼きにして、弁当に入れてくれた…。お決まりの、それしか出来ない我が家の私への弁当。級友から「それ(卵焼き)おいしいそうだなぁ」と云われたときなど、ただ、下を向いて頷いた。私は金の卵(昭和三十年前期の中卒就職者を当時金の卵と云った)として上京した。そして初めて帰省したとき、懐かしき庭には、鶏もその小屋もなかった。母と二人で過ごした少年時代は貧しかった。だが楽しい毎日だった。昭和三十年代の前半、卵ばかり食べて育った私は間もなく仕事人生を終える。先ほど、ゆで卵の好きな私に妻が、「久しぶりに茹でたわよ」 と云って書斎にコーヒと、ゆで卵を持ってきた。微かに温かみ残るゆで卵を手にしたとき、なぜか、来る日も来る日も卵ばかりだった生活が、志を抱いて上京した当時が思い出されて仕方なかった…。
Jun 24, 2009
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拝啓光の雫様、 あの日以来ブログの更新がありません、またまたお身体の具合が悪くなったのでしょうか…心配です。どうか無理はなさらないようにして下さい。今こうしてパソコンに向かっていますが、書斎の窓から見える空は梅雨入り間近を思わせる曇天の空です。私は前に何度も書きましたが、余命を半年と告げられた癌患者で、半年に及んだ闘病生活の末、奇跡の生還(主治医の話)を果たし、今年で丸二十年が経ちました。その半年間のうち一度だけ、今見るような曇天の空を見ながら、『ここから飛び下りれば全てが終わる』と五階の病室の窓際に立ったことがありました。そんな思いの私の肩を、いつ病室に入って来ていたのか、妻は、「あんた」と叩きながら、「あんたが良くなるために、大勢の人が頑張ってるんだからね…早く良くなんなきゃ、辛いと思うけど生きていさえすればいいことはあるから、ね」と語りかけてくれた遠い思い出があります。副作用で肺に穴があき、筋肉が破壊されるだなんて、想像に絶する辛い毎日でしょうが、どうか病魔に負けることなく貴女にも、貴女の全快のために頑張っておられる大勢の方々のために頑張って下さいね。さてと、雫ちゃんは東京と云えば何が思い浮かびますか?想像で書かせていただけば、東京タワーかと思いますが、その東京タワーはどこから眺めれば一番素敵に見えると思いますか。私は、私が一番素敵に見える場所は、ずばりその足元だと思います。できれば初秋、芝公園の緑が夕焼けに染まるころを背にした東京タワーは永年東京に住んでいても格別です。二番目は、そうですね…。芝公園の都営三田線御成門近くからかなぁ…。ここからだと高層ビルの影響を受けずに、その勇姿を見ることが出来ます。まぁ、東京タワーは人それぞれ、さまざまな思いで見るのでしょうが、外観が注目されるようになったのは、平成元年にライトアップが始まってからです。一説によると、それから東京の夜景が変わったと云われています。そして、午前零時(だと思う)の消灯の瞬間を、一緒に見たカップルは結ばれると云う伝説も生まれました。このあと、熊五郎は何が書きたいのだろうか?…。勘の云い雫ちゃんならわかるね…早く元気なれ、元気になりさえすれば、いいことばかりだから…我が親愛なる光の雫様。
Jun 10, 2009
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録りためていた古いビデオを巻きもどしをていたら、大阪の大学生らのグループが、女性を巡ってのトラブルから恐喝と集団リンチの応酬となり、二人が岡山市内の産廃処分場に行き埋めにされたと云う残忍なニュースが出てきた。出頭した主犯の幼顔を見ながら、泣き崩れる母親の顔が傷ましかった……。若者による残忍な事件は後を絶たないが、この事件を某有識者は『親子のコミュニケーションの欠如』と指摘していたが、我々の子供のころは、親は非常に忙しくそんなにはかまってはもらえなかった。まわりだって、貧乏人ばかりと云えば御幣があるが、貧乏の人が多く、幼いころからハングリー精神があり、自立心が強かった。今の二十代、三十代の若者は、日本が皆中流と云われた時代に育った子たちである。私の息子も娘もまさにその通り。行きたくても行けなかった親と違い、余り苦労もせずに学校へ行った。そしてややもすれば、親のために勉強してやってんだ、親のために学校へ行ってやってんだ……と云わんばかりの態度をとった時期もあった……。幸いにも道を大きく踏み外すことなく今日に至っているが、豊かな時代の子育ての難しさをひしひしと感じた古いビデオの一コマだった。
Jun 10, 2009
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私が小僧の頃(昭和三十五~六年)、今、不夜城と化した六本木界隈には、素敵な名前のついた町名がたくさんあった。昔、狸がいた。その狸の掘った穴があちこちにあったので狸穴(まみあな)。箪笥を作る職人が大勢住んでいたから箪笥町。箪笥の材料に使う木材業屋さんがあったから材木町。六本木に限らず東京の町にはこのように、 その町の歴史や物語を含んだいい名前がたくさんあり、それがいつ頃だったかは忘れたが、その町に住む有力者と云われる人たちの勝手な思惑で、一丁目とか二丁目と云う味もすこけもない町名になった。当時私が住んでいた町は白金三光町、その隣が白金台町、その辺りから港区、目黒区、品川区、渋谷区の区界が微妙に交差し、目黒駅は品川区の中にある。 その目黒駅の裏には、青々とした木々に囲まれた長者丸と云うユニークな名前の町もあった。今の西麻布は霞町と呼ばれていた。 霞町は六本木通りの六本木と高樹町の両方から長く下る緩い坂の下にある町で、いつも霧や霞が漂っていた。まぁそれで霞町と云うことなのだろうが、私が働いていた工場に最古参で○○さんと云う人がいた。腕はよかったがギャンブルが好きで、金が無くなると、霞町の鮨屋にお手伝いさんとして勤めていた妹さんに、よく金の無心をしていた。私は○○さんから連れられ何度か、そして時折一人で行かされた。用件を伝えたときの妹さんの、その困り果てた顔は忘れられない。霞町は人々の様々な出来事やロマンチックな出会い、物語をその名の如く、ボンヤリと霞や霧で覆う町であっただろうが、若かった私に、『ギャンブルは儲からないぞ』、とだけじゃなく深入りすると『身内を泣かせるぞ』と教えてくれた町だった。
May 30, 2009
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百年に一度の不況と云うことで、世の中暗い話で溢れている。現代人はとかく『幸せは金次第』と思いがちであるが、幸せは考え方次第でもある。日本には古来より『笑う門には福来たる』と云う諺があり、笑いの多い家庭には、幸せは自然にやってくると云う。 その幸せへの最大の敵、病にも『笑いは副作用のない最高の良薬』であると云う。笑いには心身共に幸せになれる作用があるのだろうが、置かれた立場と境遇を自覚し、人ならば誰もが持っている報恩感謝の心根を持って朗らかに生きろ、と云うことだろう……。だが、金で困窮する切なさ、病に苛まされる苦しさは辛いものである。さて我が師匠であられる北海の豪快詩人殿、お身体の具合が悪いと書かれてありましたが、如何でしょうか。また、そんな身体でありながらハローワーク云々ともありましたが、まぁこちらの方は文筆活動のネタ集めかと思いますので読み流がしますが、身体の具合の悪い時ぐらい、たとえ非常勤であっても、役員をなさっている会社から、顧問料もしくは監査量として少しまとまったお金を頂き、放蕩ではなく、何もかも忘れて、ベンとカメラを持っただけの放浪の旅に出られてはいかがですか。まだまだ長い師匠のこれからの人生、そんなことがあったとしてもいいのでないかと思います。次に金泉寺さんこと「どんとこいのおとっあん」三年十ヵ月ぶりにブログを更新した、覚えていますか?だって、 忘れていましたよ(笑い)……。しかし三年十ヵ月ぶりにブログの更新を思いたち、この熊五郎を思い出していただけるなんて嬉しい限りです。また、葉巻のことを色々教えて下さい。更にもう一人、我が親愛なる才女こと『光の雫』さん。突然ブログの更新が止まってしまい、色んな憶測(結婚またはブログがつまんなくなった、仕事等)をしながらも、時折貴女様のブログを覘きに行ってました、が、まさか、薬の副作用で肺に穴があいた、筋肉もやられた、そして入院してただなんて…、わかっていれば……励ましの言葉ぐらいはかけられたのに、とただただ、今は思うのみです。でもだいぶ元気になられたご様子、よかったですね。どうか余りはりきらず、何をするにも体調と相談しながらにして下さい。そしてまた辛口のコメントをお寄せ下さい。
May 21, 2009
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青空、新緑、爽やかな風…道行く人も春の装いで足どり軽く目に入るものすべて春真っ盛り、時と自然は正確に流れ続けている。私は昨日の十時ごろ、品川区西五反田にある小さな公園の公衆トイレを、『清掃中ですが、ご使用は出来ます』と云う看板が出ていたので利用した。清掃していた六十代くらいおじさんが、清掃の手を休め、「床が滑りやすくなっていてご不便をかけますね。足元には充分気をつけてくださいよ」と声をかけてくれた。松葉杖を突きながら歩く私の動作を気遣ったのであろうが、その言葉の調子がとても柔らかで、思いやりに満ちていたので、思わず、 「ハイ、わかりました」と返事をし、「いつもご苦労様」とお礼を云うと、「どうぞ、ごゆっくり」と云ってくれた。トイレの中での数分間、私の胸にはほのぼのとした思いでいっぱいになり心が和んだ。おそらくそのおじさんは、 定年後、身体が鈍らなせないために始めた仕事だろうが、言葉遣いやその動作に 心の余裕と仕事へのプライドを感じた…。
May 20, 2009
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今朝もテレビでSMAPの『草なぎ剛』のことをやっていた。私は彼を擁護するわけではないが、今回のことは警察の行き過ぎであり、マスコミの騒ぎすぎだと思う。 公然わいせつ罪と云っても、他人に見せるためにやったわけではない。おそらく、自分のマンションに帰りついたと思い、全裸になった。そして、大声を出した。全裸まではいかなくとも、酒を飲む者なら誰でも覚えのある行為である。 普通なら、駈けつけた警官に多少の抵抗をしても、「しょうがねぇなぁ、この野郎…酔って裸になりやがって」と云って、泥酔者を保護し、一晩留置場に寝かせ、翌朝には説教し、帰すだろう。だが、『草なぎ』は今絶頂のトップアイドルであり、薬物がらみとでも思ったのであろう。逮捕し尿検査を、そして反応も出ないのに家宅捜査。『草なぎ』にとっては有名税だろうが、これなどは警察の勇み足であり、やり過ぎである。謝罪会見での受け答えは、真面目な人柄が滲みでており、その姿に、私はむしろ好感さえ覚えた。奇異なことをしたことは確かだが、被害者がいたわけでもないし、あの人柄を思うと、謹慎や活動の自粛など必要ないと思うのだが、師匠どうだろうか。
Apr 27, 2009
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急用があって車で駅前まで出かけた。横断歩道にさしかかった時、ゆっくりとメールを打ちながら渡っている数人の女学生(たぶん)に出会った。横断歩道だから歩行者優先、文句や異議を唱えるつもりはないのだが、 少しぐらいは顔を上げて、自分たちが渡っているために車が止まった。ならば、『早く渡らなきゃ』ぐらいの気配りをしてもいいのではないだろうか…私はいらつきながらも、彼女たちが渡り終えて発進した。 中には乱暴なドライバーだっている。悲惨な事故から自分を守るために、たとえ横断歩道であっても、周囲への気配りは必要である…最近、自分のことしか考えていない人がやたらいる。些細なことではあるが、歩きながらの銜え煙草やポイ捨て、後を絶たない空き缶の投げ捨てなど、あげれば枚挙にいとまがない。『自分さえよければ』と云う生き方をしていると、思わぬしっぺ返しに会うことは当然として、自分も生きにくくなる。相手や周囲を思いやり、共に生きている、共に生きようとする心持ちこそが、自分も生かされることになるのだが…こんなことを思うのは、年をとったからだろうか…。
Apr 16, 2009
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桜が満開となる時期となり、ようやく春らしくなってきた。だが、春の気候は気まぐれで、暖かい日があったり寒い日があったりで、油断をすると風邪をひくのもこの季節でもある。それでも四月に入り新入学、新学期、そして新社会人に、胸を躍らせている人が多くいるだろう。私が四十数年前に筑豊の炭坑の街から上京したのも桜のつぼみが膨らみ始めていたこの時期だった。家族と別れ、駅に着くと進学する同級生が大勢、県外へと就職する私たちを(就職列車)を見送りに来ていた。友との別れは、肉親との別れとは違う思いがあった。列車が走りだすと目がしらが熱くなった。そのときの気持は、今でも忘れていない。弱冠十五歳。いざ上京してみると家族と離れた寂しさや不安もあったが、旦那様(社長)や先輩に恵まれ、夢を募らせた。それでも辛く苦しかった下積みの仕事に負け、夢を途中で何度も諦めかけた。だが巡り来て咲く桜の咲き誇った花をみると、なぜだかチャレンジする心が湧き出でた。二十一歳で夢の幕をこじ開けたが、三十二歳で不渡りを食らいその幕は閉じられた。人の世の無情さを知り死さえ考えた辛い日々が続いた。その時に眺めた桜は憔悴しきった私を叱咤し、忘れかけていた、東京へと旅立った時の思いを思い出させてくれた。そして幸いにも私はそこで頑張れた。顧みれば桜の花は、私の人生の応援花だった。希望の花、努力を促す花、そんな桜の花は今年もまた、眺める人の様々な思いを受け止めながら、あっと云う間に日本全土を駆け抜けるのだろう。
Apr 1, 2009
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同じ工場で働いていた五つ年上の、酒が大好きだった先輩が亡くなった。 その先輩とは、私が十七~八才のころ広尾の商店街をよくぶらついた。 映画館があって青春歌謡映画がよく上映されていたからだ。映画を観終わると、必ず、すぐ近くを流れる渋谷川の橋(天現寺橋)の上で、遠い故郷を思いながら、とりとめのない話をした。連れられて、かっぽう着姿のおばさんが忙しげに動きまわる定食屋や、一杯飲み屋に行った。そこでは、 ごくたまに、五十過ぎのオヤジたちが上司の悪口を、酒を飲み、飯を食いながら云い合う姿があった。そんな場を見ると、「俺はあんな年寄りにはなりたくない」といつも云っていた。どの店も地方から出て来た者のたまり場のような安い店で、店特有の匂いと云うか、表と裏、矛盾や悲哀に満ちていた…それは今だから分かるのだろうが…。先輩は、広尾に住み続け、広尾で倒れ、あんな年寄りにはなりたくないと云っていた、その歳を少し過ぎたあたりで、一人アパートの自室で酒を飲みながら、誰からも看取られることなく、あっさりと逝ってしまった。冷たくなったその顔は四十数年前と同じ、不敵な笑みを浮かべていた。久しぶりに歩く広尾の商店街は、おしゃれな店が建ち並び、どぶ臭かった渋谷川は、見違えるようにきれいな川へと変貌していた。私は橋に佇み、あの臭いよすがはないかと探した。そして川辺にほんのちょっとだけ堆積しているヘドロを見つけ、一心に見続けた…。 見続けていると、昔のあの頃のドブ川の匂いと、おいしそうに酒を飲み、雄たけびを上げる先輩の顔が脳裏をよぎった。私はなんだか無性に嬉しくなった…。見上げると、先輩と見た広尾病院駐車場脇の桜は四分咲きだった。 今年も多くの患者の心を和ますのだろうが、若い頃の感傷に浸りながら走りくるタクシーに手をあげた。
Mar 27, 2009
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