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リンク ロンドン(London) 2 (テムズ川に架かる橋 1)
ワーテルローの戦い(The Battle of Waterloo)(1815年6月)は
、必ず世界史で習うので聞いた覚えがあると思うが、かの ナポレオンが失脚する最後の戦線である
。
ナポレオンの100日天下と言われ、エルバ島より帰還し、皇帝に返り咲いたのにその皇帝率いる20万のフランス軍が連合国軍に負けてしまった一大事件である。
最も相手の連合国は英国、オランダ、プロイセンと打倒フランスの先鋭部隊であったし、数も勝っていたが・・。
ナポレオンに勝利した英国やプロイセンの喜びはいかばかりだったか。
ウォータールー・ブリッジ(Waterloo Bridge)のように関係の無い土地でも勝利をアピールする名前がつけられたりしているのだから・・。
では負けたランス軍の方は?
フランス議会はすぐさまナポレオンを切り退位をせまる
。
幾つかの条件付きでフォンテーヌブローでナポレオンは退位をよぎなくされた。
その時のナポレオン最後の演説については2017年「フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)」演出効果バツグンの馬蹄形の階段(ナポレオン別れの中庭)にて紹介しています。
リンク フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)
当初ナポレオンのおかげで領土を広げ、 一時は欧州全土がフランス領になるかと言う大進撃をしていたナポレオン。戦争の天才ナポレオンはフランス革命後の悲惨な国の経済を救った救世主であった。
また共和制への秩序ある移行など今のフランスを造った偉人としてたたえられるべき人物であるのは間違いない。
しかし、良い時は賛美されたが時の国民はナポレオンを必要としなくなった? 戦争を続けるナポレオンに嫌気がさしたか? 国民はナポレオンを求めなかった。
また連合国によりフランスは王党派が返り咲きナポレオンは祖国フランスを出るしかなかった。
※ 因みに、今後のフランスにはナポレオンの起こした戦争のせいで賠償金がのしかかる。
ワーテルロー後の第二次パリ条約により領土は1790年当時へ縮小。賠償金は7億フラン。
さらに監視の為にフランスに駐留する同盟国の軍隊とその駐留経費の負担(最長5年間)の支払いを認めさせられた。
かくしてナポレオンが失脚した後、 フランスとイギリスは共にナポレオンの処遇に悩むことになる。
ナポレオンは英国への亡命を希望したからだ。
.
フランスの希望は、決してナポレオンを殺してはいけないと言う事。今の危ういルイ王朝ではナポレオンを処刑すれば自分達の命取りになる事を知っていた。
一方英国でも脱走されても困るし、また返り咲いたら大変。 簡単に戻ってこれない大西洋の小島に追いやり、完全警備の元にナポレオンの命に危険が無いようするのが得策と考えた。
これがセント・ヘレナ島(Saint Helena)へ送られた理由である。
そう言う経緯を見ると、これは決して流刑ではない。ナポレオンにとってはどちらも同じような事だったろうが・・。
※ ナポレオンはそのままセントヘレナ島を出る事なく 1821年5月5日に亡くなっている。
※ 現在、その死因は慢性ヒ素中毒の上の水銀中毒と考えられている。
今回は、ナポレオンとワーテルローと帽子と武具の話しになりました。
発端は2018年6月にワーテルローの戦いでナポレオンが使用していたフエルトの二角帽がオークションに出品され高値で落札されていたニュースを見つけた事からでした。
この帽子の来歴としてワーテルローの戦いを紹介。写真は古戦場のワーテルローです。
流れでワーテルローの戦闘で使用されていたであろう武具を見つけました。
結構貴重だと気づき写真を増やしたので後ろが押し出されたのです。
ナポレオン(Napoléon)全2回になります。
ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子
ナポレオン(Napoléon)
古戦場ワーテルロー(Waterloo)
戦場の花形 胸甲騎兵(きょうこうきへい)の胸甲(甲冑)
ナポレオンの帽子
ワーテルロー(Waterloo)でもうけたロスチャイルド家(Rothschild)
件(くだん)のナポレオンの帽子は後にして、まずはワーテルローから紹介。
古戦場ワーテルロー(Waterloo)
当時はフランス領であったが、現在はベルギー王国のブラバン・ワロン(Brabant wallon)州にある。
※ ベルギーのほぼど真ん中。正確にはワーテルロー南南東5kmのモン・サン・ジャン(Mont Saint Jean)である。
ゲルマン語のwatar(水)と、オランダ語のlots(斜面)、los(草原)に由来していると言うだけあって確かにほぼ今も草原。地平線が見えるほどに・・。

写真はかなり前のものであるが、若干観光施設はできてもそんなに景色は変わっていないらしい。
元フランス領であったこの地(ブラバント)では英国ひきいる連合軍が勝てばオランダに併合される不満があった。ナポレオン側に付いてくれると期待もあったのだろう。
実際、ベルギーは今もフランス語圏である。負けて退位した後もナポレオン人気は高かったのだろう。
近年、毎年6月になると有志によるワーテルローの再現イベントが行われているそうだ。
そもそもナ ポレオンの敵は連合国だけでなく、フランス王党派と言う国内にも敵がいた 。
フランスは一枚岩ではなかったのだから人数も集められず、ワーテルローの敗戦も仕方無かったところがあるな、とは思う。![]()
※ フランス軍およそ20万人に対して、連合国はウエリントン率いる英国軍10万、ブリュツヘル率いるプロイセン軍12万、オーストリア軍25万、ロシア軍17万 と言われている。
ナポレオンは部隊が全部集結する前に、一つずつ片付けて行けば何とかなると読んでいたようだ。※ 参考文献は「ナポレオン帝国の栄光と没落」から
しかし、戦いの部隊の展開など、かなり読みが外れて失敗している。
感は衰えたのか? 運に見放されたのか? 精彩を欠く戦争だった事など「ナポレオンは終わった。」と、自身も思ったかもしれない。
実はこんな何もないワーテルローであるが、この 戦いの直後からここを詣でる人が出現して観光地となっている。
200年前の当時トーマス・クック(Thomas Cook)はすでにワーテルローを組み込んだパック旅行を出していた。![]()
以前ブルージュの所で国の歴史についても紹介しているが、ここから近い ブ
ルージュの街は、古戦場ワーテルロー見物のついでに足をのばす場所として復活し、栄えたのである。
※ 2014年3月「ブルージュ(Brugge)1(街のなりたち)」の中「死都から古都ブルージュ(Brugge)へ」
リンク ブルージュ(Brugge) 1 (街のなりたち)

ライオンの丘この平原を見渡すもってこいの高台。モン・サン・ジャン(Mont Saint Jean)にある通称「ワーテルロー・ライオン」
激戦区であったモンサンジャン(Mont Saint Jean)につくられた、高さ45mの塚はオランダ国王が造らせた物。
ワーテルローに参戦していた第1軍団長オラニエ公ウィレム(後のオランダ王ウィレム2世)が負傷したとされる場所に戦勝の記念と戦死者の冥福を祈るための塚として建設された。
ライオンの像は、フランス軍が残した大砲を鋳潰(いつぶ)して造くられたそうだ。
ナポレオン軍 vs 英国軍ウエリントン&プロイセン軍ブリュッヘル
そういえばナポレオンは砲兵科の出身であり、大砲を用いた戦術に長けていた。
18日、最初のウエリントンとの対戦では騎兵は互角。大砲の数でははるかに勝っていたと言う。
砲撃と突撃を繰り返し行ったが、ウエリントンは防御戦にかけては一流。時間がかかりすぎた?
そうこうしている時にプロイセン軍のブリュッヘルがナポレオン軍の側面から牽制。
ウエリントンは逆転に転じ攻撃。ブリュッヘルに追撃され勝敗はこの戦いで決まってしまった。
そもそも今回の戦いは、このベルギー戦で、ウエリントンとブリュッヘルを押さえられるかが鍵だった
ので。
階段は226段。台座にはこの戦いが行われた日付が刻まれている。
XVIII JUNI MDCCCXV(18 JUNI 1815)
ワーテルローの戦闘絵図

下の絵のみ 画家 William Sadler (1782年~1839年) ウィキペディアから借りてきました。
大砲こそあったが、まだ騎馬の戦闘だったようです。
先ほどふれましたが、 砲撃と突撃を繰り返すと言う攻略の中でも、騎兵による集団突撃を特にフランス軍は重視
したと言います。
その 突撃の先陣を切るのが胸甲騎兵(きょうこうきへい)
です。
ナポレオンの戦略の中では最も大事な部署で決め手の一線で投入
。一見、中世の甲冑を身にまとった選ばれし騎兵は最強の騎兵で、当然花形だったそうです。
ブリュセル軍事博物館に、これら衣装や武具が展示されていました。
今、振り返れば、ナポレオンが戦った時代の物だった?
ベルギーはフランス語圏。こちらの武具のコーナーはほぼ解説も無し。英語の表記など皆無。このコーナーはもしかしたらワーテルロー等での戦いのコレクションルームだったのかもしれない。
ナポレオン時代の大砲

戦場の花形 胸甲騎兵(きょうこうきへい)の胸甲(甲冑)
甲冑(かっちゅう)は結構見てきましたが、他で見た記憶がなく、甲冑図鑑にも無いので知りませんでしたが、胸甲騎兵自体の登場は30年戦争あたりかららしい。
それは拳銃の登場によって戦い方が変わった事によるようです。
胸甲騎兵(きょうこうきへい)の胸甲は、近代戦の甲冑だったわけで、中世のプレートアーマーとは構造で別物でした
。
フランス式の胸甲(French cavalery armour)
銃に対抗する為にプレートアーマーはより防御力を持たせる。
装甲は厚く、でも重すぎるので従来の甲冑よりも防御面積を減らす。かつ動きやすさも加味してこのような胸とヘッドの甲冑になったようです。
ドイツ製鉄鋼のそれは頑丈で致命傷を免れるほどだったそうです。
上半身を包む形の 胸甲

花形の甲冑だけあって実用と装飾が融合しておしゃれ感があります。
下二つは冑(かぶと)です。
解説がなかったのでわからないですが、上のNマークはナポレオン????のわけないか・・
下の冑の雷(いかづち)を掴むワシもナポレオンの意匠ではありますが・・。
二丁のピストルを装備して敵の隊列に突っ込み進路を切り開く胸甲騎兵もいたらしい。
何にせよ、 フランス軍の胸甲騎兵はナポレオン時代最強の騎兵だったそうです。

玉を見るとどれだけの破壊力があったのか興味ありますね。
下はサーベルや銃で作られたオブジェでしょうか? なかなかセンスある展示方法です。
他では見た事ないかも・・。

下はナポレオンの帽子かもしれません。
隣にナポレオンの肖像がかけられていたので・・。
下の肖像画、共にブリュツセルの軍事博物館で撮影
ナポレオンの帽子
2018年6月にオークションに出品されて高値で落札された帽子はこちら
フランス東部リヨンで展示されたフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトのものとされる二角帽子
※ ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)(1769年~1821年)
AFP BBニュースから
オランダの将校が1815年にワーテルローの戦いで戦利品として持ち帰ったとされている。
当初の落札見込み価格は3万~4万ユーロ(約400万~500 万円)であったが、 結果は日本円にして4500万円(50万ユーロ?)で落札されたらしい。
4年前に競売に掛けられたナポレオンの別の二角帽子の落札額は190万ユーロ、当時の為替レートで約2億7000万円)には遠く及ばないが・・。
今回は コンディションがかなり悪いから仕方ないらしい。

ところで、同通信の資料によればが ナポレオンが帝位にいた15年にフランスの帽子職人プパール(Poupard)に120個もの帽子を作らせているらしい
。が、そのほとんどは不明。
素材はビーバーの毛皮を使った黒いフェルト製の二角帽子 であるが、TPOによりいろんな帽子を使い分けていたと思われる。
本来、二角帽子は縦向きで着用するが、 ナポレオンは好んで横向きに着用 。遠くにいてもすぐに見つけられたと言う。それも戦略だったのか?
下はウィキペディアから借りてきた写真です。
近衛猟騎兵大佐の制服を好んで着用したらしい。
ワーテルロー (Waterloo) でもうけたロスチャイルド家(Rothschild)
戦争は経済を動かす。
その為に仕掛ける場合もあるが、このワーテルローの戦いで、ロスチャイルド家か大もうけしている。 「ワーテルローの勝戦」について、公式発表よりも情報を早く入手した銀行家のネイサン・メイアー・ロスチャイルド (Nathan Mayer Rothschild)(1777年~1836年)は売ってコンソル公債を暴落させた所で買い戻す。と言う 意図的な株価操作をして莫大な利益を得たと言われている 。
公式に戦勝報告が出れば株価があがる事を知っていた。あえて負けの様相を示して暴落させての行為。インサイダーに近い手法でのやり口であるが、ロスチャイルド家の情報収集力はハンパ無かったと言う事だ。
この ネイサン・メイアー・ロスチャイルドこそが莫大な資産を有する実業家ロスチャイルド家の祖である。
最後にナポレオンの眠る パリのアンヴアリット(Les Invalides)を加えるつもりでしたが、ナポレオンの死について追加したくて独立させました。
アンヴアリット(Les Invalides)は次回に。
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ナポレオン続編と関連リンクてす。
リンク ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還
リンク ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Green
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