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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
旧東海道を歩く(富士~興津)間を完歩してから1週間後の3月15日(金)に
次の興津~安倍川間を歩いて来ました。
いつもの6:08発の沼津行に乗車し、JR興津駅に向かって進む。
そして前日に『青春18きっぷ』を購入。
「青春18きっぷ」は、日本全国のJR線の普通・快速列車の普通車自由席及び
BRT(バス高速輸送システム)、ならびにJR西日本宮島フェリーに自由に
乗り降りできる切符。
年齢にかかわらず、利用出来るのです。一人での5日間の旅行や5人グループでの
日帰り旅行などの「鉄道ぶらり旅」に、格安で利用出来るのです。
春、夏、冬に期間限定で発売され、
春季用の利用期間:2019年3月1日(金)~2019年4月10日(水)なのです。
1枚のきっぷを1人で5回までご利用でき、1日間自由に途中下車も出来
5回分で11,850円,寄って2,370円/回で1日自由に利用できるのです。
駅の改札口で、1回目の日付入りの押印をもらい入場し出発。
この日も快晴で、雪の積もった富士山の姿を楽しみながら進む。
電線が邪魔なのであったが。
そして定刻通りJR興津駅に到着し、興津宿の散策スタート。時間は8:15。
興津駅舎は東海道本線國府津-静岡間開通(明治22年(1889年)2月1日)と同時に開業。
但し、開業当時は新橋方に160m東に存在したが、明治35年(1902年)11月1日に
現在地に移転。現駅本屋は昭和56年(1981年)10月26日竣工。
駅前には興津宿を描いた看板が。この後に訪ねた『清見寺』が描かれていた。
そして『東海自然歩道バイパスコース』の案内ボードが。
興津駅から旧東海道のある興津駅前交差点に向かう。
交差点を右折し旧東海道へ。
旧東海道沿いには由緒ある店舗が点在していた。
米屋 高山仙吉商店が左手に。
店先では今でも豆を計り売りし、米は産地銘柄に拘り奥の工場で玄米から自家精米している
とのこと。昔からの道具や日用品が展示されており、米と暮らしの小さな博物館となっていると。
右手奥にあったのが『日蓮宗 理源寺』。
境内裏から西側にかけて沢端川が流れる。慶長年間(1596年~1615年)沢端川を
身延七面山の春木川になぞらえ、日蓮宗総本山の身延山久遠寺がある地形に合わせて
創建したと。
『山門』。
山門入り口右にお題目塔、左に東海道行路病死無縁各霊供養塔。
『本堂』。
開山は身延26世知見院日暹。日像の説法弘通の霊地を追慕して慶長年間に草創された。
安政の地震で厄を被り、20世日修が堂宇の建立を果たした。昭和10(1935)年に
それまでの堂宇に代わり、本堂・位牌堂が、戦後に七面堂・庫裡等が新築され、
山門も修復された。さらに同60年には現本堂はじめ境内地の改修が行われた。
『稲荷堂』と『日蓮上人像』。
『七面堂』。
「日蓮上人像の近くに目の神様「意眼さん」を祀った祠があった。
法号「覚智院意眼日明尊位」は、若狭の国宮津城主の子で盲人。
身延山日朝上人の許に参詣の折にこの地にて死す。
29歳、短い一生であったが、目の不自由な人々のために尽くす。
「日朝さん」 「意眼さん」として尊敬される。」 と。
寒緋桜(かんひざくら)が咲く境内。
七面堂を背景に。
下向きに花が咲くのが寒緋桜の特徴。
『永代供養墓』であろうか。

入口には『鉄は打たれて名刀に変わる、試練をばねに人は大きく飛躍する』と。
江戸時代末期には旅籠であった『旅館岡屋』が左手に。
清見潟に残る唯一の旅館。
庭には大島桜の白い花が。
旧東海道の右手にあったのが『興津宿公園』。
案内板にはここが伝馬所(街道の宿駅で人馬の継ぎ立てを行う所)があった場所と
記されていた。
興津宿 『由来』。
「東海道五十三次のうち17番目の宿場として栄えた興津は、興津郷と称されていた。
地名のいわれは、「宗像神社」の興津宮を当地に勧請したことに由来する。」
公園内の東屋の前には、案内ボードが。
平成21年5月7日、全米さくらの女王が興津を親善訪問して薄寒桜(うすかんざくら)を
記念植樹したと。
旧東海道には関係ない?が『興津町役場跡』の碑。
興津は静岡市清水区に編入され、興津町役場は取り壊されたと。
『興津宿由来』の案内板。英語と共にハングル文字が併記されていた。
「慶長六年(1601年)徳川幕府は、東海道に伝馬制度を設け、興津の百姓・年寄中に
伝馬朱印状を与えられる。この興津宿は江戸から数えて十七番目の宿である。
参勤交代の制度が確立した寛永時代、東本陣・西本陣の二軒のほか、脇本陣を置き、
旅籠も二十四軒と言う賑やかな宿場となる。
ともあれ、東西の交通の最重要路であり、甲州を結ぶ身延道の起点でもあった。
なお、由比宿より山道で親知らず子知らずの難所「薩埵峠」を越え、
ほっと一息つける宿場であった。
この付近一帯が興津と呼ばれたのは、宗像神社の祭神(興津島姫命)がここに
住居を定めたことからと言われている。
また、平安末期から興津家一族(興津・小島地区を治めていた)が住居していたので
その名を地名としたとの説もある。
古代から呼び名は、奥津・沖津ともいわれていた。」
我が住む市内にある江島神社はちなみに奥津宮 ( おくつみや ) 。
興津宿公園には興津宿の案内板あり当時の一軒一軒の旅籠名が図示されていた。
『興津宿』道標。
清水警察署 興津交番横の道の奥には『日蓮宗 耀海寺』が。
そして『興津宿東本陣阯』の石碑が。
当時の当主は市川氏と言い、宿の役人を兼ね、苗字帯刀を許されていて、
明治三年に廃止されるまで235年間続いていたと。
『脇本陣、水口屋跡』
左側にある。明治になり制度が変わると、一般客相手の高級旅館一碧楼水口屋として
営業を始めた。
しかし、昭和60年に400年続いた旅館を廃業し、水口屋ギャラリーになっているようだ。
入口には『興津宿 脇本陣水口屋跡』、『一碧楼水口屋跡』の碑が。
東海道線が静岡まで開通し興津駅ができると、風光明媚な海岸を愛でた海水浴客で賑わい
避暑地の名声を得ることになった。
一方、水口屋にしばしば逗留した政治家後藤象二郎をきつかけに、元勲たちが相次いで避暑地、
避寒地として訪れ、別荘を建てたりした。明治29年、元老井上馨は、長者荘を建てた。
その井上訪問のため伊藤博文、山県有朋らが水口屋に宿泊した。
また文豪夏目漱石、正宗白鳥、高山樗牛らも訪れ興津を題材にした作品を残している。ま
た志賀直哉も「興津」を発表した。
スポーツ用具店のシャッターには、3月21日に現役を引退した「イチロー」の姿が。
平成プロ野球の扉を開いた男が、平成の終わりとともにユニフォームを脱いだのであった。
ひとつの「平成」時代の終わり……いや、正確に言うとイチローは平成時代そのものだった。
そういうプロ野球選手は、長い球史において、「昭和の長嶋茂雄」と「平成のイチロー」だけだと
個人的には思うのだが。
右手に『興津宿西本陣址』。

更に旧東海道・興津本町を西に進む。
清水区興津清見寺町の道標には日本橋から166kmの表示が。
旧東海道を歩く(富士~興津)
その10
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・・・ つづく
・・・
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