わたしのこだわりブログ(仮)

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2014年05月26日
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​​ 実はこちらの教会はかなり大がかりな改修中でした。
教会は本来薄暗いのですが、昨今は美術価値のある作品をより見せたりする為にどこの教会も結構内部の照明にこだわっています。
つまり教会の聖堂の高い位置からサーチライトなどが当たるように電気配線がされているのです。

教会の床板をはがして、溝を掘り、電気やIT関連の配線を地下や壁に這わせて・・の改修工事なのです。
何気にかしいでる柱もあるし、しかも尖塔はレンガです。かなり修復には時間がかかりそうな気配です。
それでも教会はお金を取り見学者の入場をさせていますが・・。

ところで、何げにスルーしそうな教会ではありますが、「金羊毛勲章​(Toison d'or)​」がハプスブルグ家に継承され、現代にいたったルーツがここにあるのです。
ブルージュ(Brugge) 11 (聖母教会)

聖母教会(Onze Lieve Vrouwekerk - in Bruges)(Church of Our Lady Bruges)
シャルル・ド・ヴァロワ・ブルゴーニュ
マルグリット・ド・ブルゴーニュ
マリー・ド・ブルゴーニュ
二つの柩の謎
ミケランジェロの聖母子像

​​教会の正確な礎石年は不明。およそ13、14世紀~15世紀にかけて長期に建造。
鐘楼の高さは122.3m。レンガの塔としてはドイツで2番目の高さだそうだ。
pict-聖母教会 10.jpg
ここにはミケランジェロの手による大理石の「聖母子像」がある事でも多くの巡礼者が訪れている。
しかし、トリップ・アドバイザーの観光ランキングで見るとなんと19 位である。最近は人気ないのね しょんぼり
教会は、かなり大がかりに修復中だったので身廊は立ち入り禁止。
pict-聖母教会 11.jpg
本来ならミサの席が並ぶところである。
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身廊の奧、壁の向こうはクワイヤ(quire)で古い聖歌隊席があり、その奧のアプス(apse)部分にブルゴーニュ公女マリーと父シャルル突進公の霊廟がある。
pict-聖母教会 13.jpg
ここはブルゴーニュ家の霊廟である。
pict-聖母教会 14.jpg

ブルゴーニュ公シャルル突進公(Charles le Téméraire)(1433年~1477年)の柩
pict-聖母教会 17.jpg
甲冑にカブトが置かれ足下にはライオンを踏みつけている。これはまちがいなく当時の騎士の柩の装飾スタイルである。
​金羊毛勲位の装飾と説明している書もあるがそれは確認できていない。
柩の側壁の飾りはおそらくブルゴーニュ公シャルルの家系図と思われる。

確かに 羊毛勲章は彼の父、フィリップ3世(Philippe III)こと、フィリップ善良公(Philippe le Bon)(1396年~1467年)​が創設した騎士団である。
金羊毛勲については別の回で詳しく解説しています。その時に当時のブルゴーニュの事や、金羊毛勲章​(Toison d'or)​」がハプスブルグ家に継承された理由も詳しく書いています。
​​ リンク ​ 金羊毛騎士団と金羊毛勲章​(Toison d'or)​

父亡き後、シャルル突進公(Charles le Téméraire)は騎士主催者となるが、 ​父王がブルゴーニュの繁栄に尽力したのとは違い、 シャルル突進公は フランス王位にも興味があり、野心家​ であったようだ。

シャルル・ド・ヴァロワ・ブルゴーニュ(Charles de Valois-Bourgogne)(1433年~1477年) ​​

シャルル突進公(Charles le Téméraire)
後継は娘マリーだけだったので、最後のブルゴーニュ公国の君主(在位:1467年~1477年)と言う事になる?。
フィリップ善良公と、ポルトガル王ジョアン1世の娘イザベルの間の三男で、「突進公」などとあだ名される事から割と考えるよりも行動・・と言う人だったようだが、先駆けたいろいろな兵法を考案した事でも知られる。
結果的にはフランス王国の統一を進めていたルイ11世との戦いに敗れナンシーの戦いで戦死。​​
彼の死後のどさくさにフランス領は獲られてしまう。

​​※ 残されたフランドルを死守する為に娘マリーは婚約者のマクシミリアン1世(Maximilian I)に助を求めた。その婚約者こそが ハプスブルグ家のマクシミリアン1世であり、後に神聖ローマ皇帝となる人。
二人の孫がカール5世であり、マクシミリアン1世の次に神聖ローマ皇帝として即位している。

ところでシャルル 突進公は3度結婚しているそうだ。(公位継承以前に2度、継承後に1度)

1人娘のマリーは2番目の妻(母方のいとこイザベル)との間の子。
3番目の妻はイングランド王エドワード4世の妹にしてリチャード3世の姉であるマーガレット・オブ・ヨーク(Margaret of York) である。
つまり彼女は薔薇戦争(1455年~1485年/1487年)に勝利し王となったヨーク家出身の姫なのである。

マルグリット・ド・ブルゴーニュ(Marguerite de Bourgogne)(Margaret of York)(1446年~1503年)
3番目の妻ブルゴーニュ公妃となったマーガレットは当時最も裕福で、最も力があり、最も洗練された公爵夫人だったそうだ。
マーガレットは エドワード4世の妹にしてリチャード3世の姉にあたる。 ​​​

シャルルとの結婚はイングランドとブルゴーニュ公国の同盟の為の政略結婚 であったが、ブルゴーニュ公妃として彼女の果たした役割は大きい。

自身には子は無かったが 先妻イザベルの遺児マリーの良き母として努め相談にものったと言う。
そして父王と並べてこの霊廟に二人を置いたのも彼女である。
さらに早世したマリーの遺児フィリップとマルグリットも育てている ​​
。優しい人だったのだろう。

​※ 遺児フイリップの子供(マリーの孫)がカール5世である。

ブルゴーニュ公シャルルの娘マリー・ド・ブルゴーニュの柩pict-聖母教会 16.jpg
実は この棺の中にマリーの夫である神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の心臓が入れられていると言う。
愛する人の所に自分の心臓を届ける風習と言うのがいつから始まったのか定かでないが、欧州の貴族の間にそう言う風習があり、ナポレオンもかなわなかったが、そうする予定だった。
心臓の分割埋葬については別に書いています。
リンク ​ ハプスブルグ家の​分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓

マリー・ド・ブルゴーニュ(Marie de Bourgougne)(1457年~1482年)
彼女と結婚すれば公領を相続できるのだから、 ルゴーニュ公女 の結婚は近隣諸国の感心の的 。​

結局ブルゴーニュ公を継承する ​シャルル突進公の娘マリー・ド・ブルゴーニュ(Marie de Bourgougne)(1457年~1482年)の結婚相手は後に神聖ローマ帝国の君主となるハプスブルグ家のマクシミリアン1世(Maximilian I)(1459年3月~1519年)に決まった。​.​

美しい姫として領民からも愛されていたが、 マクシミリアン1世ともラブラブだったのだろう。心臓を送るくらいだから・・。
しかし、マリーは 第4子を懐妊中に落馬事故にあい25歳の若さで亡くなってしまった。
だからこの霊廟には父王と並んで娘マリーの棺が並べられているのである。

遺児の息子は美貌で有名なフィリップ(美公)。その子供シャルルがマクシミリアン1世の次に神聖ローマ皇帝になったカール5世(Karl V)(1500年~1558年)である。
つまりシャルルの野心は彼の曾孫(ひまご)がかなえてくれた・・と言う事になる。
pict-聖母教会 15.jpg

ところで一つの疑問が・・。
二つの柩の謎
最初仲良く並ぶ二つの柩はシャルル突進公とその妻マルグリットのものだと勝手に思っていたのだが・・。
​​​実際、 この霊廟は ブルゴーニュ公シャルル突進公と 若くして早世した愛娘マリー​​ のものであった。

確かに先に亡くなったのはシャルルで、次いで娘のマリーである。この霊廟はおそらくシャルル突進公の妻、マルグリットにより整えられたのだろう。
もしかしたら隣は本来マルグリットの場所だったはず。

ではマルグリットの墓はどこに?
不思議な事にシャルルの妻 マルグリットはここに埋葬されていない
あれだけブルゴーニュ家の行く末に貢献したにもかかわらず・・である。

マルグリットは1503年にメヘレンで亡くなった。 盛大な葬儀が営まれ メヘレンのフランシスコ会修道院の教会に葬 られ たらしいが​ 後の宗教戦争のさいに破壊されて消えてしまった と言うのだから気の毒である。
pict-聖母教会 19.jpg
アプス(apse)が見下ろせる北側の壁に前回紹介したグルートフーズ家の礼拝室の窓が見える。
pict-聖母教会 18.jpg

南側の側廊にはかつて ブルージュの豪商が購入して教会に寄贈した作品 だと言われるミケランジェロ
製作の聖母子像が置かれた礼拝所がある。pict-聖母教会 20.jpg

ミケランジェロの聖母子像 pict-聖母教会 21.jpg
もとはシエナ(Siena)大聖堂の為の作品だと言われているが????
1514年頃にブルージュの商人が金貨100枚で購入したとか・・。

作品は1504年ごろの物とされるが、ミケランジェロの主要作品に数えられていない為に資料がない。
形としては霊廟(れいびょう)タイプ。

Madonna by Michelangelo
pict-聖母教会 22.jpg
聖母子像はこれまで2度も略奪されたという
1度目は1794年フランス革命家により、2度目は1944年にはナチ・ドイツによって略奪。

聖母子と言っても成人ではなくベビーであるからピエタ(Pietà)ではない。
ミケランジェロらしい生気に欠ける気がするが、確かにマリアはミケランジェロっぽい。

ところで当時のミケランジェロはすでに売れていたから忙しかったはずだ。
1505年にはローマ教皇ユリウス2世の霊廟製作に入っているが、それさえバチカンの仕事が入り忙しくて何年も引き延ばした上にこれは不完全な形で決着した。
(人に手伝ってもらって一部だけがミケランジェロと言う形で納品している。)

この作品もかろうじて聖母はミケランジェロの可能性はあるかも知れないが、左右の二人は確実に別人と思われる。
総じて本物かどうかちょっと怪しい気はするが、当時のブルージュはお金があったからね。( ̄~ ̄;)ウーン
pict-聖母教会 24.jpgpict-聖母教会 23.jpg

ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)(1475年~1564年)
盛期ルネサンス期のイタリアを代表する総合芸術家。「ミケランジェロ」についてはバチカンなど数多く書いていますから、検索して見てね。スマイル
​​​​​​​​つづく
リンク ​ ブルージュ(Brugge) 12 (ペギン会修道院と愛の湖)






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Last updated  2020年09月25日 01時01分52秒
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