全1724件 (1724件中 151-200件目)
今朝の7:40の我が家の裏からの富士山の姿です。ジグザグの登山ルートは御殿場ルートであろうか。・出発点の標高が低く、傾斜が緩やか。(山頂までの標高差が大きく、距離が長いため健脚向き)・火山砂利を下る大砂走りの下山がダイナミック。そして今日の夕焼け。
2022.10.26
コメント(0)
次に訪ねたのが「億首川のマングローブ林」にあった「シオマネキデッキ」。右手奥の「樹冠観察デッキ」の手摺の上には「アオサギ」が。この場所で観られる「シオマネキ」が紹介されていた。「オキナワハクセンシオマネキ(スナガニ科)・河口干潟、マングローブ干潟に生息している。・甲は平滑無毛で後方にかけてやや狭まる。・オスは甲幅の倍もある大きなハサミを振り動かして、メスに求愛する。・大きなハサミは食事の時には使えないため、オスはメスよりも2倍のスピードで砂を口に運ぶ。」「ヤエヤマシオマネキ(スナガニ科)・河口や干潟に生息するシオマネキの一種。・オスは片方のハサミが大きくなっている。・マングロープ周辺などで見られ、底質が泥つぽいところを好む。・大きなハサミの下のつめが赤褐色をしている。「ベニシオマネキ(スナガニ科)・赤い体色が遠くからでもよく目立つ。・とても臆病で近づくとすぐに巣穴にかくれる。・オスは片方のハサミが大きくなっている。「シオマネキデッキ」は延長約30m。干潮時にまとまった干潟が出現し、多くの底生生物が姿を現すのだと。特に、シオマネキ類が多く観察できる場所 と。引き返して再びバナナの木を見る。次に「億首川」の上流にある「金武ダム」を訪ねた。「ヤマクモー広場」に車を駐める。一人で「金武ダム」の「天端」に向かって階段を上って行った。「~奥首(ウククビ)の交通遺跡群~」案内板。「近世から戦後までの”道”の変遷がみえる場所~奥首(ウククビ)の交通遺跡群~億首川の中程には川の両岸がもっとも狭まり、地元では『ウククビ」の古地名で呼ばれた場所があります。ダム再開発事業(ダム堤体建設)に伴う埋蔵文化財予備調査によって、近世に首里と各地方を結んだ「宿道(スクミチ)」の本島北部東海岸ルートである「国頭方東海道」の一部をはじめ、大正期に開通した村道や昭和初期に掛けられ、1945年(昭和20)の沖縄戦で旧日本軍に破壊された旧億首橋が確認されています。戦後は、アメリカ統治時代に整備された軍営繕道路、その後1982年(昭和57)に開通した旧国道329号と金武大橋もあわせて、近世から戦後・現代までと各時代における″道″の移り変わりが『ウククビ』と呼ばれる場所でまとまって見ることができます。」「坂アリ螺旋シテ下ル王府時代の宿道は、首里を起点に整備された、沖縄本島各地への幹線道路で、金武にはそのひとつ国頭方東海道が通っていました。明治十四(1881)年、県内各地を視察した県令上杉重憲の記録には「坂アリ螺旋シテ下ル」(坂があり、らせん状に下っていく)と、この場所を記しています。平成20年、ダム建設に伴う発掘調査が行われ、その調査記録をもとに再現されました。」「金武ダム」の「天端」に辿り着き歩く。「天端」は一般道になっているようであった。「金武ダム湖」を見る。「金武ダム」は、金武町内を流れる億首川を主な水源とし、沖縄県内各地に水道用水や農業用水を供給する多目的ダム。1961年に米国陸軍工兵隊によって水道用水専用のダムとして建設された旧金武ダムの規模を大幅に拡張。2014年に完成した新ダムは旧ダムの約10倍にあたる786万立方メートルの貯水量を誇るほか、建設時に周辺整備や環境保全の取り組みも行われ、訪れる人びとの憩いの場や学びの場も提供しています と。「金武ダム」の下を覗き込む。億首ダムと言う名称で建設が進められたが、地元要望を踏まえ、供用開始する平成26年4月より「金武ダム」に名称変更されたのだ と。「金武ダム」の下で水が吹き出ていた。「金武ダム湖」に架かる「沖縄自動車道」の「億首川橋」。「金武ダム」の「天端」は一般道。「ヤマクモー広場」に向かって来た「道」を引き返す。「村をあげてこの道はそれまでの交通の不便を解消するため、大正十~十二(1921~23)年、金武村屋嘉から古知屋(現在の宜野座村松田)まで約22Kmが整備されました。村道整備には各世帯の参加が義務づけられ、参加できない世帯には負担金が課されました。昭和五(1930)年に国頭郡道となり、一部が現在も残っています。」戦前に架橋された、億首川河川地内にある充腹式上路アーチ橋の遺構「金武町指定文化財 旧億首橋一、種別 記念物(史跡)一、指定 令和三年一月一日一、所在地 金武町字金武億首川河川地内一、寸法 全長 二十二メートル 全幅 五メートル 全高 六・三メートル説明旧億首橋は、一九三一年(昭和六)に建設されたアーチ橋で、伝統的なコンクリートを応用した独特な建築様式が採用されています。コンクリート建造物がまだ少なかった昭和初期の橋染建築技術を今に伝える責重な遺構であります。附近一帯は古くから交通の要街であり、宿道跡などの遺跡とともに奥首の支通遣跡群を構成しています。橋として共有された期間は短く、アジア太平洋戦争末期の一九四五年(昭和ニ0〇) 3月末に、米軍の侵攻を妨げる目的で旧日本軍によって破壊されたといわれています。忌まわしい戦争の記憶を後世に継承する戦争遺跡として重要な文化財です。注意一、史跡を汚さないでください。 金武町教育委員会」「アーチ橋、出現。川の両岸が最も近いこの場所は「ウククビ(奥首)」と呼ばれ、宿道の時代から川を渡るポイントでした。昭和六(1931)年にかけられたこの橋は、コンクリート造りの新しい建築技術でありながら、それまでの石橋の特徴も併せもっています。沖縄戦で米軍侵攻をおそれた旧日本軍の指示により爆破され、川底には破壊された橋の一部がいまも残っています。」「海と山をつなぐこの広場は昔、ヤマクモー(山工毛)と呼ばれ、現在のダム貯水域にあたる億首川上流のヤマから切り出された材木などが集められ、ここで荷造りされて舟で中南部へと運び出されたといわれています。いわば、ここヤマクモーはウククビを通る陸上交通と、舟による水上交通が出会う場所でもありました。」下まで下りて再び「金武ダム」を見上げる。旧アーチ橋の遺構を再び見る。「金武ダムってどんなダムだろう?」。金武ダムは、金武町にある水道用水専用(せんよう)の旧金武ダムの約120m下流に建設された多目的ダムです。多目的ダムとは、水をためて水道用水や工業用水、農業用水として利用したり、大雨の時の洪水をふせいだり、また、日照りが続いても水が無くならないように水をながして川を守ったりと、いろいろな役割をもったダムのことです。金武ダムの大きさ金武ダムにためられる水の量は7 , 860 , 000立方メートルにもなリます。これは、25mプールだと約26,200杯にもなリます。金武ダムの目的・人々の生活を守ります。 大雨の時ても川の水かあふれないようにするやくわりをもっています。・田や畑に水を送ります。 田や畑に水が不足しないように水を送るやくわりをもっています。・川の環境を守ります。 川の生き物の生活などを守り続けるため、いつでもいっていの水を流すやくわりを もっています。・くらしに必要な水を送ります。 飲み水やお風呂の水など、くらしに必要な水を送るやくわりをもっています。金武ダムの特徴 旧金武ダムよりもさらに大きくなり、ためられる水の量が増えました。「宿道」、「旧億首橋」案内。次に車で「金武ダム管理支所」を訪ねた。さっそく「屋上展望台」に向かう。「金武ダム」が正面に、左に国道329号が。右手に「沖縄自動車道」。「航空写真」による案内。沖縄のダムの管理状況。正面に石碑が。「多目的ダム建設事業復帰四十周年記念碑」「沖縄は、我が国唯一の島しょ県として、地理的、地形的要因、また、気象的要因等も相まって、常に水不足に悩まされてきました。このような状況に鑑み、沖縄振興開発計画等におきまして、水資源の安定的な確保は重要な課題として位置づけられ、昭和47年の本土復帰以降、沖縄本島では北部の河川を中心に、福地・新川・安波・普久川・辺野喜・漢那・倉敷・羽地・大保・億首の計10ダムの多目的ダムの建設を推進し、水資源の安定供給に努めてまいりました。沖縄本島においては平成6年3月以降給水制限を行うこともなく、連続給水を続けており、多目的ダムによる水源開発は、沖縄県の経済発展、生活水準の向上に大きく寄与してまいりました。この度、本土復帰40周年の節目を迎えるに当たり、これまで多目的ダム建設にご理解と多大なご協力を頂いたダム所在市町村及び関係者の皆様に改めて深く感謝するとともに、今後とも安定した水資源の共有ができる事を祈念いたします。」「沖縄県内の多目的ダム諸元 所在地 ダム型式 総貯水容量 峻工年度福地ダム 東村字川田地先 ロックフィルダム 55,000千m3 平成3年度(再開発)新川ダム 東村字高江高江原地先 重力式コンクリートダム 1650千m3 昭和51年度安波ダム 国頭村字安波川瀬原地先 重力式コンクリートダム 18,600千m3 昭和57年度普久川ダム 国頭村字安波原原地先 重力式コンクリートダム 3,050千m3 昭和57年度辺野喜ダム 国頭村字辺野喜 重力式コンクリート 4,500千m3 昭和62年度 大川山地先 ロックフィル複合ダム漢那ダム 宜野座村字漢那地先 重力式コンクリートダム 8,200千m3 平成4年度倉敷ダム うるま市石川楚南地先 ロックフィルダム 7,100千m3 平成7年度 沖縄市字倉敷地先羽地ダム 名護市字親川大川地先 ロックフィルダム 19,800千m3 平成16年度 田井等大川地先 大保ダム 大宜味村字田港地先 重力式コンクリートダム 20,050千m3 平成22年度億首ダム 金武町字金武先 台形CSGダム 8,560千m3「多目的ダム建設事業復帰40周年記念式典 記念植樹 参加者」。「コダチヤハズカズラ」であっただろうか?近づいて。「アラマンダ」にも似ていたが。「金武ダム」案内図。「■概要金武ダムは、億首川の河口よリ上流約1 .4kmに位置する多目的ダムです。[目的]①洪水調整②既得用水や河川維持用水の安定化③水道用水の供給④かんがい用水の供給■ダム緒言■位置 沖縄県国頭郡金武町金武地先 H 5 . 3 億首ダム建設の基本計画告示■形式 台形CSGダム H 5 . 4 億首ダム建設事業に着手■堤高 39.0m H 2 1 . 3 億首ダム本体建設着手■堤頂長 461 .5m H 2 2 . 1 1 堤体C S G打設開始■堤頂高EL 29 . Om H 2 3 . 3 定礎式■堤体積 339,000m2 H 2 3 . 7 堤体C S G打設終了■集水面積 14.6km2 H 2 4 . 9 試験湛水開始■湛水面積 0.61km2 H 2 5 . 3 洪水時最高水位到達 ■総貯水容量 8,560,000m3 H 2 6 . 2 竣工式■有効貯水容量 7,860,000m3 H 2 6 . 4 供用開始 (「億首ダム」から「金武タム」へ 名称変更)■世界初の台形CSGダム金武ダムは、世界で初めて台形CSG形式を採用したダムです。台形CSGダムとは、砂礫や風化岩等に水とセメントを混ぜて作られた原材料(CSG:Cemented Sand and Gravel)を、台形状に盛り立てたダムです。堤体の形を台形にすることで、風化岩等の強度の低い材料を使うことが可能になり、材料調達コストの縮減や、捨てる土砂の量を減らすことで環境への負荷を減らしています。」「ダムの種類と断面の比較」。「CSG」とはCemented Sand and Gravel の略。 河床砂礫や掘削ズリなど、ダムサイトの近くで容易に入手できる岩石質材料に、セメント、水を添加し、簡易な練り混ぜにより製造されるセメント系の材料。 コンクリートに比べて強度が小さいが、条件が整えば経済性、環境保全などの面で優れているといわれています。■ダム標準断面図。■貯水容量配分図。「金武ダム湖」。「金武ダム管理支所」を見上げる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.26
コメント(0)
先程、17時の我が家の裏からの「残照そして真白き富士の嶺」です。一部の写真は電線を消去して遊んでみました。そして小椋佳の「落日、燃え」👈リンク の歌詞を想い出したのであった『西の空を 紅く焦がし ことさら輝く あの落日若い日なら 顔を上げて 明日の憧れ 映したもの今はどこか 舞い散る花 浴びる時の 感傷のように命ひとつ 尽きる前の 名残りの祭りと視る記憶のみに 心埋めず 残りの日数に 指を折らず今も胸に 熱く騒ぐ 恋なり愛なり 愛しいもの切り株から 芽吹く命 蘗たち 慈しむようにこうありたい こうしたいの 想いを育み抱く日一日を 夢に向かう 登り坂の 祭りとしてカ 尽くそう 心 充たそう流行り物に 取り込まれず 若さを装う 無駄無理せず精一杯 内からなる 自然を生きれば 嬉しいもの五千人の 知り合いより 五十人の 友選ぶように真心だけ 重ね合える 交わり暖めたい地位や名誉 すでに無用 美しさを 追い求めて日一日を 夢に向かう 登り坂 祭りとしてカ 尽くそう 心 充たそう』そして明朝は真白き富士の嶺の勇姿が!!
2022.10.25
コメント(0)
この日は9月28日(水)、6:30すぎにホテルを出発し駐車場から沖縄道那覇ICに向かう。3日連続で「とよみ大橋」を渡る。同じく3日連続で「那覇IC」から沖縄道へ。那覇料金所のETCゲートを通過。この朝は前方に雨雲が。「沖縄セルラー電話(株)」の電波塔。宜野湾市我如古2丁目14近く。「沖縄県企業局」の「山里調整池」が2基。そして「金武(きん)IC」で降りる。「金武料金所」を通過。国道329号を左に進む。「沖縄電力株式会社 金武火力発電所」が右手前方に。「金武火力発電所」の四角形の煙突。「国道329号・金武バイパス」を走る。「億首川(おくくびがわ)」に架かる国道329号・金武バイパスの「金武BP1号橋」。左折して国道329号の高架を見る。走って来た国道329号・金武バイパスの高架橋・「金武大橋」下を通過。道なりに進むと正面にあったのが「水牛車乗場」。「水牛車」が2台、この日の出番を待っていた。国頭郡金武町金武10988−1。「心のんびり 水牛車体験」案内板。5頭の水牛が飼育されているようであった。名前や特徴が書かれた看板。表情の見分けは難しくても、よく見ると、角の形がそれぞれ違うので、角の形でどの牛か見分けることがなんとかできそう。水牛の姿を追う。水牛はもともとは沖縄にいたものではなく、農業の際に畑を耕すため、台湾から連れて来られたとのこと。大きな耕運機がはいられないところは、この水牛が大活躍していた。沖縄の各島々で見られる、さとうきびを耕す際もこの水牛が活躍していた。水牛は、中国・東南アジア・インドなどアジアの熱帯に近い地方で広く用いられている。熱帯の植物を主食とし、穀物飼料や濃厚飼料中心の飼養に向かないので寒い地方では利用できない。暑さにも弱く、1日に3時間は水に浸からなければならないので水辺での生活が欠かせません。移動速度は遅いのですが、牛よりも牽引力が大きく、粗食に耐えるので、荷車の牽引用として優れているのだと。このような理由で、億首川の観光用の水牛車に導入された と。近くにあった「展望台」。「展望台」に上ってマングローブ林を見る。恩納岳から金武町内を流れて金武湾にそそぐ億首川は、全長約8kmある。川の水と海水が混ざりあう河口近くには、沖縄本島では唯一、4種類ものヒルギが群生するマングローブ林があり、水辺の生き物やバードウォッチングが楽しめる場所として人気を集めている と。展望台よりマングローブ林を見る。「億首川」の河口近くに架かる「福花橋(ふっかばし)」。静かな水面に「マングローブ林」に映り込んで。その先に、先程渡った、国道329号・金武バイパスの「金武大橋」が見えた。沖縄本島に群生する4種のマングローブすべてを観察できるのがここ金武町にある億首川(おくくびがわ)であるとのこと。橋の名は「福花橋」。「福花橋」を歩いて渡る。「億首川」の河口を見る。「福花橋」を渡った場所の右側にあった「展望デッキ」には「金武町億首川プロムナード(散策路)」案内板。「億首川は、生物の多様性が高く、学術的にも貴重であることから環境省の「日本の重要湿地」として選定されている。同地域には、本島ではここでしか見ることが出来ない4種類のマングロープが自生している。また、県内でも数少ない水田(水芋・水稲)が広がり、渡り鳥の飛来地として約30種類の鳥を観察することができる。このような、貴重な自然環境の保全と共生を図りながら、自然体験学習と環境学習の場となっています。」4種類の「ヒルギ」が紹介されていた。「オヒルギ(ヒルギ科)海水中から多くの呼吸粮を上向きにのばします。花は赤~クリーム色で、果実は卵~円錐形で、枝上で発芽します。」「メヒルギ(ヒルギ科)「葉に光沢があリます。花は白色で、果実は卵形で萼が反り返ります。枝上で発芽します」「ヤエヤマヒルギ(ヒルギ科)」「幹や太い枝から多くの支柱根を出します。花はクリーム色で、果実は円錐形です。枝上で発芽します。」「ヒルギモドキ(シクンシ科)」「葉は枝先にあつまってつき、多肉質で光沢があります。花は白色で、果実は楕円形です。」再びマングローブ林を見る。「億首川の野鳥」案内板。左側。中央。右側。河口の先の太平洋には貨物船が。「金武町多目的屋内運動場施設」は建設工事中。米軍ギンバル訓練場跡地に整備計画している多目的屋内運動場で令和4年度内に完成予定と。「億首川」。「億首川」とは、首が億もあるので怖そうな名前の川!!川の名前は地名から名付けられていると。「億首」という地名の由来は『金武町誌』によると――慶長14年(1609)島津軍が琉球へ侵入の際、ギミンノへイカという勇ましい兵士がこの地にあった要害で島津軍を迎え討ち、敵の首を数億も切り落としたことに因んで名付られたのだと。億とは、数え切れないほど多くという意味のようである とネットから。橋を渡り引き返し左折するとあったのが「日秀上人と福花原・物語」案内板。「1⃣ 日秀上人フナヤに漂流永正年間(1504~1520)の和歌山県から唐(中国)に行く途中の一隻の半壊状態の船が、金武のフナヤ(福花港)に流れ着いた。ちょうど船が流れ着いたころ作業をしていた若者が流れ着いた船を見つけ、乗り込んで調べてみるとかろうじて生きているかのような坊さんが。船底にしがみつきうつぶせになって倒れていた。若者は坊さんを助け、持っていた弁当をあたため、お粥をつくり差し上げた。お粥をすすっているうちに坊さんの体力は回復し、立ち上がって海を見渡し、笑みをいつぱい浮かべて大きな声を張り上げ「ほこらしゃやみなと」と発した。しばらくすると坊さんはのどが渇いた様子で若者に飲み水はないかと尋ねると、若者は村はずれの湧水の出る場所に案内した。坊さんは新鮮な冷たい水を一口飲んだだけで身震いし「なんとおいしい水だろう。この水でお茶を沸かし飲むときっと素晴らしい味がするだろうと」若者に教えた。」。以下は、訪ねなかったのでネットから。「2⃣日秀上人と若者すっかり落ち着きを取りもどした坊さんはそれまでのいきさつを若者に話した。若者はこの坊さんが日秀上人という身分の高い僧であることを初めて知り、急にこちこちになりへりくだった態度をとった。「坊さんはそうかたくならなくてもよい、あなたは命の恩人だ。何かお礼をせねば」、私にできることがあれば何でも申し述べよ」と、上人に若者は「何もほしくはございません、あたりまえのことをしたまでです・・・。あえて申し上げるなら物はいつかなくなってしまいます。それで・・姓を賜りたいのですが」どんな姓がほしいのか尋ねると、若者は北を指差し「この丘の向こうの山のふもとにある川は先祖代々はじめ、多くの村人の生活に大変役に立ってきた由緒ある川です。名はヒジャガーと言います。その川の名を授けてもらえれば大変光栄に思うのですが」と願い出ると、上人はこの名が幸せをもたらすように唱えてあげた。「さあ、今日からお前の名字は比嘉だ。この名に誇りを持って使うがよい」と若者に命名した。」以下【https://www.ryukyulife.com/2015/11/okinawan-folktale-legend-of-monk-and.html】より「3⃣福花・茶井(サーガ)の由来この話が村中に伝わっていくうちに、日秀上人の上人の申された「ほこらしゃやみなと」の言葉からその浜あたりは福花と呼ばれ、また湧水が出るところを茶井(サーガ」と呼ぶようになったそうだ。茶井は後々、おいしい水所として首里までその名が届き、役人が金武に立ち寄るときは、必ずといっていいほど、ここの水を飲んでいったという。」「4⃣日秀上人と村人金武の若者に助けられた日秀上人は、村のために何か役に立ちたいと考えていた。上人は農業についても相当な知識があり、農産物の栽培や管理、特に稲作については、それまでは経験だけを頼りにしてきた村人に新しい方法を教えた。その成果の素晴らしさに、村人はびっくりし「白砂か米に化した」という謡までうたわれるようになり、上人の指導のおかげで村はしばらく豊作が続き、大変栄えていたという。それ以来、村人は日秀上人のことを「神人(カミンチュ)」だと崇めるようになった。ところでその頃、村をひっそりとさせるような恐ろしい事件が起きた・・・。」「5⃣村の娘と美青年ある月夜の晩、このあたりでは見かけぬ美青年が、村で一番美しい娘の◯をたたき、透きとおるようなきれいな声で、娘を誘い出し娘は男の美しさと天人のような声に、さそわれるままに後をついていった。以前からこの子に惚れていた村の青年が、月夜の木の影から、こっそり後をつけていくと、ニ人はまるで長い恋人同士であったかのような素振りで手を組みながら洞窟に向かっていた青年が急いで娘を引き留めようとした時、突然煙が”むくむく”と立ち込めたかと思うと美青年が大蛇に変身。何の抵抗もできない娘を巻きつけて、洞窟の中へ消えていったのである。」「6⃣大蛇実はこの大蛇、洞窟の中に住み、人間、特に若い美しい女性の生肝を常食にしていることで、村人から大変恐れられていたのだ。その昔、洞窟に続くいてるといわれる大川で、水を汲みにくる若い女性が次々と襲われたり、大川や洞窟近くの農作物が被害にあう事件が相次いだ。大蛇のせいだと知った村人たちは、その周辺には近づかないよう注意し合っていた。しかし長い問被害がなかったことから大蛇は死んだものと信じ込まれていた。それでも村人は大川や洞窟から遠ざかり近くで農作物を植えたりすることも避けていた。ところが腹を空かせた大蛇は大川に現れてはみたものの人間は来ないし、近くに農作物もみあたらないため、我慢できなくなり人間に化け、人家にまで忍び込むようになった。」「7⃣日秀上人と大蛇娘がさらわれたことが村中に広まると、村人はいつか我が身、あるいは我が娘にふりかかるものかと、気が気で夜も眠れず、外に出かけることさえできなかった。急にひっそりした村のことを心配した上人は、娘を持つ家を訪ねては、娘を隠していたり、親子でしくしく泣いている様子を見てたいそう心を痛めた。さっそく上人は自ら洞窟の前て呪文を唱え、大蛇がニ度と出られないように洞窟に封じ込めた。それ以来、大蛇の被害はなくなり.村は再び栄え始めたそうだ。 終わり」近くにあった赤紫色の苞(バナナハート)と開花した花と付け根にはバナナの子どもが。太陽に向かって反り返るバナナの実。そして「オオシマゼミ」の姿を発見。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.25
コメント(1)
「残波岬」からこの日の夕日をカメラで追う。近くには数十人の方が立派なカメラを構えていた。我が旅友も一眼レフカメラを三脚にセットして。時間は18:04。この日のこの地の日没時間は18:21とネットから確認済み。太陽の上端が地平線(または水平線)に接する瞬間を、日出・日没時刻と定義しているのだ。従って、日出とは太陽が地平線から顔を出し始めた瞬間、日没とは太陽が地平線に沈みきって見えなくなった瞬間になる。そして夕日の下部が雲から姿を現して来た。太陽の姿が次第に・・・。そして真丸の夕日が姿を表す。時間は18:08。貨物船が。しかし水平線上には黒き帯が。やはり・・・時間は18:12。18:14。そして太陽は姿を消したのであった。時間は18:15。諦めて引き上げることにする。「沖縄海岸国定公園」案内板。残波岬は、琉球石灰岩の断崖を荒波が洗う景勝地です。岬の南には板干瀬(いたびし、ビーチロック)の発達する砂浜がつづいています。(板干瀬は6~30cmの板状の岩が何枚も重なりあって層をなし、まるで洗濯板のような様相を呈しているのだ。)■沖縄海岸国定公園沖縄海岸国定公園は、沖縄島最北端辺戸岬よリ残波岬に至るサンゴ礁に縁取られた西海岸と、固有の生物相をもつ北部山林地域の一部、および多島海の風景と海中景観が美しい慶良間諸島からなります。これらの地域は亜熱帯沖縄を代表する自然の風景地です。周辺海域では多種多様なサンゴや熱帯魚が素晴らしい海中景観を織りなし、特にすぐれた地区として部瀬名岬周辺など3箇所が海中公園地区に指定されています。また与那覇岳一帯には原生林に近い亜熱帯林が分布しており、世界的な貴重種であるノグチゲラやヤンバルクイナが生息しています。「沖縄海岸国定公園 残波岬周辺の自然」残波岬で見られる植生残波岬では、亜熱帯沖縄を代表する海岸植生が見られます。岬の北西側には隆起サンゴ礁海岸植生が、北東側には海岸断崖風衝植生が分市しています。潮風や乾燥に強い植物が海岸地の厳しい環境で自生しています。残波岬で見られる植物アダン(タコノキ科)日本では南西諸島だけに見られる常緑低木です。主として海岸に群生し、幹から多数の支柱根を出します。果実は多数集まって集合果をていし、パイナップルの果実によく似ています。クサトべラ(クサトべラ科)日本では南西諸島だけに見られる常緑低木です。海岸の砂地や岩地、隆起サンゴ礁に群生します。核果は海流(黒潮)によって運ばれます。モクビャッコウ(キク科)日本では南西諸島だけに見られる常緑小低木です。主として隆起サンゴ礁に叢生し、比較的海水に強い植物です。「琉歌 特牛節(くてぃぶし)の碑」「大北の牡牛や なじち葉ど好ちゅる わした若者や 花ど好ちゅる」「大にし村の強い牡牛は、なじちゃの草が大好きであるが、われわれ若者たちは美しい花(美童)が大好きである。」と訳が。駐車場に戻り、帰路に。「残波岬いこいの広場」にあった巨大シーサー。「残波大獅子」と。日本一の特大シーサーであると。高さ8.75m、長さ7.8mの特大獅子。時間は18:23。中頭郡読谷村宇座1885。そして再び「Royal Hotel 沖縄残波岬」を見る。空港から車で約70分、人気の観光地「残波岬」近くにある、総客室数465室のリゾートホテルそして「国道58号」を利用して那覇市内のホテルへと向かったのであった。途中、国道沿いの店のネオンをカメラに納めながら。「琉球朝日放送(株)・QAB」のテレビ塔。那覇市久茂地2丁目3−1 琉球放送会館。そしてホテルに到着。時間は19:40。この日の「備瀬のフクギ並木」以降のドライブルート。走行距離271km。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.24
コメント(0)
沖縄道「石川IC」を降りこの先を右折して県道73号線で「中泊」方面に向かって進む。県道6号線の「中泊」の海岸線を進む。そして県道12号線を利用して「座喜味城跡」に建つ「世界遺産座喜味城跡ユンタンザミュージアム」👈リンクに到着。時間は17:06。歴史民俗資料館と美術館が統合され、2018年6月にリニューアルオープン。「ユンタン」とは、「楽しくおしゃべりをする」という意味の沖縄の方言「ユンタク」と、「そこで生まれるたくさんの笑顔が詰まった容器」をイメージする「タンク」を掛け合わせた造語であると。中頭郡読谷村字座喜味708番地の6。「座喜味城跡駐車場」。座喜味城跡の歴史や、村内の自然環境を紹介する展示等が新しく加わり、読谷村の歴史、自然、戦前・戦後の暮らしについて実物や模型、写真などで紹介され、歴史資料や美術品など6万点近く収めれている と。ここ「座喜味城跡」は2015年6月に訪ねているのであった。築城家として名高い護佐丸が築いた先進的な建築技術と、見事な曲線が美しい「続日本100名城」に選ばれた世界遺産「座喜味城跡」。座喜味城は、戦乱の世だった「三山時代」に活躍し、琉球王国統一後の国の安定に尽力した名将護佐丸(ごさまる)によって築かれた城。国王に対抗する勢力を監視する目的でつくられ、1420年頃に完成。規模は小さいが、城壁や城門の石積みの精巧さや美しさは沖縄の城の中で随一といわれ、当時の石造建築技術の高さを示す貴重な史跡となっているのであった。座喜味城の正面の城壁は、波打つように大きくせり出ている。これは、攻めてきた敵を倒すための工夫。身を乗り出さなくても下の様子が見え、多方向の攻撃にも有利だったと考えられている。城の中には、奥へ導かれるように見える通路があり、そこを突き進むと行き止まりになる。これは、敵をあざむいて攻撃を加えるための「武者隠し」といわれるもの。これらのことからも、座喜味城は戦に備えた軍事要塞として築かれていたことが伺えるのであった。座喜味城は国頭マージと呼ばれる粘土質の赤土の上に築かれていた。屏風にもたとえられる城壁の曲線と幅の厚みは、戦のためだけでなく、弱い地質を補って崩れにくい構造にするための工夫でもあった。石をかみ合わせて積み上げた「相方(あいかた)積み」と、日本の築城様式にも見られる「布積み」で築かれている。城門は沖縄に現存する最古のアーチ門で門の強度を高めるために中央部にはクサビが打ち込まれていた。このつくりは他の城には見られない座喜味城独自のもので、護佐丸の築城技術の高さを象徴しているのだ と。「続日本百名城」のスタンプを頂きました。そして「御城印」も購入しました。力強さが感じられる書と、座喜味城跡らしい曲線美、石積みの美しさを色鮮やかにイメージさせるデザイン。この丘の上が「座喜味城跡」👈リンク。この日は、スタンプ、御城印のみで「座喜味城跡」を後にしたのであった。近くにあった「(株) 沖縄黒糖」👈リンク は2015年に訪ねているので、この日はパス。そしてこの日の最後に「残波岬」からの夕日を見に行く事とする。この日の日没時間は18:21。時間に余裕があったため「宇座海岸」を訪ねることとした。「宇座(うざ)海岸・ビーチ」は沖縄県読谷村(よみたんそん)にあり、那覇空港から車で高速道路を利用せず約1時間、約35キロの所にある海岸。海岸にあった「石切場跡」。干潮の時だけ姿を現すという石切場跡は、残波岬に向かう途中の宇座集落にある宇座イノーで見ることができた。イノーとはリーフ(サンゴで囲まれた天然の防波堤)で囲まれた浅い海のこと。海藻や小魚、貝などが集まる豊かな海。そのため沖縄では昔からイノーのことを「海の畑」と呼んでいると。そんな宇座イノーにある石切場跡は、「宇座石」と呼ばれる良質な石材が採れる場所。宇座イノーの宇座石が盛んに採掘・販売されていたのは、大正時代末期から昭和時代初めとのこと。当時は波照間島の石材が多く流通していたのだが、墓石だけでなく畜舎や石垣など建築石材として幅広く利用が出来る良質な宇座石は沖縄本島内でも人気が高く、那覇や宜野湾、北谷、具志川方面へも出荷されたと。とはいえ宇座石があるのは海の中。しかも潮が引かなければ石は切り出せない。そのため石職人たちは潮が引き始めるとイシアナと呼ばれる採掘場所に集まり、バンジョーガニ(金尺)、ユーチ(石切斧)、チーシ(ハンマー)、チンチョー(石を挟むハサミ)など採掘用の道具を使って石を切り出した。さらに切り出した石は満潮時の浮力を使って馬車に積み込む。こうすることによって海の中にある宇座石を効率よく切り出し、遠くまで効率よく運搬することができたとのこと。このように宇座の石切場は良質な石材が採れるだけでなく効率よく石を運搬する方法も確立されていたため、沖縄本島で最大規模の石切場として栄えたのだと。この後に訪ねた「残波岬灯台」をズームで。「宇座海岸」の奥には小さな岩場が。「宇座海岸」で拾ったサンゴ。こちらの貝は?北側には「Royal Hotel 沖縄残波岬」が見えた。「Royal Hotel 沖縄残波岬」の前を通り、「残波岬」に向かう。カーナビの画面。そして「残波岬」の駐車場に車を駐め散策開始。時間は17:41。日没までは約40分。中頭郡読谷村宇座。まずは「泰期像モニュメント」を訪ねた。1372年琉球王朝時代、時の中山王「察度王」の命を受けて初の進貢使(明・清皇帝への進貢のために、中国に派遣される使者)として、初めて中国へ派遣された。読谷村の豪族であった泰期は中国の文物を琉球王国に正式ルートで導入した先駆者であった。その活躍は沖縄の一番古い歌謡集「おもろさうし」に謡われ、「読谷まつり」2日目「創作進貢船」の主役となっている。当時の船旅は、生命の保障の無い危険な旅路であり、特に「唐旅」は「あの世への旅立ち」を意味する程に厳しいものであった。その唐旅を5往復もした「泰期」が並の人間で無かったことは想像するにたやすいことである。読谷村は並外れた勇気と使命感、統率力、国際ビジネス感覚で大貿易時代を先導した泰期を本村の経済活性化の起爆剤とするために、「商売の神様」としてシンボライズし、読谷村商工会35周年、村制100周年を記念して2008年11月に15年の歳月を掛けて「泰期像」を完成させた。台座には泰期をたたえる歌「おさの、たちよもいや たう、あきないはゑらちゑ あんしに、おもわれれ 又、いちへき、たちよもいや」と刻まれていた。意味は【宇座の泰期殿は 中国交易をさかんにされ 按司様のおぼえめでたくあれ 心意気すぐれた泰期殿は】と。泰期像は約180cmで中国福建省の方向を指さしているのだと。「残波岬灯台」👈リンクを見る。ここも2015年に訪ねているのであった。沖縄本島で一番高い灯台。塔高31m、灯高44m。周囲には「大岩」がゴロゴロと。パネルが腐食と強風でかなり無くなってしまっていたが「台風の猛威遠くいにしえより母なる海は人々に恵みと幸をもたらしてきました。しかし時には大地を震わし人々に襲いかかる嵐を巻き起こします。それが台風です。1990年10月6日午後8時40分、台風21号の驚異的なエネルギーは、大波となって残波岬一帯(ユカから南にかけて)をのみこみました。なんと!その時に重さ50t~94tもの大岩を動かしてしまいました。もしもこれが人間や自動車であればひとたまりもありません。アッという間に波にさらわれてしまうでしょう。「大自然の力をあなどるな!!」という教訓が形として残っているのです。1994年8月26日 読谷村」「泰期像」を振り返って。「西ノ神之屋(イリヌカミヌヤー)」。「東ノ神之屋」と対になる拝所。航海安全や武運長久を祈願した拝所なのであろう。日没まで後25分。しかし西の空一面には雲が・・・。ワニの如き岩。1人の女性が夕日の沈む西の空を見つめて。「A''LINE」の旅客船の姿が。鹿児島から那覇に向かう旅客船であろうか?オレンジ色に染まる雲の広さは、僅かに拡がって来たが・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.23
コメント(0)
「具志堅ビーチ」を後にして国道505号に入り東に進むと「今帰仁城跡」案内板が現れた。日本百名城の「今帰仁城跡」👈リンク は2011年3月に既に訪ねているのである。交差点には世界遺産「今帰仁城跡(なきじんじょうあと)」の美しい曲線美の石垣の光景が大きな看板となって歓迎していた。道路脇の建物の壁にはユニークな絵が。「ちむどんどん」、「ないくるないさぁ」の文字の書かれた絵が。「ちむどんどん」とは、沖縄方言で「胸がわくわくする気持ち」を表す。「ないくるないさぁ」は、「挫けずに正しい道を歩むべく努力すれば、いつか良い日が来る」と いう意味。「ウッパマビーチ」はのんびりしたい人におすすめの本部(もとぶ)半島北部、今帰仁村の天然度の高いビーチ。ウッパマとは方言で「大きな浜」の意味で、その名のとおり広々とした浜が続いていると。「なきじん 美人多し わき見 注意」と道路標語になっているくらい美人が多い地域なのだ!? と。「伝説の美女 なきじんうかみ」。今帰仁村商工会ホームページで によると、「今からおよそ七百年程前の中北山時代の頃、今帰仁城の南側に志慶真村(しげまむら)という集落がありました。この「しげま村」に、乙樽(ウトゥダル)という絶世の美女がいました。その美貌のうわさは国中に広がり、又このようにうっとりとみとれるほどの綺麗な乙女は、神様みたいに気高いというので、「今帰仁御神」(ナキジンウカミ)と云われるようになりました。」と。次に訪ねる「古宇利島(こうりじま)」の案内が現れた。「国道505号」から左折して「県道248号線」へ。「古宇利島」まで6.5kmと。「ワルミ大橋」を渡り「屋我地島」に入り県道110号線に入る。沖縄本島とは屋我地大橋で結ばれており、さらに古宇利大橋で今帰仁村に属する古宇利島と結ばれており、また今帰仁村運天側の本島との間はワルミ大橋で結ばれている。島内には、済井出・饒平名・屋我・運天原・我部の5つの集落があり、饒平名に名護市役所の支所と郵便局が置かれている。「屋我地島」の航空写真をネットから。そして県道247号線から「古宇利大橋」の姿が現れた。「古宇利大橋南詰展望所」駐車場の車を駐める。青い海、青い空に囲まれた「古宇利大橋」と「カエル島」を見る。ズームして。潮が大きく引くと「カエル島」まで歩いて行けるようであった。「写真はネット」👈リンクから。 再びこの日の自分の写真を。「古宇利島」も背景にして。「古宇利島」は別名「恋島」と呼ばれ、カップルにも人気がある島である と。「古宇利大橋」今帰仁村の古宇利島と名護市の屋我地島を結ぶ全長1,960mの橋。2005年2月8日に開通し、県内では通行無料の橋としては2番目に長い橋。橋の両側にはエメラルドグリーンの海が広がり、絶景のドライブコース。古宇利大橋」を渡ってすぐ左手には、古宇利ビーチや地元の特産品が楽しめる「古宇利ふれあい広場」があり、観光客でにぎわっているのであった。パイナップルと似た「アダン」と「古宇利大橋」のコラボ。「大堂原(うふどうばる)貝塚」案内板。「大堂原(うふどうばる)貝塚大堂原貝塚は、1979年(昭和54年)に行われた名護市遺跡分布調査で発見された遺跡です。1998年(平成10年)から2004年(平成16年)まで、古宇利大橋建設に伴う緊急発掘調査が行われ、縄文時代早期(約6500年前)から古墳時代(約1400年前)までの遺構や遺物が見つかりました。縄文時代早期に相当する層(第8層)から、爪形文土器や県内でも最古級の土器である薄手無文の土器のほか、イノシシの骨やその骨を加工した骨製品が出土しました。また、同じ層から埋葬人骨もニ体出土しており、約6200年前の人骨であることがわかっています。縄文時代前期の層(第7層)からは、熊本県の曽畑貝塚を標識とする曽畑式土器や、条痕文土器、室川下層式土器が、縄文時代後期の層(第4層)からは伊波式土器や奄美系の土器などが出土しています。弥生時代から古墳時代に相当する層(第3層)からは、イモガイやゴホウラを集めた貝の集積が十数基見つかりました。これらの貝は腕輪や貝製品の材料となるもので、九州地方と交易をするときの交易品であり、その見返りとして手に入れたと考えられる九州地方の弥生土器や甕棺の一部も出土しています。また、同じ層から新たに埋葬人骨もニ体出土しましたが、これは約900年前のグスク時代の人骨でした。その時代に、弥生・古墳相当期の層を掘り込んで埋葬されたものと考えられます。県内でグスク時代の人骨はあまり見つかっておらず、貴重な発見となりました。沖縄諸島で出土するほとんどの形式の土器が出土しているほか、石斧やたたき石などの多様な石器や腕輪、指輪などの貝製品、イノシシの骨以外にクジラの骨を利用した骨製品なども出土しており、沖縄の先史時代を知る上での貴重な資料が得られています。それぞれの時代から発掘された土器や石器類。「こうりおおはし」と。その先には人も歩いて渡れる遊歩道が片側のみに。一直線に延びる「古宇利大橋」。「運天湾」方向を見る。車に戻り「古宇利大橋」を渡る。中間点を過ぎると下り坂になり、青い海に吸い込まれるようなまっすぐな道路が望めるのであった。橋というより海上を走る道路って感じ。歩いて渡ると、視点も多少高くなり新たな感動が拡がるのであろうが・・・・。「古宇利大橋」を渡り、「古宇利島」に入る。「古宇利島」の航空写真をネットから。最初に訪ねたのが「人類発祥の島」 碑。中央の石碑には「成就 無病息災 子宝祈願 事業繁栄」と。「心」と書かれた石球も。天帝が、初めて地上(身のシラサ岬)に降ろした人間の男女(姉弟)の姿であろうか。「人類発祥の島古宇利島は、天帝が、初めて人間の男女(姉弟)を地上(島のシラサ岬)に降ろしたロマンに満ちた島、別名を恋島( クイ島)とも呼はれている。人類の始まりウミナイ・ウミキイ(ウナイ神・ウキイ神)の原点、深層を証す行事「海神祭(ウンジャミ)」が旧暦のお盆明け七月の最後の亥の日に執り行われています。元屋の神棚には、ウミナイ・ウミキの御姿像か神として祀られています。※縁結びの神」「方位と拝所の名称で見る古宇利島」👈リンク。難しすぎて理解は??奥にあった建物は「拝所」なのであろう。「人類発祥の島碑」前から「古宇利大橋」を見る。中央部をズームして。この橋の下を通過する船の姿は見ることが出来なかった。次に「古宇利島灯台」を訪ねたが、灯台の前には私有地?の建物があり、立ち入り禁止となっていた。灯台の最上部のみをカメラに。塗色構造 白塔形灯 質 等明暗白光 明3秒暗3秒 Iso W 6s光達距離 8海里塔 高 11メートル灯 高 53メートル初 点 灯 昭和50年3月 と。そして「古宇利島」を1周(周囲7.9km)しようと、さとうきび畑の農道を進む。再び「古宇利大橋」を見る。なんとか1周して。帰路の「古宇利大橋」。青い海に浮かぶ小さな島々。「古宇利大橋」を渡り、左折して県道110号線を「奥武島(おうじま)」に向かって走る。海の先に見える場所は名護市稲嶺~源河地区。「屋我地大橋(やがじおおはし)」を渡る。沖縄県名護市真喜屋の奥武島と同市屋我地島とを結ぶ全長約300メートルの沖縄県道110号線の橋。「屋我地大橋」は、羽地内海の屋我地島と奥武島に架かる橋で、平成22年12月にワルミ大橋が完成するまでは、長年にわたり本島と屋我地島を結ぶ唯一の橋であった。現在の橋は3代目であると。そして「本部半島」をほぼ1周し、次の目的地の「座喜味城跡」に向かう為に沖縄道の「終点」となる「許田IC」に向かう。時間は16:22。そしてナビに従い。「石川IC」で沖縄道を降りる。時間は16:33。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.22
コメント(0)
さらに県道114号線を北に進む。左手にあったのが「ロイヤルビューホテル美ら海」。そして以前にも訪ねた「備瀬のフクギ並木」👈リンクに到着。駐車場が満車のため、しばし待ち駐車場の最奥付近になんとか駐車して散策のスタート。「備瀬(びせ)のフクギ並木マップ」。沖縄の原風景を残す備瀬エリアのフクギ並木は、徒歩・自転車・水牛車で探索できる。細く白い砂地の路に青々とまっすぐ伸びる約18000本のフクギは、古くから沖縄で防火・防風防止の最適な植物として使われてきたとのこと。まずは「夫婦福木(フクギ)」へ。「夫婦福木」案内板。2本の巨木がくっついて寄り添っていることから夫婦フクギと呼ばれる木。夫婦円満や幸せを呼ぶパワースポットになっているらしい。「福を呼ぶ木」とも言われるフクギ。何とも縁起のいい木なのであった。福木・フクギは並べて植栽すると緑の壁のようになり、防風林・防潮林となる。ここ沖縄県の本部町備瀬の「備瀬のフクギ並木」や久米島町真謝の「チュラフクギ」(「チュラ」は「美しい」、「清らか」の意味)などが有名。奄美方言の地方名では「火事場木」を意味するクヮジバギといい、緑の壁のように植えておくと隣家の火事による延焼を食い止められるとされるとのこと。樹高は10-20m。葉は対生で、長楕円形または卵状楕円形で長さ8-14cm。雌雄異株で、花期は5-6月。1.5cmほどのクリーム色の5弁花を葉の付け根に咲かせる。果実は直径3cmほど、3-4個の種子を含む液果で黄色く熟し、クビワオオコウモリ等のオオコウモリ類の餌となる。フラボン系のフクゲチン色素が心材や樹皮中に多く含まれ、古くから紅型、琉球紬、久米島紬などの黄色染めに用いられてきた。福木の色素はアルカリ媒染で赤味の黄色に、すず媒染で黄色に、銅媒染で黄緑色に、また鉄媒染で黒味の青緑色にそれぞれ染色されるとウィキペディアより。福木・フクギの葉。ツヤツヤで厚みがある葉。「備瀬区公民館」。国頭郡本部町備瀬457。「備瀬神アサギ」。備瀬集落の真ん中ほどに、「備瀬神アサギ」があった。ここは集落の神祭りを行う小屋であると。神アサギのある村を「古層の村」と呼び、古琉球の時代(17世紀以前)からあった村と考えられているのだと。かつては茅葺き屋根で軒の低い建物であったが、現在は瓦葺きやコンクリートになっている。明治三十六年以前に創設されたムラは神アサギを設け、神人を置き祭祀を行って来たと。左の石碑には「備瀬神殿改築紀念碑」と刻まれていた。右の石碑は「拝殿改築記念之碑」か?「ウカミャーは、神殿(神様三体祭)祀アサギヤーは、拝殿」案内。「備瀬集落は六百五十年に創設されたと云われ、完全な村落が形成されたのは、三百五十年前後と考えられる。このアサギャー(ウカーミヤの神)は、備瀬区の始祖神として崇拝され、総ての祭事は、この場を中心に行われています。アサギャーは、神殿も拝殿も去る戦争の戦禍から逃れ、今に昔ながらの偉容を呈している。これも、備瀬の氏神様により神押しで守られ、備瀬区民の信仰が深いことから天地の神様がお護り頂いたものと信じます。この場所は備瀬区一の聖地で、年初めにはアサギヤーで、神人達が初御願(パチーウガン)で始まり、十二月までの数々の祭事、御願を行います。字民の無病息災、農作物の豊作祈願(五穀豊穣)大漁祈願と拝みます。観光のお客様は、パワースポットとして、心の中で、お拝み思いのパワーをもらって下さい。( 二礼・二拍・一礼)」。さらに海岸に向かって「備瀬のフクギ」並木を歩く。「海・伊江島ミーウカンへの眺望」案内板。備瀬崎からは、伊江島を一望することができます。伊江島をシルエットに沈む夕日はとても美しい眺望です。沖縄県本部町(もとぶちょう)、本部半島の先端の岬が備瀬崎(びせざき)。備瀬のフクギ並木で知られる備瀬集落の北端に位置する岬。眼前にミーウガン(新御願)と呼ばれる聖域となる小島が浮かぶ絶景の地。伊江島に沈む夕日の写真。「備瀬海岸」。「備瀬海岸」から「備瀬崎」の先の「備瀬埼灯台」方向を見る。「備瀬埼灯台」をズームして。白塔円形コンクリート造り。本灯塔は沖縄本島・本部町海洋公園近くの備瀬埼に建つ。チョット変わった小島の灯台。備瀬崎周辺の海岸は、琉球石灰岩の海食崖で、磯には根元が浸食されて細くなったキノコ岩が見えた。波による浸食によって水面近くを中心に深い切れ込みが生じるもので、地質学ではノッチと呼ぶとのこと。備瀬崎には海水面の変動で生まれた「ダブルノッチ」もあり、複雑な景観を生み出しているのであった。。穏やかな海が拡がっていた。「国営沖縄記念公園エメラルドビーチ」方向を見る。「伊江島」と「城山(伊江島タッチュー)」の姿が。島の中央やや東寄りにある海抜172mの岩山で村外からは「伊江島タッチュー」の名で親しまれている。城山は、島より7千万年も古く、世界でも珍しいオフスクレープ現象(古い岩盤が新しい岩盤に潜りこむ中で一部が剥がれて新しい岩盤の上に乗る現象)によって形づくられた。この現象は、理論として語られていたが実際に見るのは世界でも伊江島しかないのだと。烏帽子を思わせる独特な形から古くから近海を航海する船が目印にしていた。また、航海の安全と健康あるいは豊作を祈願する城山御嶽がある と。ここにも「福助の王子焼き」の店が。狭いフクギの散策道を歩く。「備瀬のフクギ並木入口」案内。「歓迎 めんそーれ Welcome備瀬集落フクギ並木通り」案内板。「備瀬集落案内マップ」。観光ポイントの案内。A、ミーウガン 備瀬崎の離れ小島です。B、ミーウガン(離れ小島)への眺望 辺戸岬から昇る朝日と、伊江島に沈む夕日の両方を見ることができます。C、ボウズサンゴの珍しい石垣 ボウズサンゴは消石灰にして漆喰として利用していました。D、区画割の基準石 メージク(前軸) ナカジク(中軸) ニージク(子軸)の三つの軸石を基準にして区 画割が行われたといわれています。E、海・伊江島ミーウガンへの眺望 備瀬崎からは、伊江島を一望することができます。伊江島をシルエットに沈む 夕日はとても美しい眺望です。F、備瀬区の貴重な文化財 屋号:ハネクンヤー(具志堅門中の家)は、10代続く集落内で二番目に古い門中 です。屋敷の一角の壁は、備瀬のイノーの砂岩で100年以上前に作られました。 備瀬区に残る貴重な文化財です。G、夫婦フクギ 2つの巨木がくっついた珍しいフクギです。幸せを呼ぶとして人気のポイント です。H、コバテイシの老木 熱帯・亜熱帯の気候に分布するコバテイシ(モモタマナ)で樹齢350年と伝わっ ています。I、フクギアーチ越しの伊江島の眺望 フクギ並木のトンネルを抜けると、正面にはエメラルドグリーンの海に浮かぶ 伊江島が姿を現し、夕日を望む絶景ポイントです。「備瀬集落とフクギ並木」案内板。「備瀬集落は、本部半島の先端部に位置し、南北へ連なる碁盤目型のフクギ並木と、その間を通る白砂の道で形成されている美しい景観を残していることが、大きな特徴です。今から約400年程前に形成され、約350年程前に完全な集落になったとされています。神アサギを中心に集落が形成され、伝統文化を大切にする風習が強く、備瀬集落より行事や祭事の多いところはないと思われるくらいに、一月の初御願に始まり十ニ月まで毎月のように行事が行われています。集落の発祥が古い所以と思われ、主に五穀豊穣・無病思災を祈願する行事です。集落のフクギは琉球王国時代の250年以上前に、国策として風水思想に基づく海岸域から里山にかけての森づくりと、風害に悩まされた海辺に住む人たちの暮らしを守るためにフクギが植えられたと思われます。フクギは直立した大樹になり、防風・防潮・防砂・防火などの最適な樹木として、現在でも、先人から受け継がれたフクギを住民は守り続けています。」「水牛車でフクギ並木の原生林散策はいかが!」そして「備瀬のフクギ並木」の散策を終え、駐車場入口まで戻る。大きな「渡口彦信顕彰碑」。「渡口彦信顕彰碑この顕彰碑は渡ロ彦信が政治行政 産業経済 防犯福祉を通し 各般にわたり広く社会やふるさと備瀬区のために貢献されたご功績を讃え 末永く後進への励みに建立する」「経歴以下 省略。ここまでに大きな顕彰碑の建立の経緯に関心があるのだが・・・・。シーサーまでも(右)。シーサー(左)。こちらは歌碑。「情ある人の 福徳の礎 造て後の世の 宝さびら」「備瀬むらに生れ 御万人の為に ちむ情かきて 沙汰ゆ残ち」「フクギの里宣言記念碑」。国土交通省は、2011年1月2日、本部町備瀬区のフクギ並木を「手づぐ郷土賞」に認定した。その栄誉き受け、本部町ど備瀬区は2015年に2月9日を「フクギの日」と定め、沖縄における集落の原風景である美しいフクギ並木をとどめる備瀬区を「フクギの里」と宣言した。よって、備瀬区は先人達が築いた美しく快適な居住空問を大切に保護保存し誇りある「フクギの里」と広く知らしめると共に本部町ど備瀬区の未来永劫の繁栄を祈願し、ここに「フクギの里」宣言記念碑を建立する。」備瀬集落フクギ並木から「備瀬崎海岸」へ車で移動。備瀬崎ビーチは知る人ぞ知るシュノーケルスポットで海中にはサンゴや魚がたくさんいる。駐車場脇には「備瀬小唄」の石碑が建つ。また、トイレ、温水シャワー施設がある。正面に「備瀬小唄」碑。2017年9月末の建立。所在地:沖縄県国頭郡本部町「備瀬小唄👈リンク 作詞 仲田栄松 作曲 兼村憲孝一、福木垣かくて 長浜ゆ前なち 我した備瀬村ぬサー向けぬ美らさ ンチヤヤル ハジドー ジントヤルハジドー二、クビル切り千瀬ぬ 波花ぬ美らさ 勝て美らさしやサー備瀬ぬアン小三、月ぬ夜やでかし 水ぱいに下りて 三味に歌ぬしてサー遊ぶうりさ四、村ぬ真中に 氏神ゆ祀て 千代までぬ栄えサー願いあぎら五、高さ豊まりる 備瀬ぬ灯台や 夜走らす船ぬサー守いでむぬ六、名護原に登て 我が村ゆ見りば 五穀満作やサー世果報招ち」左側には「沖繩三線」の楽譜・工工四(くんくんしー)が。工工四は、五線譜の音符(♪)のように実際の音の高さを表すのではなくて、左手でどこを押さえて、どこを弾くかを指示しているようであった。「わした備瀬に想いはせ「備瀬小唄」は、備瀬に生まれ育った仲田栄松氏(琉歌歌人)が作詞した。備瀬の風水・風致・風俗が余すところなく表現され、備瀬人の気韻生動が読み取れる一唱三嘆の作品で、兼村憲孝氏の作曲により、昭和四十九年にレコーディングされた。備瀬集落は、何時の時代に何処から移ってきたか定かでないが、古老の口碑によると砂丘上のアダン山を切り開き、ソテツ山に堆積したわずかな風化土を耕して拓かれた。山もなく川もなく、薪にも水にも事欠き、夏は台風、冬は北風、砂嵐にさいなまれる厳しく、劣悪な環境であった。ほかに適地の当てもなく、この地にロマンを抱き、氏神を祀り、村の主の下に一致団結して流した血と汗と涙の結晶が、盤石にして美しい福木集落、わした備瀬なのである。その素晴らしい環境の中で、現世の備瀬人が伝統を守りつつ和気葛々と暮らす様を観るにつけ、祖先の偉業に改めて畏敬の念を感じ、感謝の念が込み上げ、この小唄が生まれたと作者は語られた。仲田氏は、故郷をこよなく愛し、学び、献身的に尽力された功績を讃え「備瀬小唄」を次世代へ継承し語りつく。 二〇一七年(平成二十九年)十月十五日建立 備瀬小唄歌碑建立期成会」「備瀬崎海岸」から再び「備瀬埼灯台」を見る。備瀬崎周辺の海岸は、琉球石灰岩の海食崖で、磯には根元が浸食されて細くなったキノコ岩が見えた。波による浸食によって水面近くを中心に深い切れ込みが生じるもので、地質学ではノッチと呼ぶとのこと。「備瀬埼灯台」をズームして。位置 [Lat/Long] 南西諸島 北緯 26°42' 30", 東経 127°52' 43"塗色及び構造 [Colour, Structure] 白色塔形 コンクリート造 [White, Tower, Concrete]等級及び灯質 [Class, Characteristic] 単閃白光 毎5秒に1閃光 [Fl W 5s]光度 [Luminous Intensity (Cd)] 770カンデラ光達距離 [Range (M)] 13海里高さ [Tower Height, Focal Plane Height] 地上~頂部:12m、水面~灯火:17m初点灯 [Commissioning Date] 昭和28年7月 [7.1953]管理事務所 [Office] 第十一管区海上保安本部「伊江島」をズーム。本部半島から北西約9kmの海上に位置する島。本部港からカーフェリーで、約30分で訪れることができます。島は、東西8.4km、南北3km、周囲22.4kmの大きさで、北海岸は約60mの断崖絶壁が連なり、南海岸はほとんどが砂浜。比較的平たんな島の中央やや東よりに海抜172mの古生代チャートの城山(伊江島タッチュー)がそびえ立ち、島のシンボルとなっているのだ。「(ミーウガン(離れ小島)への眺望)辺戸岬から昇る朝日と、伊江島に沈む夕日の両方を見ることができます。」「気をつけよう!! 海のキケン生物」。ご家族が楽しそうに。「備瀬のフクギ並木」を後にして、県道114号線を進み「具志堅ビーチ」に立ち寄る。東の岬の先端にもキノコ岩が。国頭郡本部町。ズームして。更に。「クロアゲハ」を見つける。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.21
コメント(2)
「大嘉陽林道」を更に上って行き、突き当りを右折、その先をさらに右折(帰路に撮影)。「八重岳 野戦病院跡」碑。その先にあったのが「八重岳野戦病院跡」。看護婦要員として支隊に従軍した「なごらん(沖縄県立第三高等女学校)学徒隊」の標柱が立つ。主に傷病兵の看護活動にあたり、ほかの学徒隊では「ひめゆり学徒隊」が最も知られているが、場所が異なるだけでその内容には違いはなかったのだ と。 「戦跡 国頭支援本部壕・野戦病院跡」👈リンク 案内板。「戦跡 国頭支援本部壕・野戦病院跡ここは、一九四五年(昭和二〇)の沖縄戦の時、国頭支隊(球七〇七一部隊、隊長:宇土武彦大佐。通称:宇土部隊)の本部壕と、沖縄陸軍病院名護分院(八重岳野戦病院)のあった場所です。国頭支隊は日本軍の飛行場があった伊江島の守備と、本部半島を中心とした北部地域でゲリラ(遊撃)活動により米軍を足止めすることを任務としていました。その目的は本島中南部における日本軍の作戦を容易にすることでした。国頭支隊は、大分・鹿児島・宮崎・熊本・沖縄の各県出身の将兵によって編成された兵員約四千人隊で、伊江島守備隊の第一大隊と、本島守備隊の第二大隊、砲兵隊、遊撃隊(護郷隊)、鉄血勤皇隊、防衛隊で構成されていました。八重岳、真部山に布陣した国頭支隊は、一九四五(昭和二〇)年四月十一日頃から米軍の空爆と艦砲射撃を受け、十三~十六日にかけて西海岸の渡久地方面と東側の伊豆味から進撃する米海兵隊の猛攻を受けました。真部山で激しい攻防戦となり日本軍に多数の死傷者が出ました。米軍は十七日に八重岳北東頂上を占領し、十八日から敗走する国頭部隊を追撃しました。米軍による八重岳周辺の掃討戦は四月末まで続いたといいます。国頭部隊の宇土隊長は四月十六日、米軍の伊江島上陸を機に八重岳、真部山の陣地を放棄し、遊撃戦に移ることを命じ、第三遊撃隊のいる多野岳に後退しました。その際、八重岳の野戦病院には多くの負傷者が置き去りにされ、この一帯は悲惨を極めたといわれています。この本部半島における戦闘で、山中に避難した住民はかえって戦火に巻きこまれ、軍人、軍属を含む町民約一七〇〇人の尊い生命が失われました。●上原米子さん(恩納村出身、一九ニ六(大正十五)年生まれ)が見た野戦病院八重岳野戦病院では県立第三高等女学校の生徒で編成された「なごらん学徒隊」が負傷兵の看護に従事しました。元なごらん学徒隊の上原さんは長年にわたり平和教育活動を行い、自身の体験を語ってきました。上原さんが描いた絵と証言を元に当時の野戦病院の様子を紹介します。」日本軍守備隊配置と米軍進路。「・野戦病院のあった谷間には当時、川が流れていた。石積みの土台の上に掘っ建て小屋があり、病床や手術室として利用した。」「手術室は医療設備も不十分で、部屋は暗く、ろうそくを灯して手術が行われていた。手足の切断手術も麻酔なしで行われた。」「・部隊の撤退前、動けない負傷者に手りゅう弾とカンパンが配られた。負傷者の「なぜこんなものを配るのですか」という質問に上原さんは答えられなかった。」案内板横の森に伸びる道の入口から向かって右側の斜面に、本部壕と野戦病院跡の石垣が残っている と。この先が国頭支隊本部壕であっただろうか。ハブがいるとのことで、この先は・・・。次に訪ねたのが「三中学徒之碑」。「三中学徒之碑」の両側には、向かって右側に碑文、左側に観音菩薩が建立されていた。「三中学徒之碑」。左側の観音菩薩碑。レリーフ下部には、88名の学徒戦死者の名が刻まれていた。添碑(三中学徒之碑)「太平洋戦争も末期の昭和二十年三月米軍の烈しい砲爆撃中を、沖縄県立第三中学校生徒数百名は軍命により通信隊要員または鉄血勤皇隊としてあるいは繰り上げ現役入隊の形で 郷土防衛の戦烈に馳せ参じた。四月一日 米軍の沖縄本島に上陸するや 陸上戦の火蓋は切って落とされ 我が三中の生徒はここ八重岳・真部山地区そして多野岳その他各地において圧倒的に優勢な米軍と果敢な戦闘を展開し数十名が あたら十代の若き生命を無惨にも散らしてしまった彼等の三十三回忌を迎えるに当たり 学業半ばにして斃れ 諸々の思いを残して逝った彼等の霊を慰めるとともに 平和の礎となって散華した彼等の死を永く後世に伝え 二度と再びかかる残酷悲惨な戦争を惹起することがないよう 我等はもとより 子々孫々に至るまでの永遠の戒としてここにこの碑を建立する 諸霊よ 安らかに眠り給え 我等は常に諸霊と共に在らん 昭和五十二年四月十六日 沖縄県立第三中学校 生存学徒一同」「三中鉄血勤皇隊・三中通信隊(沖縄県立第三中学校)沖縄県立第三中学校は1928年(昭和3年)1月、名護町(現名護市)に開校しました。1945年(昭和20年)3月26日、鉄血勤皇隊が編成され、4・5年生と2年生の一部の生徒は、独立混成第四十四旅団(宇上部隊)の第ニ歩兵隊鉄血勤皇隊と第三遊撃隊鉄血勤皇隊に、3年生は第ニ歩隊通信へ配属されました。名護岳に配置された第三遊撃隊鉄血勤皇隊撃は、4月10日には多野岳に撤退し、羽地ー源河一体で遊撃戦を展開しました。今帰仁村302高地に配置された第二歩兵隊鉄血勤皇隊は、13日、八重岳に到着、戦闘に参加させられましたが、16日、命令により多野岳に向かい撤退.多野岳も米軍の猛攻を受けるようになり、24日、命令により東村の山中に撤退しました。第二歩兵通信隊に配属の生徒たちは、3月23日以降、八重岳、真部山の配置先で任務につきました。4月16日朝、米軍との戦闘が始まり、翌17日、多野岳への撤退命令が下り、生徒らは一週間後、多野岳で第三遊撃隊鉄血勤皇隊に合流し、24日、東村の山中に撤退しました。」「三中学徒之碑」前の叢の中の花に戯れる蝶をカメラで追う。「ジャコウアゲハ」。「アオスジアゲハ」であろうか。「リュウキュウアサギマダラ(琉球浅葱斑)」。「ツマムラサキマダラ」。「イシガケチョウ」であろうか。「ちゅらハートFMもとぶ」の通信アンテナを望む。ズームしたが・・・・。本部町の街並みが遠くに見えた。蜂も花と戯れて。アシナガバチであっただろうか。そして「八重岳」をひたすら下り、再び「国道449号」まで戻り右折すると再び「瀬底大橋」が見えて来た。今度は「瀬底大橋」交差点を直進。「満名川」の河口に架かる「本部大橋」を渡り更に国道449号を進む。「福助の玉子焼き」の看板。県道114号線を進むと「海洋博公園 南ゲート」案内板が。「海洋博公園、海洋文化館」👈リンクは2011年3月に、「沖縄美ら海水族館」👈リンクは2015年6月にそれぞれ訪ねていたのであった。「ちゅらうみ水族館」の手前にあったレストラン&ショッピング店・「竜宮城」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.20
コメント(1)
「部間権現」を後にして「国道449号」を「本部港」方面に向かって走る。左斜め前方に「瀬底島」が見えて来た。車を道路脇の駐車場に駐め、海岸に降りる。ここは「崎本部緑地公園・ゴリラチョップ」。沖縄でもサンゴが見れるポイントは幾つかあるが、ここ「ゴリラチョップ」は使い勝手も良く沖縄本島の中でも誰にでもオススメできるビーチ。ビーチで泳ぐことも可能だがシュノーケリングやダイビングされている方が多く、マリンショップのツアーなどでも使われるスポットである と。なぜ「ゴリラチョップ」という名前がついているのかと言うと、写真のようにまさしくゴリラが「空手チョップ」しているかのように見える岩があるため。ズームして。たしかに・・・・・!?。本来は崎本部緑地公園のビーチだが今ではこの愛称で広まっているのだと。走って来た海岸の南側の光景。SUP(サップ)体験スクールであろうか。SUP(エスユーピー、サップ)とはStand Up Paddle(スタンドアップパドル)の略称で、その言葉の通りサーフボードの上に立って、パドルを使って海や川をスイスイと漕ぎながら進むアクティビティ。1960年代のハワイで始まったと言われているが、2000年頃から日本でもブームに と。この日のここまでの移動ルート。何故か、ここまででソフトが中断、しかし暫くは気が付かなかったのであった。そして次に訪ねたのが「国道449号」・本部南道路を右に折れた場所にあった「宇座茂神社(うざもじんじゃ)」。国頭郡本部町健堅(けんけん)1429。「健堅区二班集会場」の先にあった「宇座茂神社」。昭和の初期に改築されている と。「宇座茂神社」前から、この後に訪ねた「瀬底(せそこ)大橋」を見る。「瀬底大橋」を渡ると「瀬底島」があった。その間、約600mの海峡は瀬底二仲(シーク・タナカ)と呼ばれ、台風時などに船が風を避けるため停泊する場所でもある。現在は本部新港として伊江島、あるいは与論・沖永良部・奄美大島などを経由する大型汽船が寄港する港でもある。そして引き返して「瀬底大橋」を目指す。この先の「瀬底大橋」交差点を左折。「瀬底大橋」👈リンク を渡る。「瀬底大橋」は、沖縄県国頭郡本部町の沖縄本島と瀬底島とを結ぶ橋。1979年(昭和54年)11月に着手し、5年3ヶ月の月日を経て1985年(昭和60年)2月に開通。工事中であり片側交互通行。橋の長さは762m。昔は、本島と瀬底島を渡る交通手段は、船であった為、天候によっては島は孤立状態になり住民は苦しんでいた。架橋の実現は当時の財政面、技術の関係で、無理だろうと言われていた。しかし、その後1967年に現地を調査し、可能性を検討してもらったところ、可能であることがわかった。だがその後、第一次オイルショックなどで日本は不況に陥り、一度、政策は凍結されたが、結果1979年に、大橋の起工式と祝賀会がアンチ浜で行われた。そして、1985年に瀬底大橋が開通したと ウィキペディアより。この「瀬底大橋」は、中央径間がニールセンローゼ橋 L = 141.5m、側径間はPC裄て構成された橋梁で、ニールセンローゼ橋は沖縄県では最初のものであるとのこと。「瀬底大橋」を渡り「瀬底島」内に入る。「瀬底島」の航空写真をネットから。まず最初に「恋人ビーチ」と呼ばれる場所に車を停める。「瀬底大橋」の全景を見る。ズームして。中央径間がニールセンローゼ橋 L = 141.5m。青い海に架かる白亜のニールセンローゼ橋。ニールセンローゼ橋は,1922 年スウェーデンの O.F.Nielsen により提案された橋梁形式で、アーチ橋の腹材にロッドあるいはケーブルによる斜材を用いている点に特徴がある。橋の白い色と空の青、海の青のコントラストが忘れられない光景なのであった。走って来た対岸の「浜崎漁港」方向を見る。白き橋の奥に見えたのが「本部富士」。沖縄県本部町の山里という地域にある山。周辺は石灰岩が炭酸ガスを含む雨によって浸食された独特な溶食地形で、熱帯特有の円錐カルストという丘陵地帯(日本では沖縄県だけ)を形成している。表面が石灰岩特有の植物に覆われていて、立ち並ぶ姿の一つ一つが巨大なケルンか古墳のようになっているとのこと。次に「瀬底グスク」に向かって進む。これも「拝所」であっただろうか?ここが「瀬底グスク」。「瀬底グスク」は、瀬底集落の南東標高約65~70mの通称「ウチグスク山」に位置するグスクで、東の御嶽 又はムーチースネードクルとも呼ばれている。又、「瀬底グスク」は村落発祥の地とも云われ、集落の主な祭祀も ここで行われると。グスク入口の鳥居や祠は、1991年にウフシヌハーなる人が建てたものだと。鳥居の先に祠「女神様の拝所」。奇妙な形をした「瀬底のろ火の神(ヒヌカン)」碑。「のろ火の神」と刻まれた石碑。車に戻る途中の路地の奥にも石鳥居があった。ここにも拝所が。詳細は不明。「神アサギ」もあった。そして民家の前には大きな「パパイヤ」の実がたわわに。そして県道172号線に出て「瀬底大橋」方面に戻りながら「本部町瀬底島公園」に立ち寄る。「瀬底大橋 開通記念碑」。「瀬底大橋は島の人々の永年の悲願であった。この悲願に応えて沖縄県が橋梁整備事業として国の補助を受け昭和四十七年の基礎調査から実に十三年余りの歳月と五十七億円の巨費を投じ最新の橋梁技術を駆使して昭和六十年二月十三日に開通したものである。この夢の架け橋とも言うべき瀬底大橋の開通によって島人は永年の離島苦から開放され新しい島の夜明けを迎えることができた。ここにこの一大事業を推進していただいた国、県、町並びに関係者の多くの方々の御協力に対し深甚なる感謝を捧げ永く顕彰するために、瀬底大橋開通記念碑を建立する。」願った事かなえ 思ったことかなえ 御万人乃力 御代のおかげ橋長 七六二米幅員 九.七五米工費 五十七億円工期 自昭和五十四年 至昭和六十年」「瀬底島」側から「瀬底大橋」を見る。「瀬底大橋」を渡り、「八重岳」山頂に向かって「大嘉陽林道」を進む。クネクネと山道を上って行くと左手にあったのが「蔦井隊の壕跡」碑。手前の石柱には「故陸軍大尉 清末一義 大分県 昭和二十年四月十六日 玉砕」と。「蔦井隊の壕跡」。右手の石仏には「仁徳院釈義道」、台座には「一切供養」と。台座裏側には「故陸軍中尉蔦井対馬大東亜戦に参加昭和二十年四月十六日当地本部町真部山に於て戦死す」と刻まれている と。蔦井隊の亡くなった戦友の名も刻まれていた。小隊長の蔦井對馬中尉、亀田登盛曹長以下約20名が慰霊碑側の壕から外への攻撃を試みて全滅したのだと。生残り刻す 軍曹 尾崎里志 と。ここにも文字が書かれていたのだろうか。それともこの場所が壕への入口「蔦井隊の壕跡」は昭和53年に埋没不発弾等処理事業によって発掘作業が行われた。その後崩落の危険があるということで埋め戻されたのだと。更に坂を上り、「清末隊 慰霊之塔」へ。沖縄北部の国頭地域を守備を担当していたのが国頭支隊。国頭支隊の中心をになっていたのは、宇土 武彦大佐を隊長とする独立混成第44旅団第2歩兵隊。国頭支隊は伊豆見国民学校に司令部を置いていたが、米軍上陸後は八重岳に本部を移し陣地を構築した。清末一義大尉(大分県出身)隊長が率いた第2歩兵隊砲中隊、清末隊之慰霊碑&清末隊の陣地壕跡がここであると。この碑の表面であったのだろうか?「寄付者尾崎久生 本部町字具志堅尾崎康豊 〃 字伊野波尾崎士郎 那覇市田中茂夫 山梨県島袋全孔 本部町字大嘉陽渡久地政幸 名護市宮里 平成十一年六月二十三日」と。水たまりをなんとか進む。正面に大きな石碑が現れた。しかしこちらは裏面のようであった。「一九五九年十一月七日建立」と。こちらが正面。「清末隊之塔」と。「清末隊之塔」の横の石碑。廻り込むと「故陸軍中尉 清村敏治之碑」。そして「大嘉陽林道の展望台」へ。しかし樹が生い茂り展望は十分ではなかった。さらに「八重岳頂上」に向かって坂を上って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.19
コメント(1)
「屋部の久護家」を後にして「国道449号」を西に進む。そして目的地の「屋部寺(やぶでら)」を目指す。「凌雲院」は、屋部集落の北はずれにあって、寺院に通じている道沿いのブロック塀に、左矢印で「屋部寺」と書いた道標が打ち付けられていた。地元では屋部寺(やぶでら)と呼んでいるようだ。そして「屋部寺」に到着。山門の脇に「凌雲院」と彫られた、立派な石碑が建っていた。屋部寺は、正式名は「凌雲院」というが、「屋部寺」という呼び名のほうが有名とのこと。「凌雲院開祖は凌雲和尚、西暦一六九二年、屋部邑に草庵を構結して、楽道安身の処となす。当時、大旱釈道周く通ぜし、和尚の昼夜の念経呪法により終に大雨降る。また、屋部村に多かりし火災をもなくせり。」と刻まれていた。同様の文言が、琉球王府が編纂した史書、『球陽』の附巻に記されている と。赤瓦の屋根が沖縄らしい「屋部寺」の山門。奥には、これも赤瓦の屋根を持つ鐘楼が。山門や本堂同様に赤瓦の屋根が沖縄らしい「鐘楼」。「梵鐘」。参道の正面に「本堂」。「本堂」の扁額は「凌雲院」。開祖凌雲の出自は、はっきりしないが、首里の円覚寺で修業し、本土に渡って研鑽を積み、帰琉の後には、浦添に在ったとされる古刹、龍福寺の住職に就いたと云う。『球陽』の記述によると、1699年の条に、龍福寺の住僧凌雲が、屋部邑に草庵を構えて移り住む、と記されているそうだが、石碑にある1692年、屋部邑に草庵を構結して楽道安身の処となす、の記述とは、なぜだか、7年のずれがあるのだ と。「縁起物ご案内一、御朱印(書置き)一、角大師厄除護符一、心願祈念札(絵馬様札)一、御守り種々一、受験・合格御願物一、嘉利吉・吉祥縁起物一、啣朱印悵」屋部公民館事務所にて授与・頒布しております。」「再建起工 一九五四年十月四日竣工 一九五四年十二月十日改修建築工事昭和五十二年二月十八日」祭壇には、向かって右から「釈迦如来」、「地蔵菩薩」、「延命観音」、中央に一際大きい、ご本尊の「薬師如来」。続いて「聖観音菩薩」、「不動明王」、「子安地蔵菩薩」の像が安置され、それぞれに仏様の名前を書いた札が置かれていた。かなりの時を経たと思える仏像が並んでいた。中央にご本尊の「薬師如来」。「凌雲院 屋部寺 元三大師百籖 観音御籖 略記御籖の発給にあたっては、ご参拝頂く皆様の御願の真心に添い、お応えてきる御籖であるべきことを念頭一番に置きと共に、当寺の由緒・伝統を重んじるのは元よりとして、日本における御籤の原点とされ、その解読書である「元三大師御籖諸抄」を味読。改めて解釈した上で奉製しております。また、当寺の御籤名の表章については、宗旨に対する敬意を表し、かつ、籤の由縁に密接な元三大師の御尊名を拝して「元三大師百籖・観音御籤」と致しました。」中央に「薬師如来」、左に「聖観音菩薩」、右に「延命観音」。「本堂」前から境内を見る。御朱印、御守等は「屋部公民館」で頂けると。土地の「寄贈」碑。鐘楼の横の小さな広場の奥に「カー(井戸跡)」が。つかの間の陽光が。「坊主御井戸(ぼうじうかー)」と呼ばれる井戸跡。鐘楼の横で、既に黄葉を始めていたこの木は「クロトン」であろう。見ているだけで元気になれそうな、ビビッドな色合いの葉が魅力の「クロトン」。「本堂」の前に供えられていた葉もこの「クロトン」であろう。次に訪ねたのが「日蓮正宗 妙隆寺(みょうりゅうじ) 」。入口の坂にあった石碑。「参義坂」碑。「御命名之由来總本山第六十七世、御法主日顕上人猊下の御慈悲に依り、當坂をさんぎ坂と御命名して頂きました。出典 依義判文鈔道に三義あり。 一に虚通(こつう)の義、即ち本門の本尊なり。 二には所践(しょせん)の義、即ち本門の戒壇なり。 三に能通(のうつう)の義、即ち本門の題目なり。御指南に云く参の一字は、参詣道の場の意なり即ち、當坂は帰命依止、懺悔滅罪の根本道場に至る坂なるが故に、参義坂と命名するものなり。」「日蓮正宗 妙隆寺」境内に入る境内から名護市山入端の海岸線を見る。「日蓮正宗 妙隆寺」境内から本堂を見る。慧光山妙隆寺は、1984年12月17日に建立された。1990年頃に日蓮正宗と創価学会との間で争奪戦となった歴史がある。第二代住職は一時日蓮正宗からの離脱を発表したが、御僧侶らや家族による説得により離脱を思いとどまった。そのため、今も妙隆寺は日蓮正宗の寺院であり続けている歴史がある。妙隆寺周囲には、妙浄寺や凌雲院などの寺もある とネットから。総本山は、静岡県富士宮市にある多宝富士大日蓮華 大石寺。名護市屋部783-1。石碑には「慧光山 妙隆寺」と。「總本山 第六十七世 日顕上人お手植 琉球黒檀(こくたん)」碑。琉球黒檀はヤエヤマクロキ(八重山黒檀)とも。沖縄語においてはリュウキュウクルチ、ヤエヤマクルチ エーマクルチ。幹の色が黒っぽいので「黒木(クルチ)」とも呼ばれている。心材は黒色であり非常に硬く重い為加工は困難を極める。種子は食用ともなり、果実は楕円形で長さ約1センチ。用途は街路樹・防風林・防潮林・観賞用庭木 心材は楽器の三線などに加工され、高級材で成長が遅い事から、乱伐による資源の枯渇が問題となり保護の対象となる地域も増えており、維管束植物レッドデータブック (環境省)にも登録されている。原産はインド。分布は一部薩南諸島及び鹿児島県から沖縄県を北限とし東南アジアに多く、台湾、中国南部にも分布する。寺務所であっただろうか。眼下の海。「ヤナギバルイラ草」。紫色のペチュニアのような花が境内に咲いていた。この細い竹のような葉からは想像しづらい紫色の花。再び国道449号に戻り、海岸線を左に見ながら走る。「部間海岸」周辺の採石場の姿が現れた。「瀬底島」、「本部港」への交通標識。急峻な山が迫る。採石場、砕石場が近いことでダンプカーの台数が多いのであった。「国道449号」を右折して、採石場の脇の道を進む。「部間(ぶーま)権現」案内表示。入口にあった「部間権現」碑。昭和四十八年五月に、日本復帰記念として建てられたと。道路脇に車を駐め「部間権現」に向かって歩く。正面に石鳥居、その先の参道両脇には石灯籠が並んでいた。参道の石段を上って行った。参道の中央に手摺が設置されている参道をさらに進む。前方左手に「部間権現 改築記念碑」、正面に二の鳥居。そこから更に、樹木が覆い被さって、狭くなった参道が続いていた。樹木のトンネルを抜け、視界が開け、その先に進むと左手に「拝所」が姿を現した。太い石柱が片側に三本、都合六本並んで、なんとなく西洋の神殿風だが、屋根は神明造りになっている。和洋折衷であった。名護市安和。拝殿前のシーサー(右)。拝殿前のシーサー(左)。ここ沖縄でも神様、仏様、様々に習合しているようであった。「拝殿」の奥の「本殿」。本殿には三基の香炉が安置され、それぞれに、権現(仮の姿)様の名前が記されていた。左: アミダニョライの神様 大主ぬ神様 美女心母神中央:御天七神 國主ぬ神様 土地七神右: 御天十二ぬ神様 世主ぬ神様 土地十二方本殿裏側の洞穴。この洞穴の中に霊石(ビジュル)が祀られているのあろう。「本殿」前から「拝殿」を見る。「拝殿建立六十周年及び神殿建立記念之碑」。そして「部間権現」を後にして参道を下る。前方には「国道449号」の「部間大橋」が見えた。帰りに石灯籠の数を数えてみたら片側に17基、左右合計で34基あった。石鳥居に下にも石碑があった。「献納」と刻まれていたが詳細不明。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.18
コメント(0)
国道58号を海岸線に沿って西に進むと左手に見えたのが「タピックスタジアム 名護」。日本のプロ野球チームの北海道日本ハムファイターズが春季キャンプで使用している。また、キャンプ終盤にはオープン戦も開催されると旅友から。「タピックスタジアム」の名称は ネーミングライツパートナーの医療法人タピックから。名護市宮里2丁目1。左折して「21世紀の森ビーチ」に向かって進む。左手にあったのが「イベントドーム」。海岸にそって更に進む。左手に8の字を横にしたようなモニュメントが。未だモニュメントの設置工事中のようであった。「とぽいんふぇにてぃ~とはトポロジー(位相幾何学・柔らかい幾何学)とインフェニティー(無限)を作者が組み合わせた造語です。」と。斜めから見る。車を駐め海岸まで歩いて見た。「21世紀の森ビーチ」には子供の姿が。この場所は、初日に那覇空港への飛行中に眼下に見えた光景なのであった。海での小学校の着衣水泳の授業であろうか?東方向の海岸線を見る。ここにもパイナップルに似た実をつける「アダン」が植えられていた。パイナップルに似た果実。果実は多数集まって長さ15~20cmの広楕円形~球形の集合果となっていた。この樹は?花の蕾が虫の姿の如くに。「モンパノキ(紋羽の木)」であろう。「モンパノキ 」👈リンク は初夏から晩秋にかけて小枝の先端に集合花序を出し淡い緑色の花を咲かせるのだ。モンパノキは英語で、「Octopus bush」と。直ぐには英語でOctopus bush(タコの灌木)と現す意味が分からなかったが、下のモンパノキの写真をじっくり見て理解できた。モンパノキの蕾は、タコの足の吸盤が並んだように見えたのであった。城跡の如き石垣の光景も。「21世紀の森公園野外ステージ」の観客席を造る石垣のようであった。ぐるっと廻って次に訪ねたのが「大瀬原龍神」。「大瀬原龍神」。21世紀の森公園近くにある竜神様。海に囲まれた沖縄では、古くから自然の力を敬い、自然の恵みに対して感謝することを大切にしてきました。そのため、海や水の守り神である龍神様を敬い、沖縄の各地の数多くの場所に、龍神様を祀った拝所が作られているのだと。野良猫に餌を与えている女性の姿もあった。コロナ禍から“Remote Work”が可能になったので沖縄に転居して来たとその女性から。「宇佐美海岸」の光景を楽しみながら進み「屋部川」を渡り川沿いを北に進み次の目的地の「屋部の久護家」に向かう。近くの道路の両脇には「フクギ」の立木が。ここが「屋部の久護家」の門。名護市屋部175。「沖縄県指定有形文化財(建造物) 屋部の久護家(くごけ)」。中に入ると前庭にも「県指定有形文化財 屋部の久護家附ひんぷん、井戸、文書2点、福木囲い」と刻まれた石碑があった。屋敷の正面にあたのが「ひんぷん(屏風)」。昔の沖縄の家にあった魔除けの壁が現在も残されているのだと。玄関の前にこの壁があることで、魔物(マジムン)が家に入れのを防ぐと。「屋部の久護家」案内板。「屋部の久護家屋部の久護家は、その屋号「久護」がそのまま集落名になったほどの旧家です。フクギに囲まれた長方形の屋敷2310㎡(約700坪)の東寄りに母屋があり、その東に池を配した庭園があります。主屋は1906年(明治39)に建築されたことが、所蔵の「本家新築之時日記」によって知られています。当初、屋敷は石垣で囲まれ、現在も残る主屋・ひんぷん(屏風)・カー(井戸)のほか、アサギ(離れ屋)・メーヌャー(物置)・フール(便所)・イキムシヌヤー(家畜小屋)・ムミグラ(籾蔵)が配されていました。1951年(昭和26 )までは主屋の西側にトゥングヮ(台所)を附属していましたが、それを解体し、三番座などの改築を経て、現在に至ります。その後、1973年(昭和48 )に屋根の葺き替え、1989年(平成元)から1991年(平成3)に半解体修理を行いました。広い間取りや天井の高さ、周囲に深く回されたアマハジ(軒)などに、地方豪農の建物としての特徴をよく残しています。なお、主屋に伴い、フクギ囲い・ひんぷん・井戸、・文書2点(「本家新築之日記」・「元祖由来記」)も文化財に指定されています。」「主屋現況平面図」(上)、「主屋当初推定平面図」(下)。1951年(昭和26)までは主屋の西側にトゥングヮ(台所)、室内井戸を附属していたが解体した と。「主屋」を正面から。南向きに建てられた「屋部の久護家」。屋根には「シーサー」。ズームして。「個人の住宅です。建物内への無断で立ち入ることのないようご配慮をお願い申し上げます。」「一番座」と呼ばれる部屋の「床の間」。「床の間」の「掛け軸」。主屋を西側から見る。軒を支える柱は、自然木の樹皮を剥いただけ、丸みを帯びた根本をそのまま利用し台石の上に。この自然木の名は?「二番座」・「居間」。先祖の方々の写真。久護家三代の遺影であろうか。主屋の裏側。奥から「一番裏座」四畳半、「二番裏座」六畳の部屋があった。「二番裏座」には階段も付けられていた。この部屋・「三番座」の扇風機が回っていたが。庭の隅にあった井戸。「二番座・八畳間の奥の柱には「久持勤倹昌其後」の文字が。どのような意味なのであろうか?「ずっとまじめに稼いで無駄遣いしなければ家はのちのち栄える」であると「校閲」の師からLINEをいただきました。ズームして。軒の屋根下を見上げる。屋根の最頂部にもシーサーが。再び「屋部の久護家」の門柱を見る。「石敢當」。門から離れて。フクギ(福木)に囲まれた「屋部の久護家」。背の嵩いフクギ(福木)が塀の内側に並ぶ。真っ直ぐに生え幹が丈夫で葉が密に付き風害や塩害に強い為防風林とされたり、耐火性があることから屋敷林として植栽されているのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.17
コメント(0)
次に訪ねたのが「名護博物館」。しかし休館の文字が。ネットによると名護市は35年間続く市東江の名護博物館を2020年4月に完全閉館し、22年秋に新博物館を市大中に開館する とのこと。前庭には像が。像を正面から。「名護親方 程順則聖人像」と。村屈指の名門「程氏」の一族に生まれ、若い頃から中国語の通訳として類稀なる能力を発揮し、出世を果たしながら4度に渡る清国(今の中国)留学の経験を経て、琉球のみならず日本全国へも大きな影響を与えた人物だ。晩年は名護間切の総地頭に任命され、人々から慕われつつその地で生涯を閉じたことから、「名護親方」や「名護聖人」としても知られている。「聖論」碑。現在では名護のゆるキャライメージにもなっており、今なお地元の人に親しまれている人物だ。生前の偉業はいくつもあるのだが、特に顕著なものとして「六諭衍義(りくゆえんぎ)」の啓蒙普及がある。六諭衍義とは、中国の皇帝が民衆を教育するために諭した「人が人として生きるため守らなければならない6つの教え」である。孝順父母(ふぼにこうじゅんなれ)父母に孝行しなさい尊敬頂上(ちょうじょうをそんけいせよ)年上の人を敬いなさい和睦郷里(きょうりはわぼくせよ)村里にうちとけ仲良くしなさい教育子孫(しそんをきょうくんせよ)子孫によく教えを導きなさい各案整理(おのおのせいりにやすんぜよ)各々の生業やなすべきことを全うしなさい毋作非為(ひいをなすなかれ)悪いことはしてはいけない「程順則聖人像によせて」案内板。「名護親方程順則(1663年~ 1734年)は那覇久米村に生まれた。沖縄の名前では「寵文(ちょうぶん)」という。近世の沖縄を代表する政治家でありその人格と素養によって人々から「名護聖人」と称され深く尊敬された。彼は、また文学者、教育者として名高く、自らすぐれた漢詩文を作り、1718年には琉球初めての学校「明倫堂(めいりんどう)」を設立している。20代のころから中国に渡ること五回、中国から持ち帰った「六諭衍義(りくゆえんぎ)」には人が人として守らなければならない六の教え(六諭)が分かりやすくまとめられている。この本は薩摩を経てへて八代将軍吉宗に献上後和訳され江戸時代中期から明治初めまで庶民教育の教科書として全国に広く普及し用いられた。程順則は亨保十三年(1728年) 66歳の晩年 名護間切の総地頭(そうじとう)に任じられ名護親方(なぐうえかた)と呼ばれるようになった。彼が亡くなったあと、名護番所(今の役所)では、毎年旧暦の元旦に「御字拝み(みじうがん)」として、「六諭」の書を掲げ、その遣徳を偲んでいる。この儀式は現代に引き継がれている。」六諭 孝順父母 父母に孝順なれ (父母に孝行しなさい) 尊敬長上 長上を尊敬せよ (目上の人を尊敬しなさい) 和睦郷里 郷里は和睦せよ (郷里にうちとけなさい) 教訓子孫 子孫を教訓せよ (子孫を教え導きなさい) 各安生理 おのおの生理に安ぜよ (おのおの生業を安んじなさい) 毋作非為 非為をなすなかれ (悪いことをしてはならない)」「溝原貝塚名護博物館(名護間切番所跡、旧名護町役場、旧名護市役所)から東江公民付近にかけて貝塚時代後期の土器や貝などが探集されています。このあたりの土地は過去数百年にわたり利用されてきたため、貝塚は破壊が進行しています。時代:沖縄貝塚時代後期~近世(約2300年前~約140年前)」「沖縄県指定天然記念物 名護番所跡のフクギ群」案内板「名護番所跡は王府時代から役所として利用されてきた所で、現在は名護博物館となっています。その敷地を囲むように生育するフクキ群は推定樹約300年、当時の地頭代屋部菊陰が植栽したといわれています。樹高は17 ~ 18m、胸高直径は最大で83cmが2株、以下76、67、54、42cmが各1株です。県内において、このように巨大なフクギ群は極めて希なことから沖縄県指定天然記念物に指定されました。フクギ(Garacinia subelliptica Merrill)はオトギリソウ科の常緑高木で、花は5 ~ 6月に咲き、果実は球形で8 ~ 9月に黄熟します。フィリピンとハ重山群島に自生し、沖縄島は御嶽や屋敷などに植栽されています。木の成長は遅いが、防潮樹として優れており、暴風雨から家や集落を守ってきました。樹皮からは黄色の染料がとれ、染物に使われています。フクギの高く空を突くような樹冠と厚い光沢のある葉は、沖縄の伝統的な景観を特徴づけ、建物と集落をひきたたせています。市民ならびに県民の財産として大切に保護していきましょう。」「昭和33年頃の名護町役場(大正9年建築)」現在のフクギ。沖縄県道18号の起点と。沖縄県名護市東江と字大浦とを結ぶ一般県道。次に「護佐喜御宮」を訪ねた。名護市大中2丁目1−17。石段を上って行った。「護佐喜御宮」もしくは「護佐喜宮」と書いて「ごさきおみや」、「ごさきのおみや」と読むこの神社。沖縄県北部では有名な初詣スポットだとのこと。普段は無人の祈願所(拝所)だそうですが、年末年始の初詣シーズンには社務所がオープンすると。シーサー・狛犬(右)。シーサー・狛犬(左)。ご祭神は「後手神(くさてのかみ)」という神様。ご利益は合格祈願商売繁盛交通安全家内安全安産祈願 などなど。「護佐喜御宮」碑。参道の石段の左手にあったのが「アコウ」の樹。推定樹齢60年で、老樹には至らないが、聖域にふさわしい姿を保っている(名護市の名木)。形態・特徴:常緑高木。分岐が多く、樹皮は灰褐色で赤褐色の皮目が著しい。馬尻状の気根を発生するが、通常支柱根は形成しない。気根は時として他樹に巻き付き成長を阻害する。無花果は幹又は枝に生じ無柄で球形。沖縄北部以北では落葉樹。南部以南では初秋の頃に落葉する。が、すぐに萌芽する。さらに300mほど北西に進み「名護市立名護小学校」前で車を停める。校門前の小路を上って行った先には大きな石碑が立っていた。「少年護郷隊之碑」。右隣に碑が2基。正面から。「少年護郷隊之碑建立縁起昭和十九年十月 当時一七、八才だった少年が防衛召集令により召集され護郷隊を編成し此所名護小学校に誕生した。猛訓練の末山原各地を転戦し郷土防衛の大任を果たし散華された英霊を慰霊顯彰せんと搖籃の地に碑を建立するのが最も適地であると元隊員の総意に基いて、発祥の地名護小学校に建立した。」と。碑の裏には、村上治夫隊長による護郷隊の隊歌の3番が刻まれていた。これは、陸軍中野学校の校歌の一番と同じ歌詞とのこと。「赤き心で断じてなせば 骨も砕けよ肉また散れよ 君に捧げて微笑む男児」村上治夫隊長は陸軍中野学校出身の陸軍中尉。護郷隊を組織し、3年分の食糧を用意して山にこもったという。大本営は玉砕しても時間を稼ぐために、「護郷隊」の編成を村上に任せたと言われている と。 「少年護郷隊沿革史太平洋戦争の末期戦況の緊迫に伴い沖縄島が皇土防衛の第一線となるや昭和十九年十月十五日勅令に基き第三遊撃隊通称護郷隊を編成す。隊員は国頭郡に在住せる十七、十八才の第ニ国民兵を防衛召集に依り充当し名護国民学校にて遊撃戦遂行に必要なる戦技を附与する如く訓練す。昭和二十年一月、軍命令に基づき戦闘配備を整えると共に第二、第三次に召集せる隊員の教育を謝花校羽地校にて実施し戦力を強化せり昭和二十年三月二十三日甲号戦備下令され本部(屋我地島及各村出身者)を多野岳に第一中隊(名護町恩納村今帰仁村出身者)を名護岳に第二中隊(羽地今帰仁村出身者)を多野岳に第三中隊(久志村本部町出身者)を国頭支隊に配属し三〇ニ高地に第四中隊(金武村本部町出身者)を久志岳に配備し至巌なる警戒裏に戦備を完成す。四月一日敵は本島に上陸四月七日名護湾に上陸するや第三中隊は乙羽岳及真部山にて国頭支隊と共に第一戦の戦闘に各隊は夫々戦闘地域に侵入せる敵に対し果敢なる挺身遊撃戦を展開し軍主力の作戦に呼応せり。四月下旬多野岳等の基地を欠陥せるも屈せず神出鬼没或は夜間爆薬を抱いて敵陣深く侵入し或は白昼堂々と特殊秘密兵器を以て攻撃し敵の心胆を寒からしめ以て遊撃戦の本領を遺憾なく発揮せり六月下旬以降南部地区の軍主力玉砕後に於ても真に護郷隊の特色を発揮し変幻自在なる秘密遊撃戦を遂行中八月十五日終戦の諮勅を受け部隊を解散す。以下 戦没者氏名が刻まれていた。」次の目的地の「弘泉寺」に向かって進む。右手の家の屋根瓦の上には土嚢袋が載せられていた。台風等の対策なのであろうが、雨漏り対策のブルーシートを敷いた時の押さえ用の土嚢袋がそのまま、次の台風の為に残されているのではないだろうかと。強風対策としての瓦の飛散対策であれば、最上部に並べるべきと考えるので。そして「弘泉寺」に到着。名護市大西3丁目20−1。「本堂」の内陣。「真言宗 醍醐派 北斗山弘泉寺」と刻まれた石碑。大日如来像であろうか。左側の建物は?内陣。北側には墓地への門が。大きな墓地が並んでいた。沖縄の気候、特に雨期に合わせた設計のため、お墓が大きくなったと。雨期や台風の季節などは激しい雨と風にみまわれるのが沖縄。頑丈な土台と屋根を作ることで、お墓が倒れたり、痛んだりしないよう考慮して作られていったのが沖縄特有の大きなお墓といえる。そのため、広い敷地に大きな屋根が広がるお墓を設けたといわれているのだ と。「弘泉寺」への入口路地の前には「名護市葬斎場」があった。近くにあった「道福寺」も訪ねた。名護市大西2丁目3−2。「道福寺」。普通の民家の如き建物、宗派等は判らなかった。駐車場脇にあったバナナの木。バナナが撓(たわわ)に。そして次に訪ねたのが「名護市役所」。県道91号線「大南」交差点から「名護市役所」を見る。名護市港1丁目1−1。国道58号の山側の道に向かう。そして「名護市役所」の敷地内に立っていた「平和の塔」を訪ねた。螺旋構造の塔の上部に「平和の塔」と。「名護市役所」は1978年、名護市の顔となる市庁舎の建設にあたって大規模なデザインコンペが行われた。308組ものデザイン案の中からTeam Zoo(象設計集団+アトリエ・モビル)によって手がけられたのが現在の名護市庁舎。沖縄の建物で多く使われる2色のコンクリートブロックが印象的なストライプをつくりだし、周りには植物が生い茂っていた。手入れは行き届いているのであろうが、自然に覆われた古代遺跡を思わせるような雰囲気が不思議と感じられたのであった。近くの中庭には「名護市役所ステーション e-シェアモビ カーシェア駐車場」があった。名護市は2019年3月末から公用車の一部を環境に優しい「カーシェアリング」に転換し、市役所職員と一般利用者との共用をスタート。電気自動車(Electric Vehicle EV)の利用による環境負荷の軽減と公用車の管理経費削減との両立を図るとともに、一人1台という、個人専用車に頼らなくてよい、カーシェアリングの利用を積極的にPRしているとのこと。名護市はカーシェアリング事業者へ駐車場4台分を提供し、平日は市の公用車との併用利用。土日・祝は4台全て一般利用者が24時間利用出来るカーシェアを事業として実施中と。一般の方がカーシェアリング車両を利用するには、日産自動車・日産レンタカーが提供している「Nissan e-シェアモビ」の会員登録が必要 とネットから。充電中の乗用車。「名護市民憲章碑私たち名護市民は人間を尊び、すべての人にひろい心と豊かな愛情で接します。自然を愛し、文化財を大切にします。いたわりあって健康な生活を築きます。きまりを守り、社会を明かるくします。伸びゆく力を育て、未来へ前進します。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.16
コメント(0)
グスク内にあった「フスミ屋」。「氏神 フスミ屋」碑。グスク内には、この他に祝女殿内(ヌルドウンチ)・根神屋・定神屋(ウチーガミヤー)・など、城区の拝所があり、大切な信仰の場所となっていたのだと。こちらは「名幸祠(なこうじ)」と呼ばれる拝所。「名幸祠」碑。「名幸祠」に向かって右側に説明が記された石碑があった。「名幸記傳(きでん)西紀二 三百年北山は血族同士が権力を争って乱をおこし、欺きて仲昔北山六代の世主今帰仁城主の系統は亡んで、傍系の怕尼芝が北山に君臨した。口碑の傳える名幸は滅亡した城主の嫡琉千代松やい、彼はこの騒乱から難を遁れ祭祀眷属を共に一族なる名護按司に寄託亡命し竊に宗廟の恢復を謀つたが成らず雄志空しく病に斃れた。宗家を奪つた怕尼芝は時に中山の衰頽に乗じて自ら北山王を僭稱し北方の覇者をもつて國頭諸間切を威圧するに至つては後難を怖れる名護按司が先君の世子を庇護隠秘するために◯勉苦肉の計を用いたことは推考に難しくない。世子の名をいわれのない名幸大屋子の假名で糊塗し亥は彼の遺骸を此◯城川の懸崖幽谷に密葬するなど北山王統の虎の子を預る。一説では名幸を名護按司の次子となし十五世紀末按司家が國王尚真の勧告に従つて后を首里府に移した當初の管領◯按司◯とまいす。古文書に名護は那古につくり名幸は那古の転訛と乃ち名護城の首長那古大屋子とする説もあるが根拠はない。二九百◯十三年庚子孟夏 北嘉宇太郎 しるす」境内の中に入って行くと、奥側に立派な祠。シーサー・狛犬(右)。シーサー・狛犬(左)。祠に近づいて。「ハスノハギリ(蓮の葉桐)」であっただろうか。「ノッポ椰子の広場」への「入口広場」。「A ノッポ椰子の広場」案内板。この広場は、旧植物園時代から残る背の高いナツメヤツがシンボルになっており、主にピクニックやレクリエーション、散歩などに利用されています。広場北側には、全長98mもある大きなつり橋(さくら橋)が架かり、そこからは真下に広がるグスクガー(城川)周辺の樹幹や名護市大北一帯、本部半島の眺めも楽しめます。また、当広場の東側には名護城があり、グスクにまつわる場所も数多く存在しています。次に訪ねた「白い煙と黒い煙の碑」案内板。車道の脇から見た「白い煙と黒い煙の碑」。「白い煙と黒い煙の碑合図の煙―親子の別れ―汽船のデッキの上からは、彼の乙女が 涙で曇った眼でふるさとの山を慕い、父母を恋いてこの白い煙を見つめていることだろう。―白い煙と黒い煙―こうして若い乙女と老いたる親とが山と海とでたがいに切ない思慕恩愛の情を交わしているのである春の日は、静かに夕もやの中にうすれていくやがて汽船は、本部半島にその影を隠したつきせぬ名残りを一抹の黒い煙にとどめて (稲垣國三郎作「白い煙・黒い煙」から)この文は、大正七年三月三十一日作、昭和六年ごろの小学校国語教科書に採用されたもの。稲垣國三郎が名護城を遊歩中、老夫婦が松の青葉をもやして白い煙をあげているの見、感動したもようが記されている。娘をヤマト旅(本土)に出すのに、那覇まて見送りにいけない老夫婦の切ない気特がこの碑の前に立つとき、ひしひしと胸を打つ」石碑が2基並ぶ。手前の小さい石が黒い煙をイメージした碑、その向こうの大きな石が白い煙の碑であると。「白い煙と黒い煙」碑。「白い煙と黒い煙」の碑の下の部分には、稲垣國三郎作「白い煙と黒い煙」の最後の一節が刻まれていた。「白い煙と黒い煙の一節合図の煙!親子の別れ!汽船のデッキの上からは、その乙女が涙に曇った眼でふる里の山を慕い父母を恋いこの白煙を見つめていることであろう。白い煙と黒い煙!こうして若い乙女と老いたる親とが、山と海とで、互に切ない思慕、恩愛の情を交わしているのである。春の日は静かに夕靄の中にうすれてゆく。やがて汽船は本部半島にその影を隠した。つきせぬ名残りを一抹の黒煙にとどめて」と。碑の背面には「白煙発生の地」の文字が大きく刻まれていた。そして坂を下り終えると正面に見えたのが「ひんぷんガジュマル」。「ひんぷんガジュマル」は、沖縄県名護市にあるガジュマルの巨木である。幸地川に架かる「あなだ橋」のたもとにあり、名護大通りに挟まれている。名称は、樹下に置かれている石碑三府龍脈碑の別名「ヒンプンシー」に由来する。「ひんぷん」とは、沖縄の伝統的家屋で正門と母屋の間に立つ、目隠しの塀のことである。「あなだばし」と書かれた橋柱越しに「ひんぷんガジュマル」を見る。「ひんぷんガジュマル」に向かって歩く。名護市大東1丁目1。樹下に置かれている石碑「三府龍脈碑」(さんぷりゅうみゃくひ)の別名「ヒンプンシー(屏風石)」が「ひんぷんガジュマル」の名前の由来。「三府龍脈碑」は、首里から名護への遷都、名護における運河建設の要求を背景に、1750年、琉球王国の宰相・蔡温(さいおん)が名護に建立した石碑(復元)。琉球王国は国頭府、中頭府、島尻府の三府全体で一体をなす龍のようなもの(三府龍脈)と、遷都を戒め運河を掘ると龍脈が分断するという内容の碑文になっているのだと。全て漢字で書かれていたため解読不能であった。当初の「三府龍脈碑」は沖縄戦で不明となり(幸地川の河床から破片の一部を発見)、現在の石碑は昭和37年の復元。碑の立つ場所ももともとはガジュマルの根元ではなかったとのこと。国の天然記念物に指定される樹齢300年、樹高約19m、幹周りは約10mの巨樹。樹冠の広がりは最大30mにも及ぶ立派なもの。上部の方まで鉄骨で養生されていた。「ヒンプン」には、外から敷地内が見えないようにする役目があると同時に、悪霊や災難が入り込まないようにするという意味もあり、名護の町に災難が入り込まないよう祈る地元住民の信仰の対象となっている と。「この中はガジュマルの根が広がっています!これより中への立ち入りはご遠慮ください」と。「ひんぷんガジュマル」の葉。「あけみおのまち 名護市観光案内図」。「三府龍脈碑」と「ぴんぷんガジマル」名護市街地の入口にあたる道のど真ん中に立つ大きなガジマルは、「ぴんぷんガジマル」と呼ばれる。「びんぶん」とは、屋敷の正門と母屋の間に設けられた屏風状の塀のことで、中国語(北京語)の「屏風(ぴんぷん)」に由来する。そのガジマルの下に建つ「三府龍脉碑」の扁平で直立する形状から「ピンプンシー(屏風石)」と呼ばれ、そのすぐ側に生育したガジマルを「ぴんぷんガジマル」と呼ぶようになった。「ピンプンシー」こと「三府龍脉碑」は、1750年に琉球王府によて建立されたもの。1945年の沖縄戦の際に壊されたため、1962年に再建し、現在に至る。1991年、あなだ橋の改修の際に幸地川の中から元碑の上の部分が見つかり、沖縄県の文化財に指定されて、現在、名護博物館に展示されている。琉球王府は、なぜ「三府龍脈碑」を建てたのか?その当時、名護では「琉球の国都を首里から名護に移そう!」「屋部港と古我知港を運河で結ぼう!」という話で盛リ上がっていた。そのうわさ話を鎮めるため、当時の国師・蔡温に撰文を依頼して碑を建てた。蔡温は、「琉球の国土は、一つの山脈の連なりである。天然の風格を現し、誠に福に満ち溢れた国である。最初に王城を首里に建てたのは神の眼によるものだ。そして、たとえ小さな丘と言えども切り裂いてしまうと、国土の体系は失なわれる」と説き、国家の隆盛に深く関わることであると知らしめて、巷の遷都論と運河開削論を鎮めた。一方で、その遷都論や運河開削論のきっかけを作ったのは、実は蔡温本人であり、その責任をとり、自ら碑の建立を提案したという話も伝わっている。ちなみに、あなだ橋の下を流れる幸地川は人工河川である。1592年、三司官となった名護良豊が、年中、水害を起こし農民を悩ませていた幸地川の流れを一つにまとめ、最短で海に流す大土木工事で造られた川なのだ。 参考:「名護六百年史』」「三府(北山、中山、南山)」案内図。沖縄本島では14世紀に入ると、各地で城(グスク)を構えていた按司を束ねる強力な王が現れ、14世紀には三つの国にまとまった。南部の南山(山南)、中部の中山、北部の北山(山北)である。三山統が鼎立する時代が約100年続いた。いずれも朝鮮と中国に朝貢し交流を深めたが、中山の佐敷按司が勢力を増し、1405年に中山を、1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼして、初めて琉球を統一したのであった。「名護のひんぷんガジュマル(通称:ひんぷんがじまる) 国指定天然記念物 平成9年9月2日指定)「ひんぶん」とは屋敷の正門と母屋との間に設けられた屏風状の塀のことで、外からの目隠しや悪霊を防ぐものといわれます。乾隆15年(1750年)具志頭親方蔡温は、当時の運河開通論と王府の名護移遷論議を鎖圧するため三府龍脈碑を建てました.この石碑がひんぶんのように見えることから「ヒンプンシー」と名付けられ、その隣に生育するガジュマルもいつしか「ひんぶんがじまる」と呼ばれるようになりました.ガジュマル(Ficus microcarpa L. f. )はクワ科の常緑高木で、屋久島以南の亜熱帯から熱帯にかけて分布し、沖縄では屋敷林、緑陰樹として広く植栽されています。漢名は榕樹で、幹はよく分岐して枝葉は四方に繁茂し、垂下する気根は地上に降りて幹となり広く美しい樹冠をつくっていきます。ひんぷんがじまるは、錐定樹齢280年~ 300年、樹高19m、胸の高さでの幹周囲は10m、樹冠の広がりは長いところで直径30m、堂々とした容姿は市のシンボル、そして街のひんぷんの役割を担っています。ひんぷんがじまるの特異な景観は古くから衆目の的になり、写真におさまる周辺の様子で街の移り変わりを知ることもできます。名護の街の移り変わりを見てきたひんぶんがじまるは、まさに「市民の木」です。」「ひんぷんガジュマル」の横の「ガジュマル緑地」にあった「徳田球一記念碑」。名護市城2丁目321−3。近づいて。石碑には徳田の顔のレリーフと「為人民無期待献身」(人民の為に期待すること無く献身する)という碑文が刻まれていた。「徳田球一記念碑」案内。「徳田球一記念碑徳田球一(1894.9.12~1953.10.14)は、名護・沖縄が生んだ偉大な思想家・政治家です。戦前・戦後の苦難の時代を、高い志をもって社会運動に奔走しました。大衆を心から愛した情熱の人、日本を変革することに情熱を注いだ人物です。 徳田球一は、1894年この名護の十字路近くに生まれました。沖縄で中学校を卒業後、鹿児島の第七高等学校に進みましたが、すぐ沖縄にもどりました。23歳の時上京し、日本大学で学んで弁護士になり、社会運動に参加し、1922年の日本共産党結成に働きました。1928年、3.15事件で検挙され、終戦までの18年間獄中にありました。戦後、日本共産党書記長、衆議院議員となり、『徳球・とっきゅう』の愛称で国民的支持と人気を得ましたが、1950年マッカーサー指令により追放され、中国に亡命しました。その60年の生涯は、名護・沖縄・日本の近代史の一面を身をもって表現しています。 このような徳田球一の比類のない人物と業績を私たち郷里の者が評価し、永く讃えるため、この碑を建立しました。 1998年10月14日 徳田球一顕彰記念事業期成会」その隣にあったのが「宮城與徳の碑」。碑の背後には芭蕉が植えられていた。「宮城與徳(みやぎ よとく 1903.2.10~1943.8.2)画家・宮城與徳は1903年2月、名護間切(現名護市)東江に生まれた。16才のとき、父の呼び寄せで渡米。サンディエゴ官立美術学校などで絵を学ぶ。移民社会の中で画家としての道を歩みながら、戦争と革命の激動する世界のなかで波乱の人生を送った。アメリカで人種差別、移民労働者の悲惨な境遇を目の当たりにし、「働く者の食える社会」への道を社会運動に求めた。日中問題や東アジアの課題に強い関心を持っていた與徳は日本に帰り、同志・尾崎秀美らとゾルゲ機関の活動に参加。故郷沖縄の状況とアメリカ、東アジアのそれが相似の構図にみえ、沖縄の解放につながるとの思いから軍国主義一色の日本で、持病を抱えての情報・反戦活動を殉教者のごとく実践した。絵の才能を期待され、愛する甥に「いつかは君たちの時代がくる」と話していた宮城與徳は逮捕され、1943年8月 40才で獄死。ここ名護の地に生まれ、心から名護を愛し、日本と世界の歴史に深く関わった人物・宮城與徳を記憶するため、この碑を建立する。☆肖像は1927年、與徳24才のときの写真より☆月光像 1934~41年頃の作品 2006年1月25日 宮城與徳生誕百年を記念する会」宮城與徳は1903(明治36)年2月10日、名護間切(現名護市)東江に生まれている。碑には與徳が24歳の時の肖像と、與徳の代表作「月光像」の複写がはめ込まれていた。こちらが與徳が24歳の時の肖像。與徳の代表作「月光像」の写真。「2000年九州・沖縄サミット記念写真」「2000年3月25日小渕首相名護市へサミット開催決定をされた小渕首相が、プレスセンター(現市民会館前)の視察に訪れ、名護市民、子供達の歓迎に手を振って答えた」。こちらが「ガジュマル緑地」の入口であるようだ。「ガジュマル緑地」の「ガジュマル」には多くの根がぶら下がる。「アラマンダ」の花。近づいて。「アラマンダ」は丈夫な性質で、温度さえあれば一年中開花するので、熱帯地域では広く栽培され親しまれている花とのこと。幸地川の堤防上のフエンスには桜(カンヒザクラ)が。名護市街地を流れる幸地川は約 3km の小さな都市河川。川沿いには、オリオンビール工場や名護の シンボルとも言える国指定天然記念物の「ひんぷんガジュマル」があり、シーズンには、桜を見にくる 人々でにぎわう と。「あなだ橋」を見る。幸地川は別称アナダ川とも呼ばれている と。幸地川の遊歩道にあった人形。名護市の汚水マンホール蓋。名護市市制50周年を記念して、下水道マンホール蓋のデザイン公募を行った。県内外から応募された19作品の中から人気投票を行い、得票数が最も多かったデザインを採用。採用されたデザインには、「名護市のシンボルとして、桜(カンヒザクラ)とひんぷんガジュマル、そして名護湾をイメージしているとのこと。そして「ハイビスカス」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.15
コメント(0)
この日・9月27日(水)、沖縄本島一周の旅の3日目。沖縄本島北部から東シナ海に突き出した本部半島を目指して進む。本部半島は南の名護湾と北の羽地内海に挟まれており、北西方向に伸びた半島となっている。幅約4km-7km、長さ約12km。山地であり、平野部は少ない。最高所の標高は八重岳の453m。この日も沖縄自動車道・那覇ICに向かって旅友の運転で進む。この旅行は連日、私は助手席でタブレット片手にナビゲーターに専念したのであった。445mの斜張橋「とよみ大橋」を渡る。1989年着工、93年11月に開通。豊見城市真玉橋から那覇市鏡原までの連絡橋。県道11号バイパスと結び、真玉橋交差点の交通渋滞解消と国道329号の混雑緩和が目的 と。右側を進み那覇IC料金所へ向かう。那覇IC料金所を通過。沖縄自動車道は、沖縄県の名護市を起点とし那覇市に至る延長57.3kmの高速道路(高速自動車国道)である。高速自動車国道としては最南端かつ最西端の路線。真っ直ぐに立ち並ぶヤシの木の間に「那覇・南風原クリーンセンター」の煙突が見えた。「FM沖縄 87.3MHz 那覇送信所」の鉄塔。島尻郡南風原町新川705。そして「許田(きょだ)料金所」で降りる。「沖縄道」の終点を通過し県道71号線に合流。「名護湾」とその先にこれから訪ねる「本部半島」が見えて来た。海岸まで山が迫る。「東江海岸」に車を停めて海岸へ。明るい水色が好印象の「東江海岸」。 幅は1km以上。南側を見る。北側の高い山が「八重岳」であろう。車に戻り「名護城公園」に向かって坂道を上って行った。「名護城公園」は、名護市名護岳一帯を園地とし、頂上付近の展望台からは名護の市街地や美しい東シナ海等の景色が眺めることができるエリア。公園内の名護城跡を中心に1月には県内でも有数の桜祭りが行われ北部地域の名所。「名護城公園」案内図。そして「天上広場」の駐車場に車を駐め、「天上展望台」に向かう。名護中央公園で最も高い場所にある3階建ての展望台。石碑に文字や説明は書かれていなかった。階段近くの壁には、「名護城公園」で見ることが出来る野鳥や動物紹介プレートが埋め込まれていた。サシバ、コゲラ、アカハラ、キジバト、ツミ、サンコウチョウ、リュウキュウツバメ、アオジ。シロハラ、ズアカアオバト、ヤマシギ、アオバズク、リュウキュウコノハズク、アカハラダカ。カラスバト、◯◯◯、イソヒヨドリ、アカショウビン、メジロ、ヒヨドリ、アオコウモリ、リュウキュウイノシシ。展望台からは名護の街並みが眼下に。青い屋根の建物は「名護青少年の家」。名護市街と名護湾を臨む。夜景・日の入りの光景も美しそうであった。イタジイ(スダジイの沖縄での地方名)の森が広がる。展望台から眺めるイタジイの森は、樹冠がもこもことしてブロッコリーのようにも見えたのは菜園を趣味に持つ私だけ?展望台には、大きな立派なカメラで野鳥を撮るカメラマンの姿が10人ほど。「アカハラ」が飛んでいると、確認できないまま私もカメラをその方向に向けてシャッターを押したが・・・。「アカハラ本土では本州中部以北の山地や北海道の平地にある地域で繁殖する夏鳥。冬季には本州以南の温暖な地方へ移動する。沖縄では数少ない冬鳥として渡来し、公園の草地、森林地域などで見られる。」展望台には「ケーン ケーン」?と警報音のような音が絶え間なく。近くにいたカメラマンに何の鳴き声かと聞くと「オオシマゼミの鳴き声」👈リンク と。「オオシマゼミ」をネットから。和名 オオシマゼミ分類 カメムシ目セミ科大きさ 約5cm分布 沖縄島、久米島、奄美大島、徳之島「天上広場」の先には四阿(あずまや)が。四阿に近づいて。「神アサギ」にも見えたのであったが。「P パーキングエリア」案内板。パーキングエリアは、名護岳に近く「G 自然散策路-しいのみの森」にもつながっているので、ハイキングの拠点として利用されています。また、当工リアにそびえる園内一高い天上展望台からは、日中は青い名護湾と名護の市街地を、夕暮れ時には本島西海岸一帯がタ日で赤く染まっている絶景を望むことができます と。車に戻り、南側の坂道を下って行った。「なかゆくい展望台」四阿前から名護市街地を見る。「なかゆくい」とは、沖縄の方言で「一休み」という意味。ズームして。そしてクネクネと坂道を下り「和球之碑(にぎたまのいしぶみ)」を訪ねた。球七〇七一部隊(独立混成四十四旅団第二歩兵隊)の隊員たちを祀った碑である。球七○七一部隊の沖縄・鹿児島・熊本・宮崎・大分五県の元隊員によって、一九六五(昭和四十)年七月二十二日に建立された と。戦後六〇年の二〇〇五年に最後の慰霊祭が行われたのだと。「球七〇七一部隊 和球之碑昭和十七年七月沖縄 鹿児島 宮崎 熊本 大分 五県出身の将兵軍属四千名をもって編成された球七〇七一部隊は沖縄戦で約三千名を失いました私どもは祖国日本の繁盛と世界平和の礎となられた亡き戦友のみなさんの霊を慰めるためにこの碑を建てます昭和四十年六月二十ニ日 元球七〇七一部隊」日本軍の部隊は、通常正式な部隊名と通称号を持っている。『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵語・用語の解説』によると「防諜上の必要により固有の部隊名のほかに、特に定められた部隊の称号をいい、通称部隊名または通称名とも呼称され兵団文字符と通称番号により成って」おり、通称は暗号のようなものであった。住民からの聞き取りでは、正式部隊名よりも「球」「山」などの通称を記憶している人がほとんどである とネットから。次に訪ねたのが「名護城神社」。両脇に石灯籠が並ぶ参道を上って行った。正面に拝殿の姿が。拝殿を横から。正面に廻ると、長い石段が現れた。こちらが正式な参道のようだ。拝殿を正面から。そしてその奥にあったのが、名護城神社の本殿。本殿は拝殿よりさらに高い位置にあり、コンパクトな建物であったが歴史を感じさせる建物。次に訪ねたのが「史跡 名護城(ナングシク)」。名護按司の居城だったと伝えられる「名護城」。沖縄本島北部の名護市に聳える標高345メートルの名護岳に位置する城跡。石段を上って行った。「史跡 名護城(ナングシク)」案内柱。石段を上りきると、広場となっていた。右手には「神アサギ」も。14世紀初頭に今帰仁城主の弟、名護按司(あじ)が居城を作ったが、城郭建築は全て失われ現在では公園として整備されていた。敷地内には、約2万本のカンヒザクラが植栽されているのだと。名護市名護5511。「神アサギ」に近づいて。左手に案内板。「名護城跡 文化財指定遺構(史跡)桜(カンヒサクラ)の名所として全国的に有名になった名護グシクは、名護市の歴史のなかで要な位置をしめる遺跡の一つです。このグシクに、いつの頃か人が住みはじめたのか定かではありませんが、これまでに採集された中国製磁器類・カムィヤキ・高麗系瓦・土器などのさまざまな遺物からすると、少なくとも今から約600年前(14世紀)のことだと考えられ、名護按司の居城として伝えられています。その頃は「グスク時代」と呼ばれ、奄美諸島から八重山諸島にいたるまで、人々は「グスク(グシク・スク)」と呼ばれる小高い丘の上に暮らしていたようです。また、それまでの数千年にわたる海や山の自然物の採集・狩猟による生活から、農業を中心にした生活に転換した時代でもあります。このグシクには、石垣をめぐらした防御の施設はありませんが、丘陵の尾根部を切り取ったみごとな「堀切」が残っています。グシクの頂上部に続く東側の緩やかな尾根を、一つは約3m、もう一つは約8mの深さに削り取った「二重の堀切」で、外敵の侵入を防いでいます。近年、沖縄島の数カ所の「グスク」で「堀切」が発見されましたが、特に、この「二重の堀切」は保存がよく、注目を集めています。また、グシク内には、祝女殿内(ヌルドゥンチ)・根神屋(ニガミヤー)・掟神屋(ウチガミヤー)・フスミ屋・神アサギなど、城区の拝所があり、大切な信仰の場所となっています。」「名護城跡」案内図。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.14
コメント(0)
次に訪ねたのが国道58号を左折した場所にあった「かぎやで風節の碑」。国頭郡国頭村奥間47。「かぎやで風節👈リンク。「あた果報のつきやす 夢やちやぅも見だぬ かぎやで風のつくり べたとつきやす」と刻まれていた。【大きな果報が得られようとは夢にも見ない事であった鍛冶屋で色々ものを作ってきたが、そのおかげで果報が身にぴったりとついた。】と。沖縄でお祝いの席で必ず演奏される曲に「かぎやで風節」があると。「かじゃでぃふう」と読む。最も演奏される機会が多い曲かもしれないとのこと。祝いの場の種類によって、正月用とか、結婚式、新築などそれぞれに歌詞があるという。「第二尚氏の始祖・尚円王金丸は、不遇の若い時に奥間の裏山にあるインツキ屋取にかくまわれて世話になった奥間鍛冶屋の旧恩を忘れず、その後1470年に琉球王に就くと奥間鍛冶屋の次男正胤(まさたね)を国頭按司に取り立てた。その時、正胤が喜びのあまり即興で詠んだ「大きな果報が得られようとは夢にも見ないことであった。鍛冶屋でいろいろ物を作ってきたが、そのおかげで思いがけぬ果報が身にぴったりとついた」(いいことをすると思いもよらぬ果報があるものだ)という意味の歌が「かぎやで風節」(鍛冶屋手風節)の原歌といわれ今日まで伝わっている。「かぎやで風節」は国の繁栄、五穀豊穣、子孫繁栄、航海の安全、公事公務の遂行、慶事など祝意を表す時に歌われる事が多い。また国王の御前や高貴の座で恩納節など五節一組の初めに奏されることから「御前風」の異名もある。」「かぎやで風節」の歌碑は、奥間東鍛冶屋(アガリカンジャヤー)跡にあった。これが「奥間鍛冶屋発祥の地」碑。「奥間鍛冶屋発祥の地奥間鍛冶屋は沖縄の鍛冶屋の祖として知られている。国頭・奥間の地で生誕した奥間大親は後に、浦添間切謝名村に居住し長男察度(1321年~1395年浦添按司・中山王)と次男泰期・金萬按司ほかを生んだ。泰期・金萬按司は異母兄察度が1350年中山王に就くと、兄の使者として、1372年~1382年間の間5回明に進貢に遣わされ、これが琉球と明との通交の始めとされている。明との交流はその後の琉球の政治・経済・文化の発展に多大な影響を与えている。泰期・金満按司は明から、当時貴重な品である陶器や鉄製品を持ち帰り、その製作・修理の知識、技術を身につけて、後に奥間に下って鍛冶屋を始めたとされている。奥間は山林が間近で、水・炭が豊富にあり、近くに鉄材料の仕入れや製品の積み出しに好条件な港があったこと、父奥間大親の出生地あることが奥間の地を選んだ理由と思われる。泰期・金満按司が始めた鍛冶屋によって、琉球各地に鉄製の農具や生活用品が普及し、農耕、生活向上に大きな役割を果たしたと伝えられている。この泰期・金萬按司が奥間鍛冶屋の始祖である。2011年8月吉日・奥間鍛冶屋子孫:座安家(屋号 東り)」「奥間鍛冶屋発祥の地碑」のさらに奥に、古い拝所があった。鍛冶屋の様子が描かれた絵が飾られていた。これも拝所であっただろうか。「国道58号」に戻り進む。「道の駅ゆいゆい国頭」すぐ近くにあるオブジェ。国頭地方は木材の輸出基地だったとのことで、首里王府までリレー式に木材を運んだそうだ。木材をコロビキする姿が。「国頭さばくいの地」碑。「さばくい(捌吏、捌理)」とは「間切(まじきり)地区の番所の役人」の役職名のようだ。「国頭さばくいの地琉球王朝時代、首里城王殿の改修の際本島北部国頭の山々から建築用材を伐り出して王府へ献上した。与那覇岳・長尾山一帯から伐り出された材木は、比地川・奥間川を下り鏡地原の浜から海を渡り泊の港へ陸あげされ首里へと運ばれた。途中村から村へと人びとがリレー式に材木を曳いて運んだりもしたという。その木遣りを歌ったのが「国頭さばくい」👈リンク でこの木遣り歌は、大勢で掛け声をかけ合い音頭を取りながら心をひとつにして歌われた。歌詞は国王の御代万歳をたたえている。このしぐさを当奥間区に民俗芸能として保存されている。なお、さばくい(捌理)とは各間切にいた幹部役人の総称で彼等は材木の検査ならびに運搬の指揮にもあたった。首里城正殿の復元を記念して「国頭捌理」の碑をこの地に建立する。」そして「やんばる3村観光案内所」を訪ねた。「奇跡の森 やんばる国立公園」。「ヤンバルクイナ」の写真。ウィキペディアによるとヤンバルクイナ(山原水鶏 学名:Hypotaenidia okinawae)は、鳥綱ツル目クイナ科Hypotaenidia属に分類される鳥類。日本の沖縄本島北部の山原(やんばる)地域のみに生息する固有種であり、1981年(昭和56年)に発見された。和名は上記の生息地域の地名に由来し、「やんばる地方に棲むクイナ」の意。ほとんど飛ぶことができない。全長35cm。くちばしと足は赤色。背は暗褐色、胸から腹は白黒の横縞模様がはっきりあります。翼は短いこと、飛んでいる姿の観察例がないことから、移動のためには飛行をしないと考えられており、歩行が主の鳥です。鳴き声は、「コッ コッ コッ」などですが、さえずりは大きな声で「クリャァー クリャァー」「キョキョキョキョー」など。早朝によく鳴いています と。小腹がすいたので「観光案内所」の横の店で沖縄名物の「味噌汁定食」を楽しむ。沖縄の食堂では、味噌汁というと小さなお椀ではなく、メインのおかずとしてどんぶりで現れるのが定番。いわゆる味噌汁と大きく異なるのは、レタスなどの葉野菜が入り、他にも卵、豆腐、ポーク(ランチョンミート)などとにかく具だくさんなこと。食堂では、ご飯とともに「味噌汁定食」として提供されているのであった。隣にあった「道の駅ゆいゆい国頭」の入口にあった石碑。<「恋し国頭(くいしくんじゃん)」の琉歌碑「山水ん清らさ 至情ん深さ こいし国頭に 幾世までん」。歌意は【山の水も清らかで住む人も自然で深い優しさがある。 このような国頭にいつまでも暮らしたい】と。そして「第20回 伊集ぬ花コンサート記念植樹」。沖縄の歌手「平(たいら)ゆき」さんの「伊集ぬ花コンサート」👈リンク。「道の駅ゆいゆい国頭案内図」。入口前に「重量挙げのヤンバルクイナ選手」。昭和63年元旦辰生年祝記念と。これは1987年に沖縄で開催された「沖縄海邦国体(国民体育大会)」の公式マスコット「クイクイ」。国頭村がウエイトリフティング会場になったため、それを記念して作られたもの。「道の駅ゆいゆい国頭」入口。両脇にはシーサーが(右)。シーサー(左)。店内に入る。Tシャツコーナー。芸能人、スポーツ選手の来店の写真。「ヤンバルクイナ」。「やんばる国立公園へようこそ」案内板。「やんばる国立公園へようこそ Welcome to Yambaru National Parkやんばる国立公園は、広さこそ日本の国土面積のわずか0.1 %てすが、生物多様性においては国全体の中で小さな面積に不釣り合いなほどの大きな割合を占めています。本土からの長期の隔絶と沖縄南部からのアクセスの難しさにより、森は固有種の在来生物の楽園となりました。しかし、やんばるの森は手つかずでも原生でもありません。それどころか、この森は何百年にもわたる人間の活動によって形作られてきました。前近代から戦後初期まで、森は島全体に木材と木炭を供給しました。国頭村沿岸に点在していた小さな村々の住民は、山に入って協力して木を切り、それを南からやってくる「やんばる船」に売っていました。この仕組みは、最終的には洗練された村の協同組合のネットワークに発展しました。この仕組みを日本各地の類以の地域経済がモデルとし、多くの地域から代表が見学に訪れました。村の人たちは森を丁寧に手入れし、常に切った分を補うのに充分な木を植え足しました。この方法は、18世紀に蔡温という琉球王国の高名な官僚によって杣山(そまやま)方式として正式化されました。蔡温の知見は、第二次世界大戦後に米国の占領者までが学ぶほどてした。戦後の復興が終わり、主なエネルギー源が木炭からガスと電気に代わると、森林の資源に対する需要は減少しました。多くの村は林業の代わりに農業を営むようになりましたが、森を大切にする伝統は残っています。」古代の楽園 An Ancient Haven国頭村の多くの土地ては7千~ 9千万年前の地層が確認されています。さらに北端の辺戸岬では約2億5千万年前の地層が確認されています。侵食を受けた石灰岩によるカルスト地形は、海岸の美しさを際立たせます。かっては水平だったけれど今では地表に露出し、ほぼ垂直に上方に突き出している岩層を持つ辺戸岳(安須森御嶽)のような印象的な地形は、古代の地殻変動の証を示しています。やんばる国立公園は非常に多様な動物相を有しています。大型哺乳類の捕食者がいない中で、ヤンバルテナガコガネやリュウキュウハグロトンボなどの昆虫から、イシカワガェル、シリケンイモリ、ハブなどの爬虫類・両生類に至るまて、無数の小さな生物種が繁栄しました。やんばるには、飛べない烏ヤンバルクイナ、働き者のノグチゲラ、印象的な姿のアカショウビン、そして人懐っこいアカヒゲを含む魅力的な空飛ぶ仲間もたくさんいます。森の植物相の中心は、やんばるの林業を支えてきたブナの仲間である常緑樹、イタジイてす。森を遠くから見ると、イタジイが森をやわらかく包んているように見えます。イタジイと並んて、頑丈なカシ、古生代から存在するヒカゲへゴ、花を咲かせるイジュなど多種の樹木が生育しています。西表島のような鮮やかな熱帯気候の島々に対し、やんばるの柔らかい色合いは、水彩画に例えられてきました。森の繊細な美しさや、恥ずかしがり屋で小柄な生き物たちを見逃さないために、ぜひ現地ガイドに案内してもらいましよう。」「ヤンバルクイナ」。「リュウキュウハグロトンボ」。「国頭村観光ガイドマップ」。「比地の神アシャギ」案内板。国頭村内でも比地と安田でしか見ることができない、昔ながらの伝統的な茅葺屋根の神アシャギで。また、一辺が6mを超える村内でも大きなアシャギ。下記はネットから「比地の神アシャギ比地の神アシャギは、集落の背面(東側)の丘陵上に位置する標高約40メートの平場に建てられ、神アシャギから下る斜面には屋敷跡や畑後と思われる平場が点在しています。この一帯は比地の小玉森またはアサギムイなどと呼ばれており、神アシャギの他に山口神社(アマンチュの宮)と十数か所の拝所や樹齢推定250年以上とされるアカギの巨木などがあり長く信仰の対象となってきました。このアカギの巨木は集落内の各門中の拝所となっており、門中ごとに詳む木が分かれ、ウンジャミの際にはその木に向かって拝みます。また、この一帯はアカギやホルトノキ、タブノキなどの高木が生育し、平成3年4月2日には、県指定天然記念物物「比地の小玉森の植物群落」として指定され学術的に貴重な場所です。比地の小玉森は「琉球国由来記」にも「小玉森 神名アマオレノ御イべ」という記述があり、旧暦の七月盆明けの亥の日には、ウンジャミ(海神祭)等の重要な年中行事が行われています。比地の神アシャギ屋根は昔ながらのかやぶきと現在では貴重な建造物となっています。柱は1930年代には20本ほどであったが、現在は8本とその形状に変化が見られます。また、近年のグスク研究では神アシャギのある平場を含む大小の平場は、北側に接するバンギナグスクとともに「土より成るグスク」として石積みを持たないグスクとする研究も行われています。このように比地の神アシャギは地元の方々から大切に継承され生物学、民族学、考古学など様々な分野から貴重なフィールドとなっています。」「道の駅ゆいゆい国頭」の建物。再び「やんばる3村観光案内所」。比地川の手前を左折し川に沿って進む。比地集落の入口。奥にあった案内板。「県指定天然記念物 比地の小玉森の植物群落この地域は、琉球国由来記には「小玉森」と記されていますが、地元では「アサギ森」とも呼ばれています。中央に神アサギがあり、旧暦7月のウンジャミなど重要な祭祠の場所で、古くから拝所として大切に保護されてきた聖域です。そのためアカギやフクギなどの巨樹が数多く残っています。指定地域には、胸高直径が一八〇センチメートルにもおよぶアカギをはしめ、フクギ(胸高直径六三センチメートル)やホルトノキ(六〇センチメートル)、タブノキ(五八センチメートル)などの大木が樹冠を占め、亜高木層にリュウキュウガキやフクギ、ヤブニッケイなどが見られます。また低木層にはクロツグやナガミボチョウジ、シロダモなどがあり、草本層にはオオイワヒトデやホシダ、フウトウカズラなど多くの植物が生育しています。また非石灰岩地域でありながら、クスノハカエデやヤエヤマネコノチチ、ナガミボチョウジ、イシカグマなど石灰岩地域に多く生育する種類が見られるのが大きな特徴です。この地域の植物群落は、国頭地域における非石灰岩地域の低地林として、学術的にも重なものです。なお、この地域において許可なく現状を変更し、又は保存に影響を及ぼす行為をすることは県条例で禁じられています。」と。「アマランダ」の黄色い花。黄色が鮮やかな花。そして再び国道58号に戻り、国頭郡大宜味村の海岸線を名護・那覇方面に進む。この日の最後に、「国道58号」沿いにあった「(株)カイコン」の先の路地を左折し名護市座喜味にあった「ヌルガー」に立ち寄った。T字路の角に三角屋根の祠・「ヌルガー」と記された井戸跡のようであった。ヌル(祝女)が衣装を洗ったり身を清めた場所とされている と。祠の傍に苔むした石碑「寄贈者 宮平 松助 平成十二年九月五日建 旧八月八日」と。近くにあったのが「カミガー」。こちらも神事に使われていたという村の井戸(ガー)とのこと。こちらも苔むしており判読できなかったが寄贈者の名前が刻まれているのであろう。祠の傍に苔むした石碑「寄贈者 宮平 松助 平成十二年九月五日建 旧 八月八日」と。そして坂を少し上って行くと目的地の「上之御嶽(ウイヌウタキ)遺跡」の石鳥居が現れた。名護市真喜屋。「上之御嶽遺跡」案内柱。「御嶽の広場一帯から、グスク時代の中期から後期にかけてのものと思われる土器が採集されています。採集遺物は土器のみで、陶磁器は採集されていません。御嶽は、真喜屋とその隣の稻嶺で共有する主要な5か所の拝所のうちのひとつになっています。時代:グスク時代中期~後期(約800年前~約700年前)」石鳥居を潜り、石段を上って行った。途中からは石畳の急な坂道の参道が森の奥へと伸びていた。森の奥へ進んでいくと、目の前に「社」の如き建造物が現われた。傍ら手前には石碑が建立されており「上之御嶽建設碑」と刻まれていた。「上之御嶽」の社は前庭の入口に二基の灯籠が設けられており、社の内部には祭壇のようなコンクリート製の台が設置されていた。地元では『上之御嶽(うぃーぬうたき)』と呼んでいるようだ。道路から少し低くなった場所にある「上之倉井」水が湧いているようであったが。時間は16:00を過ぎたため、国道58号に戻りホテルへの帰路に。羽地大川に架かる羽地大橋を渡る。羽地中学校前バス停のキノコ待合所。名護バイパスに入る。「世冨慶(よふけ)トンネル」を通過。沖縄自動車道に向かって進む。国道58号沿いにある「真栄田岬,美浜アメリカンビレッジ」は前回2015年に訪ねたのであった。沖縄自動車道・許田(きょだ)IC料金所を通過。石川ICを通過して進む。那覇ICで沖縄自動車道を降り、県道82号線那覇糸満線を進む。前方に見えた緑の屋根は「那覇市民体育館」。そしてこの日の行程を全て終え、ホテルに到着したのであった。時間は17:30。この日のドライブルートは下記のごとし。走行距離307km。この日は、駐車場からホテルへの途中にあったス-パ-マーケットで反省会の食材、ドリンクを購入し、ホテルの部屋飲みとしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.13
コメント(2)
次に訪ねたのが「辺戸岬観光案内所」。「辺戸岬観光案内所」は、沖縄本島の最北端の「やんばる国立公園」に位置する辺戸岬に、やんばる三村のランドマークとして、2019年(令和元年)に、オープンした。沖縄北部を巡るドライブやツーリングで、格好の休憩と観光のスポット。70台が駐車できる駐車場に隣接したビルの1階に観光案内所、3階に展望デッキがあった。1階観光案内所では、沖縄北部(やんばる)の見所を紹介し、地元の文化や歴史の説明資料を展示していた。観光案内所の屋上展望デッキから、北側に東シナ海から太平洋まで180°を超える大海原、南側に2億年以上前の石灰岩の壮大な山々が眺望でき、人気の観光スポットとなっている。観光案内所内の見学と展望デッキともに、入場無料であった。施設1階では、やんばる3村の広域情報だけではなく、自然、歴史・文化などの地域情報も発信中。辺戸岬は、やんばる国立公園に位置し、石灰岩のカルスト地形など特徴のある景観を有す。また、その周辺は、琉球開闢の伝説が残るパワースポットとして知られ、従来から県民をはじめ多くの観光客に親しまれてきた場所。「東村」、「大宜味村」のコーナー。「東村(ひがしそん)」は「やんばる」と呼ばれる沖縄本島北部、東海岸に位置する縦に細長い村です。その総面積の約73%は森林で、その森林を源とした大小14の河川が流れています。人口はおよそ1,800名で沖縄本島で最も人口の少ない地域です。「やんばるの森」には多種多様な動植物が生息し、東洋のガラパゴスとも称され、2016年9月に「やんばる国立公園」に指定され、さらに2021年7月には、第44回世界遺産委員会において、「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」が世界自然遺産として登録が決定されました。村の花は「つつじ」、村の鳥は「ノグチゲラ」、村の木は「ヒルギ」、村のキャッチフレーズは「花と水とパインの村」「大宜味村(おおぎみそん)」は、沖縄本島北部西海岸に面し、村の約70%が山地におおわれています。近年ではバードウォッチングや森林浴スポットとして人気があります。 この村に住む90歳以上の高齢者の割合が多く、沖縄一長寿の村として知られています。長寿の源とも言われるシークヮーサーの産地で、カステラやサーターアンダギーなど、様々な特産品づくりが進められています。 また、喜如嘉(きじょか)は、現在唯一、伝統工芸「芭蕉布(ばしょうふ)」を作り出している地域。「国頭村(くにがみそん)」コーナー。「国頭村」は亜熱帯の木々が生い茂る森、森から流れる清流、透明度の高い海など、自然が多く残る。 鋭い岩山が連なり、パワースポットとして注目を集める「大石林山」や、沖縄本島最北端の岬ここ「辺戸岬」、人気の景勝地「茅打(かやうち)バンタ」などがあります。また、村域の95%が森林で、貴重なヤンバルクイナ、ノグチゲラ、ヤンバルテナガコガネなどの動物が生息している。「辺戸岬(へどみさき)」コーナー。「辺戸岬」は沖縄本島の最北端にある岬で「沖縄海岸国定公園」に含まれる風光明媚な景勝地。岬の先端からは、晴れた日には北に22km離れた鹿児島県奄美諸島の与論島や沖永良部島を、また西には伊是名島や伊平屋島見渡すことができます。那覇から辺戸岬へは、車で国道58線を北上し約120km、高速利用で約2時間30分かかります。「茅打バンタ」は辺戸岬へ至る南西岸の絶壁で、その北側には世界的にも珍しい海底の鍾乳洞「辺戸岬ドーム」があり、ダイビングスポットとして人気があります。少し離れた所には「ヤンバルクイナ展望台」があり、辺戸岬を遠望する絶景ポイントです。歴史辺戸岬は太古の昔に長い年月をかけて珊瑚礁が隆起し、波の浸食を受けてできた断崖絶壁の景勝地です。辺戸岬の背後にそびえる辺戸岳は「辺戸御嶽(へどうたき)」ともいわれ、琉球民族の祖先である「アマミキヨ」が沖縄の島々を創った時、最初にここを創ったという伝説が残っています。米軍統治時代には、海を隔てた与論島とこの岬でかがり火を焚き、年に一度、中間の海上で本土復帰を訴える集会が行われました。与論島を含む奄美諸島は1953年に本土に復帰しましたが、沖縄の本土復帰が実現したのは1972年のことで、沖縄返還にさいして辺戸岬に「日本祖国復帰闘争碑」が建立されました。「歴史紹介」コーナー。蔡温(さいおん)松並木と蔡温今に残る琉球林業の遺産、蔡温の松並木辺戸岬の近くに有る辺戸集落には、樹齢が150年~300年の松並木があり、安須杜の山を背景に亜然帯の林と松並木の散策を楽しめます。この松並木は、防風林として琉球の政治主導者であった蔡温により林業振興策の一環として植栽されました。この林業振興策は、「杣山」と呼ばれ明治時代まで続きました。蔡温の松並木は、災害や戦争等によリ減少の一途をたどり、辺戸区に残った十数本を保全するために、平成10年に公園として整備されました。蔡温は、現代の大臣に当たる「三司官」を25年間勤め、薩摩傘下で疲弊した琉球人の価値観を変え、林業振興の他に農村活性化、士(サムレー)改革等を実行し、琉球を大いに豊かにした沖縄の歴史で最高の英雄の一人です。星窪(ふしくぶ)説伝大昔のある夜辺戸に空から星が降ってきました。星が落ちたとされる場所に大きく丸い窪みがありそこに溜まる水を利用して稲を育てたりしました。琉球王朝時代のことを遺老説伝にも記述が残っております。2階「ふしくぶカフェ」の由来でもあります流星が落ちて出来た恵みの貯水池琉球王朝時代の出来事をまとめた「遺老伝説」(18世紀初頃)に「落星ワ(せくせいわ)」という話で、「昔々の大昔のある夜、国頭郡辺戸邑(むら)の北に星が落ち窪んだ穴があいた。穴の形は楕円で、長い方で約20m短い方で約10m、深さは約2mであった。世の人々は、この穴を星窪と呼んだ」とあります。星窪は、案内所の近くクイナ展望台付近とされています。大正時代、住民は落窪を天然の大貯水池にして、取水口に水車を設けて製糖をなし、稲作にも用いられて地域に愛されました。案内所2Fの「ふしくぶカフェ」は、この物語にちなみ名付けられました。UFOが飛来する山1477年2月、辺戸の◯◯◯◯がアフリ岳の頂上に傘のような形をした極彩色に輝く巨大な飛行物体を目撃したとの報告記録が遺老説伝に残っています。飛行物体が飛来する山18世紀初期頃に書かれた琉球の歴史書「琉球国由来記」と琉球王朝時代の出来事をまとめた「遺老説伝」によると、「アフリ獄」に君眞物がさす冷傘が現れたと記載されています。君眞物とは、琉球神話に登場する琉球古来最高神のロ称で、冷傘とは君眞物のさす傘のことで、日除けの絹張りの黃色いみやびな傘だったとの事です。義本王(ぎほんおう) 炎と謎の王最初にできた琉球王統の悲劇琉球の正史「中山世鑑』によると、義本王の即位中(1249 ~ 1259)に7カ月の干ばつで飢餓と疫病で多数の犠牲がでて、その後7カ月は雨が降り続き飢饉となりました。民は「義本王が招いた事態だ」と噂しました。義本王は、部下の英祖に王位を譲リ、「自らの不徳を天に詫びる」と玉城城で公開の焼身自殺を行いましたが、途中大粒の雨で鎮火させられ死ねませんでした。失意のまま、義本王は国頭村の辺戸に隠遁し、世が治まってから、読谷村に移り、晩年は北中城村で過ごしたと伝えられています。一方『中山世譜』によると、この王位継は英祖がクーデターにより義本から王位を奪った革命であったという説もあリます。義本王の墓は、10箇所に点在しておリ、国頭村には7箇所もあります。墓の多さは、民のために自らの命を懸け内乱を避けた王への敬意を持った関係者が設置したとも、クーデター後の逃走のカモフラージュであったともいわれています。尚円王(しょう えんおう)と伝統古典「かぎやで風」👈リンクかぎやで風の由来「かぎやで風」は沖縄で特におめでたい儀式や祝いの席で演される古典音楽であり、結婚式では必ずといっていいほど演舞されています。その「かぎやで風」の由来に国頭村奥間区発祥の「奥間鍛冶屋」と、琉球王国第ニ尚氏王統を築いた「尚円王」がかかわっているといわれています。尚円王は伊是名島の百姓の家に生まれ「金丸」と呼ばれていました。金丸は畑の水を盗用したと疑われ、身の危険を感じ伊是名島から海を渡って、国頭に逃れます。犬付屋取(インチキャードウイ)という洞穴に隠れていた洞穴に隠れていた金丸を助けていたのが奥間の人でした。金丸は後に、琉球国王尚円となりました。尚円王は昔の恩に報いるため、奥間鍛冶屋の次男を国頭の総地頭にしました。その時の喜びを詠んだのが「かぎやで風(鍛冶屋手風)」となったとのことです.く鎖国時代、辺戸岬沖は防衛とおもてなしの最前線>琉球北部の海上を監視し王府へ送る情報ネットワーク琉球王府は、鎖国時代(1639~1854)に海上防衛と中国から冊封使のおもてなしの準備のために近海の監視を行い、素早く修理に伝達するネットワークの構築のため遠見番所と烽火台を整備した(1644)。琉球の正史によると、与論島から伊是名へのネットワークがあったとの記録がある。 <烽火の種類>一炬 ➡ 御冠船か帰唐船が1隻ニ炬 ➡ 御冠船か帰唐船が2隻以上三炬 ➡ その他の異国船安須杜御獄(あすむぃうたき)沖縄本島最北端の六連の峰から成る山の総称琉球開闢を始めた神々が最初に創設した御嶽と言われる琉球王朝時代も安須杜は信仰の対象とされてきた。琉球開闢の最初の地、安須杜御嶽琉球の歴史書「おもろ草子」、「琉球 神道記」、「中山世鑑」、「球陽」に、同様な琉球開闢の神話があります。生じる前の琉球列島は、荒ぶる波濤に漂う一本の縄のようで島の形をなしていませんでした。天帝「君眞物」は、この地を神の住むべき霊所であると認め、女神アマミキヨ、男神シネリキヨに島創りと国創りを命じました。神々は、天より島の北端に降り立ち、土石を運び、草木を植え、森々を創り、安須杜を最初の御嶽としました。島ができても住む人がいなかった為、アマミキヨは、天帝からニ名の御子を授かリました。この二名の間に陰陽の和合はなかったが吹き通る風によリ女ははらみ、三名の男とニ名の女が生まれた。長男は「国王」(天孫王)、次男は諸侯すなわち「按司」、三男は「百姓」、長女「最高神女」、次女は「祝女」となり、それぞれの”はじめ”となったとされています。安須杜の崖の生い立ち安須杜の崖は、プレートと呼ばれる地球の殻がゆっくりと動いて大陸の端で沈みこむ際に、大陸にこびりついた付加体で生じた断層の痕跡です。付加体の内部では、強い圧力で岩が変形して年代の違う岩石が隣接しています。安須杜の岩の成分は、2 ~ 3億年前の石灰岩で大陸の東端の付加体にありました。数千万年前から付加体の一部が大陸から分離して、今も東側に移動しています。「辺戸岬」周辺地図。2階「ふしくぶカフェ」。軽食が食べられるようであったが。そして、3Fの展望台はパスして「辺戸岬観光案内所」を出て、再び散策し石碑の近くに。「太田政作先生之像」。沖縄県国頭郡国頭村出身。1928年(昭和3年)に早稲田大学法学部を卒業。大学在学中に高等文官試験に合格し、長崎地方裁判所や那覇地方裁判所の判事、台北地方法院検事局の検事を歴任。澎湖庁庁長で終戦を迎える。戦後は熊本で弁護士をしていたが、1957年に当間重剛主席に請われて沖縄に赴き副主席に就任。1959年に政府主席に就任すると同時に、保守勢力が結集して沖縄自由民主党が結成されると総裁に迎えられる。主席在任中は、実務者レベルによる日本政府との協力関係を築くことを模索し日米琉懇話会の設置を提唱する。しかし、米国民政府のキャラウェイ高等弁務官が沖縄政財界に対して積極的に介入し(キャラウェイ旋風)、沖縄自民党内の派閥抗争が激化。西銘順治ら反主流派が沖縄自民党を脱党するに至り、責任を取って辞職した。辞任後は東京で弁護士を開業し1965年の第7回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で出馬、221,478票を得たが落選した(この参院選には安里積千代も無所属で出馬したが69,251票を得るに止まり落選している)。1970年に自民党沖縄県支部連合会長に就任、復帰後の1972年(昭和47年)、最初の沖縄県知事選挙に立候補したが、現職の行政主席だった屋良朝苗候補に敗れた とウィキペディアより。「太田政作先生 緑化顕彰碑」「辺戸岬」の見学を終え、車に戻り、県道58号線を再び逆方向に走り、「義本王の墓」を尋ねるべく手前の駐車所に入る。「辺戸集落の散策路と辺戸蔡温松並木保全公園」案内板。「辺戸集落の散策路と辺戸蔡温松並木保全公園亜熱帯林に囲まれた小さな辺戸集落は、豊かな歴史的遺産を持っています。この散策路は、樹齢250 ~ 300年の琉球松を有する辺戸蔡温松並木保全公園を通っています。公園を満喫するために、地元のガイドに案内を依頼することをおすすめします。琉球王国の黄金時代に尚敬王の摂政と相談役を務めた蔡温(1682ー1761)は、儒教の古典と清の政治経済の書物に通じていました。沖縄の歴史上最も影響力の強い三司官の一人てあった蔡温は、琉球諸島全域の灌漑と林業の事業の指揮を執りました。その業績の一つには森林減少に対する施策として松の大量植樹が挙げられます。これらの松の木は「蔡温松」として知られるようになりました。環境に対する蔡温の哲学は、資源需要と保全のパランスを考慮したものて、琉球における新しい繁栄の時代の礎となりました。彼の先見の明のおかげて、やんばるの森は、入念に手入れされた豊かな生態系として残存しました。戦後、沖縄を統治した「琉球列島米国民政府(USCAR(ユースカー) )」でさえ蔡温の施策の価値を認め、戦後の占領時代に彼の著作を英訳させたほどでした。首都から遠く離れたところにこれらの蔡温松が残されていることは、最盛期の琉球王国の強大な影響力、そして今日まて変わらない沖縄の特徴てある伝統と歴史への敬意を証明しています。」そして車を移動し「義本王の墓」を訪ねた。国頭郡国頭村辺戸。石段下に車を駐め石段を上って行った。グスクの如き道を進む。左手に石碑と案内板が。「有形文化財 義本王之墓」碑。「国頭村指定文化財」と。「義本王の墓義本王は沖縄最初の王統で国王である舜天王統の第三代目国王で、西暦1249年に即位した。しかし即位した翌年がら大飢饉・天変地異・疫病が起き、これは自分の不徳によるものであると王は次期王統の創始者である英祖を召して国政を代行させたところ、病気もやみその後のことは伝わっていないとされる。義本王は在位11年で英祖に譲位し、その後のことは伝わっていないとされる。その他にも、国が乱れたことに怒った群集が王を火あぶりの刑にしようとしたため逃げたとする説などもあり、実際はどのように権限の委譲がなされたかはわかっていない。墓は琉球建築の石工技術を活かし、仏教建築の影響を受けたと思われる家型の独特な外観をなす建造物であり、1983年に国頭村指定文化財(建造物)に指定された。墓庭内中央に大型の厨子甕が安置されており、これは明治の改修時に尚家から送られた五尺の大陶棺と思われる。」「義本王の墓」入口。周囲には塀が巡っていた。仏教建築の影響を受けたと思われる家型の独特な外観。2013年に墓の室内から甕(かめ)に入った人骨5~6柱と装飾品などが見つかったと。見つかった人骨は直径約1メートルの甕に入っていた。甕は墓の入り口より大きいため完成前に墓内に入れられたとみられる。現存する辺戸の墓は明治初期に尚家が改修したとされる。琉球石灰岩が積まれ、墓の外側は幅、奥行きともに約3m。墓や周囲の石垣は苔むして、非常に歴史を感じさせたのであった。次に訪ねたかったのが「美ら海展望台」であったが道路が閉鎖されていたため諦めた。海岸線に出て次に訪ねたのが「宜名眞(ぎなま)神社」。沖宮先代宮司・比嘉真忠氏によって創建された神社で、沖宮の境外末社。神社神道の神社としては、沖縄本島最北端の神社とのこと。国道58号を南下する。「座津武(ざつん)トンネル跡」を見る。座津武(ざつん)浜があるここ宇嘉地区は、険しい山が海の近くまで迫っており、しかも、浜の沖にはリーフが発達していないことから、台風時などには高波が浜に押し寄せるなど、国頭村でも有数の交通の難所であった。現在では、2013年に開通した3代目の宇嘉トンネルが最短距離で険しい山を貫き、国道58号宇嘉地区の越波や落石等の危険性を回避し、道路利用者の安全・安心な通行の確保が図られているのであった。かつての座津武(ざつん)トンネルへの旧道の遺構が残されていたが、手前にバリケードが。この交通上の難所に初代「座津武トンネル」が整備されたのは、戦前の1937年のことで、この初代のトンネルは沖縄の本土復帰の年である1972年に改修されている。それでも、険しい山が海に迫り、リーフが発達しておらず直接外海の波が押し寄せるという厳しい地形の状況から、台風や大雨時における越波や落石により、過去約20年間で15回もの通行止めが発生していた。通行止め時には道路ネットワークが途絶し、住民約750人の人々の生活に影響を及ぼしていた。そこで、2013年7月19日に座津武防災事業の一環として宇嘉トンネル(584m)を開通させ、災害に脆弱な国道58号宇嘉地区の越波や落石等の危険性を回避し、道路利用者の安全・安心な通行の確保を図ることができた とのこと。国頭郡国頭村宇嘉(うか)の海岸線を進む。「辺野喜(べのき)川」の手前にあった「辺野喜節」👈リンク 碑。国頭郡国頭村辺野喜1538。「いしゅの木の花や あんきよらさ咲きゆり わぬもいしゅやとて 真白咲かな」。「辺野喜川」に架かる「辺野喜橋」。「辺野喜川」沿いに川を上り、「辺野喜神社」への橋を渡った先にも「辺野喜節」の石碑があった。「伊集の木の花や あん美らさ咲きゆい わみん伊集やとて 真白咲かな」。Googleマップにはこの橋は「辺野喜川二号橋(ファーグナラフ)」と書かれていたが。「ファーグナラフ」の意味は?走って来た「辺戸岬」方向を振り返る。「謝敷節(じゃじちぶし)」👈リンク の碑。「謝敷いたびせに うちやりひく波の 謝敷みやらべの め笑れはぐき」国頭郡国頭村謝敷。「与那海岸」前から「与那の磯」方向を見る。多くのダムがあるようだ。沖縄の水がめ 沖縄は中南部の平野部に人口や産業が集まっています。 平野部では雨水をためることがむずかしいため、必要とされる多くの水を中南部だけでまかなうには限界があります。 そのため、山の多い北部にダムをつくって、はるばる中南部まで導水管によって水を送っているのだと。併せて沖縄の河川は、降雨後の出水が本土の河川と比較して極端に早いため、台風などの豪雨による被害が起こりやすく、たびたび川沿いの地域に大きな被害をもたらしてきました。一方、流域面積が小さいため、平常時の河川の流量は非常に少なく、日照りが続くと水不足を招きやすくなっています。それらの課題に対応するために、沖縄県土木建築部が管理・建設しているダムには、治水・利水・環境の大きく3つの役割があるのだ と。沖縄本島内にはこれまでに、福地ダム、新川ダム、安波ダム、普久川ダム、辺野喜ダム、漢那ダム、羽地ダム、 大保ダム、金武ダム(国)、倉敷ダム(県)、山城ダム(企業局)の11 のダムが完成しています。もちろん離島にもダムが。「与那川」に架かる「与那橋」手前。「新与那トンネル」。「与那海岸」。「与那海岸」から前方の岬を見る。「與那節」碑。国頭郡国頭村与那。「與那節」。「与那の高ひらや 汗はてど登る 無蔵に思なせば 車とうばる」。汗を流すほと難儀な坂道であるが、愛しい人を思えは平坦な道に感じるものであると、人問の心の持ちようを詠み込んだ歌。「無蔵」とは、日本語の「無惨」からきているという。無惨なことは「可哀そう」に転化し、さらに「可哀そう」が、「可愛い」に転化し、さらに沖縄では「可愛い」のは「彼女」と転化したそうである。「無惨」からはまるで無関係な「彼女」となったとは、言葉の変化は面白いのである。何故か上の写真のすぐ近くにも与那節の碑がもう一つがあった。歌詞が微妙に違い「与那の高ひらや汗はてどのぼる 無蔵と二人なりば一足なから」と後半部分が異なる。結局は愛の歌であり、意味はあまり変わらない気もするのだが。「与那の高ひらや 汗はてど登る 無蔵と二人なりば 一足なから」。与那の高い坂を 汗をかきながら登る あなたと一緒なら ちょっとの距離だし 車での平坦な道と変わらない と。二つの歌碑の下の句が違うのは様々な歌い方があると言う事らしい。横の建物には「ユナムンダクマの郷」、「WELCOM➡よんな~館」と。本島最北端の地、辺戸岬に行く途中にある与那集落。全国過疎地域連合の資料によると、国頭村全域が過疎市町村として登録されていると。与那集落もその中の一つ。年々子どもの出生率が減っていく中で集落の未来をどうにかしようと立ち上がったのがユナムンダクマ協議会。地域おこしとして区長が自らの手でたてたというユナムンダクマは標準語でいうと“与那の知恵を持っている人”を意味するそうで、地域の共同店と連携して集落の散策ツアーを提供しているとのこと。2012年から始まった集落の散策ツアーは10年間ものあいだ定期的に実施されてきた。>集落の祈りの場所の紹介や、与那の始祖が住み始めたとされる家、自然散策、58号線の与那トンネルに隠された秘密などなど、人と自然が密接に関わり合って生きてきた歴史を実際に体を動かして学ぶことができるのだ と。「新与那トンネル」の手前の左の高台に広場があったので向かった。右手が旧道。国頭郡国頭村与那358。芝生広場には沖縄やんばるの森に棲む国指定天然記念物の生物が紹介されていた。「ヤンバルテナガコガネ」。山原(ヤンバル)の中でもここ国頭村付近にしか生息していない と。「ヤンバルクイナ」芝生広場からは40kmほど離れた、右に「伊平屋島」、左に「伊是名島」の姿が ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.12
コメント(2)
「辺戸(へど)岬」に到着し駐車場に向かって進む。前方にあったのが「観光案内所」。2019年5月に完成したと。それまでは自動販売機ぐらいしか無く僻地感がすごかったのだと。「辺戸岬観光案内所 HEAD LINE」と施設1階が国頭村、大宜味村、東村のやんばる3村の観光情報を発信する案内所、施設2階が辺戸岬の眺望を楽しみながら飲食することができる休憩所。「HEAD LINE」の名称は「辺戸」をかけたシャレなのであろうか?駐車場に車を駐め散策開始。「杜と水とやすらぎの里”くにがみ”」案内板。「辺戸岬」案内板。「やんばる国立公園 辺戸岬 Cape Hedo辺戸岬は、沖縄本島の最北端にあり、「始まりの場所」てあるとされています。歴史書とされている『中山世鑑』によると、阿摩美久(あまみく)という神は、琉球諸島をつくった時、まず辺戸岳としても知られる神聖な山、安須森御嶽(あすむいうたき)をつくりました。興味深いことに、地質学者は、辺戸の山々から約2億5千万年前の地層が確認できることから、辺戸地域は実際に国頭の他の地域よりも古いことを明らかにしています。地元の人々が隕石による窪地だという星窪(ふしくぶ)もまた、この地域にある興味深い地形てす。この地域の他の見どころには、辺戸集落の北側にある墓があります。この墓は急遽退位した後、行方が分からなくなった13世紀の王、義本(ぎほん)のものであると信じられています。辺戸岬は、東は太平洋、西は東シナ海を見渡しています。観測ポイントに立っと、晴れた日には北に鹿児島県の与論島を見ることができます。そして、右側の木々の間には巨大なヤンバルクイナ展望台があります。」「辺戸岬」の上空からの写真をGoogleマップから。沖縄本島最北端に位置し、断崖絶壁に囲まれ自然のダイナミックさを感じられる絶景スポット。「太平洋」と「東シナ海」との境界線が示されていたが・・・。この境界線が正しいのであろうか?この地図ではこの日に訪ねた「慶佐次」は「東シナ海」に面していることになるのだが。ネットにはこの地図が。いずれにしても「辺戸岬」先端部は「東シナ海」に面していることになる。これが正しいのではないだろうか?「炬火 友情の火」碑。「第42回国民体育大会 海邦国体 炬火 友情の火 昭和62年10月21日採火 辺戸岬」と。友情の火は東コース 西コース 離島コースに分火され太陽の火(与那国町) 海の火(仲里村) 平和の火(糸満火)と集火して海邦の火となる と。前方に見えた「祖国復帰闘争碑」に向かって進む。「テリハクサトベラ」の群生に囲まれた石碑。「祖国復帰闘争碑」この石碑は、アメリカの統治下にあった沖縄が、祖国である日本に返還されたことを記念して建てられたモニュメント。辺戸岬は、祖国復帰を強く願っていた沖縄県民の想いが詰まった、平和を祈る場所でもあるのだ。「全国のそして全世界の友人へ贈る吹き渡る風の音に耳を傾けよ。権力に抗し復帰をなしとげた大衆の乾杯だ。 打ち寄せる波濤の響きを聞け。戦争を拒み平和と人間開放を闘う大衆の叫びだ。 鉄の暴風やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は、米軍占領に引き続き、一九五二年四月二十八日サンフランシスコ「平和」条約第三条により、屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた。 米国の支配は傲慢で県民の自由と人権を蹂躙した。 祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄県民の声はむなしく消えた。われわれの闘いは蟷螂の斧に擬せられた。 しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯あることを信じ、全国民に呼びかけて、全世界の人々に訴えた。 見よ、平和にたたずまう宜名真の里から、二十七度線を断つ小舟は船出し、舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ。 今踏まえている土こそ、辺土区民の真心によって成る沖天の大焚き火の大地なのだ。 一九七二年五月十五日、沖縄の祖国復帰は実現した。 しかし県民の平和の願いは叶えられず、日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。 しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのではなく、ましてや勝利を記念するためにあるのでもない。 闘いを振り返り、大衆が信じ合い、自らの力を確かめ合い、決意を新たにし合うためにこそあり、人類が永遠に生存し、生きとし生けるものが自然の摂理のもとに生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。」風の音は沖縄の祖国復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だと謳っている。一方でこの碑は喜びを表明するためにあるのでもなく、ましてや勝利を記念するためにあるのでもないと複雑な思いも吐露されているのであった。記念碑が建てられてから多くの年月が流れ過ぎていった今、辺野古問題等、書かれている事がより生き生きと沖縄の現状を表して警鐘を鳴らし続けている事を考える時、その何十年かの間に日本は沖縄に対してどのような姿勢をとり続けてきたのか、沖縄県民はどうだったのかを真摯に問われている、熱き熱き文章なのであった。建立年月日 一九七六年四月建立者 沖縄県祖国復帰協議会設計施工者 沖縄関ケ原石材碑文 桃原用行(復帰協 第三代会長) 文字 中曽根 悟(復帰協 第六代 事務局長)御嶽(うたき)であろう。断崖絶壁の下にはどこまでも青い海が。青と白の海のカオス。鹿児島県・与論島の島影も見えた。辺戸岬からは22kmと、鹿児島よりも沖縄から近い島。伊平屋島、伊是名島であっただろうか。ズームして。サンゴ岩に負けじと茂っている植物「テリハクサトベラ」の群生。高さ70~300㎝の常緑低木。珍しく海辺や強い日差しにも負けない植物だそうで、足元に這うように茂っているのは、海辺という厳しい環境下で生き抜くために根本にバリアを張るためなのだとか。葉は枝先に集中して付くので輪生のように見えるが互生。ヘラ形で大きく、表面に毛がなく、光沢がある。葉の先端部分に丸みはあまりなく、浅く鋸歯がある。葉腋に半月型の白い花を群生する。果実も白色に熟し、よく目立つ。テリハクサトベラの花の写真を2枚ネットから。テリハクサトベラが開花すると、ハチがブンブンと音を立ててうるさく飛び回りると。花の中心部には色がついていて、ネクターガイドになっているだと。ハチが体をねじ入れるのだと。奇妙な形で唇弁花と呼ばれまると。上に飛び出てアンテナ状になっているのが柱頭。柱頭の先は杯のようにくぼんでいて、最初はそこにおしべから花粉を貰い蓄えておきます。花弁は飛んでいる虫たちの飛行甲板になっていて、誘導路みたいな線もあります。ハチは奥の蜜を貰いに体をねじ込むと、背中に花粉がつきます。めしべは後から成熟し、ハチが次に訪れた際に背中から花粉を貰うのだと。「辺戸岬」から南方向の山々を見る。やんばるの森から突き出したブキミな岩塔。これが「安須杜御嶽」・「辺戸御嶽」のようだ。御嶽(うたき)とは沖縄の聖地のこと。この辺戸御嶽は沖縄開闢神アマミキヨ(アマミク)が久高島に降臨したのち、最初に創造した第一の聖地であると。左端ピークが岩塔(主峰)。かつて薩摩から荒海を越え、島々をたどって南海を目指した船乗りたちが、最初に目にする「琉球」がこの山だったろう。辺戸御嶽は、琉球王国の玄関を見下ろして睨みをきかすシーサーなのであった。山の名は左から「シノクセ」、「アフリ」、「チザラ」、「イヘヤ」と。卵形の石碑「琉球鐘鬼門」。文字の上に透明の丸い物質がはめ込まれていたが。誰かが無許可で設置したのでは とネットにはあったが・・・?その先の石碑を臨む。「夕月夜 みやらひの歯の 波寄する 欣一」沢木欣一は昭和43年、復帰前の沖縄に一か月余り滞在。5年後に「沖縄吟遊集」という句集を発表。「みやらひ」とは沖縄の言葉で「乙女」のことと。海の白波は乙女の歯にたとえられ、美人の形容になっている。健康な美的感覚。沖縄の月は明るい。月下の波の穂の鮮やかな白さを詠んでいる と。句碑の裏面。「沢木欣一は大正八年富山県生れ 昭和四十三年夏沖縄本島に滞在し句集「沖縄吟遊集」を編む「乙女(みやらひ)の句」はこの中にありこれを記念して碑を建つ」白い鳥の姿は「与論島・国頭村友好記念碑」。近づいて。アメリカが沖縄を占領していた時代、沖縄最北の村である国頭村(くにがみそん)と、北東数十キロの沖合に浮かぶ鹿児島県最南の島・与論島との間で、年に一回だけ交流集会が開かれていたと。本土から沖縄に行くのも、沖縄から本土に行くのも、パスポートが必要な時代だった。交流集会はちょうど沖縄最北のここ辺戸岬と与論島との間、北緯27度の海上で開かれたのだと。「ヨロン島・国頭村友好のきずなヨロン島のシンボルかりゆしの像愛と平和と旅の安全祈願」最北端ならではのダイナミックな景観。「やんばる国立公園 辺戸岬」案内板。これからの秋から冬にかけては北風が強くてうねりも高いので、鋭く尖ったサンゴ岩に当たって砕ける波のしぶきの迫力はすごいのであろう。隆起し絶壁となった岩。「やんばる国立公園 辺戸岬」案内板。環境省が設置したもの。ユニークな形状の石碑。「新沖縄観光名所 國頭東海岸線」碑。海岸にそそり立つ岩。「Rock Spire at Hedo Point」とGoogleマップには。辺戸岬の「不動明王」像。「不動明王」像の奥の岸壁に近づいて。再び「辺戸岬観光案内所」を見る。写真撮影スポット「沖縄島最北端の地 辺戸岬」。「国頭村文化財案内マップ[辺戸・宜名真]」「沖縄海岸国定公園」案内板。「沖縄海岸国定公園」は、沖縄島読谷村残波岬から名護市世冨慶までの海岸沿いと嵐山及び屋我地島を含めた羽地内海から辺戸岬までの海岸一帯と学術的に貴重な動植物のみられる与那覇岳、名護岳を含めた区域と周辺海域を合わせた19,352ヘクタール(陸域6,817ヘクタール、海域12,535ヘクタール)です。沖縄特有の隆起石灰岩の海蝕崖とサンゴ礁の変化に富んだ海岸線は、常に水平線を望みながらのロードパークとも言えるものです。山岳地帯の与那覇岳一帯は、典型的な亜熱帯常緑広葉樹林を形成しており、ノグチゲラなど貴重な動物の生息地でもあります。また、名護市字喜瀬及び恩納村字仲間地先海面については、稀少なサンゴや色彩豊かな魚類が豊富に生息しているため、この地域を『海域公園地区』として指定しています。また、一部の動植物については、採取・捕獲が規制されています」とネットから。「辺戸岬園地 沖縄島最北の園地」碑。再び先端の断崖絶壁を見る。雲も静かに流れいつまでも眺めていたい絶景なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.11
コメント(0)
次に訪ねたのが「瀬嵩埼(せだかさき)灯台」。国頭郡国頭村安田。瀬嵩埼灯台は沖縄本島の最東端に位置する場所にあった。ここからの眺めは青々とした海と太平洋が見渡せる絶景スポット。「瀬嵩崎燈台初点 昭和43年4月改築 昭和57年3月」こちらにも「瀬嵩崎燈台」。青い海に白の波筋が幾重にも。安田の浜にあるテトラボットが円を描くように見事に並べられていて、透明度の高い海の青いコントラストが美しい素晴らしい風景が見渡せたのであった。この風景を背景に、結婚式の前撮り写真を撮っているカップルの姿もあった。「安田漁港」を見る。「安田漁港」の先には「安田海岸」その先に岬が。ギンネム(銀合歓)であろうか、白い小さな球状の花が。和名はネムノキに似て、白い花を咲かす様子を雅語的に表現したところから。中南米が原産地だが、世界中に移植され現在世界のあらゆる熱帯、亜熱帯のアルカリ土壌地帯に繁茂している。日本国内には小笠原諸島と沖縄県に人為移入され、その後野外に逸出して帰化した。近年は南九州まで分布を拡大しているようである。更に県道70号線を進むと風力発電設備が2基姿を現した。「沖縄新エネ開発株式会社 楚洲風力発電所」。設備容量:3,600kW(1,800kW×2基)メーカー:エネルコン社(ドイツ)カーブの先に2基目が。「楚洲(そす)の浜」が右手に。その先に「赤崎」。「楚洲の浜」の先に国頭郡国頭村奥の岬が現れた。砂浜には何列かの黒き筋が。令和3年8月に発生した小笠原諸島・福徳岡ノ場の海底火山噴火に由来するとみられる軽石が沖縄周辺のこの海岸にも押し寄せたのであろう。白波の筋が青い海に映えていた。「ニライカナイの海 アダンビーチ」に車を停める。「ニライカナイ」とは海のはるか向こうや、または海底にあるとされている、理想郷のことを指す言葉とのこと。沖縄特有の信仰に深く関係する言葉で、生命の生まれる場所や死後に行く場所と考えている人が多いそうです。またニライカナイにいる亡くなった祖先は死後7代で、守護神に生まれ変わるとも考えられているのだと。海の向こうにあるニライカナイからは毎年、神様が沖縄に来訪し沖縄の人々の生活に、さまざまな恩恵を与えてくれるのだとか。「アダン」とは見た目がパイナップルに似ている「アダン」の木のことか?「沖縄県国頭村 田名展望台国頭村は沖縄県の中で、西表島と並び山を中心にした自然が最も豊なな村であります。ここ字楚州は国頭村の東海岸(太平洋側)北寄りにあって字の北側田名から南側我地に至る細長い集落です。この地域は田名という部落名でしたが、県道(70号線)が開通する以前は生活環境が困難、難儀であったと言われ、沖縄本島で最初の離部落となったようです。部落を離れた人々は山原の自然が忘れられず在那覇楚州郷友会、そして地元の人達の御協力によりこの土地が提供され、その創意によって展望台が作られました。晴れた日には遠方に与論島が見え、夜になると満天の星が見え星の降るビーチと変わります。ニライカナイの海、(水平線の彼方なら幸せが来る)右前方には夫婦岩があり、男と女の縁結び、子宝の祈願、家庭円満、健康長寿、交通安全等々の祈願者が訪れます。時間の止まったタイムリゾート、アダンビーチ」「時折ヤンバルクイナの鳴き声も聞こえます。展望台を訪れた皆様が山原の自然を満喫出来れは幸いです」。「夫婦岩」。「夫婦岩」方向を見る。男岩。女岩。これから行く北方向の海岸線を見る。米軍のヘリコプターであろうか。そして更に国道58号を利用して車を進めると「辺戸岬」が近づいて来た。辺戸の安須森の山裾の先には巨岩が肌を剥いていた。途中にあったのが「宇佐浜遺跡」。「宇佐浜(うざばま)遺跡」案内板。「宇佐浜遺跡 1972(昭和47年)5月15日 国指定史跡沖縄本島北部国頭半島の先端部は、高さ20メートル以上の断崖となって海にのぞんでいる。宇佐浜遺跡は、この断崖直上にあり、南から北へゆるやかにさがる傾斜地にある。この遺跡では、昭和45年琉球政府が発掘調査を行っている。その際、遺構として一辺約3メートルの方形の周囲に、幅約0.8メートルで帯状にこぶし大の砕石をめぐらしたものが検出された。内部は周囲より0.3メートル低くなっており、炉跡かともみられる焼土部分が一個所発見されている。調査者は住居跡ではないかと推定しており、先史時代の遺構としては沖縄諸島でははじめての発見である。出土品には、石器と土器があり、石器には磨製石斧のほか石皿が注意をひき、土器では外耳土器の出現と壺型土器の増加がやや著しい。遺構の年代はほぼ奄美諸島の宇宿上層式に平行し、本土の縄文時代末期あるいは弥生時代はじめにあたる時期のものと推定されている。したがって南島先史時代において縄文時代から弥生時代への転換期の様相をしめす代表的遺跡といえる。遺跡の現状は畑と山林で、約4600平方メートルである。」。「史跡 宇佐浜遺跡」碑。おもだったものは石碑が建っているだけで、あとは草に覆われていた。近づいて。そして「ヤンバルクイナ展望台」が見えた。ズームして。村の鳥をモチーフにした高さ11.5mの展望台であり、辺戸岬等の雄大な景勝地を望むことができるとのこと。首と胴体に展望窓がありようだ。南側の「世皮崎」方向の海岸線を見る。そして「辺戸岬」方向。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.10
コメント(0)
国頭郡東村慶佐次の山を超えて「国道311号」を国頭郡東村の「平良海岸」方面に向って進む。そして「道の駅 サンライズひがし」に立ち寄る。県道70号線、海辺の赤瓦の屋根が目印。国頭郡(くにがみぐん)東村(ひがしそん)平良550−23。「日本一 パイナップル」と。沖縄本島北部「山原」(やんばる)の東海岸に位置するここ東村。自然豊かな東村は県下一の「福地ダム」、日本一の生産量を誇るパイナップルで知られており、「花と水とパインの村」をキャッチフレーズに村づくりを進めている と。東村にはパイナップル生産に欠かせない3つの条件「酸性の土壌」、「水はけの良い土地」、「高い気温」が揃っているのだと。パイナップル作りに最適な土地として、約180もの農家の方たちが10種類以上のパイナップルを作っている。日本で唯一のパイナップル加工場があるのも、東村。これぞ日の出の光景に「サンライズひがし」と。店の外では「東村 露地パイン」が売られていた。そして内部では巨大なとうがん(冬瓜)やスイカも。駐車場横の案内板。「東村案内図」。東村は「やんばる」と呼ばれる沖縄本島北部、東海岸に位置する縦に細長い村。その総面積の約73%は森林で、その森林を源とした大小14の河川が流れている。人口はおよそ1,800名で沖縄本島で最も人口の少ない地域。「やんばるの森」には多種多様な動植物が生息し、東洋のガラパゴスとも称され、2016年9月に「やんばる国立公園」に指定され、さらに2021年7月には、第44回世界遺産委員会において、「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」が世界自然遺産として登録が決定された。村の花は「つつじ」、村の鳥は「ノグチゲラ」、村の木は「ヒルギ」、村のキャッチフレーズは「花と水とパインの村」。「花」は3月に満開なるつつじを始め、コスモス・ブーゲンビリア・ハイビスカス・野ぼたんなどが咲き誇るのだ と。「世界自然遺産 ようこそやんばる国立公園へ」「やんばる国立公園」は、沖縄県国頭郡国頭村、大宜味村および東村ならびにこれら3村の周辺海域を区域とする国立公園である2016年の当公園の国立公園の指定は、日本全国で33番目。新規の指定としては、2014年の慶良間諸島国立公園以来2年ぶりで、沖縄県内においては3番目の指定となった と。「沖縄・東村 観光案内マップ」。東村の山中を走る県道70号線をひたすら北上して行くと、左手にあったのが「北部訓練場 」。「北部訓練場 」は、沖縄県国頭郡の国頭村と東村にまたがるアメリカ海兵隊の基地。総面積は約35.33km2であり、沖縄県における最大の軍事演習場である。本区域の上空2000フィート(≒610m)までは米軍による使用が認められているとのこと。さらに県道70号線・国頭東線を北上する。そして沖縄県国頭郡国頭村(くにがみそん)に入る。「めんそーれ 杜と水とやすらぎの里 国頭村へ」。「めんそーれ」はもともと「いらっしゃい」「おいでなさい」という歓迎の意味。山中を走る県道70号線・国頭東線をクネクネと。左手に石碑があったので車を停める。「官の山拓き甦る大地」碑。国頭郡国頭村安波。「この開発地は、もともと国有林野で日米両政府間の地位協定によって軍用地として提供された地域でありましたが、安波区はもとより耕地面積が少ないことから戦前戦後と山依存による生活が余儀なくされたことから農地を拡大し農業生産を増し農家生活の向上を図るため農地開発事業を目的に昭和四九年村を始め県政府関係省庁に対し国有林野土地の活用払い下げを要請致したところ国始め熊本営林局の御配慮と日米合同委員会の御高配によって昭和五ニ年十月十五日一三一haが返還合意され、同日基本計画策定が承認、全体実施設計が着手、昭和五三年度から県営農地開発事業として採択、着工 昭和六〇年度には造成地七四haの甦る大地か見事完成されました。ところがこの圃場の土質は強酸性赤土色土壌で保水力に乏しくかんがい施設は急務とされておりましたが、農産物の自由化等に対し、生産性の向上、地作物への転換の円滑化等農業経営の合理化を図るため平成ニ年度に県営緊急畑地帯総合整備事業が採択され畑地かんがい営農用水施設土層改良農道が整備されたことにより七四haの耕地に散水可能となり「水無し農業」からの脱却が図られ今後の農業経営安定に大きく寄与するものと期待されている。今、この地は広大な平地に変貌しパイン キビ 花卉等の産地として大きく飛躍を遂げております。ここに関係機関に深く感謝の意を表し強く心に銘じ永く我が字の発展に資することを祈念してこの碑を建立する。」「水と緑の里」碑。「県営緊急畑地帯総合整備事業地区名/国頭村安波地区事業主体/沖縄県事業時期/平成2年~平成5年事業費/532,000,000円工事概要/農道 1,876m 土層改良 33ha 営農用水 85ha 畑地かんがい 73ha」。車窓からパイナップル畑を撮ったが・・・。更に進むと左手に「安波節」碑。「安波節👈リンク安波の真はんたや 肝すかれ所宇久の松下や ねなしところ」「県道70号線 国頭村安波(あは)」。川を渡る。「普久川(ふんがわ)」。「御拝橋(うがんばし)」。「御拝橋」を渡った直後の右手にあったのが、「安波のグスク」。県道70号線の道路脇の石段を降りた場所に石鳥居があった。石段の先には急な長い階段が続いていた。先を急いでいたのでこの先は諦めたので、以下2枚の写真はネットから。「安波のグスク」の「拝所」。「安波のグスク」であるが、周囲に石垣等は残っていないようであった。そして「拝所」の内部。石鳥居の先にあった石碑。「慰霊塔」のようであった。「御嶽」であろうか。この石碑も解読不能。県道70号線「アダ・ガーデン ホテル沖縄」沖縄最北端に位置する国頭村、やんばる国立公園内に建つ沖縄最北端のリゾートホテル。このホテルは2000年、沖縄とベトナムの友好の証として、建築資材から調度品までをベトナムから運び、すべてベトナム技術者の手によって建てられたのだと。国頭郡国頭村安田1285−95。その先に県道2号線との交差T字路があった。次に訪ねたのが「安田(あだ)のシヌグ」碑。国頭郡国頭村安田39。「国指定重要無形民族文化財 安田のシヌグ」。「安田のシヌグ👈リンク安田のシヌグは、おおよそ400年の歴史を持ち、私達の祖先が生み出した貴重な民族文化で、安田の村づくりの根幹をなすものである。往時の生活は厳しかった。開拓の途上にあった安田の村落共同体形成や村落自己防衛の理念は、シヌグに滲みるとともに各行事にも顔を覗かせている。つまり、安田の村づくりの根底にある独自性は野性的で、土臭さの理念が潜在する。シヌグ行事のヤマヌブイ、ウシンデークは、神仏、自然への祈りをとおして、合力加護を賜り、村落の安寧、五穀豊穣、また村人の無病息災を招来する古代社会の自然信仰に繋ぐお祓いの祭祀である。シヌグ行事は、旧暦7月の初亥の日から2日間にわたり執り行われる。ウフシヌグ(大)、シヌグングワー(小)は、隔年交互行事で行われる。従前、ウフシヌグは3日間行われていた。ウフシヌグは、村の男達がこぞってメーバ、ヤマナス、ササの3方の山に入る。ヤマヌブイによって、男達はつる草や小枝を身につけ、頭にガンシナー(花・小枝の冠)をかぶり、山の神からセジ(霊力)を受け草装神になる。「エーヘーホーイ」「スクナーレー」を唱和し、田畑や村人のお祓いをする。シヌグ行事の前の旧暦6月25日の夕刻には。ウシンデークの練習を知らせる太鼓(ナイムンハジミー)の合図で村の女性たちがアサギマーに寄り集まりウシンデークの練習を始める。祭りの前夜祭とも言える。1975年(昭和50年)12月、安田のウシンデークが沖縄国際海洋博覧会に出演、翌年、1976年(昭和51年)7月14日、安田古文化財の保存と後継者の育成を目的に安田古文化財保存会を発足させ正式な活動が始まった。1978年(昭和53年)5月22日には、国の重要無形民俗文化財として、文部大臣により指定された。それを契機にシヌグの民俗的文化価値は、県内外の公的機関、民俗学者、音楽家、報道機関、写真家等から高く評価され、研究が盛んに行われるようになった。現在、安田のシヌグは、内容が多面的、多彩であり、多くの人が参加する。この行事は、沖縄の「祓い」の神事の古い姿をとどめ、民族文化の原型的なものを見せている。この貴重な伝統的な民族文化を保存し継承することは、互いの社会的責任であり、安田の地域興しの道に通じると確信するものである。安田は山の里、海の里、シヌグの里でもある。仮に、シヌグ祭りが無ければ古里に寄せる心情も変わっていたに違いない。 平成23年7月31日 国指定重要無形文化財 安田古文化財保存会発足35周年記念」茅葺き屋根の「神アサギ」もあった。神人(かみんちゅ:琉球信仰の神職者)達が祭祀の時に使う壁のない、屋根と柱で構成された建造物。茅葺の「神アサギ」は本島には数えるほどしか残っていないとのこと。「安田小学校発祥之地」碑。創立135年という、国頭村の中でも最も長い歴史を持つ小学校の一つである安田小学校の発祥の地を示す記念碑。「安田小学校の前身は、1887年4月16日に創設された簡易学校。3年後の1890年4月1日に安田尋常小学校として独立しました。それ以来、楚洲尋常小学校が独立したり、国民学校になったり、小中学校になったり、様々な経緯をたどりましたが、現在では、安田小学校単独校として、創立130年以上を誇る、国頭村でも最も長い歴史を持つ小学校となっています。戦後の1952年5月5日には、現在地(安田279番地)に移転していますが、かつての安田小学校は、安田集落の安田協同店の斜め向かいにありました。この碑は、かつての安田小学校が建っていた場所を示すもので、碑の設置年月は不明ですが、安田小学校創立記念事業として建立されたものと思われます。」と。門柱には「安田尋常小学校」と。安田協同店のすぐ近くには、ガジュマルが枝を伸ばす公園が。公園内には、遊具の他に、小さな祠と「平和之塔」と刻まれた慰霊碑もあった。小さな祠。その右側には「平和の塔」。多くの合祀者名が刻まれていた。ガジュマルの巨木。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.09
コメント(3)
「国道331号」を更に北上する。次に「東村ふれあいヒルギ公園」を訪ねた。慶佐次(げさし、けさし)の沿岸に繁茂するヒルギ林(マングローブ)など、熱帯特有の植物が観察できる公園。なかでも、「ヤエヤマヒルギ」は国の天然記念物にも指定されており、ここが北限の地とされる。国頭郡東村字慶佐次54−1。「やんばる国立公園 慶佐次湾」「国立公園 東村ふれあいヒルギ公園 案内図」近づいて。東村にある「東村ふれあいヒルギ公園」は、熱帯特有の自然を身近に感じられる緑あふれる公園。やんばる国立公園にも指定されている慶佐次湾のそばに造られた公園で、園内には展望台や遊歩道を設置。ドライブの立寄りスポットとしてや、マングローブカヤックツアーを楽しむ人が多く訪れる人気の場所のようであった。「ヒルキ(天然記念物)やシオマネキ等生物の保護のため、マンクロープ林内へ立ち入りを禁止します。」と。展望台の前方からヒルギ林(マングローブ)を見る。ヤエヤマヒルギ(八重山蛭木、八重山漂木、学名:Rhizophora stylosa Griff.)は、ヒルギ科ヤエヤマヒルギ属の常緑高木。別名オオバヒルギ(大葉蛭木、大葉漂木)、シロバナヒルギ(白花蛭木、白花漂木)。幹の根元をズームして。幹の根本近くから周囲に向かって、多数の弓なりの形状の呼吸根を伸ばしているのだ。この呼吸根は、幹の下部から斜め下に向かって出て、枝分かれしながら泥に入り込むので、見かけはタコノキ類のものに似ている。むしろ幹を支えているようにも見えるので、支柱根と言うこともあるのだ。果実は卵形で、樹上にあるうちに先端から長さ30cm以上にも及ぶ細長い緑色の幼根が伸びることから、胎生種子と呼ばれる。成熟した胎生種子は、他のマングローブ植物と同様に母樹から落ちて海流に乗って移動する海流散布によって分布を広げるとのこと。こちらの写真はネットから。「東村のマングローブ」案内板。慶佐次湾のマングローブは沖縄本島では最も広く、本島で見られる4種類のマングローブ植物のうち3種類が見られ、ヤ工ヤマヒルギの北限地であることなどから「慶佐次湾のヒルギ林」として1959年に当時の琉球政府の天然記念物に指定され、1972年に沖縄の祖国復帰と同時に国の天然記念物に指定されました。また、慶佐次湾に多く見られるオヒルギ、メヒルギ、ヤ工ヤマヒルギなどの「ヒルギ」は、1993年に、村政施行70周年を記念して新たなシンボルとして「東村の木」に指定されました。2016年にはやんばる国立公園(慶佐次湾)として指定を受けています。」「上空から見た慶佐次湾のマングロープ(ヒルギ)林沖縄本島で見られる多くのマングロープ林の中で最も規模が大きく、面積は約10ha(100,000m2)もあります。」「マングローブとは海岸をよく見ると、満潮の日は海になり、干潮の時には陸地のようになるところがあります。このような場所のうち、川の河口付近の、真水と海水が混じり合う場所を汽水域と呼んでいます。マングローブとは、熱帯や亜熱帯地方のこのような汽水域に、海水の塩分濃度に耐えられる樹木がたくさん集まってできる林や森のことをいいます。マングローブに生える植物マングローブに生える植物は、陸上の植物とは違った形や性質を持っています。いちばん大きな違いは根です。陸上の植物は水を求めて広く深く地面の中で伸びていますが、マングロープに生える植物は、地面の上でタコの足のようになっていたり、くねくねとシャクトリムシが這うような格好になっていたり、波形になっていたりします。また、植物の体の中では害になる塩分を体の外に出したり、吸い込まないようにする性質を持っていると考えられています。」「マングローブに棲む生き物たち慶佐次川でみられる貴重な生き物マングローブには、鳥、昆虫、貝、カニ、工ビ、魚などの多くの生き物たちが棲んでいます。」「失われつつある慶佐次川の自然」「慶佐次川の豊かな自然を取り戻そう!」多くの小魚も泳いでいたが。【慶佐次湾のヒルギ類の区別点】「その名前から、オヒルギは雄の木で、メヒルギは雌の木で、雄と雌の両方の木があるので実がなり、種子をつけるのだと考えがちですがそうではありません。オヒルギには赤い色をした萼の花が咲き、メヒルギには白っぽい色の花が咲きます。オヒルギとメヒルギでは花や種子の形や色も違い、全く別の種類の木なのです。」「展望台」。展望台からマングローブを見る。公園の入口にはシオマネキ(カニ)のシンボルが。意外と大きいので迫力があるのであった。国道331号の「慶佐次大橋」。公園事務所のガラス戸に貼ってあった「外来ヘビ類の目撃情報を集めています。これらの外来へビは、やんばる三村(大宜味村・東村・国頭村)ではまだ分布していないことになっていますそのため、早期発見・初期防除がとても大切です。【特定外来生物】タイワンハブ 80 ~ 130 cm中国南部、台湾原産。ハブ酒に用いるため輸入されたものが逃げるなどして、名護市などで急速に分布を広けている。ハブよリー回り小さいが、気性が荒く攻撃的。うかつに近づくと矢のよう飛びかかってくる。【特定外来生物】タイワンスジオ 180 ~ 270cm台湾原産。うるま市や沖縄市などで分布を広げている。しっぽの両側の黒いスジが特徴的でこの名がついている。毒はないが、2mを超える大きなヘビとなリ、ネズミや小鳥を好んで食べるため、もともとすんでいた生きものに深刻な影響をおよぼすと考えられている。以下 略」と。「沖縄・東村 観光あんないマップ」「ウッパマ 慶佐次湾のヒルギ林」案内板。「ウッパマ」は沖縄の方言で、漢字で「大浜」と書くと。その名前の通り、長い砂浜が続く、静かな場所と。「ウッパマ」はそんな東村の慶佐次エリアにある。マングローブ林で有名な川のある場所から車で数分のところに「ウッパマ公園」があり、その先が海になっているのであった。「東村ふれあいヒルギ公園」入り口左にあった「天然記念物 慶佐次湾のヒルギ」案内石柱。次に「東村ふれあいヒルギ公園」の前、「国道331号」を渡った場所にあった建物を訪ねた。入り口には「シーサー」が鎮座。シーサーは、ここ沖縄県などでみられる伝説の獣像。魔除けの意味を持ち、入口や屋根の上に設置されることが多いとされている。名前は「獅子(しし)」(元はサンスクリット語のライオン、シンハー)を沖縄語で発音したものである。八重山方言ではシィーシィー、シーシ-という。一体で置かれることも、仏教の影響か阿吽像一対で置かれることもあるが、単体よりも一対で置かれることの方が多いとも言われる。阿吽の違いにより雌雄の別があり、各々役割があるという。一般的に口の開いたシーサーが雄で向かって右側に置き、福を招き入れ、口を閉じたシーサーが雌で向かって左側に置き、あらゆる災難を家に入れないとされているが、口の開け閉めによる雄雌の区別には議論があるという。敷地内の植栽には濃いオレンジ色の花が。沖縄三大名花の一つ「サンダンカ(山丹花)」であろう。鮮やかな赤色やオレンジ色の花を咲かせるサンダンカ。ビビッドな花色とその特徴的な姿は、この時期・沖縄の夏?の景色にぴったり!!慶佐次地区公民館の立つ中庭にあったのが「島袋正雄(しまぶくろ まさお)師之像」。島袋 正雄👈リンク(しまぶくろ まさお、1922年9月25日 - 2018年4月24日)は、沖縄県国頭郡東村慶佐次出身。 国の重要無形文化財「琉球古典音楽」の保持者(人間国宝)に認定された。台座には「歌の道学で 人の真理さとれ 我肝修めよる 要ともて」と。自己の心を修める要と思い、歌の道を学んで、人の道の真理を悟りなさい、という意味であろうか?「島袋正雄翁座像建立趣旨島袋正雄翁は大正十一年、東村慶佐次に生誕し、少年期より村芝居の地謡を務めていた父の歌三線を聞きながら成長されました。翁は天性の音楽才能に恵まれ、昭和ニ十六年に野村流古典音楽の宮平三栄師に師事、昭和三十五年から幸地亀千代師に師事し歌三線を学び、ニ人の師の下で技能を研鑽し弛まぬ努力の結果、実演家として傑出した歌三線の技量を発揮。翁の格調高い歌唱は、聴く人を魅了してやまず、名人と讃えられるようになりました。また、翁は野村流音楽協会の会長の要職を十年にわたり歴任するとともに、更に組踊・地謡の技能向上のために琉球古典音楽の普及及び後継者育成にも情熱を注ぎました。慶佐次区では、翁を我がふるさとの誇りとし、功績を永久に讃えるとともに三線音楽の普及並びに次世代への懸け橋としてその功績が引き継がれていくことを祈念し、生誕の地に座像を建立するものであります。 平成ニ十四年五月十九日」「島袋正雄師略歴」。略歴は省略。右は「大正十年三月三十一日創立 慶佐次育英会 創立記念碑」左は「慶佐次健児のうた」碑。「慶佐次健児のうた 宮城盛吉作詞一、流れは清き慶佐次川 永久に流れるこの水に 産水くみて生れたる 我らは慶佐次健児なり われらは慶佐次健児なりニ、みどりしたたる四方の山 さえづる鳥もたのしげに ひる木にすだく鳩の声 われらが幸をうたうなり 我等が幸を祝うなり三、真砂きらめく大浜に よせては返す白波の 和信と勇気にあふれなる 我等が心の姿なり われらが心のすがたなり四、育ちし里は小さいけれど 我等が未来は洋々と やがてはとばん五代州 いでやはげまん諸共に いでや進まんもろともに」「慶佐次地区公民館」。慶座次共同売店の建物の煙突?にも「慶座次湾のヒルギ林」と。慶座次の汚水マンホール蓋。慶佐次湾のマングロープ(ヒルギ)林を進む二人乗りのカヤックとヒルギ林そして東村の村章がデザインされていた。この木は?ホウオウボク(鳳凰木)であっただろうか。パイナップルに似た果実を付けていたタコノキ科の常緑樹「アダン(阿檀)」。公園の係の方に名前を尋ねたが、度忘れしてしまったと。タコノキ科タコノキ属(パンダヌス属)の常緑樹。奄美大島~沖縄から台湾、東南アジア、太平洋諸島まで亜熱帯~熱帯地域に広く分布する。タノノキ属は「蛸の木属」。海岸のそばで群落をつくることが多く、横に伸びた枝からタコの足のように支柱根を垂らす。樹高は3~6mほど。幹にはリング状に落葉痕が並ぶ。「アダン」は、沖縄に出かけると目にすることが多い南国の雰囲気あふれる植物。「アダン」の実には毒があるともいわれていると。「アダン」がどのような実で、沖縄ではアダンがどのような食べ方をされているのかをネットで調べてみました。「アダンは実だけでなく、葉も食べることができます。人間が食用として主に用いられているのはアダンの新芽や葉です。主に石垣島や宮古島などで観光客向けにアダンの茎や葉を使った料理がされています。また、お供え物としてもアダンが利用されることがあったそうです。ヤドカリなどの好物というイメージや、アダンには毒があると聞いている方も多いことからも、一般的には食べられていないことが多いです。アダンが食べられていない理由がいくつかあります。アダンの実は硬く、繊維がたくさんつまっています。サトウキビのようなイメージで食べられる範囲も少ないため、食用としてはあまり適していません。アダンの実は中心の白い芯の部分が食べられる部位です。食べるとほのかに甘い味がします。パイナップルのような見た目と一変、アダンの実はそれほど甘くないのであまり食べられていないようです。アダンをおいしくいただくにはあく抜きをするなどと少し手間がかかりますが、沖縄や南国地域に出かけた際はアダンを使った料理がどんな味かも、お店でぜひお試しください。」と。断面はこのようになっていると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.08
コメント(0)
「国道331号」を海岸線に沿って進むと、右手にあったのが「聖火宿泊碑」。1964年の東京オリンピックの聖火が嘉陽に宿泊したことを記念して建築された碑。沖縄県名護市嘉陽63番地。一番右の石碑には「一九六四年九月七日 オリンピック東京大会の聖火の当地宿泊を記念する」と。中央に「聖火宿泊碑」。左手に「聖火台」。「History of the olympic torch」案内板。案内板では聖火台の歴史や聖火宿泊碑、久志村内の聖火リレー、聖火台前での式典の模様などを写真で紹介していた。「History of the olympic torch聖火火台の歴史1964 (昭和39 )年10月10日第18回オリンビック東京大会が開催された。第18回オリンビック東京大会の聖火は、8月21日に近代オリンピック発祥の地ギリシャのアテネで採火され、世界11か国を経て、9月7日正午(台風で1日遅れた)に「City of Tokyo」号にて沖縄に到着。翌8日から、沖縄本島一周の聖火リレーが開始され、第1日目の宿泊地として、久志村(現名護市)嘉陽区に一泊した。聖火台は、台座の高さ約90cm、約130 cmのヒューム管でできた、円柱の上に直径約lmのシンメーナーべ(大型鍋)の点火台でできている。実は、こにある聖火台の歴史は古く、1958年4月、日本で初めて開催された第3回アジア競技大会の聖火リレーの聖火台として使用され、民政府(現県庁)前にて聖火が灯されたものである。製作者の、森山一成氏の好意により、東京オリンピックの聖火台として、久志村(当時)に寄贈され、嘉陽区民をはじめとする、地域住民の協力により、現在の地に移設された。聖火台として当時の姿を今に伝えるオリンピックレガシーは、第3回アジア競技大会・第18回オリンピック東京大会の聖火を灯し、2020年東京オリンビック・バラリンビック聖火リレーで、3度目の聖火を迎える。聖火宿泊碑(久志村行政による)1964 (昭和39 )年9月、オリンピック東京大会の聖火が嘉陽に宿泊したことを記念して建設された。宿泊碑の月日が1964年9月7日となっているが、台風で型火の到着が、1日遅れたためである。実際の宿泊の日は9月8日である。聖火の到着前に、宿泊碑の建設を行い、宿泊した当日に除幕式を行った。当時の村民の、聖火宿泊にかける熱意と思いが伝わる。以後、この日を基点として「聖火宿泊記念駅伝・20kmロードレース大会」が毎年開催されている。聖火のあとさきの碑(嘉陽区民による)1965 (昭和40 )年3月28日除幕式挙行。嘉陽小中学校PTAの記念事業として、PTA会員及び全校区民、区出身者の協力を得て建立された。当時の、嘉陽区民の聖火を迎える感動と興奮、聖火が去った後の虚説感や充実感などが表現されている。」~久志地域ロゴに込められた想い~・朝日の昇る名護東海岸・聖火台に灯る炎は、当時の感動と興奮、13区が守り続けてきた地域の誇り・聖火台を支える13本のラインは、久志13区をイメージ・1964年から2020年。そして未来へとツナグ地域の請り、受け継いでいく想い、 未来への希望「聖火のあとさき」碑。「聖火のあとさき世界を相手に嘉陽がお祭り行事をしたのだから大ごとだ心の片隅に生えた小さな企が みるみる聖火が近づくにつれてふくれ上がりただならぬ様相を呈し とうとう村人では手におえないものとなったか やっとのこと手綱は放さなかった昨日も今日も 純粋な聖火到来の希望に励まされながらも待ちくたびれた挙句すかさず西の果からギリシャから御神火は赤橙の光に白い煙を引いてすいすいトクトクと日の丸の渦波を突走って海近く森近くオリンピア に似ているという潮騒の嘉陽 の岸辺にランランと燃えた安堵か神秘か感激か シュンとした興奮がそこの群集を掩うていたそして聖火の台風一過嘉陽も人も名残りさびしくさびれたしかし満足と喜びの後味は良く五輪の池は静かに平和の影を映し碑文は永く後世に語り告げん」そして「嘉陽海岸」まで足を延ばす。東海岸に面した嘉陽集落沿いに続く細長いビーチ。国道脇だが、モクマオウの防風林のおかげで比較的静か。遊泳禁止のようであったが。海面からニョッキと付き出た岩が印象的。右手には「ギミ崎」そしてその先に「安部オール島」。「聖火台」の左手にあった門には「嘉陽小学校」と。名護市立「嘉陽小学校」(沖縄県名護市嘉陽41)が閉校したのは、2009年3月末のこと。創立以来99年間の歴史を誇った当校。卒業生の数は621名。目の前が美しい海という恵まれた環境に抱かれて、生徒はのびのびと成長することができたようです。当校の歴史上特筆すべき点、それは東京オリンピックの聖火が宿泊した施設であるということ。実際に現地にはその史実を記す記念碑も佇んでいたのであった。現在は自然環境を学べる施設(美ら島自然学校)として引き続き地域にとって大切な場所となっているのだ と。「本日は休校日です」と。毎週月曜日、年末年始は休校日 と。さらに「国道331号」を北上して進むと「嘉陽層の褶曲(国指定天然記念物)」の案内があったので右折して「天仁屋ビーチ」に、向かって進むと右側に案内板が立っていた。「天仁屋原遺跡(てにやばるいせき)」と。天仁屋公民館の南東側、神アサギやニガミヤーなどの拝所のある広場は天仁屋の初期集落と考えられており、グスク時代の土器片や中国製の青磁、青花、近世~近代の沖縄製陶器などが採集されています。グスク時代から近代までの遺物が採集されていることから、天仁屋集落の歴史を知る上で重要な遺跡となっています と。「天仁屋原遺跡」案内板。「天仁屋の初期集落跡と考えられており、グスク時代の土器片や中国産の青磁、染付や近世・近代の沖縄産陶器が採集されています。グスク時代から近代までの遺物が採集されていることから、天仁屋集落の歴史を知る上で重要な遺跡となっています。時代:グスク時代~近代(約900年前~約70年前)」。「天仁屋原遺跡」案内板の近くに、石が転がっていたがこれも遺跡から発掘されたものなのであっただろうか。「嘉陽層の褶曲(国指定天然記念物)」案内板がここにも。石鳥居。「天仁屋御嶽」があり「天仁屋の宮」とも呼ばれており、集落の住民により拝まれている と。「天仁屋の宮」のイビ。「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」は「琉球国由来記(1713年)」に「アフラヤマ嶽/神名:コパヅカサノ御イベ」と記されており、ニガミ(根神)の崇み所であったと伝わります。ニガミ(根神)とは集落発祥のニーヤ(根家)から出たノロ(祝女)を意味します。「天仁屋集落」にはかつてニガミ(根神)、ウドゥイガミ(踊神)、サンナンモー(神人の小使い)、ニーブガミ(男神)と呼ばれる神役が存在していました。「天仁屋御嶽/天仁屋の宮」の鳥居を抜けた先には「天仁屋御嶽」のイビが鎮座しており、御嶽で最も重要な聖域であると崇められています。この御嶽は「天仁屋集落」の南西側にある「嘉陽ウイグシク(上城)」へのウトゥーシ(遥拝所)であるとされています とネットから。「天仁屋」バス停の奥には「神アサギ」があった。「神アサギ」は、集落の守護神を歓待する祭祀の場で、集落を守護する御嶽の近くにあります。御嶽はノロなどの神女以外入ることが許されていないため、人々が集い祭祀に加われるのはこの場所になります。神女たちが御嶽へ遥拝したり、神歌を謡ったり、神酒のふるまいを受けたりする場所として使われます。 ここの「神アサギ」の特徴は寄棟の茅葺小屋で、軒が低く中へ入るためには腰をかがめなければ入ることができません。柱は石柱を地中に挿しただけの穴屋【アナヤー】形式で、屋根は扠首(さす)構造でできています。 現在でも「神アサギ」で祭祀が行われていますが、戦後に建てられた建物の多くは、瓦屋根やコンクリート造づくりとなっています。扠首構造とは、逆V字型に寄りかかった2本の材を、水平方向に架けられた材で支えた構造で、沖縄ではこの2本の材を【リン】と呼よびます。小屋組みでは、頂部の棟木(屋根の頂部に用いる水平材)部分でこの【リン】を交差させて結ぶことで、小屋内に束が立たず内部を広くとることができます と。そして坂道を下って行くと、海岸の岩場の手前に案内板が姿を現した。「国指定天然記念物 名護市 嘉陽層の褶曲」。「現在の日本列島の骨格は、3億年ほど前からの地層の付加作用により形成されてきました。沖縄地域も例外ではなく中生代三畳紀以降、おおむね西側から東側に向かって次々と付加作用により発達したことがわかっています。付加作用とは、海洋プレートが海溝で沈み込むとき、その上にある堆積物が大陸プレートの縁に剥ぎ取られてそのまま大陸プレートの一部になることです。天仁屋からバン崎にかけての海岸には、新生代古第三紀始新世(約5400万年前~約3700万年前)の最も新しい時代に付加された嘉陽層と呼ばれる地層が分布しています。嘉陽層は、当時の海溝付近の深海に堆積したタービダイトと呼ばれる砂岩と泥岩の互層を主体とする地層です。海底地すべりの堆積物よりなる嘉陽層は、さまざまな堆積構造や逆断層が見られ、特に地層の褶曲現象が発達しています。褶曲構造の波長は、砂岩層が厚いほど大きくなる傾向があります。20cm以下の厚さで砂岩層と泥岩層が繰り返すバン崎周辺では、細かな褶曲が見事に発達しています。また、比較的厚さの薄い砂岩層には、深海に棲息する動物によって形成されたと考えられる生痕化石(生物が活動した痕跡)がしばしば観察されます。ここで見られる生痕化石は水深2000mを越える深海底の環境を示すものとされています。このように、嘉陽層には付加作用によって形成された日本列島の成り立ちを示すさまざまな現象が保存されており、極めて重要であることから、平成24年( 2012年) 9月19日に国の天然記念物(地質)に指定されました。」「嘉陽層の褶曲」案内地図。【付加作用の仕組み】👈リンク。「国指定天然記念物「名護市嘉陽層の褶曲」を見学されるみなさまへ褶曲のある海岸線はとても崩れやすく、土砂崩れが何度も起きています。見学の際は、崖に近づかす、離れて観察しましよう。」「嘉陽層の褶曲」案内地図では、海に向かって右側の「嘉陽層の褶曲」の位置が示されていたが勘違いして左側に行ってしまったことに今、気がついたのであったが。海蝕洞を見る。近づいて。海蝕洞の上には「嘉陽層の褶曲」が確認できた。嘉陽層と呼ばれる地層。ここには激しい褶曲が、逆断層か。北側の絶景を見る。ズームして。正面の岩島。天仁屋崎からバン崎を望む。別の場所に移動して。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.07
コメント(0)
国道331号を進むと、右手の対岸に沖縄県名護市辺野古で進む「米軍新基地建設」現場が見えた。米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設計画地である。ズームすると盛り土を積み込んだ運搬船の姿が確認できた。米軍普天間飛行場の「名護市辺野古移設計画地」案内図。埋立開始前2017年前後の航空写真。そして2022年9月の埋立状況。すでに海面から4mの高さまで土砂投入➡最高10mまでかさ上げ予定 と。滑走路が予定されている東側の埋立地は軟弱地盤が発見され工事が全く進展していない。国は地盤改良の設計変更を申請しているが沖縄県はこれを承認せず法廷闘争に進展する可能性が強くなっているのである。左側の岬を見る。左手には多くの幟が立っていた。「エナジック スポーツ高等学校 学生寮建設予定地」と。本学院は、通信制の星槎国際高等学校(札幌市)と連携して高校卒の資格も取得できる体制を整え、野球とゴルフに特化した、特色ある学校のようであった。高等学院は最高水準の設備を用意。ゴルフ部門は18ホールを備えたエナジック瀬嵩カントリークラブとその練習場を使用。クラブハウスも完備。野球部門はエナジック社会人野球チームが本拠としているエナジックスタジアム石川(うるま市)を活用。本学院は、恵まれた環境と卓越した講師陣を備えた、日本初のエリートアスリート育成機関といえるのだと。ゴルフ大会で優勝した生徒の名前が書かれた幟が並ぶ。そして次に訪ねたのが「汀間公民館」の前にあった「御嶽小(うたきぐぁー)」と呼ばれている祠。近くにおられた地元の方に尋ねると「汀間」は「ていま」と読み、地元の方は「てぃーま」と言っているとのこと。名護市字汀間22。「拝所の概要所在地 名護市字汀間二二番地この聖地は通称御願小(うがみぐぁー)とよばれ、戦前は大小種々の樹木や植物が繁茂し、うっそうたるなかに昭和十三年御嶽小とよぶ祠が建立された。広い聖地は左綱(ひじゃいつな)が張りめぐらされ、人々は畏れをなして立ち入ることはなかった。一九五七年この聖地に拝殿(とうぬ)か建立されウンバハリーからロー火神(ひぬかん)、村内(むらうち)から根神火神(にかみひぬかん)、世ヌ神(ゆーぬかん)が合祀された。拝殿の建立と併せて御嶽小(うたきぐぁー)は原型のまま東側へ移設し、神アサギはウンバハリーより移転された。以来神事の折々には、祭司が祈願を司る聖地として信仰されている歴史ある拝所である。旧拝所は、老旧化か激しく改築は区民及び関係者の強い願望であったことから新築された。なお、建物の規模を大きくしたため総体的に東寄りになったが向きや配置は旧拝所とおなじである。」「御願小(うたきぐぁー)」。中央に「根神火神 (ニーガンヒヌカン)」、右に「ヌロー火神」、左に「世神」。根神とは沖縄本島で、村落の旧家(根屋)から出た神女。根屋の当主を根人 (にっちゅ) というのに対し、その姉妹をいうのだと。ヌローとはノロ・祝女と。沖縄本島には御嶽などにおいて部落や村落の公的祭祀や共同体の祈願行事の司祭をおこなう祝女(ノロ)と呼ばれる女神官が存在する。最高の神官、聞得大君(きこえおおぎみ)の統率のもとに、村落の神人を指揮して神事をつかさどるのだと。そして世神(ゆーがみ)、 世神は、古くは自然の岩穴を信仰の対象としたようだ。そこへ、明治の末頃に木造瓦葺の祠が造られたと云う。岩穴は死者を弔う神聖な場所である。また、ご先祖様は黄泉の国、ニライカナイに神として住むと信じられ、洞窟はニライカナイに通じる入り口でもあるのだと。「神アサギ」。御嶽(ウタキ)の近くには、守護神を招いて祭祀を行う「神アサギ」と称する広場があるが、沖縄本島北部ではそこに軒高の低く、壁や床もない穴屋形式の祭屋を設けている場合が多くなっている。軒が低い理由については、牛や馬、鳥などが聖なる神アサギに侵入しないようにとか、ムラの神役が行う神聖な祭祀儀礼を外部から見られないように配慮したものと考えられているのだと。神女達が御嶽へ遙拝したり、神歌を謡ったり、神酒のふるまいを受けたりする場所。別の角度から。これも小さな「御願小」であろうか。それとも我が関東等の神社でいう境内社?「御願小」を別角度から。屋根の瓦には若木が。「汀間当」碑。「汀間当👈リンク一、汀間と安部境の川下の浜うりて 汀間の丸目カナと請人神谷と恋の話し (はやし)サーアーフンヌカヤーヒヤー マクトカーヤー二、神谷が言葉やぬんで言たが 明てぬ四、五、六月 呼ばしがちゃんどちとみて待ちよれ (はやし)サーアーテカチャンヤーヒャー 丸目カナー三、月のある間る 思いすんどさたすんど 月のいり下りば 思いんさんど (はやし) サーアーユティクーカンクー ワウデマクラ」意味は一、汀間と安部境の井戸の下の浜に降りて汀間の丸目加那と請人神谷との恋の話し 本当かな おい 真実かな二、神谷の言葉は何だと言ったか 年明けて四、五、六月あたりになったら使いが来るので 辛抱して待っていろよ よくやったぞ 丸い目の加那(愛する人)よ三、月の出ている間は思いもするぞ うわさもするぞ 月が西に沈むと思いはしないぞ 噂もしないぞ 近くにこい ちょっとこい 私の腕枕そして、「ガジュマル」の老木。デンドロビュームが宿り木の如くに。公衆トイレ。壁には様々な貝が埋め込まれていた。こちらは貝の内側が表面に。これぞ沖縄の民家!!この樹は?「ハスノハギリ」と。「ハスノハギリ(蓮の葉桐)」の葉。葉は互生し、卵円形で、長さ10~30cm、幅8~20cm。先は尖り、基部は浅心形で全縁、両面無毛。質はやわらかい革質で光沢がある。葉柄は葉身の下部に楯状につき、長さ5~15cm。路地の角にも石碑が。「石敢當」と。「石敢當」(いしがんとう、いしがんどう、せきかんとう、せっかんとう)は、丁字路の突き当り等に設けられる「石敢當」などの文字が刻まれた魔よけの石碑や石標。石敢当、泰山石敢當、石散當等と書かれたものもある。中国で発祥したもので、日本では主に沖縄県や鹿児島県に多く分布する。ここ沖縄県ではその存在意義や効果が未だに根強く信じられており、当地では丁字路や三叉路が多いことから、現在でも沖縄県の各地で新しく作られた大小様々の石敢當を見ることができる。これらの地域では、市中を徘徊する魔物「マジムン」は直進する性質を持つため、丁字路や三叉路などの突き当たりにぶつかると向かいの家に入ってきてしまうと信じられている。そのため、丁字路や三叉路などの突き当たりに石敢當を設け、魔物の侵入を防ぐ魔よけとする。魔物は石敢當に当たると砕け散るとされるのだ と。「汀間川」に架かる「嘉手刈橋」。ズームアップすると、ここからも「米軍新基地建設現場」が見えた。「汀間川」の対岸にあったのが「汀間御嶽」の石鳥居。次に訪ねたのが「カヌチャリゾート(Kanucha Resort)」.県内最大級のリゾートホテル。しかし、守衛所があり予約者以外は進入禁止と。次に訪ねたのが「神着宮(カヌチャグウ)」。「カヌチャリゾートホテル」の敷地内にある神社であると。名護市安部。自然石を用いた巨大な石灯籠。その横の池には白い鳥が。ニワトリの一種であろうか?鳥居に向かって進む。「神着宮」を正面から。左右にあった水晶の球が昔は置かれていたとネットから。。水晶の球の中には龍の姿が。「尽事無難に皆の者が心深く感謝の意を表して一つに業にいそしみ励み、天地万物の大神の恩惠みでカヌチャベイリゾートに大い御繁栄あらしたまえとかしこみかしこみ み申す」内陣には布袋さんと恵比寿さんの姿が。「神着宮」は商売繁盛の神様なのであろうか。次に訪ねたのが「安部御神殿」。名護市安部11−2。扁額「安部御神殿」。「安部神殿建設記念碑」。電柱の奥には巨木が。「天然記念物 安部拝所のガジマル」。「安部拝所のガジマル」案内板。「安部拝所のガジマル樹齢約220年 樹高約21.6m、胸高周囲約6.85 mガジマル()はクワ科の常緑性高木で、屋久島以南、沖縄、台弯、熱帯アジア、オーストラリアに分布している。漢名を榕樹(ようじゅ)と言い、防潮防風林や緑陰樹として広く植栽されている。「安部拝所のガジマル」は安部のニガミャーの隣にある拝所のフクギの群落に混じって生育している。周りにはフクギの他、モクタチバナ、.ヤブニッケイ、アカテツ、ハマビワ、コクテンギ、ゲッキツ、クロッグなどが生育し、御嶽林を形成している。幹は真直ぐに伸び、2m高で東に大径の幹のような枝をやや斜めにのばし、4m ~ 5m高で多数分岐して、ほぼ円形状に四方に技を広げる。5m高で多くの気根が巻きつき、普通のガジマルより垂下根が少ない。巻きついた気根は若々しく、周りに生育するフクギを締めつけている。根元には、根の露出がみられ、踏圧はほとんどないが傷が多い。大きな根には板根が発達し、傾斜地に立つ特徴を示している。傾斜は南東に15°。毎年旧盆にはガジマルの木の下で御行事が行われており、古くから区民に親しまれている木である。」廻り込んで下部の垂下根を見る。更に近づいて。そして近くにはバナナの樹も。たわわに小型のバナナが実をつけていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.06
コメント(1)
2日目・9月26日の朝は6:30にホテルを出発し、駐車場に向かう。ホテルの前から、早朝の空に虹が出ていることに気がつく。ホテル前の交差点の角にあった案内柱。●「波の上ビーチ」沖縄には美しいビーチが多数るが、沖縄随一の都市<那覇>は、沿岸部に空港や港があるため遊泳可能なビーチが1か所しかない と。●「波の上うみそら公園」「波の上ビーチ」のある公園。場所は沖縄で最も格式高い神社である波上宮の近く。ただ泳ぐだけではなく、スキューバダイビングやバーベキューも楽しめる と。●「三重城ふるさと海岸」。海とヤシの木に囲まれた遊歩道を、ゆっくり散歩できる場所。那覇空港の近くに位置していることもあり、離着陸する飛行機の姿を眺めることができる。そして夕方になると、美しいサンセットを見ることができる と。ここ那覇港周辺案内図。那覇港は沖縄県の玄関口として国際コンテナ航路を含む50以上の貨物航路を持ち、40以上の島々の経済活動を支えている港。久米島(くめじま)、慶良間(けらま)諸島といった沖縄本島周辺離島への航路の拠点としてフェリー、高速船、遊覧船が就航している港は「泊ふ頭ターミナル「とまりん」」。現在地は那覇市西3丁目3付近。駐車場への道の正面にあったのが「ロワジールホテル 那覇」。那覇市西3丁目2−1。駐車場を出て、那覇自動車道の「那覇IC」に向かって進む。今回の観光場所は、事前に主要ドライブルートを決定し、それに沿った寺社、遺跡、名勝地等々をGoogleマップでチェックしリストアップしておいたのであった。沖縄本島のGoogleマップにはかなり細かな遺跡、御嶽、沖縄戦の霊場等が表示されているので全てを回りきれないのは出発前から明らかであったが、取り敢えず多くをリストアップし、時間、天候から訪問場所を取捨選択していくこととし、今回の旅行に臨んだのであった。観光初日のこの日は那覇自動車道の宜野座ICから国道329号、そして331号、県道70号線、国道58号を利用して太平洋と東シナ海の荒波が打ち寄せる沖縄本島最北端の岬・辺戸岬を目指したのであった。前方に沖縄都市モノレール・「ゆいレール」の「旭橋駅」が現れた。沖縄都市モノレール線は、沖縄県那覇市の那覇空港駅と浦添市のてだこ浦西駅を結ぶ沖縄都市モノレールのモノレール路線である。全線が軌道法による軌道として建設されている。愛称は「ゆいレール」で、「ゆい」は琉球方言の「ゆいまーる」(「雇い回り」を語源とする村落共同労働を意味する言葉)の「ゆい」から取られたものである。2022年3月現在「沖縄県内で現存している唯一の鉄道路線」である。「旭橋」交差点を通過。前方に「壺川駅」。「とよみ大橋」とその左手奥に「NHK・OTVデジタルテレビ・NHK-FM那覇 88.1MHz 豊見城高安送信所」。国道329号「新那覇大橋」から見えた巨大クジラ。445mの斜張橋「とよみ大橋」を渡る。「とよみ大橋」の欄干には様々なプレートが。那覇市長田の街並みを見る。県道222号線真地泉崎線の「真地大橋」が見えた。県道82号線那覇糸満線を進む。そして沖縄自動車道の那覇ICの案内板が現れた。「崎山交差点」下の地下道を進む。沖縄道・那覇料金所を通過。沖縄自動車道(おきなわじどうしゃどう、英語: OKINAWA EXPWY)は、沖縄県の名護市を起点とし那覇市に至る延長57.3キロメートル (km) の高速道路(高速自動車国道)である。高速自動車国道としては最南端かつ最西端の路線である。略称は沖縄道(おきなわどう)。高速道路ナンバリングによる路線番号は、那覇空港自動車道とともに「E58」が割り振られている。青空の見える中にまっすぐ立ち並ぶヤシの木の様子は、やはり南国リゾート。「喜舎場(きしゃば)スマートIC」手前から正面に見えたのが「コスタビスタ沖縄ホテル&スパ」。中頭郡北中城村喜舎場1478。長さ215mの「喜舎場トンネル」。太平洋側にある平安座島、宮城島、伊計島(いけいじま)が見えた。伊計島は与勝半島の北東約11kmにある。地元では「イチハナリ」と呼ぶことがあり、最高標高49m、琉球石灰岩におおわれた平坦な島。サトウキビ作の半農半漁で、北西沖には定置網漁場がある。昭和57年に南側にある宮城島とを結ぶ長さ198mの伊計大橋が完成し平安座島と海中道路を経て、与勝半島と陸続きになった。島の南側一帯に集落、北端にはリゾート施設があり、町の観光のメッカとなっている。昭和54年から土地改良事業が導入され、島の約47%にあたる84.2haが整備されている。那覇ICから約40分、50km強を走ると「宜野座(ぎのざ)」出口が前方に。「宜野座」料金所を通過し一般道へ。ここを左折し国道329号で名護方面へ。この後の一般道の走行ルートは下記のごとく。コンビニに立ち寄りトイレ&オニギリを購入。前方に標高335mの「久志岳」、右手に標高332mの「辺野古岳」を見る。この先を右折する。国道331号・二見バイパスを進む。二見バイパスを左折し、直前に通過した「二見大橋」を見る。「二見大橋」の下を潜り進むと正面に石碑があった。「二見情話の里」碑。名護市二見227。別の角度から。二見バイパスを見上げる。「ようこそ!二見情話の里へ」「二見情話誕生時代風景二見美童や だんじゅ肝清らさ 海山ぬ眺み 他所に勝てヨ」 作者である照屋朝敏氏は、昭和20年6月、米軍の命令により 仲間と共に二見に移動しました。二見の村民らを心よく迎え 入れたので、村の「ニ見の歌」創作要請を快諾し、昭和20年 11月にこの「ニ見情話」を完成させました。 この歌は、平和祈念とニ見の人々への命からなる感謝をこめた 御礼のメッセージでもあるそうです。 この「ニ見情話」の記念碑が、ニ見区コミュニテイセンターに 建設されています。」「二見情話👈リンク一、二見美童や だんじゅ肝美らさ 海山の眺み 他所に勝てョ二、二見村嫁や ないぶさやあしが 辺野古崎坂ぬ 上い下いョ三、待ちかにて居たる 言里上いやしか 出発ちゅる際や 別りぐりさョ四、行かい行ち来うよと 交わすいくとばや ぬがし肝内に 思い残ちョ五、戦場ぬ哀り 何時が忘りゆら 忘りがたなさや 花ぬニ見ョ 昭和二十年十一月 作詩曲 照屋朝敏 直筆」「敗残兵の一斉掃討をするから民間投降者は避難せよ」沖縄戦が終結した昭和二十年六月二十日、米軍の命令により、私は他の投降者と共に摩文仁から与那原に出、海路、大浦崎を経て二見に移動した。村民は心よく迎え入れ、皆、安堵した。相互扶助の生活が日々、顕著になった或日、村長事務所で年長者会議があり、席上、二見の歌の創作要請を受け二ヶ月後に完成したのが、「二見情話」これは、平和祈念と二見の人々への命からなる感謝をこめた御礼のメッセージでもある。 平成二年七月吉日 元二見村長 照屋朝敏」杉田川に架かる杉田橋(すぎんたばし)越しに来た道を振り返る。そして車に戻り引き返していくと左手に、「民謡「二見情話」が流れる道 メロディーロード」と。ここが「メロディーロード 起点」と。そして直後の「メロディーロード」の路面にはト音記号🎼が書かれていた。沖縄県内で唯一のこのメロディーロードは、2012(平成24)年11月23日(「いいふたみ」の日)に完成した。二見区の要望を受け、設置された。国道331号線の旧道を約340mの区間で約30秒間、三線と歌の重奏で「二見情話」が流れる。これは、メロディーロードの技術を開発し、特許を持つ北海道標津町の篠田興業さんにより作られた。現在国内外に23か所あるメロディーロードのうち、8番目に作られたのが、この「二見情話ミュージックライン」👈リンク。作られた当時、「三線と歌声の重奏」は全国初とのこと。道路に刻まれた規則的な溝の上をタイヤが通ると、発生する音が、メロディーとして聞こえる仕組みになっている。車の窓を閉めて、速度約40km(この道路の法定速度)で車を走らせることで、本来のテンポで二見情話のメロディーが流れるのだと。このメロディーロードにより、走行速度を抑制し、安全運転を促せる効果があるとのこと。再び「二見バイパス」の下を通過すると、直ぐ左手にあったのが「津波古松吉之墓」。沖縄のお墓は「墓石」「墓地」のイメージとは少し離れた、「小さな家」のような感覚がある。しっかりとした扉に屋根、故人がそこで住んでいるがごとし。沖縄で今のような形式のお墓が造られるようになったのは、16世紀以降とのこと。もっとも代表的な亀甲墓や破風墓と呼ばれるお墓を造ることは、王族や士族にしか許されておらず、一般庶民は森や洞窟の中に遺体を安置・埋葬する「風葬」が一般的であった。廃藩置県が行われた明治時代に、やっと一般の人々がお墓を造ることが許されたのだと。そのことから、沖縄は日本の中でも火葬の歴史が浅く、独特の風習が残ったと言えると。特に琉球王国時代、聖地となっていた久高島においては、1960年代まで風葬が行われていた。なぜ沖縄のお墓はほかの地域のお墓に比べて大きいのか?その理由の1つとして、風葬文化が起因していると。かつて沖縄で行われていた風葬は、石で覆われた部屋の中に遺体を安置し、骨になるのを待って遺族が骨壺に納骨するもの。広い空間が必要だったことから、大きなお墓になったのだ。2つ目の理由が、父系親族全員の遺骨を埋葬する伝統的な門中墓の風習。門中墓は、儒教の影響を受けているため「先祖を敬う」という意識が強く、必然的に多くの骨壺を納骨しなければならない。そのほかにも、故人を供養するための行事である「清明祭」という宴会がお墓の前で行われるため、親族や故人とゆかりのある人々が集まるスペースが必要なことも、お墓が大きく造られる理由と言えるのだと。「二見情話ミュージックライン」案内板がここにも。「ギミ崎」方面を見る。そして次に訪ねたのが「久志間切番所跡」。「名護市役所久志支所」内の中庭に石碑があった。名護市瀬嵩7−1。立派な松の巨木の下に石碑が。「久志間切番所跡」碑。間切(まぎり、沖縄方言: マジリ)は、沖縄及び奄美群島における、琉球王国時代および明治時代の沖縄県の行政区分のひとつ。琉球王国時代は第一級行政区画に相当した。琉球処分による沖縄県設置後以降も継続していた旧慣温存政策により、1896年(明治29年)の郡制施行(沖縄県区制)以降も間切制は、1908年沖縄県島嶼町村制施行により間切→村(そん)に移管されるまで続いた。間切の区割りは概ね現在の沖縄県内の市町村に相当する。ただし、沖縄戦やアメリカ統治時代を含む近現代に市町村合併等が繰り返されているため、現在の市町村の区割りとは大きく異なっている。久志間切創設は1673年で間切番所はここ久志村に置かれた。しかし14年後の1687年に久志村から瀬嵩村へと番所は移設。番所の移転は名護間切の負担の軽減だったと。国頭方の東宿・西宿とも名護間切経由だったのを、久志間切番所を瀬嵩村に移動することで、久志間切から名護間切を経由せず羽地間切をつなぐコースとなる。当然のことながら『琉球国旧記』(1731年)の久志間切の駅(番所)は瀬嵩邑(村)。「名護市役所久志支所」の塀にあった沖縄の守り神と言われる「面シーサー」。まさにここはカラフルな「面シーサー」の野外展示場のごとし。それにしても個性あふれる秀作揃いなのであった。その先にあったのが「久志村歌」碑。久志村歌 作詞 宮城敏男 作曲 安谷屋一雄一、潮髙鳴る東の海原 仰ぐ朝日に光さざめく万波 太平洋波の打ち寄すところ 潮風かおる里は十ニ われら友よわれら里よ二、力あるか大洋の水の 南の浜にもののふの夢 破るは文化の時の声 躍るは雄々しき無限の思い われら友よわれら里よ三、見よ白雲たびく久志山 独立自主の緑かざして立つ 髙き姿を心にて 仰ぎてうたえいざ久志男子 われら友よわれら里よ」「沿革我が久志地域、旧久志村は「久志間切」の時代から一九七〇年(昭和四五年)合併により名護市になるまでの間約三〇〇年の長い歴史があります。その歴史をたどれば一六七三年(康熙十二)金武間切から二ヵ村(久志、辺野古)名護間切」から十〇ヵ村(大浦 瀬嵩 汀間 安部 嘉陽 天仁屋有銘 ◯坊次 平良 川田)を割いて久志間切創設された。当初久志(現久志区)にあった間切番所は一六八七年(康熙二六)に瀬嵩(現久志支所)に移された。一八九七年(明治三〇)に「久志間切番所」が「久志間切役場」に改称され、一九〇八年(明治四一)には沖縄県島嶼町制の施行により「久志間切役場」が「久志村役場」となった。一九二三年(大正十二)に有銘以北が分かれ、東村が新設された。その後、三原、二見、大川、底仁屋、豊原が独立して行政区を設立した。「久志村歌」は宮城敏男により作詞、安谷屋一雄により作曲され、昭和の初年(昭和二年~昭和六年)の間」に制定された。作詞者 宮城敏男(一九〇一年~一九七二年) 嘉陽出身 大正十年三月県立第一中学校卒業、一中時代、優秀な成績を修め、入学から卒業まで特待生として授業料免除に浴したという。「久志村歌」の他に「久志小学校校歌」、「宮古中学校校歌」、「三中応援歌」を作詞、近年においては「聖火のあとさき」と題する詩を書き残している。作曲者 安谷屋一雄(一九〇六年~一九三三年) 嘉陽出身 昭和二年三月沖縄県師範学校卒業、師範学校時代は常に上位成績で教師学友から信頼されていたという。また郷土芸能や琉球音楽にも興味を持ち琉球古典音楽や琉球民謡に優れた才能を発揮していた。「久志村歌」の他に「高江新川節」(作詞作曲)「遠海の唸り」「稲作節」・・・」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.05
コメント(2)
無料連絡バスで第3ターミナルバス停に到着し、第3ターミナル出発ロビーに向かって進む。第3ターミナルのバス停案内。第3ターミナル案内。連絡通路を進む。第2ターミナルに続く道路。第3ターミナル入口。フードコート。そして、事前に自宅からネットでオートチェクイン済みのチケットで荷物を預けようとしたが上手くいかない。旅友が近くにいたジェットスターの係員に聴いたところ、まず下の写真の機械のキオスク端末から手荷物タグを印刷するとのこと。チケットのバーコードを読み取らせると、黄色の□からタグが出て来たのであった。このバーコード、1989年シンボルテクノロジー社によって開発されたスタック型の「PDF417」と呼ばれる規格に基づくもので、海外で多く使われているのだ。そして預ける荷物にタグを取り付け、自動手荷物預け機に向かう。そして同様にオンラインチケットにより、無事荷物を預けることが出来たのであった。やれやれ!!。そして機内持ち込み手荷物検査も無事通過。そして搭乗ゲートに向かって進む。窓から、駐機場を見る。エスカレーターで降りる。利用便は15:05発 ジェットスター GK309便。売店にお茶のペットボトルを購入。この場で約1時間強、搭乗開始を待つ。そして搭乗へ。搭乗通路のビニールハウスの如き様子はこれぞLCCと感じるのであった。この日の利用便 ・A320型機。座席は事前に窓側席を確保。定時に出発し、滑走路に向かって進む。そして離陸。利根川を見る。川の水面が輝く。そして遠く、雲の上に顔を覗かせた富士山の姿を確認。浦安、有明方面。三浦半島、相模湾を見る。再び富士山の姿を。そして太平洋上を沖縄・那覇空港に向かって進む。機窓から見えた飛行機の後方には飛行機雲が。別の飛行機も。そして巨大な入道雲の如き雲が孤立して。そして沖縄本島に近づく。「伊平屋島」と「野甫島」を結ぶ「野甫大橋」の姿が見えた。「伊是名島」の南側の「伊是名漁港」そして小さな「降神島」。「伊江島」が見えて来た。沖縄本島本部半島の北西約9kmの位置にある伊江島。ズームして。島中央から少し東にずれたところにある標高172.2mの城山(ぐすくやま)は本島からもよく見え、伊江島タッチュー(イータッチュー)の愛称で親しまれている。産業は主に農業、漁業から成り立っている。本部港からもフェリーで30分あまりということもあり、「日帰り可能な離島」としての人気も高い。また、戦争に関する施設・史跡もあることから県内外からの修学旅行の需要も多い とウィキペディアより。そして手前は沖縄本島の本部半島の国頭郡本部町。本部半島の南側の付け根、名護市2丁目にある「21世紀の森ビーチ」が現れた。沖縄本島で唯一の「海中展望塔」のある、そして2000年の九州・沖縄サミット首脳会合の会議場に選ばれた「万国津梁館」のある「部瀬名岬」。海上に延びる「海中展望塔」への通路が確認できた。遠くに見えたのが水納島(みんなしま、みんなじま)。本部半島の沖合、北西1.5キロメートルのサンゴ礁に浮かぶ三日月型の小さな島で、上空から観察すると写真の如きクロワッサンに見えることから、クロワッサンアイランドと呼ばれている。標高26.9メートル、面積は0.47平方キロメートル。人口40人余の観光の島である。かつては無人島で、島全体が「メンナノ御嶽」として聖域とされていたが、1903年(明治36年)に瀬底島から13戸が移住し製糖に従事した。もともと水資源が乏しいことから「水の無い島」が島名になったとされる。現在は沖縄本島から水が供給されている。代表的な産業は、観光業および農業・畜産業である。観光業は年間60,000人を越える来島者があり、ダイビングやシュノーケリングなどのサービスが提供されている。また、農業ではニンジンやダイコン、スイカの栽培が行われている トウィキペディアより。左に旋回して太平洋に出る。国頭郡金武町屋嘉地区の海岸線。海の水面が夕日に染まる。オレンジ色に輝く水面。「前ぬ浜(久手堅ビーチ)」付近であっただろうか。菜園用の温室の屋根ガラスも夕方の陽光を反射して。荒崎海岸、米須海岸。ズームして。糸満市喜屋武の海岸線。右手の白い建物は「沖縄県 水産海洋技術センター」。糸満フィッシャリーナ。プレジャーボートやヨット等の係留・駐艇場が利用出来るヨットハーバー。美々ビーチいとまん。中央の建物は「サザンビーチホテル&リゾート沖縄」。糸満市西崎町の街並み。そして那覇空港に着陸。時間は17:57。管制塔は高さ88メートルで、国内の管制塔では羽田空港に次ぎ2番目に高い。管制官が技術を習熟するため、2020年1月から運用を開始している と。海上自衛隊 那覇基地。多くの固定翼哨戒機(P-3Cオライオン)が駐機中であった。そして飛行機を降り、預けた荷物が出て来るのを待つ。そして荷物を受け取り、レンタカー送迎車のバス乗り場へ到着。ABCレンタカーで日産マーチをレンタル。そしてレンタカーで10分ほどで、「タイムズ沖縄西町」駐車場の到着。駐車後24時間最大500円のこれも格安駐車場。駐車場から徒歩5分にて4泊お世話になる「ホテル・アンドルームス那覇ポート」に当到着しチェックイン。もちろんダブルではなくツインの部屋。旅友と夜を共にするのは、2019年の「ルーマニア・ブルガリア」旅行以来3年ぶり。今年も2月に伊豆半島への宿泊旅行したが、初日に旅友の体調不良があり・・・・。トイレと洗面所、風呂。そしてこの日はホテルの近くにあった「味の店 沖縄料理しろま」でこの日の反省会を。カウンターに座り生ビールの後は沖縄泡盛を注文。オススメのマグロの刺身とポテトサラダ等を注文。写真は撮り忘れました。沖縄料理・ニンジンシリシリ。そして私は仕上げにチャーハンを。旅友は沖縄うどんを。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.10.04
コメント(0)
9月25日(日)から4泊5日でいつもの旅友と沖縄本島に行って来ました。昨年も南九州旅行で利用したNEEDS TOUR(ニーズツアー)社の超格安ツアー。なんと一人27,400円!!料金に含まれるものは、往復航空券代・宿泊料金(4泊ツイン部屋)、レンタカー代金5日分、空港施設利用料(必要な空港のみ)・消費税等諸税。ただし利用便はLCC( Low Cost Carrier)のジェットスターで成田~那覇便。もちろん、宿泊中の食事代は含まれていない。日本ではLCCを「格安航空会社」と呼ぶのが一般的。 LCCの最大の特徴はその名のとおり、航空券の安さ! JALやANAなどの既存のフルサービスキャリア(FSC=Full Service Carrier)より割安な航空運賃を提供している。 旅行や出張で飛行機を利用する人たちの強い味方なのである。1日目のこの日、9月25日(日)は15:05成田空港発で沖縄・那覇までの移動日。いつものように茅ヶ崎に住む旅友が10:30過ぎに我が家に愛車で立ち寄って下さいました。成田空港に向かって我が家を出発。「戸塚警察署」交差点を左折して東海道へ。「横浜新道」へ入る。「横浜新道・戸塚料金所」を通過。「新保土ケ谷IC」を通過。国道1号横浜新道と、国道16号保土ヶ谷バイパスおよび国道16号横浜横須賀道路を接続するインターチェンジ。「横浜新道」から「第三京浜」へ。「首都高速」に向かって進む。「首都高速神奈川2号三ツ沢線」を進む。「金港JCT」を通過。「大師橋(だいしばし)」が見えて来た。「大師橋」は、多摩川に架かる橋で、東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線(産業道路)を通す。名称の由来である川崎大師は大師橋の南西約1キロメートルのところにある。この橋は川崎市が管理している。「首都高速神奈川1号横羽線」の「高速大師橋」を渡る。東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線(産業道路)に架かる「大師橋」を横に見る。中央の両側に建てた二つの塔から左右に7本ずつ、計28本で橋桁を吊る「斜張橋」。「首都高速神奈川1号横羽線」を更に進む。「昭和島JCT」を通過し「東関東道」に向かって進む。羽田空港を離陸した飛行機の姿が上空に。「首都高速湾岸線」を進む。「首都高速湾岸線」から「東関東自動車道」へ進む。酒々井PAにてトイレ休憩。再び東関東自動車道へ。「成田JCT」に向かって進む。「成田」出口に向かって進む。「成田料金所」とその奥には「アートホテル成田」の姿が。「成田料金所」を通過。「成田IC」交差点を右折し「空港通り」へ。正面に見えたのが「ANAクラウンプラザホテル成田」。成田国際空港を見おろす絶好のロケーションに位置。そして、旅友が予約していてくれた目的地の「USAパーキング」の看板が姿を現した。「USAパーキング」入口。コロナ前の海外旅行や国内旅行で利用しているこれも格安駐車場。この場所に旅友の愛車を29日(木)まで5日間預けておくのだ。5日間で税込み2,750円(別に基本料金税込770円)、機械洗車の無料サービス付きとのこと。時間は12:40過ぎでここまで我が家から約2時間。北側には「ホテル日航成田」の姿が。無料送迎車に乗り換えて成田空港第2ターミナルに向かう。「成田航空地方気象台 航空気象ドップラーレーダー」を見る。空港気象ドップラーレーダーは、成田空港を中心とする半径120Km以内の降水域を観測。空中線(アンテナ)から電波を発射し、雨粒などに反射され戻ってくる電波を観測して降水領域の強さ、方向、距離を測定していると。また、戻ってくる電波の周波数の変化(ドップラー効果を利用)から雨粒の移動速度、つまり風速を計算する。航空機の運航に大きな影響を与える恐れのある「低層ウィンドシヤー」と呼ばれる、高度およそ500m以下の風向風速の急激な変化の検出を行っていると。第2ターミナルで送迎車を降りる。道路の反対側にあった第3ターミナル行き連絡バス乗り場まで歩く。第3ターミナルまで340mとの表示があり、徒歩にても可能であったがこの日はバスにて。運行間隔は4分から7分。無料連絡バスに乗り込み出発を待つ。そして第3ターミナルに向かって出発。「ランプセントラルタワー」を見る。1978年の成田空港開港以来、旧管制塔(ランプ中央運用室)でランプコントロール業務を行って来たが、建物が老朽化したことから、近傍に新たなコントロールタワー「ランプセントラルタワー」を設置し、2020年9月10日より供用開始。成田空港では、航空管制官(国土交通省の公務員)が飛行機への指示を受け持つ区域と、ランプコントローラー(成田国際空港株式会社の会社員)が受け持つ区域とに分けられていると。航空管制官は滑走路と誘導路を受け持ち、ランプコントローラーは駐機場付近の区域(ランプエリア)を受け持つ。ランプエリアの飛行機を誘導する仕事をランプコントロールといいますが、他の空港では航空管制官が行うことを、成田空港では成田国際空港株式会社の会社員が担っているのだと。左手に「ランプセントラルタワー」、右手に「管制塔」を見る。そして第3ターミナルで無料連絡バスを降りる。時間は13:14。そして第3ターミナル出発ロビーに向かって進んで行ったのであった。 ・・・つづく・・・
2022.10.03
コメント(1)
【素数】とは、正の約数が1とその数自身である約数で、1でない自然数のことをいいます。簡単にいうと、「1」と「その数自身」でしか割りきれない数を指します。すなわち【素数】は「1とその数自身でしか割れない数」です。これを言い換えると、素数は「2個の数で割ることができる数」ということになります。1は自分自身でしか割ることができない=1個の数でしか割ることのできない数なので、素数ではありません。1~100までの素数は「 2、3、5、7、11、13、17、19、23、29、31、37、41、43、47、53、59、61、67、71、73、79、83、89、97」となり、全部で25個あります。★【素数】の見分け方たとえば、私の誕生日「716」のような大きな数。パッと見ただけでは素数かどうかわからない方もいるでしょう。しかし、716の一の位は6なので偶数だとわかります。偶数は2で割れるので、716は素数ではないと見分けることができます。偶数以外にも素数かどうかを短時間で見分けるポイントは・偶数(2以外)・一の位に0や5がつく数(5以外)・九九の数(1の段以外)これらは、【素数】ではありません。そしてすべての桁を足して3で割り切れる数が出たら、元の数は3で割り切れるという法則があるのです。例えば1437➡1+4+3+7➡15は3で割り切れるので、元の数1437は3で割り切れるため、【素数】ではありません。更に7で割ることも近道(100以下の場合)です。→7で割れれば合成数、割りきれなければ【素数】なのです。現在放送されているNHK番組「笑わない数学」。パンサー尾形貴弘が数学の難問を大真面目に解説する「笑わない数学」。この回は「素数」の不思議な魅力に迫ったのです。天才数学者たちを悩ませてきた、素数の“大いなる謎”とは。 「1と自分自身でしか割り切れない数・素数」。どんな数も素数の掛け算で表されることから、「数の原子」ともいわれている。最も基本的な数にもかかわらず、素数は謎だらけ。中でも数学者たちを悩ませてきたのが、「素数はどんなタイミングで出現するのか」という問題。素数は気まぐれに出現し、規則性が全く見当たらないのだ。この素数の並びには、一体どんな意味が隠されているのか?パンサー尾形が「創造主の暗号」に迫ったのです。「素数階段」は、素数が見つかると1段上がって行く階段。頻繁にステップアップするところがあったかと思うと、 ずっと真っ平らな部分もある。その段は当然ながら、 気まぐれに現れるランダムな階段であるように見える。 ところがこの階段は登れば登るほど、高くなればなるほど、 その高さが自然対数eをもとにする数に近似していく。 これを「ガウス」👈リンクが示したのだった。そして【素数】👈リンクにはまだまだ「未解決問題」👈リンク が多々あると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.12
コメント(0)
「渋沢栄一記念館」を後にして帰路につく。バスの車窓左手から「尾高惇忠生家」を見る。尾高惇忠(おだか あつただ)は渋沢栄一の従兄であり、学問の師でもあった。明治維新後は富岡製糸場の初代場長、第一国立銀行仙台支店支配人などを務めた。この生家は、江戸時代後期に惇忠の曽祖父が建てたといわれ、惇忠や栄一らが高崎城乗っ取り計画を謀議したと伝わる部屋(非公開)が二階にあると。市指定史跡。尾高惇忠の母・やへが栄一の父・渋沢市郎右衛門の姉であり、惇忠と栄一は従兄弟であった。また、のちに惇忠の妹・千代(明治15年(1882年)没 42歳)は栄一の最初の妻となり、惇忠と千代の弟・平九郎は栄一の幕臣時代にその見立て養子となった。剣術については、おじの渋沢宗助(新三郎)が開いた神道無念流道場「練武館」に入門し、弟の尾高長七郎、従弟の渋沢栄一や渋沢喜作(成一郎)らとともに稽古に励んだ「尾高惇忠生家」の正面。生家内の土間部分を通路として公開していると。パンフレットをネットから。「尾高惇忠は天保元(1830)年下手計村に生まれました。通称新五郎、諱は惇忠、藍香と号しました。渋沢栄一の従兄にあたり、栄一は少年時代からこの藍香のもとに通い、論語をはしめ多くの学問を藍香に師事したことが知られています。後世、”藍香ありてこそ栄一あり”と称えられた人物で知行合一の水戸学に精通し、栄一の人生に大きな影響を与えました。明治時代を迎えると、惇忠は富岡製糸場初代場長や第一国立銀行の盛岡支店長と仙台支店長などを務め、幅広く活躍しました。この尾高惇忠生家は江戸時代後明に惇忠の曽祖父磯五郎が建てたものと伝わっています。「油屋」の屋号で呼ばれ、この地方の商家建物の趣を残す貴重な建造物です。この家で栄一の妻となった千代、見立養子となった平九郎、惇忠の娘で富岡製糸場伝習工女第一号となるゆうが育ちました。また、若き日に惇忠や栄一らが尊王攘夷思想に共鳴し、高崎城乗っ取り・横浜外国商館焼き討ちの謀議をなしたのもこの家の2階と伝わります。内庭の煉瓦倉庫は、「上敷免製」の刻印を残す煉瓦が周囲に残ることから日本煉瓦製造株式会社製の煉瓦で建てられたものと思われます。平成22 (2010)年に深谷市指定文化財(史跡)となりました。」「尾高家 家系図」。「小山川」に架かる県道14号線「共栄橋」を渡る。渋沢栄一の生家の近くにある西間堂本舗の看板。「もちもちいも万十」とは、そのままのさつまいもと、あんを小麦粉と餅粉の皮で包み込んで、さわやかな風味に仕上げた饅頭とのこと。令和2年7月27日に開庁した「深谷市役所新庁舎」が左手に。東側にある庁舎のメインエントランス。「深谷らしさ」の象徴となるレンガの外観で、上部のレンガは「透かし積み」となっていた。深谷市にあった日本煉瓦製造株式会社の工場で製造されていたレンガを床の一部で使用しており、中には製造元の証である刻印がされたレンガもあるとのこと。「透かし積み」。「中山道」を右折して「深谷駅」に向かって進む。車窓からの深谷駅。明治初期から煉瓦の町として知られる深谷のシンボル。ひときわ目を引く西洋様式の建築物は、深谷の煉瓦を約883万個出荷した東京駅を参考に2年の歳月と35億円の費用をかけて1996年に改築された。美しく生まれ変わった深谷駅は、関東の駅百選にも選ばれている名建築。赤いレンガはクラシカルな明治時代の建物のよう。地元の方には「ミニ東京駅」と呼ばれて親しまれている。深谷駅正面玄関。「JR東日本 深谷驛」銘板。JR深谷駅前の青淵(せいえん)広場の「からくり時計」👈リンク。第一国立銀行をイメージした時計台。7時~23時の定時になると、「ふっかちゃん」の下から、渋沢栄一翁が現れるのだ。深谷市イメージキャラクター「ふっかちゃん」。「ふっかちゃん」は、ウサギのようでシカのような「ふっか」という生きもので、地元名産「深谷ねぎ」のしなやかで豪快な角が特徴。また、「ふっかちゃん」の体は、深谷の伝統野菜である「白なす」のような形をしていて、胸には市の花「チューリップ」のボタンを付け、全身で「深谷らしさ」を体現している。平成22年6月28日に誕生した「ふっかちゃん」は、今や世代や地域を超えて広く愛される、深谷市自慢のイメージキャラクターであると。毎時00分になるとOP(オープニング主題歌)が鳴り、下から渋沢栄一が出て来ます。その後、渋沢栄一が人形を首をかしげながら見つめます。最後に渋沢栄一が帰って行き「ふっかちゃん」が出てきてからくり終了。「渋沢栄一からくり時計渋沢栄一(1840年~1931年)は維新後の急激な近代化を迎えた明治・大正期の日本を経済という舞台で支えた人物で、現深谷市の血洗島に生まれた。日本で初めての銀行である第一国立銀行の創立者。論語の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、生涯設立にかかわった会社はゆうに500を超える。日本人移民の排斥運動が加熱し日米関係が悪化したときには、それをやわらげるためにお互いの国の人形を交換した。そのとき日本に送られたのが「青い目の人形」、その返礼としてアメリカに贈ったのが「市松人形」である。このからくり時計は、時計塔の部分は当時の第一国立銀行をイメージし、定刻になると「青い目の人形」と「市松人形」を持った栄一が現れ、時刻を知らせる仕掛けとなっている。また、時計はソーラーエネルギーを使っている。平成24年2月 深谷市(渋沢栄一没後80年記念事業) 深谷ロータリークラブ(深谷ロータリークラブ創立50周年記念事業)」そしてこれも青淵(せいえん)広場の「青淵澁澤榮一像」。正面近くから。深谷駅を見つめる渋沢栄一の姿を後ろから。「碑文正二位勲一等子爵澁澤栄一先生は、天保11年(1840)2月13日私達のまち深谷市大字血洗島に生まれました。幼い時から読書を好み、家業を助け、少壮の頃は国事に奔走、慶應3年第15代将軍慶喜公の命令により渡欧して見聞を広め、帰国後明治新政府に出仕し、近代国家形成のための諸制度、諸事業を策定しました。明治6年富国の道を求めて野に下り、わが国最初の銀行を創立し、続いて製紙・紡績・製鋼・造船・鉄道・ガス・電気・窯業等先進諸国が有する諸事業のすべてを創立あるいは援助育成しました。一方、福祉・教育・医療等数多くの分野にそれぞれの機関を創設してその運営に挺身、その他労資協調・国際親善に心を砕き、昭和6年11月11日、91年の生涯を閉じられました。先生は常に道徳と経済の合一を説かれ、その思想を経営の基本とされました。先生を追慕する私達は、朝夕その教えを守り、後世に余光の及ぶことを祈念してここにこの像を建立しました。 建立 昭和63年3月吉日 青淵・澁澤栄一銅像建設協賛会建立 1996年7月 澁澤栄一座像 田中 昭 作」そして南口にあるという「ふっかちゃん」石像をネットから。再び北口に戻って。深谷駅から北へ約四キロ離れた上敷免(じょうしきめん)という地に日本煉瓦製造の工場が建設された。会社設立は一八八七(明治20)年。欧米流の近代建築が増加し、官庁や鉄道などの整備を急いでいた明治政府の意向に沿って設立の翌年から操業を開始したと。ここで製造されたレンガは、東京駅のほかにも日本銀行、赤坂離宮、旧警視庁、東京大学など数多くの建造物に使用され、日本の近代化に寄与した。上空からの写真をネットから。そして「深谷駅」を後にして、再び車窓から。深谷嵐山線の深谷中央陸橋から。「花園IC」から関越自動車道に。「狭山SA」でトイレタイム。帰路の車内ではアルコール無しでBINGOゲームを楽しんだ。車内のモニターにもインストール済み。私は残念ながら・・・・。そして関越道➡圏央道➡東名道を走り、往路と同じ「綾瀬スマートIC」で降り一般道へ。神奈川県道42号線を利用して、藤沢方面に進む。東名高速を下に見ながら進み、ほぼ予定時刻に帰宅できたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.08.06
コメント(0)
次に訪ねたのが「渋沢栄一記念館」。渋沢栄一は近代日本経済の父とも呼ばれ、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)や帝国ホテル、東京瓦斯(現在の東京ガス)、東京海上保険(現在の東京海上日動)など、一度は耳にしたことがあるであろう多くの企業の設立に関わり、その数はなんと500余りと言われています。また商法講習所(現在の一橋大学)や博愛社(現在の日本赤十字社)など600余りの教育・福祉や社会公共事業の支援を行うなど、数々の功績を残しました。深谷市下手計1204。この記念館は平成7年11月11日(栄一翁の祥月命日)に開館され、栄一の遺墨や写真など資料のほか、本人の肉声を聞くことができる展示があった。2024年からの新一万円札の顏として、昨年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公として、いまでも大注目されている渋沢栄一について詳しく知ることができるのであった。「渋沢栄一記念館」の正面。横断幕には「祝 新一万円札 渋沢栄一翁」と。その下には「渋沢栄一記念館・八基公民館」とも。「渋沢栄一翁と論語の里」案内図。渋沢栄一記念館、旧渋沢邸「中の家」、尾高惇忠生家を中心とした地域を一体的に整備・活用し、郷土の偉人たちの志を活かした深谷市独自のまちづくりに取り組んでいると。今回は、「渋沢栄一記念館」だけであるが、もう一度訪れて他の場所を訪ねたいと思ったのであった。深谷市バスくるリン北部シャトル便「渋沢栄一記念館 バス停」。「渋沢栄一翁ゆかりの地 諏訪神社」ポスター。「散策マップ お食事処」。「渋沢栄一記念館」の館内に入ると正面にあったのが「見学受付」。入館料:無料開館時間:9:00~17:00休館日:年末年始様々なお土産が紹介されていた。まずは体育館内の展示を訪ねた。渋沢栄一を紹介するビデオを鑑賞する。「デジタルLEDサイネージ上映「渋沢栄一物語」( 20分)大画面映像⇄手話通訳付映像 ※「大画面」と「手話付」が交互に繰返し放映されます※17 : 00に自動的に上映終了となります」青い目の人形を抱く渋沢栄一の写真。贈り主のギューリックは同志社大学で教鞭をとった人物であると。宣教師のシドニー・ギューリックは次世代の子どもたちのために、アメリカ人形を日本へ贈る提案をした。栄一は日本側の受け人れの代表となった。昭和2年(1927)、アメリカから約1万2000体の(青い目の人形)が届いた。栄一は各地で児童たちに披露。そして答礼として市松人形(着せ替え人形のひとつ) 58体をアメリカに贈った と。約300体の人形が現存していると。青い目の人形を抱く渋沢栄一の絵画。巨大な「拓本」。「渋沢青淵先生内山峡之詩」(拓本複製)渋沢栄一が主人公となる2 0 2 1年NHK大河ドラマ「青天を衝け」。このタイトルは、藍玉の商いのため尾高惇忠と信州に旅した際に、栄一が美しい景色を詠んだ漢詩『巡信紀詩』のうち「内山峡」の一節が由来となっています。渋沢栄一『巡信紀詩』のうち「内山峡」の一節「勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征」( 8行目~ ) 「読み下し]勢は青天を衝きて臂を攘て躋り 気は白雲を穿て手に唾して征く [意味]青空を突き刺す勢いでヒジをまくって登り 白雲を突き抜ける気力で手に 唾して進む渋沢栄一が信州を訪れた際に立ち寄った漢学者の木内芳軒の外孫の書によるこの碑は、昭和1 5年1 1月に内山村肱水(現在の佐久市)の岩壁に刻まれました。その内容からは、のちに「近代日本経済の父」と呼ばれるにいたる栄一の若き日の大いなる気概が感じられます。」「澁澤青淵先生之巌碑子爵青淵先生十九歳にして内山峡を過り絶勝を嘆賞して此詩を賦せらる、一誦して九十二歳の終生を一貫せる道徳経済合一の大義が既に胚胎せるを知るべく、再吟して明治・大正・昭和に亘り一世に高かりし功業徳望の由来する所を感得せずんばあらず、因て郷人有志相謀り、玆に巌碑を鑿立して景仰の意を致すと云 皇紀二千六百年十一月廿四日」。 1階には渋沢栄一資料室があった。入口から資料室を見る。資料室には渋沢栄一ゆかりの遺墨や写真など、たくさんの資料が展示されていた。残念ながら資料室内は写真撮影禁止であった。次に予約してくれていた「渋沢栄一記念館講義室」を訪ねた。「講義室心得★渋沢栄一アドロイドに手を融れないてください★飲食、喫煙は御遠慮ください★携帯電話等はマナーモード設定の上、通話は御遠慮ください★動画撮影、録画は御遠慮ください。写真撮影は可能です★混雑状況により、立ち見席での御案内となる場合がございます★忠恕(ちゅうじょ まごころと思いやり)のある行動をお願いします★係員の指示に従ってください。従わない場合は退出していただきます」「~「渋沢栄一アンドロイド」講演をお待ちのお客様へ~●列にお並びの前に、お手元の入場券をご確認ください。●ご予約1グループに1枚、人場券を発行しております。 皆さまお揃いになってから列にお並びください。●1講演につき20名までの入場制限を行なっております。【渋沢栄一アンドロイド公演時間】の表示のない券ではご入場いただけません。」演壇には「渋沢栄一アンドロイド」が迎えてくれた。「アンドロイド」とは「人間型ロボット」のこと。深谷市の郷土の偉人・渋沢栄一(1840年~1931年)の生誕180年にあたる節目の年、2020年に本物そっくりの「渋沢栄一アンドロイド」が完成した。渋沢栄一は、明治維新後に近代化を迎えた日本経済の発展に大きく貢献した。論語の精神を重んじた「道徳経済合一説」を唱え、生涯設立にかかわった会社は500を数える。また、約600もの社会福祉事業、教育・福祉の支援と民間外交にも熱心に取り組んだ。この渋沢栄一アンドロイドは、当時の渋沢栄一の風貌を忠実に再現しており、アンドロイドが語る言葉を通して、在りし日の渋沢栄一の考え方を今に伝えます。渋沢栄一アンドロイドは、深谷市出身の鳥羽博道氏(株式会社ドトールコーヒー名誉会長)の寄付により制作したのだ と。本日の基調講演は「道徳経済合一説」👈リンク について。「道徳経済合一説」とは、金儲けをするときには、しっかりと道徳も持ち合わせなければいけないという考えとのこと。「講義室」を振り返る。今回の製作にあたっては、株式会社エーラボと大阪大学の石黒浩教授に協力を依頼したと。話の合間合間に身振り手振りを混ぜ、楽しませてくれたのであった。お顔をズームして。「気持ち悪いくらいリアル」なのであった。「渋沢栄一アンドロイド深谷市郷土の偉人・渋沢栄一( 1840年~ 1931年)の生誕180年にあたる節目の年、2020年に「渋沢栄一アンドロ仆」か完成しました。渋沢栄一は、明治維新後の急激な近代化を迎えた日本経済の発展に大きく貢献し、論語の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、生湃設立にかかわった会社は500を数えます。また約600もの社会福祉事業、教育・福祉の支援と民間外交もに熱心に取り組みました。この渋沢栄一アンドロイドは、当時の渋沢栄一の風貌を忠実に再現し、アンドロイドから語られる言葉を通して、在りし日の渋沢栄一の考え方を今に伝えます。渋沢栄一アンドロイドは、渋沢市出身の鳥羽博道氏(株式会社ドトールコーヒー名誉会長)の寄附により制作しました。」「JR深谷駅」の写真。鉄道での深谷の玄関口「JR深谷駅」は東京駅にそっくり。なんと、1914年竣工の東京駅の赤煉瓦は深谷産だったのです。栄一はレンガを作るため、日本煉瓦製造株式会社を地元である深谷に作り、そこで作られたレンガを鉄道で運びJR東京駅の建設に使ったのだ。その縁で、1996年に建て替えられた深谷駅は、東京駅のミニチュア版のようになった。現在、東京~深谷間は直通電車で、約1時間半の道のり。「祝 渋沢栄一 新一万円札に」の幟の写真。渋沢栄一の写真。様々の幟も館内入り口ロビーに。旧渋沢邸「中の家」。旧渋沢邸「中の家(なかんち)」主屋は、渋沢栄一生誕地に建ち、栄一の妹夫妻によって明治28年上棟された建物です。渋沢栄一が多忙な中で帰郷した際に滞在し、寝泊まりした場所です。渋沢家の住宅として使われていましたが、昭和60年より「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され多くの外国人留学生が学びました。平成12年の同法人解散に伴い深谷市に帰属しました。県指定旧跡「渋沢栄一生地」、市指定史跡。「旧渋沢邸「中の家」1/70模型」2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の様々なポスターも。渋沢栄一を演じたのは吉沢亮氏。渋沢栄一の銅像の案内板。記念館の北側に出る。「清水川」に架かる「西浦橋」を見る。記念館の北側に建つ高さ5mの「渋沢栄一銅像」。ズームして。下から見上げて。そして再び入口ロビーに戻る。ポスター「志を、紡ぐ」。渋沢邸「中の家(なかんち)」主屋を見つめる渋沢栄一の姿が。「明治を発展させ、資本主義の父と呼ばれた男 渋沢栄一1840年~1931年埼玉・深谷の豪農。徳川慶喜の家臣となる。龍馬が亡くなった1867年のパリ万博に約25人の使節団に加わり渡欧。パリの人達に触発され日本人で最初に髷を下ろす。帰国後に官僚・実業家となり、東京商工会議所・みずほ銀行・東京証券取引所・帝国ホテル・日本郵船・富岡製糸場など、500社以上の多種多様な企業の設立や運営に関わった。『日本の資本主義の父』と呼ばれる。なんと、91歳までご長寿でした。」渋沢が関わった現存する企業等(二〇二一年四月時点)。ブラタモリ「深谷」が2021年5月1日に放送されました。渋沢栄一の実物大パネル。「渋沢栄一記念館」のロビーを振り返り、館を後にしたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.05
コメント(2)
そして「拝殿」の先にあったのが「唐門」・(国指定重要文化財)。左右に「透塀」が。その先に世良田東照宮本殿(国指定重要文化財)があったが、保存修理工事中であった。1間社流造屋根は、安永6年(1777)の大修理時に銅瓦葺となり現在に至る。正面扉上部頭貫につがい親鷹の彫物、親鷹の中間にある蟇股上に3羽のひな鷹の彫物がある。昭和31年(1956)6月 重要文化財指定。ネットに詳細に紹介されている「ページ」👈リンクがありましたのでリンクさせて頂きました。右側の「唐門前石燈籠一、正保二年(一六四五) 忍藩 五万石 老中 阿部忠秋」左側の石灯籠。「重要文化財 東照宮 保存修理工事の紹介①」「本殿」。蟇股の彫刻。⑥本殿巣籠りに鷹家康公の嗜み(たしなみ)(鷹狩り)をよく表した彫刻。松の木に作られた巣に3羽のひな鳥が籠り、左右の親鳥がひな鳥の育成を見守る。家族愛、子孫の安泰、家内を守護している。」「本殿」正面の彫刻。④本殿塗装の傷み具合修理前の本殿は、絢爛豪華(けんらんごうか)に塗装されていましたが、色が落ちたり、変色していました。こちらも鷹の彫刻。次に「宝物保管陳列所」を訪ねた。「御供所この御供所は、東照宮創建時に幕府の命により建てられました。本殿へ供える神撰を調理する場、神前から撤した神酒を戴く直合場として使用され 大宮大修復と共に修繕が成されてきました。」「東照宮宝物保管陳列所」昭和三十九年(一九六〇)に宝物館に生まれ替わったようだ。設立: 1964(昭和39)年建築面積:70㎡(木造建築一階建て)収蔵点数:約2000点開館日:原則無休開館時間:——入館料:大人300円関連博物館:新田荘歴史博物館設立経緯寛永21年(1644)に御宮創建時に御供所として同期に造宮され、天保15年(1844)に造替、昭和39年(1964)宝物館として再度造替している。昭和31年に社殿・宝物などが重要文化財に指定された事により、昭和31年から同41年に亙り文化庁による修復の一環で御供所が陳列所として改装された。所蔵品と展示の概要展示はケース内の提示型展示を基本とする。重要文化財の太刀(刀身鎌倉末期了戒作・拵沃懸地銀装菊花紋散)御金幣、家康公の「御鎧召初式」に用いられた甲冑、三十六歌仙図(群馬県指定重要文化財)、神饌器具、狛犬、棟札(8回の修理記録を記した7枚の棟札、重要文化財)等々、他多数。この日は館内は撮影禁止であったので、「ネット」👈リンク を参照下さい。そして「世良田東照宮」の「御黒門」。「世良田東照宮」の創建当時、幕府によって建てられた門が現存しているのだ。「御黒門(縁結び門)東照宮創建時、幕府により建てられた門で、左右には八十メートルの白壁の塀がありました。江戸時代は平常閉ざされ、門前での参拝。正月・四月の祭典日などは特別に開かれ、拝殿下の階段前までの参拝が許されました。この門の蹴放し(溝のない敷居)をまたいで参拝すると、良縁が成就すると云われ、縁結び門とも言われています。」「国指定史跡 新田荘遺跡 東照宮境内」碑。「国指定重要文化財 東照宮」と。「東照宮 所在地: 元和二年(一六一六)徳川家康は駿府(静岡市)で七十五年の生涯を閉じた。遺命により、遺体は一旦駿府郊外の久能山に葬られ、翌年下野国日光に改葬された。それより二十年の後、社殿は三代家光によって全面的に改築され、今日の東照宮が完成した。当時日光輪王寺と長楽寺の住職を兼ねていた天海は、旧社殿の一部を長楽寺元境内に移築して東照宮を勧請した。当地が徳川氏発祥の地であり、当寺が徳川義季開基とする寺だからである。幕府は、長楽寺をその別当寺としてその管理や祭祀に当らせ、二百石の社領を与え、その社殿の修理や祭祀の費用は幕府の財政によって賄われることになった。桁行五間・梁間三間の拝殿は、日光奥社の拝殿を移したものである。家康の最初の墓標として建てられた多宝塔もここに移され、本地堂(俗に塔の薬師)として、明治初年までその豪華な姿をとどめいていた。東照宮の鎮座により地元世良田の住人はもとより、近隣十数か村の住民は、東照宮の火の番を奉仕することによって道中助郷を免除されたり、幕府によって開削された神領用水の利用を許されたり、種々の恩典に浴することができた。 東照宮の文化財(国指定重要文化財) 建造物─本殿・唐門・拝殿・附鉄燈籠・棟 工芸品─太刀銘了戒・附拵銀造沃懸地太刀(県指定重要文化財) 絵画─板面著色三十六歌仙図(県指定史跡) 法照禅師月船琛海塔所並びに普光庵跡 真言院井戸」「御黒門(縁結び門)」を潜って境内に入ると左手にあったのが「上番所」。「世良田東照宮 上番所」。上番所は世良田東照宮の防衛拠点として、江戸時代に運用されていた警備施設だそうです。「顔出しパネル」。「上番所江戸時代 徳川幕府は東照宮を護る為上・下の二ヶ所に番所を設け、昼夜警備に当らせた。この番所は二間と一間半の建物で、ここに川南(埼玉県深谷)の中瀬・横瀬・北阿賀野・南阿賀野・町田・血洗島・上手計・下手計・大塚・成塚・新戒・高島の村々、川北(群馬県太田市・伊勢崎市)の世良田・粕川・出塚・大館・堀口・上田中・下田中・上江田・中江田・下江田・高尾・八木沼・平塚・中嶋・高尾・境・女塚の村々から二~四人出仕していた。出仕の村々には、助郷の課役が免除されるなど他の地域とは異なる優遇を受けた。 番所にあった道具一、三ッ道具(突棒・刺股・袖搦)一、棒十本一、鳶口三本火災時には、縦横三尺の大団扇を以って数十数百人一団となり、火消しを行った」「三ッ道具(袖搦み・刺股・突棒)」が展示されていた。「東照宮御宮番江戸時代、世良田の東照宮は、将軍家先祖の地として徳川府の手厚い庇護を受け、その警固には深甚なる注意か払われた。下記村々は、その警固を勤めた村で、「火の番助郷」とも言われ、他の地域とは異なる優遇を受けた。川北(群馬県側) 下田中(新田町)世良田(尾島町) 高尾 〃小角田 〃 粕川 〃 川南 (埼玉県)出塚 〃 中瀬 (深谷市)大館 〃 横瀬 〃 境 (境町栄) 北阿賀野 〃 八木沼(境町米岡) 南阿賀野 〃平塚(境町) 町田 〃女塚 〃 血洗島 〃上江田(新田町) 上手計 〃 中江田 〃 下手計 〃 下江田 〃 大塚 〃 ・・・ ・・・ 」「手水舎」。「駕籠」の顔出しパネル。そして帰路に。一面に白のアジサイ・アナベルが拡がっていた。近づいて。「世良田東照宮」を後にして、昼食会場の割烹レストラン「楓」に。深谷市大塚334。「割烹 楓 創業 昭和五十年」と。2階に案内される。深谷出身で、明治時代に活躍した実業家、渋沢栄一氏も愛した「煮ぼうとう」を楽しむ。「煮ぼうとう」とは、小麦粉が比較的容易に手に入れることが可能であった土地ならではの、工夫と知恵がたっぷり入った深谷の郷土料理。特徴は、幅広の麺(およそ2.5cm、厚さ1.5mm程度)と、特産である深谷ねぎ、地元で収穫される野菜類をたっぷり使い、生めんの状態から煮込んでいると。生めんから煮込むことで、適度な「とろみ」があり、しょうゆで味をつける、深谷の冬の定番メニューであるのだと。そして生ビールもオーダーして。小天丼。赤身の刺し身。とろろ。デザート。「煮ぼうとう」を楽しむ旅友。「幽静」と。「幽静 鈴木響泉」と。「美人画」。「郷土の自然料理 「煮ぼうとう」について遠い祖先が 四季折々の農産物を活用し 知恵と真心を込めた この地の栄養食です。実業界の王 渋澤青淵翁は 天保十一年(一八四〇年)此の地の富農の家に生まれ 二十一才まで郷土の血洗島で過ごしました。翁はこの煮ぼうとうを こよなく好み 今尚庶民的な近親感を残し伝えています。青淵翁の薫陰により 立派な先覚者が此の地より輩出し また利根川小山川の大洪水で難渋したこの地域も 現在では日本屈指の野菜の大手産地として 活況を呈しています。」洪水に依る肥よくな沖積土の形成 その地に生産される地粉緑滴る深谷葱等が 調和され巾の広い手打ちうどんを煮込んだものです これが魅力ある本当の「煮ぼうとう」なのです毎年十一月十一日 青淵忌には市内の名士百名程が公民館に集い 翁の遺徳を追慕顕彰して盛大裡に「煮ぼうとう会」が催されます昔 武士が戦場で腹ごしらえに帯刀で切って陣中食として食した「煮宝刀」ともいわれる「煮ぼうとう」です。 昭和五十九年霜月 文化財保存委員 小山專一 撰文」「郷土の偉人 渋沢栄一(男爵当時)」様々な「渋沢榮一」の写真が展示されていた。「耕地整理記念碑」の横で。「漢詩」。ここにも「美人画」。「飾り花」。「楓」自慢の「たれ」の自販機が外に置かれていた。「もんじゃ」や「カレー」の自販機もあった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.04
コメント(0)
「徳川氏発祥の地 世良田東照宮 由緒寛永二十年(一六四四)、三代将車徳川家光公は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。奉斎にあたり家光公から御神領二百石が寄進。以後、幕府の手厚い保護を受け、徳川家康代々礼敬をつくされました。東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助成し、世に「お江戸みたけりや世良田へござれ・・・」とうたわれました。御祭神主祭神:徳川家康公(東照大権現)東照大権現とは、東から照らす朝日のように勢い盛んな神の意味です。家康公は、戦国乱世を終わらせ、日本を統一し平和な時代を築きました。平和の永続を願う公は、「日光山に小さな堂を建てて、自分を神として祀ること。自分は、日本の平和の守り神となる」と御遺言を遺されている。配祀:菅原道真公(学問の神)・倉稲魂命(穀物、商売繁盛の神) 須佐之男命(愛、農業の神)・伊弉冉尊(結婚・火防の神) 火産霊命(車、縁結びの神)・大穴牟遅命(招福、医療の神) 誉田別尊(安産、育児の神)・建御方神(スポーツの神) 豊城人彦神(開運の沖)・外十柱」「世良田 東照宮」配置図。左手にあったのが「開運稲荷社」。鳥居の扁額も「開運稲荷社」。「社殿」。「開運稲荷社創建当初の「稲荷社」は、当地に古くから祀られていた神様で、開運招福・商売繁盛・五穀豊穣に特にあらたかなご利益のある神様であります。東照宮の修復の際はこの稲荷社も幕府より手厚い保護が成されてきました。明治二十五年(1892)同世良田山内に鎮座していた世良田五社稲荷の一社と伝わる「開運稲荷社」を合祀。明治四十年(1907)「開運稲荷社」は、小社合祀奨励により、旧世良田村小角田「稲荷神社」、旧世良田村上矢島の勝手神社末社「稲荷社」、旧木崎村高尾の久呂住神社末社「稲荷社」と共に東照宮へ合祀。平成八年(1996)現在地に社殿が新築成り、遷座祭が斎行。御宮に合祀されていた全ての稲荷社が御遷座され、現在の「開運稲荷社」となる。 例大祭 三月初午日(旧暦)」「世良田東照宮」の「一の鳥居」。扁額は「東照宮」。「一の鳥居」の先にはー対3組の石燈籠が並んでいた。宮司さんの案内により「世良田東照宮」の拝観に向かう。ここが「拝観」入口。20名以上の団体は200円/人。宮司さんによる説明を聴く我がグループ。「御供水井戸」。正面から。「御供水井戸この井戸は寛永二十一年(一六四四)東照宮創建時に幕府の命により造られました。江戸時代は社殿と同時に修復が成され、汲まれた清き神水は神前へ供えられました。現在もこの神水は地下水となっておりますので容器持参の上でお汲みになり、ご利用ください。また、東照宮神域の清砂を社務所にてお頒け致しております。」「拝殿」参拝の後に訪ねた、「東照宮宝物保管陳列所」。この「鉄燈籠」は、元和4年(1618年)に総社石主・秋元長朝の命で造られたもので、当時の「鉄燈籠」では日本一の大きさを誇るものだったと。「鉄燈籠竿陽刻銘奉納燈籠東照大権現御寳前 元和二戊二午歳七月吉日 <注>元和4喬朝が奉納した年(1618) 秋元越中守藤原長朝 大工 中林仲次明暦4年(1658) 長朝の曾孫喬朝が奉納したものである」制作時と奉納時が40数年離れている理由は、世良田東照宮刊「徳川氏発祥の地 世良田東照宮」によれば、次のとおり長朝が日光東照宮創建時に奉納しようとしたが、諸大名が奉納する石燈籠より大きく、鉄燈籠、小藩ゆえに奉納叶わず、領地の深谷に東照宮を造立、鉄燈籠を据えた。世良田東照宮建立後、長朝の遺志を継いだ遺族・喬朝が奉納したのだと。祠。熱く「世良田東照宮」について語ってくれた宮司さん。一番奥の石灯籠。一、宝暦十三年(一七六三) 前橋藩 十五万石 松平朝矩場所を変えて近づいて。「奉納石燈籠一、宝暦十三年(一七六三) 前橋藩 十五万石 松平朝矩一、寛政八年(一七九六) 川越藩 十五万石 松平直恒一、天保十五年(一八四四) 忍藩 十万石 松平忠国 唐門前石燈籠一、正保二年(一六四五) 忍藩 五万石 老中阿部忠秋」「拝殿」。日光東照宮奥社拝殿として元和年間(1615 ~ 1623)に造営され、寛永17年(1640)~同19年に当地、徳川氏発祥の地「世良田」へ移築された。設計施工中井大和守正清の最後の作ともいわれ、桃山時代の特色をよく表している。中井正清は「関ヶ原の戦い」後、家康公に使えて江戸城、知恩院、駿府城天守、江戸の町割り、増上寺、名古屋城、二条城、内裏、日光東照宮、久能山東照宮、方広寺など、徳川家関係の重要な建築を次々と担当した名工。その名工・正清最後の作品が、この世良田東照宮の社殿であった(建立当時は日光東照宮の社殿として建立された。)「この拝殿は、日光東照宮奥社にあった建物で、将軍・御三家・勅使のみが昇殿を許されました。大工は二条城や江戸城天守閣なども築城した中井大和守正清です。」「唐破風」をズームして。徳川家を象徴する「三つ葉葵の御紋」もあしらわれていた。桁行5間、梁間3間、入母屋造平入り屋根は、当初檜皮葺、寛政8年(1796)修理時に銅瓦葺となり現在に至る昭和31年(1956)6月 重要文化財指定。正面向拝下の蟇股に、松に鷹の彩色彫刻。提灯にも「三つ葉葵の御紋」。「拝殿」の周り廊下の手摺の造形も鳥の如し。拝殿唐破風下の正面(東側)欄間の造形を右からカメラで追う。正面の左側の欄間の造形。内陣の扁額は「東照大権現」。中央に「鏡」が。拝殿内部の三十六歌仙を追う。右から紀貫之「さくら散る 木の下風は 寒からで 空にしられぬ 雪ぞふりける」伊勢「散り散らず 聞かまほしきを 古里の 花見て帰る人も逢はなむ」山部赤人は下記。小野小町「わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとそ思ふ」紀友則「夕されば 佐保の川原の 河霧に 友まどはせる 千鳥鳴くなり」遍昭増正「我やどは 道もなきまで あれにけり つれなき人を 待つとせしまに」写真右に山部赤人 「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」格子天井。「拝殿」を横から(北側)。拝殿懸魚(北側)。右側から欄間を。唐門側(西側)欄間を右から。中央。中央をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.03
コメント(0)
バスに戻る前に道の駅「おかべ」にあった六角形の「情報センター」を急いで訪ねたのであった。「中山道の熊谷宿」案内板。中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸から数えて8番目の宿場。上段左から馬頭観世音中山道を往来する馬を守り、冥福を祈るために、一里塚の協に立てられています。竹井澹如(たけいたんじょ)翁碑熊谷宿本陣をつとめた竹井家を継き、明治12年、初代の埼玉県議会議長になりました。政治・産業面でも大きな功績を残しました。万平公園に翁碑があります。「星渓園」は、翁が明治初年につくった名園です。秩父道道しるべ室町時代に始まった秩父札所の観音信仰は江戸時代に盛んになり、最盛期の巡礼の数は数万人にも達しましたが、江戸からの順路の一つとして熊谷宿に隣接した石原村で中山道から分かれるちちぶ道がありました。その分岐点付近に立てられた道しるべです。下段左から札の辻跡法令や禁令などの高札を揚げる場所で、「高札場」とも言われました。現在の中山道と大路地の交差する付近にたてられたと考えられます。熊谷本陣跡全本陣中でも大規模な本陣でした。面積1500坪(約4950m2)、建坪700坪( 2310m2)、畳間数47、畳数360畳という壮大な邸宅であったようです。代々、竹井家が本陣を動めていました。新島の一里塚通常、一里塚の樹木は、エノキやマツなどが多いのですが、この一里塚は、非常にめずらしく、ケヤキの大木です。「中山道の深谷宿」案内板。和宮御降嫁幕府は威信を回復するために、14代将軍家茂のもとに、孝明天皇の御妹宮降嫁を奏請しました。和宮は降嫁の際に中山道を使い汀戸に下向されました。途中、深谷宿本陣に宿泊しました。和宮の使ったとされる御草履が現存しています。深谷本陣道物寛永12年(1635)参勤交代制に伴い、中山道筋諸大名の道中宿所として指定された後、本陣として存在したものと推定されます。現存する建物は、正徳2年(1712)の再建です。北斎筆徐福図(ほくさいひつじょふくず)北漸が旅籠近彦に泊まった時に描いたものです。はじめ行灯部屋に泊まっていましたが、北斎だと分かると驚いて上等の部屋に案内したという逸話つきです。みかえりの松深谷宿は中山道でも屈指の遊郭がありました。宿を出た旅人はみかえりの松で宿に別れを告げたのでこの名前が付きました。渋沢栄一日本近代資本主義の父と呼ばれ、実業界に止まらず、生涯を通して社会福祉事業に尽力しました。「中山道の本庄宿」案内板。市神様宿で市が開かれるにあたり、市の神様を、街道に置きました。本庄宿では2箇所あり、一つは田村本陣の正面付近にありました。もう一つは、新田町にありました。現在の図書館入口付近にあたります。現在では、金鑚(かねさな)神社の境内に移築されています。神流川の常夜灯神流川の流れはよく変わるため、その度に橋や渡船場の位置が変わりました。昼間でも道筋が分かりにくいため、川の両脇岸に目印して見透灯籠と呼ばれる常夜灯を設けました。そ・・・人の小林ー茶も寄付したといわ・・・・当時の物は大光寺に移設されて・・。田村本陣の門本庄宿の北本陣といわれた田村本陣の北門です。田村本陣は、現在の中央一丁目にありました。この門は、皇女和宮が降嫁の際にくぐったといわれています。豪商・戸谷双烏中山道は政治・経済の大動脈として整備され、本庄宿は交通の要であったため、豪商も生まれました。今の宮本町と泉町の境あたりに、代々、戸谷半兵衛を襲名していた豪商がいました。その3代目が、「戸谷双烏」という人物です。双烏は、旅人の安全のために寄付を募り、神流川の渡しに高さ3mの豪華な常夜灯を寄進しました。泪橋跡碑橋の跡に石碑・・・埼玉県内の「道の駅」案内パネル。特定テーマ型モデル「道の駅」概要。「道の駅は、ドライバーが24時間利用できる「休憩機能」、道路や地域の情報を提供する施設としての「情報発信機能」、道の駅を接点に活力ある地域づくリを行う「地域連携機能」の3つの機能を基本コンセプトとして有し、この3つの機能による相乗効果から「地域とともにつくる個性当かな賑わいの場」を創出することが求められておリ、現在では、全国で1150箇所以上に広がっている。近年「道の駅」は、道路利用者への単なる「休憩機能」を持った施設から、地域住民のための交流施設や防災施設、そして地域創生における拠点へと、今やその役割リは大きく変貎しており、地元の名物や観光資源を活かして、多くの人々を迎え、地域の雇用創出や経済の活性化、住民サービスの向上にも貢献しているのだと。「2021年大河ドラマ(第60作) 青天を衝(つ)け」 案内パネル。「大河ドラマ第60作の主人公は新1万円札の顔として注目される「渋沢栄一」です。約500の企業を育て、約600の社会公共事業に関わった「日本資本主義の父」。晩年は民間外交にも力を注ぎ、ノーベル平和賞の候補に2度選ばれています。幕末から明治へ。時代の大渦に翻弄され挫折を繰り返しながらも、青天を衝くかのように高い志を持って未来を切り開きました。「緻密な計算」と「人への誠意」を武器に、近代日本のあるべき姿を追い続けた渋沢は、生涯青春の人でした。2021年、若き心で挑戦を続けた男・渋沢栄一との出会いにご期待ください。」「物語官尊民卑なんて、くそくらえ。百姓からの脱却を決意!栄一は、藍染めの原料となる藍玉づくりと養蚕を営む百姓の家に生まれた。頭の回転は早いが、大人や権力にものおじしないやんちゃ坊主に育つ。商才に長けた父・市郎右衛門の背中に学び、栄一は商売のおもしろさに目覚めていった。しかし17歳のころ、人生を変える最初の事件が起こる。御用金を取り立てる代官に刃向かい、理不尽に罵倒されたのだ。栄一は、官尊民卑がはびこる幕府の身分制度に怒りを覚え、決意する。「虐げられる百姓のままでは終われない。武士になる!」目指せ、攘夷の志士! ところが計画中止、追われる身へ……。栄一は、従兄の惇忠や喜作とともに、尊皇攘夷に傾倒していく。栄一らは江戸に出入りして同志を集め、ある暴挙を企てた。高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を焼き打ちするという一大攘夷計画だ。ところが、京の情勢に通じた惇忠の弟・長七郎の猛反対にあい、実行前夜にしてあえなく断念。逆に幕府に追われる立場となり、喜作とともに京へ逃げる。そんな彼らに助け船を出したのは、一橋慶喜の側近・平岡円四郎だ。一橋家の家臣となるか、幕府に捕らわれて死ぬか、という二者択一を迫られる。このとき、“慶喜こそが幕府を変える人物となる”と望みを懸け、一橋の人間となったことで再び運命が変わっていく──。心ならずも幕臣に。パリ行きが人生を開く!栄一は持ち前の商才で一橋家の財政改革に手腕を発揮し、慶喜の信頼を得る。ところが、慶喜が将軍を継承したことで、倒幕を目指すどころか幕臣になってしまった。失意の栄一に、またとない転機が訪れる。パリ万国博覧会の随員に選ばれたのだ。産業発展めざましいフランスに渡った栄一は、「株式会社」と「バンク」の仕組みを知り、さらに官と民が平等である社会に大きな衝撃を受ける。「攘夷なんてとんでもない。民間が力を発揮する西洋の国づくりを日本も吸収すべきだ!」。そんな折、日本から大政奉還の知らせが届き、無念の帰国へ……。まさかの新政府入りで、続々改革。33歳でいよいよ民間へ。帰国後、様変わりした日本に衝撃を受ける栄一。約260年続いていた徳川の時代はすでに終わり、惇忠や喜作は「彰義隊」を結成。戊辰戦争、そして箱館戦争と新政府軍との戦闘を続けていた。栄一は、静岡で隠棲する慶喜と再会し、身をやつした姿に涙する。そして、民間に身を置きながら、慶喜をそばで支えることを決意した。しかし突然、明治新政府から出仕を命じられて上京。「改正掛」を立ち上げ、租税・鉄道・貨幣制度など次々と改革を推し進めること3年半。栄一はある決意を胸に辞表を提出した。この時、33歳。いよいよ、栄一の目指す民間改革が始まるのだった……!「主人公 渋沢栄一 吉沢亮渋沢中の家(なかんち)の長男。幼い頃から人一倍おしやべりで剛情っばり。従兄である惇忠の影響を受け、読書に没頭する日々を送る。勤勉な父・市郎右衛門の教えを受け、藍玉づくりの仕事の奥深さを知り、思わぬ商才を発揮していく。「物語のはじまりは、藍に染まった血洗島村(ちあらいじまむら)から天保11(1840)年。隣の清国でアヘン戦争が始まろうとしていたころ、武蔵国榛沢郡(はんざわぐん)血洗島村(現在の埼玉県深谷市)の農家に渋沢栄一は生まれた。家業は、染料のもとになる藍玉づくりと養蚕。職人気質の父と慈愛あふれる母のもと、近隣に住む従兄弟いとこたちとともに育つ。水戸学に心酔する年上の従兄・惇忠(あつただ)からは学問のいろはを学び、2歳上の喜作とは何をやるにも一緒で相棒のよう。そんな二人の憧れの的は、惇忠の妹である愛らしい千代だ。血洗島村のそばには中瀬河岸(なかぜかし)という船着き場があり、利根川を通じて江戸の文化や経済がいち早く伝わる情報の交差点でもあった。ジャパンブルーを生み出す藍の葉が揺れるこの村にも、ペリー来航から始まる維新の足音がすぐそこに迫っていた。運命の出会い。栄一と慶喜の物語がパラレルに展開。血洗島村から約150キロ離れた水戸藩では、栄一より3年早く生まれた七郎麻呂が、父・斉昭(なりあき)による厳しい教育を受けていた。彼こそ、のちの15代将軍となる徳川慶喜だ。まったく接点がなさそうに思えるこの二人だが、慶喜の存在なくして栄一は語れない。農民の栄一が倒幕を志したものの、まるで正反対の幕臣となり、さらに新時代を切り開くことができたのは慶喜との出会いがあったからこそだ。転身を繰り返し波乱万丈に生きた栄一だが、慶喜もまた、時代のうねりに翻弄された人生だった。「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」で知られる強烈な父を持ち、将軍になりたくなかった男が、最後の将軍として幕府を終わらせるまでにどんなドラマがあったのか……。さらに、その後の慶喜の人生においても、栄一との関係が途切れることはなかった。「慶喜の名誉回復」のため、栄一の忠義は生涯貫かれる。やがて重なる二人の物語が、血洗島と水戸からそれぞれ動きだす。」「近代日本経済の父 渋沢栄一」説明文。「祝渋沢栄一翁 新一万円記念近代日本経済の父 渋沢栄一渋沢栄一(雅号「青淵」)は、天保11年(1840 年)現在の深谷市 血洗島 の農家に生まれました。父親からは勤勉さ、人への思いやりを、母親からは 慈悲のこころを学びました。母「えい」は大変慈悲深い人で、栄一は母の愛 情をいっぱいに受けて育ちました。母は近所の人にも優しく、病弱な人の着 物や食事の世話までしました。のちに栄一が社会福祉事業に熱心に取り組ん だのはそんな母親の影響があったのでしょう。 また、いとこの尾高惇忠(雅号「藍香」) から「論語」をはじめとした学問を学ぶ とともに尊王攘夷思想の影響を受けまし た。23歳のころ、幕藩体制に疑問を抱 き挙兵を企てますが、中止して郷里をあ とにします。その後一橋家及び幕府に仕 え、慶応3年(1867 年)、第15代将軍 徳川慶喜の名代徳川昭武に随行して渡欧しました。約一年半滞在する中で、ヨー ロッパの進んだ社会制度・思想・文化などを目の当たりにし、大きな影響を受 けました。 明治元年(1868 年)11月に帰国した後、静岡に商法会所を設立したと ころ、大隈重信の説得により明治政府に租税正として迎えられ、様々な制度 の企画・立案に当たります。明治6年(1873 年)大久保利通らと財政運営 で意見が合わず辞職し、第一国立銀行を設立するなど実業界で活躍しました。 「論語」の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、各種産業の育成と多くの 近代企業の確立に努め、第一国立銀行をはじめ設立・育成に関わった企業は 500余に及びました。 また、600以上の社会福祉事業や教育に関わるとともに、昭和6年(1931 年)に亡くなるまで、国際親善にも貢献しました。実業家の出発点 栄一の家は農業、養蚕のほかに藍玉を製造していました。藍の葉を仕入れて、 藍玉という染料のもとにして売るのです。栄一もよく父親の供をして藍葉の仕入れや得意先まわりに出ていました。栄一が14歳の時、栄一と祖父とで買出しにでかけましたが、生意気ざかり の栄一は祖父を残し、一人で買い付けに 行きました。最初は栄一を相手にしなかった農家の 人たちも、「この葉は肥料が足りないね。これは乾燥が不十分だね。」と言う大人 顔負けの鑑識眼に驚き、栄一は上質の葉 を安く仕入れたそうです。倒幕から幕臣へ江戸時代には、御用金と称して、領主が富裕な領民に金を供出させることがたびたび行われていました。栄一が17歳の頃、富農であった渋沢家は、岡部 藩から500両の御用金を差し出すよう申しつけられました。父親の代わりとして代官所に出頭した栄一は、役人のごう慢な態度に正論」で対抗しました。この時のやりとりから「侍が威張るのは、結局は幕政が悪いからだ、階級制度が間違っているからだ。」という結論に達しました。こんな体制への反発が栄一を「倒幕」の意識に駆り立てていくのでした。栄一は、近郷きっての知識人で10歳上のいとこ尾高惇忠、惇忠の弟である長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城を乗っ取り、徳川幕府を倒すという計画を立て準備をはじめました。しかし長七郎は京都での見聞から、この計画に反対し、結局この計画は中止になりました。栄一は24歳の時、喜作とともに、世の情勢を探るため京都に向かいました。元治元年(1864年)かねてより懇意にしていた一橋家の重臣、平岡円四郎の勧めで一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)に仕官することになり、一橋家では歩兵の募集、財政の改革、新しい事業の運営などで頭角をあらわしていきました。ヨーロッパ派遣慶応3年(1867年)、栄一は、ナポレオンⅢ世の開くフランス・パリの世界大博覧会に招待された将軍の名代として参加する徳川慶喜の弟、徳川昭武(14歳)の庶務・会計係として随行しました。好奇心旺盛な栄一は、ヨーロッパに滞在中にチョンマゲを切り、洋装に変え、議会・取引所・銀行・会社・工場・病院・上下水道などを見学しました。進んだヨーロッパ文明に驚き、また、人間平等主義にも感銘を受けました。このヨーロッパ視察が、栄一の人生を大きく変えたのです。官界から実業界へ栄一は、帰国(明治元年)後、日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を駿府(現在の静岡県)に設立しました。翌年には明治政府の高官・大隈重信の説得で大蔵省に出仕し、国家財政の確立に取り組みましたが、官界の硬直した体制に限界を感じた栄一は大蔵省を4年で辞め、実業界へ転身し、第一国立銀行をはじめ、約500社の設立に関与しました。栄一の生涯を通じての基本理念は「論語」の精神(忠恕のこころ=まごころと思いやり)にあり、単なる利益追求ではなく、「道徳経済合一」による日本経済の発展でした。ここに実業界の指導者としての栄一の偉大さがあるのです。慈悲のこころ 社会福祉活動栄一は社会福祉事業にも熱心でした。栄一は明治7年(1874年)のとき、東京府からの要請で、身寄りのない子どもや老人を養う施設である「東京市養育院」に関わり、以来92歳の天寿をまっとうするまで56年間も熱心に養育院の院長を務めました。また、孤児院の「埼玉育児院」、精神薄弱児施設「滝乃川学園」の設立・運営、「救護法」の制定などにも力を尽くしました。教育にも力を入れ、東京商法講習所(現・一橋大学)の経営にも尽力しました。また、日本女子大学校(現・日本女子大学)の創立委員にもなりました。栄一は医療施設の整備にも情熱を燃やし、東京慈恵医院(現・東京慈恵会医科大学附属病院)、恩賜財団済生会、財団法人聖路加国際病院、日本結核予防協会などの設立と運営にも関わりました。国際交流にも尽力昭和に入り、日米関係が悪化してきたことに心を痛めていた栄一に、アメリカから人形による国際交流を行い、日米友好を図りたいという依頼がきました。栄一は外務省などと連携し「日本国際児童親善会」を組織し、アメリカ側から12,739体の「青い目の人形」を受け入れました。この人形は全国各地の小学校へ送られ、大歓迎を受けました。後に、返礼として58体の日本人形がアメリカへ贈られました。現在「青い目の人形」は埼玉県内の小学校などに12体(全国で270体余)が保存されています。また、栄一は第18代アメリカ大統領グラント、救世軍ウィリアム・ブース、中国の政治指導者・孫文など、世界の著名人とも親交がありました。論語の里栄一は、幼少の頃から「論語」を学び、生涯を通して論語に親しみました。初め父親の渋沢市郎右衛門に論語を学びましたが、7歳頃から尾高惇忠に習うようになりました。栄一が惇忠の家に論語を習いに通った道は、いつしか「論語の道」と呼ばれるようになりました。この「論語の道」周辺には、栄一ゆかりのある史跡等が数多く残されており、それらを総称して「論語の里」と呼んでいます。渋沢栄一年譜をネットから。「新一万円券」をネットから。「おしゃびき様~〈浦和宿〉~おしゃびき様は、こども百日咳によくきくといわれ、信者が納めた真白なよだれかけを、幾重にも胸のあたりにかけています古老の話では、おしゃびき様は、このあたりで行きだおれになった旅の老女をまつったものであるとのことです.おしゃびき様は、いつも子どもが大好きで、子どもがお賽銭を持ら出して使うのをみては喜んでいました。それをみた大人たちが「それはもったいないことだ」といって賽銭箱をつくり、賽賽を馭れなくすると、にわかに百日咳いはやり出して村人を困らせました。おしゃびき様は、子どものしたいようにさせておきたいのでしよう。社殿前に賽銭箱がないのはそのためです。とこらで、「しゃびき」はしわぶき(咳 ) の訛りだから、おしゃびき様とは、咳の神様ということになります。成田山にお詣りしない部落~〈浦和宿〉~成田山にお詣りしないという部落がありますが、たいてい平将門が祀られています。天慶年間、関東に兵をおこした平将門は、一時は関東一帯を支配下においたものの、藤原秀郷に討たれてしまいます。伝説上では、将門には七人の影武者いたとわれ、それが神出鬼没、変幻自在で、どれが本当の将門だかわかりません。困って秀郷は成田山に「本当の将門が姿を現わしますように」と祈ると、成田山は「お札を投げつけなさい」とか、「ロから白いものをたなびかせているのが将門だ」というお告げがでました。そのため妖術がとけて、将門はついに秀郷に首をはねられることになるのです。伝えるところによると、成田山にお詣りしないという禁忌を、最後まで固く守っていた家は、平将門の家臣の子孫で、将門が没落した後も、この土地に隠れ住みついたといわれています。ホタルの御殿~〈大宮宿〉~見沼の畔に、笛の上手な”小笛”という名の少女が住んでいました。初夏のある晩のこと、小笛が笛を吹きながら見沼の畔を歩いていると、はるか向こうから笛の音が聞こえてきました。こちらがやめると、その笛もやんでしまいます。不思議に思い、その笛の音のする方に歩いていくと、古井戸がありました。どうやら笛の音は、この古井戸の中から聞こえてくるようです。恐る恐る覗き込むと、ばっと井戸が明るくなり、いく百千ものホタルが一斉に飛び出してきました。その内に、美しく大きなホタルが現われ、小笛を招くようにう飛んでいきます。その後を追いかけ竹やぶに入ると、そこには綺麗な御殿が建っていました。まもなく少女が現われ、「お姫様がお待ちです」といって、案内してくれました。お姫様は見沼のホタルの謂れについて話してくれました。「私は昔ここにあった城の姫です。戦に負けて滅ばされ、一族ともどもホタルになりました。お願いです。私のために供養塔を建ててださい」小笛は、お姫様の悲しい、顔が忘れられず、願いどおり供養塔を建ててやりました.「岡部藩について岡部藩は、天正18年( 1590 )徳川家康の関東入国に際して、家臣の阿部信勝が武蔵国榛沢郡岡部などを拝領した計5250石を基に発展しました。信勝の遺領を受け継いだ嫡男・信盛は、上杉景勝討伐や大阪の役で功を挙げ、大番役などの役職を勤めました。江戸幕府初期のこの間、覚泉13年(1636)に三河国内4 , 000石加増、次いで慶安2年(1649)摂津国内に10,000石を加増されて信盛は大名となりました。その後、所領高20,250石となった岡部藩は、現在の深谷市岡部を本拠地にしながら、摂津国桜井谷(現在の大阪府豊中市)や三河国半原(現在の受知県新城市)に当地よりも大きな所領を有し、これを分割統治して幕末まで続きました。安部家は、江戸時代の全期間を通じて、移封・転封なく、岡部藩を治め続けたのです。慶応4年(1868)に最後の藩主となった信発は、半原へ本拠移転を願い出て半原藩となり、岡部藩の歴史は幕をおろすこととなったのです。」中宿遺跡中宿遺跡は、古代榛沢郡役所の正倉院跡です。櫛挽台地先端部に立地し、道の駅おかべに隣接します。これまでの調査で、稲穀類を収納したとみられる大規模な倉庫(正倉)群が、列をなして整然と並んでいるのが確認されました。存続時期は、7世紀末~1 0世紀と考えられます。建物のほとんどは総柱式の高床倉庫で、そのうち2棟が復元されています。北側には、自然流路を再掘削した河川跡が確認されており、運河的な機能を有していたと思われます。中宿遺跡は、『中宿古代倉庫群跡』として埼玉県の史跡に指定され、保存・整備されています。中宿遺跡倉庫群周辺の復元模型写真は、8世紀中頃の中宿遺跡倉庫群周辺の復元模型です。台地の緑辺に規格の異なる倉庫群が建ち並び、倉庫群直下には稲の運搬に利用されたと推定される河川跡が確認されています。「一般国道17号本庄道路神流川橋は「令和4年内」の開通を目指します」と。道の駅「おかべ」の「情報センター」での「予習」を終え、バスに乗り込み北に進み、「小山川」のい架かる県道14号線の「共栄橋」を渡る。そして更に進み「利根川」を渡る。「上武大橋」を渡る。埼玉県深谷市中瀬と群馬県伊勢崎市境平塚とを結ぶ橋。1934年10月30日開通した、橋長894.7 m、幅員5.5 mの鋼橋。「上武大橋」から利根川の上流を見る。そして群馬県伊勢崎市に入る。最初の目的地の「世良田東照宮」に向かって進む。そして太田市の「歴史公園」駐車場に到着。徳川氏発祥の地として知られている世良田東照宮の参拝に向かう。その周辺にも歴史的な建造物が多々あるとのこと。目的地の「世良田東照宮」に加え、新田荘歴史貞料館、周辺に鎮座する長楽寺、などを総じて「太田市歴史公園」と呼んでいるようであった。「ようこそおじままちへ」とあったが、ここは現在「世良田町」であり、この案内板は以前のものがそのままであるようであった。ネットで調べてみると、2005年3月28日に(旧)太田市、新田町、藪塚本町との合併により太田市となり「尾島町」は消滅したようであった。「太田市歴史公園案内図徳川氏発祥の地おじま平安時代の末期に後三年の役の内乱を定したハ幡太郎義家は、その後東国に強力な武士国を結成し、源氏は東国にその基盤を築きました。義家の子義国は関東に下りその長子義重が新田の荘を開さ、新田氏の祖となりました。さらに義重の子義季は徳川の地を領して徳川義季と名のり、その後承久三年(一ニニ一)後鳥羽上皇の勅願と伝えられる長楽寺を世良田に創建し、臨済宗開祖栄西の高弟栄朝を招いて開山しました。時を経て鎌倉幕府滅亡後、義重の後裔(こうえい)義貞の南朝方と義康の後裔足利尊氏の北朝方とが争った南北朝の抗争に義季の後裔は義貞と運命を共にして敗北を喫しました。その後足利政権の圧迫を受けた義季の後裔有親・親氏父子は当地を離れて流浪の旅に出、親氏は仏門に入って徳阿弥と名のった後、松平郷(豊田市松平町に移って松平太郎左衛門信重の入婿になったと伝えられています。以後代々相続し、永禄九年(一五六六)家康は松平姓から徳川姓に復姓し関東に入国した後、世良田藩徳川の地は徳川氏発祥の地として、将重家の厚い比護を受けるようになりました。」。「徳川氏略系図」徳川家康公の先祖は、新田氏の始祖である義重から新田荘の内、当地「世良田」 他5カ郷を譲り受けた子の義季である。義季は5カ郷内にある利根川沿いの押切を徳川と改称し、 徳川義季と称した。承久3年(1221)世良田郷を開発した義季は臨済宗長楽寺を開基し、世良田の義季とも称された。寛元4年(1246)頃、亡くなり同寺境内に葬られた。その後、頼氏・教氏・家時・満義と後継。 次の政義・親季・有親は、南北朝時代に南朝方として活躍したが、9代目の親氏に至り北朝の猛勢により徳川郷を追われ同志 や一族の居所を頼りに出国。諸国を流浪の後、松平郷に身をよせ郷主在原信重に入婿し、松平親氏と称した。 それから7代を経て家康公は誕生した。家康公は三河一国を統一した25歳の時、松平姓から 徳川・世良田を開発した徳川義季にあやかり、徳川に復姓した。また松平家二代泰親は世良田三河守、同三代信光は世良田二郎三郎、同七代清康は世良田次郎三郎、家康公第四子忠吉は世良田下野守、尾張家三代綱誠は元服時に世良田、徳川七代将軍家継は幼名時に世良田鍋松君と先祖の姓である世良田を称していた。「大光庵太田市茶会所」が右手に。茶会所「大光庵(たいこうあん)」は、太田市歴史公園内に建設された木造平屋建て数寄屋造りで、四畳半の小間と、八畳の広間に水屋を備えた本格的な茶室です。また、日本庭園内には、外腰掛、中門の外には野点広場なども設けられており、四季を通してお茶を楽しむことができると。 茶会所「大光庵」の庵名は、長楽寺開山栄朝の塔頭大光庵より名前をとったもの と。「尾島かるた ろ炉の湯でお点前大光庵茶会所大光庵は、平成五年十月尾島町歴史公園内に建設された本格的な茶室です。町内の茶道愛好者を中心に、多くの方々に広く利用されています。茶道との深いかかわりのあった長楽寺の旧寺域でもあり開山栄朝にちなんで大光庵と名付けられました。」「歴史公園東照宮・長楽寺新田荘歴史資料館」碑。「歴史公園案内図徳川氏発祥の地本町は、十二世紀中頃源義國の長子新田義貞がこの地に荘園を開き、新田の荘と呼ばれました。更に、義重の子、義季は徳川の地を領して徳川義季と名のりました。その後、承久三年(一二二一)義季は、世良田に長楽寺を創建しました。徳川義季を先祖として、家康は松平を徳川に復姓し、更に、三代将軍家光は、日光東照宮の大改築を行い、奥社にあった拝殿と宝塔を天海大僧正に命じて、徳川氏先祖の地世良田に移築しました。こうして世良田・徳川の地として将軍家の厚い庇護のもとに繁栄を続けました。」「歴史公園案内図」をネットから。「新田義貞公之像」。ズームして。南朝方として後醍醐天皇に従った忠臣として楠正成と並んで特に有名な人物。鎌倉を攻めあぐねていた新田義貞が稲村ケ崎で黄金の太刀を海中に投げいれて竜神に祈願したら、潮がひいて海上の北条軍がはるか遠くに流されたため、稲村ヶ崎を海側から越え突破でき、鎌倉に突入することが出来たという・・その祈願のシーンが銅像になっている と。「新田義貞公傅正安三年(西暦一三〇一年)尾島町世良田の新田館(現在の総持寺内)に生れ成人して鎌倉の北條氏に仕えていたが北條氏の横暴を嫌って郷里のこの地に戻る その後大塔宮護良親王の令旨を受け生品神社に於いて討伐の兵を挙げ親族足利尊氏の兵を加えてもその数は二百有余騎で兵力の不足を嘆く その時新田家相傳の守本尊安養寺村新田觸不動尊の神力に依り甲信越の親族からの援軍を得て二千有余の軍勢で鎌倉を攻め落す 時に元弘三年義貞三十三才後足利尊氏は北朝に仕え新田義貞は南朝に仕う足利氏の非行を嘆き尊氏と戦い福井の藤島に於いて斃る 時に延元三年(西暦一三三八年)三十八才 尾島四八五 建設省 大澤明治 筆者 島田照資」「新田義貞公之像」の後ろにあったのが「新田荘歴史資料館」。「新田荘歴史資料館」では、新田荘遺跡を構成する、隣接の「長楽寺」「東照宮」の貴重な文化財を始めとして、太田市の豊かな歴史を物語る古墳や埴輪など、多くの資料を保管・展示してあるのだと。展示品を見学したかったが、残念ながら素通り。「新田荘歴史資料館」碑。「新田荘歴史資料館」の前の芝生の中にこんもりと盛り上がった場所があった。「長楽寺遣跡1号墳長楽寺遣跡からは、東毛歴史資料館建設に伴う発掘調査により、古墳時代の住居跡30軒(4世紀)、古墳5基(6世紀初頭)、中世長楽寺々域を画したと考えられる大溝等が見つかりました。1号墳は、直径約18メートルの円墳で、盛土は失なわれ高さは不明ですが、1周する溝(周溝)と人を埋葬した石槨が見つかりここが石槨の位置です。石槨は、ローム層を掘りこんで、凝灰岩を側壁・天井石に使い側壁のまわりを河原石でおおい、さらに全体を粘土でおおっていました。出土遺物は、石槨より鉄鏃(矢じり)、周溝より壺、円筒埴輪等です。」見学通路の角にあったのが、屋根で覆われた井戸。「国指定史跡 新田荘遺跡 東照宮境内真言院井戸所在地真言院は、当會一紲に長楽寺別院として境内に建てられた。ここでは専ら密教をつかさどり灌頂(かんじょう)を行った。灌頂とは、真言密教の儀式の一つで、頭の頂きに水を灌れ(そそがれ)、それによって僧侶として一定の資格を得ることである。この時使用する閼伽(あか・水)は、きわめて清浄なものとして重視された。真言院井戸は、この灌頂に用いる浄水を汲むために設けられたものである。僧侶は、この水で灌頂を受けるために諸国からここに参集した。井戸は、底部より玉石を積み上げ、その上部には、花崗岩の大石を方形にくりぬき、縁を唐戸面に仕上げた井戸枠がすえられている。これは、徳川家康の命により長楽寺住職となり、当寺を再興した天海憎正(慈眼大師)によって、寛永十九年(一六四二)に作り替えられたものである。井戸枠の南面に良田山長楽寺真言院閼伽井山門三院執行探題大憎正天海長楽寺再興之砌(みぎり)彫刻北面に寛永十九壬午暦孟春十七日孟春ー旧暦一月の文字が刻まれている。その後、灌頂の儀式は長楽寺で行われるようになり、真言院は廃されたが、由緒あるこの井戸は丁重に保存され、今日にいたっている。」アジサイ【アナベル】が美しかった。「南御門」を潜る。「南御門この御門は東照宮が御鎮座したおり御神域を守護するため、現地より東南の位置に築かれておりました。また御黒門を中心とした北御門・南御門の門前には、下馬札が立てられておりました。」桜の老木。「御神域桜群馬県一太いソメイヨシノ樹齢年:不詳」と。更に「世良田東照宮」に向かって進む。「徳川氏発祥の地」案内板。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.02
コメント(0)
2020年4月から、我が地区の自治会連合会の役員をやっています。この2.5年間はコロナ禍で自治連での団体行動は中止していましたが、この日6月22日(水)には自治連役員、自治会長等による研修旅行に観光バスを利用して埼玉県深谷市に行って来ました。埼玉県深谷市への旅行は、2年前から計画していましたが、やっとこの日に実現したのです。定刻の7:30に集合場所の小田急線駅前から出発。参加人数は約30名。この日は、東名高速「綾瀬スマートチェンジ」に向かって進む。左手に「綾瀬市役所」庁舎。前方のモザイク模様の壁の建物が「MFLP 東名綾瀬」。東名高速道路「綾瀬スマートIC」に隣接。近郊・首都圏への配送はもとより西日本への配送にも対応可能なマルチテナント型物流施設。綾瀬市の玄関口に相応しい外観デザイン。屋上にはドクターヘリポートを整備し、緊急救命体制に寄与し地域に貢献していると。「綾瀬スマートIC」案内板が現れた。「スマートIC」とは、ETC専用インターチェンジのこと。緊急車両は除き、有効なETCカードを所持し、ETC車載器を搭載した車両しか出入できないのだ。「綾瀬スマートIC」南口の「東名(名古屋)」入口から東名高速へ。茅ヶ崎JCTにて、下に見える「東名高速」から圏央道に向かって進む。圏央道に入ると左手に見えたのが相模川。その先には厚木ガス 本社のガスタンクが。前方左手前に「相模大橋(さがみおおはし)」が。神奈川県海老名市と厚木市の間の相模川に架かる橋梁。旧国道246号の経路であり、現在は神奈川県道40号、43号、51号が通る。かながわの橋100選に選ばれている。その先には「あゆみ橋」が。「この橋の位置には、もともと「相模橋」と称する橋があった。現在の相模大橋の開通とともに、相模橋は廃橋となったが、地域住民の要望により、流されてもすぐに架け直せるような簡易な構造の沈下橋「相模小橋」を架けることになり、1966年(昭和41年)5月24日に開通した。それ以後、潜水橋に由来する「もぐり橋」という通称で、地域住民に親しまれた。大雨で橋の一部が流れてしまった場合、海老名市と厚木市が毎年交代で費用を負担することになっていた。しかし、台風が多い年は予算超過となる上、毎年交代での費用負担は不公平に見えることもあった。また、夜間は危険なため、午後7時から午前5時までは人も含めて全ての通行ができないことになっていたが、これは地域住民には不便であった。また、一方通行であり海老名から厚木方面のみに限り通行可能である為に、厚木市民側からは不公平だと言う意見も多かった。このような理由から、恒久的な橋に架け替えることになり、1992年10月から着工、1996年2月1日に開通した。なお、「あゆみ橋」は接続路も含めて、大型車の通行が禁止されており、これら車両は相模大橋に迂回する必要がある。」とウィキペディアより。ネットから「もぐり橋」の写真を。その右側は工事中の「あゆみ橋」の姿と。 【https://ioridreams2019.blog.fc2.com/blog-entry-248.html】より欄干は触ると下流側に折れ曲がる構造になっていたと。 【https://ioridreams2019.blog.fc2.com/blog-entry-248.html】より「中央自動車道」への「八王子JCT」手前を通過。左手に見えたのが「秋川」沿いにある「東京サマーランド」。東京都あきる野市にある遊園地。日本最大級の流れるプールや天候を気にせず遊べるドーム内プールなど、多彩なウォーターアトラクションが中心。「多摩川」を渡る。そして「圏央」の「狭山PA」で1回目のトイレ休憩。様々な種類の「狭山茶」が売られていた。「釜めし」も。バスのフロントガラスには我が自治会の名前が。そして「鶴ヶ島JCT」から「関越自動車道」へ。「関越自動車道」を降りる「花園IC」に向かって進む。「荒川」を渡る。「花園IC 料金所」を通過。国道140号(彩甲斐街道)を深谷市に向かって進む。そして左折して県道69号線に。「道の駅 かわもと」案内板。「深谷駅北口」方面を見る。右手奥に「深谷市役所」。「深谷警察署」前を通過。「渋沢栄一生地」案内板。田園地帯が拡がっていた。そして「道の駅 おかべ」で2度目のトイレ休憩。平成8年に建設され、地元物産品を扱う「ふるさと物産センター」や地元新鮮野菜を取り揃えた「農産物直売所」などを併設し、深谷市の西の玄関口として賑わっていた。店内を散策。農産物直売センターでは深谷ねぎをはじめ、野菜、切り花など地元品を販売していた。深谷ねぎを使用した「元祖ねぎみそ煎餅」。表面に刻みねぎがたくさん付いている煎餅で、贈答用の箱詰めセットもあった。私も袋詰めを1袋購入。そして六角形の「情報センター」を急いで訪ねたのであった。「現在地」周辺の地図をズームして。 ・・・つづく・・・
2022.08.01
コメント(0)
翌朝も6時過ぎに温泉に向かう。「大浴場ご利用時間のご案内」」「ほたるの湯」と「松ぼっくりの湯」が時間により男風呂と女風呂に切り替わるシステムになっていた。よってこの時は「ほたるの湯」を楽しむ。手前が「ほたるの湯」・「壱の湯」。大きい方が「ほたるの湯」・「弐の湯」。その奥にタイル絵が。源氏物語の世界であろうか。「ほたるの湯」の「檜風呂」。「ほたるの湯」の「岩風呂」。「ほたるの湯」の「陶器風呂」。部屋への通路には近くで観察できるホタルの写真が。雪の寒村の姿が絵画で。部屋に戻り、再び早朝の「アオサギ」をカメラで追う。羽を広げた勇姿。愛情の表現か?木の枝で造った巣。全部で10羽以上を確認できたのであった。JR身延線の電車が「下部温泉」駅に。朝食会場に向かう通路には手作りのお雛様が。バイキング方式の朝食を楽しむ。1階ロビー内にあった「懐かしの石原裕次郎写真展」のコーナーがあった。「懐かしの石原裕次郎写真展」案内。「名優石原裕次郎が、右足首骨折のため、当館を訪れたのは昭和36年のこと。志賀高原でスキー中、粉砕複雑骨折する事故に遭い、医師より切開手術を勧められた彼は、メスを入れることを嫌い、温泉療法の道を選びました。全国の著名な温泉地を候補に、周囲の勧めと自らの意志で当地下部温泉を選んだのです。6月3日から7月25日まで、まき子夫人の手厚い看護を受けながら約1ヶ月半にわたり温泉療養と歩行訓練を続け、驚異的な回復ぶりを見せたという。今なお、彼にまつわる数々の逸話が語り継がれています。」と下部ホテルのHPには。様々な写真が展示されていた。石原裕次郎 ポスター 「狂った果実 CRAZY FRUIT BORN IN 1934 」。石原慎太郎が自ら描いた肖像画 であると。「裕ちゃん13回忌の特別番組「想いでの地」で撮影の為 まきこ夫人ご来館 1999年11月」と。「日活映画・石原裕次郎作品ポスター大全集」。日活時代の全出演作は89作品に及ぶとのこと。一つ一つの写真に彼の想いが溢れ出ていた。「痛みとれ 別れ惜しむか 下部の湯」と石原裕次郎直筆の句。名優 石原裕次郎氏ゆかりの部屋「裕林の間、松の間」があると。「昭和36年に名優、石原裕次郎氏が骨折療養のため、実際に長期滞在されたお部屋「裕林の間」は、裕次郎氏により名づけられました。当時のたたずまいも今のそのままに受け継いでおります。」と。「裕ちゃんを偲んで」、裕ちゃんの写真とともに「下部ホテル」を紹介する雑誌の1ページ。こちらも。「身延路を 右に左に 下部の湯」。映画ポスター「銀座の恋のものがたり」。画家を夢見る貧乏青年、伴次郎(石原裕次郎) は人力車で銀座の夜を走らせている。彼を同居する青年、宮本修二(ジェリー藤尾) は音楽家を目指している。次郎は宮本が作った楽曲に詩をつけて口ずさんでいる。絵の才能がある次郎は美術会社への就職の口もあったが、断る。恋人の秋山久子(浅丘ルリ子) は安定した結婚生活を夢見ており、落胆して次郎の元を去る。宮本は音楽の道を諦めてヤクザまがいの密造酒売買で商才を発揮する。関口典子(江利チエミ) は婦人警官の素性を隠して、宮本らの組織を追い詰めていく。そして次郎に恋する。次郎は久子とよりを戻すために美術会社への就職を決意する。そして次郎の故郷の長野へ一緒に行く夜に事件が起きる。久子が行方不明になったのだ。その後・・・・・ のストーリー。売店。山梨の人気の土産・ワイン・酒類やホテルのオリジナル商品も販売していた。そしてチェックアウトして「下部ホテル」を振り返る。そして帰路は、昨年8月末に全線開通した「中部横断自動車道」を利用する。「中部横断自動車道」は長野県小諸市の佐久小諸JCTから静岡市清水区の新清水ジャンクション (JCT) に至る総延長約132キロメートルの高速道路(高速自動車国道)である。略称は中部横断道(ちゅうぶおうだんどう)。日本列島の中心線に沿って列島を横切る形で走っているため、道路名は「横断道」と。そして、新東名経由で帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2022.04.06
コメント(0)
まずは温泉を楽しむ。「温泉の入口」日本の名湯百選に入選。戦国武将、武田信玄公ゆかりの下部温泉郷は二千年の歴史を刻む、隠し湯の里。一万坪にも及ぶ自然林の中に佇む当館の湯は、庭園内より湧出する硫黄泉と、引き湯の下部温泉共同泉。泉質の異なる「二種類の源泉」を、七つの露天風呂を含む大浴場など「十二の湯舟」で堪能できるとのこと。「大浴場のご利用について」と「黙浴(もくよく)」案内ボード。この日は入って左側が男湯・「松ぼっくりの湯」であった。「松ぼっくりの湯」配置案内図。脱衣室。駕籠は一つ置きに利用。洗面台。「松ぼっくりの湯」の内湯を独り占め。手前「壱の湯」。広々とした湯舟でゆったりと。さらりとした下部奥の湯高温源泉は、刺激の少ない優しい温泉であった。奥の「弐の湯」。下部ホテルの敷地内から湧き出す源泉を楽しめる内湯。トロリとした美肌の温泉。弐の湯の脇では、飲泉も楽しめるようであった。「弐の湯」の大岩。「松ぼっくりの湯」・岩風呂。猛々しい岩組と、深緑を映す瑠璃色の温泉は、まさに山間の趣き「自然のままに心のままに」下部ホテルのコンセプトを感じる野趣あふれる露天風呂なのであった。「松ぼっくりの湯」・八角檜風呂。8角形の桧の湯船と、放射状の天井、湯舟中央より滔々とあふれる源泉。シンメトリックな構造の湯船は、静かに目を閉じて浸りたい瞑想の露天風呂。「松ぼっくりの湯」を大いに楽しみ、部屋に戻りしばしの休憩。そして夕食会場に向かう。途中の通路脇には様々な手作りのお雛様が飾られていた。「お食事処 里のいろり」。途中の通路脇では戸川渓谷の清流で育った山女魚(ヤマメ)を炭火で焼いていた。臭みがなく身が締まっており、川魚が苦手な方にもおすすめと。炭火でじっくり焼き上げたヤマメは絶品なのであった。そして夕食会場へ。この日の「里のいろり 弥生のお品書き」。まずは「前菜」。「甲斐茜鱒」と「いくら」。「椀物」は筍饅頭澄まし仕立て。お造り。「薦め肴」・ボイル蛍烏賊(ホタルイカ)酢味噌 は 写真撮影を忘れました。 「焼き物」・南アルプス産山女魚の炭火焼き。カメラに納めていないことに気が付き、「牛ヒレステーキ」のみを。「食事」・筍ご飯、揚げ桜えびと赤出汁、香の物。筍ご飯。そして20:30から始まった「和太鼓ショー」。部屋への帰路の通路脇にあった、近くで行われるお祭り、催し物案内のミニ幟。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.05
コメント(0)
この日は3月17日(木)、南アルプス市内の工場に仕事で社長と向かう。16時過ぎに仕事を終え、この日は下部温泉に宿泊を予定していたので、カーナビをセットし国道52号・身延道をJR下部温泉駅に向かって富士川沿いを南下して行った。『甲斐国志』に拠れば、承和3年(836年)に熊野権現が出現して温泉が湧いたとする伝承を記し、この温泉を中心に下部村が形成されたという。また甲斐国造の塩海足尼が領内巡視の折にたまたま発見し、「塩部(下部)の湯」と名付けたとする伝説もある。鎌倉時代の日蓮書状(『日蓮聖人遺文』)によれば日蓮が当地で湯治を行い、室町時代には塩山向嶽寺の開祖・抜隊得勝も湯治をしたと言われる(『抜隊語録』による)。甲府の一蓮寺(甲府市太田町)に伝来する一蓮寺過去帳にも地名が見られる。戦国時代に下部村は湯之奥金山や木材伐採など河内地方の産業を支える拠点にもなり、下部温泉は河内領主の穴山氏が再興し(天正6年(1578年)7月20日佐野次郎右衛門尉宛穴山信君朱印状、風水被害を受けた温泉の復興を命じる内容)、徳川家康も入浴したという(『国志』)。江戸時代に湯治場となり、身延山久遠寺参詣者も利用した。戦国時代には武田信玄の隠し湯であるとする付会伝説が加わり、近代には富士身延鉄道(身延線)の開通により浴客は急増した。1956年(昭和31年)6月15日、国民保養温泉地に指定された。旧下部町南西部に位置している。南東の毛無山西麓で、富士川の支流で毛無山から発する下部川(湯川)に沿って静かな温泉宿が並んでいる。下部温泉駅前には温泉街最大の宿泊施設下部ホテルがあるほか、温泉街の中心地にある源泉館は足元湧出泉が有名である。「昔、著名人にも愛された湯治場・下部温泉郷日本の名湯百選にも選ばれている下部温泉。1300年の歴史があると言われていますが、第12代景行天皇の時代、甲斐の国造であった塩海足尼(しほのみのすくね)がこの地を訪れ、湯気が上がるのを見て「塩部の湯」と名づけ、それが転じて「下部の湯」となったという伝承もあります。その泉質が怪我の療養に良いとされ、武田信玄は戦場で傷ついた兵を療養させていたそう。このことから「信玄の隠し湯」と呼ばれ、多くの湯治客を迎え入れてきました。その中には著名人も多く、例えば、明治時代には新渡戸稲造や若山牧水が、昭和に入ると、作家の井伏鱒ニが執筆活動の拠点にしたり、名優・石原裕次郎が怪我の療養に訪れたりしました。現在は、レトロな雰囲気を残す富士川地域最大の温泉場として多くの宿泊客を迎えています。」今、下部の湯の効能を裏づける! ?松葉杖を供養する祭下部温泉には、昭和41年に始まったユニークなお祭りがあります。それは「松葉杖供養祭」。下部のお湯で怪我が治り、不要になった松葉枚を炊き上げるという奇祭で、かっては武者行列や山車のお練りもあったそう。木製の松葉杖の需要が減った今でも、全国から松葉杖が寄せられ、毎年5月の熊野神社春季例大祭に合わせ厳かに開催されています。そして「上川」交差点を左折し、国道300号を富士川に架かる「富山橋」を渡り、「浪高島トンネル」を通過し、「常葉川」に沿って進むと右側に目的地の「下部ホテル」に到着。入口の巨石には「下部ホテル」と刻まれていた。山梨県南巨摩郡身延町上之平1900。「下部ホテル」入口。「下部ホテル」案内板。二種類の源泉と十二からなる湯舟を巡る戦国武将、武田信玄公ゆかりの下部温郷はニ千年の歴史を刻む、隠し湯の里。多くの湯治客や旅人を癒し続ける名湯です。ニ万坪にも及ぶ自然林の中に佇む当館の湯は、庭内より湧出する硫黄泉(下部ホテル源泉)と、引き湯の下部奥の湯高温源泉。良質の異なる二種類の温泉を、七つの露天風呂を含む大浴場など十ニの湯舟でご堪能いただけます。「下部ホテル」と切り抜かれた竹灯篭。踏切手前が「下部ホテル」入口。奥にJR身延線の「下部温泉」駅のホームが見えた。駐車場に車を駐め、「下部ホテル」本館に向かって進む。手前が6階建ての「東本館」、奥に8階建ての「西本館」があった。手前にあった「法王稲荷」社。その先には句碑群が。3人の句が紹介されていた。「高浜虚子先生」と。「この行や 花千本を 腹中に 虚子(昭和33年4月13日)」昭和33年4月13日に、「裸子」100号記念大会に、富士山西麓の白糸の滝経由ここ下部ホテルに来たらしい。この旅の途中の桜が素晴らしくて詠んだ句であると。「百枚の浴衣を干すも花の中 素十」高野素十(たかのすじゅう)は茨城県出身の俳人・医師(医学博士)。高浜虚子に師事。虚子の唱えた「客観写生」を忠実に実践、簡潔で即物的な写生句で頭角を現し、山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに「ホトトギスの四S」と称された。「芹」主宰。本名:高野与巳(よしみ)。「春惜む花も過ぎたる山の湯に 俳一佳」。堤俳一佳は虚子の弟子、山梨ホトトギス会。堤俳一佳(一九〇四~一九九四)は、富士宮市を拠点として活動した俳人である。昭和初期から「ホトトギス」に投稿し、高濱虚子と強い師弟関係を結んだ。昭和二四年(一九四九)には、俳誌「裸子」を創刊した。俳一佳は、国鉄職員として山梨県・長野県で駅長を歴任、「裸子」刊行前後から富士宮市に居住し、退職後、本格的に活動を始めた。なお、「裸子」は、俳一佳没後は、平成六年(一九九四)からは堤高嶺主宰、平成二三年(二〇一一)からは堤信彦主宰に引き継がれ、現在に至っている。下田ホテルの「本館」玄関に向かって進む。「玄関」。「フロント」。体温チェック。「南山梨 観光マップ」。それぞれの観光地には多くの写真が。「レンタルe-バイク」コーナー。下田ホテル敷地案内図。フロント前のロビーには巨大な木彫りの虎が迎えてくれた。「虎さんはなでると喜びます。背中に登ると悲しみます!」と。顔をズームして。ロビーを望む。「雛人形 七段飾り 」。最上段の「男雛女雛」をズームして。二段目には、「三人官女」。「雛人形 七段飾り 」の裏にあった絵画。ロビーの外には「足湯」があった。縁側に座って自然を眺めながらのんびり入る足湯は最高なのであった。毎晩行われている「和太鼓ショー」会場。大太鼓、小太鼓がこの日の出番を待っていた。「風林火山」幟。武田信玄が軍旗に用いた「孫子」の句「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」を略称したもの。「疾(はや)きこと風の如(ごと)く、徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し」と。「全館ご案内」。7階エレベ-タホールからの「常葉川」と「国道300号」。そして我々の和風部屋。八畳の部屋。そして。窓から見える老松の上に「アオサギ」が巣を造っているのを発見しカメラで追う。アオサギ(青鷺[、蒼鷺、Ardea cinerea)は、鳥綱ペリカン目サギ科アオサギ属に分類される鳥類。本州・四国では周年生息する(留鳥)であると。ズ-ムして。頭部は白い。額から眼上部・後頭にかけて、黒い筋模様が入っていた。体上面は青灰色。種小名cinereaは「灰色の」の意。背に灰色の羽毛が伸長する(飾羽)。下面は白い羽毛で被われ、胸部の羽毛は伸長(飾羽)する。前頸から胸部にかけて、破線状の黒い縦縞が入る。側胸や腹部は黒い。雨覆の色彩は灰色で、初列雨覆や風切羽上面の色彩は黒い。人間でいう手首(翼角)の周辺には2つの白い斑紋が入る。虹彩は黄色。嘴は先端が黄色と付け根は薄いピンク色。後ろ姿を。大きく羽ばたいて。 ・・・つづく・・・
2022.04.04
コメント(0)
神奈川県足柄下郡湯河原町城堀にあった「城願寺」の散策を続ける。正面に「本堂」。「曹洞宗(禅宗)南無本師釈迦牟尼佛当山本尊 聖観世音菩薩大本山 福井県 永平寺 御開山 高祖道元禅師 横浜市 總持寺 御開山 太祖瑩山禅師伝統 お釈迦さまよりの正伝の佛法は達磨大師によって中国へ伝えられ曹洞の禅風として開花し 鎌倉時代道元禅師のお伝えにより日本開宗となすその教義は瑩山禅師によって広く全土に 実践教化され今日に至る。教義 人は本来佛性有り 己に佛心の具え有り 正法の経典を讃仰読誦(どくじゅ)し深く黙照して 坐し脚下照顧(きゃっかしょうこ)して己の足下を見つめ自然(宇宙)と一体なる自己を 見極めて 活達なる 人生いかしきるのが 禅の実践なり経典 修証義 般若心経 観音経寿量品等を読誦する 本堂のご本尊に 先ず合掌」扁額「護国殿」。「文殊堂」。「文殊堂由来この建物は文殊堂と言って三神仏が祀られております。文殊師利菩薩天神様地蔵菩薩明治 新政府は国民に等しく就学を義務としたが当時適当な施設がない為全国各地の寺院や旧家を学舎として新しい学問の第一歩を踏み出した。湯河原町も当寺「城堀村 門川村 宮下村鍛冶屋村」を一学区として明治五年学制発布とともにこの古くからあった文殊堂を仮校舎として学習の産声を挙げた。古き時代の教育の殿堂も永年の風雪に耐えがたく古い原型ののままに昭和五十二年改修し寺子屋時代の明治郷土先人の学舎として又 貴い学びの御仏道としてお祀りし保存しています。」「お寺まいりのすすめ十箇条 積徳一 辺(ほとり)を過ぎて詣ずべしたゞし寄道を要せずニ 暇をつくりて詣ずべしたゞし無理を要せず三 思いたてば詣ずべしたゞし家業を欠くを要せず四 迷いあらば詣ずべしたゞし望外を望むべからず五 憂いきわまって詣ずべしたゞしすべてを委すべし六 志たたば詣ずべしたゞし加護を信ぜるべからず七 喜びありて詣ずべしたゞしこれ信心のおかげなり八 忌日命日に詣ずべしたゞし自発的な心を持ってなり九 招かれて詣ずべしこれ願ってもなき好様なり十 正法を求めんとして詣ずべし人たるのつとめと心得べし」「土肥一族の墓所」を訪ねた。「土肥一族の墓所城願寺は、土肥次郎実平が菩提寺として建て、室町時代に中興されたと伝えられています。土肥次郎実平は、源頼朝が石橋山で旗上げした時に従いましたが、頼朝が敗れ、脱出する手助けの際、功績がありました。その後、木曽義仲、平家及び奥州藤原氏の征討に従軍しましたが、それ以後のことは定かではありません。城願寺本堂左方の広さが10坪ほどの土肥氏一族の墓所には、66基の墓石があり、嘉元2年(1304)7月の銘のある五層の鎌倉様式の重層塔や、永和元年(1375)6月の銘のある宝筺印塔をはじめ、塔身が球形をした五輪塔などの各種の墓型が揃っています。このように一墓所に各種の墓型がそろっているのが見られるのは、関東地方ではめずらしく貴重なものです。●お願いこの史跡の現状をみだりに変更したり、荒らしたりしないで、大切に保護して下さい。特に墓石には、絶対に手をふれないようご注意ください。」66基の墓石があると。「土肥一族の墓所源頼朝の平家追討旗挙げの中心となり活躍した土肥次郎実平が、平家滅亡と鎌倉幕府成立の大業を成し遂げたのち、出陣した自分の信仰する持仏堂のあるこの地に、犠牲者の菩提を弔い一族の長久を祈るため城願寺を建て、鎌倉時代中期に一時衰退しましたが、室町時代に中興されたと伝えられています。実平は、桓武平氏良文流中村宗平(現在の神奈川県中井町)の次男です。石橋山の戦いで敗れ、失意の頼朝を励まし山中を逃げ延びて房総へ小舟で渡海したのち、富士川の戦い、宇治川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦いと転戦して、下関壇ノ浦で平氏に勝利するまで戦いの連続でした。その間、惣追捕使として、瀬戸内、山陽山陰・四国地方の統治管理を続けました。鎌倉幕府成立後、実平は、現在の広島県三原市にある沼田荘に長男の遠平と移住し、この地で亡くなりました。遺骨は分骨され、三原市米山寺に、さらに鎌倉で将軍頼朝に目通りを終えてから城願寺に葬られ、のちに遠平も沼田荘で亡くなり、同じように城願寺へ葬られたと伝えられています。実平の墓は、当寺や米山寺以外にも、山形県鶴岡市井岡、静岡市安養寺、小田原市谷津鳳粟院などにもあります。正面4基が五輪塔(ごりんとう)。その左右に一つずつ層塔、さらに四角い宝篋印塔(ほうきょういんとう)が左右に続きます。五輪塔はどれも銘が無く、建立年や施主などは不明ですが、実平が中央、向かって左に実平の妻、中央右が遠平とその妻の供養塔と伝えられています。」正面に4基の五輪塔が。近づいて。実平が中央左、その左に実平の妻、中央右が遠平とその妻の供養塔と。一切、文字等を刻まれていなかった。「土肥一族の墓所」をカメラで追う。奥には無縫塔もあった。様々な形の墓石が並んでいた。「真鶴半島」が見えた。ズームして。更にズームして「三ツ石」を。墓地の最奥から「鐘楼」を見る。「伊能忠敬測量隊 土肥氏墓に参拝文化12年(1616)12月19日「前日 土肥実平の子孫である門川村名主 富岡次右衛門から」実平の事績を聞いて感動し、翌日 測量終了後に参拝した」と。「鐘楼」に近づいて。「梵鐘」。「十三重石塔」。「写真撮影の窓 ビャクシン Power」持仏堂をこの地に建てた土肥実平の手植えの木と云われています。源頼朝や土肥実平らが平家討伐の出陣を見守り、石橋山合戦に敗れ山中に逃れた頼朝主従七騎が無事に房総半島へ逃れるのを見守りました。一時期荒廃した城願寺が復興していくのを見守った歴史の証人ともいうべき大樹。信頼・友情・恩義を与える、「ビャクシンパワー」と云われております。※昭和14年国の天然記念物に指定再び梛(なぎ)の葉を追う。水子地蔵尊のお顔をズームで。「寺務所」。そして帰路に。しかし土曜日の夕方でもあり、国道135号は真鶴の先から大渋滞なのであった。静岡県東部にある伊豆半島は2022年放映の大河ドラマの舞台としても話題になり、昨年の夏以降静岡県内でさまざまなシーンが撮影された。伊豆の国市は鎌倉幕府成立の立役者・北条義時が生まれ育った地であり、北条家ゆかりの地。そして伊豆市、熱海市、湯河原市にも源頼朝ゆかりの数多くの神社仏閣があった。静岡県は物語の舞台の地として、大いに盛り上がりを見せているのであった。今回は2回に分けて、「鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館」をはじめ、いくつかの北条氏そして源頼朝等のゆかりの地を訪ねたのであった。コロナ禍の影響もあり、人出も少なく、ゆっくりと見学できたのであった。北条氏といえば、伊豆のローカルな小豪族というイメージが強かったが、今回多くのゆかりの場所を訪ねてみると、そのイメージは完全に崩れたのであった。大河ドラマの主人公北条生誕の地であり、義時や政子が頼朝と出会い、歴史を動かす存在へと成長していった北条のゆかりの史跡や寺院を満喫したのであった。また守山山頂展望台や韮山城にあがり、頼朝が20年を過ごした鎌倉幕府草創の景色を楽しみ、その想いを馳せることが出来たのであった。今日からも、訪ねた場所の光景を想い出しながら大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を楽しみたいと思っているのである。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2022.04.03
コメント(1)
JR湯河原駅前にあった「土肥實平公並婦人像」を後にして、この日の最後に向かったのが「城願寺」。神奈川県足柄下郡湯河原町城堀252。駐車場に車を駐め「城願寺」の裏口から境内に入る。「鎌倉幕府草創の功臣 東国武士の鑑 土肥次郎実平一族 菩提寺 萬年山 城願寺」碑。「城願寺城願寺は鎌倉幕府創設の源頼朝を助けた土肥次郎実平等一族の菩提寺です。背後の城山は35 ~ 30万年前に活動した箱根火山外輸山を構成する湯河原火山の噴出物で、その溶岩を採掘した文献に残る箱根火山最古の丁場がこの付近にありました。境内にある土肥一族墓所の墓石は、この外輪山溶岩のほか、中央火口丘溶岩も使われているようです。800年以上前にこの地の豪族、土肥実平が荒れ果てていた密教の寺院を一族の持仏堂とし、萬年山成願寺として再建しました。その後、室町時代初期に臨済宗として再興、更に15世紀曹洞宗の寺院として重興開山となり、城願寺と改名し、現在にいたっています。」「■土肥一族の墓城願寺本堂左方には、66基の墓石があり、土肥次郎実平ー族の墓所となっています。正面五輪塔の中央が実平、左が夫人で右が長男の遠平の墓と伝えられています。土肥一族の墓所には嘉元2年(1304年) 7月の銘のある五層の鎌倉様式の重層塔や、永和元年(1375年) 6月の銘のある宝篋印塔をはじめ、塔身が球形をした五輪塔などの各種の墓型がそろっています。このように一つの墓所で様々な墓型がみられるのは、関東地方では珍しく、神奈川県の指定文化財になっています。」■七騎堂境内の七騎堂には、石橋山の合戦での敗戦後、源頼朝を追手の平家方から守り通した土肥実平等の木像が収められています。しかし、終始行動を共にしていた実平の長男遠平は伊豆山近くまで来ていた頼朝の妻政子に、頼朝の消息を伝えに行ったので、七騎には含まれていません。このことは謡の「七騎落ち」では史劇的創作となっています。■ビャクシン境内には土肥実平御手植えと伝えられる樹齢800年を超えるビャクシンがあり、国の天然記念物に指定されています。これは神奈川県内では最も樹齢が長く、垂直に伸びた幹の見事な姿は全国的にも稀で、神奈川の名木100選にも選ばれています。」「水子地蔵尊」とその手前に「常香炉」。「水子地蔵尊」をズームして。「賛 水子地蔵尊父母の縁しに招かれて 宿りたれども恵みなく この世に出ず可き身をなくす ここに大慈の地蔵像父母に代りて抱き給う 参り来て深き祈りの親心 悟りて晴れる水子霊 合掌」「七騎堂(しちきどう)境内の七騎堂には、石橋山の合戦での敗戦後、源頼朝を追手の平家方から守り通した土肥実平等の木像が収められています。しかし、終始行動を共にしていた実平の長男遠平は伊豆山近くまで来ていた頼朝の妻政子に、頼朝の消息を伝えに行ったので、七騎には含まれていません。このことは謡の「七騎落ち」では史劇的創作となっています。扁額「七騎堂」。「七騎堂の由来伊豆に流されてニ十年間、蟄居の生活を送っていた源頼朝が、源氏再興の旗拳げをしたのが今から約八百年の昔、治承四年八月二十三日である。頼朝は石橋山(神奈川県片浦村)に陣を布き、手勢三百騎で平家方の大場景親軍三千騎と対戦したが、衆寡敵せず忽ち潰走して土肥の杉山に逃れ、山中の洞窟に身を隠し或いは山中の堂宇に難を避延びたのである。この時同船したのが頼朝以下主従七騎宝であったので、世にこれを頼朝七騎落と呼んでいる。頼朝の決起によって平家が滅び、日本の王朝政治が終りを告げて武家政治の時代が開かれ、ここに日木歴史を転換させた最初の戦が土肥郷(今の小田原から湯河原まで)を舞台として戦われ、しかもこの合戦の参謀として活躍したのが当地(現湯河原町)に居館を構え、土肥郷を領していた土肥次郎實平であったのである。吾が郷土の史実研究団体である土肥会に於いては、さきに郷土と縁の深いこの七騎落七武者の像を刻み、土肥氏の菩提寺城願寺境内に一宇の堂を建立し、ここに安置することになった。七騎堂即ちこれである。」謡曲「七騎落」と城願寺謡曲「七騎落」は、鎌倉武士社会の忠節と思愛の境目に立っ親子の情を描いた曲である。石橋山て敗戦し逃げ落ちる源頼朝主従八騎は、船で房総に向かう事になった。頼朝は祖父為羲・父義朝の先例を思い、八騎の数を忌んで七騎にするよう土肥実平に命じた。主君の武運を開くために我が子遠平を犠牲にしようと覚悟して下船させたが、折よく沖合の和田義盛に救われ、歓喜のあまり酒宴を催して舞となるという史劇的創作曲である。 城願寺は土肥氏の持仏堂跡で、土肥郷主実平、遠平父子がその城館の上の丘に創建し、大鏗禅師の弟子雲林清深が中興開山で、足利時代である。土肥一族の墓所があり、七騎堂には七騎の木造が収められている。」「国指定天然記念物 城願寺のビャクシン(柏槙)」碑。近づいて。境内には石橋山合戦に敗れた源頼朝を大庭景親の軍勢から守った土肥実平が御手植えと伝えられる樹齢800年を超えるビャクシンがあり、国の天然記念物に指定されていた。樹高20m、胸高周囲6mあると。これは神奈川県内では最も樹齢が長く、垂直に伸びた幹の見事な姿は全国的にも稀で、神奈川の名木100選にも選ばれているのだと。長い年月をかけて捻れて来たのであろうか?そしてこちらは「縁結びの樹 なぎ(梛)の木」。「なぎ(梛)の葉」に近寄って。「とても丈夫な葉をもつことから縁結び・良縁の木とされるナギ。葉のカタチをみると広葉樹のような幅の広い葉を持っていますが、実は針葉樹なのです。その葉脈は独特で、主脈が無く、縦方向にのみ平行に伸びています。この葉脈の方向に引っ張っても葉がなかなか切れないことから、縁結びの願掛け・お守りにするようになったそうです。その昔、女性が鏡の裏側にナギの葉を入れ、夫婦の縁が切れないように願ったとのこと。源頼朝が北条政子とナギの木の下で逢瀬を重ね結ばれた、と伝わるなど、ナギが『縁結びの木』といわれる所以は数多くあります。また、ナギの読みが波の穏やかな状態をさす“凪(なぎ)”に通じることから、古来より船乗りや漁師がその葉や実を航海安全のお守りにしたそうです。葉っぱを2枚頂きました。実際の葉を縦に引っ張ってみましたが、すんなりと。そして横に。なかなか、いや全く切れませんでした。やむ無く、葉の端に傷をいれ無理やり引っ張ると何とか切れたのですが、剥がれた場所には葉の繊維が顕に。葉脈の方向に引っ張っても葉がなかなか切れないことから、縁結びの願掛け・お守りにすることが理解できたのでした。こちらが「城願寺」の「山門」であった。山門の両脇には大きな仁王像が。扁額は山号の「萬年山」。仁王像(阿形像)。仁王像(吽形像)。「三界萬霊等」碑。「六地蔵」。無縁仏「供養塔」であろう。「無縁塔」碑。「山門」、「仁王像」を裏から。石段の先には「萬年山」(右)、「城願寺」(左)。その先に「国指定天然記念物 成願寺のビャクシン」。「鎌倉殿の13人 土肥実平ゆかりの地 湯河原町」幟。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.02
コメント(3)
「福泉寺」を後にして、「JR湯河原駅」へ。駅前ロータリーに車を一時停車させ駅前の「土肥實平(どいさねひら)公並夫人像」を撮影。JR湯河原駅のシンボル的存在である「土肥実平公並夫人像」。土肥実平は、相模国足下(あしのしも)郡土肥郷(現在の神奈川県湯河原、真鶴町)の豪族で、土肥次郎とよばれ、平安末から鎌倉初期に活躍した武将。 1180年(治承4年)、源頼朝が伊豆で挙兵すると嫡男の遠平とともに中村一族を率いて参画した。以後、富士川の戦い、常陸国の志田義広討伐、宇治川の戦、源義仲討伐などに従軍し、1184年(寿永3年)2月の一ノ谷の戦いでは源義経の軍に属して戦い、三草山の戦い後、吉備三国(備前、備中、備後)の守護職に任ぜられた。戦国に活躍した武家・小早川氏の祖とされている。「土肥実平公並夫人像」の前には「土肥氏館趾」碑があった。「乾坤一擲(けんこんいってき)」の文字が。土肥氏館は相模湾に面した海岸段丘先端(比高10ー15 m)に築かれた平城(崖縁城? )。館祉はここ現在のJR湯河原駅周辺に想定されているが、規模・構造ともに不明。築城時期は不明。館主は鎌倉御家人土肥次郎実平と伝えられる。土肥氏は桓武平氏良文の裔、相模武士団「中村党」中村荘司宗平の次男実平が「土肥郷」に入封して土肥氏館を築き、土肥氏を称したとされる。治承4 (1180 )年、源頼朝が挙兵すると土肥実平は「中村党」を率いて「石橋山の戦」に参陣したが、戦は頼朝方の敗戦で終結し、このため実平は領内の「しとどの窟」に頼朝とともに身を隠したと。そして平家滅亡後、実平は備前、備中、備後国の惣追捕使(守護職)に任せられている。しかし建暦3 (1215 )年に勃発した「和田義盛の乱」で実平の嫡孫左衛門尉維平が義盛方に加担したため土肥氏は衰退した。なお実平の嫡子筑後守遠平は乱前後に所領の安芸国「沼田荘」に下向し、この頃土肥氏館は破却されたものと思われる と。「乾坤一擲源頼朝が覇業を天下に成したるは治承4年(1180)八月その崛起にあたり湘西における筥根外輪山南麓の嶺渓土肥椙山々中の巌窟など複離なる地利と此の地の豪族土肥實平等一族竝びに行實坊・永實坊・僧純海など志を源家に寄せたる人の和と天運に依る石橋山の挙兵地・山中の合戦場・椙山隠潜の巌窟(源平盛衰記に謂う「しとどの岩屋」)・小道の地蔵堂・安房を指して解纜した真鶴崎などまさに千載画期の史跡である 茲に挙兵七百八十年を記念して 土肥氏館阯に碑を建立するにあたり文を需めらる仍って誌す。」乾坤一擲(けんこんいってき)とは、のるかそるかの大勝負をすること。様々な角度から。見つめ合う姿であると。「土肥實平公並夫人像」。以下3枚は、以前に訪ねた時の写真である。土肥実平は源頼朝挙兵に参じ、共に石橋山で戦った。源義経や梶原景時を頼朝に取りなした。土肥実平の妻は、湯河原「しとどの窟」に隠れる頼朝に食糧を運び、その時に「きび餅」も差し入れたと伝わる。「由来土肥實平公は中世日本史上に活躍した郷土の武将である。治承4年(1180)源頼朝公伊豆に興るや、いち早くこれを援け、石橋山合戦には、土肥杉山にその危急を救い、鎌倉幕府草創に当っては、軍艦、追捕使、宿老として多くの功績を残した。公はまた領民を慰撫し、その敬慕を受けたことは、全国諸所に残る墳墓、伝説がこれを物語っている。公の夫人は民や農民に姿を変えて敵を欺き、杉山に潜む頼朝主従に食糧を運び、消息を伝えるなど、その"心さかさかしき"(源平盛衰記)は武人の妻の鏡として後世にまでたたえられている。ここに、源頼朝旗揚げより800年を迎え、土肥会創設50周年を併せ、記念として公並びに夫人の遺徳を後人に伝えんため、土肥實平公銅像建立実行委員会を結成し、町内外の有志の協賛を得て、その館跡、御庭平の地にこの銅像を建立したものである。」土肥 実平は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。桓武平氏良文流中村宗平の次男。相模土肥氏の祖であり、小早川氏の祖とされる。相模国の有力豪族中村氏の一族で、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とし早川庄預所を務め、父や弟の土屋宗遠と共に相模国南西部において「中村党」と称される有力な武士団を形成していた。現在のJR東海道本線湯河原駅から城願寺の辺りが居館であったと言われている。源・源経の平家追討阜出陣の図に描かれた土肥実平/国立国会図書館蔵中央に「土肥二郎実平」の姿が。 【https://bushoojapan.com/jphistory/middle/2022/01/30/165607】より相模の豪族「土肥実平」を演じているのは「阿南健治」さん。『四季彩のまち さがみの小京都 ゆがわら』案内板。「私たちのまち湯河原は、海と山と川に恵まれた自然環境や豊かな温泉、歴史文化の香り漂うまち並みなど、多彩な表情を持つ美しいふるさとです。京都で生まれた日本画壇の大家竹内栖鳳は、湯河原をこよなく愛し、この地で終焉を迎えました。その作品を展示する、「湯河原ゆかりの美術館」(現町立湯河原美術館)開設や、京都仙洞御所の州浜に趣のある岸辺を造り上げている吉浜の一升石(石一升を米一升と交換したと伝えられる)などが契機となり、平成十一年六月、本町は、全国京都会議において「小京都」に認定されました。これを記念し、ここに、御所にちなんだ庭園を整備いたしました。千二百年の歴史を誇る風雅な伝統が息づく京都に、いつの日か近づけるよう、これからも町民一同町独自の文化の掘り起こしと新たな創造に努力してまいります。」JR湯河原駅を見る。駅前広場は新国立競技場も手がけた隈研吾建築都市設計事務所の設計、デザインによる「木のぬくもりと湯けむりを感じるあたたかな広場」を企図したと。駅前広場整備工事完成式・完成イベントを2017年10月1日に開催したのだと。ズームして。駅前の道路沿いにあったのが「一升石(いっしようせき)文化十四年(一八一七年)、京都仙洞御所において、光格上皇が院政を開かれた際、御所の庭に州浜を作るため、京都所司代の要職にあった小田原藩主、大久保忠真公が、本町吉浜(当時古濱村)の海岸から、三寸から四寸の長楕円形の石を米一升与えて集め、真綿に包んでニ千俵を海路京都まで運び、献上されたと伝えられるところから、一升石の名ついたとされています。四季彩のまち さがみの小京都ゆがわら」一段下にあった「一升石」のモニュメント。再び「JR湯河原駅」のふんだんに木材を使った駅前広場の建物を正面から。「湯河原の文化の中心に温泉がある」とし、「手湯」も設置されていた。改札入口。快速アクティーで東京駅まで約1時間30分、普通電車で約1時間45分の駅。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.04.01
コメント(0)
次に訪ねたのが「首大仏」の」ある「福泉寺」。境内への石段の横に「福泉寺」碑があった。静岡県熱海市泉191−1。福泉寺は、天文元年(1532)保善院四世帰雲元守により再興され、曹洞宗となった。 高台にある境内に、最近では珍しい茅葺屋根の本堂や庫裏、創建から500年以上とのこと。福泉寺は保善院の末寺で、曹洞宗、本尊は釈迦、開基は養心信公。 開山した帰雲禅師は大永元年(1521)伊豆田中にて第を結び、大永七年から報恩に居たが、晩年に保善院に帰ると庵を造り「竹葉軒」と名付けて住まい、天文七年(1538)に他界した。 明和元年(1764)九代目の時に竹葉軒が焼失し、明和八年(1771)2月に再建された。この竹葉軒が現在の福泉寺になった。寺名: 青谷山 福泉寺宗派: 曹洞宗建立: 天文元年(1532)保善院四世帰雲元守により再興開山: 帰雲禅師 , 開基: 養心信公本尊: 釈迦如来茅葺きの本堂ここ福泉寺は千歳川にかかる泉大橋の約80m下流、熱海市側にある。熱海市内では唯一の茅葺きの本堂を構えるこの寺は、明治8年(1875年)に金160両にて再建されたとあって、風格のある古寺の雰囲気を醸し出していた。彩色が施された迫力ある見事な龍の彫刻。扁額は山号の「青谷山」。正面に「首大仏」。肩から上だけの珍しい陶製の釈迦像は、名古屋城主徳川光友公が亡き母を弔うために造ったと言われるもの。その高さは約2.5m。胸から下のお姿の行方は現在も謎に包まれていると。もとは名古屋城内に安置されていたが、戦後、福泉寺に奉納されたのだと。裏から。螺髪も立派なのであった。「首大仏」を守る「仁王像(阿形像)」。「首大仏」を守る「仁王像(吽形像)」。「福泉寺釈迦如来像この釈迦如来像が建立されたのは、尾張名古屋藩主・徳川家三代光友公(一六ニ五~一七〇〇)の時代です。光友公の父・義直公がある日、城を出られ狩りに行かれたその帰り道、馬上より遙か遠くを見ると【沿道添いに、耳の遠い老婆が殿様の列に気づかず、家の前で行水していたところ、それに気付いた娘が咄嗟に老婆をタライごと家の中に運び入れた】その姿を見ていた義直公は娘の孝心とその行為に感激され、その娘に御殿奉公を命じ側室に迎えました。いつの日か娘は懐妊し若君を授かりました。若君出産にあたり【四天下郎、・身分の低い者がお殿様のお子を不壌な股からお産み申すのは万世の恥であり、腹からお産み申す】と言い切り懷断切腹して若君を出産され、母胎のその娘は命を落としました光友公は若くして孝順厚く、自分自身の出生経緯を知り、母上の菩提を弔う供養をされ、供養として迦如来像の建立を発願されました。その像の製造を中国人陶芸家・陳元贇に命じ、尾張瀬戸・赤津村大仙山の土を使用したと伝えられています。現在この像は頭部だけですが、胸部が何処かに埋まっているとの諸説もあります。時代の変遷で此の像は幾多の地を廻り、戦時中この福泉寺に安置され現在に至っています。」寺務所の扁額は「龍鳳閣」。境内の斜面には多くの木々、石、石仏。石碑が見事な調和で。奥の段上には享保6年(1721)奉納西国順禮供養碑、奉納西国三十三所観世音菩薩碑等、石塔群等が祀られていた。「南無阿弥陀佛」碑。岩でできた祠の中に白亜の石仏が。近づいて。三面八臂像。ここにも苔生した石仏が。御神木のような大きな木のうろの中に鎮座しておられるのはお地蔵様近づいて。石灯籠。石灯籠再び「首大仏」を離れて見る。観音像であろうか。「鬼子母神」碑。「鬼子母神堂」「鬼子母神堂」内陣。こちらは六地蔵。左手の石仏。右手の石仏。中央に「三界萬霊等」と刻まれた石碑が。墓地を散策する。「水子地蔵尊」「南無釋迦牟尼佛」と刻まれた永代供養墓であろうか。「本堂」を見下ろす。墓地の先にはみかん?畑が広がっていた。立派な墓石が並ぶ。再び「本堂」を。こちらの「庫裡」も藁葺き屋根であった。駐車場から湯河原温泉を流れる千歳川を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.31
コメント(1)
次の目的地「丹那トンネル殉職者慰霊碑」に向かって「頼朝ライン」をひたすら熱海市の西部に向かって進む。そして熱海「梅園前」交差点を直進すると右側に「丹那トンネル殉職碑」案内板があった。その横には「丹那神社 丹那トンネル殉職碑 救命石・水力発電所跡」案内板も。駐車場に車を駐め、散策開始。駐車場の前には「丹那隧道工事風景写真」の掲示板があった。「坑内6,045尺(約1.8km)地点での掘削工事の状況」「坑内7,893尺(約2.4km)地点での掘削工事の状況」。「坑内6,600尺(約2.0km)地点での巻立て工事の状況」。「水抜き坑(排水用トンネル)600尺(183m)附近」。「旧熱海線鉄道施設群 丹那トンネル(熱海ロ) 延長7,804m 昭和9年12月竣工当初の東海道線を輸送強化するため、御殿場廻りから熱海廻りの旧熱海線が計画され、その最難関工事である丹那トンネルの工事が大正7年から始まった。破砕帯の出水事故などで多くの犠牲を払い、困難を克服して、ようやく昭和9年に完成した。その過程では丹那方式と呼ばれる水抜き坑、圧搾空気掘削法など日本の工事で初めて実用化された工法が数多<ある。このため、世界に誇る日本のトンネル技術の発展を物語る貴重な土木遺産であることから、令和元年度の土木学会選奨土木遺産に認定された。」「土木學会選奨土木遺産 JSCE 2019 旧熱海線鉄道施設(丹那トンネル熱海口)」と書かれたプレート。JSCEとは公益社団法人土木学会(どぼくがっかい、Japan Society of Civil Engineers)「丹那トンネル(熱海口)」に向かう東海道本線。JR東日本とJR東海の境界線はこのトンネルの入口のところになるのだ。「丹那隧道殉職者供養碑」元来は野中大乗院大明神境内に設置されたものだったが、昭和44年(1969年)6月に現在位置に移転。東海道本線は当初、箱根を避けて国府津から御殿場経由で沼津に向かったが、この区間は急な勾配が連続する難区間で、東海道本線の隘路となっていた。 これを解消するために熱海からトンネルで函南に向かう線が計画され、1918年に起工された。 しかしながら、工事では1920年に熱海口で、1923年には三島口でトンネル崩壊事故が発生した。 また1930年の北伊豆地震でも崩壊事故が発生した。これらの崩壊事故等により67名の方が亡くなった。 丹那トンネルの工事ではトンネル崩壊による人命損失のほかに、トンネル内への湧水により丹那盆地等で渇水災害が発生した。この渇水対策として該当地区に見舞金が交付され、水道が敷設された。「丹那トンネルの殉職碑」「丹那トンネルの殉職碑この碑は丹那トンネル開通にさいして鉄道省によって建てられました。この工事の際、67名の尊い犠牲者がでました。 碑には尊い犠牲者の姓名が刻まれています。 この工事は足かけ16年の歳月を要した世界的な難工事でした。 完成まで大事故は6回を数え、死者67名、重傷者610名という多大な犠牲をはらって昭和9年に開通いたしました。」この案内板の特徴的なものは、韓国語でも書かれていること。丹那トンネルは着工が1918年、開通が1934年で、第1次世界大戦終結の年の着工ながら、とにかく軍事活動を活発に行っていた時代。中国大陸、朝鮮半島出身の工夫も多く参加していたとみられ、殉職者の名前を見ると、李さんや金さんなどの名前が見られるのであった。丹那トンネルの工事は当初7年で完成の予定が大幅に遅れ、結局16年の歳月がかかるほどの難工事であった。常に大量の湧水に悩まされ、トンネルと引き換えに7つのわさび沢を失うことになりましたし、大正9年(1920年)と大正12年(1923年)にはトンネル崩落事故があり、完成までに熱海口31名、函南口36名の犠牲者を出した。右側の球形モニュメント。中央に「殉職碑」と。正面彫刻家 斎藤素巌氏 作レリーフ右手は丹那隧道工事開始直後の手掘り時代。レリーフ左手は丹那隧道工事晩期の削岩機使用時代。その67名の犠牲者の殉職碑として熱海側に建てられたのがこの慰霊碑で、函南口にはそのうちの「36名の慰霊碑」👈リンク も別に建てられていた。これは函南口を請け負ったのが鹿島組(現=鹿島建設)という事情もあるようだ。李さんや金さんなどの名前が見られるのであった。左側の球形モニュメント。奥に進むと「新丹那トンネル」から出て来た新幹線の姿が。正面には「東日本旅客鉄道(株)来宮変電所」の車両入口があった。引き返して「丹那神社」に向かって進む。右手に小さな社が。その先にあったのが「救命石」を奉納した社。「救命石」。「救命石の由来大正10年「1921」4月1日午後4時20分頃、熱海ロの坑口から約300m奥に入った所で一大音響と共に、約2チャイン( 4 0 m )位崩壊しました。丁度この大崩壊の数分前です、ずり(残土)出しの者達が頂設盤のずりを漏斗にあけ、下でトロに受けて居りますと、この大石が漏斗にひっかかった、さあ大変、何とかして、これを取り出さなければいかんというので、ほかのトロ(トロッコ)と共に坑外に出る筈の作業員一同が手伝って、大石の取り除きに従事しました。そのうちに大崩壊がやってきて一同坑奥に閉じ込められたのです。もしこの大石が漏斗に引っかからず、仕事が順調に進んでいたものとすれば、丁度この石にかかっていた多数の作業員はトロと共に崩壊の箇所を通っている時分で、当然埋没される事になった筈です。この石の為に、一同の命が助かったというわけで、救命石と命名して坑門の上の山神社の所に保存してあるのです。」その先に「丹那神社」碑。「丹那神社」はJR東海道線の熱海―函南間にある丹那トンネルの熱海側入口の真上にあります。丹那トンネルは、大正年間から昭和にかけて16年に及ぶ難工事の末に1934(昭和9)年に開通しましたが、事故の発生は6件を数えたとのことです。丹那神社は、67人に上るその犠牲者を祀っています。神社の向かいには慰霊碑があります。このトンネルが開通するまでは、東海道線は神奈川県の国府津から静岡県の沼津まで、現在の御殿場線を通っていました。丹那トンネルによって、東京から名古屋や大阪、神戸までの所要時間も短縮されたのであった。社殿に近づいて。更に。そして再び「東日本旅客鉄道(株)来宮変電所」方向に向い、空き地の隅から丹那トンネルの熱海口をカメラに納めた。丹那7,841mと。熱海側の坑門上部には、写真ではちょっと見づらいが開通時の鉄道大臣・内田信也が書いた「丹那隧道」の扁額(へんがく)があり、左に2578、右に2594の数字があった。ネットで調べてみると、この数字は、着工と開通の年を表す皇紀であると。着工:皇紀2578年 (大正7年) 1918年開通:皇紀2594年 (平成9年) 1934年 着工から16年後に開通皇紀 とは初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とする日本の紀年法であり因みに今年・2022年は「皇紀2682年」。西暦に660年プラスしたものが日本の皇紀年。再び正面に「東日本旅客鉄道(株)来宮変電所」の車両用入口が。左側には新幹線用の「新丹那トンネル(熱海口)」が見えた。「新丹那トンネルは」、「丹那トンネル」の約50m北側に並行して延びる長さが7,959mの東海道新幹線(三島〜熱海間)のトンネルである。「丹那トンネル」より118m長いのだともちろん出入口の位置は異なるものの、並行して延びているはずであるが、118mも異なることに驚いたのである。理由は、断層等に起因する、内部の上下勾配、カーブの有無等によるものであろう。詳細理由に興味があるのだが・・・・。ウィキペディアによると「新丹那トンネルのトンネル工事が開始されたのは、1941年(昭和16年)8月にさかのぼる。新丹那トンネルは、もともとは戦前の高速鉄道計画である弾丸列車計画に基づくもので、他に、日本坂トンネル、東山トンネルが同時期に着工されている。しかし、1943年(昭和18年)には第二次世界大戦の戦況悪化にともない中止されてしまった。中止の時点において、熱海口(東口)は647m、函南口(西口)は1,433mの先進導坑がすでに掘削され、両坑口ともに200 - 300m程度の覆工を完成させていた。なお、戦時中の約1年半の期間でスムーズに工事が進行したのは、掘削に数々の新手法を投入したためでもあった。新オーストリア式逆巻方式と呼ばれる導坑の掘り方や、4 - 5台のドリフター型削岩機を装備した自走・自碇する削岩車が活用され、人力に依存して掘削を行なった丹那トンネルの工事よりも安全面において有利だった。戦後も長らく放置された状態であったが、東海道新幹線のために弾丸列車計画のルートが採用されたため、新丹那トンネルは今度は新幹線用のトンネルとして利用されることになった。新丹那トンネルは、1959年(昭和34年)に工事が再開され1964年(昭和39年)に完成した。丹那トンネルの難工事とは異なり、新丹那トンネルの工事は順調に進んだ。地質構造がよく分かっていたことと、既設の丹那トンネルを水抜き坑代わりに利用できたことを差し引いても、工事再開から4年4か月という工期の短さはトンネル掘削技術の進歩を物語っている。新丹那トンネルの工事は、熱海口は間組、函南口は鹿島建設(鹿島組)が請負った。なお、工事の殉職者は熱海口10名、函南口11名だった。ただし、丹那トンネルの工事とは異なり大きな崩壊事故は1件も発生していない。」と。再びJR東日本の「島田行き」の下り電車の姿を。右側は引込線で出番を待つ電車。そして駐車場に戻って行くと、この場所には、かつて「熱海水力発電所」があり、旅館街に給電していたそうで、その記念碑があった。「明治28年 当寺」の水力発電所のシステム図。・発電所は、熱海の旅館街(富士屋、相模屋、熱海御用邸等)への距離が1.1kmと近く、 地点に恵まれていた・発電用水は、初川の取水部(現在の梅園橋辺り)より160問(291m )を木樋で導き、落差73尺 (22m )を鋼管(320m )で水力発電所の水車に落水・水車 レッフェル形横置12インチ(30cm)、 30馬力、三吉電機工場製」「熱海水力発電所由来記」明治28年間10月20日送電日本で8番目の発電所名称 熱海電燈株式会社持主 国府津村 杉山仰次郎場所 熱海町字谷戸685番地出力 30馬力(22kW)電圧 1千Vを100Vに変圧電灯数 300灯(価し16燭光)熱海の旅館、民家に送電した平成6年4月吉日熱海電気協議会 会長 内藤弘」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.30
コメント(0)
「最誓寺」を後にし次に訪ねたのが「物見塚公園」内にあった「伊東祐親像」。伊東市役所に隣接し、伊東市街地から初島まで望めることのできる小高い丘の上の公園。櫓を組んで敵情の見張りをしたと伝える「物見の松」や「伊東祐親像」、「尾上柴舟の歌碑」などがあった。静岡県伊東市大原2丁目80−1。馬上の「伊東祐親像」。「伊東祐親」は、藤原南家の流れを汲む武将で、伊豆国田方郡伊東荘を本拠としていた。1160年(永暦元年)、前年末の平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆国流罪となるとその監視役を務める(参考:蛭ヶ小島)👈リンク。1180年(治承4年)、頼朝が挙兵すると、大庭景親らとともに平家方に付き、石橋山で頼朝を敗走させるが、富士川の戦いで捕らえられ、三浦義澄に預けられた。義澄の嘆願によって助命されたが、1182年(養和2年)2月14日、相模国の義澄邸で自ら命を絶ったのだという(参考:鐙摺山(葉山町))👈リンク。※三浦義澄は伊東祐親の娘を妻としていた。※北条時政も祐親の娘を妻とし、政子・宗時・義時の母は祐親の娘とも・・・ 「北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘?」👈リンク。 ~政子と義時は曽我兄弟といとこ~「物見塚公園 伝伊東家館跡と物見の松」碑「物見塚公園 伝伊東家館跡と物見の松伊東を発祥の地として全国に広がった伊東氏は、平安時代末期に、ここに住みついた藤原南家工藤氏に始まるといわれます。曽我兄弟の祖父伊東祐親の二代前、伊東家次が初代と考えられています。伊東家は、以後鎌倉時代をへて戦国時代末期まで、長い間この地とかかわりがあったので、伊東家館跡の伝承地は幾つかあります。この高台の一角にある物見塚に、物見の松と伝承される老松があり、この場所は伊東家館跡と伝承されてきました。現在は物見塚公園となり、馬上姿の伊東祐親像が置かれています。永くその姿を誇って来た物見の松は、昭和57年に枯死し、現在はその塚の上に小さな三代目の松が植えられています。この高台のふもとにあたる仏光寺も、鎌倉時代の伊東の地頭であった伊東八郎左衛門尉の屋敷跡と伝承されています。」東側にあったのが「伊東市役所」。外観の奇抜さや自由度という点で飛び抜けている感があった。左側が低層棟、中央が市民ロビー、右側が高層棟となっている近代建築そのもの。Google Mapで上空から見ると、全体の形としては鋭角のハの字型に置かれた二つの弓型の建物とその二つを繋ぐ中央のアトリウム的な部分という構成。西側の広場から。中央に彫刻のモニュメントが。中央が市民ロビー入口部は周囲の景色がガラス?に映り込んで。これも設計内か。落成したのはなんと1995年。建物の前に立った時にはとても27年前の物とは思えなかったのであった。これもバブル・・・???。西側広場重岡建治の彫刻「大池より生ずる」。近づいて。西側広場津田裕子(女子美術大学名誉教授) 模刻 「風の通る道」と。模刻とあるが、Originalはどなたの作品?西側広場彫刻 「ドリーマー」 中岡慎太郎。「松尾芭蕉 句碑けふばかり 人もとしよれ 初しぐれ」揮毫した五世雪中庵對山(1787~1843)は江戸時代後期の江戸の俳人。以前は伊東市内の別の場所にあったが、旅館を取り壊す際に伊東市役所内の物見塚公園に移転。さらに以前をさかのぼると、中伊豆(伊豆市)より移入したものという。「伊東祐親像」を裏側から。「伊東祐親公」。「壽永元年(1182年)武将伊東祐親が自ら壮絶な死の道をあゆんでより、すでに800年の歳月がきざまれた。源平両氏交替期の大きなうねりのなかで、その行く手を冷静に見きわめながらも譜代の臣として、斜陽の平氏への忠節に、ひとすじ、武将の信と意地をつらぬきとおした生涯であった。後の世、この地に生をうけた一歌人が、次のようにうたった。まぼろしの 雄叫びきこゆ 滅ぶると 知りつつ武将の ちから竭しき(つくしき)ゆたかな歴史の息づくわたしたちの町・伊東には、その昔、領主として地域の繁栄に重要な役わりをはたした伊東氏をめぐる史蹟がかず多くつたえられている。」「尾上柴舟(さいしゅう)の歌碑」。「尾上柴舟歌碑つけすてし 野火のけぶりの あかあかと みえゆくころぞ 山はかなしき 八郎明治から昭和にかけて活躍した歌人で、若山牧水など多くの歌人を育てました。草仮名の名手としても知られる柴舟自筆の美しいかな字で書かれたこの歌は、連作「天城野火」の中の一首として伊東で詠まれたもので、大正二年の歌集「日記の端より』の巻頭を飾る柴舟の代表作で、八郎は柴舟の本名。昭和初期に伊東(岡・広野)に別荘を構えて晩年の多くをここで暮らしました。この碑は、昭和六年に柴舟会によってこの丘に建立されました。」「物見塚公園」の桜を見る。「平野萬里歌碑相模灘 湖水の如し 月照らし 軍をよそに 松蟲の鳴く」。「平野萬里(本名久保)は明治十八年埼玉県北足立郡大門町に生まれた。四十一年東京帝国大学を卒業し商工省に入省、我が国の化学工業全般の育成と発展に尽力した。他方、明治三十四年に與謝野寛(鉄幹)に師事して以来、昭和二十ニ年に死去するまでの約四十五年間にわたって一貫して新詩社の中心メンバーとして四千首余りの短歌と百十篇の長詩を詠んだ詩歌人でもあり、その独特な作風は高く評価されている。伊東市へは吟行先として與謝野寛・晶子夫妻とともに昭和初期から幾度か訪れていた。その縁で商工省退官の後、伊東市西郊の水道山に尚文亭と名付けた山荘を建て、しばしばここに滞在して風光明媚な景観と豊富な温泉を楽しみながら、作家三昧の日を送った。今般没後七十年にあたり、昭和十八年秋に尚文亭で詠んだ一首を刻した歌碑を建立することになった。」更に石段を上り高みに進む。宇佐美方面の海が見えた。桜に近寄って。再び伊東市役所の庁舎を見る。太くなった松が2本あったが、どちらが三代目の松であっただろうか。それともこの松が「物見の松」の三代目?再び「伊東祐親」の顔をズームして。「伊東祐親像」と「伊東市役所」。最後に「伊東市役所」の全景を再び西側から。「柴舟歌碑道」碑。「伊東祐親像」のあった「物見塚公園」の散策を終え、伊東市内を後にして帰路に。途中、熱海市の奥の山中にある「頼朝の一杯水」を訪ねた。国道135号をひたすら北上し、「上多賀」交差点を左折して県道105号線に入る。更に「頼朝ライン」を利用して「頼朝の一杯水」に到着。道沿いにあった小さな駐車場に車を駐め散策に向かう。入口の桜が開花して迎えてくれた。「頼朝公一杯水」案内板。「水師営の「なつめ」この道は、愛称「頼朝ライン」と名付けられており、古くは鎌倉街道の一部とも云われております。往時鎌倉幕府を開いた源頼朝が伊豆と鎌倉を結んだ道であります。 ここに植えられている街路樹は、すべて「なつめ」の木で全部で135本あります。大部分市内外の人達の好意により寄付を受けたもので、植木は市職員の奉仕によるものであります。特にこの中には、日露戦争で乃木将軍が敵将ステッセルと旅順近郊の一寒村「水師営」👈リンクで会見し、開城を約したとき、その場所の民屋に植えられていた「なつめ」の木の種子を明治の末期、熱海在住の元子爵曽我祐邦氏が持ち帰り自宅の庭にて育成しましたが、(樹齢九十有余に達しましたが平成8年11月朽果てました。)これを分木し、植えたものが十数本あります。市に居住されていた国文学者・佐々木信綱先生が作られ戦前国民的な愛唱歌として親しまれた「水師営の会見」では明治三十七年、日露が国運?を賭けた旅順の攻防について「所はいずこ水師営 庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木」と歌われています。この場所は、沖に初島を望み、波静かな多賀湾を一望できる景勝地であり、近くには史跡「頼朝の一杯水」があります。また、この道、この土地は、古く源氏再興のため豪族が往来したゆかりの場所であり、植えられている棗の街路樹は人々の善意によるものです。今に残る、十数本の水師営の「なつめ」の木は、私たちの胸裡に限りない郷土愛と共に源氏・平家盛衰の昔を懐古し、明治のロマンと郷愁を感じさせてくれます。平成十年六月吉日 伊東線親和会 上多賀なつめの会」「頼朝一杯水苑地」案内図。そして数分歩くと「頼朝の一杯水」に到着。「頼朝の一杯水」案内板。「峠地蔵尊由来此地蔵尊は元禄六年歴雨凉二十四日今より約ニ七〇年前駿河国富士郡比奈村の住人鉄意道心なる者其昔頼朝と伊東祐親の娘八重姫との間に生れし千鶴丸の不遇の死を憐みて頼朝に因縁深き此地・地蔵尊を安置し其の霊を慰めたり為に往時の村人はもとより遠近の美男美女の参詣する者多かりしが海岸道路開通により宝泉寺に移せしが宝泉寺役員及有志の意志により昭和三十五年十二月二十四日旧地に仮遷座し其の後浄財を募り昭和三十六年四月二十四日堂宇を建設し正式に遷座を行ふ」ここが「頼朝の一杯水」。水溜り場に屋根がついているほか、お地蔵さんの社があった。水溜り場の奥からは綺麗な湧き水が流れ落ちていた。「頼朝の一杯水」のほとりにある「子育て延命地蔵尊」地蔵尊は、鎌倉幕府が開かれた約500年後の1693年、仏教修行僧の鉄意道心によって創建された。上多賀の宝泉寺に道心が留まった際、村人からこの悲話を聞き、「頼朝の一杯水」のほとりに小さな祠(ほこら)を建て、自ら彫った地蔵の石像を安置し、供養したという。よく見ると近くに水道の蛇口が。水溜り場の奥から綺麗な湧き水が流れ落ちていたがこれも水道水なのであろうか?遠く、真鶴半島の姿も確認できた。そして帰りは別ルートで駐車場まで戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.29
コメント(0)
伊東市街に入り、最初に訪ねたのが伊東市の中央を流れる音無川(松川)の西岸に鎮座する「日暮八幡神社(ひぐらしはちまんじんじゃ)」。静岡県伊東市桜木町1丁目2−10。「日暮八幡神社」を正面から。伊豆にて流刑となっていた源頼朝は、最初、伊東祐親の監視のもとに置かれて、ここ伊東「北の小御所」にて暮らしていたと。「ひぐらしの森と日暮八幡神社日暮(ひぐらし)の森は、若き日の流人源頼朝が、伊東祐親の娘八重姫との逢う瀬を楽しみに、日暮らし過ごしたというロマンスの伝承を秘めている場所で、明治中期の絵図では、田んぼの中に大きくこんもりと繁った日暮の森が川のふちまで続いている。この周辺の発掘調査によリ、弥生時代(約ニ千年前)から古墳時代(約千五百年前)にかけての集落跡が発見され、日暮(ひぐらし)遺跡と名づけられて、出土品の一部は伊東市文化財管理センターに展示されている。この神社の創建年月の明らかな記録は無いが、古くから村民の五穀豊穣、家内安全、安産の守護神として崇敬されて来た。祭神 誉田別命(ほむだわけのみこと)例祭日 九月十五日」「日暮神社 ひぐらしの森 由来源頼朝は、伊豆流人の約二十年の一時期、伊東の「北の小御所」に暮らした。その時伊東領主・伊東祐親の娘八重姫とのロマンスが生まれたのである。二人は対岸の音無の森で逢瀬を重ね、その折頼朝が日暮れを待ったのが、ここひぐらしの森であったと伝えられている。二人の愛は、一子千鶴丸の誕生を迎えたが、平家をはばかる祐親の激怒に触れ、仲を引き裂かれ、多くの悲劇の中ではかなく消え去った。最近のひぐらしの森付近の考古学調査によると、弥生時代前期(二千年前)から古墳時代前期(千七百年前)に及ぶ遺跡が発見され、勾玉・壺・石斧等と共に、当時の墓も発掘され、まさにひぐらしの森は、先人達の生活の場であったことを物語ってくれている。この森の最も古い記録は、文禄三年(一五九四年)午、八月の「岡村差出帳」である。同書によると、頼朝とのかかわりの事蹟を伝え、「道法、村より四町御座候」と記録している。(当時は名主の家を中心に道法を出していて、その頃の名主は瓶山下の堀井家であったと考えられる。)また嘉永年中の「伊東誌」によると、この地に程近い所に、日暮山龍明寺という寺があったと伝え、建久三年(一一九二年)八月十五日に頼朝が、寺領五十三石を永久の祈願料として与えたと記している。このような点から、鎌倉幕府創建の人、頼朝にとって生涯の忘れ得ぬ思いで深い森であったと想像出来る。日暮神社は、祭神「誉田別命」が、村民の五穀豊穣、縁結び、安産の守護神として崇敬され「日暮八幡」として祀られた。神社として風格を現したのは江戸時代中期後で、以来地域住民の氏神として篤く信仰されるに至ったのである。」「日暮八幡神社」の社殿。愛し合う二人が密かに会っていた場所が昨年訪ねた「音無神社」👈リンク のある「おとなしの森」だったと伝えられ、裏を流れる松川の対岸のこの「ひぐらしの森」は、頼朝が八重姫に会うため日暮れを待った所といわれているのだ。「伊東大川(音無川、松川)」を挟んで「日暮八幡神社」と「音無神社」👈リンク がある。扁額は「日暮神社」。社殿に貼られていたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のポスター。内陣。御祭神は誉田別命。最奥に石の祠が確認できた。境内の樹の根っ子が地面に蔓延って。近づいて。「日暮神社建立記念碑」。文字が刻まれていたのであろうか。神社左手に小さな祠もあった。「?斉稲荷大神鎮座」と。この大木もタブの木であっただろうか?道路から「日暮神社」を見る。そして次に訪ねたのが「最誓寺」。寺号標石「曹洞宗 宝珠山 最誓寺」静岡県伊東市音無町2−3。「最誓寺縁起開創 鎌倉初期真言宗「西成寺」として建立さる開基 北條氏二代の執権江間小四郎とその室八重姫の立願による由緒 源頼朝が伊豆流配の折八重姫との間に一子千鶴丸をもうけしが平家の寵臣たる 父伊東祐親の怒りに触れ「稚児が渕」に沈めしをその菩提を弔うため創建さる変遷 慶長年間曹洞宗に改宗寺号も最誓寺と改め現在に至る本尊 阿弥陀如来他に千鶴丸地蔵尊閻魔大王奉祀さる「目は高く 頭は低く 心は広く 気は長く」。門前の「◯ 萬霊等」碑。「等」は「なかま、ともがら」の意で「あらゆる霊」を意味すると。「山門」から境内を見る。扁額「祐心」。「祐心」とは、神仏の助け。 神が助けること。 天の助け と。曹洞宗の宗門「五七の桐(総持寺)紋」「伊東家墓碑」が左手に。近づいて。「伊東の地に来た伊東氏の先祖は藤原南家の武智麻呂から八代の子孫にあたる藤原為憲と言われています。藤原為憲から七代の子孫になる家次祐隆の代に狩野から久寝(伊東の地)に移り住んだと思われ伊東氏の歴史を家次から始まりとするのが普通です。伊東家一族の墓はその昔、最誓寺の南東約0.5kmの東光寺に存在したが、伊東家の衰えとともに江戸末期に廃寺となり東林寺に合併されたが墓(石製五輪、宝筐印塔)は最誓寺に移されました。一族の墓は伊東氏の歴史を物語る貴重な文化財です。」「伊東家墓碑由緒藤原鎌足十六代の後胤、狩野家継は伊東の庄に移り伊東祐隆と改め河津の庄を領した。長男祐家の他、二児をもうけたが妻に死なれ後妻を取りしが、その連れ子との間に生まれた祐継を嗣子として伊東祐継(工藤祐経の父親となる)と名乗らせて、伊東の舘におき、一方嫡流である祐家の長子祐親(曽我五郎、十郎の祖父)を河津の庄に追いやり河津次郎祐親とした。これがやがて伊東家騒動の始まりとなり「仇討ち曽我物語」の発端となるのである。これら一族の墓は東光寺及び東林寺に納められているが東光寺はこの地より南東〇・五キロの所にあって領主、伊東祐隆の再興によって栄えたが、徳川時代に至り伊東家のおとろえるに同じうして江戸末期、ついに廃寺となり墓は、当最誓寺に移されまつられるようになって久しく境内の木陰に苔むしていたものが、昭和三十四年本堂再建の時に整備供養され市文化財の規定が設定されるや第一号として指定され、今後も永く一族の菩提を弔う為、護寺されるものである。ちなみに当最誓寺は今を去る八百五十年前、源頼朝が伊豆流配の折、祐親の娘八重姫と密通し一子千鶴丸をもうけたが、平家の流れ汲む祐親の怒りにふれ、稚児ヶ渕(この裏を流れる松川の上流)に沈められた後、八重姫が北条家家臣江間小四郎氏に嫁ぎしより、許されて稚児菩提の為に頼朝と毎夜相見しこの地音無の森に一宇を建立し、西成寺と名付けるに始まり、慶長元年、禅宗に改められ寺号も最誓寺となり今日に至る。寶珠山 最誓寺 二十六世代」斜め方向から。伊東家の墓は、廃寺となった東光寺にあったもの。東光寺は、東林寺とともに伊東家の菩提寺として栄えたが、伊東家の衰えとともに衰退し、江戸時代末期に廃寺となったのだという。伊東市の指定史跡。寺務所。「稲荷大明神」。「本堂」。近づいて。見事な彫刻。扁額「寶珠山」。曹洞宗の宗門「五七の桐(総持寺)紋」と「久我竜胆(永平寺)紋」がここにも。境内の樹齢600年ともいわれる大ソテツは、伊東市の天然記念物に指定されている。「市指定天然記念物 最誓寺のソテツ蘇鉄(ソテツ)は、九州から沖縄にかけて、主として海岸近くの岩場に自生し、鹿児島県佐多岬や内の浦町では、国の然記念物に指定されている。ソテツ類は、恐竜のいた時代のような太古の昔を彷彿とさせる特異な形態をした常緑裸子植物の一種で、古くから各地の社寺や家庭で観賞用として植我されている。伊豆半島には、国の然記念物に指定されている河津町字峰の正木家(徳川家康の側室「お万の方」の生家と伝わる)の「新町の大ソテツ」がある。市内にも寺院境内を中心に植我されたソテツを多く見るが、最誓寺のソテツは、市内で一番大きく、樹勢も旺盛である。根廻 4.9m 目通 6.0m 樹高 5.8m」「水子供養地蔵尊」。正面から。近づいて。「淡島尊堂」。和歌山県和歌山市加太の淡嶋神社を総本社とする全国の淡島神社や淡路神社の祭神。婦人病治癒を始めとして安産・子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆることに霊験のある神とされ、江戸時代には淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻った事から信仰が全国に広がった。多くの石仏が「本堂」の左側に並ぶ。歴代の「六地蔵」であろうか。「本堂」の裏の墓地から、昨年訪ねた「音無神社」👈リンク が見えた。墓地内の立派な五輪塔。こちらは宝篋印塔。「最誓寺寺族之墓」。歴代住職の墓であろうか。尚、「伊東祐親の墓」👈リンク は別の場所・静岡県伊東市11にあり、昨年既に訪ねているのであった。伊豆に配流された源頼朝の監視を任される、そして頼朝と通じた八重姫の父親、また義時の祖父「伊東祐親」を演じる「浅野和之」さん。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.28
コメント(6)
そして次に訪ねたのが「独鈷の湯公園」。桂川河畔に湧く修善寺温泉発祥の『独鈷の湯(とっこのゆ)』の対岸側にある公園。その昔、桂川の河原で病気の父の背中を流していた少年を不憫に思った弘法大師(空海)が、持っていた仏具(独鈷杵とっこしょ)で川の岩を打ち霊泉を湧き出させたという伝説の『独鈷の湯』にちなんで作られた公園で、石造の独鈷杵のオブジェや、湯掛け稚児大師像があった。石灯籠の奥に石祠があった。「熊野権現」。「熊野権現由来熊野権現(湯谷権現)がこの地に祭られてありしは古く天明六年(1768)の記録にもあり。古来温泉の祭り神として人々の信仰篤く 祭礼等も行われ居りたるも、戦後の廃社に伴い御神体は日枝神社に遷座奉安し今日に到れり。されどここに志ある人々の奉仕を得、史蹟再現の意味もこめて新たに小祠を建立せしものなり。」「湯掛け稚児大師」 「独鈷杵古代インドの武器の一種で後世の密教法具として僧侶の修行に用いられ仏像とともに日本へ伝来した。この独鈷杵は昭和三十六年修禅寺裏山から発掘されたものを原形拡大したもので実物は金銅で作られ長さ二十四糎、平安中期のものと言われ、工芸美術的にも優れた作品であり、修禅寺に秘蔵されている。独鈷の湯は弘法大師がこの地をご巡錫のとき、桂川で病夫洗う少年を見てその孝心に打たれ「流れ水では冷たかろう 今温かくしてつかわそう」と言って、手にもっていた独鈷杵で川の岩を打ち砕くと霊湯がこんこんと湧き出したので、父子は大いに喜んで入湯すると不思議に十数年の痼症が平癒したと伝えられている。独鈷の湯は修禅寺温泉発祥の地であり、昭和五十ニ年この地に独鈷の湯公園を開園するにあたり独鈷杵をこの公園のシンボルとして建立したものである。」手に密教法具・独鈷杵(とっこしょ)を持っていた。「湯掛け稚児大師前の川の中に在る独鈷の湯は、その昔、孝行者の息子が年老いた父親の背中を川の水で流してやっているのをご覧になった弘法大師が、水では冷たかろうと、持っていた独鈷で岩を掘ったところ湧き出したものと伝えられています。この故事にあやかって、当町旅館組合が、皆さんの健康を願って、ここに稚児大師の像を建立しました。お子さまの健全を願う方、ご自身の健康を願う方、もしくは、現在疾患をお持ちの方等、願いを込めてお湯を灌(そそ)いであげてください。」芝生の中には竹灯篭が。「修善寺の歌」碑。「修善寺の歌長 徳太郎 作詞原田彦四郎 作曲一、春はあけぼの城山に ゆかりの雲の浮かびつつ 秋夕ぐれのもみぢ葉は 月のかつらの瀬々に散るニ、かなしき跡をしのびつつ 露けき夏の草をふみ くしきみ業をたたへつつ あふれ湧く湯に冬を愛つ三、恵みゆたけきこの里に 訪ひくる人と住む人の えらぎおのづととけ合ひて いよよさかゆく修禅寺よ「独鈷の湯公園」碑。「比企能員」パネル。武蔵・比企郡の豪族。源頼家の乳母夫。「桂川」沿いの「新井旅館」方向を見る。いつの日か宿泊したいが。「独鈷の湯」を対岸からズームして。土産物店「湯川修善寺屋」に立ち寄った。様々な木彫りの面が並んでいた。こちらは鬼の面。木彫りの仏像も。そしてここが「仰空楼(筥湯横無料展望台)」。扁額も「仰空楼」。「仰空楼夏目漱石と修善寺温泉小説家夏目漱石(本名・金之助、慶応三~大正五)は、明治四十三年八月六日から門下生生松根東洋城(当寺、宮内省御用掛、俳人)の案内で修善寺温泉に滞在した。ところがまもなく病(胃かいよう)がきざして、八月二十四日晩には一時人事不省におちいるなど、悪化した。このため、医師団に懸命の治療をつづけ、また身内のほか、全国から多くの門下生らがかけつけて見舞った。この後、病気はじょじょに快方に向かい、ニか月ほどした十月十一日には帰京できた。この修善寺について、門下生松岡譲(小説家)は、訪れたということで名所になるようなそんな生易しいところではないと言っている。つまり、この修善寺で漱石は病と心から生き返ったのである。改めて自分の生命の尊さを自覚し、周囲の多くの人々の温情に感謝する気持ちを深めた。この体験は、またその後の創作の上にも少なからず影響をもたらしたとされるのである。修善寺ゆかりの作品に、多くの俳句や漢詩、書簡のほかに、随想「思い出す事など」、小説『行人』などがある。夏目漱石が滞在した菊屋旅館本館(現在、修善寺「虹の郷」に移築して茶室「漱石庵」と称している)は、この地にあった。ここには、なお往時の二棟の建物のほかに、中央に大きな百日紅などがある。漱石は部屋(二階)の窓から、毎日松の木の間に咲きつづける爽やかな百日紅の花を見、広がる青空・浮かぶ白い雲、羽を輝かせて飛び交う赤トンボなどを眺めていた。また、ある晩は、修禅寺(お弘法さん)の祭りの花火を楽しみ、さらに朝な夕なこの寺の鐘の音を聞いて過ごしていた。まず黄なる百日紅に小雨かな生きて仰ぐ空の高さよ赤蜻蛉温泉の村に弘法様の花かな仰臥人如唖 黙然看大空 仰臥 人唖の如く 黙然 大空を看る 大空雲不動 終日杳相同 大空 雲動かず 終日 杳かに 相同じ(漢詩大意)仰向けに寝たまま、静かに窓から広がる青空を眺めているが、ぽっかりと浮かぶ白い雲はほとんど動かない。終日向かい合ったままで、まさに主客融合したような境地である。この漢詩は作品中でも傑作とされ、最初の夏目漱石文学碑(修善寺自然公園、昭和八年建立)の碑文にもなっている。また、漱石は風呂好きで、宿を訪れると毎日いく度も入った。文豪ゆかりの地に立つ筥湯、その望楼の名「仰空楼」はこの漢詩にちなむものである。なお、扁額「仰空楼」は修禅寺四十ニ世田中徳潤師の書によるものである。」「仰空楼」を見上げる。階段を上って行った。最上階に到着。修善寺温泉の「新井旅館」方向の眺望を楽しむ。そして車を駐めていた場所まで戻る。車の横にあった軽食屋さん。車で次に「修善寺ハリストス正教会顕栄聖堂」を外部から訪ねた。顕栄(主の変容)祭を記憶して建てられているこの聖堂は、一九一二(明治四十五)年に成聖されたもので、病床あったニコライ大主教(後の亜使徒大主教聖ニコライ)の快復を願って建てられたと言われる。十八メートルの鐘楼を揚げる聖堂内のイコノスタスは旅順にあった聖堂から移設されたもので、色彩、デザインとも他の日本の正教会ではあまり類を見ない。また、聖所のシャンデリアは水晶製である。至聖所内の全能者ハリストスと主の変容、降誕、大十字架のハリストスの磔刑はイリナ山下りんの筆によるものもである。二〇〇四年に伊豆を直撃した台風22号の影響を受け、聖堂と信徒集会所は大きな被害を受けたが、府主教ダニイル座下のご高配と全国の神品、信徒のご協力によって無事に修復、成聖を終え、聖堂は美しい姿を取り戻した。尚、昭和六十年十一月二十九日に静岡県の有形文化財に指定されている。ビザンチン様式の姿形が美しく、技術的にも芸術的にも優れていることから、県の有形文化財になっている。中は非公開なので見られないが、美しい外観は一見の価値がある。静岡県伊豆市修善寺861。そして「修善寺」の散策を終了し、東海岸の伊東市に向かって山越え。県道12号線、県道59号線を利用して冷川峠を越えてひたすら伊東市に向かって山道を進む。途中、昨年、「河津桜」見学時に立ち寄った、しかし山門が閉ざされていた「光識寺」前でこの日も車を止めた。「光識寺」の前、県道59号線沿いにあった石仏。 静岡県伊東市鎌田1131。しかし、この日も「光識寺」への入口のゲートは閉ざされていたのであった。「掲示板」。「光識寺のご案内 参拝料は無料光識寺は唯識を広く知ってもらうために開山しました。唯識とは個人にとってあらゆるただ「識」によって成り立っ主観的な虚構にすぎず、あらゆる存在は生滅を繰り返す無常であり実体のない「空」であるという思想です。戦後、わが国は伝統、文化、家族関係や地域社会を犠牲にして高度経済成長を達成しました。反面、個人主義、拝金主義的価値観が台頭し、無秩序、無規範、無連帯状態の社会に陥り、は将来に夢を持っことができず、言い知れぬ不安や孤独感に苛まれています。光識寺はこのような悩みや苦しみを仏教の根本原理である唯識思想によって救済するお寺です。毎週講話会を行っておりますのでご自由にご参加くたさい」やむ無く、境内の石仏をズームでカメラに収める。「大聖観音」。移動して別の場所から。「不動明王像」。境内には多くの石仏の姿が。伊東の海が見えた。「光識寺 散策図」。「ご自由に参拝下さい。開門時間:午前9時~午後5時」とあったが・・・???近寄って。そして伊東市街に向かって、坂道を更に下って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.27
コメント(0)
「源範頼の墓」を後にして、「桂川」の南側の商店街の道まで戻る。これから訪ねる場所を確認。商店街を「桂川」の下流方面に戻って行った。左手にあったのが懐かしき射的場「初音遊技場」。右手奥にあったのが「宙 SORA 渡月荘金龍」。鉄塔の下には源泉があるのだろうか。「竹そば 八百考」の店頭には、蕎麦を打つ姿の「ひょっとこ」の如きオジサンの姿。左手にあったのが「桂川 花小道」。伊豆修善寺温泉に佇む旅館、湯の宿 花小道は江戸川乱歩など文人・画人に愛された名旅館。大正時代に建築された創業当時の木の温もりを大切にレトロな雰囲気漂う新しい宿として生まれ変わったと。大正・昭和の香り漂うノスタルジックな館内では、日本建築の美しさも味わえる。全13室ある客室は、床の間があり和の雰囲気も味わえるツインルームの洋室。館内にある2つの内湯と2つの貸切露天風呂を利用できる。食事処は桂川を望める和食レストラン。ドライヤー、バスアメニティ完備。女性客は色浴衣と浴衣等を入れて浴場へ持ち運べる籠を無料で利用できる と。この宿にも「内裏雛」が。店頭脇にあった木造彫刻はなんとなく異国風。「指月殿」へはここを曲がれと。そして坂の上にあったのが「指月殿」。桂川を挟んで相対する鹿山の麓にあった。修善寺で暗殺された頼家の冥福を祈って母政子が修禅寺に寄進した経堂で、伊豆最古の木造建築物といわれている。この時宋版大蔵経、釈迦三尊繍仏なども合わせて寄進し、門前の虎渓橋も架け替えたといわれている。堂内中央に禅宋式という珍しい様式の丈六釈迦如来座像が安置されているが、持ち物はないはずの釈迦像が右手にハスの花を持っているのが特徴と。堂に向かって左手に頼家の墓があった。静岡県伊豆市修善寺934。扁額「指月殿」。扁額の実物は、宋の名僧一寧一山(いちねいいっさん)の書といわれ、修禅寺本堂に保存されている と。右手に蓮の花を持つ「釈迦如来坐像」。「釈迦如来坐像」の体内には経典が納められており「為征夷大将軍左金吾督源頼家菩提、尼置之」と書かれた北条政子の直筆の墨書があったと。(修禅寺宝物館蔵)お顔をズームして。「北条政子」のデジタルスタンプラリーのパネル。源頼朝の妻。北条時政の長女で北条義時の姉。「指月殿この地で非業の死を遂げた鎌倉幕府二代将軍頼家(よりいえ)の冥福を祈り、母北条政子(ほうじょうまさこ)が建立したもので、伊豆最古の木造建築と言われている。指月とは経典を意味し、禅家が愛用している不立(ふりゅう)文字を解く言葉である。建立の際、政子が寄進した宗版大蔵経(そうはんだいぞうきょう)は大半が散失し僅か8巻しか残っていない。そのうち「放光般若波羅蜜多経(ほうこうはんにゃはらみたきょう)」の第23巻が静岡県指定文化財となっている。本尊の釈迦如来座像(しゃかにょらいざぞう)は、寄木(よせぎ)造りで高さは203センチ、持ち物のないはずの釈迦像が右手に蓮の花を持っているのが特徴である。「指月殿」の扁額(へんがく)の実物は、宋の名僧一寧一山(いちねいいっさん)の書といわれ、修禅寺本堂に保存されている。」「手水舎」。旧本堂の「宝珠」であっただろうか?「指月殿」の左側の高台には「源頼家の墓」があった。「源頼家」のパネル。源頼朝・政子の長男。鎌倉幕府第ニ代将軍。「お伺い石」。「お伺い石「あたたかき湯の湧くところ、温かき人の情けも湧く」人もお湯も温かい修善寺・・・実は恋愛成就の聖地とも云われています。ある時、釈迦は弟子たちの前で一輪の花を拈(ひね)って示しましたが、摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意味を悟り笑み、釈迦から以心伝心の法脈を伝授されました。この「拈華微笑(ねんげびしよう)」の故事に基づき、指月殿の釈迦像は蓮のつぼみをかざす大変珍しいお姿て鎮座しておられます。ここにある蓮花の形をした石は以心伝心を占う「お伺い石」。想いを込めて持ち上げましよう。軽く感じたら思いが伝わると言われています。もし重く感じてしまったら指月殿に祈願しましょう。あなたの願いをかなえてくれるでしよう。「言葉にしなくても伝わるこの想いを君と一緒に一生繋いでいこう。ふたりで」 (縁をつなぐ恋の橋より)石段の上に「源頼家の墓」があった。静岡県伊豆市修善寺935。正面に「源頼家の墓石」。源頼家は、鎌倉に武家の都を築いた源頼朝の嫡男。母は北条政子。1199年(正治元年)、父頼朝の死をうけて18歳で家督を継ぎ、1202年(建仁2年)には征夷大将軍に任ぜられた。『吾妻鏡』によれば・・・1203年(建仁3年)8月27日、病の床に臥していた頼家の病状が悪化する中、日本全体の惣守護職と関東二十八ヶ国の地頭職を頼家の長子一幡に、関西三十八ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの源実朝)に譲ることが発表された。この決定に頼家の乳母夫比企能員が反発。9月2日、側室若狭局(比企能員の娘)を通じて「北条時政を追討すべきだ」と伝えられた頼家は比企能員を呼んで、北条氏追討の許可を与えたのだという。しかし、その密議は、障子を隔てて聞いていた北条政子に知れてしまった。同日、比企能員は北条時政邸で天野遠景と仁田忠常に暗殺され、比企邸も北条義時らに襲撃されて比企一族は滅亡させられた(比企能員の変)。頼家の嫡子一幡も焼死している(参考:一幡の袖塚)。この時、危篤状態だったという頼家は、9月5日、奇跡的に快復して事件を知ると、和田義盛と仁田忠常に時政討伐を命じるが失敗に終わり、病気と政治不安を理由に出家させられた。9月29日には、ここ伊豆国の修禅寺に幽閉され、翌1204年(元久元年)7月19日には、その死が鎌倉にもたらされている。※7月18日、入浴中を襲われ最期を遂げたと伝えられている。「源頼家の墓正治元年(1199年)に父頼朝の後を継いで18歳で鎌倉幕府の二代将軍となった頼家は、父の没後に専横になった北条氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であったが、大きく揺れ動く時流と、醜い駆け引きに終始する政争に破れ、在位わずか6年でこの修善寺に流され元久元年(1204年)祖父北条時政の手で入浴中に暗殺された(享年23歳)。「修禅寺物語」ではこうした政治的背景の上に配所の若き将軍頼家と、面作り師夜叉王を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものである。この碑は、元禄16年(1704年)頼家の500回忌にあたって、時の修禅寺住職伐山智船和尚が建てた供養塔であり、墓はその裏側にある2基の小さな五輪石塔である。」手前は供養塔であり、源頼家の墓積はその裏側にある2基の小さな五輪石塔であると。「仮名垣魯文の句碑」。「谷川や 月のはこびも 九折(つづらおり)」と刻まれている と。「江戸期最後の戯作者仮名垣魯文の句碑桂谷眺望谷川や 月のはこびも 九折この俳句は仮名垣魯文(1829 ~ 1894 )によっ書かれた。彼は江戸時代に文学界で活躍した最後の戯作者である。彼は幕未から明治にかけて当時の世相を巧に描いた。彼は津国屋藤ニ郎(芥川龍之介の母方の大叔父)に俳諧を学び、多くの文学者・俳諧師と親交を深めた。彼の出世作は『滑稽富士詣』(1860年発行)であった。明治になると、彼は『西洋道中膝栗毛』、「安愚楽鍋』、「葫瓜遣い』など次々に発表し、彼は人気作家となった。この句睥は1891年に仮名垣魯文本人と三州園の主である三須圭山によって建てられた。圭山は仕事の傍ら、俳句や絵画を嗜んだのでこの地に滞在した魯文と親交を深めた。」最奥には神社もあった。この石碑は??「南想塔之記」碑「昭和十六年秋名古屋にて編成された独立自動車四十五大隊は、大東亜戦争緒戦にジヤワ・スマトラ作戦に参加。後に主力はビルマ方面に転戦、戦運我になく戦友相ついで南雲の下に散る。昭和廿一年復員の後有志集い修禅寺に於て法要を重ね今日に至る。激戦の年より茲に廿三年英霊追善のため仏縁深き修禅寺に塔一基を寄す。」横に立つ南想塔・十三重石塔。「桂谷(八十八ヶ所)第四十四番 十一面観音」碑。「桂谷八十八ヶ所第四十四番本尊 十一面観世音菩薩笹の葉に、おく白雲も、輝きぬ、さやけき月の、影をやどして」と。「桂谷第四十四番 十一面観音」と刻まれた石碑。十一面観音の線刻が描かれていた。「修禅寺温泉観光ガイド」。「十三士の墓」。頼家が暗殺された後に、家臣13人が謀反を企てたが発覚し、殺害されたとも、殉死したとも言われている と。「源頼家 家臣 十三士の墓」案内板。「源頼家 家臣 十三士の墓北条氏との確執で、病気を理由に修善寺に配流された頼家は、元久元年(1204年) 7月18日、入浴中に暗殺された。吾妻鏡(鎌倉時代史書)によると、この6日後、頼家の家臣らは謨反を企てたが、挙兵以前に発覚して、相州金窪太郎行親らに殺されたことが記されている。この基はその頼家の家臣13名の墓と伝えられている。頼家と運命を共にしたこれら家臣の名前は判っていないが、全国的にある十三塚の一例との説もある。この墓は元々ここより東へ200m程の麓にあったが、台風被害により平成17年(2005年) 7月17日にこの地に移築された。」右の石碑には「澄宮崇仁親王雨下行啓記念碑」ではないかと学友から。左の石碑も同じく以下、学友から。『御庵洞畔起天承細耶 閑兒魂七百余年浮世興 亡眞實之事山僧渺涙 候碑 〇聴 昭和戊辰卯秋第(?)房祭山〇 瑞雲庵 原田力松 建石』 本文読み下し文 御庵洞の畔[ほとり]を起こして(天)細[こま]や(耶)か(閑)に(兒)魂七百余年を承る 浮世の興亡真實の(之)事山僧渺[はるか]に涙しそうろう(候)碑 と(?)聴く この石碑は原田父子の徳行を記したのではなく、御庵洞の山中に散在していた墓石を一か所に集めて合祀した土地所有者(碑文中の山僧の事か?)に思いを致して初代原田力松氏が建てた碑ということではないでしょうか。 語句解説 ※ 御庵洞 [ごあんぼら]北条時政の隠棲の庵室跡や、頼家の庵室跡などといわ れてる。もともと「十三士の墓」は御庵洞の山中に散在していた。 ※ 畔 ある場所の周辺。ほとり。「河畔・湖畔・江畔・池畔」 ※ こまやかに すみずみまで行き届いているさま ※ 承る 引き受ける くらいの意味か ※ 山僧 さん‐そう《[さんぞう]とも》 1 山寺に住む僧。 2 山門の僧。普通比叡山延暦寺の僧をいう。 3 僧が自分をへりくだっていう語。愚僧。 ここは1の 「山寺に住む僧」 か ※ 渺(はるか)に 水面などが限りなく広がっているさま。はるかにかすんでい る さま。 ※ 昭和戊辰 昭和3年(1928) ※ 卯秋 秋の卯の日か? 卯の日は陰陽五行思想に従うと再生・更新を意味する日 (wiki新嘗祭参照)だそうで、新嘗祭を「卯」の日に行うという慣例が、 律令以前にすでに出来上がっていた。他にも酒造りは「卯の日」にはじめ、 「酉の 日」に完了する慣わしがある。など、卯の日には意味がありそう。 ※ 第 やしき。邸宅の意か。「源頼家 家臣 十三士の墓」に近づいて。この先、山の上には下記の観光スポットがあった。急な山道を上って行った。窟(いわや)の如き場所に石仏が。そして手前にあったのが「おしゃぶり婆さんの像」。「岩屋観音とおしゃべり婆さんこの鹿山のことを正式には「塔の峰」と呼び、昔は「塔の峰の観音さん」または岩を削って石仏を安置してあることから「岩谷観音」とも呼んでいました。この下の谷のことを「観音洞」と呼び、谷から直接登山するのが本来の参道だったようです。正面は桂谷八十八ゲ所、四十番の石碑。右の祠には「おしゃぶり婆さん」と呼ばれる子宝子育ての神様も祀られて犯られいます。赤子がロにすらオシャブリが語源といわれ、左の石仏は母乳に恵まれるよう豊かな胸をしています昭和初期までは、この山中にも老舗旅館の茶屋があって鹿を飼ったり、湯治客の自然散策に訪れる私設公園でした。中腹には大弓と呼ばれる矢場の広場があり、土地の子供が逗留中の幼い宮様と相撲に興じたり、まだ珍しかった自転車の競争をしたりしました。」「源義経像」。「源義経像義経は、源氏初代将軍頼朝や、修禅寺で自害した源範頼の弟に当り、この鹿山の麓に墓のある二代将軍源頼家の叔父にあたります。幼名が牛若丸であり、京都の鞍馬山で育ち、五条大橋での弁慶との出会いなどは有名な話ですが、後の蒙古へ渡ってチンギスハンになったという説もあります。この獅子にまたがった像の胞には源氏の紋所笹リンドウが刻まれており、義経像ともチンギスハン像ともいわれています。大正末期、芸術を愛好した修善寺温泉菊屋旅館の先々代野田修治の依頼で、修善寺温泉に滞在していた彫刻家によって、天城山中から運ばれた軽石へ彫られました。これが「吉田絃二郎 明枝の墓」だったのだろうか。「指月殿」の境内まで下ると「絵馬」の自動販売機があった。「絵馬掛け処」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.26
コメント(0)
「修禅寺」を後にして「虎渓橋」を正面に見る。県道18号線・修禅寺戸田線を桂川沿いに上流に向かって進む。桂川の左下の岩場にある「独鈷の湯(とっこのゆ)」が姿を現した。露天風呂からは湯気が。「指月殿」の案内を確認する。石段を下り、「独鈷の湯」を訪ねた。修善寺温泉の中心を流れる、桂川河畔に湧く修善寺温泉発祥の湯。大同2年(807)、修善寺を訪れた空海(弘法大師)は桂川で病気の父の身体を洗う少年の孝行の心に打たれ、持っていた仏具(独鈷杵(とっこしょ))で川の岩を打ち霊泉を湧き出させた。その湯につかったところ父親の病気はたちまち癒え、温泉療法が広まった伝わる。現在も自然石を使用しており、修善寺温泉の象徴的存在。修善寺温泉は伊豆最古の温泉と言われている。※現在、独鈷の湯は見学のみで、入浴は不可となっていた。足湯としても利用できないと。湯面にカメラを向けて。「修善寺 亀屋 甘泉楼」。「甘泉楼 KANSENRO新井旅館「甘泉楼」1924年(大正13年)築登録有形文化財第22-0022号伊豆最古の温泉街である修善寺温泉には多くの文人・墨客が訪れました。当時の賑わい、溢れる才能と活気を、年月を経た今も感じられる「墨客の小径」(ぼっかくのこみち)。ぶらり散策と味めぐりをお楽しみください。」「内裏雛」。「女雛」。「男雛」。可愛らしい木彫りの仏様が2体。「新井旅館」。新井旅館三代目館主は文人墨客と親交が厚く、日本画や文学など数多くの作品が新井旅館で生まれた。芸術家の感性は建物や庭園にも生かされ、貴重な文化遺産となっている。敷地内に建つ15棟の登録有形文化財の建物。館内に1歩足を踏み入れると、昔懐かしい時代にタイムトリップしたかのような、ノスタルジックな空間が広がっている と。一度、宿泊してみたい宿なのであった。笹竹の生える桂川の小径を進む。「伊東祐親」のパネル。「河原湯」が左手に。湯が足湯場に流れ込んで。「河原湯(足湯) Kawara-yu (Foot Bath)修善寺温泉にはその昔、河原沿いに7つの外湯があり、当時外湯として親しまれていた河原湯は、この足湯の少し上流に佇んでいました。このため、平成22年4月3日に開湯したこの足湯が外湯時代と同様に、皆様に楽しんでいただけることを願い、河原湯と命名しました。足湯として開湯した河原湯を、皆様お気軽にご利用ください。」「独鈷の湯」を振り返る。前方に見えて来たのが「桂橋」。「桂川」に沿った小径はここまでで、左折すると「桂橋」。「桂橋(結ばれ橋)桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわるご利益があると言われています。願いをかけながら渡ると、その思いが、成就するとか・・・。」「桂橋」を渡る。「桂橋」の「橋紋」。桂の葉とその下に「桂」の文字がデザインされていた。上流の「楓橋(かえでばし)」別名:寄り添い橋 を見る。横から瀧の如き流れが。下流側は左に大きく蛇行。そして右側に「竹林の小径」が。平成6年(1994年)から3年間を費やして整備された温泉街の中央を流れる桂川沿いの散策道、竹林の小径(ちくりんのこみち)。竹林の小径を歩くと、茶処や火の見櫓が懐かしく、竹林中央にある大きな竹の円形ベンチに座れば竹林を通る風を感じることが出来ます。日没後はライトアップされ、幻想的な夜の散歩を楽しむことができます(ライトアップは日没~23時まで) と。竹林中央にある大きなベンチ。竹製のベンチ。「八重」のパネル。義時の初恋の人にして、源頼朝の最初の妻。伊東祐親の三女。さらに奥へと進む。様々な竹の種類が植えられていた。そして右手にあったのが「楓橋」。「楓橋(かえでばし) 寄り添い橋桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわるご利益があると言われています。願いをかけながら渡ると、その思いが成就するとか・・・」「楓橋」の「橋紋」。「楓」の葉と太鼓橋そして「楓」の文字のデザインが下部に。上流を見る。下流の「桂橋」を見る。そして「竹林の小径」を引き返す。多くの竹灯籠が。若竹の林の中に。夜になると。円形の巨大ベンチはスクリーンに変身するようである。そして「滝下橋」別名:安らぎ橋を渡る。「桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわるご利益があると言われています。願いをかけながら渡ると、その思いが成就するとか・・・」「滝下橋(安らぎ橋)」の「橋紋」。竹林の姿と、「滝」の文字のデザインが下部に。「源範頼」の墓に向かい坂を上って行った。「源範頼の墓」。源範頼は、源頼朝の異母弟で、義経の異母兄。遠州池田宿の生まれで、幼少期を蒲の御厨で過ごしたため、「蒲の冠者(がまのかじゃ)」とよばれていた。源氏の総帥として平家討伐で大きな武功を立てたが、建久4年(1193年)、源頼朝討ち死にの誤報が伝えられ、悲しむ北条政子に「範頼ある限りご安心を」と慰めたため幕府横領の疑いを招き、範頼は百方陳弁に務めたが、ついに修禅寺八塔司(はったす)の一つ信功院に幽閉された。その後、梶原景時の不意打ちに会い、防戦の末自刃したといわれている。信功院は、現在の日枝神社の下あたりにあったと伝えられている。修禅寺から西の小山地区の山腹にあり、源範頼の墓と伝わる祠があったが、明治12年に骨壺が掘り出され、範頼の墓を裏付けるものとなった。静岡県伊豆市修善寺1082。現在のこの墓は昭和7年に、日本画家・安田靫彦のデザインにより建立されたものであると。「源範頼の墓範頼は鎌倉初期の武将。源義朝の第六子で蒲冠者(がまのかじゃ)と呼ばれた。治承4年( 1180年)に兄頼朝と義仲が対立した時、弟義経と共に義仲を倒し、次いで一ノ谷の合戦で平家を破り、功によって三河守に任じられた。その後頼朝と義経の仲が険悪化し、頼朝が範頼に義経討伐を命じたが断ったため、頼朝から疑われるようになった。建久4年( 1193年)の曽我兄弟仇討ちの際、頼朝討死の誤報が伝えられ、悲しむ政子を「範頼あるかぎりご安心を」と慰めたため、幕府横領の疑いを招いた。範頼は百方陳弁に努めたが、ついに修褝寺に幽閉され、さらに梶原景時に攻められ、日枝神社下の信功院で自害したと伝えられている。」「鎌倉殿の13人」に登場する「源範頼」、演じるのは「迫田 孝也(さこだ たかや)」さん。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.25
コメント(0)
「檀信徒会館(慈照閣)」前から「本堂」、紅梅を見る。「本堂」の右にある松の根元に、大きな「達磨石(だるまいし)」があった。江戸時代後期に奉納された物であると。再び「本堂」を見る。巨大な銅製の灯籠(右)は黄色く塗られていた。。巨大な銅製の灯籠(左)。扁額「修禅寺」。内陣。本尊の「大日如来坐像」の御姿が御簾の奥に。内陣の彫刻。「本堂」から「山門」方向を振り返る。「弘法大師像」。「南無大師遍照金剛」の奉納のぼり幡が周囲に。真言宗のお経で、「南無」は「私は帰依する」を意味しており、「南無大師遍照金剛」の7文字で「弘法大師空海に帰依する」の意味になるのだ。お顔をズームで。こちらにも石仏が。再び「檀信徒会館」の入口の「十六羅漢像」のお姿を。右側。再び庫裡を。「たいせつなこと けんきょ すなお かんしゃ」。「良寛さんの詩聞道須洗耳 不則道難持 洗耳其如何 莫有在見地 知見有纔存 与道相離支似我非為是 異我是為非是非始在己 道其不如是 以水没石頭 祇覚一場癡 道を聞くにはすべからく耳を洗うべし しからざれば即ち 道は持しがたし。耳を洗ふこと それ如何(いかん) 見知を在することあるなかれ。知見 わづかに在するあれば 道と相離支す。我れに似なば 非も是となし 我れに異ならば 是も非となす。是非 始めより 己にあり 道はそれ かくのごとくならず。水をもって 石頭を没す ただ覚る 一場の癡(ち)たることを【訳】道を聞くには、かならず耳を洗わねばならない、でないと道と共に行くことはできない。一体 耳を洗うとは どうゆうことなのか、それは自己の見聞知識を捨て去ることだ。手前勝手な見解が 少しでも残っていると、道と 遥かに分離してしまう。自分の考えに似たものなら 間違ったものも是とし 異なるとなると 非とみなす。この様では 是と非とが始めから 自分の思いの中にあることになる 道はこの様なものじゃない。言ってみれば人間の小細工は水で石を とっさに浸し隠すような、まやかしごと その場限りの愚かさにすぎない------------------------------------------------------力をぬいて、まっすぐ、今・ココを死ぬる時まで生き切る。『道』は、言葉を使えば使う程、伝わらないものだな。」ここにも小さな石仏が。丸瓦に「修」の文字が。見事な「本堂」の瓦の造形。さらにズームして。正面の唐破風の左右に「唐獅子瓦」、「鯱瓦」が。鐘楼を見上げて。梵鐘を再び。境内の竹林では、椎茸が栽培されていた。椎茸が顔を出しいた。「六地蔵」。境内のこの枝垂れ紅梅は開花を初めていた。近寄って。「千聖(せんしょう)の森」像。修禅寺の裏山が【千聖の森】と名づけられ、梅林までの森林コースが整備された と。お顔をズームで。「修禅寺平和観音古道」を上って行った。この石碑には? 「南無阿弥陀佛」であろうか。近づいて。「安政四丁巳年 八月日」と刻まれていた。無縫塔が並ぶ。境内を見下ろす。中央に「本堂」の巨大な屋根が見えた。歴代の上人の墓石であろうか。多くの無縫塔をカメラで追う。数の多さに歴史を感じるのであった。「功徳は 無量霊場に 溢る慈」布袋 と。様々な石碑、墓石が。「萬霊等」。「塔」ではなく「等」の字が書かれることも多いが、いろいろな霊という意味で、わざと等の字を使ったのであろうか。「平和観音像」。太平洋戦争の際、修禅寺(伊豆市修善寺)の裏山に安置されていた観音像は、金属製であったため軍に供出されてしまった。終戦後も再建されず、残された台座に「早く再建してください」と張り紙がされるなど、観音像の再建は修禅寺護持会をはじめ、地域住民の積年の願いでしあった。そして戦後70年の節目の年である平成27年に、修禅寺護持会が白御影石製の観音像を寄進し、同じ場所に設置され、同年5月21日(木)に開眼法要が行われた。観音菩薩像の高さは210cm、台座は255cmで、全体は465cm。桂谷(けいこく)八十八ヶ所めぐりの、88番札所となっている。以前の観音像は、東京・日本橋の商人より寄進されたそうで、台座には『日高屋為三郎』と刻まれていた。『修善寺平和観音』の文字は、お寺の名前の『修禅寺』ではなく、地名の『修善寺』の字が使われており、地域のみんなの平和観音である、という思いが込められているのだと。そして「修禅寺平和観音古道」を下まで戻る。「源範頼の墓」案内。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.24
コメント(0)
「虎渓橋」の正面に現れたのが「福地山 修禅寺(ふくちざん しゅぜんじ)」の「山門」。正式名称は「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」。温泉の「修善寺」と、寺の「修禅寺」の”ぜん"の字が異なるのであった。修善寺温泉発祥の寺で温泉場の中心にあり、平安時代初期の大同2年(807)弘法大師の開基と伝わっている。鎌倉時代に北条氏が帰依したことから寺運が隆盛となり、堂塔が連なる大寺となった。一方、建久5年(1194)源範頼は兄将軍頼朝の猜疑を受けここに幽居、梶原景時に攻められて自刃したといわれている。また、頼朝の長子で2代将軍頼家は、母政子と祖父北条時政の謀略により幽閉され、元久元年(1204)入浴中に暗殺されるなど、源氏一族の骨肉相はむ悲劇の舞台となり、源氏滅亡の場として歴史にその名を残している。隣接の宝物殿「瑞宝蔵」には、空海が温泉を湧き出させたという金銅の独鈷杵、北条政子が我が子頼家の冥福を祈って寄進した宋版放光般若経、岡本椅堂が戯曲「修禅寺物語」を書くヒントとなった2代将軍頼家の最期をうつしたといわれる木彫りの古面などが展示されている。平成26年9月には、山門の修復に伴い仁王堂が新設され、長い間指月殿に安置されていた金剛力士像が山門の仁王堂におさめられた。静岡県伊豆市修善寺965−1。開基の「弘法大師」碑。「献燈」碑。「修善寺温泉観光ガイド」案内板。「現在地」にズームして。「修禅寺 配置図」。平成26年9月に修復された修禅寺「山門」。修禅寺「山門」の「仁王堂」におさめられた「金剛力士像」(阿形像)この金剛力士像は全国でもまれな藤原時代の作。一木彫りで像高は183cm、作者は不明。夜にはライトアップされるため、より迫力ある金剛力士像が見られるのだ と。昔の修禅寺は広大で総門まで約2km。金剛力士像はそこで寺を守護していたが、明治初め頃に総門が無くなり指月殿に安置されることになりました。その後、2014年に山門を改修した際、仁王堂が新設され、また山門で守護できるようになったという歴史があるのだ と。下半身を。横から。「木造 金剛力士像 阿形 平安時代後期作」。「金剛力士像」(吽形像)下半身を。横から。「木造 金剛力士像 吽形 平安時代後期作」。「山門」の扁額は「降魔場」、 西有穆山(にしあり ぼくざん)禅師書。西有穆山禅師は、江戸時代文政4年八戸湊町に生まれ、江戸後期から明治時代に活躍された名僧。永平寺西堂、可睡斎住職、大本山能登の総持寺独住三世、曹洞宗管長など、数々の要職を歴任され、明治天皇より勅持賜直心浄国禅師の号を賜っている高僧。小田原海蔵寺の月譚老和尚のもとに12年間修学し『正法眼蔵』を参究、明治33年横浜に西有寺を開き、同34年に能登総持寺に晋住、同43年、90歳で示寂されたと。「降魔場」とは護摩場とのこと。「山門」を潜ると左手に「石灯籠」その奥に「鐘楼」。「山門修復寄付芳名碑」。山門の内側にある切り株上に祀られている石像、「双体道祖神」であろうか。「百度石」。「お百度参り」による願掛けは、ここをくぐっては本堂に参拝することを百回繰り返して行ったのだと。山門をくぐって右前方に見えるのが「手水舎」。鬼瓦や欄間に彫られた龍が見事。「桂谷霊泉 大師の湯」と呼ばれ、龍の口から流れ出るのは、なんと温泉なのであった。「桂谷霊泉」とあるが、弘法大師が開創当初は「桂谷山寺」と呼ばれていたと。源泉かけ流しで、約60度とちょっと熱め。手と口を清めるための御手水ですが、修禅寺の場合、その場で飲むことも可能と。龍の口から出る温泉!!温度は熱すぎずぬるすぎずの適温。冬でも楽しく手、口を清めることができておすすめ。観光客からも人気がありペットボトルに入れて持ち帰る方もいたのであった。「洗浄偈以水滌穢、当願衆生、具足浄忍、畢竟無垢」と。【水を以て穢(けがれ)を滌(あら)わば、当に願うべし、衆生の、浄忍を具足し、畢竟無垢ならんことを】水て汚れを流すにあたって、すべての生あるもののために願わん。忍耐の身心をもち、どこまても清浄ならんことを と。「手水舎」の奥にあったのが「温泉分析書」。ズームして。泉温 60.1℃知覚的試験 殆ど無色、透明、無味、無臭水素イオン第度(pH値) 8.6電気伝導度(EC値) 86.1mS/m蒸発残留物 0.512g/kg(110℃)「修禅寺縁起この寺の歴史は宗派的に、真言、臨済、曹洞の三つの区分にすることができます。創立は大同2年(807)で弘法大師とその弟子によって開かれた真言宗の寺で、当時はこの地一帯に密教型式の堂宇が建ち並び、東国の真言宗の拠点ともなった模様です。この時代の末期ともいうべき元久元年(1204)源頼家がこの地で殺害されています。本尊の大日如来像(重文)は、その母北条政子が頼家公の菩提のため、七回忌に当たる承元4年(1210)に実慶に造らせたことが、解体修理の結果わかりました。その後、寛元4年(1246)宋から渡来した蘭渓道隆禅師(鎌倉建長寺開山)が一時止住されたのが縁で宋の皇帝から勅額が下るほど修禅寺の名が中国に広がり、約二百四十年ほど臨済宗として栄えました。次は今の曹洞宗でありますが、いつの時代でも栄枯盛衰はつきもの、北条早雲が韮山城主になるや、戦禍によって見る影も無いほどに荒廃したこの寺の再興のため、自分の叔父に当たる隆渓繁紹(りゅうけいはんじょう)禅師を住職として招き、広大な土地を寺領として寄進されたので復興することができました。禅師が入山されたのが延徳元年(1489)ですから既に五百年を過ぎて今日に至っています。 (注)昔は住した僧の宗旨で寺の宗旨が変わりました。大祭は毎年4月と8月、共に20日21日の 両日(弘法忌) 正式寺名 福地山修禅萬安禅寺 」「鐘楼」。「梵鐘」。「門及門衛所塗塀」碑。そして正面に「本堂」。脇に「庫裡」。「宝物館」。「宝物館」入口。修禅寺の貴重な寺宝を拝観することができる(入館料300円)。岡本綺堂氏の『修禅寺物語』が創作されるきっかけとなった古面も収蔵されている。この日は入場しなかったが「修禅寺に伝わる宝物の紹介」👈リンク をネットから。「宝物館」前に展示された「前代の本堂」の瓦。全長1m80cmあると。「前代の本堂」の唐獅子瓦。「前代の本堂」の鯱瓦。札所・売店の壁にはTシャツや手拭が販売されていた。「修禅寺 寒桜」。「修禅寺 寒桜(名称) シュゼンジカンザクラ(学名) Cerasus ✗ Kanzakura Rubescens Sugimoto(花色) 淡紅色(花期) 3月中旬(花弁枚数) 5枚「伊豆市に櫻を植える会」は、平成十八年ニ月にこの原木より接ぎ木をして、修褝寺寒桜の若木を増やして参ります。」3月下旬になれば(ネットより) 【https://www.at-s.com/event/article/flower/595321.html】より「鐘楼」を再び「本堂」前から。「修禅寺 檀信徒会館」。檀信徒会館の入口の左右には様々なポーズで座る「十六羅漢像」が並んでいた(正面左側)。表情豊かで、見ていてほっこりするような羅漢像が16体並んでいた。気に入った羅漢像をカメラで追う。正面右側。「檀信徒会館」の正面。扁額は「慈照閣」。その先の扁額「観月堂」。「檀信徒会館(慈照閣)」の内陣。ズームして。「賓頭盧様」であっただろうか。「告諭いま、私たちは多くの苦難に直面しています。新型コロナウイルス感染症の全世界的な拡大により、多くの尊い生命か失われ、人びとは、深い悲しみの中にいます。また、戦笋、貧困、格差などの社会不安、近年頻発する自然災害は、私たちに、大きな痛みをもたらしています。今日、曹洞宗の信仰に生きる私たちは、どのような生き方を目指すべきでしょうか。お釈迦様は、人生における苦悩の中で、菩提樹の下、座禅を重ねられ、お悟りを開かれました。その御教えは、祖師方によって相承され、いま、私たちも頂くことが出来ます。身を調え、息を調え、心静かに座りましょう。仏さまの智慧と同じ正信により、ものごとを正しく見ることが出来ます。その時、おのずから他者を重いやり助け合う慈悲のこころが育まれるのです。私たちの社会ではさまざまな分断が現出しています。感染症の広がりにより人間関係のさらなる希薄化が進む中、いまこそ、一人ひとりか菩提心を発し、人と人の温かなつながりを深めていかなければなりません。お互いに手を携え、四摂法(ししょうほう)の「同事」のおさとしを行じてまいりましょう。すべての人びとが求われることが御仏の願いであります。日々の生活の中で、仏さまに掌を合わせ、世界中の人びとが安らかに暮らせるよう念じ、皆とともに菩薩行を進めてま入りましょう。南無釈迦牟尼仏南無高祖承陽大師道元禅師南無太祖常済大師瑩山禅師 令和三(ニ〇ニ一)年四月一日 曹洞宗管長 南澤道人」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.23
コメント(0)
「渡月橋(みそめ橋)」を渡り右折すると「日枝神社」の石鳥居が左手に現れた。静岡県伊豆市修善寺826。扁額は「日枝神社(ひえじんじゃ)」。「日枝神社」。 「北条氏・源氏ゆかり 13 の地を巡るデジタルスタンプラリー」の「梶原 景時」。「日枝神社日枝神社は修禅寺の鬼門に当り、弘法大師の建立と言われている。明治元年(1868年)の神仏分離令により分離されたもので、もとは修禅寺の山王社(鎮守)であった。毎年10月18日、19日には例祭が行われ、18日の前夜祭には神輿が練り歩き、威勢の良い掛け声が温泉場中に響き渡る。境内には夫婦杉の大木や、静岡県指定天然記念物の一位樫(いちいかし)などがそびえ立っている。一位樫は九州地方に生育する木で伊豆では珍しい。また、源範頼が幽閉され住んでいたという信功院跡(庚申塔のみ現存)もある。」「日枝神社」石塔。石段に向かって進む。「「日枝神社」にまつわる神話大山咋神(オオヤマクイノカミ)と建玉依比売命(テタマヨリヒメノミコト)の縁結びど子宝の神話(日木書紀)よりある日山に狩に出かけた大山咋神、獲物に向けて放ったはずの矢がはずれ、近くの小川に落ら、流されてしまいました。その時下流を散策していた建玉依比売命は川の中にきらきらと光る矢を見つけ持ち帰りました。その矢は丹塗り(にぬり)の大変美しい物だったのて、寝床に飾り毎日眺めていると矢に化身した大山咋神が現れ、ニ人は結ばれました。そしてその後子宝にも恵まれ、幸せに暮らしたという伝説があります。この云われから、この日枝神社では玉依比命の真心を真っ白い花に例え、良縁と子宝を望み祈願する風習が今も残っております。女性は白い花、男性は丹塗矢を持って正面の階段を上ります。境内にある夫婦杉の前に立って、肩のカを抜いて天を仰ぎ静かに目を閉じましょう。天の光を感じ、優しい力に包まれ、次第に心が開放されていくのを感じることが出来るでしょう。あなたの想い 天高く届け」階段の脇に、『玉依の花』と『丹塗り矢』を奉納するための掛所があり、絵馬のように願いごとを書いて結んであった。これは玉依姫の丹塗り矢伝説に由来していると。『玉依の花』に願い事を書いて。「信功院跡(しんこういんあと)修禅寺の八塔司(たっす)の一つである信功院のあった所です。建久四(一一九三)年、源範頼は兄である頼朝の誤解により、この信功院に幽閉されました。翌年、梶原景時率いる五百騎の不意打ちに合い、範頼は防戦の末に自害したといわれています。信功院は後に庚申堂となり、今は文政元(一八一八)年建立の庚申塔が一基残っています。」これが「信功院跡」の「庚申塔」。さらに両脇の杉の大木を見ながら石段を上って行った。そして石段を上りきると狛犬が迎えてくれた。(阿形像)。吽形像。手水場は巨石を彫り込んで。そして「日枝神社」の「社殿」。「拝殿」前には石灯籠が対で。「拝殿」の大きな注連縄には太房が3本。「本殿」を見る。右手にあったのが「イチイカシ」。「日枝神社のイチイカシ静岡県指定天然記念物(ブナ科)昭和32年5月13日 文化財指定根廻り5.5m、目通り4.5m、樹高25mの大木、一位樫は九州地方に成育する木で伊豆には珍しい。日枝神社は修禅寺の鬼門に当たり、弘法大師の建立といわれる。明治初年(一八六八)の神仏混淆廃止令(神仏分離令)により分離されたもので、もとは修禅寺の山王社であった。境内には杉の大木、欅、槙等が亭々(ていてい)とそびえ立っている。」「静岡県指定 天然記念物 日枝神社のイチイカシ」碑。絵馬掛所(えまかけどころ)。「夫婦杉」。「夫婦杉(子宝の杉)天に向かって真直ぐに聳え立つごく稀なる根幹が接合した樹齢八百年の杉。夫婦円満や子宝を夫婦杉にお祈りください子は夫婦の鎹(かすがい)」。「夫婦杉」を見上げて。隣にも1本。これも根幹が接合しているようでであるので「不倫杉」か?「拝殿」奥にあった「征清軍士昭忠之碑」。明治29年建立。明治27年から28年にかけて行われた日清戦争の慰霊碑です。第11代・13代・15代と三度内閣総理大臣をつとめた、陸軍中将従三位勲一等 桂太郎 の名前が刻まれていた。奥の高い場所には滝の姿も。再び「本殿」を逆側から。「社務所」。最後に再び「日枝神社」の「拝殿」を振り返る。県道18号線に戻ると、左側に「虎渓橋(こけいばし)」、別名:あこがれ橋を見る。「虎渓橋(あこがれ橋)の橋紋」。「虎渓」の文字が、下部にデザインされていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.22
コメント(0)
「加藤景廉一族の墓」を後にして、国道136号を狩野川に沿って南下する。「横瀬」交差点を右方向にカーブして進むと右手にあったのが「横瀬八幡神社 (よこせはちまんじんじゃ) 」。静岡県伊豆市修善寺256。社号標石には「八幡神社」。石鳥居の扁額は「八幡宮」。石段を上がると「拝殿」が正面に。「神楽殿」。「手水舎」。「拝殿」。「八幡神社当社は、旧修善寺村の氏神として古来より厚く尊崇されている神社で、相殿は鎌倉二代将軍頼家公である。当所はここより二百メートル東側の月見ヶ丘に在り、ニ体の古像が祀られた旧祠であったが、後に当所へ社殿を建立し、頼家公束帯(正装)の立像を作り、神を引いて頼家公の廟(みたまや)とし、八幡と称した。社殿は現在も両扉となっており旧規を残している。右側の本社には、頼家公の母北條政子悪病平癒の伝説をもつ「孔門石」又は「玉門石」と呼ばれる陰石が祀られている。昔修禅寺の総門が当地横瀬の大門(字名)これよりニ~三百メートル下がった附近にあった時代に、仁王像があったが、総門がこわれてしまった時(徳川時代)に当社に移され、さらにある老婆の夢枕にこの仁王像が現れて、修禅寺に帰りたいと云うので、頼家公にゆが(か)りのある指月殿に納めたという。この指月殿は、政子が非業の最後(期)を遂げた、我が子の冥福を祈って建立したものである。祭礼日は毎年十月十九日となっているが、最近は近くの日𫞂(曜)日に行なわれる。又昭和五十年迄は三番叟が奉納されていたが、現在は後継者が少なく、行なわれていない。」同じ鎌倉幕府に縁の深い由緒ある史跡であるにもかかわらず、修善寺温泉郷の賑わいとはほど遠く、この社はひっそりと静かで、落ち着いた佇まいの神社であった。内陣。「修善寺橋」の袂にあった「月見ヶ丘愛童将軍地蔵尊」。「月見ヶ丘愛童将軍地蔵尊ここより二百メートル下った狩野川沿いに月見ヶ丘と呼ばれる丘がある。この丘は、建仁ニ年(一ニ〇三)に鎌倉府ニ代将軍源賴家公が、北條氏の政略により修善寺に幽閉されていた時、幽棲の寂しさを慰める為いつもここで月を眺めては鎌倉を偲び、この里子達と遊んでは我が子を思ったという。丘の上のわずかな平地は、八幡神祠と保倉神の小さな石の祠が今に残っている。又丘の中腹には非業の最後(期)を遂げた頼家公の冥福を祈り、里人による愛童将軍地蔵と名付けられた笠冠地蔵が建立されていたが、昭和三十六年の道路拡巾工事により月見ヶ丘が削られて修善寺橋際に移転された。地蔵尊の縁日は八月ニ十四日で、この日は地元老人クラブにより祭礼が催され、参拝者には、家内安全のお礼と手づくりのだんごが渡される。又近くの広場では子供角力大会や盆踊り大会も開催される。」「北条と源氏ゆかりの史跡めぐり 修善寺温泉街モバイルスタンプラリー」の「源頼朝」。ちょっと変わった狛犬横瀬八幡神社の狛犬は、一般的な狛犬と形が異なっており、カエル?やナマズ?のような風貌。台座には『奉納宝暦十三年十一月吉日』とあり、1757年に奉納されたことがわかった。この狛犬は、当時の石工が狛犬を見たことがなかったため、口伝のみの想像で彫られたものと言われているようである。ちょっととぼけた顔をしたかわいい狛犬なのであった。阿形像。お顔を正面から。吽形像。お顔を正面から。朱の祠に「孔門石」がまつられていた。北条政子が修善寺に湯あみに訪れていた際に女性の下の病に罹り、鎌倉から名医を呼び寄せたが、政子の侍従から「奥殿の扉を開けてはいけない、手も触れてはいけない」と、申し付けられてしまい困った医者が苦肉の策で、糸の端を政子に持ってもらい、その動きでなんとか病を特定したが、今度は薬を塗る場所をどのように説明したらよいかと困っていたところ、神夢のお告げがあったという横瀬八幡神社の神主が、女陰の石尊を医者のもとへ持ってきた。医者がその石に丹粉鉄の3色(丹は赤、粉はおしろい、鉄はお歯黒)を塗って薬を塗る場所を指定し、政子が承知し従ったところ、たちどころに病が治った。それ以来、この石は女性特有の病、子宝開運のご利益のある石として祀られています。また、石は人の手で彫られたものではなく、自然石であることも伝えられています と。正面から一番右の赤い幕のかかった祠に、北条政子に縁があると伝わる女陰石が祀られていた。陰石の前には、教育的配慮のため?か赤い蝶ネクタイの付けられた神前幕があったが・・・。失礼して、「孔門石」を・・・・。左には石祠が並んでいた。「横瀬八幡宮縁起兼ねて修善寺温泉に湯あみしける徒然に横瀬八幡宮に詣うで、ゆかりある祠にてめづらかなる世のまれごとを伝えたり此所は、狩野川と桂川との合流点にあたり此の辺一帯は碧潭六十尺葛羅のたれさがれる磐石の断崖なるも船土のわたりより舟もて渡りなば、渓谷をひらきて修善寺温泉に通ずる小径あり、すぐその道上に昼なお暗き老杉の森ありて、八幡宮はここに鎭座するなり。前從ニ位征夷大将軍源頼家公を奉祀すときくだに英雄武運つたなく、とらわれの身となり、元文元年修善寺に於いて北條氏のため人浴中虐殺されたる末路を思ふだに哀れなり。誠に祇園精舎の鐘の声諸行無情のひびきあり。御年いまだニ十三才。北條氏の専横を憎しみて青雲の志、軒昂にすぎたるが災いを招くに至り果敢なき悲運に魅せられて若き御命をおとし給う。又この宮の末社に比賣神社と云う小祠ありて御神体は女陰なり。高さも巾も一尺五寸ばかりの自然石にて、上方やや恰も擬宝珠に似たるが、正面に女陰大きく深く刻みあり。但し決して人間の刻みたるものにあらず、社伝に日く昔尼将軍政子、修善寺に湯あみし折、時秋深く、奥殿の病に罹りて鎌倉より名医を招き、病状を断定せしめ給う。その時に侍従日く奥殿の扉を開くべからず、手もふるるなかれしと申しつけられ、名医も困りはて勘考の極み、糸の一端をとりて他の一端をおそれながら尼将軍にささげまいらせ、その動きによって患部を察知するを得たり。さて次に薬石を如何ようなるわざにしてつけまいらせと謀るに、これには応答一人だになし、しかる処に八幡宮の神主、横瀬の主人と云うありて神夢の御告げに從い、右なる女陰の石尊を奉昇して見参しければ名医相手して、いたく喜び即ちこの石尊によって丹粉鉄(丹はべに、粉はおしろい、鉄はおはぐろ)の三色を、そのところにぬり、以って薬石を色別したるに尼将軍うなづき給ひて、これにしたがいければ立ち処に平愈したり。それより婦女の下の病、子宝開運の御霊験あらたかなり。あなかしこ。(石尊のまたの名を紅門石とも孔門石とも云うなり)」2017年、道路の拡張のため境内の一部が削られた際、鳥居と神橋が撤去され、新たに鳥居が奉納されたのだと。撤去された鳥居と神橋は拝殿の横に置かれていたのであった。旧笠木をズームして。石の太鼓橋・旧神橋も置かれていた。横から「本殿」を見る。国道まで坂を下った場所にあったのが「伊豆市消防団 第一分団下部詰所」。走っているとバス停「うなり石」を右手に発見。民家の前に巨石が鎮座。高さが3mはあっただろうか。名前・「うなり石」には諸説あるようだが①裏山から転がってきた時の音が唸るような音だった。②風の通り道なので、強い風が吹くと唸るような音が聞こえる。③うなり石の傍に沼があり辺り一帯は湿地の為、人が通るたびにうなりながら揺れ、みずしぶきが あがり大変恐かった。その話を聞いた弘法大師がありがたいお説教をして静めたそうです。と湯ヶ島層群の修善寺凝灰岩類に属する凝灰角礫岩のようだ。そして修善寺温泉の「渡月橋(みそめ橋)」を渡り空き地に車を駐め修善寺の散策を開始する。左手にあったのが「夏目漱石の句碑」。「生きて仰ぐ 空の高さよ 赤蜻蛉」1910年(明治43年)8月、修善寺温泉「菊屋」にて療養中、大量の吐血とともに生死をさまよった夏目漱石。「修善寺の大患」と呼ばれた事件 と。その後奇跡的な回復を見せ、10月には帰京できるようになった。一時的とは言え「死」を体験した漱石は、その後の作品にも活かしている。奇跡的にも回復を見せた際に呼んだ句が、この「生きて仰ぐ 空の高さよ 赤蜻蛉(あかとんぼ)」句碑には、地元の紙切り作家「水口千令(ちひろ)さん」が漱石のイラストを切り絵で製作し刻んであるのだと。その先、左手にあったのが温泉街を見渡せる高さ12mの「仰空楼(ぎょうくうろう)」(筥湯横無料展望台)と外湯「筥湯(はこゆ)」。その昔、鎌倉二代将軍「源頼家」が入浴していたという伝説のお風呂でもあるのだと。「筥湯(はこゆ)かって修善寺川沿いにあった七つの外湯のひとつで、元久元年(1204年) 7月18日に当地に幽閉されていた鎌倉幕府ニ代将軍源頼家が入浴したという伝説の名湯。入浴中に北条氏の刺客に襲撃された温泉であったと伝えられている。 入浴中に北条時政の家来により襲われて亡くなったと言われているが、その襲われた温泉がこの筥湯だと言われている。 昭和初期まで続いていた外湯巡りを復活させるため、平成12年2月12日にこの地に再建された。併設する高さ12メートルの「仰空楼」は、かって修善寺を愛した文豪「夏目漱石」の漢詩にちなんで名付けられた。」「ニ〇一〇年 文豪夏目漱石修善寺温泉・菊屋旅館滞在一〇〇年~菊屋旅館本館跡・百日紅の樹など~作家夏目漱石(慶応3~大正5)は、病後の静養のために、明治43年8月6日から松根東洋城(俳人、漱石門下生)の案内で修善寺温泉「菊屋旅館」に滞在した。初日は別荘に、翌日からはこの地にあった本館に滞在した。当初は読書のほか、近隣の地の散策などもしていた。ところが暫くすると胃病が兆して、殊に日晩には大吐血をおこすなど、一時は病状が悪化した。このため、医師たちは厚い医療をつづけた。この間はまた、身内の外、多くの友人、門下生らが見舞った。その後、症状は徐々に快方に向かっていった。帰京も近い日の句に「帰るは嬉し梧桐(ごとう)の未だ青きうち」がある。こうして10月11日、医師、鏡子夫人らに見守られ、この地を後にした。本館跡地の百日紅(「さるすべり」とも)は、晩夏から秋にかけては、美しい桃色の花をつける。この頃の句に「先づ黄なる百日紅に小雨かな」がある。なお、現在の菊屋旅館の裏通りは本館にも通じ、かっては漱石や友人、門下生らが往き来した往還でもあった。」正面に「渡月橋(みそめ橋)」。「とげつばし(渡月橋)」。修善寺温泉街にある「桂川」に架かる橋。5つの橋を渡る「恋の橋めぐり」の1つとして有名。「渡月橋」から「桂川」の下流を見る。「渡月橋」から「桂川」の上流を見る。「渡月橋(とげつばし)・みそめ橋良縁祈願桂川にかかる五つの橋其々に恋にまつわる、ご利益があると言われています。願いをかけながら渡ると、その思いが成就するとか・・・。」「夏目漱石詩碑仰臥人如唖 黙然看大空 大空雲不動 終日杳相同(仰臥して人唖の如く 黙然として大空を看る 大空は雲動かず 終日杳として相い同じ。)九月ニ十九日に詠まれたこの五言絶句の漢詩は漱石の漢詩の中でも傑作と言われる。昭和八年四月十日、漱石十七回忌記念し鏡子夫人と、家族「九日会」の門下生 多くの友人達と地元の有志により修善寺白然公園の丘に建立、除幕された。碑文・狩野亨吉書 ・菅 虎雄又、建立に盡カした松岡譲(長女筆子の夫)は、修善寺に有るべくして建てられた立派な詩碑であると書いている。漱石の最初の碑である。大患(たいかん)の部屋胃潰瘍の転地療養の為に菊屋別館を訪れ、翌日には本館(筥湯横駐車場) に移った。しかし其の後の病状は思わしいものではなく、八月ニ十四日には、大吐血による人事不省に落ちいったが、奇跡的に回復に向い約ニヶ月余の闘病生活を過した後、無事十月十一日帰京された。この大患時を過された本館、「一番」の部屋は、現在、「虹の郷」に移築され「夏目漱石記念館」として保存、一般公開されている。「漱石・修善寺の大患」を偲んで頂き度い処である。」「桂川」にかかる「渡月橋(みそめ橋)」を振り返る。ズームして。「桂川」の白き流れをカメラで追う。JR修善寺駅近くで「狩野川」に合流する「桂川」の流れ。「渡月橋(みそめ橋)」の路面に埋め込まれた「橋紋」。修善寺の5つの橋には、それぞれ橋を表すシンボルの『橋紋(きょうもん)』があり、橋の路面に御影石で出来た「橋紋」が埋め込まれていたのであった。「修善寺梅林」の梅の花に「渡月橋」の「渡」の文字がデザインされているのであろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.21
コメント(1)
全1724件 (1724件中 151-200件目)