JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.05.07
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』

「稲村ヶ崎公園」を後にし、国道134号を渡り稲村ヶ崎1丁目の住宅街を北上し
途中を右折して進む。



山の裾野の細い道を進んで行くと山の斜面にあったのが「白山神社」。
鎌倉市稲村ガ崎1丁目6−5。



石段の途中に朱の鳥居が有り、更に石段を上ると「社殿」が。



「白山神社」を後にして来た道を戻り極楽寺川を渡り江ノ電近くのT字路を左折。
江ノ電に沿って進み、踏切を渡ると直ぐ左にあった石碑には「持法日實法師」と刻まれていた。
「文化八年(1811)辛未 八月二十一日」、「師は濱工實相寺歴代上人の弟子にして、当地に住し




そして更に50m程進むと右手にあったのが「日蓮袈裟掛け松跡」。
1271年9月12日、幕府に捕らえられ龍ノ口の刑場へとひかれて行く日蓮は、この地において、
神聖な袈裟が血に染まるのは恐れ多いと近くにあった松の枝に掛けたといわれています。
当時の松はもうなくなってしまっていたが、石碑とともに、一本の松が植えられていた。



「文永八年辛未年九月十ニ日 南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 御袈裟縣松
光則寺 日仁 第三十ニ世」と刻まれた石碑。



まだ小さな松が植えられていた。



江ノ電線路に沿った道を戻って行くと「針磨橋」の案内板があった。
「この橋は、「針磨(はりすり)橋(ばし)」と呼はれ、古くから往来があった十の橋を選んだ
「鎌倉十橋」の一つとして、江戸時代に刊行された『新編鎌倉志』や『新編相模国風l土記稿』
にも記述があります。
橋の名は、昔、この付近に針をつくる人が住んでいたことに由来するといわれています。」



この場所には、以前、昭和13年3月に鎌倉町青年団が建て石碑があり、
「鎌倉十橋ノーニシテ 往昔此ノ附近ニ針磨(針摺)ヲ業トセシ者住ミニケリトテ
此ノ名アリトイフ」と書かれていた。

【この橋は鎌倉十橋のひとつです。昔この付近に、鉄を砥いで針に仕上げることを
商売にしている職人が住んでいたので、この 名前が付けられたといいます。】

途中の史跡碑(播磨橋)。一路、極楽寺へ


「十橋之一 針磨橋」碑。



現在の橋を見る。
この橋のあるあたりは、阿仏尼の屋敷跡で、この近くに針を磨く老婆(我入道)が住んで
いたために、この名がついたと。



民家の門であろうか?「御代川」と。



更に北に進み江ノ電の踏切を渡る。



踏切の直後、左手にあったのが「阿佛邸旧蹟」碑。
鎌倉時代の有名な日記「​ 十六夜日記 ​」👈リンクの作者阿仏尼の住んでいた屋敷跡の石碑。
阿仏尼は歌人藤原定家の子の為家の妻、為家が亡くなってから所領相続のことで争いが起こり、
阿仏尼は執権北条時宗に訴えて裁判を受けたいが為に、1277年(建治三年)に京都から鎌倉に
来たのですが、その道中と鎌倉滞在の日記が「十六夜日記」。



「阿佛邸舊蹟
阿佛ハ藤原定家ノ子為家ノ室ニシテ和歌ノ師範家冷泉家ノ祖為相ノ母ナリ為相ノ異母兄
為氏為相ニ属スベキ和歌所ノ所領播磨細川ノ庄ヲ横領セルヲ以之ヲ執権時宗ニ訴ヘ
其ノ裁決ヲ乞ハントシ建治三年京を出デテ東ニ下リ居ヲ月影カ谷ニ卜ス即チ此ノ地ナリ
其ノ折ノ日記ヲ十六夜日記ト云ヒテ世ニ知ラル係争久シキニ彌リテ決セズ弘安四年遂ニ此ニ没ス」
大正九年三月建之 鎌倉町青年会」

【阿仏尼(あぶつに)は、和歌の名人として有名な藤原定家(ていか)の息子である為家
(ためいえ)の妻であり、また名家冷泉(れいぜい)家を起こした為相(ためすけ)の母でもあります。
あるとき、為相の義理の兄為氏(ためうじ)が、播磨(はりま:兵庫県)細川にある為相の領地を
奪ったので、これを鎌倉幕府(北条時宗)に訴えるために、1277年に京都を出発して、東海道を
旅行して、鎌倉の月影ヶ谷(つきかげがやつ)という場所、すなわちこの場所に住みました。
その時の旅行記を「十六夜(いざよい)日記」といい有名です。裁判は長引き、生きている間には
決着が着きませんでした。1281年に、ここで亡くなっております。】




「月影能 谷若葉して 道清志」



再び踏切を渡り、極楽寺駅に向かって線路に沿って歩く。



右手・創作小物・服飾の店「趣味の部屋比呂」の入口近くにあった「江ノ電の絵」。
「極楽寺・稲村ヶ崎 おおばひろし」と記載されていた。



そして左手に江ノ電「極楽寺駅」。



「江ノ島電鉄 極楽寺駅」。
「関東の駅百選」にも選ばれている江ノ島電鉄「極楽寺駅」。
ドラマやアニメのロケ地としても知られており、ファンから親しまれている駅。



「文学案内板 極楽寺周辺
○月影ヶ谷(阿仏尼滞在の地)
 鎌倉時代中期の女流歌人、阿仏尼は夫である藤原為家の没後、先妻の子為氏と実子為相との
あいだにおこった遺産相続の訴訟のため、京都から鎌倉へ下った。その間のことを記したのが
「十六夜日記」で、前半は東海道の紀行文、後半は鎌倉での日記となっている。
鎌倉では月影ヶ谷に滞在した。「十六夜日記」には次のように記されている。
 東にて住む所は、月影の谷とぞいふなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍なれば、
のどかにすごくて、浪の音松風絶えず。
 (引用文献 新日本古典文学大系51 岩波書店 平成2年)
○極楽寺切通
 極楽寺開山忍性が開いた道と伝えられ、京都・鎌倉間の往還路だった。鎌倉・南北朝時代の
武将・新田義貞は、元弘3年(1333年)5月、一族を集めて倒幕の挙兵をした。各地の合戦で
幕府軍を撃破し、鎌倉に迫ると、義貞は軍勢を三隊に分け、極楽寺切通、巨福呂坂、化粧坂の
三方から攻めた。一方、幕府軍も三方に手分けして防戦。「太平記」(巻第10 稲村崎干潟と
成る事)はこの合戦のありさまを次のように記している。
 さる程に、極楽寺の切通しへ向はれたる大館次郎宗氏、本間に討たれて、兵ども片瀬・腰越
まで引き退きぬと聞えければ、新田義貞、逞兵二万余騎を率して、二十一日の夜半ばかりに、
片瀬・腰越をうち回り、極楽寺坂へうちのぞみたまふ。明け行く月に敵の陣を見たまへば、
北は切通しまで山高く路けはしきに、木戸をかまへかい楯を掻いて、数万の兵陣を並べて
並みゐたり。
 (引用文献 新潮日本古典集成 新潮社 昭和55年)
 詳細は鎌倉文学館(長谷1-5-3、電話23-3911)にお尋ねください。
 平成8年2月 鎌倉市教育委員会 鎌倉文学館」



「第3回 関東の駅百選認定」碑。



銘板「土木學會選奨土木遺産  2014 江ノ島電鉄(極楽寺駅)」
「​ ​■​ 江ノ島電鉄(極楽寺駅)​
 江ノ島電鉄は明治35年(1902年)に開業し、ほぼ、当時の路線で営業している電車としては
 日本で最古である。
 極楽寺は明治37年(1904年)年開業。駅舎はかなり古い(昭和10年代)木造形式で、緑豊かな
 街並みの中に鎌倉らしい佇まいを見せる。
 平成11年(1999年)に関東の駅100選に選ばれている。
 駅舎の裏手に広がる石積擁壁は建設当時のもので、擁壁の上には駅名の由来にもなっている
 真言律宗の極楽寺がある。」



「極楽寺駅」周辺案内図。



名所案内板。



「極楽寺駅」前の坂道を上って行くと、「桜橋」手前左手にあったのが
銘板「土木學會選奨土木遺産  2014 江ノ島電鉄(極楽洞)」
■江ノ島電鉄(極楽洞・千歳開道)
 江ノ島電鉄は明治35年( 1902・午)に開業し、ほぼ当時の路線で営業している電車としては
 日本で最古である。
 極楽洞は、江ノ島電鉄唯一のトンネルで明治40年(1907年)鮻工。藤沢方には極楽洞、
 鎌倉方には千歳開道と表示されており、建設当時の煉瓦張りがそのまま残されている。
 平成22年(2010年)、鎌倉市の景観重要建築物などに指定されている。
 延長 209rn、高さ 5.285m、幅 3.940m



「極楽洞」案内板。
「極楽洞
極楽洞は江ノ電の愛称で親しまれている江ノ島電鉄が所有する煉瓦造りの杭門で、
右手の桜橋から見ることができます。アーチの頂部に2箇所の要石を備えたデザインは、
全国的にも珍しいもので、今なお建設当時の原形をとどめています。
江ノ電が極楽洞を走り抜ける景観は、古都鎌倉に近代の息吹を伝えた電気鉄道の歴史を
偲ばせます」



「極楽洞」。



暫く待つと鎌倉駅に向かう江ノ電が「極楽洞」に入って行った。
「極楽洞」入口の煉瓦積みの上部には「要石」が2箇所に。



「極楽寺坂」の入口にあった「上杉憲方墓」碑。
上杉憲方は、関東管領上杉憲顕の子で、憲顕、憲方と続く家系が山内上杉家となった。
鎌倉公方の足利氏満に仕え、1379年(康暦元年)、関東管領に任じられている。
憲方は山ノ内の禅興寺を中興(現在は支院の明月院のみが残る。)。
「明月院やぐら」にも上杉憲方墓とされる宝篋印塔が安置されている。



西方寺址(極楽寺切通沿い)に並ぶ石塔群のうち、七重層塔が三代鎌倉公方の足利氏満の下で
関東管領を務めた上杉憲方の墓で、隣の五重層塔は憲方の妻のものと伝えられている。
極楽寺切通を挟んで反対側の崖には、妻が建てたとされる憲方の逆修塔が残されている
(逆修塔とは、生前に建てる供養塔。)。



「国指定史跡 伝上杉憲方墓 昭和2年4月8日指定
この場所はかって西方寺と呼はれる寺院の一角てあった。極楽寺切通の出人口付近の斜面を
人工的に削り、方形に造リ出した空間に石塔が建ち並んている。上杉憲方の墓と伝えられる
安山岩製七重層塔1基を中心に、その妻の墓塔と伝えられる凝灰岩製層塔1基と、凝灰岩製
五輪塔4基、その他五輪塔の残欠が散在する。
七重層塔の現存高は約290cmで、相輪の頂部を欠いているが、全体的な残存状況は良好である。
塔身に浮き彫りされた金剛界四仏の様相や、均整の取れた塔全体の形から、13世紀前半頃のもの
と推定される。
上杉憲方(1335ー94 )は山内上杉氏の祖であリ、武蔵国・安房国などの守護や鎌倉公方を補佐した
関東管領を務めた。山ノ内に所在する明月院の開基としても知られる。この七重層塔を
上杉憲方の墓とするには年代が合わないが、彼の墓が極楽寺にあると伝えられ、また、この付近に
永和5年(1379 )銘の彼の逆修塔(生前供養のための塔)も存在することから、この地が彼の基所で
あるとの伝承が残されている。」



別の角度から。



「上杉憲方の墓」・「七重層塔」の最下部の4方には仏像が刻まれていた。



そして更に「極楽寺坂」を上っていくと、右側に「成就院」の西側の入口石段が。



石段の横には「成就院」の山号の「 普明山 」と刻まれた石碑があった。



「極楽寺坂切通し」を進む。
極楽寺の開山忍性が切り開いたとされる「極楽寺坂切通し」(鎌倉七口)は、その旧状を
留めていないが、かつては、成就院の山門前を寺とほぼ同じ高さで通っていたという。



左手に石碑が。



「極楽寺坂
此所往古畳山ナリシヲ極楽寺開山忍性菩薩疏鑿シテ一条ノ路ヲ開キシト云フ即チ極楽寺切通ト
唱フルハ是ナリ元弘三年(1333)ノ鎌倉討入リニ際シ大館次郎宗氏江田三郎行義ハ新田軍ノ大将
トシテ此便路ニ向ヒ大仏陸奥守貞直ハ鎌倉軍ノ大将トシテ此所ヲ堅メ相戦フ」

【ここは昔は山々が重なっていた所でしたが、極楽寺を開いた僧の忍性(にんじょう)が一本の路を
切り開いたと伝えられています。その極楽寺切通(きりどうし)と言うのはこの道のことです。 
1333年に新田軍が鎌倉へ攻め入った時、その軍の大将大館宗氏(おおだてむねうじ)と江田行義
(えだゆきよし)がこの道を進行して行きました。
それを鎌倉軍の大将大仏貞直(おさらぎさだなお)は、この坂に陣をしいて相戦った場所で
あります。】。



「歴史的風土特別保存地区指定図」。



そして左手に「日限六地蔵尊(ひぎりろくじぞうそん)(日限地蔵尊)」。



「日限地蔵菩薩」と書かれた木札。



「日限地蔵尊
当地蔵尊は道行く人々をお守り下さり、お地蔵様の眼のとどく範囲で事故がおきても大事に
いたらないと云われ、また善男、善女が邪心を捨て心を清くもち願い事を期日を極めて
おすがりすれば、その期日までに功徳がいただける有難いお地蔵様であるとして、いつの
世か日限地蔵と称されるようになったと云い伝えられております。
近年になり盗難・悪戯が激しく、こともあろうに心ない酔漢により佛像が破壊されるに至り
ました。これ等保護のためやむなく見苦しいシャッターを取り付けました。
日限六地蔵尊護持会」



なるほど、シャッターの奥に「六地蔵」が。



そして「成就院」への東側からの石段の前には「地蔵菩薩像」が。



「地蔵菩薩像」をズームで。
地蔵菩薩のシンボルといえば「錫杖(しゃくじょう)」と「宝珠」。



「現在地」案内図。




                        ・・・​ もどる ​・・・​​


               ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2022.05.19 15:19:29
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