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おかあさんといっしょでは「毎月の歌」が流されます。2月もオリンピックの狂騒の中「おはよう」が披露されました。しかし同じ頃、別の番組から子供向けとされる歌が流され、こちらの方が話題になってしまいました。広く知られることを良しとするなら、批判されるのも損失とは限りません。話題にしてもらえ、ある程度大きな批判でも、天の邪鬼な野次馬が批判を叩いてくれます。炎上商法なるマーケティング手法が成立するゆえんでもあります、「だから」の呪文で世を騒がせたこの歌でも、批判者、擁護者、野次馬がほどよく燃焼してくれました。作品の商品化・拡販はひとまず頓挫しましたが、作詞者の知名度があがり、好感度も決定的に損なわれるには至らなかったようです。ここまでで、本文が一定のトーンを帯びているとお感じかもしれません。おそらく、歌詞の一節に関する体験の影響です。作詞者は、歌詞は取材に基づくと主張しています。確かに「ガマンした」ことを募ったことは広く知られています。そこに寄せられた回答を丹念に抜き書き・整理した方がいらっしゃいました。その労作を拝見したので後出の「大変なことは歌詞の外にある」は自信をもって書けました。そして、回答の中から悪名高い「強がって」も見つけました。しかし、使われたのは歌詞にあるような独身時代の描写を修飾するところではありません。全く異なっていました。(これ以上は省略。元資料がアクセスできなくなれば加筆します。)作詞者は、寄せられた声から、エピソードのみならず表現まで借用したのか。しかも自分に都合が良い箇所へと場面をねじ曲げて。これが「こうなんでしょって想像で決め付けて書いてることは、一つもない」と公言した人が実際にやっていたことなのか。衝撃的でした。子供に関わる人には無意識に正直さ・誠意を期待してきたが、そうとは限らないようだ…、と思いつつ綴った結果、以下のようなトーンとなった次第です。今回の成り行きを追って、この手法に添った展開をたどるために、2つの秘訣があったと感じました。まず擁護者も、批判者も召喚できるよう、作品を刺激的でむらのある構造に仕立てていたこと、そして、ある段階で売り手がうまく振る舞って、自身を被害者、批判者を悪者の立場におけたことです。後者については、作詞者の謝罪で潮目が変わり、野次馬が元気になりました。以下は前者、作品の造りについて、少し長く書きます。歌詞は2系統の素材が補い合わないまま交互に出て来る、サンドイッチの形状になっていました。素材その一は例の呪文「だから」。これが14回でしたか、何度も登場します。この呪文に全国のお母さんに取材したと称するエピソードが挟まれます。いわば具材にあたる方ですが、こちらに微妙な調合がほどこされていました。一見、子供が育っていく過程で起きる大変なことが網羅されているように見えますが、実のところ、選択にむらがありました。「おかあさん」の独身時代から変化した行動に偏っています。その結果、本当に大変なこと(☆)は除かれており、野次馬に「これくらいなら大した事はない」と印象付けることができました。実際、描かれていることだけなら、解決できないわけではありませんし、必須とも言いきれません。甘口のカレーは離乳食同様、家族全員が食べる必要はありません。子供の食べる量が把握できれば、全部食べられることも毎回ではないでしょう。テレビ番組は、録画して余裕のある時間に視聴すれば解決です。批判者を「こんなことも我慢できないわがままな輩」と誤解することは簡単で、現にそのようなコメントで埋められた掲示板も残っています。☆大変なことを含む全貌を直視した例として念頭に置いているのは、2014年話題になったこちらの動画です。次に、この歌を受け入れた方々です。作詞者にとってのお客様。この方々にはこの歌の「だから」が癒やしになります。強く批判された呪文ですが、ことあるごとに「だから」と浴びせられ、それを跳ね返せない人は少なくありません。その言葉を自分に向け、親としてちゃんと振る舞えていないと落ち込む方もおられます。大変な日々の連続なのに、それを口にださない、あるいは出せない、そんな人たちは「だから」と、優しい歌声で届けられれば十分。日頃から聞かされる、あるいは自分の心の中で反復する言葉を代弁してもらえたことで、自分の大変さが理解されたという手応えが生まれます。エピソードが自然かどうかは、気になりません。さて、声をあげた方達は、まず軽量級に偏ったエピソードと「だから」のミスマッチが見逃せませんでした。歌詞にある事柄は、悲壮感ただよう「だから」の呪文で装飾するようなものではありません。繰り返しますが、大変なことは歌詞の外にあるのです。なぜ必要がないものを「だから」と強制するのか。子供に有益でもない、無意味な母親像の押しつけではないか。批判の一つは「我慢したくない」ではなく「皆が我慢する必要がないものを『だから』と強制している」ことから起きたのです。ここまでで、擁護者、批判者、野次馬ともども存分に主張するリングが整ってたことがわかります。素材をちぐはぐに組合わせた癖のある作品は、質としては落第でしょうが、商品としてみれば一つの反響が別のリアクションを生み、より広範な層に浸透してゆき、利益を生むことができます。作詞者は、この効果を秘めた刺激的な商品を送り出し、一定の成果を上げてきました。ただ、このやり方で被害を被る層を忘れてはいけません。子供達です。そして、批判のもう一つの理由は、子供向けの番組で流されたことでした。この歌詞での描写を全体像と言い切れないことは、既に書きました。自分たちが思ってもいない事が子供に刷り込まれてしまう。いや、そもそも歌詞に込められたメッセージは子供達に伝えてよいものなのか(☆☆)。その事への警戒が、批判を大きくし、更にこれまで子供・親の心に響く数々の歌を届けてくれた横山だいすけさんを巻き込んだことが決定的でした。まさに親「だから、こんなに怒れ」たのです。☆☆歌詞にあげられたエピソードのうち、3~4程度はこのリストにもあるように思われますが、リストのタイトルはどうなっているでしょうか。作詞者にとって、今回のバランスシートはどうでしょうか。予想外の批判が応えたように振る舞っていますが、知名度が上がったことでよしとするべきでしょう。あとは講演の場でフィクションをおりまぜて美談に仕立て上げ、擁護者の結束を固めることです。展開如何で、長い目で見れば収穫あり、となるかもしれません。少なくとも、今までの手法を考え直すきっかけにはならないと思われます。ですから、この作詞者が流通させる商品の危うさを改めて実感した人たちは、これ以上子供達が毒されないように、働きかけを展開するほかありません。良貨が駆逐される事が宿命である経済の論理に対抗するには、説得力と粘りが数少ない貴重な武器です。(2月24日5時冒頭加筆)
2018/02/13
映画 "FAKE" (2016年) に関するいわゆるネタばれを含み、特に「衝撃の12分」に関しても言及しています。また、ストーリーをなぞったりエピソードを網羅する内容ではありません。この映画の内容に触れたくない方、あらすじをご存じない方は、以下の記述をお読みにならないことを、強くおすすめいたします。5.S氏の視線は終盤の12分の作業風景。ここでS氏は補聴器らしきものを用いて器具が発する演奏音をとらえようとしていました。音を鳴らすのが困難なはずの左手も援用しています。それまでの説明と完全に矛盾しますが、その様子からなりふりをかまっていられない必死さが伝わってきました。もう一つ必死さを感じたのは、構想を書き散らしたメモが映り込んだときです。交響曲第「2」番での無機質的な整頓ぶりと対照的な、訂正のあとが残る走り書き。何かが生まれようとする現場にふさわしいのはどちらでしょうか。さて、できあがった作品ですが、クオリティはあえて書きません。ただ、例の交響曲には類似した雰囲気の箇所がありました。以前辛辣に評した第2楽章終盤の鐘が鳴る場面もそうです。N氏の論に立てばS氏はこの曲に自作の素材を提供しておらず、従ってこのような部分すらN氏に丸投げしていたことになる。それならば、自力で到達できた意味はご本人にとって大きいといえます。こうしてM氏の圧迫に応え、それなりの達成感を得てようやく視線が未来に向かおうとしかけた矢先に、M氏のとどめの一言が刺さります。S氏の一定の高揚感をほとんど無視してとっておきのキラーワードを口にする。今日で撮影は終了。用済みになるS氏の心情などどうでもいい。大事なのは「この場でそれが言える自分」を映画に刻むこと。被写体は利用するだけ、M氏がこの点において言行一致の人であることが見事に示されていました。M氏が最後の一言をどれだけ大事にしているかは、自身の手になる海外での映画祭手記で報告していました。スタッフロールで席を立つ観客をみたときのあわてふためき方。それは、流れていたS氏の作品が観客を引き留める力を持っていない、そのことの傍証でもあります。M氏の一言の結果がその後のS氏です。燃え上がりかけた自力での創造への展望に水を浴びせられ、視線は未来からふたたび過去へ。過去の報酬へのこだわりに終始するあのS氏に回帰しています。せっかく購入したシンセサイザーが再び使われることはあるのでしょうか。
2018/02/08
映画 "FAKE" (2016年) に関するいわゆるネタばれを含み、特に「衝撃の12分」に関しても言及しています。また、ストーリーをなぞったりエピソードを網羅する内容ではありません。この映画の内容に触れたくない方、あらすじをご存じない方は、以下の記述をお読みにならないことを、強くおすすめいたします。3.「人間を超えた」指示書Wikipedia などでは完成したことになっている交響曲第「2」番。一方N氏はピアノスケッチ段階で頓挫したと自著で語っています。映画ではこの第「2」番にまつわる資料が現れるときき、さすがに関心を持っていました。演奏時間はなんと 110分。どんなボリュームになるのだろう。ロ短調ミサ曲(バッハ)の演奏時間が平均2時間くらいかと思い、持っているポケットスコアをみると350ページありました。さて、思わせぶりにS氏が持ち出した超大曲の指示書は。クリアーフォルダに楽々収まる全く厚みが感じられない紙数枚。例の香ばしさが漂う時間軸に沿ったチャートがここでも顔を出します。印象深かったのは異様な整い方です。訂正が一切ない。芸術作品の構想段階を書き留めたものが、このように「固まった」状態になるでしょうか。(これの10倍くらい詳しいものを作ったとも言っていましたが、その過程で加筆訂正された形跡も見あたらないのが不思議です)この指示書なるものはNR誌の取材でも持ち出されていました(音が伝わらん で済まされていましたが)。従ってS氏が「昨日発見した」と大事件のように指示書を披露するのは、取材のさらに前、すなわち実質1年3ヶ月の撮影最初期です。映画では1時間20分経過後でしたが。========ここで映画を離れますが、こんな状態の「曲」を賞賛した人がおられるらしい。ことあるごとに日本人のクラシック受容のありかたを批判し、最高級の欧風生活抜きにクラシック音楽の享受はできないとのたまうお方。この方が「美しい、人間を超えた宇宙だ」なる賛辞をこの「曲」に寄せた、との書き込みをS氏全盛期に見かけました。ねつ造ではないかと思いつつ、同じ表現に複数の箇所で出会ったため、実在の可能性も感じていました。今回の遭遇で改めて真偽をを知りたく、今はほとんど抹消されている当時の情報を漁ると、どうやら2013年六本木ミッドタウンで開催された「HIROSHIMAの世界展」のパネルないしリーフレット内に、このセレブ評論家殿によるメッセージがあるとの情報がわずかに残っていました。一瞬ですが、この展覧会を逃したことを後悔しました。上記の可能性を前提とした疑問ですが、最上級の文化を享受してご自身の素養を高めてこられたこの先生は、何から人間を超えた宇宙を感じ取られたのでしょうか。もしかして映画に出てきたチャート?だとすればどのあたりに超人的境地を認められたのでしょうか。「大ロマン」と「マーラー」が同時に響くように上下に書かれているところでしょうか、「ヴェーベルン12音」に続いて「ベルク」への転換が指示されている(念のために書きますがすべて文字)ところでしょうか、それともマーカーの色?========映画の指示書に戻ります。S氏が本当にこれを作曲の一部(というより骨格)だと主張されるなら、広く公開されることを提案します。クラシック界、より広く音楽の世界に通用する主張ならば、どこかの「技術屋」さんがその価値を認め、完成させたいと名乗りを上げられることでしょう。複数名おられれば更に好都合。それぞれの方に進めていただき、同じ作品ができあがれば、まさしく大曲の設計図として機能したことの証明となるでしょう。今からでも遅くはありません。日本の調性音楽復権のためぜひご決断を。4.鍵盤と豆乳とタバコこのパートで最初に確認したいのは、自伝(私の云うところの台本)「交響曲第一番」の真偽に関するS氏の認識。現在絶版になっていますが、S氏は「音楽修行については偽、その他については真実」と出版社の質問に回答しています。従って、自伝中縷々語られる艱難辛苦について真実だと明言しています。そのことは承知していましたから、映画で語られた「シンセサイザーを捨てた理由」は噴飯物でした。NR誌取材で「(引っ越し前の)部屋が狭かったから」と説明しましたが、自伝の描写は大違い。指の酷使が招いた腱鞘炎から左手の指がピアノを弾けなくなり、鍵盤を見るのに耐えられず売り払ったことになっていました。その後自作の旋律を音化する必要があったので買い直したという記述もありますが、わざわざ自伝に明記したこのエピソードが本当なら、黙っている必要は全くありません。次に病歴と飲食嗜好品の矛盾。喫煙しコーヒーをためらいなく飲む姿に「ああ、やっぱり」と幻滅しました。自伝中執拗に描いていた闘病録の中に過敏性(大)腸症候群があったことをお忘れなのでしょうか。「一生症状とつきあうことになる」という医師の診断まで添えていたのに。この病気を説明した大多数のサイトでは、注意事項として、喫煙とカフェインの摂取は控えるよう忠告しています。同じ理由で豆乳1リットル飲みも笑えませんでした。成分無調整豆乳が消化器の弱い人にそのような影響を及ぼすか、確たる助言には接していませんが、私は同じメーカーの豆乳飲料でときどきピンチになります。映画のような暴飲は弱い消化器に悩む人の振る舞いと思えません。コーヒーについてはかのNHKスペシャルにも自宅内で飲もうとする場面があり、歩行もままならない体調との食い違いが気になりました。放映当時不審なものを感じた人はいなかったのでしょうか。続いて、小道具としてのタバコについて。終盤の12分はM氏の提案に応えたものですが、その提案中に「(できあがるまで)タバコをやめる」というM氏の言葉があります。頻繁に取り上げられていますが、S氏に与える圧力を考えたものにはごく少数しか接していません。撮影期間中M氏とS氏は時々ベランダでタバコを共にしていました.時に信頼関係を会話で確認しつつ、回数を重ねる喫煙タイム。同じ釜ならぬ同じ場所でタバコを共にする仲となった2人は徐々に打ち解けてゆきました(少なくとも表面上は)。タバコをやめるという宣言は、その関係を絶つという宣告でもあったのです。終盤の12分はS氏をそこまで追い詰めた故の産物だった、私はそう感じています。
2018/02/07
映画 "FAKE" (2016年) に関するいわゆるネタばれを含み、特に「衝撃の12分」に関しても言及しています。また、ストーリーをなぞったりエピソードを網羅する内容ではありません。この映画の内容に触れたくない方、あらすじをご存じない方は、以下の記述をお読みにならないことを、強くおすすめいたします。1. 時系列と早すぎる「転」映像作品は、当然編集を経て私たちに届きます。初歩的な手段の1つが、時間軸上を操作して「わかりやすく」エピソードを配列すること。特にこの映画については公開前後に多数流された宣伝企画から、エピソードの配列に注意すべきだと考えていたので、あるシーンに注目しました。海外メディア(New Republic誌 以下NR)からの取材は、この映画を語る際必ずといっていい位言及されます。S氏の作曲への関与について証明できるものを求め、S氏は納得が得られる論拠を示せません。序盤で映された法律事務所でバッジをつけた職員が自信たっぷりに存在を請け合った「カセットテープをCD-R化した証拠(言うまでもなく複数作成可能)」はどこに行ったのでしょうか。この取材はいつ行われたか。映画では1時間半経過したところでシーンが始まります。ここまでなんとなく育ってきたS氏の言い分に共感しかけていた気分を揺さぶられる、起承転結で言えば「転」の役割を果たす取材。自然に撮影期間の後半に起きたと印象づけられます。後続とのつながりも自然で、「終盤の12分」との連続性を当然としている感想が少なくありません。この映画を厳しく批判するK氏(代作問題記事の著者)も「記者が帰ったあと…」と、「終盤の12分」へのつながりを当然としています(「間に俺が幕張でNと対決しているだろうが、バーカ」と舌を出している御人がいるかも)。本作にまつわるカレンダーは簡単に作れます2014年2月 代作(/共作?)問題発覚 (皆様ご存じ)2014年8月 M氏、S氏に接触 (M氏申告)2014年9月 撮影開始 (M氏申告)2014年11月 映画タイトル後の会話(「事件後9ヶ月」と語られる)~2015年大晦日 報道・バライティ番組の出演交渉 (常識にて判断)2015年1月 NR誌取材記事における取材 (NR誌記事中にて)2015年3月3日 NR誌 記事公開2015年3月27日 M氏K氏を直撃-不発(当日授与された賞状の日付)2015年5月7日 スポーツ紙・夕刊紙にドキュメンタリー進行中の報道 (皆様ご存じ)2015年6月 嵐山での撮影 (M氏ツイッター。ただし二次情報経由)2015年6月30日 「音楽という真実」出版記念イベントM氏とN氏初接触 (出版社告知)2016年1月 クランクアップ (M氏申告)撮影開始は2014年9月とされていますが、導入の会話で「事件後9ヶ月」と語られますので、11月を起点とすればクランクアップまでの期間は1年3ヶ月。NR誌の取材は2015年1月です。つまり3ヶ月目。制作陣には、この時点で早くも「転」が訪れたわけです。S氏は曲への関与について主張を繰り返すが、満足に実証できない。そのことが、早くも明らかにされてしまった。クランクアップまで残りの1年間、それを前提に素材が集められ、映画に組み込まれたのでした。なんと申しましょうか、まあご苦労様としか…。2.敵役へのジャブN氏周辺へのアタックですが、面白いことに、こちらの時期は後へとずれました。どちらもNR誌取材の後です。2015年3月に対K氏突撃(不発)、そしてN氏への奇襲は2015年6月30日、「見方を180度変えてやる」という宣言とともに撮影の進行が公になってからです。NR誌取材以降、外部との接触は2回の奇襲を除けば嵐山での面会。これもK氏への批判を含んでいるので、N氏、K氏を意識したものばかりだといえます。さてN氏への奇襲ですが、かき回しぶりがもう…。撮影禁止が常識のイベントへの撮影機つきアポなし乱入、例の宣言でけんかを売った上での取材予告、しかもイベント乱入後2月以上の放置。取材申し入れは9月(初接触の2ヶ月以上後。一体何をしていた。「いっぱい時間はあった」のに)。S氏との間で「信じる?信じない?」と花占いごっこをしているのとは好対照。こちらは信頼関係を作ろうともしないアプローチに終始しています。相手が断るのを期待するやり方。「本当に」取材する気ある「のかよと僕はいいたい」。おかげで十分な戦果があがりました。N氏は応じなかった、「逃げた」との印象操作ができたのですから。このいわば「敵役へのジャブ」は最初から計画されたものだったのでしょうか。S氏周辺だけではどうにも「取れ高」が稼げないと感じた故の路線修正、その産物かもしれません。
2018/02/06
映画 "FAKE" (2016年) に関するいわゆるネタばれを含み、特に「衝撃の12分」に関しても言及しています。当初厳重に口外無用とされていましたが、今や監督殿(以下M氏)も平気でばらしておいでですから、もやは制約はないと判断します。ストーリーをなぞったりエピソードを網羅する内容ではありません。その種のものはすでに十分流布しています。かような次第故、 この映画の内容に触れたくない方、あらすじをご存じない方は、以下の記述をお読みにならないことを、強くおすすめいたします。新垣氏のイベントに参加できたのはCDを購入したからでした。当時「S氏N氏関連」での出費先は2つありました。一方はこのCD、もう一方が"FAKE"と称する映画です。この2人に関わる曲については2度書きました。関心があったのは曲です。S氏とN氏、どちらも私と接点を持たない個人以上の存在ではありませんでした。ですから、人同士の関係を蒸し返すドキュメンタリーには二義的な興味しか抱きませんでした。さらに映画にまつわるネット上のあれこれの中に観賞意欲をはなはだしく萎えさせるものがあって(今のところ特定は控えます)、この作品に出費したり時間を使うことはやめることにしました。その結果がCDの購入、イベントへの参加とつながっていったことになります。映画への関心が皆無だったわけではありません。作品中唯一流される曲のクオリティ、そして交響曲第「2」番が結局どのような姿になっているかは知りたいと思いました。しかし、本当に一部で力説されるような名曲ならば、何らかの形で流通するだろうと割り切りました。2017年7月になると、幸か不幸か加入していたCSチャンネルがこの映画を放送し、自宅に居ながらにして観賞が可能となりました。それならばと時間は使うことにし、勉強させていただきました。ふむふむ、これが「ドキュメンタリーは○を○○」と公言する方のやり方か、などと心の中でつぶやきながら。稿を改めて、その時の印象を書き留めてゆきます。ただし、かなりひねくれた接し方をしたため、内容は変則的です。つぎのとおり。 1 時系列と早すぎる「転」 2 「敵役」へのジャブ 3 「人間を超えた」指示書 4 鍵盤と豆乳とタバコ 5 S氏の視線は
2018/02/06
もう1年数ヶ月前になります。2016年11月のある休暇をとった日、夕刻銀座を訪れました。これまでN氏と呼んできた新垣隆氏が、本人名義で世に出した曲を収録したCDが発売されその記念イベントに参加することができたのです。CDの中心曲は数ヶ月前初演された交響曲。「連祷」と題された40分程度の曲です。S氏名義の交響曲の世界と類似性が感じ取られ、現に「模倣」との指摘もありますが、かつて改作を提案したことがあった私は、演奏可能な曲を世に残すという責任を果たす意味もあり、一度は作っておくべき曲だったと解釈しています。「改作より新しく作った方が早い」とばかりに新作を生み出したのがこの方らしく、ずるずると楽曲を提供し続けたS氏との関係について、この方が説明してきたことを裏付けてもいます。さて、会場の楽器店・コンサートルームは8分の入り(後方が報道用に空けてありました)。前方には白いピアノが置かれていました。イベントが始まり、新垣氏が登場。大半は新垣氏へのインタビューで、こちらの内容は既に流通しているものがほとんどでした。せっかくピアノがあるのだからと促されて、氏が鍵盤に向かってからの数分間が、来てよかったと思わせる貴重な体験となりました。氏はこの交響曲の抜粋を披露したのです。楽譜なしの演奏で暗譜なのか即興なのか、いずれにせよ、この曲を演奏できる形で完全に自分のものにし、頭と指に覚えさせていることを明らかにしていました。定評のあるピアニストとしての技量以上に、このことが強烈な印象を残しました。その後サイン会が開かれました。言葉を交わすチャンスだと思い、列に並びました。「これからの取り組みで発信される音楽が、少しでも多くの人の心に伝わるものでありますことを願っています」と申し上げ、こちらは謝意とともに受け入れてくださいましたが、聴いたばかりのピアノについて「圧倒されました」と伝えたことには予想とは違う反応を示されました。「いやいや、とんでもない」というようなことを小声でおっしゃり、最初は謙遜なのかと思いましたが、真顔で首を振るご様子から、本気を感じました。真意は何だろうか。あの程度を自分の力と思われては困る、という趣旨だろうか。S氏が「技術屋さん」と呼ぶ芸術家の神業と、こんなものではないぞという矜持。「こんなものでない」のは新垣氏の技量か、それともクラシックの奥深さか。まだ底を見届けていないという不確かな気持ちが、今でも記憶に残っています。
2018/02/05
前回取り上げた「ふゆーん」の歌は今年1月の歌でしたが、その1年前、2017年1月の歌は「ふゆのあいだ」でした。オリジナルは横山だいすけ・小野あつこの当時のお兄さん・お姉さんの歌声で流れていました(最近ゆういちろうお兄さん・あつこお姉さんのバージョンも披露されました)。夏に活躍していた扇風機や風鈴などは冬の間どうしているだろうかという発想で、歌も素敵でしたが、添えられたアニメーションが世界を大きく膨らませてくれていました。お父さん、お母さん、男の子の家族の生活風景を描いたものでしたが、最初は赤ちゃんの男の子が、少しづつ年を重ねてゆくのです。歌の時点は冬なので、ある年の冬に固定されているようにも感じられますが、映像では冬、夏、次の冬、秋、その次の冬…と時の経過をたどってゆきます。歌は桜のつぼみが入園式の季節に花開くことを楽しみに待つところで締めくくられ、映像も幼稚園入園を描き、さらに年を重ねてゆく様子を暗示して終わります。目の前のお子さんが、ずっと今のままではなく、ゆっくりではあっても大きくなってゆくことを伝えてくれる。今の育児に精一杯のお母さん、お父さんに、その先を思うゆとりをひとときでも持たせてくれる映像でした。eテレの年少さん向け番組の歌にはお兄さん・お姉さんの歌声と映像がセットとなってインプットされるものが多いのですが、この作品はとりわけ映像の効果が印象に残っています。今月に入って、だいすけお兄さん(今でもこの呼び方に違和感を覚えません)の歌った歌が残念な形で反響を呼んでいます。件の歌を直接取り上げることはしたくありません(言及すれば暴走しそうで…)。1年ほど前に同じお兄さんがかかわった歌を語ることで、考えていることを暗示するにとどめます。
2018/02/03
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