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そろそろミュンヘンを後にしようかと考えましたが、やはりアルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)だけは紹介しておく事にしました。ルーブル美術館やメトロポリタン美術館に比べると来場客が多いとは言えませんがドイツを代表する国立美術館です。(ドイツ部門の1位はレジデンツでした。)ぶっちゃけ、わざわざ飛行機に乗って行って見る・・と言う目玉があるか? と言うと微妙ですが、美術書で各々紹介されている作品が集まっているのは確かです。なぜなら前にも紹介した通り、かつてのバイエルン王家、ヴィッテルスバッハ家のコレクションがベースになっているからです。アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1Cafe Klenzeアルブレヒト・アルトドルファーのイッソスの戦いイッソスの戦い(Schlacht Bei Issus)ピナコテーク(Pinakothek)とは、そもそもギリシア語起源のピナコテカpinacotecaから派生した言葉で、絵画のみを集めた美術館を指す言葉。つまり絵画館なのだそうです。よく使用されているミュージアム(Museum)は考古学的な物まで含めた美術博物館と言う意味らしい。命名はルードヴィヒ1世。古代ローマの建築家の著作から見つけた名前だそうだ。アルテ・ピナコテーク開館から遅れて1853年向かいに新絵画館ノイエ・ピナコテーク(Neue Pinakothek)がオープンした事により旧・絵画館アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)と名称が変わった。道路挟んで向かい合う両館の間 ヘンリー・ムーア(Henry Moore)のブロンズ像今回紹介するアルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)の開館は1836年。絵画館(Pinakothek)は共にバイエルン第2代国王ルートヴィヒ1世(Ludwig I)(1786年~1868年)によって設立されています。因みにルートヴィヒ1世については「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg) 2 (美人画ギャラリー)」ルードヴィヒ1世とローラ・モンテス(Lola Montez)で紹介しています。ここが入り口? と思うほど目立た無いし解かりにくい。(ドイツは案内版が少ない)表は古いが中は近代的で清潔。エントランスはこんなに閑散。ツアーが到着すると混み混みになるそうだがこの時は空いていた 荷物は新しいロッカールームが奧に付属。Cafe Klenze 写真を撮影している側の後ろに絵画館のカフェがある。The Victorian House Cafe Klenze Alte Pinakothek(店の名前は長い)半セルフサービスな為に値段は安い。カウターで注文して簡単な物は自分で運ぶ。キッシュ・ロレーヌ 8.60ユーロ凝った料理は無いが、全てにサラダが付き味はとても良かった 看板などに表示されている値段は内税になっているので解りやすい。全体に10ユーロを超す品はなかったので安心。アップルトルテとコーヒー レシートが不明にアルブレヒト・アルトドルファーのイッソスの戦い(Schlacht Bei Issus)さて、最初に紹介するのはまさにコレクションの始まりとなった1点です。冒頭、アルテのコレクションは「バイエルン王家、ヴィッテルスバッハ家のコレクションがベースになっている」と紹介しましたが、そもそもヴィッテルスバッハ家が最初にコレクションを始めるに至ったキッカケの作品がこれから紹介するアルブレヒト・アルトドルファーの「イッソスの戦い」と言う絵ですイッソスの戦い(Schlacht Bei Issus)制作1529年 158.4cm ×120.3cmアルブレヒト・アルトドルファー(Albrecht Altdorfer)(1480年頃~1538年)ドイツの写本挿絵家だったとされるアルブレヒト・アルトドルファーはデューラーと共に神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の祈祷書の制作にも携わっていたと言う。地誌を正確に描き分ける風景画家とも伝えられる。彼の代表作となるのがバイエルン公ヴィルヘルム4世(Wilhelm IV)(1493年~1550年)と妃マリア・ヤコベアの依頼でレジデンツに飾る為に製作された歴史画イッソスの戦い。(別名アレクサンドロス大王の戦い)イッソスの戦い(Schlacht Bei Issus)BC333年マケドニアのアレクサンドロス3世(Αλέξανδρος)ことアレクサンドロス大王 VSペルシャのダレイオス3世(Darius III)との合戦。マケドニア軍3万に対してペルシャ軍10万とも言われた戦いにマケドニアが勝利した歴史的戦いであり、アレクサンドロス大王の武勇を讃える戦いの一つ。初敗退のペルシャ軍であるが、これがペルシャ衰退の始まりだったと言う。因みにイッソス(Issus)は現在のトルコ、イスケンデルン湾の奧部。(トルコ沿岸とシリア国境で地中海の最北東端。)後世語り継がれる一戦となったようでアルブレヒト・アルトドルファー以外にもブリューゲル(父)なども同タイトルで描いているように当時人気の画題でもあったのかもしれない。アルブレヒト・アルトドルファーは正確な地勢図で、史実に基づいて絵を作成。特に中央部隊を包囲するように囲みペシャ軍に裂け目ができたとする史実通りに沢山の兵が入り乱れて戦っている図が非常に繊細に描かれている。この時、ダレイオス3世はアレクサンドロス3世自身に攻撃され退散したと言われる。そのダレイオスは上の絵の中で中央少し左で金の馬車に乗っている。ちょっとボケましたが拡大しました。(馬車に名前が書いてありました)若干、気になるのは武具や装備の時代考証。ちょっと中世的すぎるかも・・。細かい、凄い・・と自然に目に留まった作品でした。アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek)つづくBack number アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)
2016年01月27日
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村上隆(むらかみたかし)氏 作品のBack numberをラストに載せました。Break Time(一休み)森美術館 村上隆の五百羅漢図展一昨日久しぶりに森美術館に行ってきました アーティスト村上隆(むらかみたかし)氏の大規模個展は日本では14年ぶりだそうで友人が誘ってくれたのです。ところで海外の美術館ではたいていカメラ持ち込みOKで作品の撮影が可能です。それは絵画に関しても同じです。ところが日本の美術館では一般的にほとんど撮影できないのが現状です。それが今回驚くべき事に「営利目的でなく、個人が楽しむ分に関して」撮影が許可されていたのです (ポップアートの場合、特に考えられない気がしますが・・。)そんなわけで村上隆氏に感謝してちょっと紹介する事にしました 何より今回の新作は全く新しい世界です。ポップはポップなのですが、今までのカワイイとは別物です。最初ちょっと抵抗もありましたが、美術館を出る頃には新しい世界を楽しんでいました ぶっちゃけ大人向けです。最初はいつもの慣れ親しんだ村上隆の世界iに近いところから・・。DOB君がパンダ化したような姿ですが、これは以前ルイ・ヴィトンとコラボした時のパンダに似てますねパンダの足下の球体は今までのフラワーではなく髑髏(されこうべ)です。髑髏(されこうべ)、すなわちドクロです。これは今回の作品の中には頻繁に出てきます。それはメインテーマの五百羅漢(ごひゃくらかん)にもつながる死を表すイメージなのでしょう。死の淵を覗き込む獅子?美術史家の辻惟雄(つじのぶお)氏と村上隆氏との絵合わせ遊びで始まったセッションの延長に「五百羅漢図」は生まれたそうです。その解説が出ていました。上が・・辻惟雄(つじのぶお)氏のお題 長沢芦雪(ながさわろせつ)虎図ふすま絵下が・・村上隆(むらかみたかし)氏の現代版「虎図」最初は2009年~2011年に芸術新潮で連載されていた絵合わせ。絵合わせ自体は平安時代の遊びだそうだが、今回辻惟雄(つじのぶお)氏が絵師についてのエッセイを投稿。それに対して村上氏が独自の現代的介解釈を加えて答える・・と言うセッションだったらしい。21回の対戦の中でだんだん大がかりな作品に発展。さらに東日本大震災で死や絶望を経験。そこからの復活の願いを五百羅漢に見たのか?なぜ五百羅漢を描こうと思ったのかは私は知らないが、結果、村上隆 氏は仏教とコラボした新しい世界感を展開するにいたったのだろう。羅漢(らかん)or阿羅漢(あらかん)・・尊敬と施しを受けるにふさわしい修行者。阿羅漢果(あらかんか)・・実り=悟り? 修行を達成した者をさすのだろうが、本来悟りを得たのは人間では仏陀のみ。五百羅漢(ごひゃくらかん)究極の悟り、阿羅漢果(あらかんか)を得た500人の聖者とされる。生前の釈迦に付き添い釈迦の説法を聞いてきた比丘とも、入滅後に結集した仏弟子500人とも言われる。しかし、本家インドにその話は無いようだ。五百羅漢(ごひゃくらかん)の聖者伝説は中国由来のようだ。作品は大がかりな物が多い。パネル式で連ねられているが、昔で言えば寺や城のふすま絵のような感じ。この作品は天の東西南北を司る霊獣の四神。青龍、白虎、朱雀、玄武を表した作品のパネルの一つ。下は白虎だったか?作品には四神の他にも瑞獣(ずいじゅう)がたくさん描かれている。瑞獣(ずいじゅう)は吉兆をあらわす。つまりめでたい獣である。妙に色っぽい羅漢に驚くが・・。見返り来迎図確かに菩薩(ぼさつ)に性別は無いけどね・・・。最初に紹介した死をイメージする髑髏(されこうべ)の山タイトルは「萌える人生を送った記憶」オタク人生を送りきった者達のカラフル様々なドクロ。彼らの記憶の残骸は骨にまで現れる 最後にヒルズ1階ににある村上隆の特設「お花カフェ」から一応美術館の半券かショップのレシートがある事が条件らしいが、チエックは無かったような・・。限定メニューが少々。一番人気はオムライス。既に売り切れでした 限定メニュー お花ムース(20食) 税込み700円中を割って驚く。中も真っ赤。写真の色よりもっと凄い朱色。ベリームースをチョコレートと合わせていると言うが・・。ベリーの色とは思えない。食紅だけなら怖すぎる でも味は悪く無い。レアチーズな感じでした。写真撮りたいが為に入ったお店でした。カフェは今月末までのようですが、五百羅漢図展は3月6日までですこれを見た後に・・・五百羅漢の個々のキャラ割りに驚きてす。(それぞれに個性が違う。)これら作品をベースにアニメとか冒険物のゲームが造れそうな気かします。少なくとも自分の頭の中では彼らのキャラを幾つか設定して物語が何本か書けそうな感じです それはさておき、村上隆(むらかみたかし)氏のポップ世界は仏教と融合した事で深い意味を持った作品に変革された? ・・と言えるのでしょう。村上隆(むらかみたかし)氏 作品のBack numberリンク MURAKAMI VERSAILLES 1 (Miss KOKO)リンク MURAKAMI VERSAILLES 2 (Tongari-kunリンク MURAKAMI VERSAILLES 3 (Flowers)リンク MURAKAMI VERSAILLES 4 (Kinoko Isu)
2016年01月21日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。レジデンツに入って最初に見学する宝物館には多数の値段の付けられない宝物が展示されていました。しかしレジデンツはただ展示しているだけで他の美術館のように展示品についての解説はほとんどありません。音声ガイドはあるのですが、日本語は無い。そんなわけでお宝についての来歴が今回ほとんど解からなかったのでご了承ください ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)レジデンツ博物館(Residenzmuseum)レジデンツ宝物館(Schatzkammer)宝冠と紋章以前紹介したハプスブルグ家のお宝の所でもそうであったが、宝物館はそれ自体が巨大な金庫の中にある。宝冠と紋章冠(かんむり)の事初めはヘレニズム時代に遡るそうだ。街を守護する女神が頭にその街を乗せている。街があたかも城壁のようになり女神の冠のように見えた。そうした城壁形状の冠は「城壁冠」 ミューラル・クラウン(mural crown)と呼ばれるようになる。この城壁冠が根付いたのは実は古代ローマの時代らしい。古代ローマでは、軍功をあげたものにはたくさんの褒美がとらされていたと言う。土地などもその一つであるが、砦の陥落など一番に乗り込み陥落に貢献した者には、その褒美として陥落した都市の城壁の付いた冠が授与されたらしいのだ。※ 後世、勲章(くんしょう)と言うものが出てくるが、その先駆けがこうした冠の授与だったのかもしれない。その冠は盾(たて)や旗(はた)など彼らの印となる紋章(もんしょう)の中にも刻まれて行く。日本と異なり西洋の紋章は軍功など栄誉が与えられる毎に柄が加えられて行くので家紋の絵柄は複雑になって行くのである。※ 中世にそうした紋章を研究する紋章学なる学問も出ている。冠の形状に戻るが、その形は割とリアルに、城壁のみならず、歩哨櫓(ほしょうやぐら)が付いていればそのように作られ城壁冠は進化したようだ。※ 中世になるとその歩哨櫓は建築学の向上により形が変化。城壁より少しせり出した塔のようなタレット(Turret)と呼ばれる歩哨台となる。チェスで言うルーク (Rook)のコマがまさにタレット(Turret)の形である。城壁にタレットがたくさん付いている城ほど規模は大きくなるわけで、冠に付いたタレットの数でも価値が違ってくるのである。下の王冠に付いたタレット(Turret)は街の紋章として実際に使用されていたカタルーニャのものである。ウイキペディアでパブリックドメインになっていたのを一部借りてきました。上 左からVillage(村) Town(街) City(都市)下 左からRegion(地方) Province(州) Generic mural(共通の冠?)おとぎ話で見る王様や王子の被ったギザギサ冠はこうしたタレットや城の塔から誕生していたようだ 中世以降はこうした冠の形状で冠のランクもでき、かつ爵位などによる冠の振り分けがされたようです。下のサークレット(circlet)タイプの冠の来歴は全く判らないが、ロンバルディアの鉄王冠に似ているので割と初期のものかもしれない。宝石の付け方などから見るとイスラム的な気がする。金は柔らかいのでその変形を防ぐ為? 同じ形状をしているロンバルディアの鉄王冠は内側が鉄輪で留められているそうだ。しかもその鉄がロンギヌスの槍を溶かしたものだと言うからビックリである。神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世(Heinrich II)(973年~1024年)の王冠らしい形はこれぞミューラル・クラウン(mural crown)「城壁冠」なのだろう。宝石に関してはヒビがいっていたりとかなり粗悪であるが、当時は色石だけで貴重品だったのだろう。これも確証は無いが十字の形状から神聖ローマ帝国の王冠として使用された可能性がある?実際あちこちに小さな穴が無数に空いており、そこに宝石がつなぎ止められていたように見える。コロネット (coronet)いつの物か判らないので何とも言えないが、形で判断すれば確かにコロネット (coronet)タイプである。それこそタレットの変形版かイスラムの城の歩哨のイメージかもしれない。イギリスで言えばは侯爵クラスのコロネットのようだ。英国女王の王冠??Um 1370~80貴族の紋章となった王冠は戴冠式など正式なセレモニーの時に着用したそうだ。その時はアーチが付き、ビロードの布などで帽子部がつけられていたようだが、宝石のちりばめられた冠は非常に重い。通常の公式行事ではシンプルなコロネット型。女性の場合はティアラ型の軽いものが使われていたようだ。それにしても冠としては面白い形をしている。奧がアーチの付いた王冠。下は女性用?1830年頃の「城壁冠」 ミューラル・クラウン(mural crown)?真珠のはめ込まれた聖書?神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世(Heinrich II)のものらしく1014年~1024年頃のもの。ギーセラの十字(Giselakreuz)高さ44.5cmと幅32cmバイエルン公ハインリッヒ2世(Heinrich II)の妻神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世(Heinrich II)の母ギーセラの十字架。※ バイエルンのギーセラ(Gisela von Bayern)(985年~1060年)十字架をはめ込むケースにも宝石。十字のくぼみのきわには四福音書記者が描かれている。中の十字架は不明。聖母子のイコン?宝石のちりばめられたイコンの年代も不明。もしかしたらローマ帝国が分裂する前の物か?先ほど報奨としての冠の授与・・と言う話をしまたが、後々それは冠ではなく勲章に変わる。以下に少し勲章をのせました。何の勲章かわかりませんが・・。いずれにせよ宝石がはめ込まれた宝飾品です。幾つも作って配るのは無理な一品です。上段の金の下がり物は金羊毛騎士に関係しているのかも・・。いつか金羊毛騎士団についてやりたいなーと思っています。追記・・・2018年6月「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」を書きました。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)レジデンツまだ居室などが残っていますが次、どーするかなー σ( ̄、 ̄=)ンート・・・Back numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ)リンク ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2016年01月13日
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ミュンヘン・シリーズのBack numberをラストに入れました。今回はレジデンツの祈りの場と聖遺物を紹介します。かなり盛りだくさんの内容です。聖遺物については、今までたいていの教会などではもちろん写真撮影などNGがあたりまえ。ところがレジデンツは太っ腹ほぼ全て撮影がOKだったので今回紹介する事ができます。しかし、聖骨と言ってもリアル骨なので無理な方は気をつけてね ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)諸聖人宮廷教会(Court Church of All Saints)旧王室礼拝堂(Arte Hofukapere)絢爛な礼拝室(Ornate Chapel)聖遺物箱(Reliquary)レジデンツ宝物館 聖遺物部屋(Reliquary Room)ハンガリーの聖エリーザベト「マルティン・ルターの宗教改革」については必ず世界史の中で1度は耳にした事があると思うが、その時にカトリックの重要な宝が多く破壊され失われた事を知る人は少ないだろう。※ 以前ゲント(Gent)の所でも書いた事があるが、宗教改革のおり、13世紀より続くドミニコ会系修道院の貴重な手書きの蔵書30000冊がプロテスタントの襲撃にあいレイエ川(Leie)に投げ捨てられたりしている。それはちょうど1960年代に中国で起きた文化大革命の時に多くの歴史的文化財が破壊され燃やされた時に似ていたのかもしれない。諸聖人宮廷教会(Court Church of All Saints)レンガがむき出しになった諸聖人宮廷教会であるが、かつては美しい装飾が描かれていたようです。今は教会ではなくただのホールとして使われているのかな?旧王室礼拝堂(Arte Hofukapere)現在はコンサートなとで使用される事もあるようです。天井のレリーフ「Civitas Dei」Civitas Dei英語では「The City of God」神の都。これは古代神学者アウグスティヌス(Augustinus)(354年~430年)によってラテン語で書かれたキリスト教哲学の本。古代ローマ人の信仰していた宗教に新しく入ってきたキリスト教。さらに西ゴート人によるローマ侵略。そんな時代の中で「神の都」論はローマとキリスト教の関係においても論理的に整理されて解説されキリスト教の教義本になったようだ。絢爛な礼拝室(Ornate Chapel)天井はキンキラな黄金レリーフ。壁には色大理石の象眼細工で描かれた模様や絵画が描かれた特別な部屋。実はここはただの礼拝堂ではない。かつてヴィルヘルム5世(Wilhelm V)(1548年~1626年)のプライベート礼拝堂で、聖なるお宝を収集した特別な部屋だった所。そのお宝の一部がまだ部屋に残っています。下のシンメトリーに飾られた左右の装飾 2×3台の容器に注目。それは「Reliquary」聖骨箱とか聖遺物箱と呼ばれる聖人の遺骨が納められた容器です。聖遺物についてあちこちで触れていますが、よかったらそちらを先に読んでださい「ローテンブルク 7 (聖遺物のある教会) 」リンク ローテンブルク 7 (聖遺物のある教会)「ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂) 」リンク ブルージュ(Brugge) 7 (ブルグ広場 3 聖血礼拝堂と聖遺物の話)聖遺物箱(Reliquary)現在、聖遺物箱のほとんどは宝物館の中でも特別な金庫部屋に納められています。もちろん聖骨としての価値。そしてその容器の宝飾性が認められているからです。「聖遺物には霊力が宿っているとされ、聖遺物を所有する者自身にも神の栄光が降り霊験を得られると考えられ、聖遺物に選ばれた人として一目置かれる存在」でもあった。またそれは信仰心だけではなく、貴重な聖遺物を所有するという事は名誉であり、その者の社会的地位を確固たるものにした。 と、され、当時は今以上に価値を持ったお宝だったのです。ここの聖遺物箱(Reliquary)はルターの宗教改革の後にはヴィッテルスバッハ家のコレクションからカトリック教会が認める宝となり扱われるようになったようです。その理由は最初に紹介したようにルターの宗教改革のおりにたくさんの聖遺物や聖遺物箱(Reliquary)が取り払われたからです。破壊されたり宝石などが抜かれ、遺骨は捨てられ失われた物も少なくなかったかも・・。レジデンツ宝物館 聖遺物部屋(Reliquary Room)ヴィッテルスバッハ家のコレクションは初期キリスト教の神聖な遺物として認定されたお宝です。実際、聖骨などを包む容器は当時の最高の技術を駆使した宝石箱のようなもの。宝冠に付けてもおかしくない宝石をちりばめた容器は素晴らしい美術工芸品となっています。しかし、この金庫のような部屋の解説に誰の聖人の遺骨かについての詳しい記載はありませんでした。当時まだ技術が未熟だったにもかかわらず容器にはガラスが多く用いられてていた。理由は人に見せる為の目的があったからだろう。遺骨は宝石や真珠などで留められて金糸の華の中に散りばめにれている。プロビデンスの目と三位一体を表す3つの納められた骨。聖体顕示代の原型はこれら聖骨の容器からかもしれない。下が1年半前から宿題にしていたザブトンに乗った頭蓋骨の謎。頭蓋骨を丸々美しく残す為にこのような宝石をちりばめた美しい覆面のような容器を考案したものと思われる。(実際はこの外回りの容器が別にあったようだ)その人はハンガリーの王女から修道女になり聖人に列聖されたエリーザベト(Erzsébet)(1207年~1231年)王女のようです。テューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世の妻でもありました。ザブトンに記された名前と赤いバラが印です。ハンガリーの聖エリーザベト1227年にルートヴィヒ4世が第6回十字軍に従軍中に死去し、若くして未亡人になるが再婚を断り夫の家からもらったお金で病院を建設。自らもボロを着て貧民の為に尽くしたとされる。生前の彼女の行いから彼女の死後3日遺骸を公開すると遺骨を盗もうとする者もあらわれたと言う。(そこですみやかに列聖の審査が始まったと言う。)1235年の聖霊降臨祭の日、教皇グレゴリウス9世によりエリーザベトは列聖された。転々とした彼女の聖骨列聖の翌年、聖遺物として祭る為の儀式が行われ、頭部が切り離されたようだ。そしてたっての希望で列席した神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世により彼女の頭に冠が乗せられ聖遺物容器に保存されたと言う。(バラの花飾りがそうであろう。)遺骸は列聖の年よりドイツ、ヘッセン州マールブルク(Marburg)にてドイツ騎士団によりエリザーベト教会が建設されそこに祭られる事になった。しかしそれは16世紀まで。ここでも出てくるのが宗教改革の悲劇。教会はプロテスタント化され聖遺物崇拝を辞めさせる為にエリサーベトの遺骨は全てこの教会から取り除かれたと言う。ウィキペディアによれば、聖遺物箱(Reliquary)は現在ストックホルムにあるらしい。頭骨と頸骨はウィーンの聖エリーザベト病院と書かれているが、このレジデンツに頭蓋骨が丸々あるのだからそれは間違いなのだろう。聖人も大変ですね次回まだレジデンツの宝物つづきます。リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)Back numberリンク ミュンヘン(München) 1 (街の起源とノイハウザー通り)リンク ミュンヘン(München) 2 (ラートハウスとマリエン広場)リンク ミュンヘン(München) 3 (ラートハウスの仕掛け時計)リンク ミュンヘン(München) 4 (ラートハウスの塔)リンク ミュンヘン(München) 5 (ラートハウスのレストラン)リンク ミュンヘン(München) 6 (ラートハウスの装飾リンクリンク ミュンヘン(München) 8 (レジデンツ博物館 1)リンク ミュンヘン(München) 7 (悪魔の足跡)リンク ミュンヘン(München) 9 (レジデンツ博物館 2 グロッテンホフ) ミュンヘン(München) 10 (レジデンツ博物館 3 聖遺物箱)リンク ミュンヘン(München) 11 (レジデンツ博物館 4 宝物館の宝冠)他関連リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 1リンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 2 デューラーのサインリンク アルテ・ピナコテーク(Alte Pinakothek) 3 (クラナッハ、ティツィアーノ)リンク ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション
2016年01月05日
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