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「最高戦争指導会議の構成員」は講和の為にソ連との交渉を始めようとしていた。◇「時代の一面/東郷茂徳」の「第五章 終戦工作」(纏め・抜粋)・「最高戦争指導会議構成員の会合」 構成員だけの会合で相談することにしたいと述べて其(梅津参謀総長)の賛成を得たので、同人から阿南陸相に説き、自分から鈴木総理及米内海相に話すことに手筈を定めて、五月十日頃から総理、陸海軍大臣、陸海両総長、及外務大臣の会合が催さるることになつた ・・・ 此会合の話合ひは七月中旬近衛特使派遣問題発生前迄は相当永きに亙つて漏洩することなく懇談を遂げて来たので非常に好都合であつた。・「五月中旬の構成員の話合ひ」 此会合では五月十一日から十四日に亙り対ソ問題を討議したが、前に述べた通り陸軍からはソ連参戦防止につきて方策を講ずる必要があると述べたが、海軍からはソ連の好意的態度を誘致して石油等を購入し得れば好都合であるとの注文が出た。 自分は最早ソ連を軍事的経済的に利用し得る余地はない、ソ連の好意的態度を誘致しようと言ふならば、其頃から自分は政府部内の人には注意したのであるが、米英ソの三巨頭が会談しない前でなければ駄目だ、あの三人が会つた後には日本の対ソ関係調整も独ソ和平も困難となることは覚悟すべきであつた、しかるに日本では手を拱いて居る間にカイロ宣言、テヘラン会談となり更に又ヤルータ会談となつたのだから、今頃になつてソ連の重要軍事資材を利用するとか好意ある態度に誘致するとか言つても更に手遅れあると切言した。 しかるに米内海相は決して手遅れではない、現に元外相であつた人もさう云つて居るとのことであつたから、自分はさう云ふ見方はソ連の実情を知らぬからのことである・・・。 兎に角ソ連の参戦防止は必要上是非努力しなくてはならないが、日本の戦力が低下せる今日では何かの獲物を与へる覚悟がなくてはならない、殊に我方の有利に誘導しようとするなら猶更のことである。 ・・・ 総理は先方の好意的態度を探つて見るのは良いではないかと云ふので、此際の施策として 第一、ソ連を参戦せしめないこと、 第二、ソ連を成るべく好意的態度に誘致すること、 第三、和平に導くこと、 が挙げられた。 第三の方法として支那、瑞西、瑞典、ヴァチカン等を仲介とする場合を検討したが、何れも無条件降伏と云ふ回答以上に出でざるべしとの予想に一致した。されば米英に対して我方に相当有利な条件を以て仲介し得るのはソ連以外なかるべしとの議が梅津総長から出でて、阿南陸相もソ連は戦後に於て米国と対峙するに至るべき関係上日本を余り弱化するのは好まざるべく相当余裕ある態度に出づることが想像せらるると述べた。 ・・・ 鈴木首相はスターリン首相の人柄は西郷南州と似た者があるやうだし -此時は維新の江戸城引渡しのことを想起せられた様だ- 悪くはしないような感じがするから和平の仲介もソ連に持ち込むことにしたらいいだらうと云ひだした。 ・・・ 無条件降伏以上の講和に導き得る外国ありとせばソ連なるべしとの考へ方は自分も持っていた居たのであり、又陸軍の和平に対する気持はソ連を通じてと云ふ点から誘致せられて居る・・・」 ・・・ 代償に関する審議に入つた。其大要はポーツマス条約及日ソ基本条約を破棄して大体日露戦役前の状況に復帰せしむる、其場合猶朝鮮の自治問題は別として之を我方に保留し、南満州は中立地帯とすること等に話し合ひが纏つた・・・───〓勝手に独断と偏見〓 「最高戦争指導会議の構成員」は無条件降伏ではなく天皇が統治権を持ったままの日本の存続を目指す、共通認識として「米英に対して我方に相当有利な条件を以て仲介し得るのはソ連以外なかるべし」。 「昭和天皇独白録」でも同様の主張があり、まず「広田・マリク会談」が始まる。 戦後の米ソ対立を前提にしてもソ連が国体護持を推進するとは思えない、天皇に仕える「構成員」にとっては藁をも縋る思い。 「時代の一面」ではソ連仲介による講和条件に関して、 阿南陸相・梅津参謀総長は「現在の戦果から見て日本が敵の領域を占領して居るのは広大であるが占領して居るのは日本領域の僅少部分に過ぎないから、此点を基準として講和条件を考慮すべき・・・日本は決して負けては居ない」 東郷外相・米内海相は「講和条件は現在占領せる地域の大小から見るべきでなくて戦争全体の趨勢から見るべきである」 「第三、和平に導くこと」は当分見合わすことに決定している。
2011.07.31
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「私は、海軍の戦争だったと信じます。」は「大将 米内光政覚書」のp190に記されている米内海相の主張。 これは敗戦直後の1945年11月17日に米海軍少将の質問「あなたは、この戦争は主として、海上兵力の戦争であった、とおっしゃるわけですか。・・・または、両方(陸海軍)が同じぐらいの責任をもっていたのですか」に対する答え。◇「大将 米内光政覚書」の「米内海相口述覚書」による1945年5月14日~6月8日の御前会議前までの抜粋・二十・五・十四 大臣室(陸軍の内情など) 一、陸軍はこのごろ、戦局にたいする自信をうしなってきている、とみている。というのは、陸軍はソ連の出方をひじょうに恐れて、 (イ)日ソ中立条約を延長し、 (ロ)ソ連に和平斡旋を依頼し、 (ハ)大東亜戦争の終結を望んでいる。 その意味することは、こんどの戦争にたいする自信がなくなっているためと想像する。だが、かれらは口に出してはいわない。とくに梅津(美治郎参謀総長)は判然としない。 二、「陸軍の出方としては、海軍が弱音をはくからやむえないというように、責任を海軍にきせ汚名を転嫁することがありうると思う。しかし、それは大局上から場合によっては、海軍がよい子になるとか陸軍がよい子になるとかいうことは、超然として考えなければならないと思う・・・」 三、いま、総理・陸海軍両大臣・両総長・外務大臣が集まって相談しているが、その席上、あちらこちらから沖縄戦局の見通しなどを、ぽつりぽつり話して突っついてみるが、陸軍はなかなか口を割らない。きょう(五月十四日)も会うことになっている。 自分の考えでは、局部局部の武勇伝はたくさんできる。それは日本人が勇敢であったということを歴史にのこすことにはなるが、戦争の勝利を獲得することにはならないと思う。・米内海軍大臣内意 二十・五・十七 四、陸軍の真意をうちあけさせようと、あらゆる方面から、弱いことをいったり、強いことをいったりするが、どうしてものってこない。極論だが、こうしたことまで言った。 「われわれとしては、皇室の擁護ができさえすればよろしい。本土だけになっても、我慢せねばならないのではないか だが陸軍は、なかなかハッキリといわない。これは外にもれると容易ならぬことになると思っている。また、つぎのようなこともいった。 「対ソ工作も、結局するところ、米英との仲介の労をソ連にとらせて、大東亜戦争を終結させることに最後はなると思うが」 そうしたら、梅津(美治郎参謀総長)は「その通りだ」といった。これは、だいぶやわらかくなってきたと思った(十四日の会談) 五、ソ連に代償を支払い、むろん米英にも代償を出すとすれば、なにが残るか。研究するように。・米内海軍大臣談 二十・五・二二 今日(二十二日)午後零時三十分より、総理、陸・海軍の両大臣と両総長、外相が閣議後に会同して、例の三問題について話しあった。陸軍大臣(阿南惟幾)の話はすこしあまくて、本土決戦をやりたいような口振りであったが、ほんとうの考えはどうかネ。 三つの問題というのは、 イ 日ソ中立条約の延長 ロ ソ連の好意的中立 ハ ソ連による和平斡旋 である。 私は、第三を抜きにして第一、第二で行ったらどうか、話のすすみ具合で第三に行ったら、と思う。・米内海軍大臣談 二十・五・三一 ただ漫然と議会を召集することはどうかと思うとのべ、 「総理と陸相は、どのように考えるか」 とただしたところ、両相とも戦争をトコトンまで遂行する決意であるという。トコトンまでやるのはいいが、そんなことをして皇位・皇統がまもれるのか、国体が護持できるかどうか、それでは策も略もない話だと思うが--。 首相と陸相の主張は、 「トコトンまでやることによってのみ、皇位も皇統もそこなわれず、国体も護持できるし、また、そこまでやらなくてもすむことになる」───〓勝手に独断と偏見〓 「総理・陸海軍両大臣・両総長・外務大臣が集まって相談」は「最高戦争指導会議の構成員」による会議の事で今後重要になってくる。 「昭和天皇独白録」では「海軍はレイテで艦隊の殆んど全部を失つた」、 日本海軍は米国海軍に敗れ大日本帝国は敗北へ向かっている、海軍は自分達の敗北を表明し陸軍へ迷惑をかけたことを詫び、和平交渉の必要性を説くべきと思う。 「皇室の擁護ができさえすればよろしい。本土だけになっても、我慢せねばならない」を米内海相は極論としソ連との交渉を推進する。
2011.07.26
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・「時代の一面/東郷茂徳」のp324~の「大東亜地域の情勢」によると(後だしジャンケンだが) 独逸の崩壊に伴ふて米英の攻撃が日本に集中するのみならずソ聯が東方に進出する可能性が激増したので、国際関連の全局に付き検討を加ふることが必要になつたが、我方戦局は沖縄方面の敗北も明らかとなり頽勢の挽回は到底望み得ざる所であつたから、自分は独逸崩壊の機会に於て我方が猶幾分かなりと余力を有する間に戦局を収拾するやうに誘導し、上下各方面に其気運を醸成するに努めた。 即ち四月半以来独逸情勢の悪化激増に伴ふて其事情を陛下にも説明申上ぐると共に、我方に対する空襲も激化して来るので戦争は急速に終結するを得策とする状況にありと申上げた。 陛下は戦争が早く済むといいねとの御言葉であつた。─── 慰霊の日は1945年6月23日、米国は枢軸国の無条件降伏を主張、ソ連は日ソ中立条約の延長しないを表明。 「鈴木貫太郎自伝」では、昭和天皇の「耳がきこえなくてもよいからやれよ」で鈴木内閣発足。 「藤田『侍従長の回想』」では、鈴木内閣の親任式では天皇からの「慣例の憲法の条規云々」の言葉はなかった。 前内閣の小磯・米内内閣発足には天皇から「卿等協力内閣を組織せよ・・・憲法の条章を循守・・・大東亜戦争完遂の為めソ連を刺激せざる様」の沙汰があった。 (「木戸幸一日記(下)」より) 天皇は大東亜戦争完遂から講和へと舵を切ろうとしている。 しかし鈴木総理の考えは木戸の直話によると、 「鈴木さんは・・・無論終戦ということは考えているけれども、もう一戦やってという、やっぱり軍人の・・・・阿南なんかもやっぱりそうだったからね。」 (「重臣たちの昭和史(下)/勝田龍夫」より) 「もう一戦やって」は米国が「無条件降伏」を主張する以上は必要の感覚は首脳部に共有されていたが、現状認識や立場の違い等で温度差が異なっていたと推測。 「高松宮日記(第八巻)」の1945年2月26日には「1900、B-29一機東京に空襲」、翌27日には「御所で侍従長が出てきたから、『たまには爆弾が宮城におちるのも、陛下が戦場の中にいらつしやることになつて結構なことだ』と語つておく。余りに側近が戦時態勢にならぬのがよくない。」 5月25日の東京大空襲では宮城が燃える。 「参謀本部も燃えたが、折からの烈風にあおられて火焔がお濠を越えて宮城内にふり注ぎ、正殿を含む六千坪余の宮殿のほとんどが焼失した。」 (「重臣たちの昭和史(下)」より)〓勝手に独断と偏見〓 宮城内は「正殿を含む六千坪余の宮殿のほとんどが焼失」、「明治宮殿/ウィキペディア」によれば「宮殿の消火作業に当った警視庁の特別消防隊19名が殉職したものの、昭和天皇らは吹上御苑内の御文庫に避難しており無事だった。」 天皇の疎開について「木戸幸一日記(下)」の1944年7月26日には天皇の考えとして 「時期尚早に実行することは決して好まざるところなり・・・神州にありて死守せざるべからず。」 1945年7月31日には天皇の話として「伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番・・・度々御移するのも如何かと思ふ故、信州の方へ御移することの心組で考へてはどうかと思ふ。」 信州とは「松代大本営」の事であり、日本脱出も考えられていたと想像する、そして何よりも重要視されているのが神器。・「御文庫」は「松代大本営跡/ウィキペディア」によれば(抜粋) 1941年4月12日に御文庫が極秘に着工され、1942年12月31日に完成した。 建坪1,320m2。地上1階、地下1階・2階の3階建て。そこには天皇・皇后の寝室、居間、書斎、応接室、皇族御休息所、食堂、洗面所、侍従室、女官室、風呂、トイレなどがあった。 このほか、映写ホール、ピアノ、玉突き台などもあった。屋根は1トン爆弾に耐えるよう、コンクリート1mの上に砂1m、さらにその上にコンクリート1mの計3mの厚さであった。 ・・・ 戦況が悪化したため、1945年6月頃にさらに頑丈な御文庫附属室が御文庫から90m離れた地下10mに陸軍工兵部によって建設された。広さ330m2、56m2の会議室2つと2つの控室、通信機械室があり、床は板張り、各室とも厚さ約1mの鉄筋コンクリートの壁で仕切られていた。 50トン爆弾にも耐えるよう設計され御文庫とは地下道で結ばれていた。 この地下壕はのちの終戦時の2度の御前会議の場所となった。───
2011.07.18
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1945年6月13日に戦死した大田実海軍少将(沖縄根拠地隊司令官)が6日に海軍次官宛てに発信した電報 「沖縄県民斯く戦へり、県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」◇沖縄戦/「昭和天皇独白録」・小磯内閣:(三)講和論の台頭 比島戦に敗れ、沖縄決戦を迎ふるに当つても、及川軍令部総長等は非常な勝利を確信していた。 近衛は極端な悲観論で、戦を直ぐ止めた良いと云う意見を述べた。 私は陸海軍が沖縄決戦に乗気だから、今戦いを止めるのは適当でないと答えた。・鈴木内閣:(四)沖縄決戦の敗因 之は陸海作戦の不一致にあると思う、沖縄は本当は三ケ師団で守るべき所で、私も心配した。 梅津は始め二ケ師団で充分と思つていたが、後で兵力の不足を感じ一ケ師団を増援に送り度いと思つた時には已に輸送の方法が立たぬといふ状況であつた。 所謂特攻作戦も行つたが、天候が悪く、弾薬はなく、飛行機も良いものはなく、たとへ天候が幸ひしても、駄目だつたのではないかと思ふ。 特攻作戦といふものは、実に情に於て忍びないものがある、敢て之をせざると得ざる処に無理があつた。 海軍はレイテで艦隊の殆んど全部を失つたので、とつておきの大和をこの際出動させた、之も飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した。 陸軍が決戦を延ばしているのに、海軍では捨鉢の決戦に出動し、作戦不一致、全く馬鹿馬鹿しい戦闘であった。詳しい事は作戦記録に譲るが、私は之が最后の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏も亦己むを得ぬと思つた。 沖縄で敗れた後は、海上戦の見込みは立たぬ、唯一縷の望みは、「ビルマ」作戦と呼応して、雲南を叩けば、英米に対して、相当打撃を得るのではないかと思って、梅津に話したが、彼は補給が続かぬと云って反対した。 当時賀陽宮が陸大の校長だったから、この話をしたら、一時的には出来るかも知れぬが、とにかく研究して見ようと云う事であった、然し之はうやむやになって終わった。───◇沖縄戦:概要/ウィキペディアよりの抜粋 沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月23日に終るはずが3日早く6月20日に終了した。 米軍の作戦目的は本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であり、日本軍のそれは当時想定されていた本土決戦への流れの中に位置づけられる。 ・・・ 沖縄戦での全戦没者は20~24万人とされる。沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄出身者が122,228人[5]、そのうち94,000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は12,520人で、負傷者72,012人であった。───〓勝手に独断と偏見〓 「沖縄県民斯く戦へり、県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」 「昭和天皇独白録」での天皇は沖縄戦での大戦果の可能性を信じ「沖縄は本当は三ケ師団で守るべき」と判断している、沖縄戦後も大戦果を期待するが梅津・賀陽宮は無理の考えを持っていたと推測する。 「及川軍令部総長等は非常な勝利を確信していた。」 「私は陸海軍が沖縄決戦に乗気だから、今戦いを止めるのは適当でないと答えた。」 「之(沖縄決戦の敗因)は陸海作戦の不一致にあると思う、沖縄は本当は三ケ師団で守るべき所で、私も心配した。」 「私は之(沖縄決戦)が最后の決戦で、これに敗れたら、無条件降伏も亦己むを得ぬと思つた。」 「唯一縷の望みは、「ビルマ」作戦と呼応して、雲南を叩けば、英米に対して、相当打撃を得るのではないかと思って、梅津に話したが、彼は補給が続かぬと云って反対した。」 「当時賀陽宮が陸大の校長だったから、この話をしたら、一時的には出来るかも知れぬが、とにかく研究して見ようと云う事であった、然し之はうやむやになって終わった。」 天皇は「海軍はレイテで艦隊の殆んど全部を失つた」の認識だが「陸海軍が沖縄決戦に乗気」だから戦いを止めない。 日本国憲法施行後の1947年9月19日、「琉球諸島の将来にかんする日本の天皇の見解」では「米国が沖繩その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう昭和天皇は希望する。」を主張。 受け取ったシーボルトは「疑いもなく、私利に大きくもとづいている」、「寺崎英成・御用掛日記」の注では芦田の日本本土想定に対して天皇は対象を沖縄に限定し米国が沖縄限定に動いた事に対して天皇の卓抜な戦略観としている。
2011.07.10
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1941年10月13日(対米開戦二ヶ月前)の「木戸幸一日記(下)」、昭和天皇の話として 「対米英戦を決意する場合には、尚一層欧州の情勢殊に英独、独ソの和平説等を中心とする見透し及び独の単独和平を封じ日米戦に協力せしむることにつき外交交渉の必要在り。」 が記されている。 1940年9月27日に締結された「日独伊三国間條約」の第三条、 「日本国、ドイツ国及イタリヤ国は、前記の方針に基つく努力に附相互に協力すへき事を約す。更に三締結国中何れか一国か、現に欧州戦争又は日支紛争に参入し居らさる一国に依り攻撃せられたる時は、三國はあらゆる政治的経済的及軍事的方法に依り相互に援助すへき事を約す。」 1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に対して日本が対ソ参戦の義務はないし現実に参戦していない、日本から米国に戦争をしかけた場合もドイツが米国に宣戦布告する義務はない。 日本の対米開戦までは、ドイツは米国とは交戦状態にはなかった(ドイツは米国の挑発行為に対し我慢し、米国もルーベン・ジェイムズ号の沈没を開戦の口実にはしなかった)。 昭和天皇はドイツが英ソに加えて米国と戦う事が可能であり、欧州に於いてドイツが勝利する可能性が高いと判断していたと推察する。 日本の対米開戦後にドイツは米国に対して宣戦布告を行なったが、日本はソ連に対して宣戦布告をしなかった。 そして、「日独伊共同行動協定(単独不講和及び新秩序建設に関する日独伊三国協定)」が対米開戦直後に1941年12月11日に調印され16日に公布された。 対米開戦後に於けるドイツは昭和天皇の望み通りに進んだ、しかし・私はニューギニアのスタンレー山脉を突破されてから[1943年9月]勝利の見込を失った。一度何処かで敵を叩いて速かに講和の機会を得たいと思つたが、独乙との単独不講和の確約があるので国際信義上、独乙より先きには和を議し度くない。それで早く独乙が敗れてくれればいいと思つた程である。──(「昭和天皇独白禄」 小磯内閣 (三)講和論の抬頭 より) 枢軸国と連合国との戦いに於ける昭和天皇・指導部の思惑はドイツ頼みだった。・「昭和天皇独白録」の三国同盟(昭和15年) より 日米開戦后出来た三国単独不講和確約は結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ。 確約当時政府の見透しでは日米戦争の勝負は五分五分、うまくいって日本が勝っても、二分の勝ちで完勝は到底見込みが立たぬ、之に反してドイツは完勝すうるであろうと云ふ事であった。 それで若し左様な状態となった際、日本が見捨てられては困るといふ訳で、単独不講和を確約した訳である。──〓勝手に独断と偏見〓 1945年4月 12日:ルーズベルト死亡 28日:ムッソリーニ死亡 30日:ヒトラー死亡・ドイツ降伏に関する政府声明(1945年5月9日) 帝国と盟を一にせる独逸の降伏は帝国の衷心より遺憾とするところなり、帝国の戦争目的はもとよりその自存と自衛とに存す、これ帝国の不動の信念にして欧州戦局の急変は帝国の戦争目的に寸毫の変化を与えるものに非ず、帝国は東亜の盟邦と共に東亜を自己の慾意と暴力との下に蹂躙せんとする米英の非望に対しあくまても之を破摧しもつて東亜の安定を確保せんことを期す──『日本外交年表竝』下 「独乙が敗れてくれればいい」が実現し「日独伊共同行動協定」の単独不講和には縛られなくなった、しかし鈴木内閣の1945年6月8日に開催された御前会議では「征戦目的の達成」が期されている。・ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったデーニッツ海軍元帥は仮政府を樹立し、連合国との降伏交渉を開始した。 5月7日、フレンスブルク政府の命によってドイツ国防軍は連合国に無条件降伏し、アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハワーの司令部に赴き、国防軍代表として降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた。──(第二次世界大戦/ウィキペディアよりの抜粋) イタリア王国ではムッソリーニ統帥/ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王の体制だったが、1943年7月25日にムッソリーニは失脚・逮捕され最終的にはパルチザンにより銃殺された、イタリア王国は1946年の国民投票でイタリア共和国となった。 日本の政府・統帥の上位グループはムッソリーニのようには成りたくないがそうもいかない、天皇が統治者としての国体護持が困難な状況に進んでいる。
2011.07.04
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