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タイトル ミスしちゃいましたBreak Time(一休み)フォッサマグナ(Fossa magna)と白根山1月23日。白根山がついに爆発。正確には現場は本白根山(もとしらねさん)だそうです。今回の噴火も被害者が出てしまいました 悲しい事です。亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。それにしても今回の被害場所は草津国際スキー場。2014年9月に起きた御嶽山の噴火を皆さん思い出した事でしょう。今回は雪上訓練をしていた自衛隊員の方々が一番の被害者になられましたが、これが夏場であったなら、御嶽山同様にもっと一般観光客に被害が出ていた事でしょう。白根は、スキー客より夏の草津白根の観光客が多いからです。※ 夏はリフトに乗ってトレッキング。あるいは軽装で山頂まで登って引き返す一般観光客が多い.それにしても驚きました。噴火警戒警報が下げられていたそうです。2014年9月の御嶽山噴火。そして2014年11月の長野県北部で地震。この年に草津白根山も噴火警戒レベルが2に引き上げられていたからです。それなのに昨年6月に1に下げられていたとは・・。実は2014年11月の長野県北部地震の時「ハプスブルグ家の三種の神器」を紹介した時に「フォッサマグナが怪しくなってきているのでは? 」とコメントを書いていたのを思いだしました。当事、草津に旅行していた両親らから、草津白根ルートの道が閉鎖されていた。と聞いて、こちらも火山活動が活発化。近いうちに爆発するのではと思っていました。以前書いた内容は、東北の大震災で歪みねじれた地層を修復するかのように列島が少しずつよじれを戻しているかのように思います。それにともなって若干の火山活動が起きているのか? 日本を東西に分断するフォッサマグナ内の山が微妙に活動を始めているのも気になります。 今回(2014年11月)被害の大きかった白馬はフォッサマグナの西側線にある飛騨山脈の北。 今年9月(2014年9月)に爆発した御嶽山も飛騨山脈の南の末梢。そしてフォッサマグナの東側線にある草津白根山も今年に入り噴火警戒レベルが引き上げられています。これ以上の災害はゴメンなのですが、油断できないフォッサマグナの地域。そして今後アルプス越えて歪みの修正は西日本にも起こるのか?気象庁は2009年に湯釜火口の内部の温度が高い状態と発表。2014年3月上旬から山の直下を震源とする火山性の地震が増えた事、山頂付近の地殻変動がありわずかに膨張。2014年5月以降は火口直下の温度上昇。2014年6月「火山活動は活発化しており、小規模な噴火が発生する可能性がある」として噴火警戒レベルを「レベル1」から火口周辺規制の「レベル2」に引き上げている。1度活発化したものが終息するわけはなく、なぜレベルを下げたのだろう。これもまた観光との兼ね合いなのだろうか?白馬はフォッサマグナの西側線にある飛騨山脈の北。2014年9月に爆発した御嶽山も飛騨山脈の南の末梢。フォッサマグナの東側線にある草津白根山。フオッサマグナ(Fossa magna)の場所の地図を載せてみました。(Wikimedia Commonsから)オレンジの部分です。先に紹介した山は、ちょうどブルーのライン上にあるのです。西縁は糸魚川静岡構造線(糸静線)東縁は新発田小出構造線及び柏崎千葉構造線(異説あり)フォッサマグナ(Fossa magna)語源はラテン語。「大きな裂け目」とか、「大きな溝」と言う意味。東日本と西日本の境目。中央地溝帯(ちゅうおうちこうたい)とも呼ばれ地質的に全く造成期が異なる地質の断裂帯である。東域と西域は2億6000万年以上前に形成。中央地溝帯は約1600年前に形成。フォッサマグナ誕生2000万年前、太平洋プレートがユーラシアプレートの下に沈み込み、アジアの地殻は変動。マントルの上昇流によって火山活動が起こった。やがて湖(日本海)とフォッサマグナとなる陥没地帯が誕生する。湖はさらに拡がり日本海となる。その日本海にはマグマの貫入で多くの海底火山が誕生。フォッサマグナの落ち込みには海水が浸入。海となる。(フォッサマグナ海峡)海峡は1200万年前に砂岩泥岩互層によって埋まる。※ 海だった証拠にフォッサマグナでは魚類の化石が出土。日本列島は地震を起こしながら山地や丘陵は隆起。全体に土地が持ち上がった。海峡であったフォッサマグナも海から陸へと上昇。日本列島が火山と地震の国となったのはこうしたその生成にあるからだ。地図上では普通に日本列島であるが、確実に中央部は異質の陸。フォッサマグナの圧縮によってできた断層にマグマが貫入して、地表に染み出やすいからつなぎ目となるライン上は火山活動も活発化するのだろう。フォッサマグナが活発化したのは東日本大震災が関係しているのではないか? と言うのが前回の感想でしたが・・。日本列島の構造は複雑怪奇。どこに地震が起きても、火山が爆発しても不思議じゃない造り。何万年周期で見たら、どこにそれがあたるかなんて解らない。子供の頃に今回の噴火地点、鏡池界隈に行った事がある。硫化水素(りゅうかすいそ)がきつかったのを憶えている。母は、やはり子供の頃に浅間山に登り、翌日噴火したそうだ。運とか不運とか、確かにあると思う。それでも今は科学の時代。専門家もたくさんいるのに今回も全く無防備で被害者多数。なぜ事前に解らなかったのだろうか?気象庁にはとても残念だ。
2018年01月26日
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さて、昨年「倭人と渡来人」シリーズ1~5で、古来日本にやってきた渡来系氏族について書きました。内容は後半、その中でも最も大きな氏族である秦氏(はたうじ)と、彼らが日本にもたらした功績についての紹介となりました。Back numberはラストにまとめました。秦氏は大人数で渡来。日本各地に散った一族はそれぞれに成功。冨を築き、朝廷の大きなスポンサーになったにも関わらず謎が多い氏族です。謎が多いとは、秦氏の役割存在は大きいにもかかわらず、政界に進出する欲がなかったようで歴史の表に出て来る人物も、彼らの仕事についても記録がほとんど残っていないようなのです。そして、そればかりか、秦氏の名前は8~9世紀頃より歴史の表舞台から消えて行く。※ その理由については、ちょっと思う所がある。今現在、秦氏の子孫とされる一族は多々いるようですが、その後の秦氏について公式に語られてもいない。ましてどういった経緯で日本に渡って来たのかも、ハッキリされていないので相変わらず謎の一族のまま。しかし、解らないのを良い事に、「秦氏はユダヤ人だ」とか言う話をでっちあげて真実のように語っている人達がいるのに驚いた秦氏については、歴史で検証できる事実において、曲げられない真実もある。それら話はそんな真実も無視したものだ。先にその問題を片付けたいと思う。そもそも、その原因の発端に木嶋神社(このしまじんじゃ)の看板があるのではないかと思う。「倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎」では、バカバカしてくあえて簡単に流したが、元糺(もとただす)の森の元糺(もとただす)の池にある三柱鳥居(みはしらとりい)が、景教(キリスト教の一派ネストル教)の影響か? と言う風な事が書かれていた事だ。当の神社がそんな事を載せるようでは鵜呑みにする者が出るのも致し方無いが、三角形を見たらなんでも三位一体にはめるのはいかがなものか。私の結論(史実から導き出した結論)では、あの鳥居が石造りになるのは江戸の終わりか明治の頃。それ以前は木造の姿で浮世絵に描かれている。そもそもあの鳥居は平安の頃には無かったと推測される物だ。平安時代にあったなら、賀茂神社にも同じ物が無ければならないからだ。加えて言うと、古代キリスト教の教派の1つネストリウス派の開祖ネストリウス(Nestorius)(381年?~451年?)は431年のエフェソス公会議で異端とされ排斥さた。その後彼らはペルシャ帝国へ移動、7世紀頃に中央アジア、モンゴル、中国へは唐の時代(618年~907年)に伝わったとされる。秦氏の日本への渡来時期は3世紀から4世紀である。全く時代に引っかからない。※ ネストリウス派が異端とされたのは、簡単に言えばマリア信仰を認めなかった事だ。神は唯一であり、神の子イエスを生んだとしても特別は無い。ローマの国教としてコンスタンティヌス帝が求めていた教会の教義の統一に逆らった・・と言うのが排斥理由の一つだろう。ユダヤ人説もどこから出たのか?ユダヤ教は選民思想の教えである。(ユダヤ教はユダヤ民族の為の思想。)しかも一神教であるので、他のいかなる神も認めない。秦氏は日本に来て、いろんな神様を祀った。ユダヤ教徒ではあり得ないのだ。秦氏の日本へのルートも、そもそも秦(しん)から直ではなく、朝鮮半島の辰韓(しんかん)(BC2世紀~356年)からと推測される。※ 前に紹介しているが、1世紀~4世紀にかけての朝鮮半島南部が辰韓(しんかん)・馬韓(ばかん)・弁韓(べんかん)と別れていた時代であり、辰韓(しんかん)は文化的にも秦から前漢時代に渡来した者達が集まった国とされた。その辰韓にもいられない事情があっての日本亡命であろう。弓月君が日本の朝廷に申し立てた「民族の危機」と合わせて、考えられる秦氏の渡来時期は辰韓(しんかん)が滅する356年前後と推定。(一番理にかなっていると思う。)そしてそれは、15代応神天皇~16代仁徳天皇の御代と推測される。実際 秦氏が日本に持ち込んだ文化は中国宮廷、門外不出の秘技、「絹の織物と蚕」そのものである。もし、ユダヤ人であるなら、秦氏はワインを造って日本に紹介していたことだろう。秦氏が造ったのは米から日本酒である。真実が一つも無いのに勝手な論法であたかも本当のように寄せて行く。それはダメでしょ で、今回紹介するのは、やはり、秦氏に関わる松尾大社です。京都の神社としては最古とも言われ、しかも「お酒の神様(醸造祖神)」を祀った神社として有名です。創建は701年。弓月君から何代目かわかりませんが、秦大津父(はたのおおつち)の系統の秦忌寸都理(はたのいみきとり)が創建に関わっています。因みに伏見稲荷大社を711年に創建した秦伊呂具(はたのいろぐ)とは兄弟のようです。タイトルをどうするか悩みましたが全体に秦氏の話になったので「倭人と渡来人 6~7」でまとめる事にしました(松尾大社全2部予定)倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)秦氏にまつわるウワサから秦氏の造った用水路(洛西用水路)脇勧請(わきかんじょう)松尾大社の創建松尾社と賀茂社(賀茂別雷神社)の祭神の関係松尾大社の神紋(しんもん)も「フタバアオイ」 松尾大社、平成の大鳥居横には巨大な一対の御神酒徳利(おみきどっくり)が置かれて居る。松尾大社は中世以降、醸造祖神としても信仰されている。それは霊泉「亀の井」があるからだ。(次回紹介)神酒徳利(おみきどっくり)、瓶子(へいし)の後方に見えているのが松尾大社のご神体である磐座(いわくら)がある山。※ 神饌用酒器、瓶子(へいし)のルーツは中国の宋の時代の酒瓶として使用された梅瓶(めいびん)。前回、「陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)」の中「占いがメインであった陰陽寮」で紹介した「陰陽五行思想」を元にした占いですが、秦氏は渡来した時にすでにこれらを持ち込んでいた可能性がある。「四神相応(しじんそうおう)」を考慮して794年に都を平安京に遷都させたのは第50代 桓武天皇。しかし、すでに秦氏が葛野地方に住み着いて300年? 秦氏は氾濫する川に堰(せき)を造り、京都を富める土地へと造っている。そもそも京都盆地の中心、平安京の内裏でさえ、元は秦氏の邸宅だった所。※ 秦氏のもたらした土木技術も当事の日本には無い高水準のもの。実は今回紹介する松尾大社の創建は701年。正式に京都に都(平安京)が遷都されると、松尾大社は西の王城鎮護の社と称され、崇敬される。東の王城鎮護の社は賀茂社。賀茂社の創建は賀茂別雷神社(上賀茂)678年。共に長岡京以前、都が奈良にあった時に創建されている。平安京のベースは全て秦氏がひいたと言っても過言では無い。ついでに長岡京の資金も平安京の資金も秦氏が援助している。一の鳥居(平成の鳥居)からの二の鳥居.秦氏の造った用水路(洛西用水路)一の鳥居と二の鳥居その間には洛西右岸の用水路が横切っている。「大堰川(おおいがわ)」の「一ノ井堰(いちのいぜき)」から取水された用水路(洛西右岸東幹線用水路)である。大堰川(おおいがわ)」の堰(せき)については、2017年8月「倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)」で紹介。リンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)下は渡月橋近くの看板から松尾大社のある松尾山の北側のお山が嵐山。渡月橋までは近い。5世紀中頃に、秦氏は桂川の氾濫を押さえる為の堰(せき)を大堰川(おおいがわ)に建設したとされる。同時に放水用水路は農業用水として、洛東と洛西の水の無い場所に施設。これにより京都は富める土地に生まれ変わった。※ その農業用水は今もほぼ同じ所を流れているらしい。実は葛野大堰(かどのおおい)がいつ造られたのか? 誰の時代に造られたのか? 明記された物が無い。あくまで推論であるが、弓月の君から3代目?、秦酒公(はたのさけのきみ)は全国に散らばっていた秦一族の族長として、21代 雄略天皇に山のような献上品を贈っている。※ 21代 雄略天皇(418年~479年)(在位:456年~479年)その事から秦酒公の時はすでに葛野大堰(かどのおおい)は完成していた可能性が高い。順番が後先になるが、楼門をくぐった後、松尾大社境内を横切る洛西の用水路。おそらくこちらは洛西右岸西幹線用水路。右の帆掛かりが修復中の楼門。二の鳥居次回紹介するが、今は摂社となっている松尾月読神社はこの左(南)方面400m。二の鳥居を飾る脇勧請(わきかんじょう)古墳時代前期の4世紀頃には原始的な神社が登場。日本最古級の神社と言われているのは奈良県桜井市の大神神社。ご神体は三輪山にある磐座(いわくら)。実は松尾大社のご神体も松尾山にある磐座(いわくら)。脇勧請(わきかんじょう)鳥居の起源についてはハッキリしていないが、最初は木と木を縄で結んだだけのものが鳥居の起源と考えられているそうだ。※ 鳥居の形式はいろいろあるようだが、よほどの理由が無い限り、寄進者の好みの問題らしい。そして、松尾大社の二の鳥居にかかる縄となにやら下がったもの。実はそれは榊(さかき)の束であるのだが、これらは脇勧請(わきかんじょう)と呼ばれ、鳥居の原始形式を示すものだそうだ。松尾大社では、脇勧請は新年に合わせて交換。縄に貼られた榊の束は全部で12束。閏年は13束。それは月々の農作物の出来具合を占った太古の風俗によるものらしい。写真は昨年(2017年9月13日)のもの。榊の枯れ具合で占うと言うものだが、空気の乾燥度合いを読むのかもしれない。「勧請(かんじょう)」と言う言葉の意味を考えると、占うと言うよりは「豊穣を祈り誓願する」的な意味も込められていたのではないか?松尾大社の創建松尾大社は、第42代 文武天皇の勅令により701年(大宝元)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、松尾山の磐座(いわくら)に座す神霊を勧請して社殿を建てたのが始まりとされている。730年(天平2年)には第45代 聖武天皇(しょうむ てんのう)(701年~756年)(在位:724年~749年)より大社の称号を得、第56代清和天皇(850年~881年)(在位:858年~876年)の時に社格は正一位。延喜式(えんぎしき)神名帳によれば明神大社22社の制において上7社に数えられ天皇の行幸も行われたと言う平安の頃より格式高い神社だそうだ。※ 明治の時に旧官幣大社となり、現在は別表神社に管轄されている。御祭神は2柱。大山咋神(おおやまぐいのかみ) と 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)冒頭の方ですでに書いたが、京都に都(平安京)が遷都されると、王城鎮護の社として、西の松尾大社と東の賀茂社は尊崇される。松尾社と賀茂社(賀茂別雷神社)の祭神の関係実はまだ賀茂社については、取り扱っていないのだが、両者の御祭神を見ると面白い事がわかる。賀茂社が祀る祭神は賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)その賀茂別雷大神には両親がおり、母は賀茂建角身命の娘の玉依比売命(たまよりひめのみこと)そしてその父は 上賀茂神社の社伝では、山代の乙訓社の火雷神(ほのいかづちのかみ)とされているが、古事記では松尾大社の祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ)とされている。つまり、古事記を支持すれば、賀茂社の祭神は松尾社の祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)の息子と言う事になるわけだ。神社の創建では678年と僅かに賀茂社(賀茂別雷神社)の方が早いが、松尾社の祭神の息子では歴史が後先になるから賀茂社は父を変えたのかな?楼門は修復工事中だったので、楼門を出た所からの拝殿拝殿の真後ろに本殿があるのだが、見えない。拝殿を回り込み本殿。こちらも修復中なので本殿参拝所のみの撮影です。社殿が修復中で見えないが、本殿は室町時代(1397年)の建造。1542年に修理。松尾造りと称される建坪35坪余り、桁行三間、梁間四間の特殊な両流造りで国の重要文化財に指定されている。賽銭箱にはフタバアオイが・・。菊の紋は、神話などに登場し天皇家の祖と考えられた祭神を祀っているから?松尾大社の神紋(しんもん)も「フタバアオイ」 以前、木嶋神社(このしまじんじゃ)の所で紹介しましたが、木嶋神社の神紋(しんもん)もフタバアオイ。そして、下賀茂神社、上賀茂神社、共にフタバアオイ。さらに、信長が延暦寺焼き討ちで攻めた日吉大社の神紋もフタバアオイでした。※ 日吉大社のフタバアオイは花付きではありませんが・・。日吉大社は(東本宮)祭神に、松尾大社と同じく大山咋神(おおやまぐいのかみ)を祀っている。その為なのか?あるいは、やはり秦氏に関係した神社なのか?実は日吉大社もまた、平安京の表鬼門を方除する神社でした。※ 創建はハッキリしていないが、西本宮は大津京鎮護の為に祭神に大己貴神(おおなむちかみ)をたてて668年に創建されている。※ 大己貴神(おおなむちかみ)の別名大国主命(おおくにぬしのみこと)曲水の庭からの松尾山。旧、ご神体の座した磐座(いわくら)は右の方の山かも。磐座(いわくら)には許可を得て、ルールを守れば登山する事が可能です。それについては次回につづく。リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)リンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツリンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎
2018年01月22日
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写真追加しました年明け第一弾は、昨年出かけていた平安の陰陽師(おんみょうじ)、阿倍晴明(あべのせいめい)を祀った「晴明神社」から 実はかなり昔に参拝していましたが、ずいぶんと変貌していましたブーム以前の神社は半分駐車場となり写真映えは最悪。陰陽師ブームになる以前、「地元で、生まれてきた子供の命名をしてもらう神社」で有名だと当事のタクシー運転手に説明されました。それはもしかしたら、晴明神社がかつては戸籍代わりの氏子登録(氏子調)をする神社としてあったのかもしれない。実際、江戸時代には晴明九町組と言う氏子圏が組織されていたらしいから・・。※ 神社改革のあった明治(1871年)には村の鎮守の社などが列格される「村社」にふりわけられ、現在は神社本庁に所属。そんな晴明神社に活気がが戻ったのは、映画「陰陽師」のおかげ?現在は「魔除け」「厄除け」の神社として人気急上昇のようだ。来訪者はとてつもなく増えたのだろう。そう言う所が意識された? インスタ用のオブジェもいろいろ設置され、かなり様代わり。驚きました。(広くなっている気も・・。)陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)陰陽師(おんみょうじ)阿倍晴明(あべのせいめい)占いがメインであった陰陽寮晴明神社(せいめいじんじゃ)陰陽師(おんみょうじ)陰陽師 安倍晴明(あべのせいめい)のブームは、夢枕獏(ゆめまくらばく) 氏の人気小説シリーズ「陰陽師」(1986年)と、それを原作に漫画化した漫画家 岡野玲子(おかのれいこ)氏の「陰陽師」シリーズに始まります。スコラでの漫画、一巻の初刊は平成6年(1994年)。マニア人気が少しずつ増えたのは、岡野玲子 氏の漫画に寄るところが大きい。その後、狂言師(きょうげんし) 野村萬斎(のむらまんさい)氏の主演で2001年、映画「陰陽師」が公開されると一気に安倍晴明の知名度は全国レベルに発展。※ 現在の清明神社境内にあるお土産屋(桔梗庵)の内容も映画関連が多いように思う。 映画はあくまで夢枕獏 氏の小説が原作となっていますが、登場人物のキャラクター等は岡野玲子 氏の描いた漫画「陰陽師」の世界感そのもの。漫画ファンの私は、映画以前に、岡野玲子 氏の描く「陰陽師」シリーズに影響された一人です。清明神社 拝殿前 左陰陽師(おんみょうじ)阿倍晴明(あべのせいめい)安倍晴明(あべのせいめい)(921年~1005年)平安時代に活躍した陰陽師(おんみょうじ)。師は陰陽師(おんみょうじ)で天文博士である賀茂忠行(かもただゆき)(生没年不詳~960年)。陰陽寮に所属するのは40歳頃、天文博士となるのは50歳頃と遅い。それは兄弟子 賀茂保憲が上にいたからなのだろうか?晴明の名が史書に登場するのは961年、天文博士 賀茂保憲(かものやすのり)(917年~977年)の補佐として護身剣、破敵剣の鋳造の時。※ 賀茂保憲は晴明の師匠 賀茂忠行の息子。※ 安倍晴明が仕えた歴代の天皇は62代 村上天皇、63代 冷泉天皇、64代 円融天皇、65代 花山天皇、66代 一条天皇安倍晴明が天文博士となるのは972年。賀茂保憲の後を継承した晴明が表で活躍するのは64代 円融天皇(在位969年~984年)以降、65代 花山天皇、66代 一条天皇までとなる。※ 天文博士になるのは遅いが、彼の能力故、陰陽家としてすでに貴族の信頼があったようだ。霊感は幼少の頃よりあったようで、今昔物語には百鬼夜行を師の賀茂忠行に知らせて難を逃れたと言う逸話が残っている。物の怪の解除や祓い、病気の回復祈願、泰山府君祭りなど、晴明の得意分野であったようだ。※ 生死を司る泰山府君(たいざんふくん)の祭りとは、呪術により身代わりを立てて命の差し替えを行うと言うもの。今昔物語には晴明が泰山府君を祭る人物として登場。晴明の呪術の見事さが記されているらしい。それ故、陰陽師イコール呪術師のようなイメージがあるのは、安倍晴明の活躍に寄るところが大きいのだろう。995年には「蔵人所陰陽師」となり出仕はしていなかったが朝廷の諸々の諸事(先例、典故、吉凶、日時)を調べて上申する日時勧申(にちじかんじん)を80歳過ぎても行っていたと言う。亡くなる前年の雨乞いの「五龍祭」では大雨が降る快挙。褒美までもらったらしく、最後まで人気が衰えなかった事が解る。位階の最終は「従四位下」。晴明を祀るよう言明したのは一条天皇とされるのも納得だ。因みに、安倍家は晴明以後も代々公家として朝廷に仕えたが、室町時代中期以後、「土御門(つちみかど)」を名乗ったとされる。岡野玲子(おかのれいこ)氏の安倍晴明 スコラ 「陰陽師5(青龍)」より表紙漫画と言っても、筋だけ追うならともかく占術や呪(しゅ)についてなど、内容は後半に行くほど難解です占いがメインであった陰陽寮陰陽寮(おんみょうりょう)を造り、律令下に陰陽道を組み込んだ張本人は天武天皇(生年不明~686年)(在位:673年~686年)だそうです。基本、陰陽道は天文、暦、陰陽の3部門の専門集団からなっていたようですが、当初、天武天皇が求めたものは占い。天文や占星術を使用した占いで都を造る時の土地の善し悪しや方位を決めたり、天候不順など、通常で無い事(天変や怪異)がおきた時の瑞兆(ずいちょう)の判断など、諸々の天皇の政の中で重用された部署だったようです。つまり「陰陽寮」は官職であり、そこで働く技術集団は国家公務員なのであった。その占いのベースとなったのが、陰陽と五行思想。陰陽(いんよう)思想とは夜と昼の二元論。そしてそれは一年を通してみれば春夏秋冬。森羅万象あらゆる事が陰陽(いんよう)の局に分けられると言う考え。 五行思想とは、宇宙は5つの要素(木・火・土・金・水)からなり、それらには「相生」と「相剋」と言う二種の循環によってなると言う考え。方位の五行この陰陽思想と五行思想が組合わさってできたのが陰陽五行思想である。そしてそこから四神相応(しじんそうおう)の考えや、八卦(はっけ)、風水など、方位からあらゆる占いが考案されている。左 五行相克 右 五行相生※ 五行相克(ごぎょうそうこく)の星形である五芒星(ごぼうせい)はあらゆる魔除けの呪符として用いられた。安倍晴明がこれを紋に用いた事から晴明桔梗(せいめいききょう)印とも「セーマン」とも呼ばれる。陰陽道の方位と十二支晴明神社(せいめいじんじゃ)堀川通り 越しの「清明神社」右手が北、すぐ今出川通りにぶつかる場所。市バス「一条戻橋、晴明神社前」下車晴明神社は清明亡き後、安倍晴明を祭神として、1007年(寛弘4年)晴明の屋敷跡に祀られたらしい。一の鳥居には晴明桔梗紋が。晴明神社見取り図一の鳥居と二の鳥居の間に一條戻り橋のオブジェと式神のオブジェがある。(SNSスポット)晴明の屋敷に近い一條戻り橋には晴明が解き放っていた式神(しきがみ)がいたと言う。(源平盛衰記)この戻り橋はオブジェであり、実際の場所ではないが、欄干親柱は大正11年~平成7年まで使用されていた本物らしい。式神(しきがみ)「式(しき)」は「使役(しえき)」に由来する言葉のようだ。文献によっては「式鬼(しき)」とも。「宇治拾遺物語」は晴明が式神を使っていた話が出てくる。実際の人ではなく、鬼に類する精霊のたぐいか?今昔物語では神霊的なイメージ? 密教の童子のような眷属に描かれ、宇治拾遺物語では紙などが呪術であたかも生物に成り代わると言ういメージがついた?日月柱二の鳥居右に「陰陽博士 安倍晴明 公 居館跡」と石柱があるが、本当の清明の屋敷は現在の京都ブライトンホテルのあたりと言われている。※ 内裏の位置も平安と現在では変わっているが、晴明の屋敷は、紫宸殿の裏鬼門に位置していたらしい。陰陽師(おんみょうじ)先に紹介したように陰陽道はそもそも学問としては天文学や地政学に近く、それらから計算された占いが主な仕事であったようだが占いで良くない物がでれば、同時に祓いも行う。だんだんに怨霊や物の怪の「祓い」や「祭り」も行われるようになったようだ。平安時代、暗闇には魔物が潜んでいると皆が信じていた時代である。ちょとした天変地異(雷などの自然現象)でさえ怨霊の祟りと考えられた。その怪異の原因を占い、穢れ(けが)を祓い(はらい)、病気平癒(びょうきへいゆ)や、雨乞いまでしてしまうスーパー祓い屋、「陰陽師(おんみょうじ)」が定着したのは平安中期頃だそうだ。当然、安倍晴明らの活躍があったからだが、初期の「陰陽寮」では、占いはしても結果を天皇に奏上できたのは陰陽頭のみ。職務の分担があったらしい。二の鳥居をくぐると右手に手水舎があり、その横に晴明井がある。古より湧き出ていたと言う晴明井は洛中の名水として知られ、病気平癒のご利益もあるとされる。晴明五芒星、桔梗紋を配し、流水口はその年の恵方に向けられているそうだ。井戸の前には北辰北斗信仰の象徴の北斗七星が。陰陽道はもともと道教の北辰北斗信仰がベースにあるのだ。実はこの晴明井の水は千利休も茶の湯に利用していた水だ。なぜなら、現在の晴明神社の場所は、豊臣秀吉の屋敷、聚楽第(じゅらくだい)があった場所にひっかかっているようなのだ。二の鳥居左脇には聚楽第内に屋敷を構えていた千利休が茶事で利用した井戸がある旧跡と書かれている。そして聚楽第で秀吉により切腹を申し渡された千利休は聚楽第内で果てる事になる。※ 聚楽第と千利休については、2015年6月「大徳寺と茶人」で書いていますから良かったら見てね。リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名 (茶道の完成)正面に拝殿 左に晴明像、右に厄除け桃、そのまた右の大木がご神木である樹齢300年と言われる楠(くすのき)現在の本殿は明治38年にたてられたもの。厄除け桃原産地は黄河上流の高山地帯。古来、桃は魔除厄除の果物。食用のほか祭祀用途にも用いられ。平安時代には特に珍重。当時の桃はそれほど甘くなく主に薬用や観賞用とされた? 桃園を持つのは貴族でもステータスであった。楠の後ろ、本殿北側にお稲荷さまと2柱の神様が祀られるお社がある。天満社、齋稲荷社、地主社このお稲荷さまが、齋院(さいいん)鴨神社に仕える齋王がおこもりする場所にあったことに由来するらしい。晴明の母、葛葉(くずは)は狐であったと言う風説から、晴明がお稲荷さまの生まれ変わりと解釈された説がある。久しぶりに行った晴明神社は、こじんまりした中にも、写真スポットは満載されている。近年のSNSブームを意識しての事なのだろう。参拝する方の立場で見ると、オブジェは少し軽い。式神なども可愛良すぎ。もう少しリアル感がほしいかも・・。売店の御札 一部さすが「厄除け」、「方除」、「火除け」、厄年用の「厄除」など災厄に関する札が並ぶ。学業守りとせず「、「向上守」としている所も良い。星形の魔除けステッカー、もう少し重厚なありがたみが欲しいかも・・。ところで、気になった事がある。神様でなく、人(人間)を祀る時の規定と言うものがある。本来人は祀られるべき対象ではないが、特例があるのだ。御霊である平清盛や、菅原道真はともかく、人である秀吉や信長を祀る神社は明治政府に公式に認められ存在する。明治以後に「人」を祀る神社が増えているのは明治政府が行った宗教改革のせいである。その明治の「人」を祀った神社の中に「清明神社」が無いので改めて、どこに分類されるのか不思議に思った。そもそも晴明神社は本当に昔から存在していたのか?1007年(寛弘4年)に晴明は祀られたとされるが、当初は祠(ほこら)だけで神社までは無かったのではないか? などと思ったのだ※ 2017年9月「八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)」の中、「維新政府の宗教改革(振り回された神社)」にて明治政府の宗教改革について書いています。リンク 八坂庚申堂 (明治政府に排斥された庚申信仰)※ 御霊信仰については、2015年2月「北野天満宮 梅花祭り」「北野天満宮と御霊信仰」の中で簡単に紹介しています。リンク 北野天満宮 梅花祭り
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