全5件 (5件中 1-5件目)
1
『治療のこと慎重たる可きはもとよりなるも、いたずらに無事である為に用心し、又余分な安静を強いて慎重のつもりなる人あれど非也。安静は休養の為要る也。休養は疲るるが故に要る也。疲れたる人に安静を教へることもとより必要なこと也。されど疲れ抜ける人、疲れざる人を、安静ならしむれば弛むだけ也。弛めば人間の本具のちから発揚されず、耐え得可きに耐えられず、経過し得可きに経過し得ざるに至る也。それ故安静をすすむること必ずしも慎重なるに非ず。ただ安静の必要なる時に安静ならしめ、安静を破る可きに破らしむるのみ慎重という也。然るに安静そのものを慎重と思い違へて、いつ迄もいつ迄も安静を保たしめ、安静を破ることを脅怖して安静の為に安静を強いて慎重のつもりの人おる也。是れ治療する者の不安の為、患者に余分なことを強いている也。之によりて安静を保つは治療する者のみ也。安静という形を保たしめられている病人はいよいよ不安になり、心騒ぎ胸ときめかしている也。自分の心の安静の為、起く可き人を寝かし、働く可き比とを休まし、食ふべきに食はしめず、鍛錬す可きに保護している人は反省す可き也。之らのこと慎重のつもりで行っている人見たら、受くる人は心して治療する人の足もとを見る可し。之慎重に非ずして治療する人の腰が抜けている也。このことを見定めず、ただ安静に終止しておれば自分の腰もぬけてしまう也。治療する人、起くるに起こし、働くを働かしめ、休むを休まし、食ふを食はしめ、鍛えるを鍛え、護るを護って誤り無きのみ治療といふことに於ける慎重なること会す可き也。用心の為に用心し、余分に護らねば自分が不安になり、余分に休ましめねば自分の心休まらず、為に余分に守り庇っている人あるも、是治療ということしらざるの人也。 治療とは人を彊(つよ)くすること也。治療とは自分が苦しんでも人を楽にすること也。自分の心を楽にする為、人に余分なこと行はしむることに非ず。されど斯くの如きことせぬと用心無しと思ふ人もある也。之らの人、用心に用心をする急処あり機あることを解さず、寝て脚の太くなるのを待っているの人也。されど脚を動かさばふとくなるをのみ知って、余分に動かしむるも又不可也。慎重といふこと用心に終始することに非ず。されど用心を忘るるはもとより慎重に非ず。』これを読んで私が思い出すことは、自分が研修医だった時代に、患者さんの退院時期をいつにするかで多いに迷った事です。特に患者さんの入院当初の状態が重症であった場合や、過去に入退院を繰り返していた人の場合はいつ迄入院での治療を継続すべきか、いつ日常生活に復すべきかアドバイスに迷いました。今は、患者さんの脈を見て、舌を見て、声を聞き、顔つきと肌のつやを見れば、安静にすべきか否かに迷う事はほとんどないのですが… 。そして、もう1つ思う事は、この安静や活動についての指示というのは、ある部分では医学のパターナリズムがもたらす問題点とも関係しているということです。つまり、医者や治療者が『安静が必要です』とか、『仕事を再開しても良いでしょう』などと言う迄、決して自分で判断しない人もあるということです。今日の外来に、今年の春から夏にかけて、私の意見を参考にして半日断食を繰り返して長年のパニック発作や鬱状態から離脱した30代の男性患者さんが来院されました。その方が今日私に話してくれた言葉は『先生、断食をして今の体重になってからというもの、何だか体の状態に敏感なっています。今だったら、もし体のどこかにガンでも出来たら自分で感じられると思います。』というものでした。時分の肉体や心の状態に対して目覚めている事、そして自分という船の船長としてその舵を手放さない事、それが一番大切なのだと思いださせてくれる言葉でした。
2004年12月27日
コメント(4)
治療ということ、直ちに生命の問題也。失敗すれば生くるものをも殺す也。大事とらざる可からず。その故に一生懸命に治療のこと行ふといひし人あり。されど治療のこと一生懸命に行ふ可からざるものにして常に楽々悠々行ふ可き也。一生懸命にならねば行へぬような治療為す可からず。治療して効ある迄不安あり、効あがれるを見てホットするが如きは治療の力養はざるの人也。当たり前の事が当たり前に行はれて当たり前の気持ちでその経過を眺めている者のみ治療といふことを行へる也。良くなって喜ばず、悪くなって慌てず、いつも平然として治療のこと行ひ得るに至りて治療ということある也。失敗したら腹を切ると覚悟して治療のことを行うという人あれど、その決心には賞す可きものあれど、治療のことその決心無く行ひ得るに至りてのみ為す可き也。失敗して腹切ったとてとり返しはつかざる也。失敗せざるにしく無し。偶中を期して行うべからず。気張り又勇を鼓して行ふ可からず。ただ心静かに期することありてのみ為す可き也。一切の試みは不可也。いのちかけ替えは誰ももたぬ也。治療のこと徹底的に慎重たる可き也。
2004年12月24日
コメント(2)
本文の前に野口先生の前書きがありました。『生くる者は生くる也、死ぬ者は死ぬ也。このこと昔より少しも変わらず。細胞の不老不死なることみつけても、その塊りである人間の体に於いて不老不死を実現せることかつて無く、今後医学がどのように発達し進歩したとして、人間はいつか死ぬこと覚悟して生きざる可からざる也。 医術の進歩著しく、ペニシリンを見つけ、ストレプトマイシンを発見し、次から次へと、新しき薬、新しき治療法、工夫されれど、出産に四十週をようすること百万年前と毫も変わらず。如何ように工夫しても細工をこらしても、無智の人の易々と造る人体のその一部すら智慧で造ること相叶わず。生命の自然ということの前には儚(はか)なき智慧なることもとよりなるも、治療のこと、この限界のうちに行はるる也。百年か二百年生くれば長く生きたつもりになって、千年万年生くること想像だに出来ざる頭のはたらきにて治療のこと行ふことハッキリ知りおかざる可からず。病菌を殺す事出来ても、病毒を無毒にする工夫、ついても、いのちのこと、生くるは生き、死するは死するより一歩もはなれること出来ぬ也。是最新の医学を修めた人が最新の薬や道具をかかえて「御寿命ですなア」と申す事やめざるも不思議無き也。人間の智慧狭き也。その狭きによりて治療の事なすを得るは生命の自然に順ふこと会するが故にして、之とはなれて治療ということ無き也。生命の自然に順ふに於いてのみ生くるに生くる道ある也。この道会して治療のこと行ふ也。それ故治療のこと如何に進めど生くるは生き、死するは死する也、治るは治るも、治らざるは治らざる也。治療といふこと、その治りゆくを経過させる技術也。ラヂウム積んでも、レントゲンの機械並べても、生くるはたらき無ければ治らざる也。どんな新しき治療法発明されても、生きている人に非ざれば、治るということ無き也。工夫と細工で治すこと出来るつもりのうちは治療といふこと未だ会さざる也。』人には『先天の気』があり、また生まれる前から『定まった禄』があります。地上の肉体に関して言えば、食を正しくして他の命をむさぼらず、むしろ節制して天に禄を積むことが出来ない限り命を長らえる事はできません。『生くるは生き、死するは死する也。』『生命の自然に順ふに於いてのみ生くるに生くる道ある也。』人の病と回復、生と死の実際において、これはまさしく事実なのです。
2004年12月21日
コメント(0)
先週の土曜、日曜はバッチフラワーの国際教育プログラムの部分講師として青山のバッチホリスティック研究会で過ごした。参加者のお一人から、既に絶版になっている野口晴哉先生の『治療の書』をお借りした。貸して下さった方はこの書物の内容が『バッチ博士の遺産』に収録されている「汝自身を癒せ」と大変よく一致しており、また、野口先生の語られる言葉は覚った人の言葉とも一致していて感動したと語られた。私も一読してその内容の素晴らしさに心を打たれた。ここに紹介する。『治療の書』序:再販について 全生季刊の席でいろいろの話しが出ていた時、源氏鶏太さんが突然治療の書って良い本ですナア。全く充実している。もう先生としても訂正することも、書き足すこともないでしょう。あれを出しなさい。あれが良いと言われた。 元来治療の書は私がまだ治療ということを懸命に為していた時、自分の為に記したようなもので、売るつもりも、他人に理解して貰うつもりで記したものでもない。それに、現在の私は整体指導をして治療は捨てたのであるから、全く思いがけないことだった。戦後の紙の無い時代に王子製紙の江田さんから紙を贈られて読本をつくった時、紙が余って、小さな本ならもう一冊出来ると印刷所にいわれて急につくったもので、人にほめられようとは想像もしていなかった。ズーット先の何時か、誰かが読んで役立ててくれるだろうとは考えていたのだ、こう早く、しかも源氏さんおような大家から褒められたのだから、全く意外であったが嬉しかった。治療を捨てたときから捨ててしまった書物だから、再販することなど少しも考えていなかったが、たってのおすすめで、もっと恰好の良い形にしなさいと列席のひとからも注文されたので思い切って、組み直して発行することにした。当時の原文のままだが、しかし今の自分にとって一つだけ付け加えたい原稿があるので加える事にした。之でいいたいことは言ったと思った。 四十年治療ということに従事していたのだから仲々忘れる事の出来ない事が多かったが、之でスッパリ忘れることが出来る。昭和四十四年十月 野口晴哉次回、『治療ということ』
2004年12月20日
コメント(5)
先月参加した講演会や研究会の内、最後のホメオパシー症例検討会で学んだ事の報告を書けないまま月も変わり12月半ばに至った。堀耳鼻咽喉科医院で開催された症例検討会では、九州から参加された後藤先生という内科の先生から、大変詳細な症例報告があり、その患者さまにレメディーを選ぶにあたり、モダリティーが大変参考になった反面、『気質』『根本体質』をなかなか把握出来なかったという報告があった。実はその後、ホメオパシープロジェクト(http://www.ewaf.net/homeopathy-project/seminar.htm)で金のレメディーについて勉強した際に、「モダリティー」、「センセーション」、「ロケーション」がホメオパシーの診断に関連してもつ意味、その捉え方も学んだ。ラジャン=サンカラン先生のテキストを使っての読書会だが、得るものが多い。ただ、理解が深まった分、ホメオパシーの診断技術に関連した発言は、正確な言葉を用いた十分な説明がなければ、読む人にも理解出来ないだろうという事も理解した。このために、堀耳鼻咽喉科医院でのホメオパシー症例検討会の報告は簡単には書けないと思うようになった。ホメオパシーとバッチフラワーへの探求から、ホメオパシーを理解しようと努める事は、人間と自然の生き生きしたつながりを理解しようとする事であり、同時に、変化して止まない人間の変容への総合的認識方法の探求にもなると体感した。今後、ホメオパシーに関連した事は、厳選された言葉で、きちんと述べる事ができるようになった事柄だけを少しづつ記載してゆきたい。
2004年12月14日
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1