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「蓮上院」を後にして、「七枚橋」交差点を右折して進む。「新玉小学校」バスのりばの横に「旧地名」碑があった。「七枚橋」。「しちまいばし」。「抹香町から大新馬場に通ずる道路と護摩堂川とが交差するところに、七枚の切石を並べて作った石橋があり、「七枚橋」といわれていたという。後にこれが付近の地名となった。」別の説明ではこの地名社、「文化十四丑年類焼録」( 1817年)に初めて見られます。橋は、抹香町から大新馬場に通づる道路と護摩堂川(ごまどうがわ:小田原城三の丸の水を排水するために設けられた水路で、現在では見られない)とが交差するところに、7枚の切石を並べてかけられていたそうです。この橋の名が、後にはこの付近の地名になりました と。「七枚橋」はここ。引き返して「七枚橋」交差点まで戻る。「大工町通り」を西に進むと前方右手奥に教会の屋根が見えて来た。「小田原ハリスト正教会」と。「小田原ハリスト正教会 聖神降臨聖堂(せいしんこうりんせいどう)小田原市栄町四丁目4番1号」と。小田原教会は、1877年に聖ニコライ大主教が神父であったときに洗礼を受けたイオナ友田清兄とイオシフ峰義準兄によってはじまっている。二年後には、信徒たちのあいだに聖堂を建てたいという気持ちが起こり、自主的に募金活動が始まった。1887年には白亜の木造の聖堂が建立した。残念ながら最初の聖堂は、関東大震災のときに焼失してしまった。その後、塔ノ沢にあった小聖堂が小田原教会に移された。1937年には栄町に土地を購入して、その小聖堂を移築した。1969年には現在の聖堂が建てられ、1983年には信徒会館と司祭館が新築された。小田原教会の信徒は、神奈川県の西部、藤沢市から湯河原、静岡県御殿市の範囲に居住していると。聖神降臨は、復活したイエスが弟子たちに「近いうちに聖霊が降る」ことを告げて天に昇った後に、弟子たちの元に聖神が降臨した出来事を指します。この出来事によって、弟子たちはハリストス(キリスト)の教えや十字架、復活の意味を理解し、福音の宣教を開始しました。そのため、聖神降臨の日は「教会の誕生日」とも呼ばれます と。19世紀後半(明治時代)に、ロシア正教会の修道司祭聖ニコライ(のち初代日本大主教)によって正教の教えがもたらされ、これがその後の日本ハリストス正教会の設立につながった。聖ニコライによって建立されたニコライ堂(東京復活大聖堂)、函館の復活聖堂、豊橋の聖使徒福音記者マトフェイ聖堂、京都の生神女福音聖堂は、国の重要文化財。その先にあった「旧地名」碑は「八反畑」碑「はったんばた」。「小田原北条氏時代、この地には「大雲軒」(市内板橋の興徳寺の前身)という寺があった。稲葉氏時代には藩の蔵屋敷や菜園、茶園などになった。後期大久保氏時代には藩士の屋敷が多く、本源寺の東横から裏手にかけては割屋敷があった。」別の説明ではこの地名は、「貞享三年御引渡記録」( 1686年)に初めて見られます。この土地は、もと周囲を武家地などに囲まれた四辺形の区域で、小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495 ~ 1590年) )には、「大雲軒」(市内板橋の興徳寺の前身)という寺がありました。江戸時代に入り、稲葉氏時代(1632 ~ 85年:寛永9年(1632 )、稲葉正勝が下野真岡城(栃木県)から移って小田原藩主になり、正勝・正則・正通を経て、貞享2年(1685)、正通が越後高田城(新潟県)に転封されるまでの3代53年間)には、藩の蔵屋敷(年貢米などを保管するために設けられた倉庫と管理事務所)や菜園、茶園などに利用されました。さらに、後期大久保氏時代(1686 ~ 1871年:大久保忠隣のひ孫忠朝が下総佐倉城(千葉県)から移って小田原城主となり、その後10代で明治維新を迎えるが、この約180年間のこと)になると、武家地になり、本源寺の東横から裏手にかけて割屋敷が設けられました。「八反畑」はここ。その先、「大工町通り」の反対側にあった「旧地名碑」は「本源寺前」碑。「ほんげんじまえ」。「地名の由来は、小田原城主大久保忠朝が貞享三年(一六八六)に下総佐倉城(千葉県)から移封された時に移した内庵の一つであった「本源寺」にちなむものである。本源寺前は、「堀川通り」、「内川通り」などとも呼ばれていた。」別の説明ではこの地名は、「文化十四丑年類焼録」( 1817年)に初めて見られます。地名の由来は、小田原城主大久保忠朝が貞享3年( 1686 )に移した内庵(江戸時代の大名大久保氏と関係の深い寺で、大久保氏の転封(転任)とともに移動していった)の一つであった「本源寺」にちなむものです。と。「本源寺前」はここ。そして正面に見えたのが「本源寺」。小田原市栄町に天台宗東叡山寛永寺の末、大久保氏六内庵の一つ「恵日山本源寺」(如法院)は鎮座している。当寺は大久保加賀守忠職が濃州加納に法華宗の一寺「本禅寺」を創建。貞享3年(1686)大久保加賀守忠朝が天台宗に改宗し寺号も「本源寺」と改称。本尊は釈迦如来像。大工町通りを七枚橋に向かう左手にあり「寺号標」(石柱)より入山すると手入れの行き届いた美しい寺域・境内が続く。正面に朱を基調とした「本堂」、その左手に不動明王と慈恵大師(三大師)像を安置する「護摩堂」があった。その他「聖徳太子堂」、「六道能化地蔵」、「六地蔵」、「七福神」などがある。当寺には八反畑(栄町)の「元禄大地震」(元禄16年11月)による犠牲者の供養塔もあった。「大久保家御内庵 天台宗 本源寺」。側面には「厄除不動明王」と朱の文字で。「不動明王像」。憤怒相を示し、右手に宝剣、左手に羂索(けんじゃく)を取る「不動明王像」。近づいて。両脇には童子立像が。矜羯羅(こんがら)童子(左脇侍)制托迦(せいたか)童子(右脇侍)「護摩堂川」碑。ここを「護摩堂川」が流れていたのであろう。「護摩堂川」は小田原城のお堀からの排水路であったと。石灯籠の一種であっただろうか。「遊化六道抜苦與樂(ゆけろくどうばっくよらく)」と。遊化六道 六道に出かけて人々を教え導いてください。抜苦與楽 衆生の苦しみを抜いて福楽を与えてください と。六体の石仏が並ぶ。「滅除常障 六道能化地蔵尊(ろくどうのうけじぞうそん)」。近づいて。衆生の命は六道の中で輪廻するといいます。六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの世界のことを言います。縁あって人間道に命をいただいている私たちも、いずれお釈迦様に命をお返ししたあと、閻魔様のお裁きで六道のいずれかの世界に後生を生きるのです。そして、その六道のいずれにも地蔵尊がおられて、苦しむ衆生を救ってくださるというのが昔から信じられてきた地蔵信仰の源です。能化とは教化のことです。真理を説いて迷いを除き、正道に導くことです。ですから、「六道能化の地蔵尊」というのです。たいがいのお寺(特に禅宗、真言宗は特にそうですが)には山門近くに六地蔵尊が祀られています。そして「七福神」。近づいて。左から布袋尊:唯一、歴史上人物に基もとづく神様です。大きいお腹のぽっちゃりとした神様で、 手には袋とうちわを持もっています。寿老人:長寿をもたらす道教の神様で、長い杖を持っています。通常は、鹿を連れています。大黒天:片手に幸運の木槌を持ち、宝物が詰った袋を肩に背負っています。彼は穀物畑の神様です。弁財天:音楽、雄弁さ、宝物を統括し、びわ(日本の楽器)を持っています。恵比寿天:左手に鯛を持ち、右手に釣り竿を持っています。農業、漁業、商業の守護者として 知られている伝統な日本の神様です。福禄寿:健康、幸福、長寿の神様です。頭の長い老人で、長い杖を持ち、横に鶴を従えている ことがよくあります(日本では、鶴は長寿のシンボルです)。毘沙門天:よろいを着た姿の毘沙門天は、人々を邪悪なものから守り、宝物を守ると信じられて います。貧しい人に幸運をもたらすと言われています。「七福神」のイラストをネットから。寺号標石「天台宗 恵日山 本源寺」。上部には「大久保藤紋」大久保藤紋は、『上り藤』を描いて、その花房の輪の中に『大文字』を据えて描く。相模小田原藩大久保氏の定紋ということで『大久保藤』と呼ばれる。参道の先に「本源寺」の「本堂」。もとは大久保加賀守忠職が亡父・加賀守忠常のために美濃国加納(岐阜県岐阜市加納)に建立した寺院で、「本性寺」と号した。日蓮宗の京都・本禅寺の弟子を住職にしていた。貞享3年(1686)に加賀守忠朝が天台宗に改宗して、寺号を現在の「本源寺」と改め、寛永寺の末寺とした。このとき、下総国(下野国)真岡・円林寺の住僧・宗海(元禄11年・1698没)を住職にした。このため、開山は宗海とされている。明治5年(1872)の学制発布を受けて、1873年(明治6)4月に本源寺に小学啓蒙館が開かれたと。本源寺(ほんげんじ)、恵日山如法院は、栄町4丁目にある天台宗の寺院。本尊は釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩。大久保氏の内庵の一つで、寺域は八段畑の侍屋敷の中にあった。江戸時代には東京上野・東叡山寛永寺の末寺だった と。所有する絹本着色 千手観音二十八部衆像は小田原市指定重要文化財。小田原藩主大久保忠隣が所持していたものだと。この石仏は?「はったんばた」碑。これは「旧地名」碑と異なる石碑。艶めかしく腰を捻った姿の石仏。近づいて。この石は? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.31
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「山王神社」を後にして、東海道を下る。前方にあったのが「東海道 小田原宿」の標柱。「おだわらまちしるべ【山王口(さんのうぐち)】山王口は「江戸口見附」とも呼ぼれ、小田原から江戸に向かう出人り口であるとされています。また、ここは東海遒小田原宿の入口でもあり、江戸日本橋から山王口までは、約八十三キロの距離となっています。」そしてその先にあったのが「小田原城址江戸口見付跡」この江戸口見付は江戸からの東海道の外郭入口として位置しており、現在は史跡標柱と小さな公園だけとなっていた。当時は土塁と矢来によってで喰違が形成され江戸から入る場合、まず右手に折れ曲がり木戸をくぐって左に折れ曲ると右手には番所が置かれていたのだと。江戸日本橋を出発しておよそ80km(20里)、9番目の宿場がここ小田原宿。旅人にとっては箱根越えを控えた2泊目の宿でもあった。最盛期には約100余軒の旅籠屋が軒を並べたという。また、参勤交代で往来する大名行列も同様に休泊し、利用した本陣4、脇本陣4の計8軒にのぼり、東海道随一を誇っていたと。「江戸口見付跡小田原北条氏は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに対し、総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁を構築し、 城のみならず城下町までを取り込んだ戦国期最大級の城郭を築きました。この付近は、その総構の最も南部分に当たり、小田原合戦のときには徳川家康隊が山王川の対岸に陣取っていました。江戸時代には、小田原城下に入る東海道の東の出入口として、西の板橋口及び甲州道の井細田口とあわせて、城下を警護する 重要な門としての役割を担っていました。江戸方面から来た場合、上図(文久図)のように門の土塁を一旦右に曲がりさらに左に折れてから城下に入る形になっています。また、入るとすぐ右手(北側)には番所があり、通行人の監視などに 当っていました。なお、ここは江戸日本橋から20里(80km)に位置し、それを示す一里塚が海寄りに設けられていました。」公園内には老松が存在感を。「江戸口見付跡」江戸時代末期の小田原城の地図。現在地と小田原城の総構といわれる周囲約9kmの堀や土塁の様子が理解できるのであった。総構の起点 山王口 と。浜町歩道橋上より旧東海道国府津方面を振り返る。浜町歩道橋上より旧東海道小田原方面を見る。そして歩道橋の反対側には「江戸口見付並びに一里塚」「見附とは、城の枡形門に設けられた見張番所であって、武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、本城より外濠城門を示す場合が多い。小田原城は、天正18年(1590)の豊臣秀吉との小田原合戦の際には、町ぐるみ堀や土塁で囲まれていたが、江戸初期にこの構造を壊して東海道を 通す際に、枡形が作られた。小田原城から江戸に向かう出口であったため、江戸口見附と名づけられた。また、ここは江戸から20番目の一里塚があった場所でもある。慶長9年(1604)江戸幕府将軍徳川家康は、息子秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4キロ)ごとに 塚を造らせた。塚は男塚、女塚と、街道の左右に対で置かれ、広さは通常5間(約9メートル)四方であった。塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とする とともに、夏季における木陰の休息場所とした。天保年中の相模国風土記稿には、「江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、塚上榎樹あり しが、中古槁れ、今は松の小樹を植ゆ、古は双コウとなりしに、今隻コウとなれり。けだし街道の革(あらた)まりし頃、一コウは海中に入しならん。これより東は小八幡村、西は風祭 村の里コウに続けり」とされている。」「江戸口見付一里塚址」そして歩道橋を渡り戻って、次に訪ねたのが「善照寺」。「真宗大谷派 善照寺」。両側の墓地の先、大きな松の向うに本堂の屋根が見えた。「本堂」。真宗大谷派の寺。銅板丸瓦棒葺き、入母屋造り屋根平入り、流れ向拝。「本堂」の右手には案内板が。「善照寺當山記録によると正式には威光院華英山善照寺と称す。「平家物語」にその活躍が描かれており又、能「實盛」の題材となった長井之齋藤別当實盛の次男、長井齋藤六實正が開基である。◎貞永元年(一ニ三ニ)宗祖「親鸞聖人」に逢奉り未来の要法を聴聞して三十六歳にして弟子となり、 善照坊光栄と法名を授けられた。 その後、小田原古新宿(大嶋)に一宇を創設して本尊、阿弥陀佛を安置したが、この地は海岸 近くの為、たびたび海浪被害に遭った。◎寛永十年(一六三三)城中城外ことごとく崩れる大地震や火災で當寺は焼失した。◎明暦(一六五五~亠六五七)稲葉三左衛門により華木護摩祈願の隣地を賜り本堂庫裏門を造営した。◎貞享三年(一六八六)大久保加賀守殿この地に居住の為、當寺は西南の方に引移り仏尊を安置した。◎文化十四年(一八一七)の火災により、隣地の蓮上院・當寺・三乗寺は残らず焼失し、その後 五十年余りは仮堂であった。◎慶應元年(一八六五)五間四面三方縁附後門後堂附本堂を建立した。◎大正十ニ年(一九ニ三)関東大震災にて當寺は全壊した。◎昭和六年(一九三一)富寺は再建し現在に至る。」「本堂」の見事な彫刻。扁額「華英山 善照寺」。墓地を見る。「善照寺」を後にして、さらに前の道を西に進むと右手の奥にあったのが「蓮上院」。長い参道入口には門柱があった。「蓮上院」は「花の木の護摩堂」と呼ばれているとのこと。その手前にあった「旧地名」碑は「花ノ木」碑。「はなのき」。「小田原北条氏時代の花ノ木は、主として蓮乗院の寺地であった。江戸時代にはその一部が武家地などに変わった。」別の説明ではこの地名は、小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495~1590年))の「北条幻庵文書」に初めて見られます。 現在まで残されている文書の中には、『花ノ木』や『花ノ木の蓮乗(上)院』、あるいは『小田原花木 安斎新五郎』など地名とともに人の名が記されています。 なお、小田原北条氏時代の花ノ木は、蓮上院の寺地でしたが、後に縮小して、武家地などに変えたものと考えられます と。「花ノ木」はここ。そして「蓮上院」の石柱門のある山門前に到着。小田原市浜町2-1-51。右の石柱門には「佛日増輝」と。仏の光(仏教の教え)の輝きが増すことを願う と。左の石柱門には「法輪常轉」。仏法が人間の迷い、悪を打ち破る と。「東寺真言宗 蓮上院」。色彩豊かな「本堂」。東寺真言宗寺院の蓮上院は、花木山満願寺と号す。瑠璃色の葺かれた宝形造り屋根の身舎の正面に、緩やかな勾配の唐破風屋根の向拝が取り付いています。蓮上院(れんじょういん)、花木山満願寺は、浜町2丁目にある東寺真言宗の寺院。本尊は大日如来像。建長6年(1254)、僧・実証の創建。江戸時代には京都・東寺宝菩提院の末寺で、関東34院の1つ、法談所(僧侶の養成機関)だった。小田原城の艮(うしとら、北東)の守りの祈願所とされ、古くから城主の庇護を受けた。創建当初は「聖智院」と号した。寛正の頃(1460-1466)「修蔵院」と改号し、文明年間(1469-1487)に今の院号に改めたといわれていた。蓮上院所蔵の永禄11年(1568)の文書に「修蔵院」とあり、また『小田原記』(『風土記稿』は5巻本1種『北条記』の内閣文庫(林大学頭家旧蔵)本を参照しているとみられるが、6巻本にもあるため、以下6巻本から引用する)には大永二年(1522)・元亀元年(1570)の記事などに「蓮乗院」の名でみえ(後出)、寺伝とは食い違っている。蓮上院は、上記の如く、古くから小田原城の艮(北東)の守護の祈願所とされ、堂宇以下、仏具などに至るまで城主が修造していた。6巻本『北条記』に、大永2年(1522)9月より後に当時の蓮乗院の住職(寺伝によると13世・亮海、大永7年・1527没)が北条氏綱の命によって江ノ島弁財天を城内に勧請したことがみえると。明治2年(1869)の神仏分離令により本町2丁目の松原神社から玉滝坊と西光院が分離されたときに、その什宝や古文書類も蓮上院の所有となったといい、1976年(昭和51)に古文書15点が文化財指定を受けている。屋根頂部の露盤宝珠が異風の意匠。水煙付宝珠の下に蓮弁風の笠と、軒先に8つの風鐸が。唐破風屋根の鬼瓦も見事な独創性が。朱塗りの軸組、造作材が鮮やかな向拝。入口左右に計4体の象の頭貫木鼻彫刻が(右)。頭貫木鼻彫刻が(左)。象の木鼻彫刻のスタイルは初めて見たのであった。蓮上院の寺紋「大久保藤紋」。「大久保藤紋」は、『上り藤』を描いて、その花房の輪の中に『大文字』を据えて描く。相模小田原藩大久保氏の定紋ということで『大久保藤』と呼ばれる。内陣。本尊は大日如来像。「蓮上院摩利支天堂」。扁額「摩利支天」。内陣。1333年に建仁寺第23世の清拙正澄(せいせつしょうちょう)禅師により創建され、摩利支天が祀られています。摩利支天とは陽炎が神格化した、仏教の守護神・古代インドの女神マーリーチのことです。サンスクリット語で〖陽炎〗という意味のMarici(マリーチ)の音を漢字で摩利支天としています。摩利支天はその名の通り、陽炎のように変幻自由な捉えようのない実体で、進路を障害されずに光の速さで突き進むとされています。そのため開運勝利の御利益があるといわれており、毛利元就、楠木正成、前田利家、大石内蔵助など、ときの武将や戦国大名なども摩利支天を信仰していました と。真言宗の開祖・空海(弘法大師)像。近づいて。13世「亮海上人像」。近づいて。仏像が並ぶ。文字が刻まれていたが・・・。「子育地蔵尊」。像高2尺5寸(約76cm)で、恵心の作とされている。永禄11年(1568)3月の造立で、蓮上院が北条氏政の内室の平産の祈祷を命じられ、願いが叶ったお礼として建てられたのだと。「松聲の里」は永代供養塔であろうか。「松聲の里」。石仏をズームして。移動して。巨大な「宝篋印塔」。近づいて。「豊田正作の墓」。「豊田正作の墓小田原藩下級藩士一七九一年生まれ(尊徳より四歳年下) 一八五七年一月四日没 六七歳小田原市浜町ニー一 蓮上院豊田正作は江戸で生まれ父は小田原の下級武士てあった。四ニ歳から五ニ歳までを尊徳の随身として行動をともにした。しかし、三十七歳の時に桜町に赴任し意見が合わず、反対の行動をとり苦労をしたが、その後報徳仕法の真髄を理解し、報徳方として金次郎を支えた。 万葉倶楽部株式会社 報徳九転十起人生塾」「豊田正作豊胤墓」。寺務所を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.30
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今日から再び「小田原城下を歩く」のブログの再開です。「宗福寺」を後にして隣にあった「山王神社」に向かって、国道1号の「山王橋」の方向に進む。左手にあったのが「山王神社」の山門。小田原城の山王曲輪(くるわ)であった場所。小田原市浜町4丁目30。社号標石「山王神社」。手水舎。鳥居の先に「山王神社」の拝殿。近づいて。御祭神は大山咋命 ( おおやまくいのみこと ) 大山祇命 ( おおやまつみのみこと ) 少彦名命 ( すくなひこなのみこと ) 。狛犬(右)。狛犬(左)。拝殿の向拝虹梁の上の見事な龍の彫刻。扁額「星月夜ノ社 山王神社」。「星月夜の社 山王神社祭神 大山祇命(おおやまずみのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと) 大山咋命(おおやまくいのみこと)由緒明応四年(一四九五)二月北条早雲は、小田原城を手中に治め、相模国を平定した。その頃の山王神社は北條家の郭内で山王曲輪と称へ、海辺なる袖の池ノ南袖ヶ藪にありしが暴浪のため、その地崩壊せしかば、慶長十八年(一六一三)九月十八日現地に移せりと。旧社地に星月夜ノ井戸ありしより、一に星月夜ノ社とも称ふ。其の井戸も移して現地にあり。天正十八年小田原陣のとき、徳川家康は日々参詣ありし由、又旧領主大久保氏の祈願所にして元禄中再建の用材は領主永世寄進の証状ありしと。寛永元年(一六二四)四月四日江戸初期の朱子学者林羅山は山王神社境内にて星月夜の詩を詠む。その詩にもある如く、当時の山王神社は星月夜ノ社といわれ、小田原の名所なりしと、井戸も再現いたし、地底より湧き出る水面に浮ぶ大空の星映る往昔の姿こそ誰が神秘といわんや。この歴史ある社と共に、星月夜ノ井戸を史跡として長く後世に伝えん。一、明治六年七月三十日 旧足柄県に於て村社に定められる。一、大正四年十一月一ニ日 神僎幤帛料供進神社に指定せらる。一、五月五日 例祭」「山王神社」の「本殿」を横から。見上げて。境内の「忠魂碑」。 「小田原市指定保存樹林この樹林は、小田原市緑を豊かにする条例に基づき、小田原市と市民が一体となって緑豊かな住みよい都市づくりをするために指定されたものてす。一、指定番号 第1号一、指定年月日 昭和49年4月1日一、所在地 浜町4丁目30番15号 山王神社一、主要な樹種 マツ一、面積 一、二〇〇m2 小田原市ふるさとみどり基金」林羅山が詠んだという漢詩が記された石碑。林羅山が詠んだという漢詩が刻まれた石碑。「星月夜 小田原名所也 四日早発小田原 林羅山乱峯掩蔽廣寒宮石隕自天晴似震若把衆星比燈火箱根山眼百千籠」『乱峯ハ廣寒宮ヲ掩蔽ス石隕ツルコト天自リシテ晴ルルモ震エルニ似タリ若シ衆星ヲ把リテ燈火ニ比セシメバ箱根ノ山ハちりばメム百千ノ籠ヲ。』と。「社務所」。「山王神社 社務所」。神輿庫。「震災紀年」碑。近づいて。「大正十二年九月一日正午地大震余震一晝夜三百五十六回而本縣最強烈殊甚根府川全村崩落海中更無舊熊當村有三百八十戸而百六十戸全壊残余皆半壊出十四名壓死者與数十名負傷者當神社半壊護岸石火災失交通機關失通信機關流言蜚語頻々惑人心無食糧與清水皆露宿纔因配給玄米保露命於茲乎畏今上割内帑賜一千萬圓政府亦支出九百八十一万圓充救恤資更布戒嚴令使う十箇師團外特科部隊當電信隊航空隊警衛食糧配給鐵道橋梁修築等而内外義◯甚多秩序恢復物資充實漸至觀民心安定是洵空前大惨言死者三十有余萬傷者百万損害概算一百億吁旻天何與情哉乃為後昆記焉」 宗福十五世珍英撰書」境内から「拝殿」と神輿庫を振り返る。『旧山王原村の図』旧山王原村の図。山王原村(東町1丁目)は1830~44年(天保年間)で31戸、1887年頃は50戸。『新編相模國風土記稿』では「長吏、道場院の北、見捨地七段十四歩に住す。家数三十一、長を太郎左衛門と稱す。外に非人一軒あり。白山社、長吏の持なり」と記載があると。山王原村太郎左衛門は、後北条氏の支配圏内における長吏の触頭であったが、同氏の滅亡と江戸幕府~弾左衛門体制の確立に伴う下古沢太郎右衛門の台頭により、支配域を酒匂川以西の地に限定されていった。明治中期には横浜に200軒の借家を所有していたとのこと。1910~40年頃まで存在した麻撚り工場(小西家)は元小頭一族の家「富士山」碑。「紀元二千五百四十二年 明治十五年」と。小さな稲荷神社。その近くには狛犬が一対近寄って。こちらは旧神輿庫。「山王神社社殿改築」碑。平成八年四月吉日 と。陽石であっただろうか。「星月夜の井戸」は安全用の金網が張られ、蓋をされて。井戸の地上部の囲みはコンクリートだが、井戸の穴の周りには自然石が積まれていた。底には丸い瓶が埋められているようであった。なぜこの井戸に「星月夜の井戸」との名が付いたのか。「鎌倉にある同名の井戸は“昼間でも星が見えたが、刃物を落としてから見えなくなった”との伝承があります。鎌倉の星月夜の井戸は、徳川家康も訪れたと記録されています。ここ小田原の「星月夜の井戸」には関係するような伝承がありません。」とネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.29
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「龍口寺」の「大本堂」。「龍口」(たつのくち)というのは、藤沢市片瀬の字名。弁財天と五頭龍の伝説から付けられた地名だといわれています。「大本堂」の内部。黄金の「天蓋(てんがい)」をズームして。「天蓋」とは、仏像や住職の頭上にかざす笠状の装飾具で、仏教の荘厳具(しょうごんぐ)の一つ。仏像の上にかざすものを「仏天蓋(ぶってんがい)」、住職の座る上にかざすものを「人天蓋(にんてんがい)」というとのこと。天蓋は、インドで王侯貴族が日差しを避けるために使用していた日傘が原型。高貴な人ほど豪華な日傘を使用していたことから、権威の象徴の一種でもあった。仏教に導入され、帝釈天が常に天蓋を差し掛けて釈迦に従ったという伝説が形作られ、仏像に用いる装飾具となったのだと。「天井の龍図について(御賽銭箱真上の天井を中に左右)【三体(左・中央・右)の龍図のうち、左右のものがはっきり見えます。】板絵、墨画。江戸後期、狩野派の地方絵師、相沢五流の門弟、神蔵華嶽(1779年~1842年)ほか作。外陣天井の龍図三面のうち、中面の龍が華嶽の作。「法眼華嶽邦教筆」の落款、「法願法教」の印がある。右面の龍図には、「暁岺齋源毘得筆」の落款と「降雪・・」の方印、左面の龍図には、落款は不詳明だが、「小澤」「典幸」のニつの印がある。龍ロ寺の現在の大堂が建立再建されたのは天保三年(1832)四月であることから、その時に描かれたものとすれば、華嶽五十四才の時の作品と推定される。参考文献:『相沢五流』(多摩市史編集委員会)」正面から。再び「大本堂」前から「山門」方向の竹灯籠を振り返る。移動して。移動して。五重塔もライトアップされていたが、近くまでは行けなかった。「大本堂」を振り返って。日蓮大聖人像。大書院手前には、龍のモニュメントがライトアップされていた。移動して。木根と竹を利用した作品。龍の頭をズームイン。反対側にも龍の姿の竹灯籠が。正面から。その脇にも。竹灯籠の美しさは、自然と人の手が織り成す繊細な光の芸術。竹に空けられた無数の穴や模様からこぼれ出る光が、夜の闇を温かく照らし出していた。竹の内側に仕込まれた柔らかな灯りは、周囲に静謐で幻想的な雰囲気を醸し出し、灯りの輪が地面に幾何学的な影を落とす様子は、まるで大地に咲いた光の花の如し。その一つ一つが独自の輝きを放ち、訪れる人々の心にやさしい感動を与え、竹のもつ自然の美しさと手仕事の温もりが深い静寂の中で調和し、特別な癒しを与えてくれたのであった。これぞ「和の灯り」なのであった。そして帰路に。江ノ島電鉄「江ノ島駅」。「江ノ電 江ノ島駅」。もともとは「江ノ島」だった街名。昭和44年に藤沢市観光協会によるひらがなキャンペーンが開始され、住所や新しい施設などは「江の島」と表記。しかし、それ以前からあった江ノ電の「江ノ島駅」や小田急線の「片瀬江ノ島駅」などは「ノ」のまま。そのため、街にはひらがなとカタカナが混在しているのだ。江ノ島駅に貼られていた片瀬西浜海岸からの夕景写真。そして藤沢駅行きの江ノ電に乗り、帰路に。 ・・・おわり・・・
2024.10.28
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「小田原城下を歩く」を継続アップ中ですが、一昨日は地元の「竹灯籠」を楽しんだのでこれを2日間に渡りアップします。この日は10月25日(金)、藤沢市片瀬3丁目にある「龍口寺」で開かれた「第十四回滝の口 竹灯籠」を訪ねた。藤沢駅から江ノ電を利用して「江ノ島」駅で下車し、「龍口寺」へと向かう。道路脇には「滝の口 竹灯籠」と。そして「龍口寺」前の交差点に江ノ電の車両が。江ノ島電鉄には、鎌倉高校前1号踏切(『スラムダンク』の踏切)など撮影スポットとなる場所が数多いのだが、鉄道ファンに注目の場所が、ここ龍口寺前交差点。4両編成の江ノ島電鉄が減速しながらS字カーブを抜けていくシーンは、道路との併用区間でもあって、迫力満点。撮り鉄は、道路側で、乗り鉄は車内でS字カーブを堪能できるというスポットなのである。江ノ島電鉄は、江ノ島駅のすぐ東側、ここ「龍口寺前交差点」付近から鎌倉方面の神戸橋交差点までが、道路併用区間で、龍口寺前交差点のR=28mは、普通鉄道としては日本一の急カーブとなっているのだ。龍口刑場跡は、龍口寺仁王門の西側広場(駐車場)にある。「南無妙法蓮華経」と刻まれた供養塔が建っているのだ。た史跡は玉垣で囲まれ、解説板が建っていた。「當地は鎌倉幕府時代の刑場跡である。幕府の公式記録である『吾妻鏡』には腰越、瀧の口に於いて斬首との記載が多く見られる。奈良時代の僧・泰澄、一説には鎌倉時代の僧・丈覚が瀧口明神に法味を供養したところ、国に背く悪人が出来した時は首を斬り社頭に掛けよ、との神託を受けた。これによって瀧の口が処刑場になったと旧記にある。文永八年(1271)9月13日子丑の刻(午前2時)、日蓮大聖人は『立正安国論』の諫言により、幕府に捕らえられ、この刑場・敷皮石(首の座)にすえられた。しかし処刑の瞬間、時あたかも江の島の方より満月の如き光りものが飛び来たりて、執行人共は眼がくらみ、この奇瑞の為、ついに大聖人の首を斬ることが出来なかった。かくして此処は日蓮大聖人瀧口法難の霊場であり、世の安寧の為に身命を賭けられた寂光土と称される所以である。 霊跡本山 寂光山 瀧口寺」そして「竹灯籠」奉納申し込み受付。山門前の「竹灯籠」には「藤沢市 龍口寺 観光協会」の文字が。近づいて。山門に向かって進む。仁王像(阿形像)。仁王像(吽形像)。山門の見事な彫刻を見上げて。そして境内へ。龍口寺境内に約3,000基の「竹灯籠」が並べられ、幻想的な空間が拡がっていた。右側にあった滝の如き光の「竹灯籠」。ズームして。正面から。竹灯籠を横・階段状にして。ズームして。カラフルなハートの竹灯籠。「竹灯籠」で囲まれた境内の参道を進む。ズームしてカメラで灯りを追う。「本堂」への石段に向かって進む。石段の両脇、中央の手摺下にも竹灯籠が。石段を上りきり、「大本堂」前に。ズームして。「山門」を振り返って参道の両側の「竹灯籠」を暫し魅入る。ズームして。浄行菩薩堂の石仏を。自然素材の竹の強度や素朴さ、柔軟性も活かして、いろいろなカタチの灯籠が。ロウソクに火を灯すのが本来の竹灯籠だが、今どきはLEDライトを竹の中に仕込んで光源とすることもできるのだ。多彩な色や明るさを使って、自然な風合いと温かみのある質感と深みのある竹から溢れる、柔らかな光を楽しめるのであった。 ・・・つづく・・・
2024.10.27
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「小田原教会」を後にして、「新玉小学校」の方向に進む。この先「菊池医院」の手前を左折。 「新玉小空襲の爆弾投下跡」に向かって小田原市浜町2丁目の住宅街を南に進む。右手に現れたのが小田原市立新玉小学校の東側に残る「蓮上院土塁」。豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条氏が築いた土塁(敵の侵入を防ぐために作られた堤防)だ。低地部残る総構の土塁は貴重なものとして、昭和34年に国の史跡に指定されている。そして「太平洋戦争の爆弾着弾跡(蓮上院土塁)」。「太平洋戦争の爆弾着弾跡(蓮上院土塁)」案内板。「太平洋戦争の爆弾着弾跡太平洋戦争が終わりに近づくにつれ、日本各地でB29爆撃機などによる空襲が激しくなってきました。小田原市でも、昭和20年4月以降終戦まで、たびたび空襲を受けました。そして、戦争終結直前の8月13日の午前8時30分ころ、小型機による空襲があり30名の犠牲者を出しました。このとき、新玉小学校(当時新玉国民学校)も攻撃を受け、若い教員1名と用務員2名が犠牲になりました。この空襲で投下された爆弾のひとつが、ここ蓮上院土塁に着弾し、土塁が大きく損壊してしまいました。戦国時代に小田原北条氏が築いた土塁に、昭和時代の太平洋戦争の傷跡が残る大変貴重な場所です。 小田原市教育委員会」蓮上院土塁を刳る(エグル)がごとき「太平洋戦争の爆弾着弾跡」。蓮上院土塁は完全に分断されて。移動して。8時30分、市内井細田(後の扇町)にある湯浅蓄電池製造小田原工場に艦載機が飛来して爆撃と機銃掃射を敢行、同工場内の防空壕の一つが爆弾の直撃を受け、退避していた従業員13人が死亡した。なお、同社はバッテリーを扱う会社で、1941年(昭和16年)から日本海軍指定の軍需工場となっていた。9時頃、駿豆鉄道井細田駅と五百羅漢駅の中間に位置する多古地区が同機による爆撃を受け、防空壕に退避していた付近住民13人が死亡、さらに機銃掃射を受けた1人の合計14人が死亡した。時間は不明だが、富士写真フイルム小田原工場も機銃掃射と爆撃を受け、光学ガラス溶融工場が損壊し、研究所1棟が炎上、待避中の男性従業員2人が死亡した とネットから。「蓮浄院土塁」案内板。「蓮上院土塁この土塁は、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めに対し、小田原北条氏が築いた総構の一部です。この土塁の東側は水掘が設けられ、その対岸には徳川家康軍が対峙していました。「北条五代記」では、この総構について「此城東西へ五十町、南北へ七十町、めぐり五里の大城なり」と伝えています。実際には、延長9キロにおよぶ空堀と土塁が城下町全体を包みこむように築造されました。低地部に展開した総構の多くは、いっしか姿を消してしまい、この蓮上院土塁は早川口遺構(市内南町)とともに、その名残を止める数少ない遺跡で、昭和34年に国の史跡に指定されました。」小田原市教育委員会様 更新をお願いします。「小田原散歩 ARポイント 蓮乗院土塁」案内板。低地部に残る数少ない総構(大構)の痕跡のひとつです。低地部の土塁の多くは崩されてしまいまいしたが、この部分はお寺の境内であったことで残りました。この土塁の外側には最大で70mの幅の堀がありました。「蓮乗院土塁」を振り返って。そして国道1号に出て平塚方面に進む。「西湘バイパス 小田原IC」案内。「国道1号 平塚 横浜」。小田原市浜町、国道1号線沿い山王橋交差点近くの「宗福寺」。左手に立派な「筋塀」の如き塀で囲まれた曹洞宗の寺。小田原市浜町4丁目30−10。「山門」越しに「宗福寺(そうふくじ)」の「本堂」を見る。「曹洞宗」。「宗福寺」。境内に入って右奥にあったのが「山王大權現」。「山王大權現山王大權現は宗福寺の鎮守にて永禄年間に草創勸請す。往昔は隣地の山王川側に在しが政府の神佛分離令により明治四年御身躰のみ奉持し仮本堂内に安置して壱百五年爾茲今堂宇を建立し奉祀す別社白山妙理大權現稲荷大明神も合祀す。天正十八年四百年前小田原城征討の徳川家康公日参して戦勝祈願なされしと云う以って如何に霊験あらたかであるかを知るべし。此の堂宇は一間社流造と謂うなり。維持 昭和五十年十二月中浣 宗福寺十七世 銀岳誌」「欅」の巨木をしっかりと撫でて。「この欅(ケヤキ)は山王大權現の御神木です。大權現を礼拝し無念、無想、無我となって御神木に触れるとあなたの心願は必ず成就されるでしょう。」「山王大權現」に近づいて。扁額「山王宮」。内陣。堂内の猿像が珍しい。手前の2猿は向かって左は御幣、右は桃の花枝を持っていた。。青面金剛像(剣人・六臂)・邪鬼・三猿・二童子・二猿水場。山門の右側、山王大權現の手前の塀際にあった石碑群。寛文7年(1667年)、正徳6年(1716年)などの庚申塔3基や石塔が並んでいるとのこと。反対側には、何基かの海難漁師の供養塔も建てられていた。??????板碑型 「尽出輪廻生浄土」 三猿「干旹寛文七丁未天」(1667)「願主/山王原村」「拾月吉辰 功徳主/敬白」三猿笠付角柱型 「奉▢庚申▢▢信仰石塔▢~▢」 三猿正面「奉▢庚申數年信仰以石塔一基納之者也」「諸願成就/願主敬白」右側 「相列西郡小田原千度小路町」左側 「願依比善利現世安穏後生▢▢」一猿丸彫 角柱型 「庚申供養」 三猿「正徳六丙申天」(1716)「庚申供養」「五月吉祥日」右側面 「施主高梨町小松屋」左側面 「爲 二世安樂」山門の左側にも何基かの海難漁師の供養塔が建てられていた。並んだ石塔の右端。常夜灯に挟まれて1基の石塔が静かに佇んでいた。陽に焼けた石塔の上に苔むしたお地蔵さんが乗っていた。お地蔵さんの下の石塔部分には「供養地蔵 昭和元年十二月八日 籠屋丸五号乗組員十四名」とだけ刻まれていた。事故の経緯や状況は刻まれていなかったが、恐らく海難事故で亡くなった14名の乗組員の供養塔であるらしい。別のネットページでは籠屋丸は近隣の杉山家が船主で、一号から三号の籠屋丸が造船されたあと、4隻目の船として大正15年に造船された遠洋漁業船。4隻目の造船であったが4という数字が不吉だったためか五号と命名されたようだ。まぐろ漁を目的に作られた籠屋丸五号は当時としては大きな漁船で、大正15年12月9日に初漁に出港。しかしその後帰港することなく初航海で遭難という悲劇的な結末となった。遭難日は定かではないので出港日を命日として供養が続けられていたようだ。この籠屋丸五号の記録は昭和時代に火災で焼失し、詳細な資料は失われてしまったとのこと と。籠屋丸の船名が刻まれているようであった。「本堂」を正面から。「宗福寺」は、州翁梵(永禄2年1559年卒)が開山、江戸期には浜町山王神社の別当を勤めていた。明治24年には城山松寿院を合併した と。別の説明では大渕山と号し、永禄年間の開創、当初は海辺近くにあったが毎年波浪の被害をうけるので、のち現地に移った。以後火災にあうこと三度、寺宝等は全部焼失した更に明治三五年九月相模湾の大津波で堂宇は全部流失したが直ちに復興して今日に至る。昭和二四年松寿院を合併した と。近づいて。扁額「大渕山宗福寺」。内陣。本尊は薬師如来像。「掲示板」。五重石塔。お掃除小僧。「掃けば散留(り) はらえばまたも塵津(つ)もる 人能(の)心茂(も) 庭の落ち葉も」この短歌は、散らかった落ち葉を掃除するように、自分の心を奇麗に掃除する必要があることを説いています。自分の心を覆っている塵や垢に気付き、払わない限り、自分自身を小さくし、生き方そのものまで狭めてしまうことを指摘しています とネットから。墓地を歩く。「無縁塔」であっただろうか?中央に観音像。移動して。「水子地蔵尊」。「水子地蔵菩薩を奉祀いたしました。心なきことにより闇から闇えと流され成佛できない水子を供養いたしましょう。お塔婆供養のそなえもあります」と。多くの稚児仏が並ぶ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.26
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この先「新玉」交差点を左折して進む。「新玉町」は明治8年の小田原府内にできた5つの町のひとつ。昭和15年(1940年)に、小田原町が周辺の村と合併して、小田原市になった際に新玉も、一丁目から四丁目に整えられたのだと。「新栄通り」に向かって進むと前方に「旧地名」碑が立っていた。小田原市栄町の「新栄通り」は、銀座通りの一本東側の国道255号の一方通行区間の通りで、区間の交差点には新栄通りの名がついていたのであった。「大新馬場」碑。「おおしんばば」「地名の起りは、南隣の中新馬場と区別するため新たにこの名がついたと考えられる。江戸時代の藩主稲葉氏の「永代日記」の天和二年(一六八二)3月の記録に「竹花町に近く新馬場があり、足軽小屋を設けた」とあるのは、この大新馬場のことと思われる。」別の説明ではこの地名は、小田原絵図の一つである「延宝図」(1675年)に「新馬場」の名で初めて見られ、その後、「大新馬場」となりました。地名のおこりは、中新馬場より遅く発生したためにこれと区別する意味で大新馬場となったと考えられます と。「大新馬場」はこちら。「新栄通り」交差点を左折。国道255号を南に進む。「栄町4丁目」交差点を左折。その先にも「旧地名」碑があった。「中新馬場」碑。「なかしんばば」。「地名の起こりは、古くはここが馬場に利用されていたためと考えられる。稲葉氏時代(一六三二~八五年)にはここに十二軒ほどの藩士屋敷があったが、幕末には大久保藩士の屋敷として約十六軒に増えている。」別の説明ではこの地名は、小田原絵図の一つである「延宝図」(1675年)に初めて見られます。地名のおこりは、占くはここが馬揚に利用されていたためと考えられます。稲葉氏時代(1632 ~ 85年:寛永9年(1632)、稲葉正勝が下野真岡城(栃木県)から移って小田原藩主になり、正勝・正則・正通を経て、貞享2年(1685)、正通が越後高田城(新潟県)に転封されるまでの3代53年間)には、12軒ほどの屋敷があり、幕末には大久保藩士の屋敷が約16軒ありました と。「中新馬場」こここ。そしてさらに進むと、左前方に板塀の屋敷が姿を表した。閑静な住宅街の中にあってもひときわ目を惹く瓦葺屋根付き門に黒板塀。大きな木々を配した和風庭園のその奥にあったのが「豊島邸」。小田原市の公民連携事業として、この「豊島邸」を利用して、うなぎ料理専門店「豊島鰻寮 一月庵」が2023年2月23日にオープン。全国でも珍しい、民間提案制度に基づく歴史的建造物を利活用した飲食店であると。小田原市栄町4-9-44。「豊島鰻寮 一月庵」と。「うぞふすい」、「うなべ」と書かれた入口の暖簾。「うぞふすい」をネットから。「うなべ」をネットから。『豊島牧四郎氏の絵画展』開催中 と。玄関への通路を進む。「庭の見学をご希望の方はお声掛けください」と。「豊島邸」の玄関。「”一月庵”の記当家は箱根町宮ノ下にて 豊島医院を開業していた 豊島牧四郎氏の元別邸です。時代めく赤松の幹 そそとした侘助 ふくいくたる紅梅の香りなど四季を彩る邸園と 贅を尽くした網代編 笠天井や五間通しの丸桁等趣のある御屋敷です。廣江夫人の御遺徳により 居宅は使用し得るまで保存し その後は”豊島小公園”とし市民の憩いの場として 有効活用されたいと 小田原市に寄贈されたものです。平成二十八年五月吉日遺贈執行人 大場修一建立」右手に「豊島邸」の前庭を見る。「豊島邸」の写真をネットから。「豊島邸」は1941年(昭和16年)に建築された歴史的建造物。箱根宮ノ下の開業医・故豊島牧四郎氏の別邸として使われ、「一月庵」と称し、ながらく愛されて来た。付書院等を設えた書院風と様々な化粧天井等を持つ数寄屋風の意匠を組み合わせた木造平屋建ての建物で、敷地の南側には趣のある重厚な格調高い瓦葺屋根付き門と黒板塀があり、魅力的な景観を形成する建造物となっており、その造りは歴史ある城下町小田原の奥深い情緒を今日にも伝えている と。邸内の和室が「豊島鰻寮 一月庵」として利用されている と。建物との間には一面にはられた芝や松の他、さまざまな植栽と枯山水の水景が絶妙に配置され、簡素ながらも季節ごとに移り変わる風情が感じられる和風庭園となっている。この明るい庭園は小田原の市街地に残された数少ない緑地となっている。また、豊島邸の魅力の一つとなっている庭園に咲き誇る「侘助椿」は普通の椿よりも開花が早く、一月に見頃を迎える事から、故豊島牧四郎氏が「一月庵」と名付けたと云われている。この「一月庵」は店名の由来ともなっているのだ。「侘助椿」をネットから。これを食べたかったが・・・・。出入口に向かって邸内の砂利敷きの小路を進む。「豊島鰻寮 一月庵」の隣りにあったのが「小田原教会」。「日本キリスト教団 小田原教会」。「日本キリスト教団小田原教会」掲示板。奥に進むと現れた「日本キリスト教団 小田原教会」。小田原教会は、創立1887年、130年以上を超える歴史を持ち、1994年に小田原城御濠端より、現在の場所に移転してきました。メソジスト教会の歴史を受け継ぎ現在に至っています。伝統的なプロテスタント教会の信仰を受け継ぎ、キリスト教の福音に誠実であることを求めて過ごしております。その他、福祉や平和の課題を担っている様々な団体を献金などの形で支援や野宿者の支援活動としての炊き出しなどを行っております。また、小田原城近くにありキリスト教保育を標榜する御濠端幼稚園と深い関係を持っております と。教会入口。十字架を見上げて。ズームして。移動して塔を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.25
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『ミュラー・リヤー錯視』。2本の水平線はどちらが長く見えますか?100年以上前に報告された、おなじみの錯視図形です。ドイツの心理学者であるフランツ・カール・ミュラーリヤー(Franz Carl Müller-Lyer)が120年以上前に発表したもので、非常に古くから知られているので、多くの人がどこかで見たことがあると思います。上下の水平線の長さを比べてください。この2本の赤い直線部の水平線が同じ長さである、ということを知っていても、やはり下の方が長く見えます。この強力な錯視はなぜ生じるのでしょうか。一つの可能性は、水平線の長さを判断するときに、視覚システムが黒い斜め線をも含めてしまう、ということです。この錯視はどうして起こるのでしょうか。全容は解明されていないとのことですが、現在のところもっとも有力視されているのは、1963年にイギリス・ケンブリッジ大学のリチャード・グレゴリーが発表した解釈です。矢羽を隠してしまうと上下段の赤い線分は同じ長さとわかるわけですから、矢羽の存在が錯覚を生じさせる要因であることは疑いようがありません。グレゴリーの説明によれば、矢羽が加わることで、私たちの脳は、この図形を「三次元的」に認識するようです。具体的には、次の図のように考えられます。左に示したように、紙を蛇腹のように折りたたんだ状態を想像してください。両端に内向きの斜め線が入ったところの線分は、山折りになっていて手前の方にあるとみなせます。一方、両端に外向きの斜め線が入ったところの線分は、谷折りになっていて奥の方にあるとみなせます。左の図の各部分を切り離し、赤い線分の長さをそろえて描きなおしたのが右図です。私たちの脳には「遠くにある物を過大視する」という習性があるため、「今はこの大きさに見えているけど、遠くにある物なら実物の大きさは相当大きいのだろう」と考え、逆に近くにある物については「近くにあるから大きめに見えているだけで実物はそんなに大きいわけではない」と考えるのです。この習性が影響して、「同じ大きさに見える線分であっても、山折りになっていて手前の方にある線分よりも、谷折りで奥の方にある線分の方が実際には長いだろう」と脳が判断するせいで、ミュラーリヤー錯視が起こるのだと説明できるのだと。ミュラーリヤー錯視はシンプルですが、無意識のうちに、遠近を考慮して実物の大きさを推定しようとする、脳のしくみのすごさがわかる錯視図形なのです。「エビングハウス錯視」同じ大きさの円でも、周囲の円によって大きさが異なって見える錯覚を「エビングハウス錯視」といいます。ドイツの心理学者エビングハウスが記憶の研究のなかで報告した錯視図形です。同じ大きさの二つの円の周囲を、それぞれ小さな円で囲んだ場合と大きな円で囲んだ場合、前者の円は後者の円よりも大きく見えること。これは「近くにあるときも、遠くにあるときも大きさ自体は常に一定である」という脳の意識が作用して「左と右どちらも同じ大きさに見えるけど、奥行きが左の方が狭いからこちらが大きい」と勝手に判断してそう見えてしまうと言われています。私たちはものの大きさをみつもるときに、ものだけでなくまわりのようすも参考にしているためと考えられています。月が地平線近くで大きく感じられるのも、同じようなしくみがはたらいていると考えられています と。『同一色の2面』AとB、そのまま見るとAが灰色、Bが白に見えます。周囲の色から錯覚してしまいますが、AとBは全く同じ色なのです。2つの面が交わる真ん中部分を隠してみるとよくわかります。完全な同色には、まだ見えませんが、Bの色がかなりAに近づいていると見えます。『クレーター錯視』どっちが凸でどっちが凹??上が凸、下が凹に見えませんか?上の写真を、180度回転(逆さに)して見ました。上の写真では、凹に見えた下段部分が上段になると凸に見えて来るのです。人間の脳は無意識のうちに左上から照明があたっていると仮定して画像を見ることからこのような現象がおきるのだと。1908年にイギリスの心理学者ジェームス・フレイザーにより発表された図形で、『フレイザー錯視』。ゆがんだチェック模様の上に、うずまきが描かれているように見えます。うずまきのどこかに指をおいて、中心へ向かってなぞってみましょう。すると、渦巻きのように見えましたが、実は円形。半径が違ういろいろな円が描かれているのです。つまりうずまき模様に見えたパターンは、実は同心円(どうしんえん)だったのです。傾いて見える錯視「カフェウォール錯視」と「ミュンスターベルク錯視」。黒と白のタイルが並び、それらが灰色の水平な線で仕切られています。この灰色の線は傾いているように見えますが、それは錯視。どの線も水平方向に平行に引かれているのです。上図に赤線と青線を描いて見ました。どの線も水平方向に平行に引かれているのです。こちらも同様。『階段の図』。逆さにしても同じ階段。『オオウチ錯視』顔を上下左右にふって見ると、中の丸い領域が浮き上がって見えたり動いて見えたりする。こちらも同様。そして、テレビでも。ブロックを積み上げた壁があります。そこを、ミニバスが見事に通過。実は、バスが通過する場所は、床にブロック塀が描かれていたのです。これを、斜めからカメラで撮っていたのです。よってブロック塀の開口部に手を差し込むことが出来るのです。きょうはこのへんで ・・・おわり・・・
2024.10.24
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次に訪ねたのが、「本久寺」の西隣にあった「永昌院(えいしょういん)」。正面に「山門」。小田原市中町3丁目11−69。塀が交差する角に嵌め込まれた「永昌禅院」碑。曹洞宗の寺。「クスノキ」に囲まれた参道を進む。幹の切られた「クスノキ」には、その切断面の下から多くの若き命が。六地蔵であろうか。その中央に釈迦牟尼佛。お首が補修されている仏様も。さらに参道を進む。参道の左側が墓地に。「三界萬霊等」。これは三つの世界、すべての精霊に対して供養することの大切さを示すもの。三界とは、無色界(むしきかい)、色界(しきかい)、欲界(よくかい)の三つをさす。界の原語には層という意味もあるので、界は階層と考えてもよいと。細かく分けると、無色界は4階層、色界は16~18階層、欲界は20~36階層(処)、になると。西国四国秩父坂東巡礼塔。「西國四國秩父坂東 天下泰平 國家安穏」と。「法界◯識供養塔」と。納骨堂であっただろうか。「南無釋迦牟尼佛」。そして「本堂」。佛眼山永昌院は、中町3丁目にある曹洞宗の寺院。本尊は十一面観音。開山は同町福厳寺の4世・寂幽宗姓(永禄12年・1569没)、開基は久保田治郎兵衛(法名:永昌院孝山勝忠。永正7年・1510?1月8日没。本町の住民・久保田甚四郎の祖先)。江戸時代には福厳寺の末寺だった。天水桶には龍の彫刻と山号の「佛願山」の文字が。こちらには「永昌院」の文字が。「永昌院歴代住職」の五輪塔墓碑「暦住塔」。「永昌院歴代住職」の名が開山~二十九世まで刻まれていた。クスノキ(楠)の巨木。「クスノキ(クスノキ科)小田原市指定保存樹 第103号 小田原市ふるさとみどり基金」。「無縁供養塔」。「永昌院」を後にして、小田原市中町2丁目と3丁目の境の、住宅街の路地を北に向かって進む。左手にあったのが「柏木美術鋳物研究所(工場/製品直売所)」。小田原の鋳物の伝統を受け継ぎ、主に風鈴、鳴物、花器等の銅合金製品(唐金、真鍮,砂張)を展示、販売している工場。日曜日のため、入口の扉は閉まっていた。「砂張ギャラリー 鳴物館」👈️リンクと。小田原で唯一残っている鋳物工場で製作した製品を工場内に併設の砂張ギャラリー鳴物館で展示販売しています。昔、梵鐘、半鐘、仏具、鐘、花器、火鉢等を作っていた技術を、現代生活に適した鳴物、花器、楽器、仏具、文房具などの製作に活用しています。工場独自で配合された合金(砂張)の音色を是非ご体感ください。きっとお気に入りの音色に出会えると思います と。製品の様々な鈴をネットから。工場の入口の写真を扉の上から。そして小田原市浜町2丁目北側にあった「旧地名」碑。「渋取」碑。「しぶとり」。「古い時代の渋取は、花ノ木の北方の広い区域を示す地名であった。ところが、天正十八年(一五九〇)の豊臣秀吉の小田原攻めに備え、北条氏が小田原城惣構(そうがまえ)を築いたとき、渋取は惣構の内側と外側に分断された。この地域は内側の渋取で、江戸時代のはじめは町人地であったが、稲葉氏の時代に武家地に変えられ、その範囲も「渋取口」付近の極く限られた区域を指すようになった。」別の説明ではこの地名は、「北条五代記」(1641年)に初めて「しぼとり」の名で見られます。地名の山来は、はっきりしませんが、「相中雑誌」(1839 ~43年)には、「金渋取」と記されていることから、金渋(水酸化鉄のことで、染科や顔科として使つれていた)が生ずる土地という意味に関係するものと考えられます。渋取は、もと花ノ木の北方の広い区域をこの名で呼んでいましたが、天正18年(1590 )の豊臣秀吉の「小田原攻め」(豊臣秀吉が九州征伐後に全国統一の総仕上げとして、関東最大の勢力であった小田原北条氏を減ぼした戦い)に備えて、小田原城総構(「小田原攻め」に備え、小田原北条氏が築いたもので、城下町を取り込み、自然地形を利用して、上塁、堀を囲わせた城構えをいう)を築いた時、この区域は、総構の内側と外側に分割されました。1)総構の内側 総構内側の渋取はかって町人地でしたが、稲葉氏が小田原城主の頃、武家地に変えられ、 その範囲も「渋取ロ」のあったごく限られた部分をさすようになりました。2)総構の外側 この渋取は、稲葉氏が小田原城主の頃、大工町の持添新田(町人によって開発された田) として堀跡が開発され、地名として残りました と。振り返って。この路地は私道?「渋取」はここ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.24
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「福厳寺」を後にして、次の目的地の小田原市中町3丁目11にある「本久寺」に向かって住宅街を南に進む。この日・10月6日(日)の「熊野神社 祭禮 連合渡御」の「早苗會」のポスター。ここにも「令和六年度 熊野神社例大祭」案内。小田原市中町3丁目9−35横の横断歩道を直進する。北に進むと「山王海岸」まで400mほどの場所。左手にあったのが「中町第一公園」。小田原市中町3丁目15−9。そしてスマホの案内に従い「本久寺」入口に到着。題目碑「南無妙法蓮華経」。正面に「本久寺」の「山門」。左手に「本久寺北辰殿」の「山門」。「本久寺」の「山門」は四脚門形式。斜めから妻面を。円柱の本柱上に横使いの冠木。出三つ斗を挟んで妻虹梁。頭貫虹梁と軒桁の間の龍の欄間彫刻を見る。扁額は「六條」。山門をくぐると、砂利敷の広い境内。奥に「本堂」が見えた。「本堂」に近づいて。入母屋造り屋根平入り、切り妻屋根妻入り付け向拝。法光山本久寺(ほんきゅうじ)は、中町3丁目にある日蓮宗の寺院。武藤治部少輔清康(法久禅門)が日蓮宗に帰依し、邸宅内に法華堂を建立、正応2年に武藤清康が逝去した際法華堂を改め法久寺と号したと本尊は三宝の諸尊と祖師像。開山は日満(元応元年・1319没)、開基は法久(法名:法久寺殿蓮秀一儀)、中興は日澄(永正7年・1510、駿府・安立寺にて死去)。京都本圀寺日傳の命により、本山六光山本圀寺の山寺号と法久の字を組み合わせて法光山本久寺と改号した と。扁額「法光山」。「本堂」前、右手に「宝篋印塔」と石碑。「宝篋印塔」に近づいて。「法光山縁起」碑。「法光山本久寺は往昔この地に住む大織冠鎌足公三十一世の孫武藤治部少輔清康入道法久禅門邸内に一法華堂として生まれた。時あたかも北條執権時頼のころで、清康しばしば鎌倉にあつて日蓮聖人の辻説法を聴聞しひそかに帰依した 聖人やがて宗法弘通の路次清康の邸に寓居あり 清康心酔帰依の余り改宗し自邸に小堂を営み法華堂と呼び 駿州より豊後房日満上人を招いて法華の法筵を開いたたまたま佐渡において阿佛房日得上人入寂され日満上人佐渡に赴かれて後、日朗上人の上足大法房日善上人(当山二世)発願この地に大堂を建立 清康また東西六十間南北百間に及ぶ田園を寄進し 弘安五年(一二八二)九月 日朗上人導師のもとに開堂供養の大法会を厳修した正応二年(一二八九)三月二日清康卆去してその法名法久寺殿蓮秀一儀の二字をとって法華堂を法久寺と号した それより五十有余年後本山大光山本圀寺の鎌倉より京都へ移るに当りその功により 本山の山寺号の二字を配し法光山本久寺と改め「六條」の別号を許され 自来法灯相伝えて七百年法運常に揺ぎないものとなった。なお寺内には今もなお開基清康の守り本尊たる北辰妙見大菩薩を勧請している」「溺死者追悼紀年碑」は解読不能。本堂前の左手には「日蓮大菩薩」碑。近づいて。さらに。境内・「本久寺」の「山門」の手前の西側には「妙見菩薩」を祀る「北辰殿」があった。手水舎。「北辰殿」は入母屋造り屋根、千鳥破風付き平入り。唐破風軒流れ向拝。身舎に対して向拝が大きなバランス。手前の石灯籠?は台座のみ。見事な彫刻。扁額「北辰殿」。「本久寺稲荷社」。正面から。「成貞法尼詠歌碑夕闇の 道にたどらむ 桜狩(さくらがり) 数へて帰る 花のひかりに遊ふや実能 道而當度良武 桜狩 嘉蘇部轉可弊流 花乃悲閑理耳」と我がブログの先生が、この写真から解読して下さいました。境内にあった墓石。歴史を感じさせる墓石が並ぶ。「奉唱首題萬部供羪」碑。妙法蓮華経を一萬部唱えた供養に建立したものか?_ ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.23
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次に訪ねたのが「圓通山 福厳寺(ふくごんじ)」。小田原市中町2丁目13−48。「不許入薫酒入山門」碑。「葷酒山門に入るを許さず」の意。「くさい刺激臭のある野菜と酒は修行の妨げになるので寺院に持ち込んではならない」と。「葷」は刺激が強い食物の意で、五葷は、ネギ、ラッキョウ、ニラ、ニンニク、玉ねぎを表すそうだ。「活鰻活魚之碑」。「供養碑建立趣意昭和六十一年十月二日に初めて西湘活鰻活魚供養祭を挙行し以来六年となり 会員も増え供養碑建立が計画されました。世話人の尽力と各位の御協力に依り 供養会の拠り所として立派に建立出来ました。中国伝来の放生会の歴史は古く、供養会においても法要を水塔婆供養をして宝勝如来常住不滅三宝の力を承け十二因縁甚深の妙法本願力により流水長者、百千の魚類の為に如来十号を称し即ち天に生ずる事を得る様、果報を願い是の功徳めぐらし以て業界の発展と会員各位の繁栄を祈念する次第です。西湘活鰻活魚供養会世話人 ・・・・ ・・・・平成四年二月吉日 円通山福厳寺三十六世 天利俊明 書「」「子育地蔵尊」。近づいて。赤ちゃんを抱いた地蔵様の表情がふくよかで癒されるのであった。「子育地蔵尊」と。正面に赤と黒のツートンカラーの屋根の「本堂」。「五七の桐」紋と「丸に久我竜胆車(こがりんどうぐるま)」紋が引き戸に。「丸に久我竜胆車」は福井県永平寺の寺紋であると。内陣。福厳寺は、大用晨甫(大永2年1522年寂)が永正元年(1504)に福門寺と号して創建、皆川市正通嚴(福嚴寺殿)を開基として寺名を福厳寺と改めたといいます。天正18年(1590)の徳川家康関東入国の際、松平玄蕃頭家清の内室で徳川家康の妹高瀬君(天桂院殿月窻貞心大禅定尼)が当地近くの陣場蹟で逝去されたことから、当地で葬られ、松平家から佛供料を、小田原城主より代拝されていたと。ズームして。「本堂」の左前にあった「南無観世音菩薩」。近づいて。さらに。「南無観世音菩薩」と。福厳寺内にあった「龍珠山東壁院(とうへきいん)」の扁額の掛かる御堂。「龍珠山東壁院」は、かつて中島村(中町)にあった曹洞宗の寺院。僧・仙岩守鶴(天正12年・1584没)が永禄5年(1562)に創建した。江戸時代には中町の福厳寺の末寺だった。境内に稲荷神社があっと。内陣。本尊は正観音。「お掃除小僧」。近づいて。「掲示板一日が始まると 活動の 一日が終れば寝る喜びが 生き物の 生きるしあわせ」「三界萬霊刀塔」。墓地内を歩く。「天桂院の墓」を撮り忘れたのでネットから。ここに久松俊勝と再婚した徳川家康生母伝通院の娘で、竹谷松平六代目家清に嫁いだ天桂院の墓が残っていた。家康関東入国に伴い、家清は武蔵国児玉郡八幡山に一万石を与えられ、天正十八年(1590)十月、その国替えの途中、小田原今井の陣屋で天桂院は亡くなった。遺言により福厳寺に埋葬されたと伝わる とのこと。天桂院殿は、東照宮の御妹にて高瀬君と稱し、松平玄播頭家清が室とならせらる。(寛永譜曰、松平與次郎家清、後に玄播頭と稱す、天正九年、大權現御妹を娶せ、御諱の字を賜る)寺傳に天正十八年十月十七日、今井の御陣屋(郡内今井村に御舊蹟あり)にて逝去し給ふ(按ずるに、天桂院殿此御陣所にて逝せられし事疑ふべし、蓋御國替の折なれば、御旅中御不例に因て、御陣所の未毀たれざりしを以て、幸に爰に入奉り、御養生などありしにや)、時に曹洞宗寺院に葬るべきの御遺言に任せ、當寺に御葬埋ありしと云、御法名天桂院殿月窻貞心大禅定尼と稱し奉る、是より年毎に、佛供料を其家より(今子孫旗下の士、松平主水清良なり)贈り、且海道通行の序には自拝あり、又毎年の忌日に小田原城主より代拝の儀あり、(按ずるに家譜に據に、玄蕃頭家清室 神君御妹、天正十八年十月十七日死、廿二、號天桂院殿月窓貞心大姉、葬所武州八幡山、一寺起立仕、號月窓山天桂院、後年三州吉田へ改葬、又同國西郡へ改葬、右寺も同所に移す、其後慶安二年、天桂院全榮寺を一箇寺に仕、龍臺山天桂院と改と見ゆ、 されば始武州兒玉郡八幡山に、天桂院を建て御葬地とし、後三州へ改葬せられしなれば、當寺御葬地なりと云事覺束なし、されど今に主水の家、及び領主より香火の奠あれば、別に故あることなるべし)」とある。「別に故」とはどんな理由なのだろうか。小田原城天守閣跡から福厳寺を結びさらにその延長上560m先に小田原北条氏と豊臣秀吉との小田原合戦で徳川家康が布陣した跡に「神祖大君営祉ノ碑」があるのだ と。そして境内にあった客殿?「光明蔵」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.22
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そして「吉祥院(きちじょういん)」の山門前に到着。小田原市中町2丁目11−3。「曹洞宗 吉祥院」。寺号標石「芳淵山 吉祥院」。吉祥院(きちじょういん)、芳淵山(2019年調査。『風土記稿』は「淵芳山」としている)は、中町2丁目にある曹洞宗の寺院。本尊は釈迦如来。永禄元年(1558)に僧・仙岩守鶴(天正12年(1584)9月29日没)が創建。江戸時代には同町福厳寺の末寺だった。境内に白山神社があった。小田原市仏教会の松田宏道会長(2020年11月に就任、板橋・香林寺住職)は、吉祥院で育った。「お掃除小僧」。「観音像」。「福徳龍珠観音」と。「三界萬霊塔」。移動して。掲示板には「芳淵山 吉祥院」と。「芳淵山 吉祥院」の「本堂」。扁額「吉祥院」。寺務所。網代笠を被る稚児像。托鉢僧の姿であろうか?見事な藤棚も今は緑豊かに。合同永代供養堂「普同塔」。「普同塔」。「釈迦如来」。台座。横笛を吹く天女の姿。(右の上)下の天女の持ち物は?天女の姿。(左)蓮の花(上)、稲穂(下)を持つ。墓地を望む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.21
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この日は10月19日(土)。我が家の近くの公園の「金木犀」です。「金木犀」は9月〜10月に開花するモクセイ科モクセイ属の常緑樹。学名は「Osmanthus」(オスマンサス)と。その芳醇な香りから、ジンチョウゲ、クチナシと並ぶ「三香木」のひとつに数えられる秋の花。日本の花!と思いがちですが、原産国は中国であると。鮮やかで小ぶりな群生するオレンジの花は、庭木や公園樹、鉢植えなどさまざまなシーンで親しまれているのです。その豊かな香りは香料のみならず、お茶やお酒などの食品に加工されているとのこと。香りが強く遠くまで届くことから古くからは「千里香」の別名を持っているのです。金木犀の花言葉は?「謙遜」「気高い人」「真実」と。「謙遜」という花言葉は、金木犀の花がとても小さく、控えめな印象があることにちなんでいるとのこと。また、古くから金木犀の香りには高貴な印象を持つ人が多かったことから「気高い人」といった花言葉がつけられたと考えられています。「真実」という花言葉は、金木犀は香りが強く、離れた場所でも存在がわかることからつけられたといわれています。金木犀の恋愛にまつわる花言葉は「初恋」「陶酔」金木犀には、上記のほかに「初恋」「陶酔」という、恋愛にまつわる花言葉もあると。いずれも、小さい花や花の香りに由来するものです。小さい花がかわいらしくて初恋を連想する、甘い香りに酔いしれるということから、このような花言葉がついたといわれているとのこと。以下、2枚は帰路での写真です。「日本みつばち はちみつ 高貴(金木犀入り)」の写真をネットから。幻と言われる日本みつばちのはちみつに、旬の無農薬の金木犀の花弁を手摘みし、漬け込みました。味はマイルドになり、紅茶などにいれると金木犀の花が咲きます。花弁も食べられます。日本みつばちのはちみつと、金木犀のハーモニーをお楽しみください と。 ・・・おわり・・・
2024.10.20
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さらに「広小路南」交差点を後にして、「山王川」に向かって東に進む。道路脇には「奉納 熊野神社御祭禮」の幟が立っていた。途中、青果店「府川商店」前で祭りの山車に遭遇。山車の周囲には多くの親子連れの姿が。この日は、この後訪ねた「熊野神社御祭禮」であった。山車の提灯・半被には「中嶋」と。昔はこの地域は「中嶋」と呼ばれていたのであろう。ここで一時休憩か?それともUターンか?歩道脇の駐車場へと。さらに進むと前方右に緑の屋根の「熊野神社」の姿が現れた。「熊野神社」を横から。「令和六年十月五日(日)熊野神社御祭禮熊野神社中島公民館」「三十四区自治会」とも。道祖神碑が並ぶ。そして南側に廻り込んで「熊野神社」の石鳥居前に。この鳥居は昭和六年に奉納と。ここにも御祭禮の案内板・「立て看板」。「熊野神社小田原市中町六一鎮座祭神 速玉男之命 例祭日 十月一日 由 緒相模国風土記に熊野社と登載され村の鎮守として篤く崇敬せられ本地佛正観音地蔵薬師の三躯を安す慶安三年一六五〇年祈願所として鰐口を掛ぐ別当観行院当山修験本尊不動勧請歳月伝らず明治六年七月三十日村社に定められ大正四年十一月十二日神饌幣帛料供進神社に指定せらる境 内 社稲荷神社 宇迦魂命天王社 素戔嗚命昭和五十五年十月建立。」手水舎。「熊野神社」社殿。正面の向拝虹梁の上の龍の彫刻をズームして。「熊野神社」の社殿の内陣にこの日に奉納されていた品々。社殿の左脇にあった境内社・「稲荷神社」。社殿の右脇にあった境内社・「山王神社」。境内には、祭りの準備をする氏子の姿そして缶ビールも。寄付金掲示板・奉納板(ほうのうばん)。「露店」・「屋台」も準備中。そして「熊野神社」を後にして、「山王川」に架かる「竹橋」手前を右折する。「山王川」の堤防上を下流に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.20
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次に「清光寺」の南隣りにあった「傳心庵」を訪ねた。「臨濟宗 傳心庵」。小田原市中町1-14-10。木製、銅板本瓦葺きの「山門」。右手にあった「無縁塚」。手水舎。地蔵尊が迎えてくれた。参道を進む。「掲示板」には「臨済宗 大徳寺派 傳心庵」と。「子を抱いていると行く末のことが案じられる よい人にめぐりあってくれとおのずから涙がにじんでくる 坂村眞民」。坂村眞民(さかむら しんみん、1909年1月6日- 2006年12月11日)は、日本の仏教詩人。本名昂(たかし)。一遍の生き方に共感し、「癒やしの詩人」と言われる人物。「平成28年 臨済禅師1150年・平成29年 白隠禅師250年遠諱記念 禪ー今を生きるー」かなり古いポスターであるが「およそ1500年前、菩提達磨(ぼだいだるま)によってインドから中国へ伝えられたとされる禅宗は、その一派である臨済宗・黄檗宗の宗祖、臨済義玄(りんざいぎげん)(?~866)によって広がり、我が国には鎌倉時代にもたらされました。武家のみならず、天皇家や公家、さらには民衆にまで広く流布し、日本の社会と文化に大きな影響を与えました。最近では欧米の人々の中にも「ZEN」の思想が広がっています。特定の経典を持たない禅宗では、その教えは言葉や文字によらず、師の心から弟子の心へと、以心伝心で受け継がれてきました。その修業は坐禅を中心に置かれますが、日常生活の行いやふるまいすべてが修行の一環として重視され、禅問答を通じた師と弟子の心の交流を経て、悟りの境地へと至ります。本展は、臨済義玄の没後1150年、さらに日本における臨済宗中興の祖である白隠慧鶴(はくいんえかく)(1686~1768)の没後250年の遠諱を記念して開催します。臨済・黄檗両宗15派の全面的な協力のもと、禅僧の肖像画や仏像、書画、工芸などを一堂に集め、国宝19件、重要文化財103件を含む226件の名宝の数々で展観します。禅の真髄に触れる貴重な機会となるでしょう。」とネットから。「臨濟宗 傳心庵」の「本堂」。臨済宗大徳寺派寺院の傳心庵は、大亟山と号す。開山は宝岳和尚(大永元年1521年寂)、開基は北条氏綱の母・南陽院殿華渓宗智大禅定尼(過去帳による)、本尊は釈迦如来像です。かつては寺領が3千坪余あり、「栄町の北条氏政・氏照の墓所」👈️リンク も含まれていましたが、大久保氏の内庵永久寺の移転に伴い、現在地に移転・縮小となりました と。コンクリート造、銅板丸瓦棒葺き、入母屋造り屋根平入り、流れ向拝。扁額「大亟山」。小田原北条「北条鱗紋」。北側にあった墓地を歩く。無縫塔の墓地。「聨芳塔(れんぽうとう)」と。立派な墓石が並ぶ。「江島家 先祖代々之墓」と。茶葉販売店「小田原 江嶋(Odawara Ejima)」との関連は?そして「傳心庵」を後にして、「広小路」交差点を通過して「広小路南」交差点に向かって進む。「広小路南」交差点。横断歩道の先に案内板があった。案内板「小田原城総構 ~渋取~」。戦国大名・小田原北条氏が本拠地とした小田原城は東西約2.9km、南北約2.2km、周囲9kmの規模を誇る戦国時代最大級の城郭です。その一番外側の守りは「総構」と呼ばれています。総構の東縁部、「井細田(いさいだ)口」から「山王(さんのう)ロ」にかけては、天然の湿地帯に堀を掘り、その内側に土塁を構築していたと考えられます。この地域は小字「渋取」と呼ばれ、この一帯は堀の跡地ではないかと考えられています。この説明板の裏にある渋取川は江戸時代に堀を埋めた水田の排水路と思われ、江戸時代の絵図・文久図から、堀でもあったことがわかります。渋取川より南西側は総構の内側と想定されます。現在見ることができる総構東縁部の名残は、蓮上院(れんじよういん)土塁と渋取川で確認できます。平成31年に渋取川にかかっていた「新逢橋(しんあいばし)」は解体され、川は一部暗渠となりました。「新逢橋」の銘板は、地域の歴史を物語る資料として小田原市郷土文化館に保管されています。「小田原城絵図・文久図一部(小田原城天守閣所蔵)」「新逢橋」銘板。蓮上院(れんじよういん)土塁跡と渋取川。平成31年に渋取川にかかっていた「新逢橋(しんあいばし)」は解体され、川は一部暗渠となりました。紫の線が暗渠となっている「渋取川」。連上院土塁から続く道路ですが、実は大外郭の堀として利用された川。江戸口見付から井細田方面まで続く道である。「渋取川」の暗渠部分を]googleマップより。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.19
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昨日・2024年7月17日(木)は満月。2024年のなかでは最も地球から近い満月となるため、今年の満月の中では最も大きく見える「スーパームーン」と呼ばれます。我がデジカメで撮しました。時間はそもそもスーパームーンとは、天文学の用語ではなく占星術の用語で、明確な定義はありません。この言葉を広めたNASAの研究所の一つであるジェット推進研究所(JPL)のサイトでは、地球と月の距離が近いときに満月になると、平均的な満月よりも大きく、そして明るく見えるため、これをスーパームーンと呼ぶとしています。NASAのサイトでも、地球と月の距離が◯km以内の満月という明確な定義はしていませんが、これまでの傾向から、概ね月と地球との距離が36万km以内の満月をスーパームーンとしているようです。最も遠い満月であった2月24日と較べると約14%大きく見えたのだと。そして明るさは約30%UP。東京での日の入り 17時03分、月の出 16時49分であった と。月の大きさは変わらないのに、なぜスーパームーンは大きく見えるのか?。その理由は、月が地球の周りを円形ではなく、楕円の形で公転しているから。2024年の満月の中で、地球に最も近いときが昨日10月17日、この時の満月が『スーパームーン』。逆に最も遠いときが2月24日で、最も小さく見えたので、『マイクロムーン』と呼ばれると。アメリカの先住民は季節を把握するために、各月に見られる満月に名前を、動物や植物、季節のイベントなど実に様々につけていました。アメリカの農事暦では、10月の満月は「ハンターズムーン」とも呼ばれると。10月は狩猟を始める頃のため、この名前がつけられたと。同じまるい月でも、季節感が感じられるのだ。10月17日の9時51分ごろに月が地球に約35.7万kmまで最接近し、約10時間半後の20時26分ごろにちょうど満月となる。つまり「17日の宵の空に見える満月」が『スーパームーン』となったと。20:26の満月・『スーパームーン』を撮影しました。我がデジカメで最大ズームして。下部に「ティコ・クレーター」の「光条」が良く見えたのであった。ティコ (Tycho) は、月面の南部に位置するクレーターである。非常に大きく(直径85キロ)、目立つので、双眼鏡程度でも見ることができる と。デンマークの天文学者・ティコ・ブラーエにちなんで命名されたとのこと。NASAによるティコ(Tycho) の写真。そして、10月15日の「十三夜」の月です。中秋(旧暦8月15日)の十五夜にお月見をする風習は、中国唐代の観月の宴が起源とされています。これが平安時代頃に日本に伝わり、貴族が十五夜を鑑賞するようになりました。一方、日本では旧暦9月13日の月(十三夜)も美しいとされ、十三夜もお月見をするようになったそうです。この風習が庶民に広まったのは江戸時代。陰の象徴である月は「お陰さま」に通じると考えられ、生きる糧である作物に感謝する旧暦9月の「収穫祭」の意味も込めてお月見をするようになったと。十五夜は中国伝来ですが、十三夜は日本固有の行事なのだと。今でも十三夜は「後の月(のちのつき)」と呼ばれ、十五夜に次いで美しいとされているのです。 ・・・おわり・・・
2024.10.18
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「広小路」交差点を左折すると、左側にあったのが「安樂寺」。小田原市中町1丁目15−11。「安樂寺」の山門。「浄土宗 安樂寺」。境内には入れなかったが「本堂」。浄土宗寺院の安楽寺は、荒神山國土院と号す。安楽寺は、讃蓮社正譽宗公(宝徳3年1451年卒)が開山となり文安3年(1446)創建したと。足柄三十三観音霊場21番霊場。本尊は阿弥陀如来像。境内には「幼少の法然上人像」が見えた。そして「安樂寺」の墓地は、東海道線・新幹線の線路の向こう側にあったのだ。本堂の前には「認定こども学園 小田原 みどり学園」(写真はネットから)。「安樂寺」さんの関係者の経営であろうか。そして次に訪ねたのは、道路の反対側にあった「清光寺」。日蓮宗題目碑「南無妙法蓮華経」。掲示板には「日蓮宗 宗顔山 清光寺」と。その下には「近代文学に異彩を放つ 郷土の作家牧野信一の菩提寺」と。「近代文学に異彩を放つ 郷土の作家牧野信一の菩提寺牧野信一は、明治29年(1896年)に、神奈川県足柄下郡小田原町緑町(現・小田原駅東口周辺)に生まれた。父は久雄、母はヱイ。旧小田原藩氏であった久雄は、信一が生まれて間もない明治30年に単身渡米した。(明治38年、祖父英福の急死により帰国)信一は、海外生活の長かった父の影響で、ハイカラで特異な幼少期を過ごした。明治42年、神奈川県立第二中学校(現・県立小田原高等学校)に入学。同級の鈴木十郎(後の小田原市長)とは終生友情を結んだ。大正3年(1914年)、早稲田大学高等予科に人学。大正8年同大文学部英文学科を卒業し、同人誌『十三人』を創刊。同年12月に発表した「爪」が島崎藤村に認められる。その紹介を得て、大正9年、雑誌「新小説』で文壇デビューを果たす。大正13年(1924年)、父・英雄が急死。5月、「父を売る子」を雑誌「新潮』に発表、8月、最初の作品集「父を売る子』が新潮社.より刊行される。昭和に入り、神経衰弱が高じ数々の転居を経つつ、ギリシア古典的な幻想と日本の現実的な風上とを重ね合わせた作品群を発表し、「ギリシア牧野」と称される。昭和4年、平凡社より「牧野信一集」が刊行され、中堅作家として、地位を確立。井伏鱒二、河上徹大郎などと知り合い、現港区三田でのいわゆる魚籃坂時代に入る。昭和6年(1931年)、雑誌「改造」に「ゼーロン」を発表。坂口安吾の「風騎士」を激賞。昭和11年、神経衰弱や家庭問題に悩み、小田原の生家に帰る。3月24日夕、実家の納戸で縊死。亨年39歳。清光寺で厳修された葬儀には川端康成の参列も記録されている。法号「大光院法船日信居上」。昭和31年(1956年)、清光寺に於て二十回忌が営まれ、「牧野信一之墓」が建立される。伊藤喜朔の題字、久保田万太郎の碑文。昭和51年(1976年)、四十回忌を期して「牧野信一文学碑」が小田原市城山公園の中に建てられる。坂口安吾は、後年、小編「オモチャ箱」において、以下のように書き、死へ身を委ねてしまった文壇の恩人をを愛惜している。「あなたの文学が、あなたの夢が、あなたのオモチャ箱が、この現実を冷酷に見つめて、そこに根を下ろして、育ち出発することを、なぜ忘れたのですか。現実は常にかく冷酷無慙であるけれども、そこからも、夢は育ちオモチャ箱は作れるものだ。」「牧野信一」。白塀に囲まれた参道を山門に向かって歩く。奉納された石灯籠。山門には「宗顔山 清光寺」と。正面に「宗顔山 清光寺」の「本堂」。六地蔵?参道沿いにあった墓石。「本堂」に近づいて。右手に寺務所。「今月の聖語十界互具これを説く日蓮聖人ご遺文 「観心本尊抄」いのちに合掌 日蓮宗」未だ9月の聖語であったが・・・。「=優しい心=罪を犯した人の立ち直りに寄り添い、犯罪や非行のない社会を作ろうという「社会を明るくする運動」があります。どんな人でも「優しい心」を持っていることを信じているからこそできる運動です。十界とは、私たちの心のありようです。みんなの幸せを願う「優しい心」から、自分だけの利益しか考えず他人を傷つける「地獄の心」までの10段階の「心」のことです。それぞれの心が単独であるのではなく、互いが互いを兼ね備え、影響し合っています。人の「地獄の心」は人の「優しい心」に変われますし、「優しい心」が逆に「地獄の心」になってしまうこともあります。苦しみや争いの絶えない社会の中で人と人がお互いに理解し合い、誰もが「優しい心」で生きていくことができれば、安穏で平和な世の中になるのです。◎日蓮聖人ご遺文『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』信徒の富木常忍に宛てて届けられた書で、佐渡で著されました。すべての人が本当の幸せを得られるという「一念三千」「十界互具」という教えが説き表された最も重要な書です。 文永10年(1273)聖寿52歳」と。再び「本堂」に近づいて。清光寺は、清光院日顔上人が永禄元年(1558)創建したといいます。本尊:一塔両尊四士「本堂」前から境内を振り返る。右手の五葉松?の枝の先に「牧野信一」の墓石が見えた。墓地の中を暫し歩く。「當山歴代聖人之墓」。立派な墓が並ぶ。無縁塚の観音様であっただろうか。「鳥雲に入るまで仰ぐ入りてなほ 康雨」と。「牧野信一之墓」ここにも「牧野家」の墓地があったが。境内から山門・参道を。「為 宗顔山 四十三世法導院日雄上人菩提平成十年十二月施主 四十四世 蔦野明雄」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.18
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「大乗寺」を後にして、JR東海道線のガードに向けて歩く。前方にあったのが「東通り入口」交差点。横断歩道を渡ると前方に「旧地名」碑が立っていた。「愛宕下」碑。「あたごした」。「この地の西側にあった小高い丘の上には、古くから摩利支天(まりしてん)が祀られ、この山を「愛宕山」と呼んだ。この丘の東側の地なので愛宕下と呼ばれ、江戸時代前期の稲葉氏時代(一六三二~八五年)には田畑の中に武家屋敷が点在していた。しかし、江戸時代の後期になると、道路の両側に組長屋が造られ、武家地の性格が強まった。この道路を中心にして「愛宕通り」とも呼んだ。」別の説明ではこの地の西側にあった小高い山の上には、古くから摩利支天(まりしてん:仏教の守護神の一つで、別に多聞天とも呼ばれています。武士の守護神として信仰された)が祀られ、その東に安国寺があって、この山を愛宕山と呼びました。この山の東側山すそを愛宕下と呼び、稲葉氏時代(1632 ~ 85年:寛永9年(1632)、稲葉正勝が下野真岡城(栃木県)から移って小田原藩主になり、正勝・正則・正通を経て、貞享2年(1685)、正通が越後高田城(新潟県)に転封されるまでの3代53年間)は、武家屋敷が点在していたものの、田園色の濃いところでした。しかし、江戸時代後期になると、道路の両側に組長屋がつくられ、武家地の性格が強まったため、愛宕下の地名は、武家屋敷地のことをさすようになったようです。なお、この地を「愛宕通り」とも呼びました と。来た道の1本北側の道を引き返すと、右側にあったのが「日乃出旅館」。小田原市栄町3丁目1−5。全6室の素泊まり日本旅館であると。日曜日であるが人通りの少ない路地を進む。突き当りを左折して進むと、前方に「旧地名」碑が現れた。「裏組」碑。「うらぐみ」「この地は、持筒(鉄砲隊)や持弓(弓隊)の人たちが住む組長屋であった。地名の由来は甲州道筋の御組長屋を「表組」と呼んだのに対し、これと対象的に「裏組」といった。なお、明治以降は、「浦町」と呼ばれるようになった。」別の説明では甲州道筋の御組長屋を「表組」と呼んだのに対して、こちらはこれと区別するため「裏組」といいました。持筒(鉄砲を扱う者)や持弓(弓を扱う者)の人達が住む組長屋でした と。旧地名案内図で「裏組」はここ!!さらに「栄町三丁目」交差点に向かって進む。「栄町三丁目」交差点の先、左手に「旧地名」碑が。「竹花町」碑。「たけのはなちょう」。「この町は、小田原北条氏時代からある北の城門であった井細田口の近く、江戸時代末期には郷宿(ごうやど・公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や日用雑貨品などを売る店が多く、城下町の出入口らしい町並みであった。」別の説明ではこの町は、藩主稲葉氏の「永代日記」、承応3年(1654 )の記事に初めて町名が見られます。ここは、小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495 ~ 1590年) )からある北の城門であった「井細田口」に近く、江戸時代末期には、郷宿(ごうやど:公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や日用貨品などを売る店が多く、城下町の出入り口らしい町並みでした。なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は38軒でした と。国道255号を北に進む。この先にも「旧地名」碑が。「先町」碑。「さきちょう」。「地名の由来は竹花町の町境から竹花広小路にかけての甲州道の両側に、表組の先手筒(先鋒の鉄砲隊)と先手弓(先鋒の弓組)の御組長屋があったことにより、これらを総称して「先町」といった。」別の説明では甲州道の両側、竹花町の町地境までは、表組の先手筒(鉄砲を扱う者) 2軒、先手弓(弓を扱う者) 1軒、あわせて3軒の組長屋があったので、これを略して「先町」といいました と。さらにその先、「緑町駅東」交差点手前にも「先町」碑が立っていた。内容は前記と同じ。「先町」はここ。「緑町駅東」交差点を渡る。その先には「竹花広小路」碑。「たけのはなひろこうじ」。「地名の由来は、井細田口の木戸から府内に入る甲州道を少し上って裏組に分岐する地点までの小路で、特に道幅が広くなっていたから「竹花広小路」といわれていた。」別の説明では。井細田口内側の甲州道に、裏組からの道が交差する地点より井細田口の木戸までの間は、特に道幅が広くなっていました。この間を竹花広小路と呼んでいました。このあたりは国道255号線がクランク状になっており、これはかつての井細田口の名残です。付近には暗渠になっていますが、かつての惣構の堀の一部が残っています。「栄町郵便局前」交差点を右折する。そしてその先の「広小路」交差点を左折。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.17
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「大乗寺」の境内の散策を続ける。小田原市栄町2丁目5−21 。入り母屋造り風の本堂を正面に見る。本堂の向拝虹梁(こうはいこうりょう)の上の龍の彫刻。木鼻彫刻(右)。木鼻(きばな)とは、頭貫や肘木、虹梁などの先端が柱より突き出た部分の名称。時代が下るにつれ装飾としてとしての意味合いが強くなると頭貫や肘木、虹梁とは別の部材となって来た。初期の頃は、シンプルなものであったが、次第に獅子や龍、象や莫などの複雑で繊細な彫刻が施されるようになったのだ。木鼻彫刻(左)。さらに本堂に近づいて。「南無日蓮大菩薩」と書かれた提灯が一対。扁額「今正山」。寺紋は『 日蓮宗甲斐身延山久遠寺 』 紋と同じ。火灯窓・花頭窓(かとうまど)。本堂の内陣。寺宝に曼荼羅3幅があると。1.日蓮筆。紙の中に「文永七年(1270)正月廿八日、本間六郎母授与」と記してあり、 「故ありて阿藩高田久右衛門信允伝来し、宝暦(2)十年(1760)九月廿一日寄納」と箱の裏に 記してあった。2.日乾筆。日乾は身延山21世。曼荼羅は日乾が大乗寺の開山・日養に授与したものといわれていた。 奥書に「相州小田原今正山大乗寺開闢日養、以七十三歳連日説法、百座成就の刻、授与之、 慶長十五年庚戌(1610)三月廿一日」とあった。3.日養筆。紙の中に「慶長十四年(1609)正月廿日、中村善次郎吉家授与之」とあり、 「貞享二年乙丑(1685)夷則(陰暦7月)廿三日、江戸湯島一町目中村三郎兵衛安次寄附」で ある由が、箱の書付に記してあった とのこと。中央に日蓮聖人像。左側には大太鼓が。大乗寺本堂天井の龍図。「題目碑」と「當山歴代聖人之墓碑」。「妙法 當山開山日養聖人歴代之墓」碑。境内、左手にあった「第六天社」。本尊は釈迦如来。木造の立像で像高は5寸(約15cm)、伝教の作とされていた。祭礼は6月8日と毎月15日で、神事があり、竹花町(栄町)の産神とされていた。屋根の火焔宝珠。さらに近づいて。扁額「第六天」。そしてこちらは「水掛不動尊」。近づいて。水掛不動尊は「水を掛け、願を掛け」といわれるように、すべての願い事を手助けし、後押しし、正しい方向へと導いてくれるのだと。私も、柄杓で水を掛け、お参りさせていただきました。そして朱の鳥居が並ぶ「末社・六浦明神」が。石段の下に蝦蟇が一対。内陣。「○尊稲荷大明神」疱瘡(天然痘)の守護神とされていたと。「末社・六浦明神」を振り返って。墓地の入口にあった子安観音像。近づいて。左手で赤子を抱いて。墓地を見る。多くの卒塔婆が。境内の石灯籠は自然石で?境内を振り返って。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.16
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「錦通り出口」交差点を左折し、国道255号を北に進む。前方に「旧地名」碑が現れた。「竹花町」碑。「たけのはなちょう」。「この町は、小田原北条氏時代からある北の城門であった井細田口の近く、江戸時代末期には郷宿(ごうやど・公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や日用雑貨品などを売る店が多く、城下町の出入口らしい町並みであった。」別の説明ではこの町は、藩主稲葉氏の「永代日記」、承応3年(1654)の記事に初めて町名が見られます。ここは、小田原北条氏時代(北条早雲、氏嗣、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495 ~ 1590年) )からある北の城門であった「井細田口」に近く、江戸時代末期には、郷宿(ごうやど:公用で役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)や日用雑貨品などを売る店が多く、域下町の出人り口らしい町並みでした。なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は38軒でした と。さらに国道255号を進む。ここ「竹の花」交差点を右折。前方、右、「緑公民館」前に朱の鳥居があった。「竹の花稲荷神社」。社殿に近づいて。「緑公民館」。小田原市栄町2-12-16にあった地区公民館。「小田原市広報掲示板」。「第64回 尊徳祭」が令和6年10月20日(日)9時~17時 に開催されると。今も多くの人々に慕われる郷土の偉人・二宮尊徳翁(二宮金次郎)。尊徳翁は江戸時代後期の農政家・思想家で、若き日の苦難を努力と工夫で克服し、その生涯を各地の農村の復興に捧げました。尊徳記念館では、尊徳翁の命日である10月20日にちなみ、毎年同月に「尊徳祭」を開催してその遺徳を振り返ってきました。1955年の開館の時から数えて、今年で64回目を迎えます と。「竹の花」交差点まで戻り、東に向かう。その先にも「旧地名」碑があった。「半幸町」碑。「はんこうちょう」。「この地名は、「貞享三年御引渡記録」(一六六八年)に「竹花裏はんこ町」として見られる。江戸時代後期、この地には長沼流軍学者山下与太夫が住み、彼は四国から菱(ひし)の種子を取り寄せ、忍びの者の侵入を防ぐため小田原城の堀にこれを植えたとの伝承もある。」別の説明ではこの地名は、「文化十四丑年類焼録」( 1817年)に初めて見られます。暮末には、道路をはさんで藩士の住まい約16軒がありました と。「半幸町」はここ。「栄町2丁目」交差点を渡る。道路標識は更新の時期に!。その先、左に次に訪ねた「大乗寺」への参道が現れた。「宗歌 日蓮聖人立ち渡る 身のうき雲も はれぬべし たえぬ御法の鷲の山風」。一面に広がっている身延の浮き雲も、絶えることのない山風によって晴れ渡るであろうように、我が身の憂いの雲は、日本の霊山であるこの山の永遠の妙法の風によって晴れるに違いない と。「一生成仏鈔衆生の心汚がるれば土も汚れ心清ければ土も清しとて、浄土といい穢土というも土に二つの隔てなし。ただ我等が心の善悪によると見えたり。深く信心を発して、日夜朝暮に懈らず南無妙法蓮華経と唱え奉べし。」私たちは目の前に立ちはだかる難題や苦悩に真正面から向きあうことを避け、苦しみを他人のせいにしたり、他人からの甘い言葉で自己を正当化して問題の本質から目をそむけようとしがちです。穢れた心では判断を誤り、曇った眼には浄土であるはずのこの現実世界も穢土に映ります。澄んだ眼で苦しみの本質をしっかり見すえること。つまり心の在りようで今の環境は穢土から浄土にかわるのです。深く信心を奮い起こして、日夜、朝夕に、また怠ることなく自身の命を磨くべきである。ただ南無妙法蓮華経と唱えること、これが磨くということなのである と。「大乗寺」への参道を歩く。「大乗寺」の山門。題目碑「南無妙法蓮華経」であっただろうか?「大乗寺 本堂」日蓮宗寺院の大乗寺は、今正山と号す。大乗寺は、玉泉院日養上人(慶長17年1612年卒)が開山となり、慶長6年(1601)に創建したと。寺務所。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.15
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「北条氏政・氏照の墓所」を後にして、「錦通り」に向かって「おしゃれ横丁」を歩く。円柱式の郵便ポスト、レトロな赤い電話ボックスの後ろには親子3代続く洋品店「「TALE OF ANNE」(テールオブアン)」。おしゃれ横丁からくり時計「ドリームタワー」を見る。何年も前に残念ながらからくりは廃止されてしまったとのこと。 どんな仕掛けだったかは、あまり想像できず謎に包まれていたのであった。イラストレーターのホマ蔵が描いた、後北条氏に仕えた忍者である「風魔小太郎」の蓋プレートデザインのマンホール蓋。おしゃれ横丁からくり時計「ドリームタワー」下を通過し振り返って。下の写真2枚は、帰路に再度撮影したもの。ズームして。「明かり窓文庫」の昭和なステンドグラス照明。店はこの照明の隣にあった。夜になると(ネットから)。白い象の姿も。様々な店が林立。そして、「おしゃれ横丁」の南側・錦通り側入口を振り返る。前方にあったのが公園「北條ポケットパーク」。小田原駅から徒歩すぐの場所にある小さな広場だが、季節を彩る花が咲いており楽しめる場所であると。「北條ポケットパーク」前にあった「そば処 寿庵」。「生蕎麦 寿庵」と。上の額縁に入った「〇〇○ 寿庵」の文字は「幾楚者」という漢字の崩し字であると。仮名の元になる漢字ではなく意味を含んだ漢字を当てている「変体仮名」だ。以下は受け売りだが「幾=いくらかの」「楚=ほっそりした」「者=台の上で焚くもの」との意味があるから「そば」を指していると言えなくもない。なお「蕎麦(きょうばく)」と当て字しているがそばは麦の仲間ではない(ナデシコ目タデ科)と。店頭にあった和風植栽には石灯籠が。「箱根ジオパーク」案内板。細長い三角形の公園・「北條ポケットパーク」。小田原城(正面入口)まで620m と。「北條ポケットパーク」越しに「そば処 寿庵」方向を見る。そして「錦通り」を東にむって進む。前方、左側・「一軒め酒場」前に「旧地名碑」がった。「高部屋」碑。「たかべや」。「稲葉氏時代、ここに鷹匠(たかじょう)の屋敷が設けられていたため、この地は「鷹部屋」、「高部屋」などと呼ばれていた。しかし、江戸時代中期以降は、専ら侍屋敷となっていた。」別の説明ではこの地名は、小田原城絵図の一つである「万治図」( 1660年)に初めて「御鷹部屋」の名で見られます。稲葉氏時代(1632 ~ 85年:寛永9年( 1632 )、稲葉正勝が下野真岡城(栃木県)から移って小田原藩主になり、正勝・正則・正通を経て、貞享2年(1685 )、正通が越後高田城(新潟県)に転封されるまでの3代53年間)、上幸田の北寄りの一部に鷹匠の屋敷が設けられ、このためこの地域は、「鷹部屋」、「高部屋」などと呼ばれるようになりました。しかし、江戸時代半ば以降は、もつばら侍屋敷でした。なお、北隣にあった永久寺も古くは高部屋(「新編相模国風上記稿」(1841年)には永久寺持ちの土地として谷津村の地域としてしるされている)の一画と考えられていました。現在は、小田原駅東口周辺の小田原市街の繁華街がこのあたりになるのだ。「高部屋」はココ。眼鏡店の先を左折してすぐ。レトロ調の外観が特徴の「小田原 シネマ館」。2024年3月20日(水)に待望のオープンを迎えた映画館。「錦通り」をさらに進むと、左側にも「旧地名」碑がった。「錦織町」碑。「にしこりちょう」「この地内に「錦織明神」がまつられていたところから「錦織町」(東海道分間延絵図)といわれた。明治以降は、「錦織横町」と呼ばれ、現在の「錦通り」の那覇、この「錦織神社」や「錦織町」に由来する。」別の説明では錦織町は、「東海道分間延絵図」(1789 ~ 1806年)に初めて地名が見られます。地名の山来は、この地内に「錦織明神」(「新編模国風上記稿」( 18羽年)によれば、錦織明神は、むかし修験者が火定(かじよう:焼身死)したのをまつったもので、はじめ「西郡明神」と呼ばれていたものを慶安年間(1648 ~ 51年)に小田原城主の命令によって、この名になったとある)があったためといわれています。この社は、明治末期から大正初期のころに市内城山1丁目の「大稲荷神社」に合祀されました。現在使われている「錦通り」の名は、この「錦織明神」や「錦織町」に山来するものです。なお、明治以降「錦織横町」とも呼ばれています と。その先、正面に「錦通り出口」交差点。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.14
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この日は10月6日(日)、2回目の『小田原城下を歩く』に向かう。小田急線、東海道線を利用して、小田原駅に到着。時間は7:50。この日も巨大な「小田原提灯」が迎えてくれた。小田原駅東口の平塚駅方向の階段を降り地上へ。小田原駅前東通り商店街・「おいしいもの横丁」の入口が正面に。左手前には、「旧地名」碑が立っていた。小田原の街の中には、昔の町名や由来が刻まれた1メートル程の石碑が至る所に置かれているのであった。「新蔵」碑。「しんくら」。「稲葉氏時代、小田原城主稲葉氏がこの地に新たに蔵屋敷を建てた。そこで、以前からあった小田原城三の丸弁財天曲輪の蔵を「本(元)蔵」と呼び、こちらを「新蔵」と呼ぶようになった。なお、この地を「新蔵屋敷」ともいい、幕末には八棟の蔵が並んでいた。」別の説明では江戸時代の承応、明暦の頃(1652 ~ 57年)、稲葉氏がこの地に蔵屋敷を建設しました。そこで、小田原城三の丸弁財天曲輪にすでにあった蔵を本(元)蔵と呼び、こちらを新蔵と呼ぶようになりました。また、この地を新蔵屋敷ともいい、幕末には、8練が並んでいました。この蔵には、ききんの際の救急用の稗(ひえ)なども保存したものか、古老の中には「お稗蔵」と呼ぶ人もいます と。「おいしいもの横丁ガイドマップ 小田原駅前通り商店街」、左側が現在地。「新蔵」碑の前のT字路を東に向かって進む。右手にあったのが巨大な「遊具コーヒーカップ(メリーカップ)」。小田原城天守と小型蒸気機関車、ゾウや回転遊具が描かれていた。「この『メリーカップ』は小田原城址公園内の「こども遊園地」に1970年から設置されていたものを2017年の廃止に伴い、おしゃれ横丁商店会で譲り受け、管理しているものです。2018年3月」「メリーカップ」に近づいて。「メリーカップ」とは食器のコーヒーカップを形どった遊園地の乗り物。ベンチ型になったカップの中には大人でも3~4人くらい乗れるようになっている。カップの設置されている床面が回転し更に中央にあるハンドルを回すと乗っているカップが高速で回転したのだと。そしてその先・T字路の正面にあったのが「北条氏政・氏照の墓所」。石垣の上にある「北条氏政・氏照の墓所」。「小田原市指定史跡 北条氏政・氏照の墓所」案内柱。「小田原市指定史跡北条氏政・氏照の墓所北条氏政は、北条氏第四代の領主。氏照は、氏政の弟で八王子城など五つの支城の城主でした。天正十八年(一五九〇年) 豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城すると、五代領主氏直は、高野山に追放され、父氏政とその弟氏照は、城下の田村安斉邸(現南町)で自刃しました。両人の遺体は、当時この地にあった北条氏の氏寺、伝心庵に埋葬されました。 (現在、永久寺所有)その後放置されていた墓所は、稲葉氏が城主のとき(一六三三〜一六八五)、北条氏追福のため整備されました。大正十二年(i一九二三)の関東大震災では墓所が埋没する被害を受けましたが、翌年地元の有志により復元されました。 小田原市教育委員会」石段の上の手摺には、多くの「鈴」が結びつけられていた。「幸せの鈴箱の中の「鈴」に民を思う領主の優しい心がきっと宿っています。ここに眠る北条氏政、氏照は、長引く秀吉との攻防戦の中、戦禍にまみえる領民を思い、開城を決意されたと伝えられています。願い事をかけて「鈴」を持ち帰り、かけた願いがかなったら、「幸せの鈴」を結びに来て下さい。「幸せの鈴」がいっぱいになれば、ここに眠る領主への、なによりの供養となることでしょう。」と。階段を上った正面にあった石碑。大正十二年九月一日の大地震で埋没した墓所を復興した旨が刻まれているのだと。「大正十二年九月一日未曾有ノ大震ニ襲ハレ北條氏ノ史蹟モ亦埋没セリ有志・・・・・大・・方ノ同情ヲ得テ・・・・・ 大正十三年九月十四日」「北条氏政・氏照の墓所」。面積:16.58m2。墓石に近づいて。案内板には上部に配置図が記されていた。正面に向かって。● 五輪塔 右 (大) 伝 氏政夫人の墓 中央 (中) 伝 氏政の墓 左 (小) 伝 氏照の墓● 生害石 五輪塔前の平たい石 この石の上で氏政・氏照が自刃したと伝えられています。● 笠塔婆型墓碑 左手の墓碑 この墓碑には、次のように法号(戒名)が刻まれています。 「慈雲院殿勝岩傑公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政」 「青霄院殿透岳關公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條陸奥守氏照」なお、正面の北条氏の三つ鱗の紋章は、正体紋ですが、平体紋が使われているところもあり、いずれが正しいかは明らかではありません。 小田原市教育委員会」右 (大五輪塔) 伝 北條氏政夫人の墓。何故か、北條氏政夫人の墓・五輪塔が一番大きいのであった。右 (中五輪塔) 伝 北條氏政の墓。左 (小五輪塔) 伝 北條氏照の墓。正面の北条氏の三つ鱗の紋章は、正体紋ですが、平体紋が使われているところもあり、いずれが正しいかは明らかではありません と。左手の笠塔婆型墓碑この墓碑には、次のように法号(戒名)が刻まれています。 「慈雲院殿勝岩傑公大居士」 「青霄院殿透岳關公大居士」 右側面(下の写真)には「天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政」左側面には「天正十八庚寅年七月十一日 北條陸奥守氏照」 と刻まれていた。「生害(しょうがい)石」。五輪塔前の平たい石。この石の上で氏政・氏照が自刃(じじん)したと伝えられているのだと。右手には大きな石灯籠。石段を下って「北条氏政・氏照の墓所」を振り返って。昔の「北条氏政・氏照の墓所」の写真、撮影時期は不明と。おしゃれ横丁の路面には「北条氏政・氏照の墓所➡️」とマンホール状の蓋が。第4代当主である北条氏政とその弟である北条氏照が描かれている。 (左 北条氏政 右 北条氏照) 矢印の中に鈴のマーク 「北条氏政 氏照の墓所」、 外周には「北条氏政 HOJO UJIMASA 氏照 UJITERU おしゃれ横丁 OSHARE YOKOCHOU」の文字。 鈴は願い事をかけて持ち帰り、願いがかなったら氏政氏照の墓所にその鈴を結ぶというもので、墓所にはたくさんの鈴がかかっています と。近くには別のマンホール状の蓋が。後北条氏第4代目当主の北条氏政の妻である黄梅院が描かれている、プレートデザインマンホール蓋。 矢印の中に鈴のマークと「北条氏政・氏照の墓所」という文字入る。 外周には「黄梅院OUBAIIN おしゃれ横丁OSHARE YOKOCHOU」の文字入り。 この蓋が設置されている通りの名前が、おしゃれ横丁で墓所もそこにある と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.13
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「銀座通り」交差点が前方に。「銀座通り」交差点を渡り直進・北上する。右手にあったのが茶葉販売店「小田原 江嶋(Odawara Ejima)」。日本茶と和紙の専門店「小田原 江嶋(えじま)」。2021年に創業360年を迎えた小田原を代表する老舗。趣のある建物は1928年に建築され、伝統を感じる重厚な造りが特徴。店の内部をガラス窓越しに。店内では急須や海苔、和雑貨、のし袋といった典礼用品なども販売。その先、左手にも「旧地名碑」があった。「須藤町」碑。「すとうちょう」と。「町名の由来は、小田原北条氏の総職人頭で、北条氏の領内の職人を統括する立場にあった須藤左衛門が住んでいたためといわれている。町並みには商家が多く、江戸時代を通じ有力な商人が住んでいた。」別の説明ではこの町は、「貞享三年御引渡記録」(1686年)に初めて町名が見られます。町名の山来は、「新編相使国風上記稿」(1841年)によると、小田原北条氏の総職人頭で、北条氏の領内の職人を統括する立場にあった須藤惣左衛門が住んでいたためとしています。町並みには商家が多く、江戸時代を通じ有力な商人が住んでいました。なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は49軒でした と。その先「錦通り出口」交差点手前にも。内容は同じ。ここにもゴミ用ネットが。「錦通り出口」交差点を左折。その先にあったのが「錦織町(にしごおりちょう/にしこりちょう)」碑。「この地内に「錦織明神」がまつられていたところから「錦織町」(東海道分間延絵図)といわれた。明治以降は、「錦織横町」とも呼ばれ、現在の「錦通り」の名は、この「錦織明神」や「錦織町」に由来する。」別の説明では錦織町は、「東海道分間延絵図」(1789 ~ 1806年)に初めて地名が見られます。地名の山来は、この地内に「錦織明神」(「新編模国風上記稿」( 1841年)によれば、錦織明神は、むかし修験が火定(かじよう:焼身死)したのをまつったもので、はじめ「西郷明神」と呼ばれていたものを慶安年間(1648 ~ 51年)に小田原城主の命令によって、この名になったとある)があったためといわれています。この社は、明治末期から大正初期のころに市内城山1丁日の「大稲荷神社」に合祀されました。現在使われている「錦通り」の名は、この「錦織明神」や「錦織町」に由来するものです。なお、明治以降「錦織横町」とも呼ばれています と。そして南下して「栄町一丁目」交差点に出る。交差点の角にあったのが「下幸田(しもこうだ)」碑。「地名の由来は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住していたからといわれている。この地は、小田原城内に入る門の一つ、幸田門近くにあり、隣の上幸田とともにこの門を守る侍町にふさわしいたたずまいであった。」別の説明ではこの地名は、小田原城絵図の一つである「延宝図」(1675年)に初めて見られます。地名の由来は、上幸田を含めて小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495 ~1590年) )、北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住したからといわれています。下幸田は、はじめ下幸田町と呼ばれていましたが、江戸時代後期には、「町」の字を略して下幸田となりました。この地は、城内に人る門の一つ、幸田門近くにあり、これを守るために隣の上幸田とともに侍町にふさわしいたたずまいとなっていました。通りの右側を高部屋、左手前を下幸田、その先を上幸田と呼んでいました と。ここから「幸田口通り 起点」であると。「銀座通り」を西に進むと「栄町」交差点に到着。横断歩道を渡ると「上幸田(うわこうだ)」碑があった。以下は「小田原城下を歩く(その4)」👈️リンクの繰り返しになる場所もあるが。「上幸田」碑。「地名の由来は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏が居住していたためといわれている。この地は、小田原城内に入る門の一つ、幸田門から北へ走る道路の両側にあった長方形の侍町で、下幸田ととも に幸田門を守る重要な位置にあった。」別の説明ではこの地名は、小田原城絵図の一つである「延宝図」(1675年)に初めて見られます。地名の由来は、下幸田を含めて小田原北条氏時代(北条早雲、氏絅、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495 ~ 1590年) )、北条氏の家臣幸田氏がこの地に居住したからといわれています。上幸田は、はじめ上幸田町と呼ばれていましたが、江戸時代後期には、「町」の字を略して上幸田となりました。南側の幸田門は、小田原北条氏時代には「四ツ門」といわれ、元禄10年(1697)に門」と改称されました。この地は、幸田門から北に走る道路の両側に開けた長方形の侍町で、隣の下幸田とともに幸田門を守る重要な位置にありました と。その先にも旧地名碑がった。「薮幸田(やぶこうだ)」碑。「この地名は、小田原北条氏時代、北条氏の家臣幸田氏が居住していたためといわれている。下幸田(したこうだ)上幸田(うわこうだ)の西方に位置し、幕末には藩士の住まいが約十六軒あった」別の説明ではこの地名は、「貞享三年御引渡記録」(1686年)に「竹花裏はんこ町」として見られます。稲葉氏時代(1632 ~ 85年:寛永9年(1632)、稲葉正勝が下野真岡城(栃木県)から移って小田原藩主になり、正勝・正則・正通を経て、貞享2年(1685)、正通が越後高田域(新潟県)に転封されるまでの3代53年間)にこの地を「車地蔵小路」と呼びましたが、その由来はここにあった伝心庵(でんしんあん:小田原北条氏の氏寺であったが、北条氏滅亡後、大久保氏時代になってこの寺は、寺町(中町)に移され、その跡に永久寺が建立された)の車地蔵にちなんだものと考えられます。文化年間(1819年前後)、この地には、長沼流軍学者山下与太夫も住んでいました。彼は四国から菱(ひし:池や沼に生える水生の一年草で、実は肩平で菱形をしており、両側に鋭いとげがありました。また実は食用になる)の種を取り寄せ、忍びの者の侵入を防ぐため小田原城の堀にこれを植えたといわれています と。そして再び「小田原城 三の丸外郭跡」をカメラに。「小田原城三の丸外郭跡この場所は、小田原城三の丸の土塁と塀があった所で、道路ができる前までは土塁が残っていました。造られた年代は明らかでありませんが、後北条氏四代氏政の時代の永禄四年(西暦一五六一)に上杉謙信が同十二年武田信玄がそれぞれ攻め寄せ来た時の苦い経験から、当時の大手に近いこの低丘陵を城域に取り入れるこの工事は、急いで行う必要があったと考えられます。「正保図」と呼ばれる城絵図のこの部分には「堀幅十間、深二間半、内水(水深)三尺、土手高三間」と書かれています。調査したで、道路下に深く落ち込んでいました。そこには湿泥地が広がり、堀を形造っていたようです。 小田原市教育委員会」 そしてここが「幸田口通り 終点」と。「お城通り」交差点まで戻る。横断歩道の先に「ローソン ミナカ小田原店」。最後に、往路の早朝時には開店していなかったが「ミナカ小田原店」👈️リンクに立ち寄り散策。「ミナカ小田原店」👈️リンク の1F店舗案内。「魚商 小田原六左衛門」👈️リンク 。「逸品屋 金次郎」👈️リンク 。「いなり寿司 相模屋」👈️リンク 。「いなり寿司 相模屋」👈️リンク「金目鯛とくぞう」👈️リンク 「おだまめ」👈️リンク そして最後に「小田原みなと食堂」👈️リンク へ。「北条五代海鮮丼」を楽しんだので帰宅の途についたのであった。。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.12
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「松原神社」を後にして、東側の路地を歩くと「西光院(さいこういん)」があった。コンクリート製の民家の如き建物であったが、屋根には鳥居の上部の如きものが立っていた。西光院、松原山南勝寺は、本町2丁目にある東寺真言宗の寺院。松原明神社供僧。本尊は不動明王。往古は東寺(塔中)宝菩提院の直末(直属の末寺)で、『風土記稿』のときは大工町(浜町)・蓮上院の末寺だった。『箱根(権現)縁起(絵巻)』によると、文武天皇(在位697-707)の時、玄昉僧正が箱根・芦ノ湖室河津に創建し、当初は西光寺と号した。のちに行基が「西光院」と改めたという。寺伝によると、天文年間(1532-1555)に北条氏綱が、松原明神の社中に寺院を建立して法楽を執行させようと、箱根の金剛王院41世・融山僧正に相談して西光院を小田原へ移し、「松原山南勝寺」の山・寺号を命名したといわれていた。このため、融山を西光院の開基と称していた。小田原市文化部文化財課によると、明治2年(1869)の神仏分離令により松原神社から玉滝坊と西光院が分離されたときに、その什宝や古文書類も蓮上院の所有となっており、1976年(昭和51)に蓮上院の古文書15点として文化財指定を受けているとのこと。そして、旧東海道の1本北側の道を東に進む。民家の庭先にあったのはコンロンカ(崑崙花)であろうか?「半夏生」によく似た葉の植物ではあったが。小田原本町郵便局。本町2丁目交差点に突き当たる。道路の先に「旧地名」碑が見えた。「青物町(あおものちょう)」碑。「小田原北条氏時代、町内に野菜の市(いち)が開かれていたのでこの名がついたといわれ、商人の多い町であった。東京の日本橋にあった青物町は、徳川家康のころ江戸の町づくりのため、この土地の人たちが移り住んだ町といわれる。」別の説明ではこの町は、藩主稲葉氏の「永代日記」、延宝3年(1675)の記事に初めて町名が見られます。「新編相使国風士記稿」(1841年)には、「いにしへ野業の市立ちしより町名になる」とあります。東京の日本橋にあった「青物町」は、徳川家康のころ江戸の町づくりのため、この士地の人達が移り住んだといわれています。この町は、商人町の色が濃いところで、旅篭はありませんでした。なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は46軒でした と。南北に延びるこの道沿いは「シャッター通り」になっていた。9月20日(金)の11:46であったが。「シャッター通り」とは、商店や事務所が閉店・閉鎖し、シャッターを下ろした状態が目立つ、衰退した商店街や街並みを指す言葉である。中心市街地の空洞化現象を表すキーワードの一つであり、特に商店街を指す場合はシャッター商店街、街並み全体を指す場合はシャッター街と呼ばれることもある。地方では1980年代後半頃から顕著化しており、身近な都市問題として注目されている とウィキペディアより。「シャッター通り」と言うよりは、「シャッター街」であろうか。北に進むとここにも「青物町」の旧地名碑があった。旧地名碑「青物町(あおものちょう)」。「旧地名碑」配置案内図。さらに北に進み「国際通り」交差点へ。「国際通り」交差点の先にも、「旧地名碑」が。「一丁田町(いっちょうだちょう)」碑。「この町は、商人町の色が濃く、郷宿(ごうやど・公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)も数軒あった。町内の東北部に「誓願町」という小町があるが、この名は、誓願寺の門前にあたるためといわれています。」別の説明ではこの町は、天正19年(1591)の文書に初めて町名が見られます。ここは、商人町の色が濃く、郷宿(ごうやど:公用で藩役所などへ出向く村人が泊まる宿屋)も数軒ありました。町内の東北部に「誓願町」という小町がありますが、この名は、誓願寺門前にあたるためで、藩主稲葉氏の「永代日記」の明暦2年(1656)の記事には「誓願寺町」とあります。なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は63軒でした と。その先、「浜町一丁目」交差点の手前にも。ゴミ用ネットが石碑に巻かれて・・・!?。説明文は同じ内容が。旧地名碑が。「台宿町」碑。「だいじくちょう」。「この町は江戸時代からの商人町で、後には衣類を扱う店が多かった。町内の東には、山上横町という横町があり、林角(林学)小路かこの町と一丁田町との境を西に向かっている。」別の説明ではこの町は、万治年間(1658 ~ 60年)の文書に初めて町名が見られます。ここは、江戸時代からの商人町で、後には衣類を扱う店が多くなりました。町内の東には、小田原北条氏(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代( 1495 ~ 1590年) )の家臣山上強右衛門(「新編相模国風上記稿」(1841年)によれば、山上強右衛門は、小田原北条氏第4代氏政、第5代氏直に仕えた人で、小田原落城後の天正18年(1590) 7月、氏直が高野山に人った時にお供をしたとある)屋敷跡に山来する「山上横町」という横町があり、林学渡辺利右衛門(「新編相模国風上記稿」(1841年)によれば、渡辺利右衛門は、もと伊豆の浪士であったが、享禄年間(1528年~ 31年)に台宿町に住み着き、一丁田町にある安国寺を中興開基したとある)にちなんだ「林学(林角)小路」がこの町と一丁田町との境を西に向かっています。なお、天保初期(1830年代)、町内の戸数は41軒でした と。「浜町一丁目」を西に進むと、右手前方に「旧地名」碑が現れた。「林学小路」碑。「林学小路は、小田原城三の丸堀端から一丁田町と台宿町の境とを東西に結ぶ小路をいう。この地名は小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。」別の説明では林学小路は、小田原城絵図の一つである「加藤図」(1614 ~ 32年)に地形が見られ、「新編相模国風士記稿」(1841年)に初めて地名が見られます。南北に走る林学小路の北側には、林学長屋がありました と。手前路地の先にあったのが「石川漆器(株)」小田原の伝統的工芸品である小田原漆器を制作販売する老舗の工房であると。店頭にあった象の石像。「伝統工芸 石川漆器」。店内を入口ドア越しにズームして。引き返して、その先を右に折れて進む。「林学横町」碑。「りんがくよこちょう」。「この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。林学横町は、大工町から林学小路まで南北に走る横町をいう。」別の背名ではこの横町は、小田原城絵図の一つである「正保図」(1644 ~ 54年)に地形が見られ、「新編相模国風上記稿」(1841)に初めて地名が見られます と。引き返して「本町二丁目」交差点まで進む。「本町二丁目」交差点を右折して北に進む。「林学(りんがく)」碑。「この地名は、小田原北条氏時代からの住人であった渡辺利右衛門の号「林学」にちなんだものといわれている。なお、この地は「林角」や「林岳」とも表記された。」別の説明ではこの地名は、「新編相使国風上記稿」( 18羽年)に小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代( 1495 ~ 1590年) )からの住人渡辺利右衛門(新編相模国風上記稿(1841)によれば、渡辺利右衛門は、もと伊豆の浪士であったが、享禄年間(1528 ~ 31年)に台宿町に住み着き、一丁田町にある安国寺を中興開基したとある)の号「林学(林角)」にちなんだものと記されています。なお、この上地は、「林角」「林岳」とも表記されました と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.11
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「松原神社」の境内の散策を続ける。「松原神社社誌一、祭神 日本武尊、相殿、素盞嗚尊、宇迦之御魂神一、由緒 縁由及び創祀の記録は灰爐に帰して詳かではないが古老のロ碑に依れば近衛天皇久安年間の 勧請なりと云はれている。後醍醐天皇の頃当所に真鶴が棲み、故に鶴の森明神と称したと 云う。後奈良天皇天文年間に山王原村松原の海中より十一面観音が出現、その託宣に依り 当社の本地佛として祀ったことから神号を松原大明神と称したと云う。明応四年北条氏の 小田原を治めるに当り当社への尊崇頗る厚く鎮守として社領一万石を寄せ氏綱、氏康等 大事毎に必ず祈願した。天正十八年北条氏廃滅後、後水尾天皇寛永九年稲葉氏の領となっても 亦、鎮守として崇祀し社費は悉く藩財を以て之に当てた。霊元天皇貞享三年旧領主久保氏が 封を再び此の地に受けた事に依り猶先規に従い鎮守として崇敬前代に劣らず代々小田原の 宿十九町の総鎮守とした。明治二年松原神社と改称し、明治六年一月旧足柄懸に於て懸社と 定められ、明治四十年四月二日神饌弊帛料供進神社に指定された。一、例祭 五月三日、四日、五日」大きくそびえ立った松の木に見下ろされるように、社殿前には石製の二の石鳥居があった。二の石鳥居の扁額「松原神社」。そして二の石鳥居の先に拝殿。大正十五年六月建立。「吉兆の大亀」の石像。奉納「吉兆の大亀 頭部修復」(有)下里住設店下里秀永殿 令和4年4月吉日」「吉兆の大亀天文十四年(一五四五年)三月、小田原の海岸に現れた大亀を土地の者が当社の池に持参したところ、小田原北条三代当主氏康は、これを聞き、吉兆なりとて参詣し舞を奉納した。果たして翌天文十五年、関東管領上杉軍八万の兵を、わずか八千の兵で見事に破り【河越夜戦】、念願の関八州の平定に成功した。この石像亀はその話に由来して作られた(制作年不明・頭部欠損)ものと思われ、現在でも大亀の甲羅を撫でると、社運隆昌・心願成就・開運・勝利(転じて試験合格)にご利益があるとされております。また、亀は長寿を象徴する生き物であることから、賽銭を十円納めると十日、百円納めると百日、千円納めると千日寿命が延びると言われております。 小田原総鎮守 松原神社」絵馬掛け所。絵馬「吉凶の大亀」に近づいて。手前の阿形・狛犬(右)。二ノ鳥居の傍らに大正15年(1926)建立。手前の吽形・狛犬(左)。「拝殿」。主祭神は日本武命(やまとたけるのみこと)、素戔嗚命(すさのおのみこと)、宇迦之魂命(うかのみたまのみこと)。昭和六年十一月現社殿を造営。 「拝殿」前の阿形・狛犬(右)。昭和34年(1959)皇太子殿下(現・天皇陛下)ご成婚記念で奉納された子・玉取り「狛犬」。玉(まり)を押えているのが「玉取り」。家運隆盛(よく転がるように)の意味があるのだと。「拝殿」前の吽形・狛犬(左)。前足で子供をあやしているのが「子取り」。子孫繁栄の意味がある。「拝殿」の扁額「松原神社」。神紋は「三つ巴」。内陣をネットから。「拝殿」前から境内、二の鳥居、一の鳥居を振り返る。境内参道の左右には境内社が数社あった。境内左(西)に鳶職の境内社「太子堂」(祭神聖徳太子)、前に「鳶組合」と刻む石天水桶が。近づいて。賽銭箱に「鳶」と。大漁を祝う漁師の晴れ着「万祝(まいわい)」と「侍所奉安所阯」碑。「万祝」に近づいて。「万祝」は江戸期から戦前にかけて、大漁の祝いや祈願などのため、同じ網元の漁師全員が神社仏閣に参詣する際に着た長半纏(ばんてん)。今回は4着製作し、いずれも衣紋部分に縁起物の鶴と小田原北条氏の家紋である「三(み)つ鱗(うろこ)」を入れ、裾の部分には「大漁」の文字と、かつて小田原の浜に大量に揚がったブリをあしらっているのだ と。「万祝(まいわい)について万祝とは江戸時代から戦前にかけての正月、同じ網元(地域の漁業経営者)に属する漁師全員が前年の大漁を祝い、今年の祈願をする神社仏閣への参詣時に着た晴れ着のことをいいます。これは長半纏を染め上げたもので、柄は黒潮を表す藍色で文字を染め抜いた地味なものですが、絵柄は背型と腰型に分けられ、背型には多くの場合鶴を背景して注文した家や船印、船名が描かれています。また、裾模様に当たる腰型には、生業図(漁の様子を描いたもの)浦島太郎や宝船など海に関するもの、高砂や、三番叟など縁起の良い題材が描かれています。万祝の大漁祝いは、普通の大漁と桁外れの大漁の場合を区別するために、普通の大漁の場合は手拭いを出し、そして桁外れの大漁の時に「万祝」を作りました。「万祝」の風習は房総半島を発祥地とし、太平洋岸の静岡県から三陸海岸北部の青森県内まで広く伝播し、最盛期は江戸期を過ぎて明治から大正にはいってからであったとされています。果てしなく広く深く、また天候次第で恐ろしい姿にも豹変する海。繁栄の裏側で、常に死と隣り合わせにあった漁師の生き様は時に「粋」という言葉で表現されることがあります。この一つのシンボルが「万祝」という長半纏です。力強い線、縁起の良い題材が描かれた模様など、網元が厳選した絵師・染物屋に頼んだこの1着に1年を共に生き抜いてきたことへの感謝や翌年の皆の無事を祈る思いが凝縮された海洋芸術です。」と熱く表現されているのであった。「内侍所奉安所阯」碑。明治天皇東京行幸のとき内侍所が滞在した旧跡。宿場町の本陣や神社などを奉安所とした。明治天皇は、1868年(明治1年)9月20日から10月13日にかけて京都から東海道を進み、東京に行幸した。行幸に際し、当地に神鏡が安置された。明治天皇聖蹟小田原町保存会が建て(昭和十四年十月八日建碑)、明治天皇聖蹟保存会会長の西郷従徳が題字を書いている。側面には、「明治元年十月八日明治天皇御東行ノ砌内侍所ヲ当社ニ奉安ス」と刻まれている。「叶稲荷神社」。商売繁盛・五穀豊穣の神「宇迦之魂命」を祀る「叶稲荷神社」。扁額「叶稲荷神社」。内陣。「佐々木八幡神社」。内陣。「佐々木八幡神社」碑。大正15年建立の「旧神輿庫」。「誌今回現令の世相に鑑み神社将来の維持確立のため氏子協力のもとに画期的事業として貸しガレージの設置を企画し併せて玉垣並びに裏参道を新設し境内の一大模様替を行い完工を見るに至る茲に記念のため之を録す 昭和四十一年四月 松原神社宮司 村上冨蔵 常務總代 横小路豊七 以下 省略」石灯籠・「奉納 小田原鳶組合」を裏・北参道から。「本殿」を右横から。石灯籠「小田原 鳶消防記念会」と。「拝殿・本殿」の裏に廻って。「本殿」を左側から。社殿は権現造り、玉垣内に千木・鰹木を乗せた流造りの「本殿」。そしてこちらが「新神輿庫」。正面から、「神庫」と。扉を開けると・・ネットから。大神輿。「松原神社例大祭」時の写真をネットから。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.10
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「瓜生外吉海軍大将像」を後にして、東海道の1本北の道を東に向かって進む。左手に案内板があった。「対潮閣(山下亀三郎別邸)」跡《秋山真之終焉の地》」案内板。「対潮閣(山下亀三郎別邸)」跡《秋山真之終焉の地》明治時代から、小田原には、伊藤博文、山縣有朋、益田孝(鈍翁)、田中光顕、北原白秋など多くの政財界人や文人が居を構えたり、訪れたりしていました。山下汽船(現・商船三井)の創業者山下亀三郎(1867 ~ 1944)の別邸「対潮閣」の正面入口がこの辺りにありました。対潮閣には、山下と愛媛の同郷であった海軍中将秋山真之(1868 ~ 1918)がたびたび訪れ、山縣の別邸「古稀庵」(現・あいおいニッセイ同和損保小田原研修所)を訪ね「国防論」について相談していましたが、患っていた盲腸炎が悪化し、大正7年(1918) 2月4日未明に対潮閣内で亡くなりました(享年49歳)。正面の巨石は、対潮閣にあったもので、梵鐘を抜いた形の空洞があるので、「釣鐘石(つりがねいし)」といわれています。左手前の石碑には、田中光顕がこの石を賞して詠んだ和歌が彫られています。碑文『うちたたく 人ありてこ曾 よの中にな里もわたらめ つりが年の石』。山下亀三郎。秋山真之。「対潮閣」。「大正11年(1922 )ごろの山下邸(小暮次郎氏作成の「山下邸内見取図」を参照」対潮閣全体の地図。山下邸の東隣りが「清閑亭」であったのだ。上図によると、先程訪ねた「天神社」の朱の鳥居の先からが、「山下邸・対潮閣」の敷地であることが解ったのであった。「対潮閣・旧山下亀三郎邸」の正門横の前庭。左手前の石碑には、田中光顕がこの石を賞して詠んだ和歌が彫られていた。もともと箱根路七名石の一として御塔坂にあったものを明治40年、山下別邸の最初の所有者(松下軍治)がここに持ってきたといいます。『うちたたく 人ありてこ曾(そ) よの中にな里(ri)もわたらめ つりが年(ね)の石』。正面の巨石。「対潮閣」にあったもので、梵鐘を抜いた形の空洞があるので、「釣鐘石(つりがねいし)」と呼ばれていたと。「対潮閣・旧山下亀三郎邸」の跡には、一般住宅が建っていた。さらにこの先の石垣のある部分も「対潮閣・旧山下亀三郎邸」なのであったと。タイル絵「小田原城 天神下」と。さらに東にむって歩くと、城の如き建物が右手に現れた。和菓子屋「ういろう」を横から。創業650年のういろうの小田原銘菓「お菓子のういろう」。次回訪ねた時にゆっくりと。さらに進むと右手に旧地名碑の「新道(しんみち)」碑があった。「新道(しんみち)」。「この道は、小田原城三の丸堀沿いの道で、文化14年(1817)小田原の大火のとき、逃げ道がなく多数の焼死者がでたことから、新たにつくられたので新道といった。西の出口は箱根口へ、東は宮前町高札場(こうさつば・幕府の法令などを掲示する場所のこと)の北側に通じている。」旧東海道まで進むと、その先に「松原神社入口」と。「松原神社入口」案内。「宮小路」碑。「町名の由来は、松原神社の門前にあたるためといわれている。この横町は、神社の門前から東へ伸び、青物町に至るまでの通りをいう。」別の説明では宮小路にある松原神社は、小田原北条氏時代から江戸時代に至るまで、小田原城主から崇敬され、小田原宿の総鎮守とされた神社です。創建の時期は不明ですが、かつては鶴の森明神、松原大明神と呼ばれてました。ここには可愛らしい亀をかたどった石があります。これは小田原の海岸に現れた大亀に由来するもので、これを吉兆として氏康は松原神社に参詣し舞を奉納しました。翌年、日本三大夜戦のひとつ、河越夜戦で北条氏康は寡兵で敵を打ち破り、関東制覇に大きな一歩を踏み出しました。「松原神社」山門に到着。右側には社号標石「縣社 松原神社」。太鼓橋・神橋を渡り、境内へ。右手の池・神池を見る。一の石鳥居。「小田原総填守 松原神社社殿大屋根修繕工事事業奉賛募財活動 第ニ期受付中」と。右手の巨大な「石鳥居」。左手の「石鳥居」の前には、「社殿大屋根修繕工事事業 奉賛者(仮設)芳名板」が。「社務所」。「松原神社 掲示板」。「神社写真時報」と。「手水舎」が右手に。水盤正面には「左三つ巴」の神紋が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.09
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さらに、急坂を上って行くと右側にあったのが「国際医療福祉大学 小田原保健医療学部 小田原キャンパス 城内校舎」。2006年(平成18年)4月に開設した神奈川県小田原キャンパス。小田原保健医療学部の定員は看護学科80名、理学療法学科80名、作業療法学科40名とのこと。前方には箱根・二子山の姿が現れた。右側に地名碑。「天神山(てんじんやま)」碑。「地名の由来は、この地の南側中腹に天神社が祀られていたので、この名があると考えられる。この社には室町時代の天神画像が伝えられており、この地名の古いことがわかる。なお、天神山には社の背後に小田原北条氏時代の三の丸の空堀が東西に伸びていた。」別の説明では「この地名は、「相中雑志」(1839 ~ 43年)に初めて見られます。地名の由来は、この地の南側中腹に天神社が祀られていたので、この名がついたといわれています。この社には、室町時代の天神画像が伝えられており、この地名の古いことがわかります。なお、天神山には社の背後に小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495 ~ 1590年) )の三の丸空掘が走っています。また、天神社から東海道へ通じる路を天神横町(町人地)といい、さらに東海道を越し、西海子小路に通ずる御花畑小路を江戸時代には天神小路と呼びかえるなど、天神社にちなむ地名が多くあります。」前方、右への階段の手前に「新堀土塁」、先ほど見た「清閑亭土塁」の案内板があった。新堀は、戦国時代に北条氏によって天神山丘陵の南側斜面に沿って作られた堀で、西端は丘陵部から始まり、東端は低地部にまで延びております。新堀は、天正18年の小田原合戦に備えて総構が作られるまでの間、小田原城の外周を守る堀として機能していました。新堀は、戦国時代当時の名称が分かるという点でも貴重な堀であり、天正15年(1587)の「傳肇寺文書」に「新堀」との記載があります。堀跡は、これまでに複数地点で発掘調査が行われており、幅18.5m以上、深さ9.5m以上の大規模な構造であることが分かってきました。「新堀この回遊路の下には、新堀と呼ばれる戦国時代の堀が延びています。新堀は、天正18年の小田原合戦に備えて総構が作られるまでの間、小田原城の外周を守る堀として機能していました。天正15年(1587)の「傳肇寺文書」には「新堀」との記載があり、この段階にすでに存在していたことが分かります。新堀は、戦国時代当時の名が分かる貴重な堀であり、また、近世以降に大きな改変を受けていないため、北条氏による築城技術などを考える上でも貴重な堀です.堀は、天神山丘陵の南側斜面に沿って作られ、西端は丘陵部から始まり、東端は低地部にまで広がります。平成19年に実施した新堀第Ⅶ地点の調査によって、堀の幅は18.5m以上、堀底から土塁の頂部までの高さは9.5m以上の規模をもつ障子堀であることが確認されました。また平成29年に実施した低地部の新堀第Ⅹ地点の調査では、堀の中から漆椀や箸などの遺物が多量に出土し、当時の生活を知る手掛かりも得られました。現在では、アジアセンター跡地に残る土塁と、清閑亭敷地内の土塁が国指定史跡として保存されており、当時の面影を残しています。」この日はここまでとし引き返す。そして急な下り坂を進む。さらに。「瓜生坂」と。瓜生坂は、海軍を退役後に小田原天神山の別荘に移り住み、入退院を繰り返していた瓜生外吉を車で移動できるようにするため、義兄の益田孝の援助と、交流のあった海軍関係者が奉仕活動で造った坂なのだ と。左手にあったのが「山角天神社」と「瓜生外吉海軍大将之像」案内板。「山角天神社(やまかくてんじんしゃ)地元の人々から「天神さん」と親しまれている山角天神社は、菅原道真を祭神とする神社で、毎年1、5、9月に例大祭が開かれます。山角天神社の創建年代は古く不明です。別当威光山長教院三光寺(古儀真言宗、蓮上院、永禄4年中興)がありましたが、明治初年廃寺になりました。ご神体は木造で、高さ32cm、台座6cm。裏に、「永禄4年極月吉日」とあります。山角天神社には、北条氏康が奉納したという別当三光寺の什宝「藤原道真画像」があり、画像には、俗にいう「いかり天神」の姿です。また、境内には、紀軽人狂歌碑、芭蕉句碑、瓜生海軍大将之像があります。」菅原道真画像(市指定文化財)。「瓜生外吉海軍大将之像瓜生外吉(1857~1937年)は、米アナポリス海軍兵学校を卒業。日露戦争(1904-1905年)の仁川沖、蔚山沖、日本海の各海戦で活躍し、1912年に海軍大将に昇進しました。後年は夫人繁子(日本初の女子留学生)とともに対米民間外交、親善に尽力しました。ここから西に200mほどの高台に別荘を設けた外吉は、誠実な人柄が市民に敬愛され、海を眺めての小田原の生活をこよなく愛しました。」写真提供 : 瓜生家。「山角天神社」の朱の鳥居の先には石段が。扁額:「天満宮」。石段の途中、右側の「天神社」碑もあった。「山角天神社」の石段から「瓜生外吉海軍大将之像」をズームして。石段を上り境内へ「山角天神社の菅原道真画像指定等 市指定重要文化財 昭和四十五年十ニ月十五日指定構造・品質・形状 この画像は絹本着色の菅原道真の衣冠束帯の円座像である。縦六三・八cm 横三八・八cm 表装上下廻し金欄。創造・由緒・沿革 この画像は、もと三光寺の什宝であった。同寺は古儀真言宗「で、創建は、古く、一時衰えて いたのを、北条時代[永禄四年(一五六一)]に秀山(永禄十二年卒)によって天神社の別当寺 として中興されたと思われる。その後明治維新の神仏分離以後再び衰えて廃寺となったので、 その際に他の什宝とともにこの画像も近接の居神神社に移された。そして、久しく不明になって いたものが発見され、天神社に還されたものである。作者は不明で、画は綱巻天神の形式で、 作柄優秀で、筆勢がある。管公の相貌は、怒りの様相を示している。俗にいう「怒り天神」の 姿である。北条時代の作品と思われる。軸裏書に寛文十ニ年(一六七ニ)に表装を修したことが 記されてあるが、画面には手を加えられた跡がない。」「天神山児童公園」にもなっているようであった。芭蕉の句碑が参道右側に。『有米家可耳 乃都登 日能伝る 山路閑難』・『うめがかに のつと ひのでる やまじかな』という松尾芭蕉の句の碑が置かれていた。紀軽人(きのかるんど)狂歌碑。『月はさす花は いたたく酒宴を 雪より外に つもりてはなし』「立春を過ぎて残る寒い朝。梅の香が匂う山路には、何の前触れもなく朝日がひょっこりと昇ってくる」と。「この碑は文政三年(一八二〇)に建てられたもので、天神社は梅花に縁のあるところから、芭蕉の作品の中からこの句を選んで建碑したものです。小田原市内には芭蕉の句碑は各所にあるが、その中でこの碑は秀作として知られている。」「月が輝き、花も咲いている宴会での光景は、雪が降り積もるように盛り上がっているが、それ以外のことはまったく気にしない」と。この歌は、宴会での楽しさや賑やかさが強調されています。月や花といった自然の美しさが背景にある中で、酒宴の楽しさがどんどん高まっていき、その盛り上がりが「雪が積もる」という比喩で表現されています。「外に」という部分は「他には何も考えない」「宴会以外のことはまったく気にしない」という意味合いを持たせているのでしょう。「紀軽人は狂歌師の号であり、桃季園とも名乗った。本名は藤井甚兵衛といい大甚の祖である。筋違橋(南町)にあった呉服商の主人であったが、若くして江戸に出て、太田蜀山人などと親交して一流の狂歌師となり、多くの作品を発表した。小田原に帰ってから多くの門弟を育て、この地方に狂歌を広めた。」「水神」と書かれていたが・・・。説明書きはなく、「防火用水槽」にしては小さいが・・・。土管を3つ積み上げたようなものであったが。「通りゃんせ」👈️リンク 碑「通りゃんせ 通りゃんせここはどこの 細道じゃ天神さまの 細道じゃちっと通して 下しゃんせ御用のないもの 通しゃせぬこの子の七つの お祝いにお札を納めに まいります行きはよいよい 帰りはこわいこわいながらも通りゃんせ 通りゃんせ 山角天神社」歌の訳「通りなさい、通りなさい。ここは、どこの細道ですか?天神様の細道ですよ。ちょっと通して下さいませんか?御用の無い者は、通しはしません。この子の七つの御祝いに、御札を納めに参ります。行きは良いですが、帰ってくるのは難しい。難しいですが、通りなさい、通りなさい。」『通りゃんせ』(とおりゃんせ)は、江戸時代に成立したと見られる日本のわらべうた(童謡)。遊び歌として知られ、その遊戯もいう。作詞者不明、本居長世編・作曲、あるいは、野口雨情作とも伝えられるとのこと。ここ「山角天神社」、および同市国府津の菅原神社や、埼玉県川越市の三芳野神社が舞台であるという説があり、共に発祥の碑がある。このほか関所を舞台とするという説(出立は楽だが帰還の際は厳しく調べられるという歌詞)もある。この歌詞の意味に神隠し伝説や人柱、埋蔵金伝説の関連付けをする人は多く、しばしば小説や映画、ドラマ、ゲーム等の創作の題材として取り上げられる。また、様々な陰謀説もある。歌詞の「行きはよいよい 帰りはこわい」が、被差別部落への一本道を意味しているとする説があるため、東京では放送できるが大阪では放送できず排除される形となっている とのこと。なかなか難しい背景がある童謡であることを知ったのであった。境内にあった「夜叉神社」。扁額「夜叉神社」。夜叉神社・社殿内陣。ネット等で調べてみたが祭神などは不明。一般的に夜叉とは古代インド神話に登場する鬼神で、後に仏教に取り入れられ護法善神の一尊となっているとのことだが。そして「山角天神社」拝殿。手前左右には梅の木が。内陣。本殿を見る。「天神社一月ニ十五日 初天神祭五月ニ十五日 天神祭九月ニ十五日 天神祭天神社 学業成熟 ・お守り ・絵馬 ・お札毎月第ニ・四 木曜日 境内済掃 山角天神社崇敬者境内清掃 老人会(年三回) 青年会(年一回)」「小田原市の文化財 天神社の網敷天神像所在 小田原市南町1ー5ー37 天神社形状等 紙本着色 縦63. 8cm 横38. 8cm概説衣冠束帯姿で円座に座す、憤怒相を示す菅原道真を描く。大宰府に配流された道真が、船綱を使って円座を自ら作った逸話から取られた「綱敷天神」と呼ばれる図様を示す。笏と刀には金箔が施され、束帯には椿とみられる樹木が描かれる。衣文線や髭などを直線的に描き、描線に勢いや抑揚はない。製作年代は室町時代後期から江戸時代初頭のものと推定される。軸部には寛文12年(1672 に表具を修復したことが記され、箱書きには永禄4年(1561)に本納され、寛文12年、明治8年(1875)に修復されたことが記される。本図は、天神社の別当寺である三光寺に奉納され、明治維新の神仏分離後、他の寺宝と共に近接する居神神社に移されたと伝えられる。本図は市内で唯一の制作年代が中世まで遡る神画象である。 小田原市指定 昭和45年12月15日」「天神社当社は、関八州を平定した北条氏康公が、小田原の文運隆盛を願って勧請された由緒ある神社です。氏康公の願いはかない、往時の小田原は戦乱つづきの京都を凌ぐ文化都市となり、その技・芸は、小田原落城後江戸に伝えられ江戸文化の源流となりました。社は度々の天災で荒廃しましたが、近年、社の霊験が世に知られだし、今春も合格祈願、合格お礼参りの方々がたくさん見えました。毎年、正、5、9月25日が天神社の例祭日です。ご参詣をお待ちしております。」この「境内社」の名前は?鍵が掛けられていた。境内には「天神山公民館」もあった。正面に廻り込んで。そして、一旦石段を下って、再びくねくねと曲がった細い石段を上り「瓜生外吉海軍大将之像」の前に。作者は、北村四海。大正6年(1917)の作。瓜生外吉没後、小田原町第十六区民・山角町青年誠友会員により、昭和14年(1939)5月27日、山角天神社の石段中途左に「瓜生海軍大将之像」が東京の瓜生邸から山角天神社へ移築され建立された と。胸像を見上げて。その横には「歴史街道 小田原を愛した人々⑤ 坂に残した人・瓜生外吉(海軍大将・男爵)」案内が。「明治37年(1904)2月、日露戦争の緒戦に仁川沖海戦で、露艦ワリヤーグ、コレーツを撃破して驍名(ぎょうめい)を世界にとどろかせた第四戦隊司令官瓜生外吉は、大正元年(1912)月、海軍大将の職を辞した。海軍退役後しばらくして、板橋掃雲台の義兄、益田孝(鈍翁)のすすめもあって、天神山(十字一丁目百八十番地、現南町二丁目八番)に隠栖の別莊を設けて移り住んだ。瓜生外吉(海軍大将・男爵)は、安政4年(1857)大聖寺藩士瓜生吟弥の次男として生まれた(次男以下は外に出すというので外吉という名にしたという)。藩校で学んだのち、明治5年(1872)海軍兵学寮に入った。明治8年、在学中に海外留学生として、米国アナポリス海軍兵学校で学び、明治14年卒業・帰国した。明治24年大佐に昇り、日清戦争にはフラン公使館付武官であったので従軍しなかったが、日露戦争では大活躍をして武名を世界にとどろかせた。佐世保・横須賀の鎮守府長官を勤め、戦功によって男爵を授けられ、薩摩出身以外で最初の海軍大将となり、のち貴族院議員に勅選された。小田原に隠栖後もしばらくは東京との二重生活を余儀なくされたが、小田原を愛し、地元海軍部員はもとより、地域の人々と交流も多かった。外吉の妻繁子(志げ)は文久元年(186)外国方支配目付・・・」「・・・益田孝義の四女として生まれた。鈍翁益田孝は長兄である。明治4年(1871)岩倉使節団同行留学生として、津田梅子、大山捨松と共に参加し、米国ヴァッサー女子大学に学んだ。明治14年卒業後帰国し、東京音楽学校、東京女子高等師範学校の講師となる。明治15年瓜生外吉と結婚、四男三女の母となる。外吉は大正11年東京で開催された米国兵学校同窓会の直後発病し、小田原に帰って療養中、大正12年の関東大震災に遭遇した。掃雲台の仮小屋で20日間凌いだ後、芦屋、東京へと転地療養し、繁子の献身的な看護もあって全快。大正14年小田原別邸に戻った。小田原帰邸にあたっては、付近道路が狭隘で、その上石段があるため、自動車の通行が不可能であるところから町民はこれを心配し、益田孝の経済的な援助と、海軍部員の奉仕によって工事が施行された。完成後、この道路は「瓜生坂」と名付けられ、現在に残されている。昭和9年、病を再発し海浜病院において療養につとめたが、昭和12年11月11日、81歳の天寿を全うした。同日、正二位勲一等旭日桐花大授賞が追贈された。なお、昭和14年5月27日、南町天神社の石段中途左に「瓜生海軍大将之像」が建立された。瓜生家は現在孫の武夫氏が、横浜車青葉区で名跡を継がれている。また、元郵政大臣小金義照未亡人かつ子(かつ)さんも瓜生大将の孫である。 写真提供 一嫡孫 瓜生武夫」小田原の海を望む。そして「瓜生外吉海軍大将之像」を後にして、玉石で造られた狭い石段を下ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.08
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「藤棚」交差点を左折し、「報徳二宮神社」方向に向かう。左手にあったのが「小田原スポーツ会館」。小田原城三の丸(藤棚前)に位置するスポーツ施設。. 体育館・柔道場・トレーニング室を配備。市民が気軽に利用出来る施設。この「小田原スポーツ会館」を卒業した東海大学の学生、天野開斗君の全日本柔道体重別選手権大会、世界ジュニア柔道選手権ポルトガル大会の優勝報告が入口に掲載されていた。小田原城 南曲輪 南堀(蓮池)の蓮の花は既に終わっていた。「国指定史跡 小田原城」案内板。小田原城の歴史小田原城は、15中世中頃に大森氏が築城し、文亀元年( 1501 )までに、伊勢宗瑞(北条早雲)が大森氏に代わり支配下としたとされます。以後、北条五代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の本城として約100年にわたり、拡張・整備されました。永禄4年(1561)には、長尾景虎(上杉謙信)、同12年(1569)には、武田信玄に相次いで攻撃を受けましたが、城の守りを固め籠城により退けました。天正18年(1590)、天下統一を目指す豊臣秀吉との小田原合戦に際しては、周囲約9kmにわたり、堀と土塁によって城下を取り囲んだ総構を築き、守りを固め籠城しましたが、支城が次々と落城し、ついには開城しました。北条氏の滅亡後は、徳川家康の重臣、大久保忠世が城主となり、城は三の丸以内に規模が縮小されるとともに、北条時代の城を改変し、三の丸外郭を構築するなど近世城郭の原型が築かれました。寛永9年(1632)、稲葉正勝が城主となり、その子、正則の代には、天守と櫓や城門を各所に設け、石垣と水堀による近世城郭へと大きく生まれ変わりました。その後、貞享3年(1676)に大久保氏が再び城主となりましたが、元禄16年(1703)の元禄地震で、天守をはじめすべての建物が焼失するなど、何度も地震の被害を受けています。小田原城は、江戸幕府の西の守りを固める防衛上の要衝として、また、幕藩体制を支える譜代大名(大久保氏・稲葉氏など)の居城として、幕末まで重要な役割を担いましたが、明治3年(1870 に廃城となり、天守閣などの主要な建物は解体されました。小田原城周辺ガイドマップ。小田原城の歴史。「伊勢宗瑞(北条早雲) Hojo Soun戦国の魁として知られる北条早雲は、素浪人から戦国大名に成り上った下剋上の代表的人物と言われていましたが、現在では、備中伊勢氏の出身で、室町幕府の高級官僚(申次衆)を務めた人物であることがわかってきました。宗瑞は伊豆の韮山城を居城とし、小田原城は婀男の氏綱が在城していました。また、北条と名乗ったのはニ代氏綱からです。」北条氏直 Hojo Ujinao北条氏は宗瑞(早雲)、氏綱、氏康、氏政、氏直と五代約100年続きましたが、その間、家督相続をめぐる争いもなく家臣の謀反もなかった戦乱の世においては稀有な一族です。氏直は小田原合戦で開城にあたり、自らの命と引き換えに家臣たちの助命を申し出たといわれます。秀吉により助命され、高野山に蟄居の後、大名に復すも天正19年( 1589 )に没しました。」「空から見た小田原城 Aerial Photograph of Odawara Castle小田原城の登城は、ニの丸東堀を馬出門土橋を渡り馬出門を通って、馬屋曲輪から住吉橋を渡り、銅門を通りニの丸主部に至ります。さらに天守(閣)へは、常盤木坂をのぼり常盤木(九輪)橋を渡り、常盤木門をくぐり本丸へと登ります。これが江戸時代の正式な登城ルートです。昭和58年から本格的にスタートした史跡小田原城跡の史跡整備は、この大手筋の登城ルートの歴史的景観の復元を目指して進められてきました。」「国指定史跡 小田原城」の手前にあるこのマークは「文化財愛護シンボルマーク」。このマークは、文化財愛護運動を進めるため、昭和41年(1966)に定められた。日本建築の重要な要素である斗きょう(柱の上部で軒を支える部分のこと)をイメージしており、これを3つ重ねることで、文化財を過去・現在・未来にわたって伝承していくという愛護精神を表しているのだ と。「小田原城南曲輪西南二重櫓」案内板。「小田原城南曲輪西南二重櫓近代以降の小田原城小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治34年(1901)には、二の丸内に御用邸が建設されました。しかし、大正12年(1923)の関東大震災では石垣が崩壊し、壊滅的な被害を受けました。御用邸は廃止され、二の丸堀北側一帯や住吉堀などが埋め立てられました。昭和4年(1929)、銅門一帯には、小田原高等女学校(小田原城内高等学校)や町立第二尋常小学校(城内小学校→三の丸小学校)が建設されました。昭和初期には、二の丸の石垣などが復旧されましたが、第二次大戦後は、本丸周辺には動物園や遊園地が、御用米曲輪には市営小田原城が設置され、城跡としての景観は失われていました。小田原城の史跡整備小田原城は、昭和13年(1938)に初めて国史跡に指定され、本丸・二の丸の大部分と八幡山古郭や三の丸外郭、総構の一部が国の史跡になっています。昭和35年(1960)に天守閣、昭和46年(1971)に常盤木門が復興されましたが、史跡内に多くの施設が残ったままでした。昭和51年より市庁舎をはじめとした施設移転が進められ、昭和58年(1983)からは、本格的に史跡整備に取り組み、二の丸住吉堀の発掘調査に着手した。平成2年(1990)には、住吉堀石垣と住吉橋が復元され、平成9年に銅門桝形が復元されました。そして、平成21年(2009)には、馬出門が復元され、近世小田原城の大手筋からの登城ルートの歴史的景観がよみがえってきました。小田原城は、北条氏の中世城郭と江戸時代の近世城郭の複合的な城郭として知られていますが、本丸・二の丸の範囲は近世城郭としての整備が進められています。一方、丘陵部に展開する戦国時代の城郭遺構は、八幡山古郭東曲輪や三の丸外郭の清閑亭土塁、新堀土塁など史跡指定が進められ、史跡公園として公開されています。史跡小田原城跡の主な整備事業一覧 昭和28年(1953) 天守台石垣復旧 昭和35年(1960) 天守閣復興 昭和46年(1971) 常盤木門復興 昭和62年(1987) 住吉堀復元工事開始 平成02年(1990) 住吉堀・住吉橋復元工事完了 平成07年(1995) 銅門枡形石垣復元整備工事完了 平成09年(1997) 銅門復元工事完成 平成11年(1999) 本丸東堀遺構表面表示 平成18年(2006) 馬出門枡形石垣復元整備工事完了 平成21年(2009) 馬出門枡形門・土塀整備工事完了 平成23年(2011) 馬屋曲輪修景整備事業完了」「南曲輪西南二重櫓横浜の英字新聞「ザ・ファーイースト」明治4年(1871)12月1号に掲載された南曲輪西南二重櫓の写真です。廃城時には、屋根瓦や白壁も崩落し、荒れ果てた姿でした。正面の石垣は、二の丸南堀と南曲輪の石垣ですが、大正12年(1923)の関東大震災によって崩壊し、昭和初期に復旧されたものです。」「馬出門と銅門」と「小田原城天守閣」「馬出門と銅門Umadashi-mon Gate and Akagane-mon Gate小田原城への登城は、馬出門土橋を渡り馬出門を通って、馬屋曲輪から住吉橋を渡り、銅門を通りニの丸主部に至ります。昭和58年から本格的にスタートした史跡小田原城跡の史跡整備は、この大手筋の登城ルートの歴史的景観の復元を目指して進められてきました。」「小田原天守閣Donjon 0f Odawara Castle小田原城天守閣は現存する天守ひな型模型や絵図などを基に昭和35年に鉄筋コンクリート造で外観復元されました。4階展望室からは相模湾が一望でき、天気の良い日には房総半島まで見ることができます。」「江戸時代末期南曲輪一帯Illustration map of Odawara Castle during Edo period.南曲輸には西南隅(図書館側)と東南隅(郷土文化館)に2楝の櫓が建っていました。この櫓は千鳥破風や石落しを備えた優美なニ層櫓でした。看板が立っている藤棚一帯は堀の一部を埋め立てた場所に位置します。」「小田原城 南曲輪 南堀(蓮池)」にはカルガモの姿が。「報徳二宮神社」の「表参道大鳥居」を見る。「報徳二宮神社」。そして坂を上り「報徳博物館」を訪ねた。残念がら、水、木、金曜日は閉館と。この日は9月20日(金)であった。次回に訪ねることとし外からの写真を撮る。「公益財団法人 報徳福運社 報徳博物館」入口を道路脇から。「二宮尊徳就学の地二宮尊徳(金次郎)は、若いころ小田原藩家老の服部家(ここから二〇〇ほど上がった所)に若党として奉公をしていました。そして、漢学塾へと通う同家の若様のお伴をして、小峰坂と呼ぶこの前の道をいつも通っていました。また、この博物館のある場所は、当時、近藤某という書物好きな藩士の屋敷があり、尊徳は、時々、ここに寄って書物を借りて読んだということです。こうして、尊徳は学問の幅を広げていきましたが、報徳博物館はこうした縁りの場所に建っております。 報徳博物館」「報徳博物館」。さらに「小峰坂」と呼ぶ坂を上って行った。「国登録有形文化財 小田原別邸料理 清閑亭」案内板。前方が「清閑亭(せいかんてい)」への入口。「小田原別邸料理 清閑亭」と。しかし未だ「準備中」と。時間は10:41。開店は11時からと。「清閑亭(黒田長成(くろだながしげ)別邸)」案内板。「清閑亭は黒田長成侯爵の別邸だった邸園(邸宅と庭園を合わせた造語)です。明治39年(1906)、黒田家が別莊を造営。その後、平成17年(2005)に建物が国登録有形文化財となり、翌年には敷地が国の史跡に指定されました。現在は回遊ネットワークの拠点として公開しています。清閑亭の特徴は、格式ばらない近代数寄屋建築の建物と、その座敷から見ることができる相模湾の大らかな眺望にあります。往時の主が楽しんだ、小田原ならではのゆったりとした時の流れを、今でも体感することができます。」「清閑亭」は明治39年(1906年)頃に造営された数寄屋風書院造りの建物。明治から昭和初期にかけて活躍した政治家・黒田長成侯爵の旧別邸です。黒田侯爵は、豊臣秀吉にもっとも頼りにされ、天才軍師と呼ばれた「黒田官兵衛」の流れを汲む黒田家の十三代目当主です。清閑亭の立地する場所は、旧小田原城三の丸外郭土塁の南向き傾斜地に位置しており、400年前の史跡の上に118年前の国登録有形文化財の建造物が建つ歴史的に大変価値の高い建物となっております。また、晴れた日は母屋から真鶴半島や大島が浮かぶ相模湾や、箱根山を一望できます と。「小田原邸園散歩 周辺案内図」。清閑亭周辺は「天神山(てんじんやま)」と呼ばれる尾根の先端部で、小田原の街や相模灘(さがみなだ)を一望できる眺望に恵まれた場所で、ほかに皇族の閑院宮(かんいんのみや)家、山下(やました)家(旧山下汽船創業者)、北原白秋(きたはらはくしゅう)など多くの文化人や政財界人、軍人が邸宅や別邸・別荘を構えていたとのこと。以下 Wikipediaより抜粋・山下亀三郎 1867年5月12日〈慶応3年4月9日〉 - 1944年〈昭和19年〉12月13日)は、日本の実業家。 勲一等。山下汽船(現・商船三井)・山下財閥の創業者。勝田銀次郎、内田信也と並ぶ 三大船成金の一人。・秋山真之 1868年4月12日〈慶応4年3月20日〉 - 1918年〈大正7年〉2月4日)は、日本の海軍軍人。 最終階級は海軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功三級。勲二等旭日重光章、功三級 金鵄勲章を授与された。通称は淳五郎(じゅんごろう)・瓜生外吉 安政4年1月2日(1857年1月27日) - 昭和12年(1937年)11月11日)は、日本の海軍軍人。 最終階級は海軍大将。位階は正二位男爵。 石川県出身。妻は瓜生繁子(旧姓永井)。嵯峨源氏渡辺氏流瓜生氏の流れを汲むという。・閑院宮載仁親王 1865年11月10日(慶応元年9月22日) - 1945年〈昭和20年〉5月20日)は、日本の皇族、 陸軍軍人、日本赤十字社総裁、東京地学協会総裁(1895年 - 1945年)、日露協会総裁 (1911年 - )。 伏見宮邦家親王第16王子。称号・階級並びに勲等功級は元帥陸軍大将大勲位功一級。 世襲親王家の閑院宮第6代当主。 1900年以後から第二次世界大戦終了直前まで皇族軍人として活躍。親王宣下による親王では 最後の生存者であり、また大日本帝国憲法下最後の国葬を行った人物である。 貴族院の創設に伴って皇族議員となり薨去まで54年6ヶ月間務めた。これは貴族院のみならず 参議院まで含めても最長在任記録である・田中光顕 1843年11月16日〈天保14年閏9月25日〉 - 1939年〈昭和14年〉3月28日[2])は、 日本の政治家。栄典は従一位勲一等伯爵。初名は浜田辰弥。通称を顕助、号は青山。「清閑亭正面」。黒田 長成(くろだ ながしげ、慶応3年5月5日(1867年6月7日) - 昭和14年(1939年)8月14日)は、日本の政治家で華族(侯爵)。号は桜谷。父は筑前福岡藩の最後の藩主黒田長知。母は側室・隅田氏。妻は公爵島津忠義の娘清子。後嗣は嫡男・黒田長礼。黒田家17代目の当主である。位階は従一位、勲等勲章は勲一等旭日桐花大綬章。1894年から1924年までの約30年間、貴族院副議長を務めた。1905年、副島種臣死去の後を継けて、東邦協会の会頭となった。1908年12月11日、麝香間祗候となる。1924年に枢密顧問官、議定官に任じられ、以後終生その官にあった。1939年に薨去。享年73。墓所は、東京都港区南青山の青山霊園。毎年、8月14日の命日には小田原市にある旧黒田家別邸清閑亭にて、長成侯爵を偲ぶ桜谷忌が催されている とウィキペディアより。「清閑亭中庭」。入口にあった風鈴の音が暑さを和らげてくれたのであった。近づいて。「国指定史跡 小田原城跡 三の丸土塁(清閑亭土塁)」案内板。「国指定史跡 小田原城跡 三の丸土塁(清閑亭土塁)史跡小田原城跡 三の丸土塁(清閑亭土塁)について清閑亭土塁は小田原城三の丸土塁の一部で、天神山丘陵の尾根が平地部に接する部分にあたり、この地形を利用して土塁や空堀を巧みにめぐらし、城の出入口である虎ロも設けていたようです。北側には城の中心域を控える一方、南側には城下町が広がっており、戦国時代から重要な位置にあったことがうかがえます。この清閑亭土塁は平成18年1月に国指定史跡に指定されました。小田原城八幡山古郭・総構について戦国時代の小田原城は現在の城址公園部分ばかりでなく、さらに西側の県立小田原高校付近までをその中心域としており、この区域を「八幡山古郭」「八幡山遺構群」と呼んでいます。現在も空堀の跡が地表で観察できる場所があるほか、発掘調査で堀跡や井戸跡、石積みを伴う道路の跡が確認されたところもあります。総構(そうがまえ)は天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めに備えて築かれた小田原城の一番外側の守りで、全周約9kmの土塁と空堀で城下町を囲んでいます。これにより小田原城の面積は約3.48平方キロメートルにも達し、全国有数の規模を誇る巨城となりました。総構は現在でも町のあちこちにその痕跡をとどめていますが、特に西部丘陵地帯は保存状態がよく、北条氏による築城の技術を観察することができます。」「国登録有形文化財 清閑亭(旧黒田長成別邸)国登録有形文化財 清閑亭(旧黒田長成別邸)について清閑亭は貴族院副議長・枢密顧問官などを務めた公爵(慶応4年(1867)・昭和14年(1939))の小田原別邸として明治39年(1906)に設けられました。現在、数寄屋風書院造の母屋と海への眺望に優れた庭園が残されています。建物は木造平屋建(一部2階)入母屋造りの和風建築で、母屋は数寄屋書院造となっており、大正初期頃の様式を備え、かっての邸園(邸宅・庭園)の趣を伝えています。明治40年(1907)には隣に閑院宮別邸が設けられ、宮家と黒田家とは交流を深めていました。その後、昭和21年(1946)から昭和38年(1963)までは東京国立博物館長などを歴任した浅野長武が住まい、東洋学者ルネ・グルッセ、松永安左ヱ門ら著名人も数多く訪れました。母屋は平成7年(2005) 7月に国の登録有形文化財となり、平成22年(2010) 6月から小田原邸園文化の交流拠点として公開されています。小田原の邸園(邸宅・庭園)について小田原では明治22年(1889)に本町四丁目の海岸に伊藤博文が別邸滄浪閣を建設したことや、明治33年(1900)に小田原城跡に御用邸が設けられたことなどが契機となり、戦国の雄北条氏や豊臣秀吉が築いた石垣山一夜城の遣る小田原を好んだ政財界人・文人の邸園が数多く開かれました。特に広大な小田原城の遺構群は北条氏や豊臣秀吉などの英雄をしのばせる場所として好まれ、土塁からの眺めや土塁と堀の起伏をいかした邸園がつくられていきました。小田原城周辺では、南町や板橋に多く別邸がありましたが現在も清閑亭をはじめ、南町の田中光顕伯爵別邸(現・小田原文学館)や板橋の松永安左ヱ門別邸(現・小田原市郷土文化館分館松永記念館)などが保存・公開されています。」黒田長成(1867 ~ 1939) 出典:国立国会図書館より。清閑亭正面。移動して。暖簾には「すっぽん 水炊き 小田原別邸料理 清閑亭」と。小田原駅までの無料送迎車「お駕籠」も出番待ち。城下町小田原の風情を感じさせる武士や貴族の乗り物「御駕籠(おかご)」をイメージした造りとなっており、環境にも配慮した電気自動車であると。「清閑亭」パンフレットの一部。「清閑亭」間取り図をパンフレットから。東棟内部の写真をネットから。庭から東棟2階の見える写真をネットから。2階からの光景をネットから。メニュー「鶏の水炊き」・「すっぽんまる鍋」をパンフレットから。ソフトドリンク・かき氷・冷製麺 メニュー。「清閑亭」を後にして、横の急な坂道を上って行った。「清閑亭周辺の縄文時代の遺跡」案内板。「現在地は、箱根外輸山から小田原市街地に伸びてきた丘陵の先端部付近に位置し、周辺は天神山と呼ばれています。天神山の名は、この丘陵の南側にある山角天神社に由来し、天保年間に書かれた「相中雑志」に、初めて確認することができます。天神山周辺で遺跡の存在が広く知られるようになったのは、昭和36年(1961)の旧県立小田原城内高等学校(城内高校)の建設工事の時でした。今からおよそ5,500 ~4,000年前の縄文時代中期・後期の土器や石器が採集されています。その後、昭和63年(1988) 2月の城内高校外側の擁壁補強工事の際に、天神山遺跡第I地点の発掘調査が行われました。縄文時代中期初めの五領ヶ台式土器が多く見つかり、人びとが天神山周辺に定着し始めたことを物語っています。天神山周辺での人びとの活動は古く、現在地から北西に約220mの天神山台遺跡の調査では、約15,000年前の縄文時代草創期の石器が見つかっています。出土した石器は、神子柴型石器と呼ばれるタイプで、長さ14.1cm、幅5.5cm、厚さ4.4cm、重さ399gと重量感があり、刃の部分を局所的に磨いて仕上げていることが特徴的です。また、天神山台遺跡の調査では、石を囲って構築した縄文時代中期の石囲炉も複数見つかっています。もともとは竪穴住居跡の内部に造られていたものと考えられます。」「清閑亭」土塁。「清閑亭」の立地する場所は、旧小田原城三の丸外郭土塁の南向き傾斜地に位置しており、天神山尾根筋の先端に位置する「清閑亭」には三の丸の土塁が残されていた。現在では、清閑亭敷地内とアジアセンター跡地内に残る土塁が国指定史跡として保存されており、当時の面影を残しているのだ と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・・
2024.10.07
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「小田原三の丸ホール」を訪ねたあとは「お堀端通り」を南に向かって進む。「めがね橋・馬出門土橋」と「馬出門」。兜の形をした「小田原三の丸ホール」を振り返る。堀はここで西に廻り込む。地名碑あった。「隅屋敷(すみやしき)」碑。「小田原城の二の丸と三の丸の堀に扶まれた場所は、江戸時代にはの重臣たちの、長方形の区画の屋敷が並んでいた。しかし、南西角のこの一角だけは三の丸の堀が屈折するため方形にならず、三角形の土地になり、屋敷地としては軽視された。そのため稲葉氏が城主の頃には、細分して足軽の住む割屋敷とした。大久保氏時代の文政年間(一八一八 ~ 二九年)には五軒ほどの藩士の住まいがあった。」別の説明では小田原城の二の丸と三の丸の堀に扶まれた場所は、江戸時代には藩の重臣屋敷で占められ、ほぼ長方形の区画の屋敷が並んでいました。しかし、南西角のこの一角だけは三の丸の堀が屈折するため屋敷は方形にならず、三角形の屋敷となりました。後期大久保氏時代(1686 ~ 1871年:大久保忠隣のひ孫忠朝が下総佐倉城(千葉県)から移って小田原城主となり、その後10代で明治維新を迎えるが、この約180年間の大久保氏のこと)になると、ここを区分けして割屋敷とし、文政年間(1818 ~ 29年)には5軒の藩士の住まいがありました。藩主稲葉氏の「永代日記」の明暦2年(1656)の項に「角屋敷」とあり、「武家屋敷を二軒に割った」とあります と。「隅屋敷」はここ。「お堀端通り」を右折して、再び「めがね橋・馬出門土橋」を振り返る。朱の欄干の「めがね橋・馬出門土橋」をズームして。「小田原城と小田原用水」案内板。「小田原城と小田原用水~小田原用水の歴史~小田原用水は、小田原北条氏の時代に城下の飲み水のために作られた上水道設備です。箱根板橋の取水口から小田原城下を通り、浜町の江戸口見附で城外に流れ出るこの用水のルートは小田原市内の沖積低地(ちゅうせきていち)の自然の勾配を巧みに利用したものと推定されます。小田原用水は現在も小田原城のお堀に流れ込んでいます。」小田原用水のルート図。青◯が小田原用水。そして左手にあった白亜の建物は?なんと、「小田原市立三の丸小学校」!!お堀越しに、7月に訪ねた「二の丸観光案内所」を見る。移動して。「小田原市立三の丸小学校」の正門。城下町の景観と環境への調和をめざした瓦屋根の小学校。歴史的景観を残す城下町との調和を第一とし、白壁と日本瓦のイメージを外観に取り入れた。腰屋根を有する大屋根の折り合いや、床・壁に木を使ったオープンスクール形式の教室や格子窓は和風を強調している。建物周辺を巡る築地塀と細流は、夜のライトアップにより城下町の夜景を彩っている と。構造/規模 RC造 / 地下1階、地上4階延床面積 9,994㎡竣工年月 1995年12月受賞歴 ・1996年 神奈川県建築コンクール優秀賞 ・1997年 都市景観大賞 ・1999年 公立学校優良施設・文教施設協会賞枝がお堀の水を飲むが如きの桜の老木。「藤棚臨時観光バス駐車場」。現在駐車場になっているこの場所は、お掘りがクランク状に延びていた角なのであろうか?小田原城のお掘り図。さらに進むと、ここが「小田原市立三の丸小学校」の通用門?三の丸小学校はかつての藩校集成館跡。通用門の前には球状の石製モニュメントが。噴水になっているようであったが。「都市景観大賞受賞三の丸小学校周辺地区当地区は、小田原城三の丸として現在もお堀や土塁、箱根ロ門跡などが往時の面影を色濃く残しており、また、幸田・三の丸景観形成地区の一角に位置しています。このような環境のなかで、市民と協働で進めてまいりました三の丸小学校建設並びに周辺道路整備事業は、周囲と調和した歴史的雰囲気の感じられる都市空間づくりが評価され、平成九年度の都市景観大賞を受賞いたしました。ここに、この栄誉を将来に伝え、小田原がますます魅力ある都市になることを祈念して、この碑を設置いたします。平成九年十月六日 小田原市長 小澤良明」「藤棚」交差点。「小田原文学館 600M」と。「近代日本の礎を築いた人々の足跡を訪ねて小田原邸園散歩かって小田原に、近代日本の礎を築いた人々が多く住まいました。維新後の日本に民主主義を根付かせた政治家、国防に生涯を捧げた軍人、さりげない自然の営みを詠んだ詩人、我流を極め人々をもてなした茶人。だれもがこの地の温暖な気候風土を愛し、上質な生活を営みました。かれらの足跡を訪ね、今も変わることのない小田原の輝きを見つけてください。」「小峯橋(御茶壺橋)」と「小田原市郷土文化館」。「小峯橋(御茶壺橋)この橋は本来木橋で、正式名称は「小峯橋」と言います。現在では石橋に架け替えられ、「御茶壺橋」という名でも親しまれています。「御茶壺橋」という名前は、江戸時代に宇治(京都府)から将軍家にお茶を献上する際の御茶壺道中と呼ばれる行列に由来します。行列は、往路は江戸から宇治まで東海道を通り、空の茶壺と購入代金が運ばれました。そして、お茶を詰めた復路の道中は、お茶が湿気ないように河川の少ない中山道を通って江戸まで戻ったとされます。小田原城には、この橋を渡った「御茶壺曲輪」に空の茶壺を保管する蔵があったことから、この橋が「御茶壺橋」と呼ばれるようになったと言われています。」「小峯橋(御茶壺橋)」を正面から。「第33回 小田原ちょうちんまつり」案内幟10月14日(月・祝)12時~20時15分「小田原城 花 案内図」。国指定史跡 小田原城趾「小峯御鐘ノ台大堀切」&「三の丸外郭新堀土塁」案内板。戦国時代の小田原城は「難攻不落」と言われ、上杉謙信や武田信玄の城攻めを食い止め、豊臣秀吉も攻めあぐねた堅城でした。ここから徒歩20分ほどの場所に、北条氏による城郭づくりの知恵が見られる場所があります。「小田原総構マップ」をニの丸観光案内所でお配りしていますので、お気軽にお立ち寄りください。なお、新堀土塁は10時から15時までの開園。大堀切は街灯がありませんので、明るいうちのをおすすめします。」「小田原城 南曲輪 南堀(蓮池)」。「南堀の大賀ハススイレン目ハス科学名: Nelumbo nucifera英名: Lotusハスの和名は、万葉時代に花托の形がアシナガバチの巣に似ていることから、「蜂単(ハチス)」と名付けられ、のちに「チ」が省略されて「ハス」となりました。南堀に群生するハスは、1979年(昭和54年)に大賀ハスを株分けして繁殖させたたものです。花・葉とも高さ1 ~ 2 rnに成長し、夏になると直径20cm程の花が咲きます。根茎は泥の中に節の多い蓮根(レンコン)を作ります。大賀ハスは、1951年(昭和26年)に千葉市検見川の落合遣跡で発掘された、今から2000年以上前のハスの実から発芽・開花したハスです。植物学者の大賀一郎博士の手によって開花したこのハスは、博士の姓をとって「大賀ハス」と名付けられました。」大賀ハス。「小田原城三の丸 箱根口周辺の遺構」案内板。「小田原城三の丸 箱根口周辺の遺構国道1号線(東海道)からお茶壷橋にかけての一帯は、江戸時代には小田原城三の丸の出入口の一つである「箱根口」とそれに関連する遺構があった場所です。この付近一帯ではたびたび発掘調査が行われ、戦国時代の堀・建物・水路跡や江戸時代の堀跡など、時代の異なった各種の遺構が発見されました。スポ-ツ会館敷地内では、戦国時代の水路跡や江戸時代のは17世紀中頃に造られたクランク状に屈折した堀<箱根ロ入堀)などが発見されました。この堀は堀幅15~20メートル、深さ6メートルほどの規模で、江戸時代前期の小田原城の絵図である「正保図」(一六四四~一六四七年頃成立)には描かれていますが、その後の絵図には見られないことなどから、延宝年間(一六七三~一六八〇)に行われた箱根ロ門の改修工事において埋め立てられたものと考られます。水路は石組みで東西方向に延びるもの(ー号水路)と南北方向に延びるもの( 2号水路)がありました。また、スポーツ会館と三の丸小学校の間の市道の下にも、戦国時代の16世紀中ごろ、後北条氏によって造られた堀(1号堀)や、後北条時代の終りごろにあたる16世紀末に埋め立てられたと考えられる東西に延びる堀( 2号堀) が発見されました。この堀は後北条氏の堀の特徴である、堀の中に衝立のように仕切りを設ける障子堀」といわれる形式の堀です。更にスポーツ会館から三の丸小学校にかけて、複雑に折れ曲がる堀 (3号堀)が発見されました。箱根ロ入堀より古く、江戸時代初期にあたる17世紀初頭に作られたと考えられるもので、幅約16メートル、深さ約5メートルの規模で確認されました。この堀は瓦を含む大量の土砂によって埋め立てられていることから、慶長19年(一六一四)に小田原城主、大久保忠隣が改易(領地を取りげられること)になった際に徳川家康・秀忠親子によって埋め立てられたものと考えられます。このようにスポーツ会館や三の丸小学校周辺からは戦国時代や江戸時代の様々な遺構が発見されたことにより、延宝年間の箱根ロ周辺の大規模な改造までの間に、この付近の土地利用や城の縄張りが何度となく改変していたことが分かりました。スポーツ会館敷地内には、箱根ロ入堀や1号・2号水路の遺構の位置をレンガや玉石などで表示しています。また箱根ロ門の東櫓台跡と桝形土塁の一部を整備し開放しています。」発掘調査等で明らかにされた箱根口周辺の遺構。左上:保図(江戸時代前期の箱根口付近)左下:文久図(江戸時代末期の箱根口付近)右 :小田原城三の丸全体図上記の「小田原城三の丸全体図」を回転し北を上にしてみました。昔の堀と現在の堀の違いが理解できたのです。「箱根口門跡」に向かいながら、再び「小田原市立三の丸小学校」を見る。左手にあったのが、「箱根口門跡」。小田原城三の丸の出入り口の一つである箱根口。今はベンチのある緑地に石垣を積んだ東櫓台と枡形の土塁の一部が残されていた。このあたりは、戦国時代の堀や建物などの遺構も発掘されるなど、昔から小田原城の要といえる場所である と。東櫓台の石垣が残存しているのであった。「箱根口門跡」。石垣を積んだ東櫓台の奥には枡形の土塁の一部が残されていた。「箱根口門」はここ。現地案内板より、小田原城絵図(文久図)より、幕末の箱根口。来た道を「藤棚」交差点に向かって引き返す。左手にあったのが「三の丸土塁」の一部が残されてた。箱根口付近、小田原スポーツ開館南側に残る三の丸土塁。そして「藤棚」交差点の角にあったのが「左 報徳二宮神社」案内石柱。右側面には「右 小田原城址 入口」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.06
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小田原三の丸ホールでは、ホワイエ(foyer)と呼ばれる観劇の幕間などに休憩できる場所を、ホールの利用がない日に開放していると。大ホールホワイエでは、2階と3階から小田原城を望むことができるほか、認定NPO法人アール・ド・ヴィーヴル制作作品(寄贈品)を見ることができるのであった。こちらは「小ホール ホワイエ」。ここ小ホールホワイエでは、若手の小田原箱根木工作家9名による作品「千年物語 - 小田原の木」(寄贈品)を楽しめるのであった。「千年物語 - 小田原の木2021年9月、小田原三の丸ホール記念作品。何十年にもわたって市民の集う公共の場において、1000年以上の歴史を持つ木工の産地でも小田原の技を未来へ伝えていくため、挽物、漆、指物、寄木細工、木象嵌、玩具等の様々な木工業に従事している若手作家職人達が集結し、その技を競い一つの作品に作り上げていくプロジェクトとして千年物語を制作しました。」作品が並ぶ。「千年物語 - 小田原の木9名の作家職人たち太田 憲 寄木千舟 木工飯沼孝彦 漆髙橋秀人 木象嵌士清水 寛 木工露木清高 寄木小林じゅんの 小指物小島裕平 寄木鈴木知子 木工轆轤」奥右側。右から。それぞれの作品の作者名が特定できなかったが。中央。右から。飯沼孝彦 漆 か。左手前。右から。千舟 木工 か?再びギャラリー回廊のポスター。柳屋三三独演「プレミアムあしがら寄席」2024年10月5日(土) 13:00~「昭和歌謡コンサート」2024年11月29日(金) 南足柄市文化会館 小ホール 14:00~。「演芸写真家 橘蓮二 写真展」2024年2月20日(火)~25日(日) 9:00~21:00。「新日本フィルハーモニー交響楽団 ニューイヤー・コンサート2025」。2025年1月5日(日) 14:00~そして大ホールホワイエでは、2階と3階から小田原城を望むことができるほか、認定NPO法人アール・ド・ヴィーヴル制作作品(寄贈品)が展示されていた。「共感 Empathy」。認定NPO法人アール・ド・ヴィーヴル 代表 萩原美由紀今回、参加したメンバーは入れ替わり立ち代わりさまざまな場所から自分の描き方でかなりわがままに表現するのですが、不思議なことに出来上がると、何故なのか統一感があって24人の合作だとは見えないほど調和があります。これぞ存在に、描くことに「共感」しながら表現したからだと思います。全部で九枚の作品を描いたのですがそこからベストな組み合わせ考えて三枚をセレクトしました。新しい市民ホールに障害があるアーティストの作品が常設展示されるなんで、本当に嬉しい。これは全国的に見てもかなり珍しいことです。それも幅6mのかなり大きいサイズのキャンバス作品。これからの社会を予感させる象徴になることと祈ります。 アートディレクター 中津川浩章外の風景が、表面のガラスに映り込んでしまっていたが・・・。斜めから。再び「小田原三の丸ホール」のシンボルマーク「結」。そして再びギャラリー回廊を奥に進む。小田原城天守閣特別展出張展示「ゾウがいた城」令和5年12月に惜しまれつつも閉園した小田原動物園の歴史を振り返る小田原城天守閣特別展「お城に動物園があった-小田原動物園の26738日」の関連展示があった。「かって、小田原城には動物園がありました。天守閣がそびえる本丸には、動物舎が建ち並び、のべ195種類、最盛期には346点の動物が飼育され、おおくの観光客でにぎわいました。なかでも、小田原動物園のアイドルインドゾウのウメ子は大人気で、小田原城はゾウに会える城として知られていました。」「小田原動物園小田原動物園は、1950年1 0月城跡で開催した「小田原こども文化博覧会」と同時に開園しました。日本動物園水族館協会に加盟し、本丸の約1万m2の敷地に38棟の施設を備え、365日無休・入場無料の動物園として親しまれましたが、敷地が国指定史跡となって拡充が困難となり、順次縮小して、2023年12月に閉園となりました。」「お城で暮らした動物たち哺乳類では、霊長目のニホンザル・リスザル・シロテテナガザル、食肉目のホンドキツネ・ニホンツキノワグマ・アナグマ・ライオン、鰭脚目のオットセイ・カリフォルニアアシカ、長鼻目のインドゾウ、偶蹄目のハナジカ、齧歯目のオグロプレーリードッグなど、のべ50種が飼育され、18種312頭が小田原動物園で繁殖しました。」「お城で暮らした鳥たち鳥類では、ツル目のオオヅル、コウノトリ目のシロトキ、フラミンゴ目のフラミンゴ、ガンカモ目のオシドリ、ワシタカ目のチョウゲンボウ、キジ目のインドクジャク・ペニジュケイ、ハト目のキジバト、オウム目のペニコンゴウインコ、カッコウ目のオウカンエボシドリなど、のべ139種が飼育され、30種382羽が小田原動物園で繁殖しました。」「インドゾウ ウメ子 Ⅰ1950年8月、ウメ子はタイ国から商社を通じて横浜港に到着。はじめ上野動物園で慣らした後、9月29日に小田原動物園に来園しました。来園時は推定年齢3歳、体長約120cm・体重約450kgほどでしたが、還暦をむかえるころには体長294cm・体重約3tにまで成長。ときどき観光客に鼻水をあびせるいたずらものでした。」「インドゾウ ウメ子 Ⅱウメ子は国内最長寿のゾウとなり、市民をはじめ子どもから大人まで多くの人々に愛され、天守閣とのツーショットは小田原を象徴する一枚となりました。小田原に夢を与えてくれたウメ子は、2009年9月に推定年齢62歳(在園59年)で亡くなり、お別れに1万人もの人々が訪れ、献花のため近隣の花屋から生花が消えたといいます。」「ライオンライオンは1959年に入園した京子と浜男、フジ子をはじめ、1999年まで飼育されていました。多摩動物公園から寄贈され、1978年に入園した雌ライオン(タンちゃん)は、6頭の子宝にめぐまれ、ペアの雄に1989年に先立たれてのちは小田原動物園最後のライオンとして、1999年に22歳8か月で亡くなるまで過ごしました。」「ニホンツキノワグマツキノワグマは1950年からのスターティングメンバー。1978年入園の雄は山形生まれ、生後3か月で母を密猟で殺され、引取り先のホテルで客引きをさせられ姉を亡くします。母親に育児放棄され餓死寸前で保護された雌ととに小田原動物園が受入れを表明、雌は1998年、雄は2001年まで、小田原動物園で穏やかに過ごしました。」「ニホンザル(ホンドザル)タイワンザルに代わり、1976年小田原動物園に入園したニホンザルは、瀬戸内海の小豆島(香川県)に生息した一群が、日本モンキーセンターの斡旋で多摩動物公園に入り、その一部(雄2・雌3 )が譲渡され小田原にやってきました。この群が世代交代しつつ、雄3頭・雌4頭が2023年12月14日の閉園まで飼育されていました。」そして最後に大ホールを覗かせていただきました。「階席の最後列まで美しく音が届くように設計された大ホール。壁面の音響庇(ひさし)は小田原産の木で音をまろやかに。タイルは職人の手作業によってランダムな角度で客席に音を届けます。異素材を合わせることにより、客席に豊かな音色をお届けすることができます。映像は、バック投影方法を採用。照明等のハレーションを気にすることなく、大画面でお楽しみいただけます。」と。正面に、緞帳「希望」 作:芳澤ー夫。客席数 1,105席(うち車いす席 6席、親子室 6席) [1階席] 686席(うち車いす席 4席)オーケストラピット 104席分 [2階席] 419席(うち車いす席 2席)横からも。「小田原三の丸ホール」を楽しんだ後は、外に出て「小田原市観光交流センター」に向かう。手前には、円形の噴水広場があったが、水は出ていなかった。ネットから。「小田原市観光交流センター」。内部には木製テーブルが並んでいた。箱根名物寄木造他の土産物が並んでいた。こちらにも。「CAFE SANNOMARU」。ヒノキのボールプールキッズスペースでもあり、良い香りで癒やされるとのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.05
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「お堀端通り」を堀に沿って進むと左手にあったのが「小田原三の丸ホール」。令和3(2021)年9月5日に開館。正式名称は小田原市民ホール(おだわらしみんホール)。同年7月に59年間多くの市民に親しまれつつ閉館した小田原市民会館の歴史を受け継ぐ、新しい文化・芸術拠点。「小田原三の丸ホール」掲示板。皆さんに親しまれ多くの人が集う施設になるよう、小田原らしく親しみやすい愛称を募集し、439件の応募があったと。応募作品の中から、審査の結果、愛称は「小田原三の丸ホール」に決定。愛称の由来は、小田原市は城下町として栄え、今回の市民ホールの建物は、その小田原城三の丸に位置することから と。小田原三の丸ホールが、第64回神奈川建築コンクール 一般建築物部門 優秀賞を受賞。小田原市のシンボルである小田原城を目の前に望む立地を生かし、兜を連想させる落ち着いた外観が、まちに溶け込み、一体感を生んでいる。設計者・仙田 満氏。館内マップ。階数:地下1階、地上4階1F フロアーマップ2F フロアーマップ3F フロアーマップお掘り端通り側の地上1F➡️2Fへのエスカレーター。2F:大ホール、小ホールへの案内。「ようこそ小田原三の丸ホールへ」。2F大ホールホワイエより小田原城「馬出門」、「銅門」、「天守閣」を見る。小田原城「天守閣」をズームして。これがなんと!!「小田原市立三の丸小学校」。城下町の景観と環境への調和をめざした瓦屋根の小学校歴史的景観を残す城下町との調和を第一とし、白壁と日本瓦のイメージを外観に取り入れた。腰屋根を有する大屋根の折り合いや、床・壁に木を使ったオープンスクール形式の教室や格子窓は和風を強調している。建物周辺を巡る築地塀と細流は、夜のライトアップにより城下町の夜景を彩っている。構造/規模 RC造 / 地下1階、地上4階延床面積 9,994㎡竣工年月 1995年12月受賞歴 1996年 神奈川県建築コンクール優秀賞 1997年 都市景観大賞 1999年 公立学校優良施設・文教施設協会賞2F ギャラリー回廊に向かう。建物の2か所のメインの出入口をつなぐ東西通路に作品を飾ることができるギャラリースペース。気軽にアートを感じることの出来るスペースであった。「ご挨拶小田原三の丸ホールは、今年2024年9月に、開館から三周年を迎えます。っきましては、これまでに行った記念事業や文化事業を皆様と一緒に振り返るべく「小田原三の丸ホール開館三周年記念展」を開催いたします。本展ては、開館にあわせて制作され親しまれているシンボルマーク(原書)や緞帳(原画レプリカ)、記念品のほか、2023年9月から約1年間実施した文化事業のメインビジュアルの原画、公演、写真、地図等で、その魅力をご紹介いたします。また、これから行う公演情報も展示しておりますのて、今後当館に足を運ばれる際のご参考にしていただければ幸いてす。最後になりましたが、作品制作を担当していただいた作家の皆さま、ならびに、本展の開催にあたりご協力いただきました関係各位に対し、心より御礼申し上げます。」「シンボルマーク(原書)」「人と人を結ぶ」「小田原と世界を結ぶ」という願いを込めて、「結」(ゆい)という文字と、三の丸ホールを表す3つの丸をモチーフにして作成したシンボルマーク。小田原書道連盟副会長の永井香峰(こうほう)さん(53)が制作したもの。「シンボルマーク原書「結」書:永井香峰永井香峰略歴小田原で生まれ、小田原で育った書道家。幼少期から書道を始め、奎星展毎日新聞社賞受賞、毎日展人選など、多くの方から評価を得ている。小田原を拠点とした書道教室や書展ての活動がメインだが、近年ては都内企業の書道クラブや大手薬品会社の外国人向け講座を担当するなど、その活動も多方面に渡る。また、活動を通じて、これからの書道界を支える人材も育成している。」「シンボルマークの由来運営理念である<人と人を結ぶ、小田原と世界を結ぶ>とり、「結(ゆい)」の文字の歴史的な書体と、愛称である<小田原三の丸ホール>にある3つの丸を取り入れたデザインになっています。」「結」のなりたち 書:永井香峰。「「結」の作品を飾って頂いています。」と。「小田原三の丸ホール 大ホール緞帳原画「希望」」。2021年秋に開館を予定する小田原「市民ホール」の大ホールの緞帳(どんちょう)デザインが、小田原市城山在住の日本画家・芳澤一夫さん(65)の作品に決定した。小田原市では市民ホール開館に先駆け、大ホールの緞帳デザイン原画を6月10日から7月31日にかけて、小田原市内在住、在勤、在学者などを対象に募集した。応募総数22作品が集まり、市民ホール設計者らが中心となり、市民ホール基本構想時の基本理念である「多様で豊かな市民の芸術文化創造活動からわきあがるクリエイティブな力と熱意が市民ホールからまちへとあふれ未来に開かれた文化都市を創造する」を意識しているか、「小田原らしさを感じられるか」などを基準に審査した。芳澤さんは、これまでにも小田原駅内のステンドグラス原画制作や白秋の道タイル原画制作なども手掛けている日本画家。今回の作品は、小田原の明るい未来、四季・自然を表し、海・山・川・空・風など表現。無数の丸円は、街の中で様々な生活、活動をする市民、また、海外から来日する各国の人々をイメージしたという。「小田原三の丸ホール 大ホール緞帳原画「希望」作:芳澤ー夫」デザインの意味 色彩は小田原の明るい未来、四季・自然を表し、海・山・川・空・風などを表現。 無数の丸円は、街の中で様々な生活、活動をする市民、 また、海外から来日する各国の人々をイメージ。デザインの特徴 ・特定の演目を意識させない、多目的ホールに相応しい抽象的デザイン ・正面からだけてなく、どの方向の席からも見られることを意識したデザイン ・原画の忠実な再現よりも、織の特性を活かせるデザイン2F ギャラリー回廊には様々な作品が展示されていた。「墨田区と小田原の夏のバラのシンフォニー 熊谷 玲 画材:アクリル絵具、オイルパステル」。「小田原三の丸ホール 令和3年9月5日オープン!」近づいて。「ロゴマークシンボルマークを皆さんにより身近に感じていただくよう、市内を拠点に活動する「デザインこねこ(株)」(現社名・株式会社ディゴン)に依頼し、ロゴマークを制作しました。シンボルマークでデザインされた3つの丸に3つの色<芸術=創作意欲や情熱を感じさせる赤色><歴史=伝統的な色彩を連想する金色><新しいコミュニティの創造=小田原市の色である青色>が配されています。また、筆字とのバランスをとった和文/ローマ字両方のロゴタイプ(文字を図案化したもの)をオリジナルで制作し、小田原の新しい文化・芸術拠点になることを表現しました。」と。「小田原三の丸ホール」。作:たなかきょおこ「開館から2年のあゆみ~記念事業を中心に~」「2023年9月~2024年7月の事業」「2024年8月以降のラインナップ」。「森山良子コンサートツアー my story 2024」8月25日(日) 小田原三の丸ホール 大ホール」。落語家「柳屋三三(さんざ)」。1974年7月4日生、小田原市出身・小田原高校卒の落語家。・1999(平成11)年02月 第9回 北とぴあ若手落語競演会大賞・2004(平成16)年05月 平成15年度 にっかん飛切落語会若手落語家大賞・2005(平成17)年03月 平成16年度 花形演芸大賞銀賞・2008(平成20)年01月 平成19年度 文化庁芸術祭新人賞・2016(平成28)年03月 平成27年度(第66回)芸術選奨 文部科学大臣新人賞(大衆芸能部門)「小田原三の丸ホール”聖地巡礼”マップ」この3年間、さまざまなアーティストが小田原三の丸ホールで多彩なパフォーマンスを届け、市内外から訪れたお客さまと感動を共有しました。アーティストの皆さんは、小田原周辺で受け取ったかけがえのない人やもの、場所、風景との出会いを作品へ昇華させ、私たちに新しい視点でこの土地と向き合う"タネ"を贈り続けてきました。このマップでは、そんな"アーティストの活力となった場所"を厳選してご紹介。小田原三の丸ホールを訪れる前後の参考にしていただくことはもちろん、小田原や周辺散策のお供に、ぜひご活用ください!」「楽屋のれん作:型染工房 たかだ型染工房たかだ 略歴1977年、東京生まれ。2歳の時に湯河原に移住。大学を卒業後、父の指導のもと、型染の世界に入る。父の亡き後 型染工房たかだ2代目を継承。「実用的かつ美しいもの」を念頭に、工芸品としててはなく、民芸品としての型染、日常的に使うことのできる型染を提供し、民藝の本来あるべき姿を提案している。現在、美術団体には属さず、日本やヨーロッパ各国で作品を販売。NHK美の壺、教育テレビ、神奈川テレビ出演。更に、自宅工房において定期的に行われる型染教室、旅行者や子供向けの型染体験工房を主催している。」デザイン愛称である「小田原三の丸ホール」にちなみ、三つの丸が印象的なデザインです。丸には、相模湾の「波」や市の花の「梅」が描かれており、「小田原」を表現しています。右から。丸には、相模湾の「波」や市の花の「梅」が描かれており、「小田原」を表現 と。「梅沢富美男劇団特別講演 アッ!とおどろく夢芝居-2025-」開催日 2025年(令和7年)2月26日(水) 14:00~ 18:00~出演 梅沢富美男・研ナオコ・梅沢富美男劇団 ゲスト:竜小太郎・門戸竜二演目【第一部】芝居 ~笑いあり涙あり~ 人情喜劇 富美男、ナオコの絶妙なボケ、ツッコミ、笑いあり、涙あり【第二部】梅沢富美男&研ナオコ 歌謡ステージ ヒット曲満載「夢芝居」「夏をあきらめて」「かもめはかもめ」【第三部】華の舞踊絵巻バラエティショー この世のものとは思えない珠玉の女形「Godiego Fainal Concert of 2024!-ODAWARA-」開催日 2024年12月22日(日) 15:00~グループ名:ゴダイゴが「Godiego」であることを初めて知ったのである。ネットで調べてみると、「グループ名の由来の一つに後醍醐天皇がある。ミッキー吉野は自分の姓「吉野」から吉野朝廷→後醍醐天皇と連想でき、子供のころから好きだったからと語っている。英語表記では“GODIEGO”となる。「DAI」ではなく「DIE」という表記を思い付いたのはスティーブ・フォックスである。「GO」「DIE」「GO」と分けると、「生きて、死んで、生きる」という意味になる。つまり不死鳥、復権した後醍醐天皇、七転び八起き、あるいは輪廻転生がイメージできることからミッキー吉野も同意したという。また、「GOD」「I」「EGO」と分けると、「神」「自分」「エゴ」という意味にもなる」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.04
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今日は10月3日(木)。猛暑もようやく収まり、朝はかなり涼しくなって来ました。我家の庭に咲く花々です。まずは、午前中の「酔芙蓉」の花です。わずかにピンクに染まり始めて来ました。近づいて。そして先程には、花びら全体がピンクに染まって。そして「コルチカム(イヌサフラン)」。秋になると、地面からにょっきりと花茎を伸ばし、透明感のある美しい花を咲かせる「コルチカム」。寄り添うように咲く姿が愛らしく、秋花壇を彩ってくれる球根植物です。この時期、花期を迎えると、葉を展開する前に土から直接花茎を伸ばして咲く、ちょっと不思議な花姿が特徴的な「コルチカム」なのです。近づいて。透明感のあるピンクや白、紫などの花を、地際付近に美しく咲かせます。日本ではイヌサフランという別名でもよく知られています。以下2枚の写真は白、紫のコルチカムの花は我が庭のものではありません。以前に、植物園で撮ったものです。白のコルチカム。紫のコルチカム。我が庭の「白の彼岸花」。白い彼岸花は、「シロバナマンジュシャゲ」、学名から「アルビフローラ」と呼ばれることもあるとのこと。花びらの反り返りが緩やかな柔らかい印象の品種です。花びらがクリーム色の「リコリスニアホワイト」、白色の花びらにピンクの筋か入った「リコリスアルビフローラ」という品種もある と。近づいて。「曼珠沙華(マンジュシャゲ)」とも呼ばれる彼岸花ですが、親からは、赤い彼岸花は屋敷内に植えてはいけない・・・と言われた記憶があります。自宅の近所にも、赤い彼岸花を庭に咲かせている家は散見されますが・・・。 ただ赤、白にかかわらず、彼岸花は全体に、特に鱗茎(膨らんだ根っこ)に強いアルカロイド系の毒があり、もし食べたりしたら吐き気や下痢、ひどい時には脳などに麻痺を起こして死んでしまう可能性もあると。あえて植えてはいけないと言うのはそのためなのででしょうか。子供が誤食などしたら大変なことになりますので。 ただその有毒性を利用して、田んぼの畦に植えてネズミ、モグラ(というかそのエサであるミミズ)、虫など田を荒らす動物が毒を嫌って避けるように、また墓場に植えて、土葬した遺体が動物に掘り荒されるのを防ぐために、この植物は過去に使われていました。 すなわち墓場には多くこの草が見られるから、それを庭に植えるのは不吉だとして避けられると考えることが出来るのです。 あるいは、鱗茎には強い毒があると同時に豊富にデンプンが含まれていること。根をすりおろして水にさらすと、毒は水溶性の物なので流れてしまい、残りが食用になります。つまり救荒作物としての一面もあるとのことです。これを食べ尽くしたらもう三途の川の彼岸に行くしかない=死ぬしかないというのが、彼岸花の名前の由来だと。それがまた不吉だとして避けられるとも見れますね。 こういった所から、縁起の悪い草として後付けの理由が生まれたというのは容易に想像出来るのです。しかしそれらは、やはり迷信に過ぎない・・・と言えるもの!?。そして最後に、我が菜園の近くの休耕畑に咲く真紅の彼岸花です。「彼岸花」は、発芽してから開花までがたったの一週間。しかも、いきなり茎が伸びてきて花を咲かせ、葉っぱが見あたりません!このとき葉は球根の中で待機しているようです。花は、5日間ほど咲いて枯れてしまいます。それから寒くなるのを待って、ようやく出てくる葉。これは冬に光合成をすることで、土の中の球根を育てて翌年に備えるため。ヒガンバナの葉は、その使命のため?に地上では永遠に花を見ることができないのである と。山口百恵さんの歌で「曼殊沙華」という曲がありますが、 この曲を作詞した阿木曜子さんは「マンジュシャカ」と読ませています。 梵語(古代インドの文語・サンスクリット)でこの花の事を「マンジューサカ」と言うようですので、 おそらくそこから取ったのではないかと。「♪マンジュ~シャゲ」だと確かに歌い難そう。 それに「マンジュシャゲ」だと「ジュ」と「ゲ」の濁音が二つになり、歌詞から瑞々しさが失われるような・・??1976年6月21日に発売された13枚目のシングル。宇崎竜童・阿木燿子コンビによる山口百恵のシングルとしては初めての作品。私が26歳・未だ独身の時の曲なのである。♪♪「曼殊沙華(マンジュシャカ)」♪♪👈️リンク 作詞:阿木燿子 作曲:宇崎竜童涙にならない悲しみのある事を知ったのは ついこの頃形にならない幸福(しあわせ)が何故かしら重いのも そうこの頃あなたへの手紙最後の一行 思いつかないどこでけじめをつけましょ窓辺の花が咲いた時はかなく花が散った時いいえ あなたに愛された時マンジューシャカ 恋する女はマンジューシャカ 罪作り白い花さえ 真紅(まっか)に染めるあてにはならない約束をひたすらに待ち続け そう今でも言葉にならない優しさをひたむきに追いかける そう今でもあなたへの想いどこまで行ったら止まるのかしらそんな自分をもて余す机の花が揺れた時ほのかに花が匂う時いいえ あなたに愛された時マンジューシャカ 恋する女はマンジューシャカ 罪作り命すべてを もやし尽すのマンジューシャカ 恋する女はマンジューシャカ 罪作り白い夢さえ 真紅に染めるヒガンバナはなぜかアゲハチョウに大人気!!ちょっと不思議なくらい寄ってくるのは、もしや見えない赤い糸で結ばれている? そう、アゲハチョウは他のチョウに比べて赤色がよく見え、華やかで大きな花にフラ〜と引き寄せられてしまうらしいのです。この時期、真っ赤な花はヒガンバナくらいなので、アゲハたちはせっせと通って花粉を運ぶのだと。けれども、日本のヒガンバナはほとんどが種を作れない染色体。残念なことに、このアゲハたちの行為では実を結ばないのだと。こんなに愛されているのですが・・・。 ・・・おわり・・・
2024.10.03
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「お堀端通り」の「学橋」交差点を左折して進む。正面に見える建物が「中央労働金庫 小田原支店」。右手の「小田原市民会館」は解体工事中であった。1962年(昭和37年)7月28日にまず大ホールが開館。近隣には当時1400人収容の大規模ホールがなく『8時だョ!全員集合』の公開収録もたびたび行われた。1965年(昭和40年)4月29日に本館が完成した。また、1997年(平成9年)まで結婚式場として利用され約8000組が挙式を挙げた。2021年9月にオープンした小田原三の丸ホールが役割を引き継ぎ、2021年(令和3年)7月31日をもって閉館していた とウィキペディアより。「中央労働金庫 小田原支店」を国道255号方向から。国道255号側からの入口通用門。ギリシア建築を模したしっくりしたデザイン。屋根・玄関・門を統一して直線的。付け柱の上部にオーダーらしい意匠が。伝統的な西洋建築を見ると必ずと言っていいほど「柱」が登場します。圧倒的な存在感を放つ柱。その柱が複数並ぶと「列柱」と呼ばれ、列柱を英語でオーダー『order』と呼ぶのです。そしてオーダーは、いつくつかの様式に分類され、これをオーダー様式といいます。駆体はRC構造だが後付けの装飾は吹きつけで荒らしてあるのであった。「小田原市民会館前歩道橋」前から振り返って。そして歩道橋の下を歩き、次の路地を右折。小田原城(正面入口)、観光交流センター方向に進む。左手にあったのが「小田原簡易裁判所」。小田原簡易裁判所、横浜地方裁判所小田原支部、横浜家庭裁判所小田原支部があると。正面から。そして右手にあったのが国指定史跡・「大手門跡(鐘楼)」。ここが「大手門跡」で、奥方向が旧三の丸。現在は門跡の一角に鐘楼が設けられているのであった。江戸時代、三の丸には重臣の屋敷や藩の施設が置かれ、二の丸・御用米曲輪・南曲輪を大きく取り囲むように配置されていました。この三の丸には4つの出入り口が設けられており、そのうち、東の大手口、北の幸田口、南の箱根口は、堅牢な石垣で固めた桝形門となっていました。江戸時代初期の小田原城の大手口は箱根口でしたが、稲葉氏の時代に江戸に向く現在の場所に移されています。江戸期に小田原町の”時の鐘”は浜手口門にあったが、明治期に移転、そして大手門跡の石垣の上には、大正時代に移設された「時の鐘」👈️リンクがあり午前6時と午後6時に鐘を打ち、市民に時を知らせています と。戦時に鐘が軍需資材として供出され、時報はサイレンやチャイムに代えられたが、昭和28年(1953)小田原寺院団により新しく鐘が作られたのだと。「大手門跡」案内板。「この鐘楼は、江戸時代に小田原城大手門の櫓台北側石垣があった場所にあります。東側の城下(国道1号側)より一段高くなっており、この門より西側は小田原城三の丸で、藩の重臣屋敷が建ち並んでいました。大手門には、翌年に三代将軍徳川家光の上洛を控えた寛永10年(1632)の改修工事により石垣が造られました。また、寛永20年(1642)に幕府の許可を経て、正保年間(1644〜1648)に渡櫓門が建設され、延宝年間(1673〜1681)には前面に冠木門が普請されました。渡櫓門と冠木門からなる大手門の規模は、銅門とほぼ同じです。「寛永年間小田原城廓総図(通称「宮内庁図」)」によると、渡櫓門の前には枡形勢溜が設けられ、さらに冠木門の外には長方形の馬出を設けて防御力を強化しています。城外とは幅9間半〜11間(約17〜20m)の三の丸堀で隔たられており、堀には「大手口橋台」とも呼ばれた土橋が設けられていました。なお、大手門櫓台石垣上に鐘楼が設けられたのは大正時代のことです。」図1「文久図」より図2「宮内庁図」(宮内庁書陵部蔵を一部改変)渡櫓門と冠木門からなる大手門の姿を。「小田原さんぽ」アプリ紹介。「鐘楼この鐘は現在、朝夕6時につかれ、時を知らせている。時を知らせる「時の鐘」は、長い間、昼夜の隔てなくつかれていた。江戸時代の貞享3年(1686)の「貞享3年御引渡記録」の中に「小田原町の時の鐘は昼夜ついている。鐘つきの給金は一年金六両で、この内金三両は町方から、三両は町奉行から遣わしている」という記事があり、300年以上前からつかれていることになる。この鐘は、初め浜手御門(ここより約150m南)のところにあっったのを、明治29年(1896)裁判所の東北隅に移され、さらに大正年間に現在の場所に移された。昭和17年(1942)には、太平洋戦争の激化により、軍需資材が欠乏したため、政府は金属類の供出命令を出し、鐘は応召される(「時鐘応召」と呼ばれた)。その後、時報は鐘に代わってサイレンやチャイムになったが、城下町に似つかわしくないということで、昭和28年(1953)小田原寺院団によって新しい鐘がつくられた。これが現在の鐘である。」裏に廻り大手口枡形跡より大手門跡。往時の様子を想像し難い現況であるが。石段を上って行った。正面には、明治19年(1886)に浜手口内から移設された「時鐘堂」があり(現在の鐘は昭和28年(1953)製)、現在も午前6時と午後6時に鐘を打ち、市民に時刻を知らせている と再び。鐘楼に刻まれた銘「平和鐘序並銘・・・・・・」。大手門櫓台石垣上の鐘楼を見る。大手門櫓台石垣にさらに近づいて。国指定史跡・「大手門跡(鐘楼)」前から「小田原城 二の丸隅櫓」が正面に見えるのであった。「小田原城 二の丸隅櫓」方向に歩を進める。「お堀端通り」に戻り、「小田原城 二の丸隅櫓」を見る。堀の水面に映る、「逆さ小田原城 二の丸隅櫓」。再び朱の欄干の「学橋」を振り返る。移動して「小田原城 二の丸隅櫓」を再び。前方に見えて来たのが「めがね橋」・「馬出門土橋」。「めがね橋」・「馬出門土橋」の先に見えたのが「小田原城 馬出門」。「小田原城跡小田原城の歴史小田原城は、戦国時代には関八州を治めた小田原北条氏の本城となり、豊臣秀吉との小田原合戦の際には、周囲9kmにわたって、堀と土塁で城下を囲む戦国最大規模の大城郭に発展しました。北条氏滅亡後、江戸時代になると、江戸幕府の西を守る重要な城郭として、天守、櫓、城門と石垣と水堀から成る近世城郭に改変されます。小田原城は、中世の城と近世の城が同じ場所に重複して存在する城郭であることが特徴といえます。明治時代には、天守をはじめ建物は取り壊され、ニの丸内は、皇族の御用邸になりますが、関東大震災によって残っていた石垣も大破し、高等女学校や尋常小学校、野球場や図書館などが建設されます。昭和58年(1983)からは、史跡整備が本格化し、施設の移転が進められ、住吉堀や銅門(あかがねもん)、馬出門、御用米曲輪(ごようまいくるわ)の復元整備が進められています。」「小田原城の歴史年表」。「文久図に描かれた江戸時代末期の小田原城」。「めがね橋」、「小田原城 馬出門」👈️リンク を正面に見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.03
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今年は、ようやく、我が家の庭の『酔芙蓉』が毎日花を開き楽しませてくれています。例年より1ヶ月近く遅い開花の盛りなのではないでしょうか。遠く平安の頃から観賞され、人々に愛されてきた芙蓉の花。古くから栽培されているにもかかわらず、ムクゲと違って変異が出にくく、品種はあまり多くありません。その数少ない園芸品種の一つが『酔芙蓉』。『酔芙蓉』は、朝のうちは純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色に変わるのです。酒を飲むと顔色がだんだんと赤みを帯びるのに似ていることからこの名がついたといわれています。芙蓉は、全国各地の庭先や公園など、どこででも目にすることができますが、群生している名所となると寺の境内が多いでは。『酔芙蓉』となるとなかなか群生しているところは少なく、千本以上あるところは珍しいようです。『酔芙蓉』の花は短命で、一日花のはかなさに諸行無常の教えを悟り、蓮の花に仏教の縁を重ねるのは私だけでしょうか。この日・10月1日の朝、真っ白な花が咲いていました。時間は6:45。そして8:30過ぎには僅かに外側がピンクに染まりだしました。濃いピンクの部分が花弁化した「雄しべ」そして白い部分が「雌しべ」。そして10:30前には花片全体が淡いピンクに染まり始めました。花びらがピンクに染まり、中心の円周上に濃いピンクの点が。時間は13時前。そしてすっかり酔った『酔芙蓉』。時間は15時過ぎ。そして花片も閉じかけて。時間は16時前。そして16:30過ぎには萎んで。酔い潰れている『酔芙蓉』の前には未成年で飲酒禁止の若者が群れを成して。酔い潰れた花の背中に突然の小雨が。そして翌朝には酔いつぶれて二日酔い状態。既に地面に落下しているものも。この日の我が夕前につかの間の急な雨に、そして我が家の『酔芙蓉』も雨に濡れて。弱弱しい花片に雨滴が留まり、安らかに和ませてくれる『酔芙蓉』の花。自然の法則に季節も忘れず、長い夏からようやく秋の兆しに『酔芙蓉』の花は長かった夏とも別れを告げる準備に。小さな蕾が少しずつ大きくなり、とある朝、命満ちて開花し、色を変化させながら、一日の寿命を終える『酔芙蓉』に何故か親近感を覚え始めた75歳前の後期高齢者間近な私なのです。『酔芙蓉』と言えば「おわら風の盆」。物悲しい胡弓の音色と盆歌に合わせ3日3晩、越中八尾の若い男女が菅笠で顔を隠し優雅に踊りながら、八尾の町を練り歩くのである。「風の盆恋歌」は高橋治の恋愛小説で、昔の恋人と偶然パリで再会し、互いの想いを知り、八尾で逢瀬を重ねるために、主人公が古家を買い、老婆に管理を任せ、彼女が来るのを待つ。1年目は来ず、2年目も来ない。3年目に主人公が訪れると酔芙蓉が植えられ、待ち人がやってきていた。たった3日間の為に家を買う。現実にはあり得ない夢の世界。究極の不倫小説なのである。そして『酔芙蓉』👈リンク と言う歌のある事を今知ったのです。歌:島津悦子作詞:坂口照幸作曲:大谷明裕苦しまないでね 私のことで男が曇れば あとを引くいいの 最後の 逢瀬でも酔えるひと刻その刻だけをせめて私に 下されば花はひと咲き 酔芙蓉(すいふよう)男の好みに 女は合わす日陰の恋なら 尚更に帯はくれなゐ しじら織りどうぞその目に 残して欲しい今日を限りの 一夜咲き咲いて一生 越えもするあなたの接吻 火の接吻で女の命を 閉じらせて夜をこのまま 裂かれても肌のすき間に あなたが匂う夢の果てまで 一緒です花はひと咲き 酔芙蓉 ・・・おわり・・・
2024.10.02
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「蓮池辨財天社」を後にして、来た道を戻り、「小田原城北入口」を出て「お城通り」の坂道を下る。小田原市の汚水マンホール蓋。歌川広重の浮世絵、東海道五十三次のうち「小田原・酒匂川」をモチーフにしたマンホール蓋。江戸時代の酒匂川には橋がなく、特に増水期は、旅人にとって大変な難所でした。 右下のふんどし姿の人影は、当時、旅人や荷物を担いで渡った「人足」と呼ばれる労働者たち。 また、背景にあるのは、酒匂川から望む「小田原城」と「箱根連山」、そしてその奥にそびえる「霊峰富士」です。 小田原市は昭和34年に下水道整備に着手し、現在は酒匂川流域の市町と連携して流域下水道事業を進めています。 「酒匂川から見た雄大な風景を歴史とともに後世に残したい」。 そんな想いが詰まったデザイン蓋。「お城通り」の歩道のタイル絵を追う。周辺案内図「学校法人 新名学園 旭丘高等学校」過去の名称 裁縫手芸編物伝習所 新名女子高等学校 旭丘女子高等学校国公私立の別 私立学校設置者 学校法人新名学園設立年月日 1902年創立者 新名 百刀(にいな もと)共学・別学 男女共学課程 全日制課程単位制・学年制 単位制設置学科 普通科・総合学科学期 3学期制「弁財天通り」に入り南西方向に進むと、前方に旧地名碑が立っていた。「弁財天」碑。「江戸時代初期、この地を「弁財天曲輪」と呼んでいた。しかし、元禄十年(一六九七)に蓮池の南側にあった「評定曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、ここを単に「弁財天」と呼ぶようになった。幕末にはこの地に六・七軒ほどの中堅藩士屋敷があった。」別の説明では、この地名は、「貞享三年御引渡記録」(1686年)に「弁財天曲輪」として初めて見られます。この地は、武家地ですが、江戸時代初めは、「弁財天曲輪」と呼ばれていました。元禄10年(1697)、後期大久保氏(大久保忠隣のひ孫忠朝が下総佐倉城(千葉県)から移って小田原城主となり、その後10代で明治維新を迎えるが、この約180年間の大久保氏のこと)が藩主になった頃、蓮池の南側にある「評定所曲輪」を「弁財天曲輪」と名称を変えたため、こを単に「弁財天」と呼ぶようになりました。幕末には、この地に6.7軒ほどの中堅藩士の屋敷があり、二宮尊徳はここに住んでいた三幣又左衛門を「弁財天の旦(だんな)」と呼んでいました。なお、ここが藩主付きの女性の隠居所となったときもあります と。右手に、広い緑地広場が現れた。この場所に「蓮池」、そこに浮かぶ小島の中には「弁財天」があったのだと。小田原城案内図小田原城天守閣へのルートが示されていた。「小田原城の北を守る蓮池」案内板。近づいて。「小田原城の北を守る蓮池この付近には、その昔「蓮池」と呼ばれた天然の池が広がっていました。南禅寺(京都市)の東嶺智旺(とうれいちおう)は、「明淑禄(めいしゅくろく)」(天文20年4月26日記)に小田原城の周りに「三方有大池焉(三方に大池がある)」と記しており、「蓮池」はその一部と考えられています。蓮池の中島にはニ代北条氏綱が移した江ノ島(藤沢市)の弁財天があり、「蓮池弁財天」として小田原城の鎖守でありました(『北条五代記』)。現在「蓮池弁財天」は、御用米曲輪北東土塁に祀られています。四代北条氏政は、永禄4年(1561)の長尾景虎(上杉謙信)、永禄12年(1569)の武田信玄を蓮池で迎え撃っており(『謙信公御年譜』巻七、「深沢城矢文」)、戦国時代には小田原の城北側の重要な防衛戦であったと考えられます。江戸時代になると、南側の御用米曲輪との間を堀で区画したL字型の弁財天曲輪(勘定所曲輪)・焔硝曲輪が整備されます(図2)。これにより、弁財天曲輪からの侵入者に対しては城内から横矢(側面攻撃)を仕掛けられる状況を作り、防御力を強化しています。弁財天曲輪からは幸(裏門)橋を渡り、小田原城の搦手口(裏門ロ)へと至りますが、大手口(馬出門・銅門)が将軍家用であったのに対し、裏門ロは多くの小田原藩士に利用されました。」「文久図」に描かれた蓮池、その中央に「弁財天」。そして赤線------が「幸田門(口)」から「幸(裏門)橋」を通って小田原城の搦手口(裏門ロ)へと至るルート。さらに「小田原城正規 登城ルート(正面入口)」案内板。小田原城天守閣をズームして見る。「史跡 小田原城址」碑。江戸時代、この場所は三の丸から二の丸への裏手の入口だったところ。この付近には、二の丸堀の外側に位置する曲輪があったと。「弁財天曲輪跡」案内板。「弁財天曲輪跡江戸時代、この場所は三の丸から二の丸への裏手の入口だったところです。二の丸の北側には弁財天曲輪という曲輪があり、蓮池という天然の堀とともに小田原城の北側を守っていました。戦国時代には、小田原北条氏の四代目北条氏政が当主の頃、上杉謙信や武田信玄がこの蓮池付近から小田原城を攻めたといわれています。ここは小田原城の要衝の一つであり、発掘調査でも入口を固める戦国時代の堀がいくつも見つかっています。堀からは合戦の様子を伝える弓や鉄砲玉も出土しています。」「御用邸の雪(小田原)」横浜開港資料館所蔵20世紀初頭の本丸遠景の写真で、右手樹叢が鉄門付近にあたる。正面の門が二の丸裏門 と。案内板の更新をお願いいたします。タイル絵「小田原城 弁財天通り」「旧蓮池」方向を振り返る。弁財天曲輪、そして蓮池という天然堀も、小田原城の北側で重要な役割を担っていた。弁財天曲輪跡の説明板にもある通り、戦国時代に上杉謙信や武田信玄が攻め寄せた時には、この付近が激戦地となったようです。北条氏が居城としていた頃の小田原城は、ここから少し離れた八幡山を中核とする城でしたが、範囲はこの付近の平野部にまで広がっていたのであろう。近世城郭として再生された小田原城に八幡山は含まれませんが、かつて激戦地となったこの場所は城に取り込まれ、江戸時代を通して明治の廃城まで役割を果たしたのだ。素通りしてしまいそうな区画であったが、設置されている説明板のおかげで足を止めることができたのであった。お掘端通りに出て、ここを左折すると、右手にあったのが「幸田門跡」。近づいて。「幸田門阯紀年碑」。「国指定史跡 小田原城跡 三の丸土塁 指定 昭和13年8月8日この土塁は江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。当時は、本丸、二の丸(現在の城址公園周辺の範囲)を囲むようにお堀と土塁を巡らし、三の丸としていました。この土塁は三の丸の土塁が残されている数少ない場所です。」この場所の西側に幸田門という三の丸の入口がありました。その跡の一部が発掘調査で見つかっています。戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時には、この幸田門から小田原城を攻めたと考えられています。北条氏康・氏政父子は、籠城策を用いてこれを退け、小田原城を守り抜きました。」小田原城絵図(文久図)より、 幕末の「幸田口」はこんな感じだった と。記念碑の周りは小さな公園として公開されており、幸田門に繋がる「三の丸土塁」は遊歩道として公開されていた。奥に向かって進んで行った。「小田原城 三ノ丸土塁跡」を東に進む。「小田原郵便局」裏まで進むと、急な木製階段が設置されていた。木製の如く見える石段を下った。その先にあったのが「小田原郵便局」。「小田原郵便局」脇の案内板。近づいて。石段を再び上り引き返す。近づいて。小田原郵便局裏手に残る三の丸堀の石垣と土塁。この辺りは市街化したにもかかわらず現存しているのであった。さらに進む。三の丸北東角の土塁。かつては隅櫓が設けられていた。どんな経緯があったのかわからないが、こんな市街化した場所で土塁や石垣が良好に残っているのは奇跡。こういった遺構を見つけるのも城巡りの醍醐味でもある。草刈りも行われていた。三の丸北東角から幸田口門跡に向かって延びる「小田原城 三ノ丸土塁跡」をかつては右が三の丸で左に水堀があったのだろう。さらに「小田原城 三ノ丸土塁跡」を引き返す。前方に「お堀端通り」が見えて来た。大きな犬を連れて、「小田原城 三ノ丸土塁跡」を散歩する御夫婦の姿も。「小田原城 三ノ丸土塁跡」を後にして「お堀端通り」交差点まで戻り、二の丸東堀方向にさらに進む。「現在地」はここ。「二の丸東堀」案内板。「二の丸東堀」案内板。「二の丸東堀小田原城は、春日局(江戸幕府の三代将軍徳川家光の乳母)の子、稲葉正勝が寛永9年(1632)城主になると、大規模な工事が行われ、石垣を備える近世城郭として整備されました。二の丸の堀も、この時代に形作られたとみられています。二の丸の堀は、二の丸馬屋曲輪の二重櫓を南東角として、東西に伸びている二の丸の南側の堀と、南北に伸びている二の丸の東側の堀で構成され、藩主の居館や行政機関がおかれた二の丸と、武家屋敷などが広がる三の丸とを画しています。二の丸の東側の堀は、本丸や二の丸を守る堀の中でも最も大きなもので、二の丸東堀を中心に、馬屋曲輪東堀や弁財天東堀から成り、堀幅は最大で約40mの規模がありました。堀は後世に埋め立てられたため、この看板が立つ場所もかつての堀の中に位置しており、看板に向かって左側の水堀が右側に約60m(交差点付近まで)伸びていました。二の丸側に見える石垣は、大正12年(1923)の関東大震災で崩れたものを昭和初期に復旧したものですが、右下の写真のとおり、江戸時代の石垣は今のものよりも高く、二の丸の石垣として威厳のある姿を見せていました。なお、震災直後、一時この堀を埋め立てる計画がありましたが、小田原保勝会が中心となって保存運動を起し、その結果、二の丸東堀は、今日までその姿を残すことができました。」文久図に描かれた江戸時代末期の小田原城明治36年頃の二の丸東堀。二の丸東堀に架かる「学橋(まなびばし)」。「学橋」の後方に「二の丸隅櫓」その後方に「馬出門」。この石碑は???ネットで調べてみましたが???再び「学橋」を。この橋は城が現役の時はありませんでしたが、今では城址公園入口のシンボル的な存在。かつては公園内に小学校があったとのこと。通学に利用されたことから学橋と名付けられたと。現在の学橋は昭和24(1949)年に再建されたものであると。「二の丸東堀」に沿って進むと。御幸の浜海岸まで徒歩9分、600mと。「御用所(ごようしょ)」碑のひらがな面。「地名の由来は、この地に藩の御用所があったのでこの名がついた。御用所とは、藩士の執務所で、始め(元禄の頃)箱根口門の東隣にあったが、その後(文政の頃)この地に移された。幕末には母屋(おもや)を囲んで敷地内に六棟の建物があった。」別の説明では地名の由来は、この地にの御用所があったためです。御用所は、はじめ箱根ロ門の東隣りにありましたが、その後、三の丸の旧渡辺屋敷跡に移されました。幕府には母屋を囲んで、敷地内に6棟の建物が見られました。なお、この御用所の敷地は、1840坪(6072平方メートル)あまりでした。現在ここはお堀端通りとなっており、小田原観光のメインストリートとなっている。石碑の目の前には小田原ハローワークがあった。この建物もなかなか古い建物で、昭和レトロの趣があった。小田原ハローワークの前の休憩用ベンチ。中央には水が流れるようであったが、この日は・・・。小田原城案内図と周辺案内図。「現在地」はここ。「小田原城案内図」。「小田原城御用邸跡小田原城本丸・ニの丸地区は、明治維新・版籍奉還の後、旧陸軍の所管となり、明治33年(1900)1月に御用邸を建設するため地鎮祭をとり行い、翌年の明治34年(1901)1月に竣工しました。しかし、大正12年(1923) 9月1日に関東大震災により全壊し、昭和5年(1930)に廃止されました。御用邸には、小田原が気候温暖で風光明媚なことから多くの皇族が訪れ、小田原の行事に数多く参加され、町民との交流も活発に行われました。」「小田原邸園散歩(周辺案内図)」。「学橋」。今年の7月にはこの「学橋」👈️リンクを渡り、「小田原城 二の丸広場」を訪ねたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.02
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線路に沿った「お城通り」を「青橋」に向かって進むと、左手にあったのが小田原城への北側の入口門。ここにも「小田原城天守閣特別展 お城に動物園があった」のポスター。入口にあった「小田原城址」碑。天守閣の方向に進んで行った。掲示板「小田原城案内図」。近づいて。現在地は右下。空から見た「御用米曲輪」(北東から)をネットから。左手にあった「土塁」が開削されていて、発掘現場用車両の入口になっていたが、我々は進入禁止になっていた。御用米曲輪(ごようまいくるわ)の断面と土塁の嵩上げの歴史が解るのであった。近づいて。「御用米曲輪北西土塁」案内板が壁に。「御用米曲輪北西土塁御用米曲輪の外周部には、江戸時代に土を盛って造られた土塁が廻っており、この場所は北西土塁と呼ばれています。この場所は本来は土塁で塞がれていましたが、野球場として利用されていた時に開削されたこの場所を利用して、土塁の構築状況を確認しました。その結果、高さ5m以上に土を積み上げていたことが分かりました。ここから本丸側20mの場所で実施した発掘調査では、自然地形の尾根が確認されていることから、地形を巧みに利用し、その上に土を盛り上げて土塁が造られていることが分かりました。出土遺物などから、この土塁は江戸時代の寛永10年(1633)・延宝8年(1680)などに修復されたと考えられます。また、下層からは、戦国時代のかわらけが多く出土しており、土塁の下には戦国時代の遺跡が広がることが分かりました。」地層断面図に近づいて。土塁が年代ごとに高くなっていったのが理解できたのであった。発掘調査で確認された北西土塁の断面の写真。「文久図に描かれた江戸時代の御用米曲輪と北西土塁」。江戸時代の絵図や整備に伴う発掘調査から、御用米曲輪には、江戸時代の蔵や戦国時代の庭園を伴う礎石建物群等が展開していたことがわかってきました と。現在地と御用米曲輪の地図。現在の発掘現場を見る。さらに天守閣方向に坂を上って行った。右手にあったのが「御用米曲輪の蔵跡」案内板。「御用米曲輪の蔵跡御用米曲輪は、本丸の北側に位置する曲輪です。この曲輪は、外周を土塁と堀で囲われており、曲輪への出入りはニの丸から相生橋を渡って入るか、本丸側から鉄門坂(くろがねもんさか)を下って入るしかありません。このような閉ざされた曲輪には、江戸時代の初めより幕府天領などから納められた米を保管する蔵が置かれ、「百間蔵」「城米曲輪」「御用米曲輸」などの名称で呼ばれる小田原城にとって大変重要な場所でした。城絵図などの資料から、蔵の規模は3間xI5間(約5.9mx約29.5m )で、文政4年(1821)頃には、北東土塁上に3棟、平場に3棟の計6棟の蔵が存在し、蔵には米のほかに、大豆、小豆、あらめ(昆布の仲間)、塩、武具などが備蓄されていたことが分かりました。平成22 ~ 27年(2010 ~ 2015)に行われた発掘調査でも、6棟の蔵跡が確認されましたが、この中で6号蔵跡は、一番新しく19世紀以降に構築された可能性が高いなど、蔵の構築時期に差があることが分かりました。また、遺構からは、布基礎状に外周を掘り込み、人頭大の礫と土や砂利を積み重ねた重厚な造りの基礎であったことが確認されました。これらの蔵跡の遺構は重なっていないことから、場所を変えずに建て替えが行われてきたものと考えられます。蔵跡の周辺からは、徳川将軍家の家紋である三ツ葉葵紋の軒丸瓦が多数出土しており、天守閣に展示されています。」左上:文久図に描かれた江戸時代末期の御用米曲輪右上:調査で確認された6ヶ所の蔵跡左下:御用米曲輪から出土した三ツ葉葵紋の瓦右下:発掘された4・5号蔵跡の基礎「瓦積塀で囲まれた空間この場所は、御用米曲輪北西土塁のにあたり、互と土で積み上げられた瓦積塀が2列見つかりました。瓦積塀の奥には石垣が築かれ、手前からは柱穴列が見つかったことから、囲まれた空間が存在したと考えられます。囲まれた空間は約10m四方であり、柱穴列は櫓などとみられます。柱の間隔が一部広く空く場所があり、この部分が出入り口である可能性があります。空間の底面には砂利が敷かれていました。石垣は北へと延びていますが、どのような構造が続くのかは不明です。瓦積塀は、基礎に根府川石を敷き、主に平瓦を転用して積み上げています。塀は、上部は後世の削平を受けており、もともとの高さや上部構造は不明ですが、残る瓦積塀の高さから150cm以上の規模を持っことが確認されました。瓦の年代から塀は元禄16年(1703 )以降に築かれたものとみられます。この空問は、絵図や文献に明確な記録はなく、どのような使われ方であったのかは分かっていませんが、構造的には宗教施設や煙硝蔵等の可能性が考えられます。相次ぐ災害や明治時代の廃城により、江戸時代の建物の残っていない小田原城においては、江戸時代から遺る唯ーの構築物ということになります。」発掘調査で確認された空間。発掘現場の位置と写真。再び「発掘現場」👈️リンクをズームして。全面がシートで養生されていた。移動して。更に坂を上って、小田原城天守閣をズームして。そして引き返して、再び「御用米曲輪」の発掘現場を見る。正面は調査が終わり、埋め戻されたのであろうか?そして入口にあった「小田原城址」碑手前まで戻り細い小径を右折して進むと右手に石鳥居が現れた。扁額「蓮池辨財天社」。石鳥居を潜って右に進むと正面に、琵琶を持った弁財天の姿が現れた。弁財天は、須佐之男命の娘である三女神の一人を、役行者(修験道の開祖)がインドの女神サラスヴァティーの霊と感じて、仏教と神道の混合の神として崇めた。弁財天は、災いを除き、福徳や財宝を与える神として信仰されている。弁財天は日本の神様ではないのだ。七福神の中で、日本の神様はゑびす神だけで、あとはインドや中国がルーツの神様。国際色が豊か。ヴィーナと呼ばれる琵琶に似た弦楽器を持っている。創造神ブラフマーの妻であり、実在したサラスヴァティー河の化身とされ、流れる川のせせらぎから「流れるもの」を連想する音楽や言葉などの才能をもたらす神。そして、日本では川の流れる音にちなんで「妙音天(みょうおんてん)」、またよどみなく流れる水のように弁舌べんぜつがさわやかであるとの連想から「弁才天」と意訳された と。近づいて。台座には「蓮池弁財天」と。日本酒が奉納されいた。優しいお顔にじわじわと近づいて。やや小さなお顔。鬱蒼とした木々の中に「辨天社再興之碑」が建っていた。「辨天社再興之碑 小田原市長鈴木十郎書」と。ここにも小さな拝所があった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.10.01
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