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お待たせしました。とりあえず載せますが、また後で修正あるかと思います。東インド会社が欧州にもたらしたそれら輸入品はどれも欧州人の生活を劇的に変える事になる。今じゃ当たり前な品だけど、当時は非常に活気的な商品もある。また、それが要因で産業革命のきっかけになった品もある。東洋からの貿易品は、実際、有益で重要な品が多かった。間違いなく「東インド会社」の登場は、西洋文化の発展に大きく寄与している。以前すでに触れたが、「東インド会社」は欧州の各国がそれぞれに参入して展開。当然、輸入の品はカブル部分もあるが、交易の土地により仕入れの品に違いは出てくる。国により主軸も異なってくると言うことだ。それは、インドネシア諸島を目指して始まった彼らの探検はインドや東南アジア、中国大陸など広げられて行ったから当然特産品も変わるからだ。そもそもネーデルランド(オランダ)がインドネシア界隈を強固に保持したから皆は避けたんでしょうね。どこの国がどんな事情で仕入れたか? どこの国が力を入れて普及させたか?国ごとに考察が必要なところが出てくるわけです。とは言え全部扱うのは大変。歴史に影響を与えた品を少し触れる事にしました。今回は、引き続き「オランダ東インド会社」から。実質の「オランダ東インド会社(後編)」になります。因みに、次回は「イギリス東インド会社」の(歴史的な)仕入れ品について取り扱いたいと思います。アジアと欧州を結ぶ交易路 25 ケープ植民地 オランダ東インド会社(後編)スパイス・ハーブ追加 香の素材コーヒー・プランテーション(Plantation)コーヒーの種類コーヒーベルト (coffee belt)オランダ領東インドの植民地 誕生VOCの苦境1799年VOC解散 至る理由ウイーン会議とウイーン議定書VOCケープ植民地(Cape Colony)船舶補給地の建設壊血病(かいけつびょう・scurvy)の発祥ヤン・ファン・リーベック(Jan van Riebeeck)サイモン・ファン・デル・ステル(Simon van der Stel)ステレンボッシュ(Stellenbosch)前回はポピュラーなスパイス・ハーブを紹介。そもそも当初の「東インド会社」の役割は、ほぼほぼスパイス・ハーブをゲットする事から始まっていた。元々、古来、スパイス・ハーブは香の素材として始まり、薬用など多用途で利用できる重要な品。ギリシャもローマ帝国もその重用性を知って求めてきたし、後世の人間にとってもそれらは不可欠な品に変わりはなかった。前回説明を忘れたが、スパイス・ハーブはそのまま使用すると言うよりは、むしろ水蒸気蒸留法や圧搾で製油を抽出して使用。聖書に出て来るキリストの足を洗った「香油」もそう。また製油にすれば香水や化粧品(化粧水、乳液、クリーム)も作れた。因みにクレオパトラはそれらをブレンドして美容液を作って使用していたからね。スパイス・ハーブ追加 香の素材スパイス・ハーブの種類は多い。直接買い付けとなれば、今までに増して取引の素材は増えたと思われる。(前回はポピュラーな品だけ紹介。)西インドまで行けばミルラ(Myrrh 没薬)が採れる。※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史」すでに紹介済み。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史中国南部、南インド、インドシナ北部からはアニス(anise)も入ったろう。アニス(anise)・大茴香(だいういきょう)・(八角)・・食欲増進、精神安定、虫除け、胃を丈夫にし、消化を助ける効能があり、最近ではインフルエンザ治療薬のタミフルの原料の1つ。日本が欲しがった香道(こうどう)の素材は東インド会社が中継ぎして日本に輸入された。白檀(びゃくだん・sandalwood)(インド原産)・・香木としても使用されリラックスする効果から瞑想の香などにも利用されてきたが、主成分サンタロールには、殺菌作用、利尿作用の薬効成分もある。また消炎効果として呼吸器系の炎症、痰、のど痛みに効果的。竜脳(りゅうのう・borneol))(ボルネオ島)・・頭痛、歯痛などの薬としても利用された沈香(じんこう・agarwood)・・高品質のものを伽羅(きゃら)と呼ぶ。健胃、制吐、鎮静作用があるとされ、漢方薬として腹痛、嘔吐、不眠などにも利用。麝香(じゃこう・musk)・・古来漢方薬の原料にも使われ、強心剤としての効果や媚薬としての効果があるとされてきた。因みに、日本の香道(こうどう)は平安時代にさかのぼると言われているが、それ自体は香(かおり)を楽しむもの。古来オリエントやエジプト由来の香とは全く異なる。※ 日本が漢方の素材として多用するるのは江戸に入ってからかもしれない。古来オリエントやエジプトでは、神殿での薫香も目的であったが、彼らは同時にそれらが病の薬としても利用できる事をすでに知っていた。スパイス調合(薬種のブレンド)で諸々の病の薬としても活用していたのである。実際、現代の医薬品はこれらのスパイス・ハーブが科学的に研究されて製品の素材として使われている。以前、古代エジプトの医学書「エーベルス・パピルス(Ebers Papyrus)」の説明をしています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史オランダ東インド会社の当初、7割強? スパイス・ハーブが主要な輸入品であったのは確か。コーヒー・プランテーション(Plantation)ところで、VOCのこれらスパイス・ハーブの取引量は後に減少して行く。その理由は生産地が増えたからではないか? 種や苗木を他の地で移植し、植生場所が他方に分散(例えば南米)して生産自体も仕入先も増えたからではないか? と推察する。実際、ジャワのコーヒーが逆の意味で該当する。コーヒーの原産地はエチオピア。もともとジャワ島にコーヒーの木は無かった。16世紀にイスタンブールでコーヒーが流行。コーヒーはだんだん欧州にも伝わるがアラブから購入する(モカ)コーヒーは非常に高価だった。VOCは、ジャワの農地にコーヒーの苗を移植して成功。コーヒーの大規模農園を造りコーヒー豆を生産。欧州に運んだ。ジャワ・コーヒーはアラビアから来るコーヒーよりも安く一時欧州の主流になったそうだ。ジャワのコーヒーは1712年以降欧州に輸出が始まる。※ VOCはセイロン島にもコーヒーの木を移植している。ジャワ島はほぼ赤道直下。コーヒーの環境に適した要素をたまたま? 持っていた?欧州勢の中で一番早くコーヒー生産を始めたのがオランダ東インド会社だったと言うわけだ。ジャワ・コーヒーの写真はありませんが、ハワイで撮影したコーヒーの写真があるので紹介します。オアフ島 ノースショアのワイアルア(Waialua) ワイアルア・コーヒーファクトリー(Waialua Coffee Factory)からハワイのコーヒーの歴史は意外に浅い?ハワイのコーヒーと言えばハワイ島のコナである。コナにはドトール農園マウカメドウズ(Mauka Meadows)があり見学に行っているが写真が微妙なので・・。オアフ島のワイアルア(Waialua)はノースショアにあり、そこはもともとサトウキビのプランテーションが盛んだった土地。非常に日照がよい土地なのだ。コーヒーフアクトリーはその工場跡地が利用されている。ちょっとサトウキビの話がはさまりますもともとサトウキビはポリネシア地域に古くから根づく農作物で土着の産物。それをアメリカ人が来てプランテーション(大規模農園)を立ち上げた。(1835年頃)同時に労働者として大量の移民がハワイに流入。これはインドネシアも同じ。VOC統治時代から労働者としてインドネシアにも大量の中国人が流入している。プランテーションと移民問題は切り離せないのだ。ハワイのサトウキビは一時期はアメリカ全土の20%の砂糖をカバーしていたと言う。収穫したサトウキビの輸送を支えていたのが鉄道。1889年から1947年までノースショアまで運行されサトウキビとパイナップルを輸送していた。近年までマウイ島にもサトウキビ列車が走っていたが、こちらも採算が合わずトラック輸送にシフト。2009年、カウアイ島最後のサトウキビ工場が閉鎖。2016年、マウイ島プウ・ネネにある1843年に設立のアレグザンダー&ボールドウィン社(Alexander & Baldwin)はハワイ最後のサトウキビ・プランテーションであったがそれも閉鎖した。オアフ島のワイアルア(Waialua)のコーヒー園からコーヒーの木コーヒーの実と花(下)はハワイ島コナのドトールの農園、マウカメドウズ(Mauka Meadows)で撮影。ハワイでコーヒーと言えば、実はハワイ島のコナが有名な産地。ワイアルア・コーヒーファクトリーのコーヒーの実と付き方も違うかも。品種違いか? ドトールのコーヒーは実がいっぱい。下は花前回も紹介したFranz Eugen Koehler (フランツ・オイゲン・ケーラー)(1805年〜1872年)氏によるコーヒーのイラストコーヒーの種類コーヒー豆は主にアラビカ種(Coffea arabica)とカネフォラ種(Coffea canephora)の2つに分けられる。※ ロブスタ(Coffea canephora var. robusta)はカネフォラの1つ。下の豆の品種系統樹はウィキメディアからお借りしました。ブルボン(黄色)以外のアラビカ種赤色カネフォラ種(ロブスタ)紫色アラビカとロブスタの交雑種の「ティモール系」緑色それ以外の交雑種を青色アラビカ種(Coffea arabica)エチオピア原産で、イエメンに広がりアラブ人がモカ港から出荷した事からモカ・コーヒーの名で呼ばれる。元祖コーヒ?高品質で収量も比較的高く、世界のコーヒー生産において7割から8割を占め主流。但し、高温多湿の環境にも、霜害にも乾燥にも弱い。レギュラーコーヒーに使われる豆。カネフォラ種(Coffea canephora)コンゴ原産のカネフォラ種の変種がロブスタ(Coffea canephora var. robusta)病虫害に強く(サビ病に強い)高温多湿の気候にも適応。その上、標高300~800mの低地でも栽培できるし多収穫で成長も早い。良い事ずくめ?しかし、肝心の品質はアラビカ種よりも劣り、苦みと渋みが強く酸味がない(コーヒーらしいコクや香りが足りない)事から主にインスタントコーヒー用。また、風味が変化しにくいというメリットから缶コーヒーなど工業用製品に利用されているらしい。※ ベトナムの生産量が多く、そのベトナムをかつて統治していたフランスでの消費が多いらしい。最近はいいとこどりしたハイブリット(交雑種)コーヒ豆が生まれてきているらしいワイアルア・コーヒーファクトリーからナチュラルプロセス(乾式処理)のコーヒー豆は果肉をつけたまま発酵し自然乾燥。焙煎前のコーヒーの実コーヒーベルト (coffee belt)コーヒーベルトはコーヒーの産地からコーヒーに適した土地を示したもの。それは赤道を中心として、北回帰線(Tropic of Cancer)と南回帰線(Tropic of Capricorn)との間の地域。この定義は、緯度による熱帯の定義と一致するそうだ。北回帰線 北緯23度26分22秒南回帰線 南緯23度26分22秒コーヒーベルトはより単純に北緯25度線と南緯25度線との間と示す場合もある。香料諸島はまさに赤道直下であった。だからたまたまコーヒーの生産に適していたと言える。最もコーヒーの生産には他にも条件がある。ある程度標高が高く、雨季と乾季があり寒暖差のある土地が良いらしい。VOCによるジャワのコーヒーは1712年から欧州に出荷。欧州で売れだしてから? 他国も自国のコーヒー・プランテーションを立ち上げている。VOCが最初にジャワ島(インドネシア)に持ち込んだのはアラビカ種。しかし、このアラビカ種はカビ菌に弱かった。今、ジャワ島で栽培されている主な品種はロブスタ種。フランス・・1715年、ハイチ、マルティニーク島(西インド諸島)※ 1697年から約100年、フランスの植民地だった。ハイチコーヒーの主な品種はアラビカ種。世界のコーヒー総生産の約60%がアラビカ種。しかしアラビカ種は高い標高で育つ品種。イングランド・・1728年、ジャマイカ(西インド諸島)※ キングストンの北キャッスルトン近郊で開始。ジャマイカのコーヒーの大半はティピカ種。ジャマイカと言えば特にブルーマウンテン(Blue Mountain)地域で生産されるコーヒーが有名。カリブ海の不安定な気候条件下で収穫量が極めて少なく高価だがブルーマウンテンは本当に美味しいドイツ・・キリマンジャロ山麓(東アフリカ)19世紀末ドイツによってアラビカ種のコーヒーが持ち込まれるがコーヒーの栽培が本格化するのは20世紀初頭。その後イギリス統治になってからもコーヒー栽培は継続。タンザニアとケニアの国境付近にある標高5895mの山。キリマンジャロ(Kilimanjaro)。この山の中腹、標高1500〜2500mでの栽培されているコーヒー。品種はアラビカ種であるがタンザニア産コーヒー全てを指すブランドがキリマンジャロコーヒーとなっている。ジャワ・コーヒーも、ブルーマウンテンもキリマンジャロもコーヒー店ではおなじみの品種。それら品種が植民地合戦で生まれたものだったとは驚いた。オランダ東インド会社(VOC)は絹糸(シルク)、絹の反物、綿織物(キャラコ)、砂糖(サトウキビ)、金、銀、銅、茶葉なども扱っています。特に綿織物(キャラコ)と茶葉は後から増えて行くのですが、それは主にイングランドが主流なので次回に持って行きます。オランダ領東インドの植民地 誕生1602年、香料諸島南方のバンダ(Banda)に拠点を置いたところから東インド会社(VOC)の進出は始まる。インドネシア諸島での支配を拡大し、現地人を使いプランテーションも行っていたオランダ東インド会社(VOC)であるが、VOCは所詮一介の会社。強いて言えば「植民地を統治する(Colonial Administration)会社(Company)」と言う位置づけかもしれない。実際、オランダ東インド会社(VOC)の統治時代の17世紀~18世紀。ティドレ(Tidore)とテルナテ(Ternate)のスルタンとその臣下たちにはオランダ東インド会社(VOC)から俸給が支払われていたそうだ。それを借地権と考えると植民地とは言えない気が・・。では正式に植民地となるのはオランダ東インド会社(VOC)が解散(1799年)してから?あるいはオランダ王国が誕生(1815年)してからか?VOCの苦境反乱があちこちで起き、日毎に状況が悪くなっている事を1750年のVOC決議録が伝えている。地元民のガマンの限界が来たのだろう。1780年、ついに首長のトップであるティドレのヌク(Nuku of Tidore)王子(1738年~1805年)が、セラム島を基地としてVOCに対して武装蜂起した。※ Sultan of Tidore (在位:1797年~1805年)ティドレ(Tidore)島とテルナテ(Ternate)島の住民はポルトガルがいた頃から非常に仲が悪かったが、打倒ネーデルランドでこの時初めて手を組んだらしい。彼らの本格的抵抗が始まる。この頃、欧州本土も大変な激動の時代に突入していく。フランス革命(1789年)後に起きたフランス軍による欧州侵略である。ナポレオンは神聖ローマ帝国を解体させる働きをして欧州全土がフランスになりかねない事態に。ネーデルランドもフランス軍に侵攻され陥落(1795年)した。Napoleon Crossing the Alps アルプスを越えるナポレオン 1800年ウィキメディアからかりました。画家 Jacques-Louis David(1748年~1825年)所蔵 National Museum of Malmaison and Bois-Préau マルメゾンとボワプレオー国立博物館※ナポレオンの肖像画はどれも美化されています。ナポレオンはこれらを広報活動に利用していたからです。1799年VOC解散 至る理由結果的には全て内政の悪さが影響したのかもしれない。元凶を考えるとオラニエ公を継承したウィレム5世(Willem V)に行きつく。彼のせいだけではないけれど・・。もともと幼少で家督をついだし、彼は優柔不断で日和見主義? 周りにもめぐれなかったのだろう。※ オラニエ公ウィレム5世(Willem V van Oranje-Nassau)(1748年~1806年) ネーデルラント連邦共和国全州の総督(在位:1751年~1795年) 彼が最後の総督となった。オランダ黄金時代は遠い過去のもの。海戦ばかりしていたから? 国内は人も経済も悪くなっていた。漁師も不足し、漁獲が減少。それは食料自給率にも影響する。造船技術も進歩していなかったし、航海技術も貿易も17世紀優位にいたネーデルランドとイングランドは18世紀には立場が逆転していた。そんな内政の悪さから1785年、国内でも愛国派が蜂起。そしてこの愛国派がフランス革命軍を手引きする形でネーデルランド全土は制圧(1795年)された。この時点で、ウィレム5世はイングランドに亡命。※ ウィレム5世(Willem V)の母はイングランド王家の出自。フランスへ亡命していた革命派らはバタヴィア共和国( Bataafse Republiek)(1795年~1806年)を樹立。しかし、バタヴィア共和国もナポレオンが皇帝に即位すると状況が変わる。一時(1806年)はナポレオンの弟ルイ・ボナパルトを国王とする王国になるが、すぐ(1810年)に王国を廃止してフランス帝国の直轄領にしてしまった。そんな状況下でウィレム5世は決断する。イングランドに亡命したウィレム5世はVOCをイングランドに預けた?VOCでは、従業員による密輸、汚職に加えて、管理費の増大もあり銀行からの借り入れも増大していた。資金的に苦しくなっていたのは確かであるが、直接要因はインドネシアで起きていた暴動の鎮圧の為に現地から援軍を求められていた事なのではないか? と推察する。本国がフランス軍に制圧(1795年)され、自身も亡命している。もはやネーデルランドとしてVOCを助ける事も維持する事もできないと判断した?インドネシアはイングランドに取られたと言うより、VOCを助けてほしいとお願いしたのかもしれない。先発のイングランドの艦隊がインドネシアに到着したのは翌年1796年。艦隊がアンボイナのビクトリア要塞沖で投錨。アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)事件(1623年)以来173年ぶりにイングランドはインドネシアに上陸(1796年)。現地のVOCは彼らを迎え入れている。先が見えない状況の中、中途半端にはできない。イングランドの管轄下に入った方が未来があると考えたのかもしれない。もし私の推察どおりであるなら、それはウィレム5世の英断(えいだん)であったと思う。オランダ東インド会社(VOC)は1799年に解散となった。以降ウイーン議定書が出るまでインドネシアはイングランドの管理下に入っている。ところで、オラニエ公ウィレム5世がVOCの解散を指示していると言う事は、彼が大株主? あるいはオランダ東インド会社(VOC)はすでにネーデルランド国の持ち物になっていたのかもしれない。もっとも、当初国として進出できなかった為に、「株式会社」を設立させてのインドネシア進出であったから、国の独立後に株式のほとんどは国が買い取り移管して行っていたのかもしれない。根本的な事を言うと、株式会社 オランダ東インド会社は組織的な複式簿記が根付かず、秩序だった会計監査や、株主への情報開示が行われなかった? らしいのだ。※ 世界で最初の「株主総会を行った会社」はイングランドの東インド会社らしい。話がそれるからこの辺、追求するのは今回控えておきますウイーン会議とウイーン議定書1815年 ウイーン議定書でイングランドに預けていたVOC植民地が返還がされる。また、同年、ウィレム5世の息子が初代国王ウィレム1世として即位し、オランダ王国が成立した。※ ウィレム1世(Willem I)(1772年~1843年) 初代オランダ国王(在位:1815年~1840年)およびルクセンブルク大公(ギヨーム1世、Guillaume I)ウイーン議定書は、ナポレオン失脚後の戦後処理が話し合われたウイーン会議の決定事項である。フランス革命後のナポレオン侵攻で欧州が相当荒らされた事。話し合いの原則はフランス軍侵攻以前の1792年よりも前の状態に戻す事。また以前の「正統な」統治者を復位させ、旧体制を復活させる事も理念にあった。そのおかげでネーデルランドへのフランス軍の侵攻も無かった事になったし、オランダ王国としての復権も果たされた。※ ケープ植民地はイングランド領となり返還される事はなかった。要するに欧州の領土問題をウイーン会議にてリセット。1792年以前の状態に復元したのが1815年のウイーン議定書。とは言え完全ではない。ナポレオンにより解体された神聖ローマ帝国はオーストリアとプロイセンの二大国を中心としたドイツ連邦として残った。因みに、各国代表が一度の場所に集まったウイーン会議の意義は大きい。大国の思惑が交錯する連日のウイーンでの会議は、ほぼサロン、宴会、舞踏会などの形式で行われたらしい。強いて言えばそれらは貴族の遊戯的会合である。それ故「会議は踊る、されど進まず」と揶揄(やゆ)されもしたが、ある種彼らの間には飲み友達のような絆(きずな)も生まれた? 各国が正式な外交ネットワークを通して取り決めた、この会議ではその後の欧州の平和にも協力を持って維持する。努力する。と言う体制(ウイーン体制)も決められ遂行(すいこう)された。実際30年ほどは平和が保たれたらしいから、ウイーン会議の成功は、サロン、宴会、舞踏会の演出会合効果もあったのではないか?VOCケープ植民地(Cape Colony)船舶補給地の建設ネーデルランドの船はそもそもポルトガル・ルートで来航している。つまり、南アフリカ経由である。今でも欧州から船でそのルートをたどると1カ月弱はかかる。昔は帆船だからなおさらである。また、季節風を待って航海していたから、いつでも行き来が出来たわけではない。船が出航する時期と帰国の時期は決まっていたはず。下は前回も紹介しましたが、フランシスコ・ザビエルのアジア航路のコースを示したものです。ウィキメディアから借りました。※ 南アフリカ、オランダ、ポルトガルに色を付けさせてもらいました。この図で、どこに補給地がほしいかおよそ解ります。壊血病(かいけつびょう・scurvy)の発祥長期航海にはたくさんの食糧が必要。しかし、保存食には足り無い栄養素があった。それがビタミンである。ビタミンC欠乏状態が数週間から数カ月続くと出血性の障害が体内の各器官で生じる病気が発症。それが壊血病(かいけつびょう)である。※ 関節炎、出血性疾患、歯肉炎、タンパク質-エネルギー低栄養を引き起こす。そもそも、出帆前から十分なビタミンCが摂取できていたか? 人により差はで出たであろうが、当時は、船に十分な量の新鮮な食品を積んではいなかっただろう事は明白だ。仮に十分な食料を積んでいたとしても、予定通りに航海が進むとは限らない。嵐や、故障などで長く海をさまよう事は多々あったろう。だから船員の死因には壊血病のみならず、餓死(がし)も多かった。それ故、長い航海の途中には船舶補給地が必要。そこで新鮮な水や食料を補給し、船のメンテナンスや修理ができるのがベスト。各国自分の国の補給地を各所に持つのである。因みに、以前、ナポレオン(Napoleon) が送られた島として紹介したセントヘレナ島は、イングランドの大西洋上の船舶の補給基地でした。リンク ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還VOCは船舶の補給基地を南アフリカのケープタウンに持った。※ 当初は補給基地がメイン。やがてケープ植民地は、船舶補給地以上の成果を上げる事になる。VOCケープ植民地(Cape Colony) 南アフリカ地図ヤン・ファン・リーベック(Jan van Riebeeck)ケープ植民地で特筆したい司令官が二人いる。1人は南アフリカに補給地を造る事をVOCに訴え、初代司令官に選ばれたヤン・ファン・リーベック。もう一人は、南アフリカでブドウを栽培するべく動き、南アフリカにワイン産業をもたらしたサイモン・ファン・デル・ステルである。ヤン・ファン・リーベック(Jan van Riebeeck)(1619年~1677年)ケープ植民地 初代司令官(1652年~1662年)本国と東インド諸島を結ぶVOC貿易ルート上に艦船の補給地を造るべく南アフリカで上陸地を選定。1652年、5隻の艦隊で南アフリカに向かいテーブルベイ (Table Bay)に上陸停泊地の確保、改善を行い砦(とりで)の建設を急いだ。最初の砦はフォート・デ・ゲーデ・フープ(喜望峡の砦)と名付けられ、泥、粘土、木材でできていて四隅に稜堡があったそうだ。ケープタウン(Cape Town)の始まりである。その後ケープ近郊に街が建設され入植者が増えて行く。ステレンボッシュ(Stellenbosch) 1679 年に設立。フランシュフック(Franschhoek) 1688 年から定住。パール(Paarl) 1688 年から定住。彼の最大の任務は艦隊に新鮮な食料を供給する事である。まず自分らの食糧も確保しなければならない。穀物、果物、野菜の植え付け、先住民のコイ族からの家畜の調達をしている。壊血病問題の打開策として彼は赤ワインを作ろうと考えた。※ テーブルベイ上陸時点で、すでに130人が亡くなり海葬されている。まずは実験的、作物の試作を試みている。最初の実験作物はリースベーク川のほとりで栽培されたらしい。ブドウ、穀物、落花生、ジャガイモ、リンゴ、柑橘類などをこの地にもたらした事はこの地域への貢献に値する。赤ワインを生産する為のブドウ園も造られたらしい。彼が南アフリカにワインをもたらした人物と言われる所以である。彼はボッシュホイヴェル(Boschheuwel)と言う自身の畑も造っていたようで、ここを去る時(1662年)に会社に売却しているようだ。彼は1677年ジャワのバタビアで亡くなった。サイモン・ファン・デル・ステル(Simon van der Stel)初代司令官ヤン・ファン・リーベックの赤ワイン生産を南アフリカに基幹産業(きかんさんぎょう・key industry)として現代に至るワイン産業を成立させたのが10代司令官にして初代提督となったサイモン・ファン・デル・ステルなのである。サイモン・ファン・デル・ステル(Simon van der Stel)(1639年~1712年)ケープ植民地 10代 司令官(1679年~1691年)ケープ植民地 初代 提督(1691年~1699年)※ 1691 年、VOC は「司令官」の役職を「総督」に置き換えた為に2つの肩書きで示される。サイモン・ファン・デル・ステルの妻はVOCを創設したメンバーの姪。VOCの司令官としてケープに行く事になったのはその関係であるが、妻はケープには来なかった。サイモン・ファン・デル・ステルが1679 年入植し開拓したのがケープタウンの東に位置するステレンボッシュ山の麓。砦の建設が最初の仕事。それ故、ステレンボッシュは、南アフリカで2番目に古い町なのである。彼はただの司令官ではない。南アフリカにブドウ栽培を広く根付かせワイン産業を造った功労者でもあるのだ。そもそも、南アフリカは地中海性気候でワインに適した土地であった事が想定されていたようだ。サイモンは本国でブドウ造りを経験。本国の農園は売り払ったが、南アフリカで最初のブドウの苗を植樹すると自らもブドウ農園を持ちワイン造りをしている。彼は着任するとフォールス湾周辺の土壌を調査し、ワインの為のブドウの栽培地を探った。そして理想の場所として選び開拓したのがステレンボッシュ(Stellenbosch)の街なのである。フォールス湾に面した保護された谷は風化した花崗岩の土壌で最も好ましい場所であった。ステレンボッシュ(Stellenbosch)ステレンボッシュ(Stellenbosch)のブドウ畑サイモン・ファン・デル・ステルがステレンボッシュ(Stellenbosch)に造った自身のブドウ農園はグルート・コンスタンシア(Groot Constantia)と呼ばれた。※ オランダ語でグルート コンスタンシア ヴィンヤード(Groot Constantia vineyard)(大きなコンスタンシアのブドウ園)。※ グルート コンスタンシアに建てられた彼の家もグルート・コンスタンシア(Groot Constantia)と呼ばれる。農園は1823年に土地が分割され売却。コンスタンティアベルグの東斜面と麓に位置する上流域のブドウ園がクライン コンスタンティア(Klein Constantia)と名付けられた。現在、それは世界の最高のワインと称され、ワイナリーは世界で最も神秘的なブドウ園と称される南アフリカ最高峰の名声を誇るワイナリーとなっている。つまり、クライン コンスタンティア(Klein Constantia)のワイナリーは、ケープ植民地提督のブドウ園がルーツのなのだそう。Klein Constantia ヴァン・ド・コンスタンス(VIN DE CONSTANCE)ブドウ品種:ミュスカ・ド・フロンティニャングルート・コンスタンシア(Groot Constantia) この写真はウィキメディアからかりました。サイモン・ファン・デル・ステルの住居。グルート・コンスタンシア(Groot Constantia)は典型的なケープダッチ建築(Cape Dutch architecture)の家。17 世紀、ケープ植民地の初期に建てられたアムステルダムのタウンハウスの特徴を持つ切妻などを備えた独特な建築様式がケープダッチ建築(Cape Dutch architecture)です。主に西ケープ州やワイン農園で使用された様式で長い水平構造で、白塗りの壁、茅葺の屋根、外壁の木製シャッターなどが特徴。サイモン・ファン・デル・ステル(Simon van der Stel)は引退後もここに残り、自身のワイン農園 グルート・コンスタンシア(Groot Constantia)に専念し、1712 年ここで亡くなっている。BLAAUWKLIPPEN 1682年設立のワイナリーステレンボッシュ山の麓に位置するこの農園は、山の斜面に堆積した灰青色の風化花崗岩からできている。豊かで肥沃な土壌で最高品質のワインを生産するために、収穫量を抑え、かつ健康なブドウの木にこだわっているらしい。Blaauwklippen 1682年と言う設立は、ステレンボッシュ(Stellenbosch) の街が1679 年にできてすぐ。サイモン・ファン・デル・ステルがステレンボッシュ(Stellenbosch)にブドウ農園を誘致? ほぼ同時期のスタート。ステレンボッシュで最も古いワイナリーの1つと紹介されている。Franschhoekのワイナリーのレストラン オート・カブリエール(HAUTE CABRIERE)ワイナリー経営のレストラン ツアーのランチで立ち寄りスパークリングとシャルドネ&ピノ・ノワールに特化したフランススタイルのワイナリー1982年設立。95%が国内消費らしい。HAUTE CABRIERE Limited Release PIN0T NOIR Magnum2002ほとんどは現地で消費されるリーズナブルなワインらしい。レストランが併設されていて、ワイナリー見学と食事が楽しめるワイナリーは他にもある。ワインに適した土地と理解して早い段階で土地を選定してケープでのワイン畑造りに挑戦。トレックボーア(Trekboer) Trekboersの問題や今に残る人種問題もあるが、VOCケープ植民地の1つの功績としてワイン産業を成功させ、評価されるワインを造った事だ。ウイーン議定書後も南アフリカはネーデルランドに返還される事はなかったが、農園はそれぞれ農園主がいる。歴史は確かに続いている。次回はイングランドのイギリス東インド会社を予定しています。その中で「オランダ領東インドの植民地」に触れるかもしれませんがまだわかりません。Back numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 27 イギリス東インド会社(中編) リンク イングランド国教会と三王国の統合3 名誉革命リンク イングランド国教会と三王国の統合 2 ピューリタン革命から王政復古リンク イングランド国教会と三王国の統合 1 ジェームズ1世リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 26 イギリス東インド会社(前編) アジアと欧州を結ぶ交易路 25 ケープ植民地 オランダ東インド会社(後編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)リンク チューリップ狂騒曲リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2025年03月31日
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カルダモン(Cardamom)が抜けていたので追加しました。「アジアと欧州を結ぶ交易路 24 オランダ東インド会社(東アジア)」を2つに分離させてもらいました。余りにも長すぎ、自身の扱いにも困ったので・・。そもそも長すぎたのは掲載写真が少なかった事で、写真に合わせたからなのです。24回目はそのまま固定して2-1回と2-2回で分けました。アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)この回が中編扱いです。尚、スパイスの写真を追加して編集しなおしました。後編は「アジアと欧州を結ぶ交易路 25」に持って行きます。アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)オランダ東インド会社が運んだ品東インド会社の輸入したスパイス・ハーブイングランドとのスパイス・ハーブの協定オランダ東インド会社植民都市 バタヴィア(Batavia)VOC提督 Jan Pieterszoon Coenバンダ虐殺(Banda massacre)アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)カルバン派の国と提督日本とVOCの関係VOCとの取引開始とリーフデ号ポルトガルの排除アムステルダム国立海洋博物館で展示されているVOC船の模型オランダ東インド会社が運んだ品東南アジア、特にモルッカ諸島含めるインドネシア地方から仕入れる(輸入)商品はコショウ、丁子(クローブ)、ナツメグ、ジンジャー、カルダモンなどのスパイスハーブが主要品。※ この地域でしか生息しないスパイスが含まれていた。他に絹織物、木綿織物、砂糖、まだ少ないながらもコーヒー豆、茶葉も開始。※ 1815年、イングランドが東インド植民地をオランダに返還し、再統治がインドネシアで始まってからはスパイスに代わり、コーヒー、茶、サトウキビ、インディゴ(藍)をジャワの農民に強制的に栽培させて本国に送っている。逆に、彼らがアジアに運んだのは金や銀、銅が主。輸出と言うよりは、それらで買い付けしていたというのが正しいだろう。以前「大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局」の所で紹介しているが、ネーデルランド(オランダ)は日本から純度の高い金、銀、銅を持ち帰ってVOC用のコインを鋳造していた。と紹介。しかし、時代と共に変化。金は日本が純度を下げた為にもうからなくなり、ラストの方はほぼ銅の輸入に変わっている。ただ銅も幕府が輸出量に制限をかけていたのでネーデルランド(オランダ)は日本との交易で利益が出ず、交易船の縮小。もししくは廃止の案も出ていたらしい。それでもVOCコインは、アジアでの交易用コインとなり流通貨幣として長らく使われていた。日本との縁はきりたくなかったし、日本もそう思っていた。リンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話東インド会社の輸入したスパイス・ハーブ以前、「アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史」の中でスパイス・ハーブの歴史から効能についても書いてます。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史そもそも、スパイス・ハーブは古来より、薬用として求められた。と言う事をご理解ください。風邪薬として、あるいはお腹に効く煎じ薬など効能から多用途に使用され、飲料とて摂取したり、料理として摂取し利用された。また、その過程で化粧品や香水なども生まれた。東洋で言う漢方薬の原料という位置づけです。ペッパー(Pepper・コショウ・胡椒)サンスクリット語の「ピッパリー(ロングペッパーの意)」に由来。黒コショウ(Piper nigrum)原産地はインド マラバール海岸。相当な古代から利用されていた事が解っている。紀元前1000年頃にはインドでの栽培が増産されている。ペルシャやギリシャ、エジプトでの需要が増えたものと考えられる。胡椒の実ハワイの朝市で購入。つまりハワイでも栽培されている。インド ケララ州カサラゴド(Kasaragod, Kerala, India)の黒コショウ畑 下の写真はウィキメディアから借りました。こちらもインド ケララ州の黒胡椒の木です。Indiana University Bloomington(インディアナ大学ブルーミントン校)Biology Building Greenhouse(生物学棟の温室)から写真をお借りしました。胡椒の生態について書かれています。リンク Biology Building Greenhouse熱帯性故、栽培は原産国インドのみならず、紀元前1世紀頃には東南アジアの諸島にも栽培が広げられている。ポルトガルが最初に得、スペインやネーデルランドが輸入したのはモルッカ諸島の胡椒。効能は、抗菌・防腐効果、消化促進、血行促進。筋肉痛の緩和。抗酸化作用からエイジングケア。辛味成分ピペリンにリラックス効果。虫の多くが胡椒の香り成分を嫌う事から肉の長期保存に利用されたり衣類の防虫剤にも使われた。クローブ(Clove・チョウジ・丁子)フランス語で釘を意味するクル (Clou) がクローブ(Clove) の名の由来らしい。学名は Syzygium aromaticum日本ではチョウジノキと訳される事が多いのかな? 料理ではクローブ(Clove)が一般的ですが、エッセンシャルオイルの世界ではEugenia aromaticaとかまたEugenia caryophyllataとか呼び方様々のようです。原産地はインドネシアのモルッカ諸島。テルナテ島(Ternate)、ディドーレ島(Tidore)、マキアン島(Makian)、モティ島(Moti)、バチャン島(Bacan)の5島が主産地。消毒、抗菌作用、鎮痛作用、歯痛や食辺り、食欲不振。中国ではBC3からに口臭を消すのに使われたらしいが、これを口にするのはかなり強いです。下の写真はウィキメディァから借りました花蕾(からい)を乾燥させたものが香辛料として使われます。ナツメグ(Nutmeg)原産地は特インドネシアのモルッカ諸島のバンダ島原産の常緑樹で、雌雄異株の木。高さ 5~15m(16~49ft)と樹高は高い。ティドレ島では 20m (66ft)または 30m (98 ft)に達することもあるらしい。その木の実の種子がナツメグ。果実は長さ6~9 cm(2.4~3.5インチ)、直径3.5~5cm(1.4~2.0インチ)種子を覆う赤い仮種皮はメース(mace)。種子の長さ2~3cm(0.8~1.2インチ)、幅約2cm (0.8インチ)芳香が良い事から学名は Myristica fragrans(ミリスチカ・フラグランス)1774年にネーデルランドの植物学者Maartyn Houttuyn(マールティン・ホッタイン)(1720年~1798年)によって学名が付けられた。薬用のみならず、エッセンシャルオイルとして利用されている。消炎効果、消化促進、 体を暖める効果、整腸作用、腸内ガスの抑制、下痢防止、鎮痛作用や、不眠。熟したナツメグの実写真はウィキメディアより借りました。下はFranz Eugen Koehler (フランツ・オイゲン・ケーラー)(1805年〜1872年)氏によるイラストです。種と種の周りを覆う繊維が利用されます。料理では、実を乾燥させ粉状にしたものが利用されます。今では、肉料理には欠かせないスパイスとなっています。カルダモン(Cardamom)カルダモンという言葉はラテン語のcardamōmumに由来。カルダモンはショウガ科。エレタリア属とアモムム属の植物の種子。どちらの属も原産地はインドおよびインドネシア。こちらもFranz Eugen Koehler (フランツ・オイゲン・ケーラー)(1805年〜1872年)氏によるイラストらしいです。原生の写真がなかなかないのでオイゲン・ケーラーの図をまたお借りしました。これもウィキメディアからです。花の種子が利用されます。小さな種子鞘。中の断面は三角の紡錘形。外皮は薄く紙のよう。中に小さな種子がつまっている。抗炎症作用、殺菌、免疫活性。香りは消化器系への働きかけにより食欲増進、消化不良の解消、胃の痙攣を抑える。また高い鎮静効果で交感神経の興奮を鎮静。古代エジプトでは高貴な薫香キフィ(Kyphi)の素材の1つとして使われていた。※ キフィ(Kyphi)の材料はそれ自体が薬として存在している。※ キフィ(Kyphi)についも以下に詳しく書いてます。 リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史シュメール時代のとアーユルヴェーダの中にも使用の記載があるし、ミケーネのスフィンクスの家の宮殿の文書から発見されたスパイスの香料リストにもあるそう。つまり、数千年も前から利用されていたスパイス。清涼感があるこのスパイスは、料理ではカレーには欠かせないスパイスです。ジンジャー(Ginger・ショウガ・生姜)ショウガ科ショウガ属の多年草で、その茎と根が利用される。英名は Common ginger(コモン・ジンジャー)学名はZingiber officinalegingerの由来は、古代インドで使われていたるサンスクリット語sringa-vera(枝角の形)から由来。ジンジャーの原産地はインドらしいが、古代から利用されていたので広まりすぎてはっきりはわからないらしい。一応、熱帯アジア原産。こちらもFranz Eugen Koehler (フランツ・オイゲン・ケーラー)(1805年〜1872年)氏によるイラストでウィキメディアから借りました。花は観賞用に利用され、地下茎や根が利用される。インドではBC300年~BC500年頃には保存食や医薬品としてすでに利用されていたらしい。欧州に伝わるのはBC1世紀頃とウィキには書かれているが、古代エジプトのキフィ(Kyphi)の素材にジンジャーではなく、ショウガ科のガランガルルート(Galangal root)が入っている。薬用としては早くから伝わっていたと思われる。食欲増進、整腸、痛み、抗炎症、酔い止め、血流促進、血圧・血糖値・コレステロールの降下、殺菌作用や免疫力向上。中世のヨーロッパでは生薬としてジンジャーの需要が高まったから? 16世紀半ばには西インド諸島はジンジャーの産地となった。ガランガルルート(Galangal root)ショウガ科の植物の地下茎でインドネシアでは医薬品や食材として昔から使われていた。ライム果汁にガランガルを混ぜたものは強壮剤として、キフィの効能でも血流促進作用、胃痛の軽減など消化器症状に効く薬として紹介。中世は媚薬としてしも使われたらしい。シナモン(Cinnamon)シナモン自体はインドネシアではなく、これを得る為にVOCは後々セイロン島に進出する。(肉桂ニッケイ→ニッキ)と年配の人は呼ぶが、シナモンのが解り易い。クスノキ科に属する常緑の芳香樹木。シナモンの木は葉の茂った低木として成長し、通常、高さは最大で 3m (10ft) シナモン属は約250種。南アジア、東南アジア、東アジア、オセアニア/オーストラレーシアの熱帯および亜熱帯地域に分布。薬用植物として中国南部やベトナム北部などで栽培されていた。属名はCinnamomumウィキメディアより借りました。シナモンの木と葉樹皮シナモンはBC500年頃の旧約聖書の詩編にも記述される神殿の奉納品リストにあるスパイス・ハーブの1つである。シナモン属の植物の葉と内樹皮には芳香油が含まれている。料理や薬用には乾燥させた樹皮が利用される。料理用に市販されているのはこんな形になっている。発汗・解熱作用から風邪の予防や初期症状に効果。また食欲不振、胃のもたれ、胃痛改善から胃腸薬の多くで使われる。イングランドとのスパイス・ハーブの協定これらスパイスハーブに関しては、1619年にネーデルランド(オランダ)本国とイングランドの間で協定が結ばれ、輸入量の取決めがされた。ネーデルランド2対イングランド1の割合。そもそも、彼らはいずれもスパイス・ハーブが欲しくてアジア参戦している。しかし、ネーデルランド側の現場は納得しなかった。当時、オランダ東インド会社第4代VOC提督であったヤン・ピーテルスゾーン・クーン (Jan Pieterszoon Coen)(1587年~1629年)(任期;1619年~1623年)は本国を無視して独占を図った。イングランドの追い出しである。そして起きたのが凄惨な事件。1623年、アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)事件。イングランドの商館を襲い拷問の末に全員虐殺。協定を結んでも、イングランドとVOCの間で戦闘事件は頻発。この非道な一件でイングランドは決心? 恐れをなした? イングランドはインドネシアからの撤退を決意しインド交易に移行する。オランダ東インド会社植民都市 バタヴィア(Batavia)現在のインドネシアの首都ジャカルタは、オランダ領東インドの植民地(VOC)時代「バタヴィア(Batavia)」と呼ばれていた。Batavia in de tijd dat het nog Iacatra heetteバタヴィア(Batavia)がまだイアカトラ(Iacatra)と呼ばれていた時代ウィキメディアから借りました。メルテリーフ(van Mertelief)が東インド諸島と中国へたびした時の情景。オリジナルの製作 1605年~1608年移替え制作 1675年~1725年当初はスパイス・ハーブの採れるモルッカ諸島(Moluccas)のバンダ(Banda)に交易の港を持っていたオランダ東インド会社(VOC)。1年後にジャワ島西のバンタム(Bantam)に港が許された。1614年から1618年にかけて、モルッカ諸島でクローブの独占権を、バンダ諸島でナツメグの独占権を獲得していたオランダ東インド会社(VOC)であるが、他国とのトラブルも生じていた。VOCはモルッカ諸島(Moluccas)からジャワ島バンタム(Bantam)に拠点を移動していた矢先、ジャワ島のイアカトラ(Iacatra)(現在のジャカルタ)がイングランドに占拠された。※ そこは、バンタム(Bantam)のほぼすぐ隣の港である。そもそも、VOCの勢力拡大を見て、バンテン王国のジャヤウィカルタ王子(Prince Jayawikarta)が独断でイングランドと組んだ事に始まる占拠であった。※ これはバンテン王国(Sultanate of Banten)の総意ではなかった事が後々わかる。ここにイングランドvs VOCによる戦いが勃発する。イングランドの艦隊は強く、VOCの降伏寸前にバンテン王国王?の助けが入った?VOC提督もモルッカから戻り参戦。※ オランダ東インド会社(VOC)の提督がこの年から変わっていた。指揮したのは第4代オランダ東インド会社提督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)(1587年~1629年)。1619年、戦闘の末、住人を追い出し、イングランドからイアカトラ(ジャカルタ)を奪還しVOCは勝利する。※ ジャヤウィカルタ王子の一件があり、バンテン王国との関係は和解。焼土となったイアカトラ(ジャカルタ)に新しいオランダの街と砦を建設し、ここをオランダ領東インドの首都とする。と、VOC提督は宣言。1621年、町はイアカトラ(Iacatra)からバタヴィア(Batavia)と改名された。バタヴィア(Batavia)の名はローマ帝国時代に入植したオランダ系ゲルマン民族(Batavi Germanic tribe)から由来しているそうだ。VOC時代含めてネーデルランド支配下の植民地時代(約300年)を通じてバタヴィアと呼ばれた。現地の人は嫌だったのだろう。第二次大戦下、日本の占領時(1942年~1945年)に「ジャカルタ(Jakarta)」に変更され、オランダの支配が完全に終わると、スカルノ政権は公式に「ジャカルタ」を都市の名前に採択した。欧州勢が東アジア進出した一帯の地図。グーグルから借りました。周辺国が解るように広範囲に入れてあります。現在のジャカルタが、ネーデルランド(オランダ)統治時代のバタヴィア(Batavia)。1642年 ポルトガル制作の古地図です。Portolano of Southeast Asia(東南アジアの航海案内書) 一部バタヴィア(Batavia)はジャワ島の北岸、保護された湾に位置し、沼地と運河が交差する丘陵地帯。もともと中継ぎ貿易(中国、韓国)で、古来より栄えていた街らしい。一年中高温多湿でネーデルランド(オランダ)人は、マラリア、コレラ、デング熱などの熱帯病に倒れることが多かったと言う。View of the Tijgersgracht on Batavia 1682バタヴィアのティガース運河の眺め 1682ウィキメディアから借りました。画家 インドネシア国立図書館のヨハネス・ラハ(Johannes Rach)によるスケッチ素材は銅販画。発行者 Weduwe van Jacob van Meurs所蔵 KB National Library of the Netherlands(KB オランダ国立図書館)17世紀半ば、ティガース運河(Tijgersgracht)沿いには、市内の最も著名な一族の家屋や建物が並ぶ。バタヴィア15の市街地運河の中で最も魅力的と評価されたと言う。しかし、1619年の戦闘で街を追われたジャワ人は新たなバタヴィア(Batavia)の街の住人にはなれなかったし、砦の中に入る事も許されなかった。バタヴィア(Batavia)の街はネーデルランド人の為に建設され、要塞化されたのである。VOC提督 Jan Pieterszoon Coenヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)(1587年~1629年)第4代提督 1619年~1623年※ アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)で罷免(ひめん)され一度は失脚。第6代提督 1627年~1629年Portrait of Jan Pieterszoon Coen(ヤン・ピーテルスゾーン・クーンの肖像)ウィキメディアから借りました。制作年 1634年~1610年画家 Jacques Waben(1590年~1634年)所蔵 Westfries MuseumVOCの成長に大きく貢献し、確かに本国に富をもたらした人物ではある。でも、やり方は非常に暴力的で強引で、残忍。それは許せる範囲を越える。かつてはネーデルランドの国民的英雄として称えられていたが、実状が解ってきた現在は歴史家から非難されているのも当然だ。VOCの提督として、敢えて個人を載せたのは、初期ネーデルランド(オランダ)非道はこの男が全ての原因だったのか? と思ったからもある。バンダ虐殺(Banda massacre)、そしてアンボイナ虐殺(Amboyna massacre)と彼の罪は重い。バンダ虐殺(Banda massacre)1621年、マラッカ海域でしか採れないナツメグ、メース、クローブの貿易独占権を確保する為だけに、VOCによるバンダ諸島の征服を指揮し土地を得る為、抵抗する原住民を皆殺しにするべく軍を指揮。現地を壊滅させ征服。生き残った原住民は奴隷としてバタヴィアに送りネーデルランド(オランダ)農家の奴隷とした。2800人のバンダ人を殺害。1700人のバンダ人が奴隷となった。他説では15000人の住民がいたが、生き残ったのは1000人ほど。とも伝えられている。いずれにせよ、彼が大量虐殺を指揮したのは間違いなく、その部下らの行いも酷かった。ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは戦闘のさなか、「絶望するな、敵を許すな、神は我々と共にある (Despair not, spare your enemies not, for God is with us)」と、部下を鼓舞(こぶ)したと言われる。※ こんな事して「神が我々と共にいる。」と言ってのける彼の宗教は何なんだ? アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)1623年、モルッカ諸島アンボイナ島にあるイギリス東インド会社商館で、職員全員がVOCの軍隊により拷問の上に虐殺された。ほぼでっち上げの因縁であった。(イングランド人9名、日本人傭兵10名、ポルトガル人1名)彼が、VOCの第6代提督(1627年~1629年)に返り咲いた時、イギリス軍はバタヴィア(Batavia)を放棄し、バンタム(Bantam)に本部を移した。と言われる。彼は株主に多くの配当を出す為に頑張った? のかもしれないが、とても称えられたものではない。※ 彼はアンボイナ虐殺で罷免されたが、バンダ人の大量虐殺では罷免されていない。こんな非人道的な事があるのか? と驚愕する暴挙をしていたヤン・ピーテルスゾーン・クーン。それ故、彼がVOCに利益をもたらしたのは確かであるし、また、そのVOCの盛況がオランダ黄金期の一翼を担っていたのも確かなのである。前回記しているが、1625年、デルフト出身の法学者フーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)(1583年~1645年)は「戦争と平和の法(De jure belli ac pacis)」を執筆。「国家間、戦争にもルールが必要である。」と亡命先のフランスで著した。時期的にアンボイナ虐殺の件があったから? と思われる。彼は国で、長らく自国の行為の正当性を証明する仕事をしていたのに・・である。カルバン派の国と提督ネーデルランド(オランダ)の進出の仕方が非常に残虐で他の欧州のカトリック国とは一線を画す。だから、前回プロテスタントについて調べてみたのだ。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントはかなり異なる。特に人の行いに関して、カルバン派の解釈は特殊すぎる。カトリック教会が異端としたのも解る。ネーデルランド(オランダ)は国を揚げてカルバン派であるからなのか? と思っていたが、実はこの1人の男に集約されるのか? ※「国を揚げてカルバン派」については、「アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭」の中、「フーゴー・グローティウス亡命の件」の所で書いています。ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは厳格なカルバン派の家に育っている。全てのカルバン派がこれを肯定するかは解らないが、信仰の怖い所である。正しいと信じれば信仰も凶器になる。ヤン・ピーテルスゾーン・クーンの行いは、今はジェノサイド(genocide)(大量虐殺)と、捉えられている。1627年 ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが提督(ていとく)として返り咲くと彼の在任期間中(1628年と1629年)、マタラ(Mataram)のスルタン・アグン(Sultan Agung)はバタヴィアをに2度包囲し戦闘を仕掛けている。そんな中1629年にVOC提督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)は突然亡くなった。コレラ説はあるが・・。その後、彼の遺骸は墓から掘り起こされ消えた?スルタン・アグンの墓の下に置かれたと言う伝説が残った。日本とVOCの関係彼らは敵国(ポルトガルやスペイン)から奪う行為を「良し(正義)」と考えてポルトガル船を日本近海でも襲っていたらしいが、日本はそんな私掠船(しりゃくせん・Privateer)行為は認めなかったと言う。そんなネーデルランドと言う国に用心したのか?江戸幕府は深入りせず? VOCを単に貿易船としてのみ扱ったのかもしれない。1642年 ポルトガル制作の古地図です。日本までカバーしてます。Portolano of Southeast Asia(東南アジアの航海案内書海図の本「Eary Sea Charts」から制作 Antonio Sanches (アントニオ・サンチェス) Lisbon(リスボン) 1642年この地図よりほぼ100年前の1549年にすでに日本はポルトガルとの交易を始めていたのです。1549年8月 イエズス会創設(Societas Iesu)者の1人フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)(1506年~1552年)が部下と共に日本に上陸。鹿児島市祇園之洲町に到着(上陸許可)。1551年4月 大内義隆に再謁見 宣教の許可を得えた事が始まりです。布教ありきから始まるポルトガルとの交易。きっかけは、ポルトガル王の命で、インドに布教に来ていたザビエルが、たまたまマラッカで日本人と出会った(1547年12月)事。このポルトガルとの関係はキリスト教問題を除けば良好な物でした。神戸市立博物館所蔵のコレクションから狩野内膳作「南蛮人渡来図」屏風絵から狩野 内膳(1570年~1616年)安土桃山時代から江戸時代初期の狩野派の絵師制作年 1570年~1616年屏風に描かれているのはポルトガルの交易商人と宣教師らです。船はキャラック船(Carrack)かな?以前、「アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人」で紹介している写真です。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人100年後に九州でカトリック信者が増加した事が問題になった。中でも、特に問題になったのが仏像などの破壊行為。キリスト教の聖像(キリスト像やマリア像)を大事にする事は何の問題も無かったけれど、彼らからすると仏教は異端。仏像の破壊を始めたと言う。確かにそんな事態なら、幕府も静観するわけにはいかない。さらに長崎がイエズス会領となり要塞化されていると言うのを聞いて慌てた? 最初にバデレン追放令(1587年7月)をを出したのは豊臣秀吉です。日本がネーデルランド(オランダ)に乗り換えたのは、江戸の時代になってからですが、彼らの吹き込みもありカトリックに対する強い警戒心が植え付けられて行った部分もあったのかもしれない。プロテスタントはキリスト教であるけれど、彼らは聖人も聖像も禁止。そこが受け入れられた?しかし、母国ではカトリックの教会を襲撃して回り、聖像や調度品を破壊しまくっていたのはむしろプロテスタント信者。本当にカトリックの信者が仏像を破壊してまわったのかは疑問が残る。先に紹介したポルトガル制作の古地図の製作は1642年ですから、それは1637年(島原の乱)後にネーデルランド(オランダ)の東インド会社(VOC)が出島に入った頃の時代に重なります。※ 上の古地図の本は昔アムステルダム国立海洋博物館で購入してきた限定発行の本です。非常に大きく重く、飛行機の超過料金を考えると今は持ち帰えれない代物です。VOCとの取引開始とリーフデ号1600年4月 ネーデルランド(オランダ)の商船、リーフデ号(De Liefde)が、豊後国(現大分県)に漂着。※ 乗組員110人程、漂着時の生存者24名。最終的な生存者は14名? 生存の乗組員は全員、日本に帰化した。※ この時点でオランダ東インド会社(VOC)はまだ存在していない。1602年 オランダ東インド会社(VOC)誕生。1603年 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府誕生。1605年 江戸幕府の船がジャワまで出向き、リーフデ号の事などオランダの提督に書簡を送る。※ 家康は交易を望んだが、この時点でVOC側はポルトガルとの戦闘や中国との交渉で船をすぐに日本に送る余裕がなかったらしい。正式の国交は4年後1609年となる。1609年7月 2隻の艦で平戸入港。1609年8月 家康に面会。本国オラニエ公の手紙を携え、正式に国交が結ばれた。1609年9月 平戸に商館設置。しかし、すぐに船は来なかった。1612年8月 最初のVOC船が平戸に到着。ネーデルランド(オランダ)との240年に及ぶ交易が始まった。リーフデ号の乗組員でデルフト名家出身のヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン(Jan Joosten van Loodensteyn )(1556年? ~1623年)が幕府の代表としてバタヴィア(Batavia)のオランダ東インド会社と交易を始める事になる。※ ヤン・ヨーステンは日本で妻を娶り八重洲に屋敷をもらった。また、同じリーフデ号の乗り組み員でイングランド出身のウィリアム・アダムス(William Adams)(1564年~1620年)日本名は三浦 按針。彼も徳川家康の外交顧問および通訳として仕え、日本の造船史に業績も残している。※ 1607年、ウィァム・アダムスは120tのガレオン船(Galleon)サン・ブエナ・ベントゥーラ(San Buena Ventura)を日本で建造。この船は太平洋を横断しアカプルコまで航海している。ポルトガルの排除ところで、キリスト教徒の日本人が九州一帯に増えて行く。幕府はそれを不安視していた。また、東アジアにはすでに日本人がいた。戦国の世が終わり、日本のサムライらが職を求めて東アジアに傭兵として出稼ぎに行っていたのだ。キリスト教徒の布教問題は、彼らの帰国にも影響した。※ 海外でキリスト教徒になった日本人が国内で布教するのでは? と恐れたからだ。宣教するポルトガル人を管理する為に囲い込みの取引所の建設が始まる。1634年~1636年 長崎に人工島の出島が建設。(扇型で面積は3969坪(約1.5 ヘクタール)1636年~1639年 出島内のみでポルトガルと交易。1637年12月~1638年4月 島原の乱勃発※ キリシタンの反乱と位置づけされ、カトリックのポルトガルは排除される事になった。※ 江戸幕府のバックにはVOCがいて、そそのかされた部分はある。ポルトガルは日本から出禁になった。1641年~1859年 オランダ東インド会社、平戸から出島に昇格し、ポルトガルの後釜として交易開始。※ 武装と宗教活動が規制され、幕府の監視下に置かれおよそ220年の両国間の交易が始まる。出島阿蘭陀屋舗景1780年(安永9年)文化遺産オンラインよりお借りしました。作者 不明木版墨摺 40.4×55.7版元 豊嶋屋文治右衛門1810年~1813年 3年間、出島にオランダ船が1隻も入港しなかった事もある。※ ネーデルランド本国がフランスに併合され、バタヴィアがイングランドの占領下にあった時代である。1815年 ウィーン議定書※ 議定書ににより東インドがネーデルランドに返還され、再びネーデルランドによる東アジア支配が始まる。出島にネーデルランド(オランダ)船が戻ってきた。※ 日本はVOCが解散していた事を知らされていのか? その間支配者も共和制政府→フランス、→イングランドと変わっていた事も知っていたのか?1853年 ペリー来航。日本の開国を迫る。※ マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)(1794年~1858年)アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官。1854年 日米和親条約が締結。1856年 日蘭和親条約が締結。※ 江戸幕府とネーデルランド(オランダ)が新たに締結した和親条約。※ 通商のみでなく、再度、国交が結ばれた。※ 出島から長崎市街への彼らの出入りが可能となった。日本もVOCと長く交易していたが、よく彼らの支配下に落ちなかったものだと感心する。幕府が案外しっかりしていたのかな?下はフランシスコ・ザビエルのアジア航路のコースを示したものです。ウィキメディアから借りました。解り易く、南アフリカ、オランダ、ポルトガルに色を付けさせてもらいました。ネーデルランド(オランダ)が東アジアのモルッカ諸島までたどり付けたのは、ポルトガルの秘匿していた情報からなので、時代は古いですが、ザビエルの航路図を利用させてもらいました。上の航路図で示されているのは、定期航路図です。ネーデルランドは当初、北海ルートなどを探ったようですが、結局ダメでポルトガルの航海路を利用することになったそうです。だからザビエルのコースとほぼ同じはずです。さて長くなりましたからこの辺で終わります。バタヴィアの事や船舶補給地の南アフリカは次回です。東インド会社 (後編)につづく。Back number リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 27 イギリス東インド会社(中編)リンク イングランド国教会と三王国の統合3 名誉革命リンク イングランド国教会と三王国の統合 2 ピューリタン革命から王政復古リンク イングランド国教会と三王国の統合 1 ジェームズ1世リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 26 イギリス東インド会社(前編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 25 ケープ植民地 オランダ東インド会社(後編) アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)リンク チューリップ狂騒曲リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2025年03月07日
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