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写真を入れ替えて追加しました。
古代ローマの円形劇場 3 アレーナ(arena)
ローマの円形闘技場(コロッセオ)、アレーナ(arena)
アレーナの構造構
皇帝のイベント


ローマの円形闘技場(コロッセオ)、アレーナ(arena)
大規模な円形闘技場がローマ帝国の各地にでき始めたのは紀元前後と言われる。
現在60あまりが残っているらしいが、ここも当初は劇場と呼ばれていたので、 劇場と闘技場の線引きは何なのか?
と疑問に思う。
周囲を壁でめぐらせた円形のスタディオン(競技場)の事をあえてコロッセオ(Colosseo)と呼ぶのか?
※ ラテン語ではコロッセウム(Colosseum)。
長径を基準にすると2位らしいが、収容人数規模で言えばここローマがダントツ1位。
前回すでに紹介しているが、長径188m短径156m周囲527mの楕円形。
高さは48m。
座席が45000席、立見が5000席と推定される。
グリーンでしめしたのがアレーナの部分。アレーナの下はいわゆる楽屋裏。
その上に蓋(ふた)をするように床板が貼られ、さらにその上に砂がまかれていた。一部オレンジで造られている。
※ 砂がアレーナ(arena)である。


コロッセオ(Colosseo)はローマ帝国時代には浴場についで市民の娯楽の場だった。
ここで開催されるイベントを市民は心待ちに観戦して喜んだと言う。
しかし、そのイベントはだんだんエスカレートして行く。今考えれば狂気的なイベントばかりが催されたが、市民は熱狂し、なおもそれを楽しんだと言う。
このコロッセオ(Colosseo)は。第10代皇帝ティトゥス(在位79年~81年)の治世にまだ未完のままオープンしている。
写真上の草でグリーンになっている部分から上に床板が貼られ、フロアと呼ばれる円形のステージがあった。フロアは長径86m、短径54m。
フロアの上には流血ですべらないようにアレーナ(arena)と呼ばれる血を吸いやすい「砂」がまかれていた
。競技場をアリーナと呼ぶようになった起源です。
皇帝のロイヤル・ボックスは南側にあったとされます。恐らくこの写真の右手の中央あたりでしょう。写真中央の門が入場ゲートではないかと思います。

アレーナの構造
1階席は元老院身分の有力者席
で、
2階席は騎士身分の者や富裕な市民席。
3階以上が貧民の席と決められていたようですが、時代と共に区別は無くなったそうです。
1階席手前には厳重な鉄作が作られ、猛獣が飛び越えて来れないような仕掛けもされ、万一の場合の射手も配備。

座席の上にはカンヴァス(帆布)の天蓋orテントのようなものが貼られ日除けとされていたらしい。
ここではその設備がすでに破壊されて判らないようです。
(チュニジアにその設備が残っていたと思うので、判れば紹介します。)
死者を運び出す「死の門」があったと言う
。下の十字架がそうかな?

フロアの下は楽屋裏。
今はむき出して迷路のようにさえ見えますが、この中に動物のオリもあり、動物の登場にはエレベーターのような物? or歌舞伎などのせり上がりのようなシステムが備わっていたそうです。
模型がありました。
因みにコロッセオのすぐ横には剣闘士(グラディアトール)の訓練所? 養成所? があったそうです。
皇帝のイベント
人気のイベントは、やはり剣闘士(グラディアトール)同士の真剣勝負や、剣闘士vs猛獣の戦い
だったようです。
その前座もあった。前座の余興には色々盛り込まれ、多くの動物が出演しては殺されたり、今のサーカスのような事も行われていた?
こうした余興を自前で提供するのは主に皇帝で、 貴族や市民を喜ばせる為に色々な企画を催した
ようです。
動物集めや命がけの剣闘士にお金がかかったが、それが皇帝人気のバロメーターになっ
た。
語り継がれるような印象深い、刺激あるイベントを歴代皇帝は競うかのように演出したと言う。
このコロッセオのこけら落としは、まだ完成前でしたが皇帝が待ちきれず100日間のイベントを催したと言われている。
コロッセオに水を張っての模擬海戦にはコリントから1500人の水夫も呼ばれたとか・・。
剣闘士も数多く死んだようです。
トラヤヌス帝はダキア勝利の祝賀として、5000組の剣闘士の真剣勝負をやらせたり、動物を11000頭も殺させたそうです。
また、演劇刑や猛獣刑があり、罪人、政治犯などを出演させてはその中でショー的に殺しもした。
当時の常軌を逸したローマ人の行為に驚くばかりです。
キリスト教徒を容認したコンスタンティヌス1世は(272年~337年、在位324年~337年)325年、法令により、人と人の殺し合いを禁じ、動物を殺す悪習も禁じた
皇帝の目をかすめて細々と続いていたらしい。
中世期には個人の所有地となり、分割して集合住宅や作業場として貸し出され、地震により崩壊してからは石材掠奪の場となり、法王の住まいや教会にまで転用。
1744年キリスト教徒の殉教地を聖地にと言う観点から法王ベネデイクトゥス14世(Benedictus XIV)( 1675年~1758年)(在位:1740~1758年)が勅令を出し保護。現在にいたるようです。
次回チュニジアのエルジェムの円形劇場を紹介。
昨日と大分内容が変わったような気もします・・。
つづく
リンク 古代ローマの円形劇場 4 (エル・ジェム)
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