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ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)クレムス(Krems)シュタイナー門(Steiner Tor)中世の定期便(駅馬車)デュルンシュタイン (Durnstein)を後にクレムス(Krems)へ (船で15分もかからない。)見えるのはマウテルナー橋。このあたりはもうクレムス(Krems)。クレムス(Krems)正式名はKrems an der Donau 自治体独自の都市法を持つ憲章都市(Statutarstadt)だそうです。(現在オーストリアにはそうした憲章都市が15あるそうです。)市のエンブレムはシュタイナー門(Steiner Tor)に印されている。ヴァッハウ渓谷 (Wachau)東の拠点クレムスの街も歴史が古く27000年前の旧石器時代に遡ると言う。995年には記録に表れ、中世ウイーンに並ぶ繁栄があったと言われている。それはクレムスの街がヴァッハウ渓谷 (Wachau)の川下であり、ワインの集積地として栄えたからだそうだ。クレムスで集積されたワインはドナウ川をさらに下りウィーンへと運ばれたのだろう。クレムス(Krems)の船着き場船着き場はちょっとしたターミナルであるが、そこからの交通手段が無い。個人の場合、オーストリア鉄道のクレムスの駅まで15分~20分くらい歩く事を想定した方がよい。(旧市内をめざすなら道は駅から離れる事になる。)船のターミナルにインフォメーションがあり、街の地図をもらう事ができるが地図はわかりずらいのと、街に街の地図や標識がないので、旧市内をめざすと、駅の方角がよけいわからなくなる。列車の時刻が決っているなら、日本で解りやすい地図をダウンロードしていく事をすすめます。駅方面を示す看板が一切無いので駅入り口が非常に見つけにくいのです クレムス(Krems)の旧市街入り口には古い城門が残っている。19世紀まではまだ街を囲む城壁が残っていたらしく、ドナウ川が氾濫した時の防波にも役立っていたようです。現在一部保存されているだけで治水が出来るようになった近年街の壁はほぼ取り壊されたらしい。門は3つ印されていたシュタイナー門(Steiner Tor)、 クレムス門(Kremser Tor) 、 リンツァー門(Linzer Tor) 、確認したのは1つ。シュタイナー門(Steiner Tor)クレムスの唯一の目玉がこの門。現在の門は2005年に再建されたものらしい。最初にできたのがいつなのかは定かでないが、1477年にハンガリー軍に破壊され1480年再建された・・と言うのが古い記録。先ほど紹介したクレムスのエンプレムが出来たのが1453年から1463年頃。いずれにせよ、中世以来クレムスの街に入るメイン・ゲートがここであったのである。この城門からの通りが昔からの街の目抜き通り(オーベレ・ラント通)で、今は観光客や地元の人も利用するショッピング・アーケードになっている。オーベレ・ラント通り(Obere Land st)クレムスは人口20000人以上の都市なので新市街には大手スーパーもある近代的な街ですが、この旧市街にはホテル、パブ、レストラン、お土産やさん。中世の街の縮図が全部詰まっています。写真左は中世以来のホテル・レストランです。店のアイアン・ワークに注目。 駅馬車とラッパと鍵。ここは中世、ホテルであると同時に郵便車の止まる指定宿の1つでした。中世の定期便(駅馬車)2009年7月「馬車と駅馬車」のところで中世の駅馬車のについて1度紹介していますが・・。中世の都市交通の1つとして生まれた駅馬車は街と街の宿を結ぶ定期便です。それに手紙を一緒に運ばせたのが郵便事業であり、郵便車の始まりなのです。手紙をどこかの街に届けてもらいたい時にこの宿に郵便物を預けにきたり、逆に受け取りに来たりと、街の老舗ホテルは初期の郵便局を担っていたのです。そしてその馬車は黄色であった。駅馬車の車掌は停泊所に近づくとラッパを鳴らして人々にその到着を知らせました。それがルーツとなり、欧州では郵便ポストが黄色であり、ラッパのロゴが残っているのです。Goglhaus・・1500年前後に建設された中世の家。オーストリア連邦鉄道(OBB) クレムス(Krems)駅クレムスを出発してからはしばらくブドウ畑が延々と続いていました ヴァッハウ渓谷 (Wachau) おわりBack numberリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 1 (メルク)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 2 (メルク修道院)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 3 (メルクの十字架)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 4 (メルク修道院教会)リンク メルク修道院(Stift Melk)のバロック庭園とパビリオンリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 5 (ドナウ川クルーズ船) リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 6 (シュピッツ界隈)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 7 (デュルンシュタイン)リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)
2015年01月31日
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人質事件残念です ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)リチャード獅子心王(Richard the Lionheart)第三次十字軍(Third Crusade)デュルンシュタイン城(Burg Dürnstein)とリチャード1世リチャード1世の像(ロンドン)現在の国会議事堂であるウエストミンスター宮殿(Palace of Westminster)の上院側、Old Palace Yardに像はあります。リチャード獅子心王(Richard the Lionheart)リチャード1世(Richard I)(1157年~1199年)イングランド王(在位:1189年~1199年)父は、プランタジネット朝初代国王のヘンリー2世(Henry II)で彼はその3男として誕生。以前テンプル教会を紹介した時に中世の騎士の事を書きましたが・・。2013年9月「ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)」そんな騎士道華やか成りし頃のイングランドでリチャード1世は誕生。当時の慣習により(イングランドは全ての家督を継げるのは長子に限る)家から外れ、騎士としての訓練を受けたのだと推察。騎士は彼にとって最高の生き方だったのかもしれません。長兄が亡くなりイングランド王位が彼に回ってきても、彼は自ら戦闘に出る事を辞めなかった。在位していた10年で国にいたのはわずか6か月とか・・。彼は常に先陣を切る騎士王だったようです。以前テンプル教会で紹介した英雄的騎士、ウィリアム・マーシャルは、プランタジネット朝のヘンリー2世、若ヘンリー王、リチャード1世、ジョン王、ヘンリー3世と歴代5人の王の側近として重要(ちょうよう)された騎士であり政治家です。彼はリチャード1世の時は遠征中の王に代り本国イングランドで政務を担っていた人ですが、彼は「王たる物が浅はかに敵を追うな。そう言う事は部下にさせろ」と言う旨の苦言を提したと伝えられています。それでも彼は聞く耳持たず、第三次十字軍では一人奮闘してサラディンと戦い、そのサラディンから「彼は本物の騎士だ」と賞賛されるほど・・。ウィリアム・マーシャルが心配した通り、彼の最後はフランス領のアキテーヌ公領シャリュでの戦いにおいて受けた矢の傷が元で戦死。若干42歳でした 街の裏手、デュルンシュタイン城跡(Burgruine Dürnstein)矢印が城跡。途中ブドウ畑を通過。この当たりまでは道も整備されてましたが、城跡まで上る道は結構険しい。一応案内では20分でしたが、体力落ちている私はもうちょっとかかりました とにかく足場が悪い。雨の後だったら滑って危険です。眼下に見えるのは川上、メルク方面。第三次十字軍(Third Crusade)(1189年~1192年)1187年、サラディンの元で再びイスラムの手に落ちたエルサレムを奪還する為に教皇グレゴリウス3世の要請で立ち上がったのが、神聖ローマ、フランス、イングランドでした。1189年、先発で進軍したのが神聖ローマ皇帝のフリードリッヒ1世。しかし途中急死。1国で派遣した十字軍部隊としては最大規模だっそうですが、1190年キリキアのセレウキアの街。サレフ川で溺死してしまいます。(現在のトルコ。シリフケの街はずれ現在のGoksu川。)※ 皇帝亡き後、臣下の多くは帰国。ドイツ隊としては少人数が統率者の定まらぬまま残った程度。1190年、フランス(フィリップ2世)、イングランド(リチャード1世)は7月それぞれ出立してシチリアで合流。(父王以来土地の問題で戦争関係にあったが、リチャードとフィリップはこの時点では仲良しだった。)1191年、フランス(フィリップ2世)、イングランド(リチャード1世)、それに神聖ローマの残った兵隊でアッコンを陥落。(イングランドの艦隊の海上封鎖による兵糧攻めが勝因。)リチャード幽閉事件の要因は、このアッコン陥落の時に起きた些細な出来事。神聖ローマの残った兵隊の司令官であったオーストリア公レオポルト5世はフランスとイングランドに並べて図々しくも自身の旗を掲げ、それをリチャード側により撤去された。その後怒ったオーストリア公レオポルト5世は帰国。残ったフィリップ2世もその後意見の衝突が多くなり帰国。残されたリチャード1世は一人で軍隊率いてサラディンと戦闘を繰り返す事になった。しかし二人の間には何かしら信頼関係が出来たのだろう。1192年、サラディンとの間で休戦協定が締結。エルサレムの奪還こそできなかったけれど再びキリスト教徒のエルサレム巡礼が再開。これをローマ教皇は高く評価した。デュルンシュタイン城(Burg Dürnstein)ファースト・ステージからセカンド・ステージ入り口城は大きく3つのステージに・・。現在ファーストには何もない。デュルンシュタイン城(Burg Dürnstein)とリチャード1世第三次十字軍(Third Crusade)はイングランド王リチャード1世の功績により終結。ところが、エルサレムからの帰国途中にリチャード1世は捕らえられ(1192年12月)、デュルンシュタイン (Durnstein)で幽閉された。捕らえたのはアッコンの一件でリチャード1世に恨みを持つレオポルト5世。(英雄を捕らえたのですから、後にレオポルド5世は教皇より破門。)1194年2月神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世に身代金を払い解放されるまでリチャード1世はデュルンシュタインの城に閉じ込められていた・・と言う訳です。デュルンシュタインがクーリンガー(Kuenringer)家の領地として歴史に出て来るのは1158年。もともとはメルクと同じく要塞が起源で、クーリンガーはオーストリアの高官。写真からは解りにくいですが、日差しが強すぎて真っ黒に焼けました。日焼け止め必要です。サード・ステージから撮影。絶景。絶景。風が凄いです。次回でヴァッハウ渓谷終わり。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 9 (クレムス)
2015年01月25日
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ヴァッハウ渓谷、今回はデュルンシュタイン (Durnstein)です。私の中の目玉でした ここは小さな中世の街がそのまま残ったところです。中世ながらの造りの家が現役でリフォームされて今に使われている。しかも景観を残す為に幹線道路や鉄道は街の地下を走っている。日本のように電線が見えている事も無い。綺麗目な中世の街はとても居心地の良い所でした。滞在時間は次の船まで。ランチをして山の城跡までリチャード1世を探しに行ってきました それにしても、資料が少なすぎて建物の正式な名前など調べるのに苦労しました。調べていると時間が早くたつ。夜の方がはかどるのでもっぱら夜の作業なのですが、最近0時過ぎると眠くて仕方がない。無理したくても眠気の誘惑に負けてしまう昨今です ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 7 (デュルンシュタイン)デュルンシュタイン (Durnstein)の街吟遊詩人ブロンデル(Sanger Blondel)中世の大イベント、十字軍の遠征については、以前紹介していますが(2013年8月)、今回紹介するデュルンシュタイン (Durnstein)は第3次十字軍(1189年~1192年)の功労者、イングランド王のリチャード1世(Richard I)が幽閉された場所として歴史に残っている有名な街です。ヴァッハウ渓谷 (Wachau)最大の観光スポットデュルンシュタイン (Durnstein)の街街の象徴とも言える水色の塔はデュルンシュタイン・ドナウ教会(Kirche in Dürnstein Donau)教会左隣は参事館(Chorherrenstift) 左に見切れているのが5つ星のホテル・シュロス・デュルンシュタイン(Hotel Schloss Dürnstein)デュルンシュタイン (Durnstein)は街を取り囲むように石の壁が築かれた城塞都市です。赤とオレンジで城壁の部分を塗り分けてみました。デュルンシュタイン城跡(Burgruine Dürnstein)は見切れている上方にあります。A・・デュルンシュタイン・ドナウ教会(Kirche in Dürnstein Donau)と参事館(Chorherrenstift)B・・宿・サンガー・ブロンデル(Gasthof Sanger Blondel)C・・前クレア修道院(ehem. Klarissinnenkloster)で現在はホテル・レストラン リチャード獅子心王(Hotel Richard Lionheart)D・・古城(ehem. Schloss)のホテル・シュロス・デュルンシュタイン(Hotel Schloss Dürnstein)参事館(Chorherrenstift)の下に船着き場があるのですが、そのまま真っ直ぐには街には入れません。街に入るルートをピンクで示してみました。城壁の下のトンネル城内から見たゲートたまたま居合わせたデュルンシュタイン・ドナウ教会で式を挙げたばかりの新郎新婦。大人のカップルですねメインストリートに繋がるゲートの方メインストリートのハウプト通り(Hauptstrabe)ラートハウス(Rathaus) 旧市庁舎? 現在はペンションのようです。古城(ehem. Schloss)のホテル・シュロス・デュルンシュタイン(Hotel Schloss Dürnstein)ロケーションもNo1ホテル・シュロス・デュルンシュタインからのヴァッハウ渓谷 (Wachau)の眺めホテル・シュロス・デュルンシュタインから先は岩山に張り付くように建つ教会や邸宅が並ぶ。街を囲む城壁と岩山に溶け込むかのようにはまっている建物。吟遊詩人ブロンデル(Sanger Blondel)最初に、ここは第3次十字軍(1189年~1192年)の功労者、イングランド王のリチャード1世(Richard I)が不本意にも、幽閉された街・・と書きましたが、リチャード1世はデュルンシュタイン城(Burg Dürnstein)に幽閉されていたとされています。なぜ幽閉されたかについては、次回説明しますがBlondelsageと呼ばれる逸話があり、それによればリチャード1世の家臣で、吟遊詩人ブロンデル(Sanger Blondel)の歌声が彼の場所を突き止めて、救出にいたった・・とされる話です。その為に功労者プロンデルは英雄となっています。前クレア修道院(ehem. Klarissinnenkloster)入り口現在はホテル・レストラン リチャード獅子王(Hotel Richard Lionheart)そして中庭右に同じく宿・サンガー・ブロンデル(Gasthof Sanger Blondel)が同居しています。しかし、実際はBlondelsageはイングランド側による作り話かもしれません。なぜなら、実際リチャード1世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世に身代金を払って解放されているのです。そして、実際山の上のデュルンシュタイン城跡(Burgruine Dürnstein)はかなり遠く、風も強い。とうてい下から声が届く場所ではなかったのです。仮に下の方に小屋があったとしたら可能かもしれないが、1000年近く前の話である。建物など今は存在していないので検証もできない。天下のリチャード1世が身代金で解放ではみっともないから後世そんな話が作られ吟遊詩人が歌い続け、さもそれが事実のようになったのかもしれない。・・と思うわけですデュルンシュタイン (Durnstein) つづくリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)
2015年01月18日
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せっかく写真があるので、クルーズしている感が出るようたくさん写真載せる事にしました。今回は中盤のシュピッツ(Spitz)界隈とのヴァイセンキルヒェン(Weissenkirchen)航行を紹介します。この当たりは両岸日当たりよく、ワイン用の葡萄畑が一面です ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 6 (シュピッツ界隈)ヴィレンドルフのヴィーナス(Venus von Willendorf)ドナウ川クルーズ・シュピッツ(Spitz)ヴァイセンキルヒェン(Weissenkirchen)仲間同士で、優雅に食事を楽しんだり、パーティーをするなどのイベント船(Donau Wachau Brandner)や自転車を積んで、サイクリングしながらクルーズする船(MS Theodor Körner Boat & Bike Danube)など夏場にはいろいろな船が運航しています。特にサイクリング船はドナウ川だけでなく、オランダ、ベルギー、フランドル、ドイツクロアチアなどバルト海域など様々な場所でクルーズをするアクティブな人向けの船でちょっと面白そうです 自動車まで乗っかる渡し船世界遺産に認定されているので橋が架けられないようです。世界遺産に認定された後に地元住人が勝手に橋を架けて認定取りやめになった所が確かドイツにありましたが、地元の住民の利便か世界遺産認定か・・難しいですねヴィレンドルフのヴィーナス(Venus von Willendorf)ところで葡萄畑が広がるこの河岸で1908年にオーストリア最古と言われる旧石器時代(紀元前24000年頃)の土偶ならぬ石偶が見つかっています。わずか11.1cmの石灰岩を彫り込んで作られた豊満な女性の立像はおそらく五穀豊穣や多産の象徴的なお守りだったのではないか? あるいは不妊の神様? と考えられヴィレンドルフのヴィーナス(Venus von Willendorf)と呼ばれるようになったそうです。立像は現在ウィーン自然史博物館に所蔵されていると言う事ですが、写真を撮ってきていないのでウィキペティアの無料メディアリポジトリより借りてきました。日本の土偶は出産で亡くなった女性への弔いの要素が強かったと思いますが、こちらは見た感じ、五穀豊穣でミルクが沢山出て子供が良く育ちますように・・と言う身重の女性のありがたいお守り神様のような気がします。 (^人^)パンパン 人(-_- )一礼 謎は顔が無い点だとか・・。何にしてもやはり川辺の日照の良いこの土地には古来より人が住んでいたと言う事です。それは同時に昔から陣取り合戦で、敵が攻めてくる土地だった・・とも考えられます。そしてローマ帝国時代にはドナウ川の源流から河口までのほぼ全域が帝国の北方の防衛線であったと言われ、今もあちこち当時の名残の城塞跡が点在しています。ヒンターハウス(Hinterhaus)城跡ヒンターハウス(Hinterhaus)城跡より川下がシュピッツ(Spitz)の町です。シュピッツ(Spitz)の桟橋に着岸する時は方向転換して川上が船首に・・。シュピッツ(Spitz)の桟橋シュピッツ(Spitz)の1000Eimer-Berg1000Eimer-Berg・・・「1000アイマーのワインが収穫できた山」の意1Eimerは56.5リットル 昔使われたワインを量る単位だそうです。標高の低いとこにはグリューナー・フェルトリーナー種高い所にはリースリング種が植えられているとか・・。また町のもう一つの特産品がアプリコットらしい。時間が無かったのでここでは船を降りませんでした。船は1日2便しかないので1度降りて次の船に乗るには下船できるのは1箇所のみ。他の手段はバスで次の町に出るしかない。ヴァイセンキルヒェン聖ミカエル教会(Weissenkirchen St Michael)ヴァイセンキルヒェン(Weissenkirchen)城塞跡の城塞教会と言う変わった経歴の教会。1500年~1523年に建立されたという城塞。塔は1531年にオスマン軍の侵略から守る為に立てられたとか・・。ヴァイセンキルヒェン(Weissenkirchen)の町ヴァイセンキルヒェンは白ワインのぶどう品種であるリースリング(Riesling)の発祥の地と言われている。つづくリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 7 (デュルンシュタイン)
2015年01月10日
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新年おめでとうございます。m(_ _)m♪☆ヾ(*∩_∩)∠※☆ノ+。:.゚.:。+ 本年もよろしくお願いします゚+。:.゚.:。+゚♪新年迎えて6日。関東では7日には早くも松飾りの撤去です。歳神様を迎える(松の内)の松飾りは今でも地方では、小正月(1月15日)までの所が多いようですが、関東では大正月(1月7日)までで撤去です。それは寛文2年(1662年)に江戸幕府により出された江戸城下の通達以来徐々に広まったそうです。正月の短縮の意味は今一つよくわかりませんが、この時に松飾りの炊きあげをしていた火祭りも江戸では禁止されています。理由は炊きあげによる火災を恐れての通達だったようです。何しろ明暦3年(1657年)には江戸城下の大火事(明暦の大火)が起こっていますし、元号変って万治4年(1661年)には内裏の火災が発生。縁起が悪いので元号を変えた寛文2年(1662年)にこの通達が出されています。江戸幕府は冬の関東の乾燥と火の気を何より心配した・・と言う結果が今に継承されているのですから歴史は面白いですね ところで、明暦の大火は、振り袖火事とも言われ、供養の振り袖の炊きあげにより起こった・・とされる火事ですが、現在の見解では老中の屋敷からの出火と言うのが真相だったとされています。さて、ヴァッハウ渓谷のクルーズ写真が結構たくさんあり、選ぶのにわけがわからなくなっています 本来4回程度で終わらせる予定でしたがすでに5回目。もう少し長くなりそうです ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 5 (ドナウ川クルーズ船)ドナウ川クルーズ船メルク修道院(Stift Melk)のテラス眼下にメルク川があり、そこから1社、橋を渡ってドナウ川岸に数社の船乗り場があります。そこからヴァッハウ渓谷 (Wachau)のクルーズ船が出発しています。GGSG Blue Danubeの観光船MS Wachauはメルク発。(1日2本運行)こちらは遊覧船で宿泊船ではありません。いずれにせよヴァッハウ渓谷 (Wachau)のクルーズは冬はやっていないようです。地図の下方Melkよりスタートそこからヴァッハウ渓谷 (Wachau)自体は36km程の距離。渓谷にはかつての要塞や古城、修道院が点在。2000年にユネスコ世界文化遺産に登録。メルク修道院(Stift Melk)を後方に見て出発ドナウ川に合流日差しが強い7月の上旬。サングラスも必要。写真下、左が支流のメルク川すぐ対岸にはEmmersdorfの船着き場。ドナウ川はかなりの大河。なかなか気持ちの良い航行です。そんなに揺れませんが、風は強く帽子は飛んでしまいます。そしてかなり日に焼けるので日傘が必要ですが、それも風で押さえるのが大変でした。キャビンに入れば日焼けは免れますが、良い写真を撮りたいならデッキにいるしかありません かつては、オスマン帝国の兵や物資を運ぶ輸送路となり、十字軍の遠征にも利用されたこの航路は川下は黒海に至れる河川であり地中海に臨める経済航路です。しかし、上流は、現在でこそライン・マイン・ドナウ運河(Rhine-Main-Danube Canal)により北海にも繋がっていますが、昔は途中陸路を移動してライン川やマイン川に連絡しなければならなかったようです。これら河川をつなぐ構想は8世紀からあったようですが、標高差が異なる為に最終的に完成したのはつい近年(1992年)だそうです。シェーンビューエル城とシェーン・ビューエル修道院1844年にバイエルン王妃エリザベート(シシィ)が訪問してバルコニーから手を振った・・とか・・。航行の難所と言われるこのあたり。結構多くの船と行き交いました。夏だけ運行している船旅用の客船A-Rosa Bella 全長124.5mこちらはブタペストからウイーンを通り、ヴァッハウに至る船舶で、船の中はかなり豪華みたいです。それにしても船の絵柄のセンスが・・(* v v)。こちらも船旅用客船Prinzessin Katharina 全長110mこちらもブタペストからウイーンを通り、ヴァッハウに至る客船です。ヴァッハウ渓谷 (Wachau)はオーストリア最大のワインの産地でもあります。両岸にはブドウ畑がたくさん見られます。何よりこれだけ夏の日射が強いのですから、かなり糖度の高い良いブドウが育つでしょうね。カメラ3台で撮影しているのでカメラによりかなり色調が違ってきています。特に日差しが強すぎて色が飛んでいるか、青く出過ぎるか。・・で、多少色調調整をおこなっています。それにデジカメのモニターが反射して何も見えません。天気が良すぎるのも難しいです。クルーズ写真次回も続くリンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 6 (シュピッツ界隈)
2015年01月05日
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