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ワーテルローの戦い(The Battle of Waterloo)(1815年6月)後のナポレオンについては案外知られていないのではないかと思い、セント・ヘレナ島(Saint Helena)で亡くなりパリに帰るまでのナポレオンをちょっと紹介しておく事にしました。実はナポレオンと共にセントヘレナ島に渡った者は結構いるのです。特にナポレオンの側近として島に渡った者の中には、記録係もいるし、後に回想録を書く気満々だった人もいて、実際後に回想録が出されたりしているので島でのナポレオンの事は案外伝えられているようです。参考の為にウィキメディアコモンズからパブリックドメインの写真を借りてきていますが、オリジナル写真はパリの写真くらいです。パリの象徴とも言えるエトワールの凱旋門はアウステルリッツ(Bataille d'Austerlitz)の戦勝記念にナポレオンが造らせた記念碑なのです。彼は生きて完成を見る事はできませんでしたが、遺骸が祖国に戻った葬送の時に立ち寄っています。※ 凱旋門 (Arc de triomphe )の直訳は「勝利のアーチ」振り返れば、三帝会戦となったこのアウステルリッツ(Bataille d'Austerlitz)の戦闘こそがワーテルローの戦いの因縁になった闘いです。何しろオーストリアのハプスブルグ家を屈服させ、1000年近く続いた神聖ローマ帝国を解体。欧州の政治バランスを崩し覇権をフランスがかっさらった闘いだったからです。そしてそれはどう見ても勝利不可能な闘いでした。ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還セントヘレナ(Saint Helena)島当初のナポレオンの随行員ナポレオン最後の家最悪の医者ナポレオンの死因消えたナポレオンの本物のデスマスク遺体の返還請求Retour des cendres(灰の帰還)ナポレオンが造らせた凱旋門ナポレオンの眠るアンヴァリッド(Les Invalides)下にセントヘレナ(Saint Helena)島の位置を示しました。えらく遠くに追いやられてしまったのだと改めて思います実際、アフリカ海岸沿いに南下しギニア湾に入り西に進路をとりセントヘレナに向かった。※ セントヘレナはアフリカの海岸から1900km。ブラジルから3500kmの離島。当時は帆船。風が凪(な)いで航行できず、セントヘレナ沖に到着したのは出帆(8月9日)から67日目(10月14日)。上陸は1815年10月15日。ナポレオンの最初の感想は「気持ちの良い場所ではない。これならエジプトに残っていた方がましだった。」※ 遠征先のエジプトを密かに脱出し、フランスに戻りクーデターを起こしてナポレオンは皇帝になっている。ノーサンバーランド(Northumberland)号での航海の途中大砲に寄りかかるナポレオンNewcastle University のUniversity Library Special Collections から見つけました。※ この絵の複製は大量に販売されているようです。画家デヴッドにより大分美化された絵で宣伝されていたナポレオンですが、実際は170cmない小柄。しかも晩年は小太りしてずんぐりむっくり。一番リアル画像かもしれませんね。それにしても、哀愁(あいしゅう)感がハンパ無いセントヘレナ(Saint Helena)島島の発見は1502年。ポルトガル人によって発見され、島はヨーロッパとアジアを往復する船舶の寄港地として使われていたらしいが、本格的に入植するのはイギリスの東インド会社が補給基地としてかららしい。1660年の王政復古後、王(チャールズ2世)からの特許状を持って東インド会社は島の要塞化と植民地化を進めていた。※ 1658年建設された砦が現在のジェームズタウンそんな経緯があったから、当時の住民のほぼ半分はアフリカからの黒人奴隷だったそうです。ナポレオンが来る頃は広東貿易の寄港地として活用。当時の島の住人は5800人くらい。つまりセントヘレナ島はイギリス東インド会社が所有する大西洋上の船舶寄港地であった。下の写真は1790年の東インド会社支配下のセントヘレナ島とジェームズタウンの港を描いたエッチングです。ウィキメデイアからかりてきましたセントヘレナ島には砂浜の海岸が無い。1815年、この島にノーサンバーランド(Northumberland)号を旗艦として12隻の艦隊でナポレオンは来航する。ナポレオンを警備する名目で島には海陸の将校2181名が増えたらしい。とんでもない数である。捨て置かれた身のナポレオンにここまで経費を費やすか? とさえ思ったがやはりそれだけ大物だったと言う事なのだろう実際、英国政府はナポレオン派を警戒して島には部隊が駐屯したほか、海軍の艦船が島の周辺を警戒。また、隣の島であるアセンション島やトリスタンダクーニャ島にも英軍が派遣され警備。3000人の監視がついたとも言われている。※ナポレオンの死後、彼ら数千人の滞在者は島を去った。セントヘレナ島でのナポレオン (ウィキメディアからナポレオン救出の為に急襲されるのを恐れてか? 島には常に5隻の艦船がいたし、島の15カ所にナポレオンの状況を監視する信号所が設けられていた。散歩中、睡眠中などいちいち報告されていたようです。当初のナポレオンの随行員英国政府の計らいで、ナポレオンは3人の随行武官を選任する事ができた。武官の家族も一緒に同行。ベルトラン伯(42)・・皇帝の副官でエルバ島にも同行していた。妻ファニー。グールゴー男爵(32)・・砲兵科出身の将軍。ナポレオンを崇拝。モントロン将軍(32)・・1809年からの侍従。ナポレオンがエルバ等に流された時はルイ王朝に走り、戻ってくると再びナポレオンの元に。妻アルビーヌ。島で妊娠して出産。ナポレオンの子ではないかと考えられていたが、その子も亡くなってしまった。娘の名はジョセフィーヌ。ラス・カーズ(49)・・書記兼通訳として特別に追加。ナポレオン帝政下で枢密顧問。ナポレオンの回想録を書く気で参加。父子で参加。オマーラ(33)・・英国の海軍外科医召し使い10人・・オマーラ,ルイ・マルシャン,アリ・サン・ドニ,ノヴェラス,サンチーニら。※ 祖国フランスに残った将校らは軍法会議にかけられて処刑、投獄、流刑されている。セントヘレナでのナポレオンの住まいだったロングウッド・ハウス(Longwood House)ウィキメディアでパブリックドメインになっていた写真です。部屋室は36室。ナポレオンの住居には5つの部屋があったらしい。現在のロングウッド・ハウスはフランスがイギリスより買い取りして博物館になっているらしい。ナポレオン最後の家当初は副総督の別荘だった所を改築、ナポレオンに侍従してきた3将軍やその家族、召し使い10人、侍医、通訳などナポレオンを取り巻く人たちの家は増設され、それなりの屋敷にはなっていたようです。私たちの認識では今まで捕虜的な過酷な暮らしかと思っていましたが、行動範囲が恐ろしく限られていた事などを除けばフォンテーヌブロー宮殿の延長的な暮らしぶりだったようです。コックも居るし、ワインなども欧州や南アから美味しいのを取り寄せていたようです。何しろ貿易の寄港地なのだから結構いろんな物が得られたかもしれないですね。上の写真では清々しい感じですが、セントヘレナは気温的には悪くないようですが一年を通して曇天が多く、カビの繁殖はひどく夏には耐えられない蒸し暑さとなったようです。※ 天気の引用資料をミスりました。引用を隣の島から持ってきてました m(_ _)m当初降雨が多いとしましたが、実際は降雨は少ないけれど、一年を通して曇天が多く、湿度が高く蒸す日が多かったようです。日記にカビになやまされたとあったので露点は高くカビが繁殖したようです。セントヘレナは南半球です。夏のピークは3月ナポレオンは5月5日に亡くなったので、夏の終わり湿度は高い時期のようです。故遺体の腐敗は早く進み2日後にデスマスクをとろうとした時にはすでに困難な状況にあったようです病床のナポレオン これもウィキメディアからですが、ポピュラーな絵ですナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)(1769年8月15日~1821年5月5日)最悪の医者島の総督であった陸軍中将のサー・ハドソン・ロー(Sir Hudson Lowe)(1769年~1844年)は、ナポレオンが逃げたら自分の責任。さらに殺されでもしたら一大事。その為に必要以上にナポレオンの行動に口を出し、ナポレオンを悩ませる元凶になった男。何より、サー・ハドソン・ローの罪はナボレオンの主治医を島から追い出した事。そして具合の悪くなったナポレオンの為に適切な医師を用意しなかった事。真の医者がいなくなり、ナポレオンの健康状態は悪化。困ったナポレオンは母に頼みコルシカ島から医者を呼んだ。それがナポレオンの最後を看取った医者アントンマルキ(Antommarchi)でありデスマスクの制作者である。が、ナポレオン自身は彼をヤブ医者と呼んでいたそうだ。※ François Carlo Antommarchi(1780年~1838年)※ アントンマルキも後に本を出している。ナポレオンはアントンマルキが無理に飲ませた当時の催吐薬(さいとやく)である吐酒石(としゅせき)により胃を余計に悪くしてしまう。飲んですぐに粘液を吐き出すほどに悪くなったのにさらに医師は吐酒石(としゅせき)を飲ませている。そして一日に何度も嘔吐を続ける状態に陥ったようだ。※ 吐酒石(としゅせき)・・・酒石酸アンチモニルカリウムの別称(K2Sb2(C4H2O6)2)「ナポレオンは殺された」よりすでに胃が食を受け付けなくなり弱り切った時に今度はイギリス人軍医により便秘の薬と言う理由で甘汞(かんこう)を飲まされる。その量は通常の10倍。甘汞(かんこう)は塩化水銀( Hg2Cl)。ナポレオンがいつも飲んでいたビターアーモンドの入った麦糖液と作用してシアン化合物が生成。2日(5月3日と4日)にわたり飲まされたナポレオンはタールのような物を排出したそうだ(上から出たのか下から出たのかは不明)そして5月5日に息を引き取った。これだけ見れば今で言う医療事故が引き金といえる。でもそもそもは体調の悪い何かがあってのこれら薬である。Death mask of Napoleon(ナポレオンのデスマスク) ウィキメディアから借りてきました。パリの軍事博物館に展示されているこのマスクはアントンマルキ(Antommarchi)の子孫の寄贈のマスクらしいです。ナポレオンの死因公式にはナポレオンの死因は胃がんと公表されている。それは先に紹介した島の総督であった陸軍中将のサー・ハドソン・ロー(Sir Hudson Lowe)が、半ば強制的に胃がんで処理したかったからだ。万が一にも毒殺であればローの失態。責任問題である。持病でケリをつけて早く埋葬して隠したかったと言う事情があった。何しろナポレオンの体調が悪いので早く本国の医師に診てもらいたいと言う希望をローが退けてきた経緯がある。まさか本当に病気だったのか? あるいは毒殺だったら?・・と彼はおののいたのだろう。実際、ナポレオンの死の原因は何か? は非常に大きな問題である。今の科学で検査すればすぐにわかる事なのだろうが、フランス政府は遺骸の再調査の許可を出していない。その理由についてはまた色々ある。遺骸はナポレオン本人ではないかもしれないと言う不安もあるだろうが「胃がん死」が一番無難なのだろう。何にせよナポレオンの解剖はことのほか早く(24時間以内)に始まった。解剖医はアントンマルキ含む英国軍医の7人。胃の幽門あたりに潰瘍はあったらしいが、ガンが原因でない事だけはすぐにわかったらしい。問題は肝臓の肥大。しかし、これはローによって削除させられ本国には隠された。ところで ナポレオン胃がん説は、ナポレオンの父と妹が胃がんであった事から出た話であり、ナポレオン自身は生前これは胃ではないと否定しているし、「死んだら必ず解剖してくまなく調べて欲しい」と口癖のように言っていたそうだ。ナポレオン自身が不可解な体調不良に不審を感じていたのは間違いない。因みにこの時、ナポレオンの遺言で心臓が取り出され銀の容器に移されてからマリー・ルイーズに送られるはずであった。以前ハブスブルグ家の分割埋葬のところで心臓の事を紹介しているが、マリー・ルイーズがナポレオンの心臓を自分の棺に入れて眠ってくれるだろうと信じていたのかもしれない。ちょっと哀れだマリー・ルイーズは浮気して相手の子を身ごもり、ナポレオンとの間に生まれた皇子さえ捨てて、もはや完全にナポレオンの事なんか忘れていただろうに・・。※ 2018年6月「ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓」で心臓の保存について書いています。リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓消えたナポレオンの本物のデスマスクマスク造りを主導したのは英軍の六十六連隊外科医であったフランシス・バートン博士(Dr. Francis Burton)だったようだ。一応主治医であったアントンマルキであるが、彼は途中から補佐に入っただけ。バートン博士はデスマスクと胸像を作ろうとして、石膏が足りず、結局、顔面と頭頂部と頭の後ろの3つの部位の型を造り、後はパリで良質の石膏を手に入れてから作り直す予定だったと言う。ところが乾燥させている最中に肝心の顔面だけが持ち去られてしまった。理由は、すでに腐敗を初めていたナポレオンから型取りした顔ではあまりに醜く関係者には不満だったらしい。つまり当初制作したバートン博士のナポレオン像の型は消え、後にアントンマルキが別の若々しいナポレオンのデスマスクを造るに至ったようだ。そもそも、本当にアントンマルキが造ったかはわからない。造形師がいたかも・・。※ アントンマルキの新しい型からは6つのマスクが制作されたとされる。バートン博士は当然、自分に返還するよう抗議したようだが、所有権は注文主にあると主張され、最終的には英国政府もさじをなげたようだ。それ故、今出回っているナポレオンのデスマスクは、死後の顔ではなく、かなり美化された美しいナポレオンの顔なのだとされている。そもそも、ナポレオンの肖像画家であったダヴィットの描くナポレオンもかなり美化されて描かれている事は周知の事実。関係者はナポレオンの名誉を守った? と言う事なのだろう。それにしても亡くなったのが5月5日の夜。6日解剖。7日にデスマスクを採る。そして8日(4日目)には錫(すず)の棺に納められて溶接され、さらにマホガニーの棺に入れられて早い埋葬がされている。わずか2日ほどでナポレオンの体はかなり腐敗。すでにデスマスクを採るには無理があったとされているが、腐敗が進んだ理由の一つは解剖して開いたからだろう。そしてセントヘレナの暑さと湿気も進行を早めたのだろう。だからそれ故、20年後に掘りおこしたナポレオンの遺骸が、ことの外、保存状態が良かった・・と言うのが腑に落ちない。他にも理由はあるがそこに遺骸の取り替え説が浮上し、アンヴアリットに眠るナポレオンは本物か? 説が生まれたらしい。遺体の返還請求当初ナポレオンはセントヘレナのジェラニウム渓谷に埋葬された。本人の希望ではセーヌ川のほとりに埋葬してほしかったらしいが・・。ナポレオンが亡くなったのは1821年5月5日であるが、イタリアに亡命していたナポレオンの母后に知らせが届くのは7月23日。セントヘレナは遠い。ナポレオン自身が67日かけて島まで航行しているのだから・・。8月に息子ナポレオンの亡骸を返して欲しいと言う母の手紙がすくざま英国に送られた。それに対して、英国側は、フランス政府から正式な要請があれば返還の意志ありと伝えたとされるが、王政復古でブルボン王朝に返り咲いているこの時期にナポレオンがフランスに戻ることは不可能だったらしい。事情が変わるのは1840年のフランス7月革命で再びブルボン王朝が打倒されてからだ。ルイ・フィリップが王位に就くとにわかにボナバルト派の中でナポレオンの遺体を取り戻す動きが始まる。フランス政府も再び国民の中で起きているナポレオン人気にあやかるべく、公式に英国政府に働きかけることになった。ナポレオンは革命と自由の象徴として人気が復活していたからだ。英国のヴィクトリア女王も好意的であったらしいが、当時英国とフランスはアフリカ大陸の利権問題で微妙な問題もあった。それ故、この件で両国の平和維持が損なわれる問題になっては困る。お互いに譲歩しなければならない問題も含んでいた。英国としても、棺の中に本当にナポレオンが入っているか? は大きな不安材料だったようだ。確認の為に元の側近、ベルトランらが派遣されるも、万が一偽物であった場合も、英国に怒りを爆発させてはいけないと言い含められたようだし・・。Retour des cendres(灰の帰還)セントヘレナ島から船に積み込まれる棺 ウィキペディアから借りてきました。1840年7月7日、ナポレオンを連れ戻すべく船はル・アーブル港を出港。10月8日セントヘレナ島に到着。10月15日ジェラニウム渓谷の墓地で地下埋葬所の発掘が始まる。発掘作業は英国側が、しかも真夜中である。限られた関係者のみが墓に集まり、他の者は船から下りる事も禁じられ全てが秘密裏に行われた。棺の中を見ることが許されたのも数人のみ。この厳戒態勢がより皆の不審をかったらしい。さらに疑問の元になったのは1821年の埋葬時と1840年の発掘時の棺の状況の微妙な違い。加えて、英国のジョージ4世がナポレオン信奉者で1820年~25年あたりにナポレオンのミイラとなった遺骸を本国に運びウエストミンスターに置いたと言うまことしやかな話しがある。ここに英国がナポレオンの遺骸をすでに本国に運んでいたので別人でナポレオンの棺を造ったと言う説が生まれたのだろう。1840年12月14日にクールブヴォア(Courbevoie)に到着したナポレオンの棺 ウィキペディアから借りてきました棺を乗せた船はル・アーブル港からセーヌ河を遡ってパリまで到着。パリではナポレオンは葬列車に乗って市内を移動し凱旋門の下を通過。そしてアンヴァリッドへ。ウィキメディアでパプリックドメインになっていた写真ですですが、元はポスト・カード。ナポレオンが造らせた凱旋門1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まった凱旋門の完成は1836年。最初に紹介したように遺骸が祖国に戻った葬送の時に下をくぐり抜けてパレードしていますが、ナポレオンが最初に構想してから王政に移行し、再び共和制に政権が変わっているので、時の事情は建築デザインなどにも影響を及ぼしたようです。その為なのか?新古典様式とうたっている割には微妙。当初は帝政様式でデザインされてもっと装飾も多かったのではないか? と思うのです。ところで、現在は真下が無名戦士の墓碑になっているので車両の通行はできません。凱旋門は他にもありますが、放射状に道の集まるエトワールの凱旋門はナポレオンの葬送で遣われ、後にヴィクトルユゴーの遺体が安置され、第一次世界大戦の同盟国の勝利のパレード等国家的なイベントに利用される場となって行ったようです。無名戦士の墓(シャンゼリゼ方面こちらもウィキメディアでパプリックドメインになっていた写真ですですが、元はポスト・カード。葬列はアンヴァリッドにもうすぐ到着。ナポレオンの眠るアンヴァリット(Les Invalides)オリジナル写真は外観だけですが、ナポレオンの墓地となっているパリのアンヴァリッドを紹介。これも古い写真ですが、外観は変わらないので・・正式にはオテル・デ・ザンヴァリッド( L'hôtel des Invalides)1671年にルイ14世が傷病兵を看護する施設として造った軍病院に始まり、廃兵院でもある。現在は一部軍事博物館となっているそうだ。付属の礼拝堂ドーム教会は、もともと聖ルイ(ルイ9世)の遺体安置のために建設された堂。そこに地下墓所が設けられ、ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン1世)の柩が中央に安置され、囲むようにナポレオンの親族や武将の廟が置かれている。Tombeau de Napoléon(ナポレオンの墓)私自身は中に入っていないので、ナポレオンの棺の写真を上下共に、ウィキペディアから借りてきました。建築家ルイ・ヴィスコンティによって設計されたこの墓は1861年に完成。思う以上に立派な葬列をもって葬儀が行われていたようです。ナポレオンがヒ素に犯されていたと言う問題は次回にその根拠を紹介したいと思います。Back numberリンク ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子 ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還リンク ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Greenナポレオン関連リンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式
2019年02月22日
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以前テムズにかかる橋で「ウォータールー・ブリッジ(Waterloo Bridge)」について紹介した事がある。それはアーサー・ウェルズリー(後の初代ウェリントン公爵)率いるイギリス軍がワーテルローの戦い(The Battle of Waterloo)でナポレオンを打ち破った戦勝記念に橋につけられた名前だった。※ ウォータールーは英語読み。フランス語でワーテルローとなる。※ 2013年6月「ロンドン(London) 2 (テムズ川に架かる橋 1)」リンク ロンドン(London) 2 (テムズ川に架かる橋 1)ワーテルローの戦い(The Battle of Waterloo)(1815年6月)は、必ず世界史で習うので聞いた覚えがあると思うが、かのナポレオンが失脚する最後の戦線である。ナポレオンの100日天下と言われ、エルバ島より帰還し、皇帝に返り咲いたのにその皇帝率いる20万のフランス軍が連合国軍に負けてしまった一大事件である。最も相手の連合国は英国、オランダ、プロイセンと打倒フランスの先鋭部隊であったし、数も勝っていたが・・。ナポレオンに勝利した英国やプロイセンの喜びはいかばかりだったか。ウォータールー・ブリッジ(Waterloo Bridge)のように関係の無い土地でも勝利をアピールする名前がつけられたりしているのだから・・。では負けたランス軍の方は?フランス議会はすぐさまナポレオンを切り退位をせまる。幾つかの条件付きでフォンテーヌブローでナポレオンは退位をよぎなくされた。その時のナポレオン最後の演説については2017年「フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)」演出効果バツグンの馬蹄形の階段(ナポレオン別れの中庭)にて紹介しています。リンク フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)当初ナポレオンのおかげで領土を広げ、一時は欧州全土がフランス領になるかと言う大進撃をしていたナポレオン。戦争の天才ナポレオンはフランス革命後の悲惨な国の経済を救った救世主であった。また共和制への秩序ある移行など今のフランスを造った偉人としてたたえられるべき人物であるのは間違いない。しかし、良い時は賛美されたが時の国民はナポレオンを必要としなくなった? 戦争を続けるナポレオンに嫌気がさしたか? 国民はナポレオンを求めなかった。また連合国によりフランスは王党派が返り咲きナポレオンは祖国フランスを出るしかなかった。※ 因みに、今後のフランスにはナポレオンの起こした戦争のせいで賠償金がのしかかる。ワーテルロー後の第二次パリ条約により領土は1790年当時へ縮小。賠償金は7億フラン。さらに監視の為にフランスに駐留する同盟国の軍隊とその駐留経費の負担(最長5年間)の支払いを認めさせられた。かくしてナポレオンが失脚した後、フランスとイギリスは共にナポレオンの処遇に悩むことになる。ナポレオンは英国への亡命を希望したからだ。.フランスの希望は、決してナポレオンを殺してはいけないと言う事。今の危ういルイ王朝ではナポレオンを処刑すれば自分達の命取りになる事を知っていた。一方英国でも脱走されても困るし、また返り咲いたら大変。簡単に戻ってこれない大西洋の小島に追いやり、完全警備の元にナポレオンの命に危険が無いようするのが得策と考えた。これがセント・ヘレナ島(Saint Helena)へ送られた理由である。そう言う経緯を見ると、これは決して流刑ではない。ナポレオンにとってはどちらも同じような事だったろうが・・。※ ナポレオンはそのままセントヘレナ島を出る事なく1821年5月5日に亡くなっている。※ 現在、その死因は慢性ヒ素中毒の上の水銀中毒と考えられている。今回は、ナポレオンとワーテルローと帽子と武具の話しになりました。発端は2018年6月にワーテルローの戦いでナポレオンが使用していたフエルトの二角帽がオークションに出品され高値で落札されていたニュースを見つけた事からでした。この帽子の来歴としてワーテルローの戦いを紹介。写真は古戦場のワーテルローです。流れでワーテルローの戦闘で使用されていたであろう武具を見つけました。結構貴重だと気づき写真を増やしたので後ろが押し出されたのです。ナポレオン(Napoléon)全2回になります。ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子ナポレオン(Napoléon)古戦場ワーテルロー(Waterloo)戦場の花形 胸甲騎兵(きょうこうきへい)の胸甲(甲冑)ナポレオンの帽子ワーテルロー(Waterloo)でもうけたロスチャイルド家(Rothschild)件(くだん)のナポレオンの帽子は後にして、まずはワーテルローから紹介。古戦場ワーテルロー(Waterloo)当時はフランス領であったが、現在はベルギー王国のブラバン・ワロン(Brabant wallon)州にある。※ ベルギーのほぼど真ん中。正確にはワーテルロー南南東5kmのモン・サン・ジャン(Mont Saint Jean)である。ゲルマン語のwatar(水)と、オランダ語のlots(斜面)、los(草原)に由来していると言うだけあって確かにほぼ今も草原。地平線が見えるほどに・・。写真はかなり前のものであるが、若干観光施設はできてもそんなに景色は変わっていないらしい。元フランス領であったこの地(ブラバント)では英国ひきいる連合軍が勝てばオランダに併合される不満があった。ナポレオン側に付いてくれると期待もあったのだろう。実際、ベルギーは今もフランス語圏である。負けて退位した後もナポレオン人気は高かったのだろう。近年、毎年6月になると有志によるワーテルローの再現イベントが行われているそうだ。そもそもナポレオンの敵は連合国だけでなく、フランス王党派と言う国内にも敵がいた。フランスは一枚岩ではなかったのだから人数も集められず、ワーテルローの敗戦も仕方無かったところがあるな、とは思う。※ フランス軍およそ20万人に対して、連合国はウエリントン率いる英国軍10万、ブリュツヘル率いるプロイセン軍12万、オーストリア軍25万、ロシア軍17万と言われている。ナポレオンは部隊が全部集結する前に、一つずつ片付けて行けば何とかなると読んでいたようだ。※ 参考文献は「ナポレオン帝国の栄光と没落」からしかし、戦いの部隊の展開など、かなり読みが外れて失敗している。感は衰えたのか? 運に見放されたのか? 精彩を欠く戦争だった事など「ナポレオンは終わった。」と、自身も思ったかもしれない。実はこんな何もないワーテルローであるが、この戦いの直後からここを詣でる人が出現して観光地となっている。200年前の当時トーマス・クック(Thomas Cook)はすでにワーテルローを組み込んだパック旅行を出していた。以前ブルージュの所で国の歴史についても紹介しているが、ここから近いブルージュの街は、古戦場ワーテルロー見物のついでに足をのばす場所として復活し、栄えたのである。※ 2014年3月「ブルージュ(Brugge)1(街のなりたち)」の中「死都から古都ブルージュ(Brugge)へ」リンク ブルージュ(Brugge) 1 (街のなりたち)ライオンの丘この平原を見渡すもってこいの高台。モン・サン・ジャン(Mont Saint Jean)にある通称「ワーテルロー・ライオン」激戦区であったモンサンジャン(Mont Saint Jean)につくられた、高さ45mの塚はオランダ国王が造らせた物。ワーテルローに参戦していた第1軍団長オラニエ公ウィレム(後のオランダ王ウィレム2世)が負傷したとされる場所に戦勝の記念と戦死者の冥福を祈るための塚として建設された。ライオンの像は、フランス軍が残した大砲を鋳潰(いつぶ)して造くられたそうだ。ナポレオン軍 vs 英国軍ウエリントン&プロイセン軍ブリュッヘルそういえばナポレオンは砲兵科の出身であり、大砲を用いた戦術に長けていた。18日、最初のウエリントンとの対戦では騎兵は互角。大砲の数でははるかに勝っていたと言う。砲撃と突撃を繰り返し行ったが、ウエリントンは防御戦にかけては一流。時間がかかりすぎた?そうこうしている時にプロイセン軍のブリュッヘルがナポレオン軍の側面から牽制。ウエリントンは逆転に転じ攻撃。ブリュッヘルに追撃され勝敗はこの戦いで決まってしまった。そもそも今回の戦いは、このベルギー戦で、ウエリントンとブリュッヘルを押さえられるかが鍵だったので。階段は226段。台座にはこの戦いが行われた日付が刻まれている。 XVIII JUNI MDCCCXV(18 JUNI 1815)ワーテルローの戦闘絵図下の絵のみ 画家 William Sadler (1782年~1839年) ウィキペディアから借りてきました。大砲こそあったが、まだ騎馬の戦闘だったようです。先ほどふれましたが、砲撃と突撃を繰り返すと言う攻略の中でも、騎兵による集団突撃を特にフランス軍は重視したと言います。その突撃の先陣を切るのが胸甲騎兵(きょうこうきへい)です。ナポレオンの戦略の中では最も大事な部署で決め手の一線で投入。一見、中世の甲冑を身にまとった選ばれし騎兵は最強の騎兵で、当然花形だったそうです。ブリュセル軍事博物館に、これら衣装や武具が展示されていました。今、振り返れば、ナポレオンが戦った時代の物だった?ベルギーはフランス語圏。こちらの武具のコーナーはほぼ解説も無し。英語の表記など皆無。このコーナーはもしかしたらワーテルロー等での戦いのコレクションルームだったのかもしれない。ナポレオン時代の大砲戦場の花形 胸甲騎兵(きょうこうきへい)の胸甲(甲冑)甲冑(かっちゅう)は結構見てきましたが、他で見た記憶がなく、甲冑図鑑にも無いので知りませんでしたが、胸甲騎兵自体の登場は30年戦争あたりかららしい。それは拳銃の登場によって戦い方が変わった事によるようです。胸甲騎兵(きょうこうきへい)の胸甲は、近代戦の甲冑だったわけで、中世のプレートアーマーとは構造で別物でした。フランス式の胸甲(French cavalery armour)銃に対抗する為にプレートアーマーはより防御力を持たせる。装甲は厚く、でも重すぎるので従来の甲冑よりも防御面積を減らす。かつ動きやすさも加味してこのような胸とヘッドの甲冑になったようです。ドイツ製鉄鋼のそれは頑丈で致命傷を免れるほどだったそうです。上半身を包む形の胸甲花形の甲冑だけあって実用と装飾が融合しておしゃれ感があります。下二つは冑(かぶと)です。解説がなかったのでわからないですが、上のNマークはナポレオン????のわけないか・・下の冑の雷(いかづち)を掴むワシもナポレオンの意匠ではありますが・・。二丁のピストルを装備して敵の隊列に突っ込み進路を切り開く胸甲騎兵もいたらしい。何にせよ、フランス軍の胸甲騎兵はナポレオン時代最強の騎兵だったそうです。玉を見るとどれだけの破壊力があったのか興味ありますね。下はサーベルや銃で作られたオブジェでしょうか? なかなかセンスある展示方法です。他では見た事ないかも・・。下はナポレオンの帽子かもしれません。隣にナポレオンの肖像がかけられていたので・・。下の肖像画、共にブリュツセルの軍事博物館で撮影ナポレオンの帽子2018年6月にオークションに出品されて高値で落札された帽子はこちらフランス東部リヨンで展示されたフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトのものとされる二角帽子※ ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)(1769年~1821年)AFP BBニュースからオランダの将校が1815年にワーテルローの戦いで戦利品として持ち帰ったとされている。当初の落札見込み価格は3万~4万ユーロ(約400万~500 万円)であったが、結果は日本円にして4500万円(50万ユーロ?)で落札されたらしい。4年前に競売に掛けられたナポレオンの別の二角帽子の落札額は190万ユーロ、当時の為替レートで約2億7000万円)には遠く及ばないが・・。今回はコンディションがかなり悪いから仕方ないらしい。ところで、同通信の資料によればがナポレオンが帝位にいた15年にフランスの帽子職人プパール(Poupard)に120個もの帽子を作らせているらしい。が、そのほとんどは不明。素材はビーバーの毛皮を使った黒いフェルト製の二角帽子であるが、TPOによりいろんな帽子を使い分けていたと思われる。本来、二角帽子は縦向きで着用するが、ナポレオンは好んで横向きに着用。遠くにいてもすぐに見つけられたと言う。それも戦略だったのか?下はウィキペディアから借りてきた写真です。近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着用したらしい。ワーテルロー(Waterloo)でもうけたロスチャイルド家(Rothschild)戦争は経済を動かす。その為に仕掛ける場合もあるが、このワーテルローの戦いで、ロスチャイルド家か大もうけしている。「ワーテルローの勝戦」について、公式発表よりも情報を早く入手した銀行家のネイサン・メイアー・ロスチャイルド(Nathan Mayer Rothschild)(1777年~1836年)は売ってコンソル公債を暴落させた所で買い戻す。と言う意図的な株価操作をして莫大な利益を得たと言われている。公式に戦勝報告が出れば株価があがる事を知っていた。あえて負けの様相を示して暴落させての行為。インサイダーに近い手法でのやり口であるが、ロスチャイルド家の情報収集力はハンパ無かったと言う事だ。このネイサン・メイアー・ロスチャイルドこそが莫大な資産を有する実業家ロスチャイルド家の祖である。最後にナポレオンの眠るパリのアンヴアリット(Les Invalides)を加えるつもりでしたが、ナポレオンの死について追加したくて独立させました。アンヴアリット(Les Invalides)は次回に。つづく ナポレオン続編と関連リンクてす。リンク ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還リンク ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Greenリンク ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式リンク
2019年02月11日
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