JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Comments

オジン0523 @ Re:3か月でマスターする数学・『モンティホール問題』(09/23) 最近は、難しいことをやっていますね! 私…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その5)(09/08) 矢張り有料席から見ると正面から見るので…
jinsan0716 @ Re[1]:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) オジン0523さんへ ありがとうございます…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…

Favorite Blog

【ペニンシュラの月… New! Gママさん

伊勢原市の寺社史跡… New! オジン0523さん

朝顔と田んぼ、虎杖… New! 隠居人はせじぃさん

ビルトイン食洗機の… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Calendar

2023.07.23
XML
カテゴリ: 藤沢歴史散歩
鵠沼・蓮池の花を楽しんだ後は、帰路に。2月に惜しまれつつも閉店してしまった藤沢駅北口
さいか屋のニトリの跡地に、『 ヤマダデンキLABI LIFE SELECT 』が6月2日にオープン
しているので立ち寄ることに。しかし開店時間には早いので藤沢駅まで、未だ訪ねていない
鵠沼・片瀬の史跡を藤沢駅まで徒歩で巡ることとした。
右手に「 鵠沼高等学校 」の裏門が。
創立以来80年余の歴史の中で一貫して女子教育に貢献し、約1万5千人の卒業生を世に送り出して
来たが、 平成16年(2004) より校名を 鵠沼高等学校に改名 し、自己と社会をより良く変えていく
資質の育成、社会に貢献する人材の育成を目標とした人間教育をより充実させるため 男女共学校
したのであった。



踏切を渡り、江ノ島電鉄線沿いを北に向かって進む。



藤沢市鵠沼の住宅地を東に向かって進む。



トランペットフラワー 」。



石上の袋小路にある民家の前庭に祀られていたのが「 石上地蔵 」。



正面から。
鉄骨、プラスチック波板で造られた祠の中に鎮座。



近づいて。
蓮弁上の立像は舟形光背型半肉彫で、総高一五九センチメートル。火成岩製。
左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。



鵠沼最古の石仏「石上地蔵」について
この辺りは片瀬川(古くは固瀬川と書かれた)の「川袋」と呼ばれる曲流が始まるところに
あたり、古くから渡船場が設けられていました。

渡船場は「祗上渡し」と呼ぱれていましたが、天正年間から「石上渡し」と呼ばれるように
なったと『皇国地誌』にあります。
江戸時代初期には幕府の右筆(書記)を務めた旗本大橋家の知行地(所領)となり、うち九石分は
鵠沼神明の空乗寺領に寄進されました。
その時代、 一六五四(承応四)年にこの地蔵が造立 鵠沼の現存最古の石仏 です。」
像は舟形光背型半肉彫で、総高一五九センチメートル。火成岩製です。
右側の銘は「奉造立地地蔵尊 三界万靈七世之父母爲井也承應四乙未年」
中央上部に地蔵菩薩の種子(梵字)である◯(カ)が彫り込まれ、蓮弁上の地蔵菩薩立像は、
左手に宝珠、右手に錫杖を持っています。
左側には「爲法印實榮丗三年井也 五月吉日 来誉敬白」と彫られています。
石上が大橋家知行地だったのは一六七ニ(寛文一ニ)年までで、以後は空乗寺領以外は上知されて
幕府領になりました。
一八〇〇年頃作られた『江嶋道見取繪圖』に、石上渡しのそばの大山道の路傍に「地蔵」が
描かれているのがこの「石上地蔵」と思われます。
一八三〇(文政一三)年、小川泰ニ編輯になる『我棲里』巻の中の石神大明神の解説に
「渡船場の北にあり、村民ハ大明神と尊信すれども、地蔵尊の石像となり、七世の父母菩提の為、
承応四年五月吉日栄誉敬白と彫つけたり、これを祈念すれバかならずしるしありとて、
諸人参詣す、農民半兵衛といへるものこれを祠る」とあります。」



赤い帽子、涎掛け、大きなマスクで、お顔の表情は判らなかった。



この印は?



右側の銘は「 奉造立地地蔵尊 三界万靈七世之父母爲井也承應四乙未年



左側には「 爲法印實榮丗三年井也 五月吉日 来誉敬白 」。



手前の物は何が供えられていたのであろうか?



そして次に訪ねたのが「 大源太(公園 」。
神奈川県藤沢市片瀬360−12。



「大源太公園」内には「 江の島弁財天道標 」があった。
正面に梵字「 」と「 ゑのしま道 」。



右側面に「 一切衆生 ( いっさいしゅじょう) 」と。
この世に生を受けたすべてのもの。生きとし生けるもの。特に人間を中心にしていう場合が多いと。



左側面に「 ニ世安楽(にせあんらく) 」と。
現世の安穏と来世の極楽往生。現世と来世に安楽を得ること。



真新しい案内板
藤沢市指定重要文化財(建造物)
昭和四十一年(一九六六)一月十七日指定
江の島弁財天道標
この石柱は、藤沢宿から江の島へ向かう参詣路である「江の島道」沿いに建てられていた
江の島弁財天道標の一つです。
江の島弁財天道標は、江戸時代初期の鍼灸師であり管鍼法(かんしんほう)を考案したことで
知られる杉山検校(杉山和一、慶長十五年(一六一〇)~元禄七年(一六九四)〕が、参詣者の
道しるべのために寄進したものと伝えられています。
現在、市内で所在が確認されているもののうち、十ニ基(うち一基は杉山検校による建立ではない)
が藤沢市の重要文化財に指定されています。その特徴として、頂部の尖った角柱型で、正面には
弁財天を表す梵字「 」と「 ゑのしま道 」、右側面に「 一切衆生 」、左側面に「 ニ世安楽 」と
刻されており、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世および来世での安穏や極楽への
願いが込められています。
片瀬市民センター敷地内に設置されていましたが
まちづくり事業「江の島道の整備事業」として、 かっての江の島道沿いにあたるこの地に
移設 したものです。
令和五年(ニ〇ニ三)三月 藤沢市教育委員会
            片瀬市民センター」






藤沢市大源太公園 」。
神奈川県藤沢市片瀬360−12。
片瀬地区は境川左岸地区と思っていたが、ここは片瀬であるようだ。



「藤沢市大源太公園」内から「 江の島弁財天道標 」を見る。



そして再び江の島電鉄線に向かって進む。



右前方に「 石上駅 」のホーム裏側を見る。
えのでん駅アート 」には「 」の姿と「 ISHIGAMI STATION ENOSHIMA海道・・ 」と
描かれていた。



南橘町内会掲示板 」。



南橘町内会便り 56号 」。
2019年度以来4年ぶりとなる「南橘町内会総会」が開催されたと。



前方に現れたのが「 藤沢市立橘公園 」。
藤沢市鵠沼橘1丁目23。



タコの形の巨大なすべり台が。
地元の子たちからはそのまんま、「タコ公園」と呼んでいると。



公園の先の角に石碑が見えた。



民家の角にあったのが「佐川英三詩碑」。
奈良県吉野郡出身の佐川英三(1913-1992)の詩碑。
佐川英三は1945年池田克己、高見順等と詩雑誌「花」を創刊、
1946年に同じく「日本未来派」を創刊、長い間その発行責任者を務めた。
「戦場歌」「佐川英三詩集」等の詩集の他、「高村光太郎詩がたみ」などの編著がある と。
日本現代詩人会の先達の一人である と。
藤沢市鵠沼橘1丁目11。



鈍重に
しずかに
しかも激しく
くろがねの独楽がまわっている
にぶく光り
かすかに唸りながら
永遠にまわりつづけようとする
孤独な生よ
          佐 川 英 三 」。



佐川英三(さがわ えいぞう)
一九一三年九月四日奈良県吉野郡国栖に生れる 本名大田行雄 
一九四五年池田克巳、上田猷夫、高見順らと詩雑誌「花」、一九四六年同じく「日本未来派」を
創刊 今日に及ぶ 長くその発行責任者
詩集に「戦場歌」「佐川英三詩集など多数
編著「高村光太郎詩がたみ」。
一九九〇年日本現代詩人会より「先達詩人」の顕彰を受ける
同会々員、日本文芸家協会々員
一九九二年九月四日建之」。



民家の門に「 喃(なん)の風 」と。
元海軍将校の邸宅、フリースペースに、ここ鵠沼橘に住む映画監督の谷光章さん(76)が、
自宅の空き室を音楽演奏や美術展示ができる場所として一般開放を始めたのだと。
かつて文化人が多く住んだ土地柄から、新たな地域の文化拠点の創出を目指しているとのこと。



そして「石上駅」のホームを見る。
「藤沢宿から江ノ島まで街道を歩く昔の人々を現代のアレンジで表現しました。
21世紀の今にレトロやアンティークの良さを取り入れ、それをおしゃれに変換させている
江ノ電の良さをアピールできるように考え、ホームで待っている人がこのミックスされた
世界に入り込めるように人物を等身大で描きました。同様に外側の壁面にはアンティークな
書体で江ノ島海道という標識をタイポグラフィでアートを描き、中からも外からも楽しめる
よう駅をまるっとアートで覆っています。」と江ノ島電鉄のページから。



藤沢宿から江ノ島まで街道を歩く昔の人々そして松並木。
Pizzaを運ぶ飛脚の姿や、自転車に乗っている旅人の姿が。



再び踏切を渡り、江の島方向を見る。



再び「えのでん駅アート」を。



そして次に訪ねたのが「 石上神社 」。
横には「 石上会館 」があった。
藤沢市鵠沼石上2丁目3-7。



石鳥居 」、「 社殿 」を正面から見る。



「社殿」に近づいて。
右手に「 石上神社 明治二十九年四月 」と刻まれた石碑。



左手の掲示板には様々な案内が掲載されていた。



藤沢付近の歴史と年表
先土器時代2万~ 3万年前、最後の氷河期で、現在より7 ~ 8度気温が低く、海面は
百数十メートル下がり、日本列島は北と南で大陸と陸続きに成り、人間が大陸から日本へ渡った
とされています。
約1万年前頃は富士山の火山活動が盛んで、相模の国の土は、上の上1mの厚さで黒土、その下に
赤土が堆積していた(関東ローム層) =洪積世。
古墳は1つの遺骸の墓で、藤沢でも先土器時代の物も発掘されています(層としては赤土の中に埋
もれている文化)
東京螺子(ミネべア)敷地内にスクモ塚古墳(九十九塚)跡が有り、遺物は長谷寺に保存されているが、
発掘にあたった人夫達が、多くの刀剣類を持ち去ったとされている。
片瀬丘陵の横穴墓墳は複数人の基(家族)で、7世紀前後のものと思われる、
片瀬丘陵で約2 0 0発見された。相模の国八郷の1 3処1,300戸、鈴鹿王、上甘郷50戸(鵠沼)
長屋王の弟で壬申の乱の英雄、高市皇子の第2子が鈴鹿王(745年没)ー天武天皇の時代
1180年  源義朝の遺児、源頼朝は伊豆の石橋山の合戦から始まり鎌倉幕府を開く
      (兄)大庭景義と豊田景俊は源頼朝の味方
      大庭景親と(弟)俣野景久は平家側に付き、身内同士で敵、味方に。
1333年      (元弘3年) 5月、新田義貞軍は藤沢、片瀬などを焼きっくし鎌倉へ侵攻、
                北条高時の自害で鎌倉幕府は150年間の幕を閉じた。
                大源太の辻(ミネべア前)は新田義貞鎌倉攻めの戦場であった。
1338年      足利尊氏、室町幕府を開く
1590年      (天正18年)北条氏、豊臣秀吉に降伏、秀吉、全国統一
                徳川家康が関東に国替、藤沢御殿は大名や家康、秀忠、家光らが泊まった処
1598年      秀吉死去
1603年      (慶長8年)徳川家康、江戸幕府開く
                藤沢代官として服部惣左衛門が務めた
                幕末の旗本領主、鎌倉郡高谷村には、井上左大夫がいた
1707年      (宝永4年) 富士山宝永火山噴火  藤沢付近も火山灰で農作被害が出た
1887年      (明治20年) 東海道、横浜~国府津間開通
1889年      (〃22年) 横須賀線開業
1897年      (〃30年) 江の島桟橋完成
1902年      (〃35年) 江ノ電開通(江の島まで)
1910年      (〃43年)    〃   鎌倉まで開通
   〃           (〃 〃  ) 龍ロ寺五重塔完成 
1916年       (大正5年) 辻堂堂駅開業
1923年       (大正12年) 関東大震災
1929年       (昭和4年) 小田急線長後~江の島間開通 
1937年   (昭和12年) 白百合片瀬乃木小学校開校
1938年   (  〃 13年)    〃   乃木高校開校
                 (  〃  〃   )  藤沢第4小学校開校(本町)
1940年       (  〃 15年)  藤沢市制執行10月1日を記念日とする、令和2年は80周年
                       藤沢市の木ークロマツ、藤沢市の花ーフジ、藤沢市の鳥ーかわせみ
2011年       (平成23年) 3月11日東日本大震災 (死者、行方不明約2万人)
江の島神社ー女の神
大山神社   ー男の神
石上神社は鴿沼石上町内会、皆さんの神です。」



明治十五年測量 
神奈川縣下相模國高座郡鵠沼村(後 藤沢町大字鵠沼)



「江の島」「江ノ島」正解どっち?
表記の違いを記者が追う
藤沢担当の記者として以前から気になっていた。江ノ島・江の島・江島。社名や観光施設、団体、
様々な表記がある。地元生まれの記者に聞いても「地名は平仮名だけど、駅名はノだった
ような・・」と歯切れ悪い。別の記者は「サザンの歌詞では『江ノ島』でしたね」。
なぜ表記が分かれるのか、夏の自由研究に挑んだ。【中面に関連記事】
向かった先は炎天下の江の島。開始早々、島の入口、弁天橋で3つの表記が並ぶ標識を発見した。
神社・駅・ヨットハーバー。それぞれどんなな使い分けをしているのか、早くも謎が深まる。
汗を拭きつつ石段を昇り降りし島をぐるっと一周。一見、島内の看板には「江の島」が比較的
多いが、やはり様々な表記が散見される。
「表記が混在する大きな理由は、1966年に住所表記が変更されたことが理由のようです。
ただ現在は『江の島』の表記に統一しています」。
そう話すのは(公社)藤沢市観光協会の担当者。
同担当によると、1962年の「住所表示に関する法律」の施行に伴いそれまでの「江之島」から
「江の島」に変更。その後観光促進に向けてイメージを統一するため、69年に島で話し合いが
持たれ、住所表示以外の表記も「江の島」にすることに決定。以後名称を使用する場合は江の島
とするよう市外にも協力を呼ぶ掛けたという。地元商店からなる江ノ島観光会も江の島に
名称変更。同協会では観光施設や書面などでは「江の島」表記に統一している。
「ノ」でなく「の」が採用された正確な理由は不明だが、戦後教育でカタカナ表記よりひらがな
表記が推奨されていたことも影響すると考えられている。
島外にも足を運ぶと、66年以前から存在する・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
現在は「江の島」に統一されています。



「石上神社(諏訪神社藤澤)の分霊社」
1955(昭和30)年頃、石上の渡し(上山本橋の付近)の北にあって、村民は大明神とたたえている。
昭和9年に現在地(石上2-3)に移され町の守護神。



鵠沼
鵠沼は天平時代(七三五年頃)には「高座郡土甘郷(たかくらごおりとがみごう)」(砥上)と
呼ばれていました。
又、この地に多くの「クグヒ」(白鳥古名)が飛来したことがこの地名の由来といわれ、
平安時代(一一四四年頃)には「鵠沼郷(くくひぬまごう)」、江戸時代(一八四一年頃)には
「鵠沼村(くくひぬまむら) 久々比奴末牟良と呼ばれていたのが訛って現在の「くげぬま」に
成ったとされています。」


「藤沢市保存樹木」案内。



先程訪ねた「石上地蔵」、「大源太公園」、「江の島弁財天道標」案内。



そして「 石上神社
735年頃(天平時代)当時境川沿いの砥上渡しの舟場の北に有り、
守護神で有り村民は大明神と崇めた。」



石碑が境内に並んでいた。
右から「 石上会館建設記念碑」 「土地寄贈記念碑」 「記念碑」



石上会館建設記念碑
此の会館は、藤沢市南部土地区画整理事業を機に、石上町内会員並に有志の寄付金により、
石神神社及び鳥居と神輿の新造に併せて当地に建設した。」



記念碑 」。
碑の裏には
「本町ノ守護神石上神ハ 従来町最南端低地ニ鎮座セラレシ 其ノ位置極メテ参詣ニ不便且ツ
出水ノ都度社殿碑石共ニ浸水スルノ不敬ヲ憂慮シ 昭和九年八月七日部落ノ 中央現地ニ遷座
安置シ奉ル
依テ之ヲ永遠ニ記念スル為メ 建設委員一同自費ヲ投ジ茲ニ此ノ碑ヲ建設ス
                         昭和九年拾壱月弐拾日建之」
移転の碑を建設したのが昭和九年。移転は明治29年。
さらに、昭和52年、区画整理事業で現在地に移ったようだ



そして
「​ 時宗総本山 清浄光寺(遊行寺)境内案内 ​」👈リンク。



                               ・・・もどる・・・



                 ・・・つづく・・・







お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2024.08.28 08:39:23
コメント(0) | コメントを書く
[藤沢歴史散歩] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: