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前にも書いたが、私は年賀状が大好きである。だから、元旦の朝は必ず家に居て年賀状を待つ。明日ももちろんだ。 もう一つ好きだったのは、新聞の元旦版。内容はたいしたこと無くても、その厚さと特別さがたまらなかった。過去形なのは、最近そんなに楽しみではなくなったからだが。 大晦日に、紅白を観なくなって4~5年になるか。TBSがネットされていない秋田県では好きな格闘技も観られず、最近は日テレの「ガキつか 絶対に笑っては」シリーズで過ごしている。今も観ながらこれを書いている。 とにかく今年はこれで終わりということで、来年も自分のためだけに書き続けていこうと思うのでよろしく。
2008.12.31
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故郷夕張について、書いてきたが、このブログなんかに夕張市からの反応がないのは当たり前のことで、どうも思わない。しかし、新聞などの記事、投稿に対しても何の反応も無いというのはどうしたものだろう。 以前に書いたように、私も3年連続で朝日新聞の「声」に夕張についての投稿を掲載されているが、返答はおろか何の反応もないのだ。私の投稿に対してどうのこうの言っているのではない。少なくとも夕張に関しての記事があったら、それを読み、良いものは生かし、反論すべきものには反論するという姿勢が欲しいのだ。宮崎の東国原知事ほどのタレント活動をしろと言うのではない。でも、話題になっているうちに、夕張市は市の現状をうったえるべきだと思う。忙しいのも辛い立場なのもわかるつもりだが、どうか頑張っていただきたい。
2008.12.30
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今年やったことで一つ忘れていたことがあった。ドラゴンクエストを再開し、間もなく終わりそうなことだ。ドラクエは1~5までは完全クリアしていたが、息子の方が先に進んでしまい、忙しさもありやっていなかった。今回、ほぼ独身生活となり、息子からソフトを借りて5~8までに挑戦したのだが、現在、8の最終段階でクリアももう少しである。昔と違うのは攻略本よりネットサイトが頼りになると言うことか。50過ぎてテレビゲームでもあるまいが、ドラクエだけは、着いていきたいと思っている。
2008.12.29
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今日は公務員の御用納め、今は仕事納めとか言い直しておりますが。そしてこの日は女房の誕生日でもあります。公務員の私にとっては忘れようにも忘れられない、少々厄介な誕生日ではありました。彼女が生きていれば47歳、来年は年女だったわけです。 いろいろ考えることもありますが、昨日本当に久しぶりに夢に女房が出てきました。と言うよりも、私の意識が無理やり出演させたのでしょう。このように、年末はどうしても昔を振り返らざる得ない状況に陥ってしまいます。 明日、女房の弟が息子と娘を連れて来てくれることになっているが、この天候ではどうなることやら。
2008.12.28
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今日は大吹雪、クルマの運転もしたくないような降りだったので、外出の予定を変更し、2時間近くの雪かきを敢行しました。ケータイの万歩計が8千歩以上になるバードな運動を久しぶりにやりました。 今年の10大ニュースを考えてみた。1 恩人が亡くなる2 フェリーで母と北海道へ3 勤続30年となる4 朝日新聞の「声」に3年連続掲載5 駐車中のマイカー、2度ぶつけられる6 年末に家のボイラー寿命で買い替え7 女房の7回忌8 ブログ始める どうもこのぐらいしか思い浮かばない。まぁ、波乱の無いいい年だったということか。
2008.12.27
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2年続けての暖冬だと油断していたら、寒くなりました。通勤路が凍っていると時間は1.5倍、体は3倍疲れます。でも、今日で正規の仕事は終わりなので、やれやれというところです。さて、今年の最大のイベントは、高速フェリーで北海道に行ったことでしょうか。ナッチャンという名の高速フェリーは青森・函館間を2時間で走るスグレモノ。船も施設も立派で満足だったのですが、10月いっぱいで廃止になってしまいました。母と二人で貴重なラストランを体験しました。函館では大学の同窓会に出て、翌日、道央自動車道で札幌に行ったのですが、これがショッパかった。なにせ半分が1車線、通行車両も少なかったし、何か名前負けという感じでした。 また翌日、夕張へ自分のクルマで行けたのは、何か楽しかった。しかし、今思えば、ガソリン代が最も高騰していた時期に北海道を走ったわけで、ある意味では高価な旅として今年の10大ニュースに入る。
2008.12.26
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毎年年末に思うのだが、本当に1年が早い。年をとったということなのだろうが、これは環境の違いも大きいと思うのだ。 まず、正月に生活に困らない。コンビにではお節が売っているし、スーパーもデパートも元旦から営業しているのだ。学生時代は、家に帰らずにいると、正月はどこの店も開いていなくて、今年亡くなった喫茶店のマスターに世話になったものだった。世の中が便利になりすぎて季節や節目が無くなり、流れていってしまうような気がしてなりません。 とりあえず、年賀状も出したし、仕事も正規は明日で終わりなので、29日に帰ってくる子供たちにむけて、大掃除のまねごとでもするつもりです。
2008.12.25
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今年は、お葬式の多い1年でした。職場関係では、現役の仲間が何人か逝かれました。9月には大学時代に世話になった学生街の喫茶店のマスターが亡くなり、相模原まで日帰りで葬儀に行ってきました。11月には初めての係長が亡くなるなど、参列しただけで3回、できなかったものも10回近くあったでしょうか。そういう年齢になったのだと思うしかありませんが、このブログを始めたことも含め、平成20年は、わたしにとって節目の年になりました。
2008.12.24
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プリンターの不具合により、年賀状作りが難航して、昨日のブログが書けませんでした。ホント、このプリンターには困らせられます。なんとか完成し、今日から各々に書き込みをするつもりです。 話題はまったく違うのですが、2ヶ月前と今の景気や雇用の違い、あんまりだと思います。仕事先の企業や、この先のこと、そして何よりもリクルート中の息子のことを考えると、何なんだこれはと思います。どうなってしまうのでしょうか。
2008.12.23
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今年の年賀状が半分できた。裏面の絵の印刷が今、終わった。あとは住所の印刷と、コメント書きだけだから、25日には何とか間に合う。 私は年賀状が好きだ。もらうのも出すのも。小学校の頃は1年生から干支の版画を彫った。結婚してからは、家族を干支の動物にみたてて版画にしていたが、いつしかそれがプリントゴッコになり、さらにコンピューターへと変った。絵は女房の担当だったが、女房が亡くなってからは娘に代わった。 プリントゴッコの製造が中止になり、我が家のそれも今年、捨てた。なんとなく思い出を捨てるようで嫌だったが、これもしょうがないことなのだろう。そろそろ一家総出演の年賀状も変えなければならない時期に我が家も来ている。
2008.12.21
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12月22日の朝日新聞の「声」に私の投稿が載ります。こう書いてしまうと正体がバレてしまいますが、まぁ、あまり読んでくれている方もいないと思うのでいいか。 先日、夕張時代の幼なじみが遊びに来てくれて、夕張について話ました。来年は二人で行けたらと計画を立ててみました。実現するかはまだわかりませんが。
2008.12.20
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大学時代にマンガコレクターとしての人生を決めるようなことがあった。それは講談社手塚治虫漫画全集の創刊である。手塚治虫は私にとって人生最大の恩師である。忘れもしない昭和52年、全400巻の刊行が始まった。最初は相模原市淵野辺の松井書店に予約、それから秋田県に就職し、大曲の榊田分店、能代に転勤し一長堂書店、大館では又久書店、秋田市の三浦書店、鷹巣では津谷書店、再び大館でブックスアピアで完結。この間に結婚し子供が出来た。 日本に、この全集を全部買った人が何人いるのだろうか。どうでもいいことだが、すごく気になる。
2008.12.18
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中学時代は、書店から遠い地区に引っ越したこともあり、ほとんどマンガを購入しなかった。高校になって、週刊少年ジャンプを毎週買うようになったものの、単行本はほとんど買えなかった。札幌で浪人生活に入ると、開放されて気分で勉強もせず、マンガを買った。下宿していた新琴似にあった小さな書店で「キャプテン」を買っていた。 大学では、学生寮の4人一部屋の部屋に3人で住み、一人分の空きをマンガの本で埋め尽くし、さながら図書館のようだった。思い出深いのは矢部駅近くのこれも小さな書店で、忍者武芸帳を1冊ずつ買い、全巻そろえたことだった。
2008.12.17
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雑誌の他に総集編や単行本も買っていた。最初に買ったのは、白土三平の「真田剣流」だったと思う。コダマプレスで厚い新書版だった。これは買いなおして今もある。白土ものでは講談社の「イシミツ」を4巻だったか買ったが、人に貸して無くされた。集英社の「シートン動物記」は名作だった。今も持っている。集英社コバルトコミックス版の手塚治虫「0マン」全4巻を1巻ずつ、赤坂書店から買ったが、これも貸したまま無くされてしまった。今考えても惜しい。光文社カッパコミックスの鉄腕アトムも数冊所有していたが、残っているのは「エジプト陰謀団の巻」だけ。子供時代に貸した本を返してもらえなかった記憶は、今も深く心に残っている。
2008.12.15
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週刊誌に追われるように、月刊誌がどんどん休刊になっていった。最後まで残っていたのはまんが王だったか。一つの文化の終焉といえるほど、私にとっては大きな存在だった。週刊誌最後発の少年ジャンプは、創刊当時は、これは危ないと思えるような内容だった。しかし、現在は最大勢力ともいえるメジャーに育つとは・・・。高校生になった時に初めて定期購入したのもジャンプだった。読みたかったのは、ちばあきおの「プレイボール」だったが、手塚治虫のライオンブックスシリーズが載っていたことも大きな理由だった。 COMもお金さえあれば、創刊号から買いたかったが、小学生には無理だった。あと、ビッグコミックの創刊準備号の宣伝をサンデーで見て執筆作家に惹かれ、藤野書店まで勇んで買いに行ったが、あまりにも大人向けの内容に買えなかった思い出がある。あとは、3歳ぐらい上のお兄さんが買っていたボーイズライフも無理やり借りて読んでいた。本当に懐かしい。
2008.12.14
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サンデー、マガジンはさすがに創刊当初はまだ読めなかったが、小学生になった頃から読むようになった。手塚作品の「スリル博士」や「0マン」なんかはリアルタイムで読めなかったことになる。我が家で買ってもらえるのは盆と正月だけなので、あらゆる手段で毎号読めるように努力した。定期購入している人を見つけては友達となり、借りては読んだ。少し後に、少年キングがこれに加わり、毎週3冊を読むのは大変だったが、大学になるまでほぼ読み続けていた。キングの連載では、桑田次郎のエリートやキングロボが好きだったが、今、もう一度読んでみたいのが「魔犬五郎」だ。あとで調べてわかったことだが、作者はタツノコプロの重鎮笹川ひろし。ストーリーはほとんど覚えてはいないのだが、スマートなデザインと五郎という名前なのに子犬ができたことが強烈に印象的だった。 自分の好みは、サンデー、マガジン、キングの順だったが、これは時の連載陣により刻々と変ったが、なんとなくサンデーが好きだった。この3誌を渡り歩く売れっ子作家も多かったが、やはり手塚の「W3」事件は鮮烈だった。 私が晴れてマンガ週刊誌を定期購読したのは、昭和49年、後発の週刊少年ジャンプからだった。
2008.12.13
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月刊誌についてはもっと書きたいこともたくさんある。今考えると、あれほどの文化があれほどの速さで無くなってしまったことは驚異である。でも、そのど真ん中に居られたことは私にとって大きな財産だった。 これまで書いてきたように、私のマンガ暦は月刊誌に始まった。したがって、貸本とは、ほとんど接点がなかった。また、当時の夕張には、貸本屋という文化が無かったように思う。これは自分が幼かったためかも知れないし、当時景気の良かった夕張では借りるよりも買う方が手っ取り早かったためかもしれない。そういう訳で、現在のコレクションでも、貸本にはなかなか手が出ない傾向にある。蛇足だったが。 マンガ週刊誌は、ホント、夢のようなアイテムだった。同時創刊された、サンデー、マガジンは、40円。いや、創刊時は30円だったか。読んで理解ができるようになった頃に一番好きだったのは横山光輝の伊賀の影丸だった。詳しくは次回に。
2008.12.12
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その深谷理髪店には、私より1,2歳上の双子の男の子がいたこともあり、月刊マンガ雑誌がおいてあった。好きな順に、「少年」、「日の丸」、「少年画報」、「冒険王」、「ぼくら」、「漫画王」、少し遅れて「少年ブック」か。私が読める年齢になった頃だから、6歳だったか、「日の丸」は「おもしろブック」といっしょになり「少年ブック」になったという記憶がある。この順位は、手塚治虫の連載があったかどうかによる。「少年」のアトム、「日の丸」のナンバー7は大好きだった。手塚治虫については改めて長々と書くつもりだが、この月刊誌は、盆と正月にしか買ってもらえなかった。それで、私は9月号や1月号、2月号だけを買ってもらっていた記憶がある。「少年」については、近所の1歳上のマッちゃんが毎月買っていたので、アトム、鉄人、ポテト大将など、隅から隅まで完読した。「ストップ!にいちゃん」の面白さがわかったのは、かなり後からだった。たまらなく魅力的だったのは、別冊付録のマンガだった。年に数冊しか買ってもらえない月刊マンガ誌は、私にとって今も最大の宝物だ。しかし、この隆盛を極めたマンガ月刊誌も、週刊誌の出現に消滅してしまう運命にあったのだ。
2008.12.11
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子供の頃は、当時定番の「めばえ」「よいこ」「ようちえん」「小学一年生~6年生」という小学館の学習雑誌をとってもらっていた。待ちどうしくて発売日には配達の赤坂書店のおじさんを迎えにいったものだった。その中でのお気に入りは、藤子不二雄の「すすめ!ロボケット」だった。偽者のクロケットなんかが出た回は本当にワクワクしたものだった。残念なのは、この名作が今は読めないことだ。どのような事情なのかわからないが、是非、復刻して欲しいものだ。小学館クリエィティブあたりでなんとかならないものか。 いまだに世間で言われる「マンガを読むとバカになる」説は、昭和30年代には大人の常識であり、私の両親もその考えだったが、小学館の学習雑誌に載っているマンガだけは許されていたのだった。それ以外のマンガとの出会いは、月に1回連れられていった床屋の待ち時間だった。ここに置いてあるマンガ月刊誌を読むのが楽しみで、自分の順番が来なければいいと思ったものだった。その深谷理髪店(?)はこの10月に夕張を訪れた時にも、本町4丁目に健在でうれしかった。
2008.12.10
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私の最大の趣味は、マンガの収集である。手塚治虫、白土三平、ちばてつや、藤子・F・不二雄の私にとっての4大巨匠の作品を中心に、単行本などを集めている。これらに関しては現行出版されているものはほとんど購入している。ただし、ちばてつや作品については再販でもほとんど内容が変っていないので、コンビニ本などは買っていない。全部で何冊になるのかはデータを計算すればわかるのだが、おそらく5桁以上だろう。さらに、マンガ雑誌もIKKI、スピリッツ、ビジネスジャンプ、イブニングを購入しており、それも創刊号から全部保管してあるので、家の床が傾くほどの量であり、真剣に困っている。最近は、このコレクションを自分がどうしたいのか考え込んでしまうこともあるのだが、止められない。 麻生総理が漢字が読めないおかげで、またぞろ、「マンガを読むとバカになる」理論がぶり返してきているが、いい加減にしてほしいものだ。宝くじにでも当たったら、迷わず保管用の図書館を建てるのだが。 自分とマンガの関係を振り返って書いてみたい。
2008.12.09
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何度も書くが、最盛期の夕張は娯楽が充実していた。小学生だった私には知るすべもなかったが、当時の歓楽街は相当なものだったのではないか。小学生でもわかったのが、映画館の多さだった。家の近所に大映、本町には、東映、東宝、ちょっと離れると松竹や日活もあったと思う。なにしろ映画が娯楽の中心だったこともあり、東京と同じ封切り上映もあったと思う。東映の網走番外地なんかは、北海道ということもあり、全国に先駆けて上映されたこともあった。私のお気に入りは、ゴジラなどの怪獣映画と座等市。なぜかゴジラといっしょに上映されていた若大将もほとんど観ていた。 ある日、怪獣映画をいっしょに観に行こうとねだる2歳年下のターちゃんに、小学校4年生の私は「怪獣なんて、子供だなぁ、今は若大将だ」と言ったそうだ。 さすがに、兵隊やくざや渥美マリのしびれくらげなんかは見せてもらえなかったが、銭湯にポスターが貼ってあり、目のやりばに困りながらじっくり見ていた。あの時期にいろいろな映画を見ることのできる環境にいたことは今から考えると大変に有意義なことだった。
2008.12.08
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夕張に、もう一つ、ここにしかなかったものがあった。それは、洗炭機と呼ばれる採掘した石炭を洗う施設だ。昭和36年頃、夕張の中心だったヤマは本鉱と呼ばれ、そこから掘り出された石炭は、当時の夕張駅に運ばれ、そこから全国に運ばれていった。その駅の近くにあったのが洗炭機で、私の住んでいた住宅や通っていた夕張第二小学校のすぐ目の前にあった。志幌加別川(シホロカベツ)という川の水で石炭を洗い、その水をそのまま流していた。だから、その川の水の色はチョコレート色だった。当時はなんとも思わなかったが、今の時代なら許されるはずのないことだ。結局、石炭が出なくなり、何回かの事故の影響もあり、本鉱は閉じられ、市の中心は他のヤマへと移り、洗炭機は無くなり、駅も移動し、住宅も徐々に減り、小学校も閉校になった。炭鉱がすべて無くなり、住む人さえいなくなった今、志幌加別川は清流にもどり、サケの溯上さえ確認されたと聞く。
2008.12.07
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もう一つ、夕張にしかなかったのは、「人車」と呼んでいた乗り物だ。説明が難しいが、トロッコが山を登るようなもので、動力は巻き上げワイヤー。一応、運転手?がいて、乗客がほぼ乗り込むと、上に張ってある電線を鉄の棒でツンツンとたたく、すると頂上にあるモーターが回り、トロッコを引き上げるのだ。降りるときはこの逆。事故はあまり聞かなかったように思うのだが、ダイヤもなくおおらかな乗り物だった。もちろん無料だった。 どうしてこんな乗り物があったかというと、前にも述べたように、最盛期の夕張はヤマの斜面に隙間がないほどに炭鉱住宅が建てられていた。私の住んでいた福住は、1区から7区まであり、7区となると、ちょっとした登山をしなければ家に帰れないほどだった。そこに住む住人のために作られたと思うこの乗り物も、子供にとってはかっこうの遊び場だった。やがて、上の方に住む住人も少なくなり、昭和40年代後半には廃止されたと思うが、本当になつかしい、あの時代の夕張にしかなかった乗り物だった。
2008.12.06
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炭鉱の町、夕張には、ちょっと説明のしがたい施設がいくつかあった。その一つが、「太陽灯」と呼ばれた施設だ。字は違うのかもしれない。あとから聞いたところによると、この施設は、炭坑内で働き日光に当たる機会の無い労働者のために作られた、赤外線照射施設だということだ。今で言う日焼けサロンのようなものか。炭鉱の労働者は1日を3交代で勤務しており、3番方の場合、深夜から早朝の勤務になるため、日光に当たることのない日が1週間も続くことになるのだ。 その施設は、天竜橋を渡った高松地区の入り口に有り、当然無料だった。だが、本来は勤務する大人のための施設なので、子供が面白がって行くと、「お前たちには必要ない」と、管理のおじさんに嫌味を言われたものだが、これがなかなか面白かった。入場の時には目を保護するために水中眼鏡のようなゴーグルを渡された。中はただ妖しげな赤い光の中でパンツ1枚で座っているだけなので、子供はすぐに飽きてしまうのだが、なぜか私にとっては面白かった。私が、いまだにサウナ好きなのは、この時の記憶があるためなのか。今はこんな施設のことを知っている人はもう居ないのだろう。
2008.12.05
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自分がどうして、これほどまでに夕張に惹きつけられるのか考えてみた。幼い頃から、そこに育ったからなのか、学んだり、スポーツをしたり、恋をしたりした生活の思い出が残っているためなのか。いや、学んだ学校がすべて無くなり、住んでいた家も、街もすべて無くなったことに対する郷愁なのか。もちろん、それも大きいと思う。だが、それだけではないのだ。違うのだ。ここ数年、続けて夕張を訪れている。街は変わり果てているが、訪れるたびに、あそこに行けば、あの人に合えるのでは、とか、絶対にありえない出会いを思ってしまう。 昨年の幌南中学校の閉校式では、ことさら、その思いが大きかった。実際に思いもかけぬ人たちに会えた。でも、本当に会いたかった彼女は来ていなかったが。 自分でもよくわからないが、これは「帰巣本能」とでもいうものではないか。夕張に近づくにつれ、うきうきするのだ。空気が違うようにも思えるのだ。本当にこれは説明がつかない。 これからも夕張について、行って、書いてを続けたいと思う。
2008.12.04
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思い出しながら書きなぐってきたテレビ話だが、今回でいったん休もうと思う。そこで、あの頃、私の気になった三つのテレビドラマについて書く。 一つ目は、「愛人」というメロドラマ。北海道では午後3時ごろから週帯でやっていたように記憶している。ネットで調べてみると、主演は松尾和子、そういえば、「あぁぁー愛人、女の命」とかいうあの主題歌は彼女の歌だった。私が惹かれたのはリアルなエロいシーンだったと思うのだが・・・。 二つ目は、「いまにみておれ」土曜の10時過ぎにやっていた。青島幸男主演で、これもまた入浴シーンなどが出てくるので好きだったものか。相当なマセガキだったようだ。子供時代からの出世モノとしても面白かったように思う。 三つ目は、「お荷物こ荷物」。中山千夏、河原崎長一郎、林隆三、渡辺篤など大物俳優の若いときの作品。その恋愛模様が幼心に面白かった。 これらについては、じっくり調べなおしてみたいものだ。
2008.12.03
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海外ドラマ、とはいってもほとんどがアメリカだったが、これも思い出深かった。「ローハイド」はテーマ曲を覚えているだけだが、かっこよかった。「ララミー牧場」はバヤリースのチンパンジーのCMと淀川長治の解説の方が鮮烈だった。「ライフルマン」、「ローンレンジャー」、「ブロンコ」、「シャイアン」、「コンバット」なんかは、子供には難しかったが観ていたなぁ。 「3バカ大将」や「ちびっこギャング(大将?)」もハチャメチャで面白かった。ちびっこの方にパリーナという女の子が印象に残っている。「奥様は魔女」も好きだったが、やはりお気に入りは「ルーシーショー」だった。たしか高橋和江さんの吹き替えだったと思うが、「ビビアーン!」と叫ぶ声と、笑い声が最高だった。「ナポレオン・ソロ」、「スパイ大作戦」、「ミステリー・ゾーン」なんかは、今でもまた、観たい。
2008.12.02
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アニメ番組といえば、最初はNHKの「フィリップスくん」。ネットで調べてもよくわからないが、とにかくあれが最初だった。「ポパイ」、「バックスバニー」、「トムとジェリー」そしてディズニーのミッキーマウス。金曜8時の日テレでプロレスとディズニーを隔週でやっていたのを知っている人が何人いるのだろうか。 そして、北海道では日曜朝9時だったろうか、初の国産アニメ「鉄腕アトム」の登場である。手塚治虫は私にとって神様。これは掛け値なしに最高の作品だった。後を追って「鉄人28号」、これは1話完結ではない時もあり、新鮮だった。「8マン」は今では巨匠のSF作家が脚本を書いていたこともあり内容は充実していた。「狼少年ケン」は、今思うとかなりシャレたギャグがちりばめられていた。「風のフジ丸」は藤沢薬品の提供でこのタイトルになったと聞いたが、原作が白土三平の「忍者旋風」だと知った時の驚きは大きく、改めて白土三平の偉大さを認識した。アトムは別格として、良く出来ていて好きだったのが竜の子プロの「宇宙エース」だった。今リメイクしても十分に受けるのではないかと思う。
2008.12.01
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