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日米開戦は1941年12月1日の御前会議で決定され、開戦の命令である大海令第九号・大陸命第五六九号が発せられた。・「御前会議と云うもの/昭和天皇独白録」(抜粋) 所謂御前会議といふものは、おかしなものである。枢密院議長を除く外の出席者は全部既に閣議又は連絡会議等に於て、意見一致の上、出席しているので、議案に反対意見を開陳し得る立場の者は枢密院議長只一人であって、多勢に無勢、如何ともなし難い。 全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権は、ない。── 「天皇には会議の空気を支配する決定権は、ない」の主張だが、終戦時の「鈴木内閣/昭和天皇独白録」の項では・「(九)八月九日深夜の最高戦争指導会議」(抜粋) 会議は翌十日の午前二時迄続いたが、議論は一致に至らない。 鈴木は決心して、会議の席上私に対して、両論何れかに決して頂き度いと希望した。 会議の出席者は、鈴木総理の外、平沼、米内、阿南、東郷、梅津、豊田の六人。 私は外務大臣の案に賛成すると云った。 外務省の原案中、天皇の国法上の地位と云う字句に付ては、平沼の修正が通り、却ってその為に後で非常に具合の悪い事になったが、とにかくこの会議は私の裁決に依り「ポツダム」宣言受諾に決定し「スイス」とスウェーデンとを通じて受諾の電報を出す事になった。──・「(十一)十二日の皇族会議」(抜粋) 十二日、皇族の参集を求め私の意見を述べて大体賛成を得たが、最も強弁論者である朝香宮が、講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するかと質問したから、私は勿論だと答えた。──・「(十二)八月十四日の御前会議前后」(抜粋) 話は遡るが、九日の御前会議で、私が外務大臣の案に賛成して、受諾の決心を表明する前に木戸を通じて、平沼と近衛とに私の決心を打ち明けさして置いた。 午前十一時、最高戦争指導会議と閣議との合同御前会議が開かれ、私はこの席上、最後の引導を渡した訳である、この会議の事は迫水の手記にでている。 「ポツタム」宣言受諾の詔書は十四日午後九時過ぎ署名した、・・・、陸軍省は、放送がなければ効力がないと思ったか、放送妨害の手段に出た。──〓勝手に独断と偏見〓 昭和天皇は不完全だが御前会議もコントロールし日本の進む方向を決定していたと推測する。 「九日の御前会議で、私が外務大臣の案に賛成して、受諾の決心を表明する前に木戸を通じて、平沼と近衛とに私の決心を打ち明けさして置いた。」 1945年8月9日深夜の御前会議はコンセンサスが不十分のまま開催されたが、昭和天皇・木戸内大臣・鈴木総理間では「外務大臣の案に賛成」の結論に誘導する事が事前に決まっていた。 他の御前会議でも、事前に天皇の意志が確認されていたと推測する。・「敗戦の記録」によると(抜粋・要約) ソ連の侵攻により講和を決意する為の御前会議が開かれた、出席者は昭和天皇・鈴木総理・東郷外相・阿南陸相・米内海相・梅津参謀総長・豊田軍令部総長・平沼枢密院議長と両軍務局長・迫水書記官長 鈴木総理は「即遺憾乍議分れて決せず、三対三なるを以て、此の上は陛下の御聖断を仰ぐ」旨を奏し、昭和天皇は原案に同意。── 「敗戦の記録」には「平沼の意見、賛否何れなるや分明ならざる点もあり」の記述もある、平沼は天皇の命とは別の考えを持っていたのか、陸軍に媚を売っているのか。 「昭和天皇独白録」での昭和天皇による平沼評は 「平沼は陸軍に巧言、美辞を並べ乍ら、陸軍から攻撃される不思議な人だ。結局二股かけた人物と云うべきである。」・所謂、御前会議(1940年~1945年):ウィキペディアよりの抜粋 1940年 09月19日:日独伊三国同盟条約/第2次近衛内閣 11月13日:支那事変処理要綱に関する件ほか 1941年 07月02日:情勢の推移に伴う帝国国策要綱 09月06日:帝国国策遂行要領/第3次近衛内閣 11月05日:帝国国策遂行要領/東條内閣 12月01日:対米英蘭開戦の件 1942年 12月21日:大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針 1943年 05月31日:大東亜政略指導大綱 09月30日:今後採るべき戦争指導の大綱ほか 1944年 08月19日:今後採るべき戦争指導の大綱ほか/小磯内閣 1945年 06月08日:今後採るべき戦争指導の基本大綱/鈴木内閣 08月09日:ポツダム宣言受諾の可否について 08月14日:ポツダム宣言受諾の最終決定──
2011.06.26
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「第3回 AKB48選抜総選挙」では、大島優子・前田敦子の受賞コメントに感動、AKB48のメンバーは進化しているの感を持った。 大島優子の「第三者は色々言います、・・・、私たちにとって票数というのはファンの皆さんの愛です」は、私の感覚内のアイドル発言を超えている、評論家・コメンテータ等の賢しらな発言にうんざりしているように思える。 そして高柳明音の「秋元先生! お忙しいのは本当に承知なんですけれども、チームKIIのみんなとチームKIIを応援してくださっているファンの皆さんを代弁させてください。私たちに公演をやらせてください!」 (「高柳明音/エケペディア」より) 現状、前田敦子と高橋みなみは特別な存在として扱われてながらAKBのエントロピーの増加は少ないように思える。 第一回の一位は前田敦子、第二回は大島優子、第三回は前田敦子、しかしセンターポジションは「ヘビーローテーション(第3回選抜の大島優子)」「チャンスの順番(じゃんけん選抜の内田眞由美)」以外は前田敦子がらみ。 前回の第二回選抜総選挙での大島優子の第一位はファンがAKB48の運営に「ノー」を突きつけた形になった、運営者側は予定外だったのだろうか、一月後に「AKB48 19thシングル選抜じゃんけん大会」の開催が発表されている。 大島優子のセンターは一回限り選挙結果は今後のAKB運営の参考にします、を内外へ念押しする意味があったのか、それとも盛り上がった後の燃え尽き症候群のような事を防ぐための予防策か。 今回は「AKB48 19thシングル選抜じゃんけん大会」の代わりに「江口愛実」? 楽しませてくれている、CDを出し続けるだけでも大変だろう、運営者側は原則として自分達の事情で決める訳で、部分的にでも運営側がコントロールしにくい或いはできないファン投票やジャンケンに委ねている事が異例と思える。 今回の選挙では、 秋元才加、佐藤亜美菜、増田有華、倉持明日香、梅田彩佳、大家志津香、秦佐和子が40位以内に入っているのが嬉しかった、しかし佐藤夏希が入っていないのは残念。 (選挙結果を見て調べたのは第40位の藤江れいなだった。) 以下の推測も何の根拠もなく、推測の前提となる仮定も意味があるものではない、また論理及び計算の推移に自信があるわけでもない、単なるお遊びの推測である。 AKB48選抜総選挙の総得票数の推移は 第1回(2009年):5、4026 第2回(2010年):354、074 第3回(2011年):1、166、145 推移が三次関数「y=aX^3+bX^2+cX+d (a<0;X=1,2,3、・・・は選挙回数)、yは総得票数」に近似すると仮定する。(^3は三乗、^2は二乗の意) また、選挙回数が3回しかない為にさらなる仮定が必要となる。(未確定定数がa,b,c,dの4つある為) 推移関数の微分「y'=3aX^2+2bX+c」が、X=3(第3回)のとき最大と仮定(第3回時点での伸びが最大の仮定)とすると y'=3a(X+b/(3a))^2-(b^2)/(3a) より、a<0 では X+b/(3a)=0 のときy'は最大値をもつ(たぶん) ゆえに X=3 より「b=-9a」を得ることができる。 推移関数は「y=aX^3+(-9a)X^2+cX+d (a<0;X=1,2,3、・・・)」となり、a・c・dが計算可能となる。 3回分の選挙結果を推移関数に代入し3元連立方程式を解くと a=-85337.16667 c=-1406695.333 d=778024 となり、推移関数が定義された。(この計算はExcelのminverseとmmultを使用した) これを元に第4回以降を計算すると。 第4回:1、978、216 第5回:2、278、264 第6回:1、554、266 第7回:-705、801 この計算結果では、AKB48は今後2年間は上昇が続くが、3年目から陰りが見え始める。 仮定として「第3回時点の伸びが最大」としているが、「第3回時点が絶頂期」等と仮定すると違った予測が現れるだろう。 また、推移関数をa<0の三次関数ではなく他の関数で定義すると全く違った結果になる、底>1の対数関数で仮定したかったが第3回までの結果等から不適当と判断した。 推移関数を一つの関数で定義する必要はない、他の要素を加味したマトリックスを構築しカルマンフィルタ等で予測は可能だろうか。
2011.06.19
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「無条件降伏」、第二次世界大戦の終息に向けて連合国側首脳部の感覚の一部。◇「ハル回顧録/中公文庫」の「附録6:大統領無条件降伏を提唱」よりの抜粋 本来この原則(無条件降伏という原則)は国務省の考えではなかった。 ルーズヴェルト大統領が1943年1月のカサブランカ会議中に、突然、新聞記者会見ではじめてこれを述べた時には、チャーチル英首相も同席していて非常に驚いたそうだが、われわれもチャーチルに劣らず驚いた。 ・・・ 根本的にいって私は、同僚の多くもそうだが、この原則には次の理由で反対だった。 一つは、これが枢軸国の抵抗を硬化させて自暴自棄に陥れ、戦争を長びかすことになりはしないかということだった。 大統領自身は、カサブランカではこの無条件降伏という言葉に注釈をつけて、これは、ドイツ、日本、イタリアの国民を破滅させるという意味ではなく、他民族を征服し支配するということを土台とする考えに終止符を打つという意味だ、と述べていた。 ・・・ 第二の理由は、この原則では、当然戦勝国民が、敗戦国の中央地方政府の全局面を接収して、あらゆる統治上の仕事を行わねばならぬということになるが、われわれや連合国はこういう大きな仕事を引き受けるだけの準備が出来ていなかったことだ。──◇無条件降伏/ウィキペディア(抜粋)・無条件降伏とは、普通には軍事的意味で使用され、軍隊または艦隊が兵員・武器一切を挙げて条件を付することなく敵の権力にゆだねることを言う。・チャーチルの解釈 1943年のカサブランカ会談においてルーズベルトが持ち出した「無条件降伏」による戦争終結過程は同盟国イギリスに少なからぬ困惑をもたらすものであった。 当事者の一方のルーズベルトはその生涯において一貫して無条件降伏の具体的要件について明確化させない方針を採用したため現在においてもその要件については議論がある。 ウィンストン・チャーチルは1944年2月のイギリス下院において「無条件降伏ということは勝った国々が自由裁量を持つという意味である。もちろん勝った国々が蛮行をほしいままにしてもいいという意味でもなければ、ドイツを欧州諸国の間から抹殺してしまうことを望んでいるわけでもない。 もし我々が縛られているとするならば文明に対するわれわれ自身の良心に縛られているだけである。 いろいろな取引をやる結果縛られるのではない。 これが無条件降伏の意味である。」と演説したことがある。──〓勝手に独断と偏見〓◇「無条件降伏」の流れとして「HP:日本国憲法の誕生」の「詳細年表」よりの抜粋。 1943年 01月24日:ルーズベルト、チャーチル、枢軸国の無条件降伏を要求する「カサブランカ宣言」。 11月22日:米英中、カイロ会談(11月23日にルーズベルトと蒋介石、天皇制について話合い。12月1日、カイロ宣言発表。日本の無条件降伏、台湾返還、朝鮮独立など)。 1945年 05月07日:ドイツ、連合国に対し無条件降伏。 05月08日:トルーマン、日本に対し無条件降伏を勧告。── 連合国側が「無条件降伏」を主張せず、国体護持を前提とした講和を進めていれば終戦は早まったか? ルーズヴェルト大統領が枢軸国の「無条件降伏」を1943年1月に主張したことで、昭和天皇は講和で国体護持を認めさせる為に戦果を期待した。 沖縄戦前の近衛上奏文(1945年2月14日)で近衛は「敗戦は遺憾ながらもはや必至なりと存じ候。以下この前提の下に申し述べ候。」◇上奏後の昭和天皇との一問一答では 御下問:もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思う。 御答:そう言う戦果が挙がれば誠に結構と思われますが、そう云う時期が御座いましょうか。これも近き将来ならざるべからず。半年、一年先では役に立つまいと思います。── 昭和天皇は統治者としての天皇制の存続を望んでいたと思える、しかし◇「バーンズ回答(1945年8月11日)」(抜粋) ポツダム宣言の条項は之を受諾するも右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解を併せ述べたる日本政府の通報に関し吾等の立場は左記の通りなり 降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為、其の必要と認むる措置を執る連合軍司令官の制限の下に置かるるものとす 最終的の日本国の政府の形態はポツダム宣言に遵い日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす──
2011.06.12
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『鈴木貫太郎』は2.26事件時は侍従長で襲撃され一時は心臓が停止している、妻のたかは皇孫御用掛として幼少時の迪宮(昭和天皇)、秩父宮、高松宮の養育に当たっていた。 (「鈴木貫太郎/ウィキペディア」よりの抜粋) 小磯首相の辞表奉呈(1945年4月5日)、首相候補を選ぶ重臣会議(4月5日午後5時~)が開催された。◇重臣会議/「木戸幸一日記(下)」(抜粋) 鈴木:今日はどこ迄も戦争を戦いぬかねばならぬ、後継内閣の首班はその意思を有するものでなければ不適当なり 平沼:鈴木大将に御引受け願いたく希望。 鈴木:軍人が政治に出るのは国を亡ぼす基なり、耳も遠し御断りしたい 東條:陸軍主体・現役者の見地から畑元帥を適当と信じる 東條:国内が戦場とならんとする現在、陸軍がそっぽを向く虞れあり、陸軍がそっぽを向けば内閣は崩壊すべし 木戸:今日は反軍的の空気も相当強し。国民がそっぽを向くと云ふこともあり得べし 岡田:大命を拝したる者に対し、そっぽを向くとは何事か、国土防衛は誰の責任か、陸海軍にあらずや─── 1945年4月7日、鈴木貫太郎内閣(~8月17日)が発足した4月 01日:米軍が沖縄に上陸 05日:ソ連が日本に「日ソ中立条約」の廃棄を通告(5年間の自動延長は無くなり条約は1946年4月まで有効となる) 07日:大和が沖縄へ向かう途中に米軍の攻撃で沈没 28日:ムッソリーニが銃殺され愛人と共に広場に逆さ釣りにされた 30日:ヒトラー自殺 日独伊三国同盟での盟友のヒトラーとムッソリーニは死亡、東京への大規模空襲は3月10日から行なわれている、日本本土及び其の周辺の制空権・制海権は失われている。 1945年6月16日の朝日新聞朝刊では『本土決戦、一億の肩に懸る 我に大陸作戦の利 挙国全戦力投入も可能』に於いて 「・・・最後の勝負を決するのはいうまでもなく本土決戦である・・・本土戦場においては我方は敵の空海の優勢な機動性を、わが陸路兵站と国民の協力による機動性におき返る事が出来る・・・本土決戦のこの大陸作戦的利点を生かすのも殺すのも、戦場に協力すべき一億国民の必死必勝の覚悟如何に懸る・・・」 朝日新聞朝は制海空権がなくとも本土決戦なら陸路があると国民を鼓舞する。 しかし、当時朝日新聞の東京編集局長だった細川隆元は昭和33年発行の『実録朝日新聞』にて 「この戦争は負けだよ。問題はどんな恰好の負け方をするかの負けっぷりだな」を親友の松村秀逸(大本営陸軍部報道部長)に語った事が記されている。 無条件降伏を回避し国体護持の為に有利な講和条件を得る為の戦果は沖縄戦でも出来なかった。 沖縄戦同様の戦いを日本本土で行なうと日本人が1500万人以上、米軍兵が100万人以上が死亡することが予想される。 本土決戦は国体護持を前提に、(国民不在だが)、軍が負けを認めたくない面と、海軍の為に十分な体制で戦えなかった陸軍の思いがあると推測。〓勝手に独断と偏見〓 重臣会議での鈴木貫太郎枢密院議長(海軍大将)の主張は「今日はどこ迄も戦争を戦いぬかねばならぬ」。 対米戦に向かった海軍の事情。◇第二回第二次特別座談会:日米開戦に至るまでの用兵、戦備(1946年1月22日)/「海軍戦争検討会議記録」(抜粋・概要)・澤本頼雄(対米開戦時の海軍次官) 近衛手記に海軍は和戦の決を首相に一任とあるが「海軍は戦えない」と言える状況にない。 1.海軍の存在の意義を失う 2.艦隊の指揮に影響する 3.陸海の物資争奪、陸軍は「戦えざる海軍に物資をやる必要なし」と言うだろう 4.統帥部としては、両軍分かれるは不可、表面のみにても、一致しなければならないの空気 「海軍は戦えぬといってくれないか」と、陸軍よりいわれたこともある・及川古志郎(第3次近衞内閣の海相) 「海軍は戦えない」と言えない理由。 1.谷口軍令部長が満州事変に反対した、理由は対米戦になる恐れがあるが、対米戦に備えるには軍備に32億を要する、日本の国力では不可能。 東郷平八郎元帥は、以下の内容で谷口を面罵、 「軍令部は毎年作戦計画を陛下に奉じている、いまさら対米戦をできには、陛下に嘘を申し上げたことになる。 自分(東郷自身)も毎年計画によろしいと奏上しており、嘘を申し上げた事になる。」 2.近衛首相に下駄をはかせられるな、は海軍にて非常に警戒していた。 海軍は近衛に一任ではなく、近衛に陣頭に立てのつもり。
2011.06.05
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