JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.04.09
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カテゴリ: 大和市歴史散歩
【大和市の神社仏閣を巡る】目次

そして訪ねたのが境川の手前にあった「高倉諏訪神社」。
藤沢市高倉2674。
「石鳥居」の扁額は「諏訪神社」。



境内への階段。



「諏訪神社」案内板。
藤沢市高倉字諏訪ノ上ニ六七四番地
祭神  建御名方神(たけみなかたのかみ)(建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)
    八坂刀売神(やさかとめのかみ)
境内社 天神社 八幡社 稲荷社 その他境内にはニ十六夜講中造立の石祠をはじめ、
    数基の祠が点在します。
例祭  七月ニ十七日(現在は、九月ニ十七日に近い土曜日に実施) 
    上高倉(旧千束村)地域の鎮守です。
この高倉の諏訪神社は、江戸時代初期の寛永ニ年(一六ニ五年)、信濃国一ノ宮諏訪大社から勧請、
創建されたと伝えられています。
祭神の建御名方神は記紀神話によれば、大国主命の御子で事代主命(えびす様)の弟に当る神様で、
諏訪湖の水の神として諏訪大社の祭神となりました。農耕の神、漁業の神、養蚕の神など御神徳の
多い神様です。八坂刀売神は坂(峠)や道の神で、縁結びの神でもあり建御名方神の妃神でか、
地方神話にのみ登場する神様です。
拝殿正面に掲げる「諏訪神社」の奉納額は、元警視総監・法務大臣を務められた上高倉出身の
秦野章氏の揮毫によるものです。
また、拝殿内には江戸時代の末期、千束村で「箭泉堂(笋泉堂とも)」という筆学所を設け、
周辺各村の農家の子弟に「読み・書き・算盤」に加え、「絵画」の指導もしていた師匠の
矢沢保光(絵師でもあり雅号を玉秀と称した)が描き、文久三年(一ハ六三年)にこの神社に奉納した
役者絵の「絵馬」五点が残されています。
令和ニ年(ニ〇ニ〇年三月吉日
長後地区郷土づくり推進会議
歴史散策の会」



社号標「諏訪神社」。



「諏訪神社
神奈川県藤沢市高倉字諏訪ノ上ニ六七四番地
建御名方富命

あります。
「健全なる精神は健全なる身に宿る」と申しますが悲観的な気持ちを一掃してしまって強い精神、
強い肉体そして強い力をもう一度振るい起し日常生活に精出す必要がありますこの人間に生きて
いく強さを与え下さるのがこの大神様の第一の御神徳であります。
第二の御神徳は「御名方(みなかた)」から来る御神徳であります。
即ちこの水の恵みがこの大神様の第二の御神徳であります。
第三の御神徳はこの御名の最後の富命の富の御神徳であります。この神様は祈るものに富と
仕合せを与えて下さる御神徳を持って居られます且つその祈りに叶ふだけの富を必ず与えて
下さいます。
第四の御神徳は開拓開墾の神徳は御父の大国主神の国造りのお働きを受けつがれたもので古事記の
最初にある「この漂える国を修理固成せよ」とある祖神の最初のお言葉で心の眼を開くことそれが

第五の御神徳は諏訪のもう一柱である八坂刀売神についての御神徳であります。この神は坂(峠)
の守の神で今日の言葉でいえば交通安全の守り神だといえます。人々の希望に応えてくれる神で
あります。
以上諏訪大神様について五つの御神徳を申し上げたのでありますがこれをつめて申しますと
根本の御神徳は生命の親神様であり人々に仕合せ健康交通安全を与え下さる神様だと言えるので

私達は強く生きて行くために真剣に誠心をこめて祈ることです。
皆様と一緒にタケミナカタトミノミコト様とヤサカトメノ神さまの御名を称えまつりその御徳に
あずかるようにつとめましょう。 以上 神社庁文献より
神 天神様 八幡 稲荷  境内の四方に小祠が点在している。 
祭り 九月二十七日
由緒 
千束村寛永二年(一六ニ五年)此の地に御創建されたと伝えられる。
徳川二代将軍秀忠公の頃か三代将軍家光公の時代に七ッ木村より分村当時の戸数はさだかで
ないが二十戸位と推定される。此の時の領主は遠藤善九郎憲次でありその知行高は七十五石であり
元禄十五年(一七〇ニ年)の村高を調べると八十五石であった。村高によってみると千束村は
江戸時代の村落規模としてきわめて小さかったか尚ちなみに全国の平均は四百石といわれる
ことからいかに小さかったかが理解できる。
諏訪社、村の鎮守トス、例祭七月二十七日、村持、
鐘楼 寛政八年ノ鋳鐘ヲカク、一七九六年
新編 相模国風土記並他の文献より」



境内。



「狛犬、阿像」。



「狛犬、吽像」。



「鐘楼」。



「梵鐘」。「諏訪大明神」と。
反対側には「昭和50年秋」の文字も。
「梵鐘」は、戦時中に供出して長いこと堂だけであったが昭和50年に新しい梵鐘が
奉納されたのだと。



「神楽殿」。



「拝殿」。
鉄筋コンクリート製の頑丈な賽銭箱。



扁額は「諏訪神社」。



「拝殿 内陣」。
「本殿」への扉は閉じられていた。



「拝殿」前から境内を見る。



「本殿」を横から。



境内社の「稲荷社」。



「八幡社」。



「天神社」。



「本殿」の左に祀られていた社。
「諏訪神社」の御札が内部に。



お祭りがあったのだろうか。



境内の銀杏の大木。御神木なのであろう。



そして「諏訪神社」を後にし、旧町田街道に向けて引き返すと、
左手には「藤沢市消防団 第二十ニ分団」。



その角にあった石碑。



近づいて。



「双体道祖神」を正面から。



「双体道祖神
双体道祖神像(和合ニ神像)は男女ニ神を並祀しています。日本には古来から男女ニ神や、
性の象徴を具現した石像を村の境界に置くことにより、村の繁栄、豊穣を祈ると共に、
外部からの邪霊、悪鬼、疫病神などが村内へ侵入することを防という呪術がありました。
そのため道祖神は古くは、「塞の神」(侵入を防ぐ神)とも呼ばれていました。
双体道祖神は長野県の諏訪、松本、佐久などが発祥の地とされ、江戸時代、関東地方を中心に
各地に広がって行きました。現在、長野県内には四千基近い双体道祖神像が残されていると
言われています。次に多いのは群馬県で約三千五百基、神奈川県は第三位で約ニ千八百基
あるそうです。因みに関西方面では殆ど確認されていないとのことです。
この双体道祖神は寛政七年(一七九五年)に造立されたもので、塔身の左右側面それぞれに
「寛政七乙卯」・「霜月吉日」と刻まれています。
なお、この道祖神像のある道は「元柏尾通大山道」と言われる道で戸塚区柏尾町から境川を
「千束橋」(廃橋)で渡り、この道祖神像の横を抜け、長後天満宮の前を通り、伊勢原、
大山方面へ向かう道で、江戸時代中期の宝永四年(一七〇七年)に起きた富士山の
噴火(宝永噴火)以前の大山道と言われています。
平成三十一年(ニ〇一九年)三月吉日
長後地区郷土づくり推進会議
歴史散策の会」



その先右手にも石碑が一段高い場所に。



高倉の庚申塔道標が二基。



「笠付角柱型 日月 青面金剛立像(痕跡) 三猿(痕跡)」
延享五年七月(1744)の銘があったようだ。



「唐破風笠付角柱型 「奉供養庚申」 三猿(三面)」。
正面に「干時延宝三乙卯天」(1675)「千束村」の文字
右側面 「現世安穏」/「具一切功徳 慈眼視衆生」
左側面 「福聚海無量 是故應頂礼」/「後生善處」 


そして国道467号交差点を渡る。



そして旧藤沢街道(八王子街道)を右に折れて進む。



この先を左に曲がる。



小田急線のガード下を通過。



そして正面に見えて来たのが「長後 天満宮」。




                              ・・・もどる・・・

                  ・・・つづく・・・





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Last updated  2021.09.05 06:00:33
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