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「本当に、わたしについてきても宜しいのですか、ユリノ様?」「何を今更。わたくしはあなたとともに行くと言ったでしょう。」シンがユリシスの黒い瞳を見つめると、彼はふっと笑った。「もう覚悟を決めたんだね。エリスとはもう敵同士だよ。」「いずれこうなると思っていたから、お前と行くことに決めたんだ。」吹雪がシンの金髪を乱れさせ、彼は前髪を鬱陶しげに前髪をかきあげた。「これをどうぞ。」ユリシスがそう言ってシンに差しだしたのは、蒼玉(サファイア)の髪留めだった。「ありがとう。」シンはユリシスから髪留めを受け取ると、慣れた手つきで髪を纏めた。「下ろした方も似合うけど、結いあげた方が似合うね。」「こんな高級そうなもの、何処で盗んだの?」シンの言葉に、ユリシスは低い声で笑った。「酷い言い草ですね。これはわたしの唯一の肉親であった祖母の形見です。」「唯一の肉親であるお前の祖母が、こんなに邪悪な魔導師となった孫の事をどう思っているんだろうね?」シンの皮肉を、ユリシスは軽くあしらった。「残念ですが、祖母は亡くなりましたよ。何年も前に。」「へぇ、そう。」シンはさっさと雪の中を歩いていると、ユリシスはフードの裾についた雪を払ってシンを追い掛けた。「こうして黙って歩くのもなんだから、わたしが昔話でも聞かせてあげよう。」「あら、それはありがたいこと。是非お聞かせ願いたいものだわ。」シンは宮廷用の作り笑いを浮かべてユリシスを見た。「わたしは南部にある、汚くて猥雑とした港町に生まれてね。母親は船乗り達相手に媚を売る娼婦でね。彼女は貿易会社の二代目社長に入れ上げた挙句、堕胎の機会を逸して生まれたのがわたしさ。」ユリシスは滔々と、己の生い立ちを話し始めた。 南部の港町・パディシャイアに生まれたユリシスは、娼婦の息子であるという出自を恥じ、必ずやこの国の頂点へとのぼりつめてやると、幼い頃から野心を抱いて生きてきた。だが底辺の掃き溜めに居る限り、己の人生は変えられない―そう思ったユリシスは、実父であるアントニオに会いに行った。「お前が、あの女の息子なのね?」 アントニオの母・グラゼーラは、ユリシスを引き取って育てた。両親に育てられず、祖母による厳しい躾を受けたユリシスは、彼女が会社の実権を掌握していることを知り、従順に祖母に仕えた。にほんブログ村
2012年07月18日
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「シン・・ユリノ様、どうしてこんな男と一緒なのです?」エリスはシンの隣に立っているユリシスを睨みつけながらそう言うと、彼は肩を竦めた。「随分な言い様だね。でも旦那さんと再会できたのはわたしのお蔭なんだから、感謝して欲しいね。」「感謝? 罪のない人々を虐殺した殺人者の癖に、よくそんなことを平気で言えたものだな!」紅い双眸でエリスがユリシスを睨め付けると、彼はそれに臆することなく、睨み返してきた。「エリス、あなた彼の事を誤解しているのではなくて?」「ユリノ様、あなたもこの男の悪辣さをよくご存知の筈でしょう?」「わたくしは今まで、彼の事を誤解していたのです。」そう言ってシンはエリスを見ると、彼女は冷たい瞳でシンを見返した。「ねぇエリス、これまでわたくし達は自分の都合が良いように物事を解釈していない? ユリシスが悪者だと一方的に決めてはいけないわ。」エリスはシンの言葉に耳を疑った。 国が混沌の渦中へと巻き込まれる前、シンは家族を殺したユリシスを憎んでいた筈だ。それなのに、何故今になって彼を擁護するような発言をするのだろう。「ユリノ様、あなたはこの男を・・あなたのご家族を殺した男を心底憎んでいた筈だ! それなのに・・」「わたくしの家族がこの男に殺されたことは揺るぎ無い事実です。でもわたくしは、敵と手を取る事にしたのです。」シンはそう言った後、深呼吸するとエリスを見た。「エリス、あなたと会えて良かった。」「わたしも、あなたとお会いして良かった。」「あなたの友情が永遠のものである事を、信じるわ。」シンはそっとエリスを近づくと、彼女を抱き締めた。「さようなら、エリス。」シンはエリスから離れると、ユリシスの方へと向かった。「親友との別れは済ませたね。さぁ、行こうか?」「ええ。」シンはエリスに背を向け、ユリシスとともに元来た道を戻っていった。(ユリノ様・・)親友の姿が吹雪の中へと消えてゆくのを、エリスは静かに見ていた。にほんブログ村
2012年07月18日
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吹雪によって山間部の村は外への峠道が封鎖され、南部軍はこれ以上進軍する事を断念した。「まだエリス様は見つからないのか!」南部軍のリーダーはそう言うと、部下達を睨みつけた。「はい、まだ見つかりません・・」「吹雪が止んでくれればいいものを・・」骨まで凍えそうな寒さに、リーダーは歯をガチガチと震わせた。 1年中温暖な気候に恵まれた南部で生まれ育った南部の若者達にとって、北部の厳しい寒さは耐え難いものだった。(エリス様が見つかり次第、彼女が持っている“至宝”を奪わなくては。)リーダーは宿屋の窓から、白く彩られた村を見た。「邪魔するよ。」ノックの音とともに、黒衣を纏ったユリシスが滑るように部屋の中へと入って来た。「何の用だ?」「少しね。冬の寒さに君達が相当参っていると思ったからね。」ユリシスはそう言ってバスケットをテーブルの上に載せた。「これは?」「熱々のトマトスープだよ。それにしてもエリス様を探しているんだろう? わたしなら、君達の力になれるよ。」「それは、どういう意味だ?」ユリシスはリーダーの耳元で何かを囁くと、ドアの方へと振り向いた。コツン、と靴音がして、黒貂のコートを羽織ったシンが部屋に入って来た。「あなたは、ユリノ様?」「ユリシス、一体どういうつもり? なんで帝国の敵なんかと・・」「誤解しないでくれよ、ユリノ。君と彼らをわたしが引き合わせたのは、ある目的があるからだよ。」「ある目的?」シンは真紅の瞳を険しく光らせながら、ユリシスを見た。「これを使えば、いいと思うよ。」ユリシスはそう言うと、シンにあるものを見せた。「これは・・」彼が持っている懐剣は、母が自害した時に握り締めていたものだった。「なんで、あんたが・・」「詳しくは妖狼族の村で話すことにしよう。さてと、出発しようか?」ユリシスはそう言うと、シンに向かってニヤリと笑った。 その頃、エリスは妖狼族の長老から渡された本を読んでいた。「まだ寝ないのか?」隣で寝ていたセシャンがそう言ってエリスを抱き締めた。「この章を読み終わったら・・」「待てない。」エリスの髪を掴んで自分の方へと振り向かせると、セシャンは彼女の唇を塞いだ。「ん・・セシャン・・」「お前が無事で良かった。」セシャンはそっとエリスの乳房を揉むと、彼女は甘い喘ぎを漏らした。「セシャン、こんな所で・・」「駄目か? 俺はずっと、お前に触れたくて堪らなかった・・」セシャンはエリスを見た。「セシャン、わたしはもう何処にも行かないから、安心しろ。」エリスとセシャンは暫く互いの顔を見つめ合った後、唇を重ねた。 衣擦れの音がして、2人が久しぶりに愛し合おうと思った時、外で何かが光った。「なんだ、こんな時間に?」「さぁ・・」エリスが首を傾げた時、長老が部屋に入って来た。「客人よ、少し厄介な事が起きた。」エリスとセシャンが長老の家から出ると、そこにはあの南部軍のリーダーとユリシスが立っていた。「見つけたよ、エリス。」「どうして、あなたが・・」「無事だったのね、エリス。」黒い毛皮と金髪をなびかせながら、シンはそう言ってエリスの前に現れた。「ユリノ様・・?」久しぶりに会った友人の瞳に冷たい光が宿っていることにエリスは気づき、恐怖に怯えた。にほんブログ村
2012年07月18日
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翌朝、エリスは狼の唸り声と馬のいななきで目を覚ました。「なんじゃ、貴様らは!」「銀髪の女はどこにいる!? ここに匿ったことはわかっているんだぞ!」長老の怒鳴り声と兵士の怒鳴り声を聞き、家の外へと出た。「セシャン・・」そこには、長老と揉めている夫の姿があった。「エリス、やっと見つけたぞ!」セシャンはそう叫ぶと、エリスを抱き締めた。「お知り合いかね?」「はい、夫です。」エリスがそう言って老人を見ると、彼はほっとした表情を浮かべた。「そうかそうか。儂はてっきり帝国軍が弾圧しに来たのかと思った。」「弾圧、ですか? 帝国軍が妖狼族を?」「そうじゃ。話せば長くなるがの、リン様と儂らには密接な関係があったからのう。さ、家の中へ戻るとするかの。」老人は白い息を吐くと、家の中へと入っていった。「エリスさんや、お前さんに見せたいものがあるんじゃ。」老人はそう言うと、1冊の本をエリスに手渡した。「これは?」「我が妖狼族に伝わる本じゃ。祖先達が過去に起きた出来事を書き残したものじゃ。」「そうですか・・」エリスが本を開くと、最初のページには妖狼族と妖狐族が、人間と戦っている見開きの挿絵が載っていた。「“人間達は我々の土地をいつから奪い始めるようになったのだろうか? 子どもの頃はみな友であった我々と人間が、何故争うようになったのか。”この中に、リン様のことも書かれていると?」「そうじゃ。リンの誕生からその死までを、挿し絵つきで書かれておる。“四つの至宝”のこともな。」「ありがとうございます、こんな貴重な本を・・」「リンも、そなたに真実を知って貰った方が嬉しいじゃろうな。南部軍には決してこの本を渡してはならんぞ。奴らにとってこの本には少々都合の悪い事が書かれておるからのう。」老人はそう言うと、ちらりと窓の外を見た。「吹雪がもうじき来そうじゃから、止むまでここに留まった方がよいの。敵の歩みも遅くなるじゃろうて。」「ええ・・」やがて老人の予言通り、吹雪が村全体を襲った。にほんブログ村
2012年07月18日
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「これから客人に茶を振る舞おうと思うておったのに、不粋じゃのう。」老人はそう言って溜息を吐くと、窓の外を見た。そこには、数人の村人が何か怒鳴っていた。「暫く待ってくれるかのう?」「ええ、構いませんが・・」エリスがそう言うと、老人は外へと出て行った。「またお前さん達か。」 老人はそう言うと、じろりと村人達を見た。「爺さん、今日こそこの村から出て行って貰おうか。」「それは出来んと、何度も言うておるじゃろう。」老人は村人の1人を睨んだ。「俺達の土地を妖狼族に占領させる訳にはいかない!」「話がわからん奴じゃな、あんた。儂らはちゃんと税を払っておる。ここに住むことは村長も了解しておる。むやみにあんたらが儂らを追い出そうとしても、無駄なことじゃ。」老人はそう言って村人達に背を向けると、家の中へと戻っていった。「話の腰を折ってすまなかったのう。さてと、お前さんが持っている櫛の話をしよう。」老人はそう言うと、エリスの髪に挿してある櫛を見た。「そなたはリン様のことをどこまで知っている?」「確か、とてもお美しく心根が清い方だったとか。」「そうか。ではリンが未婚のまま4人も子を産んだことは?」「え・・?」エリスは老人の言葉を聞いてうろたえた。「その櫛は“四つの至宝”のひとつでの。死産した子の魂が宿っておる。」「どうしてそれがわたしとなんの関係があって・・」「そなたは、リン様の魂を受け継いだ者なのじゃ。必ず南部軍はそなたを狙ってくるであろう。そなたの息を止めるその瞬間までな。」「そう・・ですか。」「今日は余り動かぬ方がよい。うちで休みなされ。」「はい、わかりました。」 その夜、エリスと璃宛は老人が用意してくれた部屋で休むことにした。「エリス様、これからどうなさいますか?」「それは休んでから考えるわ。」「お休みなさいませ。」璃宛が部屋から出てゆくと、エリスはそっとベッドに横になって目を閉じた。にほんブログ村
2012年07月18日
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「儂の同胞達がそなたらに失礼な事をしてしまってすまなかった。」老人はそう言ってエリスと璃宛に頭を下げた。「仲間って、さっきの狼達がですか?」「さよう、儂らは妖狼族じゃ。」老人はゆっくりと椅子から立ち上がると、ドアを開けた。すると、先ほどエリス達を襲った狼の群れが家の中に入ってきた。「お前達、客人に詫びよ。」狼達は、エリス達を見ると一斉に唸り、鋭い牙を剥き出しにした。“そいつは、俺達の仲間を殺した! 許してはおけぬ!”「そなたらにも非があろう? 客人の言い分も聞かず、襲ったのだからな。」“だが・・”「長である儂の言葉が聞けぬと申すのか?」老人は勿忘草色の瞳で狼達を睨み付けると、彼らは一斉に唸るのを止めた。 エリスが息を詰めていると、狼の群れの中から一際大きい狼が彼女の前に現れた。エリスが櫛を握り締めて身構えていると、その狼は彼女に向かって前足を差し出した。「“許し”を乞うておる。」「あの、どうすれば?」「こいつの足にそなたの手を載せるのじゃ。」エリスが老人の言う通りにすると、狼は老人の元へと走っていった。「そなたはいくつか、儂に聞きたいことがあるじゃろう?」「はい・・リン様のことについて。」「リンか、懐かしい名じゃな。」老人はそう言うと、再び椅子に腰を下ろした。「今南部軍が“四つの至宝”を探しておる。その内のひとつは、そなたが持っておるその櫛じゃ。」「これが?」エリスはそう言って櫛を髪に挿した。「おお、良く似合っておる。どの女の髪に挿しても、このように美しくは輝かぬ。何故だか、わかるか?」「いいえ。」「その櫛は、そなたの為だけに作られたものだからじゃ。リンの血をひく、そなただけにな。」「あの、待って下さい! わたしがリン様の血をひいているって・・」「それはじゃな・・」老人が次の言葉を継ごうとした時、狼達が突然外に向かって一斉に吼え始めた。にほんブログ村
2012年07月18日
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(あ~、疲れた。) 勤務初日は何のトラブルもなく無事に終わり、歳三は更衣室で凝った肩を回しながら溜息を吐いた。「先輩、お疲れ様です。」「お疲れ。これから帰るのか?」「ええ。長時間の立ち仕事は疲れますね。」「ああ。家帰って風呂に入りたいぜ。」歳三はホテルの前でミジュと別れると、タクシーに乗って帰った。「お帰り。どうやった、初日は?」「まぁまぁだな、風呂に入ってくる。」「そう。」歳三が浴室へと入るのを見送ると、千尋は彼が脱いだシャツを洗濯籠に入れた。『ヨンイルは帰ったのかい?』『ええ、疲れたとかでお風呂に入っています。』『そうかい。初日だから疲れたんだろうさ。』清子はそう言って千尋を見た。「トシ兄ちゃん、お仕事お疲れ様。」「おお、ありがとよ。」歳三はそう言うと、千尋に笑った。「フロントの仕事はどうやった?」「まだ慣れねぇな。ああ、ミジュも同じホテルに就職してたぜ。とはいっても、あっちは調理師だからな。」「そう。スタッフの方はどうやった?」「主任のイ先輩は厳しいが、公平な方なんだ。彼の下で色々と仕事を覚えないとな。」「そうなん。これからが頑張り時やね。」「あぁ。」「千尋、こっちでの生活は慣れたか?」「まだ慣れないかな。でも住めば都っていうけんね。」「そうだな。お休み、千尋。」 ホテルで歳三が働き始めてから一週間が過ぎ、漸く仕事も慣れ始めてきた。そんな中、歳三はフロントスタッフのハン=ソンジュに声を掛けられた。『チェさん、少し話しませんか?』『ええ・・』ソンジュに屋上へと呼び出された歳三は彼が自分に何の用だろうかと思いながら屋上へと向かった。『お話とはなんでしょうか?』『チェさん、あなた本当の名前はヒジカタトシゾウっていうんでしょう?』『どうしてそんな事をあなたが知っているんですか、ハンさん?』『どうしてって・・事務室であなたの履歴書を見たんですよ。社長じきじきにスカウトされたからといって、素性不明な人間じゃないことを確かめないと気が済まないんです、僕は。』そう言うとソンジュは歳三の肩を軽く叩いた。『まぁ、イ主任は公私を区別なさる方ですからね。でも僕は違いますから。』『ふん、言ってくれるじゃねぇか。』歳三はソンジュの言葉を鼻で笑うと、屋上を後にした。 初日から慣れない接客業で緊張の連続だった歳三が唯一安らげるのは、休憩時間にミジュとコーヒーを飲む時だった。「お前、ハン=ソンジュのこと何か知ってるか?」「ええ。何でも、コロンビア大卒だそうですよ。」「へぇ、だからあんなに偉そうなんだな。」「まぁイ主任はハン先輩に手を焼いているそうです。エリートでプライドが高いからなのかなぁ・・」「一概には言えねぇだろう。」歳三がそう言ってコーヒーを飲んで腕時計を見ると、もうすぐランチタイムが終わりそうだった。「じゃぁな、ミジュ。」「先輩、ファイト!」「おう。」ミジュと歳三のそんな遣り取りを、ソンジュは遠巻きに眺めていた。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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『それにしても、ホテルに就職することは決めたのかい?』『ええ。明日にでも社長に返事をしてきます。』『そうかい。暫く忙しくなるね。』清子はそう言って茶を飲んでいると、隼人が家に入ってきた。『お母さん、ただいま帰りました。』『お帰り。』隼人が頻繁に清子の家を訪ねてくることを、歳三は不審に思い始めていた。香苗と二人の子ども達の元に帰らなくてもよいのか―歳三はそう思いながらも、隼人を見た。「親父、最近ここに入り浸ってるようじゃねぇか?あの人の元には帰らなくてもいいのか?」「ああ、そのことだが、離婚したんだよ、彼女とは。」「そうか。」「子ども達の親権は彼女が取ってね、養育費は要らないから別れてくれとだけ言われた。」自分達を捨て、香苗と不倫した挙句、その結婚まで駄目になってしまうとは。隼人はよほど結婚運がないらしい。「恵津子はどうしている?」「お袋ならぴんぴんしてるさ。ま、あんたには関係のないことだけどな。」「そうか・・女っていうのは、逞しいもんだな。それに比べて男は感傷を引きずるものだ。」「よく言うぜ。」歳三はそう言うと、缶ビールのプルタブを開けた。「これからホテルで働くことになるんだって?大変そうだな。」「まぁ、接客業に突いては素人だからな。生まれ変わるつもりでがんばるさ。」この国で生きてゆこうと心に決めた歳三は、ビールを美味そうに飲んだ。 翌日、歳三はロイヤル・ホテルを訪れ、スヨンにホテルで働くことを話した。「そう・・あなたならそうすると思ったわ。これから宜しくね、ヨンイルさん。」「宜しくお願いします、社長。」歳三がそう言って頭を下げると、スヨンは彼に微笑んだ。『ねぇ、聞いた?今日から新しい人が入ってくるんだって?』『噂だと、社長じきじきにスカウトしたらしいわよ!』『どんな優秀な人なのかしら、今から楽しみだわ!』朝礼時間となったホテルでは、今日から新しく入ってくるスタッフの事で皆噂していた。『皆さん、今日から皆さんと一緒に働くことになったチェ=ヨンイルさんです。』『チェ=ヨンイルです、宜しくお願いします。』歳三がそう言ってスタッフ達に挨拶すると、女性スタッフ達は嬉しそうな顔をしていた。『じゃぁヨンイルさん、今日からフロント業務について頂戴。仕事は主任のイさんから教わって。』『解りました。』フロントスタッフの主任・イ=ジョンシクは、厳しそうだが親切そうな男だった。『接客業の経験はないと聞いたよ。一から接客業を学ぶには、フロントが一番だ。お客様と一番接する場所だからね。』『はい・・』『そう固くならなくてもいいよ。誰でもはじめは素人だからね。』ジョンシクはそう言うと、歳三ににっこりと笑った。彼にフロント業務を教わりながら、ランチタイムを迎えた歳三は溜息を吐きながら煙草を吸った。(慣れねぇな、接客業ってのは・・)「あ~、疲れたなぁ・・」歳三が吸い終わった煙草を吸殻に揉み消すと、壁にもたれかかった。「大変そうですね、先輩。」「ミジュ、どうしてここに?」「わたしもこのホテルに就職したんです。といっても、調理部の方ですが。」調理師の制服を着たミジュは、そう言って歳三に微笑んだ。「そうか。俺はフロントの方だよ。」「色々と忙しいので、これからお互いがんばりましょうね。」「ああ。」ホテルでミジュと再会し、歳三は少し疲れが吹き飛んだ。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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彼女が経営するロイヤル・ホテルは、韓国で五指に入るほどの名門ホテルであったのだが、その経営が大きく傾いたのはあのリーマンショック後だった。 スヨンは何とか経営を立て直したものの、彼女が資金繰りに奔走している間に長男・ヨンナムが地方のホテルへと移り、その際ソウル本社のスタッフを引き抜いてしまい、その所為で深刻な人手不足となってしまったのだという。『そうですか、そんな事が・・息子さんとは連絡を?』『取ってはいないわ。今にして思えば、わたしはあの子の事を甘やかしてしまったのかもしれない。母子家庭で、離婚してしまって寂しい思いをさせてしまたっという負い目を感じていたからね。』スヨンはそう言って溜息を吐くと、柚子茶を飲んだ。『どう、ヨンイルさん。うちのホテルで働いてみない?』『急にそのようなことをおっしゃられても・・わたしは何の資格もありませんし、接客業は全くの素人です。却って皆さんのご迷惑になるのでは?』『誰だってはじめは素人よ。わたしだってホテルの経営を学んでいる時は右も左もわからなかった。ロイヤル・ホテルを大きく育てたのはひとえにわたしが努力したから。ヨンイルさん、すぐにとは言わないわ。あなたのような優秀な人材をわたしは欲しているのよ。』歳三はスヨンの言葉に感銘を受けながらも、自分がホテルマンとして働けるかどうか不安を抱いていた。『暫くの間、考える時間をくださいませんか?』『そう。じゃぁ一週間後、またこちらに伺うわ。その時はあなたの返事を待っているわ。』スヨンはそう言って立ち上がると、意志の強い瞳で歳三を見た。『お忙しい中、わざわざ来ていただきありがとうございました。』『あなたに会えて嬉しかったわ、ヨンイルさん。次はホテルで会いましょう。』スヨンが差し出した右手を握った歳三は、玄関先で彼女を見送った。「トシ兄ちゃん、今の話受けると?」家の中に戻ると、千尋がそう言って歳三を見た。「あぁ、受けようかと思ってる。だが俺がホテルマンなんて務まるかな?」「トシ兄ちゃんなら大丈夫よ、自信持って。」千尋は迷う夫の背中を押した。四日間の日程を終え、千尋と歳三は一旦日本に帰国することになった。「そうですか・・韓国で暮らすことになったんですか。そりゃぁ、急なお話ですねぇ。」「申し訳ありません、まだこちらに来て日が浅いのに。」歳三がそう言って頭を下げると、校長は渋い顔をしていた。「ま、もう決まったことなんだから仕方ないでしょうね。こっちは新しい先生を探しますから。」校長はもう歳三と関わりたくないといった口調でそう言うと茶を飲んだ。「どうやったと?」「あっさりと韓国行きを許してくれたよ。あの校長は初めから反りが合わなかったけど、まぁこれで良かったかな。」ベランダで煙草を吸いながら、歳三はそう呟くと溜息を吐いた。「これからやねぇ、韓国で暮らすことになるのは。」「ああ。お前にはまた苦労させるな、千尋。」「何言うとうと。うちはいつでもトシ兄ちゃんの味方やから。」千尋はそう言うと、歳三に抱きついた。 引越しの準備はあっという間に終わり、マンションの部屋を引き払った後、千尋は美津子に挨拶に行った。「そう、気をつけてね。」「うん。美津子さんも、元気な赤ちゃん産んでね。」「ありがとう。」美津子と別れ、千尋がエントランスへと向かうと、そこにはベビーカーを押していた歳三が待っていた。「そろそろ行くか?」「うん。」 こうして二人は日本を離れ、韓国で暮らすこととなった。『お帰り、待ってたよ。長旅で疲れただろう?お風呂沸いてるから入りな。』『はい。』 再び清子の家を訪れた二人に、彼女は温かい風呂とご馳走を用意して待っていた。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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(馬鹿だなぁ、わたし・・勝手に先輩の奥さんに嫉妬しちゃって。) バスを待ちながら、ミジュはそう思いながら自嘲めいた笑みを口元に浮かべた。歳三本人の前で、結婚したかったと告白するなんて無駄なことなのに。もう彼は自分のものでもないのだから、そんな事を言ったって彼が動揺するだけなのに。そんな事を解っていたのに、何故か口に突いて出てしまった。ミジュが溜息を吐くと、丁度バスがやって来た。空いている席へと座ると、突然爪先が痛くなった。なんだろうと思い、彼女がパンプスを脱ぐと、爪先が血で真っ赤になっていた。朝から休む暇もなく慣れないパンプスで歩き回っていた所為だろうか、ふくらはぎも筋肉痛で痛かった。 家に帰ったらまず先に風呂で足のマッサージをしなければ―ミジュはそう思いながら外の景色を眺めていた。『ミジュはもう帰ったのかい?』『あぁ。それよりも来週、一旦日本に戻ります。引越しの手続きとかをしなくてはならないので。』『そうかい。色々と忙しくなるね。』『すぐ戻ってきますから。おやすみなさい。』歳三はそう言って夫婦の寝室へと入ると、先に千尋が布団で休んでいた。彼女は清子から家事や法事の準備など、色々と仕込まれて疲れてしまったのか、歳三が寝室に入っても起きる気配が全くなかった。彼は溜息を吐いて、千尋の隣に布団を敷いて寝た。 翌朝早く、彼は外でけたたましく鳴る車のクラクションで目を覚ました。『お祖母さん、誰か来たんですか?』『さぁね。それよりもヨンイル、朝食が出来ているからチヒロを起こしておいで。』清子は少し曲がった腰を叩きながらキッチンへと向かった。 一体こんな朝早くから誰だろうと、歳三が扉を開けると、そこにはあのボランティアの青年が立っていた。『どうしたんですか、こんな朝早くに?』『いえ、実は・・』青年が何かを言おうと口を開いたとき、車のドアが開いて1人の女性が降りてきた。『あなたが、チェ=ヨンイルさん?』『はい、そうですが、あなたは?』歳三は女性とは何処かで会ったような気がした。『初めまして。わたしはチェ=スヨン。以前ホテルをご利用なさったでしょう?』『あぁ、あの時の・・たいしたお礼も出来ずに申し訳ないです。』歳三がそう言って女性に頭を下げると、彼女は首を横に振った。『いえ、いいのよ。それよりも今お時間あるかしら?』『はい。あの、朝食はお済みでしょうか?』『いいえ。そうね、出来ればご家族と一緒にお話を聞いて貰いたいの。』『そうですか、ではこちらへ。』歳三はそう言ってチェ=スヨンを家の中へと案内した。『ヨンイル、この方は?』『この前ホテルでトラブルに遭った時助けてくださった方だよ。』『まぁ、そうかい。少しお待ちくださいね。』清子はスヨンににっこりと笑うと、キッチンへと引っ込んでいった。 数分後、千尋と歳三はスヨンと食卓を囲みながら、彼女の話を聞いていた。『突然で悪いんだけれど、うちのスタッフが家庭の事情で辞めてしまってね。あなたさえ良ければうちのホテルで働いてくれないかしら?』『あなたの、ホテルでですか?』『ええ。』突然振って湧いたような話に、歳三は驚いていた。彼がふと隣に座っている千尋を見ると、彼女も目を丸くしていた。『あの・・それは一体どういうことなのでしょうか?わたし達にわかるように説明していただけないでしょうか。』『実はね、今うちのホテルは人手不足でね。というのも、うちの息子がホテルを辞める際、スタッフを大量に引き抜いていってしまった所為なのよ。』 スヨンはそう言うと、ホテルの苦しい経営状況を話し始めた。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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「ただいま。」「お帰りなさい。あら、お客様?」歳三がミジュを連れて祖母の家に入ると、千尋がそう言って彼女を見た。「こいつは大学の後輩のミジュだ。ミジュ、紹介するよ。俺の妻の、千尋だ。」「初めまして。」ミジュはそう日本語で挨拶すると、千尋に頭を下げた。「へぇ、ミジュさん今就活中なの。」「えぇ、でも状況はあまり芳しくないです。大卒で資格を取っていても、恩だからっていう理由で内定がひとつも取れません。」ビール片手に愚痴を吐いたミジュは、チャプチェを頬張った。「そう・・」「それと比べて兄は引く手あまたで、母は何かとわたしと兄を比べるんです。何だか女に生まれてきたのが損だなぁって思うんです。」「そんな事はないと思うわよ?男なんか、奥さんが居ないと洗濯物も満足にたためやしない人だって居るんだから。その点、うちの旦那は良く家事や育児をしてくれてるわ。」「え、千尋さんお子さんいらっしゃるんですか?」「ええ。3ヶ月前に双子を出産したばかりなの。色々と大変だけれど、旦那が協力してくれるから助かるわ。」「先輩なら、良いパパになれそうだって、サークル内で噂してましたよ。ねぇ先輩?」「そういうこともあったな。ミジュ、お前あれからテニスはやってるのか?」「全然してません。就職活動に忙しくてラケット握る時間がないんです。」「そうか。もうすぐ旧正月だが、お前実家に帰るのか?」「どうしようか考え中です。帰ったら見合いしろとか言われそうだし。先輩は?」「あぁ、実はこっちで暮らすことになったんだ。暫く娘達の幼稚園探しとかで色々と忙しくなりそうだよ。」「そうですか。先輩はいいなぁ、こんなに綺麗な奥さんと可愛いお子さん達に囲まれて。それに比べてわたしなんか彼氏が居ないんだもの・・」「まぁそんなに焦ることないわよ。ミジュさんはいくつなの?」「23です。周りの友人達はもう結婚してるんです。千尋さんは?」「う~ん、高校卒業して2年しか経ってないから・・20歳かな。」「双子のママに見えませんねぇ。」「そうかしら、最近寝不足気味で肌荒れしてるのよ。」千尋は同年代のミジュと意気投合したのか、彼女と雑談して盛り上がっていた。『ミジュ、以前は暗い子だったのに明るくなったね。』『ええ、俺も驚きましたよ。』歳三はそう言って大学時代、キャンパス内でどこか浮いていた存在のミジュを思い出した。成績優秀だった彼女だが、余り人付き合いが得意ではなく、講義の時やランチタイムの時など、歳三が覚えている限り、彼女はいつも独りだった。サークル内では仲の良い友人同士で盛り上がってはいたものの、余り派手で目立つタイプではなかった。だが今の彼女は、まるで人が変わったかのように明るくなったし、昔のように溜息を吐くこともなくなった。「じゃぁ、わたしはこれで。ご馳走様でした。」夕食後、ミジュはそう言って立ち上がると、千尋達に頭を下げた。「千尋、彼女をバス停まで送っていく。」「そう、気をつけてくださいね。」千尋はにっこりと歳三に微笑むと、洗い物をしにキッチンへと向かった。「すいません、送って貰っちゃって・・」「いいんだよ。就職活動がんばれよ、ミジュ。」「ありがとうございます、先輩。」そう言ったミジュは、何処か泣きそうな顔をしていた。「どうした?」「とことんついてないですね、わたし。もう少し先輩と会っていたら、先輩と結婚できてたのに。」ミジュは無理に笑ったが、頬が引きつってしまった。「ミジュ?」「ごめんなさい・・」ミジュはそう言うと、歳三に背を向けてバス停へと走り去っていった。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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『疲れたろう。』『ええ。それにしても外は寒いのに、中は暖かいですね。』『まぁ、オンドル(床暖房)が敷いてあるからね。風邪ひかないように柚子茶でもお飲みよ。』『ではお言葉に甘えて、いただきます。』清子が淹れてくれた柚子茶を、千尋は一口飲むと身体が温まった。『もうキムチは大体漬け終わったから、後はゆっくり休んだほうがいいね。じゃぁあたしは部屋で休んでるから、何かあったら呼んどくれ。』清子はそう言って立ち上がると、自分の部屋へと向かった。 千尋は柚子茶を飲みながら、テレビをつけた。丁度ドラマの時間帯だったらしく、何かの連続ドラマが放送されていた。暫く千尋がドラマを観ていると、誰かが戸を叩く音が聞こえ、彼女は部屋から出て外へと向かった。『どなた?』『こんにちは。おばさんは居ますか?』玄関の扉を開けた千尋の前に立っていたのは、大学生と思しき青年だった。『あの、あなたは?』『あぁ、すいません。俺はユン=ギョランっていいます。大学のボランティアサークルで一人暮らしのお年寄りにお弁当を届けています。』『そうですか、少々お待ち下さい。』千尋はそう言うと、家の中へと入った。『どうしたんだい?』『すいません、外にユン=ギョランという方がお見えです。』『そうかい。じゃぁ行ってくるよ。』清子はそう言って部屋から出て行った。千尋が飲み終わった湯?みを洗っていると、歳三からの着信があった。「もしもし、トシ兄ちゃん?」『千尋、今何処だ?』「お祖母様の家よ。トシ兄ちゃんは今何しとうと?」『今から会社の面接を受けるんだ。』「そう・・頑張ってね。」『終わり次第、そっちに行くからな。』歳三との通話を終えた千尋がキッチンで水を飲んでいると、清子が入ってきた。『誰からだったんだい?』『歳三さんからです。今から面接を受けるって。終わり次第、こちらに来られるそうです。』『そうかい。丁度弁当が届いたから、昼にしようか。』『ええ・・』弁当は豪華なものだった。『これからは長く付き合っていくんだから、お互いに妥協しなきゃいけないときがあるよ。ヨンイルは、あんたのことを愛している。』『そうですね。』千尋はそう言うと、ナムルを食べた。 一方、面接を終えた歳三は寒さに身を震わせながら清子の家へとバスで向かっていた。大学時代、こうして毎日バスに乗っていたなと思いながら、歳三は外の景色を眺めた。すると、次のバス停で1人の女性が乗ってきて、歳三の方へとやって来た。『先輩、お久しぶりです。』窓から視線をふと外すと、1人の女性が自分に微笑んでいた。(誰だ?)『あの、どちら様ですか?』『イ=ミジュです。先輩の1年後輩の。』その名には記憶があった。確か大学時代、所属していたテニスサークルでやたら熱心だった後輩が居た。『ミジュか、久しぶりだな。今日はどうして?』『就職の面接の帰りです。先輩もですか?』『ああ。これから祖母の家に向かうところなんだ。もしよければ、君も来るかい?』『いいんですか?』(そろそろ帰ってくる頃かな・・)千尋がそう思っていると、外から扉が開く音がした。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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韓国で暮らすと歳三は決めたものの、今すぐという訳にはいかなかった。仕事のこともあるし、何よりも千尋達と住む家を探さなければならなかった。「家はわたし名義のマンションがあるから、そこに住めばいい。セキュリティ対策も万全だからな。一度見に行ってみるか?」「わかったよ。」 訪韓3日目は、隼人名義のマンションの下見と、周辺の生活情報を収集することで費やされた。マンションの立地は地下鉄の駅に近く、歩いて5分ともかからないところに大型スーパーや児童館などがあり、好条件だった。「どうする?他に候補があるなら、そこも見てみないか?」「あぁ、そうだな。」千尋と共に歳三は、他に住みたいと思っていたマンションの下見をしたが、どれも余り条件が良くなかった。「どうする?お義父さんのマンションに決める?」「あぁ。あんなに良い条件のマンションはどんなに探してもないからな。」 こうして、新居はすぐに決まった。「トシ、住むところが決まったのはいいが、子ども達のことはどうするんだ?幼稚園はもう探したのか?」「まだだ。娘達はまだ生後3ヶ月だから、気楽に探すよ。」「甘いな。ここの地区の幼稚園探しは早めにしないと入園が決まらないぞ。」「ふぅん、そうなのか・・でも探そうたって、どう探せばいいんだ?」「出来るだけスクールバスで送迎してくれるようなところがいい。それに英語教育がある所だ。」「英語教育だって?冗談言うなよ、親父。あいつら英語どころか日本語も喋る時期じゃねぇんだぜ?」「この国では、小学生でも語学留学するのが当たり前なんだ、トシ。そのための準備だよ。それに、生まれてすぐに予約をしないとなかなか良い条件の幼稚園には入れない。遅れを取ったら終わりだ。」「ったく、気が抜けねぇよ・・」歳三は韓国で生活するにおいて、早めに行動することが大事だと思い知らされた。「取り敢えず、この書類に一旦目を通して、契約書にサインをしてくれ。」「ああ、わかった・・」歳三は隼人から渡された書類に目を通したが、ハングルで書かれていて全く読めなかった。「なんだよ、これ?日本語の書類はないのか?」「トシ、今からでも遅くないから、韓国語を学べ。お前や千尋ちゃんは韓国語を話せることは出来るが、読み書きが出来ないとなると色々と不便だ。」「なんだか気が遠くなりそうだぜ・・」「そうだ、これだけは言っておかないとな。今の時期のソウルは寒いから、体調管理に気をつけること。」隼人からのアドバイスを歳三はメモを取りながら、千尋と娘達の教育について話し合った。「観光ならいいけど、実際暮らすとなると大変なんやね。」「ああ。でも乗り越えないといけない試練なんだそうだ。」「一度決めたことやから、途中で投げ出すことはできんしね。一緒にがんばろう。」「ああ。」歳三は千尋を抱き締めると、少し勇気が湧いた。『そうかい、ヨンイル達がここで暮らすことになったのかい。』『ええ。でも二人にはまだまだ慣れないことが多いでしょう。お母さん、千尋ちゃんに法事のことを色々と教えてやってくださいね。』『わかってるよ。あの子は娘同然だからね。退院次第、家事を仕込んでやるともさ。』清子はそう言って屈託のない笑顔を浮かべた。数日後、退院した清子は早速千尋にキムチの漬け方を教えた。『白菜はよく洗って、中が黒くなっていないか見るんだ。漬けるときはちゃんとゴム手袋をつけな。決して目を擦るんじゃないよ。』『はい、わかりましたお祖母様。』『まだまだ解らないことが多いだろうけれど、慣れれば大丈夫だ。』 清子に教わりながら、千尋はキムチを漬け、終わる頃には額に汗が滲んでいた。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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“肌荒れしたせいで今日の予定がキャンセルになったから金を払え”という女性グループの理不尽すぎる要求を、千尋は呑むわけにはいかなかった。「お言葉ですが、昨夜は何時にお休みになられたのですか?」「昨夜は遅くまで飲んでたわ。それがあんたに関係あるっていうの?」「確かにうちの子の夜泣きで、皆さんにご迷惑をお掛けしたと思いますが、お金を払うつもりは全くありません。」千尋がそう言って女性達を見ると、リーダー格と思しき女は般若のような形相を浮かべると、彼女の胸倉を掴んだ。「何なのその態度、人に迷惑掛けておきながら反省が全く見られないわ!少しばかり痛い目を見ないとわからないようね!」そう女性が千尋を怒鳴りつけて手を振り上げようとした時、レストランに1人の女性が入ってきた。「お客様、何かございましたか?」千尋が振り向くと、そこにはシックなパンツスーツを着こなした中年女性が立っていた。身なりからして、このホテルの社長らしい。「どうもこうもないわ、あたし達はあの女の餓鬼の所為で肌荒れしたんだから、この女が金を払って当然なのよ!」リーダー格の女が一方的に女性に対して苦情を捲くし立てると、彼女は黙ってそれを聞いていた。「お話はよくわかりました。」女性の言葉に、リーダー格の女性は一瞬勝ち誇ったかのような笑みを浮かべた。だが―「お客様のお荷物は既にロビーに届いておりますので、すぐさまチェックアウトされますよう、お願い申し上げます。」「なんですって!?」リーダー格の女性は怒りで白目を剥かんばかりに女性を睨みつけた。「あんた、客商売を舐めてるの!?」「舐めてなどおりませんわ。ただ当ホテルと致しましては、あなた方のような品性下劣な人にご利用して欲しくないとはっきりと申し上げているのです。」怒り狂うリーダー格の女性を前に、彼女は毅然とした態度でそう言った。「いくらなんでも、あんまりじゃないの~?」別のテーブルで女性客がわざとらしく大声でそう言うと、周囲の客達が賛同の声を上げた。「子どもの夜泣きで一番疲れてるのは母親なのにさぁ、本人が謝ってるのにお金集るなんてサイテー。」「美人なのにやることはチンピラ並みじゃん。」非難の声を一斉に浴びせられ、女性達は怒りで顔を赤くしながらレストランから出て行った。「ありがとうございます、助けてくださって・・」「今回は災難でしたね。お客様は引き続き当ホテルをご利用ください。」千尋に笑顔を向けた女性は、颯爽とレストランから出て行った。「千尋、大丈夫だったか!?」女性が去った後、歳三が血相を変えてテーブルに戻ってきた。「うん、もう大丈夫。あの女の人が助けてくれた。」「そうか。朝から嫌な思いしちまったから、今日は楽しい思い出作りしような!」歳三はそう言うと、千尋に微笑んだ。 韓国滞在2日目、歳三と千尋は観光名所を巡ったりして楽しい思い出を作った。「千尋、これからどうする?」「どうするって?」「このまま日本に帰るか、韓国で暮らすか・・お前はどうしたい?」「トシ兄ちゃんはどうしたいと?お祖母さんと一緒に暮らしたいと?」千尋の言葉を聞いて歳三は暫く考え込んだ後、こう彼女に言った。「出来ることなら、俺はここで暮らしたいんだ。お前達と一緒に。」そう言った歳三の瞳は、真剣そのものだった。「・・そうか、ここで暮らすことを決めたのか。」「ああ。」千尋達をホテルに残し、歳三は屋台で隼人と飲んでいた。「何だかわたしがお前にそうさせたのかもしれないと思ってしまうよ、トシ。」「俺が選んだんだ。千尋も解ってくれているさ。」歳三はそう言うと、焼酎を一口飲んだ。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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『お加減はいかがですか?』『少しよくなったよ。それよりもヨンイル、これからはこっちに住むんだろう?』『それは・・』歳三がそう言葉を濁すと、清子は少し残念そうな顔をした。『急に韓国で暮らせと言われても無理だろうねぇ。でもあたしは生きている内に曾孫達の花嫁姿を見たいんだよ、わかるだろう?』『お祖母さん・・』歳三は、清子のやせ細った手を握った。その手は若くして未亡人となり、行商をしながら一人息子を立派に育て上げた苦労が刻まれていた。『お母さん、お母さんの世話は僕がします。ですから歳三を日本へ帰らせてください。』『でもねぇ・・』清子はてっきり歳三が自分と暮らしてくれるものだと思い込み、そうではないことを知って落胆した。『すいません、お祖母さん。日本に帰るまでお見舞いに行きますから。』歳三は清子に頭を下げると、娘達と千尋を連れて病院を後にした。「疲れただろう。」「うん。それよりもトシ兄ちゃん、こっちには住むの?」「それはまだ考え中だ。それよりも千尋、夕飯はどうする?外で何か食べるか?」「ホテルのレストランで食べようか。」二人は夕食をホテルのレストランで取る事にした。 夕飯時とあってか、彼らが入ったビュッフェレストランはほぼ満席状態で、客は日本人観光客が多かった。千尋が料理を皿に載せてテーブルに戻ると、薫が空腹を訴えてぐずっているところだった。「お腹空いたんだね、今ミルクあげるからね。」ママバックの中から哺乳瓶を取り出すと、薫は美味しそうにミルクを飲んだ。歳三は料理を取りに行っているのか、居なかった。「薫にミルクはやったのか?」「うん、トシ兄ちゃんは?」「ああ、美輝子のおむつが濡れてたから、トイレで替えてきたんだよ。男子トイレにはおむつ交換台が少なくて困ったよ。」そう言った歳三の顔が何処か疲れているように見えた。「ホント、今日は疲れたね。明日どうすると?」「そうだなぁ、もう婆さんの見舞いも済んだし・・ソウル観光でもするか?」「うん・・」夜になっても双子達は3時間おきに泣き、その度に歳三と千尋は彼らのおむつを替えたり、ミルクをやってゲップさせたりした。 朝食を取る為に双子達を連れてビュッフェレストランへと向かった千尋と歳三は、数人の女性グループが何やら自分達についてひそひそ囁いていることに気づいた。「気にすんな。」「うん・・」歳三が料理を取りにテーブルに離れたとき、女性達が千尋の方へとやって来た。「あのう、今よろしいですか?」「はい、何でしょう?」千尋がそう言って女性達を見ると、彼女の中で背が高い女性がすっと前に出てきた。「昨夜お宅のお子さんの所為で煩くて眠れなかったのよ。その所為で肌荒れしちゃったじゃない、どうしてくれるのよ!」 女性がそう声を張り上げると、レストランの客達が一斉に千尋達の方を見た。「それは申し訳ありませんでした。」「今日は色々と予定が詰まってるのに、肌荒れの所為で外出もできないわ!この落とし前、どうつけてくれるわけ!?」 流行のヘアメイクを施し、最新のファッションに身を包んだ女性はかなりの美人だったが、その口から出る言葉はまるで何処かのチンピラと同じような、粗暴なものだった。「そのようなことをおっしゃられても・・」「金払えって言ってんのよ、わかんないの!?」にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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『ミオン、何しに来た?』『何って、イルジュンを預かってくれたお礼を言いに来たのよ。まさか、ここで門前払いっていうわけないわよね?』ミオンがそう言うと、歳三は舌打ちして彼女を中に入れた。『イルジュン、前はわがままで手がつけられなかったのに、今ではまるで別人のようになっていたわ。あなたのお陰かしら。』コーヒーを一口飲みながら、ミオンはそう言って歳三を見た。『お前があいつを散々甘やかしていたから、あんな生意気な餓鬼になっちまったんだ。一体今までお前ぇはあいつをどんな風に育てたんだ?』『シングルマザーで子どもを育てながら仕事を両立させるのは大変なのよ。パパやママも、孫には甘いのよ。』ミオンの、まるで周りが悪いと言わんばかりの言葉に、歳三は溜息を吐いた。『それで?もう話は済んだのか?』『いいえ、まだあるわ。実はパパに頼んであなたを会社に雇って貰うようにしたのよ。』 ミオンの言葉に、歳三は眉を顰(ひそ)めた。『ミオン、言っとくが俺はお前の世話になるつもりはない。』『そう、それは残念ね。ああ、あなたにはもう奥さんが居るものね。』ミオンはちらりと千尋を見ると、コーヒーをまた一口飲んだ。『じゃぁね、ヨンイル。またソウルで会いましょう。』ミオンはイルジュンを連れ、部屋から出て行った。「トシ兄ちゃん・・」千尋が心配そうな顔をして歳三を見た。「安心しろ、千尋。俺達はずっと日本で暮らすんだ。何も心配することはねぇよ。」「うん・・」千尋は歳三に抱き締められながらも、まだ一抹の不安を抱いていた。 クリスマスが終わり、年末年始は東京の土方家で過ごす予定だったが、急遽隼人から清子が倒れたという連絡があり、歳三達はソウルへと向かうことになった。「大丈夫なん、お祖母様?かなりのご高齢やと聞いたけど・・」「大丈夫さ。それよりも千尋、お前のほうが心配だ。」乳飲み子を二人抱えての海外旅行は、千尋にとって緊張とストレスを感じる3時間半の旅だった。双子達は気圧の変化で耳が痛いのか、仁川(インチョン)空港に着くまで泣き通しだった。トイレでおむつを替えるのも、歳三とそれぞれ交代で行くことになり、座席で休む暇がないほど忙しかった。「やっと着いたな。」「うん・・」歳三と千尋は疲れ切った顔をしながら、双子を抱っこして荷物が出てくるのを待った。 歳三たちの荷物が出てきたのは最後だった。双子用のベビーカーに娘達を乗せ、歳三達が到着口へと向かうと、そこには隼人の姿があった。「すまないね、二人とも。車を外で待たせているから、行こうか。」「はい・・」空港から出ると、冬の冷風が容赦なく5人にふきつけてきて、千尋は寒さで震えた。「見舞いをしたらさっさと帰るからな。」「そんな事を言うな、トシ。お前にとっては久しぶりのソウルじゃないか。」隼人がそう言って車のエンジンを掛けると、駐車場から出て行った。 車は仁川空港を瞬く間に離れ、ソウル中心部へと入っていった。「婆さんが入院してる病院は何処だ?」「もうすぐ着くよ。」数分後、歳三達は清子が入院している病院に着いた。「ここだよ。」隼人が二人を病室に案内すると、清子がちょうどベッドから起き上がるところだった。『来てくれたのかい、嬉しいよ。』清子はそう言うと、歳三と千尋に微笑んだ。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月14日
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コバルトブルーのツーピースに真珠のネックレスというシックなファッションに身を包んだカン=ミオンは、ショートカットの髪を揺らしながら千尋を見た。『あなたが、ヨンイルの奥さん?』『はい、千尋と申します。』『そう。イルジュンが迷惑をお掛けしてごめんなさいね。彼は?』『彼なら家です。あの、どうしてこちらへ?』『それは後で話すわ。』カン=ミオンはそう言うと、颯爽と集合所へと入っていった。『解った・・その件は君に任せるよ。』一方取引先との電話を終えた隼人は、オフィスを出て駐車場へと向かった。(もうこんな時間か・・クリスマス会が始まるまで急がないと。)彼は車に乗り込み、エンジンを掛けた。 一方歳三は、出来上がった料理を車のトランクに慎重に入れ、双子の娘達とイルジュンを連れて教会へと向かった。『パパ、クリスマス会って楽しいの?』『ああ、楽しいさ。お前が行儀良くしていれば、プレゼントが貰えるぞ。』『やったぁ!』イルジュンの嬉しそうな顔をミラー越しに見つめて歳三は微笑むと、教会への道を右折した。「トシ兄ちゃん!」「まだ大丈夫だったな。料理はトランクの中にあるから、慎重に運んでくれ。」「わかった。」 千尋と婦人会のメンバーが料理を会場へと運んでいると、カン=ミオンが歳三の前に現れた。『お久しぶりね、ヨンイル。少し話さない?』『あぁ・・』歳三はミオンに連れられ、近くの喫茶店に入った。『あなたとこうしてコーヒーを飲むの、何年ぶりかしら?』『さぁな。それよりもミオン、これからどうするつもりだ?言っておくが俺には家庭がある。』『そう。あなたとやり直したいと思っていたけれど、無駄だったようね。わたしはイルジュンを連れてソウルに帰るわ。』ミオンはそう言うと、自分のコーヒー代の伝票を持って立ち上がった。『あぁそうだ、イルジュンはあなたの子じゃないわ。あなたを少し試してみたかっただけ、じゃぁね。』ミオンが去った後、歳三は狐に抓まれたような感じがした。 歳三が教会に戻ると、クリスマス会は既に始まっており、子ども達がグラタンやクッキーを頬張っていた。その中で、イルジュンは一人で寂しくケーキを食べていた。『どうした?みんなと遊ばないのか?』『うん・・だって知らない子達ばかりなんだもの。』歳三がイルジュンに話しかけようとしたとき、隼人が二人の前にやって来た。「トシ、久しぶりだな。その子はもしかして、イルジュン君かい?」「あんた、この子を知ってんのか?」「まぁね。詳しい話は教会でしよう。ここでは人目があるからね。」歳三と隼人が連れたって集合所から出て行くのを、千尋は不安げに見ていた。「それで、話ってなんだ?」「トシ、もうお前に家を継げとは言わない。だけど、わたしの一存で決められることじゃないんだ。」「はぁ、何言ってんだ?」「実はね、母がお前達を韓国に呼び寄せたいと言ってきかないんだ。最期は孫に囲まれて過ごしたいんだとさ。」「馬鹿じゃねぇの?俺ぁ行かねぇよ。」「そうか。そう言うと思ったよ、お前なら。」隼人はそう言うと、不敵な笑みを口元に浮かべながら教会から出て行った。「トシ兄ちゃん、隼人さんと何話しとったの?」「まぁ、世間話かな。それよりも千尋、イルジュンがソウルに帰ることになった。」「そう・・少し手を焼いた子やったけど、居なくなると寂しくなるね。」千尋は溜息を吐きながら、後片付けを始めた。「正月はどうする?実家に戻るか?」「そうしようか。」 後片付けを終えて教会を後にした二人が帰宅すると、ミオンがドアの前に立っていた。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月11日
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「俺が出る。」歳三は椅子から立ち上がろうとする千尋を手で制すると、電話の受話器を取った。「もしもし、土方ですが。」『土方さんですね?こちら渋谷警察署ですが、奥様はおられますか?』「妻でしたら居りますが、何かあったんですか?」『ええ、実は西園寺睦美さんという方がこちらで保護されていて、娘さんにお会いしたいと・・』「少々お待ちください。」歳三はそう言って「保留」ボタンを押すと、千尋のほうへと向き直った。「渋谷警察署からだ。お前のお母さんが・・」「行きませんって言っておいて。」「わかった。」数分後、通話を終えた歳三が受話器を置くと、千尋は溜息を吐いてソファに腰を下ろしていた。「なんで今更、連絡なんか・・」「千尋、あの人のことだが・・」「もうあの人とは縁を切ったんやから、関係ないもん。」「そうだな・・」少しモヤモヤとした気持ちを抱えながらも、千尋は寝室で休んだ。 クリスマス会当日、千尋と歳三は朝から準備で忙しく、漸く休めたのは昼過ぎのことだった。「後はクッキーをオーブンで焼くだけやね。」「ああ。それにしても疲れたぜ。」「じゃぁ、これから婦人会の会合に行ってくるね。」「道が滑るから転ばないよう気をつけていけよ。」「わかっとるって。」玄関先で妻を見送ると、歳三は浴室でシャワーを浴びた。その間、ソファの上に置いてあった歳三の携帯が鳴った。(誰からかな?)テレビを観ていたイルジュンは、そう思いながら歳三の携帯を手に取った。『もしもし?』『イルジュン、イルジュンなの?』『ママ、どうしたの?』『イルジュン、今からあなたの所に行くから、待っててね。』『うん・・』 歳三が浴室から出てきたとき、イルジュンは何処か落ち着かない様子で窓の外を見ていた。『どうした、何かあったのか?』『うん・・さっきママが迎えに来るって。』『ママが?』歳三は携帯を弄ると、着信履歴にはミオンの番号が表示されていた。(ミオンが・・どうしてあいつがここに?)「土方さん、クリスマス会楽しみね。」「ええ。準備は大変だったけど、クッキーを後は焼くだけでいいから。」会場となるカトリック教会の集合所で、千尋と美津子はテーブルセッティングをしていた。「そういえば、山田さんは?」「さぁ。まさかあれだけ色々と言ってきて、自分だけ不参加ってことはないわよねぇ。」「そうよね。」二人がそう話していると、表に車が停まる音がした。「誰か来たのかしら?」「わたしが行くわ。」千尋が集会所の外へと出ると、正門前に一台の車が停まっていた。「すいません、通行の妨げになりますので、車を移動させてください。」千尋は車の運転手にそう注意すると、窓が開いた。『ごめんなさい、すぐ退かすわ。』女性の運転手は、そう言うと車を駐車場へと移動させた。『婦人会の方ですか?』『いいえ、わたしはこういう者です。』車から降りた女性は、名刺を千尋に手渡した。“カメリア財閥広報 カン=ミオン”(カン=ミオン・・トシ兄ちゃんの元彼女・・)にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月11日
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歳三はイルジュンが泣いても、容赦なく彼の膝裏を打った。『大人しくしろといったのに、どうして言いつけを守らなかったんだ?』『だってパパが・・』『言い訳は止せ!』歳三の怒声に、イルジュンは恐怖で身を震わせた。『いいか、これだけは言っておく。今後千尋の事を“おばさん”と呼んだり、家中を走り回って騒いだりしたらこれだけじゃ済まないぞ!家から追い出すからな!』歳三の剣幕に押され、イルジュンは彼の言葉にただ頷くことしかできなかった。『返事は?』『わかったよぉ、もうふざけたりしないよ・・』『わかったならいい。立て。』イルジュンの手を引っ張って無理矢理彼を立たせた歳三は、校長室へと向かった。「土方先生、お宅の子はどのような躾をなさっているんですか?」校長は新聞から顔を上げてそう言うと、歳三を睨んだ。「校長、このたびは申し訳ございませんでした。この子は先ほど厳しく叱っておきましたので・・」「まぁ湯呑みくらい、大目に見ましょう。ですが次はないですよ。もう下がっていいです。」「失礼致します。」校長室から出た後、歳三がイルジュンを見ると、彼はまだ怯えていた。『イルジュン、今日は夕飯抜きだからな。』彼は一瞬不満そうな顔をしたが、すぐに俯いた。「歳三さん、あの子は?」「あいつなら部屋で反省させてる。暫くゲームは禁止にした。いつになるか解らねぇが、あいつの母親があいつを迎えに来るまで、徹底的に礼儀作法というものを叩き込んでやらねぇと。」歳三はそう言うと、ビールを一口飲んだ。「あの子・・イルジュン君は7歳だけど、本当に手を焼いて困りました。一体ミオンさんはどんな風にあの子を育てたんだろうって。」「多分甘やかして育てたんだろうなぁ。ミオンの実家は金持ちだから、あいつも随分甘やかされて育ってわがままなお嬢様だったぜ。」「ふぅん、そうやったの。トシ兄ちゃんも考えてたんやね。」急に千尋が標準語から博多弁をしゃべり出したので、歳三は思わず噴き出してしまった。「どうしたと?何がおかしいと?」「やっぱりお前ぇは標準語よりも、博多弁しゃべってる方が落ち着くなあ。」「え~、何それ。」「やっと笑ってくれたな、千尋。最近眉間に皺寄せて怒った顔ばかり見てるから、安心したよ。」「そう。じゃぁトシ兄ちゃん、明日から色々と忙しくなるね。二人であの子を躾けないと。」「ああ。」千尋と歳三が楽しく会話していると、子ども部屋のドアが開き、イルジュンがドアの隙間から顔を出した。『どうしたの?』『お腹空いた・・』『お腹が空いてどうしたっていうの?ちゃんと言ってくれないとわからないわ。』『ご飯・・』『人に物を頼むときは、“ご飯を作ってください、お願いします”でしょう?わたしはあなたの家政婦ではないのよ。ここでお世話になるのだから、わたしには敬語で話しなさい、わかったわね?』『わかりました・・』『それでいいのよ。今から簡単なものを作るからね。』千尋はそう言って椅子から立ち上がると、エプロンをつけてキッチンへと向かった。 翌日から、歳三と千尋はイルジュンに対して礼儀作法を徹底的に叩き込んだ。箸の持ち方や公共の場でのルールとマナーなど、基本的なことを二人は教えた結果、イルジュンは以前のような野生児ではなくなった。「やっとまともになってきたな。」「うん・・ちょっと疲れたけど。」二人がリビングでコーヒーを飲みながらそう話していると、電話がけたたましく鳴った。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月11日
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あの事件以来、千尋が全く自分に口を利いてくれなくなった。それどころか、目を合わせようともしない。 やっぱりあの時、イルジュンを厳しく叱るべきだったのだろうか―そう思いながら歳三が溜息を吐きながら小テストの採点をしていると、職員室のドアが開き、慌しい足音が聞こえてきた。『パパぁ~!』そろそろ採点が終わろうとしていたとき、回転椅子が大きく揺れた。歳三がチラリと振り向くと、そこにはイルジュンが笑顔で立っていた。『イルジュン、家で留守番してたんじゃないのか?』『してたけど、つまんないからここに来たんだ。パパ、遊んでよ~』『イルジュン、俺は仕事してるんだ。終わるまで大人しく家で待ってろ、な?』『嫌だよ、あのおばさん怖いもん。』千尋の事を“おばさん”と呼ぶイルジュンの態度に、歳三は少しムカッときた。『お前な、世話になっている身の癖に目上の人を“おばさん”とは何だ?』『だってぇ・・』『だってもくそもない!お前の母さんからそんな事を教わったのか?何なら、今からお前の母さんに報告してもいいんだぞ?』『やめてよ、パパ!ママ怒ると怖いんだ。向こうで遊んでいるからいいでしょ?』『好きにしろ。ただし邪魔はするなよ、わかったな?』『うん!』イルジュンが応接室のソファに腰を下ろし、携帯ゲーム機で遊んでいるのを見た歳三は、再び溜息を吐きながら仕事に戻った。 彼が土方家に来てから、退院して精神状態が落ち着いてきた千尋の様子がまたおかしくなるのではないかと歳三は気を揉んでいた。双子の育児は以前のように二人で協力してやっているが、自分が学校に居る間、彼女は一人でイルジュンと赤ん坊の美輝子の世話をしなければならない。そのことがどれだけ彼女の負担になっているのか、彼女がイルジュンの事をどう思っているのか、想像するのは容易かった。イルジュンは今まで甘やかされて育てられたのか、目上の者に対する礼儀というものが全くなっていない上に、千尋のことをまるで家政婦のようにしか思っておらず、いつも“おばさん”と呼び、服を着替えさせてくれたり、ご飯を作ってくれて当然と思っている。そして千尋が娘達に授乳していると、イルジュンは彼女に構って貰いたいのか、家中を走り回り騒ぐ。その所為で下の階の住人から苦情の電話が来るのだが、当の本人はそれでもお構いなしだった。一体ミオンは、どんな躾をイルジュンにしていたのだろうか。まるで彼は子猿同然の野生児だ。散々甘やかして子どものご機嫌取りをするだけでは、子育てとはいえない。「土方先生、あの子は?」「ああ、あの子は親戚の子ですよ。母親が仕事の都合上、こっちで引き取ることになりまして。」歳三がそう富田に言った時、何かが割れる音が聞こえた。「あ~、校長先生の湯呑みが!」「どうしました?」二人が給湯室へと入ると、そこには割れた校長の湯呑みが転がり、呆然としている弥生を前に、イルジュンが腹を抱えて笑っていた。歳三はつかつかとイルジュンに近づくと、腰を屈めて彼の両肩を掴んだ。『お前、ここで何をしたんだ?』『あの人を驚かせたら、あの人飛び上がってあれ割っちゃったんだ。』そう言ったイルジュンは悪びれた様子もなく笑っていた。そんな彼の様子を見た歳三は、堪忍袋の緒が切れた。『ズボンの裾を捲れ。』竹製の物差しを手にした歳三が厳しい声でイルジュンにそう命じると、彼は口をモゴモゴサさせながら何かを言っていた。『聞こえないのか?早くしろ!』『でもパパ・・』『早くしろ!』イルジュンは渋々ジーンズの裾を捲った。歳三は彼の膝裏をしたたかに物差しで打った。『お前には大人しくしろと言った筈だ!それなのに悪戯をするとはどういうことだ!』『だって、退屈だったから・・』イルジュンがそう言うと、歳三は再び彼の膝裏を強く打った。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月11日
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『おい、それは一体どういうことだ?』『言葉通りよ。あの子の事、暫くお願いしますね。』『おいミオン、ミオン・・』歳三は一方的にミオンから通話を切られ、溜息を吐いた。「どうしたと?」歳三が我に返ると、千尋が心配そうに自分を見ていた。「暫くこいつを預かることになった。」「そうなの・・」千尋はそう言ってイルジュンを見たが、彼は相変わらずゲームに夢中になっていた。「お前、韓国語話せるか?」「まぁね。ねぇ歳三さん、カン=ミオンさんって方・・」「ああ、彼女とは大学時代付き合ってた。あいつはあの子を俺の子と言い張っているが、本当かどうか・・」「そう・・」 千尋は歳三の元恋人・ミオンの事が気になり、その夜は一睡もできなかった。イルジュンが土方家で預かることになってから一週間が過ぎ、千尋は双子の娘達の育児に精一杯で、クリスマス会の準備で忙しく、なかなかイルジュンに構ってやることができなかった。そんな中、事件は起こった。いつものように千尋が歳三の弁当を作っていると、突然子ども部屋の方から薫の泣き声が聞こえた。「薫!」千尋が子ども部屋のドアを開けると、そこにはイルジュンが泣き叫ぶ薫を前に呆然と床に座り込んでいた。『うちの娘に何をしたの!』千尋がそう彼に問い詰めると、彼は咄嗟に何かを背中に隠した。『何を隠したの?』『何にも隠してないよ!』『嘘吐かないで、見せなさい!』千尋は必死に自分から逃げようとするイルジュンの手から安全ピンを取り上げた。『これで薫に何をしたの!?』『ただ起こそうとしただけだよ!』薫は千尋の腕の中で顔を赤くしながら泣いていた。『早く本当のことを言いなさい、早く!』千尋がそうイルジュンに怒鳴っていると、歳三が部屋に入ってきた。「一体どうしたんだ?」『パパ、僕何もしてないよ~!』イルジュンはそう言って泣きじゃくると、歳三の膝に顔を埋めた。「さっき薫の泣き声がして、部屋に入ったらこの子が居たのよ。安全ピンを持っていたわ。」千尋は歳三に安全ピンを渡すと、彼はそこに付いている血痕に気づいた。薫の方を見ると、彼女の右足から血が流れていた。『イルジュン、正直に答えろ。薫に何をした?』腰を屈めた歳三がそうイルジュンに聞くと、彼は薫を安全ピンで刺したことを認めた。『どうしてそんな事したんだ?』『だって、パパ全然僕に構ってくれないもん。』『だからって意地悪したら駄目だろ?ほら、薫に謝りなさい。』『ごめんなさい・・』鼻水を垂らしながら、イルジュンは千尋に謝った。「歳三さん、薫の怪我は?」「余り大したことはない。千尋、余りあいつに辛く当たらねぇでやってくれ。あいつは・・」「わが子を傷つけられて怒るのは当然でしょう!?どうしてあの子の肩を持つんです!?」「千尋、俺はそんなつもりで言ったんじゃ・・」「もういいです!」千尋は薫を抱いて子ども部屋から出て行くと、寝室に入って中から鍵を掛けた。急にやって来たイルジュンに娘が傷つけられたのに、歳三は自分の肩を持つどころか、イルジュンの肩を持ったのだ。それが千尋にはどうしても許せなかった。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月11日
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「歳三さん、それが・・」『パパ、早く開けてよ!』戸惑う妻の声と重なるようにして聞こえた子どもの声に、歳三は眉をひそめた。「千尋、中に入れろ。」「いいの?」「ああ。」千尋がドアの鍵を解除すると、男児が部屋に入ってきた。『パパ~!』彼は歳三の姿を見るなり、わき目も振らずに彼の腰に抱きついた。『パパ、会いたかったよ。僕と一緒にソウルに帰ろうよぉ。』「パパって・・歳三さん、その子・・」千尋は歳三と男児を交互に見た。(まさか、そんな・・)夫に抱きついている男児が、歳三の隠し子だなんて信じたくなかった。『おばさん、パパに何か用?』男児がそう言ってじろりと千尋を睨むと、歳三が彼の頭を拳骨で殴った。『いい加減離れろ。』『パパ・・』歳三に叱られ、男児は不安そうな顔をしてソファに座った。『お前、名前は?』『カン・イルジュンだよ。ねぇパパ、お腹すいたよ。トッポッキ作ってよ!』『イルジュン、お前のママは何処だ?近くに居るのか?』『ううん、ママはソウルに居るよ。パパを連れ戻しに行けって言われたの。これがママの写真だよ。』男児はそう言うと、背負っているリュックの中から一枚の写真を取り出した。 そこには、大学時代の歳三と写っている恋人・カン=ミオンの姿があった。『イルジュン、本当にこの人がお前のママなのか?』『僕は嘘を吐いたりはしないよ。それよりもパパ、トッポッキ作ってよ!』『あぁ、わかったからそこでおとなしくしておけ。』歳三は鬱陶しげに前髪をかきあげると、キッチンへと向かった。「千尋、どうした?具合でも悪いのか?」「ねぇ、何かうちに隠しとることある?」「あいつのことか。」歳三はそう言うと、ちらりとイルジュンを見た。「あいつが俺の子かどうかはわからねぇ。けれど、昔の恋人とは何の関係もねぇ。信じてくれ。」歳三の言葉を、千尋は聞いていなかった。野菜を包丁で切り刻むことで、歳三に裏切られた怒りを抑えようと、彼女は必死だった。『こんなのトッポッキじゃない!』食卓に並べられたハンバーグを見て、イルジュンは顔を歪めた。『じゃぁ食うな。今すぐお前のママに連絡して迎えに来るよう言ってもらうんだな。』歳三はそう言ってイルジュンを無視して、千尋とクリスマス会について話し合った。そんな二人の様子を見ていたイルジュンは椅子から降りてソファに座ると、携帯ゲーム機で遊び始めた。「歳三さん、あの子は?」「ああ、イルジュンか?あいつならもう寝た。」千尋が洗濯物にアイロンを掛けていると、歳三はそう言ってソファを指した。そこには腹を出したイルジュンが口を大きく開けて寝ていた。「あの子のお母さんに一度電話してみたらどう?このままうちで預かる訳にもいかないし・・」「そうだな。」歳三はイルジュンを起こさぬよう、彼のリュックの中から携帯を取り出すと直通番号に掛けた。 数回のコール音の後、女性の声が聞こえた。『もしもし?』『ミオン、カン=ミオンなのか?』通話口で息を呑むような声が聞こえた。『ヨンイル、ヨンイルなの?』かつての恋人に名前を呼ばれ、歳三はソウルで過ごした大学時代を思い出した。『ああ、俺だ。イルジュンってのは、お前ぇのガキか?』『そうよ。あの子はわたしが産んだ、あなたの子よ。』にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月11日
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「土方さん、おはよう。退院したのね?」「ええ。ご迷惑お掛けしてしまって申し訳ありませんでした。」退院してから数日後、千尋は婦人会の会合に出席すると、美津子が声を掛けてきた。「ううん、いいのよ。育児中はストレスが溜まるからね。わたしだってわけもなく苛々することがあるし。妊婦さんって、みんなこうなのかしら?」美津子はそう言うと、少しせり出した下腹を撫でた。「わたしも安定期に入る前は悪阻が酷くて、その所為で苛々したりして主人に八つ当たりしたことがありますよ。初めての妊娠でストレスを抱えてたんだと思います。」「そうよね。妊娠中は神経過敏になっちゃうからねぇ。それにしても土方さんの旦那さんはよくやってくれているわよ。うちなんか全然してくれないもん。」「そう?この前ご主人近所の本屋で見かけたわよ。育児書とか真剣な顔で立ち読みしてたけど。」「マニュアル人間なのよねぇ、あの人。赤ん坊相手にマニュアルが通じるとでも思っているのかしら?」美津子は皮肉交じりの口調でそう言うと笑った。「ちょっと、そこ退いてよ。」二人が楽しそうに話していると、突然愛美が彼女達の間に割って入った。「すいません、邪魔でしたね。」「土方さん、病み上がりだからっていって甘えないでよね。こっちは大変迷惑してるんだから!」愛美は声を荒げ、千尋を睨みつけた。「それは自覚しておりますし、わたしはわたしの仕事をするだけです。ではこれで失礼致します。クリスマス会のメニューを夫と考えなければならないので。」千尋は愛美に頭を下げると、彼女の前から去っていった。「ただいま。」「お帰り。どうだった、会合は?」「特に何もなかったよ。あの人が嫌味を言ってきたけど、全然気にしなかったし。ああいう人はまともに相手すると疲れるけん。」「お前も言うようになったじゃねぇか。やっぱ子どもを持つと女は強くなるんだな。」「まぁね。うちはあの人とは違う。それだけは言える。」「千尋・・」「だからあの人とはもう二度と会いたくないし、連絡も取らない。もう親子の縁も切れてるやから・・」そう言った千尋の笑顔が少し引きつっていることに、歳三は見逃さなかった。「なぁ千尋、クリスマス会のメニューどうする?子どもが主役だから子どもが好きそうなメニューを考えないとな。」「そうやね。こんなんはどう?」千尋はそう言うと、レシピ本を開いた。「チーズハンバーグにラザニアか・・手間掛かりそうだけど、子ども受けしそうだよな。」「クリスマス会までまだ日があるから、まだ時間はあるな。」千尋と歳三はメニューを考えながらも、クリスマス会のチラシ作りやメニュー表作りなどに精を出した。「これでよし、っと・・」「お疲れ様。」パソコンの前で肩を回す夫に千尋は労いの言葉を掛けた。「肩揉もうか?」「ああ、お願いするよ。」千尋は歳三の肩を揉みながら、彼の協力なしではこんなに早く退院することはできなかっただろう。 彼と結婚してよかったと、千尋は本当に思った。「少し休んでくるよ。」「うん、そうした方が良かよ。」 歳三が寝室に入った後、玄関のチャイムが鳴った。(誰やろか、こんな時間に・・)千尋がインターホン画面を覗き込むと、そこには小学生低学年くらいの男児が立っていた。「坊や、どうしたの?」スナック菓子を食べている男児に千尋が声を掛けると、彼はやっとインターホンに気づいたようで、大声を張り上げた。『おばさん、開けてよ!パパに会いに来たんだ!』「千尋、どうした?」ドアを乱暴に叩く音で、歳三が寝室から出てきた。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月11日
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千尋が入院してから一ヶ月が過ぎ、不安定だった精神状態も安定した彼女は退院することを許され、夫と娘達の待つ家に帰った。「ただいま。」「お帰り。余り無理するなよ?」「ありがとう。そう言ってくれるだけでも嬉しか。」マンションの部屋に入ると、歳三はそう言って彼女を抱き締めた。「ねぇ、美輝子達は?」「ああ、あいつらならお袋に預けた。今日はお前と俺の二人だけだ。」「そう・・」歳三は千尋の手をひき、ダイニングテーブルへと向かった。そこには彼が今夜のために腕によりをかけたご馳走が並んでいた。「うわぁ、すごい。全部トシ兄ちゃんが作ったと?」「ああ。お前の退院祝いにな。それよりも今日は、お前に一足早いクリスマスプレゼントがあるんだ。少し目を瞑ってくれねぇか?」「うん、いいよ。」千尋は少し怪訝そうな顔をしたが、言われた通りに目を閉じた。「もう開けていいぞ。」千尋がそっと目を開けると、首に何かの感触があった。「これ・・」「あぁ、これか?銀座の宝石店でネット注文して、今日届いたんだよ。俺とお揃いだ。」そう言うと歳三は、左手薬指を掲げた。そこにはスクエアカットされたペリドットの指輪が嵌められていた。「え、お揃い?」「ああ。お前の指輪には俺の誕生石を選んだよ。」千尋が左手薬指を見ると、そこにはペリドットとエメラルドがハート型にカットされた指輪が嵌められていた。「ありがとう、嬉しか・・」「喜んでくれて良かったよ。千尋、これからはお互いに辛いことも乗り越えていこうな。」「うん。」その夜、千尋と歳三は夫婦として互いの愛を久しぶりに確かめ合った。「ゴムつけてんのが惜しいな。」「もう、そげな事言わんで。」千尋はそう言うと、歳三の頭を軽く叩いた。「悪かったから、許してくれよ。」「まだ三人目は考えとらんからね。双子の育児が一段落して・・幼稚園終わってからだったら考えとく。」「そうか。じゃぁ暫く性欲は押さえねぇとな。」素肌にワイシャツを羽織ったままの姿で歳三はそう言うと、ベッドの脇に置いてある煙草の箱から煙草を一本取り出して咥え、ライターに火をつけた。「禁煙したと思っとったのに。」「いつかしようとは思ってるんだけどな・・なかなかやめられねぇんだよ。」「うちも吸いたか。」「馬鹿言うな、授乳期の母親が。」「ごめんなさい。それよりもトシ兄ちゃん、クリスマス会当日の料理担当になったって本当?」「ああ。愛美のやつ一番面倒な役割を俺に押し付けやがって。」「どうせやっかんどるんよ。あの人性格キツそうやし、旦那さんと上手くいっとらんのよ。」千尋はそう言うと、シーツに包まって眠った。 翌朝、彼女が起きると隣には歳三の姿はなく、浴室からシャワーの音が聞こえてきた。「おはよう千尋、良く眠れたか?」「うん。」浴室から上半身裸で濡れた髪を拭きながら歳三が出てきたので、千尋は思わず羞恥で顔を赤らめた。「何今更照れてんだよ?」「べ、別に・・」そう言って顔を背ける千尋を見て、歳三は苦笑した。こうして、また夫婦の朝が始まった。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月11日
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「あんた、何でこんな所に居るんだ?さっさと東京に・・」「つれないね、トシ。わたしはただ孫達の顔を見に来ただけだっていうのに、どうしてそう警戒するんだい?」隼人はそう言うと、双子達の頬をそっと交互に撫でた。「千尋ちゃんの様子はどう?あれから落ち着いたかい?」「まぁな。誰かが余計な事言ったせいで自殺未遂して退院が延びちまったが。」歳三は愛美を睨みつけながらそう言うと、彼女ははっと気まずそうな顔をした。「悪意ある人間の雑音など無視すればいいよ。悪辣な人間は何処にでも居るものだ。」隼人はにっこりと笑ったが、目は全く笑っていなかった。「それで、本当に孫の顔見たさにこんな田舎に来たのか?」「それがね・・」隼人が次の言葉を継ごうとしたとき、会議室に韓服(ハンボク)を纏った老女が入ってきた。『隼人、話は済んだのかい?』『母さん、外で待っていてくださいと申し上げた筈でしょう?』『お前は親を寒い屋外に待たせる気なのかい、この親不孝者め。』老女はそう言って低く唸ると、歳三の方へと向き直った。『まぁ、誰かと思ったらヨンイルじゃないか。すっかり立派になって・・』抑揚の激しい早口の韓国語で捲くし立てられ、歳三は一瞬呆気に取られたが、老女に頭を下げた。『お久しぶりです。』『これがお前の娘達かい?』老女―隼人の母・清子はそう腰を屈めてベビーカーの中で眠っている美輝子と薫の顔を覗き込んだ。『可愛いねぇ。抱かせておくれ。』『お母さん、お願いですから・・』『いいじゃないか。』清子は隼人が止めるのも聞かずに、美輝子を抱き上げると、それまですやすやと眠っていた彼女はまるで火がついたかのように泣き出した。『おやまぁ、泣き声は男のようだねぇ。この子の名前は?』『美輝子です。申し訳ありませんが、今は遠慮なさってください。』歳三がそう言って清子の腕の中で泣きじゃくる美輝子へと手を伸ばそうとすると、彼女は身を捩って美輝子をあやし始めた。『ほらほら泣くんじゃないよ、チェヨン。』『この子は美輝子です!』『美輝子は呼び辛いよ。』『お母さん、お願いですから歳三を困らせないでください。』見るに見かねた隼人がそう言って清子から美輝子を抱き取ると、彼女は溜息を吐いた。『アイゴー、わたしは曾孫を抱く権利もないのかい。』彼女は拗ねた様な口調で言うと、会議室から出て行った。「済まないね、トシ。母が無理に会いたいといってきかなくてね。何せお前と最後にあの人とお前が会ったのは3歳の時だから・・」「わかったから、これ以上俺の生活をかき回さねぇでくれ。頼むよ。」「わかった。」隼人はそう言って美輝子を歳三に抱き渡すと、慌てて清子の後を追った。「土方君、今のがあなたのお父様なのね?」「お前には関係のねぇことだろう。」歳三がきっと愛美を睨みつけると、彼はくすくすと笑った。「別にただ聞いただけじゃない。」「そうか。それで今日はクリスマス会と来年の新春餅つき大会について話し合うんだろ?」「ええ。クリスマス会はカトリック教会で毎年行うことになってるのよ。あくまで子ども達が主役だから、大人たちは当日の料理を用意したり、ツリーの飾り付けを手伝ったり、裏方に回って貰う事になるわ。でもそれだけじゃなくて、色々とデスクワークもあるから、皆さんに仕事を分担してやって貰いたいの。」「わかりました。じゃぁわたしと土方君は当日の料理担当で。あと毎年寄付集めもしてるんですってね?それも土方君と二人で回りますが、よろしいですか?」「おい、勝手に決めたら駄目だろ、愛美。土方さんのところは奥さんが入院して大変なのに・・」「あら、誰だって大変じゃない。土方君だけ特別扱いできないわ。そうでしょう?」和夫の言葉を愛美は手で制すと、そう言って婦人会のメンバーを見た。「決まりね。」「では寄付金集めと料理担当は土方さんと広田さんで決定しました。あと会計担当は・・」その後、会計担当やツリーの飾りつけ担当など、とんとん拍子にそれぞれの仕事が決まり、後はクリスマス会に向けてポスターを制作し、それを村内の掲示板やスーパーの店内に貼ったりと、準備に追われる日々を歳三達は過ごしていた。 そんな中、千尋へのクリスマスプレゼントをどうするか、歳三は悩んでいた。彼女にプレゼントを贈ったのは一度きりで、そのテディベアのペンダントも少し錆ついていた。「どうしたんですか、土方先生?溜息なんか吐いて?」「いやぁ、妻へのクリスマスプレゼントに何を贈ったらいいのかわからなくて。女性が喜ぶものって、何でしょう?」「そうですねぇ、アクセサリーしか浮かびませんね。本人に聞くのが一番でしょうけど・・」「あっと驚かせたいんだよ。あいつには内緒でな。」 富田と歳三が話しているのを、廊下で一人の女子生徒が聞いていた。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月11日
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その後、千尋の意識が戻ったものの、精神的に不安定な状態が続き、入院が延期された。「奥様は産後うつ病に罹っておられます。」「産後うつ病ですか?」「ええ。妊娠中に母体で分泌されるホルモンと、出産後に分泌されるホルモンの違いによって起こります。産後の母体の変化をはじめ、慣れない双子の育児にご近所づきあいと、奥様にとってストレスが徐々に蓄積されはじめ、その結果爆発してしまわれたのでしょう。」「そうですか・・ではわたしは、今後どうすればよいですか?」「奥様の病状を快方へと向かわせるには、周囲の理解が必要です。確かあなたのお母様が東京からやって来てくださって、色々と育児に協力なさっておられるようですが、職場ではどうですか?」「そうですね、職場では養護教諭の方をはじめ、同僚達にはこちらの事情を説明し、充分に理解を得ているつもりです。」「そうですか。ご主人にも言っておきたいことですが、奥様のことを気に掛けることに囚われ、ご自分のことを蔑ろになさらないようにしてください。それと、奥様を余りお責めにならないように。この二つを肝に銘じてください。」「わかりました。先生、どうか妻のことを宜しくお願いいたします。」 心療内科の橋田医師の話を聞いた後、歳三は千尋が居る病室へと向かった。そこは5人部屋で、千尋は窓際近くのベッドで上半身を起こし、窓の外を眺めていた。「千尋。」「トシ兄ちゃん・・」ゆっくりと自分の方を向いた千尋の頬が少し痩せていることに歳三は気づいた。あんなに酷かった蕁麻疹は嘘のようになくなり、痕も残らなかった。「ごめんね、迷惑を掛けて・・」「心配すんな、千尋。お前は色々と疲れて倒れたんだ。双子の育児で慣れないことばっかりだったろ?今はゆっくりと休むといい。」「ありがとう。ねぇ、次はいつ来てくれる?」「そうだな、明日にでも顔を出すよ。双子達を連れて。」「わかった。じゃぁまた明日ね。」「ああ、じゃぁな。」歳三が病室から出て行くと、千尋の隣のベッドに寝ていた女性がカーテンを開けて彼女に話しかけてきた。「ねぇ、今のご主人?素敵な方だったわね?」「ええ。あなたは?」「わたし、奥田っていいます。」「奥田さんですか・・わたしは千尋と申します。宜しくお願いいたします。」「こちらこそ。」長引いた入院生活の間、千尋には奥田という友人が出来た。「あの、奥田さんはご結婚されてるんですか?」「ええ。男の子ばかり3人の子持ち主婦よ。ちょっと転んで足折っちゃってね。あなたは?」「生後1ヶ月になる双子の娘が居ます。慣れない事ばかりで、色々と疲れてしまって・・」「そう。誰もが通る道だもの。双子ちゃんだったらなおさら大変ね。ご主人は育児に協力してくれてるようだから羨ましいわ。うちなんかさ、“家の事は女がする”って古臭い考えの奴だから、育児ノイローゼになりかけたわよ。」「そうなんですか・・」ニコニコと笑う奥田も、様々な苦労をしてきたのだろう。「まぁさ、今はゆっくり休んだら?これからいくらでも融通が利かないことばかりだらけなんだからさ。子どもを育てるのって、そういうことよ。」「そうですか。あの、色々とアドバイス頂けませんか?今後の参考に。」「あたしみたいなおばさんでも少しは役に立てるのなら、色々とアドバイスしてあげるわ。まぁ、一番大切なのは完璧主義じゃやっていられないことね。あと、理詰めで物事を考えたら駄目だし、子どもとペースを合わせること。」「ありがとうございます、余り根詰めないほうがいいんですね。」「気楽にやっていかないと駄目よ。」奥田の言葉に、千尋は少し心が和らいだ。 今まで彼女は自分を虐待した実母のようにはなるまいと、必死に肩肘を張って歯を食い縛りながら双子達を立派に育てようとしてきた。だが血の通った赤ん坊は育児書通りに育つわけがなく、恵津子が来るまで千尋は泣き喚く双子達を前に呆然とすることが多かった。次第に気分が沈みがちになり、自分だけが社会に取り残されているのではないのかと思うようになってゆき、涙が止まらないことがあった。 その結果が、あの蕁麻疹だったのだ。歳三と恵津子、奥田に助けられ、千尋はこれから余り思いつめないようにしよう、自分だけで抱え込まないようにしようと思った。「土方さん、おはようございます。」「おはようございます。」 双子用のベビーカーを押しながら歳三が婦人会の会合が行われている村民会館へと入ると、芳野和江に声を掛けられた。「すいません、妻は退院が延びてしまって・・ご迷惑をお掛けすることになります。」「いいんよ。あたしが婦人会代表になったからね。あんたと中学時代同級生だった女には釘を刺しといたから、心配することはねぇ。」和江はからからと笑うと、歳三の肩を叩いて会館から出て行った。「すいません、遅くなりました。」「土方君、遅かったわね。」婦人会の会合が開かれている会議室へと入ると、そこには愛美と彼の夫、そして隼人の姿があった。「久しぶりだね、トシ。」 隼人はそう言うと、ベビーカーに座っている双子を見るために腰を屈めた。にほんブログ村にほんブログ村
2012年07月11日
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MARISSA様より素敵な挿絵を頂きました。真紅のドレスを纏い、颯爽と馬に乗る土方さん。横乗りでもかなりのスピードを土方さんは出せるでしょうね。MARISSA様、本当にありがとうございました!
2012年07月11日
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MARISSA様よりただいま連載中の小説「真-Destiney-紅」の挿絵をいただきました。桜舞う中、夢の中で死んだ筈の近藤さんと別れの抱擁を交わす土方さん。今にも泣き出しそうな土方さんの顔に胸が締め付けられます。MARISSA様、本当にありがとうございます!
2012年07月05日
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