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重大お知らせ「アジアと欧州を結ぶ交易路 24 オランダ東インド会社(東アジア)」を2つに分離させてもらいました。余りにも長すぎ、自身の扱いにも困ったので・・。そもそも長すぎたのは掲載写真が少なかった事で、写真に合わせたからなのです。24回目はそのものを固定して 2-1回と 2-2回で分けました。よってタイトルも以下に変更しました。アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)この回が前編扱いです。「オランダ東インド会社が運んだ品」以下からを中編にしました。※ 後編は「アジアと欧州を結ぶ交易路 25」でタイトルします。尚、双方に若干の写真追加などしております。さて、「アジアと欧州を結ぶ交易路 22」では世界の覇者となったスペイン帝国の「太陽の沈まぬ国の攻防」の話をしました。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防そのラストでネーデルランド(オランダ)によるモルッカ諸島(Moluccas)への進出はすでに触れていましたが今回はそのネーデルランド(オランダ)がいかにアジアに入りこんで行ったのか? の話が中心になります。そのネーデルランド(オランダ)のアジア進出は、ポルトガルやスペインとは異なる形態での参戦なのです。まずは復習から。アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)ネーデルランド(オランダ)のアジア参戦理由商船 アムステルダム号東インド会社とは何か?ネーデルランドのアジア参戦オランダ東インド会社(VOC)の進撃イングランドのアジア参戦各国の東インド会社(East India Company)東インド会社は勅許会社(ちょっきょがいしゃ)与えられた特殊な権利アムステルダム銀行の設立が支えた経済VOCコインネーデルランドの衰退、東インド会社の衰退、アムステルダム銀行の衰退ポルトガルでは、国家が大航海時代そのものの道を開きアジア進出に臨んでいる。※ 当初の船は国が開発し、用意。※ 商取引きじたいはジェノバの商人がかかわっていたと思われる。スペインの場合は、国家が冒険者たちを見受けする形で参戦。当初はポルトガルと話し合いの上、住分けしていたが、後にポルトガルの相続問題からスペイン国がポルトガルを併合した形で全てを掌握する時代が到来。(ほぼスペインの天下時代)※ 船は航海者が自前で調達。後に国力が上がるとスペイン海軍の軍船が協力。今回紹介する、ネーデルランド(オランダ)の場合は、トップが交易の許可を与えただけ。実はその頃、ネーデルランド(オランダ)は独立戦争中。(80年戦争の終結が1648年。)アジア初到達の時点(1596年6月)で、まだ国家はなかったのです。アジア進出は民間が独自に会社を設立(東インド会社)し、船も自前。それら費用をまかなう為に株式制度を導入しての参戦となったのです。もしかしたら、国家として正式参戦できなかったから株式会社と言う特殊な参戦になったのかもしれない。※ 商船のみならず、護衛の軍船も会社組織の中に保持。ネーデルランド(オランダ)のアジア参戦理由独立戦争の中、なぜネーデルランド(オランダ)商人がアジアを目指したのか?そこには、市場におけるオランダ商人の排除? が要因にあったのでは? と考えられる。事の始まりは やはり80戦争?それ以前、北海に面するアントワープ(Antwerp)にネーデルランドは大きな貿易港(マーケット)を持っていた。しかしポルトガルは北部のハンブルク(Hamburg)に卸しの拠点を変更したらしい。それはハプスブルグ家が懇意にするドイツ系の金融家であるフッガー家(Fugger family)やウェルザー家(Welser family)のシンジケートに流通を変更したからだと言う。ハンブルク(Hamburg)と言う時点でハンザ(Hanse)の流通を有利に戻したとも考えられる。そもそもアントワープの存在はハンザ衰退の要因にもなっていたし、当然、スペイン側も戦争中の相手国の港を回避した。という理由もあろう。ポルトガル王も交戦中のスペイン王(ハプスブルグ家のフェリペ2世)が兼任しているのだから・・。また、以前はポルトガルのリスボンで胡椒など仕入れていたネーデルランド(オランダ)商人が、これもまた80年戦争の影響でイベリア半島の港街への出禁となった。これらにより、ネーデルランド商人によるスパイス・ハーブの取引は、より困難が伴っていくのだが、この頃、ポルトガルが内密にしていた東アジアへの航海情報が外部に洩れつつあり、ネーデルランド商人はインドネシア諸島への直接買い付けに動いたのだと思われる。そして1596年、ネーデルランド(オランダ)のフレデリック・デ・ハウトマン(Frederick de Houtman)(1571年頃~1627年)率いる探検船4 隻がついにジャワの胡椒の主要港であるジャワ島バンテンに到達成功。※ 産地のモルッカ諸島(マルク諸島)までは行ってない。※ マルク諸島(Kepulauan Maluku)はインドネシア語。この初遠征では現地でトラブルがあり乗組員の半数が失われたが、彼らが持ち帰ったハーブ・スパイスだけでかなりの利益をあげた。それが、決め手となりネーデルランド商人らのアジア直接買い付けに道が開けたのである。もっとも、ネーデルランドによる現インドネシアの支配はVOC時代を含めて300年以上に及ぶので、当初スパイス・ハーブの独占で利益を上げていたが時代と共に需要は変化。取り扱いの商品も変わって行く。加えて、彼らが築いたアジアの拠点バタヴィア(Batavia)は、中国や日本の産物を取引する中継貿易の拠点としても発展し利益を上げる存在となって行く。スパイス・ハーブのマーケットから省(はぶ)かれて、それでもスパイス・ハーブを求めたネーデルランド(商人)達は(株式)会社を立ち上げ、自分たちで資金を調達(資本家集め)。外洋航海できる船も自前で調達してアジアに乗り込んだ。※ 1603年の初航海では艦船12隻で出陣。結果、彼らの行動は国に大きく貢献。会社も国も金持ちとなり、優秀な人間も集まり、オランダ黄金時代(Gouden Eeuw)をもたらすのである。※ 欧州で最も富裕な国で、貿易、学問、芸術の最先端国家となる。今回はそんなネーデルランド(オランダ)の「株式会社 東インド会社(VOC)」の話ですが、彼らの闇が凄い。そんな闇にもせまります。東インド遠征隊のアムステルダム帰還 1599年7月画家 Hendrick Cornelisz Vroom (1562/1563年~1640年)所蔵 アムステルダム国立美術館ヤコブ・ファン・ネック(Jacob Corneliszoon van Neck)(1564年~1638年) の指揮による第2次東インド遠征隊アジア遠征からの帰還(1599年)の図である。4隻の艦船、モーリシャス(Mauritius)、ホランディア(Hollandia)、オーファーアイセル(Overijssel)、フリースラント(Vriesland)が、スパイス・ハーブをゲットして東アジアより母国に帰還。多数の小型船と満載の手漕ぎボートに迎えられている。まさに凱旋と言った光景。ヤコブ・ファン・ネックはスパイス・ハーブの産地であるモルッカ諸島(Moluccas)に最初に到達したネーデルランド(オランダ)人となった。商船 アムステルダム号18世紀のオランダ東インド会社の商船 アムステルダム号 (レプリカ)アムステルダム国立海洋博物館に係留されているレプリカ船。1748年、アムステルダム号建造。貿易品を積んでニューヨークへ処女航海?1749年、処女航海からほどなく (ほぼ英仏海峡対岸)イングランド・イーストサセックス州にあるヘイスティングス(Hastings)沖で嵐に遭遇。崖? 岩? に激突して難破。※船と積荷は失われたが、乗組員のほとんどは助かったらしい。1969年、「アムステルダム号」発見?船体は状態も良く、海底保存されていたのでダイバーや海事史愛好家のスポットとなっていたらしい。近くの町、イーストボーン船舶博物館で、アムステルダムの展示品や破片を見ることができる。と紹介されているので、本体のサルベージ(Salvage)はされていないみたいですね。それらを基に復元したレプリカがアムステルダム港に係留されているこの船です甲板は真っ赤だったと記憶しています。かなり昔に乗船。血で汚れても解りにくい。と言う配慮だったと聞いた記憶が・・。彫刻がちょっとチープだけど、持ち物からそれぞれギリシャ神話由来の神を守り神としているのがわかる。共にオリュンポス十二神の一柱。右、トリアイナ(τρίαινα)と呼ばれる三叉の矛(ほこ)を持つポセイドーン(Poseidōn)神。海洋の全てを支配する神。地震の神。トリアイナによって大波、津波、嵐を起こすとされる。皮肉にも、船は嵐による被害で沈没してしまったが・・。左、ケーリュケイオン(kērukeion)または、カードゥーケウス(cādūceus)(伝令使の杖)を持つヘルメース(Hermēs)神。神々の伝令使であり、旅人、商人などの守護神。また、蛇がからむ杖が象徴するのは平和・医術・医学。また発明・錬金術などの神ともされる。赤い盾に✖3つは聖アンデレ(andere)の十字でアムステルダムの市章である。フラグの中央には東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie)(VOC)のロゴ入り。東インド会社とは何か?そもそも東インド会社とは何か?簡単に言えばアジア方面の交易を主軸にする会社の総称です。組織形態や会社形態などは異なるが、総じて欧州勢による「インドや東南アジア方面での商取引を専門とする部門」の事を指す。また、どこもバックに国が付いて強力に支援している。と言う点が特徴である。※ 商取引きのみならず、彼らによる植民地下のプランテーションなども含まれる。要するに「東方貿易専門の商社」が東インド会社なのである。ただし、江戸期に日本にも来ていたオランダ東インド会社は、アジアに拠点を置いた交易や植民地活動で知られて居ると思うが、実はアジアだけではない。彼らは東方貿易の道すがら、船舶の補給基地として南アフリカにも拠点を持った。オランダ東インド会社はケープ植民地(Cape Colony)として南アフリカにも植民地展開していたのである。ポルトガルやスペインが香料諸島のある東南アジア方面に進出した時には無かった名称である。ネーデルランドのアジア参戦先にすでにふれてますが、詳しく・・。1602年、「Verenigde Oost-Indische Compagnie(VOC)」「東インド諸島連合の会社」と言う会社がネーデルランド(オランダ)で設立された。これはネーデルランド(オランダ)の商人らが一体となって、寄り合い、東アジアへの商売に共同で参入する為に造った世界初の株式会社でした。彼らは株券を買ってもらう事で資本を大きく集めたのです。先にも触れましたが、スパイス・ハーブを求めたネーデルランドの商人たちですが、ネーデルランド内でも当初は複数の商社が競いあい奪いあっていたらしい。しかし、競争となれば商品の値段も跳ね上がる。そこにイングランドも参戦すれば市場は争奪戦となり、共倒れになるのは必至(ひっし)。そんな現状を鑑(かんが)み、1社に統合して共に戦うようアドヴァィスしたネーデルランドの政治家がいた。ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト(Johan van Oldenbarnevelt)(1547年~1619年)である。オルデンバルネフェルトの提言でネーデルランド商社連合による「オランダ東インド会社」が1602年に誕生する事になった。また、これは世界初の株式会社となり、同時に1602年、アムステルダム証券取引所も開設された。※ アムステルダム証券取引所(Amsterdam Stock Exchange )(Dutch: Amsterdamse effectenbeurs)余談であるが、1619年、VOCの創設者とも言えるヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト(Johan van Oldenbarnevelt)をネーデルランド(オランダ)政府は処刑している。彼はオラニエ公ウィレム1世の元で戦い、ネーデルランドを独立に導いた重要な政治家の一人でもあるのにだ。※ オラニエ公ウィレム1世(Willem I)(1533年~1584年)(オラニエ公在位:1544年~1584年)処刑理由は前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭」の中、「フーゴー・グローティウス亡命の件」で紹介した1618年「ドルトレヒト(Dordrecht)教会会議」の神学論争にレモンストラント派が負けたからだ。国はカルバン主義をとった、反対派の重鎮は処刑か投獄。意見を異にしただけの事で国際法の父と呼ばれるフーゴー・グローティウスは投獄され脱獄してフランスに亡命。しかしヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトはハーグのビネンホフで公開斬首された。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭カルバン派の温情もない残虐さはこの頃から見える。VOCの根深い闇はカルバン派の思想が根底にあるからなのか・・。ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト(Johan van Oldenbarnevelt)に敬意を表して肖像をのせさせてもらいました。Portrait of Johan van Oldenbarnevelt ウィキメディアからかりました。1616年から1641年の間の肖像画画家 Workshop of Michiel Jansz. van Mierevelt (1566年~1641年) 所蔵 Rijksmuseum(アムステルダム国立美術館)良識ある知識人は反カルバン主義であった。ハーグのビネンホフでカルバン主義者らによって処刑されるヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトリッデルザール(Ridderzaal)(騎士の館)前の広場。ハーグのビネンホフの写真があったので紹介しますデン・ハーグ(Den Haag)はネーデルランドの政治の中枢で、ビネンホフ(Binnenhof)は旧議事堂です。リンク デン・ハーグ(Den Haag) 2 ビネンホフ(Binnenhof)話を東インド会社に戻して・・。VOCの取引項目では特にスパイス・ハーブでも、ペッパー(Pepper・コショウ・胡椒)、クローブ(Clove・チョウジ・丁子)、ナツメグ(Nutmeg)の輸入金額だけで全体の70%~75%に上っていたらしい。特に希少なこれら産地限定のスパイスで欧州の市場の独占を図った。ただ、それを求める為に彼らがした行為はほめられたものではなかった。オランダ東インド会社では、スパイス・ハーブ以外では、生糸とシルクの反物、綿織物、砂糖、金、銀、銅、コーヒー、茶葉が主要な輸入品となっていく。オランダ東インド会社(VOC)の進撃もともとインドネシア諸島はポルトガルが開拓した場所。後追いで1596年に到達したネーデルランド(オランダ)は、次々ポルトガルの港を奪って行く。実際、オランダ東インド会社が設立されて公式の最初の航海が1603年12月のアムステルダム出航である。艦船12隻。そもそもこの航海では、モザンビーク、ゴアなどのポルトガルの拠点を攻撃し、ポルトガルを追い落とす事が目的だったと伝えられている。そもそも普通の商船ではなかったのです。あとでまた触れますが、東インド会社は海軍も供えた一団だったからです。以下はネーデルランドが占拠してい行った順に示している。正式な会社設立前からすでに先陣がアジア入りはしている。尚、最初の2つは公式に現地バンテン王国(Sultanate of Banten)から許可をもらい建設している。1602年、香料諸島南方のバンダ(Banda)1603年、ジャワ島のバンタム(Bantam)1603年、マレー半島のジョホール(Johore)1605年、香料諸島南方のアンボイナ(Amboina)1612年、香料諸島南方のティモール(Timor)1619年、ジャワ島のバタヴィア(Batavia) アジアにおけるオランダ東インド会社の貿易ネットワークの中心地となった。1635年、ボルネオ島のバンジェルマシン(Banjermasin)1641年、マレー半島のマラッカ(MalAcca) マラッカ征服後、マラッカのポルトガル語話者は捕虜になった。1659年、スマトラ島のパレンバン(Palembang)1664年、スマトラ島のパダン(Padang)上は一度「アジアと欧州を結ぶ交易路 22」のラストで紹介しています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防イングランドのアジア参戦欧州市場ではネーデルランド(オランダ)による輸入が増えて、スパイス・ハーブなどが彼らによって価格操作され始めていた。それに脅威を感じたイングランドが香料諸島の商事に参戦。慌てて東インド会社なる物を設立したと言われている。※ こちらは一つの会社ではなく複合組織の総称である。が、イングランドの場合は自国の毛織物の輸出振興と言う側面もあったらしい。ネーデルランドは買い付け目的が主であったが、基本、貿易は「売り込み」、「市場の開拓」。イングランドは、当時毛織り物産業が不振であった為に、自国の毛織り物を売り込むのが最大の目的であった。だが、それらは東南アジアでも、インドでも全く売れなかたと言う。(温かい国にウールは必要なかった?)最も、毛織り物に限らず、欧州の品はどれもほぼ売れなかったらしく、途中から金地金を送って珍しい逸品を買いあさる方向に転換したらしい。確か、日本も交易で欲しいのは中国や韓国からもたらされる生糸、名陶や茶葉、香の原料などであり、欧州の品はいらなかった。(オランダ東インド会社が日本に運んでいた品は欧州産ではなかったらしい。)各国の東インド会社(East India Company)1600年 イングランドによる 東インド会社 設立? 一つの会社と言える組織ではない。 ドレイクの時から続く、航海ごとに資金を募る(出資する)形態から後に株式配当のようなシステムにイングランドも移行する。 ※ 1623年のアンボイナ虐殺事件を受けて、市場を東南アジア諸島からインドに移行した。1602年 ネーデルランドによる東インド会社 正式設立。 正式名 東インド諸島連合の会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie)(VOC)(株)。 ※ 資本金650万ギルダー イギリス東インド会社の10倍以上。出資は10年固定。 ※ 1799年解散。1604年 フランスによる 東インド会社 設立。 フランスの場合は、商業利権の参入だけでなく、植民地l経営の参入も大きな目的。 ※ 1664年国営会社。1612年 デンマークによる 東インド会社 設立。 クリスチャン4世の特許条で設立。1731年 スウェーデンによる 東インド会社 設立。 中国(清国)の広東との貿易が主。※ イングランドの東インド会社発足は1600年とされているが、実はアジアへの参入はネーデルランド(オランダ)のが早い。ネーデルランド(オランダ)の船団が、東南アジア(ジャワ島バンテン)に初到達したのは1596年6月。それからアジアとの取引が開始され1602年の統合設立までに14の会社が参入していた。株式会社として正式に登録されたのが1602年であっただけ。The Home Fleet Saluting the State Barge (国営船に敬礼する本国艦隊)制作 1650年。画家 ヤン・ファン・デ・カッペル(HJan van de Capel, H.)所蔵 アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum Amsterdam)2隻のヨットが、手前、国営船で漕ぎ進む役人(検閲)たちに敬礼をしている図らしい。1602 年~ 1796 年にかけて100 万人近くの欧州人がVOCのアジア交易に従事。VOC の船は 4785 隻に及ぶ。一方、ライバルのイングランドは2690隻で上げた利益はVOCの5分の1。VOCの効率が良かったと言うよりはVOCの商売のやり方? いや、かなりあこぎな事をした結果だろう。ポルトガルが船と積み荷を返せと訴訟を起こしているし・・。東インド会社は勅許会社(ちょっきょがいしゃ)(Chartered company)東インド会社(East India Company)。オランダ語から訳すと、「Verenigde Oost-Indische Compagnie」「東インド諸島連合の会社」。略して「VOC」。ネーデルランド(オランダ)は同国の商人により結成され「オランダ東インド会社(株式会社)」として東アジア交易に参戦。そのビジネスモデルは成功を収めた。先に紹介したオルデンバルネフェルトはそれを指導しただけでなく、複数の株主による共同持ち株と言う事業形態をも発案した人物と言われる。本当に功労者だったのに・・そしてこの会社の株券はアムステルダム証券取引所で売買されネーデルランドの国民は誰でも購入が可能であった。アムステルダム証券取引所も同年、1602年に設立されている。※ アムステルダム証券所は2000年の統合により現在はユーロネクストが運営。与えられた特殊な権利ところで、この株式会社は交易だけに従事していたわけではなく、交易先を植民地化して行くのである。その為には現住民との交戦もやむなし。すでに商館を持っているポルトガルからは奪い取る事も目的であった。※ アンボイナ虐殺事件もその一つと言える。(この時の相手はイングランドであった。)そんな強硬な態度でアジア参入できたのは、この会社が国からの特別許可状が与えられた勅許会社(ちょっきょがいしゃ・Chartered company)として存在していたからでもある。彼らには普通の商社ではありえない特権が与えられていた。兵士の雇用権、アジアでの要塞建設の許可権、現地総督の任命権、現地での条約の締結権、囚人の投獄及び処刑の権利、独自貨幣の鋳造許可etc。オランダ東インド会社は、ただの商社では無く、政府機関で無いにもかかわらず、軍隊を付随させて侵略的進行(戦争)を行い自ら現地総督を任命して要塞建設及び植民地活動を行こなう。パワー系の企業。VOCKの提督(ていとく)は現地有力者と条約交渉から締結(ていけつ)までも許可されたていた。そんな特権を与えられた特殊な商社? 会社だったのである。※ 設立から先、21年間のアジア交易の独占権も付されていたと言う。The Harbour in Amsterdam (1630) showing the Port of Amsterdamアムステルダムの港の眺め 1630年制作画家 Hendrick Cornelisz Vroom (1562/1563年~1640年)所蔵 アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)アムステルダム銀行の設立が支えた経済東インド会社と言う株式会社が設立(1602年)され、アムステルダムに証券取引所が開設(1602年)されたすぐ後、同じくアムステルダムには公立の振替銀行が設立(1609年)された。1609年、アムステルダム銀行(Amsterdamse Wisselbank)設立。この銀行はあらゆる種類の貨幣を預金として受け入れ、法定換金率で換算した銀行通貨グルデン(gulden)で払い戻しを行った。※ 預金の単位グルデンは,銀行グルデンと呼ばれ,実際の鋳貨に数%のプレミアムのついた独自の銀行の通貨単位となった。※ グルデン(gulden)(英:ギルダー・guilder)。これは非常に活気的な事なのである。なぜなら、国ごとに純度も異なる貨幣を一律に扱う事は、本来難しい事。内外の雑多な鋳貨(悪貨もある)の流通による混乱を防ぐ意味でもセビリアやヴェネツィアのような銀行の設立が求められていた中での事。北ヨーロッパでは初。16世紀のアントワープでは、公的には預金・振替業務が禁止されていたので公立の振替銀行は存在せず、振替業務はカシール(cashier)と呼ばれる民間の金融業者等が担っていたそうだ。しかし彼らの振替えはズルいもの。世間では、多種多様な鋳貨が流通していた事は確かだが、それを理由に為替手形の支払において現金での払い戻しを嫌い、現金払いには1%から10%のプレミアムを要求。しかも、法定重量を満たさない悪貨を債権者に渡して不当な利益をあげていたと言う。※ アムステルダム銀行が設立されると民間金融業者の振替業務は禁止された。アムステルダム銀行による振替えでアムステルダムの通貨は安定。欧州各地の商人が口座を開き世界貿易の中心地となって行く。当然、アムステルダム銀行の存在はオランダ東インド会社(VOC)の商取引に拍車をかけたはず。それにしても多種多様な鋳貨が市場にある事は問題だった。例えば、金貨でも純度で価値は当然変わる。換算も面倒である。さらに法廷基準の純度に満たない悪貨も出回っているのだからすんなり信用もできない。こういう時に一度銀行に入れて銀行グルデンに振替えれば良いわけだ・・。※ 南ネーデルランドの悪貨にはアムステルダム銀行も困り、自ら鋳造して対処している。しかし、もっと簡単な方法がある。信用のおける共通通貨で商取引すれば事はスムーズに運ぶ。VOCコインの発行はそう言う事かな?VOCコインアジアでの支払いを独自コインの発行でカバーしたのか? 植民地内での生活コインか?資料があまり無いのです。私の持ってる貨幣の本では取り扱われていなかった。貨幣として公式には認められていないのかな? 確かに、国が発行した貨幣ではないからね。ネーデルランド政府は株式会社のVOCにコインを製造する許可も与えていた。1793年 オランダ東インド会社がアジア用に発行 シルバー(銀)のVOCコイン。'Rider' ducaton 「ライダー」デュカートンウィキメディアから借りました。Silver rider(銀の騎手)重さ32.779グラム、銀0.941騎士の下の盾は鋳造州を示すらしい。 これはユトレヒト(Utrecht)を示している。1659年、騎馬騎士を描いた「銀の騎手(Silver rider)」デュカートン(ducaton)の鋳造開始。1726 年~ 1751 年にかけて、オランダ東インド会社のモノグラムが刻まれたデュカートンが鋳造。1798年までライダー デュカートンは鋳造されていたらしい。1799年、オランダ東インド会社(VOC) 解散。ギリギリまで鋳造されていたようですね。最も現地は解散になるとは思ってもいなかったろうが・・。その後の支配者はしばらくネーデルランド(オランダ)国ではなくなります。1815年に再びネーデルランド国による直接支配でアジアの植民地は復活しますが、もはや株式会社VOCは無いのです。1735年 オランダ東インド会社がアジアで発行 ブロンズ(銅)のVOCコイン。ウィキメディアから借りました。表面には VOC モノグラムと製造年が、裏面にはネーデルランド(オランダ)の紋章。摩滅具合から相当使いこまれたブロンズコイン。安いコインは絵柄もシンプルですね。gold(金)、silver(銀)、bronze (青銅)に加えて、pewter(主成分はスズ)の貨幣が発行されている。※ コインは本国の地方造幣局で鋳造。ネーデルランドの衰退、東インド会社の衰退、アムステルダム銀行の衰退アムステルダム銀行に戻ると、オランダ東インド会社(VOC)の隆盛は本国の経済を潤した。ここにアムステルダム銀行の存在と役割は大きく、オランダ黄金期を迎えるのに貢献しいる。しかし、この銀行は当初、当座貸越しを厳禁し、国や市への貸付けもほとんど見られなかったのに、1683年から市の法令により抵当貸付ができるようになった。(金貨0.5%、銀貨0.25%の低利)商人は金銀を預け、(預金)証書を受け取る。気付くと、オランダ東インド会社(VOC)への貸し付けが増加していたらしい。英蘭戦争以降にネーデルランドの経済は下降を始める。第一次英蘭戦争(1652年~1654年)第二次英蘭戦争(1665年~1667年)第三次英蘭戦争(1672年~1674年)1732年頃から東インド会社への貸付額の累積赤字が膨らみ経営状況は悪化していく。東インド会社の業績が落ちて来た? 1763年 信用危機。1780年 第四次英蘭戦争でさらに打撃。1795年 フランス軍の侵攻と占領で預金者が引き上げ。(大量の預金がハンブルクへ逃げた。)1799年 オランダ東インド会社(VOC) 解散。1815年 ウイーン議定書でVOC植民地の返還が決定。 オランダによるインドネシア植民地支配が再開されるが・・。1819年 アムステルダム銀行 倒産。銀行の資産がすべて東インド会社に貸し出されていたらしい。東インド会社と共に隆盛した銀行と言えなくもないが、度重なる国の戦争が招いた経済の打撃も大きい。オランダ黄金期を造った銀行も最後は倒産してしまった。最初に紹介しましたよう。以下を移動しました。アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編) オランダ東インド会社が運んだ品東インド会社の輸入したスパイス・ハーブイングランドとのスパイス・ハーブの協定オランダ東インド会社植民都市 バタヴィア(Batavia)VOC提督 Jan Pieterszoon Coenバンダ虐殺(Banda massacre)アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)カルバン派の国と提督日本とVOCの関係VOCとの取引開始とリーフデ号ポルトガルの排除Back numberリンク イングランド国教会と三王国の統合 2 ピューリタン革命から王政復古リンク イングランド国教会と三王国の統合 1 ジェームズ1世リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 26 イギリス東インド会社(前編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 25 ケープ植民地 オランダ東インド会社(後編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編) アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)リンク チューリップ狂騒曲リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2025年02月15日
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昨晩、真夜中、楽天ブログのメンテナンスが突然始まり、画面はフリーズ。書いていた3分の1くらいがスッポリ消えてしまいました。 …!(꒪╻꒪|||)今晩にも出せるかも・・の完成間近の状態だったたげに、頭の中パニックです。 。・゜゜・( > _ < )・゜゜・。ゥェーン作業は毎日深夜に少しずつ進めていましたが、この所10日ほどは朝方まで作業。かなり無理して作業していたから体もポロボロ。書き直しを考えただけで、寝込みたい状態です。消えた部分の一部タイトルだけ残ってましたが・・。オランダ東インド会社植民都市 バタヴィア(Batavia)VOCケープ植民地(Cape Colony)船舶補給地の建設植民地開発移民とアフリカーナ各国の東インド会社(East India Company)オランダ東インド会社の設立他どこまで記憶を呼び起こせるか?同じものは書けないだろうし、昨年から繰り越して張り付ける予定だった部分は完全に覚えていない。今週は、日中いろいろ予定もあるので、やはり作業は深夜。1週間で仕上げられるか・・。と、言う悲しい報告です。m(_ _;;mThe scream of nature(自然の叫び!!) 1893年画家 Edvard Munch(エドヴァルド・ムンク)(1863年~1944年)所蔵 National Museum of Norway(ノルウェー国立博物館)ノルウェーの画家エドヴァルド・ムンクの作品です。誰もが一度はどこかで見ているかもしれない。彼は何を叫んでいるのか?表現主義運動に影響を与えたと言うこの絵の苦悶の表情。まさに人間の不安を象徴。これはムンクが散歩で見かけた「空が血のように真っ赤に染まった光景」に驚きを示した図。日没の散歩時の事だと言うが、緯度の高いノルウェーには白夜がある。登場人物は薄着だから、これは夏の日の光景であり、必ずしも夕刻ではないだろう。当時、ムンクの妹は精神病院に入院していたらしいから、彼もまた疲弊していたのかもしれない。きっと不安を掻き立てるゾッとするような赤い空だったのかも。彼は橋を渡っている?バックは川をはさむように雪野原の白。上部が不安な赤い空。そして人物は、とてもおぞましい表情。その対比が、一度見たら忘れない絵となっている。ムンクは、ペイントで2枚、パステルで2枚、さらに石版も制作。反響があったからなのか? よほど気に入っていたのか?もしかしたら、本当にこれは彼の当時の心情を表現した創作であり、実際には無かった光景かもしれない。とも思った。今の私もこんな状態です。(;_;)
2025年02月02日
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