わたしのこだわりブログ(仮)

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2009年07月07日
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カテゴリ: 歴史の旅

訂正サイクロンの年を入力ミス 正解は1966年です。



街の歴史をさかのぼれば、BC8世紀にエトルリア人が街を築いたのが発祥だそうですが、14世紀にメディチ家が台頭して花開いた芸術と文化の都、ルネッサンスの発祥地としての方がピンとくるかもしれません。
フィレンツェから、誰もが知る有名な芸術家が多く輩出されています。ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ボッティチェリ、フィリッポ・リッピ、作家ではダンテ、ボッカチオ、等。でも、今日は芸術家や作品ではなく、橋を一つ紹介します。

イタリア語で橋をポンテ(Ponte)と言います。

ポンテ・ヴェッキオ(Ponte Vecchio)
イタリア語で「古い橋」
古来よりフィレンツェの交通の要としたアルノ川に架かけられた最初の橋です。橋は何度も架け替えられても古い橋と呼ばれたようです。

下は、アルノ川と手前がヴェッキオ橋です。ミケランジエロの丘より撮影。
ポンテ・ヴェッキオは普通の川を渡る橋ではありません。橋そのものが商店街になっています。
ベッキオ橋 2A
1170年に再建した石造りの橋は、1333年に洪水で流出し、再度1345年に建築されました。現在、上物は 1966年 のサイクロンで街が壊滅した時に破壊され、建て直されています。このアルノ川はアペニン山脈から来る大急流で、けた違いな洪水に見舞われては、水没の被害を被る歴史の繰り返しだそうです。1699年の洪水では、ウフィッツィ美術館の倉庫も2m浸水し、8000ものルネツサンス絵画が被害を被ったそうです。

下は、ヴェッキオ橋の上です。
ベッキオ橋 3B
およそ橋には見えませんが、橋の真ん中あたりです。Aの写真でなにやら飛び出しているものが店なのです。

中世には、魚屋、肉屋、皮職人の店が立ち並び、非常に臭かったのだそうです。
メディチ家のフェルデイナント1世(1549年~1609年)は、住まいのピッティ宮殿から行政機関のあるオフィス(Ufficio)、現在のウフィツッィ宮まで通っていたので、この橋を渡るのがとても辛かったようです。
ついに1593年に行政命令で、悪臭の酷い店は追放され、代わりに装身具店や貴金属店が入りました。(それが現在に至っています。)
ベッキオ橋  4C
これらの店は、地代を2倍払うかわりに、橋の上の店の拡張をしたようです。
写真下、で見るような景観の悪い橋の姿になってしまったようです。(400年以上の歴史が凄いですが・・。)橋にたかった雑居ビルみたいですが、橋の耐久性が凄いですね。
ヴェッキオ橋 5D

ヴァザーリの廻廊
ところで、フェルデイナント1世は、直接この橋を渡っていた訳ではありません。彼の父コジモ1世(1519年~1574年)が、1565年に、この橋の上にメディチ家の専用の防衛を兼ねた渡り廊下を造らせているからです。渡り廊下は、住まいのピッテイ宮からウフィツィを通り越し、ヴェッキオ宮殿まで続いています。
これを依頼され、設計建築したのは、彼自身も画家であり、建築家のジョルジュ・ヴァザーリ(1511年~1574年)で、彼に因んでヴァザーリの廻廊と呼ばれています。本来5年かかる建築を彼はたった5ヶ月で完成させています。それは今も存在しています。

下は、ウフィツィ宮殿側から撮影したヴァザーリの廻廊とポンテ・ヴェッキオです。
ベッキオ橋 1E
写真右手前から橋に向かう赤い屋根がヴァザーリの廻廊の一部です。
現在、ヴァザーリの廻廊は、事前の申し込みにより、特別公開されています。ウフィツィ美術館の特別廊下から入り、ピッティ宮殿の手前まで通って行けます。

下がヴァザーリの廻廊の図ですが、橋を中心にしたので上のヴェッキオ宮殿が欠けて、下のピッティ宮殿も欠けてしまっています。
ヴァザーリの廻廊 地図F

ヴァザーリの廻廊はつづく






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Last updated  2009年07月07日 22時40分46秒
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