全111件 (111件中 1-50件目)

「あ~、楽しかった。映画なんて生まれて初めて観たけど、あんなに楽しいものだとは思わなかったよ!」映画館を出たガブリエルは、はしゃぎながら隣で話すアンダルスを見つめながら歩いていた。彼と出逢ってからまだ半年にも経たないが、これ程までにガブリエルの心を掴んで離さない者は、死別した妻以外誰一人として居なかった。 舞姫として宮廷に上がる庶民のアンダルスは、貴族である自分にはない、身分に囚われることなく物事を捉える彼の考えや、さばさばとした物言いにガブリエルは好感を持っていた。本音と建前、笑顔の仮面の下に憎悪を隠しながら社交界でそれらを使い分けている貴族達とは全然違う。自由奔放でありながらも、時折冷静に物事を見つめるアンダルスは、舞姫としても人間としても尊敬できる。「どうしたの、突然黙っちゃってさ?」アンダルスが真紅の双眸で見つめながら、ガブリエルを見た。「いや、なんでもない。それよりもアンダルス、奥様と何を話してたんだ?」「ああ。色々とね。ただ奥様の旦那さんが訳解らないこと突然言い出してさぁ。」「訳のわからないこと?」「なんでも“お前は死んだ筈なのにどうしてここにいる?”とか言いやがってさぁ。確か・・誰かと僕を間違っていたようだけど。ああ、シャルロッテっていう人と・・」「シャルロッテ? 確かに伯爵はそう言ったのか?」「うん。どうしたの?」(シャルロッテ・・確か奥様の義妹に当たる方。)何度かビュリュリー伯爵家の醜聞を社交界で聞いた事があるが、詳しい内容は思い出せなかった。だが、その醜聞の主人公の名は、確かシャルロッテ―ブリュリー伯爵の実妹だった。「いや、何でもない。」「変なの、あんた質問ばっかりしてさ。あ~、それにしても髪が鬱陶しくて堪らないや! リボンでも紐でも、何か結ぶもん持って来るんだったなぁ~」輝く金髪を鬱陶しそうに掻き上げながら、アンダルスは溜息を吐いた。「これを使え。」ガブリエルがそう言ってアンダルスに差し出したのは、純銀に真珠をあしらった髪留めだった。「こんな高価なもん、貰っていい訳?」「ああ。必要ないからな。」「ありがとう、助かったよ。」アンダルスは腰下までの髪を簡単に纏めると、ガブリエルから貰った髪留めを挿した。「これで少しはマシになったかな。」「ああ。じゃぁ、また。」「送ってくれてありがとう、また宮廷でね、ガブリエル。」アンダルスは手を振ると、ガブリエルの元から去って行った。 ガブリエルは恋人の背中を見送ると、自宅へと戻った。「ガブリエル、今日は遅かったわね?」玄関ホールに入ると、母親が螺旋階段から降りて来てガブリエルを迎えた。「今日はビュリュリー伯爵のミニコンサートに行って参りました、母上。こんな遅くまでわざわざ起きてわたしを待っていなくても・・」「いいえ。ガブリエル、あなたにはとっても良いお話があるのよ。」またか―母親の口から“良いお話”という言葉が出れば、それは縁談話だとガブリエルはここ数年察していた。「母上、申し訳ありませんが・・」「あなた、一生ひとり身で居るつもりなの? そろそろ身を固めて頂戴な。」母親の小言を聞き流しながら、ガブリエルは自室へと上がった。背中の後ろでひとくくりにしていた黒髪を下ろし、彼は溜息を吐きながらシーツの上へと身を投げ出した。 妻と死別して以来、結婚は一度きりでいいと決めていた。もうあんな哀しい思いをするのは嫌だと、彼は決意したからだ。だが母はしきりにガブリエルに対して再婚を勧めて来る。息子を想う母心故なのかもしれないが、ガブリエルにとっては迷惑なお節介以外の何物にもならなかった。母にアンダルスの事を話す訳にはいかないし、話せば反対されると解っている。(何とかして、母上の暴走を止めないと・・)ガブリエルはゆっくりと目を閉じ、眠りに就いた。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(2)

「何故、お前がここに居るんだ、シャルロッテ! お前は死んだ筈だろう!」 ビュリュリー伯爵はアンダルスを指しながら、怒りと驚き、そして恐怖が綯い交ぜになった表情を浮かべながらそう叫んだ。「シャルロッテって、誰ですか?」「ごめんなさいね、アンダルスさん。この人は少し混乱しているのよ。どうやら、死んだ妹が生き返ったって思っているみたいなの。」伯爵夫人は慌てふためく夫を前にして平静な表情を崩さず、そう言うとアンダルスを見た。「あの、僕はこれで失礼を・・」「引き留めてしまって悪かったわね。さぁ、早くお帰りなさい。」「は、はい・・」アンダルスは伯爵の態度に戸惑いながらも、部屋から出て行った。「おい、あの子は一体誰なんだ!」「誰って、あなたの妹が産んだ息子ですわ。アンダルスっていって、ルチア様や皇帝陛下のお気入りの舞姫ですよ。ご存知ないのかしら?」伯爵夫人はそう言うと、馬鹿にしたような目で夫を見た。「じゃぁあの子は、本当に・・」「ええ。あの子は、わたくしにとっては甥っ子にあたりますわ。シャルロッテがあんな可哀想な目に遭ってから、あの子が産んだ子が今どうしているのか気になって・・まさか、あの可愛い舞姫さんがあの子の息子だとはねぇ・・」伯爵夫人は扇子を口元に持って行くと、ビュリュリー伯爵は彼女を睨みつけた。「お前は一体、何を企んでいるんだ?」「何も企んでなどいませんわ。わたくしはあの子に真実を告げたかっただけですわ。」彼女はそう言うと、夫を笑った。(ガブリエル、何処に居るのかなぁ・・) 伯爵夫人の部屋から出たアンダルスはガブリエルの姿をパーティー会場で探したが、彼は何処にも居ない。「君、どうしたの?」肩を叩かれ、アンダルスが振り向くと、そこにはプラチナブロンドの巻き毛を揺らした少年が立っていた。「ああ、連れの姿が見当たらなくて・・」「もしかして、彼なら映画を観に行ったんじゃないかな?」「映画?」「ミニコンサートの後、映画を上映するんだよ。僕が案内してあげるよ。」「ありがとう。君の名前は? 僕はアンダルスだけど。」「アレンだよ。」アレンの案内で、アンダルスはビュリュリー伯爵邸の離れにある映画館へと向かうと、そこのロビーにはガブリエルの姿があった。「ガブリエル!」「アンダルス、済まなかったな。」「いや、いいよ。それよりも、そろそろ上映が始まるから入ろうか?」「うん、解った。アレン、案内してくれてありがとう。」「映画、楽しんでね。」アレンはそう言ってアンダルスに背を向けると、映画館から出て行った。「何の映画が始まるの?」「さぁな。それよりも奥様と何を話したんだ?」「奥様と話そうとしたら、いきなり伯爵様が入って来て、訳のわからないことを口走って・・お前は死んだ筈だとかなんとか・・」「そうか。」ビュリュリー伯爵がアンダルスを見た時の反応を彼から聞いて、伯爵夫妻はアンダルスに何かを隠していることにガブリエルは気づいた。今すぐにでも彼らをその事で問い詰めたかったが、映画が終わるまで待った方が良い。「食べる?」売店で買ったとうもろこしの揚げ菓子を目の前に突きだされたガブリエルは、その菓子が放つ独特の臭いに顔を顰めた。「いや、いい。」「なんだ、美味しいのに。」アンダルスはそう言うと、揚げ菓子を口に放り込んで美味そうにそれを噛んでいた。(あんな油っぽい、変な臭いがする菓子の何処が美味いんだ!)ガブリエルは思わず悪態を吐きたくなったが、それをぐっと堪えて映画に集中する事にした。 やがて辺りが暗くなり、白いスクリーンに鮮明な映像が映し出された。初めて映画というものを観たアンダルスは、興奮で目を輝かせながらその映像にじっと見入っていた。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

「あ、すいません。」 ガブリエルが振り向くと、そこにはプラチナブロンドの巻き毛を揺らし、蒼い双眸で自分を見つめるビュリュリー伯爵の愛息・アレンが彼を見つめていた。「いや、大丈夫だ。」「あの、あなたはもしかして、ガブリエル=ローゼンフェルト様ですか?」「ああ、そうだが・・」「こんな所であなたにお会いできるなんて、まるで夢のようです! 初めまして、アレンです!」「ガブリエルだ、宜しく。」「ガブリエル様は確か、龍騎士団に所属しておりましたよね? あなたの武勇伝は色々と聞いております。」「そうか。」龍騎士団に所属していたことはもうガブリエルの中では過去となっていたが、目の前に立っているアレンは違うらしい。「色々とお聞きしたいです。ガブリエル様が戦場でどんなご活躍をされたのか、それと、奥様についても・・」「ああ、その話はまた今度の機会にしよう。先約があるので失礼。」ガブリエルはアレンを軽くあしらうと、彼の母親の元へと向かった。「あ~あ、もっとお話ししたかったのになぁ。」アレンは溜息を吐くと、近くのテーブルに置いてあったバゲッドを取り、それを一口大にちぎると口に放り込んだ。「奥様、本日はお招きいただきありがとうございます。」「ガブリエル、ようこそ。こちらはわたくしの友人の、アドリアンよ。」「アドリアンです、初めまして。」「ガブリエル=ローゼンフェルトです。」「あなたのお噂は社交界で何度かお聞きしておりますよ。“戦場の黒き龍”・・あなたが龍騎士団に居らっしゃった時、そう呼ばれておりましたね。」「ええ。それよりもアドリアン様、伯爵夫人とはどのようなご関係で?」「皇帝陛下主催の謝肉祭で出会ったのよ。それ以来彼とは良い友人同士なのよ。」伯爵夫人はそう言って笑ったが、その笑みには何か隠されているとガブリエルは感じていた。 一方、社交場に初めて出たアレンは、欠伸をしながら大人達の退屈な会話を聞いてた。(あ~あ、つまんないや。)本当はこのような場には出たくはなかったのだが、父・オーギュストはアレンが正式に社交界にデビューする前に社交場へ出した方が良いという考えだったので、こうして無理矢理アレンは社交場に出されたのだった。(右を見ても左を見てもおっさんばかり・・)アレンが溜息を吐いていると、輝くようなブロンドの髪が風に靡くのが見えた。彼から少し離れた場所に、腰下まで伸ばしたブロンドの髪を揺らしながら、1人の少女がバゲットを一口大にちぎって食べていた。裾に、ルビーを鏤めたドレスを纏った彼女は、招待客と談笑していた。上質の紅玉のような真紅の双眸に、アレンは魅せられた。一体彼女は誰なんだろう―彼がじっと少女を見つめていると、ガブリエルが彼女の方へと駆け寄ってきた。「アンダルス、俺の言いつけ通りにしているか?」「ああ。貴族の旦那達の前で襤褸は出せないよ。もう時間だろう? 行こうか。」ガブリエルと親しげに腕を組みながら歩いていく少女を見たアレンは、彼女とガブリエルはどのような関係にあるのだろうかと、興味を持ち始めた。「アレン、何しているの? もう皆さんお待ちですよ。」「はい、お母様。」母親にしかられそうだったので、アレンは慌ててミニコンサートの会場へと向かったが、あの少女の事が彼の頭から離れないでいた。 ミニコンサートは著名な音楽家や芸術家の卵が出演しており、招待客隊は彼らの演奏に拍手を送った。「アンダルス、邸の中へ入りましょうか?」「はい。」伯爵夫人とともに邸の中へと入ったアンダルスの背中を、ガブリエルは静かに見送った。「あの、お話とは何ですか、奥様?」「実はね、あなたの実のお母様の事なのだけれど・・」伯爵夫人は、ゆっくりとアンダルスに真実を告げようと、次の言葉を継ごうとした。だがその時、部屋の扉が勢いよく開かれ、一人の男が入って来た。「あなた、何かご用ですの? ノックもなさらないなんて。」伯爵夫人は呆れながら夫を見ると、彼は妻ではなくアンダルスに視線を向けた。「お前は・・まさか・・」ビュリュリー伯爵は、わなわなと口を震わせながら、アンダルスを指した。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

「お呼びでしょうか、奥様?」「入って頂戴。」夜会の後、ビュリュリー伯爵夫人は自室で寛いでいると、ある人物が漸くやって来た。「遅かったわね。何か問題でもあったのかしら?」「いいえ。少々手間取りまして・・これが、ご依頼されていた書類です。」「そう、有難う。」伯爵夫人は、目の前に立っている若い僧侶を見た。彼は教会に所属する聖職者ではあるが、裏では間諜として暗躍していた。「失礼ですが奥様とあの舞姫とは一体どのようなご関係で?」「ほほ、野暮な事を聞くものね。わたくしはただ、あの子が気に入って支援したいだけの事なの。まぁその前に、あの子がどういった子なのか調べたかったのよ。ただそれだけのことよ。」伯爵夫人は、そう言って金貨が詰まった袋を僧侶に手渡した。「もう下がりなさい。女中にあなたの姿を見られたら・・」「では失礼致します、奥様。」僧侶は伯爵夫人に向かって一礼すると、フードを目深に被り部屋から出て行った。「さてと・・」僧侶が去った後、伯爵夫人は彼から渡された書類を捲り始めた。「失礼致します、奥様。お茶をお持ちいたしました。」「そこへ置いておいて頂戴。」「かしこまりました。」女中が下がると、伯爵夫人は書類に一通り目を通した。「やっぱり、あの子は・・」彼女はぼそりと何かを呟くと、結っていた髪を下ろして寝室へと向かった。「うわぁ~、豪勢なパーティーだねぇ。」夜会から数日後、ビュリュリー伯爵邸で行われるミニコンサートに招待されたアンダルスは、テーブルの上に所狭しと並べられている豪勢な料理や菓子を見て口笛を吹いた。「いいか、アンダルス。ここは貴族の集まりで・・」「はいはい、“常に礼儀正しく、言葉遣いに気をつけろ”でしょ? あの皇子様みたいに嫌な奴に目をつけられたくないから、大人しくしているよ。」「本当か?」ガブリエルが疑わしい視線をアンダルスに送ると、伯爵夫人が彼らの方へと駆け寄ってきた。「今日は我が家のミニコンサートにようこそ。アンダルス、ガブリエル、今日は楽しんで頂戴ね。」「ええ、奥様。本日はお招きいただいてありがとうございます。」アンダルスはそう言って彼女の手の甲に接吻した。「ねぇアンダルス、コンサートの後でお話があるの。お時間あるかしら?」「ええ。」伯爵夫人はアンダルスに微笑むと、他の招待客達の方へと向かった。「奥様。」「あら、いらしていたの。あの子ならあちらにいるわよ。」「あれが、ルチア様お抱えの舞姫ですか。なるほど、良く似ておられる。」僧侶はフード越しにアンダルスを見つめると、伯爵夫人の方へと向き直った。「彼はまだ知らないのですか?」「ええ。後でわたくしから話をするわ。まさか義妹の子が男でありながら舞姫として宮廷で華を咲かせるだなんて、わたくしも主人も思いもしなかったわ。」伯爵夫人は、口元を扇子で覆いながら笑った。「奥様、旦那様には・・」「あの人には話すつもりはないわ。義妹と主人は実の兄妹でありながら犬猿の仲でしたもの。憎い妹の子に家督を奪われるような事があったら我慢ならないでしょうよ。」伯爵夫人がそう言った時、彼らの前に一人の少年が駆けて来た。「母様、こんな所にいらしたの?」「あら、アレン。お客様への挨拶はもう済ませたの?」「はい。」プラチナブロンドの巻き毛を揺らしながら、ビュリュリー伯爵家嫡子・アレンはそう言って母親を見た。「わたくしはこちらの方とお話があるから、お客様とお話しておきなさい。」「はい。」アレンが客達の方へと駆けていくのを見送った伯爵夫人は、僧侶の方へと向き直った。「さてと、話の続きをしましょうか?」「ええ、奥様。」彼らの間に、ごうっと風が唸りを上げて通り過ぎた。(盛況だな、名門貴族のミニコンサートとはいえ、招待客は政財界の著名人ばかりだ。)ガブリエルがシャンパングラスを片手に招待客達を観察していると、彼は誰かとぶつかった。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

ルチアはアレクサンドリアの態度にムッとしながら、彼と踊り続けた。「ルチア様のお母君は、南国育ちの姫君とか? こんな僻地に嫁がれて、さぞやご苦労なさったことでしょうね?」「いいえ。父が何かと母を気に掛けてくれましたわ。それよりもミリア伯母様はお元気かしら? 最近お手紙が途絶えてしまって、心配しているんですの。」アレクサンドリアの母で、エステア王国王妃であるミリアとルチアは、密かに文通をしていたが、最近ミリアからの文が途絶えてしまい、ルチアは気になってアレクサンドリアにそう尋ねると、彼は渋い顔をした。「母は、少し体調を崩しているのです。」「そうですの、では早く良くなってくださいと宜しくお伝えくださいな。」「ええ、必ず・・」彼のラヴェンダーの双眸が少し翳ったことに、ルチアは気づかなかった。「ダンス、楽しかったですわ。御機嫌よう。」ルチアはダンスが終わると、アレクサンドリアからさっと離れてアンダルス達の方へと向かった。「あらルチア様、アレクサンドリア様とはもう踊らないんですか?」「ええ。だってあの方、好きではないんですもの・・何だか自分より地位が低い者を見下したような物言いをなさるから。」ルチアは扇子を口元に当てると、そう言って溜息を吐いた。「ルチア様は人を見る目がありますねぇ。ああいう奴って、自分が何にも出来ない癖に親の威光を笠に着てやりたい放題するんですよねぇ。」アンダルスが扇子を開いて弾けるように笑うと、ガブリエルが彼の肩を叩いた。「どうしたの?」「余りこのような場でそういう事を言うものではない。」「まぁ、本当の事だから本人の耳にでも入ったら大変だよね。」ガブリエルの忠告を軽く無視しながら、アンダルスはからからと笑った。 その時、カツカツと甲高い靴音が聞こえたかと思うと、ルチア達の背後に険しい表情を浮かべたアレクサンドリアが立っていた。「皆さん楽しそうにお話ししておりますね。是非わたくしもお聞きしたいです。」そう言いながら笑っているアレクサンドリアであったが、ラヴェンダーの双眸は怒りで燃えていた。「いえいえ、ちょっとした世間話ですよ。」アレクサンドリアを軽くあしらおうとしたアンダルスであったが、その態度がアレクサンドリアの癪に障ったらしい。「あなたは確か、舞姫と呼ばれている方ですよね? 平民であるあなたが、何故このような場に?」「僕はルチア様と国王陛下のお抱えなものでして。嘘だと思うならこの場で一差し舞って差し上げましょうか?」ガブリエルがすかさずアンダルスを止めようと彼の腕を引いたが、彼の真紅の双眸には怒りの炎が宿っていた。「ガブリエル、ちょっと借りるね。」アンダルスはそう言うなり、ガブリエルが腰に帯びていた長剣を抜くと、それを天高く掲げた。少しでも間合いを間違えれば鋭い刃で大怪我をするところであるが、伊達に幼い頃から舞の才能に秀でているアンダルスであり、長剣をまるで扇子のように軽々しく扱い、荒々しい戦場を激しくも美しい舞で表現した。―あれは、戦場の舞・・―誰一人として完璧に舞える者がいないという舞を・・―やはりルチア様がお目に掛けたことがありますわね。「まぁ、アンダルス、素晴らしかったわ。」舞を終えたアンダルスに声を掛け、彼に拍手を送ったのは、ビュリュリー伯爵夫人だった。「ありがとうございます、伯爵夫人。」「あなたには天賦の才能がおありなのね。ミニコンサートが今から楽しみでしかたないわ。」ビュリュリー伯爵夫人はちらりとアンダルスを陥れようとして目論見が外れ、怒りで顔を赤く染めたアレクサンドリアを見つめながら言った。「いいえ。まぁ、アレクサンドリア様に平民といえども国王陛下のお眼鏡に適う者ならば庇護してくださるということが証明されましたからね。」アンダルスが勝ち誇ったような笑みをアレクサンドリアに向けると、彼は大広間から出て行った。(ふん、ざまぁみやがれ。才能さえあれば世の中どうとでも渡っていけるんだよ。) 一国の皇子の鼻を明かし、アンダルスは爽快な気分で伯爵夫人の方へと向き直り、彼女と談笑した。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

「楽しかったわ、レオン。」「いいえ。ルチア様もダンスがお上手になられましたね。最初の頃はわたしの足を踏んでばかりいたのに。」「あら、そうだったかしら?」ルチアがそう言って笑った時、レオンを押し退けて一人の青年が彼女の前に立った。「初めましてルチア様、わたくしはアレクサンドリアと申します。お目にかかれて光栄です。」「まぁ、あなたがアレクサンドリア皇子? 遥々遠いところからようこそ。」エステア王国の皇子が今宵の夜会に出席すると父王から聞いていたルチアだったが、彼女はアレクサンドリアと初めて会っただけで彼の事が少し嫌いになった。「初めまして、ルチアですわ。」「美しいアメジストの瞳ですね、まるで宝石のようだ。」「ありがとう・・」アレクサンドリアから自分の容姿を褒めらったというのに、何故かルチアは嬉しくなかった。「ルチア様、こちらにいらしていたんですか。」「あら、ビュリュリー伯爵夫人、御機嫌よう。アレクサンドリア様、わたくしこれで失礼致しますわ。」ルチアはアレクサンドリアの横をすっと通り過ぎると、夜会に出席していた貴族達に挨拶した。「あれ、あいつ誰?」「知らないのか、アンダルス。あいつはエステア王国第1王子・アレクサンドリア様だ。」「へぇ~、あれが本物の皇子様か。何だかお高くとまってない?」アンダルスはそう言って鬱陶しそうに前髪を掻き上げると、ガブリエルを見た。「まぁな、余り良くない噂が流れているらしい。たとえば・・」「あら、誰かと思ったらガブリエル様ではないこと?」先ほどまでルチアと談笑していた貴婦人がそう言ってガブリエル達の方へとやって来た。「お久しぶりです、ビュリュリー伯爵夫人。」ガブリエルはそう言って貴婦人に挨拶すると、彼女はアンダルスを見た。「あなたが最近巷で噂の舞姫さんね。」「アンダルスです、宜しく。」アンダルスはそう言って貴婦人に向かって微笑んだ。「本当に可愛らしい方だこと。あなた、ご家族はいらっしゃるの?」「いいえ。両親はもうとっくに死んでしまって、家族といえばお師匠様のエルンスト様だけです。」「まぁ、あの吟遊詩人さんの弟子だなんて、羨ましい事。今度我が家でミニコンサートを開きますから、あなたもいらっしゃいな。」「ええ、是非伺いますわ。」「ほほ、楽しみだこと。」ビュリュリー伯爵夫人は上機嫌で彼らの元から去って行った。「アンダルス、ガブリエル、来てくださったの!」「ルチア様、今晩は。」ルチアはアンダルス達の姿を見るなり、笑顔を浮かべながら彼らの方へと駆け寄ってきた。「ええ。盛況ですね。それよりもルチア様、アレクサンドリア様とはお話しなさらないのですか?」「ここだけの話だけれど、わたくし、余りあの方が好きではないの。何処か近寄りがたいというか・・」ルチアは扇を口元に持って行くと、溜息を吐いた。「ですがルチア様、アレクサンドリア様は仮にもあなたの縁談相手なのですから、無下に扱ってしまってはエステアから宣戦布告をされてしまいますよ。」「まぁ、それは嫌だわ。じゃぁ、少しだけお話ししてみようかしら。」ルチアはドレスの裾を払うと、ゆっくりとアレクサンドリアの方へと歩いていった。「ルチア様、あの王子様と上手くいくかなぁ? 何か嫌な予感がする。」「ああ。だが、本人が嫌だと言っても、国同士で結ばれた婚姻は簡単に覆すことはできないさ。」「貴族は綺麗なドレスを着て美味いもんたらふく食って贅沢な暮らし送ってるのかと思ったら、色々と複雑なんだなぁ。」アンダルスがそう言った時、楽団が音楽を奏で始めた。「さてと、もう1曲踊ろうか?」「うん。」 アンダルスとガブリエルが踊りの輪に加わり優雅なステップを踏んでいた時、ルチアもアレクサンドリアと踊っていた。「さっきあなたの隣に居たあの男は何者ですか?」「彼はわたくしの騎士の、レオンですわ。」「騎士、ですか・・」 そう言ったアレクサンドリアの言葉が、何処かレオンを馬鹿にしているような気がして、ルチアは少し腹が立った。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

ルチアはコルセットでウェストを締めあげられてフラフラになりながらも、彼女が倒れぬようレオンが支えてくれたので、何とか大広間の前へと辿り着いた。「ルチア様、コルセットを緩めましょうか?」「ええ、お願い。このままだとわたくし、もう死んでしまいそうだわ。」「では、失礼致します。」レオンはそう言ってルチアの手を引き、人気のない廊下の角へと向かった。彼の手によってコルセットが緩められ、ルチアは呼吸が楽になり思わず溜息を吐いた。「ありがとう、レオン。少しマシになったわ。」「では、参りましょうか。」レオンとともに大広間に入ったルチアは、貴族達の好奇の視線に晒された。―まぁ、ルチア様はまたレオン様と・・―ルチア様は騎士様に夢中のようですわね・・―寄りにもよってこのような場所に、しかも仲良く連れたって来るとは、非常識だこと。宮廷雀達はルチアとレオンの姿を見るなり、ヒソヒソと扇子の陰で囁きをこいた。「何だかやなカンジ。レオン様はルチア様の騎士だから一緒に居ても別に何ともおかしくないのにさ。」アンダルスは眉を顰めながら大広間の隅に陣取って噂話に興じている貴婦人達をちらりと見ながら言った。「今宵の夜会はルチア様の結婚相手を探す目的で開かれたものだ。当の王女殿下が騎士を連れて来ると国王陛下が聞いたら、心穏やかではいないだろう。」「そうかなぁ、僕にとっちゃぁあの二人はお似合いだと思うけど? 何か問題でもある訳?」「大有りだ。ルチア様のご結婚は、彼女自身の問題ではなくなる。このローレル王国の問題でもあるのだからな。」「ふぅん。お偉いさん達は大変だねぇ、自由に恋愛も結婚も出来ないなんてさ。その点、僕らは自由すぎだね?」アンダルスがそう言って恋人の頬にキスすると、ガブリエルは照れ臭そうに俯いた。「今更恥ずかしがらなくてもいいでしょう? 一線を越えた仲なんだからさぁ?」彼がガブリエルにしなだれかかると、ガブリエルはそっとアンダルスの髪を梳いた。「それは解っているが、人前でイチャつくのは止めた方がいい。噂好きの暇人が色々と話を脚色してあっという間にわたし達の事を広めるからな。」「はいはい、解ったよ。」アンダルスは少し不満そうな顔をすると、ガブリエルから少し離れた。 一方、ルチアとレオンは大広間に集まっている貴族達がジロジロと先程から自分達の方を見ていることに気づいた。「何だか、見られていないかしら、わたくし達?」「それはそうでしょうね、あなた様の結婚相手探しの為の夜会に、あなた様がわたしを連れて来たのですから。」「不味い事をわたくしはしたかしら? ただわたくしはあなたと一緒に夜会に出て踊りたかっただけなのに。」ルチアはそう言うと、笑った。(この方は、いつも周囲の思惑など気に掛けず、自分のしたいように為さる。ルチア様は強い意志をお持ちの方だが、果たしてそれが・・)「レオン、あなたは結婚の事は考えているの?」不意にルチアの紫紺の瞳に見つめられ、レオンは暫し返答に戸惑った。「いいえ、わたしはまだ男として半人前ですし、ルチア様をお守りするだけで精一杯で、女性と付き合うなど考えた事もありません。」「あなた、見かけは遊び人のようだけれど、実は慎重な方なのね。まぁ、むやみに突っ走らずに物事を見極める力があった方がいいけれど。」ルチアはそう言うと、騎士に微笑んだ。(ルチア様、その笑顔がわたしだけに向けられる日は、いつまで続くのでしょうか? いずれあなたが誰かの妻になる日が来るかもしれぬというのに、わたしはあなたの笑顔が自分だけに向けられる日が永遠に続けばいいとさえ思ってしまうのです。)ルチアの笑顔を見るたびに、レオンの密かなる彼女への想いは徐々に募ってゆくばかりだったが、その想いに当の主は気づかなかった。 己の意思を常に持ち、針と糸よりも剣を持つ事が好きな王女。そんな彼女を幼時により見守って来たレオンは、今回の夜会の事を聞いて心穏やかではいられなかった。かつてルチアの母である現王妃が政略結婚の為この僻地ともいえる王国に嫁いで来たのと同じように、ルチアも意に沿わぬ相手との縁談が持ち上がり、友人や家族から離れた遠い国へと嫁ぐ日がいつか来るのだろう。マシミアン公爵家は、ローレル王家にもひけをとらぬほどの家柄ではあったが、一国の王女との結婚となると、自分は大勢いる宮廷貴族の中の一人としか捉えられず、結婚相手としては不充分だろう。王族の結婚は国同士との結婚であって、決して個々の意志は尊重されない。レオンは叶わぬ恋に身を焦がしながらも、ルチアの騎士として彼女を守ろうと誓ったのだった。「ルチア様、踊りませんか?」楽団が音楽を奏で始めたことに気づいたレオンは、そう言ってルチアの前に右手を差し出した。「ええ、喜んで。」ルチアは騎士の手を取り、氷の上を滑るかのような優雅な動きで彼と共に踊り出した。それを遠巻きに見ていた貴族達も、それぞれのパートナーの手を取って踊り出した。「わたし達も踊ろうか?」「うん!」ガブリエルとアンダルスが踊りの輪に加わった時、アンダルスはちらりと大広間の隅に陣取っている貴婦人達の方を見ると、彼女達はちらちらと何かを見ていた。「どうした?」「別に。それよりも、今口を歪めてルチア様達を睨んでいる奴は誰?」アンダルスの言葉にガブリエルが辺りを見渡すと、壁に身体を預けた軍服姿の少年が、恨めしそうにルチア達を見ていることに気づいた。(不味い事になりそうだな・・)「さぁな。」嫌な予感を振り払うかのように、ガブリエルはアンダルスと再び踊り始めた。「どうなさったの、お兄様?」キャラメル色の巻き毛を揺らしながら自分を怪訝そうに見つめる妹姫を、エステア王国第一王子・アレクサンドリアはじろりと睨んだ。「ルチア王女と踊っている奴は何処のどいつなんだ?」「さぁ、知りませんわ。ねぇお兄様、そんな所に突っ立ってないで踊りましょうよ。」自分の手を引こうとする妹姫のそれを、アレクサンドリアは邪険に払いのけた。「俺はルチア王女と踊るんだ。お前は誰かを誘えばいい。」「もういいわ、お兄様の意地悪。」頬を膨らませながら、妹姫は兄から離れた。「ふん、いつまで経っても餓鬼なんだから・・」溜息を吐いたアレクサンドリアは、退屈そうにしながらラヴェンダー色の双眸を黒髪の王女へと向けた。 ルチアはこの時、アレクサンドリアが自分を見つめていたこと、彼が結婚相手であることをまだ知らずにいた。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

「ルチア、こんな所にいたの?」 ルチアが王宮図書館で本を書棚から出していると、背後から母親に声を掛けられたのでルチアは振り向いた。「お母様、どうしてこんな所へ?」「今夜、夜会が開かれることになったのよ。あなたもそろそろ良い年頃だしね。」母の言葉に、ルチアは溜息を吐いた。 成人を迎えてからというもの、ルチアの父・ユリシスの許には、ルチアの縁談が山のように来ていたが、ルチアはそれらを全て断った。男でありながら王女として育てられたルチアだったが、意に沿わぬ結婚をするよりも、心から愛し合える者と結ばれたいとルチアは思っていた。「また、結婚相手探しの夜会なのね。お母様がわたくしの年頃だった時も、そんな夜会に出ていたの?」「ええ。お母様には妹がいたけれど、妹はわたくしが北国へ嫁ぐと聞いて驚いていたわ。身体の弱いわたくしに、厳しい北国での暮らしが耐えられるのかと、心配で堪らなかったそうよ。」「そうだったの。そういえば叔母様には一度もお会いしたことがないわね。どんな方なのかしら?」「いつか会う時が来るわ。その日まで楽しみにしていなさい。」リリアはそう言って、侍女とともに図書館から出て行った。 その頃レオンは、中庭で剣の鍛錬に勤しんでいた。「やぁっ!」ミハイルの攻撃をかわし、レオンが彼の鳩尾に木剣を打ち込むと、ミハイルは咳き込んで地面に蹲った。「まだまだですね。」「ちぇ、今日こそレオンに勝つと思ったにな。」ミハイルはそう言って舌打ちすると、ゆっくりと立ち上がった。「そんな調子では、まだまだお前には王位はやれんな。」「父上!」「陛下。」レオンはさっとユリシスの前に跪いた。「よい、気楽に致せ。レオン、これからミハイルを厳しくしごいてやってくれ。こいつは何時まで経っても剣の腕が上達しないから、心配なのだよ。」「父上、そんな事をおっしゃらなくても良いでしょう? いつも父上は姉様の事ばかり褒めるんですから。」「お前もわたしに褒められたいのなら、強くなる事だな。」「わかりましたよ、もう・・」ミハイルは苦笑しながらも、ユリシスを見る目は尊敬に満ちていた。それを隣で見ながら、レオンは最近家を留守にしがちな父の事を想った。ルチアの弟と同じ名を持つ父が多忙な身であることは知っているが、以前は仕事が終わるとすぐに帰宅し、自分と話をしてくれたりしたものだが、最近はそれが全くと言い程なかった。父はマシアン公爵家の領地を管理している身なので、自分と母が待つ家へと帰って来ない日が何日か続いていることは知っているし、それは仕方のないことだとレオンは思っていた。しかし母には話せない、男同士の話というものを一度父としてみたいとレオンは思い始めたが、それが出来ないもどかしさを抱えていた。「レオン、今宵の夜会には出るつもりなのか?」「はい、陛下。わたしはルチア様の騎士ですから。」「そんな事言って、お前は姉様に変な虫が寄り付かないようにしているだけだろう? 僕に隠したって無駄だからな。」ミハイルはそう言ってレオンの顔を覗き込むと大声で笑った。「ルチア様にその気がないようなので、今の所わたしは安心しておりますよ。ですが、ルチア様がいい方と巡り会えたのなら、わたくしは静かに身を引きましょう。」「レオン、姉様が好きならちゃんとその気持ちを伝えないと。いつも一緒に居て気持ちが伝わっていると思い込んでいるのなら、それは大間違いさ。距離が近すぎれば近過ぎる程、伝わらないものだってあるんだから。」「ミハイル、知ったかぶりをするのはやめろ。レオン、済まぬな。」「いえ・・」 一方、ルチアとアンダルスは中庭でお茶を飲みながら、夜会の事を話していた。「アンダルスは、夜会へは誰のエスコートで行くの?」「ガブリエルに決まっていますよ。最近彼、僕の事を離してくれないんですよ。」アンダルスはそう言ってクッキーを頬張りながら、鬱陶しそうに前髪を掻き上げた。肌理が細かい白い彼の首筋には、紅い痕が点々と付いていたので、ルチアは彼の言葉の意味が解り、顔を赤くした。「愛されているのね、とても。」「ええ。けれどガブリエルを狙う女達が多くて、気が休まる暇がありませんよ。」「まぁ、そうなの。しっかり捕まえておかないとね。」「ルチア様も、油断してちゃ駄目ですよ? レオン様を狙っている女達、以外と多いんですからね。」アンダルスの言葉に、ルチアは苦笑した。幼い頃から片時もレオンはルチアの傍を離れずにルチアの隣に居るし、それは彼がルチアの騎士となっても何ら変わる事がなかったが、成人を迎えたレオンに貴族の令嬢達が熱を上げるのは当然で、密かに彼は何人かに恋文を貰っていることをルチアは知っていた。(これからどうなるかしら?)今まで縁談を断って来たルチアであったが、これからそんな事を続けられなくなる状況が来るかもしれない。 その夜、国王主催の夜会が大広間で開かれ、華やかに着飾った貴族の令嬢達が結婚相手となるであろう貴族の青年達と談笑していた。その中で一際目立っているのは、すらりとした長身に蒼い軍服を纏い、艶やかな黒髪を背中で一纏めに結んだガブリエルと、金髪が映える宝石を散りばめた真紅のドレスを纏い彼の隣に立っているアンダルスの姿だった。彼らはこの夜会の主役であるルチアよりも目立っていたが、その事について貴族達は何もアンダルスを咎める事はしなかった。寧ろ、王女の大切な友人に対して彼らは敬意を払い、アンダルスを歓迎していた。「ルチア様、遅いね。支度に手間取っているのかな?」「そうだろうな。今宵の夜会はルチア様の結婚相手探しの為に開かれたものでもあるから、女官達が張りきっているのだろう。」ガブリエルがそう呟いている頃、ルチアは張りきった女官達によって、コルセットで腰を締めあげられて悲鳴を上げていた。「そんなに締めないで!」「ルチア様、これで弱音を吐いてしまってはなりませんわ! 今夜の夜会は女の戦いでもあるのですから!」女官達に好き放題された末に漸く彼女達から解放されたルチアは深い溜息を吐きながら、ドレスの裾を摘んで大広間へと向かった。コルセットで極限まで締めあげられ、息がまともに出来ないし、踵の高い靴を履いていて歩行もままならない。「ルチア様、こちらにおいででしたか!」「レオン、来てくれたのね。」大広間まであと一歩というところでルチアが大理石の床にへたり込もうとした時、咄嗟にレオンがその身体を支えた。「ルチア様、余り無理はなさらないでくださいね。」「ええ。」にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

「あなたがわたしのことを悪く言っているというのは、本当なの?」ルチアは自分を睨んでいるメリッサを見ながら言った。「ええ、本当ですわ。あなたのことが気に入りませんから。」「貴様、ここで手討ちにしてくれる!」レオンは腰に帯びている剣へと手を伸ばそうとしたが、ルチアはそれを止めた。「何故止めるのです?」「はやまったことをしないで、レオン。メリッサ、何故わたしを気に入らないの? お高くとまっているからかしら? それとも、あなたが好きな人を独占していることが気に入らないの?」ルチアの言葉に、メリッサは顔を赤くして俯いた。「レオン、あなたのことが好きなのよ、この子は。だからわたしとあなたの仲を誤解しているようだわ。」レオンはじろりとメリッサを睨むと、彼女はレオンから後ずさった。「メリッサ、済まないがわたしは君の気持ちには応えられない。」レオンの言葉を聞いたメリッサは、両手で顔を覆って衣装部屋から出て行った。「あなた、もっと言い方があるんじゃないの?」レオンがルチアに振り向くと、彼女は呆れたような顔をして彼を見ていた。「わたしは正直に自分の気持ちを彼女に伝えただけですが。」「それが駄目だというのよ。あんな言い方したら誰だって傷つくわ。あなたって人は、そういうところが鈍いんだから。」衣装部屋を出たレオンは、ルチアの部屋に着くまで彼女から小言を言われた。「仕方ないでしょう、わたしは今まであなた様以外の方とはお付き合いしたことがないんですから、女性の気持ちなんかわからないですよ。」「わかろうとする努力が足りないのよ、あなたには。これじゃぁ、お先真っ暗ね。」ルチアはお気に入りのソファに腰を下ろすと、大袈裟な溜息を吐いた。「ルチア様、舞姫様がお会いしたいとおっしゃっておりますが・・」「いいわ、通して。」扉が開き、アンダルスが長いプラチナブロンドの髪を揺らしながら部屋に入って来た。「お久しぶりです、ルチア様。」「お久しぶりね、アンダルス。元気そうだこと。」「ええ、まぁ。それよりもさっき、衣装部屋の子とすれ違いましたけど、泣いてましたよ? 何かあったのですか?」「原因はレオンに聞いて頂戴な。」ルチアはそう言ってレオンを見た。「ルチア様、この者は?」「レオン、この方はアンダルス、国王専属の舞姫よ。アンダルス、こちらはわたしの騎士のレオンよ。」「はじめまして。」アンダルスは姿勢を正してレオンに向かって優雅にお辞儀した。「こちらこそ。君の噂は聞いているよ、勝気で負けず嫌いな舞姫様だと。」「へぇ、そりゃ嬉しい事ですね。遠回しな嫌味を言われるよりもずっといいや。」アンダルスはそう言うと、ソファの上に飛び乗った。王族の前でこんなに寛いだ姿を見せるなど、この舞姫は肝が据わっているに違いない。そんな彼女の姿を見ながらも、ルチアは眉をしかめたりはせず、寧ろ彼女に微笑んでいるではないか。「ルチア様、舞姫様とはお知り合いなのですか?」「お知り合いというよりも、わたしの大切な友人よ。それにこう見えても、アンダルスは男の子よ。」「嘘をおっしゃらないでください、ルチア様。このように愛らしい華奢な舞姫が男など・・」2人の会話を聞いていたアンダルスはソファから立ち上がると、レオンの前でドレスの裾を捲ってみせた。「え・・?」そこには、自分と同じものがついていた。「これでわかったでしょう? 大丈夫、俺はお姫様とは変な関係にはなりゃしないから、心配しなくていいよ。」呆然としているレオンを見ながらアンダルスはそう言うと、欠伸をした。「あ~あ、最近忙しくて疲れが溜まってるんだよね。人気があるのはいいけど、毎晩宴に呼ばれてちゃぁ身体が幾つあっても足りないや。」「まぁ、そんなにあなたの舞は見る人の心を惹きつけているっていうことじゃないの。あなたは人気があるのにそれを鼻に掛けないところが良いって、あなたの舞を見た貴族がおっしゃってたわ。」「そうですか? なら一生懸命稼がないとね。ルチア様、俺はこれで失礼致します。」ソファに横たわっていたアンダルスはさっとドレスの皺を伸ばして立ち上がると、ルチアとレオンに優雅に礼をして部屋から出て行った。「面白い子でしょう?」ルチアはそう言って、にっこりとレオンに笑った。「ええ・・」 ルチアの部屋を出て廊下を歩きながら、アンダルスは口笛を吹いていた。あのルチアの騎士が自分が男であることを証明した時の、驚いた顔が忘れられなかった。(あんなに驚くことないのになぁ・・)「随分と楽しそうだね。」前方から声を掛けられ、アンダルスがそちらを見ると、そこにはあの司祭・ダリヤが彼の元へと歩いてくるところだった。「何の用? あんたとは余り話したくないんだけど?」アンダルスはそう言うと、じろりとダリヤを見た。「随分と嫌われてしまったようだが、まぁいい。わたしだって従者を君に奪われたんだからね。」ダリヤはアンダルスに一歩近づくと、アンダルスの髪を一房掴んだ。「本当に綺麗な髪だね。ガブリエルはいつもこの髪に顔を埋めているところを想像すると、嫉妬してしまうね。彼の奥方も、自分の夫が男の踊り子にうつつを抜かしていると知れば、心穏やかではなくなるだろう?」「今、何て言ったの? ガブリエルに奥さんがいるとかなんとか・・」「おや、知らなかったの?」アンダルスの狼狽した顔を見ると、ダリヤはそう言って勝ち誇ったかのような笑みを浮かべた。「ガブリエルにはちゃんとした家柄の奥方が居るんだよ。しかも、彼女は彼の子を宿している。まぁ、君は単なる遊び相手だったに過ぎなかったんだよ。」それ以上聞きたくなくて、アンダルスはダリヤを押し退けて廊下を走り去っていった。 その夜、アンダルスはダリヤの言葉が真実なのかどうかを確かめる為に、ガブリエルの部屋を訪れた。「ガブリエル、ひとつ聞きたい事があるんだけど・・」「何だ?」「あんた、結婚しているって本当? しかも奥さんはあんたの子を妊娠してたって・・」ガブリエルはアンダルスの言葉を聞くと、溜息を吐いた。「本当だ。だが、妻はわたしの子を宿したまま死んだ。」「そう・・そんな事があったの。ダリヤが変な事言うもんだから・・」「あいつの言う事は気にするな。」ガブリエルはそう言ってアンダルスを抱き締めた。「わたしはお前しか愛さないことに決めた。」「本当?」「本当だ。」ガブリエルはアンダルスの唇を塞いだ。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)
第二幕カン、カンッ! 王宮の中庭では、今日も剣戟の音が響いていた。「もっと肘を伸ばして! そう、そうです!」剣術の師匠に向かって剣を振るっているのは、数日前に成人を迎えたルチアだった。 腰下まである長い黒髪を背中で一括りにして男物の服を着た彼女は、師匠の言葉通りに肘を伸ばし、彼に何度も向かっていった。「今日の稽古はここまでにいたしましょう。」「ありがとうございます、先生。」「姫様は筋が良いですね。わたしは今まで星の数ほどの生徒を教えていましたが、姫様のような教え甲斐のある方は初めてです。」「あら、それは先生の教え方が良いからですわ。少し喉が渇いたので、お茶にいたしませんこと?」「いえ、わたしは忙しい身なので、これで失礼します。」「お気をつけて。」師匠を見送ると、ルチアは額に滴る汗を侍女が差し出した布で拭った。「ルチア様、剣術の稽古などしても良いのですか? 他にやるべき事がおありでしょうに。」そう侍女がルチアに苦言を呈すると、彼女は渋い顔をした。「お母様はわたしが剣術の稽古をすると言いだしても何もおっしゃらずに許してくださったし、お父様だって自分の身は自分で守れるようになれとおっしゃったわ。それにただ一日中刺繍や噂話に明け暮れるよりも、身体を動かした方がいいと思わなくて?」ルチアがそう言って侍女を睨むと、彼女は溜息を吐いて庭園から出て行った。「また侍女達があなたの悪口を言いますよ?」かさりと草叢が揺れる音がしたかと思うと、レオンが苦笑しながらルチアの元へとやって来た。「あらレオン、さっきの遣り取りを聞いていたの?」「ええ。ルチア様、剣術もいいですが少しは貴婦人としての嗜みを・・」「あなたもまた爺臭いお説教をするつもりなの? お茶にしましょう。」紫紺の瞳を煌めかせながら、ルチアはそう言ってレオンを見た。「レオン、あなたのお母様の具合はどうなの? 最近床に臥せりがちだとお母様から聞いていてよ。」「ああ、その事ですか・・」レオンはルチアの口から母の事を聞かされ、少し顔が曇った。 数日前、彼がルチアの騎士となって以来、アンナは床に臥せりがちになった。原因は愛する息子を憎い女の娘に奪われたということで、アンナはレオンに裏切られたような気がした。夫のミハイルもあの女に奪われた挙句、あの女と夫との間に生まれた娘にまで愛する息子を奪われるとは、一体自分が何をしたと言うのだろう。(わたしが何かしたのですか? 何故わたしだけにこんな苦しみを与えるのです?)アンナは寝台の上で、シーツを涙で滲ませた。「そう・・そんなに良くないの。」「ええ。母は毎日泣き暮らしていて、一体何が原因なのかと・・」「そっとしておいた方がいいんじゃなくて? こういう場所で言うのもなんだけど、お父様とお母様、上手くいっていないんでしょう?」「ええ。母にとってはわたしが全て。そのわたしが父に続いて王妃様やあなた様にお仕えすることになって寂しく思う余りに気を病んでしまったのでしょう。」「そう。」ルチアが椅子からゆっくりと立ち上がろうとした時、何かが彼女の頬を掠めた。「ルチア様、伏せて!」「え?」レオンの言う通りにルチアが身を地面に伏せると、彼女の近くに握り拳大程の石膏が落ちた。「何者だ!」レオンが腰に帯びている剣を抜き、ルチアに石膏を投げつけた犯人らしき女を捕まえた。「お前か、これをルチア様に向かって投げつけたのは!」彼に捕えられたのは、王宮に仕えてまだ日が浅い年端のゆかぬ女官の一人だった。「い、いいえ・・あたいは何も・・」「では何故逃げようとした? ルチア様に狼藉を働こうとしただろう!」レオンが女官の胸倉を掴むと、彼女は強く首を横に振った。「レオン、その辺にしておきなさい。彼女が怖がっているじゃないの。」ルチアは慌ててレオンと女官の間に割って入った。「ですがルチア様・・」「いいのよ、わたしは怪我をしていないんだから。それに、この子はたまたま通りかかっただけでしょう? そうよね?」「は、はい!」女官はそう言って涙を流した。「レオン、彼女を離してやりなさい。」「わかりました。」レオンは女官の胸倉から手を離した。「あなた、お名前は?」「イ、 イメルダですだ、ルチア様。」「イメルダ、誰がわたしにあの石膏を投げたか教えて頂戴。それだけでいいのよ。」「あ、あたいは何も見ておりません。神に誓って本当です! し、信じてくだせぇ!」女官は涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら、ルチアの前に跪いた。「そう。では犯人に心当たりはある? たとえば、わたしを恨んでいる人とか、憎んでいる人とか・・」「それなら、メリッサが・・」女官はそう言うと、気まずそうな顔をして口を噤んだ。「メリッサ?」「あ、あたいと同期の女官ですだ。そいつは、ルチア様のことをお高くとまっているとか、レオン様とデキてるって周りの女官達に言いふらしていて・・」「そう。イメルダ、メリッサは何処に居るの?」「あたいと同じ針子だから、今は仕事中で・・」「ルチア様、参りましょう。」「わかったわ。イメルダ、怖い思いさせてごめんなさいね。あなたも忙しいでしょうからお仕事に戻っていいわよ。」「へ、へぇ・・」中庭を後にしたルチアとレオンは、メリッサという女官がいる衣装部屋へと向かった。そこには数十人もの女官達が、ルチア達王族の衣装を縫っていた。「こ、これは姫様! あなたがこんな所にいらすだなんてお珍しい・・」ルチアの姿を見た衣装部屋の責任者である女官が、そう言ってルチアとレオンに向かって頭を下げた。「メリッサという子を探しているの。彼女は何処?」「ああ、彼女なら向こうで・・」「ありがとう。」ルチアとレオンが衣装部屋の隅で衣装の仕上げにかかっている一人の女官の元へと向かった。「あなたが、メリッサね?」「はい、そうですが。」そう言った女官は、敵意を隠そうともせずにルチアを蒼い瞳で睨みつけた。
2012年04月23日
コメント(2)

「え・・今何ておっしゃったの、お母様?」ルチアは先程母が言った言葉が信じられず、そう言って彼女を見た。「あなたとレオンは、血が繋がった兄と弟なのよ。」母の美しい顔は、苦痛に歪んでいた。「どうして・・どうしてそんな大切な事を黙っていたの!?」ルチアが母に詰め寄ると、彼女は泣きだした。「わたくしは長い間、子どもが出来ずにいたの・・たとえ政略結婚で結ばれている者同士でも、愛している人の子どもはどうしても欲しかった・・だから、わたくしは魔女の力に縋り、あなたを授かったのよ。」リリアは、自分の話に耳を傾けているルチアを見た。「魔術に頼って、お母様がわたしをこの世に産みだそうとしたのはどうしてなの? わたしを苦しませる為?」「いいえ、違うわ。わたくしは・・」「この事、お父様やレオンは知っているの?」娘の言葉に、リリアは静かに首を横に振った。「そう、じゃぁこの事はわたし達だけの秘密にしましょう。お母様、わたしはレオンと血が繋がった兄弟だとしても、彼を愛する事は止めないわ。」「ルチア・・あなたは何を言っているのか解っているの? わたくしの所為で、あなたは一生レオンと結ばれないのよ? それでも彼を愛すると・・」「ええ。今度、わたしの騎士を決めるでしょう? もうわたしは誰を騎士にするかを決めているの。」ルチアはそう言うと、涙を流す母に向かって微笑んだ。「もうお泣きにならないで、お母様。お母様がお父様を愛するように、わたしもレオンを愛しているの。男として生まれても、それは変わりないわ。」「そう・・」 ルチアが中庭を後にして廊下を歩いていると、レオンの母親であるアンナと偶然会った。「あらルチア様、お久しぶりですわね。」アンナはそう言ってルチアに微笑んだが、琥珀色の瞳は笑っていなかった。「アンナ、こちらこそお久しぶりね。」「いつも息子がお世話になっておりますわ。あの子はまだ宮殿に上がったばかりで、色々とご迷惑をおかけするでしょうけど、勘弁してくださいませね?」「迷惑だなんて、とんでもないわ。わたし、いつもレオンに助けられているのよ。」「そう・・ですか・・」アンナの顔に、一瞬戸惑ったような表情が浮かんだが、それはすぐに消え、彼女はルチアに再び微笑んだ。「ところでルチア様、騎士はもう誰を選ぶのか決めていらっしゃるのですか?」「ええ。レオンに決めたわ。」「まぁ・・」アンナはわざとらしくルチアの言葉に感動するような声を出した。王族の騎士に選ばれる事は、大変名誉なことなのだが、アンナは憎い女の息子が最愛の息子を騎士に指名し、彼を奪われる事を恐れていたので、素直に喜べなかった。「これからレオンとあなたとは長いお付き合いになりそうだけど、宜しくね。」「ええ。息子は色々と至らない所がありますが、母子共々宜しくお願い致しますわ。」アンナはそう言ってルチアに頭を下げると、そそくさと彼女の元から去っていった。「あ、ルチア様。こちらにいらっしゃったんですね?」背後で声がしてルチアが振り向くと、そこにはレオンが立っていた。「あらレオン、先ほどあなたのお母様とお話ししていたところよ。」「母と? 何をお話しになっていたのですか?」「あなたをわたしの騎士に指名しようと思って。あなたのお母様はあんまり嬉しくないようだったけど・・」「そうですか。母は色々と苦労したので、素直に感情があらわせない人なんです。それよりも、わたしなんかでいいのですか?」レオンはそう言ってルチアを見た。「わたしには、あなたしかいないの。」「ルチア様・・」「昨夜の事は忘れて頂戴。わたしは男であることを知っていても、あなたを愛する事は止めないつもりよ。」「わたしもです。」レオンはそう言ってルチアを抱き締めた。 血が繋がっているからか、出逢った瞬間、何故かレオンはルチアに惹かれた。最初は友人として見ていたが、互いに成長するに従って友情が恋情へと姿を変え、レオンはもはやルチアなしでは生きられないようになっていた。昨夜ルチアが男だと判っていても、ルチアを愛する気持ちは変わらなかった。「ルチア様、ひとつお聞きしたい事があります。」「聞きたい事?」「もしも・・わたしとあなたにお互い何かあったら、あなたはどうしますか?」レオンの問いに、ルチアはにっこりと微笑みながらこう答えた。「その時は、あなたと運命を共にするわ。」「・・そうですか。」レオンはそう言うと、ルチアの唇を塞いだ。 数日後、ルチアの騎士を決める日が来た。宮殿の大広間には我こそはと思う貴族の子息達が、玉座に座るルチアを見ていた。「皆さん、わたくしの為に集まってくださってありがとう。ですが最初に、わたくしは皆さんに謝らねばなりません。」ルチアがそう言うと、周囲がざわつき始めたが、ルチアは気にせずに続けた。「わたくしはもう、騎士にする方を前から決めておりました。」ルチアはゆっくりと椅子から立ち上がり、貴族の子息達の方へと歩いていった。彼らは王女の騎士に選ばれたのは誰なのかと、互いに顔を見合わせた。彼らの緊張が高まる中、ルチアはレオンの前で足を止めた。「レオナルド=アルフェリート=フォン=マシアン、わたくしの騎士となってくれますか?」「はい、喜んで。」レオンはそう言って、ルチアに跪くと、彼女が差し出した手の甲に接吻した。「わたしはあなたの為に、この身と命を全て捧げます。」レオンが顔を上げると、そこにはルチアが紫紺の瞳を煌めかせながら自分に微笑んでいた。「ありがとう、レオン。これからも宜しくね。」「こちらこそ。」―そんな・・―どうして、あいつなんかが・・―嘘だろ!?二人の姿を見た者達は、ひそひそと囁きを交わしながら彼らを見ていた。「レオン、ルチアの事をこれからも頼むわね。この子のことを守れるのは、あなたしかいないから。」リリアはそう言うと、レオンに微笑んだ。「かしこまりました、王妃様。全身全霊でルチア様をお守りいたします。」「まぁ、頼もしいこと。」王妃とレオンの遣り取りを、アンナは苦々しい表情を浮かべながら見ていた。(ルチアに・・あの女の息子に、レオンを奪われてなるものか!)アンナの中で、リリアとルチア母娘への憎しみが一層深くなっていった。―第一幕・完―にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

「突然何をおっしゃるのですか、ルチア様?」レオナルドは、そう言って驚愕の表情を浮かべながらルチアを見た。「わたしを抱きなさいと言ったのよ、聞こえなかったの?」ルチアは紫紺の瞳でレオナルドを睨むと、彼に抱きついた。「本気でそうおっしゃっておられるのですか、ルチア様?」「冗談でわたしがこんな事言うと思う?」レオナルドは溜息を吐いた。「ルチア様、申し訳ありませんが、わたしには出来ません・・」「そう、ならいいわ。」ルチアはそう言うと、ドレスの胸紐を解いた。シュルリという音がして、真紅の胸紐が大理石の床に落ちた。「ルチア様、おやめください!」レオナルドは慌ててルチアを止めようとしたが、その手を彼女は邪険に払いのけ、ドレスを脱いだ。「本当に、あなた様は・・」「わたしは今夜を、記念に残る夜にしたいの。」下着姿となったルチアはそう言うと、熱を孕んだ紫紺の瞳でレオナルドを見つめた。(ルチア様・・それほどまでにわたしを・・)レオナルドは自分の前に立っているルチアが、それほどまでに自分に対して想いを寄せていることに初めて気づいた。ここで彼女を抱くべきなのだろうか。頭ではいけないと警告を発しつつも、レオナルドはルチアの唇を奪った。「ん・・」レオナルドはルチアの口腔内を舌で犯し始めた。ルチアはそれに応じるかのように、己の舌をレオナルドの舌に絡めた。そっとレオナルドがルチアから離れると、二人の唾液が糸を引いた。「ルチア様・・」レオナルドはゆっくりとルチアのコルセットの紐を解き、ソファにその身体を横たえた。彼はルチアの首筋を強く吸いながら、彼女の身体をベッドに横たえた。「あ・・」レオナルドが首筋を強く吸う感触がして、ルチアはびくりと快感に身を震わせた。レオナルドはルチアのコルセットの裾を捲った。そこには、驚愕の真実が隠されていた。「レオナルド?」突然レオナルドが離れて行くのを感じたルチアがゆっくりとベッドから起き上がると、そこには俯いている彼の姿があった。「ねぇ、どうしたの?」「ルチア様・・あなた様は男だったんですね。」「え?」ルチアは、レオナルドが一瞬何を言っているのかが解らなかった。(わたしが男?)この十五年間、自分は女として生きてきたし、自分が女だと思っていた。ルチアは恐る恐るコルセットの裾を捲り上げ、その下を見ると、そこには男性のものがあった。目を擦ってもう一度見たが、それは確かにルチアの下半身にあった。「レオナルド、どうなっているの? わたしにはどうして、こんなものがついているの!?」「それはわたしと同じ男だからです、ルチア様。」「そんな・・わたしは今まで女として生きてきたのに! どうして・・」「ルチア様、落ち着いてください!」「嫌ぁ、わたしは化け物よぉ!」ルチアは真実を知り、激しく動揺した。そんな彼女を、レオナルドは抱き締めた。「ルチア様、今宵は一晩中、わたしが傍におります。だから安心してお休みください。」「レオナルド・・助けて・・」ルチアがそう言った途端、彼女は胸を押さえて蹲った。「ルチア様、ルチア様!?」レオナルドはルチアを再びベッドに寝かせると、彼女の上にシーツを掛けた。「レオナルド・・気つけ薬が傍の棚の・・一番目の引き出しに・・」レオナルドはベッドの近くにある小さい棚の一番目の引き出しを開け、気つけ薬をルチアに口移しで飲ませた。「大丈夫ですか?」「ええ・・少し楽になったわ・・ありがとう・・」「お召し替えをしなければ。そんな格好では風邪をひきます。」「ええ、そうね・・そうするわ・・」ルチアはベッドから起き上がると、クローゼットの方へとふらふらと歩いていった。(ルチア様・・何という痛々しいお姿なのだろう!)愛する者とまさに結ばれようとしているその時に、残酷な真実がルチアに突き付けられるとは、神は意地悪だ。「レオナルド、お父様達には内緒にしていて、今夜の事は・・」「しかし・・」「わたし、今まで二人に心配かけてきたでしょう? もうこれ以上わたしの事で心配して欲しくないの。」女だと思い込み、今まで生きてきたというのに、男であるということを知り動揺しているというのに、ルチアは自分の事よりも両親の事を気遣い、心配していた。「わかりました。陛下と王妃様には何も申し上げません。」「ありがとう・・」ルチアはベッドに倒れ込むと、ゆっくりと目を閉じた。「ルチア様・・」ルチアがすやすやと寝息を立てて眠るのを隣で聞きながら、レオナルドはそっと彼女の艶やかな黒髪を梳いた。今夜自分が見たことは全て忘れてしまおう。たとえそれが、残酷な真実だとしても。 翌朝、ルチアが目を覚ますと、隣のベッドにはレオナルドが眠っていた。彼女はにっこりと笑うと、レオナルドの金髪を撫でてベッドから出た。「ルチア様、おはようございます。」「おはよう。」ルチア付の侍女が部屋に入ってきて、ベッドの中で眠っているレオナルドを見るなり頬を赤く染めた。「安心して、彼とはやましい事は一切していないわ。」「そ、そうですか・・では、お召し替えを。」「ええ、お願い。」着替えを終えたルチアは、朝食の後で母に真実を聞こうと思った。「お母様、お話しがあるのだけれど、よろしいかしら?」「なぁにルチア?」朝食後、ルチアは母を庭園に呼び出した。「昨夜、わたし自分の身体を見てしまったの・・そしたら・・」「ルチア・・」母はルチアが何を言おうとしているのかが解っているかのようで、急に美しい顔をこわばらせたかと思うと、涙を流した。「ああルチア、ごめんなさい。お母様が悪かったわ・・」ルチアは母の口から、更なる真実を知ることになった。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

性描写含みます、苦手な方は閲覧なさらないでください。(なんだか、僕ここにいてもいいのかなぁ?)ルチアに招待されたとはいえ、アンダルスは平民だ。いくら舞の才能があるといっても、貴族でも何でもない自分が、このような場所にいてもいいのだろうか。「どうした?」ハッとアンダルスが我に返ると、ガブリエルが心配そうに自分を見つめていた。「僕、こんな所に居てもいいのかなぁ?」「何言ってる、アンダルス。お前はルチア様から正式に招待されたのだから、堂々としていればいいではないか。」「そういう問題じゃなくてさぁ・・貴族のあんたはこんな場所、慣れっこなんだろうけど、平民の僕には見るものとか食べ物とか初めてでさぁ・・ちょっと圧倒されている訳。」「何だ、そんなことか。」ガブリエルはアンダルスの言葉を鼻で笑った。「あんたには“そんなこと”に見えるだろうけど、僕にとっては一大事なの!」アンダルスはそう言うと、ガブリエルの胸を小突いた。「わたしがついているから安心しろ。」「あんた頼りなさそうだけど、まぁ他の男よりもいいか。」アンダルスの言葉にカチンとしながら、ガブリエルは笑った。「あら、ガブリエル様ではございませんの?」二人が話していると、向こうから一人の令嬢が彼らの方へとやって来た。金髪の巻き毛を揺らし、目が覚めるような蒼いドレスに身を包んだ令嬢は、そう言うとガブリエルを見た。「お久しぶりですね。」「その方は?」令嬢の視線が、ガブリエルからアンダルスへと移った。「わたしの恋人の、アンダルスです。」「アンダルスです、宜しく。」アンダルスはそう言って令嬢に微笑んだが、彼女は冷たい目で彼を見た。(何こいつ・・感じ悪い。)「初めて見るお方ね。一体どこのお嬢さんなのかしら?」「アンダルスは男だ。それに彼は平民だ。」「まぁ、平民がこんな所に居るなんて、驚きですわ!」ガブリエルの言葉に、大袈裟にそう言うと令嬢は悪意に満ちた目でアンダルスをじろじろと見た。「僕もこんなクソ意地悪いお貴族様がこの場にいらっしゃるなんて、びっくりだなぁ。」アンダルスがそう言葉を返すと、令嬢は怒りで顔を赤くした。「まぁ、平民の癖にわたくしに歯向かう気?」「別にぃ、そんなつもりはありませんけど? あんたの言葉をそのままそっくりお返しただけさ。」アンダルスはそう言って不快そうに鼻を鳴らした。「ガブリエル様、本当にこんな無礼な子と付き合っているんですの?」令嬢はガブリエルに助けを求めるように彼を見た。「わたしはアンダルスの事を愛していますから。」その言葉を聞いた後、令嬢は悔しげに顔を歪めながら大広間から出て行った。「いいのぉ? あんな美人振ってさぁ?」「別に。わたしはお前以外の人間には興味ないからな。」ガブリエルはそう言うと、アンダルスの唇を塞いだ。「ちょっと・・こんな所でしないでって・・」「どうした、恥ずかしいのか?」「そんなんじゃないけど・・」「じゃぁ、人目のつかない所でするか?」ガブリエルは悪戯っぽく笑うと、アンダルスの唇を塞ぎ、彼の手を取って大広間から出て行った。「何処行くの?」「行けば解る。」ガブリエルはそう言ってアンダルスを“ある場所”へと連れて来た。そこは、宮殿から少し離れた森の中だった。確かにここでは人目がつかないが、獣が棲んでいそうな気配がする。「ねぇ、ここで大丈夫なの?」「ああ。お前は、さっきのキスだけで感じているんだろ?」ガブリエルはアンダルスのドレスの裾を捲り、彼のものを握った。「ちょっ・・」ガブリエルはアンダルスのドレスの胸紐を解くと、彼を全裸にした。月光の下で仄かに照らされる、未成熟で華奢な彼の身体は美しく、ガブリエルはそれを舐めるように見た。「そんなに見ないでよ・・」執拗にガブリエルから見つめられ、アンダルスは羞恥の余り地面に落ちているドレスを拾おうと腰を屈めた。その時、ガブリエルの大きくて逞しい手が彼の腰を掴むと、猛った己自身を腰に押し付けた。「ちょっと、まだ慣らしてないんだから・・」「大丈夫だ、まだ夜は長いんだから。」ガブリエルはそう言うと、指を舐めるとそれをアンダルスの奥へと挿れ、ゆっくりと慣らし始めた。アンダルスは上半身を屈めた不安定な体勢で立っていられなくなり、地面に両手をついて倒れてしまった。「どうした?」「腰が・・」「尻をもっと高く上げろ。そうすれば楽になる。」アンダルスはガブリエルの言われた通りに、腰を少し浮かして尻を高く上げた。ガブリエルはゆっくりとアンダルスの中へと入っていった。「い、痛っ!」少し慣らしたとはいえ、いきなり異物が入って来たのでアンダルスは痛みに悲鳴を上げた。ガブリエルはアンダルスの金髪を梳きながら、腰を動かした。「いやぁ、駄目! 変になっちゃう!」「気持いいんだろ?」ガブリエルが腰の動きをはやめると、アンダルスの内部が彼自身を締め付けた。ガブリエルは空いている手でアンダルスの乳首と股間を執拗に愛撫した。「あぁ、嫌ぁ!」「くっ・・」ガブリエルはアンダルスの中に精を放った。「気持ち良かったか?」肩で息をしてぐったりとしているアンダルスをガブリエルはそっとキスしながら言った。「うん・・もっと、して?」アンダルスが上目遣いでガブリエルを見ると、彼はアンダルスを押し倒した。それから二人は獣のように互いを貪り合った。「もうそろそろ戻らないとな。」ガブリエルはそう言って、地面に散らばっていた服を拾い上げてそれを着始めた。「うん・・」アンダルスはドレスを着て、さっと土汚れを払うと、ガブリエルとともに森を出た。 その頃、パーティーが終わり部屋で休んでいたルチアに呼びだされたレオナルドは、彼女が発した言葉に耳を疑った。「わたしを抱いて、レオン。」にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

性描写含みます、苦手な方は閲覧なさらないでください。 ガブリエルとアンダルスが遠乗りから帰ると、そこにはルチアとレオナルドの姿が厩舎にあった。「皇女殿下、おはようございます。」アンダルスはそう言ってルチアに向かって頭を下げた。「そんなに堅苦しい呼び方をしないで。ルチアでいいわ。」「ですが・・」「わたしは、余り“殿下”とか“皇女様”と呼ばれるのは嫌いなの。だから、お願い。」「解りました、ルチア様。それにしてもお珍しいですね、ルチア様がこのような場所においでになられるなんて。」アンダルスはちらりとルチアの隣で控えているレオナルドを見た。「ルチア様が遠乗りに行きたいとおっしゃられてな。おひとりでは危ないから、わたしが供で付いていくことにしたのだ。」レオナルドはルチアの手を握りながら言うと、アンダルスは口笛を鳴らした。「ガブリエル、どうやら僕達はお邪魔虫のようだから向こうへ行こうか。」「ああ・・」ガブリエルとアンダルスが厩舎を後にすると、レオナルドはルチアを見た。「ルチア様、明日にはあなた様は十五になられますね。」「ええ。あなたもね、レオン。あなたと出逢ってからもう十年以上経つのね・・随分昔の事なのに、まるで昨日の事のようだわ。」ルチアはそう言って溜息を吐いた。「あなたは、わたしの騎士になってくれるわよね?」「ええ、そのつもりです。」「何だか不思議ね、あなたと同じ日に成人を迎えられるんだなんて。」ルチアは紫紺の瞳で、地平線の彼方を見上げた。 ローレル王国では、満十五歳の誕生日を迎えると成人として認められ、それは貴族や平民も変わらない。この国では騎士制度というものがあり、王族の警護や補佐などを務める騎士は、貴族の子息達から選ばれる。騎士になれるのも十五からで、騎士を選ぶのは王族によって委ねられる。「ねぇレオン、未来には何が待っていると思う?」「さぁ、わたしにはまだわかりません。」宮殿を出て森へと向かいながら、レオナルドは栗毛の馬に乗っているルチアを見た。「わたしね、もっと広い世界を見てみたいの。宮殿の外から出て、この王国の他に色々な国を見たりしたいの。」「その時は、わたしがお供いたします。」空色の瞳で、レオナルドはルチアを見ながら優しく彼女に微笑んだ。太陽の光が、ルチアの黒髪を美しく照らし、紫紺の瞳が光を反射して宝石のように輝いた。「わたし、今の季節が好きよ。」ルチアは宮殿の外にある泉の前に腰を下ろすと、そう言って太陽の光を受け輝く水面を見つめた。「わたしは冬が好きですね。雪を見ると、何だか落ち着きます。」「そうなの。わたし冬は寒いから嫌いよ。」暫くルチアとレオナルドはとりとめのない事を話していた。「もう日が暮れそうですね。そろそろ帰りましょうか。」「ええ。」 一方、宮殿ではリリアとユリシスが明日に迫ったルチアの成人について話をしていた。「あなた、やはりルチアには真実を伝えなければなりませんわね。」「今はまだ早いだろう。ルチアに真実を伝えるとしたら、あの子が誰かの元に嫁ぐ時だと、わたしはあの子が生まれた時から決めていた。」ユリシスは溜息を吐きながら眉間を揉んだ。「ですがあなた、このままルチアに真実を隠し通せることは出来ませんわ。わたくしからあの子に真実を話しますわ。」「そうか・・お前がそうしたいと思うなら、そうしてくれ。ルチアはもう、十五になったのか・・長いようで短かった十五年間だったな。」「ええ・・」 翌朝、ルチアは十五になり、成人を迎えた。「ルチア様、本日は御成人を迎え、おめでとうございます。」「ありがとう。」昼から貴族達がルチアに次々と祝いの言葉を述べた。「ルチア様、御成人おめでとうございます。」レオナルドは、そう言って玉座に座るルチアを見た。「ありがとう、レオン。あなたからお祝いされると嬉しいわ。」レオナルドの言葉に、ルチアは嬉しそうに笑った。「あなたに似合うと思って・・」レオナルドが上着のポケットから取り出したのは、薔薇を象った飴色の美しい櫛だった。「ありがとう、大切にするわ。」ルチアはレオナルドから櫛を受け取り、彼に微笑んだ。 その夜、大広間で開かれたルチアの成人祝いの宴では、レオナルドからプレゼントされた櫛を黒髪に挿し、始終笑顔を浮かべているルチアの姿があった。「お気に召しましたか?」「ええ、とても。この櫛、前から欲しかったものだったのよ。」「そうですか。」「不思議ね、あなたはいつもわたしの欲しいものや、してくれることを察してくれる。いつもあなたはわたしの傍に居て、慰めたり励ましたりしてくれる。まるであなたが実のお兄様のように見えるわ。」「そうでしょうか?」レオンが照れ臭そうに笑いながらルチアを見ると、彼女は恥ずかしげに俯いた。「これからも、わたしを助けてくださいね、レオン。」ルチアはそう言って、レオナルドに手を差し出した。「はい・・」レオナルドは、ルチアの手を握った。「一緒に踊りましょう。」「それが、あなた様のお望みならば。」レオナルドとルチアは、静かに踊りの輪へと加わった。シャンデリアの光が、ルチアの黒髪を美しく照らす。「ねぇレオン、いつかわたしのお嫁さんにしてくれる?」「もしできるのなら、あなたをわたしの妻にいたします。」レオナルドの言葉を聞いたルチアは、彼に向かって微笑んだ。「ルチア・・」そんな二人の様子を、リリアは溜息を吐きながら見ていた。(あの子に伝えなくても良かったのかしら・・本当に。)十五年前のあの日、ルチアを女児として育てたことを決めたのは、間違いだったのだろうか。ルチアは自分と踊っている少年と血が繋がった兄弟とは知らずに、彼と恋に落ちてしまっている。(わたしは・・一体どうすれば・・)「ねぇ、僕がこんな所に居てもいいの?」大広間の隅で、美しく着飾ったアンダルスはそう言ってガブリエルを見た。「正式に招待されたのだから、いいだろう。」「そ、そうだよね・・」 生まれて初めてこんなに豪華なパーティーに出たことがないアンダルスは、緊張で身体を硬くしていた。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

性描写含みます、苦手な方は閲覧なさらないでください。「んぅ・・」 ガブリエルがアンダルスの唇から離れた時、アンダルスはワインレッドの瞳を潤ませながら彼を見た。「ねぇ、どうしてやめたの?」「男にキスされて気持ち悪くないのか?」「全然。それよりも、もっとしたいくらい・・」アンダルスはそう言うと、ガブリエルに抱きつき、彼の唇を塞いだ。ガブリエルはアンダルスの柔らかな唇の感触をゆっくりと味わうと、舌で彼の口内を侵した。「はぁんっ」アンダルスから離れると、二人の唇から唾液がたらりと垂れた。ガブリエルはアンダルスの白い首筋に紅い痕を付け始め、空いている手で彼の脇腹をくすぐった。アンダルスの華奢な腰が揺れ、ガブリエルは欲情に駆られた。彼の下半身は既に熱を持ち、そこからは蜜が垂れていた。ガブリエルは腰を屈めると、アンダルスのものを口に含んだ。「いや、やだ・・」アンダルスはガブリエルの髪を引っ張って抵抗したが、腰を大きな逞しい手で掴まれて身動きできなかった。ガブリエルは強弱をつけながらアンダルスのものを舌と指で愛撫すると、アンダルスは口端から涎を垂らしながら甘く喘いだ。やがて彼は背中を大きく反らせて悲鳴を上げた。「ど・・して・・こんなこと・・」「気持ち良かったんじゃないのか?」鬱陶しそうに髪を掻き上げながら、アンダルスはゆっくりと立ち上がった。「そんな・・」「不思議だな、初めてお前と会った時、前にも何処かで会ったような気がしてならなかった。」ガブリエルは、アンダルスの金髪を優しく梳きながら、彼を抱き寄せた。「そう?」「ああ・・知り合ってまだ日が浅いというのに、わたしはお前がとてつもなく愛しく思える。」「それ、本当? 嘘だったら殺すから。」アンダルスはそう言うと、ガブリエルを睨んだ。「嘘じゃない。」ガブリエルはアンダルスの髪を撫でると、再びその唇を塞いだ。再び彼の指が自分の身体を愛撫するさまを見ながら、アンダルスは甘い声を出した。こんなの初めてだ。男娼館に売り飛ばされそうになった時、こんな風に男に抱かれそうになったことがあるが、あの時は今のように全然気持ち良くなかった。それなのに今は、知り合って間もない男の愛撫に酔いしれている自分が居る。ふとアンダルスがガブリエルを見ると、彼の下半身は激しく脈打っていた。自分のものとは比べ物にならないほど大きいそれに、アンダルスは息を呑んだ。「どうした?」「急に・・怖くなってきちゃった・・」「大丈夫だ、優しくするから。」ガブリエルはそっとアンダルスの頬にキスすると、彼の下肢の奥へと指を挿れた。「ひぃ!」生まれて初めて自分が見たことも触ったこともないような場所に指を挿れられ、アンダルスは恐怖のあまりガブリエルから逃げ出そうとしたが、彼はそっとその内側を指先で撫でた。彼の指が内部で蠢く度に、もっとそれが欲しいとアンダルスは思ってしまう。ガブリエルはそんな彼の反応を見ながら、少しずつ指の本数を増やしてゆく。アンダルスの全身はガブリエルの愛撫によって火照り、もう指だけでは我慢できなくなっていた。「お願い、もう駄目・・」「どうして欲しい?」アンダルスは上目遣いでガブリエルを見た。「欲しい・・あんたのが・・」「良い子だ。」ガブリエルはそう言うと、アンダルスの右足を上げさせてゆっくりと彼の内部へと己を挿れた。「ああ!」指とはくらべものにならない程硬くて熱いものが内部で蠢くのを感じて、アンダルスは思わず声を出してしまった。「こんなのはまだ序の口だ。」ガブリエルはアンダルスの身体を反転させると、後ろからゆっくりと腰を動かした。「うぅん・・」急に体位を変えられ、奥までガブリエルのものが突き刺さる感覚がして、アンダルスは少し痛みで呻いた。「どうして欲しい? このままやめてもいいんだぞ?」「やめないで・・奥まで突いて。」ガブリエルはアンダルスの困惑した顔を楽しく眺めながら、腰の動きを速めた。彼が動く度に水面が大きく揺らぎ、渦を巻く。アンダルスは余りの衝撃で立っていられず、倒れそうになった。「ここでは集中できないな。」ガブリエルは舌打ちすると、アンダルスを抱き上げて泉から上がると、彼の両足を自分の両肩に掛けて腰を激しく振った。「やだぁ、もう抜いて!」「締め付けている癖に、何を言う? 気持いいんだろう?」ガブリエルの猛烈なピストンを受けるたびに、アンダルスの身体はがくがくと揺れた。身体の奥底から何かが湧きあがってきて、アンダルスは絶叫した。ドロッとした白い蜜が自分のものから飛び散るのを見た彼は、荒い息を吐いた。ガブリエルが眉間に皺を寄せ、前後に腰を振ると、内部で彼の欲望が爆ぜる感覚がした。「少しやりすぎたな・・」肩で息をしながら、ガブリエルはそっと己をアンダルスの内部から抜いた。そこからドロリと、蜜の雫が滴り落ちた。「また身体が汚れたな。」「大丈夫だから・・」「こんな状態で帰れないだろう?」ガブリエルはアンダルスに有無を言わせずに彼の手を掴むと、再び泉の中へと入り、彼の身体を洗った。「痛い・・」帰り道、馬に乗りながらアンダルスはそう言って尻を擦った。「初めてだったのか? ならばもう少し優しくすればよかったな。」隣で馬を走らせていたガブリエルはちらりとアンダルスを見ながら言った。「大丈夫だよ、こんなの。それよりもあんたさぁ、真面目そうな顔して結構エロいよね。言葉責めとかするし・・もしかしてS?」アンダルスの問いに、ガブリエルは笑って誤魔化した。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

「ん・・」アンダルスがゆっくりと目を開けると、隣にはあの黒髪の男が寝ていた。しかも彼は、上半身裸だった。(え、な・・)一体何が起きたのかアンダルスがわからずにいると、男が低く呻いて目を開けた。「起きたか。」男はそう言うなり、アンダルスを自分の方へと抱き寄せると、彼の唇を塞いだ。「んぅ・・」アンダルスが男の腕の中でもがくと、彼は再びシーツを頭から被って眠り始めた。「寝ぼけて他人のファーストキス奪って、何様だよ!」アンダルスはそう男に怒鳴ると、彼の股間にある二つの玉を思い切り爪を立て、握った。男はたちまち悲鳴を上げ、ベッドから飛び起きた。「何をする!」「それはこっちの台詞だよ! 寝ぼけて他人のファーストキス奪いやがって!」「だからといってわたしの大事なものを握りつぶすことないだろう!」男は切れ長の黒い瞳でアンダルスを睨み付けながら叫んだ。「そうでもしないと僕の気が済まないの!」「お前も男だろう? そんな事したら性的不能になるのが解らんのか、この馬鹿!」「馬鹿ってなんだよ、馬鹿って! 大体あんた何様なわけ?」アンダルスがそう男に向かって吼えた時、ドアが開いてダリヤが部屋に入って来た。「煩いなぁ、二人とも。朝っぱらからぎゃぁぎゃぁ騒がないでくれる? ガブリエル、一体どうしたのさ?」ダリヤは呆れたような顔をしながら男を見た。「こいつがわたしの大事なものを握りつぶそうとしたんだ!」「お前、もしかして寝ぼけてこの子のファーストキスを奪ったね? いくら寝起きが悪くても駄目だよそんなことしちゃ。じゃぁ二人とも仲良くね。」ダリヤは面倒臭そうに二人を見ると、部屋から出て行った。「ちょっと、何だよ!」アンダルスは慌ててダリヤを追いかけようとするが、彼の鼻先でドアが閉まった。「ああ、お前の怒鳴り声を聞いていたら頭痛がしてきた。」男はそう言うと、眉間を揉んだ。「あんた、名前は?」「ガブリエルだ。」「へぇ、最低な奴なのに天使の名前って似合わないね!」「酷い言い草だな、命の恩人に向かって。」男―ガブリエルはそう言いながらアンダルスを睨んだ。「命の恩人?」アンダルスはこの時、自分の腹に巻かれている包帯に気づいた。昨夜、ガブリエルが振う鎌の刃を腹部に受け、瀕死の重傷を負った。あの時死ぬかと思ったが、ガブリエルが自分を助けてくれたのだ。「あんたが、僕を助けてくれたの?」「ああ。殺すのは惜しいからな。お前のような、生きた宝石は。」ガブリエルはそっとアンダルスの長い金髪を梳くと、それに優しく口付けた。「助けてくれて・・ありがとう!」アンダルスは照れ臭そうな表情を浮かべると、ガブリエルにそっぽを向いた。「どういたしまして。この後、お前予定あるか?」「う~ん、それはどうかな? お師匠様が今頃心配していると思うから。」アンダルスがそう言った時、ダリヤがエルムントを連れて部屋に入って来た。「アンダルス!」「お、お師匠様!」アンダルスはガブリエルを突き飛ばすと、エルムントの方へと駆け寄った。「一体何処へ行っていたんですか? 心配してたんですよ!」「ごめんなさい、お師匠様。舞の稽古に夢中になってたらお腹に剣が突き刺さっちゃって。でもこの人が手当てしてくれましたから!」ガブリエルは顔を顰めながらエルムントを見た。「わたしの弟子を助けてくださり、ありがとうございました。」エルムントはそう言うと、ガブリエルに向かって頭を下げた。「お師匠様、この方と遠乗りに行ってもいいですか?」「でも、怪我の具合は?」「大丈夫です。この方がちゃんと手当てしてくださいましたから。」エルムントはちらりとガブリエルを見ると、彼ににっこりと微笑んだ。「アンダルスの事、どうかお願いいたします。」「は、はい・・」エルムントはダリヤとともに部屋から出ると、溜息を吐いた。「彼、アンダルスに何かしないでしょうか?」「大丈夫だよ。あの子可愛い顔して気が強そうだからね。」ダリヤは困惑しているエルムントの顔を見ながら、口端を上げて笑った。 朝食を食べた後、アンダルスとガブリエルは厩へと向かった。「お前、馬は乗れるのか?」「舞姫って呼ばれてるけど、俺男だし。それに馬なんか村に居た頃毎日乗ってたよ。」ガブリエルの言葉に、アンダルスは鼻を鳴らしながら白馬を見た。「これに乗ろうかなぁ。」「残念だな、これはわたしの馬だ。お前は隣の馬に乗れ。」アンダルスはガブリエルの言葉に不満そうに唸ったが、白馬の隣の馬房にいる月毛の馬に話しかけた。「本当に上手いな。」「口先だけじゃないでしょ。まぁ、あんたもなかなかのもんだけど。」自分に憎まれ口を叩くアンダルスの頬を、ガブリエルは抓った。「いったぁい、何すんの!」「今朝のお返しだ。」ガブリエルはそう言うと、馬の手綱を握ってアンダルスを追い越した。「あ、待ってよ!」アンダルスは少し頬を膨らませると、ガブリエルの後を追いかけた。 二人はやがて、宮殿外れにある泉に辿り着いた。「あ~、汗かいて気持ち悪い。」アンダルスはそう言うなり、乗馬服を脱ぎ始めた。「な、何をしている!?」「何って、水浴びしようとしてんだけど。」「やめろ、はしたない!」「男同士何だから、気兼ねしなくてもいいでしょ?」アンダルスは一糸纏わぬ姿となり、勢いよく泉へと飛び込んでいった。「とんでもない奴だな・・可愛い顔して。」ガブリエルは溜息を吐き、アンダルスの水浴びが終わるのを待った。暫くすると、アンダルスが水中で溺れそうになった。ガブリエルは服を着たまま泉に飛び込み、アンダルスを助けた。「大丈夫か?」「ありがとう・・」激しく咳き込みながら、アンダルスは紅の瞳を潤ませながらガブリエルを見た。二人の目が合い、二人の唇が静かに重なった。「ん・・」ファーストキスを奪われた時は嫌だったのに、何故か今彼としているキスは嫌ではなかった。それどころか、もっとしたいとアンダルスは思い始めていた。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

国王に気に入られ、ローレル宮廷付の吟遊詩人となったエルムントとその弟子・アンダルスの生活は以前のものとは百八十度変わってしまった。 宿屋に何日か泊まることはあっても、たまに宿代が稼げず野宿を何日か続けていた頃とは違い、今では宮殿内に国王によって部屋まで与えられ、食事も野菜のカスが浮いただけのスープではなく、国王や宮廷貴族達と同じ豪華な食事が毎日三食出された。突然の環境の変化に初めはうろたえていたエルムントだったが、数週間経つともう砂糖をふんだんに使った高級菓子を前にして目を丸くすることもなくなった。「お師匠様、僕たち本当にここで暮らしていてもいいんでしょうか?」長い間各地を放浪し、色々と世間慣れしているエルムントとは違い、年端のゆかぬアンダルスは、未だに宮廷生活に慣れないでいた。「陛下がここに暮らしても良い、とおっしゃったのなら、いいんじゃないかな? それよりもアンダルス、怠けていないで舞の練習をしなさい。芸は毎日磨かないと劣るものだよ。」「はい!」アンダルスは師匠の言葉を聞くと姿勢を正して、部屋から飛び出していった。彼がいなくなり、一人になったアンダルスは、深い溜息を吐いた。今まで市井の人々を相手に歌ってきたが、今度は宮廷貴族たちが相手だ。彼らは街の者達とは違う。住んでいる世界や階級、この世のすべてに於いて貴族達は平民達と真逆の世界の生き物なのだ。彼らの相手をするくらいなら、路上で歌を歌っている方が気楽だが、ここから出ようにもそうはいかない。なるべく波風を立てずに平穏に毎日を送ることだけを考えなければ。エルムントは再度溜息を吐くと、ベッドに入ってゆっくりと目を閉じた。 その頃アンダルスは、月明かりの下で舞の練習をしていた。今度披露する舞は剣舞なので、長剣を持ったアンダルスはゆっくりと剣を振いながら優美に舞い始めた。彼が舞うたびに、夜着の裾がひらひらと揺れ、長い彼の金髪が夜風を受けて揺らめいた。舞が終盤にさしかかった頃、アンダルスは背後から誰かが近づいて来る気配を感じた。「誰だ?」「失礼、余りにも美しい舞だったので。」アンダルスが振り向くと、そこには法衣に身を包んだ一人の司祭が立っていた。シルバーブロンドの髪は月明かりの下できらきらと輝き、宝石のようなエメラルドグリーンの瞳は、アンダルスに向けられていた。「あなたは?」「わたしはダリヤ。宮廷付司祭です。最近陛下に気に入られた舞姫というのは、あなたですか?」「ええ。アンダルスといいます。」「アンダルス・・男でしたか。残念だな。」司祭はそう言うと、にやりと笑いながら、アンダルスに一歩近づくと、彼の華奢な腰を掴んだ。「あなたが女であれば、わたしの気が済むまであなたの中にわたしの精を注ぎこめたのに。」美しい顔とは裏腹に、その唇から出る言葉は卑猥なものだった。「司祭様のお口からそのようなお言葉を聞くとは、思ってもみませんでした。」アンダルスはダリヤから離れてそう言うと、軽蔑のまなざしを彼に向けた。「司祭は神に仕える前に一人の男でもあります。現に、肉欲に溺れ堕落する聖職者たちが大勢おりますよ。ただ神に仕え戒律に従うだけの日々を送る者は、ほんの僅かです。」「そうですか・・僕の村にもあなたのような破戒僧がいましてね。とっかえひっかえ女や少年をベッドに誘い込んでは、飽きたらゴミのように捨てる酷い奴で、村長の娘にも手を出そうとして、村人全員から袋叩きに遭いましたよ。」アンダルスは長剣を構えると、そう言ってダリヤを睨んだ。「おや、そんな物騒なもの、可憐なあなたには似合いませんよ?」ダリヤは口端を歪めると、地面を蹴り上げると法衣の中から拳銃を取り出すとその銃口をアンダルスに向けて発砲した。「あなたこそ、そんな飛び道具なんて似合いませんよ?」ダリヤが放った銃弾を避けながら、アンダルスは彼の懐に飛び込もうとしたが、その時彼の頬を何かが掠め、地面に突き刺さった。「ダリヤに手を出すな。」心地良い音楽的な低い声が夜の庭に響き渡り、アンダルスがちらりと周囲を見渡すと、そこには漆黒の髪をなびかせた長身の男が立っていた。「助かったよ、ガブリエル。わたしの代わりにこのお転婆の相手をしてくれないか?」「承知した。」男はそう言うと、ゆっくりとアンダルスに近づいてきた。月明かりの下、男の整った鼻梁と切れ長の黒い瞳が仄かに照らされた。「ダリヤ、こやつは殺すのは惜しい。」「そう・・じゃぁお前の好きなようにしていいよ。またね、舞姫さん。」ダリヤは口端を歪めて笑うと、アンダルスと男に背を向けて庭から去って行った。「逃がすか!」アンダルスはダリヤに向けて地面に突き刺さった短剣を抜くと、彼に向けて投げつけた。短剣は彼の頬を掠め、煉瓦の壁に突き刺さった。「気が変わったよ、ガブリエル。そいつ、殺しちゃって。」ダリヤは男に何か投げると、建物の中へと入っていった。「待て!」ダリヤを追いかけようとするアンダルスの前に、男が立ちはだかった。「ここから先は行かせぬ。お前の相手はこのわたしだ。」男はそう言うと、大鎌をアンダルスに振りかざした。鋭い刃に身を引き裂かれる前に、アンダルスは寸でのところで男の攻撃をかわした。大きな得物なら隙が出来やすいが、男の攻撃はアンダルスが反撃する暇さえも与えない。(こいつ・・強い!)舞の師匠から剣術や馬術などの武術を習い、己の身を守る為に幾度か剣を振ってきたアンダルスだったが、これほどまでに強い相手はいなかった。はじめはアンダルスに優勢だった戦況が、一瞬にして男の方へ軍配が上がった。アンダルスは肩で息をしながら剣を構えた。「そんなか弱い身体でわたしに勝てると思っているのか?」「やってみなきゃ・・わからないだろ!」夜着の長い裾を切り裂くと、アンダルスは地面を蹴って男へと突進した。だがアンダルスの刃が男に届く前に、彼の大鎌がアンダルスの脇腹に突き刺さった。アンダルスは口から血を吐き、地面に力無く倒れた。夜着が血に染まり、不気味な染みが徐々に広がっていった。「やりすぎたな・・」男はそう言って溜息を吐くと、アンダルスの華奢な身体を抱きあげ、庭から去って行った。 一方、エルムントは弟子の帰りが遅い事に心配し、彼が舞の練習をしている庭へと向かった。そこには、赤黒い血だまりが出来ていた。(アンダレス・・)エルムントは呆然としながら、その場に立ち尽くした。同じ頃、男は自分の部屋で瀕死の重傷を負ったアンダルスの手当てをしていた。「急所は外れたか・・」男は大きく逞しい手で、アンダルスの長い金髪を優しく梳いた。「う・・」アンダルスが低く呻くと、男は微かに口元を緩めて笑った。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

王宮へと向かう馬車の中、アンダルスは緊張に身を固くしていた。「アンダルス、どうしたんだい?」「お師匠様は、緊張しないのですか? これから陛下の御前で舞や歌を披露するというのに。」これから国王の前に立つというのに、エルムントは冷静そのものだ。「アンダルス、緊張してはいいものは生まれないよ。逆にお前に聞くけれど、お前はいつも路上で舞を披露する時、緊張するかい?」「さ、最初は。でも、段々人前で舞を舞う事に慣れてきまして・・」「陛下の御前でも、いつものように舞を披露すればいいんだよ。さっき呪いをかけただろう?」エルムントのエメラルドグリーンの瞳に見つめられ、アンダルスはその奥に宿る優しい光を感じ、緊張が和らいだ。「はい・・」「もう一度、幸運のお呪いをかけてあげましょうね。」エルムントはアンダルスの唇を再度、塞いだ。彼らを乗せた馬車は、宮殿の門へとくぐった。 一方、宮殿ではルチアが侍女に叩き起こされた。「一体何なの、こんな真夜中に?」「ルチア様、至急大広間にお行きになってください。」そう言った侍女の顔は、どこか浮き浮きとしている。「何かあるの?」「ルチア様はエルムント様をご存知ですか?」「エルムントって、最近巷で話題になっている吟遊詩人の方? その方がどうかなさったの?」「先ほど陛下がエルムント様の歌と、その弟子の舞をご覧になりたいとおっしゃられて、今宮殿に二人が向かっているところですわ。」「まぁ、こんな真夜中に?」ルチアのアメジストの瞳が、驚きの光で輝いた。「お父様やお母様に少し時間がかかるからと・・」「いいえ、すぐにお召し替えを。」「わかったわ・・」ルチアは腰下まである黒髪を侍女に梳いて貰いながら、何故父がこんな真夜中に吟遊詩人を宮殿に呼んだのかを尋ねてみようと思った。一国の主とはいえ、人を真夜中に呼びだして芸を披露させるなど、非常識過ぎるではないか。真紅のドレスを纏ったルチアは、侍女と共に大広間へと向かった。そこには、赤褐色の髪をした吟遊詩人と、その弟子が立っていた。ルチアはちらりと吟遊詩人の隣に立っている弟子を見た。シャンデリアの下で輝く長く美しい金髪に、宝石のような真紅の瞳。あんなに美しい子が披露する舞とは、一体どんなものなのだろう。ルチアが暫く弟子を見ていると、彼は視線を感じてルチアの方を見た。「ルチア、こちらに来なさい。」「はい、お父様。」ルチアは慌てて視線を外すと、父の元へと向かった。「どうかしたのか、アンダルス?」自分と話をしていたアンダルスが不意に何かを見たことに気づいたエルンストはそう言って彼に尋ねた。「あの・・さっき赤いドレスを着た女の子が僕を見ていました。」「赤いドレスを着た女の子?」エルムントがちらりと玉座の方を見ると、そこには国王の隣にルチア王女が座っていた。「あの子は、国王の娘だよ。」「お、王女様が、何故卑しい僕なんかを見つめていたのでしょう?」アンダルスは不安げに師匠を見た。「きっとお前の美しさに見とれていたのだろう。ルチア様はお美しいが、お前の美しさに思わず見ずにはいられなかったのだろうね。」エルムントはそう言うと、アンダルスの金髪を優しく梳いた。「お父様、どうしてあの方達をこんな時間にお呼びになったの?」一方、玉座に座る父の隣で、ルチアはそう言って彼を睨んだ。「思い立ったら吉日、というではないか。」「でも、急にわたしの為に舞と歌を披露しろだなんて・・非常識だとは思いませんの?」「それはそうだが・・」ルチアに捲し立てられ、ユリシスが何も言えないでいると、リュートの音色が大広間に響いた。ユリシスとルチアが前方を見ると、吟遊詩人の演奏に合わせてあの金髪の弟子が静かに舞い始めていた。動きが激しくない、静かな舞だったが、何処か神々しいものを感じて、二人はその舞にたちまち夢中になり、口論をするのを忘れて魅入っていた。 アンダルスはいつものように舞った。ここを宮殿の大広間ではなく、いつもの路上や酒場だと思えばいい。玉座に座っている国王と王女は、路上で自分の舞を見ている普通の父娘だと思えばいいのだ。そう思うと、アンダルスの心から失敗への恐怖心や、国王の前で舞うという緊張感が全てなくなり、ヒラリ、ヒラリと衣を揺らしながら静かに舞った。ふと隣でリュートを奏でているエルムントと目が合うと、彼はアンダルスに微笑んだ。アンダルスは無事に舞えたという達成感に満ち足りた気持ちで国王と王女に向かって頭を下げた。「良い舞であったぞ。そなたの歌も素晴らしいものだった、エルムント。」ユリシスはそう言って吟遊詩人に拍手した。「ありがたきお言葉でございます、陛下。わたくしの拙い歌をそのようにお褒めくださるとは。」エルムントは国王に一礼すると、興奮で少し惚けている弟子の肩を叩いた。「国王陛下にご挨拶をなさい。」「あ、あの・・僕の、あの・・」我に返ったアンダルスは何か気の利いたことを言おうとしたが、緊張で舌が縺れてしまい、中々言葉が出て来なかった。その時、国王の隣に座っていた王女がゆっくりと立ち上がり、彼の方へと駆け寄って来た。「あなた、お名前は?」「アンダルスと申します、ルチア姫様。」「アンダルス、あなたの舞はとても素晴らしかったわ。神々しくて美しい舞だった。わたくし達でなく、皆さんに見ていただきたいくらいよ。」「あ、ありがとうございます・・」アンダルスは照れ臭そうな表情を浮かべると、王女に向かって頭を下げた。「そなた達は一箇所に定住せず、各地を放浪していると聞く。エルムントよ、わたしはそなたの歌を気に入った。是非ともその歌声を毎日わたしに聞かせてはくれぬだろうか?」ユリシスの言葉に、エルムントは静かに頷いた。「それが陛下のお望みならば。」こうして吟遊詩人・エルムントとその弟子・アンダルスは、国王ユリシスによって宮廷で歌や舞を披露することとなった。「お師匠様、これは夢でしょうか? 卑しい僕達が宮廷にお仕えするなんて・・」「夢でないよ、アンダルス。陛下に気に入られたからといって、天狗にならず、常に謙虚な気持ちになりなさい。」「はい、お師匠様。」アンダルスは初めて、生まれてきて良かったと思えるようになった。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

エルムントは、いきなり自分に襲い掛かって来た男―フェイから逃れようと、必死に抵抗したが、逞しい彼の身体はびくりとも動かなかった。「あのガキの代わりにあんたを抱くぜ。そうしたらあのガキには近づかねぇよ。」フェイはそう言ってエルムントを見た。「それは、本当ですか?」ワインレッドの瞳でフェイを睨みつけながら、エルムントは彼と少し距離を取った。「俺が嘘を吐くとでも?」「あなたは信用できません。」フェイは溜息を吐くと、頭をぼりぼりと掻いた。「ったく、気難しいお姫様だぜ。ま、さっさとあのガキを連れてどこかに勝手に流れな。」エルムントはフェイに背を向けると、部屋から出て行った。「旦那、無事だったので?」食堂でエルムントとフェイの様子を見ていた女将がそう言って安堵の表情を浮かべた。「こちらにはご迷惑をおかけいたしました。」エルムントは彼女に頭を下げると、弟子が待つ部屋へと入った。「アンダルス、旅支度をしなさい。ここを出ますよ。」「ですが、あいつらは?」「もう大丈夫です。」エルムントはダリヤに向かって優しく微笑んだ。 数分後、エルムントとアンダルスは宿屋を出て、新しい地へと旅立った。「さぁ、行きましょう。」「お、お師匠様・・僕なんかが一緒についていってもいいんですか?」「あなたはわたしの弟子です、アンダルス。これからはわたしとずっと一緒ですよ。」エルムントはそう言ってアンダルスに微笑むと、手を差し出した。「はい!」アンダルスは、そっとエルムントの手を取り、歩き始めた。「親分、本当にあいつらを見逃しちまってもいいんですかい?」鳳凰社の構成員の一人が、そう言って悔しそうな顔をしてエルムントとアンダルスの背中を見送った。「いいのさ。俺がわざわざあいつらを捕まえなくても、いずれ会う事になるだろうよ。」フェイは蒼い瞳を光らせながら、二人が去って行った方を眺めた。 宿屋を出たエルムントとアンダルスは、目的地に着くまでの間、歌を披露したりして宿代を稼いでいた。「アンダルス、君は何が出来るんだい?」「踊りを少し。僕の村では踊りの名手がいて、物心ついた時からその人から踊りを習っていました。」「そうか。じゃぁ、少しやってみてくれるかい?」「いいですよ。」アンダルスはそう言うと、エルムントの演奏に合わせて舞い始めた。その舞はまるで、天の神が地上に降りてきて舞っているかのような、優雅なものだった。「どうでしたか?」ワインレッドの瞳でアンダルスはエルムントを見た。「とても良かったよ。まるで天の神が君に宿ったかのような、優雅でいてとても神々しい踊りだった。」エメラルドグリーンの瞳を感動で潤ませながら、エルムントはそう言ってアンダルスに微笑んだ。「ありがとうございます。エルムント様だけです、僕の舞を褒めてくださったのは。村に居た頃はこんな瞳をしているので、僕の事を村の大人達は気味悪がって、子ども達は僕の事をいじめてばかりで・・」そう言ってアンダルスは俯き、村で過ごした辛い日々の事を思い出した。あの頃、血の色のような瞳を持って生まれた所為で、村の大人達からは“国が滅びる前兆だ”と言われて気味悪がられ、子ども達からは“化け物”と呼ばれいじめられていた。貧困に喘いでいた両親は、自分を男娼館へと売り飛ばした。誰にも必要とされない子どもとして、今まで生きてきた。だが、これからは違う。目の前には、自分の舞を初めて褒めてくれた人が居る。男達に殴られたところを助けてくれた人が居る。もう自分は、一人ではないのだ。「アンダルス、これからはその舞を披露してくれ。きっと君の舞を見たら、癒されることだろうよ。」「ありがとうございます!」アンダルスは、涙を流しながらエルムントに向かって頭を下げた。 それから、アンダルスはエルムントの伴奏で舞を舞いながら彼と共に宿代を稼いだ。―おい、あれ見ろよ・・―なんて美しいの・・―魂を吸い取られそうだ・・アンダルスの美しい舞は、たちまち道行く人々を魅了した。「今日もお前のお蔭で美味いものが食えそうだ。」袋に詰まった金貨を見ながら、エルムントはそう言ってアンダルスの頭を撫でた。「あ、ありがとうございます。」その夜、エルムント達が宿屋で休んでいると、不意に外が騒がしくなった。「ここに赤褐色の髪をした男と、プラチナブロンドの少女がいると聞いた! その者達は何処に居る!?」エルムントがそっと窓から外を見ると、そこにはローレル王国軍が宿屋の前に集まっていた。「エルムント様・・」「大丈夫です、アンダルス。」エルムントはそっとアンダルスの肩を叩くと、宿屋から出た。「こんな夜更けに、何故騒いでいらっしゃるのですか?」「お前が、吟遊詩人エルムントか?」「はい、そうですが。」エルムントは自分の前に立っている兵士を見た。「我々はローレル王国近衛隊である。至急貴殿とその弟子、アンダルスには宮殿に来て貰いたい。」「宮殿に・・ですか?」「陛下がお前達の噂を聞き、是非ともお前の演奏と弟子の舞をご覧になりたいとおっしゃっておられる。」(国王陛下が、わたし達に興味を?)一介の吟遊詩人と舞姫の噂を聞きつけただけで、国王が興味を持つなど・・突然の出来事に、エルムントはただ呆然としていた。「少々お待ちください。」エルムントは部屋に戻ると、不安そうな顔をして自分を見ているアンダルスに微笑んだ。「アンダルス、今すぐ宮殿へ行くよ。身支度をしなさい。」「宮殿に・・ですか?」「ああ、何でも国王陛下がわたし達の歌と舞に興味を持たれ、ご覧になりたいらしい。」その後二人は慌ただしく身支度を済ませて、王国軍が用意した馬車に乗り込み、宮殿へと向かった。「大丈夫でしょうか・・もし失敗したら・・」「大丈夫だ。いつものようにしていればいい。」エルムントは、震えるアンダルスの身体をそっと抱き締めた。「あなたに、幸運のお呪いをかけましょう。」エルムントはアンダルスの唇をそっと塞いだ。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

エルムントは傷だらけで泥まみれとなった少年―アンダルスを連れて宿屋へと戻った。「お客さん、この子は?」女将はそう言ってじろじろと無遠慮な視線をアンダルスに送った。「この子はわたしの弟子です。女将さん、この子の為にお風呂と傷薬を。」「はい、わかりました。」女将はちらちらと尚も無遠慮な視線をアンダルスに送りつつも、店の奥へと引っ込んで行った。「わたしの部屋においで、アンダルス。」「は、はい・・」アンダルスは不安そうな表情を浮かべながら、エルムントの手を握った。「じゃぁ、行こうか。」エルムントはアンダルスを連れて自分の部屋へと向かった。「狭い部屋でごめんね。」「いいえ。それよりも先ほどは助けていただいてありがとうございました。」アンダルスはエルムントに再度礼を言った。「礼を言われるほど立派な事をしていないよ。ただ困っている人を助けただけだ。それよりも君は、どうしてあいつらに絡まれていたんだい?」「それが・・父が借金をしてそのカタに男娼館へと売られそうになりまして。あの男達はその女衒(ぜげん)達で、抵抗したら突然殴られました。」「そうか・・そんな事が・・」「失礼しますよ。」女将が不機嫌そうな表情を浮かべながら、傷薬を持って部屋へと入って来た。「ありがとう。」「風呂は沸きましたから、お入りになってください。」「わかった。行こう。」「はい、エルムント様。」エルムントはアンダルスを連れて部屋へと出て、浴室へと入った。そこには湯が張られた猫足の浴槽があり、浴槽からは湯煙が立ち上っていた。「まずは身体を洗うといい。」「エルムント様は?」「外で待っているよ。」エルムントは浴室から出て自分の部屋へと戻ろうとすると、女将が彼に近づいて来た。「旦那、あの子をどうなさるおつもりです?」「あの子はわたしの弟子です。」「あの子はここには置いておけませんよ。厄介な連中と繋がってるんですからね。面倒を起こしたくない気持ち、旦那だってわかるでしょう?」女将はそう言ってじろりとエルムントを見た。「あなたが心配しなくとも、一夜明けたらここから出て行きますから。」エルムントは尚も言い募ろうとしていた女将に背を向け、元来た道を戻った。「エルムント様、先にお風呂を頂きました。」全身泥まみれだったアンダルスは、白い肌とプラチナブロンドの髪を輝かせながらエルムントに向かって微笑んだ。「綺麗になったね、アンダルス。後はわたし一人で出来るから、部屋に戻って傷薬を塗っておきなさい。」「はい。」エルムントはアンダルスの残り湯に浸かりながら、溜息を吐いた。アンダルスとあの男達とは一体どういう関係なのだろうか?女将の口ぶりからすると、彼らは只者ではなさそうだ。“厄介な連中と繋がってるんですからね。”厄介な連中。“紅の鷹”か、もしくは彼らと繋がっている者達、という意味だろうか。(難しい事を考えるのは後にして、今夜はゆっくりと身体を休めよう。この街を出れば、安心だ。) エルムントはそう思うと、浴槽から出て素早く身体を洗って部屋へと戻った。「アンダルス、入るよ?」そう言ってエルムントがドアを開けると、そこにはすやすやとベッドで眠っているアンダルスの姿があった。「今日は大変だったね。これからは一人じゃない、わたしが一緒だ。」エルムントはアンダルスのプラチナブロンドの髪を撫でながら、そっと彼の隣で目を閉じた。「お客さん、起きて下さい!」女将の切羽詰まった声で、エルムントはベッドから飛び起きた。「どうしたんですか?」「あの子を返せってあいつらがここにさっき乗りこんできたんですよ!」「あいつらって?」「御存知ないんですか、旦那? “鳳凰社”の連中ですよ!」“鳳凰社”という団体の事を聞いたのはこれで初めてだったが、女将の口ぶりからして彼らが闇社会の者達である事がわかった。「彼らとはわたしが話をします。」「旦那、危険ですって!」「ダリヤは私の弟子です。師匠が弟子を守らないでどうしますか!」エルムントはそう言うとワインレッドの瞳で女将を睨んだ。「彼らは何処に?」「しょ、食堂にいます。」「ありがとう。」エルムントは食堂へと向かうと、隅のテーブルに座っている黒服の男達が一斉に彼を見た。「あんたか、アンダルスのお師匠さんってのは?」「ええ、そうです。あの子に何の用ですか?」「アンダルスを俺達に返しな。あいつは金を産む卵なんだよ。」「お断りいたします。アンダルスはわたしの弟子です。あなたのような汚らわしい連中に渡すわけにはいきません。」「なんだと、こらぁ!」男達の中の一人が、エルムントの胸倉を掴んだ。「アンダルスのお師匠さんよぉ、いい度胸してるじゃねぇか。ちょいと顔貸してくれねぇか?」「ええ、いいでしょう。」(アンダルス、あなたは必ずこのわたしが守ってみせます。)男達に連れられたのは、宿屋の裏路地に面した寂れた建物だった。「頭、連れて来ましたぜ。」先ほどエルムントの胸倉を掴んだ男がそう言って真紅の椅子に座っている誰かに向かって頭を下げた。「おう、そうか。」椅子から誰かが立ち上がる気配がして、エルムントがそちらの方を向くと、そこには黒髪蒼眼の男が冷たく自分を見下ろしていた。「初めまして、吟遊詩人さん。俺はフェイ、この鳳凰社の頭さ。」「アンダルスはあなたには渡しません。例えこの命に代えてでもあの子を守ります。」「そうかい、見上げたお師匠さんだ。じゃぁあいつの代わりに俺の相手をしな。」黒髪蒼眼の男―フェイは、そう言うとエルムントの腕を掴んで無理矢理彼を奥の部屋へと連れて行った。 奥の部屋へと入ったフェイは、ベッドの上にエルムントを投げ倒すと、彼の上に覆い被さった。「何をするんですか、やめなさい!」にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

突然地下組織“紅の鷹”のリーダーであるレオンから己の出生と彼との関係を聞かされたエルムントは、その夜眠れずに朝を迎えた。「おはよう。」レオンに用意された部屋を出て食堂へと向かうと、そこにはあの老婆―アシュバが厨房で朝食を作りながらそう言ってエルムントに微笑んだ。「おはよう・・ございます。」「目の下に隈が出来ているね。眠れなかったのかい?」「あんな話を聞かされて眠れるほど、わたしの神経は太くは出来ていませんから。」エルムントの言葉に、アシュバはくすりと笑って朝食作りを再開した。「よぉ、エルムント。昨夜は眠れたか?」突然背後から力強く肩を叩かれ、エルムントが顔を顰めながら振り向くと、そこには笑顔を浮かべたマシアンが立っていた。「眠れるわけないだろう。マシアン、君はあの人がわたしの腹違いの兄だってことを知っていたのか?」「レオンさんがお前の腹違いの兄さんだって!? 初めて聞いたぜ!」マシアンはそう叫ぶと口笛を鳴らした。「お前が銀髪なのがわかったよ。同じ血を分けた者同士だから、髪の色が同じでも何の違和感もねぇな。」マシアンはサファイアブルーの瞳を驚きと好奇心で輝かせながら、じろじろとエルムントを見た。「マシアン、人の事をじろじろと見るのは失礼だと、お母ちゃんに教わらなかったのかい?」「すいません。じゃぁなエルムント、俺はちょいと出かけてくらぁ。」マシアンはバツの悪そうな顔をして食堂から出て行った。「ありがとうございます、助かりました。」エルムントはそう言ってアシュバに向かって頭を下げた。「いいってことさ。あたしは礼儀知らずの人間が大嫌いなのさ。それよりもお前さん、これからどうするつもりだい? ここで兄さんと共に暮らすのかい?」「それは・・まだ決めてません。」エルムントはアシュバの問いにそう答えると、俯いて溜息を吐いた。「正直、今自分が置かれている状況が全く分からないんです。わたしは今まで天涯孤独だと思ってましたから。それなのにいきなり腹違いの兄が出てくるし、義理の両親がいることも初めて知りましたし・・何をどうすればいいのか、答えが見えてこないんです。」「そうかい。じゃぁ気休め程度に、あたしがお前さんのことを占ってあげよう。」朝食を作り終えたアシュバはそう言ってエプロンを外すと、エルムントを手招きした。「あたしの部屋においで。」「はい・・」アシュバに言われるがままに、エルムントは食堂を出て彼女の部屋へと向かった。「お入り。」彼女の部屋へと入ると、そこにはベッドとギンガムチェックのテーブルクロスが掛けられたテーブルと椅子しか置いていない簡素な空間が広がっていた。アシュバは椅子を引いてゆっくりとそれに腰を下ろすと、テーブルの上に置いてあるタロットを混ぜ始めた。「ここへ座って、一枚カードを選びな。」「はい、わかりました。」エルムントは慌てて椅子に腰を下ろし、タロットを一枚選んだ。アシュバはそれを満足気に見ると、タロットを再び混ぜ始めた。「さてと、あんたの運命を見ようかね。」そう言うと彼女は、エルムントが選んだカードを捲った。「これは、余り良くないね。あんたの意志に反して次々と災いが降りかかって来る暗示が出ているね。」「そんな、わたしはどうしたらその災いから身を守ればいいんですか?」「あんた、吟遊詩人として長い事やっているんだろう? 弟子はいるのかい?」アシュバの問いに、エルムントは首を横に振った。「弟子を取るがいい。そうすればあんたに災いは降りかからず、あんたの歌と音色は末代にまで歌い継がれることだろう。弟子はなるべく少年を取るといい。男同士の方が何かとやりやすいからね。」「わかりました。ありがとうございました。」「お代は要らないよ。あたしはお前さんの為に勝手に占ってあげたんだからね。今ここを出て行くなら出て行きな。あんたは風だ、誰にも縛られない。」アシュバの部屋を出たエルムントは自分の部屋へと戻り、荷造りをして“紅の鷹”のアジトから出て行った。「アシュバさん、エルムントを知らないか? 何処を探しても姿が見えないんだ。」「あの子なら出て行ったよ。」そう言ったアシュバは、口元を歪めて笑った。 “紅の鷹”のアジトを出たエルムントは、再び放浪の旅に出た。酒場でリュートを奏で歌う度に、こんなことをいつまでも続けていいのだろうかと心の片隅でエルムントは思い始めていたが、その度にアシュバのあの言葉が脳裡に浮かんだ。“あんたは風だ、誰にも縛られない。” 己の生き方を人に指図されずに、今まで自分は自由気ままに生きてきた。その生き方を今更変えるつもりはないし、家族の存在を知ってもそれは変わらない。(あの人はわたしがいなくなったと知ったら、どう思っているのだろうか?)腹違いの兄・レオンの事は何も考えたくなかった。彼とは生きる世界が違うのだ。だからあそこから逃げ出したのではないか。(わたしはわたしの道を行く。) ある日の夜。エルムントはいつも通り酒場で演奏をしていた。酔客達は彼の美しい歌声に耳を澄ませながらうっとりとした表情を浮かべていた。 演奏も終盤にさしかかろうとした時、酒場の外が急に騒がしくなった。(一体何があったんだろうか?)ちらりと外を見ると、酔客達数人が一人の少年を寄ってたかって暴行していた。「誰か、助けてください!」少年の悲痛な声は、夜の闇に虚しく消えていった。「やめなさい、あなた方何をしているんですか!」演奏を中断したエルムントは、酒瓶を片手に男達へと詰め寄って行った。「なんだ、てめぇは? 吟遊詩人さんは店の中へと戻りな。」「そうはいきません。」エルムントは酒瓶を乱暴に叩き割ると、割れた硝子を手に男達に向かって行った。男達の一人が硝子で頬を切った。「痛い思いをしたくなければその子をこれ以上構うのはやめなさい!」「チッ、行くぞ。」男達は恐怖で泣いている少年を残して去って行った。「大丈夫かい?」「あ、ありがとうございます。」そう言った少年は、エメラルドグリーンの瞳を輝かせながらエルムントにレイに微笑んだ。「君、名前は?」「アンダルスといいます。」「そうか。わたしはエルムント。アンダルス、今日から君はわたしの弟子だ。」エルムントは少年の髪を撫でながら言った。これが、エルムントとその弟子・アンダルスの、運命の出逢いだった。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

「へぇ、そうかい。一体何が目的だったんだい?」アシュバはそう言ってレオンのカップに紅茶を注ぎながら彼を見た。「ここだけの話なんだが、昨夜マシアンがこの家に泊まらせようとした者は、わたしの弟かもしれないんだ。」「あんたに弟がいたとは、初耳だねぇ。確かあんたは街外れの教会に捨てられていたんじゃないのかい?」「それはわたしの育ての親であるその教会の神父様から聞きました。ですが彼はもう一つ真実をわたしに教えて下さいました。」「真実?」「はい・・わたしには血のつながった実の弟が居て、わたし達の両親は敵国の貴族だと。」「あんたが、エステア人だと?実の弟の方は、生粋のローレル人だとさっきの奴が言っていたような気がするけどねぇ。」アシュバはレオンの話が少し信じられずに、首を傾げて唸った。「弟と言いましても、腹違いなのです。弟の母親は生粋のローレル女で、父の愛人だったと神父様から聞きました。わたしは彼から実の両親と弟のことを聞き、生まれ育った街を捨て王都へとやって来たのです。まさかこんなに早く見つかるとは思いもしませんでしたが。」レオンは興奮冷めやらぬ様子でそう言うと鬱陶しそうに前髪を掻き上げた。「で、その弟をどうする気だい?大方あんたの仕事を手伝って貰おうなんて魂胆じゃないだろうねぇ?」「鋭いお方だ。その通りです。彼にわたしの仕事を手伝って貰うつもりでしたが、あと一歩のところで彼に逃げられてしまいました。ですがわたしは彼を諦めるつもりなどありませんよ。長年生き別れた弟なのですから・・」レオンの黄金色の瞳が昏い光を帯びて不気味に輝いた。 同じ頃、エルンハルトは朝食を宿屋の食堂で済ませて部屋へと戻り、財布の中にある数枚の金貨を見つめては溜息を吐いていた。故郷を飛び出てリュートと歌で稼いできて数年の歳月が経ち、漸く収入も安定してきたが、生活は相変わらず苦しいままだった。 このままではいつか野垂れ死んでしまうーそう思ったエルムントは、何処かの楽団に雇って貰おうと思い立ち、部屋を出て王都にある伝統的かつ格式高い七つの楽団に飛び入りで入団試験に臨んだ。 だが、長い歴史を持つ楽団の団員の大半は貴族で、平民であるエルムントはどんなに歌と才能があっても出自の問題で何処も相手にしてくれなかった。(わたしは実力があるのに・・何故出自で職業が決められるんだ!)エルムントは絶望に陥り、その日は一晩中嘆きの歌を歌った。朝を迎え、彼は気持ちを新たに再び職探しを始めたが、なかなか見つからなかった。(ここで落ち込んでいても仕方がない。諦めずにいれば絶対に夢は叶う。わたしが幼い頃憧れていた吟遊詩人になれた時のように。)宿代や生活費などを日雇いの仕事で稼ぎながら、エルムントは必死に自分を受け入れてくれる楽団を探し続けた。 やがて季節は巡り、北国は短い夏を迎えようとしていた。今日もエルムントは日雇いの仕事を終えた後、自分の分身ともいえるリュートを肩から担いで酒場へと向かった。 彼はいつものように歌い始めると、客達はすぐさま彼の歌に酔いしれた。喝采を受けて何度も客達に頭を下げるエルムントの姿を、遠くからレオンは眺めていた。「ちょっと、そこの君。」「なんでしょう?」酒場を出た所で急に背後から呼び止められ、エルムントはそう言って振り向いた。そこには、銀髪金眼の美しい青年が立っていた。「君、名は?わたしはレオンだ。」「エルムントと申します。わたしに何かご用でしょうか?」「君は何処の出身なの?」「確か、東部だったような気が。余りにも長く離れていたので、地名すら思い出せません。」エルムントの言葉に、少し青年の顔が強張ったようにエルムントは見えたが、気の所為なのだろうか。「そうか。では母親の名は?」「ユリナ。父親は産まれる前に死んだと聞きましたので、父の事は良く知りません。どうしてそんな事を聞くんですか?」「・・わたしに付いて来るといい。」青年に言われるがままに、エルムントは彼の後をついて行った。 だが歩いていると、昨夜と同じ道を歩いていることに彼は気づいた。「すいません、わたしはもうここで・・」「何を言う。折角出逢えたんだから、もっと君と話がしたい。」有無を言わさず青年はエルムントの手を掴むとずんずんと路地裏を進んで行った。「嫌だ、離してください!」恐怖を覚えたエルムントが大声で叫んでも、人気のない路地裏にただ虚しく響くだけだった。 そして青年とエルムントが辿り着いたのはあの老女の家だった。「おや、今度は連れて来たね。」昨夜と変わらずそう言って自分と青年に笑みを浮かべている老女のラヴェンダーの瞳が少し輝いているかのようにエルムントは見えた。「ええ、連れて参りました。愛しい弟を。」青年の言葉にエルムントは驚愕の表情を浮かべた。「改めて自己紹介させて貰おう、エルムント君。わたしはレオン、君の腹違いの兄さんだ。」突然の事で訳がわからず、エルムントは混乱していた。「一体何が目的なのですか?第一わたしには兄弟などおりません!」「それは君の勘違いというものだ。それとも君の母親が今まで黙っていたのかもしれないね、君の実父の事を。」「わたしの、父?」「ああ、君の父と同時に、わたしの父でもある。彼はエステアの名のある貴族だ。わたしは産まれてすぐ教会の前に捨てられていてね、そこで拾われた神父様に育てられたのさ。そしてその神父様から、己の出生に纏わる真実を知って王都へやって来た。君をここに連れて来たのは、わたしの仕事を手伝って貰う為だ。」「あなたの、仕事?」「ああ、そうだ。わたしは今、大切な仕事をしている。軍にばれれば直ぐに処刑台送りにされるような危険な事をね。君は、“紅の鷹”という組織を知っているかい?」その名は何度か酒場で聞いた事があった。王家に逆らい、国家転覆を目論む悪名高い集団だと。「どうやら知っているようだね。わたしはその組織のリーダーだ。君には明日からわたしの補佐として働いて欲しい。」「お断りします。わたしは犯罪者になるなど真っ平御免です。」エルムントはそう言って青年に背を向けて去ろうとしたが、ドアが開かなかった。「エルムント、漸く君と会えたんだ。わたしという人間を理解せずに私から逃げる事は絶対に許さないよ。」穏やかな言葉を紡ぐ青年の顔には笑みが浮かんでいたが、それがエルムントには恐ろしく見えた。「今日はわたしの部屋で休もう。ゆっくりとお休み、我が愛しい弟よ。」青年は慈愛の表情をエルムントに浮かべながらそっと彼の額にキスをした。 突然現れた腹違いの兄と、その兄が地下組織のリーダーであるという事実を前に、エルムントは余りの衝撃で立っていられなくなり、床にへたり込んで大きく溜息を吐いた。(これからわたしはどうすればいいんだ・・?)にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

エルムントはゆっくりと振り向いて懐かしい顔を見た。「お前は、確か・・」「俺だよ、俺。マシアンだよ。もう忘れちまったのか?」そう言って男は人懐こい笑みを浮かべた。「マシアン・・」エルムントの脳裡に、幼い頃自分をいじめっ子達から守ってくれた頼もしいガキ大将の姿が浮かんだ。「もしかして、わたしをいじめっ子から守ってくれた、あのマシアンなのか?」「おお、そうよ!やっと気が付いてくれたのか、嬉しいぜぇ!」男―マシアンはそう言うと、エルムントに微笑みながら彼の肩を叩いた。エルムントは痛みで顔をしかめながら、幼馴染との再会を喜んだ。「お前、何してんだ?」「吟遊詩人をしているよ。わたしには歌とリュートを奏でる事しかないからね。放浪の旅を繰り返していたら自分が何処の出身なのか忘れてしまったよ。」「へぇ、そうか。俺は親父と喧嘩して家飛び出ちまって以来、此処に住んでる。エルムント、再会したのも何かの縁だし、うちに来ねぇか?」「いいのかい?わたしは別にそんなつもりはないんだけど・・」「人の好意は素直に受け取るもんだぜ。野宿なんかしたら凍え死ぬって。」マシアンは上機嫌でエルムントの華奢な肩を抱くと、大通りから少し外れた路地裏へと入った。「何処へ行くつもりだい?」「まぁまぁ、俺を信じて付いて来いって。」マシアンはどんどん路地裏の奥へと進んでゆくので、エルムントは必死に彼の後を追うしかなかった。 やがて彼は、みずぼらしい民家の前で立ち止まった。「マシアン、どうか・・」「帰ったぜ。」マシアンは囁くような声でそう言うと、上着のポケットから何かを取り出し、ドアの隙間にそれを滑らせた。「マシアン、君は一体・・」「話はここに入ってからだ。」エルムントは訳が判らないといった表情を浮かべながら幼馴染を見ていると、ドアが内側から開き、一人の老女が姿を現した。「よく来たね、お入り。」老女はにこりと二人の若者に笑いかけると、彼らに家の中へと入るよう手招きした。「邪魔するぜ、婆さん。」どうやらマシアンと老女は顔見知りらしく、彼は突然現れた老女に警戒もせずに家の名中へと入って行った。「どうしたんだい、そこの若いの?入るのかい、入らないのかい?」老女がじっと澄んだラヴェンダーの瞳でエルムントを見つめた。「わ、わたしは・・」「おいエルムント、遠慮しないで入れよ!」家の中からマシアンの喜びに弾んだ声が聞こえた。 家に入ろうか入らないか戸口でエルムントが迷っていると、急に足元を生温かい風が通り抜けた。何か嫌な予感がする。「すいません、わたしはいいです。」「そうかい。」老女はエルムントに興味が失せたようで、彼に背を向けるとドアをさっさと閉めて家の中へと入って行った。中で何が起こっているのかはわからないが、一度中に入れば決してあの家からは出られないだろうと、エルムントは何故かわかったのだ。 彼は時折家を何度も振り向きながら、夜の王都を一人彷徨い始めた。「ん・・」朝になり、眩い朝日によって目覚めたエルムントは、ゆっくりとベッドから起き上がった。あの後、彼は昨夜稼いだ金で宿屋に泊まり、そこで一夜を過ごしたのだった。 ベッドの脇に置いていたリュートを見ると、ちゃんとそこにはリュートが誰にも盗まれずに置いてあった。実用的で何も装飾が施されていないものだが、エルムントにとってそれは命そのものだった。(あのお婆さんは一体何者なんだろう?それに、マシアンはあれからどうしたのだろう?)リュートを爪弾きながら、エルムントは老女と幼馴染のことを思っていた。 一方、昨夜エルムントがマシアンと共に訪ねた民家の中で、マシアンは欠伸をしながら老女が作る朝食に舌鼓を打った。「婆さんの飯はいつ食っても美味ぇな。」「おやおや、お世辞が大分上手くなったじゃないか。」老女はからからと笑いながら焼き立てのパンをバスケットに入れた。「それにしてもあんたが昨夜連れて来た若いの、名前何ていうんだい?」「ああ、エルムントっていうんだ、あいつ。俺とあいつ同郷でさ、ある日突然村を出ていっちまった。そんで昨夜再会したってわけよ。」「へぇ、そうかい。それより彼をあんたのところに引き込まなくていいのかい?ああいう類の者は騙されやすそうだけどねぇ。」「それがそうでもないらしい。あいつは妙に勘が鋭くてな。あんたが来た事で何かを悟ったみたいだったよ。」マシアンがそう言って焼き立てのパンに手を伸ばした時、食堂のドアが開いて一人の男が入って来た。「マシアン君、久しぶりだね。」 腰まである長さの銀髪をなびかせ、黄金色の瞳を光らせながらマシアンを見ている青年は表向きこの家の主である老女の甥ということになっているが、その正体は地下組織“紅の鷲”のリーダー・レオンである。「御無沙汰しております、レオン様。」先ほどまで老女に軽口を叩いていたマシアンが椅子から立ち上がって直立不動の姿勢でそう言うと、レオンに向かって敬礼した。「そんなにかしこまらなくてもいいよ、マシアン。それよりも昨夜は珍客が来たそうだね?」「は、はい。俺の幼馴染でして、昨夜はここに泊まらせようと思ったのですが、何か勘付いて奴は何処かへ行ってしまいまして。」「その幼馴染の名は?」「エルムント、といいますが・・それが何か?」マシアンの言葉に一瞬レオンの美しい顔が強張るのを、老女は見逃さなかった。「い、いや・・気にしないでくれ。」「そうですか。では俺はこれで。」食堂から出て行ったマシアンを見送った老女は、レオンに向き直った。「あんた、そんなにあの子の幼馴染とやらが気になるのかい?」「何をおっしゃいます、アシュバさん。わたしは何も・・」「嘘を吐くでないよ、レオン。あたしが何者か知っている癖に。」老女―アシュバはそう言ってラヴェンダーの瞳でレオンの顔を覗き込んだ。「あなたには何を隠してもお見通しのようだ。」レオンはふぅっと溜息を吐いてアシュバを見て深呼吸した。「昨夜、マシアンに件の幼馴染をこの家に泊まらせるよう命じたのは、他ならぬわたしなのです。」彼の言葉を聞いたアシュバは満足気な笑みを浮かべた。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

「ミハイル、今日はお友達を連れて来たの。入ってもいい?」ルチアはそう言うと、ミハイルの部屋のドアをノックした。「姉様、どうぞ。」中から素っ気ないミハイルの声が返ってきた。 ルチアとレオナルドが部屋に入ると、そこには天蓋付きのベッドでじっと二人を見ているミハイルの姿があった。「珍しいね、姉様が僕の部屋にいらっしゃるなんて。」「言ったでしょう、今日はあなたにお友達を紹介するって。こちらはレオナルド、レオンよ。レオン、こちらはわたしの弟の、ミハイルよ。」「お初にお目にかかれて光栄です、ミハイル様。」レオナルドはそう言うとミハイルに頭を下げた。「レオンって、あなたはもしかしてマシミアン公爵家の?」それまで濁っていたミハイルのエメラルドグリーンの瞳が微かに光ったのを、ルチアは見逃さなかった。「ええ、そうですが。それが何か?」「ううん、何でもない。それよりレオン、今度姉様と三人で遊ばない?勿論僕が元気になったら、の話だけど。」ミハイルはそう言ってレオナルドに微笑んだ。「ええ、喜んで。」「良かった、二人とも仲良くなれそうね。」レオナルドとミハイルの会話を聞いていたルチアは、ニッコリと微笑んだ。「ミハイル様、失礼いたします。」乳母が部屋から入って来て、ルチアとレオナルドを見た。「ルチア様、いらしていたのですか。それに、レオナルド様まで。」「あら、レオンを知っているの?」ルチアはそう言って弟の乳母を見た。「ええ。マシミアン家に昔女中として働いていたものでして。」気まずそうに乳母はそそくさと部屋から出て行った。「変なの、別に隠さなくたっていいのに。」「姉様、父上と母上は?」「お庭で何かお話しされているわ。それに、レオンのお父様も。」「ふぅん。一体どんなお話しをされているんだろうね?」「さぁ、知らないわ。」ルチアはそう言うと、ベッドの端に腰掛けた。 同じ頃、リリアとユリシスはレオナルドの父、ミハイルと王宮庭園で話をしていた。「エステアで、ある噂が王宮内に流れているのをご存知ですか?」「噂?」「ええ。エステアの宮廷人達は、ルチア様がアシュレイ国王陛下のご落胤だと言っております。」「何ということを!」リリアはミハイルの言葉を聞いた瞬間気絶しそうになり、慌てて女官が彼女を支えた。「一体何処のどなたなのです、そのような噂を流していらっしゃるのは?」「噂を流している者の正体は掴めませんが、ローレルの神学校に在籍している者達が無責任にも流し始めたのではないかと・・」そう言葉を切ったミハイルは、一枚の書類を取り出すとそれをリリアに手渡した。「これは?」「最近エステアで不穏な動きをしている連中のリストです。その中で、近々地下組織が動きだしそうな気配がいたします。」「地下組織ですって?」リリアは思わず、隣に立っている夫を見た。「密かにその者達がエステアの過激派と繋がっていることは知っている。五年前一斉に地下組織は軍によって摘発を受け、その大半は壊滅に追い込まれたと聞くが、まだ残っていたものがあったとは。」「王太后様の息がかかった者達でございましょう。最近の王太后様は誰にも告げずに外出なさるそうです。」「母上が?」ユリシスの眦が少し上がった。「ミハイル、母上が何処へ、誰と会っているのかを調べよ。もし母上が地下組織の者と繋がっているのであれば、我が王国の一大事だ。」「承りました。」ミハイルはユリシスに頭を下げると、王宮庭園から出て行った。「あなた、お義母様が前々からわたくし達のことを気に入られていないことはしってましたけど、まさかこの王国を潰すおつもりじゃぁ・・」リリアはそう言うと、溜息を吐いた。「母上はそんな事をお考えになっていない。母上の狙いが何なのか、暫く様子を見る必要がある。」ユリシスの言葉には、氷のような冷たさが宿っていた。「レオナルド様、お父様がお帰りになられますよ。」ミハイルとルチアと三人で色々な事を話していたら、すっかり日が暮れてしまったことに気づいていないレオナルドに、ミハイルの乳母が躊躇い気味にそう言って彼を見た。「ミハイル様、ルチア様、もうお暇しなければならない時間になってしまいました。」レオナルドはミハイルとルチアに向かって頭を下げた。「また来て頂戴ね、レオン。今日はあなたとお話しできて嬉しかったわ。」ルチアはレオナルドに微笑みながら弟の乳母と共に部屋から出てゆく彼に向かって手を振った。「レオナルド、ルチア様とお会いできて嬉しかったか?」帰りの馬車の中で、ユリシスはそう言って一人息子を見た。「ええ、とても楽しかったです。それに、ミハイル様ともお話しいたしました。」「そうか、それは良かったな。お二人と仲良くするのだぞ、レオナルド。」「はい、父上。」(レオナルドよ、ルチア様はお前と血が繋がった兄妹なのだ。ルチア様をお前がお守りするのは、兄としての役目でもあるのだぞ。)無邪気な笑みを浮かべる一人息子の横顔を見ながら、ユリシスは心の中でそう呟いた。 夜の帳が下りたカレディナの街は、昼の街とは違う表情を見せていた。売春宿に勤める娼婦たちは派手に着飾り、道行く客を引いては宿へと連れ込み、地下組織の者達は密かに国王一家殺害を企てていた。闇の住人達が蠢きだす王都の片隅にある酒場で、一人の男がリュートを奏でながら歌っていた。 赤褐色の腰まである長い髪をなびかせながら、少し低い渋めの声で人生の悲哀を歌い紡ぐその姿を見ると、彼が二十であると言っても誰も信じぬだろう。男の名はエルムント、放浪の吟遊詩人である。 生まれ育った場所も、家族も、故郷も知らぬ孤独な彼は、街から街へと渡り歩いてはリュートを奏で、歌う。その人生を決めたのは彼自身であり、誰にも束縛されずに自由に生きることこそが彼そのものだった。 彼が歌い終わると同時に、酔客達は椅子から立ち上がり彼に喝采した。彼は客達一人一人に頭を下げ、また次の街へと向けて旅立っていく。だが、今夜だけは違っていた。エルムントがリュートを肩に担ぎながら酒場を出て夜の街を歩いていると、後ろから誰かに声を掛けられ、彼は振り向いた。「久しぶりだな、エルムント。」そこには、懐かしい顔をした男が立っていた。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

ローレル王国第一王女・ルチアと、マシミアン公爵家嫡子・レオナルドが王宮庭園で運命の出逢いを果たしていた頃、王宮の奥まった部屋の一室にある豪華な天蓋付きのベッドの上では一人の少年が激しく咳き込んでいた。 少年が咳き込むたびに、プラチナブロンドの髪が微かに揺れた。彼の名は、ミハイル。ローレル王国第一王子であり、ルチア王女の弟君でもある。「ミハイル様、また発作を起こされたのですか?」部屋に入って来た少年の乳母が、そう言って彼の小さな背中を擦った。「大丈夫、いつもの事だから。」少年―ミハイルはそう言って無理に笑顔を作り、乳母を安心させた。「王妃様か陛下を呼んで参りましょうか?」「父上や母上には言わないで、お願いだから。」「ですが・・」「お願い。」ミハイルのエメラルドグリーンの瞳が、真摯な光を宿しながら乳母を見た。「か、かしこまりました。お薬をここに置いておきますので。」彼女はそう言うとナイトテーブルに薬を置くと部屋から出て行った。また一人となったミハイルは、頭からシーツを被ると目を閉じた。 脳裡には、両親から寵愛を受けている姉・ルチアの姿が浮かんでは消えて行った。同じ血を分けた姉弟でありながら、両親は病弱な自分よりもルチアを溺愛していた。ミハイルはそんな姉を憎みながら、度々襲ってくる発作に一人で耐えていた。(どうして父上や母上は、僕より姉様の方が大事なの?僕は要らない子なの?)幼い王子の心は、父母の愛情を必死に求めていた。 一方、王宮庭園ではルチアとレオナルドが無邪気に遊んでいた。「ねぇこれから、レオンって呼んでもいいかしら?レオナルドって言いにくいから。」「勿論いいですよ。レオナルドよりもレオンって呼ばれた方が僕、好きなんです。」「あら、そうなの。」ルチアはそう言うと鈴を転がすような声で笑った。「ねぇ、レオンには兄弟がいる?わたしには一人、弟がいるのよ。」ルチアはレオナルドをチラリと見ながら、コスモスの花冠を作り始めた。「いいえ、おりません。ルチア様の弟君は、どのようなお方ですか?」「名前はミハイルって言ってね、プラチナブロンドの髪が綺麗でとても可愛い子なのよ。でも病弱でね、いつも一人で部屋に居るの。」ルチアはレオナルドの金髪に出来あがった花冠を載せながら彼を見た。「ねぇ、これからミハイルの所に行かない事?弟にもあなたを紹介したいのよ。それに、わたし達だけが楽しい思いをしてばかりじゃぁ、ミハイルが可哀想でしょう?」「ルチア様・・」幼いながらも弟を想うルチアの姿に、レオナルドは少し胸を打たれた。「行きましょう。今から。」「よかった。じゃぁ父上と母上に言って来るわね。少しここで待っていて。」ルチアはドレスの裾を摘むと、レオナルドの頬にキスをして両親の元へと向かった。 同じ頃、マシミアン公爵邸では、アンナが一人の神学生とお茶をしていた。「アンナ様、わたくしのような者の為に貴重なお時間を割いて下さり、光栄です。」黒いカソック姿の神学生は、そう言うとアンナに頭を下げた。「あら、いいのよ。わたくしは丁度話し相手もおらず暇だったから、あなたを呼び寄せただけよ。まだお名前を聞いていなかったわね?」「ダリヤと申します、アンナ様。ローレルの神学校に在籍中ですが、卒業後はエステアに戻る予定です。」「まぁ、エステア出身なのね?エステア人は浅黒い肌の方ばかりだと思っていたのだけれど、違うようね。」「浅黒い肌の者は主に南部に住んでおります。わたしは北部の出身でして。」神学生はアンナの言葉に軽く笑いながら、紅茶を飲んだ。「ダリヤ、異国での生活は大変じゃなくて?なんだったらわたくしがお世話をしてあげてよ。」「そんな、恐れ多いことでございます、アンナ様。」アンナはダリヤの言葉を聞いて少し溜息を吐くと、次の言葉を紡いだ。「ねぇダリヤ、エステアが我が国に侵略した事はもうご存知よね?陛下の機転で何とか侵略されずに済んだけど、エステアは一体何を考えているのかしら?」「さぁ、正直言って判りません。ですが今エステアは経済が悪化し、南部や東部の方では民族間の争いが勃発して火種が絶えません。その上アシュレイ国王陛下が原因不明の病に罹られてしまったのです。」「エステアの国王が、原因不明の病に?もしかして誰かに呪いを掛けられているのではなくて?」アンナの美しい柳眉が、ダリヤの言葉を受けて微かに歪んだ。「大きな声では言えませんが、その可能性は大です。アシュレイ陛下については、余り良からぬ噂が王宮内で流れておりまして。」「良からぬ噂ですって?」「はい。口がさない宮廷人達曰く“ローレルのルチア王女は国王夫妻の娘ではなく、アシュレイ陛下のご落胤だ。ミリア王妃が密かに夫と姉を引き合わせ、二人は王妃に子を産ませ、姉王妃が自分の子として引き取った”という根も葉もない中傷が広がっているのです。」「そんなもの、真っ赤な嘘に決まっているでしょう。実の姉妹でありながら、敵国同士の王妃がそう簡単に会う事などないでしょう。それにルチア様の実父は・・」そこまで言ったアンナは急に言葉を切り、紅茶を飲んだ。「どうかなさいましたか、アンナ様?」「い、いいえ。それよりもエステアの事をもっと聞かせて頂戴。」「わかりました。アシュレイ国王陛下にはマリア王女様とアレクサンドリア王子様というお二人のお子様がおられます。アレクサンドリア王子様はルチア様より1つ年上で、やんちゃ盛りでいつも従者達を困らせております。アシュレイ陛下はいずれアレクサンドリア王子様とルチア様をご一緒にさせようと考えておられます。」ダリヤはそう言って一気に言うと、紅茶を飲んだ。「政略結婚ね。ダリヤ、これからもわたくしにエステアの情報を教えて頂戴。」「わかりました。では、これで失礼いたします。」ダリヤがダイニングから出て行くと、アンナはほうっと溜息を吐いた。(とてもいい情報を教えて貰ったわ。ルチア様がエステア王室の一員となられる日はそう遠くない。それまでに何らかの策を練らなければね。)アンナはすっかり冷めてしまった紅茶を一気に飲み干すと、ダイニングから出て行った。 エステア王国王都・フェリースの中心部にある王宮内で、プラチナブロンドの髪をなびかせながら、一人の少年が剣の稽古をしていた。「もっと肘を伸ばして、それでは重心が掛かり過ぎてますよ!」少年と向かい合わせで剣の指導をしている青年が、そう言って少年の懐に飛び込んだ。だが青年の刃が少年の胸に届く前に、少年が青年の剣を弾き飛ばした。「お見事。」青年はそう言って地面に突き刺さった剣を抜き、鞘へと納めた。「ここまで強くなれたのはお前のお陰だよ、ローレック。」少年は稽古の相手に向かって労いながら、彼を澄んだラヴェンダーの瞳で見つめた。少年の名は、アレクサンドリア。エステア王国第一王子であり、後に彼の行動により世界は混乱を極めることになるのだが、まだ本人はその事を知る由もなく、ただ懸命に剣の稽古に励んでいた。「もう一本、勝負だ。」「わかりました、アレク様。」王宮で再び、金属の摩擦音が再び響いた。 その頃、ルチアとレオナルドは王宮庭園を出て、ミハイルの部屋へと向かっていた。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

王宮へと向かう一台の馬車が、王都を駆け抜ける。その側面には、天馬と薔薇を象ったマシミアン公爵家の紋章が刻まれていた。「レオン、もうすぐルチア様にお会いできるぞ。」マシミアン公爵家当主・ミハイルはそう言って隣に座っている一人息子・レオナルドを見た。「やっとお会いできるのですね、父上。」レオナルドは空色の瞳を輝かせながら父親を見た。「どんな方なんでしょう、ルチア様って?お綺麗な方なんでしょうか?」「とても可愛らしい、天使のような方だよ。」ミハイルは大きな手でレオナルドの金髪を優しく梳いた。「早くお会いしたいなぁ。」 一方、夫と息子が王宮へ向かったのを見送ったアンナは、自室に引き籠っていた。「奥様、お呼びでしょうか?」躊躇いがちなノックの後、レオナルドの乳母であるナターリアが部屋に入って来た。「ナターリア、お前に話があるの。お前はルチア様の実の父親が誰なのか、知っているわよね?」ナターリアは女主人の言葉を聞いて静かに頷いた。「ねぇナターリア、お前にとってレオンはどんな存在なの?」「レオン様はわたくしにとって実の息子のような存在でございます、奥様。奥様は、レオン様のことをどうお思いになっていらっしゃるんですか?」ナターリアは今まで女主人に対して抱いていた疑問を初めて本人にぶつけた。「わたしが、レオンの事をどう思っているですって?」息子の乳母の言葉を聞いたアンナは、口元を歪めて笑った。「愛しているに決まっているじゃないの、ナターリア。わたしにとってレオンはこの世で唯一の心の拠り所なの。わたしにはあの子しかいないわ。」そう言った彼女の琥珀色の瞳は、狂気で少し濁っていた。「奥様、レオン様はいつか奥様の元を離れられる日が来ます。その時はどうなさるおつもりなのですか?」「あの子がわたしの元を離れる日ですって?そんなもの、永遠に来ないわ。だってあの子はわたくしのものですもの。」「奥様・・」ナターリアは徐々に心を病んでゆく女主人を呆然と見つめた。「ねぇナターリア、もしわたくしからレオンを奪おうなんて思わないでね。わたくしからレオンを奪おうとしたら、躊躇い無くあなたを殺してしまうかもしれないわ、わたくし。」アンナは甲高い声で笑いながら、恐怖の表情を浮かべているナターリアを見た。彼女の笑い声が、不気味に広い邸内に響いた。 一方、王宮に着いたミハイルとレオナルドは謁見の間にいた。「お久しぶりね、ミハイル。隣にいらっしゃるのが、あなたの息子さんかしら?」リリア王妃はそう言ってミハイルの隣で緊張で固まっているレオナルドを優しく見つめた。「はい、王妃様。レオナルドといって、今年で7歳になります。レオナルド、王妃様にご挨拶なさい。」「お、お目にかかれて光栄です、王妃様。」レオナルドは緊張しながらリリアに挨拶を述べると、恥ずかしそうに俯いた。「まぁ、緊張しているのね。可愛らしい事。大丈夫よ、そんなに緊張せずともわたくし達はあなたを歓迎していてよ。だからもっと、その可愛い顔を見せて頂戴。」王妃の優しい言葉に、レオナルドは俯いていた顔をゆっくりと上げ、空色の澄んだ瞳で彼女を見つめた。(綺麗な方だ。)結いあげられたプラチナブロンドの髪はシャンデリアの光を受けて美しく輝き、自分を見つめるサファイアブルーの瞳は優しい光を帯びている。いつも自分の部屋に閉じ籠り、陰鬱な表情を浮かべている自分の母親とは大違いだ。(王妃様が、僕の母上だったらいいのに。)物心ついた時から乳母に育てられ、母親に蔑ろにされてきたレオナルドは、優しい王妃に育てられているルチア王女が少し羨ましいと思った。 「王妃様、ルチア様はお元気ですか?」ミハイルはそう言って長年の想い人を見た。「あの子なら、庭園で遊んでいるわ。あなたにとても会いたがっているわ。」リリアはミハイルに微笑みながらそう言って椅子から立ち上がったが、バランスを崩して躓(つまづ)きそうになった。その時、ミハイルはリリアを抱き留めて彼女の身体を支えた。「お怪我はありませんか?」「え、ええ。ありがとう、ミハイル。」そう言って父に礼を言う王妃の頬が紅く染まっていることに、レオナルドは気づいた。(父上と王妃様はどういう関係なんだろう?)レオナルドはそんな疑問を抱き始めたが、後で父に聞こうと思い、父と王妃の後に続いて庭園へと向かった。 王宮庭園には、王妃が好きな色とりどりの薔薇が咲き乱れており、王宮内とはまるで別世界のようだと、初めてそこに足を踏み入れたレオナルドは思った。「レオン、どうした?早くこちらへ来なさい。」「は、はいっ!」我に返り、慌てて父の後を追ったレオナルドが見たものは、咲き誇る薔薇の中で長い艶やかな黒髪をなびかせながら歌う少女の姿だった。「ルチア、こちらにいらっしゃい。あなたに紹介したい方がいるのよ。」「はい、お母様。」王妃の声に、少女はそう言って振り向いてレオナルド達の方へと走って来た。「ルチア、こちらはお母様の大切なご友人でいらっしゃるミハイル様よ。ミハイル、こちらがルチアですわ。」「初めまして、ルチア様。お目にかかれて光栄です。」そう言って父は優雅に少女の前で跪いた。「初めまして、ミハイルさん。」少女は微笑みながら、ミハイルの接吻を手の甲に受けた。「そちらの方は?」少女の視線が、ミハイルからレオナルドの方へと移った。美しい紫紺の双眸に見つめられ、レオナルドは魂を吸い取られそうだと思った。「わたしの息子の、レオナルドと申します。」「初めまして、レオナルドです。」レオナルドの挨拶に、少女はにっこりと彼に微笑んだ。「初めまして、ルチアです。これから仲良くして頂戴ね。」少女―ルチア王女はそう言ってレオナルドに手を差し出した。「ええ。」レオナルドはそっと、王女の手を優しく握った。それが、王女と騎士の運命の出逢いだった。互いが血を分けた兄弟とは知らず、ルチアとレオナルドは庭園の中で無邪気に駆け回った。「二人とも、楽しそうね。」リリアはそう言って目を細めながら、庭園を駆けまわる二人の姿を見ていた。「ええ。今までレオナルドには同じ年頃の友人が居なかったので、ルチア様と会って嬉しいのでしょう。」「そうね。ルチアは普段は少し大人しい子なのよ。色々と我慢させているんじゃないかと思うと、少し辛くて・・」リリアはそう言葉を切ると、レースのハンカチで目元を拭った。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

ルチアとレオナルドが誕生してから数年の歳月が経った。 レオナルドの父・ミハイルは幼いレオナルドに剣の稽古をつけ、一人前の男になるようレオナルドを厳しく躾けた。「レオナルド、脇が甘いぞ!もっと力を込めて!」父の厳しい指導に、レオナルドは泣きべそをかきながら何度も父に向かって行った。「レオナルド、今日はよく頑張ったな。だがその剣の腕では一人前にはなれぬぞ。明日からもっと稽古に励むように。」「はい、ちちうえ!」ミハイルは幼いながらも少しずつ成長している息子の姿に目を細めながら、彼のアッシュブロンドの髪を優しく梳いて彼に微笑んだ。「ちちうえ、いつルチアさまにあえるのですか?」稽古が終わり、夕食の席でレオナルドはそう言ってミハイルを見た。「まだルチア様とは会えぬ。だがお前が己の身とルチア様の身を守れるようになった時に、ルチア様と会わせよう。」「ほんとうですか、ちちうえ?」「ああ、本当だ。いつかきっと、ルチア様に会わせてやる。その為には何をすれば良いかわかるな?」「はい、ちちうえ!」息子の元気な声に、ミハイルは頬を弛(ゆる)めた。一方、ローレル城では国王夫妻に挟まれるようにダイニングテーブルに座っているルチア王女は紫紺の瞳を輝かせながら今日起きた出来事を両親に話していた。「きょうはね、おうまにのせてもらったのよ。」「そう。怖くはなかった?」「いいえ、おかあさま。とてもたのしかったですわ。」「そう、よかったこと。でも1人で乗馬をしてはいけませんよ、ルチア。あなたに何かあったらわたくしは生きた心地がしませんからね。」「わかりました、おかあさま。」「良い子ね。」リリアはそう言ってルチアに微笑んだ。「リリア、少し話がある。」夕食が終わり、ユリシスは椅子から立ち上がりながら妻を見ながら言った。「ルチア、今日は疲れたでしょう?お父様とお母様は少しお話があるから、先にお休みなさい。」「おやすみなさい、おかあさま。」乳母とルチアがダイニングへと出て行くのを確認すると、リリアは夫に向き直った。「お話とは何かしら、あなた?」「ルチアの父親は、本当にわたしなんだろうな?」ルチアが産まれて以来、自分の中で抱き続けてきた疑問をユリシスは初めて妻にぶつけた。「何をおっしゃいますの、ルチアはあなたの子ですわ。あの子の艶やかな黒檀の髪はあなた譲りですもの。何故そんなことをお聞きになるの?」「わたしはどうかしていた。今のことは忘れてくれ。」ユリシスはそう言って妻に微笑んだが、妻の強張った表情が変わることはなかった。「あなた、ルチアのことをどう思ってますの?」「どう思っているのも何も、ルチアはわたしとお前の可愛い娘だ。あの子にもしものことがあったら、わたしは悪魔になるだろう。」「わたくしもあなたと同じ気持ちですわ。あの子はわたくし達が命を賭けて守らなければなりませんわ。」「ああ、そうだな。あの子が結婚するまでは、わたし達があの子を守ってやらねば。」ユリシスとリリアは、暫く互いの顔を見つめあった後、笑みを浮かべて仲良くダイニングから出て行った。「ねぇマリア、おとうさまとおかあさまはなんのおはなしをしていらしたの?」夕食の後、ベッドに入ったもののなかなか眠れずにいたルチアは、そう言って乳母を見た。「とても大切なお話ですよ、ルチア様。」乳母はルチアを誤魔化そうとしたが、好奇心旺盛なルチアはじっと彼女を見て更に質問を続けた。「たいせつなおはなしってなぁに?おとうさまとおかあさまはどういうおはなしをしていらっしゃるの?おしえて、マリア。」「それは教えられませんわ、ルチア様。けれどもこのことだけは覚えておいてくださいませ。あなたのお父様とお母様はルチア様のことを大切に思っていらっしゃるということを。」乳母はそう言って王女の艶やかな黒髪を優しく梳いた。王女はやがてすやすやと寝息を立てて、夢の世界の住人となった。乳母はその寝顔を愛おしそうに見つめた後、部屋を出て行った。その足で彼女は王妃の部屋へと向かった。「王妃様、失礼いたします。」「ルチアはもう眠ったかしら?」部屋に入ると、王妃は化粧台の前で髪を櫛で梳いていた。王妃の美しいプラチナブロンドの髪が波打つのを、乳母はしばし見入っていた。「どうかして?」「王妃様の御髪がお美しいなと思いまして。」「ありがとう。でもわたくしの髪よりも、ルチアの黒髪の方が美しいわ。わたくしね、幼い頃は黒髪に生まれたかったって思ったことがあったのよ。」王妃はそう言って乳母に微笑むと櫛を化粧台の上に置いた。「ルチア様はこれからますますお美しく成長されることでしょう。いずれは他国の王家に嫁ぐ日が来られるかもしれません。」「そうね。マリア、あの子が嫁ぐ日まで面倒を見てやって頂戴ね。わたくしは公務で忙しくてあの子の傍にいつも居てあげられない。けれど精一杯の愛情であの子を包んであげたいの。」「わかりました、王妃様。わたくしも陛下や王妃様と同じように、ルチア様に精一杯の愛情をこれからも注いでゆきます。」乳母の言葉に、王妃は天使のような微笑みで返した。ローレル王国王女ルチアは、両親と乳母の深い愛情に包まれ、美しく成長した。そしてマシミアン公爵家嫡子であるレオナルドも、父親の深い愛情に包まれ、いずれは一人前の男となって王国を守ろうという強い意志を抱きながら日々鍛錬を積みながら逞しく成長していった。2人が成長している間に、王国内の情勢も少しずつ変わっていった。1年中雪と氷、そして険しい山脈に囲まれ難攻不落とされていたローレル王国だったが、軍事国であり建国以来日に日に勢力を拡大しつつある東のエステア王国軍が、ローレル王国の国境地帯に進軍してきたのだ。「エステア軍がこの王都に攻め入るまで時間の問題です!陛下、ただちに軍を国境地帯に派遣してください!」国王は将軍の言葉に二度頷いた。国境地帯に進軍し、殺人、放火、掠奪など暴虐の限りを尽くしていたエステア王国軍はローレル王国軍によって壊滅状態となった。この出来事が端を発し、かつて和平同盟を結んでいたローレル王国とエステア王国は敵国となった。そんな中、ルチアとレオナルドは幸せな子ども時代を送っていた。レオナルドが7歳の誕生日を迎えようとしている日の朝、彼は父親に呼ばれて書斎へと向かった。「お呼びでしょうか、父上?」「レオナルド、ルチア様に会いたくはないか?」父親の言葉に、レオナルドは力強く頷いた。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

王国中が“王女・ルチア”の誕生に歓喜で沸いている頃、アンナはただ自室の愛用の椅子に座り、空をじっと眺めていた。「奥様、レオナルド様が・・」レオナルドの乳母・ナターリアが部屋に入って来たが、アンナはその声に何も反応しない。「奥様?」「レオンがどうかしたの?また熱でも出したの?」「奥様、すぐにいらしてください。レオナルド様が先ほどから泣き止まないんです。きっと奥様が抱いてくだされば泣きやむかと。」「医者を呼べばいいでしょう。話はもう終わりよ。」ナターリアはアンナに何か言いたそうだったが、黙って部屋から出て行った。彼女はアンナの隣の部屋に入り、泣きじゃくるマシミアン公爵家の後継者を優しく抱きあげた。「レオナルド様、ナターリアが来たからには大丈夫ですよ。今からあなた様の好きな子守唄を歌いますからね。」ナターリアはレオナルドをあやしながら、幼い頃母親が歌ってくれた子守唄を歌い始めた。それまで火がついたように泣き叫んでいたレオナルドが、子守唄を聞いた途端泣き止んですやすやと寝息を立て始めた。(お可哀想なレオナルド様。旦那様はお仕事でお忙しくて、奥様はご自分の子だというのにレオナルド様に無関心。せめてお2人の代わりにわたしが愛してさしあげます。)ナターリアは乳児用ベッドで眠るレオナルドをじっと見つめた。彼を起こさぬようそっとドアを閉めて部屋を出て、廊下を歩き始めたナターリアは居間から言い争う声がした。「レオナルドの事をナターリアに任せきりだそうだな?自分の子なのに君は授乳もしないつもりか!」「わたくしはレオナルドを産みましたわ。けれどそれはマシミアン公爵家の為だけです。あなたの方こそいつも王妃様のお傍に侍っていらっしゃらないで、レオナルドのことを見てやってくださいな。」「わたしは今忙しいんだ!家の事は全て君に任せる!」「あなたはいつもそればかり!王妃様やルチア様のことばかり構うのは、ルチア様の実の父親だからですか!?」アンナの金切り声に続いて、鈍い音が居間に響いた。「ルチア様のことはわたしと王妃様、王妃様の数人の侍女と乳母しか知らない!この事を少しでも公にしたらわたしの首は処刑場に晒される!そうなったらマシミアン公爵家はわたしの代で終わりだ!いいかアンナ、お前はルチア様の出生については何も知らない。いいな、わかったな!」「わかりました。わたくしはルチア様の出生については何も存じません。」重苦しい沈黙が居間を包んだ後、アンナはそう言って咽び泣く声が聞こえた。居間の扉が開く気配がして、ナターリアは素早く廊下の角へと身を隠した。「ナターリア、お前も今の話は聞いただろうな?」先に居間から出てきたミハイルはちらりと廊下の角からナターリアを見た。「いいえ、旦那様。わたくしは何も聞いておりませんでした。」「それで良い。レオナルドを頼むぞ、ナターリア。」氷のような冷たい光を宿した紫紺の瞳で息子の乳母を射るように見た後、ミハイルは足早に靴音を響かせながら彼女の前を通り過ぎた。1人廊下に取り残されたナターリアは、恐怖で廊下に蹲った。(ルチア様が旦那様のお子だなんて。この秘密はわたくしがお墓まで持っていかなければ。)遠くからレオナルドの泣き声がして、我に返ったナターリアは覚束ない足取りで彼の部屋へと入り、泣きじゃくるレオナルドをそっと抱きあげた。(血は繋がってはいないけれど、わたくしはレオナルド様の母としてレオナルド様をお守りしよう。たとえルチア様の出生の秘密が公にされ、この公爵家に嵐が来ようとも、わたくしは全身全霊でレオナルド様をお守りする!)自分の腕の中で寝息を立てるレオナルドを愛おしそうに見つめながら、ナターリアは彼の母親になることを決意した。その頃宮廷に出仕したミハイルは、産後の肥立ちが悪く寝たきりの王妃に代わって子ども部屋で産まれたばかりのルチア王女の世話をしていた。王女は漆黒の髪に雪のような白い肌、紅をさしたような愛らしいぷっくりとした唇をしており、少し自分に似ているようで愛らしかった。そして何よりもつぶらな紫紺の瞳で時折自分をじっと見る姿は、いつまで見ても飽きない。(レオナルドのように自分の子として育てることができたら、どれだけ幸せだろうか?だがルチア様は王女としてお育てしなくてはならぬ。時が来れば、必ずやルチア様を我が家へお迎えしよう。)「悪いわね、ミハイル。男のあなたに子守などさせてしまって。」背後から声がしてミハイルが振り返ると、そこにはドレスを纏い髪を結いあげた王妃が立っていた。「王妃様、もう起き上がられてもよろしいのですか?」「ええ、もう大丈夫です。少し横になったら気分が良くなりました。それにあなたにルチアを任せきりでは何だか後ろめたくて。」「そんなことをおっしゃらないでください、王妃様。わたくしはルチア様を実の娘のように思っておりますから、お気になさらず。」“実の娘”という言葉を聞いた王妃の表情が一瞬強張ったが、それをミハイルに見せることもなく、彼に笑みを浮かべた。「ルチアの世話をしてくださるのは嬉しいんだけど、あなたは息子さんをもう少し構ってさしあげたらどう?アンナはいつもあなたの愚痴ばかりわたしにこぼしていてよ。」「申し訳ありません、妻があなたにつまらない事を言ってしまって。」「いいえ、いいのよ。子育ては大変ですからね。わたくしはもう大丈夫だから、アンナに優しくしてあげて頂戴な。」王妃は朗らかな笑い声と共に、ルチアを抱きながら子ども部屋から出て行った。「わたしはレオナルドを愛せないのですよ、王妃様。まだわたしはあなたのことを愛しているから。アンナとの結婚は間違いだった。」ミハイルは、そう低く呟くと深い溜息を吐いて子ども部屋を出た。「お帰りなさいませ、旦那様。」帰宅すると、レオナルドを抱いたナターリアが恐る恐るミハイルに声をかけて俯いた。「アンナは何処に居る?」「奥様はご気分が優れないとおっしゃって、お部屋で休まれております。」「そうか。レオナルドを抱いてもいいか?今日王妃様にレオナルドを構うよう言われてしまってな。」「勿論ですわ、旦那様。」ナターリアはレオナルドをそっとミハイルに渡した。赤ん坊を抱くのはルチアで慣れている筈だったが、我が子であるレオナルドを抱くことは初めてなので、ミハイルは彼を落とさぬように慎重にその小さな身体を抱いた。するとそれまですやすやと眠っていたレオナルドの目が開き、ミハイルをつぶらな瞳でじっと見上げた。「レオナルド、わたしの息子よ。これからお前は王妃様とルチア様をお守りする為に、立派な男にわたしが育てる。わたしのように強くなれ。」父の言葉に、レオナルドは笑みで答えた。マシミアン公爵家の嫡子、レオナルド。ローレル王国王女、ルチア。同じ父親を持つ2人の少年の数奇な運命は、この世に生を享けた瞬間から始まった。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

「あなたのことは、よく妹と話しておりましたわ。お願いです、助けて貰いたいの。」リリアはそう言って老婆を見た。「ここは寒かろう。中へお入り。」老婆はドアを開け、家の中へと入っていった。リリアはためらいもなく彼女の後についていった。恐ろしい魔女に対して全く警戒心がない王妃の行動にうろたえながらも、女官達は慌てて馬から降りて家の中へと入った。そこには、手作りの手織り布によって覆われた長椅子があり、木製のテーブルには4人分のマグカップが置いてあり、その中には温かい紅茶が淹れられてあった。「さて、話とはなんだい?」老婆は大儀そうに長椅子に座りながら、そう言ってリリアを見た。「実はわたくし、なかなか子どもが授からないのです。あなたのお力で、何とかなりませんでしょうか?」「残念だけどそういったものはもうしていないんだよ。力にはなれないよ。」老婆は溜息を吐いてローレル国の王妃を見た。「わたくしはどうしても跡継ぎが欲しいんです。このままでは王家の一員にはなれず、ユリシス様と離縁されてしまいます!お願いです、どうか!」「お願いいたします、王妃様にどうか跡継ぎを!」「お願いいたします!」リリアと女官達の必死の懇願に、老婆は深い溜息を吐いて紅茶を一口飲むと、彼女達の方を見た。「いいだろう、あんたの願いを叶えてやろう。」「ありがとうございます!」リリアは涙を流しながら、老婆の手を力強く握り締めた。「そんなに強く握らないでおくれ。骨が折れてしまうだろ。」「すいません。喜びの余り、つい・・」リリアはぱっと老婆から手を放した。「ひとつ条件をあんたに呑んで貰おう、リリア王妃。」「あなたの為なら、どんな条件でも呑みますわ。」「そうかい。では、あんたが産む子供がもし男であったのなら、その子を王女として育てな。そうしないとその子はこの国だけでなく、大陸を滅ぼすことになるよ。」「ええ、わかりましたわ。」リリアは老婆の条件を呑み、2ヶ月後彼女の魔術によって子を授かった。王妃の懐妊を知ったユリシスは飛び上がらんばかりに歓喜し、その日は王妃の懐妊祝いの宴を盛大に行った。「元気な子を産んでくれよ、リリア。」ユリシスはそう言ってまだ目立たぬ妻の下腹を優しく擦った。「ええ、あなた。必ず元気な子を産みますわ。」(これでわたくしは王家の一員になれる。ユリシス様と産まれてくるこの子と永遠に幸せな毎日が送れるわ。)一方、宴が盛大に行われている城から遠く離れた森の奥で、魔女は幸せそうな国王夫妻を水晶玉の中から見ていた。「リリア王妃よ、お前はまだ産まれてくる子がどんな目に遭うのか知らない。その子の人生が極楽になるのか、地獄になるのかはあんた次第だよ。」老婆はそう呟いて蝋燭の火を消した。部屋全体が、漆黒の闇に包まれた。宴が終わり、王妃は早めに自室で休もうと大広間から出て、廊下を歩いていた。「あら王妃様、もうお休みになられるんですの?」柱の陰から飛び出した1人の女性が、そう言ってリリアを呼び止めた。「あら、あなたは確か・・」艶やかな黒褐色の髪を結い上げ、華奢な身体を深緑のドレスに包んだ貴族の令嬢は、琥珀色の瞳に嫉妬と憎悪を宿らせて王妃を見た。「この度はご懐妊おめでとうございます、王妃様。陛下に似た元気なお子様がお生まれになるといいですわね。」「ありがとう、アンナ。あなたはもうすぐ結婚なさるのですって?」「ええ。陛下はもうあなた様のものですし、いつまでも昔の恋をひきずってはいけないと思いましてね。」そう言って令嬢―アンナはリリアに笑顔を浮かべた。「幸せになってね、アンナ。」「ええ。」リリアが廊下の角を曲がって姿が見えなくなるのを確認したアンナは、舌打ちした。「何が、“幸せになってね”よ。わたしの幸せを奪ったのはあなただっていうのに。」アンナとユリシスは親同士が決めた許婚だった。王妃となる為に幼い頃から英才教育を受けてきたアンナにとって、ユリシスの妻となることが人生の目標となっていたし、彼の事を心から深く愛していた。だが結婚間近という時に、彼はシスティナ皇国から来た皇女と政略結婚をした。今まで自分に尽くし、愛した女の事など忘れて。ユリシスを諦めきれなかったアンナは、彼の結婚を聞いて自害をしようとしたが、失敗に終わった。失意の余り体調を崩し、彼女は王都カレディナから遠く離れた保養地にある別荘で静養することになった。だが田舎の長閑な風景を見て、彼女は癒されるどころか、かえってますます体調を崩してしまった。(ユリシス様、わたしを捨てるだなんて酷いわ。わたしは今まであなたの事を愛してきたのに!)幼い頃からユリシスと共に過ごした時間が濃く長い所為か、失恋の痛手は余りにも大きすぎた。ある日の事、とうとうこの世に絶望したアンナは、遠乗りに出かけるふりをして死に場所を探し回った。海辺の断崖絶壁へと着いたアンナは、馬から降りてその断崖から身を投げようとした時、“彼”と出逢った。「いい景色ですね。」“彼”は紫紺の瞳で自分を見つけながら、そう言って微笑んでくれた。その瞬間、アンナは“彼”の為に生きようと思ったのだった。昔の恋を忘れ、新しい恋に生きるようになったアンナは、“彼”と婚約した。ユリシスとの恋はひきずってはいないと思っていたのに、王妃の隣で幸せそうに微笑むユリシスの姿を見た途端、まだ自分は彼の事を愛しているのだとアンナは思い知らされるのだった。(王妃様、わたしはあなたを一生怨みますわ。本来わたしの地位であるものを奪い、わたしの愛と幸せを奪ったあなたを。)「アンナ、こんなところにいたのかい。」背後から声がしてアンナが振り向くと、そこには愛しい“彼”の姿があった。「ミハイル、会いたかったわ。」アンナはそう言って“彼”を抱き締めた。「王妃様には、僕達の結婚のことは話したかい?」「ええ、勿論よ。王妃様はご自分のことのようにお喜びになっていらしたわ。」「そうか、それはよかった。」“彼”はそう言って笑ったが、その笑みは少し寂しげなものだった。「ミハイル様、もしかして王妃様の事を・・」「何を言うんだ、アンナ。僕は君を永遠に愛すると誓ったんだよ。」「そうね、そんな筈ないわよね。わたくし考え過ぎよね。」アンナの言葉で、“彼”はアンナに手を差し出した。「行こうか、アンナ。」「ええ。」リリア王妃の懐妊祝賀の宴から一週間後、アンナは“彼”ことミハイル=マシミアン公爵と盛大な結婚式を挙げた。ほどなくしてアンナはミハイルの子を宿し、彼女は幸せの絶頂にいた。だが彼女とは対照的に、夫であるミハイルはリリア王妃の懐妊祝賀の宴以来塞ぎ込むようになり、やがて夫婦間での会話は徐々に減っていった。(あなた、一体どうしたというの?もうすぐわたくし達の子どもが産まれるというのに。)アンナは日に日に自分の胎内で成長する赤子を愛おしく思うと同時に、夫がまだリリア王妃のことを想っているのではないかという疑惑を持ち始めていた。8ヶ月後、臨月の腹を大儀そうに擦りながらアンナは宮廷へと出仕した。「アンナ、久しぶりね。」背後から声がして振り向くと、そこには数人の侍女を従えたリリアが立っていた。「王妃様、もうすぐ御生れになられますね。」アンナは自分同様王妃の膨らんだ下腹部を見ながら言った。「お互い元気な子を産みましょうね。」南国の太陽のような柔らかな笑みを浮かべ、リリアは侍女と共に廊下を去った。アンナは彼女に気づかれぬよう、こっそりと彼女の後をついていった。「ミハイル、久しぶりね。さっきあなたの奥様とお会いしたわ。あなたももうすぐ父親ね。」「王妃様、少しお話がございます。」リリアに向かってそう言った夫の表情は、少し険しい様にアンナは見えた。2人は城を出て、短い春の間に色とりどりの薔薇が咲き誇り、宮廷人達の癒しの空間となっている庭園へと向かった。アンナはそっと2人がいる庭園へと入り、柱の陰に隠れた。「あの魔女にはお会いいたしましたか?」「ええ。彼女のおかげで、この子を授かったわ。御医者様のお話では、男の子だそうよ。」「陛下には、まだ真実を話しておられないのですか?そのおなかの子がわたしの子であるということを。」夫の言葉を聞いた瞬間、アンナは全身が引き裂かれそうだった。(王妃様の子が、夫との・・ミハイルとの子だというの!?)「陛下にはこの事は話しません。どうかあなたはわたくしのことを忘れて、アンナと産まれてくる子どもを大切にして頂戴。あなたはもうすぐ父親になるのですから。」「しかし王妃様、この事に王太后様に気づかれでもしたらあなたのお命が・・」「わたくしの命は、この子のもの。わたくしが命に代えてもこの子を守ります。」王妃はそう言って下腹を愛おしそうに擦りながら庭園を後にした。呆然としたミハイルは溜息を吐くと、彼女の後を追った。(王妃様、あなたはわたくしの大切なものを奪うのね。最初はユリシス様、そして今度は夫のミハイル。聖女の振りをしているけれど、あなたはあの魔女よりも恐ろしい女だわ!)夫の裏切りと王妃への憎しみから、また体調を崩してしまったアンナは、難産の末公爵家の嫡子となる男児を出産した。そしてリリア王妃も、王国の跡継ぎとなる第1王子となる男児を出産した。しかし王妃は魔女の予言を信じ、男児を「ルチア」と名付け、女児として育てることを国王に告げた。ルチアの出生の秘密を知らぬ国王は、王妃とともに王女としてルチアを育てることとなった。こうしてローレル王国に“第1王女”が誕生した。“王女”の誕生は王国中を喜びの渦に巻き込んだが、“王女”誕生の真相を知っているアンナだけは、産まれたばかりの息子を乳母に託して陰鬱な日々を過ごしていた。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

第一幕北の王国・ローレル王国。 1年の内の大半を雪と氷で覆われた不毛の国を治める国王・ユリシスの元に、1人の女性が輿入れした。その女性の名はリリア=テレーズ=フォン=システィナ。 南の大国・システィナ皇国の第1皇女であり、ユリシスとの結婚は不毛地帯で大した産業もない弱小国・ローレルと、観光や産業、貿易で潤う大国システィナとの和親条約締結を狙っての政略結婚であった。物心ついたときから燦然(さんぜん)と輝く太陽の下、珊瑚礁に囲まれたエメラルドグリーンの海で遊んでいた南国育ちのリリアにとって、1日の大半を雪で閉ざされ、厚い雲で覆われた北国での生活は馴染むのには時間がかかり、もし出来るのなら故国に帰りたいとさえ彼女は毎日思う様になった。 だがそんな彼女を夫のユリシスは辛抱強く支え、リリアに北国ならではの自然の荘厳さや美しさ、独自の文化などを忙しい公務の合間を縫って彼女に紹介し、天候が良い時は彼女を狩りに連れ出したりした。はじめは塞ぎ込み、望郷への思いを募らせているばかりだったリリアは、次第にユリシスによって北国の美しい自然の風景や文化などに魅力を感じるようになり、この地に骨を埋める覚悟を決めた。政略結婚で結ばれたユリシスとリリアだったが、2人は心から互いに理解し合い、愛し合っていた。だが彼らには子宝には恵まれないという悩みがあった。 大陸中の名医に数え切れぬ程リリアは診てもらったが、不妊の原因はわからずじまいであった。「余り思いつめることはない。子どもは神様からの授かり物だ。いつか必ず出来るさ。」ユリシスはそう言って落胆するリリアを慰めていたが、リリアの暗く沈んでいる心は夫の優しい言葉によって晴れることはなく、逆にますます彼女を追い詰めていった。そんな中、常日頃からリリアを目の敵にしているオ―レリア王太后は、夕食の席でリリアと離縁し、別の女と再婚するようユリシスに持ちかけた。「リリアではお前を幸せに出来やしないよ。南国育ちの姫よりも、厳しい自然の中で産まれ、逞しく育った北国の女がお前には相応しかろう。システィナとの和親条約は締結したし、リリアは国元に帰した方が良かろうよ。」オ―レリアは満足げにそう言うと、孫の答えを待った。「わたしはリリアとの離縁は考えておりません。わたしはリリアを心から愛しておりますし、子どもが出来ないからといってリリアと離縁すれば、システィナが黙っておられませんよ。」ユリシスは祖母に冷たく言い放つと、父親譲りの真紅の瞳で彼女を睨んだ。「わたくしはお前のために言っているのだよ、ユリシス。老い先短いわたくしの話をきいてくれてもいいだろう?」「あなたとは、もうこれ以上話すことはありません。失礼します。」ユリシスは乱暴に椅子から立ち上がり、ダイニングから出ていった。「おお、何ということだろう。愛しいわたくしのユリシスが、わたくしに向かってあんな口を利くとは・・南国育ちの姫君を嫁に貰った所為に違いないわ。」オーレリアはリリアに対する嫌味をあからさまに口にした後、侍女を引き連れてダイニングを後にした。リリアは屈辱と怒りに震えながら葡萄酒が注がれたグラスをじっと見つめていた。(故郷から遠く離れたこの地でユリシス様と骨を埋める覚悟できたというのに・・未だにローレル王家の一員にもなれず、このまま跡継ぎにも恵まれなかったのならユリシス様と離縁されてしまう。何としてでも跡継ぎを授からなければ・・)蝋燭(ろうそく)の仄(ほの)かな灯りが、ユリシスの元に嫁ぐ前に“大陸一の美姫”と謳われたリリアの顔を照らした。この国に来て2年半の歳月が経ったが、その間に目尻には小皺(こじわ)ができ、慣れぬ異国での生活による心労、そして子を産めぬ苦しみが、かつての美貌を徐々に衰えさせていた。(わたくしはこのまま、オーレリア様に苛め抜かれる人生など送りたくはないわ!何としででも跡継ぎを産まなければ!)絶対にこの国の跡継ぎを産むと決意したリリアは、ゆっくりと顔を上げた。翌朝彼女は、ごく数人の供を連れて城を抜け出し、とある場所へと向かった。「王妃様、一体どちらへ向かわれるのです?」「着けばわかることです。お前達はわたくしとはぐれないようついていらっしゃい。」城から離れ、普段魔物が棲むと言われている森の中へと馬を進めながら、リリアはそう言って供の女官達に微笑んだ。「一体王妃様はどうなさったのかしら?」「こんな人気のないところにわたくし達を連れて来て、何処へ向かわれようとしていらっしゃるのかしら?」「もしかして気が触れられたのでは・・」ひそひそと女官達が囁きを交わす中、リリアは鬱蒼と茂った森の奥へと進んだ。彼女の脳裡には、ローレル国へ嫁ぐ前、妹・ミリアと話した夜の事が浮かんだ。「ローレルへ行ってしまわれるのね、お姉様。」自分の輿入れが決まった時、妹はそう言って寂しそうな顔をした。「ローレルへ嫁いでもわたくし達はいつも一緒よ、ミリア。そんな悲しい顔をしないで。」「お姉様、ローレルには恐ろしい魔女がいるって、女官達が噂していたわ。その魔女は、お城から遠く離れた森の奥に住んでいるんですって。決して森には行かないで、お姉様。行ったら、魔女に呪い殺されてしまうわ。」「魔女というものが本当に住んでいるのなら、わたくし会ってみたいわ。」「やめて頂戴、お姉様。」あの時は冗談交じりで言った言葉だったが、数年後その魔女に会う為に森に行くなどあの時の自分は想像もしていなかった。魔女の力を借りてでも、リリアは跡継ぎを産みたかった。このままユリシスのお荷物扱いされるのは嫌だ。森の奥へとリリア達は辿りついたが、そこには小屋どころか、人が住んでいる痕跡すらない。やはりただの噂話だったのか。「王妃様、戻りましょう。ここは薄気味悪いですわ。」女官の1人がそう言って手綱を引いて元来た道を引き返そうとした時、遥か向こうからうっすらと煙が見えた。「今煙が見えたわ。あそこまで行ってみましょう。」リリアは手綱を引き、馬の横腹を蹴った。煙が上っている方へと向かうと、そこには煉瓦造りの小さな家が建っていた。(もしかして、ここに魔女が住んでいるのかしら?)馬から降りたリリアは、そっと木枠のドアをノックしようとした。その時ドアが開き、中から澄んだラヴェンダーの双眸が彼女を見つめた。「あなたが、森の奥に住む魔女なのですか?」「よく来たね、リリア王妃。」ラヴェンダーの瞳を持った老婆はゆっくりとリリアの前に歩み寄り、枯れ枝のような皺だらけの手でリリアの白魚のような手を握った。「何故、わたくしの名前を知っているのです?」「あたしにはこの世の事が全て見えるのさ。この瞳と、ここでね。」老婆は左手の人差し指で自分の両目と胸を指しながら言った。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

若干ネタばれ含みます。ローレル王国ルチア(15) 髪の色:漆黒 瞳の色:紫ローレル王国第1王女。男児だが、占い師の予言を信じた王妃により、女児として育てられる。ミハイル(13) 髪の色:プラチナブロンド 瞳の色:エメラルドグリーンローレル王国第1王子。両親の愛情を一身に受けている姉・ルチアを疎ましく思っている。ユリシス(50) 髪の色:漆黒 瞳の色:真紅ローレル王国国王。リリア(48) 髪の色:プラチナブロンド 瞳の色:サファイアブルーローレル王国王妃。占い師の予言を信じ、長男・ルチアを女児として育てる。オーレリア(80) 髪の色:シルバーブロンド 瞳の色:エメラルドグリーン。ローレル王国王太后。ルチアを何かと疎ましがる。レオナルド(レオン)(15) 髪の色:アッシュブロンド 瞳の色:空色マシミアン公爵家嫡子。ルチアとは幼い頃に会ったことがある。アンナ(48) 髪の色:黒褐色 瞳の色:琥珀色レオナルドの母。ユリシスの許婚だった。ミハイル(59) 髪の色:アッシュブロンド 瞳の色:紫マシミアン公爵家当主。ルチアの出生に深く関わっている。ナターリア(57) 髪の色:プラチナブロンド 瞳の色:榛色レオナルドの乳母。エステア王国アレクサンドリア(アレク)(16) 髪の色:プラチナブロンド 瞳の色:ラヴェンダールチアの縁談相手。エステア王国第1王子。派手好きで、少し女癖が悪い。マリア(15) 髪の色:キャラメル色 瞳の色:ターコイズ・ブルーアレクサンドリアの妹。エステア王国第1王女。ローレック=ファスティン(36) 髪の色:鳶色 瞳の色:瑠璃色エステア王国近衛隊長。マリアの良き相談相手。ミリア(46) 髪の色:黒褐色 瞳の色:サファイアブルーエステア王国王妃。ローレル王国王妃・リリアの妹。アシュレイ(50) 髪の色:赤褐色 瞳の色:ライトブラウンエステア王国国王。ルチアの出生の秘密を知っている。その他アシュバ(占い師のお婆さん)年齢不詳 髪の色:白銀 瞳の色:ラヴェンダーリリアに対して、将来産まれてくる男児(ルチア)を女児として育てるよう予言した占い師。エルムント(30) 髪の色:赤褐色 瞳の色:エメラルドグリーンローレル宮廷お抱えの吟遊詩人。アンダルス(13) 髪の色:プラチナブロンド 瞳の色:ワインレッドエルムントの弟子。ダリヤ(38) 髪の色:シルバーブロンド 瞳の色:エメラルドグリーンエステア宮廷付司祭。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

その日は、雲ひとつない快晴だった。宮殿内にある礼拝堂でまもなく執り行われるある1組の男女の婚礼に、アーミティア大陸中の王族や貴族が参列していた。その中には、男女の親族たちもいた。「それにしても、あのお2人がご結婚だなんて、未だに信じられませんわね。」「ええ、血族結婚であるにせよ、ルチア様はあの方を大層嫌っておいででしたし・・」「無事に婚礼が終わるといいのだけれどねぇ。」ひそひそと貴婦人達が扇子の陰で囁きを交わす中、礼拝堂の扉が開き、婚礼の主役である青地に金糸の刺繍が施された豪華な軍服を纏った新郎が入って来た。―アレク様は相変わらず素敵ですこと。―あと10年くらい若ければわたくしがアレク様の花嫁になれるというのに。―残念ですわ。―何故あんな蛮族の姫なんかと・・ 凛々しい軍服姿の新郎を見ながら、貴婦人達は自分達から新郎を奪った新婦の到着を待っていた。一方、礼拝堂から少し離れた宮殿内の部屋で純白の花嫁衣装を纏った新婦が美しい紫の瞳を曇らせていた。「ルチア様、お時間でございますよ。」部屋に新婦付き添い人である女官が入ってきて、新婦に声をかけた。「今日、わたくしはあの方と結婚するのね。ねぇ、わたくしは今どんな姿をしていて?」「大変お美しいですわ、ルチア様。まるで天から舞い降りた雪の精のようですわ。きっとアレク様もルチア様のお姿を見て溜息を吐かれることでしょう。」「そう。ならいいのだけれど。」新婦はそう言って溜息を吐いた。「では参りましょうか。」女官の言葉に静かに頷いた新婦は、ゆっくりと部屋を出て行った。礼拝堂へと一歩ずつ歩くたびに、豪奢な花嫁衣装の裾が摩擦音を立てる。「ルチア様、こちらですわ。」扉の前に控えていた女官がそう言って扉を開けた。祭壇まで続いている真紅の絨毯の前には、婚礼の日を待ちわびていた父王の姿があった。「ルチア、なんと美しい。わたしの可愛い娘。」16年自分を愛し、育ててくれた父親が感涙に噎(むせ)ぶのを新婦はじっと見つめていた。「ありがとう、お父様。」新婦はそっと父親の腕を取ってゆっくりと絨毯の上を歩き始めた。一流の職人が細部にわたって白薔薇の美しい刺繍を施した豪奢な花嫁衣装を纏った彼女は、礼拝堂にいる貴婦人達の誰よりも美しかった。だが新郎が入場した際とは違い、新婦を見つめる彼女達の視線は冷ややかなものだった。―蛮族の女も、着飾れば美しいのね。―いくら着飾っていても、本性は隠せないんじゃなくて?―アレク様もお気の毒に。あんな女を押しつけられて・・歩くたびに自分に浴びせられる意地の悪い言葉を、新婦はただ黙って聞いていた。「大丈夫か?」新婦の強張った顔を見て、父親が心配そうに声をかけた。「あんな方達の言うことなど気にしておりませんわ、お父様。わたくしはこの結婚を喜んでいるのですから。」新婦は咄嗟に嘘を吐き、父親に向かって微笑んだ。「済まない、ルチア。お前だけは、決して政治の道具にするまいと神に誓ったというに・・」「お父様、わたくしはお父様の娘として産まれて幸せでした。たとえ蛮族と罵られようとも、前だけを向いて歩いてゆきます。」「ルチア。」父親は新婦から腕を放し、祭壇で司祭とともに待機していた新郎へと彼女を渡した。白いヴェール越しに見える新郎がどんな顔をしているのかは新婦には見えなかった。だがきっと自分との結婚を心から喜んでいるに違いないと、彼女は思った。司祭の元で新郎と新婦は誓いの言葉を交わし、新郎の手によって新婦の顔を覆っていたヴェールがゆっくりと上げられた。新婦の艶やかな黒髪と美しい紫紺の瞳が、ステンドグラスによって輝く光に照らされた。「この夫婦に神の祝福を。」新郎は新婦の顎をそっと優しく持ち上げ、新婦の唇を塞ごうとした。その時、乱暴に礼拝堂の扉が開かれた。「この結婚は間違いです、ルチア様!今すぐお止めください!」唖然とする貴族達を尻目に、婚礼の最中に乱入してきた深緑の軍服を纏った青年が新婦の手を掴んだ。「お止めください、わたくしはあの方の妻となるのです。」「あなたは嘘を吐いている。あなたはその男と結婚したくはない筈だ!」青年はそう叫んで空色の澄んだ瞳で新婦を見つめた。「わたくしは、嘘など吐いておりません。この結婚はわたくしが納得したもの。もう、わたくしのことはお諦めになってくださいませ。」新婦は青年に掴まれた手をそっと離し、新郎の元へと向かった。「ルチア様、あなたはまだお解りにならないのですか!あの男はあなたが欲しいのではない、あなたの国が欲しいだけなのだということを!」青年の言葉を聞いた新婦は、石のように固まった。「この結婚は間違いです!今その男と結婚したらあなたは一生後悔する!」青年は再び新婦の手を掴むと、自分の方へと引き寄せた。「何を言うか、この曲者が!誰か、この者を追い出せ!」憤怒の表情を浮かべた新郎はそう叫ぶと新婦のもう片方の手を掴んだ。「ルチア、そいつと逃げるつもりか?そんな事をしたらお前の国はなくなってしまうぞ。お前の愛するものが全てなくなってしまう。それでいいのか?」新婦の耳元でそう囁く新郎の声は、酷く冷たいものだった。「わたくしは、あなたとは結婚いたしません。」新婦は新郎の手を乱暴に振り払うと、そう言って元来た道を戻った。「許さないぞ、ルチア!一生呪ってやるぞ、蛮族の女め!」青年の手を取った新婦の背に、新郎の怨嗟の声が突き刺さる。しかし彼女は、一度も新郎の方を振り返りはしなかった。「行きましょう、ルチア様。」青年とともに新婦が礼拝堂を出ようとすると、父親と目が合った。「行きなさい、ルチア。お前が望む道へ。」彼はそう小声で新婦を送り出した後、笑みを浮かべた。「許さない、許さないぞ。俺を完全に怒らせたな、ルチア。」婚礼を中断され恥をかかされた新郎は、そう呟くとゆっくりと顔を上げた。「一生呪われてしまうがいい、ローレルよ!神の鉄槌を受けるがいい!」怒りに燃えるラヴェンダーの瞳で新郎の両親を睨みつけてそう言い放つと、新郎は礼拝堂から出て行った。彼が宮殿の外へと出ると、そこには曇天の空が広がっていた。「神よ、あなたまで俺を嘲笑うのか。」曇天の空から、雨粒が落ちてきた。激しい雨の中、新郎はいつまでも狂ったように笑い続けた。にほんブログ村
2012年04月23日
コメント(0)

「目撃者は?」「居ない。現場は人気のない森で、居たのは俺と母上だけだ。それに母上が落馬した騒ぎに乗じて、犯人は現場から逃げ出したんだろう。」「セーラ様、現場に案内してください。何か証拠を残しているのかもしれません。」「そうだな。」すぐさま聖良とリヒャルトは、狩猟場へと向かった。「ここが、母上が襲われた場所だ。」聖良が指した先には、矢で傷ついた木があった。「矢はどんな種類のものですか?洋弓ですか、それとも日本の弓ですか?」「いや、ボウガンだ。素人でも簡単に扱えるものだ。それでも、母上が居た場所と犯人が居た場所の距離はだいたい3メートル前後。鬱蒼と茂った森の中で母上に狙いを定めて射つのは至難の業だ。」「では、弓術に長けている者の犯行でしょうか?」「決めつけるのはまだ早い。さてと、日が暮れる前に犯人につながる証拠でも探すか。」聖良とリヒャルトは手分けして現場周辺を探ってみると、リヒャルトが突然大声を上げた。「どうした?」「セーラ様、こんなものが落ちておりました。」「見せてみろ。」リヒャルトがハンカチで包んで聖良に見せたものは、男物の腕時計だった。ダイヤの文字盤から見て、高級品だと一目で解った。「犯人は男ということですか?ですが、皇妃様のお命を狙う暗殺者なら、このような物を身につけない筈。」「それもそうだな。この事は、お前の父に伝えよう。戻るぞ。」「ええ。」リヒャルトと聖良が狩猟場から去っていくのを、誰かが見ていた。「森で、この時計を見つけたのですか?」「ああ。何か知っていることはあるか?」その夜、聖良はマクダミア邸でリヒャルトの父・ハインツに腕時計を見せると、彼は低く唸った。「そういえば、その時計を嵌めていらっしゃる方を存じております。確か・・アドリアーノ=オージェ殿が・・」「本当ですか、父上?アドリアーノ殿が、この時計を嵌めているのを見たのですか?」「ああ。気障な彼は、全身高級ブランドで固めていてな。サングラスや時計、靴でも高級品しか身につけない性格なんだ。しかし森に何故彼の時計が?もしや、セーラ様はオージェ殿が犯人だと?」「彼は違うだろう。母上から聞いたが、オージェ家の人間は王家を憎むよりも、王家に取り入ろうと必死だ。まぁそのアドリアーノとやらとは面識がないから、奴が何を企んでいるのかは知らんがな。」「アドリアーノは一方的にわたしを憎んでおりました。遠征先では色々と嫌がらせを受けました。」「ほう、面白そうな話だな。夜は長い。リヒャルト、詳しくその話を聞かせてくれるか?」リヒャルトは遠征先でアドリアーノから陰湿な嫌がらせを受けたことを話した。「ふん、そんな器の小さい男は放っておけ。ハインツ殿、この時計は俺が預かっておきます。いざという時の為に。」「何をお考えなのですか?」「それはまだ申し上げる事はできません。夜分遅くにお訪ねして失礼致しました。では俺はこれで。」聖良はそう言ってハインツに頭を下げると、颯爽と愛馬に跨り、マクダミア邸を後にした。「やはり、あのお方がこの国の未来を変えるのか。それまでに、長生きしなければな。」ハインツはそう呟くと、寝室へと戻った。 翌朝、聖良はクララに振袖の着付けを手伝って貰っていた。今日はローゼンシュルツと日本の国交樹立120周年を祝して、王宮庭園内で茶会が行われる予定であった。「良くお似合いですよ、セーラ様。」「そうか。」鏡の前に立った聖良は、真紅の布地に桜と牡丹の模様をあしらった振袖を纏っていた。「さぁ、参りましょう。皆様がお待ちですわ。」にほんブログ村
2012年04月13日
コメント(0)

何者かが放った矢でアンジェリカの馬が興奮して暴れ、彼女は落馬したが、大した怪我ではなかった。「良かったわ、軽いかすり傷でお済みになって。」「ええ、本当に。」アンジェリカ付の女官達はそう言うと、いちように安堵の表情を浮かべた。「まぁあなた方、何をおっしゃるの!もし打ちどころが悪かったら、皇妃様はお亡くなりになられたのかもしれませんのよ!」アグネタは、そう言って聖良を睨んだ。「お前、わたしの所為で母上が怪我をしたとでも言いたいのか?」「そんなことは・・」「わたしが、母上を殺したいとでも思っていると考えているようだな、お前は。だがあれは突然起きたことだ。もし母上が一人で先に森を散策していたら、無事では済まなかっただろうよ。」聖良はそう言っている間、アグネタをじっと見据えていた。「もういいでしょう、セーラ。アグネタ、わたくしは大丈夫なのだからセーラを責めないで。」「申し訳ありません、皇妃様。わたくしはこれで。」アグネタはそそくさと部屋から出て行った。「ふん、気に入らない女だ。家名の威光の陰で尊大な態度を取っている臆病者が。」「セーラ、ごめんなさいね。わたくしの所為であなたにまた辛い思いをさせてしまったわね。」アンジェリカはそう言うと、そっと聖良の手を握った。「では母上、俺はもう行きませんと。」「待って頂戴、セーラ。あなたに渡したいものがあるのよ。」アンジェリカが寝台から降り、宝石箱の蓋を開け、一個の指輪を取り出した。 それは、周りにダイヤが鏤められた、ルビーの指輪だった。「これは?」「この指輪はわたくしの祖母の代から伝わる指輪なの。あなたに、この指輪を贈るわ。」「そんな・・いただけません。」アンジェリカに指輪を返そうとした聖良だったが、彼女は聖良の指にそれを嵌めた。「あなたに持っていて欲しいのよ。わたくし達のことを思い出せないと聞いて、はじめはショックだったけれど、こうしてあなたに会って話しているだけでも幸せなの。記憶は、少しずつ取り戻せばいいわ。」「母上・・」自分を見つめるアンジェリカの瞳は、澄んだ蒼だった。その澄んだ瞳と目が合った時、自分が記憶を失くしてもいなくても、彼女は自分の子として聖良を受け入れてくれるだろうと思った。「ええ、母上。ありがとうございます。」「決して失くさないようにね。」 アンジェリカの部屋から出た聖良が廊下を歩いていると、ディミトリとフリードリヒが何かを話している姿を庭園で見た。さっと柱の陰に身を隠し、聖良が二人の傍に近寄ると、話の内容は解らないものの、フリードリヒはどこか興奮した様子だった。「・・ではフリードリヒ様、わたくしはこれで。」「じゃぁね、ディミトリ。」フリードリヒと別れたディミトリは庭園を後にし、宿舎へと戻っていった。二人が話していると、何か悪だくみをしているのではないかと聖良は思ってしまう。「セーラ様、どうなさいましたか?」「リヒャルト、急に背後に立つな。いつ戻って来たんだ?」聖良が背後を振り返ると、そこには遠征に向かった筈のリヒャルトが立っていた。「先ほど、戻りました。セーラ様、その指輪は皇妃様の?」「ああ、これは母上から譲り受けた。それよりもリヒャルト、報告したい事がある。来い。」「御意。」リヒャルトは真顔でそう言うと、聖良の後を続いた。「それで、お話とは?」「母上が鹿狩りの際、何者かに矢を放たれた。犯人はまだ見つかっていない。」聖良の言葉に、リヒャルトは息を呑んだ。にほんブログ村
2012年04月13日
コメント(0)

「何だよ、あれ。あいつ病気だな。」朝の点呼の後、食堂でルーイはアドリアーノの嫌がらせに憤っていた。「そんなに怒るな。銃剣を隠したのがあいつだという確固たる証拠もないし、感情的になったら相手の思うつぼだ。」「そうだけどさぁ、良くお前平気でいられるな?」「まぁあんな幼稚な嫌がらせ、士官学校でよく遭ったから慣れっこさ。」士官学校で優秀だったリヒャルトは、彼をやっかむ同級生からよく教科書や体操服などを隠された。しかしそんな事にいちいち反応していては相手のレベルに落ちると思い、リヒャルトが無視していると嫌がらせは自然消滅した。「相手と同じレベルに落ちるなと、父から言われたよ。一時の感情で人生を棒に振りたくないからな。」「そうだよな、お前の言う通りだ。」リヒャルトがパスタをフォークに巻いて口に運ぼうとした時、アドリアーノがわざと彼らの居るテーブルにぶつかってきた。「済まん、前を見ていなかった。」そう言った彼の澄ました顔に、リヒャルトはコーヒーを掛けた。「貴様、何をする!」「手が滑りまして。それよりも先ほど閣下があなたの事を呼んでおりましたよ。」アドリアーノの顔が赤くなったり、蒼褪めたりしている内に、リヒャルトはさっさと食堂でベーグルサンドを買い、ルーイとともに出て行った。「さっきのは痛快だったぜ、見たかよあいつの顔!」ルーイは腹を抱えて笑いながら、リヒャルトを見た。「やられっぱなしだと気が済まないからな。それよりも今頃、セーラ様はどうなさっておられるのか・・」彼はベーグルを一口齧りながら、聖良の事に想いを馳せ、空を仰ぎ見た。そこには雲ひとつない青空が広がっていた。 一方、白鳥宮にある王宮図書館で聖良はローゼンシュルツ王国に関する本を読んでいた。実の家族に関しての記憶がなく、この王国の皇太子であるのに自国の事を知らないだけでは済まされない。アグネタのようないけすかない連中に好き放題させてたまるかと、聖良は寝る間も惜しんで歴史や地理の勉強に励んだ。 そんな中、皇妃アンジェリカが主催する鹿狩りに、聖良も招待された。「セーラ様、お気をつけて。」「ありがとう。」乗馬服に身を包み、愛馬に跨った聖良は、自分を心配してくれているクララに微笑むと、彼は厩舎を後にした。「まぁセーラ、乗馬姿がさまになっているわ。」女性用の乗馬服に身を包み、横座りをしているアンジェリカは、聖良の姿に気づいて目を細めた。「ありがとうございます、母上。」「ふん、うわべだけ立派でも、実力が伴っておりませんと皇妃様の足を引っ張るのではないかしら?」従者たちの中で口火を切ったのは、アグネタだった。「ほう、ではお前の腕前を拝見しよう、アグネタ。お前の愛馬がお前の体重に悲鳴を上げる前に。」聖良がそうアグネタに言い返すと、彼女は金魚のように口をパクパクしている姿を従者たちはせせら笑った。「さぁ参りましょう、母上。あの者など放っておいて。」「ええ。」王家の狩猟場は、新緑豊かな森全体だった。「素晴らしい所でしょう、セーラ?ここに来る時は、大抵疲れている時なのよ。」「そうですか。マイナスイオンを浴びて癒されますね。」聖良とアンジェリカが話していると、突然何かが彼らの前を横切った。(何だ?)近くの木に刺さったのは、ボウガンの矢だった。「母上、伏せてください!」「何、一体何が起こったの?」アンジェリカがそう聖良に尋ねた時、矢が彼女の乗っていた馬の足に刺さった。馬は暴れ出し、彼女の身体は宙に舞った。「母上、大丈夫ですか!?」「まぁ皇妃様!大変だわ、誰かお医者様を!」静謐(せいひつ)な狩猟場は、騒然となった。騒ぎに乗じて、1人の青年が森から姿を消したことに、誰も気づかなかった。にほんブログ村
2012年04月13日
コメント(0)

アドリアーノはリヒャルトの腕を掴んで部屋から飛び出すと、彼を突き飛ばした。「何をなさいます。」「うるさい!」彼はそう叫んだかと思うと、リヒャルトに殴りかかろうとした。だがその前に、リヒャルトがアドリアーノに足払いを喰らわせ、彼は地面に倒れた。「突然部屋に押し入ってきて急に殴りかかろうとするなど、紳士にあるまじき行為ですね。理由をお聞かせください。」リヒャルトがそう言ってアドリアーノを睨むと、彼は怒りで顔を赤くしながら何かを喚いた。「お前、わたしを馬鹿にしているのだろう!」「はぁ、何のことでしょう?わたしがいつ、あなたを馬鹿にいたしましたか?そもそも、あなたと会ったのは今回の遠征が初めてです。」「とぼけるな、お前はいつもそうやってわたしを馬鹿にしてきた癖に!」リヒャルトはアドリアーノが何故自分に対して敵意を剥き出しにしているのかが解らなかった。初対面の彼に、一体何の恨みを買ったのだろうか。「失礼、あなたがおっしゃることが理解できません。」「理解できないだと?わたしにあんな屈辱を味あわせておいて、忘れただと!」そうリヒャルトに向かって唾を飛ばすアドリアーノの顔は怒りでますます赤くなり、こめかみの青筋が浮き上がっていた。「一体何の騒ぎだ、こんな夜中に!」アドリアーノの怒鳴り声を聞きつけた上官が二人の元へとやって来ると、彼はじろりとアドリアーノを睨んだ。「申し訳ございません、閣下。お騒がせ致しました。」リヒャルトは上官に頭を下げたが、アドリアーノは尚も意味不明な言葉を喚き立てていた。「こやつはわしに任せておけ。」上官はそう言うなり、アドリアーノの腕を掴んで自分の部屋へと連れて行った。「大丈夫か、リヒャルト?」「ああ。それよりも何故オージェ殿はわたしに対してあんなに怒ってるんだ?」「なんだお前、覚えてないのか?士官学校に居た頃、馬術大会があったじゃん?そのレースであいつ、お前に大負けしたんだよ。それで勝手にあいつが逆恨みしてたんだ。まぁ、あいつは色々とおかしくなってるって聞いてるから、余り気にすんなよ。」ルーイはそう言ってリヒャルトの肩を叩くと、部屋の中へと戻って行った。(逆恨みか・・迷惑な事だ。)士官学校で開催された馬術大会のレースでリヒャルトは優勝したが、その事をアドリアーノが根に持って一方的に自分に対する恨みを募らせているとは、はなはだ迷惑だった。どっと疲れが押し寄せて来て、リヒャルトはベッドに突っ伏すとそのまま眠った。「一体あれは何の真似だ、アドリアーノ!わたしの顔に泥を塗る気か!?」「ですが閣下、あいつの顔を見たでしょう?わたしに屈辱を味あわせておいて飄々とした様子で・・」「いい加減にしろ、昔の事でマクダミアを恨むのは止せ!公私の区別を弁えろと言った筈だぞ!」上官はアドリアーを自室に連れて来るなり、そう言って彼を叱責した。しかしアドリアーノには反省のかけらもなく、上官から叱られているのはリヒャルトの所為だと、ますます彼を恨むようになっていた。 昨夜の騒動やら一夜明け、リヒャルトが起床して軍服に袖を通そうとした時、装備していた銃剣がないことに気づいた。「どうしたんだよ?」「わたしの銃剣を知らないか?部屋に入った時にクローゼットに立て掛けておいたんだが・・」「紛失したのか?ちゃんと置いてある所を俺は見たよ。一緒に探そうぜ!」朝の点呼が近づく中、ルーイとともにリヒャルトは銃剣を探したが、部屋の何処にもそれらしきものはなかった。「どうした、朝寝坊とは感心せんな?」「申し訳ありません。」集合時間に遅れたリヒャルトを、アドリアーノは嬉々とした様子で見た。彼と目が合った時、自分の銃剣を隠したのは彼だとリヒャルトは勘で解った。にほんブログ村
2012年04月13日
コメント(0)

「セーラ様にお会いできると言って来たのに・・これは一体どういうことだ!?」「申し訳ございません、伯爵・・」 聖良がアグネタの主催する茶会が開かれている部屋から出て行った数分後、彼女は激怒したアランデル伯爵から怒鳴られていた。「どうお前のことだ、セーラ様につまらぬ嫌がらせをしたのだろう?」「そんな・・」「このわたしを甘く見ない方が良いぞ、アグネタよ。お前がこの王宮で何人もの女を闇に葬ってきたかを、わたしは良く知っているのだからな!」足音荒く伯爵が部屋を出て行くのを黙って見送ったアグネタの顔は、病人のように蒼褪めていた。「リヒャルト、誰かと思ったらリヒャルトじゃないか?」遠征先の宿舎で突然肩を叩かれたリヒャルトが振り向くと、そこには士官学校で同期だった男が立っていた。「久しぶりだなぁ。お前日本に行っていたとか聞いたけど、大変だっただろう?」「まぁな。」「なぁ、聞いたか?遠征の指揮を取るのはアドリアーノ=オージェだってさ。」「ふぅん・・」同期というだけで、自分に対して馴れ馴れしい態度を取っている男にうんざりしていた時、突然リヒャルト達の前に純白の軍服を纏った男が現れた。「全員整列!」純白の軍服を纏った男は、鷲を連想させるような鋭い目で整列している兵士達を睥睨した。 彼の名はアドリアーノ=オージェ、ローゼンシュルツ王家に代々仕えている貴族でもある。アドリアーノは、リヒャルトの姿を見て顔を顰めると、彼の元へと向かった。「リヒャルト=マクダミアだな?」「はい。何でありましょうか?」リヒャルトがそう言ってアドリアーノを見ると、彼はいきなりリヒャルトの横っ面を張った。「おい、大丈夫か!?」慌ててリヒャルトの隣に立っていた男が地面に倒れた彼を抱き起こそうとしたが、アドリアーノがそれを手で制した。「上官に向かって何だその口の利き方は?うちの家が金で爵位を買ったなりあがり者だからと馬鹿にしているのか?」「いえ、そのつもりはありません。」「ふん。」アドリアーノはリヒャルトの答えに満足したのか、彼に背を向けた。「リヒャルト、あいつには気をつけたほうがいいぜ。」その夜、宿舎の部屋で同室となったのは、地面に倒れたリヒャルトを抱き起こそうとしてくれた男―ルーイだった。「気をつけろって、何をだ?」「アドリアーノはさぁ、お前に妬いてんだよ。まぁあいつも一応貴族だけど、家柄が悪いとか色々と周囲に言われてさぁ。その上お前と比べられてたから・・」「そんなことがあったのか。」士官学校に居た頃、周囲でそんなことがあったことをリヒャルトは初めて知った。勉強や鍛錬漬けの生活を送っていて、自分の部屋に籠もりきりだった所為もあり、同級生達との人間関係は余り把握していなかった。「まぁアドリアーノには気をつけた方がいいぜ。あいつお前を目の敵にしてるからな。何かあってからじゃ遅いからさ。」「そうか。」リヒャルトがスタンドのスイッチを消して眠っていると、突然ドアが激しく誰かにノックされた。「なんだよ、こんな時間に・・」ルーイがあくびを噛み殺しながらドアを開けると、不機嫌な顔をしたアドリアーノが立っていた。「リヒャルト=マクダミア、来い!」「こんな夜中に如何されたのですか?」「いいから来るんだ!」 アドリアーノは苛立った様子でずかずかと部屋の中に入るなり、リヒャルトの腕を掴んで外へと連れ出した。にほんブログ村
2012年04月13日
コメント(0)

「クララ、あの者達は我が物顔で宮廷を歩いているが、そんなに偉いのか?」「あぁ、アグネタ様達のことですね?あの方達は王家に近い血をひく名家の者達で、宮廷内から一目置かれている存在なのです。なので、女官達は自然に彼女達に従うことが暗黙の掟となりつつあるのです。」「ふぅん、そうなのか。何とも馬鹿げた掟だな。」聖良はそう言うと、コーヒーを一口飲んで溜息を吐いた。あのアグネタとかいう女は、自分を全く歓迎していない上に敵意を抱いている。「クララ、俺は滅多に争い事は好まない。だが売られた喧嘩は必ず買って勝つ。あのアグネタとかいう女、親の七光りで偉そうに振る舞っているんだろうが、俺の方が自分よりも立場が上だということを思い知らせてやろうじゃないか。」そう言った彼の蒼い瞳が、闘志で輝いた。 朝食を食べ終えた聖良が身支度を終えて部屋から出てくると、軍服姿の一団が聖良の前を通り過ぎた。その中には、リヒャルトも居た。「リヒャルト!」「セーラ様、おはようございます。」聖良に気づいたリヒャルトは、そう言って彼に手を振った。「どうしたんだ、こんなに朝早くから。何処かへ出掛けるのか?」「ええ、急な遠征が入りまして。戻るのは一週間後になります。セーラ様、わたくしが居ない間にくれぐれも・・」「解ってるよ、気を付けろよ、お前こそ。」「では、行って参ります。」リヒャルトは聖良に頭を下げると、聖良に背を向けて歩き出した。「リヒャルト様とお知り合いなのですか、セーラ様?」「まぁな。彼は俺のことを色々と助けてくれたよ。それにしても急な遠征だなんて、あいつも忙しいんだな。」聖良はそう言うと、クララとともにその場を後にした。「何よあの方、リヒャルト様と親しそうに・・」「仕方ないじゃありませんか、リヒャルト様はセーラ様とは旧知の仲なのですから。」「それでも、許せませんわ!」先ほどのリヒャルトと聖良との会話を聞いていた令嬢たちが扇子の陰でひそひそと囁きを交わしながら聖良を睨みつけた。「セーラ様、急ぎませんと。」「わかってるって。それにしても、布が足にまとわりついて走り難いな・・」聖良はドレスの裾を摘みながら、アグネタ主催のお茶会へと向かった。自分を憎んでいる相手のお茶会へと行きたくないと思った聖良だが、宮廷内の実力者というべき彼女を皇太子である自分が無視することはできなかった。「まぁセーラ様、いらしてくださっただなんて。」アグネタはそう言って聖良に笑顔を浮かべてはいたものの、目が笑っていなかった。これは何かあるなと聖良が警戒していると、案の定案内された席には誰かが使った皿とティーカップが置いてあった。「申し訳ありません、セーラ様。突然お茶会を開くことになったものですから、食器の用意ができておりませんの・・」申し訳なさそうな顔をしているアグネタだったが、取り巻きたちと視線を交わし合っているのを聖良は見逃さなかった。(すぐにバレそうな嫌がらせをするなんて・・)「まぁ、それは大変だったな。アグネタ、お前はこの宮廷の女官達を統括していると聞いたが、そんなお前がこんなミスをするなんて信じられんなぁ。」「まぁ・・」「一度だけならいいがな。二度目はないと思え。」アグネタの意地の悪い笑みが、少し恐怖に引きつるのを見た聖良は椅子から立ち上がった。「さてと、わたしはこれで失礼しよう。お前は“お友達”と人の噂話で盛り上がるといいさ。」「そんな・・お待ちください、セーラ様!もうじきアランデル伯爵がいらっしゃるというのに!」「そんなの、俺が知ったことではない。」アグネタ達の元を去った聖良に対し、クララは微笑んだ。「お見事でしたわ、セーラ様。」 リシャーム王国の後宮で第二王妃・シェーラから受けた洗礼に比べれば、アグネタの嫌がらせなど小学生の悪戯程度でしかなかった。にほんブログ村
2012年04月13日
コメント(0)

「おはようございます、セーラ様。」「ん・・」 翌朝、聖良が目を開けると、女官の手によってひかれたカーテンの隙間から朝日が射し込んできた。「昨夜は良く眠られましたか?」そう言って女官が聖良を見て微笑んだ。彼女は昨夜、自分の身支度を手伝ってくれた者だった。「まぁな。それよりもお前は?」「わたくしはクララと申します。今後セーラ様にお仕えいたしますので、お見知りおきを。」そう自己紹介した女官は、優雅にドレスの端を摘んで腰を折った宮廷式の挨拶をした。「こちらこそ宜しく。早速だがクララ、この宮廷の事を教えてくれないか?皇太子と言っても、俺には・・」「その事についてはリヒャルト様から聞き及んでおります。」聖良の事情を知っているクララは、そう言って聖良に微笑んだ。「朝食はいかがなされますか?」「部屋に運んで来てくれないか?リヒャルトと少し話がしたい。」「かしこまりました。では失礼致します。」クララは部屋から下がる時に一礼し、彼女が居なくなると急に部屋は静寂に包まれた。(落ち着かないな・・)皇太子の部屋だけあって、今聖良が身を横たえている寝台も、内装の壁紙や家具に至るまで、一流の職人の手で作られた最高級品ばかりだ。今まで「白百合の家」の二段ベッドで寝ていた聖良にとって、こんなに贅を尽くした寝室で朝を迎える事は、初めての経験であった。(サリーシャに、会いたいな。)リシェームの後宮で囚われていた時、自分を何かと気遣ってくれ、心から尽くしてくれた侍女の姿を、自然と聖良は探してしまう。ここには彼女が居ない事を知りながら。「セーラ様、失礼致します。」聖良が溜息を吐きながらリシャドから贈られた黒真珠のペンダントを指先で弄っていると、扉の向こうで声がした。その声は、クララのものではなかった。「誰だ?」「失礼致します。」聖良の了解なしに、数人の女官達がずかずかと寝室へと入って来た。「俺はまだ入ってもいいと言ってはいないぞ?相手の了解も得ずに寝室に入るとは・・これがここでのやり方か?」聖良がそう言って女官達を睨み付けると、彼女達の中から一人の女性がすっと歩み出てきた。年は40代半ばといったところだろうか、長い髪を髷のようにひっつめて結いあげ、翠の双眸で聖良を見つめるその姿は、何処となく厳格な雰囲気を醸し出している。「お前は?」「お初にお目にかかります、セーラ様。わたくしはアグネタ=フロイハイシェンと申します。後ろに居る女達はわたくしが統括している女官達です。」自分を歓迎していないのはフリードリヒだけではないと、この時聖良はアグネタの好戦的な視線を見て解った。「ほう、わざわざこんな朝早くに俺に挨拶に来るとは・・アグネタとやら、何か言いたい事があるのなら言ったらどうだ?」「では言わせていただきますが、セーラ様はこの国をお捨てになられ、今まで能天気に日本でお暮らしになっておられたとか?」「能天気、ね・・」そんな悪意ある噂を広めたのは、他ならぬアグネタだろう。それを知っていて、わざと聖良に意地悪な質問をぶつけた彼女に対して聖良の中で敵愾心が燃え上がった。「宮廷とは、何処の国に於いても暇を恐れる愚かな人間が居るようだな。もう下がれ。」「まだ質問に答えておりませんよ?」「俺は下がれと言った筈だ。どちらの立場が上か、解っているな?」聖良の言葉にアグネタの顔が怒りで赤くなり、憤然とした様子で寝室から去って行った。「セーラ様、朝食をお持ちいたしました。」にほんブログ村
2012年04月13日
コメント(0)

「俺の顔に何かついているか?」「別に。」 聖良がそう言ってフリードリヒを見ると、彼は不貞腐れた顔でそう答えて聖良にそっぽを向いた。「フリードリヒ、お兄様に何て口の利き方をなさるの、お兄様に謝りなさい!」フリードリヒの態度をすぐさまアンジェリカが厳しく叱責すると、彼は乱暴に椅子を引いて立ち上がり、ダイニングから出て行ってしまった。「セーラ、ごめんなさいね。あの子は最近いつもああなのよ。気に入らないことがあるとすぐに癇癪を起こして。困った子だわ。」「いいえ、お気になさらず。フリードリヒも突然俺が現れて戸惑っているんでしょう。」聖良はそう言って両親の前で笑顔を浮かべたが、憎悪の視線を去り際に投げつけたフリードリヒの事が気になった。「さぁ、今夜はあなたの為にご馳走を用意したのよ。」「ありがとうございます、母上。」実の両親との22年振りの再会を果たし、聖良は彼らと和気藹藹とした雰囲気で夕食を食べた。 ダイニングを飛び出したフリードリヒは、宮殿内にある教会に来ていた。 信徒席に座り、イエス=キリストの生涯を描いたステンドグラスを眺めながら、彼は亡き姉・マリアの事を想った。(姉様はあいつに殺されたのも同然だ。)病弱で役立たずの自分を、何かと庇ってくれた姉。自分の陰口を叩いている女官達を叱り飛ばしてくれた姉。フリードリヒにとって、姉は自分を照らす太陽のような存在であった。だが、その姉はもう居ない。(姉様、どうして僕を置いて死んでしまったの?僕はこれから、どうやって生きて行けばいいの?)「フリードリヒ様、こんな所に居ては風邪を召されますよ。」突然肩に柔らかいものが掛けられた感触がしてフリードリヒが振り向くと、そこにはディミトリが立っていた。「僕の事は放っておいてよ。今は誰とも話したくないんだ。」「セーラ様の事が、気になられるのですね?」フリードリヒの顔を覗きこんだディミトリの、淡褐色の瞳が怪しい光を宿した。「ねぇディミトリ、何であいつは突然僕達の前に現れたの?」「それは、陛下と皇妃様がお望みになられたことだからですよ。お二人はセーラ様のお帰りを誰よりも待ち望んでおりましたから。」「でもあいつ、お父様達の記憶を失っているんだよ?そんな奴が次期皇帝になるだなんて、認めない。」「ご家族の記憶をセーラ様が失っていらっしゃると?それは本当なのですか?」フリードリヒが頷くと、ディミトリは大袈裟なしぐさで手に胸を当て、天を仰いだ。「嗚呼、何ということでしょう!皇太子様が記憶を失っていらっしゃるなんて!こんな事が世間に知られでもしたらどうなることでしょう!」フリードリヒはディミトリの臭い演技を醒めた目で見ていた。「ディミトリ、何か企んでいるんだろう?」「おや、フリードリヒ様は読心術をお持ちのようで。」ディミトリはすっと胸から手を下ろし、嫣然とした笑みをフリードリヒに向けた。「ねぇ、良かったら僕にも教えてくれない?僕の前から姉様を奪ったあいつを宮廷から追い出す方法を。」「フリードリヒ様にだけ、わたくしの考えをお教えいたしましょう。いいですか、これはご自分の胸に収めておいてくださいませね?」ディミトリはフリードリヒの耳元に艶やかな唇を寄せると、何かを彼に囁いた。「ふぅん、いい考えだね。」フリードリヒは、祭壇の背後に飾られた幼子キリストを抱く聖母マリアが描かれているステンドグラスを見つめた。月光がステンドグラスに射し込み、フリードリヒの真紅の瞳を緋に染めた。「ねぇディミトリ、ひとつ聞きたいことがあるんだけど。」「何でございましょう?」「お前は、僕を・・必要としてくれている?」「勿論でございますとも、フリードリヒ様。」そう言ったディミトリの、我欲に塗れた顔を背を向けていたフリードリヒは見る事が出来なかった。にほんブログ村
2012年04月13日
コメント(0)

アンジェリカは、自分の目の前に立っている青年を見つめた。「あなたは、本当にセーラなの?」「はい、母上。」聖良はアンジェリカの手に、短剣を載せた。「これは・・あなたが日本に行く際、あなたの養父に託したもの・・」アンジェリカは過去の辛い記憶を思い出した。内戦勃発から数ヵ月後、王宮にその戦火が徐々に迫りつつある中、自らの保身に走った貴族達は王家を捨て、海外へと次々と逃亡した。『皇妃様、酷なようですが、セーラ様を海外へ亡命させてはいかがでしょう?皇太子様はいずれこの国を担う方です。』ハインツに説得され、アンジェリカは日本人神父・セイタ=タチバナに聖良を託し、断腸の思いで幼い我が子と別れた。(必ず会えますからね、セーラ。主の御加護がある限り、わたくし達は再び会えます。)養父の手をひき、去ってゆく幼子の背中にアンジェリカは涙を流して語りかけた。その生き別れた息子が、今目の前に居る。「セーラ、わたくしの息子・・」アンジェリカはそう言うと、そっと聖良の頬を撫でた。「こんなに大きくなって・・別れた時はまだ幼かったのに・・」(主よ、感謝いたします。わたくし達母子を再び巡り会わせてくださったことを。) 両親との再会を果たした聖良は、通された部屋の寝台に腰を下ろし、深い溜息を吐いた。「セーラ様、入ってもよろしいでしょうか?」「ああ、いいぞ。」「失礼致します。」部屋に入って来たリヒャルトは、初めて会った時と同じ漆黒のスーツを着ていた。「父上と母上は?」「陛下と皇妃様はダイニングにてお待ちです。お支度を。」「解った。」「セーラ様、失礼致します。お召し替えを。」数人の女官達が部屋に入って来ると、リヒャルトは聖良に頭を下げて部屋から辞した。「おや、これはどなたかと思いましたら、リヒャルト=マクダミア様ではありませんか?」リヒャルトが廊下を歩いていると、漆黒の僧衣の裾を翻しながらディミトリが話しかけてきた。彼の姿を見た途端、リヒャルトの美しい顔が嫌悪に歪んだ。「貴様、ここで何をしている?」「別に何も。ああそれより、セーラ様がお帰りになられたとか?フリードリヒ様は、少し不安になっておられるようですよ。」「不安?実の兄との対面が、フリードリヒ様のお心を掻き乱すことがあるのか?」リヒャルトがディミトリの言葉に引っ掛かりを感じ、そう言って彼を睨み付けると、彼は悠然とした笑みを口元に浮かべていた。「お解りになられませんか、リヒャルト殿。セーラ様がいらっしゃらなければ、この国を担うのはフリードリヒ様の筈。フリードリヒ様はご自分が次期皇帝になるのだという思いから、スポーツや勉学に励まれ、漸く周囲からその存在を認められ始めたのですよ。それなのに、セーラ様がお帰りになられるとは・・」要するに、フリードリヒとディミトリは聖良を歓迎していないのだ。フリードリヒは今まで皇太子である聖良と、姉皇女・マリアの陰に隠れて生きてきた。だがディミトリに嗾(けしか)けられ、次期皇帝としての実力を周囲に認めさせようとして躍起になっている中での皇太子の帰国は、フリードリヒにとっては脅威以外の何物でもなかった。「わざわざ忠告してくれて、感謝する。」リヒャルトはそれだけ言うと、ディミトリに背を向けて歩き始めた。 陰謀渦巻くローゼンシュルツ宮廷でのリヒャルトと聖良との戦いが、静かに始まろうとしていた。 一方ダイニングに入った聖良は、自分を憎悪の瞳で見つめる第2皇子・フリードリヒに気づいた。にほんブログ村
2012年04月13日
コメント(2)
「こちらでございます、セーラ様。お足もとにお気をつけて。」ハインツのエスコートにより、聖良は白鳥宮の中へと入った。 600年もの長きに渡って栄華を誇ってきた王家だけあり、宮殿の天井には天使の美しい壁画が描かれており、そこからは光が射し込んで白亜の柱を照らした。「陛下があちらのお部屋でお待ちです。」「わかった・・」いよいよだ。20年以上も離れて暮らしていた実の父、ローゼンシュルツ王国皇帝との対面を前に、聖良は緊張の所為で顔が強張っていた。「セーラ様、肩のお力を抜いてください。」「わ、わかってるが・・息が苦しくなってきた・・」リヒャルトは苦笑すると、そっと聖良の項にキスをした。「今のは?」「元気になるお呪いです。」そう言って自分に微笑むリヒャルトの笑顔を見て、緊張していた聖良の心が少し安らいだ。「陛下、セーラ様が・・」「入れ。」扉の向こうから厳めしい声が聞こえたかと思うと、急に扉が開き、真紅の絨毯の向こうにある玉座には、軍服に身を包んだ皇帝が座っていた。「お初にお目にかかります、皇帝陛下・・」「そんなに堅苦しい他人行儀な言い方をするでない。近う寄れ、セーラ。そなたの顔が見たい。」「は、はぁ・・」聖良がドレスの裾を摘みながら玉座に近づくと、彼は聖良の前に跪いた。「陛下、なりませぬ!」慌てて皇帝の側近が彼を止めようとしたが、皇帝はそれを制した。「顔を見せよ。」ゆっくりと聖良が俯いていた顔を上げると、そこには真紅の双眸で自分を見つめる皇帝アルフリートの姿があった。「セーラ、会いたかった・・」アルフリートは涙を流しながら、20年以上離ればなれとなっていた息子の頬を撫でた。「あの・・いかがされたのですか?」「セーラ、少しお願いがあるのじゃ。」「何でしょうか?」「わたしのことを父と呼んでくれぬか?」突然の皇帝の申し出に聖良は戸惑ったが、アルフリートに向かって微笑むと、こう言った。「ただいま戻りました、父上。」「セーラ!」これまで必死に堪えてきた感情を押さえることが出来ずに、アルフリートは聖良を離れていた22年間の想いを込めて、強く抱き締めた。「ち、父上、苦しいです・・」「す、済まぬ・・そなたに会えて嬉しかったものだから、つい力を込めてしまった。」「父上、わたしはもう何処かへ消えたりはいたしませんから、安心してください。」「そうか・・」22年もの長い歳月を経て、聖良は漸く実父・アルフリートとの再会を果たした。「皇妃様はどちらに?」「アンジェリカは数ヶ月前から床に臥せっていてな。お前が死んだというデマを聞いてからは、部屋に籠もりきりになってしまって・・」「母上は、お部屋ですか?」「ああ。顔を見せてやってくれ。」「解りました。それでは父上、失礼致します。」謁見の間から出て行った聖良は、リヒャルトとともに皇妃の部屋へと向かった。「皇妃様、セーラ様が・・」「あの子は死んだのでしょう、嘘を吐かないで。」「いいえ、わたしは死んでなどおりません、母上。」聖良がそう言って扉を開けると、寝台には蒼褪めた顔の皇妃・アンジェリカが驚愕の表情を浮かべて彼を見ていた。「セーラ・・あなたは本当にセーラなの?」「はい、母上。」聖良は寝台に近づくと、そっとアンジェリカの手を握った。
2012年04月13日
コメント(0)
あれは揚羽が京に来てまだ間もない春の日の事だった。人見知りが激しく、部屋に籠りきりな彼を案じた桂が、揚羽達を連れて花見へと誘った。その中には英人も含まれていた。花見弁当を広げ、酒を自分達と酌み交わしている桂の隣に座っていた英人の金色の髪は、春の陽光に美しく煌めいていた。 自分よりも数歳違いのこの少年を、桂が寵愛していることが揚羽達はすぐに解った。桂は必ず英人が何か話しかけると笑顔を浮かべ、それに答えるし、英人が桂の猪口に酒を注ぐとそれを嬉しそうに受けている。そんな2人の仲睦まじい様子を、桂に出会ってから彼に心酔している揚羽は苦々しい思いで見ていた。「何故あいつは桂さんと親しくなさっているのですか?」「ああ、正村の事か? 何でも桂さんがまだ萩に居た頃、道端で行き倒れになりそうになったのを桂さんが拾ったらしい。桂さんは正村の事を実の弟のように可愛がっているのさ。」揚羽の問いに、藩士の1人は揶揄したような口調で答えた。その言葉が何を含んでいるのか、揚羽はまだ判らなかった。 花見から長州藩邸へと戻り、揚羽達はそれぞれ自分の部屋へと引き上げていったが、英人の姿は何処にも見当たらない。一体何処へ行ったのだろうか―揚羽がそう思いながら桂の部屋の前を通った時、中からくぐもった声が聞こえた。「あ・・いやぁ・・」「何が嫌なんだ、英人?」恐ろしいほど冷淡な桂の声を初めて聞いた揚羽は、その場から動く事ができなかった。彼はそっと障子に穴を開け、中の様子を覗いた。するとそこには、英人を組み敷いている桂の姿があった。(桂さん・・)揚羽が初めて見た、師の知らない顔。桂は、英人を抱きながらちらりと揚羽が居る廊下を見た。その時の彼の目は、欲望に滾っていた。“桂さんは正村の事を実の弟のように可愛がっているのさ”あの藩士が放った言葉の意味を、揚羽は漸く知った。桂と英人は義兄弟以上の関係なのだ。それを自分以外の藩士達は知っていた。(どうして・・桂さんは、あんな奴に!)何故あんな、道端で拾っただけの奴に、桂は愛しているのだろう。その謎は、生まれ変わった今も解らずにいる。「揚羽、どうしたんだ?」「別に。」「昨日からお前おかしいぞ? あの正英っていう奴と会ってからずっと。」行きつけのファストフード店でポテトを頬張りながら、親友はそう言って揚羽を見た。「ああ。あいつとは初対面じゃないような気がするんだよ。」「へぇ、そうなの? にしてもあいつ、綺麗な上に強いよな? 誰かに言い寄られたりしてないのかねぇ。」「居るんじゃない、1人や2人くらい。」投げ遣りな口調で揚羽はポテトを頬張った。 同じ頃、土原歳介とその恋人、沖原総太は都内某所にあるビュッフェレストランで食事をしていた。「総太、お前食べすぎだぞ。」「いいじゃないですかぁ~、そんな細かい事気にするなんて、歳さんらしくな~い!」総太はそう言って笑うと、皿に次々と料理をバランスよく盛っていった。「ねぇ憶えてます? 昔京でわたしが食べ過ぎた時、歳さん食べ過ぎだっていつもわたしに怒ってたでしょう? でもわたしが労咳に罹った時は、“もっと食べろ”って言って・・どっちなんだろうと思ってましたよ・・」総太は遥か昔の事を思い出しながら、歳介を見た。「今になっては懐かしい笑い話になったな。でもあいつは・・正英達は・・」「酷ですよね、一方は前世の記憶を憶えていながら、もう一方は全く憶えていないなんて。あんな、あんな悲しい別れ方をして・・」「そうだよな。でも俺らにはどうすることも出来ねぇ。しけた面するんじゃねぇ、総司。もっと食え!」「もう、また昔みたいな事を言って・・」鈴の音を転がすような笑い声を上げ、総太は恋人と楽しいひと時を過ごした。いつか華凛が、自分達と同じように高史と笑い会える日が来ることを、彼は密かに祈った。
2012年04月12日
コメント(0)
「なんだよ、お前ら?」修祐がそう言って生徒達を睨むと、彼らは視線を華凛へと向けた。「お前が、正英華凛?」数人の内で背が低い金メッシュの生徒がそう言って華凛を睨みつけた。「そうだけど。お前は?」「あんたか、桂さんをここから追い出したのは?」「橘先生は学校を追い出されるような事をしたんだから、当然だろ! お前ら、華凛に何の用だよ!」「あんた、桂さんに何の恨みがあるんだよ?」金メッシュの生徒は憎しみに滾った目で華凛を睨みつけたまま、彼の胸を押した。「別に。」華凛はすっと彼の横を通り抜け、教室から出て行った。「ったく、あいつなんなんだよ。わけわかんねぇし。」「放っておこう。」道場の更衣室で袴に着替えながら、修祐はぶつぶつと金メッシュの生徒に対して文句を言っていた。(あいつ、桂さんって言ってたな・・)華凛にとって橘桂檎は昔世話になった“桂”さんだが、あの金メッシュの生徒にとっては知り合いも何でもない筈だ。それなのに彼は、“桂さん”と呼んだ。彼は一体何者なのか。「華凛?」「あ、ごめん。先行ってて。」「うん・・」長州藩士は星の数ほど居たし、彼もその中の1人だったのかもしれない。華凛は袴の紐を締めると、更衣室から出た。「正英、遅ぇぞ。」「すいません。」土原にジロリと睨まれ、華凛は慌てて彼に頭を下げて修祐の隣に座った。「今日は中等部から刺客が来た。心してかかれよ!」「はい!」時折中等部の剣道部員達が“道場破り”と称して高等部の剣道部に殴りこみに来る事があり、華凛達1年は最初戸惑ったが、今となってはすっかり慣れっこになっていた。「すいません、遅くなりましたぁ。」背後から声が聞こえたので華凛達が振り向くと、そこにはあの金メッシュの生徒達がいた。(あいつら、さっきの!)華凛と修祐は思わず顔を見合わせた。「あ、さっきの。」金メッシュの生徒が馴れ馴れしく華凛に話しかけて来た。「吉田、知ってるのか?」「ええ。先生、彼と手合わせ願いたいんですが、宜しいですかね?」「ああ、いいぞ。」土原からそう言われた途端、金メッシュの生徒は口端を上げて笑った。「初めまして、吉田揚羽(あげは)です。宜しく、先輩。」そう言って自分に差し出した彼の手を、華凛はどうしても握る事が出来なかった。向こうも華凛が自分に好意を抱かないことに気づいたのだろう、すぐに手を引っ込めると、壁際に置かれていた面を付ける為に華凛に背を向けた。「始め!」土原が手刀を切った途端、揚羽が果敢に攻めてきた。彼の攻撃をかわしながら、華凛は彼に強烈な突きを喰らわせた。「一本、正英!」揚羽は悔しそうに舌打ちすると、再び竹刀を構えて華凛へと突進した。華凛は揚羽の隙を突いて彼の市内に胴を打ち込んだ。「一本、正英!」「くっそぅ・・」ギリギリと悔しそうに唇を噛み締めながら、揚羽は恐ろしい形相を浮かべながら華凛を睨んでいた。その瞳には、華凛―英人への憎しみが激しく滾っていた。(正村英人・・俺から桂さんを奪った泥棒猫!)揚羽の脳裡に、遠い昔のとある風景が浮かんだ。師と慕い、桂の為なら命を預けても良いと思っていたあの頃、彼は見てしまった。英人を―目の前で顧問と話している少年を、桂が組み敷いているところを。その時の桂の、嬉しそうな顔が今となっても忘れられない。
2012年04月12日
コメント(0)
「ただいま。」父とともに華凛が帰宅すると、家政婦の菊が玄関先でいつものように温かく迎えてくれた。「お帰りなさいませ、華凛坊ちゃま、旦那様。」「真那美の世話をお願いしちゃってごめんね、菊さん。忙しいのに。」「いえいえ、実の孫娘のように真那美ちゃんのお世話をさせていただきましたよ。外は暑かったでしょう? 今日は素麺(そうめん)に致しましたよ。」「ありがとう、菊さん、気が利くね。」華凛の言葉に、菊は満面の笑顔を浮かべた。 ダイニングに入り、菊達と夕食を取った華凛は、脩平が熱中症に倒れそうになった事を話すと、不安そうに菊は脩平を見た。「旦那様、余り無理されないようにしてくださいよ? 旦那様の身に何かあったら、わたくしは生きた心地が致しません。」「心配させて済まないね、菊さん。これからは水分補給に気をつけるよ。」脩平はそう言うと、菊を見た。「坊ちゃまも、最近真那美ちゃんの育児や芸事のお稽古の上に塾や夏祭りの準備と色々とお忙しいのですから、余り無理されませんように。」「解っているよ、菊さん。」菊の言葉に華凛は素直に頷いた。 物心ついた頃から正英家の家政婦として働いている菊の存在は、華凛からすればまるで実の祖母のような存在であった。脩平の両親は華凛の兄・寿輝が小学校低学年の時に亡くなったので、華凛は祖父母の顔を知らずに育った。菊は多忙な脩平に代わり、母・百合子の死後、華凛を実の息子のように、孫のように慈しんで育ててきた。金髪に濃紺の瞳といった容姿の所為でいじめにも遭った辛い時期には、何度菊の胸で泣いたか知れない。その時も、菊は何も言わずに華凛を抱き締めてくれた。血は繋がっていなくても、華凛達にとって菊は家族同然の存在だった。「菊さん、それは俺がやるよ。」「まぁ、すいません。」菊と共に皿洗いをしながら、華凛は最近夏祭りの会合で顔見知りになった若いママ友グループとの関係に悩んでいることを話した。「人っていうものは様々な方がいらっしゃいますからね。わたくしのように親身に人の話を聞く方もいれば、人の粗さがしをなさる方もいらっしゃいます。人それぞれ考え方も違うのですから、上手くいかないというのは当たり前でしょう?」「そうかな。彼女達も周りから色々と言われて大変だと思うけど、どうして自分の考えを俺に押し付けようとするのかが解らないんだ。」「坊ちゃま・・」「愚痴ばかり吐いていたら、気持ちが沈んじゃう。もう寝るね。」「お休みなさいませ。」華凛は浴室に入り、頭から冷たい水を浴びた。汗と鬱々とした気分を排水口に流すと、華凛は浴衣を着て部屋に入りベッドで横になり、目を閉じた。 明日は登校日だ。進学コースには在籍はしていない華凛だったが、剣道部の朝練は1学期終業式の翌朝から始まるので、休みなどないに等しかった。それに部活が終わった後は、夏祭りの会合がある。あのママ友グループと顔を合わさずに済むと思うと少し気が楽になったが、彼女達とどう距離を置いて付き合えばいいのかが解らず、華凛は少し悩んでいた。「おはよう。」「おはよう。」翌朝、制服姿で華凛は聖ステファノ学院の校門をくぐった。修祐の顔を見た華凛は、ほっとして教室へと入った。「華凛、最近どう?」「夏祭りの準備に姪っ子の育児、部活に芸事の稽古で毎日目が回る程忙しいよ。全部終わったらベッドで寝るしかできない。修祐は?」華凛がそう言って友人にそう尋ねると、彼の屈託のない笑顔が急に曇った。「今はちょっと言えないから、部活始まる前でいいか?」「ああ、いいけど・・」(何か、あったのかな?)いつもは見せない暗い表情を浮かべる修祐に、華凛は何かを感じていた。 登校日ということもあってか、担任のHRが終わるや否や帰宅部の連中はそそくさと教室から出て行った。「俺らも行くか。」「うん。」華凛と修祐が剣道部の練習場となっている道場へと向かおうと教室から出ようとした時、突然数人の生徒が入って来た。
2012年04月12日
コメント(0)
数日後の日曜日。華凛は夏祭りの会合に出席したが、そこにはあの母親達の姿がなかった。「華凛ちゃん、こんにちは。」西田さんがそう言って華凛に微笑んだ。「西田さん、こんにちは。あの人達、いませんね?」「ああ、あの人達なんでもハワイに行っているらしいわよ。最初から夏祭りに参加する気がないんでしょうね。」西田さんは溜息を吐きながらいつものように若者批判を始めるのを華凛は黙って聞いていた。「それにしても華凛ちゃん、今日はいつもより綺麗な着物着てるわねぇ。」「今日は久しぶりに父と映画鑑賞するんです。」「そう。真那美ちゃんの育児で毎日大変そうだし、たまには息抜きしないとね。」西田さんはそう言うとにっこりと笑った。会合が終わると、夏祭りの準備に取り掛からないといけない。毎年やっていることでもう慣れてはいるが、今年は真那美の育児や稽古事が重複する為か、屋台のメニュー表を作ったり、ポスターを作るだけでも疲れてしまう。「華凛ちゃん、後はあたし達がやっとくから、お父さんと楽しんでいらっしゃい。」大田さんがそう言って華凛に冷えたミネラルウォーターのペットボトルを差し出した。「ありがとうございます。」華凛は大田さん達に頭を下げると、父との待ち合わせ場所へと向かった。「父さん。」「おお、早かったな。」待ち合わせ場所のバス停に行くと、父は華凛を見てそう言うと微笑んだ。「真那美は菊さんに任せてある。今日は楽しもう。」「ええ。」やがてバスが来て、2人はそれに乗り込んだ。「父さんと2人きりで出かけるなんてこと、久しぶりですね。」「ああ、そうだな。それよりも華凛、鈴久さんとの旅行、楽しんでこいよ。」「ええ。」華凛はそう言うと、父の手をそっと握った。その後2人は電車で繁華街へと向かった。「最近暑いですね。」「ああ。」脩平は滝のように流れる汗をこまめにハンカチで拭っていた。電車から降りて映画館へと向かうと、そこは家族連れやカップルで賑わっていた。「何か飲み物でも買ってきます。」チケットを買った後、華凛は冷たい飲み物を売店で購入し、父が待っている椅子へと向かった。「お父さん、大丈夫ですか?」「ああ、済まないな。少し楽になった。」脩平と華凛は冷房の利いた映画館の中でアクション映画を楽しんで鑑賞した後、近くにあるカフェへと涼みに行った。「面白かったですね、あの映画。」「ああ、面白かったな。いつも映画は家でDVDを観るかたまにTVでやっているのを観るだけだから、映画館で観るのは楽しかった。」脩平はアイスコーヒーを飲みながら言った。「父さん、体調が優れないのなら病院に行きましょう? 何かあっても遅いですし。」「お前との休日を楽しみたいのは山々なんだが、お前の言う通りにするよ。」カフェを出た脩平は、華凛とともに病院で診察を受けた。医師の診断結果は、熱中症の中期症状だった。「水分補給をこまめに行い、日傘や帽子などで直射日光を避ける様にしてください。」「ありがとうございます。」2人が病院を出ると、燦々とした夏の太陽がアスファルトを照らしていた。華凛はバッグの中から折り畳み式の日傘を取り出してそれをさした。「父さん、一緒に入って下さい。」「ありがとう、華凛。今日は何だかお前に助けられてばかりいるな。」「何言っているんですか。」休日の繁華街を、2人は仲良く連れたって歩いた。「あいつが、正英華凛か・・」2人の姿をビルの隙間から覗いていた1人の男がそう呟き、携帯のカメラで彼らを撮影した。
2012年04月12日
コメント(0)
「すいません、夜分遅くにお伺いしてしまって。」高史はそう言って客間で脩平に向かって頭を下げた。「いえいえ、いいんですよ。それよりもお話したい事とはなんでしょうか?」「実は、妻が子どもを産んですぐに亡くなりましてね。今はその子どもをどうしようか悩んでいるんです。」「華凛の話では、子どもは施設に預けるとか?」「ええ。わたしもそのつもりだったんですが、父が反対しておりまして。折角授かった跡継ぎなのに余所様にやるだなんてとんでもないと。」「そうですか。」脩平は溜息を吐いて隣に座る華凛を見た。「わたしは正直、息子を可愛いと思ったことは一度もありません。妻の知人から息子の父親がわたしではないことを聞かされて、自分に子どもが産まれるというのにどこか他人事として捉えてしまっている自分に気づいたんです。」そう言った高史の横顔は、どこか寂しげなものだった。「わたしはあの子の親になることはできません。かといって実家で息子を育てようとは思いません。」「そうですか。高史さんの気持ちをお父様にお伝えしたらどうでしょうか? 一度その事について話し合われては?」「そうしたいのは山々ですが、父はわたしの言葉は頑として受け入れません。」「わたしが仲裁に入りましょう。」「ありがとうございます。」高史はそう言うと再度脩平に頭を下げた。「華凛、わたしは席を外すから高史さんと少し話をしなさい。」脩平は気を利かして客間から出て行った。華凛は久しぶりに会う高史のやつれた顔を見た。仕事が最近忙しいのだろうか、少し頬が痩けているようだが、恐らく精神的な疲労によるものなのだろうか。「華凛さん、すまないね。妻の事では色々と君に迷惑をかけっぱなしで・・」「いいえ。それより高史さん、ちゃんと食事摂ってますか? お仕事が忙しくても何か食べないと病気になっちゃいますよ?」「ありがとう、心配してくれて。最近仕事が忙しくなってね、朝方まで残業して1時間くらい仮眠して出社するっていう日が増えてきて、満足に眠れたためしなんかないんだ。」高史は眉間を指先で揉みながら言った。「俺はもう、駄目なのかもしれない。」「大丈夫です、俺が支えますから。愚痴を吐きたいときにはメールでも何でもしてください。」華凛は立ち上がると、そっと高史を抱き締めた。掌に伝わる彼の体温から、前世の記憶が甦ってきた。時々酒に寄った鈴が自分に抱きついてそのまま寝てしまうことがあった。そんな時は彼の頭を膝の上に乗せて彼の寝顔を我が子をあやす母親のように見つめた。束の間の安らかで幸せな時間だったが、その時だけは自分達を取り巻く厳しい現実と状況から逃れる事ができた。幸せな時は長くは続かなかったが。(もう一度、あの頃に戻れたのなら、俺は鈴と幸せになれただろうか?)敵同士、そして同性同士でありながら愛し合った自分達の恋は、泡沫のようにあっけなく終わってしまった。そして平和な現代に生まれ変わり、惹かれあうようになった自分達だったが、鈴は―高史はあの頃の記憶を持っていない。(鈴は、忘れてしまったんだ。俺の事も、俺との思い出も・・)それは仕方のないことだ。けれども・・「華凛さん?」高史の声がしてはっと我に返ると、自分が泣いていることに華凛は初めて気づいた。「ごめんなさい、俺・・」「謝らなくてもいい。それよりも華凛さん、お盆は何か予定あるかな?」「いいえ、今のところありませんが・・」「そうか、なら良かった。」高史はそう言ってスーツのポケットから2枚の航空券を取り出した。「北海道行きのチケット。たまには旅でもしてゆっくりしたいなと思って。もしよかったら君と一緒だったら嬉しいなって・・」「ええ、行きます。」そう答えた華凛を見て、高史はあの頃と変わらぬ笑みを浮かべた。夏祭りは盆前にあるから、暫くはゆっくりと羽根を伸ばすのもいいかもしれない。「そうか、鈴久さんと旅行か。行って来なさい。」脩平は華凛から旅行の話を聞き、そう言って息子の肩を叩いた。
2012年04月12日
コメント(0)
華凛はさっとインターフォンの通話ボタンを押した。「どちら様ですか?」『あのすいません、わたくしこういう者なんですが。』そう言って青年は1枚のチラシを画面越しに見せた。それは最近あの新興住宅地に開校したばかりの幼児教室のものだった。『お宅にお子さんがいると聞いたものでして。是非うちの教室に通ってみませんか?』誰がそんな事をこいつに教えたのだろうか。華凛の脳裡に、夏祭りの会合で顔を合わせたあの母親達の顔が浮かんだ。「すいません、うちは全く興味がないものでして・・申し訳ございません。」一方的に事務的な口調でそう言うと、華凛はインターフォンの画面を切ろうと手を伸ばした。『え~、でも赤ちゃんの頃からちゃんと英語とか教えないと、将来で差がつきますよぉ?』お前のような気だるい口調で他人に話をする奴に言われたくない、と怒鳴りつけたいのを我慢して、華凛は無言でインターフォンの画面を切った。「坊ちゃま、どうしたんですか?」「何でもない。ちょっとムカつくセールスマンが居ただけだから。」そう華凛は菊に言って彼女に笑みを浮かべると、キッチンに戻った。人参を包丁で切りながら、彼はあの母親達の顔を思い浮かべた。一体彼女達は何を思ってうちにあんなセールスマンを寄越そうとしたのだろう。真那美はまだ生後数ヶ月しか経っていない赤ん坊なのに、英語を習わせてどうしようというのか。それよりも赤の他人に他人の家族構成を教えるという非常識な行動に、彼女達は気づかなかったのだろうか。無関心も恐ろしいが、何かと他人の私生活を詮索し、干渉してくる人間の方が厄介だ。人それぞれ性格も家庭環境も違うというのが当たり前だというのに、何故他人の生活に興味を持とうとするのか。放っておいて欲しい。怒りをぶつけるようにして、華凛は乱暴な音を立てて包丁で人参を切った。「最近暑いですね、坊ちゃま。」「そうだね。お昼にテレビのニュースでやってたけど、36度になった所があるんだって。」「まぁ、そんなに・・熱中症に気をつけないといけませんね。かといってクーラーを1日中つけると夏バテしますしねぇ。」「そうだね。あまり付け過ぎると身体に悪いし。難しいよね。」華凛はふと壁に掛けられたカレンダーを見た。数日後にまた夏祭りの会合がある。あの母親達と顔を合わさなければならないのかと思うと、気が重くなる。「坊ちゃま?」思わず大きな溜息を吐くと、隣に立っていた菊が心配そうに華凛を見た。「何でもない。ちょっと嫌な事があっただけ。」そう答えると、菊は黙って作業に戻って行った。出来あがった料理を華凛がテーブルに載せた時、けたたましくリビングの電話が鳴った。「もしもし?」『こんばんわぁ、高橋ですけどぉ。』神経を逆撫でする耳障りな声に、聞き覚えがあった。あの母親達の1人だ。「高橋さん、何かご用ですか?」『あのぅ、幼児教室のことなんですけどぉ』「幼児教室は断りました。高橋さん、余り他人の私生活を詮索しない方がいいですよ。お宅だって色々と他人に詮索されたら、嫌でしょう?」受話器の向こうであの母親が沈黙している姿を華凛は想像した。『すいません。』先ほどまでの妙にテンションの高い声とは違い、少し反省したかのような声が受話器の向こうで聞こえた。「ではまた会合で。」華凛はそう言って子機の通話ボタンを切った。「ただいま。」「お帰りなさい、父さん。」「華凛、夏休みの宿題はもう終わってるか?」「ええ。真那美が寝ている間やお稽古がない日に纏めてやっています。」「そうか。」脩平がトマトを口に運ぼうとした時、再び電話が鳴った。「俺が出ます。」またあの母親だろうか。そう思いながら子機のスイッチを入れた。「もしもし?」『もしもし、華凛さん?』電話の相手は、かつて恋人だった男だった。
2012年04月12日
コメント(0)
「まぁ、そんな事があったの?」脩平と共に会館へ入り、会合に出席した華凛が電車内での出来事を話すと、父方の叔母・吉枝がそう言って溜息を吐いた。「最近些細な事でキレる人が多くなったものねぇ。昔はそんな事なかったのに。華凛ちゃん、気にしちゃ駄目よ。」「ええ、もう気にしてません。でも俺が悪いんですよね、電車に乗る時にベビーカーを畳まずに乗って来たから・・」「何言ってるのよ! あたしだってあの子が赤ちゃんの時に電車やバスとか乗っていたけど、ベビーカーを畳んで荷物を持って子どもを抱っこしながら移動するともう大変よ! 腕がもげそうになるくらいなのよ。通勤ラッシュに乗ったんじゃないんだから、いいんじゃないの?」吉枝は自らの育児経験を語りながら華凛を励ました。「でも最近は非常識な親もいるのよねぇ。一部だけど、子どもが電車の中で騒いでいるのに放ったらかして携帯メールや母親同士のおしゃべりに夢中で、他人に我が子が注意されると逆ギレする親。そう言う人達って、マナーが悪いのよねぇ。そんな親の背中を見て育った子どもって大抵碌な人間に育たないと思うのよ。わたしはちゃんと穣を育てて来たつもりなのに、あんなに出来の悪い子になって。」叔母の愚痴を聞き流しながら、華凛は周囲をさりげなく見ると、穣と和美の姿がないことに気づいた。「今日は穣と和美ちゃんは?」「和美ちゃんは京都で淑子さんとお稽古よ。穣はどこで何してるのか知らないわ。どうせ悪い友達とでも遊んでいるんでしょう。」その日の会合は叔母の愚痴と次期家元についての話し合いで終わった。「ねぇ華凛ちゃん、脩平さんから聞いたんだけれど、あなた最近嫌な思いしてるんですって?」会館を出る時に華凛は突然吉枝にそう言われて彼女の方を振り向いた。「何処でそれを・・」「華凛ちゃんのお隣にすんでいる方とばったり百貨店で会って聞いたのよ。お受験対策で日舞習わせて貰いたいって来る親がいたり、夏祭りの会合で華凛ちゃん家の台所事情を聞いたりする失礼な人が居たんですってね。」「ええ。なるべくそういう方達は相手にしないようにしてますけど。」「そうね、相手にしない方が一番いいかもしれないけれど、ああいう人達にはガツンと言ってやった方がいいのよ。無理に我慢してたらストレス溜まるばかりだしね。」吉枝はそう言うと腰を屈め、ベビーカーの中で眠っている真那美を見た。「可愛いわねぇ、真那美ちゃんは。寿輝さんと祥愛さんがあんな風に亡くなった事は残念だけれど、この子まで犠牲にならなくて良かったわね。」「ええ、本当に・・」あの悲惨な事故で真那美だけが生き残ったのは奇蹟としか言いようがなかった。華凛は真那美に愛情を注ぎ彼女を育てている反面、彼女を立派な人間になれるように育て上げることができるのだろうかという不安をいつも抱いていた。「叔母さん、最近俺真那美を立派に育てられるのかが不安で仕方ないんです。結婚はおろか恋愛すらしたことのない自分に1人の人間を育てる事ができるのかって・・」「大丈夫よ、全ての人が完璧じゃないもの。たまには失敗すればいいじゃない。わたしはもう穣のことは完全に諦めているわ。あの子はもう手の施しようがないもの。でも真那美ちゃんは違うじゃない。華凛ちゃんや脩平さんの愛情を受けて真っ直ぐに育ってゆくんだから。あらヤダ、こんな暑い中で立ち話してたら真那美ちゃんが熱中症になっちゃうわ。」吉枝はそう言って華凛の肩を叩くと彼に背を向けて交差点を渡っていった。「お帰りなさいませ、坊ちゃま。」「ただいま。」玄関でベビーカーから真那美を起こさないように降ろして抱き、おむつやミルクが入ったトートバッグを床に置いて玄関先に腰を下ろした華凛は、ふぅっと溜息を吐いた。「真那美ちゃんはわたしが寝かせますから、坊ちゃまは休んでいてください。」「ありがとう、菊さん。汗かいたからお風呂に入って来るよ。」数分後、浴室から出た華凛がリビングに入ると、脩平がソファに座ってテレビを観ていた。テレビの画面には、最新映画の予告編が流れていた。「最近映画館に行ってないなぁ。華凛、もし予定がなければ今度の日曜日に映画でも観に行くか?」「いいですね。でも父さん、真那美は・・」「菊さんに預ければいい。お前だって少しは息抜きしたいだろう?」「ありがとうございます、父さん。」姪の育児は楽しい反面、少しストレスを感じていた華凛にとって、父の言葉で少し気が楽になった。 その後キッチンで菊と夕食を作っていると、玄関のチャイムが鳴った。「どちら様ですか?」インターフォンの画面には、スーツ姿の青年が立っていた。
2012年04月12日
コメント(0)
華凛がインターフォンの画面を覗くと、そこには父が話していた親子の姿が映っていた。「どちら様でしょうか?」『あの・・先日お電話した大田ですけれども・・』華凛は玄関の戸を開け、親子を客間に通した後、華凛は溜息を吐いて冷蔵庫の中から麦茶が入っている瓶を取り出し、グラスに麦茶を注いだ。菊は今日、孫の看病で息子夫婦の家に行っていて、居ない。いつも相談に乗ってくれたり、愚痴を黙って聞いてくれたりする彼女の姿がないことに、華凛は少し不安を感じていた。「どうして、家庭教師をつけてくださらないんですか!?」「うちの息子は他人様の子を教えるほど、暇ではないのです。それに、あの子は正英流の次期家元ですから、余計な事には時間を割くことはできないのです。」「うちの子の受験が余計な事だとおっしゃりたいのですか!? うちはお宅の息子さんが通われている学校に受かろうと必死なだけです!」リビングから遠い客間から、父と母親が言い争う声がした。「申し訳ございませんが、うちの息子ではお宅のご子息の力にはなれませんので、どうぞお引き取り下さい。」父の静かな謝罪の言葉と共に、怒りで興奮状態に陥った母親が父に罵詈雑言を浴びせて客間の襖を乱暴に閉める音が聞こえた。「お父さん、すいません。俺の所為でお父さんに辛い思いをさせてしまって・・」リビングに入って来た脩平に向かって華凛はそう言うと頭を下げた。「何も謝ることはない、華凛。お前だって芸事の稽古や塾通い、それに真那美の育児までしているんだ。わたしは仕事の忙しさを口実にお前に真那美のことや舞の稽古を任せきりだったんだから、謝るのはわたしの方だ。」脩平はそう言って華凛を抱き締めた。「父さん・・」華凛は生まれて初めて父親に抱き締められ、嬉しくて涙が出そうになった。 父は物心ついた頃から華凛や兄の寿輝に対して厳しかったし、芸事の稽古や礼儀作法には一切甘えや情を持ちこまずに幼い2人に対して徹底的に教え込んだ。他所の父親が自分の子ども達を抱き締めたり、一緒に遊んでやったりと優しいのに、何故自分達の父親は厳しいのかがその時解らなかったが、今となっては自分達が立派な人間になるようにと思い、鬼となってくれたのだろう。今では、そんな父に感謝してもしきれない。「父さん、小さい頃俺は何故父さんが俺や兄さんに厳しくするのかが解りました。俺や兄さんが将来他人様に迷惑をかけない立派な人間になれるようにわざと悪役になってくれていたんですね。」「ああ、そうだ。わたしもお前の祖父に厳しく稽古をつけられた。憎しみがあってやったわけでない、愛情があるからこそ厳しく接してくれたのだと解った時は、お前達に初めて稽古をつける時だった。」脩平はそう言ってリビングのソファに腰を下ろした。「真那美はまだ赤ん坊だが、いつかお前に反発する日が来るかもしれない。」「その時はその時です。」 数日後、華凛と脩平は真那美を連れて親族の会合に出席する為に会館へと向かった。「タクシーを呼んでいればよかったな。」「いえ、いいんです。会館には後少しですし。」プラットホームに電車が滑り込み、真那美はベビーカーを押して父の後とともに車内に乗り込もうとした。その時、1人の女性が我先にと華凛を突き飛ばして電車に乗り込んだ。「大丈夫ですか?」傍にいた若い男性が転倒しそうになった華凛を咄嗟に支えた。「ありがとうございます。」男性に礼を言いながら、華凛はベビーカーを押して電車内に乗り込んだ。「華凛、大丈夫か?」先に車内に乗り込んだ父がそう言って華凛を見た。「大丈夫です。転倒しそうになったところを近くの方に助けて貰いましたから。」「それにしても人を突き飛ばしてまで席に座ろうとする輩がいるとは・・嘆かわしいことだ。」脩平は座席に座りおもむろに化粧を始める女性を睨みつけながら言った。その後、会館の最寄駅に電車が着き、華凛が脩平とともに降りようとした時、またあの女性が華凛を突き飛ばして電車から降りた。「ちょっとあなた、他人を突き飛ばしておいて謝罪もないのですか?」「煩いわね、大体ベビーカー畳まずに電車乗って来る方が悪いのよ! 電車乗らないでタクシー使ってよ!」女性は吐き捨てるような口調で華凛と脩平にそう告げると、足早にホームから去っていった。
2012年04月12日
コメント(0)
全111件 (111件中 1-50件目)

![]()
![]()