わたしのこだわりブログ(仮)

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2009年06月21日
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カテゴリ: 歴史の旅



宗教戦争から始まったブルポン王家の歴史
宗教戦争
ドイツに始まった宗教改革運動は各国に広まり、フランスでも、改革派(プロテスタント)はカトリック側からユグノー(huguenot)と呼ばれ、フランス王国の国内を二分した宗教戦争が勃発します。(1562年から1598年にかけて断続的に8回の戦争)フランス宗教戦争orユグノー戦争と呼ばれています。
カトリックの擁護者は王家でカトリック国スペイン(フェリペ2世)やローマ教皇が支援。
一方、
プロテスタントの支援者はブルボン公アンリ(ブルボン王家初代の王アンリ4世)で、イングランド王家・ドイツのルター派諸侯が支援していました。
ユグノー戦争は純粋な宗教上の対立ではなく、王権を中心とした勢力争いに宗教上の名目が結びついた戦いで、特に内乱後期は権力闘争の側面が濃くなり、純粋な宗教戦争とは言えなかったようです。
とりあえずブルボン公アンリが時のフランス王シャルル9世の妹と結婚し、またアンリはカトリックへの改宗を発表し、戴冠後、事態終結の為に1598年にナントの勅令を公布。
ナントの勅令はカトリックがフランスの国家的宗教であると宣言しつつも、プロテスタントにも同等の権利を認めたものです。それにより(信仰の自由)、長らく続いたカトリックとプロテスタントの宗教戦争は収拾されたのです。

下はブルボン王室の系図です。(ちょっと見づらいかもしれませんが参考文献です。)
ブルボン王室家系図 1
ブルボン王室家系図 2

ブルボン王家の始まり
初代当主のアンリ4世(在位1589年~1610年)からルイ13世(在位1610年~1643年)宰相リシュリューの時代は、まだ動乱の傷跡が癒えず、国力の復興と民心の安定に努め、着々と成果を上げるも暗殺され、王家はまだ不安定な時代ですが、やがて二人の卓越した宰相によって政治的にも経済的にも発展を遂げ、中央集権体制の基盤を固めていきます。
安定した国家体制ができた時代に王となれたのが、ルイ14世(在位1643年~1715年)で、「朕は国家なり」と太陽王の絶対王政を主張し、ブルボン家の絶対君主政治がここに確立します。
国が最も豊かになった時代でもあり、14世は絶対的国家の象徴として太陽王にふさわしいベルサイユ宮殿の造営をはじめます。 ベルサイユ宮殿は王政の象徴として存在したのです。
欧州一となる宮殿を造る事が欧州一の国家を象徴するのにふさわしかったのは事実です。マリア・テレジアは娘マリー・アントワネットを嫁に出す時に「娘は、世界で一番美しい王国に君臨するのだ。」と思っていたのですから・・。

ベルサイユ宮殿の芸術と後世の遺産
夜ごと夜会の開かれる華やかなベルサイユ宮殿での宮廷人の生活から多くの芸術が誕生します。ベルサイユ宮殿での栄華はそのままブルボン王家の盛衰の歴史を現していると言っても良いでしょう。
(しかし、宮殿を築いたルイ14世の長い治世の中で最盛期を迎えた王国は、すでに王家存亡の危機に向かって下降して行くのです。)
豪華フランス・バロックが完成し、ルイ14世時代末期にさしかかると宮殿建築のツケと戦争の費用で国家が赤字に転落していきます。
そんな時代にサロンが流行し、啓蒙思想が目を出し始め、幸いなるかな、芸術もバロックよりは質素なロココ・スタイルに移行し、質素ながらも美しくカワイイ、ロココ芸術が花開きます。それらは、宮殿の建築家や、宮廷画家の絵が証明してくれます。
私達が今日思うベルサイユ宮殿のイメージは、ルイ14世時代よりも、ルイ15世のロココ時代の印象が大きいと思います。

下は、フランソワ・ブーシェのポンパドゥール夫人の肖像画です。当時の流行の最高の宮廷人の衣装です。ブーシェはポンパドゥール夫人お気に入りの絵師でした。
ロンドンのウォーレス・コレクションになっています。
フランソワ・ブーシェのポンパドゥール夫人

下は、ジャン・オノレ・フラゴナールの「ブランコ」です。18世紀美術(ロココ様式)のイメージを現す絵として、よく引き合いに出される絵です。ロンドンのウォーレス・コレクションになっています。
フラゴナールのブランコ

下は、ジャン・オノレ・フラゴナールの「恋の追求」です。ポンパドゥール夫人の追放を悲しみ、画家がお蔵入りさせた絵です。ニューヨークのフリック・コレクションになっています。
フラゴナールの恋の追求
ベルサイユ宮殿での宮廷人の生活ぶりが判ると思い選定したら、偶然にも全てポンパドゥール夫人に関係していました。フラゴナールはロココを代表する画家で、アカデミーの会員でもあり、革命前の宮廷の浮ついた世相を表現した作品が多いです。そして、フランス革命と共にフラゴナールの人気もなくなり、世に忘れられて行きました。まさに宮殿と共にあった画家でした。

ルイ16世(在位1774年~1792年)のわずかな親政時代にはマリー・アントワネットの洗練された趣味から新古典主義の潮流をいち早く取り入れ、王宮は絶えず芸術の先端を走り流行を排出し、後のフランスに莫大な芸術の遺産を残す事になります。
しかし、財政がつき、重税をしいた市民から特に反発がひどくなった時代で、かつてポンパドゥール夫人が「彼女のせいで王室が駄目になった。」と言われたのと同じように「全てマリー・アントワネットが悪い。」と決めつけられ、フランス革命なる反王政運動が起こり、王が民衆によって裁かれる事態に発展していきました。
ブルボン王家がベルサイユに宮殿を遷都したルイ14世の治世から数えて131年目です。
ルイ16世と王妃が宮殿を追われ、死刑台で斬首され、華やかなブルボン王家のベルサイユ時代は実質終わりを遂げます。「王朝の栄光」はここに終わったと言って良いでしょう。

王政の象徴であったベルサイユ宮殿は、革命により調度は掠奪され、宮殿は破壊され、ボロボロになってしまいます。ナポレオンにより、修復された宮殿は、今日も尚、もとの時代にもどすべく修復し続けられています。


ルイ16世が死刑にあっても、ブルボン王家は間を置いて存続しています。それは「おまけの章」で紹介します。






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Last updated  2009年06月22日 00時47分04秒
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