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「DiVA」のデビューシングル「月の裏側」が発売された、「DiVA」には期待大。 AKB48に飽きがきはじめている、人気投票やジャンケンで順位を決めるのであれば、トーナメント方式での歌唱力勝負で決めてもよいのではないかと勝手な事を考えてしまう(判定者は当事者以外のAKB48などのXXX48のメンバーと研究生全員)。◇DiVA/AKB48Wiki エケペディア(抜粋) 「DiVA」(ディーヴァ)は、秋元才加、梅田彩佳、増田有華、宮澤佐江からなる4人組ユニット。AKB48の派生ユニットとしては6組目にあたる。 全員が「2期生」「旧チームK」「office48所属」という共通点がある。───◇DIVA/AKB48Wiki エケペディア(抜粋) AKB48のシングル曲のカップリングを担当するユニット名。これまで2度結成されているが、メンバーは異なる。 ダンス&ボーカルユニットで、メンバーは、ボーカル担当とダンサーに分けられている。・ディスコグラフィー 泣ける場所 「Beginner」Type-Bの3曲目に収録。 エリアK 「桜の木になろう」Type-Bの3曲目に収録。─── 既にユニットとしての「DIVA」が存在していた、「DIVA」のボーカル担当は(たぶん)秋元才加、梅田彩佳、佐藤亜美菜、佐藤夏希、倉持明日香、近野莉菜、増田有華。 秋元才加、梅田彩佳、増田有華は「DiVA」と「DIVA」で重なっている。 東京秋祭りでの「泣ける場所/DIVA」では一言一言を大切に紡いで聴かせてくれている、「ボーカル担当とダンサーに分けられている」が成功していたと思う。 今回の「月の裏側/DiVA」はLiveで聴いていると不連続感が発生している、ダンスパフォーマンスにより歌に集中出来なくなっている、特に各パートの終わりの声の処理がよくない。 このような事は練習段階から判っていた事だ、それとも「月の裏側」のダンスパーフォーマンス+歌は両立するの確信があるのか。 口パクを潔しとせず、音声に何らかの処理を行う事を最小限にしたいの判断があるのかもしれない。 AKB48で一番感動したのは(口パク度が高いかもしれないが)AX2009でのチームBの「初日」(TOP1だった)、良い表情と綺麗な涙、状況を考えると必ずしも口パクを否定出来ないと思う。 「泣ける場所/DIVA」の生歌(口パクでもなく音声に何らかの処理をあまりしていないの意味で使用)の素晴らしさを思うと、彼女達の歌姫としてのパーフォーマンスを発揮できるように環境を整えて欲しい。
2011.05.29
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1888年6月22日、枢密院で明治憲法案(いわゆる諮詢案)の第一審会議第二読会にて第二章「臣民権利義務」の審議に於いて森有礼は以下の趣旨を主張した。 「本章の臣民権利義務を改めて臣民の分際と修正せん。・・・臣民は天皇に対して独り分限を有し、責任を有するものにして、権利にあらざるなり。故に憲法の如き重大なる法典には、只人民の天皇に対する分際を書くのみにて足るものにして、其他の事を記載するの要用なし。」 これに対し議長の伊藤博文は 「抑憲法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり。 故に若し憲法に於て臣民の権理を列記せず、只責任のみを記載せば、憲法を設くるの必要なし。 又如何なる国と雖も、臣民の権理を保護せず、又君主権を制限せざるときには、臣民には無限の責任あり、君主には無限の権力あり。 是れ之を称して君主専制国と云う。 故に君主権を制限し、又臣民は如何なる義務を有し、如何なる権理を有す、と憲法に列記して、始て憲法の骨子備はるものなり。 ・・・ 蓋し憲法より権理義務を除くときには、憲法は人民の保護者たる事能はざるなり。」 (「清水伸・帝国憲法制定会議二一六頁以下による」/「憲法II(新版)/宮沢俊義」よりの抜粋) 伊藤博文の主張「憲法を創設するの精神は、第一君権を制限し、第二臣民の権利を保護するにあり・・・」、しかし大日本帝国憲法第3条の「天皇は神聖にして侵すへからす」は天皇が憲法下に置かれないの宣言に思える。 大日本帝国憲法は「第1章 天皇」、「第2章 臣民権利義務」、・・・ 日本国憲法は「第1章 天皇」、「第2章 戦争の放棄」、「第3章 国民の権利及び義務」、・・・ 日本国憲法に於ける「天皇の任命行為」「天皇の国事行為」は天皇の権利ではなく義務であり、「第1章 天皇」は「天皇の権利及び義務」の意か。
2011.05.25
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1945年4月7日:鈴木貫太郎内閣(~8月17日)成立。 ドイツの降伏が近い、枢軸国側の敗北を昭和天皇は1943年9月には確信、無条件降伏ではなく国体護持が保障された講和を望む。 「私はニューギニアのスタンレー山脉を突破されてから[1943年9月]勝利の見込を失った。一度何処かで敵を叩いて速かに講和の機会を得たいと思つたが、独乙との単独不講和の確約があるので国際信義上、独乙より先きには和を議し度くない。それで早く独乙が敗れてくれればいいと思つた程である。」 (「昭和天皇独白禄」 小磯内閣 (三)講和論の抬頭 より) 『皇族身位令』第十七条「皇太子皇太孫は満十年に達したる後陸軍及海軍の武官に任す」、皇太子(継宮明仁親王)は1933年12月23日生まれ。 「天皇家の戦い/加瀬英明」によると(抜粋・概要) 皇太子は特攻隊の活躍に対して「それほどまでしないと、日本は勝てないのでしょうか」。 昭和天皇は明治天皇崩御後の満十一歳で陸海軍少尉に任官、1945年(昭和20年)杉山・阿南陸相の軍の士気にかかわるとの催促に対し皇太子の少尉任官に同意しなかった。 昭和天皇は法令順守とは限らない、また昭和天皇の断固たる意思は統帥部・政府より優先されたと推測する。 1945年6月、沖縄戦が敗北の様相を呈し本土決戦が近い、『義勇兵役法』(1945年6月22日公布、即日施行)では男子は14歳頃、女子は16歳頃から服役を命じられる。 1945年3月10日には所謂東京大空襲。 3月21日の硫黄島に関する大本営発表「戦局つひに最後の関頭に直面し、17日夜半を期し最高指導官を陣頭に皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ全員壮烈なる総攻撃を敢行すとの打電あり。通爾後通信絶ゆ。この硫黄島守備隊の玉砕を、一億国民は模範とすへし。」 本土及び其の周辺に於いても帝国陸海軍の制空権・制海権は殆ど無くなっている。 1945年4月1日:米軍の沖縄本島上陸、4月12日:ルーズベルト死亡、5月8日:ドイツ無条件降伏、7月26日:ポツダム宣言、8月9日:ソ連対日参戦、8月15日:玉音放送。 当初、鈴木内閣はポツダム宣言(日本軍の無条件降伏)を黙殺した、しかしソ連の『日ソ中立条約』を破っての侵攻を機に国体護持を唯一の条件として受諾交渉を行なう。 米英ソ中政府を代表したバーンズ米国国務長官の回答は、 「・・・ 降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為、其の必要と認むる措置を執る連合軍司令官の制限の下に置かるるものとす ・・・ 最終的の日本国の政府の形態はポツダム宣言に遵い日本国民の自由に表明する意思により決定せらるべきものとす」 ・・・」 これは日本国憲法の第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」に反映されたと推測する。 1945年9月2日にミズーリ号で『降伏文書』の調印が行なわれた、明治維新による王政復古は80年持たなかった。 女性参加での第22回衆議院議員総選挙が1946年4月10日に行われ、形式上はこの議員達等により憲法改正が行なわれる形になる。 日本国憲法では主権は天皇から国民に、公務員(官吏)の奉仕対象は天皇から国民に移る。 特権階級の範囲・権力は制限され、国民が天皇・公務員に示したガイドラインでもある日本国憲法の第99条には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」と記された。 また不敬罪等の『皇室に對する罪』は1947年に削除された。 (刑法第73条:「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又は皇太孫に對し危害を加へ又は加へんとしたる者は死刑に處す」のように未遂でも死刑の場合があった) 『極東国際軍事裁判』、1946年4月29日に起訴が行われたが天皇・皇族は含まれず出廷もなかった、また絞首刑の執行は1948年12月23日に行なわれた。 第一次世界大戦後の『ヴェルサイユ条約/ウィキペディア』によると 「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)を被告人とする国際戦犯裁判の実施。日本を含めた各戦勝国から裁判官が派遣される予定だったが、ヴィルヘルム2世がオランダに亡命したため実現しなかった。」 敗戦で指導層が恐れたのは天皇・皇族を被告人とする国際戦犯裁判の実施、ロシア->ソ連のような革命による特権階級の崩壊と殺害だったと推測する。
2011.05.15
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「昭和天皇独白録」に於ける対米開戦前の高松宮・近衛の辞職と東条の組閣(昭和16年) 十月の初伏見宮が来られて意見を述べられた。即近衛、及川、永野、豊田〔貞次郎・外相〕、杉山、東条の六人を並べて戦争可否論をさせ、若し和戦両論が半々であつたならば、戦争論に決定してくれとの事であった。私は之には大蔵大臣〔小倉正恒〕を参加せしむべきだと云つて不賛成を表明した、高松宮も砲術学校に居た為、若い者にたき付けられ戦争論者の一人であつた。近衛、及川、豊田の三人は平和論、東条、杉山、永野の三人は戦争論、皇族その他にも戦争論多く、平和論は少くて苦しかつた。 東久邇宮、梨本宮、賀陽宮は平和論だった、表面には出さなかつた───・開戦の決定(昭和16年) 内閣の意見は既に開戦と決したが、尚一層慎重を期する要があるから、木戸と相談して、閣僚と重臣との懇談会を開かうと思ひ、木戸をして東条に話させた処、東条は承知しない、それで方式を替へて、私が閣僚と重臣とを食事に招くことにして、その食事の前後に懇談の機会を作つてやり、又一方私はこの機会を利用して重臣各自の意見を聴く事にして十一月二十九日に彼らを招いた。 ・・・ 翌(11月)三十日、高松宮が昨日の様子をききに来た、そして「今この機会を失すると、戦争は到底抑へ切れぬ、十二月一日から海軍は戦闘展開をするが、已にさうなつたら抑へる事は出来ない」との意見を述べた。戦争の見透に付ても話し合つたが、宮の言葉に依ると、統帥部の予想は五分五分の無勝負か、うまく行つても、六分四分で辛うじて勝てるといふ所ださうである。私は敗けはせぬかと思ふと述べた。宮は、それなら今止めてはどうかと云ふから、私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、若し認めなければ、東条は辞職し、大きな「クーデタ」が起る、却て滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであらうと思ひ、戦争を止める事に付ては、返事をしなかつた。 十二月一日に、閣僚と統帥部との合同の御前会議が開かれ、戦争に決定した。その時は反対しても無駄だと思つたから、一言も云はなかつた。───〓勝手に独断と偏見〓 大正天皇と貞明皇后の皇子は昭和天皇(1901年生まれ)、秩父宮(1902年生まれ)、高松宮(1905年生まれ)、三笠宮(1915年生まれ)。 「昭和天皇独白録」が作成されたのは敗戦直後、秩父宮は肺結核で療養中、昭和天皇が退位すれば高松宮が摂政の可能性が高かったと推察する。(皇太子が成年(満18歳)するまで大日本帝国憲法の改正が困難になるかもしれないが) 昭和天皇は高松宮の摂政(或いはスポットが当る事)に反対だったのか。 「昭和天皇独白録」で昭和天皇は英米との戦争を避けたかったと主張、高松宮に関しては「高松宮も砲術学校に居た為、若い者にたき付けられ戦争論者の一人であつた。」 しかし、1941年11月30日の時点では昭和天皇の「私は敗けはせぬかと思ふ」に対して高松宮は「それなら今止めてはどうか」と述べている。 高松宮の発言は昭和天皇が対米開戦を止める事が可能が前提、昭和天皇も同様の感覚を持っていたのだろう。 対米戦に於いて南方からの物資補給を安定化させるなど主たる戦いを行なうのは海軍、ドイツの海軍力を当てにしていなかったと思うが、米国を包み込むエリアに関して制海権・制空権を持つ事が可能とは思っていなかっただろう、また陸軍もワシントンを占領できるとは思っていなかっただろう。 欧州での戦いが続く間に軍事力で勢力圏拡大を行い、ドイツが欧州で勝利した戦後の講和会議で大東亜共栄圏を可能ならしめる、欧米の混乱に乗じて第一次世界大戦以上の権益を欧米に認めさせたかったのドイツ頼みが本音と推測。 「詔書煥発要望の拒否及伊勢神宮親拝」の<注>によると 1942年12月12日に行なわれた伊勢神宮親拝での戦勝祈願について新聞は「征戦下において・・・戦勝を御祈願あらせ給うた御事は、神宮御鎮座以来未だ嘗つて史上にその御前例なく・・・」。 しかし、東條内閣の末期・小磯内閣・鈴木内閣に於いて各総理からの国民を鼓舞激励する詔書を出して頂きたいの要望を昭和天皇は断わった事が記されている。 理由は「戦争を謳歌し、侵略に賛成する言葉しか使へない・・・皇室の伝統に反する」 枢軸側が敗色になると敗戦対策が始まる、大東亜戦争に於いて「侵略」の部分が存在するの認識を示しているのは興味深い。
2011.05.06
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