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明けて葬儀の日。この日で、一通り兄を送り出す儀式は一段落になる。その日もまた、お坊さんの長い読経に続いて、焼香となる。実家の地方では、正式なお悔やみは通夜でするもので、都合の付かなかった人達に葬儀を開放するものだという事だった。その為、通夜と比べると席数が圧倒的に少ない。法会としては、四十九日までを一緒にやってしまう事になっている。これで、年内の公の法会は終わりで、それまでは家族が自宅で法要を行う事になる。葬儀の後、会食には親族と兄の勤め先から25人程度が列席してくれた。どこも明るく話が弾んでいる。揉める事もなく、責める声が聞こえる訳でもなく、どこも笑顔になっている。会食場のしつらえた祭壇には、運ばれた兄の遺影と共にマーチンも鎮座している。兄も一緒に笑っている。きっと、会社でも兄の居る宴会は、明るく笑顔が溢れていたのだろう。一段落して家に戻ると、祭壇は片付けられて仏壇の前に納められていた。昨日まで遺体が安置され、その手前に立派な祭壇が供えられていた。更に手前の仏間は、弔問客を迎えて偲ぶ話が続いていた。続きの二部屋を使っていた兄の送り出しが、仏壇の前の一角に納まってしまった。当たり前だ・・・ホッとした気分で家族の何人かが仏壇の前で寛いでいた。兄の思い出話だったり、通夜に来てくれた思いがけない人の話だったり。いつしか話は、自分のコートの話になった。コート、どこで忘れて来ちゃったんだろうね。いや、着て来たと思うよ。もう一回探してみなくちゃね。きっと兄貴が着て行っちゃったんだよ。寒い日だったし、棺にコート入れなかったからね。そうか、そうだよね、着て行っちゃったかもね。それなら春になる迄出て来ないね。その瞬間、仏壇が明るくなった。仏壇に供えられた、ロウソクの形の電球が、突然点いたのだった。そこにいた4人は、それが兄の答えだと納得して笑った。後で確認してみたら、電球が緩んでいた為に接触が微妙になっていただけだった。それにしても、タイミングが絶妙だった。これも、不思議な出来事として、記憶しておきたい。いつの日か、コートが見つかる日が来たら、この日の出来事を思い出すだろう。この日も、ロウソクの火は丸くなったり瞬いたり、忙しく形を変えていた。
Nov 22, 2006
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火葬場からそのまま通夜の会場に向かう。もう、誰の心にも悲しみなど入り込む隙間は無いだろう。みんな、誇らしげに、自慢げに式場入って行った。そこで目を奪ったのは、祭壇の端に乗ったギターだった。兄の自慢のマーチン。そうと分かるように、特有の形をしたギターケースも一緒に乗っていた。持ち込んでくれるようにお願いした記憶はなかった。バスの中でも、忘れてきたと思っていた。そのマーチンが、誇らしげに祭壇の端に陣取っている。葬儀屋さんが、思い出話の中に出て来るマーチンの話で気を利かせてくれていた。嬉しかった。祭壇から後ろを振り向いた瞬間、最も大きな不思議が目に飛び込んだ。兄の手掛けた仕事の中で、最も兄が満足していた仕事。常に自慢げに話していた屋内スケート場が、目の前に存在していた。間を遮るのは高速道路だけ。正に道1本挟んで、巨大なスケート場の前に立てられた斎場だったのだ。兄が仕組んだ、最大の自慢話がそこに有った。家族の誰もが笑った。自分の田舎では、訃報は新聞に掲載される事が多い。兄の訃報も、勤め先が新聞に載せてくれていた。その訃報を見て、どんどん弔問客が集まって来てくれた。200席近くを、殆んど埋め尽くして、通夜が執り行われた。外には、兄が旅立った日以来の雪が、チラつき始めていた。
Nov 21, 2006
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出棺の日には、冷たい雨が降り出していた。霊柩車を追う様に追走するバス。乗っているみんなの顔は特に哀しみに包まれている訳ではない。しかし、気が付くと会話が無くなっている。黙々と進むバス。途中で兄の働いていた会社に立ち寄って貰う。雨の中、社員全員が建物の前に並んで、兄を見送りに出て来てくれていた。一旦、建物の入り口の前に停め、低い警笛を残して霊柩車は走り出す。兄は、この職場で命を燃やしていたのだ。目の前に並んでくれた人達と、一緒に冗談を言いながら沢山の結果を残して来たのだ。思いもかけず、そこに居た兄の姿が見えるかのような気がして来ていた。ここに居る人達とう共有した苦労、喜び、躊躇、決断、日常・・・悲しみよりも誇らしさを感じながら、涙が止まらなくなっていた。兄は、ここでみんなに好かれていたという事が、何故か分かった。闘病中も、入院してからも、歩けなくなっても、それでも籍を置いてくれた会社。生存しているだけになっても、一員として認め続けられていた。その兄が、命の全てが燃え尽きるまで頑張って、戻って来たのだ。凱旋を祝って貰えているのかのような、誇らしさを感じてしまった。その空気を引き摺るように進むバス。誇らしさを失うことなく、バスはそのまま火葬場に付けられた。住職の読経が進む間も、その誇らしさは失せる事がなかった。最後の挨拶をして炉に入って行く姿を見送っても、家族の涙は長くは続かなかった。会社を一周した時に感じた誇らしさが、みんなを満足感に包み込んでいたのかも知れない。火葬を待つ間に、もう一つの不思議に出会う事になった。ドアノブに引っ掛けて、礼服のボタンが飛んだ。自分の礼服はダブルで、ボタンホールを介して力のかかるボタンは、礼服の外側に一つ、内側のベルトに一つ。そして、外側のボタンの逆側に、何の負荷もかからない飾りボタンが一つ。飛んだのはその、飾りボタンだった。ドアノブは確立を無視して、そのボタンを選択的に引き千切っていた。火葬の済んだ骨は見るからに脆く、崩れ落ち、手足の関節から先はその形を失ってしまっていた。目に付いたのは、腹の左側に位置する茶の列になった灰。丁度、ストーマから先の、出口を失った大腸の位置になるのだろうか。そこの何が有ったのか、明らかに他とは違う色の灰の列が鮮やかだった。そして、腰骨の左側を染める、紫色の斑点。いつも痛がっていた、骨転移部分なのだろうか。残った骨は脆く、一番太い腿の骨すら箸で拾う際に崩れてしまった。半分だけ原型を留めていた頭蓋骨も、箸で挟んだ瞬間に割れ、表と裏に剥がれてしまった。耐えられるだけ耐えたのだろう。志半ばでなどという言葉は、兄の生き方には適用出来ない。何もかも、果たしたという言葉の形容が相応しい。ここまでやった、自慢の兄の最後の仕事の結果を、見せ付けられているようだった。
Nov 21, 2006
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納棺の日の朝、上の甥(兄の長男)が不思議な体験を教えてくれた。兄の事を考えながら寝入ってしまった昨夜。ストーブも点けっ放しで眠ってしまったようだ。朝起きるみると、ストーブの火は消えていた。これは納得が行く機能であるらしい。ところが、腑に落ちないのは窓が開いていたという事。まるで、酸欠になるのを防ぐように開けられた窓。本人には当然のように、ストーブを点けたままで窓を開けた記憶なぞない。彼は、寝ている間に父親が会いに来たのだと主張していた。もう一つの不思議が起きていた。他界から明けた日、慌しい中での食事を作って来てくれた、叔母の話だった。朝早くに、ご飯が炊けている筈だった。ところが、どういう訳か炊飯器の中は水と米のまま。手動でもう一度試みるが・・・いつまでたっても熱が入らない。こういう、ご飯にまつわる話は、珍しくないらしい。今回のように炊けなかったり、水の分量を間違ってもいないのに、粥のようになってしまったり。酷い時には、炊き上がりの時間に、既に腐敗してしまったという話も有るのだという。ご飯が主食の、日本特有の現象なのだろうか。納棺では、家族がみんなで身体を拭き清め、死出の衣装に着替えさせる。顔の艶はそのままなのに、身体はことごとく冷たく、抜け殻である事を主張しているようだ。手足は、これ以上無いという位に細り、腕も足も骨の形がそのままに見えている。膝関節だけが大きく、瘤のように自己主張をしていた。衣装を着替えている間に、父が大きくシャクリ上げながら泣き出し始めた。母が悲しんでいるだろうと思うと、可哀相で泣かずにはいられなかったと言い訳をした。父は、昨年の夏にくも膜下出血から水頭症を引き起こし、全てが自分中心でしか考えられない。その父にとって、可哀相なのは兄ではなく、泣き出してもいない母の事だった。棺おけに納まった兄は、益々穏やかな表情になったように見えた。兄には、常に一緒に有った趣味として、ギターが有った。何本か所有しているもののなか、部屋にも3本が飾られたままだった。再発して治療が完治を目的とするものでなくなった時、兄は癌センターまで出て来ている。結果は、それまでと同じように延命為の治療を続けるのが良いという判断だった。半ば想像していた通りの回答を、確認しただけだった。その時は、本人も最後の長旅と覚悟していた。その旅の最後に、これまで頑張って生きて来た自分への褒美として、1本のギターを買った。自慢の30万円のマーチン。会社でも、若者達に自慢していたマーチン。しかし、そのマーチンは一度もお披露目の場を貰えなかった。兄の棺の横に、マーチンを飾ってやった。
Nov 19, 2006
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兄が他界した朝は、山が白く霞むほどに吹雪いたのだという。今年の初雪の日、旅立って行った兄。翌朝早く東京を発ち、実家に着いたのは昼過ぎ。親戚の叔父と従兄弟が駅まで迎えに来ていた。家までたかだか100mの距離を、わざわざ車で迎えに出ていた。車の中で状況を聞くまでの時間もなく、帰り着いた実家。いつもと同じように玄関に入り、いつもどおりの挨拶で上がる。いつもと違うのは、そのまま入ったのが居間ではなく、仏間の奥の和室。そこに兄は、キチンと仰向けに寝ていた。寝相の悪い兄は、そうでなくても仰向けに寝る事などはなかった。去年の6月に腎ロウの設置の後は、常に左を下に横たわっていたのだが・・・兄の顔は、8月の見舞いの時に見たよりも、穏やかだった。黄疸のせいか、青白さも消えて見易くなっていた。痩せて頬骨が出たせいで、明石家さんまばりの、良い男になっていた。その頬は、胸に仕込んだドライアイスのせいで、不自然に冷たかった。顔を寄せた瞬間、聞こえる筈も無い呼吸音が聞こえたように感じてしまった。その感覚は、出棺の日(21日)までの間、幾度も感じることになった。兄に挨拶をして、荷物を持って2階へ上がる時、一つ目の不思議が起きた。家から来て出た筈のコートが消えていた。どこで脱いだのだろう。新幹線で脱いだコートを、降りる際には着直した記憶が有る。コートの下は緑色のセーター。前日初雪が降ったばかりの土地で、セーターで駅に降り立ったら、それだけで目立つ季節。家に入る時にも、誰も不自然を感じていなかった。
Nov 18, 2006
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17時55分、お客様を迎えての打ち合わせ中に、携帯が鳴った。実家の母からだった。これから、兄の入院している病院へ向かうという。その声にはうろたえた様子も無く、穏やかだった。病院で兄についている姉から、今日明日がヤマという連絡が入ったのだという。ヤマと言われたのに、お前は来なくて良いからねと言う。さっき、父の食事が終わったから行って来るのだと言う。声の調子、来なくて良い、父が食事を取ってから出発?状況の緊急性に対して、伝えられる状況に臨場感が無い事に、違和感を感じながら電話を切った。まだまだ新幹線の時間には余裕が有るつもりでいた。先ずは打ち合わせを終わらせて、それから考えれば良いと思っていた。帰省するのなら、必要なものは何だろう?着替えさえ用意出来ずに行くべきだろうか?実家に帰っても誰も居ないのだ。深夜にタクシーを捕まえて病院に押し掛ける事は、兄への負担になるのではないか?それでも客を送り出して席に戻った頃には、とにかく新幹線に乗る事を心に決めていた。滞在期間が長くなる事を想定し、1週間先までのスケジュールを確認する。その間に立ち上がって来る問題も想定し、各所への指示を洗い出そうとしてみる。自分が居なくては進まない事も無いような気もするし、居なくては進まないような気もして来る。とりあえず、同僚に、予定されるそれぞれのイベントを声に出して伝え、想定に甘さが無いかの確認をする。その合間に終電の時間を・・・20時4分発。思っていたよりも、相当に早い時間だった。後片付けは復帰してからとして、先ずは駅に向かって走った。山手線に乗って東京駅に向かいながら、接続を確認する。何と、東京駅への到着は20時2分と表示される。乗り換え時間が2分。切符も買っていないのに、無理なんじゃないのか?そんな事より、今無理して行っても着くのは日付が変わった後の深夜。間に合わないなら無理しても意味が無いのだろうし、持ち堪えるなら明日の朝だって変わらないんじゃないか?でも、行きもしない自分を納得させる事は出来なかった。東京駅。自動券売機には、Suicaが入らない。何故だ?折角の自動化が意味無いじゃないか!有人の窓口には、それぞれに2~3人の待ち行列。2分しか無いのに、ハケる筈が無い。女性の係員に、ダイヤの乱れは無いのかと確認するが、定刻通りという。絶望感の中、案内板の表示から、目当ての列車の名前が消えた。20時4分・・・・乗れなかった。その瞬間、再度携帯が鳴った。高揚と落胆を含んだ、母の声だった。今、息を引き取った・・・19時59分だった・・・・・・来なくて良いからね、今はみんな泣いてるけど、大丈夫だから・・・急いで実家に向かう意味が無くなった。不思議に、大きな動揺も哀しみも湧かなかった。
Nov 17, 2006
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輸血が続いている。骨髄が造血の機能を働かせなくなって来ているようだ。腎臓が上手く浄化出来なくなって来ているようだ。ポートから強制的に入れ続けて来た高カロリー輸液。血は随分汚れてしまい、生命活動を続けるだけの力を失ってしまった。外から力を持った血液を補充して貰っている。自分の中で作り出せなくなった力。心ある人達の余裕の部分で分けて貰った力有る血液。どこまで行けるのか分からない。何かを改善出来る程の力を受け取れるのかも分からない。ここからでも立ち直せた人って居るのかな?そんな事は、理論上有り得ない事なのかな?もし、立て直せる可能性が有るのなら、そのタイミングを掴んで欲しい。そのキッカケを、逃さずに波を掴んで欲しい。もしもそれが、起こり得る奇跡なのなら。おじさんが亡くなった。疎遠で、会った記憶もない叔父。だが、父の話の中に何度も出て来た名前だった。一人ずつ減って行くのは当たり前の事。自分の人生に関与していなかった人が人生を閉じた話も、冷静に受け取れてしまう。たとえそれが、血の繋がった親族であっても。その亡くなった時の状況も、気にはならなかった。苦しんでいたのか、消えるように人生を閉じたのか。残された遺族の気持ちすら、心には浮かばなかった。兄の命、どこまで繋ぐ事が出来るのだろう。目覚める事のない彼は、何を感じているのだろう。何かを考えているのだろうか。考える力、感じる力は、残されているのだろうか。少しずつ薄まって行くように見える命。本人にしたら、ハッキリとした区切りなんて無いのかも知れない。朦朧とし、混沌とした状態が進んで行った先で、全てが止まるだけなのかも知れない。その瞬間を変化として受け取るのは、残されたと感じた遺族だけなのかも知れない。本人にとって、その瞬間とは?家族にとって、その瞬間からの変化は?自分にとって、その瞬間にすべき事は?選択が出来るなら、その瞬間が訪れない方を選びたい。生きろ!!
Nov 16, 2006
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体調は決して上向きではない。強張って運動しなくなった身体は、到る所に痛みが走る。落ちてしまったまま固定された首の付け根には、辱創が出来ている。言葉はハッキリしないが「痛い」という言葉だけが耳に届く。そんな中で、一つだけ改善した点がある。足の浮腫みが取れて来たのだという。未だ、足首はパンパンに腫れたままではあるが、指には関節の形が戻って来ている。本人にしてみれば、楽になっているという感覚も無いのだろうが、周囲で見守るだけの家族にすれば、そんな変化も嬉しいニュースとして伝わる。家族・・・一人一人が自分の辛さを口にする。自分の身動き取れない状況を訴える。幸せな気分を味わってはいけないという気持ちに心が縛られる。口に出しても良いのは、悲しさ、辛さ、苦しさ。疲れている。家族みんなが期待してはいけない状況に疲れている。本当に期待してはいけないのか?データやマニュアルで計れるものなのか?人生って、命ってそんなもんなのか?普通に生きてる事だって奇跡なんじゃないのか?生きろ!!
Nov 12, 2006
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地域の病院の環境は良い。空気についても音についても、心を癒すには申し分がない。そして、都市部から遠い。長い療養を必要とする、幼い世代が居る。特に専門の医療を必要とする訳ではない、老いた世代が居る。だから、地域の医療施設には掛け替えの無い、存在の意味がある。反面、専門医療が届かない地域。先進的医療との接点を持たない地域。日本全体で共有される、マニュアルによる医療。世界的に話題になる治療にも、関心は示されない。経過の分からない治療を継続させて起きた、状態変化へのマニュアルは無い。学会で報告された、機序の解明している薬の投与も、検討には上らない。そこには、エビデンスの無いものへの保証をする名前が存在しない。長期療養型の医療により、患者一人一人への心が通う。毎日の表情の違いまで見て、状況を積み上げて行く。心が通う医療。心が通っていれば良いのか?拒絶しなければならない程、ルールが大切なのか?一番大切なものは何なんだ?生きろ!!
Nov 3, 2006
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