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「ひとりで(生きて)いても(自分にとって)大事な人は残る」少し前の番組だが。TVでたまたま観た一般人の男性が口にした言葉。50代前半で多忙な仕事中心の生活をやめて、“田舎暮らし”を穏やかに楽しんでいる様子が、紹介されていた。ホントにただ何気なく観てただけなのに、その言葉が私にはちょっと刺さった。彼が“セミリタイヤ”を選んだときに、お姉さんがそう言って励ましてくれたのだそう。だから彼は「この言葉が支えになっている」のだと――――――。私はその男性ほど田舎に引っ越したわけじゃないが。今の家に転居するのを機に、音楽業界から離れ仕事の遣り方を変えた。大都会とも距離を置いたら、人間関係がどんどん整理された。新しい町で新しい仕事や趣味をゆるゆるとやるようになると、“それに相応しい人間関係”だけが残った。コロナ禍を経た最近なんて、暮らしぶりは更にゆるゆるになり本業の仕事にも戻れないまま。もう雑誌が売れないので、積極的に戻ろうとも思わなくなった。私が担当していた幾つかの雑誌も随分迷走中で、ずっかり様変わりして魅力がないし。その前に、都心に中距離移動しかも満員電車で通勤するのが今や億劫で。そんなこんなで、ますます“ひとり”時間が増えてきて、仕事やプライベートで関わる人数も驚く程減っている。SNSもしないので、そのテの“仮の友達”も全くいない。このままでいくと、私のそばに残るのはダンナだけになるかも?そんなことを最近時々本気で思う。いや、油断するとダンナにも飽きられるかもしれない。そうならないように、“最後の砦”だけは守らねば。そのための努力は怠らないようにしたい。★ ★ ★ ★ ★今日のひとこと。「やっとやっと“仕事初め”だー😭」岡村ちゃん🌹が楽しそうで、なんか嬉しい🎵
2024.02.09
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社会人になってからず―――っと仕事で“若者”に関わってきた。自分の子供がいないので、世の中の若い世代の“流行り”や“関心事”は仕事を通し、彼らから学ぶことが多い。しかし時にはとても“不思議で理解しがたい”流行も。今気になっているのは、『句点をつけない』文章がやけに目に付く点だ。タイムリーにも最近色んなメディアで取り上げられている。ある記事によると。若者が文章に句点をつけなくなったのは、2000年まで遡る。LINEは『文章に句点をつけない』のがマナーらしいが、LINEの誕生は、2011年。つまりLINEの遣り取りの心証関係なしに、若者は文章から『。』を排除していたのだ。“句点を打たない理由”が、何度聞いても不可解だ。文章の最後に丸があると、“冷たい”“怒っている”と感じるそうだ。え? なんで?? そもそも句読点は、文章を読みやすくするための配慮で打つのあって、読み手を威圧するための武器ではない。それなのに、なぜ負のイメージを抱くのだろう?『丸嫌い』の彼らの言葉を借りると、たとえば『モーニング娘。』は“怖い集団”になってしまう。若返りの進む現モー娘。のメンバーやそのファンは、どう感じているのだろう?ちなみに。私のblogでの名前についてる『。』は、猫の首の鈴みたいなもんで、誰かのマウントを取るためにあるわけではない。あ! でもこうして誰にもblogが読まれてないのは、私の『。』や長すぎる文章、それに加えて文面にちらばってる句読点が、他者に嫌悪感や恐怖を与えているってことか💡 なるほど~♪私は友達に誘われてもSNSの類いを避け続けてきたけれど。句読点を打てば相手に嫌がられたり誤解を招いたりするなら、やはり“自分向きではない”と確信した。長年活字と向き合ってきた私にとっては、『、』も『。』も“必要不可欠”だ。私の打つ句読点には、打つ位置や記号のひとつひとつに意味や想いを篭めている。それはモチロン読み手を脅すために打つのではない。私の“感情”に少しのリズムを添えるため。公私ともに活字に触れてきたから判るのは。「名は体を表わす」のと同じで、文章の筆跡や言葉や文章内の記号の選び方には、書き手の人間性や心情が色濃く表れる。それゆえに私は、これからも自分の書く文章には堂々と句読点を打っていきたい。私という人間をそこから湧き出る感情を、“誤解のない”文章で読み手に伝えていけるよう。★ ★ ★ ★ ★今日のやや長めのひとこと。「電車の“ダイヤ”を“ダイヤル”と言い続けてるような人が、“TVの現場記者”だなんて💧😧」❆❆余寒御見舞い申し上げます⛄
2024.02.06
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